蕉門俳諧集 上

 連歌れんが中世ちゅうせいさかえ、俳諧はいかい江戸初期えどしょきから貞門ていもん談林だんりん蕉門しょうもん風体ふうたいえながら流行りゅうこうかえし、一時代いちじだいきずいた。
 どちらも基本的きほんてきには575の上句かみくと77の下句しもくけて57577和歌わか完成かんせいさせるゲームであり、そのちがいは雅語がご俗語ぞくごかのちがいにある。連歌れんが雅語がごによってつくられるため、中世ちゅうせい京都中心きょうとちゅうしんで、庶民しょみんから宮廷きゅうていまでも共通文化きょうつうぶんか形成けいせいする方向ほうこうかったが、俳諧はいかい江戸時代えどじだい都市とし中心ちゅうしん一種いっしゅのファッションとして洗練せんれんされていった。
 連句れんくはこれらを総称そうしょうするかたで、ごく最近さいきんになってもちいられるようになった言葉ことばだ。
 連句れんく本来ほんらい一句完結的いっくかんけつてき並列へいれつしてゆくようなものではなく、あくまで前句まえくとあわせて57577のかたちにしてんで、意味いみつものであり、いわば、前句まえくをサンプリングするとってもい。これによって、前句まえくつぎによってまったちが意味いみされ、意外性いがいせいのある刺激しげきんだ対話たいわしょうじる。古人こじんはそれを談笑だんしょうとも俗談平話ぞくだんへいわともんだ。
 古典こてん連句れんくむとき注意ちゅういしなくてはならないのは、古人こじんがいかにけるということに心血しんけつそそいできたかである。そのために「てにをは」の使つかかたや、すじ研究けんきゅうかえされ、ひとつの高度こうど技術ぎじゅつ体系たいけいきずいてきた。このページでの連句れんく解説かいせつは、そのほんの一端いったんでも開明かいめいできたらとおもっている。

   寛文五年

 

貞徳翁十三回忌追善俳諧

  寛文五年(一六六五)霜月十三日の興行で、発句は芭蕉(当時は宗房)の主人だった藤堂良忠(俳号は蝉吟)、脇は京の季吟だが脇だけの参加なので、書簡による参加であろう。それに正好、一笑、一以、それに執筆が一句参加している。

 一巻すべてが現存する芭蕉参加の最も古い俳諧。

 発句:野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉  蝉吟

   延宝三年

 

「いと涼しき」の巻

 延宝三年五月、上方で一代ブームを巻き起こした談林俳諧の中心人物、梅翁こと西山宗因が江戸にやってきた。本所大徳院での興行には当時まだ桃青を名乗っていた芭蕉や、信章を名乗っていた素堂も参加した。

 発句:いと凉しき大徳也けり法の水    宗因

   延宝四年

 

「此梅に」の巻

 延宝四年春、おそらく湯島天神での「奉納貳百韻」興行と思われる。

 前年に宗因が江戸に来て本所大徳院で行われた興行に芭蕉(桃青)も素堂(信章)も参加していて、それに刺激されてのものと思われる。

 発句:此梅に牛も初音と鳴つべし    桃青

「梅の風」の巻

 延宝四年春、「奉納貳百韻」興行の「此梅に」の巻に続く二番目の百韻。

 発句:梅の風俳諧国にさかむなり    信章

「時節嘸」の巻

 桃青(芭蕉)・杉風の両吟歌仙。制作年次ははっきりしないが、芭蕉が延宝四年の六月に伊賀に帰省していることから、その直前の春と思われる。

 発句:時雨嘸伊賀の山ごえ華の雪    杉風

   延宝五年

 

「あら何共なや」の巻

 延宝五年(一六七七年)の冬、桃青(芭蕉)、信章(素堂)に京都より信徳を迎えての三吟百韻興行。

 発句:あら何共なやきのふは過て河豚汁 桃青

   延宝六年

 

「さぞな都」の巻

 延宝六年春、信章(素堂)、信徳、桃青(芭蕉)の三吟百韻興行。

 発句:さぞな都浄瑠璃小哥はここの花  信章

「物の名も」の巻

 延宝六年春、信章(素堂)、信徳、桃青(芭蕉)の三吟百韻興行。

 発句:物の名も蛸や故郷のいかのぼり  信徳

「実や月」の巻

 延宝六年七月下旬、江戸の鍛冶橋喋々子邸での興行。談林時代の作風から後の『次韻』調へと向かう途上にある芭蕉(桃青)の姿が見られる。

 発句:実や月間口千金の通り町     桃青

「色付や」の巻

 制作年次ははっきりしない。延宝五年秋とも六年秋とも言う。桃青(芭蕉)・杉風の両吟百韻。

 発句:色付くや豆腐に落て薄紅葉    桃青

「のまれけり」の巻

 延宝六年秋、松島から京へ帰る途中の春澄を迎えての桃青、似春、春澄の三吟歌仙。

 発句:のまれけり都の大気江戸の秋   春澄

「青葉より」の巻

 延宝六年冬、松島から京へ帰る途中の春澄を迎えての桃青、似春、春澄の三吟歌仙。

 発句:青葉より紅葉散けり旅ぎせる   似春

「塩にしても」の巻

 延宝六年冬、江戸の芭蕉と似春が松島行脚から戻る途中の京の春澄を迎えての三吟歌仙。

 発句:塩にしてもいざことづてん都鳥   桃青

「わすれ草」の巻

 延宝六年冬。京の信徳ともう一人京から来た千春との三吟歌仙。

 発句:わすれ草煎菜に摘まん年の暮   桃青

   延宝七年

 

「須磨ぞ秋」の巻

 延宝七年秋、似春と四友が上方へ旅立つ時の送留別三吟百韻二巻興行の最初の巻。どちらも「須磨」が詠まれている。

 発句:須磨ぞ秋志賀奈良伏見でも是は  似春

「見渡せば」の巻

 延宝七年秋、似春と四友が上方へ旅立つ時の送留別三吟百韻二巻興行の二番目の巻。桃青(芭蕉)からの送別になる。

 発句:見渡せば詠れば見れば須磨の秋  桃青

    延宝九年

 

「八人や」の巻

 延宝九年刊信徳編の『俳諧七百五十韻』の最後の五十韻。この挙句から『俳諧次韻』の最初の五十韻が始まる。

 発句:八人や俳諧うたふ里神楽     如泉

「鷺の足」の巻

 延宝九年七月下旬、芭蕉、其角、揚水、才丸の四人で二百五十韻を興行したときの最初の五十韻。『俳諧次韻』として出版される。

 なぜ二百五十と半端なのかというと、この年の一月に京都の信徳、春澄らが興行し出版した『七百五十韻』に継ぎ足して千句興行にするという意図によるものだったからだ。

 越智越人によれば、この『俳諧次韻』こそが、独自の蕉風の確立だという。従来の談林にはないシュールとも言える展開が至る所になされている。

「春澄にとへ」の巻

 延宝九年七月下旬、芭蕉、其角、揚水、才丸の四人で二百五十韻を興行したときの五十韻の次の百韻。『俳諧次韻』として出版される。信徳・春澄らが参加した『七百五十韻』と合わせて百韻十巻の千句にするという意味では第九百韻になる。

 発句:春澄にとへ稲負鳥といへるあり  其角

「世に有て」の巻

 延宝九年秋、芭蕉、其角、揚水、才丸の四人で二百五十韻を興行したときの最後の百韻。『俳諧次韻』として出版される。

 発句:世に有て家立は秋の野中哉    才丸

   天和二年

 

 「錦どる」の巻

 天和二年春、京都から来た千春と甲州から江戸に来ていた麋塒を交えての百韻興行。同年刊千春編の『武蔵曲』に収録される。

 発句:錦どる都にうらん百つつじ    麋塒

「花にうき世」の巻

 天和二年の春と推定されている。天和三年刊『虚栗』所収の五吟歌仙。

 発句:花にうき世我が酒白く食黒し   芭蕉

「生船や」の巻

 天和二年刊千春撰『武蔵曲』所収の藤匂子、千春、其角の三吟歌仙。

 発句:生船や桜雪散ル魚氷室     藤匂子

「酒の衛士」の巻

 天和二年刊千春撰『武蔵曲』所収の千春独吟歌仙。

 発句:酒の衛士花木隠レや女守    千春

「田螺とられて」の巻

 天和二年春と思われる世吉(四十四句)。『武蔵曲』『虚栗』などに選ばれるには至らなかったが、それだけに出典にもたれず、所々後の蕉風につながるものも感じられる。

 発句:田螺とられて蝸牛の益なきやうらやむ 暁雲

「月と泣」の巻

 天和二年春と思われる歌仙。これも残念ながら『武蔵曲』や『虚栗』の撰に漏れてしまった一巻であろう。

 発句:月と泣夜生雪魚の朧闇      其角

「我や来ぬ」の巻

 天和三年刊其角編『虚栗』所収。宗因独吟に「花で候」の巻という恋百韻があったが、これは嵐雪・其角両吟による恋歌仙になる。

 発句:我や来ぬひと夜よし原天川    嵐雪

「土-船諷棹」の巻

 天和三年刊其角編『虚栗』所収。楓興、其角、柳興、長吁による四吟歌仙。

 発句:土-船諷棹月はすめ身ハ濁レとや  楓興

「詩あきんど」の巻

 天和二年の師走に興行された芭蕉と其角の両吟。八百屋お七の大火第一次芭蕉庵が焼失する直前のことと思われる。このとき芭蕉は隅田川に飛び込んで難を逃れたという。

 この両吟はやがて其角編の『虚栗(みなしぐり)』(天和三年刊)に収録される。

 発句:詩あきんど年を貪ル酒債哉     其角

「飽やことし」の巻

 天和二年暮の李下・其角の両吟に三十二句目の一句だけ芭蕉が参加している。其角編『虚栗』所収。日付はわからないが、おそらく十二月二十八日の天和の大火よりは前であろう。

 発句:飽やことし心と臼の轟と     李下

   天和三年

 

 「山吹や」の巻

 天和三年刊其角編『虚栗』所収。藤匂子と其角による両吟歌仙。

 発句:山吹や无-言禅-師のすて衣    藤匂子

「偽レル」の巻

 天和三年刊其角編『虚栗』所収。千之と其角による両吟歌仙。

 発句:偽レル卯花に樽を画きけり    千之

「菖把に」の巻

 天和三年刊其角編『虚栗』所収。挙白、其角、松濤による三吟二十五句。

 発句:菖把に競-曲中を乗ルならん    挙白

「武さし野を」の巻

 天和三年刊其角編『虚栗』所収。翠紅、才丸、一晶、其角、罔兩による歌仙のようだが、末尾に一句発句が付く変則的な巻になっている。

 発句:武さし野を我屋也けり涼み笛   翠紅

 「故艸」の巻

 天和三年夏、甲斐国谷村の麋塒を尋ね、逗留した時の芭蕉・麋塒・一晶による三吟歌仙。

 発句:故艸垣穂に木瓜もむ屋かな    麋塒

「夏馬の遅行」の巻

 天和三年夏、甲斐国谷村の麋塒を尋ね、逗留した時の芭蕉・麋塒・一晶による三吟歌仙。ただし第三までしか作者名が記されていない。四句目以降はやや疑わしい感じもする。

 発句:夏馬の遅行我を絵に見る心かな  芭蕉

   貞享元年

 

「師の桜」の巻

 貞享元年、芭蕉の『野ざらし紀行』の旅で十月の美濃大垣滞在中の四吟歌仙興行。

 発句:師の桜むかし拾はん落葉哉    嗒山

「狂句こがらし」の巻

 貞享元年十一月、『野ざらし紀行』の旅の途中、名古屋で荷兮、杜国、野水、重五らと歌仙五巻と追加六句を興行。山本荷兮によって『冬の日』と題され、出版され、これが芭蕉七部集の最初の集となる。これはその最初の歌仙。

 発句:狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉    芭蕉

「はつ雪の」の巻

 貞享元年十一月、『野ざらし紀行』の旅の途中、名古屋で荷兮、杜国、野水、重五らと歌仙五巻と追加六句を興行。荷兮編『冬の日』に収録されたこれは二番目の歌仙。

 発句:はつ雪のことしも袴きてかへる  野水

「つつみかねて」の巻

 貞享元年十一月、『野ざらし紀行』の旅の途中、名古屋で荷兮、杜国、野水、重五らと歌仙五巻と追加六句を興行。荷兮編『冬の日』に収録されたこれは三番目の歌仙。

 発句:つつみかねて月とり落す霽かな  杜国

「炭売の」の巻

 貞享元年十一月、『野ざらし紀行』の旅の途中、名古屋で荷兮、杜国、野水、重五らと歌仙五巻と追加六句を興行。荷兮編『冬の日』に収録されたこれは四番目の歌仙。

 発句:炭売のをのがつまこそ黒からめ  重五

「霜月や」の巻

 貞享元年十一月、『野ざらし紀行』の旅の途中、名古屋で荷兮、杜国、野水、重五らと歌仙五巻と追加六句を興行した時の五番目の歌仙。

 発句:霜月や鸛の彳々ならびゐて     荷兮

「海くれて」の巻

 貞享元年十二月十九日、『野ざらし紀行』の旅の途中、熱田での興行。

 発句: 海くれて鴨の声ほのかに白し  芭蕉

   貞享二年

 

「何とはなしに」の巻

 貞享二年三月二十七日、芭蕉の『野ざらし紀行』の旅の途中、熱田の白鳥山法持寺での芭蕉、叩端、桐葉による三吟歌仙興行。

 発句:何とはなしに何やら床し菫草   芭蕉

「つくづくと」の巻

 貞享二年三月下旬、芭蕉の『野ざらし紀行』の旅で熱田での七吟歌仙興行。

 発句:つくづくと榎の花の袖にちる   桐葉

「杜若」の巻

 貞享二年四月四日、芭蕉の『野ざらし紀行』の旅の途中、鳴海の知足亭での九吟興行。二十四句で終わっているが挙句の体ではなく、中断されたか懐紙が散逸したかであろう。

 発句:杜若われに発句のおもひあり   芭蕉

「ほととぎす」の巻

 貞享二年四月上旬、熱田での八吟歌仙興行。美濃から如行が参加している。

 発句:ほととぎす爰を西へかひがしへか 如行

「牡丹蘂深く」の巻

 貞享二年四月上旬、熱田で桐葉と別れ、星崎を経て江戸に帰る時の発句をもとに作られた歌仙。寛政九年刊『ゆめのあと』では桐葉の脇と叩端の第三までの名前が記されているのみで、文政十年刊『俳諧一葉集』ではこの順序で三吟歌仙であるかのように記されている。

 発句:牡丹蘂深く這出る蝶の別れ哉   芭蕉

「涼しさの」の巻

 貞享二年六月二日江戸の小石川での連歌本式を取り入れた珍しい百韻興行。出羽尾花沢の清風をゲストに迎え、其角、嵐雪、素堂、才丸、コ齋といったこの頃の江戸を代表する豪華なメンバーをそろえての興行だった。才丸は元禄二年に大阪へ行き、大阪談林の一翼を担うことになる。

 発句:涼しさの凝くだくるか水車    清風

   貞享三年

 

「日の春を」の巻

 貞享三年正月、江戸で興行された蕉門、其角門などの十八人の連衆による百韻で、前半五十句目までは芭蕉自身による『初懐紙評注』という評語が残っている点でも、蕉風確立期の風体を知るうえで貴重な巻といえよう。

 発句:日の春をさすがに鶴の歩ミ哉   其角

「春めくや」の巻

 貞享三年二月十八日、名古屋の重五亭での荷兮、重五、雨桐、李風、昌圭による五吟歌仙興行。荷兮編『春の日』に収録される。

 発句:春めくや人さまざまの伊勢まいり 荷兮

「なら坂や」の巻

 貞享三年三月六日、野水亭での旦藁、野水、荷兮、越人、羽笠による五吟歌仙興行。荷兮編『春の日』に収録される。

 発句:なら坂や畑うつ山の八重桜    旦藁

「蛙のみ」の巻

 貞享三年三月十六日の旦藁亭と十九日の荷兮亭での野水、旦藁、越人、荷兮、冬文による五吟歌仙興行。荷兮編『春の日』に収録される。

 発句:蛙のみききてゆゆしき寝覚めかな 野水

「花咲て」の巻

 貞享三年三月二十日、江戸に来ていた出羽の清風を交えての七吟歌仙。後に『奥の細道』の旅で出羽国尾花沢に尋ねてゆくことになる。

 発句:花咲て七日鶴見る麓哉      芭蕉

「蜻蛉の」の巻

 貞享三年秋、芭蕉、露沾、沾荷による四吟半歌仙興行。但し四吟といっても嵐雪は挙句のみの参加になっている。

 発句:蜻蛉の壁を抱ゆる西日かな    沾荷

「冬景や」の巻

 貞享三年の冬、江戸で八吟歌仙興行。二句欠落している。

 発句:冬景や人寒からぬ市の梅     濁子

   貞享四年

 

「久かたや」の巻

 貞享四年の春、京都の去来を迎えての四吟歌仙興行。去来のほかは芭蕉、其角、嵐雪と江戸を代表するメンバーがそろっている。

 発句:久かたやこなれこなれと初雲雀  去来

「花に遊ぶ」の巻

 貞享四年春、芭蕉が貞享元年冬に『野ざらし紀行』の旅で訪れた桑名本統寺の第三世大谷琢恵(俳号古益)等三人との江戸での興行。古益の古風な俳諧に、さて芭蕉はどう対応するか。

 発句:花に遊ぶ虻なくらひそ友雀    芭蕉

「川尽て」の巻

 其角編、貞享四年刊『続虚栗』所収の露沾、其角、沾徳、露荷、嵐雪、虗谷による六吟歌仙。

 発句:川尽て鱅流るるさくら哉     露沾

「啼々も」の巻

 其角編、貞享四年刊『続虚栗』所収の其角、孤屋、野馬による三吟歌仙。野馬は後の野坡で、孤屋と、ここにはいない利牛とともに後の『炭俵』を編纂することになる。

 発句:啼々も風に流るるひばり哉    孤屋

「郭公」の巻

 其角編、貞享四年刊『続虚栗』所収の其角・蚊足による両吟歌仙。

 発句:郭公麦つく臼にこしかけて

       たそがれ渡る青鷺の空    其角

「時は秋」の巻

 貞享四年九月、芭蕉が『笈の小文』の旅に出る前に行われた露沾邸での餞別七吟歌仙。

 発句:時は秋吉野をこめし旅のつと   露沾

「旅人と」の巻

 貞享四年十月十一日、其角亭での芭蕉の『笈の小文』の旅の餞別会として行われた世吉(四十四句)興行。

 発句:旅人と我名よばれん初霽     芭蕉

「江戸桜」の巻

 「旅人と」の世吉興行は貞享四年十月十一日、そのあと十月二十五日に芭蕉が『笈の小文』の旅に立つまでの間に行われた芭蕉・其角・嵐雪・濁子の四吟半歌仙興行。

 発句:江戸桜心かよはんいくしぐれ   濁子

「京までは」の巻

 貞享四年十月二十五日芭蕉は『笈の小文』の旅に出て、東海道を上る。そして十一月四日、尾張鳴海の知足亭に到着する。そして翌十一月五日には同じ鳴海の菐言亭で興行を行う。

 発句:京まではまだなかぞらや雪の雲  芭蕉

「翁草」の巻

 貞享四年十一月五日に菐言亭で「京までは」の巻の興行を行った芭蕉は、翌日六日にも如意寺如風亭で同じメンバーによる興行を行う。

 発句:めづらしや落葉のころの翁草   如風

「星崎の」の巻

 貞享四年十一月五日に菐言亭で「京までは」の巻の興行を行った芭蕉は、翌日六日にも如意寺如風亭で同じメンバーによる興行を行い、その翌日七日にも安信亭で同じメンバーで歌仙興行を行う。

 発句:星崎の闇を見よとや啼千鳥    芭蕉

「笠寺や」の巻

 貞享四年十一月十七日に知足宅で、貞享四年春に天林山笠覆寺のために贈った発句を立句にした連衆七人による歌仙興行が行われた。

 発句:笠寺やもらぬ窟も春の雨     芭蕉

「磨なをす」の巻

 芭蕉の『笈の小文』の旅の途中、貞享四年十一月二十四日、桐葉と熱田神宮に詣で、それを機に作られた両吟歌仙。

 発句:磨なをす鏡も清し雪の花     芭蕉

「稲葉山」の巻

 芭蕉が『笈の小文』の旅で貞享四年十一月二十六日、名古屋の荷兮宅で岐阜より落梧・蕉笠を迎えての三十句興行。

 発句:凩のさむさかさねよ稲葉山    落梧

「ためつけて」の巻

 芭蕉の『笈の小文』の旅の途中、貞享四年十一月二十八日、名古屋昌碧亭での八吟歌仙興行。

 発句:ためつけて雪見にまかる帋子哉   芭蕉

「霜冴て」の巻

 貞享四年の冬と推定されている。『笈の小文』の旅の時に名古屋近辺に滞在していた頃と思われる。古風な句が多く、見知らぬ名前の人たちは貞門系の人たちだったか。二十四句で終わってる。満尾できずに終わったか、懐紙が失われたか、定かでない。

 発句:露冴て筆に汲ほすしみづかな   芭蕉

「旅人と(笠の雪)」の巻

 『笈の小文』の旅の途中、貞享四年十二月一日熱田桐葉亭での半歌仙興行。

 発句:旅人と我身はやさん笠の雪    如行

「箱根越す」の巻

 芭蕉の『笈の小文』の途中、貞享四年十二月四日名古屋の聴雪宅での興行。

 発句:箱根越す人もあるらし今朝の雪   芭蕉

「たび寐よし」の巻

 芭蕉の『笈の小文』の途中、前書きに「十二月九日一井亭興行」とある名古屋一井宅での半歌仙興行。

 発句:たび寐よし宿は師走の夕月夜    芭蕉

「から風や」の巻

 正徳二年(一七一二年)刊知足編の『千鳥掛』に収録された、知足・路通両吟歌仙。製作年代はよくわからないが、『千鳥掛』は概ね芭蕉が『笈の小文』の旅で名古屋を訪れた貞享四年の冬の頃のもので、一応この歌仙もこの頃のものということにしておく。

 発句:から風や吹ほど吹て霜白し    知足

   貞享五年

 

「何の木の」の巻

 貞享五年二月二月上旬、『笈の小文』の旅の途中、伊勢での興行。途中から「の人」名義で杜国が参加する。

 発句:何の木の花とは知らず匂ひ哉   芭蕉

「紙衣の」の巻

 貞享五年二月上旬、『笈の小文』の旅の途中、伊勢での興行。元禄十三年刊乙孝編の『一幅半』に収録されているが、完全な形ではなく表六句と以下芭蕉の付け句だけ五句を収録している。それから百二十七後の文政十年(一八二七年)刊の古学庵仏兮、幻窓湖中編『俳諧一葉集』には表六句に続けて十一句を並べ、そのあとに『一幅半』の付け句五句を並べている。

 発句:紙衣のぬるとも折む雨の花    芭蕉

「ほととぎす(待)」の巻

 元禄二年刊の『阿羅野』に収録されている荷兮・野水の両吟歌仙。

 発句:ほととぎす待ぬ心の折もあり   荷兮

「月に柄を」の巻

 元禄二年刊の『阿羅野』に収録されている越人・傘下の両吟歌仙。発句は俳諧の祖と言われている宗鑑の句で、七句目は執筆が一句付けている。

 発句:月に柄をさしたらばよき団哉   宗鑑

「皷子花の」の巻

 貞享五年六月五日、『笈の小文』の旅を終えた芭蕉は明石から京へ戻り、一度岐阜へ行ってから大津に引き返した、その時の興行になる。尚白が参加している。

 発句:皷子花の短夜ねぶる昼間哉     芭蕉

「蓮池の」の巻

 貞享五年六月十九日岐阜での興行。名古屋の荷兮、越人をはじめとして惟然も初参加。総勢十五人の連衆による賑やかな五十韻興行となった。

 発句:蓮池の中に藻の花まじりけり   芦文

「初秋は」の巻

 貞享五年七月十日、鳴海の重辰亭での七吟歌仙興行。

 発句:初秋や海やら田やらみどりかな  芭蕉

「粟稗に」の巻

 貞享五年七月二十日、名古屋の長虹亭での七吟歌仙興行。

 発句:粟稗にとぼしくもあらず草の庵  芭蕉

「しら菊に」の巻

 貞享五年九月上旬の作とされている。越人を連れて江戸に戻った芭蕉の、江戸の連衆と巻いた半歌仙。

 発句:しら菊に高き鶏頭おそろしや   杉風

「雁がねも」の巻

 貞享五年『更科紀行』の旅を経て江戸に戻った芭蕉は、九月中旬にともに旅をした越人を芭蕉庵(第二次)に招き両吟一巻を巻く。この両吟は翌年に出版される『阿羅野』に収録されることになる。

 発句:雁がねもしづかに聞ばからびずや 越人

「落着に」の巻

 貞享五年秋、越人の江戸滞在中の其角・越人両吟歌仙。元禄二年刊の『阿羅野』に収録されている。

 発句:落着に荷兮の文や天津雁     其角

「我もらじ」の巻

 貞享五年秋、越人の江戸滞在中の嵐雪・越人両吟半歌仙。元禄二年刊の『阿羅野』に収録されている。

 発句:我もらじ新酒は人の醒やすき   嵐雪

「月出ば」の巻

 貞享五年九月中旬、江戸の苔翠亭での半歌仙興行。

 発句:月出ば行燈消サン座敷かな    越人

   元禄元年

 

「其かたち」の巻

 貞享五年九月三十日に改元され元禄元年となった十月、江戸大通庵主道円居士一周忌追善の七吟歌仙興行。

 発句:其かたちみばや枯木の杖の長ケ  芭蕉

「初雪や」の巻

 『阿羅野』所収の野水・落梧両吟歌仙。元禄元年冬のものと思われる。

 発句:初雪やことしのびたる桐の木に  野水

「一里の」の巻

 『阿羅野』所収の一井、鼠弾、胡及、長虹による四吟歌仙。元禄元年冬のものと思われる。

 発句:一里の炭売はいつ冬籠り     一井

「雪の夜は」の巻

 元禄元年冬と思われる七吟歌仙。

 発句:雪の夜は竹馬の跡に我つれよ   路通

「雪ごとに」の巻

 元禄元年冬と思われる十吟歌仙。

発句:雪ごとにうつぱりたはむ住ゐ哉  岱水

「皆拝め」の巻

 元禄元年冬と思われる九吟三十句。

 発句:皆拝め二見の七五三をとしの暮  芭蕉