「けふばかり」の巻、解説

元禄壬申冬、十月三日許六亭興行

初表

 けふばかり人も年よれ初時雨    はせを

    野は仕付たる麦のあら土   許六

 油実を売む小粒の吟味して     酒堂

    汁の煮たつ秋の風はな    岱水

 宿の月奥へ入るほど古畳      嵐蘭

    先工夫する蚊屋の釣やう   主筆

 

初裏

 才ばりの傍輩中に憎まれて     岱水

    焼焦したる小妻もみ消ス   はせを

 粽つむ笹の葉色に明わたり     許六

    輾磑をのぼるならの入口   酒堂

 半分は鎧はぬ人もうち交り     嵐蘭

    船追のけて蛸の喰飽キ    岱水

 宵闇はあらぶる神の宮遷し     はせを

    北より荻の風そよぎたつ   許六

 八月は旅面白き小服綿       酒堂

    焼山ごえの雲の赤はげ    嵐蘭

 打起す畠も花の木陰にて      岱水

    つらも長閑に鶴の卵わる   はせを

 

 

二表

 春ふかく隠者の富貴なつかしや   許六

    當摩の丞を酒に酔する    酒堂

 さつぱりと鱈一本に年暮て     嵐蘭

    夜着たたみ置長持の上    岱水

 灯の影めづらしき甲待チ      はせを

    山ほととぎす山を出る声   許六

 児達は鮎のしら焼ゆるされて    酒堂

    尻目にかよふ翠簾の女房   嵐蘭

 いかやうな恋もしつべきうす霙   岱水

    琵琶をかかえて出る駕物   はせを

 有明は毘舎門堂の小方丈      許六

    舌のまはらぬ狐やや寒    酒堂

 

二裏

 一すじも青き葉のなき薄原     嵐蘭

    篠ふみ下る筥根路の坂    岱水

 宗長のうき寸白も筆の跡      はせを

    茶磨たしなむ百姓の家    許六

 花の春まつべて廻る神楽米     酒堂

    七十の賀の若菜茎立     嵐蘭

   参考;『校本 芭蕉全集 第五巻』1988、富士見書房

初表

発句

 けふばかりひととしよれ初時雨はつしぐれ   はせを

 

 この発句ほっくは、一般的いっぱんてきには「も」という助詞じょしを「またも」つまりなにかと比較ひかくして何々なになにもという用法ようほうかいし、今日きょうばかりは年寄としよりだけでなくわかひと年取としとってくれ、年寄としよりの気分きぶんになってくれ、というふうにまれている。
 ただ、「も」には「ちからも」というたんなる強調きょうちょう用法ようほうもあり、この場合ばあいは「としよれ」という命令形めいれいけい強調きょうちょうするための「も」で、のものとの比較ひかく意味いみはないとかんがえたほうがいい。
 「としよれ」は文字通もじどおりにめば、「としよ、れ」であり、「年経としへよ」とおなじような意味いみであり、「年寄としより」という言葉ことばは「としる=としる」から派生はせいした言葉ことばにすぎない。ここでは「としよれ」は年寄としよりになれではなく、「としてゆくのをかんってくれ」ぐらいの意味いみかんがえたほうがいい。
 ふゆになると、朝夕あさゆうかぜわり雨雲あまぐもができやすく、れたでもがた夕暮ゆうぐれ約束やくそくのようにくもがあらわれ、あめったりする。これを時雨しぐれといい、ふゆ最初さいしょ時雨しぐれとく初時雨はつしぐれう。初時雨はつしぐれると、今年ことしふゆおとずれ、もう一年いちねんわりかという気分きぶんになるのだろう。時雨しぐれはかつては関西特有かんさいとくゆう現象げんしょうだったが、最近さいきんでは関東かんとうでも時雨しぐれるときがある。これは温暖化おんだんかのせいか。
 発句ほっく興行こうぎょうさいのゲストの挨拶あいさつであり、許六きょりくていでの芭蕉ばしょうむかえての興行こうぎょうだから、芭蕉ばしょう発句ほっくみ、許六きょりくわきむことになる。この旧暦きゅうれき十月三日じゅうがつみっかで、ふゆはじめ。ちょうど初時雨はつしぐれ季節きせつで、この興行こうぎょうときだけでもひととしてゆくのをかんじてくれ、と挨拶あいさつする。

 

初時雨はつしぐれ」はふゆ降物ふりもの。「ひと」は人倫じんりん

    けふばかりひととしよれ初時雨はつしぐれ
 仕付しつけたるむぎのあらつち   許六きょりく

 (けふばかりひととしよれ初時雨はつしぐれ仕付しつけたるむぎのあらつち

 

 発句ほっくがゲストの挨拶あいさつなのにたいし、わきはそれをむかえるホストの返礼へんれいになる。
 としてもいいように来年らいねんのための準備じゅんびととのってますという意味いみで、はたけ麦蒔むぎまきもわりましたとこたえる。「あらつち」はつちのこなれていないという意味いみだが、それは比喩ひゆであり、招待しょうたいするがわの「粗末そまつところですが」という謙遜けんそん意味いみにすぎない。

 

仕付しつけたるむぎ」はふゆ。草類。

第三

    仕付しつけたるむぎのあらつち
 油実あぶらみうら小粒こつぶ吟味ぎんみして   酒堂しゃだう

 (油実あぶらみうら小粒こつぶ吟味ぎんみして仕付しつけたるむぎのあらつち

 

 「油実あぶらみ」というのは中国原産ちゅうごくげんさんのアブラギリ(トウダイグサ)ののことで、2~2.5cmの扁球形へんきゅうけいをつける。アブラギリかられる桐油きりあぶらには有毒ゆうどく成分せいぶんふくまれていて、行灯あんどんなどの燃料ねんりょうひろ使用しようされていた。農家のうか現金収入げんきんしゅうにゅう手段しゅだんとして、芭蕉ばしょう時代じだいにはあちこちで栽培さいばいされるようになった。今日こんにちでは木材保護油もくざいほごゆとして使つかわれている。
 第三だいさんは「て」めか「らん」めにすることがおおい。「て」めの場合ばあい下句しもくの原因をけて「‥‥して‥‥する」とませることもできれば、下句しもく原因げんいんとなって「‥‥ならば、‥‥したりして」の倒置とうちとして「‥‥したりして、‥‥ならば」とませることもできる。「らん」の場合ばあい疑問ぎもん反語はんご用法ようほうがあり、疑問ぎもんけた反語はんごすようにすれば、容易ようい展開てんかいができる。第三だいさんが「て」や「らん」でめるのは、なん規則きそくではなく、しょっぱなからまってすすまなくなるのをふせぐための工夫くふうかんがえたほうがいい。  「て」めの場合ばあい下句しもく原因げんいんとするより、下句しもく結果けっかとしたほうが、すんなりとけられる。そのため、あとひとけやすさをかんがえるなら、下句しもく原因げんいんとしてつけるほうがいい。ここでも、にはむぎ準備むぎし、さらに油実あぶらみろうとく。  前句まえく麦畑むぎばたけぬしを、んぼだけではなく、冬場ふゆばむぎつくるやり百姓ひゃくしょうて、くらいけたのだろう。まわりのやまあそばせてはおかずにアブラギリを栽培さいばいし、さらに収入しゅうにゅうアップをはかる。大粒おおつぶ小粒こつぶをよりけて、それぞれの相場そうばにらみながら、すこしでもたかろうという算段さんだんか。
 第三だいさん挨拶句あいさつくではないので、発句ほっくわきじょうをできるかぎはなしてけるのをしとする。季節きせつあきてんじる。

 

油実あぶらみ」はあき。木類。

四句目

    油実あぶらみうら小粒こつぶ吟味ぎんみして
 しるにえたつあきかざはな   岱水たいすい

 (油実あぶらみうら小粒こつぶ吟味ぎんみしてしるにえたつあきかざはな)

 

 アブラギリの選別作業せんべつさぎょう屋外おくがいしる煮炊にたきながら、大勢おおぜいおこなっていたのだろうか。
 「かざはな」はかぜって小雪こゆきなどのうことで、本来ほんらいふゆのものだが、ここでは「あきの」とすることで、晩秋ばんしゅう山里やまざと景色けしきとしている。
 前句まえくの「て」めをけて、前句まえく原因げんいんとして「‥‥して‥‥する」とくだす。油実あぶらみ選別作業せんべつさぎょうをする臨時雇りんじやといかなにかのくらいけたのだろうか。ゆきのちらつくなかでのしる煮炊にたきにさびがかんじられる。

 

あき」であき

五句目

     しるにえたつあきかざはな
 宿やどつきおくいるほど古畳ふるだたみ   嵐蘭らんらん

 (宿やどつきおくいるほど古畳ふるだたみしるにえたつあきかざはな)

 

 五句目ごくめつき定座じょうざということで、「しるにえたつ」を宿やどいもている光景こうけいとしたのだろう。つきたので障子しょうじはなってつき観賞かんしょうしようかというところで、そんなところにかぜにのってゆきがちらちらい、それがあたかもさくらっているかのようにうつくしく、しばしさむさもわすれる。
 ただ、この宿やどもどこかわびしげで、そとからすぐえるえんあたりのたたみあたらしくえてあるが、おくふるいままで、つき部屋へやおくまでむと、それがばれてしまう。前句まえくゆきしるのわびしさに、古畳ふるだたみひびききあう。

 

つき」はあき夜分やぶん天象てんしょう中世連歌ちゅうせいれんがでいう「光物ひかりもの」に相当そうとうする。太陽たいようつきほし銀河ぎんがなどの天体現象てんたいげんしょう。)。「たたみ」は居所きょしょ

六句目

    宿やどつきおくいるほど古畳ふるだたみ
 先工夫まずくふうする蚊屋かやつりやう   主筆しゅひつ

 (宿やどつきおくいるほど古畳ふるだたみ先工夫まずくふうする蚊屋かやつりやう)

 

 前句まえく粗末そまつ宿やど風情ふぜいからのにおいによる発想はっそうで、夏場なつばおとずれる旅人たびびとはどこに蚊屋かやろうかと苦労くろうする。
 主筆しゅひつ(「執筆しゅひつ」ともく)というのは連歌れんが俳諧はいかい興行こうぎょうさい筆記役ひっきやくけん審判員しんぱんいんつとめるひとで、挙句あげく担当たんとうすることがおおいが、ここでは五人ごにん連衆れんじゅ一回ひとまわりしたところでの登場とうじょうとなる。歌仙かせん全部ぜんぶ三十六句さんじゅうろっ だから、主筆しゅひつ一句いっくむと全員七句ぜんいんななくづつでバランスがれる。

 

蚊屋かや」はなつ

初裏

七句目

    先工夫まずくふうする蚊屋かやつりやう
 さいばりの傍輩中ぼうはいちゅうにくまれて   岱水たいすい

 (さいばりの傍輩中ぼうはいちゅうにくまれて先工夫まずくふうする蚊屋かやつりやう)

 

 これは蚊屋かや工夫くふうをしているひとのイメージから想像そうぞうした一種いっしゅくらいけか。
 この場合ばあい、「さいばりは傍輩中ぼうはいちゅうにくまれて」の意味いみだろう。
 「さいばり」というのははりのようにとがったようなするどものだが、人間にんげんとしてはちいさいというスラングだろう。「傍輩中ぼうはいちゅう」は同僚どうりょうというような意味いみだろうけど、かたまわしだ。どこかサラリーマン川柳せんりゅうめいてる。
 さいばりは、あたまいが小賢こざかしいだけで、日頃ひごろ威張いばっていて、ひと命令めいれいするばかりで、蚊屋かやるのも人任ひとまかせで、それもひとのやりかた一々いちいちチクチクと文句垂もんくたれていたのだろう。「ならば見本みほんを」とかわれて、いざやってみると悪戦苦闘あくせんくとうする。

 

無季むき。「傍輩ぼうはい」は人倫じんりん

八句目

    さいばりの傍輩中ぼうはいちゅうにくまれて
 焼焦やきこげしたる小妻こづまもみス   はせを

 (さいばりの傍輩中ぼうはいちゅうにくまれて焼焦やきこげしたる小妻こづまもみス)

 

 「さいばり」に「小妻こづま」といううつりでけた前句まえくさいばりが傍輩中ぼうはいちゅうにくまれての意味いみだったが、「の」の使つかかたで「さいばりである傍輩中ぼうはいちゅう」ににくまれてともめる。
 小姑こじゅうとのように、ひと失敗しっぱいをいちいちチクチク突付つっつくのが趣味しゅみというかきがいのような同僚どうりょうに、そでほしっこがげたのをつかればえらいことになると、文字通もじどおりでもんで「もみす」。芭蕉ばしょう伊賀藤堂藩いがとうどうはん料理人りょうりにんをやっていたときには、こんな経験けいけんもあったのかもしれない。

 

無季むき。「小妻こづま」は衣装いしょう

九句目

    焼焦やきこげしたる小妻こづまもみ
 ちまきつむささ葉色はいろあけわたり   許六きょりく

 (ちまきつむささ葉色はいろあけわたり焼焦やきこげしたる小妻こづまもみス)

 

 そでくろげた部分ぶぶんのぞき、もといろてくる様子ようすに、がたそらしら様子ようす連想れんそうしたのだろう。それをさらに端午たんご節句せっくべるちまきささからなかのもちごめえてくる様子ようすたとえた、複雑ふくざつ見立みたてので、わかりにくい。わきもそうだったが、許六きょりくはここではやや疎句そくけをねらいすぎている。
 夜明よあけというとえるような朝焼あさやけを連想れんそうするひとおおいかもしれない。しかし、そらあかまるのは気流きりゅう不安定ふあんていだったり、大気中たいきちゅうちりおおかったりするからであり、あらしまえなどの天気てんき模様もようときほどそら毒々どくどくしくあかまる。これとは反対はんたいに、気流きりゅう安定あんていしているときはむしろみどりがかかったようなそらになる。「ささ葉色はいろあけわたり」というのは、そういう、大気たいき状態じょうたい安定あんていしたときの夜明よあけのそらのこととおもわれる。

    にっと朝日あさひむかふよこくも
 あをみたるまつよりはなさきこぼれ   去来きょらい

 

はこれよりあと元禄げんろくねんの句だが、まつさくらのコントラストのイメージに、あおそらからほんのすこあか朝日あさひいろがこぼれてくるイメージとうまくかさなっている。
 端午たんご節句せっくいまでは子供こどもだが、かつては時期的じきてきにむしろ夏至祭げしまつりにちかく、龍船競争yるうせんきょうそうや石つぶて合戦がっせんなどをした。のもっともなが時期じきだけに、よるけるのもはやい。

ちまき」はなつ

十句目

    ちまきつむささ葉色はいろあけわたり
 輾磑てがいをのぼるならの入口いりぐち   酒堂しゃだう

 (ちまきつむささ葉色はいろあけわたり輾磑てがいをのぼるならの入口いりぐち

 

 子供こども頃読ころよんだ教科書きょうかしょに、奈良坂ならさかから奈良ならはいると、きゅう東大寺とうだいじ屋根やねえてきて、それがいいという文章ぶんしょうがあった。このは「ささ葉色はいろあけわたり」のイメージに、のぼってくにつれ東大寺とうだいじ大伽藍だいがらんうえがたそらひろがってゆく、奈良坂ならさかのイメージをかさねたひびけのだろう。
 奈良坂ならさか京都きょうとから奈良ならはいふる街道かいどうで、このさかくだると東大寺とうだいじ転害門てんがいもんる。この転害門てんがいもんもと名前なまえ輾磑てがいもんで、輾磑てがいというのはもとこなくための回転式かいてんしきの(ペッパーミルをおおきくしたような)石臼いしうすのことだという。中国ちゅうごくならって、東大寺とうだいじ製粉工場せいふんこうじょう敷設ふせつしたのだが、日本にほん米飯文化べいはんぶんかには結局根けっきょくねろせなかったという。

 

無季むき。「奈良なら」は名所めいしょ

十一句目

    輾磑てがいをのぼるならの入口いりぐち
 半分はんぶんよろはぬひともうちまじり   嵐蘭らんらん

 (半分はんぶんよろはぬひともうちまじ輾磑てがいをのぼるならの入口いりぐち

 

  東大寺とうだいじ治承じしょう4(1180)ねん12がつ28にち平重衡たいらのしげひらちされ、このことは『平家物語へいけものがたり』の「奈良炎上ならえんしょう」にえがかれている。興福寺こうふくじ三井寺みいでら味方みかたし、平家へいけ横暴おうぼう抵抗ていこうしようとしての、七千人ななせんにんへいあつめての挙兵きょへいだったが、四万騎よんまんき重衡しげひらぐんにあっという鎮圧ちんあつされ、東大寺とうだいじ興福寺こうふくじほのおつつまれることになる。
 この前句まえく東大寺とうだいじ転害門てんがいもんから、挙兵きょへいする僧兵そうへいたちの姿すがたを、『平家物語へいけものがたり』の面影おもかげけたもので、あつめのぐんだから、よろいかずりないというところで俳諧はいかいあじしている。
 僧兵そうへいというと弁慶べんけい姿すがたおもかべればいいだろう。弁慶べんけい熊野別当くまのべっとういえまれたとされ、熊野水軍くまのすいぐん伝説でんせつもあり、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじたともわれている。
 東大寺とうだいじは永禄10(1567)ねん10がつ10にち三好松永みよしまつながらんでも一度消失いちどしょうしつしている。

 

無季むき。「ひと」は人倫じんりん

十二句目

    半分はんぶんよろはぬひともうちまじ
 船追おひのけてたこ喰飽くひあキ   岱水たいすい

 (半分はんぶんよろはぬひともうちまじ船追おひのけてたこ喰飽くひあキ)

 

 「よろい」のイメージだと、どうしても戦記物せんきものからははなれにくい。ここでも『平家物語へいけものがたり』などの源平合戦げんぺいかっせんのイメージがきまとう。「たこ」がてくるから、舞台ぶたい須磨すま明石あかしだろう。
 鵯越ひよどりごえからの奇襲作戦きしゅうさくせんで、平家へいけはらったあと戦勝祝せんしょういわいだろうか。そうなると、「よろはぬひと」とうのは、付近ふきん漁師りょうしなど、平家へいけがいなくなったことをよろこ民衆みんしゅうだろう。

 

 

無季むき。「ふね」は水辺すいへん

十三句目

    船追おひのけてたこ喰飽くひあ
 宵闇よひやみはあらぶるかみ宮遷みやうつし   芭蕉ばしょう

 (宵闇よひやみはあらぶるかみ宮遷みやうつ船追おひのけてたこ喰飽くひあキ)

 

 「たこ喰飽くひあキ」に殺生せっしょうつみにおいでけた宵闇よいやみこころやみやみにあらぶるかみみやうつしたのでふねからがり、たこきるほどった、としたのだろう。 あえて、釈教しゃっきょうにではなく神祇じんぎ展開てんかいしている。
 あらぶるかみというのは御霊ごりょうのような非業ひごうげたたましいで、たこ須磨すま明石あかし名物めいぶつであることをかんがえれば、平氏へいし怨霊おんりょうか。たたりをおそれて神社じんじゃ他所よそうつしたから、もうたたりはないだろうとたこきなだけう。そんな人間にんげん勝手かってこころ宵闇よいやみつつんでいる。たこというと、

   蛸壺たこつぼやはかなきゆめなつつき     芭蕉ばせを

もある。わなにはめられてわれてしまうたこのはかなきゆめのようないのちを、なつみじかよるつきたとえたものだが、そのじょうは、たこきる姿すがた人間にんげん煩悩ぼんのうおもい、それをつきのまだていないやみたとえるこのにもかされている。
 「宵闇よいやみ」は今日こんにちでは夕方ゆうがた薄暗うすぐらくなるころをいうことがおおいが、本来ほんらい満月まんげつよりあとつきおそくて夕暮ゆうぐれくらいことをいう。おもえば、60年代以降ねんだいいこう道路どうろには街灯がいとうともり、どんな田舎いなかでも各家庭かくかていには電気でんき普及ふきゅうし、本当ほんとうやみというのがなくなってしまったのだろう。電気でんきのなかった時代じだいは、つきひかりしのちがいはおおきく、つきのないよる本当ほんとうやみだった。いまでは北朝鮮きたちょうせんあたりまでかないと、もう本当ほんとうやみはないだろう。
 ところで、このひとこまった問題もんだいこしてしまった。というのも、「宵闇よいやみ」はつきまえやみのことで、中秋ちゅうしゅう旧暦八月きゅうれきはちがつ新月しんげつから三十日みそかいたるまでつきのことをにかけるものとされているところから、三日月みかづきでも上弦じょうげんでも十五夜じゅうごやでも中秋ちゅうしゅうとなる。十六夜じゅうろくや長月ながつきのいざよいのことになるが、こうした特別とくべつつきのぞけば、基本的きほんてきつき中秋ちゅうしゅうのものとなる。宵闇よいやみおそつきやみという意味いみでは、中秋ちゅうしゅう名月めいげつ関連かんれんした言葉ことばではある。「無月むづき」もまた中秋ちゅうしゅう季語きごでもあるように、また、

 三十日みそかつきなし千歳ちとせすぎだくあらし    芭蕉ばせを

も、つきとなるように、つきてなくてもつきにはなる。ただ、「無月むづき」や「つきなし」はうえでは「つき」のがあるが、「宵闇よいやみ」の場合ばあいつきはない。また、つきはなくても「有明ありあけ」などはつきそのものをあらわすためにつき定座じょうざでももちいられる。「宵闇よいやみ」の場合ばあい、このどちらでもないのが問題もんだいだったのだろう。
 「宵闇よいやみ」はつきではないが、「あき」のとなる。あき五句ごくまでつづけることができるし、「夜分やぶん」も三句去さんくさりだから、十七句目じゅうななくめつきせないことはないが、おなあき連続れんぞくに「宵闇よいやみ」と「つき」が共存きょうぞんするのはいくらなんでもつたなかんじになる。つまり、宵闇よいやみしたことで、しょ懐紙かいしうら定座じょうざつきすことが困難こんなんになってしまったのである。この問題もんだいは、結局けっきょく宵闇よいやみこころつきとして、もうひとつ、日次にちじあらわかたちつきすことで、両方合りょうほうあわせてつき定座じょうざにするという妥協策だきょうさくもちいることになった。(参考;『去来抄きょらいしょう』「故実」)

 

宵闇よいやみ」はあき夜分やぶん。「かみ」「宮遷みやうつし」は神祇

十四句目

    宵闇よひやみはあらぶるかみ宮遷みやうつ
 きたよりをぎかぜそよぎたつ   許六きょりく

 (宵闇よひやみはあらぶるかみ宮遷みやうつきたよりをぎかぜそよぎたつ)

 

 さて、そういうわけで、つぎ許六きょりく日次にちじつきすための、変則的へんそくてきな「つきし」のになってしまった。まず、「宮遷みやうつし」の方角ほうがくを「きた」とし、「宵闇よひやみ」におぎかぜおとけた。おぎかぜは、

 ゆめとなりし骸骨踊がいこつおどおぎこえ   其角きかく

という天和てんな調ちょう発句ほっくがあったように、かなしいひびきがある。かるながしたようなだが、なかなか出来できている。

 

おぎ」はおぎ。草類。

十五句目

    きたよりをぎかぜそよぎたつ
 八月はちがつたび面白おもしろ小服綿こぶくめん   酒堂しゃだう

 (八月はちがつたび面白おもしろ小服綿こぶくめんきたよりをぎかぜそよぎたつ)

 

 おぎかぜのそよぎち、つゆらす風情ふぜい旅路たびじ風景ふうけいとし、「八月はちがつたび面白おもしろき」とく。小服綿こぶくめんそうるもので、そう行脚あんぎゃとなる。
 日次にちじつきつき定座じょうざわりとするのは、じつはこれがはじめてではない。芭蕉ばしょうが『おく細道ほそみち』のたびで、新潟にいがた直江津なおえつ興行こうぎょうしたときに、

 文月ふみづき六日むいかつねにはず   芭蕉はせを

発句ほっくんだときのことだった。七夕たなばた前日ぜんじつもまた明日あす七夕たなばたひかえ、織姫彦星おりひめひこぼし気持きもちをおもえばいつものよるではない。それは興行こうぎょう開始かいし挨拶あいさつとしては、今夜こんやみんなあつまっていただいて、今夜こんやはいつものよるではありません、という意味いみでもある。
 しかし、このあきで、「夜分やぶん」のでもあり、しかも日次にちじの「つき文字もじまである。これではしょ懐紙かいしおもてつきすことができない。この興行こうぎょう曾良そらの『俳諧書留はいかいかきとめ』では二十句目にじゅっくめまでしかっていないが、結局けっきょく初表しょおもてにはつきはなく、初裏しょうら七句目ななくめ通常通つうじょうどおつきし、十一句目じゅういっくめはなしていて、かたちとしては初表しょおもてつき発句ほっくの「文月ふみづき」で代用だいようされたかたちになった。どちらにしても、月花つきはな定座じょうざはあくまでも慣習かんしゅう問題もんだいであり、式目上しきもくじょうなん問題もんだいもない。

 

八月はちがつ」はあき。「たび」は羇旅きりょ。「小服綿こぶくめん」は衣装いしょう

 

十六句目

    八月はちがつたび面白おもしろ小服綿こぶくめん
 焼山やけやまごえのくもあかはげ   嵐蘭らんらん

 (八月はちがつたび面白おもしろ小服綿こぶくめん焼山やけやまごえのくもあかはげ)

 

 前句まえくも「おぎかぜ」に「たび面白おもしろき」といたが、ここも「たび面白おもしろき」にまた「焼山やけやまごえ」の面白おもしろさまけているひびけの。「おぎかぜ」が平凡へいぼんだっただけに、それをえる趣向しゅこうせればまずまずだ。
 「焼山やけやま」は火山かざんのことで、噴火ふんかやガスの噴出ふんしゅつなどで草木くさきえない荒涼こうりょうとした赤茶あかちゃけた山肌やまはだが、くも合間あいまのぞいている。山水画さんすいがのような世界せかいとはまたちがう、赤絵あかえのようなあかしろ色調しきちょうめずらしい。
 なお「くも」は次の句のはな定座じょうざ意識いしきして、「はなくも」にせるようにという配慮はいりょか。あまり露骨ろこつではない、さりげない「はなし」だ。

 

無季むき。「焼山やけやま」は山類。「くも」は聳物そびきもの

十七句目

    焼山やけやまごえのくもあかはげ
 打起うちおこはたけはな木陰こかげにて   岱水たいすい

 (打起うちおこはたけはな木陰こかげにて焼山やけやまごえのくもあかはげ)

 

 酒堂しゃどうんで、「くも」を「はなくも」にし、「あかはげ」を火山かざんのせいではなく、こしたはたけのせいにす。これによって、くもあいだかくれするてた火山かざん景色けしきから、たがやされたはたけおくはなくもひろがる幻想的げんそうてき光景こうけいへとてんじる。

 

はたち」も「はな」もはる。「はな」は植物うえもの

十八句目

    打起うちおこはたけはな木陰こかげにて
 つらも長閑のどかつるかいわる   はせを

 (打起うちおこはたけはな木陰こかげにてつらも長閑のどかつるかいわる)

 

 江戸時代えどじだいではしばしばツルとコウノトリは混同こんどうされていた。ツルは三月さんがつさくらき、畠打はたうころになると、きたかえってゆくので、これはコウノトリの姿すがたか。
 コウノトリは肉食にくしょくで、フナやドジョウなどのさかなかえるべる。まれによそのとりたまごつけてべることもあったのか。はたけ農夫のうふ姿すがたと、たまごをつつくコウノトリの姿すがた類似るいじ面白おもしろさをねらったおもわれる。ひびけの一種いっしゅといえよう。はなつるわせはいかにも目出度めでたい。

 

長閑のどか」ははる。「つる」は鳥類。

二表

十九句目

    つらも長閑のどかつるかいわる
 はるふかく隠者いんじゃ富貴ふつきなつかしや   許六きょりく

 (はるふかく隠者いんじゃ富貴ふつきなつかしやつらも長閑のどかに鶴のかいわる)

 

 前句まえくでは「つるたまごる」の意味いみだったが、ここでは「富貴ふうきものつるたまごる」というふうにす。いま隠棲いんせいとなったが、かつては大金持おおがねもちちで、にわつるってたりしたのだろう。ところで、つるたまごって美味うまいのだろうか。
 つるわたとりで、夏場なつばにアムール川流域がわりゅういきなどでたまご子育こそだてをするから、本当ほんとうつるたまごというのは、だれたことのないような貴重きちょうなもので、せいぜい裕福ゆうふくいえわれていたつるんだたまごがあるだけだっただろう。ただ、江戸時代えどじだいにはしばしばつるとコウノトリが混同こんどうされていたため、民話みんわなどにはまつのぼってつるたまごりにはなしがある。いずれにしろ、つるたまご大変貴重たいへんきちょうなもので、それゆえにやがてつるたまごした饅頭まんじゅうつくられるようになり、おいわいのときなどにべるようにもなったのだろう。

 

はる」ははる。「隠者いんじゃ」は人倫じんりん

二十句目

    はるふかく隠者いんじゃ富貴ふつきなつかしや
 當摩たへまじょうさけよはする   酒堂しゃだう

 (はるふかく隠者いんじゃ富貴ふつきなつかしや當摩たへまじょうさけよはする)

 

 問題もんだい當摩たへまじょう何者なにものかだ。多分架空たぶんかくう人物じんぶつなのだろう。じょうというと地方官ちほうかんではナンバーツーで、中央ちゅうおうでもいわゆる次官じかんクラスだ。「判官ほうがん」ともいう。当麻寺たいまでらには中将姫ちゅうじょうひめという、一夜いちや曼荼羅まんだらげたひめ伝説でんせつがあるが、中将ちゅうじょう長官ちょうかんクラスだから、当麻たいまじょうはそれよりはちる。
 判官ほうがんというと、源九郎判官義経みなもとのくろうほうがんよしつね小栗判官おぐりほうがん有名ゆうめいだが、小栗判官おぐりほうがんには72にんつまえたという伝説でんせつがあるので、そのイメージがあるのかもしれない。ただ、いずれにせよナンバーツーというのは、権力争けんりょくあらそいにやぶれて悲惨ひさん最期さいごげることがおおい。 当麻たいまじょうというのは、そうしたちぶれてむかし富貴ふうきなつかかしむような、そういうイメージがあったのだろう。
 おそらく当時とうじは「當摩たへまじょう」というだけで、すぐにかぶイメージがあったのだろう。もっとも、むかしいま江戸えどというのは新開地しんかいちで、伝統でんとうあさぶんつね新奇しんきものこのみ、最先端さいせんたんわらいをもとめる傾向けいこうがある。その意味いみでは「當摩たへまじょう」はわかるひとにはわかるというネタだったのかもしれない。 酒堂しゃどう近江こんどう膳所ぜぜひとではあるが、江戸えど深川ふかがわかれたこの歌仙かせんには、「灰汁桶の巻」とはちがった雰囲気ふんいきがある。この作風さくふうちがいは、たんに「かるみ」というだけではない、ふたたび江戸えどもどった芭蕉ばしょうの、江戸えど新奇しんきものもとめる空気くうきなかかれたということもあったのではないか。
 なお、この時代じだい当麻寺たいまでらというと、京都大雲院きょうとだいうんいんの性愚上人によって根本曼荼羅まんだら文亀ぶんき曼荼羅まんだら修復しゅうふくされ、後者こうしゃ貞享じょうきょう2(1685)ねん完成かんせいよく貞享じょうきょう3(1686)ねんには霊元天皇れいげんてんのうめいれ、貞享じょうきょう曼荼羅まんだらばれている。芭蕉ばしょう当麻寺たいまでらおとずれたのは貞享じょうきょうがん(1684)ねんあき(『ざらし紀行きこう』のたび途中とちゅう)だから、たしてこの曼荼羅まんだらたのかどうかはさだかでない。曼荼羅まんだら修復しゅうふくわせて、寺院全体じいんぜんたい牡丹ぼたんなどのはなえたりして、やがておおくの参詣人さんけいにんあつめるはな名所めいしょとなってゆくのもこのころからだった。それと當摩たへまじょうなに関係かんけいあるのかはさだかではない。

 

無季むき。「當摩たへま」は名所めいしょ。「じょう」は人倫じんりん

二十一句目

    當摩たへまじょうさけよはする
 さつぱりと鱈一本たらいっぽんとしくれて   嵐蘭らんらん

 (さつぱりと鱈一本たらいっぽんとしくれ當摩たへまじょうさけよはする)

 

 この場合ばあいたら棒鱈ぼうだらのことだろう。身欠みがきにしん干鮭からざけとともに、正月しょうがつのお節料理せちりょうりもちいられる。そのため、お歳暮せいぼとして進物用しんもつようもちいられた。冷蔵庫れいぞうこもなく、高速こうそくはこ交通機関こうつうきかんもなかった時代じだい干物ひもの保存性ほぞんせいいのちで、たいていはカチンカチンにかたくなるまでしたもので、もどすには長時間ちょうじかんだししるなくてはならなかった。
 身欠みがきにしん棒鱈ぼうだら今日こんにちでもあるが、干鮭からざけは、

 からざけ空也くうややせかんうち   芭蕉ばしょう

という発句ほっくにもまれているものの、江戸時代えどじだい後期こうきにはしおかためた「塩引」にってわられていった。ただ、これも今日こんにちからすればしおがきつすぎて、「ねこまたぎ」(ねこがまたいでとおるくらいまずい)とわれたようだ。新巻鮭あらまきざけひろまったのは明治以降めいじいこうのこと。
 江戸時代えどじだいにこうした干物ひもの正月料理しょうがつりょうりとしてひろまったのは、松前藩まつまえはん経由けいゆしたアイヌとの交易こうえきによるもので、もちろんその裏側うらがわにはアイヌへの過酷かこく強制労働きょうせいろうどうがあり、シャクシャインのらんもまた芭蕉ばしょうきている時代じだい出来事できごとだった。
 たらというと貞享じょうきょう2(1865)ねんの『ざらし紀行きこう』のたび途中とちゅうんだに、

 つつじいけて其陰そのかげ干鱈ひだらさくをんな   芭蕉ばしょう

という、字余じあまりの天和てんな調ちょうがあるが(『ざらし紀行きこう』にはてこない)、この場合ばあい普通ふつうたら干物ひもののことで、正月しょうがつ棒鱈ぼうだらとはおそらく別物べつものだろう。棒鱈ぼうだら十分煮込じゅうぶんにこんでもどせばやわらかい煮物にものになるが、いてべる干鱈ひだら普通ふつういてべる干物ひもののことだろう。
 干鱈ひだらほう安価あんかまずしいひとものだったようだが、棒鱈ぼうだら正月料理しょうがつりょうり使つかうのだから、それなりに高級こうきゅうだったのではなかったか。そうでなくては當摩たいまじょうくらいわない。

 

年暮としくれて」はふゆ

二十二句目

    さつぱりと鱈一本たらいっぽんとしくれ
 夜着よぎたたみおく長持ながもちうへ   岱水たいすい

 (さつぱりと鱈一本たらいっぽんとしくれ夜着よぎたたみおく長持ながもちうへ

 

 これはだろう。はなからつるたまご當摩たいまじょうあががって、ここらで一休ひとやすみだ。「さっぱり」のイメージで、きちんと長持ながもちのうえにたたまれた夜着よぎにおいでけたのだろう。
 大晦日おおみそか夜中よなかまできて、除夜じょやかねき、そのあとねむるための夜着よぎが、長持ながもちのうえにきちんとたたんでかれている。夜着よぎそでのある着物型きものがた布団ふとんで、ふゆのもの。正月しょうがつ料理りょうりのメインは一本いっぽん棒鱈ぼうだら質素しっそなかにも目出度めでたさがあり、しっかりと正月しょうがつ準備じゅんびととのっている。

 

夜着よぎ」はふゆ衣装いしょう夜分やぶん

二十三句目

    夜着よぎたたみおく長持ながもちうへ
 ともしびかげめづらしき甲待きのえまチ   はせを

 (ともしびかげめづらしき甲待きのえま夜着よぎたたみおく長持ながもちうへ

 

 土芳どほうの『三冊子さんぞうし』に、

  「前句まへくおく気味きみに、せばき寝所ねどころようよう一間いっけん住居ぢゅうきょ、もの取片付とりかたづけ掃清はききよめたるところ見込みこみ、わびしき甲待きのえまちたいつけたるなりめづらしひかりあり。」(岩波文庫いわなみぶんこ去来抄きょらいしょう三冊子さんぞうし旅寝論たびねろん』P,127)

とある。芭蕉ばしょう名吟めいぎんひとつといえよう。

 長持ながもちのうえ夜着よぎをたたむところにいえせまさときちんと片付かたづいた部屋へやにおいがあり、そこからいわゆる「清貧せいひん」の人物じんぶつおもえがき、そのくらいけている。
 「甲待きのえまち」は十干十二支じっかんじゅうにし最初さいしょきのえねを、ともしびともし、夜中よなかまで風習ふうしゅうで、60にちごとにおとずれる大晦日おおみそかのようなものといえるかもしれない。「めづらし」はいまめずらしいの意味いみではなく、「づらし」、つまり、「でたくなる」という意味いみ。「目出度めでたい」につうじる。

 

無季むき。「ともしび」は夜分やぶん。「甲待きのえまち」は神祇じんぎ

二十四句目

    ともしびかげめづらしき甲待きのえま
 やまほととぎすやまこゑ   許六きょりく

 (ともしびかげめづらしき甲待きのえまやまほととぎすやまこゑ

 

 ホトトギスは漂鳥ひょうちょうで、ふゆみなみあたたかい平野へいやごし、なつになるときた山地さんちへとわたってゆく。だから、初夏しょか風物ふうぶつであるホトトギスの初音はつねは、実際じっさいやまかってゆくときこえで、やまときではない。
 許六きょりくはおそらくこうしたホトトギスの生態せいたいとは無関係むかんけいに、半年前はんとしまえ

 鎌倉かまくらいきいでけむ初鰹はつがつを   芭蕉ばしょう

連想れんそうしたのではなかったか。ホトトギスと初鰹はつがつおは、貞享じょうきょう5(1688)ねん初夏しょかの、

 には青葉山あをばやまほととぎす初鰹はつがつを   素堂そどう

もあるように、なつはじめの二大風物にだいふうぶつで、初鰹はつがつお鎌倉かまくらうみからてきたのだから、ホトトギスもやまからてきたと発想はっそうしたのではなかったか。
 前句まえくの「めづらしき」は二句にくつなげた場合ばあい、ホトトギスのこえかる。灯火ともしび甲待きのえまちにめづらしきホトトギスのこえ、というになる。

 

「ほととぎす」はなつ。鳥類。「やま」は山類さんるい

二十五句目

    やまほととぎすやまこゑ
 児達ちごたちあゆのしらやきゆるされて   酒堂しゃだう

 (児達ちごたちあゆのしらやきゆるされてやまほととぎすやまこゑ

 

 前句まえくをホトトギスがやまるのではなく、ホトトギスの初音はつね稚児ちごたちがやまるとしてけている。普段ふだんてらでは殺生せっしょうきんじ、さかなゆるされていないが、ホトトギスのいたこのはお目出度めでたなので、稚児ちごたちもあゆ白焼しらやうことがゆるされたのだろう。あゆとくにタレをつけなくても塩焼しおやききがうまいし、初夏しょか風物ふうぶつでもある。このいきはからいをするホトトギスのきなこのおてら僧正そうじょうは、

 きくたびにめづらしければ郭公ほととぎす
    いつも初音はつねのここちこそすれ
               権僧正永縁ごんのそうじょうようえん(『金葉集きんようしゅうなつ

うたんだ、「初音はつね僧正そうじょう」こと永縁ようえんだろうか。

 

あゆ」はなつ。「稚児ちご」は人倫じんりん釈教しゃっきょう

二十六句目

    児達ちごたちあゆのしらやきゆるされて
 尻目しりめにかよふ翠簾みす女房にょうばう   嵐蘭らんらん

 (児達ちごたちあゆのしらやきゆるされて尻目しりめにかよふ翠簾みす女房にょうばう

 稚児ちごといってもおてらつかえるお稚児ちごさんは、子供こどもではなく立派りっぱ少年しょうねん。どこぞのぼうさんとのあいだにホモのうわさもあったりする。美少年びしょうねんのお稚児ちごさんがいるとなれば、そこには当然恋とうぜんこいにおいもある。おおきな有名ゆうめいなおてらであれば、たくさんのお稚児ちごさんがいて、さながらジャニーズ・ジュニアか。宮廷きゅうてい女房にょうぼうもおしのびでやってきてはながおくる。

 

無季むき。「かよふ女房にょうぼう」はこい人倫じんりん

二十七句目

    尻目しりめにかよふ翠簾みす女房にょうばう
 いかやうなこひもしつべきうすみぞれ   岱水たいすい

 (いかやうなこひもしつべきうすみぞれ尻目しりめにかよふ翠簾みす女房にょうばう

 

 みぞれんだうたはすくなく、まして、みぞれこいというと、

 みぞれにははなたのたもとかへるとも
    がとほつまをてこそゆかめ
                         源俊頼みなもとのとしより

があるくらいか。岱水たいすいがこのうたっていたかどうかはらない。あめゆきはそれなりの風情ふぜいがあるが、みぞれなかではながをする宮廷きゅうてい女房にょうぼうもどのようなこいをするのだろうか、と単純たんじゅん疑問ぎもんおもったようななのだろう。御簾みすからかくれする曖昧あいまいさに、あめともゆきともつかぬみぞれをイメージしたか。ゆきのような閑寂かんじゃくえさびた境地きょうちでもなく、あめほどしっとりとしたものでもなく、つめたくてどろどろとしたきびしくつらいこいなのだろう。

 

みぞれ」はふゆ降物ふりもの。「こい」はこい

二十八句目

    いかやうなこひもしつべきうすみぞれ
 琵琶びはをかかえていづ駕物のりもの   はせを

 (いかやうなこひもしつべきうすみぞれ琵琶びはをかかえていづ駕物のりもの

 

 こい二句にくわりということで、芭蕉ばしょうは「しつべき」を物語ものがたりをしつべきとし、みぞれさむ駕籠かごってやってき琵琶法師びわほうしが、どんなこい物語ものがたりをするのだろうか、というふうにける。前句まえくこころあざやかな展開てんかいである。
 琵琶法師びわほうしというと芭蕉ばしょうが『おく細道ほそみち』のたび途中とちゅう塩釜しおがまいた奥浄瑠璃おくじょうるりのことがおもされる。琵琶法師びわほうしだからといって平家物語へいけものがたりなどの軍記物ぐんきものをやるとはかぎらず、こい物語ものがたりなどもしたのだろう。

 

無季むき

二十九句目

    琵琶びはをかかえていづ駕物のりもの
 有明ありあけ毘舎門堂びしゃもんどう小方丈こほうじょう   許六きょりく

 (有明ありあけ毘舎門堂びしゃもんどう小方丈こほうじょう琵琶びはをかかえていづ駕物のりもの

 

 方丈ほうじょうというのは住職じゅうしょくむところのことで、毘沙門天びしゃもんてんまつったちいさなてらちいさな方丈ほうじょうからがた琵琶法師びわほうしてきて、駕籠かごってかえってゆくさまけている。『俳諧鳶羽集はいかいとびのはしゅう』によると、「琵琶びわをかかえてといふよりてんて、通夜つやはてたるあけぼのおもひよせたり」とあり、かつては通夜つやとき琵琶法師びわほうしなどをんでは夜通よどお物語ものがたりき、無常感むじょうかんひたったりしたのだろう。
 「いづ駕物のりもの」は「駕物のりものいづる」とも「てきて駕物のりものる」ともれる。こうしたところのがさずすのが、連歌れんが俳諧はいかい面白おもしろさであり、最近さいきん連句れんくにはこうした機知きちけているようにおもえる。

 

有明ありあけ」はあき夜分やぶん天象てんしょう。「毘舎門堂びしゃもんどう」「方丈ほうじょう」は釈教しゃっきょう釈教しゃっきょう三句去さんくさりは問題もんだいない。

三十句目

    有明ありあけ毘舎門堂びしゃもんどう小方丈こほうじょう
 したのまはらぬきつねややさむ    酒堂しゃだう

 (有明ありあけ毘舎門堂びしゃもんどう小方丈こほうじょうしたのまはらぬきつねややさむ

 

 「したのまはらぬきつね」をたん子狐こぎつねのことだとしては面白おもしろくもなんともない。近代的きんだいてきえば、さむさでふるえている子狐こぎつね姿すがた可愛かわいらしく、「小動物しょうどうぶつへの愛情あいじょうかんじられる」とでもうところかもしれない。それこそ

 はつしぐれさる小蓑こみのをほしげなり    芭蕉ばしょう

でもしばしばこのような解釈かいしゃくがなされるが、これは自然しぜん片隅かたすみのこされた保護ほごすべきかよわいものにしてしまった現代人げんだいじん感覚かんかくほかならない。
 当時とうじ文字通もじどお大自然だいしぜんで、神秘しんぴあふれ、そこには人間にんげん想像そうぞうぜっするようななにかがあり、ひとたびきばをむけば大勢おおぜいひといのちうばってゆく。だからこそ、ひと自然しぜんおそれ、自然しぜんかみとしてうやまった。小蓑こみのさる其角きかくが『猿蓑さるみの』のじょう「俳諧はいかいたましひ」であり、猿田彦大神さるたひこおおみかみ面影おもかげとすべきであろう。
 きつねはここではひとかすもののけのたぐいかんがえていいだろう。

 ばけながら狐貧きつねまずしき師走哉しわすかな   其角きかく

という元禄げんろく3(1690)ねんふゆもある。つきのこがたちいさな毘舎門堂びしゃもんどうもとのまま、きつねかされることもなくたたずんで、ただ、あきさむさだけがにしみる。したがまわればちいさな方丈ほうじょう大伽藍だいがらん竜宮城りゅうぐうじょうにでもなったのだろうか。

 

「ややさむ」はあき。「きつね」は近代きんだいではふゆ季語きごとなっているが、当時とうじ無季むき。獣類。

二裏

三十一句目

    したのまはらぬきつねややさむ
 ひとすじもあをのなき薄原すすきはら     嵐蘭らんらん

 (ひとすじもあをのなき薄原すすきはらしたのまはらぬきつねややさむ

 

 きつねっぱをおかねえたりするが、かつてはおさつではなくささ小判こばんにしたりしたのだろうか。残念ざんねんながらここは一面いちめんのススキがはらで、あきともなるとあおっぱは一枚いちまいもない。名残なごりうらなので、おだやかに、景色けしきてんじる。

 

すすき」はあき。草類。

三十二句目

    ひとすじもあをのなき薄原すすきはら
 しのふみくだ筥根路はこねぢさか    岱水たいすい

 (ひとすじもあをのなき薄原すすきはらしのふみくだ筥根路はこねぢさか

 

 名残なごりうらということで、ここでもおだやかに景色けしきつづける。箱根はこねといえば千石原せんごくはらという一面いちめんすすきはら有名ゆうめいしのささのこと。ささしげ山道やまみちくだると、眼下がんかには一面いちめんすすき千石原せんごくはらひろがる。

 

無季むき。「しの」は草類。草類が二句続にくつづく。ここから二句隔にくへだててはな定座じょうざはなすことになるが、草類と木類というふうにたがえた異植物いしょくぶつ二句去にくさりりでもい。「箱根路はこねじ」は名所めいしょ

三十三句目

    しのふみくだ筥根路はこねぢさか
 宗長そうちゃうのうき寸白すんばくふであと      はせを

 (宗長そうちゃうのうき寸白すんばくふであとしのふみくだ筥根路はこねぢさか

 

 寸白すんばくとは、本郷正豊ほんごうまさとよの『鍼灸重寶記しんきゅうちょうほうき』(享保きょうほう4年)に「さん寸白すんばく虫長むしながさ1すんうごくときは、腹痛ふくつう、腫聚り、清水をき、上り下り、おこりざめあり、しんいためるときはす。」とあり、条虫じょうちゅう(サナダムシ)のこととされている。「宗長そうちゃうのうき寸白すんばく」というと宗長そうちょう寸白すんばくなやんでいたようだが、じつ宗祇そうぎのことだ。宗長そうちょうの『宗祇終焉記そうぎしゅうえんのき』にはこうある。

 「廿七日にじゅふしちにち、八日、両日りゃうじつはここに休息きゅうそくして、廿九日に駿河国するがのくにへとはべるに、その午刻斗うまのときばかりに、みちそらにして、寸白すんばくといふむしおこりあひて、いかにともやるかたなく、くすりをもちひけれどつゆしるしもなければ、いかゞはせん。
 国府津こふづといふところに旅宿をもとめて、一夜ひとよをあかしはべりしに、駿河するがよりのむかひのうまひと輿こしなどもえ、素純そじゅんうまをはせてたりむかはれしかば、ちからをえて、あくれば箱根山はこねやまのふもと、湯本ゆもとところにつきしに、みちのほどよりすこしこころよげにて、づけなどくひ、物語ものがたりち]し、まどろまれぬ。」

 そしてそのあとすぐ、

  「ながむるつきにたちぞうかるる
といふ沈吟ちんぎんして、われけがたし、みなみなはべれなど、たはぶれにいひつつ、ともしきえゆるやうにしていきもえぬ。」

となる。そのあと宗長そうちょうは、

 「あしがらやまは、さらでだにこえうきやまなり。輿こしにかきれて、[ただ]あるひとのやうにこしらへ、跡先あとさきにつきて、駿河国するがのくにのさかひ、桃園ももぞのところ山林さんりんに、会下えげあり、定輪寺じょうりんじふ。」

やまえ、その定輪寺じょうりんじ宗祇そうぎ亡骸なきがら埋葬まいそうする。  前句まえくの「しのふみくだ筥根路はこねぢさか」を、宗長そうちょう宗祇そうぎ亡骸なきがら輿こしせながら、箱根山はこねやまくださましたのだろう。そのときさまは、たしかに宗長そうちょう自身じしんの『宗祇終焉記そうぎしゅうえんのき』というふであととして後世こうせいのこることになる。しかし、そのままでは重過おもすぎるテーマを「宗長そうちょうのうき宗祇そうぎ亡骸なきがら」ではなく、「宗長そうちゃうのうき寸白すんばく」とうところに俳諧はいかいがある。まあ、宗祇そうぎんだのなら、そこに寄生きせいしていたサナダムシもんだのだろう。

 

無季むき

三十四句目

    宗長そうちゃうのうき寸白すんばくふであと
 茶磨ちゃうすたしなむ百姓ひゃくしゃういへ    許六きょりく

 (宗長そうちゃうのうき寸白すんばくふであと茶磨ちゃうすたしなむ百姓ひゃくしゃういへ

 

 茶臼ちゃうす抹茶まっちゃくための道具どうぐで、江戸時代江戸時代中期ちゅうきまでは茶道さどうかせぬ道具どうぐだったが、やがていた抹茶まっちゃ市販しはんされるようになり、すたれていった。茶臼ちゃうすぬのをかけると富士山ふじさんのようなかたちになるところから、芭蕉ばしょう談林時代だんりんじだいに、

 やまのすがたのみ茶臼ちゃうすおほいかな   桃青たうせい

というのがある。茶臼ちゃうす富士山ふじさん見立みたてる面白おもしろさだけでなく、それがのみにとっての富士山ふじさんであるところに身分不相応みぶんふそうおう野心やしんつという寓意ぐういめられている。
 茶道具さどうぐなかでも高価こうかなものなので、「茶磨ちゃうすたしなむ百姓ひゃくしゃう」は、百姓ひゃくしょうといっても相当裕福そうとうゆうふく百姓ひゃくしょうなのだろう。
 「宗長そうちゃうのうき寸白すんばく」はここでは宗長そうちょうなげくようなサナダムシのったようなしょのことだろうか。宗長そうちょうふでだとほこらしげにかざってあっても、そこはがりの百姓ひゃくしょうのこと。目利めききでもなく、とんでもないものつかまされたのだろう。いまでも土地成金とちなりきんいえくと、こののものがたくさんありそうだ。

 

無季むき。「百姓ひゃくしょう」は人倫じんりん。「いえ」は居所きょしょ

三十五句目

    茶磨ちゃうすたしなむ百姓ひゃくしゃういへ
 はなはるまつべてまは神楽米かぐらまい     酒堂しゃだう

 (はなはるまつべてまは神楽米かぐらまい茶磨ちゃうすたしなむ百姓ひゃくしゃういへ

 

 「はなはる」はさくらころにこだわる必要ひつようはない。はな比喩ひゆであり、はなのように目出度めでたはるという意味いみ。  「まつべて」は「あつめて」という意味いみで、お神楽かぐら費用ひよう調達ちょうたつするためにこめあつめてまわるのは、むら有力者ゆうりょくしゃ仕事しごと
 「茶磨ちゃうすたしなむ百姓ひゃくしゃう」のくらいけた

 

はなはる」ははる比喩ひゆなので、植物うえものとする必要ひつようはない。「神楽かぐら」は神祇じんぎ

三十六句目

    はなはるまつべてまは神楽米かぐらまい
 七十しちじゅふ若菜わかな茎立くくたち     嵐蘭らんらん

 (はなはるまつべてまは神楽米かぐらまい七十しちじゅふ若菜わかな茎立くくたち

 

 「はなはる」もところで、挙句あげくはいかにも目出度めでたわる。神楽かぐら領主りょうしゅ七十歳ななじゅっさい長寿ちょうじゅいわうためのもので、むかしかぞどしでは正月しょうがつるととしったから、七十しちじゅうもまだはるあさころで、「はなはる」はその意味いみでもここでは比喩ひゆであり、はなのような目出度めでたはるのこととなる。
 今日こんにちでも七草粥ななくさがゆ習慣しゅうかんのこっているように、はる若菜摘わかなつみは早春そうしゅんのもの。「茎立くくたち」はそのなかでもとうったもので、「まつべてまはる」をこめあつめるのではなく、文字通もじどおはなはるだから若菜わかなはなあつめてまわるとく。

 

若菜わかな」ははる。草類。しのからきっちり三句隔さんくへだてている。