土芳『三冊子』を読む

くろさうし


1,行きて帰る心

 「發句の事は行て歸る心の味也。たとへば、山里は萬歳おそし梅の花、といふ類なり。山里は萬歳おそしといひはなして、むめは咲るといふ心のごとくに、行て歸るの心、發句也。山里は萬歳の遲いといふ計のひとへは平句の位なり。先師も發句は取合ものと知るべしと云るよし、ある俳書にも侍る也。題の中より出る事はすくなき也。もし出ても大樣ふるしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.135)

 

 「行きて帰る心」というのは、いわば何かと思わせて最後に落ちをつけるという、その呼吸に近いように思える。

 

 山里は万歳遅し梅の花       芭蕉

 

の句は元禄四年正月の句だが、「山里は万歳遅し」がいわば俳諧らしいネタになっていて、それを「梅の花」と結ぶことで落ちというわけではないが、梅の季節を詠んだ発句だということになる。「山里は万歳遅し」と言い放して、それでも心は「梅の花」だということで梅の句になる。

 「山里は万歳遅し」だけだと付け句の位になる。

 

   赤く咲きたる梅綺麗なり

 山里は万歳遅くやってきて

 

といったところだろうか。

 この違いは発句道具か付け句道具かの位の議論にも関わってくるのだろう。

 発句は取り合わせものだという「ある俳書」は岩波文庫の『芭蕉俳諧論集』(小宮豊隆、横沢三郎編、一九三九)には、

 

 「師ノ云、發句はとり合物也。二ッとり合て、よくとりはやすを上手と云也といへり。有難おしへ成べし。(篇突)」(『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、一九三九、岩波文庫p.95~96)

 

とある。許六『俳諧問答』にもあるが、この場合「とり合」と「とりはやす」は同じではない。許六は「とりはやし」の例として、

 

 「予此ごろ、梅が香の取合に、浅黄椀能とり合もの也と案じ出して、中ノ七文字色々ニをけ共すハらず。

 梅が香や精進なますに浅黄椀    是にてもなし

 梅が香やすへ並べたつあさぎ椀   是にてもなし

 梅が香やどこともなしに浅黄椀   是にてもなし

など色々において見れ共、道具・取合物よくて、発句にならざるハ、是中へ入べき言葉、慥ニ天地の間にある故也。かれ是尋ぬる中に、

 梅が香や客の鼻には浅黄椀

とすへて、此春の梅の句となせり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.153~154)

 

というふうに作ってみせている。

 梅の香に浅黄椀は取り合わせだが、取り囃しはそれにさらに「客の鼻には」と付け加える。まあ、句を何か目新しいネタで盛り上げる、面白くする、それを取り囃しと言っていいと思う。正岡子規が「山」と呼んでたものに近いと思う。

 芭蕉の先の句で言えば梅の花に山里が取り合わせで、「万歳遅し」が取り囃しになる。付け句は基本的にこの取り囃しの部分が主となる。

 取り囃しがなくても発句にはなるが、新味のない、古い臭い感じになる。題の中より出る発句が「大樣ふるし」というのはそういうことだ。「山里梅」という題で「山里に今日梅の花咲きにけり」では平凡で面白みがない。「万歳遅し」があって新味のある面白い発句になる。

2,発句の物、脇の物

 「師の云、發句の物、脇の物、第三の物、平句の物と其位ある事也。ことごとにかく云にはあらず、其位を見知るべしといへり。又いはく、季をとり合するに、句のふるびやすき煩有、とありし時も侍る也。門人つねに心得べき詞也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.135)

 

 許六の『俳諧問答』にも発句道具・平句道具・第三道具の論がある。

 「一、いつぞや、『こんやの窓のしぐれ』と云事をいひて、手染の窓と作例の論あり。略ス。其後二年斗ありて、正秀三ッ物の第三ニ『なの花ニこんやの窓』といふ事を仕たり。此男も、こんやの窓ハ見付たりとおもひて過ぬ。

 予閑ニ発明するに、発句道具・平句道具・第三道具あり。正秀が眼、慥也。

 予こんやの窓ニ血脈ある事ハしれ共、発句の道具と見あやまりたる所あり。正秀、なの花を結びて第三とす。是、平句道具ニして、発句の器なし。こんやの窓に、なの花よし。又暮かかる時雨もよし、初雪もよし。かげろふに、とかげ・蛇もよし。五月雨に、なめくぢり・かたつぶりもよし。かやうに一風づつ味を持て動くものハ、是平句道具也。

 発句の道具ハ一切動かぬもの也。慥ニ決定し置ぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.163~164)

 

 「道具」という言葉は許六の発明であろう。

 これは特にこの言葉は発句にはいいが脇には良くないとかそういうことではないし、それぞれの使う言葉の一覧を作るような性質のものではない。「ことごとにかく云にはあらず」というのはそういうことで、これは言葉の分類の問題ではない。

 許六『俳諧問答』は正秀が三つ物の第三に「なの花ニこんやの窓」としたのを評価して、紺屋の窓は師の血脈だが発句の道具ではなく、平句の道具で菜の花と組み合わせたことで第三の道具になるということだ。

 紺屋は微妙な問題を含む言葉で、ウィキペディアでは紺屋と非人との関係についてこう触れている。

 

 「柳田国男の『毛坊主考』によると、昔は藍染めの発色をよくするために人骨を使ったことから、紺屋は墓場を仕事場とする非人と関係を結んでいた。墓場の非人が紺屋を営んでいたという中世の記録もあり、そのため西日本では差別視されることもあったが、東日本では信州の一部を除いてそのようなことはなかった。山梨の紺屋を先祖に持つ中沢新一は実際京都で差別的な対応に出くわして初めてそのことを知らされたという。」

 

 貞享五年春の「何の木の」の巻十八句目に、

 

   もる月を賤き母の窓に見て

 藍にしみ付指かくすらん     芭蕉

 

の句があり、藍染をする紺屋を詠んだものだが、前句の「賤き母」を受けて展開する所には、紺屋が被差別民だということを知っててのことと思われる。ちなみに前句に「窓」の字もあるから、紺屋の窓が師の血脈だというのはこの前例によるものだろう。

 芭蕉は被差別民の生活をリアルの描写した付け句をしばしば詠んでいるが、発句でテーマとすることは少ない。このあたりが発句の物、付け句の物の漠然とした境界になっているのだろう。ちなみに越人は紺屋だったという。コトバンクの「美術人名辞典の解説」に、

 

 「江戸中期の俳人。北越後生。通称は十蔵(重蔵)、別号に負山子・槿花翁。名古屋に出て岡田野水の世話で紺屋を営み、坪井杜国・山本荷兮と交わる。松尾芭蕉の『更科紀行』の旅に同行し、宝井其角・服部嵐雪・杉山杉風・山口素堂と親交した。『不猫蛇』を著し、各務支考・沢露川と論争した。蕉門十哲の一人。享保21年(1736)歿、80才位。」

 

とある。芭蕉や其角のような身分を全然気にしない人もいたが、そういう人ばかりでもないということを、当時の俳壇を見る時に記憶にとどめておく必要があるかもしれない。路通についてもその疑いがある。

 元禄三年十二月の「半日は」の巻十三句目の、

 

   右も左も荊蕀咲けり

 洗濯にやとはれありく賤が業   乙州

 

も同じ関連で、京都では紺屋が洗濯屋も兼ねていたため、「賤が業」になっている。

 漠然と発句では好まれないが付け句ではオーケーという題材はいくつかあったのだろう。

 許六の論は「菜の花」だと第三にふさわしいが、自身は「時雨」と組み合わせて発句道具にならないかを思案したのではないかと思う。菜の花は田舎へ行けばどこにでもある花で古典に好まれた花ではない。ただ賤の情景を美しく飾る力はある。「時雨」は古歌にも詠まれてきたさらに格の高い発句道具になる。

 発句道具という考え方は、俳諧が和歌より出でて雅語の伝統につながる一つの生命線だったのかもしれない。

3,孕句

 「又いはく、人の方に行に、發句心に持行事あり。趣向、季のとり合障りなき事を考べし。句作りはのこすべし。孕句出たるは出る品うるはしからずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.135)

 

 「孕句(はらみく)」は前もって作っておいた句で、興行の際の発句は前もって作っておくことが多い。脇を亭主が詠む場合は、興行の主催者である亭主が上手く付けられなくて恥をかかないようにという配慮からか、事前に発句を渡して置き、興行開始までに十分な時間を与える。そのため脇も事前に用意されることになる。

 ただ、発句は本来当座の天気やメンバーなどを見て即興で詠むもので、孕句は極力しない方がいい。

 発句を事前に用意しないまでも、興行の席に向かう途中である程度心の中にこれを詠もうと決めて行くことはある。

 その場合は実際当座になってふさわしくないということのないように、天気が急変してもいいように天候の言葉を入れないようにしたり、興行場所の周囲が家が立て込んでいるか一軒家なのかわからない場合は、どちらでも大丈夫なように作るという配慮は必要だ。

 「趣向、季のとり合障りなき」というのは、多少想定外の状況になっても対応できるような、どこでも使えるような句にということだと思う。

 「句作りはのこすべし」というのは大まかなところだけ決めておいて、細かい句作りは当座に取っておいた方がいいということだろう。

4,歳旦の言葉

 「としの松、年の何、などゝ近年は歳旦に用る事あり。いかゞとたづね侍れば、師のいはく、達人のわざにあらず、論に不及と也。

 去年今年春季也。當年といふ事も季に心をなさば成べしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

 

 何でも「年の」を付ければ歳旦になるということで、特に歳旦三つ物などに多用されたのだろう。歳旦の句を毎年作らなくてはならないとなると、ネタ切れになるのはいたしかたない。そんな苦肉の策なら否定するのも忍びないし、だからと言って積極的に勧める気もない。そういう意味での「論に不及」なのであろう。

 「去年今年」も歳旦の言葉であまり用いられてはいないが重頼の『毛吹草』(正保元年刊)にあるという。

5,蝉をにぎりて

 「師のいはく、手のうちに蟬をにぎりて鳴する事を、宜ものと句にしばらくとりなやみ侍る也。古みをとらんとせしと、おそろしきものにあひたるやうに語出られし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

 

 この部分だけは独立していて前後の文脈とあまり関係ないように思える。

 手のうちに蝉を握って鳴かすというのは、子供とかが蝉を捕まえた時に手の中で蝉がジージー音を立てている状態なのか、それとも落ちている蝉をつかんだらまだ生きていて、手の中で鳴いたということなのか。

 蝉は和歌では恋の情と結びつけられてきたから、手の中の蝉の鳴く声を囚われの遊女の嘆きにしようとしたのか、これだけでは何を意図したかわからない。ただ「宜(よろしき)ものと句にしばらくとりなやみ」とあり、発句にしようとしたのであろう。「古みをとらんと」とあるから蕉風確立期の古典回帰の頃かもしれない。結局「軽み」に移る中で没になったのだろう。

 余談だが近代短歌に、

 

 鳴く蝉を手握りもちてその頭

     をりをり見つつ童走せ来る

              窪田空穂

 

の歌がネットで検索したらヒットした。芭蕉だったらどう詠んだか、聞きたかったな。

6,てには留

 「手爾葉留の發句の事、けり、や等の云結たるはつねにもすべし。覽、て、に、その外いひ殘たる留りは一代二三句は過分の事成べし。けり留りは至て詞强し。かりそめにいひ出すにあらず。ふりつみし高根のみゆきとけにけり、といふも至てつよくいひはなして、その響に應じてじて、清瀧川の鳴りあがる水のしら浪といひかけて、けしきを顯す也。

 覽とはねべき所を、やといひ捨るもあり。也といふべきを覽といひてはゞを取事なども古哥などにも多し。皆句作の所なるべしと師の教也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

 

 発句の末尾を「らん」「て」「に」留めるというのは一生に二三句くらいのイレギュラーなことで、芭蕉の句で言えば

 

 辛崎の松は花より朧にて     芭蕉

 鰹売いかなる人を酔すらん    同

 

くらいであろう。

 「けり」で止めも強い断定なので乱用しない方がいいという。芭蕉の句だとまず思い浮かぶのが、

 

 道のべの木槿は馬にくはれけり  芭蕉

 

の句だ。これは「食われてしまった」という覆すことのできない事実が、この句に余韻を与えている。これが「くはれしや」だったら、「どっちなんだ」で、食われてないなら悲しむ理由もなくなってしまう。断定されてしまい、もうどうしようもないというところがこの句の生命になっている。

 

 二人見し雪は今年も降けるか   芭蕉(笈日記)

 二人見し雪はことしも降にけり  芭蕉(芭蕉句選)

 

 このように芭蕉自身が揺れ動いて形跡のある句もある。越人に宛てた句で、前者は越人に一緒に旅したとこの事を覚えているか、という越人に直接問いかける私信の形になり、後者はあの時のことを思い出すよという独り言になる。句集に収めるなら後者の方であろう。

 

 行春を近江の人とおしみける   芭蕉(猿蓑)

 行春をあふみの人とおしみけり  芭蕉(蝶すがた)

 

 後者は誤記の可能性もある。惜しむ心は惜しんでも惜しみ切れないものなので、「けり」と簡単に切ってしまうとその程度の惜しさかになってしまう。

 

 ゑびす講酢売に袴着せにけり   芭蕉(続猿蓑)

 ゑびす講酢売にはかまきせにける 芭蕉(芭蕉庵小文庫)

 

 これは「けり」だと単純に酢売が袴着ていて面白い、という句になる。ただ、あまり単純に笑っては酢売に失礼かなという気持ちが働くなら、「ける」への改作も理解できる。

 いずれにせよ「けり」留めの発句は少ない。

 「ふりつみし」は、

 

 降りつみし高ねのみ雪解けにけり

     清滝川の水の白波

             西行法師(新古今集)

 

の歌で、雪が解けたことを強く言い放つことで、聞く人に雪解けてどうなったんだ、と思わせて「清滝川の水の白波」でなるほどと思わせる。和歌ならではの盛り上げ方だ。

 

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

     浦の苫屋の秋の夕暮れ

             藤原定家(新古今集)

 

も同じだ。

 「覽とはねべき所を、やといひ捨る」は「らむや」「らんや」で、

 

 波の打つ瀬見れば玉ぞ亂れける

     ひろはば袖にはかなからむや

             在原滋春(古今集)

 事のはにたえせぬつゆはおくらんや

     昔おほゆるまとゐしたれは

             七条后(後撰集)

 

のことか。

 「也といふべきを覽といひてはゞを取」は「なるらん」で、

 

 年ごとにもみぢ葉ながす龍田川

     水門や秋のとまりなるらむ

             紀貫之(古今集)

 末の露もとの雫や世の中の

     後れ先立つためしなるらむ

             僧正遍昭(新古今集)

 

のような用法で、幅を取るというのは字数を合わせるということだろう。

7,二字三字

 「師のいはく、下句上句ともに二字三字の間にあり。またその二三字に甚ぬかり落る句あり。骨折べき所也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

 

 句の中の二字か三字直すだけでよくなる句が多いということだろう。元禄二年の山中三吟には北枝が記したとされる『山中三吟評語』が残されていて、それを見ると、二三字直すだけのものも多い。

 

 第三

   月はるゝ角力すまふに袴踏はかまふみぬぎて   翁

  「月よしと」案じかへ給ふ。

 四句目

   鞘さやばしりしを友のとめけり   北枝

  「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る

 六句目

   柴かりこかす峰のさゝ道   翁

  「たどる」とも、「かよふ」とも案じ給ひしが、「こかす」にきはまる。

 十九句目

   長閑のどかさやしらゝ難波なにはの貝多し   枝

  「貝づくし」と直る。

 

 こういう手直しは各巻にあったのだろう。

8,持て来る詞

 「師のいはく、持て來る詞といふあり。ことに人の名などにある事也とぞ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.136)

 

 これだけでは何のことかわからない。『去来抄・三冊子・旅寝論』の潁原注にはチ本という『猪來舊蔵本忘水』に、この下に、

 

 「ことに程持て來るこそ其中より自然に位したるもの有を云他人の名‥‥」

 

とある。

 おそらく本説というほどの明確な内容や物語を持つのではなく、俤のような仄めかすだけのものでもない言葉ではないかと思う。たとえば、『春の日』の「春めくや」の巻三十一句目、

   朝熊おるる出家ぼくぼく

 ほととぎす西行ならば哥よまん  荷兮

 

は西行について何らかのエピソードを引き出そうというのではないし、西行の俤を登場させているのでもない。どちらかといえば、

 

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ   芭蕉

 

の句を詠んだ芭蕉を連想させようとしている。

 また同じ『春の日』の「蛙のみ」の巻二十一句目の、

 

   簀の子茸生ふる五月雨の中

 紹鷗が瓢はありて米はなく    野水

 

の紹鷗はウィキペディアに、

 

 「武野 紹鴎(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。」

 

とある当時有名だった茶人だったが、何ら紹鴎のエピソードを匂わしているわけではない。ただ紹鷗が瓢(本当にそのようなものがあるかどうかは知らないが)を持っているのに米がない、というところに没落した家の困窮している姿が思い浮かぶ。

 人名を出すことで、その本にではない句の中に登場する人物の位を定める効果がある。

 『ひさご』の「疇道や」の巻五句目の、

 

   かまゑおかしき門口の文字

 月影に利休の家を鼻に懸     正秀

 

にしても、利休を持ち出すことで、その家を鼻に掛ける人物の位を定める。

9,夷狄の事

 「師のいはく、夷狄の事、せぬ方先よろし。するに習ひなし、時によるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.137)

 

 「せぬ方先よろし」というくらいだから、実際に夷狄が登場することはほとんどない。

 『冬の日』の「狂句こがらし」の巻二十六句目の、

 

   しらじらと砕けしは人の骨か何

 烏賊はゑびすの国のうらかた   重五

 

の「ゑびすの国」はあくまで架空の物で、七福神の来る蓬莱山の白い生き物として烏賊を出している。

 『虚栗』の「詩あきんど」の巻の第三、

 

   冬-湖日暮て駕馬鯉

 干(ほこ)鈍き夷(えびす)に関をゆるすらん 芭蕉

 

 この句も想像上の異国で中国と西域との間の関のイメージであろう。

 同じく「詩あきんど」の巻の三十二句目、

 

   哀いかに宮城野のぼた吹凋るらん

 みちのくの夷(えぞ)しらぬ石臼 其角

 

の句は「宮城野」に古代の「蝦夷」を付けている。

 これらの句は現実の外国人を詠んではいない。

 現実の外国人のイメージは延宝四年のかなり古い時代の「梅の風」の巻四十七句目に、

 

   ぬるい若衆も夢の秋風

 床は海朝鮮人のねやの月     桃青

 

の句が見られる。韓国人は葬式の時に大きな声で「アイゴー」と号泣する習慣がある。多分そのあたりから、後朝でも号泣して床が海になる、と付けたのだろう。

 若い頃の奇をてらった句で、これは例外的と言えよう。

 

 甲比丹もつくばはせけり君が春  桃青

 

の句も延宝六年という古い時代の発句になる。

 外国人を詠むことがタブーだったというよりは、実際に外国人に接することがほとんどなかったことが、外国人を詠むことの稀な理由であろう。稀なことなので特にこうしなければならないという取り決めもなかった。

10,花に吉野

 「同いはく、花によし野付ぬ事は、しゐて事もなし。たゞ法度のみ也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.137)

 

 法度とはあるが式目にはなく、これも戦国末から江戸初期に定まった連歌の慣習に由来するのではないかと思う。理由も大方あまりにも月並みだからといったものだろう。

 延宝四年の「梅の風の巻」七十八句目に、

 

   衣屋もすでに弥勒の花待て

 かねの御嶽を両替の春      桃青

 

の句がある。「かねの御嶽」は吉野金峰山の別名。別名ならいいというのは談林特有のマリーシアと言えよう。

11,教わるな、通ぜよ

 「同いはく、俳諧は、教てならざる所あり。よく通るにあり。或人のはいかいは會て通ぜず、たゞ物をかぞへて覺るやうにして通る物なしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.137)

 

 俳諧は基本的には俳諧の心を持つことで、形だけ真似しても俳諧にはならない。

 『去来抄』修行教にも、

 「魯町曰いはく、俳諧の基(もとゐ)とはいかに。去来曰、詞に言ひ難し。凡吟詠する物品あり、歌は基也。其内に品有、はいかいも其一也。其品々をわかち知らるる時は、俳諧連歌は如斯物也と自ら知らるべし。それを不知宗匠達、俳諧をするとて、詩やら歌やら旋頭・混本やら知れぬ事を云へり。是等は俳諧に逢ひて、俳諧連歌といふ事を忘れたり。はいかいを以て文を書ば俳諧文也、歌を詠ば俳諧歌也、身に行はば俳諧の人也、」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.61~62)

 

 「『去来抄』を読む」でも書いたが、

 

 「『俳諧の基もとゐとは何か』というのは難しい質問で、今日で言えば、ロックとは何かというようなものだ。

 ロックとは何かといっても、エレキギターなどを用いたバンドでエイトビートのリズムを持つ音楽、などというのは何の説明にもなっていない。アイドルグループの演奏するその手の歌謡曲はいくらでもあるし、演歌だってエイトビートで演奏されることはある。また、ロックだってシックスティーンビートの曲もあれば八六拍子の曲もあるし、もっと複雑な変拍子の曲もある。

 エレキを使わずにアンプラグドで演奏されることもあれば、バンド形態を取らないDJのサンプリングによるヒップホップも広義のロックに入る。結局はロックスピリッツを持ったものがロックだということになる。

 俳諧もそれと同じで、俳諧スピリッツを持つものが俳諧だといっていいだろう。俳諧スピリッツがあれば、歌を詠んでも俳諧歌であり、文章を書けば俳文、絵を描けば俳画となる。いわば、平和を愛し、命を尊重し、花鳥風月を楽しみ、風雅の世界に遊ぶことで、日常の生存競争のぎすぎすした雰囲気を和らげようとする心があれば、句を詠まずとも俳諧だといっていいだろう。」

 

 たとえば日本人が日本でバイオリン作りを学んでイタリアに行って向こうの職人に見せたら、「よく出来ているがこれはバイオリンではない」と言われたなんて話もある。バイオリンは物理的な存在ではなくイタリア人の魂であり、それがわからないならバイオリンではない。

 俳諧も俳諧の技法を一通り学べば俳諧師になれるというものではない。精神が、生き方が俳諧でないなら、それは俳諧ではない。

12,艶の艶とするは艶にあらず

 「師のいはく、或人の句は艶をいはんとするに依て句艶にあらず。艶は艶なし。又、或人の句は作に過て心の直を失ふ也。心の作はよし、詞の作好べからずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.137)

 

 艶はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 あでやかで美しいこと。なまめかしいこと。また、そのさま。「艶を競う」「艶な姿」

  2 情趣に富むさま。美しく風情のあるさま。

  「月隈なくさしあがりて、空のけしきも―なるに」〈源・藤袴〉

  3 しゃれているさま。粋(いき)なさま。

  「鈍色の紙の、いとかうばしう―なるに」〈源・澪標〉

  4 思わせぶりなさま。

  「いとこそ―に、われのみ世にはもののゆゑを知り、心深き、類(たぐひ)はあらじ」〈紫式部日記〉

  5 中世の歌学や能楽における美的理念の一。感覚的な優美さ。優艶美。妖艶美(ようえんび)。

  「詞のやさしく―なるほか、心もおもかげも、いたくはなきなり」〈後鳥羽院御口伝〉」

 

と色々な意味がある。

 艶というのも明確に定義できるものではないし、何となく感じられるというようなもので、狙って出せるものでもない。ただ、ひとから「艶」だと言われるだけのもので、意識してできるものではない。今日でいえば「エモい」が定義できないようなものだろう。

 俳諧は心であり、その人の生き様の現れる所に人は感動するもので、大事なのは心を磨くことで口先だけのテクニックではない。

13,離るる

 「又いはく、格は句よりはなるゝ也。はなるゝにならひなし。鳶に鳶を付、隱士の打越に隱士を出す類イ、爰に至てせん儀なし。一たびはくるしからず、後の隱士は過てあやまち也。必うらやむ所にあらずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.137)

 

 格はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① きまり。法則。法式。規則。

  ※米沢本沙石集(1283)一〇末「凡(およそ)世間出世の格(カク)をこえて格にあたるにあたらずと云事なし」 〔礼記‐緇衣〕

  ② くらい。地位。身分。程度。等級。

  ※日葡辞書(1603‐04)「ソノ ヒトノ cacuga(カクガ) ヨイ、または、ワルイ」

  ※家(1910‐11)〈島崎藤村〉上「家の格が違ひます」

  ③ 同じような仕方。流儀。手段。

  ※咄本・露休置土産(1707)一「よいあいさつ、出来た出来た。此後も其格(カク)にあいしらへよ」

  ※安愚楽鍋(1871‐72)〈仮名垣魯文〉三「去年の仕初(しぞめ)に勧進帳を見せた格(カク)でござへますがいいおもひつきじゃアござへませんか」

  ④ 品格。風格。

  ※中華若木詩抄(1520頃)上「此詩は、常の格ではないぞ、異相な詩と云こと也」

  ⑤ 奈良・平安時代、律令を執行するため、時に応じて発せられた修正、補足の命令。律・令・格・式の一つ。→格(きゃく)。」

 

とある。⑥以下は近代の意味なので省略する。ここでは一番に守るべきことは、というような意味だろう。をれはとにかく「離るる」ということだ。

 鳶に鳶を付けるような同語を付けることは式目には反しない。それは和歌でも同じ言葉の反復はあるからだ。ただ、打越は嫌う。連歌では同字五句去り、俳諧では三句去りになっている。

 式目には反しないとは言っても好まれることではない。

 同字を付けることは「一たびはくるしからず」。打越に同字を用いることは「過てあやまち」。

 「うらやむ所にあらず」というのはわざわざするようなことではない、ということ。

14,発句は門人にも

 「發句は門人にも作者あり。附合は老吟のほねといひ給ひけると、或俳書にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.137)

 

 発句は若くても良い句を作る人はいるが、付け句は長年の習熟が必要ということであろう、「或俳書」は許六の『宇陀法師』だと『去来抄・三冊子・旅寝論』の潁原注にある。

 

 「句のすがた、さのみかはるにもあらで、人々の腸をしぼる所、聞ものゝ好、すかざるによりて、言下に心のごとく聞なし侍らんは本意なしと、師のいへるよしあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.137~138)

 

 句の微妙な違いを腸(はらわた)を絞るような、いわば精魂込めて直したりしても、人々がそれを単なる好みの問題みたいに言って聞き流さしてしまうのは残念だ。

15,笈の小文

 「師のいはく、わが句ども多くの集に書誤り多し。是をみづから書本とし、門人の志を以て二三句ほどづゝ書添て、所々の哥仙一折宛、是もいがの門人を初として、志を以て書留むべし。號を笈の小文とせん、又、小文と計やすべき。此號は或方にて能見侍るに、太刀とかいふ謡に此事あり。宜集の名と思ひ留たる也。書號によろしきものなど常に見習べし。拙號はあさましき物也。萬に心遣ひ有事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.138)

 

 今日我々が『笈の小文』と呼んでいるものは、芭蕉の元禄四年から五年にかけての関西方面の旅の遺稿をまとめたもので、未完成の断片的なものに宝永六年、乙州があとからタイトルを付けて刊行しただけのものだ。芭蕉自身がこれを『奥の細道』のような一つの作品にしようと意図した物かははっきりしない。

 それとは別に芭蕉が『笈の小文』と呼んでいる別のものがあったことは『去来抄』にも記されている。おそらく私歌集のようなもので、芭蕉が気に入った句や俳諧の巻を書き留めたものではなかったかと思われるが、今日残ってはいない。将来何らかの形で発見される可能性がなきとも言えないが、あまり期待はできない。発見されたら世紀の大発見となろう。

 ネット上の綱島三千代さんの『「笈の小文」の読み方について』によると、「太刀とかいふ謡」は謡曲「刀」で、そこに、

 

 「初学者の笈には笈には真言天台の聖教要交、下段には小文を揃へて入れたるは、少人達の名残を惜しみ又逢ふ迄の記念の為か託しや床しや」

 

とあるという。

16,宵闇

 「師、ある俳諧の時、宵やみといふ句に月成まじ、是を月にすべしとて、秋に付出し、八月と云月次を出せり。月秋の堪所によひやみ出合たればこそ、ふしぎの働出たりと、俳書に有。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.138)

 

 「ある俳諧」とは元禄五年十月三日許六亭での興行で、発句は、

 けふばかり人も年よれ初時雨   芭蕉

 

になる。その十三句目からで、

 

 宵闇はあらぶる神の宮遷し    芭蕉

   北より荻の風そよぎたつ   許六

 八月は旅面白き小服綿      酒堂

 

となっている。

 宵闇は日が暮れて月が登るまでの闇のことなので、月の句となる。無月や月なしが秋になるように、また月の字がなくても「有明」が月の句で秋になるように、「宵闇」もそれに準じて扱うというわけだ。

 ただ、月の文字がないということで、見た目には初裏の月をこぼしたかのように見えるため、形だけ「八月」という月次の月を入れている。

17,牡丹に芍薬

 「牡丹に芍薬を付る事はあるまじ。是は心の好所にて差合にはあらず。付らるゝ働あらば付て猶よろしかるべしと、師の詞也。萬に此類あるべし。門人心得てすべき事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.138)

 

 牡丹と芍薬は似ているけど別の花だから式目上は付けても何の問題はない。ただ、スミレにタンポポを付けるのと違い、両方とも大きな花で、一巻の飾りということもあるのだろう。牡丹に芍薬を重ねるのはくどいと感じた手のことだと思う。

 対句に仕立てて何か面白い意味にでもなるなら、別に構わない。好みの問題だと芭蕉自身も言っている。杓子定規に判断しないようにということ。

18,相似たる句

 「師のいはく、相似たる句は、集に出す時外に置て、まぎらはしくせざるよし。後猿蓑に、師の蕎麦の花の句、猿雖が蕎麦の花一所にわざと置侍ると也。   付句の心得いろいろいひ出られし時に、前句を添て、付心に顯るゝ事などならて見るべしと、さまざま句をさせて見侍られし事もあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.138~139)

 

 後猿蓑は『続猿蓑』のことで、芭蕉の蕎麦の花の句は、秋之部の「農業」の所に、

 

   いせの斗從に山家をとはれて

 蕎麥はまだ花でもてなす山路かな 芭蕉

 

の句がある。

 これに対し猿雖の蕎麦の句「名月」の所に、

 

 いざよひは闇の間もなしそばの花 猿雖

 

の句がある。この二句は全然似ていない。おそらく問題になったのは芭蕉の元禄五年八月に詠んだ、

 

 三日月の地はおぼろ也蕎麦の花  芭蕉

 

の方であろう。これだと、三日月を十六夜に変えただけで、薄明かりの中の蕎麦の花という趣向に月を添えている発想が似ている。

 そして、芭蕉があえて並べたというのは「いざよひは」の句の前にある、

 

 十六夜はわづかに闇の初め哉   芭蕉

 

の句であろう。

 結果的には十六夜で短い間だが宵闇の時間が生ずる、というのが読者の頭に刻み込まれて上で、「いざよひは闇の間もなし」と来るから、読者は何だろうと思う。そして「そばの花」と結ばれることで「なるほど」と思う。なかなか見事な演出になっている。

 この場合外に置かれたのは芭蕉の「三日月の」の句の方だった。また、同じ蕎麦の花を詠んだ芭蕉の句は「名月」と「農業」という別の部立にして間を放して置いている。

 『春の日』で、

 

 初春の遠里牛のなき日かな    昌圭

 

の句と、

 

 けふとても小松負ふらん牛の夢  瑞雪

 

の句をあえて七句隔てて置いているのも同様の配慮なのだろう。

 後半の「付句の心得」は、出勝ちの時にただ自分の付け句をいうだけでなく、前句とつなげて読み上げてみるとどういうふうに付いているかが捌く人にわかりやすくなる、つまり選ばれるこつだということか。

19,脇の三体

 「又、猿蓑に脇三を三体に仕わけてなし置たり。心付て見るべしと也。身はぬれ紙のとり所なき、といふ句を云出侍れば、師の曰、是一體に見へ侍る也、体格は定がたし。心がけて勤るに猶あるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.139)

 

 脇の三体というのは、

 

   鳶の羽も刷ぬはつしぐれ

 一ふき風の木の葉しづまる    芭蕉

 

   市中は物のにほいや夏の月

 あつしあつしと門々の聲     芭蕉

 

   灰汁桶の雫やみけりきりぎりす

 あぶらかすりて宵寝する秋    芭蕉

 

のことか。

 「一ふき風の」の脇は「あかさうし」に、

 

  「あれあれて末は海行野分かな

  鶴のかしらをあぐる粟の穂

   鳶の羽もかいつくろハぬ初しぐれ

  一吹風の木の葉しづまる

 此脇二つは、前後付一体の句也。鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる體を脇とす。木のはの句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を亂し、納りて後の鳶のけしきと見込て、發句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.122~123)

 

とある。

 「あつしあつし」の脇も同じく「あかさうし」に、

 

  「市中は物の匂ひや夏の月

  あつしあつしと門々の聲

 此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顯して見込の心を照す。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.125)

 

とある。

 「あぶらかすりて」の脇は特にない。

 灰汁(あく)は染色の際の媒染液で、椿や榊を燃やした灰を水で溶いた上澄を用いる。染料につけた布を灰汁に浸して干した時、雫しずくが灰汁桶にぽとぽと垂れ、その雫の音も止むころには日も暮れ、コオロギの声が聞こえてくる。「きりぎりす」はかつてはコオロギのことだった。

 この発句に対し、芭蕉は「あぶらかすりて」、つまり行灯の油も底を尽きたということで、仕方ない、まだ宵の口だがもう寝るか、と付ける。

 「一ふき風の」の脇は「鳶の羽も刷ぬ」に「木の葉しづまる」、「はつしぐれ」に「一ふき風」と四手に着いている。

 「あつしあつし」の脇は「市中」の「夏」に「あつしあつし」という市中の人の位で付けている。

 「あぶらかすりて」の脇は発句の染物業者の侘しい雰囲気に「あぶらかすりて」で応じている。

 藍染をおこなう紺屋については他の所で述べたが、被差別民だった。『ひさご』の「何の木の」の巻十八句目に、

 

   もる月を賤き母の窓に見て

 藍にしみ付指かくすらん     芭蕉

 

の句がある。

 「身はぬれ紙のとり所なき」の句は脇ではない。『猿蓑』「梅若菜」の巻二十四句目の、

 

   大胆におもひくづれぬ恋をして

 身はぬれ紙の取所なき      土芳

 

の句。前句の心を物に例えて付けている。

 恋離れの手段としては一つの方法だと言っていいが、「濡れて張り付いた紙ははがそうにもはがせない。そんな恋をしてしまった」と、前句の「おもひくづれぬ恋」を咎めるような調子は、必ずしも芭蕉の本意ではなかったと思う。

 芭蕉は元禄七年の「牛流す」の巻二十九句目で、

 

   分別なしに恋をしかかる

 蓬生におもしろげつく伏見脇   芭蕉

 

の句を詠んでいる。去来の恋に対しやや非難めいた句にを、『源氏物語』「蓬生」の末摘花を俤にして、源氏の君の分別のなさに読み替えている。このことは『去来抄』「先師評」にも、

 

 「先師都より野坡がかたへの文に、此句をかき出し、此辺の作者いまだ是の甘味をはなれず。そこもとずいぶん軽みをとり失ふべからずと也。 (『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.27~28)

 

と去来をたしなめている。

20,琴三味線

 「又、琴三味線の類、句ふるびて世上あつかひかねたり。心見に句して見よと、いろいろ句作りを見られし時もあり。道にすゝむ者の勤る所、かくの事もあるべき示し也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.139)

 

 琴は王朝時代にも好まれていたが、三味線は新しい楽器で、延宝の頃までは古浄瑠璃で琵琶法師が琵琶の代わりに弾くというイメージがあったのだろう。その一方で遊郭にも三味線は広まり、やがて三味線=遊郭のイメージが作られていった。

 ただ、元禄期に入ると既に新味を出すのが難しくなってきたのだろう。明和天明期になると、遊郭を離れて一般人の間で三味線が大流行するが、それはまだかなり先の話になる。

 すでに煮詰まってきた題材に何か新味を出せないかという工夫は、常に行われていたのだろう。

21,入門

 「或二三子、俳諧にしほこりて、哥仙二三巻、老翁に點を乞ふ。師是をうけず。再三の後その人に對していはく、皆秀作也。しかれども、我おもふ所に非ず。しゐてとらんとせば、是彼の内、此二三やり句と捨られし物や取侍らんと也。その人猶思ひやまずして、終に老師の門に入となり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.139)

 

 誰とは書いてないが、土芳自身のことかもしれない。

 土芳のことだとしたら、貞享二年、『野ざらし紀行』の旅の時で、談林・天和の風の俳諧を芭蕉に見せたのだろう。『冬の日』の五歌仙に手ごたえを得た芭蕉は古典回帰への道を歩んでた頃なら、談林調の笑いではなく、二三ある遣り句を取るということは十分ありうる。

22,句はだれのため

 「師の曰、句は天下の人にかなへる事はやすし。一人二人にかなゆる事かたし。人のためになす事に侍らばなしよからんと、たはれの詞なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.139~140)

 

 今の文学を見ればわかることだ。ラノベや大衆小説は作品数も発行部数も多く、アニメ化や映画化への道も開かれて、グッズの売り上げなども含めれば巨大な市場を形成している。これに対して純文学で賞を取るのはほんの一握り作者にすぎないし、賞を取ったからどうこうというものでもない。

 つまり大衆に受ける作品を書く方がはるかに簡単であり、過去の権威に認められるようなものを書くのははるかに難しい。だったら審査員の顔色伺うよりも大衆向けのものを書いた方がいいではないか。

 俳諧も点取ることを考えるより、多くの人に気に入られる句を詠むことを考えた方がいい。そうはいいながらもみんな点者に気に入られようと一生懸命になっているのは、今の俳句も何一つ変わらない。

 

 「師のいはく、俳諧におもふ所あり。能書の物書るやうに行むとすれば、初心道をそこなふ所ありといへり。いかなる所ぞととへども、しがじかともこたへ給はず。

 其後句を心得見るに、くつろぎ一位有、高く位に乗じて自由をふるはんと根ざしたる詞ならんか。末弟の迷ひて道をおろそかにせん事を、なにかに付て心にこめてつゝしみのことば也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.140)

 

 俳諧に限らず解説書や入門書には頼らない方がいいというのは今でも言える。自分がこういう句を詠みたいという強力な初期衝動を持ち続けない限り、本を読でこういう句を詠めばいい、こういうふうに読んだ方が良い、とか書かれていると、何となくその気になって、自分が本当にやりたかったことを忘れてしまうものだ。

 基本的には自分の好きなものを真似るというのが一番の近道だ。『去来抄』「修行教」にも、

 

 「去来曰、俳諧の修行者は、己が好たる風の、先達の句を一筋に尊み学びて、一句一句に不審を起し難をかまふべからず。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.66)

 

と記されている。

 「くつろぎ一位有」はある程度極めて余裕が出てきて、という意味だろう。そうなってみると芭蕉が何で「初心道をそこなふ」と言ったのかわかったという。

 句は誰のために詠むのかというと、解説者や評論化を喜ばせるために詠むのではない。みんなを楽しませるために詠むんだと、そこを間違えると何がやりたいのか結局わからなくなってしまうものだ。師匠も自分の気に入る句を詠むのではなく、みんなが喜ぶ句を詠んでくれることを望んでいる。そのためには今までの常識をひっくり返すような、「底を抜く」ことをやってほしいと思っている。

23,一座の興にこだわるな

 「師の曰、其角は同席に連るに、一座の興にいる句をいひ出て、人々いつとても感ず。師は一座その事なし。後の人のいへる句はある事も有と也。さもあるべき事也。云く、座によりて一座の人にとれて句をそこなふ事あり。門人常に心得べし。其角は生質としてこゝに居らずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.140)

 

 「生質」は性質と同じ。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「性質・生質」の解説」に、

 

 「① 生まれつきのたち。もって生まれた気質。ひととなり。天性。資性。

  ※地蔵菩薩霊験記(16C後)六「生質(セイシツ)横逆にして終に仏法の名字だも聞くことなし」

  ※今弁慶(1891)〈江見水蔭〉二「何は兎もあれ此儘に、見て居られぬが我性質(セイシツ)」 〔新唐書‐柳公綽伝〕

  ② 生まれながらの姿、形。生まれたときからの身体の様子。

  ※地蔵菩薩霊験記(16C後)一四「形短くして、甚だ醜き生質(セイシツ)なりしが」

 

とある。

 其角は「空気が読める」ということなのだろう。同座人の顔ぶれを見ながら、その人たちの気に入るような句をさっと言い出すことができるが、芭蕉は相手に関係なく後になって書物にしたとき読者が喜ぶような句を付ける。だからその場で笑いを取れなくても、後になってあれってああいう意味だったんですか、みたいに言われることもあったのだろう。

 その場で受けても、後になって何で面白かったのかという句もある。まあ、空気を読みすぎて自分を殺す(ここに居らず)ことのないようにという注意だろう。

 

 「又いはく、一とせ對面の始いひ出られ侍るは、俳諧能過たり。碁ならば二三目跡へ戻してすべしと示されし也。面白教也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.140)

 

 以前に対面した時に言ったことは言い過ぎだった、碁ならば、というわけだが、「二三目跡へ戻して」は相手に二、三目置かせてということか。

 人に教える時の注意だろう。

 

 「ある時、心見に哥仙一巻四唫して送侍れば、我おもふ所よく見知侍る也。此上いふ所なし。猶秀物は時の仕合、機嫌をうかゞひ、千變万化口の外より感ずべし。氣變に任すべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.140)

 

 土芳の送った歌仙一巻が高評価を得たようだが、歌仙の出来不出来はその時の偶然に左右されるもので、同じようなものがまた作れるという保証もない。その時その時の連衆の調子、雰囲気などに左右されるため、良い流れができたならそれに逆らわないことが大事だ。

 どこかスポーツで言う「勝負は時の運」というのに似ている。

24,聞えぬ句

 「諸集のうち聞がたき句あるよしをたづね侍れば、師のいはく、故ある句は格別の事也。さもなくて聞得ざると有は、聞へぬ句と思ふべし。聞へぬ句多しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.141)

 

 わからない句があったので聞いたら、何か特別な事情がある句でないならそれは「聞へぬ句」で、駄目な句だと思っていいということだ。

 近代だと読者の想像力の不足や勉強不足が指摘されそうだが、実際の所普通の人が読んでみんなわからないような句なら、強いて理解しようと努める必要はない。

 まあ、歴史的研究で、こうやって昔の句の意味を探るなら、理解しようと努めなくてはならないし、そこには謎解きの面白さもあるが、たとえばJ-popの歌詞で意味が分からなくても、それは意味の分からない歌詞ということで聞き流すように、当時の人にとっての同時代の俳諧は、わからなければそれは作者の方の問題といっていい。

 『去来抄』「先師評」の、

 

 兄弟のかほ見るやミや時鳥    去来

 

についても、「先師曰、曾我との原の事とハききながら、一句いまだ謂おほせず。其角が評も同前と、深川より評有あり。」と言われ、去来も「ただ謂不応也」と認めている。

 昔の作品であれば、その作品の生み出された時代背景やその時代の文化・生活習慣の違いなどを理解しなくてはならないし、外国の文学を読む際にもそれは必要となる。ただ、リアルタイムの作品でわからないなら、それは作者の問題だ。

 いかがわしい宗教団体の教祖は、わざとわけのわからないようなことを言って、信者に考えさせる。そのうち信者が悩んだ末に、自分にとっての最良の解釈を導き出す。文学はそういうものであってはならない。

 

 「師、句作り示されし時、腹に戰ものはいまだ有と也。感心の趣也。是師の思ふ筋にうとく、私意を作る所也。元を動ざれば成るといふ事なく、只私意を作る也、工夫して私意やぶる道有べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.141)

 

 「戰」は「おののく」か。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「戦・戦慄」の解説」に、

 

 「〘自カ五(四)〙 恐れてふるえる。わななく。戦慄(せんりつ)する。

  ※西大寺本金光明最勝王経平安初期点(830頃)一〇「聞く者(ひと)皆傷(いた)み、悼(ヲノノキ)、悲しび歎き苦しむこと裁(おさ)ふること難かりき」

 

とある。

 作品を発表するときの不安は誰しもあることだろう。それが周りの人にどのように評価されるのか、それこそ震えるような思いであろう。

 それは作品は命令ではないからだ。俺は最高の作品を作ったんだ、下々よ心して理解せよ、ではない。どんな名人であっても大衆の評価は絶対だ。

 こんなけの作品を作ったんだから理解するように努めろ、というのは私意に他ならない。

 

 「師、ある時土芳にはなしの次手に云、いつにても機嫌をはかり、誠の俳諧してと有。後、あるじの云、翁の詞、その誠の俳諧と云事は、いかなる事にか、とたづねらる。師の心しらず、思ふに餘念なき俳諧の事なるべし。師も氣にのらざれば、餘念なき俳諧はいつぞはいつぞはなどいはれし也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.141)

 

 誠の俳諧は余念のない俳諧のことではない。「余念」は他の考え、余計な考えのことだが、余念のない俳諧は作者の独断の俳諧で、それこそ私意にすぎない。

 誠は朱子学では格物窮理によって至るもので、そこに至るには何度も仮説検証を繰り返し試行錯誤しなくてはならない。心を無にすれば自ずと誠になるなんてものではない。そんな境地にいつかはなってみたいけど、ということだろう。

 俳諧は日々是工夫であり、聞く人の反応を見ながら作り上げて行くものだ。

 

 「師の句にても、再三吟じて、猶心得がたくや思はれ侍りけん、その句書付よ、人にも聞かせ見んと、聞へける事もおりおりあり。おろそかならざる所、門人としてわすれまじき所也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.141)

 

 芭蕉の句で何度読み返してもわからない句があっても、その句を書き留めて人にも聞いてみるとわかることが何度もある。句について話し合うことは門人として必要なことだ、ということであろう。

 

 「人の句前にて句の趣向いろいろ沙汰する事つゝしむ所也。或月次の座にて、其事を門人に示されし事あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.141~142)

 

 「句前」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「句前」の解説」に、

 

 「〘名〙 連歌、俳諧などで、自分の句をつける順番に当たること。

  ※小出吉英宛沢庵書簡‐寛永一六年(1639)二月四日「城雲句前に成申候へば、吉祥寺さし合をくりと申候へば、難儀被レ仕候」

 

とある。

 三吟四吟など出勝ちではなく順番に付けて行く場合に、自分の番に来て、ここはどういう句を付ければいいかなどとお伺いを立てる人もいるのだろう。

 出勝ちなら素早く面白い句を言い出した方が勝ちだが、順番で付ける場合、付けあぐねても誰かに先を越されるわけではない。そうなるとついつい長考になりがちになる。かといっていつまでも考えていると時間ばかりかかってしまう。それでどういうふうに付ければいいですか、なんて聞きたくもなるのだろう。

 俳諧というのは意外な展開があるから面白いんで、そこに別に答えがあるわけではない。できればあっと驚くような句を出してほしいんで、どうしても付けられないなら助け舟を出すこともあるだろうけど、考える前から聞いてこられても困るというものだ。

25,嫌俳派

 「師のいはく、俳諧を嫌ひ、俳諧をいやしむ人あり。ひとかた有ものゝうへにも、道をしらざる事にはかゝるあやまちもある事也。その品なにゝもせよ、俳諧ならざる事更なし。其人、甚俳諧をして事をさばき、事をたのしむと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142)

 

 まあ、いつの世にもアンチというのはいるもので、大概はブームに乗り遅れて、時代遅れとそしられるのが嫌だからあれは有害だと言っている連中だ。イソップの「酸っぱい葡萄」だ。

 基本的には道を知らないからだと芭蕉は言っている。風雅の誠を理解せず、私事の主張を繰り返す人間は、結局最後は世間から相手にされなくなって孤立してゆくことになる。それは今のネット上のアンチも一緒だ。

 こういう連中は世間から無視されればさらにヒステリックになってがなり立て、わざと炎上するような発言を繰り返す。忘れ去られるよりは覚えておいてほしいから炎上商法に身をやつすことになる。

26,俳諧は平話

 「師の神樂堂と云句を難ずるもの有。師のいはく、俳諧は平話を用ゆ。つねに神樂堂といひならはし侍れば、ふかき事は知らずと也。其後此事をたづねたる人あり。師の曰、唯一の神道には神樂殿、兩部には神樂堂といふ。むづかしくいひ分して益なし。たゞ俳諧には、神樂殿おかしからずと或俳書にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142)

 

 芭蕉の神楽堂の句は不明。俳諧は基本的に日常の言葉を用いるため、専門家から見れば間違ってるだとか正確ではないという指摘はもっともなことなのだろう。コオロギとキリギリスとカマドウマの区別だとか、ミミズや蓑虫が鳴くかどうかだとかも、当時の本草家から見れば指摘する所はあるのだろうけど、基本的には当時の一般人のレベルで変でなければ問題はない。

 まあ、それを言えば、我々の見ている映画やドラマや漫画、アニメ、J-popなども突っ込みどころ満載で、それを笑って済ますのが大人というものだ。神楽殿と神楽堂の違いを芭蕉が知っているのも、きっと後で曾良に聞いたからだろう。

27,季節と恋

 「季にて、戀の句をつゝむこと、戀の句にて季の句をつゝむこと、むつかしは嫌へども今はくるしからずと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142)

 

 「むつかし」は「むかし」の書き間違いであろう。これも江戸初期の連歌にあったしきたりなのかもしれない。宗祇の時代までの連歌の全盛期にはこんな規則はなかったし、蕉門でも嫌わない。

 春夏秋冬の景物に寄せる恋が駄目なら、一体どんな恋が詠めるというのか。恋の情を春夏秋冬に重ね合わすのは、王朝時代の和歌から今日のJ-popにまで脈々と受け継がれている。

28,絶景の句

 「師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶、物を見て取所を心に留メて不消、書寫して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。そのおもふ所しきりにして、猶かなはざる時は書うつす也。あぐむべからずと也。師、松島にて句なし。大切の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.142~143)

 

 そもそも筆舌に尽くしがたいから「絶景」なので、簡単に言い表せるようなものは絶景とは言わない。芭蕉の『士峯の賛』でも、

 

 「むかふところ皆表にして美景千変す。詩人も句をつくさず、才士、文人も言をたち、画工も筆捨てわしる。」

 

と記している。

 あえて句にするのであれば、その景色を記憶に留めて消さないようにして、後にそれを写すかのように静かに句にする、という。おそらく

 

   殺生石

 石の香や夏草赤く露あつし    芭蕉

 

はそういう句だったのだろう。これは本当にそのまんまを詠んだ句だ。

 また、象潟で詠んだ

 

 夕晴や桜に涼む浪の花      芭蕉

 

の句もそうした句だったのではないかと思う。夕暮れに浪の花という景色に西行の桜の俤で「桜に涼む」と取り囃した句だ。絶景のほんの一部しか記せないもどかしさのようなものも感じられる。

 芭蕉の松島の句というと、今日は、

 

 島々や千々に砕きて夏の海    芭蕉

 

の句が知られている。ただこれは『蕉翁全伝附録』という最近になって発見された書にあるもので、ネット上の今栄蔵さんの「新出『蕉翁全伝附録』」に詳しくある。これは土芳も知らない句だったのだろう。

 内容としては夏の海に島々が浮かぶという景色に大山津見神(おおやまつみのかみ)の神話から「千々に砕きて」と取り囃した句で、芭蕉らしさは感じられる。

 この言い尽くさないもどかしさを遁れようとすると、

 

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き  芭蕉

 

ということになる。

29,俗語を正す

 「師のいはく、俳諧の益は俗語を正す也。つねに物をおろそかにすべからず。此事は人のしらぬ所也。大切の所也と傳へられ侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 

 今日的な感覚だと、これは俗語を正しい標準語に正すというふうに受け取られやすい。だが、残念ながらこの時代は「標準語」なるものはなかったし、国家が学校教育を通じて日常の口語を管理するという発想そのものが存在しなかった。

 俗語を正すといっても、正しい言い方が存在しているわけではない。ならば何を正すのかといえば、俗語の心を正すことに他ならない。

 だから次に「つねに物をおろそかにすべからず」とつながる。この場合の物は物質ではなく魂であり、心の「誠」に他ならない。いわば四端の情などの人間の本性をおろそかにしてはいけないという意味だ。

 俗語を正すとは、俗語に魂を与えることであり、風雅の誠を与えることだ。

 この時代の「俗語」は雅語に対して用いられている。雅語は風雅の心を述べるために王朝時代の和歌を元にして、中世に確立された。しかし雅語で語れる世界はあまりに限られている。庶民が日常の様々な出来事を語ろうとしても、雅語では言えない事柄が多すぎる。

 俗語を正すというのは、雅語ではない俗語に雅語のような風雅を語る力を与えることだ。風雅の誠を俗語で語ることで、俗語は雅語と同等の言葉になる。これが俗語を正すということだ。

 何度も繰り返して行ってきたことだが「もともと言葉に意味はない、人が喋ればそこに意味ができる。」意味というのは過去に聞いた用例の積み重ねであり、その用例に従って自ら発話することによって、言語の意味は人から人へと広まって行く。

 例えば猫のことを誰かが間違って「ぬこ」と入力した。それを見た人が「ぬこ」という言葉を用い、それが多くの人に広まれば「ぬこ」は猫の意味になる。

 こうしたことは過去にも起こった。たとえば「山茶花」は本来「さんざか」だったのを、誰かが「さざんか」と言ってしまったのだろう。今ではみんな「さざんか」と言っている。「新し」も本来は「あらたし」だったが、今ではみんな「あたらし」と言っている。

 もともと「ぬこ」という音声であれインクの染みであれ液晶の光であれ、そこに意味があるわけではない。人がそれを猫を表すものとして用いてはじめてそれは「猫」という意味を生じる。

 言葉(能記)自体はただの任意に選ばれた符号であり、それを正すことに意味はない。

 たとえば今の人権派の人たちが躍起になっている言葉狩りも、何ら差別の抑止にはならない。たとえば「チョン死ね」を「在日の韓国籍及び北朝鮮籍の方は死ぬべきである」と言い換えたところでヘイトスピーチには変わりない。ヘイトは心の問題であり、そこを正さなければ言葉だけ奪っても何の意味もない。

 同様に言葉自体に美しい言葉なんてのも存在しない、たとえば「ともだち」は米軍が東日本大震災の時の災害救助・救援および復興支援のときに「トモダチ作戦」として用いていたが、私の知っている会社の社長は、いつも社員を罵る時に「ともだち」という言葉を用いていた。駄目な社員がいるとほかの社員が何かミスした時に、「お前はあいつのトモダチか!」という意味で「ともだち」という言葉を乱用していた。あの会社では「ともだち」は人を罵る時の言葉だった。

 「家具」という言葉も普通の人にとっては何の変哲もない言葉だが、竜騎士02さんの『うみねこのなく頃に』の中では「使用人は家具たれ」という家訓から、使用人を罵る時に「家具」という言葉が用いられていた。

 言葉が奇麗かどうかは使う人の問題で、言葉自体にはもともと意味はない。「俗語を正す」というのは心を正すことに他ならない。心を正せばどんな俗語も美しくなる。

30,題

 「師のいはく、結び題の發句などの時に、たとへば五句ある時は、秀作三句は過る也。當座の題は猶其心得あり。哥の題の事もかやうの事とやら聞へ侍るとなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 

 「結び題」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「結題」の解説」に、

 

 「〘名〙 和歌で題詠の際に出される歌題の一種。漢字三、四字から成り、二つないしはそれ以上の事柄を結合した歌の題。「初春霞」「旅宿夜雨」の類。

  ※毎月抄(1219)「結び題をば、一所におく事は無下の事にて侍とやらん」

 

とある。

 俳諧では題詠で競うことはあまりない。適当に題詠っぽく前書きを付ける場合はある。撰集などで題があってそこに何句か並べてあっても、似たような句を分類して後から題を付けていることが多いのではないかと思う。

 これも多分、撰集で一つの題で句を何句か並べる時に、三句ぐらいにしておいた方が良いという意味であろう。

31,書

 「師のいはく、撰集、懷紙、短尺書習ふべし。書やうはいろいろ有べし。たゞさはがしからぬ心遣ひありたしと也。猿みの能筆也。されども今少大也。作者の名大にていやしく見へ侍ると也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 

 俳諧師は揮毫を求められることが多いので書はきちんと習っておく必要がある。特に流派は問わない。芭蕉は大師流だと言われている。

 『猿蓑』が能筆だというのはなるほどと思うので、ネットで早稲田大学図書館のものが見れるので見てみるといい。確かに作者の名前が大きい。読みやすいけど。

 

 「能書の物かけるには、歌の詞、手爾葉など違ふ事必あり。ふしぎに思ふべからず。かなゝどのつゞき、時の拍子、又書ざま見ぐるしき所、書違へたる事多しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 

 撰集での書き間違いはそんなに珍しいことではない。手書きで連綿していると、活字と違って後からそこだけ直すということができないからだろう。原稿の段階で間違ってる場合もあるし、清書の段階で間違うこともあるし、版木に移す段階で間違うこともあっただろう。

 今の出版社も校正のプロが一生懸命やっているのだろうけど、やはりたまに誤植がある。ネット上の文章もそうだが、誤字や入力ミスを完全になくすのは難しいから、ネットも間違いは付き物だと思って読んだ方が良い。「ふしぎに思ふべからず。」

32,席順

 「師常に我をわすれず、心遣ひあること也。或方にて貴人師を座上に請待せらるゝ事しきり也。師の曰、此所似合の所と、落着申也。席過侍れば心しづかならず、俳諧の障に成侍るの間、心まゝにと願ふ也。尤の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.143)

 

 「請待」は「招待」に同じ。

 俳諧の際の席順が普通どうやって決められるのかはわからないが、多分一番上座に座るのは文台を構えた主筆(執筆)なのではないかと思う。

 多分連歌の頃は身分順に上座から下座に並んだのではないかと思う。さすがに摂政関白を下座に座らせることはなかっただろう。地下の連歌師が下座だったのではないかと思う。

 俳諧の場合、麋塒や露沾や許六がどこに座ってたかにしても路通の座る位置にしても、特に記録されているわけではない。連歌でも俳諧でも記録されないということは、それほど関心もなかったということだろう。

 ただ、この文章から何となく伺われるのは、上座下座は俳諧師としての実績ではなく、おおむね俗世間での身分を反映していたのではないかということだ。

33,最後の旅

 「又、ある旅行の時、門人二三子伴ひ出られしに、難波のすこしこなたより駕おりて、雨の薦に身をなして入り申さるゝと也。その後、此事をとへば、かゝる都の地にては、乞食行脚の身を忘れて成がたしと也。駕をかるに價を人のいふごとくに毎も成し侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144)

 

 芭蕉が大阪に行ったのは元禄七年九月九日で、このまま芭蕉は大阪で息をひきとることになる。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)によれば、同行した門人は支考・惟然それに加えて実家の又右衛門。江戸から戻った二郎兵衛だったという。

 九月八日に伊賀を出て奈良で一泊してからくらがり峠を越えて大阪に入ったという。くらがり峠は暗峠奈良街道で、今日の国道308号線に引き継がれている。

 おそらくこのくらがり峠を越える直前に駕籠を下りたのだろう。芭蕉の最後の旅は江戸を出た時から駕籠に乗っていた。病状が悪化していて歩くことはもとより馬での移動にも耐えられなかったのだろう。

 

   くらがり峠にて

 菊の香にくらがり登る節句かな  芭蕉

   九日、南都をたちける心を

 菊に出て奈良と難波は宵月夜   芭蕉

 

の二句を詠んでいる。

 大阪はあと坂を下りるだけとはいえ、かなりの急坂だし、坂を下りてから宿泊地の高津宮洒堂亭までは三里くらいあるから、かなり無理をしたのではなかったかと思う。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)の九月十日の所には、

 

 「この日、暁方から寒気・熱・頭痛に襲われる。同じ症状が二十日頃まで毎晩繰り返す。」

 

とある。

 大阪は『笈の小文』の旅の時に一度来てはいたが、二度目の大阪入りもどうしても自分の足で歩きたかったのだろう。

34,無常迅速

 「師ある方に客に行て、食の後、蠟燭をはや取べしといへり。夜の更る事眼に見へて心せはしきと也。かく物の見ゆる所、その自心の趣俳諧也。

 つゞいていはく、いのちも又かくのごとしと也。無常の觀、猶亡師の心なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144)

 

 当時のことだから夕方のまだ明るいうちに夕食を食べたのだろう。それが終わったら興行の予定だったのか、蝋燭を早く持ってくるように言う。早くしないと夜が更けるということでせわしく興行の準備をする様は、それ自体が俳諧のようだ。

 連歌や延宝の頃までの百韻中心の俳諧興行は朝に始まり夕方に終わるが、天和の頃から歌仙興行が中心になり、夕食後に始まることが多くなった。

 こうやって早く興行を始めようとしていると、人生もこんなふうにすぐに終わってしまうんだ、と言う。

35,旅の記

 「あるとしの旅行、道の記すこし書るよし物がたりあり。是をこひて見むとすれば、師のいはく、さのみ見る所なし。死て後見侍らば、是とても又あはれにて見る所もあるべしと也。感心なる詞也。見ざれどもあはれふかし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144)

 旅が終わって土芳の所に来たということは、『奥の細道』の旅だろうか。この頃から少しづつ旅の記録を残すようにして、元禄五年夏、第三次芭蕉庵が完成した頃から一気に書き上げたのだろう。

 死後に公開する予定だったので、今は見せられないということだった。

36,鵜匠の教え

 「師一とせ岐阜鵜飼見の時、鵜尉一人に十二羽宛、舟に篝して其ひかりにこれを遣ふ。十二筋の繩、たて横にもぢれて、さばきむづかしき事を、事やすく是をなす。鵜尉に此事を尋ね侍れば、先もぢれぬよりさばきて、なまもぢれ成るものを又さばく。むづかしくもぢれたるもの、ひとりほどけさばくるといへり。万に此心はあるべし、となり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.144~145)

 

 「もぢれる」は「よじれる」と同じ。この場合は縄が絡まることか。

 鵜飼いを見たのは貞享五年の夏で、

 

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 芭蕉

 

の句を詠んだときであろう。

 鵜匠は十二羽の鵜を一度に扱い、その十二本の繩が絡まって、ほどくのが難しいのではないかと思っても、それを鵜匠は難なくほどいてゆく。鵜匠にこのことを尋ねたら、まずは絡まらないようにし、ちょっとでも絡まったらすぐにほどく。これをやっていると、ぐちゃぐちゃに絡まっても自ずとほどけるようになるという答えだった。

 これはあらゆることにいえることだ。まずはそうならないように、なったら早めに対処する。これを繰り返して行けば、いくら事態が複雑になっても一つ一つ順番にほどいていけば自ずと解決する。

37,ある門人

 「ある門人の事をいひて、かれかならず此道にはなれず、取付侍るやうにすべし。はいかいはなくてもあるべし。たゞ世情に和せず、人情通ぜざれば、人不調。まして宜友なくてはなりがたしと也。又いはく、人是非に立る筋多し。今其地にあるべからずと、恨あるべき人の方にも行かよひ、老後には心のさはりもなく見え侍る事あり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145)

 

 路通のことであろう。路通が京都や近江の門人とうまくいってないことから、元禄三年春、『奥の細道』の師の跡を尋ねる旅を計画する。これに対し、ほとんど破門とも取れるような、

 

 草枕まことの花見しても来よ   芭蕉

 

の句を贈る。

 そしてその直後、路通が茶入れを盗んでその罪を支考に押し付けたという報告を受け、江戸にいた膳所藩士の曲水に手紙を送っている。結局路通は無実だった。

 路通は何らかの形で今日や近江の俳壇から排除されようとして、芭蕉はその動きの本質を理解してなかったのだろう。門人に言われるがままに路通の人格的な問題だと思っていたようだ。

 結局元禄四年秋には芭蕉は路通と同座しているから、その頃には許されていたのであろう。

 この事件の背景には身分の問題が絡んでいたのではないかと思う。後の明治の漂泊の俳諧師「乞食井月」の場合と同様、被差別民の出自だったのではないかと思う。関東に比べて関西、特に長い歴史のある京都や滋賀は今でも深刻な差別のある地域だ。

 幼少期から厳しい差別を受けてきたことで世俗の価値観を信用せず、怒りの矛先をかわすためのその場限りの言い逃れが多くなる。それを不誠実と見られたのであろう。アメリカ映画の黒人キャラにもこの手のものは多い。『スターウォーズ』のジャージャー・ビンクスはアメリカでも問題になったようだが。

 路通がよりどころにするのは仏教の世捨人としての生き方で、芭蕉以上に徹底して一所不住を貫いていた。それは芭蕉のような古典の伝統につながるためではなく、より原理主義的なものではなかったかとおもう。

 芭蕉の『奥の細道』の旅の後の「一泊まり」の巻二十六句目の、

 

   たふとさは熊野参りの咄して

 薬手づから人にほどこす     路通

 

の句はそんな路通の理想の高さがあらわれている。これに対し芭蕉は、

 

   薬手づから人にほどこす

 田を買ふて侘しうもなき桑門   芭蕉

 

と返している。薬を施すなんてのは、寺領を所有し、きちんと経済的な基盤があってできるものだ。そう諭しているかのようだ。

 そんな路通の消息だが、岡田喜秋さんの『旅人曾良と芭蕉』(一九九一、河出書房新社)にこんな話が載っている。

 

 「この紀行文は曾良が若いころ知り合った同学の士のひとり、並河誠所の書いたもので、この人は吉川惟足の門下生で、曾良より若く、江戸へ出てきた曾良がいちはやく親しくなった人である。彼の書いた『伊香保道記』といふ紀行文がある。その中に、榛名神社で、一人の老人に出会った記述がある。」(p.262)

 

 渡辺徹さんはこれを曾良ではないかと言ったが、曾良を良く知る人物の書いたものなら、この老人が曾良だったらはっきりと曾良だったと書くだろう。岡田喜秋さんは路通ではないかとしている。

 

 「玉階を下りつくし、楫して過ぎ出れバ楼門の傍より白髪の老翁鋤を荷ひて歩ミ来るに逢ぬ。見れバ二十年前の旧相識なり。世に志も得ざりけれバ一家の婚家すでにをはりぬとて、仕る道をかへして芭蕉翁と云ひし浮屠を友なひ歌枕見んとて出でし人なり、共に年をとりて往事を語る。まことに茫々夢かとのミぞ思ハる。」(p.266)

 

 路通は当初芭蕉の『奥の細道』の旅に同行する予定だったが、直前に曾良に変えられた。それでも芭蕉を慕い、山中温泉で曾良が先に伊勢長島に向かったあと、路通は芭蕉を出迎えに敦賀まで行き、そこからともに旅をし、伊勢まで同行している。

38,聖徳太子の冠

 「一とせ大和の法隆寺に、太子の開帳有。その頃、太子の冠見おとし侍るとて、後の開帳に又趣れし也。かゝる古代のものを心にかけて、旅立れし師の心のほど思ひやるべし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145)

 

 ネットで見たら「太子ゆかりの寺宝が過去最大規模で一挙公開 特別展『聖徳太子と法隆寺』」というのが目に入った。今でも法隆寺の秘宝の特別開帳は時々あるようだが、それとは別に奈良国立博物館と東京国立博物館で特別展があるようだ。そのポスターにもなっている国宝 聖徳太子および侍者像の聖徳太子は立派な冠を被っているが、これのことだろうか。

 芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の時にも『笈の小文』の旅の時にも奈良に行っているし、最後の旅でも奈良に立ち寄っている。伊賀から奈良は近いので、その他にも行く機会があったかもしれない。

39,詩

 「ある禪僧、詩の事をたづねられしに、師の曰、詩の事は隱士素堂といふもの、此道にふかき好ものにて、人も名をしれる也。かれつねに云、詩は隱者にふかき好ものにて、人も名をしれる也。かれつねに云、詩は隱者の詩、風雅にて宜と云と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145)

 

 禅僧が誰なのかはよくわからない。伊賀の禅僧か。漢詩のことは芭蕉もそれほど詳しくないのか素堂が常に隠者の詩の風雅が大事だと言っていると答えている。

40,定家卿五首の秘哥

 「師のいはく、定家卿五首の秘哥に、こぬ人を入るといふ説あり。この秘といふはたゞ難なき哥を出したる所をいふと也。撰者の身として、すぐれたる哥もおとなしかるまじとの心遣ひ也。難ある哥も猶いかゞ也。この心得を秘といふとなり。能見せしめ也と師もいへるなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.145~146)

 

 久保田正文さんの『百人一首の世界』に、

 

 「定家卿五首の秘歌」というのは、徳川時代初期に、二条家において成立した秘伝で、「百人一首五歌の秘事」とも言われ、人麿の「〈3〉あし曳の」、仲麿の「〈7〉あまの原」、喜撰の「〈8〉わが庵は」、忠岑の「〈30〉ありあけの」、定家の「〈97〉こぬ人を」の五首をさすものである。」

 

とある。

 ネット上の大坪利絹さんの『百人一首秘訣』には、

 

   二条家

 一あし引の山鳥の尾の      人麿

 山鳥ハ和國の賢鳥也。雌雄尾をへたてゝぬるものなれハ序哥なから甚深の心をふくめり 是ハ其夜をさしてよめる哥にハあらす 明ル日よめる也 又来ん夜も獨あかさんよと 夜のなかき事をおもひ入よめるなり

 一天の原ふりさけミれハ     仲麿

 此作者天文道をきハめ天地を手のうらに提けたる人なれハ 身ハ明州萬里のあなたにありなから 故郷の三笠山の月 端的に心にうかひてあらはれたる也 哥道も天地も心をめくらし手裡におさむる道理を工夫すへしとそ

 一わか庵ハミやこのたつミ    喜撰

 世ハ色受想行識にひかれて六塵の宇治山と人ハいふ也 仍て我もさうそ思ひえて 一念もおこらぬ心王を 何とそして本覚法身の王舎城にすませたく思へハ この宇治山にすむと也 さて六塵にもけかれねハ 都のたつミをのつから王舎城となる也 五蘊もをのつから本覚真如の都となる也 所詮迷悟ハ只一心にあるとさとるへきの教也

 一晨明のつれなく見えし     忠峯

 曉はかりに對してよめる也 宵ならハ何とそしてわひてもミむに曉ほとうき物ハなしと也 不逢皈恋と見る事當流のこゝろなり

 一こぬ人をまつほのうらの    定家

 此哥古事をふまへてよめるを傳にする也 印の烟の古事なり

 

とある。

 芭蕉によれば、この「来ぬ人」の歌を入れたのは難なき歌だからで、この心得を秘というという。必ずしも優れた歌を選んだわけでもなく、かといって難有る歌を入れるわけにもいかない。

 なお、「印の烟の古事」

 

 立ち別れいなばの山の峰に生ふる

     まつとし聞かば今帰り来む

            在原行平(古今集)

 

の古事のことであろう。

41,伊勢の歌

 「伊勢が哥の、としをへて花の鏡となる水は、とある此五文字なくても下ばかりにて哥よく聞へたり。此五文字、年々水清くすみて水のかはらざるに、花のちりかゝるを曇といへる也。五文字粉骨の哥なりと師のいへる也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.146)

 

 この歌は、

 

 年をへて花の鏡となる水は

     散りかかるをや曇るといふらむ

            伊勢(古今集)

 

の歌で、最初の「年をへて」がなくても意味が通じる。

 芭蕉はこれを、上五がなかなか決まらない発句と同じに考えたのだろう。『去来抄』にも「雪つむ上のよるの雨」の上五がなかなか決まらなくて、芭蕉が「下京や」にして「若まさる物あらバ 我二度俳諧をいふべからず」と言ったというエピソードが記されている。

 これは、「花の鏡となる水は散りかかるをや曇るといふらむ」にどのような上五を乗せるという問題だ。それだけに「年をへて」はよくぞ見つけたり、ということになる。

42,うたかた

 「涙川たへずながるゝうき瀨にもうたかた人にあはで消めや、この哥の、うたかたは、むしろといふ字、何ンぞといふ字二説あり。義理は何ンぞ也。なんぞ人にあはできへんと也。されども、定家卿の云、何ンぞと義理を結で見るべからず、いやしき也。うたかたはたゞ水のことにいはんと思ひていへる計と聞べしと也。亡師も義理を詰るはいやしといへる、おもしろしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.146)

 

 この歌は見つけることができなかった。

 「うたかた」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「[一]名詞

  (水に浮かぶ)あわ。多く、はかないもののたとえに用いられる。

  出典方丈記 

  「淀(よど)みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」

  [訳] (川の)流れの滞っている所に浮かぶ水のあわは、一方では消え、同時に一方ではできて、そのまま(川の面に)長くとどまっている例はない。

  [二]副詞

  少しの間。「うたがた」とも。▽あわが、はかなく消える意から。

  出典源氏物語 真木柱

  「ながめする軒のしづくに袖(そで)ぬれてうたかた人を偲(しの)ばざらめや」

  [訳] 長雨が降る軒のしずくとともに、もの思いに沈む私は袖をぬらしながら、少しの間でもあなたを思い出さずにはおられましょうか。」

 

とある。この場合は[二]副詞の意味ではなく[一]名詞の意味だということだろう。

 藤原定家の『拾遺愚草』には、

 

 いづみ河かはなみきよくさすさをの

     うたかたなつをおのれけちつつ

 きえぬべし見ればなみだのたきつせに

     うたかた人のあとをこひつつ

 今はただわが身ひとつのおもひ河

     うたかたきえてたぎつしらなみ

 

の三つの用例がある。

43,古今の序

 「古今の序に、哥人のうたざまをおのおの難じたるやうに貫之の書なせる也。師のいはく、難じたるにあらず、その人々の粉骨の所を見顯し賞したる所也。喜撰法師の曉の雲の事、我庵はの哥すへ、人はいふ也とあるあたり也。いくたびも可味と也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.146~147)

 

 『古今和歌集』仮名序の喜撰法師のくだりは、

 

 「宇治山のそうきせんは、ことばかすかにして、はじめ、をはり、たしかならず。いはば、秋の月を見るに、あかつきのくもにあへるがごとし。

 わがいほはみやこのたつみしかぞすむ

     世をうぢ山と人はいふなり

 よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず。 」

 

で、まあ確かに「わが庵は」と自己紹介のように見えて最後に「人はいふなり」では、本当はどうなんだになってしまう。そこのぼやかした言い方が粉骨であって、余韻になる。それが「曉の雲」に喩えた紀貫之の意図だというのだろう。

44,カササギの歌

 「かさゝぎの哥は、夜をうば玉といふより、かさゝぎの橋と夜るくらき空の事をよめる也。空の事を天のうきはしなど橋にいひたること多し。たゞ夜のくらき空をたる趣向、此うたばかり也。趣向の本所かはりたるをほめたる儀なり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.147)

 

 カササギというと『百人一首』にもある、

 

 かささぎの渡せる橋に置く霜の

     白きを見れば夜ぞふけにける

            中納言家持(新古今集)

 

の歌が今日ではよく知られているが、これは霜を詠んでいて「たゞ夜のくらき空をたる趣向」ではないように思える。同じく、

 鵲の雲のかけはし秋暮れて

     夜半には霜や冴えわたるらむ

            寂蓮法師(新古今集)

 

も霜を詠んでいる。家持の歌を本歌とした歌だろう。

 ここで言う「かさゝぎの哥」はひょっとしたら今日茶道具に用いられている、

 

 長き夜にはねを並ぶる契とて

     秋まちわたる鵲のはし

            藤原定家(拾遺愚草)

 

のことかもしれない。

 この歌なら霜もなければ雲も詠まれていない。「鵲のはし」はただ夜の暗き空の意味になる。

45,浜庇

 「濱庇は高眞砂の崩かゝりたるが、ひさしのごとくなるとなり。又濱にある家、笘屋などの類ともいへり。定家卿哥に、後鳥羽の院熊野へ行幸の供奉に新宮へ三首の哥あり。題庭上冬菊といふにえて、霜おかぬ南の海のはまひさし久しく殘る秋のしら菊、と讀り。此哥は濱家のひさし也。しからねば、庭の字落題也、浪間より見ゆるおしまのはまひさし久しくなりぬ君にあひみて、是は久しきといはん枕詞也。序哥也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.147)

 

 「浜庇(はまびさし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「浜庇」の解説」に、

 

 「① (「万葉集」の「浜久木(はまひさぎ)」を読み誤ってできた語という) 浜辺の家の庇(ひさし)。

  ※伊勢物語(10C前)一一六「浪間より見ゆる小島のはまひさし久しくなりぬ君に逢ひ見で」

  ② 海辺の苫屋(とまや)。漁師の粗末な家。浜屋。

  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)二「昔日は浜(ハマ)びさしの住ゐせしが」

  [補注]①については、「日葡辞書」の説明などから、浜辺に打ち寄せる波が砂をえぐって庇のように見える部分ともいわれ、「俳・三冊子‐わすれ水」にも「浜庇は高砂の崩かかりたるが庇のごとく成るとなり」とある。」

 

とある。「濱庇は高眞砂の崩かゝりたるが、ひさしのごとくなるとなり。」というのはこのどちらでもない。三日月型砂丘のことと思われる。

 

   庭上冬菊

 霜おかぬ南の海のはまひさし

     久しく殘る秋のしら菊

            藤原定家(拾遺愚草)

 

の句は浜辺の家の庇で、そうでなければ「庭上冬菊」という題の「庭」という要件を満たさない。

 ちなみに新宮の三首の歌のあと二首は、

 

   海辺残月

 わたつうみもひとつに見ゆるあまのとの

     あくるもわかずすめる月影

            藤原定家(拾遺愚草)

   暁聞竹風

 あけぬるか竹のは風のふしながら

     まづこのきみのちよぞきこゆる

            同

 

になる。

 もう一首の、

 

 浪間より見ゆるおしまのはまひさし

     久しくなりぬ君にあひみて

 

の歌は『伊勢物語』一一六段の歌で、これは「久し」を導き出す枕詞(今の古典教育だと「序詞」)だという。

46,清濁

 「清濁、にごるを清は難なし。清ムを濁るは恥也。かり衣、から衣、この二は清也。此類皆下を濁る也。旅衣の類なり。

 はしひめ、さよひめ、さ保姫、此三清て外は下を濁る也。濁るは二ツ物をつゞくるには必あり。酒も大酒といへば、ざけ、とにごる類也。濁るは和らぐ道理也。清ムは陽、濁るは陰也。・は陽、すむ也。‥は陰、濁る也。數一は陽、二は陰也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.147~148)

 

 二つの詞がつながった時に後の言葉も頭が濁音になる現象を「連濁」と呼ぶ。いくつか大雑把な法則はあるが、すべての連濁を整然と説明できるような法則は残念ながら未だにない。

 たとえば「かりころも」「からころも」は濁らないが「たびごろも」は濁る。なぜかと言われてもよくわからない。「衣」を「きぬ」と読む場合は「かりぎぬ」「からぎぬ」になる。

 おおむね、二つの言葉の結合が深い場合は連濁が発生する傾向にある。いわば連濁は接着剤のような効果がある。あと、元から清濁の定まった外来語は連濁しない。

 「濁るは和らぐ道理也」というのは二つの言葉をつなぐ、調和させる、という意味であろう。

 漢語の清濁の場合はまた別の法則が存在している。たとえば一本二本三本を「いっぽん」「にほん」「さんぼん」と読むのは、一が本来ietという子音で終わる字で二がniiで母音で終わる字、三はsambでまた特殊な子音で終わることによる。四は和語で「しほん」ではなく「よんほん」と読むので、和語に外来語と付いた場合に準じて濁らなくなる。七本も「ななほん」と読むので濁らない。六本はliokと子音で終わるため「ろっぽん」になる。

 ただ、これも時代が下り、中国の方で漢音から宋音に変化すると、入声がなくなるため、たとえば「日本」はniet本(にっぽん)ではなくrii本になるので「にほん」になる。中国語のrは濁った音に聞こえるため、マルコポーロはこれを「ジ」と発音して「ジパング」となり、西洋ではJの字を使うようになった。

 「にごるを清は難なし」というのはくっついた言葉を元の形に戻すだけだからそれほど問題ではなく、「清ムを濁る」をくっついてない言葉をくっつけるから恥となる。

 秋葉原は本来秋葉(あきは)神社の原っぱだから、「あきはばら」になる。秋葉を「あきは」と清音で読むのは、古代は「秋津葉(あきつは)」だったからと言われている。

 ただ、最近になって秋葉原の原を略すようになったときには、本来「秋葉(あきは)神社」に由来しているということが忘れ去られてしまったため、秋葉は「あきば」と発音されている。

 地名や人名の清濁は場所によって違い、伊豆大島は「おおしま」だが、江東区大島は「おおじま」になる。こういうのは一つ一つ覚えるほかない。

 清濁を陰陽に結び付ける考え方は中国の陰陽五行説に根差すもので、陽気は澄んでいて上昇し、陰気は濁っていて下降する。上昇した気は天になり、下降した気は地になるという考え方から来ている。連濁の説明とはそれほど関係はない。強いて言えば濁るものは大地のように密着し、清いものは大気のように拡散するという所か。

 澄んだ陽気の上昇と濁った陰気の下降による天地の創造は、沈殿の現象でもって説明されている。

47,呼子鳥

 「呼子鳥の事、師のいはく、季吟老人に對面の時、御傘に春の夕ぐれ梢高くきて鳴鳥と思ひて句をすべしと有。貞德の心いかにとたづねられしに、老人のいはく、貞徳も古今傳授の人とは見へず、全句をせざる事也といへるよし、師のはなしあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)

 

 呼子鳥は古今伝授の三鳥の一つ。三鳥は呼子鳥、稲負鳥、百千鳥をいう。

 稲負鳥(いなおうせどり)は延宝の頃信徳が京で百韻七巻と五十韻一巻の『俳諧七百五十韻』を刊行したときの発句の一つに、

 

 鳫にきけいなおほせ鳥といへるあり 春澄

 

と詠み、延宝九年の『俳諧次韻』で、

 

   鳫にきけといふ五文字をこたふ

 春澄にとへ稲負鳥といへるあり  其角

 

と返したこともあった。

 

 わがかどにいなおほせ鳥の鳴くなへに

     けさ吹く風に雁は來にけり

            よみ人しらず(古今集)

 

の歌に詠まれた謎の鳥とされている。鶺鴒説が有力ではある。

 百千鳥(ももちどり)も

 

 ももちどりさへづる春は物ごとに

     あらたまれども我ぞふりゆく

            よみ人しらず(古今集)

 

の歌に詠まれていて、謎の鳥とされている。鶯説と不特定多数説がある。

 もう一つが呼子鳥だが、ツツドリ説が有力とされている。

 元禄二年六月十日『奥の細道』の旅の羽黒山で興行された「めづらしや」の巻の三十五句目に、

 

   行かよふべき歌のつぎ橋

 花のとき啼とやらいふ呼子鳥   芭蕉

 

の句がある。

 「御傘に春の夕ぐれ梢高くきて鳴鳥と思ひて句をすべしと有。」とあるが、『日本俳書大系 篇外 蕉門俳諧續集』(一九二七、日本俳書大系刊行會)所収の『俳諧御傘』には、

 

 「古今の大事なれば、傳受せざる人はむさとせぬ事なりと、近代連歌師は制するげに候。俳諧には傳受せずとも、正躰をしらずとも、春の暮かたになく鳥也と心得てすべし。其子細は、むかし連哥師はこれを不憚すでに宗養は三十九歳にして死去あれば古今未傳の人也。獨吟にも、鳴てかへれば又よぶこ鳥、といふ句あり。その上和哥の題に、よぶこどり常に出せり。更に憚事にあらざる也。大事の春の景物を人にさせぬは、道をせばむる道理あり。呼子鳥 連哥に一座一句なれ共、春の季も大切なれば二句もすべし。但、世上の人大事に思ひ付たる鳥なれば、誰にも壹句にて置べし。」

 

とある。「夕ぐれ梢高くきて」の文字はない。季吟への口伝だったか。

 ちなみにツツドリはウィキペディアに、

 

 「平地から山地の森林内に単独で生息するため姿を見る機会は少ないが、渡りの時期には都市公園などにも姿を現す。樹上の昆虫類を捕食し、特にケムシを好む。地鳴きやメスの鳴き声は「ピピピ…」と聞こえるが、繁殖期のオスは「ポポ、ポポ」と繰り返し鳴く。」

 

とある。

48,伊勢の浜荻

 「い勢の濱荻、芦にあらず。荻に似たる物にて別也。いせに限也。角組とき葉一巻也。祭主祐親娘、濱荻と名付られしと也。伊せの海、するがの海、石見の海等、國の名なれども、名所に取る景をほめていへる故の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)

 

 伊勢の浜荻というと『菟玖波集』の、

 

   草の名も所によりてかはるなり

 難波の葦は伊勢の浜荻      救済

の句があるように、同じものが場所によって名前を変える例とされていた。

 謡曲『蘆刈』にも、

 

 なかなかの事この蘆を、伊勢人は浜荻といひ、

 ワキ「難波人は、

 シテ「蘆といふ。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.44179-44183). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とあり、謡曲『歌占』にも、

 

 神風や伊勢の浜荻名をかへて、伊勢の浜荻名をかへて、よしといふもあしといふも、同じ草なりとく ものを、(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.45414-45418). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 浜荻に関しては今でもコトバンクの「デジタル大辞泉「伊勢の浜荻」の解説」に、

 

 「1 伊勢の浜辺に生えている荻。

  「あたら夜を―折り敷きて妹(いも)恋ひしらに見つる月かな」〈千載・羇旅〉

  2 《伊勢では「はまおぎ」とよぶところから》葦(あし)のこと。

  「―名を変へて、よしといふもあしといふも、同じ草なりと聞くものを」〈謡・歌占〉」

 

とあるように、二つの説が併記されている。ただ、いずれにせよイセハマオギのような固有種があるわけではなく、芦か荻かどちらかだとされている。「荻に似たる物にて別也」という説は見られない。実際には、様々なイネ科の植物が伊勢に生えているため、特定は難しい。

 芦であれ荻であれ、わざわざ「伊勢の浜荻」という言葉を用いて歌を詠むというのは、「名所に取る景をほめていへる故の事」だというのは間違いないだろう。

 

 あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて

     妹恋しらに見つる月かな

            藤原基俊(千載集)

 

の歌がよく知られている。

49,春雨と春の雨

 「春雨はをやみなく、いつまでもふりつゞくやうにする、三月をいふ。二月末よりも用る也。正月、二月はじめを春の雨と也。五月を五月雨と云、晴間なきやうに云もの也。六月夕立、しちがつにもかゝるべし。九月露時雨也。十月時雨、其後を雪、みぞれなどいひ來る也。急雨は三四月、七八月の間に有こゝろへ也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.148)

 今日では春雨というと霧のような細かい雨、春の霧雨というイメージがある。「新国劇」の月形半平太の「春雨じゃ、濡れてまいろう」というセリフは昭和の頃よく聞かれたが、最近はあまり言わなくなった。

 中世連歌の「応仁元年夏心敬独吟山何百韻」九十五句目に、

 

   八重おく露もかすむ日のかげ

 春雨の細かにそそぐこの朝    心敬

 

の句があるから、これも間違ってはいないのだろう。延宝四年の「此梅に」の巻第三にも、

 

   ましてや蛙人間の作

 春雨のかるうしやれたる世中に  信章

 

の句があるように、春雨は軽く降る。

 ただ、元禄五年刊の才麿編『椎の葉』所収の「立出て」の巻三十二句目に、

 

   とりどりに骨牌をかくす膝の下

 とまりをかゆる春雨の船     尚列

 

とあるから、川が増水して船の留める場所を変えるくらい降っている。三月に持続的に降る雨、今日でいう菜種梅雨のことと思われる。

 江戸後期の曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には、「兼三春物」として、

 

 「春雨 春の雨 膏雨 [鬼貫独言]云、春の雨はものこもりてさびし。」

 

とある。春雨と春の雨は特に区別されてない。

 「春の雨」は今日だと「一雨ごとに暖かくなる」というイメージになる。既に暖かくなった新暦四月の雨ではないので、この区別は今日でも暗黙の裡にあるのだろう。ただ、区別はあいまいで、霧雨なら寒くても春雨ということもある。思うに、近代では「菜種梅雨」という言葉が定着したため、春雨がかつて持っていた旧暦三月に持続的に降る雨という意味が消えてしまい、霧雨だけが残ったのだろう。

 「露時雨」は和歌の時雨が晩秋から初冬にかけてのものだったのを、連歌の式目で時雨を冬としたら、秋の時雨を露時雨とする意味と、露が多く下りてあたかも時雨が降ったようだという比喩の意味とがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「露時雨」の解説」に、

 

 「① 露としぐれ。《季・秋》

  ※新古今(1205)秋下・五三七「露時雨もる山かげの下紅葉ぬる共をらん秋のかたみに〈藤原家隆〉」

  ② 晩秋のころ、しぐれのように一時さっと降る雨。《季・秋》

  ※至宝抄(1585)「露時雨 初時雨は冬也。霧などかいづれ秋の道具結び候へば秋なり」

  ③ 露がいっぱいおりて、しぐれが降ったようになること。また、草木の葉などに露がたくさんたまって、そのしたたるさまがしぐれの降るようであること。《季・秋》

  ※続春夏秋冬(1906‐07)〈河東碧梧桐選〉秋「露時雨方十尺を踏ましめず〈観魚〉」

 

とある。

 急雨(きゅうう)はにわか雨で無季。

50,風の名前

 「東風、春風也。 東風解凍と書文有。夏は南風、秋は西風、冬は北風と漢に用る也。和にさのみその沙汰なし。されども、その心遣ひはあるべきか。夏は嵐なきやうにする也。春は少の風も花をいとひて、嵐と和にもいふ也。秋の初風、はつ嵐と云。中秋にはあらき風を野分と云。初冬の風を木がらしと云。末の冬に至ては、嵐は却而似ざるやうに連哥に用る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)

 

 「東風解凍」は『去来抄・三冊子・旅寝論』の文字がよく読めないためためにこう表記した。解は門構えの中に横棒の入った判読しにくい旁が入っている。レ点があってトクとルビがふってあるので、一般的に用いられている「解」の字で代用しておく。

 東風(こち)は春風に同じ。「東風解凍」は七十二候にある。

 

 袖ひちてむすびし水のこほれるを

     春立つけふの風やとくらむ

            紀貫之(古今集)

 

の歌にも詠まれている。紀貫之は貞観の頃の生まれとされているので、宣明暦は既に導入されていた。

 春風は桜の花を散らすものとして、花を厭う。花を散らす風は嵐ともいう。秋の初風は初嵐ともいう。元禄四年秋の「牛部屋に」の巻三十一句目に、

 

   藪くぐられぬ忍路の月

 匂ひ水したるくなりて初あらし  史邦

 

の句がある。

 野分は今日の台風のこととされている。当時は気象衛星の映像で見るような台風の全貌を知ることはなかっただろうけど、一過性で移動してゆくことは経験的に知られていて、元禄七年秋に、

 

 あれあれて末は海行野分哉    猿雖

 

の発句がある。

51,蛍、蝉、夕立

 「螢、四五月より秋迄も用る。蟬、六月專に暑の甚しき時を用る。秋までもかゝるべし。日ぐらし、せみのやうに鳴て夜もなく。初秋に啼、日中には不鳴、曇りにはなく。  夕立は夕時分といふにあらねども、晝より後にあるやうにと連歌云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)

 このあたりは今日の感覚とそれほど離れてはいない。暑い時に鳴く蝉と涼しい時に鳴くヒグラシが区別されている。夕立は夜に鳴っても夕立というのは今日も同じ。

52,順の峯入、逆の峰入

 「順の峯入、逆の峰入とも夏也。むかし紀の國路より、みねに入て是を順といふ。今はよし野よりいりて是を逆と云。今の峯入は逆也。諸ともの哥、順逆ともに夏故に感ふかしと師の云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)

 

 コトバンクの精選版 日本国語大辞典「峰入」の解説には、

 

 「〘名〙 修験者が、大和国(奈良県)吉野郡の大峰山にはいって修行すること。陰暦四月本山派の修験者が、熊野から大峰山を経て吉野にぬける「順の峰入り」と、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」とがある。大峰入り。《季・夏》

  ※光悦本謡曲・葛城(1465頃)「此山の度々峯入して、通ひなれたる山路」

 

とあり、熊野から大峰の抜けるのを「順」とし、吉野から熊野に抜けるのを「逆」としていて、季語は「夏」としている。

 同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「順の峰入り」の解説」には、

 

 「天台系の本山派の修験者が、役行者(えんのぎょうじゃ)の入山を慕って、熊野から葛城(かつらぎ)・大峰を経て吉野へ出る行事。真言系の当山派の逆の峰入りに対する語。順の峰。《季・春》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

 

とある。

 ここでも「順」と「逆」は一緒だが、季語は「春」になっている。

 元禄二年春の「衣装して」の巻三十五句目に、

 

   折にのせたつ草の初物

 入過て餘りよし野の花の奥    芭蕉

 

の句がある。この「入」は順の峯入のことであろう。ここでは花の句なので春になる。

 貞享四年の「旅人と我名よばれん」を発句とする興行の二十三句目には、

 

   別るる雁をかへす琴の手

 順の峯しばしうき世の外に入   観水

 

とあるが、順の峯入りは春の句となっている。

 

 峯入の笠とられたる野分かな   許六

 

の発句は秋の句になっているが、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」の句であろう。

 「諸ともの哥」は

 

 もろともにあはれと思へ山桜

     花よりほかに知る人もなし

              行尊(金葉集)

 

の歌と思われるが、花の歌で夏とは思えない。

 ネット上の金任仲(キム・イムジュン)さんの『西行の大峰修行をめぐって ─説話との関連を中心に─』には、

 

 「大永七年(一五二七)奥書がある『修験道峰中火堂書』下巻には、  

 

 順峰修行ハ金剛界之修行也。秋八月晦日ノ入峰ハ熊野山那智瀧ノ本宿ヨリ大峰へ入リ。十月初八日萬歳峰へ駈出也。逆峰修行ハ胎蔵界之修行也。春三月十八日ハ吉野金峰山ヨリ大峰へ入リ。五月一日萬歳峰へ駈出。互相順逆ノ笈ヲハ萬歳峰渡シ請取ルト云。順峰ハ役君三論天台宗等ヨリ始ル。故二出札山門流ト書ク也。逆峰ハ真言宗ヨリ始ル。故二出札東寺流ト書ク也。

 

とあり、順峰・逆峰の方式と因縁などが記されている。」

 

とある。これによると順の峯入りが秋八月晦日に熊野から入るのが「順の峰入り」で、春三月十八日に吉野から入るのが「逆の峰入り」になっている。

 そうなると、春の桜や帰る雁を詠んだ峰入りは「逆の峰入り」で吉野から入ったことになる。これだと、「今はよし野よりいりて是を逆と云。今の峯入は逆也。」というのは正しいが季節は春になる。

 いずれにせよ、熊野から入るのが順で吉野から入るのが逆であることは間違いない。問題は季節で、吉野の桜を詠んだ歌や句がどちらから来たかという問題になる。桜や帰る雁の句が吉野から入る逆だとしたら、野分の峯入りは熊野から入る順になる。

 峰入りの時期は時代によって変わっているかもしれない。いずれにせよ「順の峯入、逆の峰入とも夏也」は疑問だ。

53,撥ねる字を「に」と読む

 「和歌には、はねる字を、にとよむ也。緣をえにと云、難波をなにはといひ、蘭をらにと云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149)

 

 古代の日本語には「ん」で終わる言葉がなかったからであろう。んで終わる言葉は母音を補って「に」としたのであろう。鬼(おに)も隠(おん)が語源だという。

 縁を「えに」と読んだ名残は今日でも「えにし」という言葉に残っている。難波は大阪の地名としては「なんば」と呼んでいる。

54,心の駒、心の松

 「心の駒は心のさはがしきを云。ひまの駒、光陰の去やすきをいふなり。

 心の松は不變の心也。又直成る心也。しるしの事をも云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149~150)

 

 「心の駒」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「心の駒」の解説」に、

 「=こころ(心)の馬

  ※草根集(1473頃)六「つながれぬ心の駒もおとろへき恋路さがしく遠き月日に」

 

とある。「心の馬」は、

 

 「(「衆経撰雑譬喩‐上」の「欲求善果報、臨命終時心馬不乱、則得随意、往不可不先調直心馬」による) 馬が勇み逸(はや)って押えがたいように、感情が激して自制しがたいこと。意馬。心の駒。

  ※新撰菟玖波集(1495)雑「あらそへる心のむまののり物に かちたるかたのいさむみだれ碁〈よみ人しらず〉」

 

とある。

 「ひまの駒」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「隙行く駒」の解説」に、

 

 「(「荘子‐知北遊」の「人生二天地之間一、若二白駒之過一レ郤、忽然而已」による) 壁のすきまに見る馬はたちまち過ぎ去ることの意から、月日の早く過ぎ去ることのたとえ。隙(げき)を過ぐる駒。白駒(はっく)隙(げき)を過ぐ。ひま過ぐる駒。ひまの駒。

  ※千載(1187)雑中・一〇八七「いかで我ひまゆく駒をひきとめて昔に帰る道を尋ねん〈三河内侍〉」

 

とある。

 「心の松」は「精選版 日本国語大辞典「心の松」の解説」に、

 

 「① (「松」を「待つ」にかけて) 心中に期待すること。

  ※拾遺(1005‐07頃か)恋四・八六六「杉たてる宿をぞ人はたづねける心の松はかひなかりけり〈よみ人しらず〉」

  ② 変わらない心を松の常緑であるのにたとえていう。〔宗祇袖下(1489頃)〕」

 

とある。

55,その他の語句

 「鳴子は田か畑か植物か、結びてする也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 

 鳴子はウィキペディアに、

 

 「鳴子(なるこ)は木の板に竹の管や木片を付けて音が出るようにした道具の一種。本来は防鳥用の農具である。引き板やスズメ威しなどの別名がある。また地域や時代によって、ヒタ、トリオドシ(鳥威し)、ガラガラなど様々な呼称がある。」

 

とある。

 

 「田鶴は水邊か、里ちかく鳴様にするなり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 

 田鶴はツルのことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鶴・田鶴」の解説」に、

 

 「〘名〙 鶴(つる)をいう。多く歌語として用いる。たずがね。

  ※万葉(8C後)六・九一九「和歌の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして多頭(タヅ)鳴きわたる」

  ※無名抄(1211頃)「たづは沢にこそ棲め、雲井に住む事やはある」

  [語誌](1)「万葉集」では、助動詞「つる」の訓借仮名として「鶴」を用いることがあるものの、鳥名「鶴」はすべて「たづ」と訓ぜられ、「たづ」は歌語として定着していたようである。

  (2)中古以降、散文にも用例が見られるが、なお雅語としてのニュアンスが強い。」

 

とある。芦田鶴(あしたづ)など、水辺に詠むことが多い。

 

 「朝の月は、十七日より廿八日まで也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 

 朝の月は明け方の沈む月ではないので、満月から二三日は除外する。

 

 「貌よ鳥、春されば野べに先なく貌よ鳥聲に見へツゝ忘られなくに、といふは雉子をよめり。又鶯をもよめり。霜氷る岩根につるゝ貌よ鳥浪の枕やわびてぬるらん、是鶯也。定家卿の云、貌よ鳥、春の鳥也となり。師の曰く、説々あれども、たゞ春の小鳥のいつくしきをいふと知るべしと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 

 貌鳥(かほどり)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (古くは「かおとり」) 鳥の名。なに鳥かは不明。かおよどり。《季・春》

  ※万葉(8C後)三・三七二「春日を 春日(かすが)の山の 高座(たかくら)の 御笠の山に 朝さらず 雲居たなびき 容鳥(かほとり)の 間無くしば鳴く」

  [補注]中古以後おおむね、「かおどり」の語義を、「かおばな」と同じく、容姿の美しい鳥と考えているが、雉(きじ)の雄、鴛鴦(おしどり)、翡翠(かわせみ)、雲雀(ひばり)、梟(ふくろう)、鴟鵂(みみずく)、蚊母鳥(よたか)、虎鶫(とらつぐみ)、青鳩(あおばと)、河烏(かわがらす)、郭公(かっこう)など、諸説ある。」

 

とある。

 

 春されば野べに先なく貌よ鳥

     聲に見へツゝ忘られなくに

 

の歌は不明だがよく似た、

 

 夕されば野べに鳴てふかほどりの

     かほにみえつつわすられなくに

 

の歌が『古今和歌六帖』にある。これはキジのことだという。

 

 霜氷る岩根につるゝ貌よ鳥

     浪の枕やわびてぬるらん

 

の歌も不明。ウグイスのことだという。

 容姿の美しい鳥で、春を彩る鳥のことで、特に特定の種を指すのではないようだ。

 

 「殘鴈、説あり。哥の題には冬也。連俳には秋に用る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 

 残雁はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「残雁」の解説」に、

 

 「春になっても、まだ北へ渡って行かないで残っている雁。また、秋になっても北陸地方にとどまり、南へ渡らないで残っている雁。《季・春/秋》

  ※無言抄(1598)下「残る鴈 秋なり。帰鴈の残る心な一向不謂。こし路にのこりてをそく渡る心なり」

 

とある。貞享五年秋の「月出ば」の巻十五句目に、

 

   谷の庵のあたらしき月

 行雁におくれて一羽残けり    夕菊

 

の句がある。

 

 「つぼすミれといふは舊薗のすみれ也。つぼの内のすみれといふ事也。一たびよみて詞やさしき、依てすみれの名になして山野にもよめる也。師のいはく、此類の事どもみなある事也とぞ。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 

 ツボスミレは今日ではスミレの種類の名になっている。通常のスミレは葉が細く花の色が濃いのに対し、葉がハート形で花の色の薄いのをツボスミレと呼んでいる。

 古来のこの二種のスミレが区別されてたのかどうかはわからない。語源的には「壺庭」などの庭に咲くスミレのことを壺菫と呼んだことに始まるのかもしれない。庭のスミレと野のスミレが同じものだったかどうかも定かでない。

 言葉としては壺菫という言葉を野のスミレにも拡張して用いていたのかもしれない。衣装の重ねの色目で壺菫という場合も色の濃いスミレの色に薄い緑を合わせているから、色の白い今のツボスミレの色ではない。

 では今のツボスミレは何と呼ばれていたかとなると、それも定かではない。

 

 きぎす鳴く岩田の小野のつぼすみれ

     しめさすばかり成りにけるかな

              藤原顕季(千載集)

 

など、和歌に詠まれている。

 

 むらさきの野辺の芝生のつぼすみれ

     かへさの道もむつましきかな

              藤原俊成(俊成五社百首)

 

の歌を見る限りは、紫色のスミレであり、今日のツボスミレとは思えない。

 

 「いな妻は宵の内ばかりのものゝやうに、連哥には云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.150)

 

 俳諧では、

 

 電(いなづま)のかきまぜて行闇よかな 去来

 

のような句がある。貞享五年夏の「皷子花の」の巻十五句目、

 

   杖をまくらに菅笠の露

 いなづまに時々社拝まれて    芭蕉

 

の句も、暗がりの中に稲妻の度に社殿が現れるという句だ。

 

 「苗代の代といふは、かはるといふ義理也。去年の苗代地を不用して、新に作る所を好む義理也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 

 苗代の語源の問題で、「しろ」には確かに「よりしろ」が霊を仮のものに乗りうつさせるように、仮に用いる、代用にする、という意味がある。その点からすれば、単に田植の前に仮の場所に植えるから「なわしろ」でいいような気もする。苗の育成地が常設地ではないというところから「しろ」という。

 

 「夕さりの事、さりさりて夕の間を云。冬さり、秋さり、みな初の秋冬にははいひがたき詞也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 

 「夕さり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「夕去」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「さり」は来る、近づくの意を表わす動詞「さる(去)」の連用形の名詞化) 夕方になること。また、その時。夕方。夕刻。ゆうされ。ゆさり。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕

  ※古今(905‐914)離別・三九七・詞書「あめのいたうふりければ、ゆふさりまで侍りて、まかりいでけるをりに」

  [語誌](1)上代では「夕(ゆふ)さる」という動詞形が使われていたが、中古にはその名詞形「夕さり」で夕方という時間帯を表わすようになった。同じ時代に類義の「夜(よ)さり」も使われているが、「夜さる」という動詞形は、上代には見られない。従って「夜さり」は「夕さり」の影響、または変化によって成立したものと思われる。類例に「ゆふだち(夕立)」が変化した「よだち」がある。なお、「ようさり」という形も中古に見られるが、これは「夜さり」「夕さり」のどちらから転じたのかは明らかではない。

  (2)主として仮名文学に現われるが、中世になると民衆の口頭語となっていたことが、キリシタン資料などからうかがえる。なお「日葡辞書」には「ようさり」「よさり」は採録されず「ゆうさり」だけが見える。

  (3)もともと時間帯を表わす語はその指し示す対象が曖昧であるが、この語も夕と夜の境の不分明や発音の類似などから、中世には「夜さり」との混同が起きている。本居宣長は、「今の俗言に、夜を夕さりとも夜さりとも云は」〔古事記伝‐二〇〕と近世には夜の意味で使われていることを記している。」

 

とある。

 「夕されば」は夕べが去ればではなく、夕べに去ればであろう。去るが近づくの意味になるのは、前の状態から今の状態に去るからだ。ただ、この用法の場合「さ・ある」で「去る」とは別の言葉だった可能性はないのだろうか。それだと「夕然り」になる。

 

 「夕まぐれといふ事、間は休め字也。暮てたそがれ迄の間をいふ。しばしの間、人の見ゆるか見へざるかの程をたそがれといふ。誰かれといふ義理也。むかしは人倫にする。いまはそのさたなし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 

 「休め字」は「休め言葉」でコトバンクの「デジタル大辞泉「休め言葉」の解説」に、

 

 「詩歌などで、特に意味はないが、調子を整えるために置く言葉。休め字。「山の山鳥」の「山の」のようなもの。」

 

とある。「夕間暮れ」の方はコトバンクの「デジタル大辞泉「夕間暮れ」の解説」に、

 

 「《「まぐれ」は「目(ま)暗(ぐれ)」の意。「間暮」は当て字》夕方の薄暗いこと。また、その時分。ゆうぐれ。」

 

とある。

 「たそがれ」の語源が「誰そがれ」というのは、今日世俗にも膾炙している。

 

 「はだれ雪、帷子雪、みな大ひら雪の事をいふと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 

 はだれ雪はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「はだれ雪」の解説」に、

 

 「〘名〙 はらはらと降る雪。また、薄く降り積もった雪。はだらゆき。はつれゆき。はだれ。《季・春》

  ※主殿集(11C末‐12C前か)「はだれゆきあだにもあらで消えぬめり世にふることや物うかるらん」

 

とある。

 帷子雪は「精選版 日本国語大辞典「帷子雪」の解説」に、

 

 「〘名〙 薄く積もった雪。一説に薄く大きな雪片の雪。たびらゆき。だんびらゆき。《季・春》

  ※俳諧・竹馬狂吟集(1499)四「見えすくや帷雪のまつふぐり」

  [補注]「淡雪」に準じて、初期俳諧の頃は冬の季語であったが、今日では春の季語とされる。」

 

とある。

 「大ひら雪」は太平雪(たびらゆき)であろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「太平雪」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「だひらゆき」「だびらゆき」とも) 春先に降る淡くて大きな雪片の雪。だんびら雪。かたびら雪。《季・春》 〔名語記(1275)〕

  ※俳諧・鷹筑波(1638)四「声なふて空行鷺や太平雪(ダヒラゆき)〈政之〉」

 

とある。

 帷子雪は中世連歌の「寛正七年心敬等何人百韻」五十句目に、

 

   侘びぬれば冬も衣はかへがたし

 かたびら雪は我が袖の色     心敬

 

の句がある。この場合は冬。寛文の頃の芭蕉の句にも、

 

 霰まじる帷子雪は小紋かな    宗房

 

の句がある。

 薄雪は冬、淡雪は春なので、帷子雪は薄雪の扱いになるのだろう。薄雪は薄く積る雪、淡雪は淡く残る雪になる。享禄三年(一五三〇年)の「守武独吟俳諧百韻」の五句目に、

 

   かすみとともの袖のうす帋

 手習をめさるる人のあは雪に   守武

 

の句があるように、淡雪は古くから春だった。ただ、『炭俵』の「ゑびす講」の巻十句目の、

 

   ひだるきハ殊軍の大事也

 淡気(け)の雪に雑談もせぬ   野坡

 

の「淡気の雪」は冬になる。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「みぞれ」のこととある。

 

 「すぐろの薄、やけ野に燒殘より芽の出るをいふと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 

 「すぐろの薄」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「末黒の薄」の解説」に、

 

 「野焼きのすすきの穂先が焦げて黒くなったもの。また、末黒野(すぐろの)に新しく萌え出たすすき。《季・春》

  ※後拾遺(1086)春上・四五「粟津野のすぐろの薄つのぐめば冬たちなづむ駒ぞいばゆる〈静円〉」

 

とある。末黒野は野焼きの後の黒くなった野で、「やけ野に燒殘より芽の出」は後者の意味になる。

 

 「かつこ鳥、かんこ鳥、二鳥同じ鳥の事也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 

 今日でいうカッコウのこと。「かんこ鳥」は閑古鳥。

 

 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥  芭蕉

 

の句がある。

 

 「氷の衣といふ事は、氷のうちにかいこ有て糸なをなすと、無き事を佛道にいひたるより出たる也といへり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 

 氷の衣はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「氷の衣」の解説」に、

 

 「① 氷におおわれた衣。火に焼けず水にぬれないという。

  ※俳諧・三冊子(1702)黒双紙「氷の衣といふ事は、氷の内にかいこ有て糸をなすと、無き事を仏道にいひたるより出たる也といへり」

  ② 氷のはったさまを、衣服が物をおおい包むのにたとえていう。《季・冬》

  ※俳諧・毛吹草(1638)六「水ばりに張は氷の衣かな〈光有〉」

  ③ 月の光に照らされて白く光る衣を氷にたとえていう。氷のようにすきとおった衣。

  ※夫木(1310頃)三三「夏の夜の空さえわたる月かげに氷の衣きぬ人ぞなき〈源仲正〉」

 

とある。

 「氷のうちにかいこ有て」は「氷の蚕」のことだろうか。weblio辞書の「季語・季題辞典」に、

 

 「中国の想像上の虫。滝の糸長く氷るのをこの蚕のせいと疑われた

  季節 冬」

 

とある。氷の衣は存在しない架空の衣ということか。

 

 「侘と云は、至極也。理に盡たる物也と云。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 

 『去来抄』はさび、しほり、ほそみについてはあるが「わび」については言及がない。今日「わびさび」と言ったりするが、この二つを一緒に論じたものはない。

 「わぶ」というのは元は「下がる」という意味で、頭を下げる、身を低くするから「侘びを入れる」になるし、落ちぶれるということから「侘び人」つまり乞食の意味になる。これが謙虚さ質素さという美徳と結びつく。

 ウィキペディアによると、

 

 「侘の語は、先ず「侘び数寄」という熟語として現れた。これは「侘び茶人」つまり「一物も持たざる者、胸の覚悟一つ、作分一つ、手柄一つ、この三ヶ条整うる者」(『宗二記』)[7]のことを指していた。「貧乏茶人」のことである。宗二は「侘び数寄」を評価していたので、侘び茶人すなわち貧乏茶人が茶に親しむ境地を評価していたといえる。千宗旦(1578-1658)の頃になると侘の一字で無一物の茶人を言い表すようになり、やがて茶の湯の精神を支える支柱として侘が醸成されていったのである。

 ここで宗二記の「侘び」についての評価を引用しておこう。「宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何」とあるから「侘タ」は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた。この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていない。」

 

とあるように、茶道に起源があるようだ。

 侘びはいわゆる禁欲というよりは、天を恐れ身を慎むこと、つまり人為の限界をする、西洋で言う「無知を知る」ということに近いと思う。それが日本の一君万民の体制と結びついて、王になるのではなく臣下としての徳を積むこととも結びついているのではないかと思う。

 永遠の命を求めず、不変の真理を求めることなく、絶対的な支配(アルケー)を求めない、あくまで慎むことに美を求めることが「侘び」につながっているのではないかと思う。それゆえ至極であり、朱子学の「理」に通じる。理に通じるものは即ち「風雅の誠」に他ならない。

 

 「若なの發句は、初春七日の跡三日の内也。平句には初春の内にはくるしからずと連哥にいひ來るとあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.151)

 

 若菜は正月行事の初子の日の若菜摘に由来するもので、コトバンクの「世界大百科事典内の若菜摘みの言及」に、

 

 「平安時代,正月初めの子の日に貴族たちが楽しんだ野遊び。小松の根引き(小松引き)や若菜摘みなどが行われたが,これらは年頭にあたって,松の寿を身につけたり,若菜の羮(あつもの)を食して邪気を払おうとしたものと思われる。」

 

 「後世これらを七草粥にして正月7日に食べた。若菜は初春の若返りの植物であり,古くは正月初子(はつね)の〈子の日の御遊び〉に小松引きや若菜つみを行い,それらを羹(あつもの)にして食べたりしたが,のちに人日(じんじつ)(正月7日)に作られるようになった。」

 

とある。それゆえに若菜は初春七日の題材で、七日から三日以内になる。付け句では初春の題材として扱う。

 

 「霞は夜と晝は似ぬもの也。夜の朧といふ事なし。月星に結びてするよし、連哥にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.152)

 

 霞は山など遠くの景色の霞むさまで、昼などは朝や夕べも含めて景色に詠む。夜の場合は月や星の霞むさまで、真っ暗な夜空そのものが霞んだり朧になったりはしない。今日のように街の灯りがまぶしければ、それが霞む空に映ることもあるが、昔はそのような現象はなかった。

 

 「月の影と上の句、下の句に留らずと連ニ有。いざよふ月。又月に不限、日ぞいざよふなどゝ云は、聳物に日の影へだちたる也。聳物なくては云がたし。又人をいざよふ、倡也。雲や浪をもいふと連書にあり。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.152)

 

 「月の影」は月の光のこと。古語では光のことも影と言った。

 「いざよふ月」は昇るのの遅い月、十六夜のことをいう。「月のいざよふ」はなかなか沈まないで残っていることをいう場合もある。

 「日ぞいざよふ」は特殊な言い回しであろう。日の影が聳物によって遮られることだという。聳物は雲、霧、霞、靄、煙などがある。

 また、「人をいざよふ、倡也。雲や浪をもいふ」というのも特殊な用法であろう。「倡」には「イザナフ」とルビがある。「ためらう」という意味の「いざなふ」と「さそう」という意味の「いざなふ」が混同されたのではないかと思う。

 

 「師のいはく、大方の露には何のなりぬらんたもとにおくは涙也けり、此うたは鴫立澤に勝ツ哥也。面白しと也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.152)

 

 これは、

 

 おほかたの露にはなにのなるならむ

     袂におくは涙なりけり

              西行法師(千載集)

 

の歌をいう。自然の露と袖の露を区別して、いわば只露に対しての心の露、露の本意を表したといっていいだろう。

 「やまとうたは人の心をたねとして」と古今集の仮名序にもあるとおり、歌は心を述べるもので、物を描写するだけのものではない。物(虚)を通じて心(実)を表すというのは西行の時代から芭蕉の時代までの一貫した考え方だった。

 十八世紀の中頃、このエピステーメは大きく変動し、蕪村や賀茂真淵以降の国学は近代に属する。西行と芭蕉との距離は芭蕉と蕪村の距離と比べても遥かに近かったと思う。

 『三冊子』はこのあと手紙の書き方になるので、この辺りは省略する。