「忘るなよ」の巻、解説

羽黒より被贈

初表

   餞別

 忘なよ虹に蝉鳴山の雪      会覚

   杉のしげみをかへりみか月  芭蕉

 弦かくる弓筈を膝に押当て    不玉

   まへ振とれば能似合たり   不白

 ばらばらに食くふ家のむつかしく 釣雪

   漏もしどろに晴るる村さめ  主筆

 

初裏

 笠島を見による筈の馬かりて   己百

   入日かがやく藪のはりの木  不玉

 足うらの米をいただく里神楽   不玉

   むすめなぶれば襟をつくろふ 己百

 待宵に枕香炉のほのめきて    己百

   横川に月のはづる中ぞら   不玉

 降やめど傘はすぼめぬ秋しぐれ  不玉

   八朔ちかきふところの帳   己百

 薄縁の下に雪駄をはき込て    己百

   しばし多葉粉をとむる立願  不玉

 夜もすがら笈に花ちる夢心    己百

   河原おもてを渡る朝東風   不玉

 

二表

 立あがる鷺の雫の春日影     如行

   しもくにおろす搗鐘の錠   支考

 こき込の茶を干ちらす六月に   如行

   子の這かかる膳もちてのく  支考

 小屑灰に歯黒の皿を突すへて   如行

   いもくしの名を立るいさかひ 支考

 霙降庄司が門ンの唐居敷     如行

   水をしたむる蛤の銭     支考

 下帯の跡のみ白き裸身に     支考

   雲母坂より一のしにやる   如行

 末枯のクノ木に月の残りけり   如行

   あきやや寒き饅頭の湯気   支考

 

二裏

 日雀鳴篭の目ごとの物おもひ   支考

   木葉散しくのしぶきの屋根  如行

 何事をむすこ坊主のやつれけむ  如行

   ともし火のこる宵の庚申   支考

 初花に酒のかよひを借よせて   如行

   かすみはるかに背戸の撞部屋 支考

      参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

   餞別

 忘なよ虹に蝉鳴山の雪      会覚

 

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、

 

角川書店)だと、次に「忘るなよ(四句)」というのが載っている。

 曾良の『俳諧書留』だと、「温海山や」の巻のあと、象潟の句に戻って、そのあと

 

   羽黒より被贈

 忘るなよ虹に蝉鳴山の雪   会覚

 杉の茂りをかへり三ヶ月   芭蕉

 磯伝ひ手束の弓を提て    不玉

 汐に絶たる馬の足跡     曾良

 

 海川や藍風わかる袖の浦   曾良

 

とあって、そのあと直江津の「文月や」の巻になる。

 「温海山や」の巻が六月十九日日から二十一日で、象潟は六月十六日から十八日になる。それよりもさらに戻って六月十三日、羽黒山から最初に酒田に向かう時の『旅日記』にはこう記されている。

 

 「一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒ヨリ飛脚、旅行ノ帳面被調、被遣。又、ゆかた二ツ被贈。亦、発句共も被為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻ヨリ曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭ヘ音信、留守ニテ、明朝逢。」

 

とある。会覚の発句はこのときのものと思われる。ただ、この日には玄順(不玉)には会えなかったので、四吟はこの日ではない。

 この日は羽黒山南谷から最上川まで行き、船で最上川を下り酒田に行く。最上川に出るまでが五里、そこから酒田までが七里ということか。

 船出のときに羽黒山から飛脚が来て浴衣二着と発句が贈られてくる。何で浴衣がというところだが、このあたりには温泉が多いからだろうか。

 この翌日の『旅日記』にはこうある。

 

 「○十四日 寺島彦助亭ヘ被招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。」

 

 このときの「俳」は

 

 凉しさや海に入たる最上川   芭蕉

 

を発句とする。この興行に不玉も参加しているから、無事に会えたのであろう。

 翌十五日には象潟へ向うが、このときにも不玉は同行し、

 

 象潟や汐焼跡は蚊のけふり   不玉

 

の句を詠んでいる。残念ながら『奥の細道』には入らなかった。

 象潟から酒田に帰ると、「温海山や」の巻を三日かけて巻くことになる。

 十八日に象潟から酒田に戻る。曾良の『旅日記』には、

 

 「十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。」

 

とある。「橋迄」は象潟橋(欄干橋)でここから鳥海山が見える。帰りは船に乗ったのだろう。「アイ風」は岩波文庫の『芭蕉おくのほそ道』の注に、

 

 「藍風。『北国にては東風をあゆの風といふ』(物類呼称)。」

 

とある。

 

 海川や藍風わかる袖の浦   曾良

 

の句はこの時のものだろうか。

 ここでふと思うのは、淇水編『俳諧袖の浦』(明和三年刊)に「この巻の初め半折ばかりは、袖の浦に舟を浮かべての吟」とあるのは、前日の象潟からの帰りのときの船旅と混同されてた可能性がある。この時の温海山から吹浦にかけての眺望をもとに、翌日の興行が成されたのではなかったか。

 むしろ、この船旅のときの吟は、あの四句だった可能性がある。

 

 忘るなよ虹に蝉鳴山の雪   会覚

 

 山の雪は月山の山頂付近のもので、『奥の細道』にも「氷雪を踏てのぼる事八里」とあるし、南谷でも「雪をかほらす」と詠んでいる。

 滞在中に虹が出たこともあったのだろう。曾良の『旅日記』には「五日 朝ノ間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。」とあるし、月山や湯殿山を廻った時は晴れていたが、八日にはまた「朝ノ間小雨ス。昼時ヨリ晴」とあるし、十一日、十二日にも村雨が降っている。

 まあ、この楽しかった時のことをどうか忘れないでいてください、ということなのだろう。

 

季語は「蝉」で夏、虫類。「山」は山類。

 

 

   忘るなよ虹に蝉鳴山の雪

 杉の茂りをかへり三ヶ月   芭蕉

 (忘るなよ虹に蝉鳴山の雪杉の茂りをかへり三ヶ月)

 

 会覚の発句に芭蕉が和す。

 「蝉鳴く山」に「杉の茂り」と応じ、かえり見ると三日月を掛けて、あの杉の山の上に見た三日月のことは今でも忘れませんと答える。

 このあと、曾良の『俳諧書留』の四句だと、

 

   杉の茂りをかへり三ヶ月

 磯伝ひ手束の弓を提て    不玉

 

という第三が付く。

 「手束(たつか)弓」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「手に握り持つ弓。たつかの弓。

 ※万葉(8C後)一九・四二五七「手束弓(たつかゆみ)手に取り持ちて朝狩に君は立たしぬたなくらの野に」

 ※散木奇歌集(1128頃)恋下「つくつくと思ひたむればたつかゆみかへる恨みをつるはへてする」

 

とある。「提て」は「ひっさげて」と読む。いにしえの狩人に思いを馳せて、いつしか日も暮れ三日月をかえりみるとする。

 そして曾良の『俳諧書留』の四句目。

 

   磯伝ひ手束の弓を提て

 汐に絶たる馬の足跡     曾良

 

 砂浜だけに狩人の乗る馬の足跡は波が消してゆく。

 この四句は芭蕉と曾良が去った跡、不玉の手によって第三から先が作り直され一の懐紙が満たされ、それに更に後になってから支考と如行が二の懐紙を両吟で仕上げ、歌仙一巻となる。

 「忘るなよ」の巻は四つに分けられる。

 一つは会覚の発句と芭蕉の脇。芭蕉の脇は芭蕉が羽黒山南谷を発ち、酒田へ行きそれから象潟へ行き再び坂田に戻ってくる間に詠まれている。

 二つ目はこの発句と脇に、不玉が曾良の『俳諧書留』にあるのと違う第三を付け、不白、釣雪、主筆が句を付けて成立した表六句。

 三つ目は己百と不玉の両吟による初裏。

 四つ目は如行と支考の両吟による二の表裏。

 脇は「杉の茂り」が「杉のしげみ」になっているが、おそらくは間違いか記憶違いだろう。曾良の『俳諧書留』の「杉の茂り」が正しいと思う。

 第三は作り直されている。このせいで曾良の四句目がなくなってしまった。

 

季語は「杉の茂り」で夏、植物(木類)。「みか月」は夜分、天象。

 

第三

 

   杉のしげみをかへりみか月

 弦かくる弓筈を膝に押当て    不玉

 (弦かくる弓筈を膝に押当て杉の茂りをかへり三ヶ月)

 

 弓筈(ゆはず)は弓の両端の弦をかけるところ。「弦かくる弓筈」はそのまんまで弓筈の説明してしまっている。

 弓筈を膝に押し当てる仕草は「胴造り」と呼ばれる動作で、玉川学園の弓道部のホームページにある「全日本弓道連盟、弓道教本第一巻より抜粋」には、

 

 「胴造りは、足踏みを基礎として両脚の上に上体を正しく安静におき、腰をすえ、左右の肩を沈め、背柱および項(うなじ)を真直ぐに伸 ばし、総体の重心を腰の中央におき、心気を丹田におさめる動作である。

 この場合、弓の本弭は左膝頭におき、右手は右腰の辺にとる。 以上の動作と配置によって全身の均整を整え、縦は天地に伸び、横 は左右に自由に働けるような、やわらかい且つ隙のない体の構えを作るとともに気息をととのえることが肝要である。

 こうした鎮静的な動作は、つぎの活動的な動作へ移る前提であり、 胴造りは終始行射の根幹となり、射の良否を決定する。 胴造りは、外形的には一見きわめて単純な動作のようにみえるが、 内的にはまことに重要なものである。」

 

とある。

 句はただ弓道の動作を言うだけで、前の「磯伝ひ」の第三のほうが良かったように思える。芭蕉の指導がない分だけ後退した感じがする。

 

無季。

 

四句目

 

   弦かくる弓筈を膝に押当て

 まへ振とれば能似合たり   不白

 (弦かくる弓筈を膝に押当てまへ振とれば能似合たり)

 

 不白は名前からすると不玉の弟子のようだがよくわからない。曾良の『旅日記』の六月二十五日の所に、

 

 「廿五日 吉。酒田立。船橋迄被送。袖ノ浦向也。不玉父子・徳左・四良右・不白・近江や三郎兵・かがや藤右・宮部弥三郎等也。」

 

とある。

 「まへ振(ぶり)」は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注に、

 

 「魚網を打ったり曳いたりする際に腰に着ける藁・棕櫚などで作った前垂れ」

 

とある。

 コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「元服前の少年の、前髪をつけた姿。 「あつたら-を惜しきは常の人こころ/浮世草子・武道伝来記 8」

 

とある。

 この場合は「とれば」とあるから前垂れのことか。

 漁師に身を落としてはいるが、元は立派な武士だったということか。

 

無季。「まへ振」は衣裳。

 

五句目

 

   まへ振とれば能似合たり

 ばらばらに食くふ家のむつかしく 釣雪

 (ばらばらに食くふ家のむつかしくまへ振とれば能似合たり)

 

 釣雪は『校本芭蕉全集 第四巻』の注に「京都の僧」とある。羽黒山本坊での「有難や雪をかほらす風の音 芭蕉」の発句による興行に参加している。

 「食くふ」は「めしくふ」と読む。

 前句との関係が分かりにくいが、食事の時間がみんな違っていたりすると、確かに面倒くさい。漁師の家ではありがちなのか。今ではどこの家でも普通だが。

 

無季。「家」は居所。

 

六句目

 

   ばらばらに食くふ家のむつかしく

 漏もしどろに晴るる村さめ   主筆

 (ばらばらに食くふ家のむつかしく漏もしどろに晴るる村さめ)

 

 家族がばらばらというなのではなく、ばらばらと雨漏りのする貧しい家としたか。

 

無季。「村さめ」は降物。

初裏

七句目

 

   漏もしどろに晴るる村さめ

 笠島を見による筈の馬かりて   己百

 (笠島を見による筈の馬かりて漏もしどろに晴るる村さめ)

 

 さて、初裏は己百と不玉の両吟になる。己百(きはく)は美濃の人。weblio辞書の「芭蕉関係人名集」に、

 

 「岐阜の日蓮宗妙照寺住職日賢和尚。貞亨五年の笈の小文の旅中に芭蕉を京都に訪ねて入門。「しるべして見せばや美濃の田植え歌」という句で芭蕉を誘って美濃に案内したことで有名。『あら野』・『花摘』・『其袋』などに入句。」

 

とある。貞享五年六月十九日興行の「蓮池の」の五十韻に参加している。

 

   かし立岨の風のよめふり

 古寺の瓦葺たる軒あれて     己百

   みどりなる朴の木末の蝉の声

 弁当あらふ清水なりけり     同

   籬の月にくるま忍ばせ

 この里に籾するおとのさらさらと 同

 

の三句を詠んでいる。その己百から。

 これは、

 

 笠島はいづこさ月のぬかり道   芭蕉

 

の句を知ってたのだろうか。曾良の『俳諧書留』に、

 

   泉や甚兵はに遺スの発句・前書。

   中将実方の塚の薄も、道より一里ばかり

   左りの方にといへど、雨ふり、日も暮に

   及侍れば、わりなく見過しけるに、笠島

   といふ所にといづるも、五月雨の折にふ

   れければ

 笠島やいづこ五月のぬかり道   翁

 

とある。この句は既に出来ていたので、芭蕉か曾良から聞いた可能性はある。

 中将実方は任地に赴く途中、この笠島の道祖神の前を通るとき、馬から降りて拝んで行くこともなしに、そのまま馬に乗って通り過ぎようとしたところ、社の前でばたっと馬が倒れて実方は転がり落ちて死んだという。

 馬から降りずに通り過ぎるのではなく、わざわざ笠島の道祖神を見に行くくらいの信仰があるなら、村雨も晴れてくれることだろう。芭蕉は雨の中結局たどり着けなかったが。

 

無季。「笠島」は名所。「馬」は獣類。

 

八句目

 

   笠島を見による筈の馬かりて

 入日かがやく藪のはりの木    不玉

 (笠島を見による筈の馬かりて入日かがやく藪のはりの木)

 

 打越の「晴るる村さめ」とやや被っている感じがする。「はりの木」は榛(はん)の木のこと。湿地に森林を形成する。

 

無季。「入日」は天象。「はりの木」は植物(木類)。

 

九句目

 

   入日かがやく藪のはりの木

 足うらの米をいただく里神楽   不玉

 (足うらの米をいただく里神楽入日かがやく藪のはりの木)

 

 神事では邪気を払うために散米を行う。それが足の裏にくっ付くので、ありがたく頂戴する事にする。

 

季語は「里神楽」で冬。神祇。

 

十句目

 

   足うらの米をいただく里神楽

 むすめなぶれば襟をつくろふ   己百

 (足うらの米をいただく里神楽むすめなぶれば襟をつくろふ)

 

 「なぶる」は今日で言えば「いじる」ということか。一種のイジメだが暴力的ではなく、周囲を笑わせるためにやることが多い。ただ、何事も行き過ぎはいけない。

 里神楽に集まった娘達が誰かをいじってはしゃいでる姿だろう。ふと我に返って乱れた襟を整える。

 羽目はずしたあとはきちんと襟を正すということか。

 

無季。「娘」は人倫。「襟」は衣裳。

 

十一句目

 

   むすめなぶれば襟をつくろふ

 待宵に枕香炉のほのめきて    己百

 (待宵に枕香炉のほのめきてむすめなぶれば襟をつくろふ)

 

 「枕香炉」は「香枕」とも「伽羅枕」ともいうい。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の「香枕」には、

 

 「枕の中に香をたく仕掛けのあるもの。多く、表面に蒔絵(まきえ)を施す。香の枕。きゃら枕。こうちん。」

 

とあり、同じく「伽羅枕」のところには「遊女などが用いた」とある。

 遊女が香をたいて客を待つ間、女同士で誰かをいじっては笑ったりしていたのだろう。「待宵」で月呼び出しになる。

 

無季。

 

十二句目

 

   待宵に枕香炉のほのめきて

 横川に月のはづる中ぞら     不玉

 (待宵に枕香炉のほのめきて横川に月のはづる中ぞら)

 

 「横川(よかわ)」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「滋賀県大津市坂本本町にある比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の三塔の一つ。第3代天台座主(てんだいざす)円仁(えんにん)が横川を開き、根本如法(こんぽんにょほう)塔を中心に諸堂が建てられた。967年(康保4)横川に住房をもつ良源(りょうげん)(慈慧(じえ)大師)が座主となると、横川は繁栄し、台密(たいみつ)の覚超(かくちょう)の系統が川流(かわりゅう)として栄えた。恵心僧都(えしんそうず)源信(げんしん)(942―1017)は横川恵心院に住して浄土教を鼓吹し、恵心流の祖とされる。道元や日蓮(にちれん)も横川で学問修行した。未来の弥勒菩薩(みろくぼさつ)下生(げしょう)の地という信仰も生まれた。[田村晃祐]」

 

とある。

 横川は延暦寺の中央からやや外れた場所にあるが、数々の名僧を輩出した場所でもある。

 前句の枕香炉をお寺で焚く香のこととし、中央よりやや外れた場所だが真如の月の輝く場所として「横川」を付けている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

十三句目

 

   横川に月のはづる中ぞら

 降やめど傘はすぼめぬ秋しぐれ  不玉

 (降やめど傘はすぼめぬ秋しぐれ横川に月のはづる中ぞら)

 

 時雨は和歌では秋にも冬にも詠むもので、秋の場合は紅葉を染める時雨になる。時雨の上がった後の月は冬に詠む場合が多い。ただ、ここでは月が出た後なので、あと二句秋の句を続けなくてはいけない。

 

季語は「秋しぐれ」で秋、降物。

 

十四句目

 

   降やめど傘はすぼめぬ秋しぐれ

 八朔ちかきふところの帳     己百

 (降やめど傘はすぼめぬ秋しぐれ八朔ちかきふところの帳)

 

 八朔は旧暦八月一日のことで、日頃お世話になっている人に贈り物をする習慣があった。ただ、「八朔ちかき」だとまだ八月になってないから七月初秋で時雨の季節ではない。

 昔は正月とお盆の前に決算で、それまで通い帳で購入してきた代金をまとめて支払ったが、「八朔ちかき」だとそれを過ぎて新しい帳面になってということだが、贈り物の買い物もしなくてはいけないし、というところだ。

 

季語は「八朔」で秋。

 

十五句目

 

   八朔ちかきふところの帳

 薄縁の下に雪駄をはき込て    己百

 (薄縁の下に雪駄をはき込て八朔ちかきふところの帳)

 

 「薄縁(うすべり)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「藺草(いぐさ)で織った筵むしろに布の縁をつけた敷物。」

 

とある。「はき込」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「あらたまったよそ行きの履物や目立つ履物などをはく。

 ※俳諧・継尾集(1692)四「八朔ちかきふところの帳〈己百〉 薄縁の下に雪踏をはき込て〈同〉」

 

とある。

 八朔の頃はまだ暑い季節で、部屋には茣蓙が敷いてあったりする。雪駄は風流人に好まれたと言うから、「八朔ちかき」とはいいながら、八朔の挨拶回りの句にしてしまったか。

 

無季。「雪駄」は衣裳。

 

十六句目

 

   薄縁の下に雪駄をはき込て

 しばし多葉粉をとむる立願    不玉

 (薄縁の下に雪駄をはき込てしばし多葉粉をとむる立願)

 

 立願は願掛けのこと。雪駄を履いて出かけた先は神社かお寺か。願掛けの時には何か好きなものを絶ったりする。タバコが好きだったのだろう。

 

無季。神祇。

 

十七句目

 

   しばし多葉粉をとむる立願

 夜もすがら笈に花ちる夢心    己百

 (夜もすがら笈に花ちる夢心しばし多葉粉をとむる立願)

 

 夜の立願というとお百度参りだろうか。夜もすがら何度も何度も繰返しお参りしてると、いつしかランナーズハイのような状態になるのかもしれない。まして桜の季節ならなおさらだ。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「夜もすがら」は夜分。

 

十八句目

 

   夜もすがら笈に花ちる夢心

 河原おもてを渡る朝東風     不玉

 (夜もすがら笈に花ちる夢心河原おもてを渡る朝東風)

 

 前句を旅人の笈としたか。河原で一夜を過ごし、花の散る夢を見ているといつの間に朝が来ていて、朝の春風が吹いていた。

 このあたりの句は、どこか言い足りないことが多くて面白さが伝わりにくい。

 八朔にどういう物語があったのか、何の願掛けをしたのか、旅人の花散る夢心にどういう思いが込められていたのか、そのあたりの深みにまで切り込むことが出来ず、表面をさーっと撫でるだけになってしまっている。

 古典の出典をはずしていることから、『奥の細道』の頃より後の、これから見る如行と支考の両吟の詠まれた元禄五年のほうに近いのかもしれない。

 

季語は「東風」で春。「河原」は水辺。

二表

十九句目

 

   河原おもてを渡る朝東風

 立あがる鷺の雫の春日影     如行

 (立あがる鷺の雫の春日影河原おもてを渡る朝東風)

 

 水鳥の鷺だから立ち上がる時に雫が滴るというのだが、そんな細かい所が本当に見えるのかどうかはわからない。ただ、それに春の日が当たってきらきら光れば幻想的な光景と言えよう。

 「牛流す」の巻の十八句目に、

 

    道もなき畠の岨の花ざかり

 半夏を雉子のむしる明ぼの    支考

 

の句のように、雉が蛇と間違えて毒草のカラスビシャクをついばむなどという、「いや、実際にはないだろう」と思わせる辺りで面白く付けるのは支考流なのかもしれない。

 河原に鷺、東風に春日、よく付いている。

 

季語は「春日影」で春。「鷺」は鳥類、水辺。

 

二十句目

 

   立あがる鷺の雫の春日影

 しもくにおろす搗鐘の錠     支考

 (立あがる鷺の雫の春日影しもくにおろす搗鐘の錠)

 

 「しもく」は撞木(しゅもく)のこと。鐘を突く丁字形の棒でハンマーに似ている。シュモクザメ(ハンマーヘッド・シャーク)の名はこの撞木から来ている。撞木を使うのはお寺でも外にある大きな鐘ではなく、お寺の中で伝達に用いる半鐘の方であろう。

 勝手に鐘を搗く人のいないように撞木に鍵をかけることもあったか。支考のことだから、「あるある」かどうかはわからない。

 むしろ、多分前句の鷺を驚かせないために半鐘を自粛して錠をおろすというふうに作っているのではないかと思われる。

 

無季。

 

二十一句目

 

   しもくにおろす搗鐘の錠

 こき込の茶を干ちらす六月に   如行

 (こき込の茶を干ちらす六月にしもくにおろす搗鐘の錠)

 

 茶を「こく」というのは「挽く」ということ。

 抹茶を作る場合、収穫した葉をすぐに蒸して乾燥させ不要なものを取り除いて「碾茶(てんちゃ)」を作る。これを茶臼で挽くと抹茶になる。「こき込の茶を干ちらす」というのはこの乾燥過程のことだろう。

 元禄の頃は煎茶の前身に当たる唐茶も流行したが、抹茶も広く飲まれていた。

 このまえNHKの「やまと尼寺 精進日記」で作って飲んでいた茶は唐茶の系譜を引くものだろう。

 干した茶をひろげているので、法事もお休みで半鐘は叩かないということか。

 

季語は「六月」で夏。

 

二十二句目

 

   こき込の茶を干ちらす六月に

 子の這かかる膳もちてのく    支考

 (こき込の茶を干ちらす六月に子の這かかる膳もちてのく)

 

 赤ちゃんが這い這いして干している碾茶を散らしたり食べたりしては困るから、膳に乗せて片付ける。これはありそうだ。

 

無季。「子」は人倫。

 

二十三句目

 

   子の這かかる膳もちてのく

 小屑灰に歯黒の皿を突すへて   如行

 (小屑灰に歯黒の皿を突すへて子の這かかる膳もちてのく)

 

 赤ちゃんが食事のお膳をひっくり返しそうだったので、あわてて鉄漿(おはぐろ)の入っている鉄漿杯(かねつき)を小屑灰(こずばい)の上に置いて膳を移動させる。

 

無季。

 

二十四句目

 

   小屑灰に歯黒の皿を突すへて

 いもくしの名を立るいさかひ   支考

 (小屑灰に歯黒の皿を突すへていもくしの名を立るいさかひ)

 

 「いもくし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「いも」は天然痘、また、その治った跡。「くし」も同意という) あばた。

 ※俳諧・継尾集(1692)四「小屑灰(コズばひ)に歯黒の皿を突すへて〈如行〉 いもくしの名を立るいさかひ〈支考〉」

 

とある。

 鉄漿杯(かねつき)を乱暴に小屑灰(こずばい)の上に置く場面を、いさかいの場面とする。

 顔にあばたがあるなんて噂を流されたら、そりゃ怒る。

 

無季。恋。

 

二十五句目

 

   いもくしの名を立るいさかひ

 霙降庄司が門ンの唐居敷     如行

 (霙降庄司が門ンの唐居敷いもくしの名を立るいさかひ)

 

 「庄司」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 荘園領主から任命され、荘園を管理し、荘園内の一切の雑務をつかさどった役人。荘官。荘のつかさ。」

 

とある。

 「唐居敷」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「門の下部にあって門柱を受け、また扉の軸受けとなる厚板。石材で作ることもある。」

 

とある。

 これは「いもくし」を導き出す序詞のように付けたか。「からいしき」「いもくし」、そんなには似てないが語呂は良い。

 天然痘の流行の評判が立ったとなれば庄司としても問題だろう。

 

季語は「霰」で冬、降物。

 

二十六句目

 

   霙降庄司が門ンの唐居敷

 水をしたむる蛤の銭       支考

 (霙降庄司が門ンの唐居敷水をしたむる蛤の銭)

 

 これは御伽草子の「蛤の草紙」であろう。コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 

 「御伽草子。渋川版の一つ。天竺摩訶陀(てんじくまかだ)国の〈しじら〉は釣りをして母を養っていたが,ある日美しい蛤を一つ釣りあげた。それは船の中でにわかに大きくなり,二つに開いて,中から17~18歳の容顔美麗な女房が現れる。40歳になるまで女房を持たないのも母へ孝養を尽くすためと言い訳する〈しじら〉を説きふせて,女房と〈しじら〉とは夫婦になる。女が麻と錘(つむ)と〈てがい〉を求めて紡ぎ,機(はた)を求めて織りはじめると,見知らぬ者が2人来て,ともに織るのを手伝う。」

 

とある。鶴の恩返しにも通じる話だが、この織物が銭になる。

 

無季。「蛤」は水辺。

 

二十七句目

 

   水をしたむる蛤の銭

 下帯の跡のみ白き裸身に     支考

 (下帯の跡のみ白き裸身に水をしたむる蛤の銭)

 

 ここから二句づつ詠むようになる。

 前句を蛤を採る海人とする。

 「下帯」は男性の褌と女性の腰巻の両方の意味がある。どちらでもいいのだが、男としては海女にしておきたいところだ。

 江戸後期の浮世絵には赤い腰巻の海女がしばしば描かれている。肌の色を白く描いているが実際の海女は真っ黒に日焼けしていたと思われる。

 もちろん男の褌の跡としてもいい。趣味の問題というとLGBT団体に怒られるかな。

 

無季。「下帯」は衣裳。

 

二十八句目

 

   下帯の跡のみ白き裸身に

 雲母坂より一のしにやる     如行

 (下帯の跡のみ白き裸身に雲母坂より一のしにやる)

 

 雲母坂(きららざか)は比叡山山頂に続く古道。「一のし」はこの古道の起点の一乗寺のことか。「乗せる」に掛けて用いてるのだろう。

 このあたりは女人禁制だったから、前句を褌姿の駕籠かきとしたか。

 

無季。

 

二十九句目

 

   雲母坂より一のしにやる

 末枯のクノ木に月の残りけり   如行

 (末枯のクノ木に月の残りけり雲母坂より一のしにやる)

 

 クヌギは葉が枯れても落葉せずに残る。

 月が沈んだのかと思ったら、クヌギの木の陰に隠れてただけでまだ残っていた。

 前句を単なる場所の設定にして流している。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「クノ木」は植物(木類)。

 

三十句目

 

   末枯のクノ木に月の残りけり

 あきやや寒き饅頭の湯気     支考

 (末枯のクノ木に月の残りけりあきやや寒き饅頭の湯気)

 

 日本の饅頭は、一三四九年に来日した林浄因が伝えたものとされている。その後、奈良で饅頭が作られるようになった。古今集の奈良伝授を受けた林宗二もその子孫だという。

 中国では饅頭はパンのような存在だし、韓国では餃子のことも饅頭と呼ぶが、日本では饅頭は食事ではなくスイーツとして広まった。各地に名物の饅頭ができたのもこの頃だった。

 まだ月の残る朝早くから、街道や門前の町では饅頭を蒸す湯気が垂れ込めてたりしたのだろう。

 

季語は「あき」で秋。

二裏

三十一句目

 

   あきやや寒き饅頭の湯気

 日雀鳴篭の目ごとの物おもひ   支考

 (日雀鳴篭の目ごとの物おもひあきやや寒き饅頭の湯気)

 

 「日雀(ひがら)」はシジュウカラの仲間でコガラよりも小さい。秋の季語になっている。

 篭の鳥は自由のない遊女や妾などの象徴としても用いられる。見世の格子窓の向こう見える遊女達の物憂げな姿が浮かんでくる。まあ、とにかくそんな楽しい仕事なんかじゃないからね。

 篭目(かごめ)は一方では易で言う地天泰で、陽気の上昇を示す上向きの三角と陰気の降下を示す下向きの三角とが交わる陰陽和合の相を表わす目出度いものだったが、篭の鳥というネガティブの面との両面を持っていた。

 まあ、遊女でなくても、婚姻もまた陰陽和合、鶴と亀のお目出度さと裏腹に、女性が家の中に閉じ込められ、苗字や姓をつけて呼ばれることすらなかった。夫婦同姓は西洋文明による一つの開放であって、残念ながら日本の伝統ではなかった。

 

季語は「日雀」で秋、鳥類。恋。

 

三十二句目

 

   日雀鳴篭の目ごとの物おもひ

 木葉散しくのしぶきの屋根    如行

 (日雀鳴篭の目ごとの物おもひ木葉散しくのしぶきの屋根)

 

 「のしぶき」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「①  檜皮ひわだ葺きで、檜ひのきの皮を、葺き足を短く厚く葺いたもの。

  ②  葺き板を重ねて釘で打ち留めた屋根。」

 

とある。遊郭の屋根がどちらなのかはよくわからない。ただ、①の意味だと神社やお寺へ展開できるので、それを見越してのことか。

 

季語は「木葉散しく」で冬。

 

三十三句目

 

   木葉散しくのしぶきの屋根

 何事をむすこ坊主のやつれけむ  如行

 (何事をむすこ坊主のやつれけむ木葉散しくのしぶきの屋根)

 

 やはりというかお寺のこととして坊主を登場させた。両吟で二句続けて詠む場合は、こういうふうに次の句を考えて展開できる。

 木の葉散る桧皮葺のお寺でいかにも寂しげだが、一体どんな世俗の憂きことを抱えてやつれてしまったのか。

 まあ、若いうちなら都会に出て遊んでみたいし、恋もしてみたいということか。

 

無季。「むすこ坊主」は人倫。

 

三十四句目

 

   何事をむすこ坊主のやつれけむ

 ともし火のこる宵の庚申     支考

 (何事をむすこ坊主のやつれけむともし火のこる宵の庚申)

 

 庚申待ちをその原因とする。庚申待ちはコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「庚申(かのえさる)の日、仏家では青面金剛(しょうめんこんごう)または帝釈天(たいしゃくてん)、神道では猿田彦神を祭り、徹夜する行事。この夜眠ると、そのすきに三尸(さんし)が体内から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げるといい、また、その虫が人の命を短くするともいわれる。村人や縁者が集まり、江戸時代以来しだいに社交的なものとなった。庚申会(こうしんえ)。《季 新年》」

 

とある。

 三尸の虫はやがて猿田彦大神と結びついたせいか、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿の姿で表わされるようになった。

 庚申待ちは主に男どもの宴会に終始するところがあって、女性はむしろ裏方に廻り、まして男女の同衾はタブーとされていた。女性はむしろ二十三夜待ちで発散していたようだ。

 若いお坊さんもホスト役だから、村の長老達に気を使いながら、結構神経をすり減らしたりしたのだろう。

 

無季。「宵」は夜分。

 

三十五句目

 

   ともし火のこる宵の庚申

 初花に酒のかよひを借よせて   如行

 (初花に酒のかよひを借よせてともし火のこる宵の庚申)

 

 支考の順番だが、ここは如行に花を持たせたか。

 庚申待ちに酒は付き物だったようだが、あまり飲むと寝ちゃいそうだから、そこは程々だったのだろう。

 酒はむしろ昼間に花の下で飲むもので、その時は人の通い帳借りて勝手に酒を注文したりして悪事も働いたが、夕方になるとそのまま庚申待ちに入る。酔いつぶれて寝ちゃって、この罪は天帝の知ることになるんだろうな。

 

季語は「初花」で春、植物(木類)。

 

挙句

 

   初花に酒のかよひを借よせて

 かすみはるかに背戸の撞部屋   支考

 (初花に酒のかよひを借よせてかすみはるかに背戸の撞部屋)

 

 搗米屋が広まる前は家の裏手の小屋で自分で精米していたのだろう。こんな所で密かに花見をする者もいたか。

 

 蕉風確立期のまでの風だと出典の解説が多くなるが、軽みになると当時の生活についての解説が必要になる。

 不玉・己百の両吟部分はそのどちらでもなくて、あまり言うことがない。それが如行・支考の両吟になると、急に調べることが多くなる。

 特に、支考の風はいわゆるあるあるネタではなく、かなり空想が入っていて、ありそうもないけど面白いという所を狙ってくる。

 今日で言えば大槻ケンヂの才能に近いのかもしれない。「リュックサックに猫詰めて」みたいなのは実際にやる人はいないだろうけど、でも何となくそれにリアリティーを持たせてしまうのが大槻ケンヂの才能だ

 虚において実を行うというよりも、虚なんだけど実にしてしまうのが支考だったのかもしれない。

 

季語は「かすみ」で春、聳物。