現代語訳『』源氏物語

10 花散里

 誰も知らない自らの浮気性からくる悩みというのも今に始まったことではないのでしょうけど、こんなふうに世の中全体が病んでいてどうしようもないことばかりが増えてくると、すっかり世の中が嫌になるもんですが、実際には悪いことばかりでもありません。

 

 麗景殿(れいけいでん)と呼ばれていた女御は院との間に子をもうけることもなく、院の死後はいよいよ哀れな状態に置かれ、ただ密かに源氏の大将の世話を受けることで生活していました。

 

 妹の三の君は、宮中にいる時に少しばかり気のあるそぶりをしたこともあったものの、源氏の性格からして完全に忘れたわけでもありません。

 ただ、ほとんど通うこともなく、待つ人の心を無駄に疲れさせるばかりでした。

 それでも、この頃の何から何まで思うように行かない世の中に、何か面白いことはないかとばかり、ひとたび思い出すと居ても立ってもいられずに、五月雨の空の珍しく晴れた雲のない時に出かけて行きました。

 

 みすぼらしい格好でこれといって着飾ることもなく、先導する人も特になく、お忍びでやってきました。

 

 中川のあたりに来ると木々など品よく植えられているささやかな家があり、音色の良い筝を和琴の音階にチューニングして賑やかに弾き鳴らしていました。

 

 源氏の君も耳に留め、門の近くから聞こえてくるので車から身を乗り出してよく見ようとすると、大きな桂の木の方から風が吹いてきて、加茂祭の頃を思わせるような何ともいえない良い香りがして、一度だけ来たことのある所だと昔のことを思い出し、感慨ひとしおです。

 

 かなりご無沙汰しているので覚えているかな、と気が引けるものの、通り過ぎるのも忍びなくたたずんでいると、ちょうどその時ホトトギスの声が響き渡りました。

 

 これは寄って行けと言っているようなもので、車をバックさせ、例によって惟光を中にやりました。

 

 「何回も鳴くことのないホトトギス

     愛の記憶も微かな家に」

 

 寝殿と思われる建物の西側の隅に女房達がいました。

 

 以前にも聞いたことのある声なので、咳払いをして様子を見、挨拶を交わします。

 

 大勢の若い女の気配がして、様子を伺っているようです。

 

 「ホトトギスの尋ねる声はそれとして

     何かあやしい五月雨の空」

 

 何かごまかそうとしているなと思い、惟光も、

 

 「何だ、植えた垣根はここではなかったか。」

 

と言って出て行くものの、内心悲しく残念に思うのでした。

 

 「きっと言えないような事情があるんだな。

 

 しょうがないとはいえ、心外だな。

 

 こういう境遇だと筑紫の五節(ごせち)の女が可愛かったな。」

 

と、真っ先に思い浮かぶのでした。

 

 どんな女でも見境なく手を出すので、いくつになっても悩みがつきません。

 

 結局このように、一度関係を結んだ女をいつまでもキープしようとするので、かえって多くの女性の悩みの種になるのです。

 

   *

 

 さて、本来の目的である三の宮のところは、想像以上に荒れ果てていて、人の気配もなく静かに暮らしている姿が大変悲しげでした。

 

 まず、麗景殿の女御のところで昔話などを聞くうちに、夜も更けていきました。

 

 二十日の月の光が差し込んでくると、遥か高い木の姿が黒々と見えて、近くにある花橘の香りが懐かしく匂ってきて、女御の一挙一動は年はとったものの細やかな神経が行き届いていて、高貴な可憐さを具えています。

 

 特にこれといって華やかなご寵愛を受けていたという記憶はないけど、院も親しみを感じ離れがたく思っていたな、などと思い出話をするにしても、昔のことが次から次へと浮かんできては涙がこぼれます。

 

 すると、ホトトギスがさっきの家の垣根で鳴いたのと同じ声で鳴きました。

 

 「さては俺のことを慕って追っかけてきたな」と思うあたりがさすが色男。

 

 我が意を得たりとばかり、内緒話のように小声で口ずさみます。

 

 「橘の香を懐かしみホトトギス

     花散る里にやってきました

 

 過去の栄光が忘れられなくて苦しいときには、すぐにでも駆けつけましょう。

 

 気が紛れることもあれば、もっと悲しくなることもあるでしょうけど。

 

 誰だって時の流れには勝てないもので、昔話をいろいろとたくさん出来る人が少なくなって、あなただってもう随分長いこと気を紛らわすことができずにいたんでしょ。」

 

と言う源氏を見ると、確かに世の中変わってしまったものの、こんなに何もかも悲しいと思い詰めた様子が尋常でないのも、この人の身分のせいかと思うとますます哀愁が漂います。

 

 「誰も来ない荒れた家では散っちゃった

     花だけが軒の妻なのでしょう」

 

と言うだけですが、それだけでもさすがに並の人ではないなといろいろ較べてしまいます。

 

 三の君のいる西側の部屋には正式な訪問ではなくあくまで女御の所に来たついでという形でしたが、密かに会いに行くと珍しい来客というだけでなく、他では見られないような姿に、今まで逢えなかった辛さも忘れてしまったのでしょう。

 

 例によってあれこれでれでれと口説き始める言葉も、満更嘘ではないのでしょう。

 

 仮にであれ源氏が目をつける人というのは、そんじょそこらの身分の人ではなく、何に付けても凡庸だと思えるようなところはないので、憎むようなこともなく、お互いに才気あるやり取りを楽しみながら過ごすのでした。

 

 それだけでは物足りない人はいずれ心変わりしていくもので、そういう人は「常識的に考えればそんなもんだろうな」と思うことにしているようです。

 

 さっき立ち寄った垣根の人も、そんな感じで心変わりしていった一人なのでした。