「めづらしや」の巻、解説

元禄二年六月十日

初表

 

   七日羽黒に参籠して

 めづらしや山をいで羽の初茄子  芭蕉

   蝉に車の音添る井戸     重行

 絹機の暮閙しう梭打て      曾良

   閏弥生もすゑの三ヶ月    露丸

 吾顔に散かかりたる梨の花    重行

   銘を胡蝶と付しさかづき   芭蕉

 

初裏

 山端のきえかへり行帆かけ舟   露丸

   蘩無里は心とまらず     曾良

 粟ひえを日ごとの齋に喰飽て   芭蕉

   弓のちからをいのる石の戸  重行

 赤樫を母の記念に植をかれ    曾良

   雀にのこす小田の刈初    露丸

 此秋も門の板橋崩れけり     重行

   赦免にもれて独リ見る月   芭蕉

 衣々は夜なべも同じ寺の鐘    露丸

   宿クの女の妬きものかげ   曾良

 婿入の花見る馬に打群て     重行

   旧の廊は畑に焼ける     露丸

 

二表

 金銭の春も壱歩に改り      芭蕉

   奈良の都に豆腐始      重行

 此雪に先あたれとや釜揚て    曾良

   寝まきながらのけはひ美し  芭蕉

 遥けさは目を泣腫す筑紫船    露丸

   所々に友をうたせて     曾良

 千日の庵を結ぶ小松原      重行

   蝸牛のからを踏つぶす音   露丸

 身は蟻のあなうと夢や覚すらん  芭蕉

   こけて露けきをみなへし花  重行

 明はつる月を行脚の空に見て   曾良

   温泉かぞふる陸奥の秋風   芭蕉

 

二裏

 初雁の比よりおもふ氷様     露丸

   山殺作る宮の葺かへ     曾良

 尼衣男にまさる心にて      重行

   行かよふべき歌のつぎ橋   露丸

 花のとき啼とやらいふ呼子鳥   芭蕉

   艶に曇りし春の山びこ    曾良

       参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

          『芭蕉 おくのほそ道』(萩原恭男校注、一九七九、岩波文庫)

初表

発句

 

   七日羽黒に参籠して

 めづらしや山をいで羽の初茄子  芭蕉

 

 曾良の『旅日記』の六月十日の所にはこうある。

 

 「十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎麦切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄、円入被迎。又、大杉根迄被送。祓川ニシテ手水シテ下ル。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。々小雨ス。ヌルルニ不及。申ノ刻、鶴ケ丘長山五良右衛門宅ニ至ル。粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。」

 

 午前中に飯道寺正行坊がやってきて会ったとあるが、どういう人かはよくわからない。ただ、江州(近江国)飯道寺というと、四日の所に江州円入とあったから、円入の知り合いなのだろう。

 昼前に本坊に行って、また蕎麦切を食べる。茶はともかく、お寺で昼から酒飲んでたのか。二時ごろまで盛り上がったのだろう。

 これがお別れ会になったのか、芭蕉と曾良は鶴岡に向かう。本坊を出て円入は道に出る所まで送ってゆく。「大杉根」はよくわからないが爺杉のことか。祓川で手を洗い清め若王寺宝前院を出てゆく。手向の左吉(露丸)の家から芭蕉さんだけが馬に乗り、「光堂」まで釣雪が送っていく。もちろん中尊寺ではなく、岩波文庫の萩原注によれば手向の正善院前の黄金堂だという。そこから芭蕉と曾良と露丸は鶴岡に向かう。

 夕方近く鶴岡の長山五良右衛門宅に到着する。お粥を食べて一休みし、夜になってから興行を行う。

 長山五良右衛門は『奥の細道』本文には「長山氏重行」とある。

 さて、この時の発句だが、

 

 めづらしや山をいで羽の初茄子  芭蕉

 

 「山を出で」に「出羽」を掛けて、出羽三山を下りてここ鶴岡で初めて取れた茄子をご馳走になってめずらしや、となる。

 こういう掛詞を使った技巧的な句は、貞門時代と蕉風確立期の古典回帰の時期に特徴的にみられる。

 

 涼風やほの三ヶ月の羽黒山    芭蕉

 

の句も「ほの見る」に「みか月」を掛けているし、

 

 雲の峰幾つ崩レて月の山     芭蕉

 

の句も「崩れて尽きぬ」と「月の山」を掛けている。そしてこのあと酒田では、

 

 あつみ山や吹浦かけて夕すずみ  芭蕉

 

と二つの地名に「暑さ」を「吹く」を掛けている。

 

季語は「初茄子」で夏。「山」は山類。

 

 

   めづらしや山をいで羽の初茄子

 蝉に車の音添る井戸       重行

 (めづらしや山をいで羽の初茄子蝉に車の音添る井戸)

 

 重行は長山五郎右衛門のこと。興行会場の主なので脇を務める。

 蝉の鳴く声に井戸の滑車の音がするだけの井戸端にすぎません、と謙虚に応じる。

 時代劇でよく見るあの滑車のついた井戸は「車井戸」という。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 滑車(かっしゃ)に縄をかけ、その両端に釣瓶(つるべ)をつけて、縄を上下することで水を汲むしかけの井戸。車井。くるまき。

  ※雑俳・天神花(1753)「長みじか京はのこらず車井戸」

 

とある。

 

季語は「蝉」で秋、虫類。

 

第三

 

   蝉に車の音添る井戸

 絹機の暮閙しう梭打て      曾良

 (絹機の暮閙しう梭打て蝉に車の音添る井戸)

 

 「閙」は「さわがし」とも読むがここでは「いそがし」と読むらしい。「梭」の読みは「をさ」で機織りで横糸を通すシャトルのこと。

 井戸に近い小屋では絹織物を織っていて、せわしげに横糸を通している。鶴岡シルクは近代に入ってからだが、江戸時代にも多少は絹織物も作られていたか。

 

無季。

 

四句目

 

   絹機の暮閙しう梭打て

 閏弥生もすゑの三ヶ月      露丸

 (絹機の暮閙しう梭打て閏弥生もすゑの三ヶ月)

 

 閏三月があったのは近いところでは貞享三年、『春の日』が刊行され古池の句が大ヒットを記録した年だった。穀雨の後の立夏だけが入る月で閏三月の三日は新暦の四月の下旬になる。「すゑの三ヶ月」だから、この場合は閏三月二十七日ごろの有明の三ヶ月か。なお、この年元禄二年は閏一月があった。

 四句目は軽くということで時候を付ける。

 曾良の『旅日記』に「発句出テ一巡終ル。」とあるように十日はこの四句で終わる。

 

 十日にようやく一巡した「めづらしや」の巻は、三日がかりで完成している。曾良の『旅日記』にはこう記されている。

 

 「十一日 折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。

  十二日 朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。」

 

 十一日は月山・湯殿山の強行軍もあったせいか、芭蕉さんはダウンで、興行は昼までで終わり。何句目まで進んだかはわからない。

 

季語は「閏弥生」で春。「三ヶ月」は夜分、天象。

 

五句目

 

   閏弥生もすゑの三ヶ月

 吾顔に散かかりたる梨の花    重行

 (吾顔に散かかりたる梨の花閏弥生もすゑの三ヶ月)

 

 閏弥生ということで、梨の花を付ける。

 

季語は「梨の花」で春、植物、木類。

 

六句目

 

   吾顔に散かかりたる梨の花

 銘を胡蝶と付しさかづき     芭蕉

 (吾顔に散かかりたる梨の花銘を胡蝶と付しさかづき)

 

 梨の花は梅や桜などの花と違い、殺風景な花とされてきた。その梨の花の散りかかる人物は、やはり名利を求めない隠士であろう。盃に荘子に由来する胡蝶の銘を打ち、せめても酒に生死を忘れようとする。

 「梨の花」と「胡蝶」は謡曲『楊貴妃』に縁がある。玄宗皇帝に命じられて楊貴妃の魂を探しに蓬莱宮にたってきた法士が、「梨花一枝。雨を帯びたるよそほひの、太液乃、芙蓉の紅未央の柳乃緑もこれにはいかで勝るべき。」という楊貴妃の霊が現れる。そして霓裳羽衣の曲を舞うと、「何事も、夢まぼろしの戯れや。あはれ胡蝶の、舞ならん」と述懐する。

 

季語は「胡蝶」で春、虫類。

初裏

七句目

 

   銘を胡蝶と付しさかづき

 山端のきえかへり行帆かけ舟   露丸

 (山端のきえかへり行帆かけ舟銘を胡蝶と付しさかづき)

 

 別れの盃として、遠くへ去ってゆく舟を付ける。

 

無季。「山端」は山類。「帆かけ舟」は水辺。

 

八句目

 

   山端のきえかへり行帆かけ舟

 蘩無里は心とまらず       曾良

 (山端のきえかへり行帆かけ舟蘩無里は心とまらず)

 

 「蘩」はここでは「よもぎ」と読むようだ。蓬生の里は『源氏物語』にも登場し、そこで末摘花を見つけて二条院に連れてくるが、蓬すらない里はただ通り過ぎるのみ。

 

無季。「里」は居所。

 

九句目

 

   蘩無里は心とまらず

 粟ひえを日ごとの齋に喰飽て   芭蕉

 (粟ひえを日ごとの齋に喰飽て蘩無里は心とまらず)

 

 「齋(とき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (食すべき時の食の意)

  ① 僧家で、食事の称。正午以前に食すること。⇔非時(ひじ)。

  ※宇津保(970‐999頃)春日詣「ここらの年ごろ、露・霜・草・葛の根をときにしつつ」

  ② 肉食をとらないこと。精進料理。

  ※栄花(1028‐92頃)初花「うちはへ御ときにて過させ給し時は、いみじうこそ肥り給へりしか」

  ③ 檀家や信者が寺僧に供養する食事。また、法要のときなどに、檀家で、僧・参会者に出す食事。おとき。

  ※梵舜本沙石集(1283)三「種々の珍物をもて、斎いとなみてすすむ」

  ④ 法要。仏事。

  ※浄瑠璃・心中重井筒(1707)中「鎗屋町の隠居へ、ときに参る約束是非お返しと云ひけれ共、はてときは明日の事ひらにと云ふに詮方なく」

  ⑤ 節(せち)の日、また、その日の飲食。」

 

とある。ここでは毎日食うのだから①であろう。僧家は肉食しないから同時に②にもなる。

 粟や稗を毎日食って食い飽きたから、蓬が食べたくてしょうがない、ということか。

 

無季。釈教。

 

十句目

 

   粟ひえを日ごとの齋に喰飽て

 弓のちからをいのる石の戸    重行

 (粟ひえを日ごとの齋に喰飽て弓のちからをいのる石の戸)

 

 これは「石に立つ矢」のことだろう。以前「杜若」の巻八句目、

 

   捨かねて妻呼鹿に耳ふさぎ

 念力岩をはこぶしただり     安信

 

の所で触れたが、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「一心を込めて事を行えばかならず成就するとのたとえ。中国楚(そ)の熊渠子(ようきょし)が、一夜、石を虎(とら)と見誤ってこれを射たところ、矢が石を割って貫いたという『韓詩外伝(かんしがいでん)』巻6や、漢の李広(りこう)が猟に出て、草中の石を虎と思って射たところ、鏃(やじり)が石に突き刺さって見えなくなったという『史記』「李将軍伝」の故事による。「虎と見て石に立つ矢もあるものをなどか思(おもい)の通らざるべき」の古歌や、「一念(一心)巌(いわ)をも通す」の語もある。[田所義行]」

 

とあるように、信じる力があれば矢は石をも通すという。本当かどうかは知らんが。

 「念力」は仏道の信じる力を表す場合もあるから、日頃から精進料理を食べて仏道修行に励んできたのだから、そろそろ矢は石をも通すのではないかと石の戸に向かって試しているのであろう。

 

無季。

 

十一句目

 

   弓のちからをいのる石の戸

 赤樫を母の記念に植をかれ    曾良

 (赤樫を母の記念に植をかれ弓のちからをいのる石の戸)

 

 赤樫は木刀などの武具に用いられるが、弓に用いられないのは硬すぎてしならないからだろう。

 赤樫を弓にするというのではなく、赤樫を形見に植えるような母だから武人の家系ということか。

 

無季。「赤樫」は植物、木類。「母」は人倫。

 

十二句目

 

   赤樫を母の記念に植をかれ

 雀にのこす小田の刈初      露丸

 (赤樫を母の記念に植をかれ雀にのこす小田の刈初)

 

 昔は女性も不動産を所有していたが、母の残した田んぼは小さな田んぼにすぎず、あまり手入れもされてないのだろう。稲が実ってもなかなか刈りに来ず、雀が群がっている。

 

季語は「刈初」で秋。「雀」は鳥類。

 

十三句目

 

   雀にのこす小田の刈初

 此秋も門の板橋崩れけり     重行

 (此秋も門の板橋崩れけり雀にのこす小田の刈初)

 

 小さな田んぼの主も亡くなり、生前に植えた稲だけが残っていて、門の板橋も崩れてしまっている。

 

季語は「秋」で秋。

 

十四句目

 

   此秋も門の板橋崩れけり

 赦免にもれて独リ見る月     芭蕉

 (此秋も門の板橋崩れけり赦免にもれて独リ見る月)

 

 赦免はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙

  ① 罪を許し、刑罰を免除すること。また、課せられるべき責務などを免除すること。

  ※権記‐長保二年(1000)五月一八日「依二母后御悩一、行二赦免一之例可レ令二勘申一」

  ※平家(13C前)三「俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ」 〔史記‐淮南厲王伝〕

  ② あやまちを許すこと。

  ※狂言記・吟聟(1660)「ひまもゑませいでおそなはりましたる所。御しゃめんあられませい」

  ③ 束縛から解放してやること。自由の身にしてやること。

  ※天草本伊曾保(1593)イソポの生涯の事「フダイノ トコロヲ xamenxite(シャメンシテ)」

 

とある。

 この場合は蟄居(ちっきょ)を命じられたのであろう。他のものは許されたのに、自分だけがいまだに家から出られず、門の外の板橋を直すこともできない。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

十五句目

 

   赦免にもれて独リ見る月

 衣々は夜なべも同じ寺の鐘    露丸

 (衣々は夜なべも同じ寺の鐘赦免にもれて独リ見る月)

 

 自分は一人月を見ているのに隣では男女が親しんで、明け方には帰ってゆく。後朝は悲しいけど、それを内職で一夜を明かし横で見るのはジェラシー。ともに同じ鐘の音を聞く。

 

無季。恋。「夜なべ」は夜分。

 

十六句目

 

   衣々は夜なべも同じ寺の鐘

 宿クの女の妬きものかげ     曾良

 (衣々は夜なべも同じ寺の鐘宿クの女の妬きものかげ)

 

 同じ宿で働く女性でも、一人は仕事一人は恋。これもジェラシー。

 

無季。恋。「女」は人倫。

 

十七句目

 

   宿クの女の妬きものかげ

 婿入の花見る馬に打群て     重行

 (婿入の花見る馬に打群て宿クの女の妬きものかげ)

 

 花の季節にこれまた華やかに馬に乗って婿入りする若武者の行列が宿場を通ると、宿場の女たちはみんな見に来るが、ひそかに恋心を抱いていた女は、嫉妬して物陰からチラ見するだけ。

 わざわざ婿養子に取るのだから、文武に秀でたみんなのあこがれだったのだろう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。恋。「馬」は獣類。

 

十八句目

 

   婿入の花見る馬に打群て

 旧の廊は畑に焼ける       露丸

 (婿入の花見る馬に打群て旧の廊は畑に焼ける)

 

 花婿を外部から迎える家は、すっかり没落していたのだろう。家を建て直すために養子を取ったか。

 古い城郭は既に崩され、畑になっている。これからは城を立派にするよりも農業に力を入れるということか。

 

季語は「畑に焼ける」で春。

二表

十九句目

 

   旧の廊は畑に焼ける

 金銭の春も壱歩に改り      芭蕉

 (金銭の春も壱歩に改り旧の廊は畑に焼ける)

 

 芭蕉の得意な経済ネタであろう。江戸時代は金銀銭の三貨制度で、この三つの通貨が変動相場で動いていた。芭蕉の頃は銭一貫(一千文)が五分の一両くらいだったが、元禄後期になると金が暴落し四分の一両、つまり一分(一歩)くらいになった。

 関東では金の方が主流で、関西では銀がよく用いられたという。『猿蓑』の「市中は」の巻の五句目に、

 

   灰うちたたくうるめ一枚

 此筋は銀も見しらず不自由さよ  芭蕉

 

とあるが、これは『奥の細道』での旅の経験だったのかもしれない。ここでも「金銭」で「銀」が抜けている。

 壱歩は一分金のことだろう。一分は一歩と書くこともある。江戸後期になると一歩銀も登場するが、この時代にはまだない。

 かつて富貴を極めた者の廓(くるわ)も、一歩というから今の一万円くらいで、それこそ二束三文で買いたたかれて畑になったということか。

 宮本注には「一歩金など貨幣の新鋳も行われた意か」とあるが、貨幣の新鋳は元禄八年のこと。芭蕉の死後になる。

 

季語は「春」で春。

 

二十句目

 

   金銭の春も壱歩に改り

 奈良の都に豆腐始        重行

 (金銭の春も壱歩に改り奈良の都に豆腐始)

 

 豆腐は奈良時代に遣唐使が持ち込んだものとされている。富貴なものが銭を投げうって始めたということか。

 

無季。「奈良」は名所。

 

二十一句目

 

   奈良の都に豆腐始

 此雪に先あたれとや釜揚て    曾良

 (此雪に先あたれとや釜揚て奈良の都に豆腐始)

 

 「釜揚」はウィキペディアに、「釜揚げ(かまあげ)とは、茹であがったまま何も手を加えない食材の事を指す。」とある。ここでは湯豆腐のことであろう。

 寒い雪の日に、まずは火にあたって温まれと囲炉裏の周りに人を集め、湯豆腐を食う。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

二十二句目

 

   此雪に先あたれとや釜揚て

 寝まきながらのけはひ美し    芭蕉

 (此雪に先あたれとや釜揚て寝まきながらのけはひ美し)

 

 寝巻は寝るときに着る着物で、綿を入れた「布団」とも呼ばれる夜着とは異なる。上臈のイメージがあったのだろう。ここでは遊女か。「けはひ」は化粧のこと。鎌倉に「化粧坂(けわいざか)」がある。

 元禄三年の暮の京都で巻いた「半日は」の巻の三十二句目に、

 

   萩を子に薄を妻に家たてて

 あやの寝巻に匂ふ日の影     示右

 

の句がある。この次の句を去来が付けかねていた時、芭蕉が「能上臈の旅なるべし」とアドバイスし、

 

   あやの寝巻に匂ふ日の影

 なくなくもちいさき草鞋求かね  去来

 

ができたことが『去来抄』に記されている。

 

無季。恋。「寝まき」は衣裳。

 

二十三句目

 

   寝まきながらのけはひ美し

 遥けさは目を泣腫す筑紫船    露丸

 (遥けさは目を泣腫す筑紫船寝まきながらのけはひ美し)

 

 宮本注は『源氏物語』の玉鬘の俤とするが、玉鬘の筑紫下国は四歳の時なのでさすがに無理がある。筑紫へ売られてゆく遊女ではないかと思う。

 

無季。恋。「筑紫船」は水辺。

 

二十四句目

 

   遥けさは目を泣腫す筑紫船

 所々に友をうたせて       曾良

 (遥けさは目を泣腫す筑紫船所々に友をうたせて)

 

 宮本注によると「『せ』を受身に用いる例は、戦記物などに多い。という。「友をうたせて」は「友を討たれて」という意味。平家の壇ノ浦に至る瀬戸内海の道のりか。

 

無季。「友」は人倫。

 

二十五句目

 

   所々に友をうたせて

 千日の庵を結ぶ小松原      重行

 (千日の庵を結ぶ小松原所々に友をうたせて)

 

 千葉県の小松原は日蓮上人が小松原法難を受けた場所で、二人の弟子が殺害された。

 ただ、ここでは日蓮上人の本説とはせず、比叡山や大峰山で行われる究極の荒行、千日回峰行のための庵を構えるとする。達成する人もまれな荒行と法難で仏道を極めることの過酷さを語る。

 

無季。釈教。「庵」は居所。「小松原」は名所。

 

二十六句目

 

   千日の庵を結ぶ小松原

 蝸牛のからを踏つぶす音     露丸

 (千日の庵を結ぶ小松原蝸牛のからを踏つぶす音)

 

 千日の行のために庵を結んではいても、カタツムリの殻を知らずに踏んでしまい、殺生の罪を犯す。

 

無季。「蝸牛」は虫類。

 

二十七句目

 

   蝸牛のからを踏つぶす音

 身は蟻のあなうと夢や覚すらん  芭蕉

 (身は蟻のあなうと夢や覚すらん蝸牛のからを踏つぶす音)

 

 「うとし」はわずらわしい、うとましい、といった今日の「うざい」に近い意味もある。口語では形容詞の活用語尾は省略されるので。「あなうと」となる。今なら「ああうざっ」というところか。

 「あなうと」を導き出すのに「身は蟻の」と序詞を用い、カタツムリの殻を踏み潰す音に夢から覚める、となる。

 夢に愛しい人が訪ねてくるのを見たのだろう。でもカタツムリを踏んづけた所で目が覚める。何か少女漫画みたいだ。

 

無季。恋。「身」は人倫。「蟻」は虫類。

 

二十八句目

 

   身は蟻のあなうと夢や覚すらん

 こけて露けきをみなへし花    重行

 (身は蟻のあなうと夢や覚すらんこけて露けきをみなへし花)

 

 をみなえし(女郎花)といえば、『古今集』の俳諧歌、

 

 名にめでて折れるばかりぞ女郎花

      我おちにきと人にかたるな

               僧正遍照

 

が思い浮かぶ。馬上で居眠りしていたら落馬して、女郎花の露まみれになったのだろう。意味は違うが「我おちにきと人にかたるな」となる。

 もちろん、裏に恋の意味を隠したとみてもいいだろう。ついつい出来心で女郎と遊んでしまったが、それが人に知れてしまって夢から覚めるような思いだ。穴があったら入りたい。

 

季語は「をみなへし花」で秋、植物、草類。「露」も秋、降物。恋。

 

二十九句目

 

   こけて露けきをみなへし花

 明はつる月を行脚の空に見て   曾良

 (明はつる月を行脚の空に見てこけて露けきをみなへし花)

 

 こけたのは行脚の僧だった。

 

季語は「月」で秋、天象。旅体。

 

三十句目

 

   明はつる月を行脚の空に見て

 温泉かぞふる陸奥の秋風     芭蕉

 (明はつる月を行脚の空に見て温泉かぞふる陸奥の秋風)

 

 行脚を今まさにやっている『奥の細道』の旅のこととする。幾つ温泉(いでゆ)に入っただろうか。那須にも行っているし飯塚の湯はディスってるし、ついこの間は羽黒山や湯殿山の湯に入ったし。

 

季語は「秋風」で秋。旅体。「陸奥」は名所。

二裏

三十一句目

 

   温泉かぞふる陸奥の秋風

 初雁の比よりおもふ氷様     露丸

 (初雁の比よりおもふ氷様温泉かぞふる陸奥の秋風)

 

 「氷様(ひのためし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙

  ① 氷室(ひむろ)に収められている氷の厚さなどを模して石で作ったもの。氷様の奏の時に、天覧に供される。《季・新年》

  ※内裏式(833)会「冰様進牟止、宮内省官姓名叩レ門故爾申」

  ※太平記(14C後)二四「先正月には〈略〉氷様(ヒノタメシ)・式兵二省内外官の補任帳を進る」

  ② 「氷様(ひのためし)の奏(そう)」の略。

  ※無言抄(1598)下「氷様(ヒノタメシ) 同元日なり。こほりの以厚薄豊年凶年をしるなり」

 

とある。「氷様(ひのためし)の奏(そう)」は同じく「コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「元日(がんにち)の節会の時に、宮内省から昨年の氷室の収量や氷の厚薄、一昨年との増減などを奏し、あわせて氷様を天覧に供する儀式。〔江家次第(1111頃)〕」

 

とある。

 これは、

 

 都をば霞とともに立ちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

             能因法師(後拾遺集)

 

の逆パターンであろう。秋風に陸奥を発てば氷様(ひのためし)の奏の頃には都に戻れるだろうか、となる。

 

季語は「初雁」で秋、鳥類。神祇。

 

三十二句目

 

   初雁の比よりおもふ氷様

 山殺作る宮の葺かへ       曾良

 (初雁の比よりおもふ氷様山殺作る宮の葺かへ)

 

 「山殺(やまそぎ)」はよくわからないが、神社の千木には「縦そぎ」「横そぎ」があり、この場合の「そぎ」は「削」という字を当てるのが普通だが「殺」という字を当てる場合もある。

 ひょっとしたら縦殺ぎでも横殺ぎでもない山殺ぎというのがあったのかもしれない。

 ちなみに氷室神社の祭神は闘鶏稲置大山主(つけのいなきおおやまぬし)で千木は水平の雌千木(横殺ぎ)になっている。男の神様なのに雌千木というあたりから来たマニアックな発想だったか。

 

無季。神祇。

 

三十三句目

 

   山殺作る宮の葺かへ

 尼衣男にまさる心にて      重行

 (尼衣男にまさる心にて山殺作る宮の葺かへ)

 

 山殺ぎが雌千木でも雄千木でもない山形に削った特殊な千木というネタだとしたら、男勝りの尼で雄とも雌ともつかぬ千木をと意味は通じる。神仏習合なので宮に尼がいてもおかしくはない。

 

無季。釈教。「尼衣」は衣裳。

 

三十四句目

 

   尼衣男にまさる心にて

 行かよふべき歌のつぎ橋     露丸

 (尼衣男にまさる心にて行かよふべき歌のつぎ橋)

 

 「つぎ橋」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 橋脚となる柱をところどころに立て、その上に幾枚もの橋板を継ぎ足して渡した橋。

  ※万葉(8C後)一四・三三八七「足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の都芸波思(ツギハシ)止まず通はむ」

  ※神楽歌(9C後)明星「(末)葛城や渡る久米路の津支橋(ツギはし)の心も知らずいざ帰りなむ」

  [語誌]挙例の「万葉集」の「葛飾の真間」(現、市川市真間町)が早く、平安後期には「かきたえし真間のつぎ橋ふみ見ればへだてたる霞も晴て迎へるがごと〈源俊頼〉」〔千載‐雑下〕のように歌枕として定着する。しかし、この他にも挙例の「神楽歌」等における「久米路」(大和)など、さまざまな土地のものが詠まれている。」

 

とある。

 

 いそぎしもこし路のなごのつぎはしも

     あやなくわれやなげきわたらん

             和泉式部(夫木集)

 

の「なご」は芭蕉がこれから行く那古の浦にあったとされる継橋で、男勝りの尼は和泉式部のイメージだったのか。

 『源氏物語』末摘花巻に登場する大輔の命婦は、若い頃の和泉式部がモデルだったかもしれない。末摘花

は清少納言であろう。

 

無季。

 

三十五句目

 

   行かよふべき歌のつぎ橋

 花のとき啼とやらいふ呼子鳥   芭蕉

 (花のとき啼とやらいふ呼子鳥行かよふべき歌のつぎ橋)

 

 呼子鳥は和歌に詠まれてはいるものの謎の鳥とされてきた。二〇一六年十月三十日の鈴呂屋俳話で湯山三吟の九十四句目、

 

   わりなしやなこその関の前わたり

 誰よぶこどり鳴きて過ぐらん   肖柏

 

のところでツツドリではないかとしたが、長年にわたって謎の鳥とされている。「花のとき啼とやらいふ」と、当時の人はその程度に認識していたのだろう。

 前句の「歌のつぎ橋」を古今伝授のこととし、古今伝授の三鳥の秘事の一つである呼子鳥を出す。

 

季語は「花のとき」で春、植物、木類。「呼子鳥」も春、鳥類。

 

挙句

 

   花のとき啼とやらいふ呼子鳥

 艶に曇りし春の山びこ      曾良

 (花のとき啼とやらいふ呼子鳥艶に曇りし春の山びこ)

 

 「艶」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「日本文学における美意識の一つ。上品なあでやかさ,つやのあるはなやかな美などをいう。『天徳歌合』『源氏物語』をはじめ,室町時代にいたるまで,物語,随筆,歌論にみられる。室町時代には心敬が「氷ばかり艶なるはなし」 (『ひとりごと』) といい,内面的に深化した艶に美の理想をみた。」

 

とある。氷が何であでやかでつやがあるのかはよくわからない。

 「艶」というと、貞享三年刊の『蛙合』の、

 

 ここかしこ蛙鳴ク江の星の数   其角

 

の評の所に、

 

 「月なき江の辺リ風いまだ寒く、星の影ひかひかとして、声々に蛙の鳴出たる、艶なるやうにて物すごし。青草池塘処々蛙、約あつてきたらず、半夜を過と云ける夜の気色も其儘にて、看ル所おもふ所、九重の塔の上に亦一双加へたるなからんかし。」

 

とあり、この艶にも通じるように思える。月のない星のピカピカと光る夜、風もまだ寒く、そんな中に鳴く蛙は、月夜の蛙のような華やかさもなく、殺風景で、もうひとつ何か欲しい、という評になっている。

 近代だと満天の星空はそれだけで美しいものとされるが、当時星月夜は闇のイメージだった。満天の星空は当時の人としてはあまりにありふれた光景で、特に気に留めることもなかったのだろう。ある意味其角の感性が近代を先取りしていたのかもしれない。

 艶は表向きの華やかさではなく、むしろ隠された秘められた美しさを表していたのではないかと思う。それがうまく伝わらないと「艶なるやうにて物すごし」になるのではないかと思う。

 曾良の「艶に曇りし」は前句の花を受けて、花の雲の連想から、山が花で白く染まる様を「艶に曇りし」と言ったのではないかと思う。そして曇るのは山だけでなく、呼子鳥の声のやまびこも曇る。花鳥の華やかさを「雲」のイメージの中に隠してこそ「艶」だったのだろう。

 

季語は「春」で春。「山びこ」は山類。