「疇道や」の巻、解説

初表

   田野

 疇道や苗代時の角大師      正秀

   明れば霞む野鼠の顔     珍碩

 觜ぶとのわやくに鳴し春の空   珍碩

   かまゑおかしき門口の文字  正秀

 月影に利休の家を鼻に懸     正秀

   度々芋をもらはるるなり   珍碩

 

初裏

 虫は皆つづれつづれと鳴やらむ  正秀

   片足片足の木履たづぬる   珍碩

 誓文を百もたてたる別路に    正秀

   なみだばみけり供の侍    珍碩

 須磨はまた物不自由なる臺所   正秀

   狐の恐る弓かりにやる    珍碩

 月氷る師走の空の銀河      正秀

   無理に居たる膳も進まず   珍碩

 いらぬとて大脇指も打くれて   正秀

   独ある子も矮鶏に替ける   珍碩

 江戸酒を花咲度に恋しがり    正秀

   あいの山弾春の入逢     正秀

 

 

二表

 雲雀啼里は厩糞かき散し     珍碩

   火を吹て居る禅門の祖父   正秀

 本堂はまだ荒壁のはしら組    珍碩

   羅綾の袂しぼり給ひぬ    正秀

 歯を痛人の姿を絵に書て     珍碩

   薄雪たはむすすき痩たり   正秀

 藤垣の窓に紙燭を挟をき     珍碩

   口上果ぬいにざまの時宜   正秀

 たふとげに小判かぞふる革袴   珍碩

   秋入初る肥後の隈本     正秀

 幾日路も苫で月見る役者舩    珍碩

   寸布子ひとつ夜寒也けり   正秀

 

二裏

 沢山に兀め兀めと吃られて    珍碩

   呼ありけども猫は帰らず   正秀

 子規御小人町の雨あがり     珍碩

   やしほの楓木の芽萌立    正秀

 散花に雪踏挽づる音ありて    珍碩

   北野の馬場にもゆるかげろふ 正秀

 

       参考:『芭蕉七部集』(中村俊定注、岩波文庫、1966)

初表

発句

 

 疇道や苗代時の角大師      正秀

 

 角大師(つのだいし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 元三(がんざん)大師良源の画像。

  ② (元三大師のおそろしい容貌をかたどったものという) 二本の角のある黒い鬼の形をした絵や刷り物で、魔よけの護符としたもの。門口にはったり、害虫よけとして竹などにはさんで田のあぜに立てたりした。《季・新年》

 

  ※俳諧・続山の井(1667)春上「元三会の心を 守れ猶今年のうしの角大師〈正好〉」

  ③ (②の像の頭に似ているところから) 男児の髪の結い方。うなじと前後、左右の五か所を結んだもの。転じて、それを結うくらいの小児。」

 

とある。

 ここでは②の意味で、「苗代時の畦道に角大師や」の倒置になる。特に興行開始の挨拶の寓意はなさそうだ。

 正秀はウィキペディアに、

 

 「明暦3年(1657年)、近江国膳所に生まれ、代々正秀を名乗った。遠藤曰人が記した「蕉門諸生全傳」において「正秀は膳所の町人伊勢屋孫右衛門」と伝えているが、中村光久が編んだ「俳林小傳」では「膳所藩中物頭、曲翠の伯父なり」とある。正秀死去後編された正秀追悼集「水の友」の序文より考えれば、膳所藩内で相当重い地位を占めていたと考えられる。」

 

とある。武家なら正秀という「名乗り」があってもおかしくない。芭蕉も伊賀藤堂藩時代は宗房を名乗っていたように、江戸時代前期ではは俳号ではなく名乗りを使うことも多かったが、この時代となると少数派になる。

 

季語は「苗代時」で春。

 

 

   疇道や苗代時の角大師

 明れば霞む野鼠の顔       珍碩

 (疇道や苗代時の角大師明れば霞む野鼠の顔)

 

 春なので朝霞で受けるが、角大師も何のそのと野鼠が姿を現す。

 

季語は「霞む」で春、聳物。「野鼠」は獣類。

 

第三

 

   明れば霞む野鼠の顔

 觜ぶとのわやくに鳴し春の空   珍碩

 (觜ぶとのわやくに鳴し春の空明れば霞む野鼠の顔)

 

 「觜ぶと」はハシブトカラスのことか。野鼠を食べてくれる。「わやく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (形動) (「おうわく(枉惑)」の変化した語)

  ① 道理に合わないこと。無理を言ったりしたりすること。また、そのさま。無茶。非道。わわく。

  ※日葡辞書(1603‐04)「ワヤクモノ、または、Vayacuna(ワヤクナ) モノ」

  ※咄本・醒睡笑(1628)四「侍ほどの人料足なくは、くふまじきにてこそあらんめ。とかくわやくなり」

  ② 聞きわけがないこと。わがままであること。また、そのさま。

  ※歌舞伎・阿闍世太子倭姿(1694)一「わやくをおっしゃる時が有」

  ※寝耳鉄砲(1891)〈幸田露伴〉三〇「わやくも遠慮なしに仰せらるるものの」

  ③ 悪ふざけをすること。いたずらをすること。また、そのさま。

  ※評判記・色道大鏡(1678)五「又隣家・町内・遠類なとの内に、それしゃのわやくなるありて」

 

とある。傍若無人といったところか。空で野鼠がいたぞと鳴き交わしている。

 

季語は「春の空」で春。「觜ぶと」は鳥類。

 

四句目

 

   觜ぶとのわやくに鳴し春の空

 かまゑおかしき門口の文字    正秀

 (觜ぶとのわやくに鳴し春の空かまゑおかしき門口の文字)

 

 カラスがカアカアうるさい中、下界には一風変わった門構えの家があり、門に何か書いてある。

 

無季。

 

五句目

 

   かまゑおかしき門口の文字

 月影に利休の家を鼻に懸     正秀

 (月影に利休の家を鼻に懸かまゑおかしき門口の文字)

 

 変な門が建っていると思ったら、どの千家か知らないがその家柄を自慢する茶人の家だった。

 

季語は「月影」で秋、夜分、天象。

 

六句目

 

   月影に利休の家を鼻に懸

 度々芋をもらはるるなり     珍碩

 (月影に利休の家を鼻に懸度々芋をもらはるるなり)

 

 千家の茶人は芋が好物だったのだろう、名月に関係なく度々芋を貰っている。『徒然草』第六十段の芋頭の好きな盛親僧都が思い浮かぶ。

 

季語は「芋」で秋。

初裏

七句目

 

   度々芋をもらはるるなり

 虫は皆つづれつづれと鳴やらむ  正秀

 (虫は皆つづれつづれと鳴やらむ度々芋をもらはるるなり)

 

 ツヅレサセコオロギであろう。延宝九年の『俳諧次韻』の「世に有て」の巻八十句目にも、

 

   侘竈に蛬の音をしのぶ成ル

 足袋さす宿に風霜を待      桃青

 

の句がある。「足袋さす」は「蛬(こおろぎ)」の「綴れ刺せ(繕え)」から導いている。

 ツヅレサセコオロギの名の由来はウィキペディアに、

 

 「一見すると奇妙な名前であるが、これは「綴れ刺せ蟋蟀」の意である。これは、かつてコオロギの鳴き声を「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来する。」

 

とある。

 芋を貰ってとりあえず食べるものを確保したら、コオロギが「綴れ刺せ」と次は衣類を整えろという。

 

季語は「虫」で秋、虫類。

 

八句目

 

   虫は皆つづれつづれと鳴やらむ

 片足片足の木履たづぬる     珍碩

 (虫は皆つづれつづれと鳴やらむ片足片足の木履たづぬる)

 

 「片足」は「かたし」と読む。

 木履(ぼくり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 木製の履物。〔羅葡日辞書(1595)〕 〔貫休‐思匡山賈匡詩〕

  ② あしだ。高下駄。

  ※甲陽軍鑑(17C初)品四〇下「ぼくりはく人ぬぎたらば、あなたは草履をぬぎ」

  ③ =ぼっくり(木履)

  ※いさなとり(1891)〈幸田露伴〉一「天鵞絨の鼻緒ついたる木履(ボクリ)穿きつつ」

 

とある。服もボロボロで、虫に「綴れ」と言われ、下駄も片方がどこへ行ったか分からない。

 

無季。

 

九句目

 

   片足片足の木履たづぬる

 誓文を百もたてたる別路に    正秀

 (誓文を百もたてたる別路に片足片足の木履たづぬる)

 

 誓文はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 神にかけて誓約する文言。誓約のことばやそれを書きしるした文。誓詞。

  ※発心集(1216頃か)二「相真が弟子ども誓文(セイモン)をなむ書きてぞ送りたりける」

  ※天草本平家(1592)三「ヨリトモ カラ モ xeimon(セイモン) ヲモッテ」

  ② 相愛の男女が互いに心変わりしないことを誓ってとりかわす文書。多く遊女と客の間でかわされた起請文。誓詞。

  ※浮世草子・好色五人女(1686)五「背給ふまじとの御誓文(セイモン)のうへにて、とてもの事に二世迄の契」

  ③ (副詞的に用いて) 神に誓って、そのとおりであること。まちがいないこと。

  ※天理本狂言・遣子(室町末‐近世初)「たがひにちがへぬやうにせいもんでまいらうと云」

  ※浄瑠璃・女殺油地獄(1721)上「わしが心はせいもんかうじゃと、ひったりだきよせしみじみささやく色こそ見えね河与が悦喜」

 

とある。この場合は②で恋に転じる。

 百回も誓文を立てるのは誇張だとしても、軽すぎる。そういう軽々しいところが嫌われたのだろう。下駄も脱ぎ散らかしたままで、片方を探しながら店を出て行く。

 

無季。恋。

 

十句目

 

   誓文を百もたてたる別路に

 なみだばみけり供の侍      珍碩

 (誓文を百もたてたる別路になみだばみけり供の侍)

 

 ここでは逆に百回の誓文の甲斐もなくふられた男は、たいそうな身分だったのだろう。お伴の侍に同情される。

 

無季。恋。「侍」は人倫。

 

十一句目

 

   なみだばみけり供の侍

 須磨はまた物不自由なる臺所   正秀

 (須磨はまた物不自由なる臺所なみだばみけり供の侍)

 

 須磨は古代の配流の地で、『源氏物語』でも源氏の君は須磨で隠棲している。

 『源氏物語』の須磨巻では源氏の君が七弦琴を掻き鳴らして、

 

 恋ひわびてなくねにまがふ浦波は

     思ふかたよりかぜやふくらん

 

と歌うと、

 

 「人人おどろきて、めでたうおぼゆるに、しのばれで、あいなうおきゐつつ、はなを忍びやかにかみわたす。」

 (お仕えしている者たちもその見事な演奏と歌に感動しつつも悲しみを堪えきれず、そのまま起きてしばらくの間、涙に鼻をかんでいました。)

 

ということになる。

 ただ、ここでは武士の時代のこととして、台所に困るという所で落ちにする。台所は台所事情というように、金銭のやりくりを意味する。

 

無季。「須磨」は名所、水辺。

 

十二句目

 

   須磨はまた物不自由なる臺所

 狐の恐る弓かりにやる      珍碩

 (須磨はまた物不自由なる臺所狐の恐る弓かりにやる)

 

 「狐の恐る弓」は妖狐玉藻前が弓で仕留められたことによるものか。九尾の狐すら恐れる弓で狩に出て、食物の不足を補う。

 肉食は仏教の影響で戒められていたが、冬には薬食いと称してシカやイノシシを食べた、下層の者は犬を食うこともあったようだ。幕末の寺門静軒の『江戸繁盛記』では狐も売られていたという。

 

無季。「狐」は獣類。

 

十三句目

 

   狐の恐る弓かりにやる

 月氷る師走の空の銀河      正秀

 (月氷る師走の空の銀河狐の恐る弓かりにやる)

 

 師走の寒い夜は薬食いというわけだ。

 

季語は「月氷る」で冬、夜分、天象。「師走」も冬。「銀河」は天象。

 

十四句目

 

   月氷る師走の空の銀河

 無理に居たる膳も進まず     珍碩

 (月氷る師走の空の銀河無理に居たる膳も進まず)

 

 「居たる」は「すゑたる」。

 冬は寒暖差で体調不良に陥りがちで、なかなか食の進まぬまま夜も更けてゆく。

 

無季。

 

十五句目

 

   無理に居たる膳も進まず

 いらぬとて大脇指も打くれて   正秀

 (いらぬとて大脇指も打くれて無理に居たる膳も進まず)

 

 大脇指はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 刃わたりが一尺七寸(約五〇センチメートル)から一尺九寸(約六〇センチメートル)までの長大な脇差。江戸時代には、表向き大刀を差せない町人なども用いた。長脇差。

  ※甲陽軍鑑(17C初)品四七「被官も大脇指(ワキザシ)をぬき、ふりながらむこくにかけいづる」

 

とある。元禄三年六月で『猿蓑』に収録された「市中は」の巻六句目に、

 

   此筋は銀も見しらず不自由さよ

 ただとひやうしに長き脇指    去来

 

の句がある。

 突拍子もないほど長い脇指は、その筋の人と思われるが、普通の長脇指はかたぎの商人であろう。この頃体調もすぐれず、隠居を決意する。

 

無季。

 

十六句目

 

   いらぬとて大脇指も打くれて

 独ある子も矮鶏に替ける     珍碩

 (いらぬとて大脇指も打くれて独ある子も矮鶏に替ける)

 

 「矮鶏」はチャボ。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「鶏の小形品種の総称。尾羽が直立し、脚は短い。愛玩用。ウズラチャボ・カツラチャボ・ミノヒキチャボなど。名は原産地のインドシナのチャンパーにちなむ。天然記念物。

  [補説]「矮鶏」とも書く。」

 

とある。

 御隠居さんは息子の世話にならずにチャボを飼って暮らす。

 背後に愛玩動物としてのチャボの市場拡大があり、ブリーダーとして生計を立てるということか。

 

無季。「子」は人倫。「矮鶏」は鳥類。

 

十七句目

 

   独ある子も矮鶏に替ける

 江戸酒を花咲度に恋しがり    正秀

 (江戸酒を花咲度に恋しがり独ある子も矮鶏に替ける)

 

 関西では精米歩合の高い透き通った酒が主流で、江戸では精米歩合の低い黄色い酒が主流だったのだろう。チャボの飼育も江戸の方が盛んだったのか。

 

季語は「花咲」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   江戸酒を花咲度に恋しがり

 あいの山弾春の入逢       正秀

 (江戸酒を花咲度に恋しがりあいの山弾春の入逢)

 

 「あいの山」は『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)の中村注に、

 

 「間の山。伊勢内外宮の間の山。昔この地の乞食の歌い初めた相の山節のこと。」

 

とある。

 延宝六の「さぞな都」の巻の八十九句目にも、

 

   我等が為の守武菩提

 音楽の小弓三線あいの山     信徳

 

の句がある。ウィキペディアには、

 

 「伊勢参道筋の間の山でお杉、お玉という2人の女性が三味線を弾き、伊勢参りの人々に歌を歌い、銭を乞い求めた。「花は散りても春咲きて、鳥は古巣に帰れども、行きて帰らぬ死出の道。(相手)夕あしたの鐘の声、寂滅為楽と響けども、聞きて驚く人もなし」という哀調を帯びた歌詞が土地の民謡となり、また都でも流行した。「嬉遊笑覧」には、「今も浄瑠璃に加はりて、間の山といふ音節残れり」、「古市も間の山の内にて、間の山ぶしをうたひしものなるに、物あはれなる節なる故、いつの頃よりかうつりて、川崎音頭流行して、これを伊勢音頭と称し、都鄙ともに華巷のうたひものとなれり」とある。」

 

とあり、『校本芭蕉全集 第三巻』の注には、「ささら・胡弓・三味線と用いる」とある。『嬉遊笑覧』は喜多村信節著で文政十三年(一八三〇年)刊。百五十年後の情報。

 「花は散りても春咲きて、鳥は古巣に帰れども、行きて帰らぬ死出の道。」の歌詞を故郷の江戸を思いながらしみじみと唄う。

 

季語は「春」で春。

二表

十九句目

 

   あいの山弾春の入逢

 雲雀啼里は厩糞かき散し     珍碩

 (雲雀啼里は厩糞かき散しあいの山弾春の入逢)

 

 「厩糞」は「まやこえ」と読む。コトバンクでは「うまやごえ」とあるが、「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 家畜小屋の敷きわらと家畜の糞尿とを混ぜて腐らせてつくった肥料。

  ※耕稼春秋(1707)四「侍屋敷馬屋ごえは大形其百姓、又はぬかわら等入百姓取もの也」

 

とある。伊勢近郊のありふれた風景なのだろう。

 

季語は「雲雀」で春、鳥類。「里」は居所。

 

二十句目

 

   雲雀啼里は厩糞かき散し

 火を吹て居る禅門の祖父     正秀

 (雲雀啼里は厩糞かき散し火を吹て居る禅門の祖父)

 

 「祖父」はここでは「ぢぢ」と読む。「禅門」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 禅宗の法門。また、禅宗。

  ※観智院本唐大和上東征伝(779)「其父先就楊州大雲寺智満禅師受レ戒、学二禅門一」

  ② 禅定(ぜんじょう)の門にはいったものの意で、仏門にはいった男子をいう。在家(ざいけ)のままで、髪をそり、僧の姿となった居士(こじ)。入道(にゅうどう)。

  ※古事談(1212‐15頃)一「白川院礼部禅門事を、鳥羽院に令二語申一給云」

  ※浮世草子・好色一代女(1686)五「上長者町にさる御隠居のぜんもん様」 〔梁高僧伝〕

  ③ 乞食(こじき)をいう語。〔物類称呼(1775)〕」

 

とある。ここでは②の意味。自炊している。

 

無季。釈教。「祖父」は人倫。

 

二十一句目

 

   火を吹て居る禅門の祖父

 本堂はまだ荒壁のはしら組    珍碩

 (本堂はまだ荒壁のはしら組火を吹て居る禅門の祖父)

 

 前句の禅門を①の意味にして、本堂を立て直しているから、今は仮住まいで自炊しているとした。

 

無季。釈教。

 

二十二句目

 

   本堂はまだ荒壁のはしら組

 羅綾の袂しぼり給ひぬ      正秀

 (本堂はまだ荒壁のはしら組羅綾の袂しぼり給ひぬ)

 

 「羅綾(らりょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 うすぎぬとあやおり。また、上等の美しい衣服。

  ※玉造小町子壮衰書(10C後)「錦繍之服数満二蘭閨之裏一。羅綾之衣多余二桂殿之間一」

  ※謡曲・嵐山(1520頃)「神楽の鼓、声澄みて、羅綾の袂を飜し飜す」 〔劉峻‐登郁洲山望海詩〕」

 

とある。

 イメージとしては中国の後宮か仙女であろう。ここでは楊貴妃の仙境で涙する「玉容寂寞涙闌干 梨花一枝春帯雨」の場面であろう。その頃玄宗皇帝は仮の王宮で暮らしていた。

 

無季。「羅綾の袂」は衣裳。

 

二十三句目

 

   羅綾の袂しぼり給ひぬ

 歯を痛人の姿を絵に書て     珍碩

 (歯を痛人の姿を絵に書て羅綾の袂しぼり給ひぬ)

 

 「西施の顰(ひそみ)に倣う」からの発想であろう。美人なら歯を痛めて涙する姿も美しいと絵に描く。

 

無季。「人」は人倫。

 

二十四句目

 

   歯を痛人の姿を絵に書て

 薄雪たはむすすき痩たり     正秀

 (歯を痛人の姿を絵に書て薄雪たはむすすき痩たり)

 

 前句の「歯を痛(いたむ)人」を老人として、白髪あたまで歯の痛みにうずくまる姿が薄雪にたわむ薄のようだ。

 

季語は「薄雪」で冬、降物。「すすき」は植物、草類。

 

二十五句目

 

   薄雪たはむすすき痩たり

 藤垣の窓に紙燭を挟をき     珍碩

 (藤垣の窓に紙燭を挟をき薄雪たはむすすき痩たり)

 

 

 「藤垣の窓」は『芭蕉七部集』の中村注に、

 

 「藤蔓で竹や木を結び絡げた窓」とある。書院の窓であろう。外の雪景色を紙燭で照らして楽しむ。

 

無季。「紙燭」は夜分。

 

二十六句目

 

   藤垣の窓に紙燭を挟をき

 口上果ぬいにざまの時宜     正秀

 (藤垣の窓に紙燭を挟をき口上果ぬいにざまの時宜)

 

 立派な屋敷の玄関であろう。窓に紙燭を灯したまま客の退出するときの挨拶のやり取りが延々と続く。武家ではよくあることなのだろう。

 

無季。

 

二十七句目

 

   口上果ぬいにざまの時宜

 たふとげに小判かぞふる革袴   珍碩

 (たふとげに小判かぞふる革袴口上果ぬいにざまの時宜)

 

 革袴はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「なめした革でつくった袴。革は行縢(むかばき)をつくる材料であろう。上杉謙信(うえすぎけんしん)や織田信長の革の裁着(たっつけ)が現存しているので、戦国時代から盛んに利用されたことがわかる。後世はまたぎの狩猟用として用いられた。[遠藤 武]」

 

とある。日本皮革産業連合会のサイトの「皮革用語辞典」には、

 

 「江戸時代の中期頃から職人、労働用として庶民にも伊賀立付が使用されるようになり、一部が革ぱっち、革の伊賀はかまとして製作されるようになった。」

 

とある。伊賀の職人に何やら重要な仕事を依頼したのだろう。

 

無季。「革袴」は衣裳。

 

二十八句目

 

   たふとげに小判かぞふる革袴

 秋入初る肥後の隈本       正秀

 (たふとげに小判かぞふる革袴秋入初る肥後の隈本)

 

 肥後の穂増(ほまし)と呼ばれる米はウィキペディアに、

 

 「穂増(ほまし)は、イネ(稲)の品種の一つであり、江戸時代に栽培されていた古代米(こだいまい)である。熊本県で盛んに栽培された熊本在来種であり、江戸時代に熊本を中⼼に、九州⼀円で栽培され大阪堂島米会所で天下第一の米と称されていた。」

 

 「将軍の御供米(おくま、神仏に捧げるお米)にはこのお米が用いられ、大坂では千両役者や横綱へのお祝い米として「肥後米進上」という立札をつけて贈られていた。市場でひろく流通していた有名な米だったが、平民の間でも寿司米として⼤切に扱われ「肥後米に匹敵する米はない」と言われるほど、高い評価を受けていた。その後「西の肥後米、東の加賀米」と称されるようになり肥後米は、⽇本の米相場を左右するほど多くの人々に食べられるようになった。」

 

とある。元禄七年の「牛流す」の巻三十四句目に、

 

   吸物で座敷の客を立せたる

 肥後の相場を又聞てこい     芭蕉

 

の句があるように、肥後の米相場は全国の米相場を判断する意味で重要だったのだろう。

 前句の革袴を履いて馬で長いこと走ってきた武士とする。おそらく将軍家の使いであろう。肥後の穂増を買い付けに来た。

 

季語は「秋」で秋。

 

二十九句目

 

   秋入初る肥後の隈本

 幾日路も苫で月見る役者舩    珍碩

 (幾日路も苫で月見る役者舩秋入初る肥後の隈本)

 

 江戸や上方では常設の劇場があったが、地方では芝居というと田舎わたらいする旅芸人の集団によって担われていた。

 肥後熊本で興行ということになると、船に乗って何日もかけて移動したのだろう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。旅体。「役者舩」は水辺。

 

三十句目

 

   幾日路も苫で月見る役者舩

 寸布子ひとつ夜寒也けり     正秀

 (幾日路も苫で月見る役者舩寸布子ひとつ夜寒也けり)

 

 布子(ぬのこ)は木綿の綿入れ。防寒着ではあるが一枚だけでは寒い。

 

季語は「夜寒」で秋、夜分。「寸布子」は衣裳。

二裏

三十一句目

 

   寸布子ひとつ夜寒也けり

 沢山に兀め兀めと吃られて    珍碩

 (沢山に兀め兀めと吃られて寸布子ひとつ夜寒也けり)

 

 「沢山に」は『芭蕉七部集』の中村注に「えらそうに」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の、

 

 「③ 必要以上に多すぎること。転じて、大事にしないこと。また、そのさま。粗略。ぞんざい。

  ※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「竹の子を根引にしてたくさんにもてあつかう事、惜しき事ぢゃ」

 

の意味であろう。

 「兀め」は「はげめ」、「吃られて」は「しかられて」。

 丁稚だか下男だか、虐げられ、木綿の綿入れ一つで夜を過ごす。

 

無季。

 

三十二句目

 

   沢山に兀め兀めと吃られて

 呼ありけども猫は帰らず     正秀

 (沢山に兀め兀めと吃られて呼ありけども猫は帰らず)

 

 猫嫌いの夫がこれでもかと𠮟りつけて猫を追い出してしまったのだろう。嵐雪か。前句を「禿め」と取り成す。

 

無季。「猫」は獣類。

 

三十三句目

 

   呼ありけども猫は帰らず

 子規御小人町の雨あがり     珍碩

 (子規御小人町の雨あがり呼ありけども猫は帰らず)

 

 ウィキペディアの「五役」のところに、

 

 「五役(ごやく)は、江戸幕府における職制。御駕籠之者(おかごのもの)・御中間(おちゅうげん)・御小人(おこびと)・黒鍬之者(くろくわのもの)・御掃除之者(おそうじのもの)の5つの総称である。」

 

とあり、御小人(おこびと)については、

 

 「江戸城中の女中や奥役人が出入りする際の供奉や玄関・中之口などの警備、御使や物品の運搬などを職務とした者。単に小人とも呼ばれる。15俵1人扶持だが、三河以来の家柄18家の場合は35俵2人扶持や32俵1人扶持であった。総数は500名ほど[9]。将軍の装束御成りの際には、10数人が選ばれ、2人交替で御馬の口取りも行った。熨斗目に白張を着用し烏帽子を冠って、将軍の手筒や蓑箱などを持ち、亀井坊1人・馬験(うまじるし)5人・長刀7人・小道具20人・賄6人・草履方10人・日傘持1人が随行した。」

 

とある。

 この御小人(おこびと)の住んでいる町で、どこの城下町にもあったのだろう。江戸だと本郷に御小人町があった。荒くれ者の多そうな町だ。

 ホトトギスは雨あがりに鳴いても猫は帰ってこない。

 

季語は「子規」で夏、鳥類。「雨あがり」は降物。

 

三十四句目

 

   子規御小人町の雨あがり

 やしほの楓木の芽萌立      正秀

 (子規御小人町の雨あがりやしほの楓木の芽萌立)

 

 「やしほ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「幾度も染め汁に浸して、よく染めること。また、その染めた物。

  出典万葉集 二六二三

  「紅(くれなゐ)のやしほの衣」

  [訳] 紅色のよく染めた衣服。◆「や」は多い意、「しほ」は布を染め汁に浸す度数を表す接尾語。上代語。」

 

とある。

 ホトトギスも鳴く晩春、秋に真っ赤に染まる楓も今が春雨に芽吹く頃。

 

季語は「木の芽萌立」で春、植物、木類。「楓」も植物、木類。

 

三十五句目

 

   やしほの楓木の芽萌立

 散花に雪踏挽づる音ありて    珍碩

 (散花に雪踏挽づる音ありてやしほの楓木の芽萌立)

 

 雪駄はウィキペディアに、

 

 「諸説あるが、千利休が水を打った露地で履くためや、下駄では積雪時に歯の間に雪が詰まるため考案したとも、利休と交流のあった茶人丿貫の意匠によるものともいわれている。主に茶人や風流人が用いるものとされた。」

 

とある。

 花に楓と風流人の庭であろう。

 

季語は「散花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   散花に雪踏挽づる音ありて

 北野の馬場にもゆるかげろふ   正秀

 (散花に雪踏挽づる音ありて北野の馬場にもゆるかげろふ)

 

 北野天満宮の近くにあった右近の馬場で『伊勢物語』の第九十九段の舞台になっている。雪駄の音に、

 

 見ずもあらず見もせぬ人の恋しくは

     あやなく今日や眺め暮さん

 

の歌を詠んだ在原業平の幻を見て、一巻は目出度く終わる。

 

季語は「かげろふ」で春。「北野の馬場」は名所。