「蛙のみ」の巻、解説

貞享三年三月十六日旦藁亭、十九日の荷兮亭にて

初表

   三月十六日旦藁が田家に

   とまりて

 蛙のみききてゆゆしき寝覚めかな 野水

   額にあたるはる雨のもり   旦藁

 蕨煮る岩木の臭き宿かりて    越人

   まじまじ人をみたる馬の子  荷兮

 立てのる渡しの舟の月影に    冬文

   芦の穂を摺る傘の端     執筆

 

初裏

 磯ぎはに施餓鬼の僧の集りて   旦藁

   岩のあひより蔵みゆる里   野水

 雨の日も瓶焼やらん煙たつ    荷兮

   ひだるき事も旅の一つに   越人

 尋よる坊主は住まず錠おりて   野水

   解てやをかん枝むすぶ松   冬文

 

   今宵は更たりとてやみぬ

   同十九日荷兮室にて

 咲わけの菊にはおしき白露ぞ   越人

   秋の和名にかかる順     旦藁

 初雁の声にみづから火を打ぬ   冬文

   別の月になみだあらはせ   荷兮

 跡ぞ花四の宮よりは唐輪にて   旦藁

   春ゆく道の笠もむつかし   野水

 

 

二表

 永き日や今朝を昨日に忘るらん  荷兮

   簀の子茸生ふる五月雨の中  越人

 紹鷗が瓢はありて米はなく    野水

   連歌のもとにあたるいそがし 冬文

 瀧壺に柴押まげて音とめん    越人

   岩苔とりの篭にさげられ   旦藁

 むさぼりに帛着てありく世の中は 冬文

   筵二枚もひろき我庵     越人

 朝毎の露あはれさに麦作ル    旦藁

   碁うちを送るきぬぎぬの月  野水

 風のなき秋の日舟に網入よ    荷兮

   鳥羽の湊のおどり笑ひに   冬文

 

二裏

 あらましのざこね筑摩も見て過ぬ 野水

   つらつら一期聟の名もなし  荷兮

 我春の若水汲に昼起て      越人

   餅を喰つついはふ君が代   旦藁

 山は花所のこらずあそぶ日に   冬文

   くもらずてらず雲雀鳴也   荷兮

 

      参考;『芭蕉七部集』(中村俊定校注、一九六六、岩波文庫)

初表

発句

 

   三月十六日旦藁が田家に

   とまりて

 蛙のみききてゆゆしき寝覚めかな 野水

 

 田んぼの真ん中にあった旦藁亭で一泊したのだろう。そこらかしこから蛙の声が聞こえる中で寝入り、目覚め、これは「ゆゆしき」というわけだ。

 「ゆゆし」はweblio古語辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①おそれ多い。はばかられる。神聖だ。

  出典万葉集 一九九

  「かけまくもゆゆしきかも言はまくもあやにかしこき明日香(あすか)の真神(まかみ)の原に」

  [訳] 心にかけて思うのもはばかられることよ、口に出して言うのもまことにおそれ多い明日香の真神の原に。

  ②不吉だ。忌まわしい。縁起が悪い。

  出典更級日記 大納言殿の姫君

  「たちいづる天の川辺のゆかしさに常はゆゆしきことも忘れぬ」

  [訳] (牽牛(けんぎゆう)と織女が)出会う天の川辺に心が引かれて、いつもは不吉なことも(今日は)忘れてしまった。

  ③甚だしい。ひととおりでない。ひどい。とんでもない。

  出典徒然草 二三六

  「おのおの拝みて、ゆゆしく信起こしたり」

  [訳] 各人それぞれが拝んで甚だしく信仰心を起こした。

  ④すばらしい。りっぱだ。

  出典徒然草 一

  「徒人(ただびと)も、舎人(とねり)など賜る際(きは)はゆゆしと見ゆ」

  [訳] ふつうの貴族でも、随身などを(朝廷から)いただくような身分の人は、すばらしいと思われる。」

 

と多義だが、基本的には本来忌むべきものだったのが逆の意味に転用された言葉で、「いみじ」「すごし」などと同様だ。今の感覚だと「蛙のみききてやばい寝覚めかな」と言った方がわかりやすいかもしれない。もちろん発句は挨拶だから、褒めて言っている。

 

季語は「蛙」で春、水辺。

 

 

   蛙のみききてゆゆしき寝覚めかな

 額にあたるはる雨のもり     旦藁

 (蛙のみききてゆゆしき寝覚めかな額にあたるはる雨のもり)

 

 脇は亭主の旦藁が付ける。

 雨漏りがして額に当たったでしょうと、いかに粗末な家であるか謙遜して言う。

 

季語は「はる雨」で春、降物。

 

第三

 

   額にあたるはる雨のもり

 蕨煮る岩木の臭き宿かりて    越人

 (蕨煮る岩木の臭き宿かりて額にあたるはる雨のもり)

 

 「岩木」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 岩石と樹木。

  2 感情を持たないもののたとえ。木石(ぼくせき)。

  「だれが―だと思うもんか」〈逍遥・当世書生気質〉

  3 亜炭の古称。」

 

とある。2ではないのは明らかだが、1でもない。となると、これは3の亜炭ということになる。

 亜炭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (石炭に亜(つ)ぐ意) 炭化度の低い石炭の一つ。褐色または黒褐色で木質組織を残しているものもある。主として第三紀地層中に存在。亜褐炭。磐木(いわき)。」

 

とある。亜炭は日本のあちこちで産出したもので、名古屋でもかつて亜炭の採掘がおこなわれていた。といってもそれは近代のことで、江戸時代に果して亜炭が用いられていたかどうかということになる。

 名古屋ではないが宮城の名取川の埋れ木は古代から燃料として用いられ、

 

 名取川瀬々の埋れ木あらはれば

     いかにせむとかあひ見そめけむ

              よみ人しらず(古今集)

 

と歌にも詠まれてきた。ウィキペディアには「名取川の埋れ木を香炉の灰として使用するのが都で流行し、最高級の灰として珍重された。」とある。

 つまり亜炭は古代から知られていた。そのため似たようなものが容易に入手できるなら他の地方でも用いられた可能性は十分にある。

 ただ、名取川以外のものは品質に問題があったのだろう。この句でも「岩木の臭き」とあるように、その多くは硫化水素などの匂いがきつくて、一般にはあまり用いられることなく、ただ、拾ってきて使える所で細々と使われていと考えればいいのではないかと思う。

 少なくとも宝暦二年(一七五二年)に『張州府志』には長久手と高針で亜炭が取れたことが記録されているという。

 第三は発句の情を離れるので、岩木で蕨を似ていたのは旦藁の家ではない。ただ、岩木の使用はこの連衆の間では共有されてて、おそらく名古屋の「あるある」だったのではないかと思う。

 

季語は「蕨」で春。旅体。

 

四句目

 

   蕨煮る岩木の臭き宿かりて

 まじまじ人をみたる馬の子    荷兮

 (蕨煮る岩木の臭き宿かりてまじまじ人をみたる馬の子)

 

 岩木を燃やす宿には馬の子がいて、人をまじまじと見ている。街道の宿なら乗り掛け馬がいるから、その仔馬がいてもおかしくはない。

 

無季。「人」は人倫。「馬」は獣類。

 

五句目

 

   まじまじ人をみたる馬の子

 立てのる渡しの舟の月影に    冬文

 (立てのる渡しの舟の月影にまじまじ人をみたる馬の子)

 

 名古屋で渡し舟というと七里の渡しがある。

 時代は下るが歌川広重『五十三次名所図会・桑名 七里の渡舩』を見ると、大きな船では座っている人が多いが立っている人もいる。その手前の小さな船には立って櫓を押す人と立って乗っている人がいる。『東海道名所図会 桑名渡口』も同様だ。

 はっきりとしたことは言えないが、渡し船に立って乗ることはあったのではないかと思う。月明りに仔馬が一緒に乗っていてこっちを見ているのが見える。

 

季語は「月影で秋、夜分、天象。「渡しの舟」は水辺。

 

六句目

 

   立てのる渡しの舟の月影に

 芦の穂を摺る傘の端       執筆

 (立てのる渡しの舟の月影に芦の穂を摺る傘の端)

 

 渡し舟は芦の中を進むので、唐傘が芦の穂をかすめることもあった。

 一巡したところで執筆が一句付ける。

 

季語は「芦の穂」で秋、植物、草類、水辺。

初裏

七句目

 

   芦の穂を摺る傘の端

 磯ぎはに施餓鬼の僧の集りて   旦藁

 (磯ぎはに施餓鬼の僧の集りて芦の穂を摺る傘の端)

 

 施餓鬼はウィキペディアに、

 

 「施餓鬼(せがき)とは、仏教における法会の名称である。または、施餓鬼会(せがきえ)の略称。」

 

 「日本では先祖への追善として、盂蘭盆会に行われることが多い。盆には祖霊以外にもいわゆる無縁仏や供養されない精霊も訪れるため、戸外に精霊棚(施餓鬼棚)を儲けてそれらに施す習俗がある、これも御霊信仰に通じるものがある。 また中世以降は戦乱や災害、飢饉等で非業の死を遂げた死者供養として盛大に行われるようにもなった。

 水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養は「川施餓鬼」といい、夏の時期に川で行なわれる。」

 

とある。この場合は川施餓鬼と思われるが、施餓鬼は秋の季語で、ここでも秋として扱われている。

 

季語は「施餓鬼」で秋。釈教。「磯きは」は水辺。「僧」は人倫。

 

八句目

 

   磯ぎはに施餓鬼の僧の集りて

 岩のあひより蔵みゆる里     野水

 (磯ぎはに施餓鬼の僧の集りて岩のあひより蔵みゆる里)

 

 漁村でも裕福な漁村もあるのだろう。大漁続きなら蔵も立つ。ただ、自然任せなので浮き沈みが激しいし、海難の危険にも常にさらされているから、施餓鬼の僧が集まっている。

 

無季。「里」は居所。

 

九句目

 

   岩のあひより蔵みゆる里

 雨の日も瓶焼やらん煙たつ    荷兮

 (雨の日も瓶焼やらん煙たつ岩のあひより蔵みゆる里)

 

 蔵が立っているのは陶磁器の製造の盛んな里だった。

 

無季。「雨」は降物。「煙」は聳物。

 

十句目

 

   雨の日も瓶焼やらん煙たつ

 ひだるき事も旅の一つに     越人

 (雨の日も瓶焼やらん煙たつひだるき事も旅の一つに)

 

 腹が減っていると瓶を焼く煙も何かおいしいもの焼いているように見えてくる。それも旅の一つ。越人のキャラはひょっとして「うっかり八兵衛」?

 

無季。旅体。

 

十一句目

 

   ひだるき事も旅の一つに

 尋よる坊主は住まず錠おりて   野水

 (尋よる坊主は住まず錠おりてひだるき事も旅の一つに)

 

 食うものや夜寝る所に困ったら、とりあえずお寺に厄介になろうというのはあったのだろう。残念ながら留守だった。

 

無季。釈教。「坊主」は人倫。

 

十二句目

 

   尋よる坊主は住まず錠おりて

 解てやをかん枝むすぶ松     冬文

 (尋よる坊主は住まず錠おりて解てやをかん枝むすぶ松)

 

 『芭蕉七部集』の中村注に、

 

 「再会を希うための松の枝をわがね結ぶ古代の習慣。」

 

とある。コトバンクの「世界大百科事典内の結び松の言及」に、

 

 「…太平洋に注ぐ南部川の河口部に位置し,流域に平地が広がる。西部海岸沿いの岩代(いわしろ)は,謀反の罪で捕らえられた有間皇子が〈磐代(いわしろ)の浜松が枝を引き結び……〉(《万葉集》巻二)と詠んだ地で,そのゆかりの〈結び松〉が植えつがれている。南部川下流域一帯には平安末期から中世にかけて南部荘があった。…」

 

とある。江戸時代には廃れていた習慣だと思うが、岩代の結び松は紀州熊野道の名所として知られていたのだろう。前句を巡礼の旅とする。

 

無季。「松」は植物、木類。

 

 このあと、

 

   今宵は更たりとてやみぬ

   同十九日荷兮室にて

 

とあり、続きは十九日ということになる。

 発句では「寝覚かな」とあるから午前中から興行が始まったのだろう。それにしては時間がかかりすぎだ。実際には夜になってから始めたか。

 

十三句目

 

   解てやをかん枝むすぶ松

 咲わけの菊にはおしき白露ぞ   越人

 (咲わけの菊にはおしき白露ぞ解てやをかん枝むすぶ松)

 

 咲わけは一本に違う色の花が咲くこと。二色の花も珍しいのにさらに白露でその色が際立ち、もったいないくらいだ。勿論褒めて言っている。

 松の枝ぶりを作るために結んでた松の枝も、景色がいいので今日は解いてみる。

 

季語は「菊」で秋、植物、草類。「白露」も秋、降物。

 

十四句目

 

   咲わけの菊にはおしき白露ぞ

 秋の和名にかかる順       旦藁

 (咲わけの菊にはおしき白露ぞ秋の和名にかかる順)

 

 『芭蕉七部集』の中村注に、

 

 「源順が『和名抄』(和名類聚抄)「秋の部」の稿にとりかかったの意。」

 

とある。ウィキペディアに、

 

 「『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。」

 

とある。十巻本は二十四部からなり、二十巻本は三十二部からなるが、ともに草木部は最後にある。

 

季語は「秋」で秋。

 

十五句目

 

   秋の和名にかかる順

 初雁の声にみづから火を打ぬ   冬文

 (初雁の声にみづから火を打ぬ秋の和名にかかる順)

 

 夜遅くまで一人籠って執筆を続けるので、火種は常に自分で用意している。「秋の和名にかかる」に初雁の声を付ける。

 

季語は「初雁」で秋、鳥類。

 

十六句目

 

   初雁の声にみづから火を打ぬ

 別の月になみだあらはせ     荷兮

 (初雁の声にみづから火を打ぬ別の月になみだあらはせ)

 

 前句を切り火とする。「切り火」に関しては明治に作られたという古い説もあるようだが、江戸時代に切り火が行われていたという証拠もあるという。この句も証拠にならないか。

 後朝の別れの月に初雁の声がして、切り火を切って見送る。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。

 

十七句目

 

   別の月になみだあらはせ

 跡ぞ花四の宮よりは唐輪にて   旦藁

 (跡ぞ花四の宮よりは唐輪にて別の月になみだあらはせ)

 

 「四の宮」は京都山科の「しのみや」か。京都を出て東海道の最初の宿である大津へ行く途中に通る。ここから山を越えると大津になる。「跡ぞ花」はここで振り返ると花の都が見えるということだろう。

 唐輪(からわ)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「日本髪の一種。男女ともに結んだ。男性の唐輪は、鎌倉時代に武家の若者や寺院の稚児(ちご)などが結った髪形で、その形は後世における稚児髷(まげ)に類似している。その結び方は、髪のもとを取りそろえて百会(ひゃくえ)(脳天)にあげ、そこで一結びしてから二分し、額の上に丸く輪とした。一方、女性の唐輪は、下げ髪が仕事の際に不便なので、根で一結びしてから輪につくり、その余りを根に巻き付けたもので、安土(あづち)桃山時代の天正(てんしょう)年間(1573~92)から行われた。[遠藤 武]」

 

とある。似たものというと「ゆるキャン△」のリンちゃんを想像すればいいかもしれない。

 また、ウィキペディアには、

 

 「唐輪(からわ)とは、安土桃山時代ごろ兵庫や堺などの上方の港町の遊女に好まれた女髷。」

 

ともある。当時としては古い風俗で、大津の遊郭だとまだ唐輪だったということか。

 幕末の浮世絵だが『観音霊験記 西国順礼』「拾四番近江三井寺 大津町杉女」に描かれて杉女が唐輪のようにも見える。

 前句の別れを都との別れにする。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   跡ぞ花四の宮よりは唐輪にて

 春ゆく道の笠もむつかし     野水

 (跡ぞ花四の宮よりは唐輪にて春ゆく道の笠もむつかし)

 

 唐輪だと笠がかぶりにくい。

 

季語は「春」で春。旅体。

二表

十九句目

 

   春ゆく道の笠もむつかし

 永き日や今朝を昨日に忘るらん  荷兮

 (永き日や今朝を昨日に忘るらん春ゆく道の笠もむつかし)

 

 日が長いので今朝のことが昨日のことのように思える。笠を被り旅をするにも一日が長くて疲れる。

 

季語は「永き日」で春。

 

二十句目

 

   永き日や今朝を昨日に忘るらん

 簀の子茸生ふる五月雨の中    越人

 (永き日や今朝を昨日に忘るらん簀の子茸生ふる五月雨の中)

 

 五月雨でじめじめしているから、簀子に茸が生えてくる。五月雨の時期は夏至に近く、一番日が長い。

 

季語は「五月雨」で夏、降物。

 

二十一日

 

   簀の子茸生ふる五月雨の中

 紹鷗が瓢はありて米はなく    野水

 (紹鷗が瓢はありて米はなく簀の子茸生ふる五月雨の中)

 

 紹鷗(じょうおう)はウィキペディアに、

 

 「武野 紹鴎(たけの じょうおう、文亀2年(1502年) - 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日))は、戦国時代の堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。」

 

とある。紹鷗茄子と呼ばれる「唐物茄子茶入」はあるが、瓢箪型の茶入も何となくありそうな、というところか。茶はあっても米はない。

 

無季。

 

二十二句目

 

   紹鷗が瓢はありて米はなく

 連歌のもとにあたるいそがし   冬文

 (紹鷗が瓢はありて米はなく連歌のもとにあたるいそがし)

 

 連歌会を催すというのはかなり金のかかることだったらしく、

 

 足のうて登りかねたる筑波山

     和歌の道には達者なれども

 

という狂歌もあった。明智光秀も連歌会をやるために妻が髪を売った。

 連歌師の招待や、それに興行は一日がかりだから、そのための会場の確保、宿泊や食事の準備、それに賞品なども出さねばならなかった。

 金もかかるし、準備することも多くて忙しい。

 

無季。

 

二十三句目

 

   連歌のもとにあたるいそがし

 瀧壺に柴押まげて音とめん    越人

 (瀧壺に柴押まげて音とめん連歌のもとにあたるいそがし)

 

 『芭蕉七部集』の中村注に、

 

 「後鳥羽院の時、吉田家の連歌の会で、滝の音がやかましくて聞き分けられなかったので、藤原為教が山から柴を折って滝の滝口を塞ぎ静かになったという故事。」

 

とある。ウィキペディアには、

 

 「時期は不明であるが頓阿『井蛙抄』には、西園寺別邸の吉田泉殿で催された連歌会へ為家は為教を伴い伺候し、滝の音が耳障りであったところを為教が機転を効かせて滝を塞いだという逸話を記している。(辨内侍日記)」

 

とある。

 なお、為教は嘉禄三年(一二二七年)の生まれなので、後鳥羽院の時代ではない。後嵯峨院の時代だと思う。

 本説を取る場合は少し変えるので、滝口を塞いだというところを瀧壺を塞いだことにしている。

 

無季。「瀧壺」は水辺。

 

二十四句目

 

   瀧壺に柴押まげて音とめん

 岩苔とりの篭にさげられ     旦藁

 (瀧壺に柴押まげて音とめん岩苔とりの篭にさげられ)

 

 岩苔は『芭蕉七部集』の中村注に岩檜葉(イワヒバ)とある。江戸時代には盆栽として好まれ、たくさんの園芸品種が作られた。

 瀧壺のそばで危険を冒してでもイワヒバと取る人がいたのだろう。

 

無季。「岩苔」は植物、草類。

 

二十五句目

 

   岩苔とりの篭にさげられ

 むさぼりに帛着てありく世の中は 冬文

 (むさぼりに帛着てありく世の中は岩苔とりの篭にさげられ

 

 贅沢にも絹を着て歩く世の中は、ということだから、やはりイワヒバ取りはいい金になったのだろう。

 

無季。「帛」は衣裳。

 

二十六句目

 

   むさぼりに帛着てありく世の中は

 筵二枚もひろき我庵       越人

 (むさぼりに帛着てありく世の中は筵二枚もひろき我庵)

 

 贅沢が当たり前の世の中に俺の庵は筵二枚分の広さしかないが、それでも満足している、と。

 ただ、越人は、

 

   のがれたる人の許へ行とて

 みかへれば白壁いやし夕がすみ  越人

 

という発句を詠んでいるから、越人自身のことではない。付け句はあくまでフィクション。

 

無季。「我庵」は居所。

 

二十七句目

 

   筵二枚もひろき我庵

 朝毎の露あはれさに麦作ル    旦藁

 (朝毎の露あはれさに麦作ル筵二枚もひろき我庵)

 

 降ってはすぐに消えて行く朝露のはかなさに発心を起こし、小さな庵に住んで麦を作る生活を始める。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

二十八句目

 

   朝毎の露あはれさに麦作ル

 碁うちを送るきぬぎぬの月    野水

 (朝毎の露あはれさに麦作ル碁うちを送るきぬぎぬの月)

 

 この時代は本因坊道策というスターが生まれ、それに渋川春海のような強力なライバルもいて囲碁の盛り上がった時代だった。そのため底辺にはたくさんの無名な碁打ちもいたのだろう。

 いつも負けてばかりで涙の露の碁打ちに麦飯を作って送り出す。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。「碁うち」は人倫。

 

二十九句目

 

   碁うちを送るきぬぎぬの月

 風のなき秋の日舟に網入よ    荷兮

 (風のなき秋の日舟に網入よ碁うちを送るきぬぎぬの月)

 

 アゲハマならぬハマグリが取れるということか。まあ、白石は蛤から作るが。

 

季語は「秋の日」で秋。「舟」は水辺。

 

三十句目

 

   風のなき秋の日舟に網入よ

 鳥羽の湊のおどり笑ひに     冬文

 (風のなき秋の日舟に網入よ鳥羽の湊のおどり笑ひに)

 

 鳥羽港はウィキペディアに、

 

 「江戸時代には鳥羽藩の藩庁が置かれ、城下町として発展する。また上方と江戸を結ぶ菱垣廻船や樽廻船が遠州灘を往来する際は必ず鳥羽港に寄港することとなった。港には廻船問屋や30余軒の船宿が立ち並び、大いに賑わった。文政年間に発行されたとされる『国々港くらべ』では西の港番付で堺港に次ぐ第2位(関脇)として鳥羽港を評価している。この重要性は幕府も認識しており、山田奉行所の職務の1つに「鳥羽港の警備」が含まれていた。そして鳥羽港に安全に入港できるよう、延宝元年(1673年)、菅島に「御篝堂(おかがりどう)」、神島に「御燈明堂」が幕府によって設けられた。これは、日本初の公設灯台とされている[7]。」

 

とある。また鳥羽、

 

 「鳥羽の盆踊りは、町人に交じって武士も踊りの輪に加わったことから、身分を隠すために手ぬぐいや編み笠で顔を隠して踊るという独特の風習があったが、」

 

とある。

 

古語は「おどり」で秋。「鳥羽の湊」は名所、水辺。

二裏

三十一句目

 

   鳥羽の湊のおどり笑ひに

 あらましのざこね筑摩も見て過ぬ 野水

 (あらましのざこね筑摩も見て過ぬ鳥羽の湊のおどり笑ひに)

 

 「あらまし」は中世では「あらまほし」でこうありたいという意味だったが、後に概略の意味で用いられる容易なった。ここでは古い方の意味か。

 大原の雑魚寝は天和二年刊の西鶴の『好色一代男』で有名になっていたから行ってみたかったのだろう。実際に行ってみたらどうだったかは「見て過ぬ」とあるから当て外れか。筑摩祭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「滋賀県米原市朝妻筑摩にある筑摩神社の祭礼。昔は四月八日、現在は五月八日に行なわれる。古くは、女が交渉をもった男の数だけ鍋をかぶって神幸に従い、その数をいつわれば神罰を受けるとも、また、八人の処女が鍋をかぶって神前に舞い、もし男と通じていれば鍋が割れるともいわれた。今は狩衣(かりぎぬ)、緋(ひ)の袴(はかま)をつけた八人の少女が張子の鍋をかぶって神輿に供奉(ぐぶ)する。渡御の途中、神輿を琵琶湖にかつぎ入れる。日本三奇祭の一つ。筑摩鍋祭。つくままつり。《季・夏》」

 

とある。

 

 君が代や筑摩祭も鍋一ツ     越人

 

はこれより後の『猿蓑』の句になる。

 大原にも行き、筑摩祭も見て、次は鳥羽の盆踊りと、お祭り男だね。

 

無季。恋。

 

三十二句目

 

   あらましのざこね筑摩も見て過ぬ

 つらつら一期聟の名もなし    荷兮

 (あらましのざこね筑摩も見て過ぬつらつら一期聟の名もなし)

 

 大原の雑魚寝も筑摩祭も結婚相手を探す場だというのに、思えば一生縁がなかった。この場合筑摩祭では鍋がゼロになるのか。

 

無季。恋。「聟」は人倫。

 

三十三句目

 

   つらつら一期聟の名もなし

 我春の若水汲に昼起て      越人

 (我春の若水汲に昼起てつらつら一期聟の名もなし)

 

 若水は立春の朝一番に汲む水だが、昼まで寝過ごしてしまう。それと同じで気づいたら娘はとっくに婚期を逃していた。

 

季語は「我春」で春。「若水」も春。「我」は人倫。

 

三十四句目

 

   我春の若水汲に昼起て

 餅を喰つついはふ君が代     旦藁

 (我春の若水汲に昼起て餅を喰つついはふ君が代)

 

 若水は昼に汲んで正月は餅が喰えて、何も言うこともない。君が代に万歳だ。

 

季語は「餅」で春。

 

三十五句目

 

   餅を喰つついはふ君が代

 山は花所のこらずあそぶ日に   冬文

 (山は花所のこらずあそぶ日に餅を喰つついはふ君が代)

 

 「所のこらず」は『芭蕉七部集』の中村注に、「土地の者がこぞっての意」とある。

 山には桜が咲いて、村中みんなが遊ぶ日は餅をついて天下泰平を祝おう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「山」は山類。

 

挙句

 

   山は花所のこらずあそぶ日に

 くもらずてらず雲雀鳴也     荷兮

 (山は花所のこらずあそぶ日にくもらずてらず雲雀鳴也)

 

 曇らず照らずというのは霞がかかっているということで、

 

 照りもせず曇りも果てぬ春の夜の

     朧月夜にしくものぞなき 

              大江千里(新古今集)

 

の歌の趣向を昼にして雲雀の声を添えて一巻は長閑に終わる。

 

季語は「雲雀」で春、鳥類。