X奥の細道、三月四月

三月二十七日

元禄2327日、みちのくへ旅立つ日が来た。

実はそれ以前に住んでた(いおり)2月の末に新しい居住者に引き渡していて、近くにある鯉屋(こいや)の旦那の採荼(さいと)(あん)に滞在していた

芭蕉庵の方は娘を連れた人が住んで、上巳(じょうし)には最近流行のきらびやかに染めた新しい大きな紙製の立ち雛に、先代の立ち雛を何対も並べて飾ってた。

世の中変わったもんだ。

 

草の戸も(すみ)かはるよや(ひな)の家 芭蕉

 

最初は20日に旅立つはずだった。

 

路通(ろつう)が一緒に行く予定でずっと江戸にいたんだが、急に()()に変わった。

(いわ)()平藩(たいらはん)の方に意向があったようだ。スポンサーになる以上、予算管理のしっかりできる同行者が求めるのは仕方ない。確かに路通は経済感覚ゼロだからな。

曾良はみちのくの有力者にコネがあるようだし、神社の調査もあるようだ。

 

一度は26日に旅立つことが決まったが、昨日は門人たちが集まって来て、名残を惜しんでるうちにいつのまにか飲み会になってて、勝手に盛り上がってしまった。

おかげで今朝早く船で千住(せんじゅ)まで行って、春日部(かすかべ)までの強行軍になってしまった。

 

昨日は酔いに任せて(ひゃく)(いん)巻こうなんて言って、結局(おもて)八句(はっく)で終わってしまった懐紙(かいし)採荼(さいと)(あん)に置いて行く。まあ、出来も悪いし反故(ほご)だろうな。

 

()の刻にようやく千住(せんじゅ)に着いた。

ここで見送りに来た門人たちともお別れで、ここからは曾良と二人旅になる。

海に住むたくさんの白魚たちが、川を上って行く二匹の(あゆ)を見送ってるかのようだ。

 

鮎の子の白魚送る(わかれ)かな 芭蕉

 

夜になって無事に春日部に着いた。船にも馬にも乗ったが九里は長かった。

 

 

三月二十八日

朝明るくなってから春日部宿を馬で出発する。夜のうちに雨が降って一時止んでたが、出発する頃また降り出した。

小さな川を渡ったが、かつて下総(しもふさ)に流れてた(ふと)()(がわ)の名残だという。これも東照宮様の御威光とか。

 

昼から雨も止んで、栗橋の関を通過した。

栗橋と利根川の対岸の中田宿との間の(ぼう)(せん)の渡しが関所になっていたが、勝手に通れって感じだった。

関所も関守によりけりで、いい加減な所もあれば厳しい所もある。

 

今日は間々田(ままだ)宿に泊まる。明日は(むろ)八島(やしま)だ。街道から外れるが、馬はあるのかな。

 

 

三月二十九日

 

今日も朝明るくなってから間々田(ままだ)を出る。いい天気だ。小山(おやま)宿まで日光街道で、そこから左へ折れて室の八島に向かう。

3月は小の月なので、春は今日で終わる。

 

小山宿から先はやはり歩きだった。

小山宿を通る時、右側に本陣が見えて、あれが有名な小山の屋敷なのかと、曾良と二人で話してた。

木沢(きざわ)追分(おいわけ)()いう壬生(みぶ)街道(かいどう)の分岐点があって、そこから飯塚宿は近かった。

 

ここから街道を外れる、河原を歩いた。

惣社(そうしゃ)河岸(かし)で川を渡り、少し行くと室の八島だった。

 

室の八島には昼頃着いた。

北条(ほうじょう)(うじ)(なお)によって焼き払われたという大神(おおみわ)神社(じんじゃ)天和(てんな)の頃に再建され、真新しい社殿が建っていたが、実方(さねかた)()(そん)が、

 

いかでかは思ひありともしらすべき

   室の八島の煙ならでは

 

と詠んだような煙はどこにもなく、陽炎(かげろう)だけがゆらゆらとしてた。まあ、この陽炎を煙だと思えということか。

 

糸遊(いとゆう)に結つきたる(けむり)(かな) 芭蕉

 

神道家の曾良は大喜びでコノシロの蘊蓄(うんちく)などいろいろ語ってた。正直うざいけど、紀行文にする時のネタにはなるからメモしておこう。

 

室の八島から壬生(みぶ)宿まではすぐだった。ここで壬生街道に戻った。

壬生を出て少し行くと金売(かねうり)(きち)()の塚が畑の真ん中にあった。

 

(いり)かゝる日も程々に春の暮 芭蕉

 

折しも329日の小晦日(こつごもり)で、春も今日で終わり。

室の八島に行った時には晴れてたが、だんだん雲が出てきて、今では夕日も見えなくなって、薄暗くなってゆくだけの春の終わりはちょっと寂しい。

もうすぐ鹿沼(かぬま)宿。

 

鐘つかぬ里は何をか春の暮 芭蕉

入逢(いりあい)の鐘もきこえず春の暮 同

 

今日は鹿沼に泊まる。

この辺りは入相(いりあい)の鐘の音も聞こえてこない。

明日は日光に行くんで、曾良が宿の人に道を聞いてメモを取っていた。

 

 

四月一日

今朝も明るくなってから鹿沼を出発した。小雨が降ったり止んだりの天気で、道はややぬかるんでる。

 

昼頃に日光に着いた。雨も止んでいた。川を渡ると川上の神橋(しんきょう)が見えた。

山は若葉が鬱蒼と繁っていて、時折日が射す。この光が下々の木の根元の隅々まで照らしてくれればいいんだが。

 

あなたふと()下闇(したやみ)も日の光 芭蕉

 

すぐに東照宮に行くのかと思ったら、曾良が出発前に浅草(あさくさ)江北山(こうほくさん)宝聚院(ほうじゅいん)清水寺(せいすいじ)の書状を預かっていて、養源院(ようげんいん)に届けなくてはいけないというので、まずそっちへ行った。

手紙を渡して終わりかと思ったら、大猷院(だいゆういん)(べっ)当寺(とうじ)の別当が会ってくれるというので、使いの者の帰りを待った。遅い‥。

 

別当の使いの者が帰るのを待ってたが、あいにく別客が来てたらしく、一時(いっとき)ほど待つことになった。結局東照宮を回るのはかなり遅くなってからになった。

曾良が宗教関係者に顔が広く、別当にもコネがあるのはよくわかったが、別当への挨拶はいいからゆっくり東照宮を見たかったな。

このあと鉢石(はちいし)へ戻って五衛門という人の宿に行った。自分で仏の御左衛門だなんて言ってた。まあ、確かに良い人なんだろうな。今日はここで一泊。

 

 

四月二日

今朝はいつもよりゆっくりしてから出発した。(うら)()の滝と(かん)(まん)が淵を見に行く予定だ。

中禅寺の湖も見たかったが、馬返しから二里の険しい山道と聞いて曾良に止められた。

 

裏見の滝は一里ほど川沿いに登ってった所で、日光四十八滝の第一の滝だという。

岩から落ちる滝は高さ十丈で、吉野の龍門の滝の倍はあった。

滝の裏側を通れるようになっていて、滝を裏から見ることができるので裏見の滝だという。

 

憾満が淵は鉢石の方に戻る途中で川を渡って反対側から川を見るようになっている。

()雲寺(うんじ)があり、対岸に六尺余りの不動明王(ふどうみょうおう)の石像があった。

鉢石に戻ったのは昼頃だった。

 

鉢石の五左衛門宿に戻ると、五左衛門が大田原(おおたわら)への近道を教えてくれるという。

今市から大渡(おおわたり)船入(ふなにゅう)玉入(たまにゅう)を経て大田原へ行く日光北街道のことは知ってたが、大渡まで大谷川(だいやがわわ)の古い流れを利用したルートがあるということだった。

 

鉢石から日光街道を少し川下へ行くと、左へ入る道があって、河原へ出るとそこから物資を運ぶ高瀬舟が出ていた。

五左衛門の手配でこれに乗り込むと瀬尾(せのお)の先で左に細い流れがあり、船はそっちに入って行くと、川室(かわむろ)という所を通って大きな川に出た。ここをまた下って行くと大渡(おおわたり)に着いた。

 

仮の橋が渡してあったが、これは水の少ない時だけで普段はないという。

本来なら三里を越える道のりだが、半時ほどで着いた。

このまま一気に矢板(やいた)までは行けると思ったが、船入を過ぎた所で夕立になって、前もよく見えないような土砂降りになった。

道も泥だらけで結局玉入まで行くのがやっとだった。

 

行き来する商人などを泊める安い宿はあったが、同じように雷雨で足止めされた人たちで溢れていて、宿の方も詰め込むだけ詰め込もうとしていた。

こんな所で雑魚寝したら、間違いなく(のみ)をもらいそうだ。

曾良が名主に頼み込んで、そこに泊まらせてもらった。

 

 

四月三日

今日も明るくなってから玉入(たまにゅう)を出た。天気は良いが、道はまだぬかるんでる。

ここから矢板(やいた)大田原(おおたわら)を経て黒羽(くろばね)まで行くと十四里余りになると曾良が言ってた。

幸い名主の人が馬を貸してくれるという。

 

この先の(くら)(かけ)(とうげ)の道は分かれ道が多く、知らないと迷うが、馬の行くままに任せて適当な所で乗り捨てれば馬は勝手に帰ってくれる、と言われた。

有り難く、ご厚意に甘えるとしよう。

 

曾良「玉入から少し行った倉掛峠の道は丘陵地帯で、険しくはないがどこも似たような地形で目印になる物もない。

幾つもの小さな沢が入り組んでて、そのたびに分れ道がある。確かに一つ間違えるととんでもない方にいきそうだ。

 

ここは馬に任せるとしよう。それとなぜかついてきたガキが二人。

でも、姉さんの方は結構可愛い。

このくらいの子にありがちな強い真っ直ぐな眼差しで、ずけずけした物言い。

そりゃ旅立つ時に剃ったばかりだから頭が青いよ。青ハゲはないよな。翁はヒゲ爺さんとか言ってるし。

 

別にそんないやらしい目で見たりはしてないよ。ただ可愛いなと思っただけだ。

名前を聞いたら『かさね』って三文字の珍しい名前で八重咲の花みたいだな。

最近はやりの南蛮渡来の八重(やえ)撫子(なでしこ)みたいだなって言ったら翁が、『それいける。発句にしちゃいなよ』だって。

 

かさねとは八重撫子の名成るべし 曾良

 

倉掛峠を越えると高内(たかうち)宿で、そこで馬を降りたが、幸いここから先は街道の馬に乗ることができた。

この先、川はあっても水は少なく、行けども行けども背の高い笹が茂って見通しの効かない単調な道だった。これが那須野か。

大田原に近づくと麦畑が多くなった。

 

大田原は城下町で奥州街道と交差する。そこから先は川もあり田畑が広がってた。

黒羽に到着してまず黒羽城へ行くと、すぐに()()という所の鹿子(かのこ)(ばた)(ぜん)太夫(だゆう)の屋敷に案内された。

既に日も暮れ、早速ということで興行に入った。

 

(まぐさ)おふ人を枝折(しおり)の夏野(かな) 芭蕉

 

この句はこんな畏まった所で恐れ入るので、日頃馬草を背負ってるような牧童にでも案内していただきたいという謙遜の挨拶だった。

善太夫の脇は、

 

  (まぐさ)おふ人を枝折(しおり)の夏野(かな)

青き()盆子(ちご)をこぼす椎の葉 (すい)(とう)

 

 

では、椎の葉に青いイチゴをお持ちしましょう。

 

曾良「イチゴをこぼすというのは慌ててたということにできますな。急な雨で市場の商品を急いで片付けてたんでしょうな。」

 

  青き覆盆子をこぼす椎の葉

村雨(むらさめ)(いち)のかりやを(ふき)とりて 曾良

 

芭蕉「村雨だからすぐに止むんで、ここで定座(じょうざ)を繰り上げて、雨の後の月を出しておこうか。市だから町中。」

 

  村雨に市のかりやを吹とりて

町中(まちなか)(ゆく)川音の月 芭蕉

 

善太夫「では、小鷹(こたか)()りの帰りに城下に戻ってきた時の夕涼みというのはいかがかな。んっ、季重なりかな?(はし)(たか)の小鷹狩で秋とわかるから残暑の夕涼みでok?良かった。」

 

  町中を行川音の月

(はし)(たか)を手に(すえ)ながら夕涼(ゆうすずみ) (すい)(とう)

 

曾良「夕涼みだと着ていくのは帷子(かたびら)ですな。その帷子も秋に合わせて秋草の柄にってことにしましょう。」

 

  箸鷹を手に居ながら夕涼

秋草ゑがく帷子は()ぞ 曾良

 

この日はここで終わった。

 

 

四月四日

浄法寺(じょうほうじ)図書(ずしょ)の屋敷は黒羽城の門を入ってすぐのところにあった。庭がなかなか綺麗に整えられている。

午前中は昨日の三人に加えて()(りん)と執筆の二寸で五人になった。浄法寺図書は参加せず、見てるだけでいいようだ。

 

芭蕉「昨日は曾良の、秋草ゑがく帷子(かたびら)はたそ」で終わったっけ。思わせぶりな終わり方だしその人物に行かなくてはいけないね。初裏だし恋呼び出しだな

 

  秋草ゑがく帷子はたそ

ものいへば扇子(せんす)に顔をかくされて 芭蕉

 

()(りん)「いきなり恋で来たか。なら川向こうから乗り合い船で通ってくる遊女と洒落てみようか。」

 

  ものいへば扇子に顔をかくされて

寝みだす髪のつらき乗合(のりあい) 翅輪

 

曾良「それではここで女から男へ、落差のある展開といきましょう。むさ苦しい牢人なんかで、居場所を求めて田舎を彷徨(さまよ)い歩いてるって感じですな。」

 

  寝みだす髪のつらき乗合

(たずぬ)ルに火を焼付(たきつけ)る家もなし 曾良

 

善太夫「ではこの辺りに盗賊が出るというのでどこの家も戸を固く閉ざしている、って展開で、芭蕉さんも通ってきた日光北街道のとどろくの里としよう。有名な義賊のいた土地だ。」

 

  尋ルに火を焼付る家もなし

盗人(ぬすびと)こはき廿(とど)(ろく)の里 翠桃

 

芭蕉「とどろくの里は通らなかったな。船に乗せられたからな。盗人が怖いのは商人だとか金や物を持ってる人で、(おい)を背負った巡礼者など盗られるものもない。取るのは年だけ。」

 

  盗人こはき廿六の里

松の根に笈をならべて年とらん 芭蕉

 

善太夫「年とらんだからもうすぐ正月か。笈を背負った旅人は昔の連歌師(れんがし)にしようか。この辺りは宗祇法師や兼載法師も来た所だし。」

 

  松の根に笈をならべて年とらん

雪かきわけて連歌(れんが)(はじむ)る 翠桃

 

浄法寺図書の屋敷での興行は続く。

 

翅輪「連歌には名所の句が付き物だが、京の大原は小野の里の雪の中で連歌をやれば炭俵がたくさんあって暖を取れる。」

 

  雪かきわけて連歌始る

名所のおかしき小野の炭俵 翅輪

 

曾良「小野の里は比叡山(ひえいざん)の麓で尼さんも住んでいますね。大原女(おはらめ)は炭を売りに行き、同居する尼さんが留守番で大原女のために砧を打ってるってのはどうでしょう。向かえ付けで。」

 

  名所おかしき小野の炭俵

砧うたるる(あま)(たち)の家 曾良

 

善太夫「女二人で仲良いのも悪くない。行平(ゆきひら)どのみたいに間に挟まれたいもんだな。でもここは普通に李白の子夜呉歌の趣向を借りて、出征した男がついに戻らず尼になった妻達にしようか。」

 

  砧うたるる尼達の家

あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ 翠桃

 

芭蕉「これはやられたな。ここは心情を付けて流しておくか。」

 

  あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ

露とも消えね胸のいたきに 芭蕉

 

曾良「辛い恋ですね。花の定座で秋からの移りだと花をライバルの女の比喩としましょうか。それもすぐれてときめきたまう女、桐壺(きりつぼ)更衣(こうい)のような。」

 

  露とも消えね胸のいたきに

錦繡(きんしゅう)に時めく花の憎かりし 曾良

 

善太夫「錦繍を男にして、花から花へというパターンにできるな。今を時めく蝶は花のところに飛んで行くんだが、車に乗れるわけでもなく自分の羽で飛んでゆく。身分違いの恋。」

 

  錦繍に時めく花の憎かりし

をのが羽に乗る蝶の小車(おぐるま) 翠桃

 

翅輪「恋が続いたから、ここは普通に蝶が飛んでるだけにして、庭で子供と遊ぶ情景にしようか。今流行りの小児日傘とか。」

 

  をのが羽に乗る蝶の小車

日がささす子ども(さそう)て春の庭 翅輪

 

伝之丞(でんのじょう)「やあ、遅くなって、問屋本陣の伝之丞と申す者でお見知りおきを。子供ってのは着飾っても長く持たずに、すぐに脱いで庭に飛び出して行って、自由なもんです。」

 

  日がささす子ども誘て春の庭

ころもを(すて)てかろき世の中 桃里

 

芭蕉「衣を捨ててといえば伊勢で裸に目覚めた増賀(そうが)上人(しょうにん)。まあ、こういう奇行をするくらいだから、大酒飲みの破戒坊主だったのかな。酔うとすぐに脱ぐやつ、竹林の七賢にもいたっけ。」

 

  ころもを捨てかろき世の中

(のめ)ば谷の朽木(くちき)も仏(なり) 芭蕉

 

曾良「狩人の発心ですな。獲物も取れずに坊主で帰って、酔っ払ったら谷の朽木が仏様に見えて、本当に坊主になる。」

 

  酒呑ば谷の朽木も仏也

狩人(かりゅうど)かへる(そば)松明(たいまつ) 曾良

 

善太夫「松明だったら武将でもいいな。狩人が山道を帰ってゆくと落武者が松明を灯して野宿している。」

 

  狩人かへる岨の松明

落武者の明日(あす)の道(とう)草枕 翠桃

 

翅輪「明日の道問うのはこれから先どうやって生きてゆけばいいのか途方に暮れているということで、神社を見つけたんで占ってみる、というのはどうかな。」

 

  落武者の明日の道問草枕

森の透間(すきま)千木(ちぎ)の片そぎ 翅輪

 

伝之丞「神祇(じんぎ)と来たら(しゃく)(きょう)か。本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)。」

 

  森の透間に千木の片そぎ

日中の鐘つく(ころ)(なり)にけり 桃里

 

曾良「お寺といえば今は隠元(いんげん)禅師(ぜんじ)(から)(ちゃ)でしょう。煮出すだけで手軽に飲めるお茶は大人気で、昼の鐘を撞く頃にはもうなくなってる。」

 

  日中の鐘つく比に成にけり

(ひと)(かま)の茶もかすり(おわり)ぬ 曾良

 

翅輪「お茶がなくなるといえば、それだけ話し込んでしまったということか。世間話が長くなってしまったけど、相手はそういえば托鉢に来た乞食坊主だった。」

 

  一釜の茶もかすり終ぬ

乞食ともしらで憂世(うきよ)の物語 翅輪

 

善太夫「お地蔵さんを(まつ)った洞穴(ほらあな)にいたから、てっきり厳しい修行に耐えている(ぶっ)(ちょう)和尚(おしょう)のような高僧かと思って悩みを聞いてもらっていたら、夜が明けてよくよく見るとただの乞食坊主だった。」

 

  乞食ともしらで憂世の物語

(ほら)の地蔵にこもる有明(ありあけ) 翠桃

 

芭蕉「そろそろ終わりに近いし、ここは景色で逃げておこうかな。地蔵の洞といえば蔦に埋もれてたりして、それが冬も近いと真っ赤に紅葉して、ただ時雨に染まるのは普通だから、猿の涙にしよう。」

 

  洞の地蔵にこもる有明

蔦の葉は猿の泪や(そめ)つらん 芭蕉

 

伝之丞「なんかすごい悲しそうだな。どう応じたものか。やはり流人(るにん)かな。」

 

  蔦の葉は猿の泪や染つらん

流人(しば)(かる)秋風の音 桃里

 

芭蕉「どうした、みんな考えこんじゃって。流人で悲しくない方に展開するのは確かに難しいか。朝日を拝んで何とか希望を持とうというのはどうかい。」

 

  流人柴刈秋風の音

今日も又朝日を拝む石の上 芭蕉

 

二寸「あのお、なかなか句が付かないんで執筆の方から失礼しますが、修験者の朝で滝に米を研ぎにくるってのはどうですか?」

 

  今日も又朝日を拝む石の上

米とぎ(ちら)す瀧の白波 二寸

 

曾良「これなら米の研ぎ汁をこぼすのを滝に喩えたとも取れますね。ならこちらも比喩で返しましょう。竹竿の先の旗が雲のようで、米の研ぎ汁が滝のよう。」

 

  米とぎ散らす瀧の白波

旗の手の雲かと見えて(ひるがえ)り 曾良

 

翅輪「雲のような旗と言ったら源氏の白旗。みちのくに逃れてそこで和歌でも書き残してゆく。」

 

  旗の手の雲かと見えて翻り

奥の風雅をものに書つく 翅輪

 

芭蕉「さあ、最後の花の定座(じょうざ)は浄法寺さん。ここは一つよろしく。」

図書「いやあ、困ったなあ。何も思いつかなくて。今の状況そのまんまでもいいかい?」

 

  奥の風雅をものに書つく

珍しき行脚(あんぎゃ)を花に留置(とめおき)て 秋鴉

 

伝之丞「では二寸に代わって最後簡単に。春にしなくちゃいけないから日付が5日ほどずれるけど。」

 

  珍しき行脚を花に留置て

弥生(くれ)ける春の晦日(つごもり) 桃里

 

 

四月五日

曇っているが雨の気配はなく、今日は(うん)巌寺(がんじ)に行ってみようと思う。

昨日の興行で、

 

(ほら)の地蔵にこもる有明 翠桃

 

の句の時に雲巌寺で(ぶっ)(ちょう)和尚(おしょう)が修行した話も聞いた。

 

雲巌寺までは二里ほどで、峠を一つ越えたが、そんなに険しい道ではなかった。

昨日の興行のメンバーやそのお供の若い衆もぞろぞろとついてきて、結構な人数の団体になった。まあ、善太夫も図書も偉い人だからね。

 

まあ、おかげでいろいろ無駄話をしてるうちに着いた。

仏頂和尚が修行したという庵が残っていた。

岩の上にある小さな小屋で、人が住まなくなって荒れ果てていたが、かろうじて残っていた。

キツツキもこの庵は突かずに残しておいてくれたのだろう。

 

啄木(きつつき)(いお)はやぶらず(なつ)木立(こだち) 芭蕉

 

仏頂さんは深川にいた時近くに臨川(りんせん)(あん)があって、最初の頃は参禅したりしたけど、すぐに俳諧のことが頭に浮かんできちゃうからね。その度に喝!ってやられたな。

鹿島(かしま)根本寺(こんぽんじ)へも月見に行ったけど、その時は曾良も一緒だったが、十五夜の夜は雨が降っちゃってね。明け方に月が見えるからって起こされたけど、結局見えなかった。

 

本当はこんな山奥で一人ゆっくり過ごしたかったのかもしれないけど、それなりの地位についてしまうと寺の境界争いだとかで訴訟に巻き込まれたりして、お坊さんも結構大変なもんだ。

 

 

四月六日

今日は雨なので、余瀬の善太夫の家でゆっくり休んで、旅の疲れを癒そうかな。

 

曾良「45日に翁や黒羽の民部さん図書さんとその他大勢で(うん)巌寺(がんじ)へ行った。

雲巌寺は十景五橋三井と言われるだけあって、景色も良いし伽藍も素晴らしかった。

そうそう、滝もあった。

 

山深み昼くだるにもさびしきに

   よる人やある白糸の滝

 

自分は神道家なのでお経は読めないが、いや知らないわけではないが神道家の立場がそれを許さないんで、ただ無詠唱をもってして()の勤めを果たすとしよう。

 

物いはで石にゐる()()(つとめ) 曾良

 

 

四月七日

昨日は1日雨で今日も朝から雨。今日もお休みかな。

曾良が雲巌寺の歌と発句を作ってたな。

心の中でお経じゃなく、のりとを唱えてたっぽいが。

 

 

四月八日

また雨か。今日は灌仏会(かんぶつえ)だな。修験(しゅげん)光明寺(こうみょうじ)はすぐそばなので、雨の中灌仏会法要を営む声がする。地元の人たちは集まってるようだ。曾良に見に行ってみようかと言ったら、だったら任せて下さいと言って一人で出てった。何か和尚さんからの正式な正体の約束を取り付けてきたというけど、面倒臭いことするな。

 

おかげで今日はすることないんで、この前の図書の立派な庭を句にしてみた。

 

山も庭にうごきいるるや夏ざしき 芭蕉

 

城山の中なので、庭の向こうがそのまま山になっていて、庭と一続きになっている。

図書と善太夫には雨のせいで長逗留になってしまったので、何か残していきたいなということで、俳文を添えてみようかな。

曾良も雲巌寺の句の文章を考えている。

 

そのあと修験光明寺から正式な招待状が届いた。また大勢で仰々しいことになるのかな。

まあ、向こうも都合があるから、いきなり押しかけてただ参拝だけして帰るというわけにもいかないようだ。

 

大田原から黒羽に来る間は田んぼもあれば麦畑もあったのを思い出して作った句。

田んぼは田植えがまだで春のようだし、麦は赤らんで秋のようだが、ホトトギスが鳴いて間違いなく夏だった。

 

田や麦や中にも夏の(ほとと)(ぎす) 芭蕉

 

 

四月九日

今日も雨は止まないが、昼から修験光明寺の招待を受けている。どんな所だか。

 

昼過ぎに修験光明寺にお邪魔した。

天狗の履くような高下駄があったので、この先の旅の無事を祈って、まず一句できた。

 

夏山や首途(かどで)を拝む高足駄(たかあしだ) 芭蕉

 

出来上がって書いてみると、首と足の文字が縁語みたいになっている。これをもう少し活かしたいな。

 

曾良「『振る』という楚辞(そじ)漁父(ぎょほ)の辞の言葉を使ってみた。

 

汗の香に(ころも)ふるはん行者堂(ぎょうじゃどう) 曾良

 

風呂で体を清めたら衣を着る時にも埃を払うように、自分は潔癖だから衣を着る時は埃を払って着るという意味だ。

光明寺の行者堂に入るには清い心にならなくてはいけないから、汗の香も振るい落として、とした。

翁が言うには、それだと自分は最初から潔癖だから衣だけ塵を払うと言う意味だが、煩悩の塵にまみれているから仏にすがるのが釈教の本意ではないかとのこと。

神道では我が身が清く赤き心であることを示すものだけど、仏教はなかなか難しいものだ。」

 

光明寺に招かれて高足駄を拝んだ後、寺の中も一通り案内してもらった。

その中に鶴と芭蕉の描かれた絵があって、せっかく芭蕉さんが来たんだからと言うことで、画賛を頼まれた。

 

(なく)(その)声に芭蕉やれぬべし 芭蕉

 

鶴が飛来して鳴く頃には芭蕉の葉はとっくに秋風に破れてしまってるはずだ。ということは、これはコウノトリなのか。まあどっちでも良いけど。

芭蕉の葉は西行法師の、

 

風吹けばあだに()れ行く芭蕉(ばしょう)()

   あはれと身をも頼むべき世か

 

の歌のように、薄物の破れやすさを本意(ほい)とする。

 

結局修験光明寺のお坊さんの話が長くなって、民部の家に帰ったのはすっかり暗くなってからだった。

 

 

四月十日

今朝は雨が止んで、久しぶりに日が射している。

犬追物(いぬおうもの)の跡や(たま)()の池など、行ってみたいところはいろいろあるが、結局善太夫や図書の親戚の家を回って、何かいろいろな人に挨拶して回って、今日は図書の屋敷に泊る。

 

 

四月十一日

余瀬の善太夫の家に戻った。

時折人が訪ねて来ては、一日無駄話をしながら過ごす。

こういうのって深川にいるのとあんまり変わんないよな。

まあ、俳諧のネタにできそうな話も時折聞けるから、取材だと思って聞けばいいのかな。

今日は小雨が降ってたが、夕方から雨が強くなってきた。

 

 

四月十二日

昨日の雨は今日は止んで、図書の案内でようやく犬追物と玉藻の塚を見ることができた。

犬追物の跡と言ってもただ野原が残っているだけだった。玉藻の塚にはここで捕まったという小さな池があった。

 

 

四月十三日

 

この前の興行に参加してた翅輪がやって来て、八幡様にお参りに行った。

那須与一が的をいる時に先ず南無八幡大菩薩と祈った、その八幡様だという。

 

 

四月十四日

今日はまた雨。

図書が重箱に料理を詰めて持ってきてくれたのは有り難いが、それを食いながら一日居座り、一日無駄話をしながら過ごした。

 

長く滞在している間に素堂(そどう)から手紙が来た。

旅立つ時に詠んだ鮎の子の句の返事だろうか。

 

鮎の子の何を(ゆく)()にのぼり船 素堂

 

何を行方にって松島の月を見に行くに決まってるのに、相変わらずとぼけた句だな。

 

 

四月十五日

今日は雨が止んだ。昼過ぎに鹿助が呼びに来て浄法寺図書の家に行った。まあ、昨日から予定してたことだけどね。

曾良は何か調子が悪いと言って、来なかった。

まあ、明日はここを出て湯本へ向かうから、ゆっくり休んでてくれ。

 

 

四月十六日

黒羽に長逗留することとなったが、今日はここを離れて湯本に向かう。

午前中に図書やその取り巻きたちとともに余瀬の善太夫の家に戻った。曾良の具合は大丈夫そうだ。

出発は何のかんので昼過ぎになった。

 

図書が馬を用意してくれて、弾蔵や角左衛門という者も案内役に付けてくれた。

野間という所で奥州街道に出た。(なべ)(かけ)宿(しゅく)の少し手前で、ここまで二里程度だった。

ここで弾蔵は馬を引いて帰り角左衛門は残り、あとはまた背の高い笹の茂る見通しの悪い道を歩くことになる。

 

野間からしばらく奥州街道を行き、鍋掛宿を過ぎて(こえ)(ほり)宿(しゅく)を左に曲がると高久(たかく)を経て湯本にへ行く道がある。

途中から雨が降り出して、道は十分踏み固められてなくてぬかるんでくる。

何とか高久までたどり着いたので、事前に図書より渡されてた紹介状を持って角左衛門の宿に泊まることとなった。

 

 

四月十七日

昨日の雨は今日もやまない。大きな街道は多少の雨でも大丈夫だが、こういう街道から外れた人通りの少ない道は、雨が降ると道がぐちゃぐちゃになって馬も通れない。

古歌では、

 

鳴けや鳴け高田の山の(ほとと)(ぎす)

   この五月雨に声な惜しみそ

       よみ人知らず

 

の歌のように五月雨のホトトギスを詠む。実際雨の夜明けにもよくその声を聞く。

 

落ちくるやたかくの宿(しゅく)(ほとと)(ぎす) 芭蕉

 

曾良「まだ五月じゃないですし、『短夜(みじかよ)の雨』としておきましょうか。

曾禰(そねの)好忠(よしただ)の、

 

時鳥うひたつ山を里知らば

   ()()は行きて聞くべきものを

 

の歌を本歌にして」

 

  落くるやたかくの宿の時鳥

木の間をのぞく短夜の雨 曾良

 

 

四月十八日

今朝の明け方、地震があった。特に被害はなかった。

雨は明るくなった頃に止んできたが、まだ道がぬかるんでるので、昼まで待って湯本へ出発した。宿の角左衛門が馬を用意してくれた。

 

少し行くと空も晴れてきた。その頃だったか、馬を引いてた馬子が発句の短冊が欲しいと言い出した。

古池の句ですっかり有名になったから、こんな田舎の馬子にまで自分の名が知られるようになったのかと、ちょっと嬉しいというか照れるというか、何か気恥ずかしい

 

まあ、いつも揮毫(きごう)する時にはそれなりの謝礼は頂くのが普通だけど、金持ってそうに見えないしな。

まあ、仕方ない。馬をちょっと横道に入れてホトトギスの聞こえる所に連れてってくれ、ホトトギスの声が聞こえたら、そのお駄賃に短冊を書いてあげよう。

まあ、山の中だし普通にホトトギス鳴くと思うが。

 

野を横に馬(ひき)むけよほとゝぎす 芭蕉

 

松子という所で馬を降り、馬子も馬を連れて帰って行った。

そこから湯本まではさん里ほどで、明るいうちに湯本の五左衛門の宿に着いた。ここも図書の紹介による宿だった。

余瀬からついてきていて案内役は角左衛門、高久の宿の主人も角左衛門、

 

湯本の宿の主人は五左衛門で、日光でお世話になったのも五左衛門。似た名前が多くて困る。

まあ、4年前に七郎兵衛が三人一度にやってきたこともあったがな。

 

 

四月十九日

今日は朝から良い天気だった。朝方曾良がどこかへ出かけてた。

朝飯の後、ずっとここまで案内してくれた方の角左衛門が余瀬へと帰って行った。

昼頃、宿の主人の五左衛門の案内で()(ぜん)大明神(だいみょうじん)に詣でた。

那須与一が屋島で扇の的を射る時、南無八幡大菩薩と二荒山神社と()(ぜん)大明神(だいみょうじん)に祈りを捧げて見事に的中させたため、()(ぜん)大明神(だいみょうじん)(あい)殿(どの)(いわ)清水(しみず)八幡宮(はちまんぐう)を移して、一度に両方の神に祈れるようにしたという。石清水の冷泉と那須の温泉が一つになったわけだ。

 

湯をむすぶ(ちかい)も同じ(いわ)清水(しみず) 芭蕉

 

そのあと妖狐玉藻の怨念が石になったという殺生(せっしょう)(せき)を見に行った。

辺りは大小たくさんの石が転がり、その中の大きなのがそれだという。湯気が立ち硫黄の匂いがして、これが鳥をも殺すという玉藻の怨念の正体か。

謡曲みたいに石が二つに割れることはなかった。

 

石の香や夏草赤く露あつし 芭蕉

 

句の方は見たまんまの句になった。

そのあと温泉の出るところを六ヶ所回った。熱いのやぬるいの、色々だった。

 

 

四月二十日

今朝は霧がかかって何も見えなかったが、朝の内に晴れて来た。湯本を出て奥州街道の(あし)野宿(のしゅく)に向かう。

再び那須の篠原で見通しのきかない道を行き、奥州街道の(こえ)(ほり)宿(しゅく)(あし)野宿(のしゅく)の中間あたりに出て、そこからは奥州街道になった。

 

芦野宿を過ぎるて少し行ったところに松本市兵衛の茶屋があって、主人の案内のままに左の方に曲がると鏡山の八幡様の参道で、大きな門があって、その先左に遊行(ゆぎょう)(やなぎ)があった。

 

ここに西行ゆかりの柳があると以前からここの旗本の蘆野民部に言われてた。

 

道の辺に清水流るる柳陰

   しばしとてこそ立ち止まりつれ

 

の歌の「しばし」を俳諧らしく、田一枚植え終わるまでとしてみた。

 

田一枚(うえ)立去(たちさ)る柳かな 芭蕉

 

(じょう)()の息子の玄仍(げんじょう)の庵というのもこの近くにあった。芦野は宗祇(そうぎ)法師(ほうし)も白河の旅の時にここに立ち寄って地元の連衆と百韻を巻き、猪苗代兼載(いなわしろけんさい)もここに滞在してたという、連歌の聖地でもある。

 

芦野宿からさらに北へ向い、このまま奥州街道で白河の関を越えるんだと思ってたら、曾良が昔の関はここじゃないと言い出す。

寄居(よりい)という所からも行けるらしいが、取り合えず普通に今の白河の関を越えようと真っすぐ行った。

今は関所があるわけではなく、関の明神と呼ばれる二つの神社が下野側と磐城側にあった。

 

結局やはり昔の関が見たいと曾良が聞かないんで、白坂という所で馬を降りてその先で右に曲がり、草深い道を行くことになった。

なるほど確かに(はた)宿(じゅく)という所に出て、古い街道が通っていた。曾良曰く、これが古代の東山道(とうざんどう)だという。

その日は雲行(くもゆき)が悪く、取り合えず旗宿に泊った。夕方から雨が降り始めた。

 

 

四月二十一日

昨日の雨が止まず、朝から霧雨だった。明るくなってから宿を出て白河とは反対の方に東山道を行くと、ここにも住吉・玉嶋の二つの明神様があった。ここが昔の関のあった所だという。

 

能因(のういん)法師(ほうし)もここを通ったのか、

 

都をば霞とともに立ちしかど

   秋風ぞ吹く白河の関

 

の歌を思い出した。

 

一説には能因法師が実は白河へは行ってなく、体を日に焼いて旅をしたように見せたって言われてるが、自分は日焼けして本当に関を越える。

 

早苗にもわがいろ黒き日数(ひかず)(かな) 芭蕉

 

もう一句。

 

西か東か(まず)早苗にも風の音 芭蕉

 

まあ、曾良に西東に連れまわされたからな。

 

このあと関山(せきさん)満願寺(まんがんじ)を参拝し白河に出た。曾良が中町左五左衛門に用があるということで立ち寄り、大野半治という白河藩士に会いに行ったが、金の話だろうか、よくわからない。

この夜は矢吹(やぶき)宿(しゅく)に泊った。

 

 

四月二十二日

今日は須賀川に着いて、早速()(たん)の家で興行となった。

 

芭蕉「あちこち田植えをしてて、村人総出で笛や太鼓に田植え唄が聞こえてきて、聞き慣れない旋律、言葉、どれも新鮮な物ばかりだった。」

 

風流の初めや奥の田植歌 芭蕉

 

乍単「風流、つまり俳諧興行を田植え唄の興で始めようということだべ。したがら田植のご馳走にイチゴを用意した。」

 

  風流の初めや奥の田植歌

()盆子(ちご)(おり)(おり)(わが)まうけ草 乍単

 

曾良「我が設け草‥自分で自分のために用意したとも取れますね。旅体で野宿の寝床を作ったとしましょうか。(そう)(せき)枕流(ちんりゅう)ではなく普通に枕石漱流ということにしまして。」

 

  覆盆子を折て我まうけ草

水せきて昼寝の石やなをすらん 曾良

 

芭蕉「らん、と来たら疑問を反語に取り成すのが基本。水を堰き止めて昼寝するなんてとんでもない、カジカ漁をするに決まってる。」

 

  水せきて昼寝の石やなをすらん

(びく)(かじか)の声生かす(なり) 芭蕉

 

乍単「んだんだ。そこに河原の柳の葉が落ちて、(ささ)(がに)のようにカジカも成仏すんべ。葉が散れば月も見える。」

 

  籮に鰍の声生かす也

一葉(ひとは)して月に(えき)なき川柳(かわやなぎ) 乍単

 

曾良「夏の柳は旅人が涼むもので、西行柳も一昨日見たばかりです。秋になると涼む人もいなくなって、そこに収穫作業のための仮小屋が村人総出で建てられるとしましょう。」

 

  一葉して月に益なき川柳

(ゆい)にやねふく村ぞ秋なる 曾良

 

芭蕉「農村はみんな互いに助け合い、(ゆい)という組織を作って、屋根を葺くのもそうだし、念仏講をしたりもする。特に上総(かずさ)念仏(ねんぶつ)(かね)に合わせてみんな揃って詠唱する。」

 

  雇にやねふく村ぞ秋なる

(しず)()上総(かずさ)念仏(ねぶつ)に茶を汲みて 芭蕉

 

乍単「賤の女はお寺に付随する葬儀関係の人かな。念仏講には同座せずに、外は筵を敷いて、最近流行りの(から)(ちゃ)を飲んで涼んで、これはこれで気楽かもしれない。」

 

  賤の女が上総念仏に茶を汲みて

世のたのしやとすずむ敷もの 乍単

 

曾良「ここは賤民とは切り離して、普通の人の夕涼みとして、涼しいと眠くなるものですな。蝉の声も夢うつつで聞いて、どんな夢を見てるのやら。」

 

  世のたのしやとすずむ敷もの

(ある)(とき)は蝉にも夢の(いり)ぬらん 曾良

 

芭蕉「蝉が夢を見てるというふうに取り成せるかな。蝉の夢といえばやはり恋かな。小枝の向こうの雌と結ばれることを夢見て鳴いてるのかな。」

 

  有時は蝉にも夢の入ぬらん

(くす)の小枝に恋をへだてて 芭蕉

 

乍単「ここは蝉から人への取り成しだべ。クスノキを挟んだ家同士で惚れ合って結ばれた夫婦がいたけど、(いさか)いがあって嫁が隣の実家に帰った。」

 

  樟の小枝に恋をへだてて

恨みては嫁が畑の名もにくし 乍単

 

曾良「ならば、(しゅうと)が嫁を恨むというふうに変えてみましょう。姑は白髪頭で、山に霜が降りたみたく真っ白で、そう、嫁の畑のある場所は霜降山(しもふるやま)。」

 

  恨みては嫁が畑の名もにくし

霜降山や白髪おもかげ 曾良

 

芭蕉「白髪を老いた武将にして、関を越えて遠くへ出陣するのでお別れの宴をする。」

 

  霜降山や白髪おもかげ

酒盛りは(いくさ)を送る関に来て 芭蕉

 

乍単「関を越えて行く兵を酒盛りで送り出すなんて、もう帰ってこないという旗が立ってるようなもんだべ。春があれば秋があり、生あれば死がある。僧が(さと)すように歌を詠む。」

 

  酒盛りは軍を送る関に来て

秋をしる身とものよみし僧 乍単

 

曾良「粗末な庵で隠棲してる僧としましょうか。鹿の声で秋を知るのでは普通なので、こういうのはいかがですか。」

 

  秋をしる身とものよみし僧

(ふく)ル夜の壁突破(つきやぶ)る鹿の角 曾良

 

芭蕉「鹿の乱入。なかなか面白いけど、次の展開が難しいな。山奥から離れ小島にして、花前なので月も出しておこう。流刑となった後鳥羽院を慰める御伽(おとぎ)(しゅう)とかそんな感じで。」

 

  更ル夜の壁突破る鹿の角

嶋の御伽(おとぎ)(なき)ふせる月 芭蕉

 

乍単「島のお通夜の御伽で、(おり)からの花の季節。そんな所だべ。」

 

  嶋の御伽の泣ふせる月

色々の(いのり)を花にこもりゐて 乍単

 

曾良「喪に服して花の下の塚に小屋を建てて遺骨を守る。」

 

  色々の祈を花にこもりゐて

かなしき骨をつなぐ糸遊(いとゆう) 曾良

 

芭蕉「骨を継ぐを骨折治療に取り成せってことかな。骨折して新しい年を迎える。骨折で足を引く、足ひき‥。」

 

  かなしき骨をつなぐ糸遊

山鳥の尾におくとしやむかふらん 芭蕉

 

乍単「枕言葉は無視して年を迎えるで付ければいいんだ。だったら七草の芹の根を掘る。」

 

  山鳥の尾におくとしやむかふらん

(せり)(ほる)()かり清水(しみず)(つめ)たき 乍単

 

曾良「芹といえば冬に鴨と一緒に芹焼きですな。薪を運ぶついでに芹と鴨を乗せて。」

 

  芹堀ばかり清水冷たき

薪引(たきぎひく)車一筋の(あと)(あり)て 曾良

 

芭蕉「雪が降ると日頃威勢の良い武士達の集団も、おとなしく宿に籠っていて、外を通るのは薪を乗せた車だけ。薪といえば京の大原小野の里に掛けて。」

 

  薪引車一筋の跡有て

をのをの武士の冬籠る宿 芭蕉

 

乍単「粗忽(そこつ)な武士は事務的な漢文は書けても恋文は書けない。冬は遊郭にも行かず家に籠ってるだけだったりする。」

 

  をのをの武士の冬籠る宿

筆取らぬ物ゆへ恋の世にあはず 乍単

 

曾良「空蝉(うつせみ)にしましょうか。源氏の誘いを断り続けて、夫と共に地方赴任でほっとしてたが、帰ってくるなり源氏の君の列と鉢合わせしてまた口説かれる。そんなんで浮名が立っても迷惑ですな。」

 

  筆取らぬ物ゆへ恋の世にあはず

宮に召されてうき名はづかし 曾良

 

芭蕉「ここは周防内(すおうのない)()の、

 

春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)

   かひなくたたむ名こそおしけれ

 

を本歌に逃げておこう。

 

  宮に召されてうき名はづかし

手枕(たまくら)にほそき(かいな)をさし入て 芭蕉

 

乍単「前句を独り寝にして、七夕(たなばた)だというのに虚しいってしておこう。」

 

  手枕にほそき肱をさし入て

何やら事のたらぬ七夕 乍単

 

曾良「秋だからここで月を出した方が良いですね。七夕の月は半月だし、新居でまだがらんとした部屋に半月は物足りない。」

 

  何やら事のたらぬ七夕

(すみ)かへる宿の柱の月を見よ 曾良

 

芭蕉「六条(ろくじょう)御息所(みやすどころ)葵上(あおいのうえ)に生霊を飛ばした時に、祈祷で焚いた芥子の香りが取れないというのがあったな。ここでは髪が赤らんだと少し変えて、密教の御修法(みずほう)を受けに居場所を変える。」

 

  住かへる宿の柱の月を見よ

(すすき)あからむ六条が髪 芭蕉

 

乍単「前句を特に六条御息所のこととせずに、年取って髪が脱色したとして、仏前に供える(しきみ)を切る人とする。」

 

  薄あからむ六条が髪

切樒(きりしきみ)枝うるささに撰残(えりのこ)し 乍単

 

曾良「藤原(ふじわらの)(あき)(なか)の、

 

しぐれつつ日数ふれども愛宕山(あたごやま)

   しきみがはらの色はかはらじ

 

でしたかな。切り残した(しきみ)時雨(しぐれ)を付けてツグミの声をあしらっておきましょう。」

 

  切樒枝うるささに撰残し

太山(みやま)つぐみの声ぞ時雨(しぐ)るる 曾良

 

芭蕉「冬の寒い時期の時雨の季節だと、さすがに温泉に来る人も少ない。」

 

  太山つぐみの声ぞ時雨るる

さびしさや()(もり)も寒くなるままに 芭蕉

 

乍単「温泉といえば那須湯本。殺生(せっしょう)(せき)の所から湧き出る温泉は最高だべ。人の少ない冬にでも行ってみたいな。」

 

  さびしさや湯守も寒くなるままに

殺生石の下はしる水 乍単

 

曾良「殺生石から芦野の遊行柳までの道はこの前歩いたばかりですよ。都の花もはるばる離れたこの地にも、西行さんのように遊行僧も温泉に惹かれて馬に乗ってやってきたんでしょうね。」

 

  殺生石の下はしる水

花遠き馬に遊行(ゆぎょう)を導きて 曾良

 

芭蕉「時宗(じしゅう)の僧は芸達者で風流が好きだから、花見の酒に飲み過ぎたりしそうだな。酔いを醒ますために馬に乗せて春風に当てる。同時に現世の迷いも醒めて悟りに至るという意味も込めて。」

 

  花遠き馬に遊行を導きて

酒のまよひのさむる春風 芭蕉

 

乍単「四十にして不惑というが、酒はいくつになっても迷うものだ。六十ともなれば耳従うで酒も断って生まれ変われるかも。」

 

  酒のまよひのさむる春風

六十の(のち)こそ人の正月(むつき)なれ 乍単

 

曾良「還暦祝いは目出度いもので、田舎の養蚕農家で取れた絹もやがて絢爛豪華な晴れ着となって積み上げられることになる。」

 

  六十の後こそ人の正月なれ

蚕飼(こがい)する()に小袖かさなる 曾良

 

 

四月二十三日

 

昨日の「風流の」の歌仙のあと、そのまま()(たん)の家に泊まった。

今日は夕方になって可伸(かしん)という人の庵に行った。帰り道に可伸庵の近所の善徳院、岩瀬寺、八幡宮を見て帰った。

翌日の興行を約束した。発句を用意しないと。

 

曾良「白河の関の東山道の道筋はまだ残っていて、感慨深かった。

みちのくは養蚕の盛んなところで、ここでは男も機を織るという。

養蚕は仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)御代(みよ)より行われていて、その昔の姿を見るかのようで興味深い。

昨日の挙句にも養蚕を出してみた。

 

(こがい)する姿に残る古代哉 曾良

 

 

四月二十四日

今日は乍単こと相楽伊(さがらい)()衛門(えもん)の所の田植えがあって、朝から慌ただしい。

酒やご馳走を用意しては運び、笛や太鼓に田植え唄、田植えフェスが始まった。

辛い仕事だからこそ楽しくやる。昔からの知恵だ。

蓑笠来た男達、早乙女、見てて飽きない。

 

曾良「今日は乍単の家の田植えで朝から酒やご馳走を用意してるのを見て、地元の珍しい物もあって食ってみたかったけど、午後から可伸の家で興行があって、そこで飯も出るというので我慢した。少しくらい包んで貰えば良かった。

 

(たび)(ごろも)早苗に(つつむ)食乞(めしこわ)ん 曾良」

 

午後から可伸の庵で切り蕎麦(そば)を頂いてから興行した。

昨日も匂いが気になってたが、やはり栗の花が咲いてた。緑色で見た目は目立たないけど、匂いはすごい。

 

かくれ家や目だたぬ花を軒の栗 芭蕉

 

可伸「栗という字は西の栗と書いて、西方(さいほう)浄土(じょうど)に縁がある。その隠れ家に芭蕉さんのような光り輝く人が来て、蛍が泊まって行くようだべした。」

 

  かくれ家や目だたぬ花を軒の栗

まれに蛍のとまる露草 可伸

 

乍単「前句を普通に蛍のいる景色にして、みちのくの名所でも付けておこうか。浅香山(あさかやま)の山の井は切り崩されてしまったが、蛍はまだそこにいる。」

 

  まれに蛍のとまる露草

(きり)崩す山の井の名は(あり)ふれて 乍単

 

曾良「田んぼになってしまったってことですな。石を渡しただけの橋なんてありそうですな。」

 

  切崩す山の井の名は有ふれて

(あぜ)づたひする石の棚橋(たなはし)

 

等雲「んだ。その橋を月の出る頃に柴背負った人が渡るべ。」

 

  畔づたひする石の棚橋

(たば)ねたる真柴(ましば)に月の(くれ)かかり 等雲

 

須竿「その柴を背負った人は、いかにも秋の悲しさを知り尽くしたみたいに、長いこと小さな家に一人で住んでる。」

 

  把ねたる真柴に月の暮かかり

秋しり顔の矮屋(ふせや)はなれず ()竿(かん)

 

素蘭「ではその矮屋の主を源平合戦の頃の武将として。」

 

  秋しり顔の矮屋はなれず

(あづさ)(ゆみ)矢の()の露をかはかせて 素蘭

 

芭蕉「だったら木曾(きそ)(よし)(なか)だな。()()伽羅(から)(とうげ)の戦いの前に木曾願書を読み上げる。」

 

  梓弓矢の羽の露をかはかせて

願書をよめる暁の声 芭蕉

 

可伸「その願書を正月の飾りつけをする時の神事の願書とでもするだべ。」

 

  願書をよめる暁の声

歯朶(しだ)(ふき)よはりたる年の暮 可伸

 

乍単「年末になると一年のいろんなことを思い出すだべな。そうはいっても酒でやらかしたことばかりだべ。」

 

  松歯朶に吹よはりたる年の暮

酒の遺恨をいふ心なし 乍単

 

曾良「酒の勢いでできちゃいましたか。そりゃ責任取るしかありませんね。」

 

  酒の遺恨をいふ心なし

婿入(むこいり)(たれ)(きき)ても(はづか)しき 曾良

 

等雲「婿養子になったこと、遊女にいじられたりするべな。」

 

  婿入は誰に聞ても恥しき

ざれて送れる傾城(けいせい)(ふみ) 等雲

 

須竿「傾城からの文ではなく、傾城に送る文にして、金が尽きたから通えないから手紙だけ送るなんて、ほとんど冷やかしだべ。」

 

  ざれて送れる傾城の文

貧しさを神にうらむるつたなさよ 須竿

 

素蘭「神を恨んだり、心にひずみがあれば、月もひずんで見えるもの。心が澄んでれば、月も澄む。」

 

  貧しさを神にうらむるつたなさよ

月のひづみを心より見る 素蘭

 

乍単「高瀬船の運航管理している人が職権乱用で勝手に人の船を使って、月夜なのでハゼ釣りに行ったが、そういう時に限って釣れないものだべ。」

 

  月のひづみを心より見る

(ひとり)して()()釣兼(つりかね)高瀬(たかせ)(もり) 乍単

 

可伸「花の定座の前なので、ここは川の景色を付けて流しておくべ。枯れた芦が高瀬守の笠をこすって行く。」

 

  独して沙魚釣兼し高瀬守

笠の()をする芦のうら(がれ) 可伸

 

芭蕉「笠ということで旅体にしようか。梅の頃に伊勢を出て花の頃には初瀬や吉野の花を見る。去年の旅を思い出すな。万菊丸が一緒でね。」

 

  笠の端をする芦のうら枯

梅に出て初瀬(はせ)や芳野は花の時 芭蕉

 

曾良「お遍路さんですね。春の霞みのかかる谷に鉦の音が時折聞こえる鉦の音なんか思い浮かびます。」

 

  梅に出て初瀬や芳野は花の時

かすめる谷に鉦鼓(しゃうこ)折々(をりをり) 曾良

 

素蘭「谷に籠っている老僧だべ。鉦の音が聞こえるうちはまだ生きてるってことだべ。」

 

  かすめる谷に鉦鼓折々

あるほどに春をしらする鳥の声 素蘭

 

乍単「鳥の声というのは、娘さんかな。遊郭の遊女は籠の鳥というし。何とか細々と生きているけど、髪を洗うのは年に二回許されるだけだべな。」

 

  あるほどに春をしらする鳥の声

水ゆるされぬ黒髪ぞうき 等躬

 

須竿「髪を梳くのを嫌がってた若紫だべな。まだ雛人形で遊ぶのが楽しくて楽しくて。」

 

  水ゆるされぬ黒髪ぞうき

まだ(ひな)をいたはる年のうつくしく 須竿

 

芭蕉「源氏の君が七弦琴を膝に乗せて弾いてると、ついつい思い出すのは膝の上に乗った小さな姫の重さ。」

 

  まだ雛をいたはる年のうつくしく

かかえし琴の膝やおもたき 芭蕉

 

須竿「御所で七弦琴を弾いて酒盛りする優雅な生活も、ひと時のうたた寝の夢だったりして、邯鄲(かんたん)の夢だべ。」

 

  かかえし琴の膝やおもたき

轉寐(うたたね)の夢さへうとき御所の中 須竿

 

等雲「御所なんてものを夢にさえ見る事のない人たちと言えば、市場にたむろするひとたちだべ。今日まで行かない伏見の木幡(こはた)木の肌のことを語っている

 

  轉寐の夢さへうとき御所の中

(こはた)をかたる市の酒酔(さかゑひ) 等雲

 

曾良「市でコハダの旨さを語ってる酔っぱらいに、僧行の神官がに伊勢、春日(かすが)(いわ)清水(しみず)三社(さんしゃ)(たく)を説いて回るってのはどうでしょうか。」

 

  朴をかたる市の酒酔

(ぎゃう)(そう)に三社の詫を戴きて 曾良

 

素蘭「その説法は明け方の乗合船を待ってる間のことだべ。」

 

  行僧に三社の詫を戴きて

乗合(のりあひ)まてば(あけ)(むつ)の鐘 素蘭

 

乍単「飛べない島ヒヨドリに餌をやって、乗合船を待つ。」

 

  乗合まてば明六の鐘

(とぎ)になる嶋鵯(しまひよどり)の餌を慕ひ 乍単

 

可伸「島ヒヨドリは旅人の喩えだべな。海女の家に食わせてもらって四五(しご)(にち)月を見たと思ったら、またどこか行ってしまう。在原(ありはらの)行平(ゆきひら)みたいな奴だべ。」

 

  伽になる嶋鵯の餌を慕ひ

四五日月を見たる(あま)() 可伸

 

等雲「何もない鄙びた漁村でも、その里の紅葉が奇麗だったんだべ。そんで月見にきたとか。」

 

  四五日月を見たる蜑の屋

(ただ)にのみかひなき里のむら(もみぢ) 等雲

 

曾良「紅葉はあっても『かいなき』というのは、紅葉があるのに鹿の声がしないということですね。荒れ果てた宮で祭りもないような所なら、なおさら『かいなき』ですね。

 

  徒にのみかひなき里のむら栬

鹿の()(たえ)(まつり)せぬ宮 曾良

 

芭蕉「神社の宮を宮廷の宮に転じるのは、まあお約束だな。もはや祭りごとをすることもない荒都のありさまを見て、冠を落とさんばかりに泣き崩れる。」

 

  鹿の音絶て祭せぬ宮

(かむり)をも落すばかりに(なき)しほれ 芭蕉

 

乍単「手紙の最初だけ読んで早合点して泣き崩れたうっかりさんだったりして。」

 

  冠をも落すばかりに泣しほれ

うつかりつづく(ふみ)を忘るる 等躬

 

素蘭「文を忘れるというのを、文を置き忘れて人に読まれてしまったとすんべな。それをべちゃくちゃ言いふらされた日には大ピンチだべ。まあ、恋すれば世にやきもち焼かれたりするもんだべ。」

 

  うつかりつづく文を忘るる

恋すれば世にうとまれてにくい頬 素蘭

 

可伸「頬はほっかぶりだべ。頬被りして夜這いに行って、そりゃ気持ちがせくべ。」

 

  恋すれば世にうとまれてにくい頬

気もせきせはし(しのぶ)()の道 可伸

 

曾良「お釈迦様がまだ王子だった頃、こっそり城を抜け出そうとしたら、結局お坊さんにつかまってしまいましたな。」

 

  気もせきせはし忍夜の道

入口(いりぐち)四門(しもん)(のり)の花の山 曾良

 

等雲「四門を古びた寺とでもしておくべ。花が咲く頃には(よもぎ)の茂る垣にも燕が飛んできて、めでたく一巻を終えるだべ。」

 

  入口は四門に法の花の山

つばめをとむる蓬生(よもぎふ)の垣 等雲

 

 

四月二十五日

今日は乍単の家の忌日で、炊事の火を別々にする。

昨日は遅くまで興行したから、一日ゆっくり休むことにしよう。

そうは言ってもやはり訪ねてくる人はいるんだろうけど。

 

 

四月二十六日

今朝は小雨が降っていたが、大したことないと思って石川滝を見に行った。石川の郡を経て(いわ)()にも抜けられる道があって、石川道というらしい。そこを二里ほど行ったところだという。

 

残念ながら、最近降り続けた雨で川が増水して、川を渡ることができずに途中で引き返すことになった。

 

さみだれは滝降りうづむみかさ哉 芭蕉

 

 

四月二十七日

昨日の雨は止んで今日は曇り。石川滝はまたの機会にして、今日は芹沢の滝を見に行く予定。

白河藩士の何云という人から、何で白河をスルーしたんだって手紙が来た。知らんよ。

 

関守の宿をくいなにとはふもの 芭蕉

 

芹沢の滝は西に少し行った所で、小高い丘から落ちる小さな滝だった。やはり噂に聞く石川滝を見に行ってみたい。このまま雨が止んでくれれば通れるようになるかな。

帰ってきてから乍単と曾良と三人で三つ物を二つ作った。

曾良の発句、

 

旅衣早苗に包食乞ん 曾良

 

芭蕉「飯を乞うのは板書(いたか)坊主(ぼうず)のことか?乞食坊主に(つづみ)を打たせるのか?よくわからない。」

 

  旅衣早苗に包食乞ん

いたかの(つづみ)あやめ(おら)すな 芭蕉

 

乍単「菖蒲(あやめ)折らすなは綾目(あやめ)織らすなとも読める。貧しい板書らしく、からむしの衣織らせようか。あやめに掛けるなら青苧(あおそ)だべ。」

 

  いたかの鼓あやめ折すな

夏引(なつびき)手引(てびき)青苧(あおそ)くりかけて 乍単

 

発句、

 

(ふき)やうを又(ならい)けりかつみ草 乍単

 

曾良「こちらでは端午の節句にカツミを葺くのか。昔の話?カツミがどういう草か知らない?まあ、とりあえず古代の情景で受けておこう。」

 

  茨やうを又習けりかつみ草

市の子どもの着たる(ほそ)(ぬの) 曾良

 

芭蕉「ならば、その市場に休む旅人にしよう。」

 

  市の子どもの着たる細布

日面(ひおもて)に笠をならぶる(すずみ)して 芭蕉

 

 

四月二十八日

天気は曇りで、そろそろここを出て仙台の三千風(みちかぜ)の所へ向かおうかと言ってた時だった。矢内彦三郎が来て、どうやら石川道の水も引いて、今は泥の除去をやってるから、明日には通れるようになって石川滝が見れるとのこと。

 

(じゅう)念寺(ねんじ)と諏訪明神に行ったが、どちらもすぐ近くだった。

黒羽の浄法寺図書から手紙が来て、それに句が添えてあった。そういえば桃青の桃の一字を分けて桃雪という俳号をあげたっけ。

あの時は雨ばかりだったが、出発の時は晴れたっけな。

 

(はれ)て栗の花(さく)跡見(あとみ)哉 桃雪

 

乍単「跡見(あとみ)は見送るということで良いのかな。栗は西方浄土の木で死の暗示があるし、悲しい別れということで、飛び立ってった蝉はどこの草に落ちるんだろう、ってしておこうか。

 

  雨晴て栗の花咲跡見哉

いづれの草に(なき)おつる蝉 乍単

 

芭蕉「死のイメージを外して、普通に景色に転じなくてはな。賤民が家の外の草の上で月を見ながら夕飯を食う。何か鹿島へ行った時にそんなの見たな。」

 

  いづれの草に啼おつる蝉

夕食(ゆうげ)(くう)(しづ)(おもて)外面(そとも)に月(いで)て 芭蕉

 

曾良「(しづ)が女の干してた布を日が暮れたので片付けて夕飯にする。衣干すは夏だから、季語を秋にしなくては。秋来にけりで布たぐる。」

 

  夕食喰賤が外面に月出て

秋来にけりと布たぐる也 曾良

 

 

四月二十九日

今日は久しぶりにいい天気になった。石川道も通れるということで、東南へやや戻る形になるが乍単の用意した馬で石川滝に向かった。

阿武隈川を越えて少し北へ川を下ると、その巨大な滝の下に出た。高さはそれほどでもないが幅がとにかく広い

 

石川滝からそのまま川沿いを下って行くと小作田(こさくだ)という所に(うま)(つぎ)があった。仙台道と並行する街道があるようだ。

乗り換えはせずにそのまま乍単の用意してくれた馬で守山宿まで行った。

 

曾良がいろいろ調べたいものがあるのか、あちこち手配していたようだ。

大元(だいげん)明王(みょうおう)のお堂があって、その裏に善法寺というお寺があった。(せっ)(そん)歌仙(かせん)()に俳諧の祖の宗鑑(そうかん)が賛を書いたものとか、探幽(たんゆう)の大元明王など、珍しいものには違いない。歌枕でないのが残念だ。

ここで昼食を頂いた。

 

 

守山からは問屋善兵衛の用意してくれた馬で郡山に向かった。阿武隈川を船で渡り、日出山宿で仙台道に出て、何とか日の沈む前に郡山に着いた。曾良が宿が汚いって文句言ってるけど、田舎の方じゃ普通。(のみ)(しらみ)はこういう所で貰っちゃうんだよな。