こやんの奥の細道

 元祖にして究極の聖地巡礼といえば、やはり『奥の細道』であろう。
 西行物語や平家物語、そのほか古歌に詠まれた歌枕を訪ね歩く旅は、物語の舞台を実際見ることで、その登場人物の心情に対する理解を深めることになる。
 これは今日「聖地巡礼」と呼ばれる旅の原型となるものといっていい。
 宗祇などの中世の連歌氏も歌枕を訪ねて歩いたが、彼らは同時に諸国を渡り歩いて連歌興行をすることが職業でもあった。それに対し、芭蕉も俳諧興行をしてはいるものの、生活の手段として地方を興行して回ったわけではない。むしろ歌枕が主で、俳諧興行はついでといったものだった。
 旅をするために頭を丸め、巡礼者のいでたちで、純粋に歌枕を求めて彷徨い歩くスタイルを、門人やさらには一般庶民にまで広めたあたりは、芭蕉こそ聖地巡礼の元祖といっていいだろう。
 今日のいわゆる「聖地巡礼」がそれと違うとすれば、「古典」ではなく、まだ評価の定まらぬマンガ・アニメ・ラノベなどの作品群に触発されている点くらいでだ。それにしても、その「古典」とやらのまだ十分評価の固まらなかった時代には、その精神はそんなにかけ離れたものではなかったはずだ。
 『奥の細道』の芭蕉がたどった道を歩いてみようという欲求も、それが有名な「古典」であろうがなかろうが、気分は聖地巡礼だ。
 東北大震災もあり、福島の原発事故もあれば、この先どうなるのかわからない時代なだけに、やりたいと思っていたことも前倒しに、とにかく生きているうちにと、どうやって全行程を歩くのかなんて何も計画立てることもなく、ここにとにかく行ける所までと見切り発車することとなった。




  巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ上尅、千住ニ揚ル。     一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。                   (『曾良旅日記』より)

2011年6月19日

 今日は雨との予報もあって、出かけようかどうしようか迷いもあり、結局ワンピースを見てからの出発となった。
 「鹿島詣で」の次は「奥の細道」。といっても、これはあまりに距離が長すぎるし、日帰りするには遠すぎるので、簡単に歩くことはできない。まあ、歩けるところはというくらいの気持ちでとりあえず電車で清澄白河へ行き、まず杉風の採荼庵に向った。
 採荼庵にはどこかの団体が来ていて、人だかりがしていた。芭蕉人気が今でも衰えてないのはいいことだ。
 採荼庵はほとんど書割のようで、裏側のない表だけの建物だ。
 この前来たときにはここに梅干が干してあったが、今回は特に何も置いてなく、何か石祠のようなものがあるのに気付いた。


 そこから隅田川沿いを歩く。清洲橋を過ぎると、すぐに芭蕉庵の所に着く。芭蕉がどのあたりから舟に乗ったのかは定かでないが、既に芭蕉庵を引き払って他の人にゆずり、採荼庵から出発したのだから、ここは素通りしたのであろう。

 「弥生も末の七日、明ぼのの空朧々として、月は在明)にて光おさまれる物から、不二の峰幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて、船に乗て送る。」(『奥の細道』より)

 そこから新大橋、両国橋、蔵前橋、厩橋を過ぎ、吾妻橋が見えてくると浅草だ。
 江戸時代は、ここから上野山が見えたのだろう。今はビルにさえぎられて浅草寺も見えない。
 アサヒビールの例の巨大なう〇この横を通り、少し行くと勝海舟の像があった。
 牛島神社は二年前に行ったので飛ばして、言問橋のさらに先へ行くと、三囲神社の鳥居が見えた。その向こうには三遊亭円丈が立川談志師匠にそっくりだと言った陶器製の狛犬が見えた。あれ、ここは前にも来たけど、こんなにはっきり見えたっけと思ったが、どうやら平成七年に移築されたらしい。よく見ると、その後にも一対の狛犬があったが、これも前にはみた記憶がない。かなり前で、狛犬初心者の頃に来たのであまりよく思い出せない。
 どうやらここは 三井家の神社らしい。
 表に回ると、何か三越の前に座っているようなライオンがあると思ったら、本当に三越のライオンだった。太秦木島神社のような三角鳥居があったり、其角の雨乞いの句碑がある。


 雨乞いの句碑というのは、

    此御神に雨乞する人にかわりて
 遊ふ田地や田を見めぐりの神ならば 晋箕角

というもの。
 元禄六年は大変な猛暑だったようで、芭蕉のこの夏の暑さにやられて7月には「閉門之説」を書き、一ヶ月くらい休養している。その少し前のことだろう。
 其角は例によって吉原に遊びに行き、その途中にたまたま三めぐり神社を通りかかったところ、雨乞いが行なわれているのを見てこの句を詠んだという。
 句の意味は「田を見めぐりの神ならば夕立をや」、つまり、田をぶらぶらと見て回っている神様であれば夕立を降らせてくれや、ということ。
 芭蕉なら素直に「夕立や」とするところだろうが、そこは其角の遊び心であえて「遊ふ田地や」と表記し、この俺が遊びに行く途中にここを見めぐり(ぶらぶら見て回ること)したことに掛けて、「遊ぶ田地」というくらいだから神様もここで雨乞い踊りでも見物して遊んでぶらぶらしていくうちに夕立でも起こして下さいよ、と語りかけている。
 他にもよくわからない句碑の類もたくさんある。あまりたくさんあると、かえって読む気が失せる。


 ここには延享二年の古さのわりにはやけに奇麗で状態の良い狛犬もあるし、稲荷神社なので享保二年お狐さんをはじめ、たくさんのお狐さんがあった。なかなか盛りだくさんな所だ。


 ふたたび隅田川に戻り、桜橋を越えた所のホームレスの家の並ぶ所に、やけに毛並みの奇麗な猫がいた。
 白髭橋を渡ると石浜神社が見えた。
 鳥居に大きく安永八年と刻まれている。その後の鳥居も寛延二年と大きく書いてある。どっちもかなり古いものに間違いはない。狛犬も平成元年のものと大正四年の顔の横に広い狛犬があった。あと、よくわからないが神楽獅子と書いてある口を大きく開けた大きな獅子の頭があった。


 さらに川沿いの公園を行くと対岸に防火壁にもなるという白髭東団地が見えた。この先から川は大きく左に曲がり、少し行ったところにまた、コインパーキングの向こうに鳥居が見えた。
 胡録神社だった。天保十年銘の狛犬と、もうひとつ獅子山狛犬があった。境内社に道祖神の社があり、草鞋が奉納されていた。

 さて、このあたりで公園化された堤防は終り、狭い道になる。線路をくぐり、やがて千住大橋にたどり着く。
 千住大橋を渡ると、堤防の壁に「おくのほそ道 旅立ちの地」という文字が蕪村画のイラストとともに描かれている。まあ、多分芭蕉はこのあたりで舟を降りたのであろう。

 近くに橋戸稲荷神社があり、今日の旅はここで終り。千住大橋を戻って南千住駅が今回のセーブポイント。次回はここから草加を目指すことになる。




6月26日

 今日は南千住スタート。
 ネットを見ると、日光街道はもとより、芭蕉の道と重なる街道を歩いた人のサイトが数多く検索に引っかかる。こうした先人達の案内に従って、これからの道を進むことになる。
 前回は時間の都合で飛ばしたが、南千住の素盞雄神社には寄ってきたかった。
 だいぶ前にも一度来たことがあったが、立派な獅子山狛犬と芭蕉の句碑のあるところだった。
 すっかり記憶から落ちていたが、他にも文化五年銘の狛犬と、瑞光石の社の前にも古い狛犬があった。銘はよくわからなかったが、ネットで調べたところ宝暦十年のものたという。こういう古い狛犬がさりげなくあるあたりが、さすが下町だ。



 神楽殿には震災復興祈願の千羽鶴が下がってて、その傍に机が出してあって折り紙が用意してあった。この神社にお供えした後、被災地の神社に送られるというので、とりあえず折ってきた。

 あのかねも早く届けと梅雨の空
 紫陽花に悲しい色も変えてくれ

 北千住へと渡ると、千住市場の所から右に日光街道の旧道が別れている。ここにもやけににやけた芭蕉像があり、この先の旧街道にはやっちゃ場の後を示す古い看板がいくつも掲げられていた。


 やっちゃ場の跡を過ぎると商店街に入る。日曜でシャッターが閉まっているところが多かったが、シャッターに昔の浮世絵のような絵が書いてあったりした。
 途中に左に小さな参道を行くと千住本氷川神社があった。大黒天を祭る社には米俵が積んであり、こっちが旧本殿だという。新本殿の前には獅子山によくあるような尻を高く突き出したタイプの狛犬がある。


 ここの手水場はセンサーが仕掛けてあった、近づくとかなり勢いよく水が噴き出す。これこそが江戸っ子の「いき」か。
 商店街の通りに戻り、しばらく行くと商店街は終り旧日光街道は左に曲がるが、そこを右に行くとここにも氷川神社がある。昭和三十九年銘の狛犬があった。左側の境内社、猿田彦大神、稲荷神社、高正天満宮の前には御影石の四足で立っているタイプの狛犬とかなり痛んだ古い小さな狛犬があった。


 街道に戻り、千住新橋の下をくぐって荒川の土手に出るあたりに、ここにも氷川神社(千住大川氷川神社)があった。狛犬は昭和五十三年銘で新しいが、社殿の脇にほとんどオブジェのように原形をとどめない先代狛犬があった。こちらは弘化四年銘。布袋さんの像があり、裏には富士塚があった。


 土手を登ると荒川に出る。河川敷にはグランドがあり野球やサッカーをやっていた。
 千住新橋を渡り、川に沿って左へさっきの千住大川氷川神社の向い側へ行くと、川田橋から旧日光街道が始まる。少しいくと子育八彦尊道があり、地蔵さんが青いマントを着ていた。
 その後しばらく旧道らしいゆったりとカーブする道が続き、やがて長い直線道路に入る。
 途中、島根鷲神社がある。平成十五年銘の新しい大きな狛犬がある。ここの奥にも富士塚があった。
 竹ノ塚5丁目を過ぎると道が狭くなり、生鮮市場さんよう、セブンイレブンのあるあたりを右へ行く。国道4号線をくぐり、49号線に出る少し前の所に小さな水神社があった。
 49号線に入り、橋を渡ると埼玉県草加市。谷塚駅入口の所に浅間神社があり、祭の準備が行なわれていた。


 その先には五楽堂という草加せんべいの店があり、ここともう少し先にある小宮でお土産に草加せんべいを買った。
 しばらく行くと旧道が左に分かれ草加市役所の前に出る。ここにも小さなお堂がある。

 今日はとりあえずここまで、東武伊勢崎線の草加駅がセーブポイントということで帰った。


7月3日

 今日はちょっと早く、8時半ごろ草加からスタートした。
 駅から降りると三峰神社と八幡神社の道しるべがあったので、まず三峰神社に行こうとしたが見つからず、代わりに天神社を見つけた。
 戻ってきて八幡神社に行く。狛犬は昭和五十六年銘。
 日光街道の旧道を行くと、左に小さな氷川神社があった。狛犬の銘はなかったが、四足で歩いている状態の狛犬は珍しい。大黒天や平内さんという縁結びの神様も祭られてた。


 旧道が右にカーブするあたりに神明社があった。狛犬はなかった。
 新道(49号線)に合流する所が公園になっていて、曾良の像があった。芭蕉の像は多いが曾良の像は珍しい。


 その先には草加松原という、昔の街道の松並木を公園にした所があった。その起点のところには芭蕉像があった。向かいには草加せんべい発祥の地の石碑がある。
 草加松原ではなにやら人だかりがしていて、行ってみると朝顔市をやっていた。草加せんべいの手焼きを体験するテントもあった。隣では草加せんべいとかいた箱がうずたかく詰まれ、「5000枚の草加せんべいを被災地に届けます」という札がたっていた。海外の支援物資に日の丸のステッカーを貼ろうという運動が以前にあったが、支援を受けてもどこの誰から届いたのかわからなければ、あの国は何もしてくれなかったと思われてしまうからだという。その意味では、これだけはっきり「草加せんべい」と書いとく必要もあるのだろう。朝顔市といってもやはりせんべいが幅を利かせている。
 人ごみのなかでせんべいを口にくわえた着ぐるみとすれ違う。写真を撮ろうと思ったが、人ごみのなかで思うように追いかけることもできず、撮れなかった。パリポリくんという草加せんべいのゆるキャラだった。
 朝顔市の人ごみを抜けると、しばらく川沿いの道が続く。小さな愛宕神社があり、その先で橋を渡ると蒲生一里塚がある。一里塚も愛宕神社になっていた。その脇には六地蔵もある。
 川沿いの道からオーベル越谷南のあたりを直進して川から離れ、少し行くと、左側に草鞋の下がっている小さな社があった。道祖神の社だろうか。屋根からのぞいている岩が気になる。恐竜の顔のように見える。
 あとでネットで調べたところ、これは「ぎょうだいさま」というらしい。宝暦7年(1757年)に日光街道の修理を記念して建立され、道中安全の神様として草鞋が供えられているという。


 蒲生本町で49号線にもどると、しばらく越谷まで49号線を行く。
 新越谷駅入口の手前に天保五年の十九夜塔があった。
 瓦曽根ロータリーで道が二手に分かれ、左へ行くと日光街道の旧道になる。越谷駅を過ぎるあたりから古い昔の街道を忍ばせる建物が多くなる。壁が黒く塗られているものが多い。
 すぐ左に越谷八幡神社が見える。狛犬は平成十年銘。
 さらに越谷二丁目交差店の左側に越谷浅間神社が見えた。大きなケヤキの木がある。なかなかいかつい狛犬で銘はないが、そんなに古くはない。


 北越谷に来ると、右側に大沢香取神社があり、ここは古い狛犬の宝庫だ。
 49号線の新道に面した鳥居から入るとすぐに、宝暦年間の狛犬、安永九年銘の狛犬が二対並ぶ。そして社殿前には天保六年銘の大きな狛犬があり、三対すべて江戸時代。小泉マリコ画の案内板がある。境内には安産祈願の安産石もあった。カップルや子供連れの参拝客が多かった。


 やがて東武線の線路を越え、旧道らしいゆったりと右へ左へカーブした道が続く。せんげん台のあたりで4号線に合流すると、春日部まではずっと4号線だ。


 途中右手に建御雷神社の真新しい鳥居が見える。狛犬はないが、小さな平べったい富士塚があった。その少し先に備後一里塚跡がある。このあたりに来ると右側には大落古利根川が見えてくる。
 東武野田線をくぐるあたりから完全に春日部の市街地に入る。一宮の交差点のあたりに八坂神社と八幡神社がある。正面には東陽寺の大きなお堂が見え、ここは芭蕉が泊まったという伝説もある。
 ちょうどこの頃から腹具合が悪く、参拝は次回にして春日部駅へと急いだ。今日はここでセーブ。


 一 廿八日、ママダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。

   辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。

 一 廿九日、辰ノ上尅ママダヲ出。

 一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。

                (『曾良旅日記』より)

7月18日

 朝早く起きて女子ワールドカップの決勝戦を見た。
 終始押されぎみだったけど、PKにまで持ち込めれば勝てる気がした。本当にそのとおりになった。PK戦の最初のキッカー、あれは日本のお家芸、ころころシュートではないか。あれで完全に流れを掴んだ気がした。
 防戦一方では勝てない。どこかで攻めに転じなくてはならない。
 CMにもあったように、「日本の強さは団結力」だから、仲間を切り捨てるようなことをやってはいけない。原発事故の痛みは福島県民だけでなく、日本人みんなで背負わなくてはいけない。そんなことをこの試合で学んだ気がした。


 「奥の細道」の旅は、今日は春日部スタート。芭蕉の一日目の宿泊地まで三日かかっている。やはり昔の人は凄い。
 春日部というと、いまやクレヨンしんちゃんで世界の春日部になった。駅前にはしんちゃんの大きな看板がお出迎え。春日部というと、「らき☆すた」の聖地でもある。
 狛犬めぐりの方は、まず春日部八幡神社からスタート。文化十三年銘の狛犬はなかなかの名品で、この他にも本殿の横に狛トラがいた。参道の鳥居の前にも明治の獅子山狛犬があった。


 続いて一度駅に戻り、日光街道に出て、春日部東八幡神社に向う。途中、「ぷらっとかすかべ」があり、ここでもしんちゃんがお出迎え。加藤楸邨の家の跡もあった。楸邨は、

 身の匂ひ蓬に負けず恋少女   楸邨
 少女らの乳房過ぎをり今年竹  楸邨
 すれちがふ水着少女に樹の匂ひ 楸邨

といったロリ句を得意とした俳人で、今日のオタク文化にも通じる。蕪村の「春風馬堤曲」から楸邨を経て、日本の一つの伝統だと言ってもいいのだろう。
 春日部東八幡神社にも文久三年銘の古い狛犬がある。日光街道は、早い時期から江戸狛犬の文化をこの地域に伝えて来たのだろう。境内社の川久雷電神社には、ほとんど原形をとどめないようなど根性狛犬があった。


 新町橋を渡り大落古利根川を越え、最初の信号を右折すると、日光街道の旧道に入る。
 この旧道に、小渕一里塚があった。日本橋からここで十里。この少し先で、4号線に合流するが、その直前に「左日光道」と書いた追分道標がある。もちろん左へ行く
 少し行くと、左側にかなり痛んだ山門が見える。観音堂で、「このたびの地震で山門が損傷の疑いがあるので山門を通らないで下さい」という立て札があった。震災のせいもあるけど、それ以前から相当痛んでいたのではなかったか。
 北春日部のあたりから、屋根にブルーシートを敷いた民家など、鹿島へ行った時にお馴染みとなった光景が目立つようになる。震災の被害は古利根川の向こうとこっちとでは違ってたのかもしれない。
 景色の方も、春日部まではずっと建物が途絶えることがなかったが、ここに来て田んぼがちらほら見えてくる。
 やがて杉戸町に入ると、地球をかたどった36度線のモニュメントがあった。

 アストロプロダクトのあるY字路を左へ行くと、ふたたび旧道になる。九品寺があり、ここにも日光街道の道標を兼ねた庚申塔があった。
 さらに行くとワークマンの裏に小さな社があり、そこには結構古そうな狛犬があった。銘はよく読めないが、慶應?


 堤根(南)で4号線に合流し、その先の堤根で旧道が右に分かれる。このあたりで左側に古利根川が見えてくる。
 右に近津神社があり、ここの狛犬は参道の方を見ずに後ろの方を見ている。「見返り狛犬」とでも言うべきか。元治元年銘。

 社殿は放火によって消失したので寄付を募るような立て札があった。小さな真新しい社殿が建っていたが、かつては美しい彫刻の施された古い社殿があったという。
 近津神社は貞享元年にはすでにあったというから、芭蕉もこの神社の前を通ったのだろう。


 その先には愛宕神社前という信号があり、左側に愛宕神社があった。狛犬は明治四十一年銘。結構傷みがひどい。
 杉戸宿を抜けると、ふたたび4号線に合流する。しばらく郊外の殺風景な道が続く。日を遮るものがなくて暑い。
 ジェームズの所から左へ、ようやく旧道に入る。線路を越えると工事中の圏央道の橋脚が見えてくる。ベルグ幸手南店を左に曲がると小さな太子堂があった。
 ふたたび線路を越えると、幸手神明社がある。鳥居の横には螺不動(たにしふどう)と書いた石碑もある。狛犬は大正十一年銘で、子取りでも玉取りでもなく、両方とも牡丹の花を手にしている。唐獅子牡丹?

 少し行くと幸手駅が見えてくる。この駅前の通りには「らき☆すた」の幟があり、ここも「らき☆すた」の聖地であることがわかる。途中、一色館跡と陣屋稲荷神社があった。
 本来ならここで幸手駅でセーブしてそのまま帰る所だが、せっかくここまで来たからということで、鷲宮神社まで足を延ばすことにした。


 電車で東武動物公園まで戻り、そこから東武伊勢崎線への乗り換えだが、電車は久喜でもう一度乗換えだった。
 鷲宮の駅にはらき☆すたの神輿が展示してあった。
 来週は夏越祭だが、一週間早かったせいか、駅前も町も静かだった。駅前には本物の神輿も展示されていた。
 神社の駐車場にはいわゆる「痛車」が何台か停まっていたが、境内も静かで大きな狛犬があった。年代はわからなかった。

 大きな神社で境内社もたくさんあり、掛かっている絵馬は噂に聞いたとおり、奇麗な漫画イラストの描かれたものがたくさんあった。「痛絵馬」というらしい。願い事をするという以上に画力をアピールする場でもあるのか。
 駅前でお土産にツンダレソースを買い、駅の近くのスーパーで鷲宮という地酒があったのでそれも買って帰った。久喜まで来ると中央林間行きの急行が来たので、乗ればうとうと居眠りしている間に家に着いた。遠いのか近いのかよくわからない。


7月24日

 今日は幸手駅を十時過ぎにスタート。旧日光街道へ出る。
 左側に聖福寺という寺があり、その入口付近に芭蕉の句碑があった。

 碑は新しいもので、

    幸手を行けば栗橋の関   芭蕉
 松杉をはさみ揃ゆる寺の門    曾良

という元禄六年九月に深川芭蕉庵で、

 十三夜あかつき闇のはじめかな  濁子

を発句とした興行の句で、芭蕉の句は、

    きり麦をはや朝かげにうち立て
 幸手を行けば栗橋の関   芭蕉

 連句というのは前句がわからないと意味をなさないもので、この碑を立てた人はそこのところがわかってなかったのだろう。
 埼玉は小麦の産地で、かつては切り麦が有名だったのだろう。最初は冬は暖めて温麺にし、夏は冷やして冷麦にしたらしいが、次第に温麺の方が独立して、切り麦は冷麦のことになったようだ。
 前句の「うち立て」を、麺を打つことではなく、早朝の旅立ちのことに取り成して日光街道の旅の句に転じた機知は、前句がないとわからない。幸手の地名も微妙に「去って」に掛かっている。



    幸手を行けば栗橋の関
 松杉をはさみ揃ゆる寺の門    曾良

 曾良の句(連句の場合、前句の作者名は表記しない)は、日光街道には松並木も杉並木もあるということから、お寺もその両方の間にあるという意味か。

 聖福寺を過ぎると街道は右にカーブし、そこに一里塚の跡がある。
 旧日光街道はその少し先を左に折れるのだが、熊野神社の道標があったので直進した。北二丁目交差点の歩道橋で4号線を越え、しばらく行くと左手に熊野神社があった。狛犬の銘は読み取れず年代は不明だが結構古そうだ。ずんぐりした体系が愛嬌がある。古い色あせた絵馬のたくさんある堂があり、裏手には自然石に庚申の文字を彫った庚申塔がある。

 神社の裏を少し行くと田んぼの向こうに権現堂堤の桜並木が見える。春ならばさぞ奇麗だろう。
 街道に戻ると、Yショップに純米吟醸豊明のらき☆すたラベルの張り紙があったので、中に入りお土産に買った。これから先歩くというのに「路次の煩いとなる」とはこのことだ。


 やがて内国府間という信号で4号線に合流する。内国府間は「うちごま」と読むらしい。東海道の国府図は「こうづ」と読むから、kokuhu>kouhu>kouu>kou>koと変化し、濁音化したのだろう。
 このあたりに内国府間八幡神社がある。ここの平成十九年に放火にあったようで、「共済保険の満額支給を基に、特別寄付を、有志より募り」再建させたことが碑に記されていた。狛犬も新しく、本殿修復記念平成八年九月吉日の銘が刻まれている。
 川を渡るとすぐに左側の旧道へと分かれる。この川は中川で、あの下町の葛飾を流れる中川だ。
 旧道はかなり狭く、これが本当に日光街道なのかと思ったが、古い石の道標があり、右がつくば道、左が日光道とあるので間違いない。
 やがて正面に鳥居が見えてくる。雷電社湯殿社なのだが、ここにも碑があり、平成十三年に不審火で焼けたことが書かれている。一七〇〇万円の保険金の範囲で修復するか新たに寄付を募るかで検討を重ねた結果、「苦悩の末新たに地区住民から寄付金を集める事はせず、保険金の範囲内で再建しようと言う事になった」と記されている。やはり保険には入っとくもんだ、ってそういう問題ではない。


 ここの狛犬も古そうだが、銘は読み取れなかった。庚申塔がなかなか彫りの深い立派なもので、着色されてた跡がわずかに残っていた。
 この後どうやら道を間違え、田んぼの中の道がどんどん細くなってゆく。田んぼの脇に蓮の花が咲いている所があり、どうやらこの蓮の花に呼ばれてしまったのだろう。

 迷うのも悪くはないと蓮の花

 工業団地入口の陸橋までもどり、そこをくぐって権現堂貯水池の脇の遊歩道に出た。対岸はキューピーの看板があり工場団地になっていた。

 新幹線の線路をくぐり細い道を左に行き4号線をくぐる。このあたりは旧道というよりも、多分このあたりに旧道があったという感じだ。小さな側道から4号線に出ると、ピンク色の壁の栗橋大一劇場がある。出演女性のポスターとかが貼られている「あっち系」の劇場のようだ。


 隣に香取宮・八幡宮があった。狛犬はなかった。
 栗橋交差点のあたりも道が途切れてわかりにくいが、狭い所を何とか行くと60号線に出た。ここが旧道になる。すぐに焙烙地蔵がある。昔、栗橋の関で関所破りした人はここで火あぶりの刑になったらしく、その供養のための地蔵だという。
 ここから先、これまでも草加、越谷、春日部、杉戸、幸手で見てきたような宿場町の風景になる。
 やがて利根川の土手が見えてきて、そこに栗橋の関所跡の碑があった。実際の関所はここではなく、土手の裏側の河川敷にあったらしい。
 関所の近くに八坂神社があったが、珍しい狛鯉があった。昭和六十一年銘で結構新しい。慶長の時代、利根川の洪水の時に神興天皇様が流されて来て、その周りを鯉、鮒、泥亀などが取り巻いてお神輿を守っているようだった、というのがこの神社の起源だという。土地柄、このあたりはたびたび恐ろしい水害に見舞われたのだろう。鯉が書物を広げている縁起の碑もあった。
 境内には大欅があり、狛鯉とは別に狛犬も一対あった。


 栗橋の関を越えて利根川を渡るのは次回にして、ここで栗橋駅に向った。駅前に静御前の墓があった。墓の向い側の店には、栗橋みなみという鉄道むすめのキャラのポスターが貼ってあった。春日部のしんちゃんや幸手のらき☆すたに対抗しているのか、それにしてはちょっとマイナー。

 東武線の栗橋駅から南栗橋駅へ一駅行くと中央林間行きの急行に乗り継ぎできるのは、鷲宮の時と同じだった。これに乗ればそのまま帰れる。何とか4時半に帰り、ちゃんと夕食のソースカツ丼(ソースはツンデレソース、バルサミコ酢味)と味噌汁を作り、土鍋で飯も炊いた。


8月7日

 今日は栗橋スタートということで六時に起き、七時には家を出た。
 ところが押上駅に着いて愕然。時計は七時五十八分だが次の南栗橋行きは八時二十五分。一体ここはどんだけ田舎なんだ。南栗橋より先に行くのだって一時間に三本は出ている。
 まあ、おそらく東武線を使うのも今回までだろう。次からはJR東北本線がセーブポイントになる。
 そういうわけで九時三十分、栗橋駅をスタート。
 さて、利根川を越え、埼玉県ともお別れ。茨城県古河市に入る。しかし暑い。朝は曇ってたのに‥‥。
 昔は渡舟だったが今は橋を渡る。渡り終えて左側に折れると日光街道の旧道になる。ここに中田関所跡があり、スタンプが置いてある。あれ?関所跡って栗橋にもあったがこっちにもあるの?どうやら最初は中田にあって、後に栗橋側に移ったようだ。
 芭蕉の時代には栗橋関となっている。曾良の『旅日記』には「此日栗橋ノ関所通ル 手形モ断モ不入」とある。結構いいかげんだったようだ。関所破りで火炙りになった人はよっぽど運が悪かったのだろう。


 関を過ぎると旧中田宿だが、宿場らしい建物はそんなにない。
 鶴峯八幡神社は街道の左側にあり、拝殿前の狛犬は昭和七年銘。首が長く胸が白い。目玉が彩色されている。両方とも子取りで子獅子が可愛い。
 境内社の前にも文化十三年銘の狛犬があるが、だいぶ痛んでいる。


 東北本線の踏み切りの横には歩道橋がある。渡っている間に電車が通り過ぎ、下りたら遮断機が上がっていた。何か損したような。
 その先の茶屋新田に香取神社がある。広い公園に古い赤い鳥居があり、その奥に拝殿があり、狛犬がある。昭和十三年銘の狛犬は角ばった顔をしている。
 このあたりの道はだだっ広く、歩道には小さな松が植えられていて、かつての街道の松並木を再現しようとしている。
 古河市街地に入る。道は広くて奇麗に整備されているが、奇麗すぎてかえって宿場らしくない。左手に稲荷神社がある。お狐さんは古いもののようだが檻の中だった。


 さらに古河駅入口を過ぎると小さな琴平神社がある。狛犬はない。その先に「左 日光道」と書いてあるので、左に行き、トミヤを右に行くと、ここはかなり宿場町らしく、古い建物が多くなる。


 やがて261号線に合流し、さらに先で4号線に合流するあたりに野木神社入り口と書いた札があり鳥居がある。このあたりはもう野木宿なのか。かなり間隔が短い。
 参道はかなり長い。二の鳥居の跡があったが、震災で崩れたのだろうか。三の鳥居の向こうに拝殿がある。拝殿前の狛犬は銘が読めなかったが昭和のものだろう。その裏の本殿の前にもう一対狛犬が見えていて、こっちの方が古そうだが、近くに寄れなかった。本殿は古くてなかなか立派なもので、本殿を覆う屋根をつけて風雨から守っている。

 拝殿には大きな立派な絵馬が掛かっている。その下にはふくろうの写真が展示されていた。何でも野木神社の大イチョウの樹にフクロウが来るらしい。
 絵馬の所には何やら布で作ったおっぱいのようなものがかけられている。乳がよく出るようにというおまじないだという。
 なお、ここには「一疋のはね馬もなし河千鳥」の芭蕉句碑がある。千鳥足というのは本来馬の足並みが乱れ、ばらばらと千鳥が飛ぶような音をたてるところから来たもので、むしろ障害物に足が左右にぶれて乱れる様をいう。そこから酔っ払いなどの千鳥足という言葉にもなったのであって、実際の千鳥の歩き方が千鳥足というわけではない。


 句の方は、河原の石の上を滑らかに歩いてゆくたくさんの千鳥を見て、千鳥足というが歩調を乱す跳ね馬など一匹もいない、という意味。作られた年代もはっきりせず、芭蕉の句かどうかは疑われているが、なかなかの観察力が感じられ、貞享の終わりから「奥の細道」の旅の頃の芭蕉の句である可能性は十分にある。

 拝殿左横にブルーシートが掛けられた鹿のようなものがあるが、これは何なのだろうか。

 野木宿もあまり昔の面影はない。ただ、立て札で、野木宿入口、一里塚跡がある。その先に一応石の野木宿道標もあった。
 野木宿のはずれに観音堂がある。
 1時頃、中村屋という佐野ラーメンの店があったので入った。あっさり系の醤油ラーメンで縮れ麺は腰がある。このあたりは佐野ラーメンの文化圏なのだろう。
 さて、店を出たが、少し行くと右に野木駅の表示がある。今日は多分猛暑日になるのではないかという暑さで、本当は芭蕉の春日部の次の宿泊地、間々田まで行きたかったけど、ここで引き返すことにした。


8月11日

 今日は朝6時半に家を出て、渋谷から湘南新宿ラインで野木まで行った。野木着が8時38分。早い。
 栗橋へ行く時もこの方法のほうがよかった。やはり押上での三十分のロスが大きかった。
 今日は朝からかなり気温が上がっている。おそらく既に三十度はあるだろう。脱水症状にならないように気をつけなくてはいけない。
 4号線に出て、少し行くと、右手に鳥居が見えた。八幡神社で拝殿は新築中だ。狛犬2対が残されていて、銘は読めなかった。

 その少し先の左側に大きなトチの木があり、須賀神社があった。狛犬はなかった。


 さらに行き、小山市との境界近く、右手に黄色いヒマワリ畑を見つけた。噂に聞く通り、みんな東を向いていた。野木はヒマワリの町らしいが、見たのはこれが初めて。あちこちに分散してあるのか。見渡す限り一面というわけには行かないようだ。
 ヒマワリは見事で奇麗だが、それにしても暑い。

 風はない、でもヒマワリは揺れてるか

 小山市に入り、間々田宿に入る。左手に若宮八幡があり、狛犬はかなり小ぶりで明治十六年銘。横には大日如来があった。
 さらに間々田には乙女八幡宮、琴平神社、浅間神社、安房神社と神社の密度が高い。浅間神社は富士塚のようだが富士塚ではなく、古墳の上に立っている。

 芭蕉は『奥の細道』の旅のとき、春日部の次にこの間々田で一泊している。かなりのハイペースだが、日光街道のような大きな街道では馬に乗った可能性も大きい。



 間々田から古河へと向うが、そろそろ暑さがこたえてくる。三十五度はあるのではないかと思う。やっとのことで粟原(南)に来ると、西堀酒造の売店がある。お土産に地酒でも買って行こうと入ると、中は涼しい。酒の保存のためにかなり冷房が効いている。しばらく出たくなかったが、一応「門外不出」という酒を買って外に出た。暑い。
 粟宮で4号線と県道265号線とが分離していて、直進の256号線の方が日光街道の旧道になる。このY字路には横断歩道がない。
 その手前に安房神社がある。これが粟宮(あわのみや)の名の由来なのだろう。
 このあたりには長い参道の神社が多いが、ここもそうだった。参道は杉並木になっていて、いくらか涼しい。参道を行くと、左手の池の中に水神社があり、右手に安房神社がある。狛犬は二対、文政十一年銘の狛犬はなかなか状態がいい。もう一対の方は紀元二五九七年銘で、ということは昭和十二年ということか。


 粟宮を過ぎると小山の市街地に入る。十二時になり、そろそろ歩くのも限界に近い。小山天神の先のセブンイレブンでまた少し涼を取り、ゆっくり歩き始めると、左に鳥居が見える。小山須賀神社なのだが、例によって参道が長く、4号線を越えた所にあった。
 拝殿前に狛犬はなく、代わりに石の上に小さな牛の形を掘ったものがあった。左の方はまだ何とか牛に見えるが、左の方は恐竜化石の発掘現場のようだ。
 拝殿の左側の外へ出ると明治四十四年銘の狛犬があった。

 そういうわけで今日は小山駅でセーブ。駅ビルで冷やし中華を食べ、改札前で宇都宮餃子を買って帰った。
 途中埼玉を通る頃空が真っ暗になり激しい雨が降ってきて、荒川は増水してて、水がホームレスの家の近くにまで迫っていた。不謹慎だが蕪村の「大河を前に家二軒」の句が思い浮かんだ。
 東京に入ると雨は止んだ。
 この次は、芭蕉の道をたどるとなると、日光街道を離れ壬生道に入り、室の八島(大神神社)を経て東武線の壬生駅まで行かなくてはならない。もう少し涼しくなってからにした方が良さそうだ。
 ただ、こうした日帰り歩きの旅だと、どっちにしても日光までが限界になりそうだ。日光を出ると矢板まで駅がない。


 一 廿九日、辰ノ上尅ママダヲ出。

 一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。

 一 小山ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。

 一 此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウジャガシト云船ツキノ上ヘカカリ、室ノ八島ヘ行(乾ノ方五町バカリ)。スグニ壬生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。

 一 壬生ヨリ楡木ヘニリ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。

 一 にれ木ヨリ鹿沼ヘ一リ半。

 一 昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火バサミヘ弐リ八丁)ニ泊ル。(火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石ヘ弐リ。)

                   (『曾良旅日記』より)

9月23日

 道端には小枝や葉が散乱して、「茶を木の葉かく嵐かな」の状態で、まだ台風の爪跡が残る中、久々に「奥の細道」の旅の続きへと出発した。
 倒れた木が、とりあえず小さく切り分けられて積まれてたりもする。
 押上駅の乗り換えのことで懲りたので、前回からはちゃんとネットで乗換駅を検索してから行くことにした。
 渋谷を出たところで緊急停止したが、すぐに動き出し、赤羽駅での快速ラビットへの接続には問題がなかった。
 快速ラビットはさすがにラピード(rapid)で、本を読んでいる間にうさーっという感じで前回のセーブポイントの小山に着いた。
 ラビットというと、鉄道模型メーカーのアーノルド・ラピードがよく間違えてアーノルド・ラビットと言われてたのを思い出す。快速ラビットは英語だとrapid survice rabbitだから、駄洒落でつけたのだろうか。
 七時少し前に家を出て小山に着いたのは九時。今回はまず曾良が「旅日記」に記した「小山ノヤシキ、右ノ方ニ有」に向った。


  駅から真直ぐ旧日光街道を越えて国道4号に出ると、その向こうに小山市役所が見えて、その手前の広大な更地が小山御殿の跡地というのがあった。
 曾良は右の方と言ってたが、どう見ても街道の左側だ。と、ここの説明版をよく読むと、最後に「小山御殿は天和二年(一六八二)、古河藩によって解体されました」とあるから、芭蕉と曾良が通った元禄二年には既にここに小山御殿はなかったことになる。曾良は小山御殿が解体されたことを知らず、何か別の建物(本陣か何か)と間違えたのだろうか。
 旧日光街道に戻り、旅を再開する。すぐに左側に元須賀神社がある。今日最初の神社だ。

 その少し先の右側に愛宕神社がある。いかにも古そうな狛犬で吽形の方のあたまのってっぺんに穴があいている。天明三年の銘があった。早速大きな収穫となった。

 両毛線のガードを過ぎる頃からぽつぽつと雨が降り出した。そういえば小山の駅を降りた時にもちょっとぽつっと来ていた。ちょうどファミマがあったのでビニール傘を買った。


 その少し先の左側に日枝神社の参道入口がある。参道を行くと4号線の向こうにあった。この頃には雨が本格的になっていた。狛犬は二対、大正十五年銘と平成二年銘のものがあった。境内にはシートで覆われた土俵があった。

 秋雨に芭蕉の苦労知れとか也
 秋雨も三十五度よりまだましだ


 曾良の「旅日記」に「木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル」とある、日光街道と壬生道の分基点は、今では喜沢東の交差点になっていて、馬頭観音などの石塔があった。

 壬生道に入ると、左右に小山ゴルフクラブがあり、その敷地内に一里塚と古墳があった。ゴルフ場に古墳というと、昔読んだ豊田有恒の小説に、ゴルフに夢中になったプレイヤーが貴重な古墳を破壊しまくるという自虐ネタっぽいのがあったのを思い出した。
 やがて扶桑歩道橋に突き当たり、ここにも馬頭観音の石塔があった。


 左ヘ行くと姿側にかかる橋があり、この頃一時的に雨がやんだ。
 壬生道はここから姿川と思川にはさまれた所を行く。ふたたび雨が降り出す。
 やがて道の両側に家が並び、飯塚宿になる。台林寺と天満宮が並んでいたが、天満宮の方はかなり荒れていた。狛犬等はなかった。
 曾良の「旅日記」によると、「飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ」とあり、「ルアー・フライ」の看板があるところで十字路になっていたので、この辺からだろうかと思った。おそらく土地の人に聞いたら、室の八島へ行くんだったら、とにかく川に沿って行けばそのうち惣社河岸(そうじゃがし)の渡しがあるだべさ、って感じでざっくり言われたのであろう。そのため、どの道を通ったかは今では不明と言うしかない。

 ここで寄り道になるが、紫式部の墓とやらがあるというので右へ行ってみた。
 畑の中の道の向こうには雨だけど筑波山が見えた。先の方は杉木立になっていて、底に何やら東屋のようなものが見えた。


 近くに行くと「若紫亭」と書いてあり、源氏物語絵巻の大浦富子模写のものや、作中に登場する和歌などが書かれていた。
 その近くに紫式部の墓と呼ばれている石塔があった。結構大きく堂々としたものが3基、本当に墓なのかどうかもよくわからない。説明板によると、姿側沿いにあったものを明治初期にここに移し、この付近が紫という地名だったことから紫式部の墓と言われるようになったと「思われます」とのこと。
 まあ、本来日本と何のつながりもないのに「赤毛のアン」や「サンタクロース」のテーマパークが日本にあったりするのだから、この村にも「源氏物語」のファンがいて、よくわからない供養塔を紫式部の墓に見立てて、今でいう村おこしでもしようとしたとしてもおかしくはない。実際、この塔は「しもつけ風土記の丘」の一部として公園になっている。古墳や国分寺跡はともかくとして、万葉植物園や「防人の道」など、特に縁のないのに作ったりしている。

 今日はあいにくの雨で人がいなかったが、桜の季節にはそれなりに人が来るのだろうか。どっちにしても、トイレがあるのはありがたかった。


 来た道を戻り、「ルアー・フライ」の看板に戻ると、今度は逆方向に行き思川の川原を目指した。
 真直ぐな田んぼの中の一本道は、やがて土手のような所で突き当たった。川は見えなかったが、ここが思川の土手なのは間違いない。
 河川敷はおとといの台風のせいでかなり荒れていた。この道を芭蕉が通ったかどうかはしらないが、とにかくこの道を川沿いに進んだ。途中小さな社があった。
 だんだん道が細くなり、大光寺橋の近くに出た。川沿いの道はここまでで、橋を渡った。この頃には降ったり止んだりだった雨も完全に上がり、日が差してきた。
 反対側を川沿いに進もうとするが、道がわかりにくく、いったん川から離れたりしながらふたたび川沿いに出ると、川が氾濫したのではないかと思われるような、草がなぎ倒されている所に出た。
 グランドのあるあたりがおそらく芭蕉が川を渡った惣社河岸だろう。曾良の「旅日記」には、「ソウジャガシト云船ツキノ上ヘカカリ、室ノ八島ヘ行(乾ノ方五町バカリ)」とあり、ここから乾、つまり北東の方角に室の八島があるのだが、そこからグランドの脇を通る乾の方角の道はひどくぬかるんでいて靴がすっぽりめり込む。おそらく川が氾濫して、泥が運ばれてきたせいだろう。
 金森敦子の『芭蕉「おくのほそ道」の旅』(二〇〇四、角川oneテーマ21)では、寛政十二(一八〇〇)年に越谷から杉戸へ向った大江丸がぬかるみに難儀したことを書いていたのに、芭蕉も曾良も春日部の先で雨が降ったことは記しても難儀した様子がないのを不思議がっているが、その答はこれなのではないか。
 大勢の人が踏み固めた道は、本来ちょっとやそっとの雨ではそれほどひどくぬかることはないのだが、ひとたび川などの氾濫があると泥が運ばれて悲惨な状態になる。その差ではなかったか。
 とにかく乾の方角の道は通行困難ということで、ここから室の八島ヘ行くにはもと来た道を戻らなくてはならない。それと、最近建立されたという、惣社河岸の碑も見ておきたい。ふたたび大光寺橋の近くに戻りあのグランドの反対に出ると思われる道を探した。
 それらしい道を行くと、やがて突き当たりT字路になる。その付近がまたぬかるんでいる。幸い靴がめり込むほどではなかったので何とか右に行くと公衆トイレがあり、そこで靴を洗うことができた。


 そのすぐ先にはさっき見たグランドがあり、そこから先はぬかるんでいるのでさっきの道に間違いはない。
 このあたりに碑があるのだろうとうろうろしたが見つからず、「笠島やいづこ」とはこんな気持ちなのだろうか。

 しょうがなく乾の方向に歩き出すと、さっきのT字路のすぐ先にその碑があった。さっきは右に曲がったので背中になって気づかなかっただけだった。

 グランドから惣社河岸の碑を経て真直ぐ行くと益子醤油の本社に出る。残念ながら真直ぐ進む道はない。
 左ヘ行き広い道を横切り、突き当りを右へ行くと旧四ヶ村樋門再鑿碑があり、その少し先を左ヘ行く。すると室の八島入口の信号に出て、大きな通りを渡ると室の八島の大神神社の参道になる。
 参道は杉並木で、右側はすぐ道路になっているが左側は鬱蒼としている。芭蕉と曾良が屍僕化した猿や猪に襲われるはこのあたりか、ってそれは森晶麿の「奥ノ細道オブ・ザ・デッド」の方だった。
 室の八島の大神神社に来るのはこれが二度目。去年の五月四日に那須へ行った帰りにも立ち寄っている。あの時は車で来て、着いたのが夕方だった。


 今回はまだ三時ちょっと過ぎで、時間も早い。ただ、帰りの時間を考えると早々ゆっくりもしてられない。曾良の「旅日記」に「スグニ壬生ヘ出ル」とあるのを信じ、壬生へと向った。もちろん芭蕉の通った道はわからない。とりあえず大神神社を西の方に出て、少し行くと信号のあるところに出たので、そこを右に曲がった。
 少し行くと桜木神社があった。社殿は神社っぽくない普通の建物で、境内には今時珍しい公衆電話がある。狛犬はだいぶ磨耗してたが、あまり獅子っぽくなく犬に近いタイプ(お狐さんか?)で明治八年の銘があった。


 さらに東武船のガードをくぐって行くと保橋に出、思川を渡る。地図でみると西の方に癸生という地名があるが、曾良の「旅日記」に「毛武ト云村アリ」というのがこれらしい。芭蕉と曾良はここよりもう少し川上の方を通ったのか。癸生はケブと読むらしく、室の八島の煙(けぶり)に通じるので曾良があえてメモしておいたのだろう。
 川を渡ると壬生の町でとりあえず駅へと向う。静かな田舎の駅で、土産に地酒でもと思って駅前の商店街を歩いたが、スーパーもコンビニもない昔ながらの商店街が続き、どことなく昭和にタイムスリップしたような幻想的な町だ。
 酒も商店街の普通の酒屋で買った。土産用の小瓶がなく、大光寺橋の近くにある北関酒造の北冠純米酒の一升瓶を買った。日光連山伏流水仕込みと書いてあったが、室の八島の煙もこの伏流水と川の水との温度差から生じた湯気だったのか。
 さすがに壬生駅から帰るのは遠い。次はここからスタート。すぐにというわけにもいかないだろう。