宗祇「白河紀行」を読む

 さて、次に宗祇の『白河紀行』を読んでみようと思う。参考文献は『宗祇旅の記私注』(金子金治郎著、一九七〇、桜風社)、それと『宗祇の生活と作品』(金子金治郎著、一九八三、桜風社)。まあ、この種のものに「公注」なんてものは存在しないから、誰の注釈でも「私注」だが。

 日本の謙譲の美徳という奴で、意見を言う時にも「私見ですが」というが、政府や自治体の公式見解を別にすればすべて「私見」なんだから、別にことわる必要もないとも思うんだが。その立場にある人だけ気をつければいい話だ。

 そういうわけでこの文章も私見全開で行こうと思う。

 さて、冒頭の部分を見てみよう。

 

 「つくば山の見まほしかりし望みをもとげ、黒かみ山の木の下露にも契りを結び、それよりある人の情にかかりて、塩谷といへる処より立ち出て侍らんとするに、空いたうしぐれて、行末いかにとためらひ侍りながら、立ちとどまるべき事も、旅行くならひなれば打ちいでしに、案内者とて若侍二騎、道者などうちつれ、はるばると分け入るままに、ここかしこの川音なども、袖の時雨にあらそふ心ちして物哀れなり。」

 

 時は応仁二年(一四六八年)の冬。

 宗祇が都を離れ東国に下ったのは文正元年(一四六六年)で、この年は行助も東国に下ったことは、前に「寛正七年心敬等何人百韻」(当ホームページの「連歌集」を参照)を読んだ時にも触れている。応仁の乱の直前の不穏な空気もあり、名だたる連歌師たちも続々と東国に避難する時期だった。

 翌年には心敬も東国に下向し、武州品川が新たな拠点になる。今の東京都の品川で、当時は港町で栄えていた。武州滞在中は宗祇は武州五十子(今の埼玉県本庄市)の長尾孫六(長尾景棟)を尋ねて、文明二年(一四七〇年)に隅田川の辺で『吾妻問答』を書き残している。

 白河紀行の旅の出発点は定かでないが、旅を終えた後には品川で「応仁二年冬心敬等何人百韻」の興行に参加しているから、この頃は品川が拠点だったのかもしれない。

 ここから筑波山や日光黒髪山(男体山)を経て白河へと向かう。この二つの山は当時なら武州の至る所から見えただろうから、あえて「見まほし」という以上、間近で見るのが旅の一つの目的だったと思われる。

 紀行に最初に登場する地名は塩谷で、これは栃木県の日光から矢板へ行く途中にある。芭蕉が『奥の細道』の旅で宿泊した玉入の辺りだ。この位置関係からしても、宗祇は日光二荒山神社と輪王寺を詣でたのではないかと思う。後に宗長も訪れている。当時は座禅院と呼ばれていた。勿論この頃はまだ東照宮はない。

 となると、筑波山にも登った可能性はある。そうなると、桃隣の『舞都遲登理』の旅のコースに近かったのかもしれない。

 陸路で筑波山に行ったとすると、鎌倉街道下道であろう。

 品川から後の東海道よりは山寄りのルートで御殿山から品川プリンスの裏を通り、二本榎通り、聖坂から赤羽橋を経て芝増上寺や江戸城の前を通り、浅草へ向かう。ちなみに江戸城は一四五七年太田道灌による築城なので、出来たばかりだった。

 浅草から先は古代東海道の道筋をなぞるように下総国府、柏、安孫子を経て布佐へ抜ける。そこから先は古代より陸地が増えているので、真っすぐ土浦を通って石岡の常陸国府へ向かうことになる。

 なお、奥田勲は『宗祇』(一九九八、吉川弘文館)の中で、船で那珂湊へ行き、そこから筑波へ行ったとしている。

 宗祇の『萱草(わすれぐさ)』には、

 

   筑波山をみ侍しに彼寺にて

 山高み雲をすそはの秋田かな

 

の句があり、筑波山に登ったのはまだ秋だったようだ。

 この後日光でも、

 

   日光山はじめてみ侍りし時

 黒かみに世をへし山や菊の陰

 

の句を詠んでいる。この後日光にしばらく滞在して冬になったのだろう。

 

   東へ下侍し時日光山にて初冬

   の比ある坊にて侍し會に

 しぐるなと雲にやどかるたかねかな

 

の句がある。

 このあと「ある人の情にかかりて」、塩谷へと向かう。芭蕉は船に乗ったようだが、陸路なら今市から轟(とどろく)の里を通って大渡で鬼怒川を渡り、船入、玉入のコースであろう。塩谷のどの辺に泊まったのかは定かでないが、奇しくも芭蕉が雷雨で急遽宿を借りた場所に重なる。宗祇もまたここで時雨で難儀することになる。

 旅立ちの時は道案内と護衛を兼ねてか、若侍二騎に道者を連れた四人パーティーになる。(RPG風に言うと騎士二人僧侶一人で宗祇は吟遊詩人?)。

 「ここかしこの川音」は大谷川と鬼怒川か。

 

 「しるべの人も両人はかへりて、只一人相具したるもいとど心ぼそきに、那須野の原といふにかかりては、高萱道をせきて、弓のはずさへ見え侍らぬに、誠に武士のしるべならずば、いかでかかる道には命もたえ侍らんとかなしきに、むさし野なども果てなき道には侍れど、ゆかりの草にもたのむかたは侍るを、是はやるかたなき心ちする。枯れたる中より篠の葉のうちなびきて、露しげきなどぞ、右府の詠歌思ひ出でられて、すこし哀れなる心ちし侍る。しかはあれどかなしき事のみ多く侍るをおもひかへして、

 

 嘆かじよ此の世は誰もうき旅と

     思ひなす野の露にまかせて」

 

 若侍二騎は塩谷まで案内して引き返したのだろう。残るは道者一人になり、那須野を大田原に向かうことになる。

 那須野は那須の篠原というくらいで、当時は背の高い笹が生い茂っていたのだろう。二メートル以上ある和弓も見えないほど背が高く、視界が利かなかったようだ。

 武蔵野はまだ薄が原だから視界が利くが、視界の利かない篠原の道は心細く、鎌倉右大臣実朝の、

 

 もののふの矢なみつくろふこての上に

     霰たばしる那須の篠原

              源実朝

 

の歌を思い起こし、

 

 嘆かじよ此の世は誰もうき旅と

     思ひなす野の露にまかせて

              宗祇法師

 

と詠むことになる。

 辛い旅だけど、人生はいつだって辛い旅なんだと思って嘆いてはいけないと思ってはみるものの、「思いなす」にも那須野というくらいで、野の露に袖を濡らす。これは泪なんかではない、というところだろうか。

 

 「同行の人々も思ひ思ひの心をのべて、くるるほどに大俵といふ所にいたるに、あやしの民の戸をやどりにして、柴折りくぶるなども、さまかはりて哀れもふかきに、うちあはぬまかなひなどのはかなきをいひあはせて、泣きみわらひみ語りあかすに、事かなはむ事ありて、関のねがひもすぎがたに、あるじの翁情あるものにて、馬などを心ざし侍るを、こしにかかりて、悦びをなして過ぎ行くに、よもの山紅葉しわたして、所々散らしたるなどもえんなるに、尾花浅茅もきのふの野にかはらず、虫の音もあるかなきかなるに、柞原などは平野の枯るるにやと覚え侍るに、古郷のゆかりは侍らねど、秋風の涙は身ひとりと覚ゆるに、同行みなみな物がなしく過ぎ行くに、柏木むらむら色づきて、遠の山本ゆかしく、くぬぎのおほく立ちならぶも、佐保の山陰、大川の辺の心ちらして行くままに、大なる流のうへに、きし高く、いろいろのもみぢ、常盤木にまじり物ふかく、大井河など思ひ出づるより、名をとひ侍れば、中川といふに、都のおもかげいとどうかびて、なぐさむ方もやと覚えて、此の川をわたるに、白水みなぎり落ちて、あしよはき馬などは、あがくそそぎも袖のうへに満ちて、万葉集によめる武庫のわたりと見えたり。」

 

 さて、日光から塩谷へ行き、那須の篠原を分け行くと、大俵という所に辿り着く。大俵は今の大田原になる。ここで一泊して、馬を借りて、白河に向かう。江戸時代の奥州街道は大田原から鍋掛を経て芦野に出る、今の県道72号線のある方のルートを通っていたが、古代東山道は黒羽から伊王野へ行き、今の県道76号線(伊王野白河線)の方を通り、白河関跡から白河に入っていた。

 ちなみに芭蕉の『奥の細道』の旅は、黒羽の翠桃を尋ねたあと、那須湯本の方へ行き、そこから芦野へ向かい西行柳を見て、一度奥州街道で境の明神を越えた後、白河関跡の方へ寄り道をしている。

 宗祇の時代はどちらのルートなのかよくわからない。まだ古代東山道のルートが残っていたとすると、黒羽へ出てから那珂川添いに進み、大田原市寒井の辺りで那珂川を越えることになる。

 大田原の「あやしの民」の主に馬を借りて、出発する。

 四方の山は所々紅葉して、薄や茅の茂る野の道を行く。柞(ははそ)原はナラ、コナラ、クヌギなどの落葉広葉樹林であろう。クヌギが多かったようだ。クヌギは葉が枯れたまま枝に残っているのでよくわかる。柏の木も所々色づいている。

 「大川の辺の心ちらして行くままに」とあるように、黒羽から那珂川に沿って北へ向かったのであろう。

 「大なる流のうへに、きし高く、いろいろのもみぢ、常盤木にまじり物ふかく、大井河など思ひ出づるより」とある、この場合の大井河は京都嵐山の大井川で今の桂川であろう。

 「名をとひ侍れば、中川といふに、都のおもかげいとどうかびて、なぐさむ方もやと覚えて」とあるように、那珂川から京の中川を思い出す。京の中川はかつて寺町通の方に流れていた川で、今出川とも京極川とも呼ばれていた。

 「万葉集によめる武庫のわたり」は、

 

 武庫川の水脈を早みと赤駒の

     足掻くたぎちに濡れにけるかも

              よみ人しらず

 

の歌で、那珂川は馬も足を取られそうになるような急流だった。大田原市寒井の辺りで那珂川を渡り、以後は黒川に沿って伊王野に向かうことになる。

 

 「それより又、黒川と云ふ河を見侍れば、中川よりは少しのどかなるに、落ち合ひたる谷水に紅葉ながれをせき、青苔道をとぢ、名もしらぬ鳥など声ちかき程に、世のうきよりはと思ふのみぞなぐさむ心地し侍るに、はるけき林のおくに、山姫も此の一本や心とどめけんと、いろふかくみゆるを、興に乗じてほどなく横岡といふ所に来れる。」

 

 那珂川を渡ると、道は黒川に沿って進む。川幅も細くなり、いかにも山の奥に来たという感じになる。

 山姫は山に住む美女の姿をした妖怪で、連歌では「非人倫」になる。今でいう人外。

 その先にある横岡は伊王野から白河関跡へ行く道筋ではなく、芦野を通る近世奥州街道の道になる。芦野といえば、これより少し後の永正二年(一五〇五年)になるが、猪苗代兼載がここで暮らすことになる。

 なお、『猪苗代兼載伝』(上野白浜子著、二〇〇七、歴史春秋出版)によれば、応仁二年に兼載は品川の心敬の草庵を尋ねて師事したとあるから、この時既に宗祇との面識があったかもしれない。兼載十七歳の時のことである。

 芦野には芭蕉が訪れた西行柳があるが、ここではその記述はない。江戸時代に作られた名所だったか。

 横岡はその芦野の少し北になる。

 

 「ここも里の長にたのみてやどりとし、それよりのりものの用意して、白川の関にいたれる道のほど、谷の小河、峯の松かぜなど、何となく常よりは哀れふかく侍るに、このもかのも梢むらむら落ばして、山賤に栖もあらはに、麓の沢には、霜がれのあし下折れて、さをしかの妻とはん岡べの田面を守る人絶えて、かたぶきたる庵に引板のかけ縄朽ち残りたるは、音するよりはさびしさ増りて、人々語らひ行くに、おくふかき方よりことにいろこくみゆるを、あれこそ関の梢にて侍れと、しるべのものをしへ侍るに、心空にて、駒の足をはやめいそぐに、関にいたりては、中々言のはにのべがたし。」

 

 白河の関へは乗物で行ったのだから、狭い山道ではなくきちんとした街道だったのではないかと思う。この場合の乗物が馬だというのは、そのあと「駒の足をはやめ」とあるのでわかる。

 ただ、問題はどこを白河の関としたかだ。今の白河関跡なら、おそらく伊王野に一度引き返して、そこから旧東山道を行ったと思われる。

 今は一応、芭蕉や曾良も訪ねて行った白河関跡が白河の関だとされている。ただ、未だに諸説ある。当時はどこが白河の関だと考えられていたのか、そこが問題だ。

 ただ、奥州街道の境の明神は、芭蕉の時代でもここが本当の白河関だという認識がなく、わざわざ探しに行ったとしたら、まだ奥州街道が整備される前の宗祇の時代には、ここがそうだという認識はなかったのではないかと思う。とすれば、やはり伊王野に一度引き返したと考えた方が良い。

 

 「只二所明神のかみさびたるに、一方はいかにもきらびやかに、社頭神殿も神々しく侍るに、今一かたは、(坐)ふりはてて、苔を軒端とし、紅葉を垣として、正木のかつらゆふかけわたすに、木枯のみぞ手向をばし侍ると見えて感涙とどめがたきに、兼盛・能因ここにのぞみて、いかばかりの哀れ侍りけんと想像るに、瓦礫をつづり侍らんも中々なれど、みな思ひ余りて、」

 

 関の梢と教えられたところにあったのは二所明神だった。奥州街道の境の明神ではなく、東山道の追分の明神の方であろう。今日では峠の南側の方しか残っていないが、この頃も一方はきらびやかだが、一方が荒れ果てていた。

 これだと今の白河関跡までは行かず、その手前の追分の明神が白河関だという認識だったようだ。

 なお、この追分の明神の方は、曾良の『旅日記』に、

 

 「町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉 嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。」

 

とある。方角の間違いで、実際は南にある。

 同じ曾良の『旅日記』に、

 

 「○白河ノ古関ノ跡、旗ノ宿ノ下里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。 」

 

とある。○がついているのは聞いた話としてメモしたものだろう。ここに参詣したことを以てして白河の関へ行ったというのであれば、芭蕉と曾良もひょっとしたら今の白河関跡は知らずに通り過ぎていたのかもしれない。

 桃隣は、那須温泉神社から別ルートで白河に入り、そこから関山の成就山滿願寺へ行って、ここが白河関だと思っていたようだ。

 つまり宗祇もそうだし、芭蕉と曾良も結局同じ追分の明神への到達を以てして、白河の関についにやって来たと思ったということだ。だとすると、今の白河関跡って‥‥。

 ウィキペディアによると、

 

 「関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。

 1960年代の発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出、1966年(昭和41年)9月12日に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定された。」

 

だという。これなら確かに宗祇も芭蕉も知らないわけだ。

 さて、当時の人はこの追分の明神を以てして白河の関に辿り着いたと考えていた以上、ここで感慨に浸り、歌を詠んだのは何らおかしいことではない。

 

 「みな思ひ余りて、

 

 都出し霞も風もけふみれば

     跡無き空の夢に時雨れて

               宗祇

 行く末の名をばたのまず心をや

     世々にとどめん白川の関

 

 平尹盛、これも都の朋友にて、ここに伴ふも一しほ哀れふかきにや。

 

 思ふとも君し越えずば白川の

     関吹く風やよそにきかまし

 尋ねこし昔の人の心をも

     今白川の関の秋かぜ

               穆翁

 木枯も都のひとのつとにとや

     紅葉を残す白川のせき

               牧林

 

 此の両人は坂東の人なるが、みな此の道に心をよする人にて、したひ来たれるなるべし。かくて夕月夜のおもしろきを伴ひて、横岡の宿に帰る程、作りあはせたるやうのゆふべなるべし。」

 

 宗祇の和歌、

 

 都出し霞も風もけふみれば

     跡無き空の夢に時雨れて

               宗祇

 

は、

 

 都をば霞とともに立ちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

               能因法師(後拾遺集)

 

を本歌としているのは明白だ。実際に宗祇が京の都を離れ東国に下ったのは春だったのだろう。

 あれから二年半たって、ついに白河の関にまで来た。その間には二回の秋風を聞いた。「跡無き空の夢」という所には、もう二度と都には戻れないかもしれないという思いがあったのだろう。

 もう一首、

 

 行く末の名をばたのまず心をや

     世々にとどめん白川の関

               宗祇

 

 能因法師のように後の世まで名を残すことはないだろう。ただ今日の感慨は自分の心の中に留めておこう。そこには和歌は二条家・冷泉家などの血筋に独占されていて、身分の低い者は勅撰集などに名を連ねることはない、という嘆きがあった。

 この思いは後の文明十二年(一四八〇年)の『筑紫道記』「うつら浜」でも吐露している。

 

 「松原遠くつらなりて、箱崎にもいかでおとり侍らむなどみゆるはたぐひなけれど、名所ならねばしひて心とまらず。やまとことのはの道も、その家の人、又は大家などにあらずばかひなかるべし。」

 

 宗祇は文明三年(一四七一年)に東常縁(とうのつねより)より古今伝授を受ける。それでも、及ばないという意識があったのは、身分の問題だったか。

 それだけでなく、永享十一年(一四三九年)成立の『新続古今和歌集』を最後に勅撰集そのものが途絶えてしまっていた。

 そんな宗祇にとって、明応四年(一四九五年)に自ら編纂に係わった『新撰菟玖波集』が勅撰集に準じるものとなったことが、生涯の一番の栄光だった。

 

  思ふとも君し越えずば白川の

     関吹く風やよそにきかまし

               平尹盛

 

 この人についてはよくわかっていないようだ。同じ都にいた人というこどだけはわかっている。宗祇をここまで送ってこれて、今白河の関の風の音を聞かせることができたのが嬉しい、という歌で、宗祇の和歌の才能を評価してのことだろう。

 

 尋ねこし昔の人の心をも

     今白川の関の秋かぜ

               穆翁

 

 穆翁も坂東の人だということしかわからない。

 この歌は、能因と並べて記された兼盛の、

 

 たよりあらばいかで都へ告げやらむ

     けふ白河の関は越えぬと

               平兼盛(拾遺集)

 

を踏まえたもので、この心を思い起こして今日白河の関を越えて秋風を聞いた、としている。

 

 木枯も都のひとのつとにとや

     紅葉を残す白川のせき

               牧林

 

 牧林も坂東の人という以外によくわからない。尹盛・穆翁・牧林に時宗の僧と思われる句阿を加えて、このあと横岡に戻り、白川百韻の連歌興行をすることになる。句阿はあるいは日光からお供してきた道者か。

 歌の方は、

 

 都にはまだ青葉にて見しかども

     紅葉散り敷く白河の関

               源頼政(千載和歌集)

 

の歌を踏まえている。能因の歌によく似ているが、「紅葉散り敷く」という所に能因の歌にない華やかさがある。

 白河の関にやって来たが、今はまだ紅葉が残っているので、これを吹き散らす木枯らしの方は都へのお土産にしましょう、と詠む。

白川百韻

 

初表

   於白河関応仁二年十月廿二日

 袖にみな時雨をせきの山路かな    宗祇

   木の葉を床の旅の夕ぐれ     尹盛

 さやかなる月を嵐のやどに見て    牧林

   夜寒のそらはねんかたもなし   穆翁

 下もゐず雲にや鴈の渡るらん     句阿

   白なみあらき沖のはるけさ    宗祇

 しばしだにかよふも船は安からで   尹盛

   一むらさめに人ぞやすらふ    牧林

 

初裏

 柴はこぶ尾上の道の松がもと     穆翁

   かけはし遠くむかふ山里     宗祇

 行く袖のあくる戸ぼそにまた見えて  尹盛

   消えんはかなし夜半のおもかげ  穆翁

 老が身や此の世の月を送るらん    宗祇

   おくるる我は秋もはづかし    尹盛

 枯る野にゆふべの露を名残にて    牧林

   あるかなきかの花の冬草     宗祇

 古郷やとはれし道もたえぬらん    穆翁

   いまはたよりもきかぬ恋しさ   牧林

 もろこしは只うき中の心にて     宗祇

   夢に行くともいとはれやせん   穆翁

 身をかくす人もやどりは聞かまほし  尹盛

   たづぬる山は雲ふかきかげ    牧林

 

 

二表

 水氷る雪のむら鳥餌に餓て      宗祇

   冬の田づらのくれの哀れさ    穆翁

 送りえぬ今年をいかが賤の庵     宗祇

   けぶりをたやす袖のあきかぜ   牧林

 おもひ無き月に泪もはらはれて    穆翁

   又身をしれる雨の夜長さ     宗祇

 問こぬもことはりなれや我よはひ   尹盛

   いのちつれなくみえんさへうし  牧林

 跡たえて恋路に入らん山もがな    宗祇

   行衛おぼえぬ雪の夕かぜ     穆翁

 果しなき心は花にさそはれて     尹盛

   夢をかぎりの世中の春      牧林

 身はふりぬはや永日もよしあらじ   宗祇

   なげきなつめそ入相のかね    穆翁

 

二裏

 物思ふ袖になみだのつきもせで    句阿

   人よわすればうきも残らじ    牧林

 心ある里をとはばや旅のくれ     宗祇

   たのみてとまる山ぞさびしき   穆翁

 烏鳴く峯の枯木に霜ふりて      牧林

   雲もさはらぬ冬の夜の月     尹盛

 河音の高きや空にながるらん     宗祇

   落ちくる水ぞ風をつれたる    牧林

 荻のはに軒の筧のうづもれて     穆翁

   野寺にふかき庭の朝霧      宗祇

 道もなき霜にや秋も帰るらん     尹盛

   まれにも人の見えぬ山陰     穆翁

 かかる身はすつるといふもおろかにて 宗祇

   猶わびつつぞ交りてふる     尹盛

 

 

三表

 袖寒きあしたの雪の市仮や      宗祇

   河かぜはらふ三輪の杉むら    牧林

 清く行く水も御祓のしるしにて    穆翁

   神よ心のつらさのこすな     尹盛

 泪をも手向になさばうけやせん    宗祇

   なきが跡とふ苔の下みち     牧林

 山ふかく住しは夢の庵朽ちて     穆翁

   みやこの月にたれかへるらん   宗祇

 しらぬ野に独つゆけき草枕      牧林

   かたしく袖はただ秋のかぜ    尹盛

 たまさかにかさねしままのころもへぬ 宗祇

   浜ゆふほども我な隔てそ     尹盛

 玉づさのかへし斗を契にて      宗祇

   いつをまことのあふせならまし  穆翁

 

三裏

 夢なくば古郷人をたのまめや     尹盛

   まくらをかせな浅ぢふの陰    牧林

 帰るなと花散りやらでかすむ野に   宗祇

   春の日数よ思ふかひあれ     尹盛

 年越えて名残なをうき藤衣      宗祇

   きのふになさぬ別れぢもがな   穆翁

 いつのまに遠くも人のかはるらん   牧林

   子ぞつぎつぎに生れおとれる   宗祇

 いやしきも大君の代をはじめにて   穆翁

   まなべあさかのやまとことのは  宗祇

 花がつみかれど心の色はなし     尹盛

   月に小舟のかへる夕川      牧林

 山本に千鳥啼く江の霧はれて     穆翁

   秋の村には風ぞさえぬる     尹盛

 

 

名残表

 ふくるまま砧のをとの近き夜に    穆翁

   よそのおもひも聞くからぞうき  牧林

 鳥べ野のけぶりに人の名を問ひて   宗祇

   消えなん事を歎く身のうへ    牧林

 望みある道に心やのこらまし     尹盛

   伝へん法の数なおしみそ     宗祇

 松島は舟さすあまをしるべにて    穆翁

   波に笘屋のやどりをぞかる    尹盛

 月も見よかかる藻汐の小夜枕     宗祇

   衣にふかきあかつきのつゆ    穆翁

 帰るさの身もひややかに風吹きて   尹盛

   わすれぬ思ひ心にぞしむ     宗祇

 俤になりてや花もうかるらん     牧林

   こずゑかすめるいにしへの里   穆翁

 

名残裏

 人も無き垣根に鳥の囀りて      尹盛

   夕日かすかにのこる道のべ    牧林

 入る山をさそひて鐘やひびくらん   穆翁

   御たけはるけきみよし野の奥   宗祇

 出ぬべき仏にも身はよもあはじ    尹盛

   たのまば心ふかくあはれめ    牧林

 別ては誰先だたむけふの友      宗祇

   契りはかなや道芝の露      穆翁

 

 宗祇卅   穆翁廿四

 尹盛廿二  句阿二

 牧林廿二

 

 此一巻古写本を得て書写終  坂昌成

 

 

 さて、宗祇ら御一行は横岡に戻り、白川百韻を巻くことになる。それを見て行くことにしよう。

 発句。

 

   於白河関応仁二年十月廿二日

 袖にみな時雨をせきの山路かな    宗祇

 

 ここに集まっている皆はこの時雨の季節に白河の関を訪れて、みんな袖を濡らしました。

 この濡れた袖は、多くの古人が悲しみにひしがれつつこの関を越えて行ったことを思い起こさせるものです。

 脇。

 

   袖にみな時雨をせきの山路かな

 木の葉を床の旅の夕ぐれ       尹盛

 

 関を越える旅路では、木の葉を敷き詰めただけのような粗末な宿で日を暮らすことでしょう。

 平尹盛は都の人で、かつて宗祇とも面識があり、おそらくその縁をつたって、ここ白河に来たのだろう。興行会場になった横岡の家は平尹盛の家で、粗末な家ですがという謙遜を込めた挨拶とする。

 第三。

 

   木の葉を床の旅の夕ぐれ

 さやかなる月を嵐のやどに見て    牧林

 

 前句の「木の葉の床」を家ではなく、文字通りの草枕、野宿とする。

 嵐の去った後の夕暮れのさやかな月を見ながら、ここを宿と定める。

 四句目。

 

   さやかなる月を嵐のやどに見て

 夜寒のそらはねんかたもなし     穆翁

 

 寒い上に月も明るく、いろいろもの憂きことも思い出して寝るに寝られない。

 五句目。

 

   夜寒のそらはねんかたもなし

 下もゐず雲にや鴈の渡るらん     句阿

 

 夜寒の空は雁も寝ることができないか、下に降りてくることもなく、雲の向こうに渡ってってしまったのだろうか。

 六句目。

 

   下もゐず雲にや鴈の渡るらん

 白なみあらき沖のはるけさ      宗祇

 

 雁が降りられないのは下が海だからで、沖の果てまで荒い白波の海原が広がる。

 七句目。

 

   白なみあらき沖のはるけさ

 しばしだにかよふも船は安からで   尹盛

 

 波が荒いから、通う船も安心できない。

 八句目。

 

   しばしだにかよふも船は安からで

 一むらさめに人ぞやすらふ      牧林

 

 しばらく一雨続きそうなので、船に乗るのはやめて、岸で休憩する。

 

初裏、九句目

 

   一むらさめに人ぞやすらふ

 柴はこぶ尾上の道の松がもと     穆翁

 

 柴を売りに行く一行も尾根道の松の木の下でしばし雨宿りする。

 十句目。

 

   柴はこぶ尾上の道の松がもと

 かけはし遠くむかふ山里       宗祇

 

 谷の向こう側に行きたいが架け橋もなく、尾根の方を迂回する。

 十一句目。

 

   かけはし遠くむかふ山里

 行く袖のあくる戸ぼそにまた見えて  尹盛

 

 去って行った男の袖が、開けた戸の向こう側の道を行くのが見える。山里なので道も曲がりくねっていて、すぐに遠くまでは行かない。恋に転じる。

 十二句目。

 

   行く袖のあくる戸ぼそにまた見えて

 消えんはかなし夜半のおもかげ    穆翁

 

 面影なので、夢に現れたか、生き霊、死霊の類であろう。戸の外にまた見ることができたが、消えて行ってしまうともう永遠に会えないような気がする。

 十三句目。

 

   消えんはかなし夜半のおもかげ

 老が身や此の世の月を送るらん    宗祇

 

 前句の面影は月に映った自分の影で、月が沈めば面影も消える。

 こうやって老いた我が身はもう程なく消えて行ってしまうのだろうか、と老境を歎く。述懐への展開。

 十四句目。

 

   老が身や此の世の月を送るらん

 おくるる我は秋もはづかし      尹盛

 

 前句の「此の世の月」を今は亡き主君か盟友の比喩として、まだ生き残っている我が身が恥ずかしいとする。

 十五句目。

 

   おくるる我は秋もはづかし

 枯る野にゆふべの露を名残にて    牧林

 

 「遅るる」を死者にではなく、晩秋の枯れてい行く野辺に遅れるとして、景色に転じる。

 十六句目。

 

   枯る野にゆふべの露を名残にて

 あるかなきかの花の冬草       宗祇

 

 枯野に冬草の小さな花を添える。「花」は冬草の花であるとともに、枯野に咲いたまるで桜の花のようにという比喩の意味を含めることで、似せ物の花の一句とする。

 十七句目。

 

   あるかなきかの花の冬草

 古郷やとはれし道もたえぬらん    穆翁

 

 かつて通った女の住む古い郷に戻ってきたが、家の道は草に埋もれてなくなってしまったか、冬草が茂っている。在原業平の「月やあらぬ」の心で恋に転じる。

 十八句目。

 

   古郷やとはれし道もたえぬらん

 いまはたよりもきかぬ恋しさ     牧林

 

 前句の「とはれし道」を比喩として、今は手紙も届かないとする。

 十九句目。

 

   いまはたよりもきかぬ恋しさ

 もろこしは只うき中の心にて     宗祇

 

 便りも来ない恋しさに、きっと中国に行ってしまったのだろうと自分に言い聞かせる。

 ニ十句目。

 

   もろこしは只うき中の心にて

 夢に行くともいとはれやせん     穆翁

 

 中国に渡って行ったあの人。夢の中で会いに行ったら嫌われるだろうか。

 二十一句目。

 

   夢に行くともいとはれやせん

 身をかくす人もやどりは聞かまほし  尹盛

 

 密かに隠棲してどこかへ行ったしまった人。せめて住所だけでも聞いておきたかった。

 前句の「夢に行く」の「ゆめ」を必ずという意味に取り成す。恋離れ。

 二十二句目。

 

   身をかくす人もやどりは聞かまほし

 たづぬる山は雲ふかきかげ      牧林

 

 隠棲した人を尋ねて行きたいが、居場所もわからず山は雲の影になって薄暗い。

 

二表、二十三句目

 

   たづぬる山は雲ふかきかげ

 水氷る雪のむら鳥餌に餓て      宗祇

 

 前句の「たづぬる」を鳥が食べ物を探しに山に入るとし、雪や氷に食べ物がなくなったとする。

 二十四句目。

 

   水氷る雪のむら鳥餌に餓て

 冬の田づらのくれの哀れさ      穆翁

 

 前句を冬の田んぼの景色とする。

 二十五句目。

 

   冬の田づらのくれの哀れさ

 送りえぬ今年をいかが賤の庵     宗祇

 

 困窮した職能民の庵だろうか。収穫の終わった百姓を余所目に見て、村を去っていくことを考えているのだろう。

 二十六句目。

 

   送りえぬ今年をいかが賤の庵

 けぶりをたやす袖のあきかぜ     牧林

 

 食う物もなければ、炊飯の煙も絶える。

 二十七句目。

 

   けぶりをたやす袖のあきかぜ

 おもひ無き月に泪もはらはれて    穆翁

 

 前句の秋風から月を登場させ、「けぶりをたやす」を月が見えるように火を消すとする。

 悲しいが月に慰められる。

 二十八句目。

 

   おもひ無き月に泪もはらはれて

 又身をしれる雨の夜長さ       宗祇

 

 月が出れば涙も払われるが、雨の夜は我が身の拙さを思い知る。違え付け。

 二十九句目。

 

   又身をしれる雨の夜長さ

 問こぬもことはりなれや我よはひ   尹盛

 

 前句の「夜長さ」を男の通ってくるのを待つとし、「身を知れる」に自分の歳を思い知る。

 三十句目。

 

   問こぬもことはりなれや我よはひ

 いのちつれなくみえんさへうし    牧林

 

 「いのちつれなく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「命つれなし」の解説」に、

 

 「死にたいと思っても容易に死ねない。死ぬに死ねない。

  ※謡曲・柏崎(1430頃)「命つれなく候はば、三年(みとせ)のうちに参るべし」

 

とある。

 年齢のせいで通ってこなくなったも辛いが、だからといって余生が短いというほどの歳でもなく、まだまだ死ぬに死ねない。

 三十一句目。

 

   いのちつれなくみえんさへうし

 跡たえて恋路に入らん山もがな    宗祇

 

 後を追って死ぬほど思い切れないから、山に籠り遁世して、そこで君のことを思いながら余生を過ごすことにしよう。男の歌に転換する。

 三十二句目。

 

   跡たえて恋路に入らん山もがな

 行衛おぼえぬ雪の夕かぜ       穆翁

 

 恋路の山の厳しさの比喩として、これから先どうなるかわからない日暮に吹雪く雪のようだ、とする。前句の「跡たえて」が、雪で足跡すら消えて行くという意味になる。

 三十三句目。

 

   行衛おぼえぬ雪の夕かぜ

 果しなき心は花にさそはれて     尹盛

 

 降る雪はしばしば散る花の比喩として用いられるが、ここではどちらも精神的なもので、人生に花のような輝かしいものを求める心は際限がなく、それに迷えばいつの間にか散る花は吹雪に代わり、どうしていいのかもわからなくなる。

 三十四句目。

 

   果しなき心は花にさそはれて

 夢をかぎりの世中の春        牧林

 

 人生は一時の夢だと仏教は教えてくれるが、それでも夢に花を求めてしまう。人に生まれ来たというのはたった一度の春なのだから。

 三十五句目。

 

   夢をかぎりの世中の春

 身はふりぬはや永日もよしあらじ   宗祇

 

 この世の夢のような春もあっという間に終わってしまう。やがて人は年老いて行く、春の長い日もいつまでも続くわけではない。

 三十六句目。

 

   身はふりぬはや永日もよしあらじ

 なげきなつめそ入相のかね      穆翁

 

 年を取っていつかは死んでいくからと言って、それを憂いて自ら命を詰めるでないぞ、と入相の鐘が教えてくれる。咎めてには。

 

二裏、三十七句目

 

   なげきなつめそ入相のかね

 物思ふ袖になみだのつきもせで    句阿

 

 死んだりするな。誰だって思い悩み、袖に涙は尽きないものだ。

 

 三十八句目。

 

   物思ふ袖になみだのつきもせで

 人よわすればうきも残らじ      牧林

 

 「人よ」は人世で、世俗を断って出家すれば憂鬱ものこらない。釈教。

 

 三十九句目。

 

   人よわすればうきも残らじ

 心ある里をとはばや旅のくれ     宗祇

 

 どこか良い郷を見つけに旅をすれば、いつかその果てに今までの苦しめてきた人たちのことも忘れられる。前句を「人わすればうきも残らじよ」の倒置とする。

 四十句目。

 

   心ある里をとはばや旅のくれ

 たのみてとまる山ぞさびしき     穆翁

 

 自分を受け入れてくれる里を探して旅を続けるが、ここはと思って泊まった山里は、ただ淋しいだけだった。

 四十一句目。

 

   たのみてとまる山ぞさびしき

 烏鳴く峯の枯木に霜ふりて      牧林

 

 前句の「とまる」を烏がとまると掛けてにはにして、冬枯れの山に泊まるのは淋しい、とする。

 四十二句目。

 

   烏鳴く峯の枯木に霜ふりて

 雲もさはらぬ冬の夜の月       尹盛

 

 枯れ木にカラスの鳴く峯の上の雲一つない空に、冬の月が寒々としている。

 四十三句目。

 

   雲もさはらぬ冬の夜の月

 河音の高きや空にながるらん     宗祇

 

 川音の大きく響きわたるという意味の「高く」と空の高くに掛けて、川が冬の夜空に流れているのだろうか、とする。澄み切った夜空には天の川が見える。

 四十四句目。

 

   河音の高きや空にながるらん

 落ちくる水ぞ風をつれたる      牧林

 

 前句の「高き」を、高い所から流れ落ちる滝とする。

 

   望廬山瀑布  李白

 日照香炉生紫煙 遥看瀑布掛長川

 飛流直下三千尺 疑是銀河落九天

 

 日の照る香炉峰に生じる紫の煙。

 遥かに見える「瀑布」という長い川の布を掛けたかのように、

 流れは空を飛んで三千尺真っ逆さま。

 これは九天の銀河が落ちて来てきたのかも。

 

の心。落ちる水が涼しい風を運んでくる。

 四十五句目。

 

   落ちくる水ぞ風をつれたる

 荻のはに軒の筧のうづもれて     穆翁

 

 軒の筧は枯葉に埋もれ、筧から落ちる水が「荻の上風」を連れて来る。風に荻は付け合いになる。

 四十六句目。

 

   荻のはに軒の筧のうづもれて

 野寺にふかき庭の朝霧        宗祇

 

 前句を野寺の朝の景色とする。

 四十七句目。

 

   野寺にふかき庭の朝霧

 道もなき霜にや秋も帰るらん     尹盛

 

 朝霧に道も隠され、そこに霜が降りれば秋も帰って行ってしまったのだろうかと、秋も終わりとする。

 四十八句目。

 

   道もなき霜にや秋も帰るらん

 まれにも人の見えぬ山陰       穆翁

 

 秋も終わり紅葉も散ると、わざわざこの山陰に来る人もいなくなる。

 四十九句目。

 

   まれにも人の見えぬ山陰

 かかる身はすつるといふもおろかにて 宗祇

 

 前句を世捨て人の隠棲とするが、捨てるなんてそんな恰好良いものではない。むしろ世から捨てられてしまったんだ、とする。

 五十句目。

 

   かかる身はすつるといふもおろかにて

 猶わびつつぞ交りてふる       尹盛

 

 身を捨てきれず、世俗の交わりを続けながら年を経て行く。

 

三表、五十一句目

 

   猶わびつつぞ交りてふる

 袖寒きあしたの雪の市仮や      宗祇

 

 「市仮や」は「市の仮屋」か。前句の「ふる」を掛けてにはにして雪を出す。

 市の仮屋で商人たちが、朝から雪になって困惑しながら交流する。

 五十二句目。

 

   袖寒きあしたの雪の市仮や

 河かぜはらふ三輪の杉むら      牧林

 

 前句の市を三輪の市とする。コトバンクの「世界大百科事典 第2版「三輪市」の解説」に、

 

 「日本古代または中世の市。〈武州文書〉応永22年(1415)写しの市場祭文(延文6(1361)年9月9日付)によると,市の始めは三輪市にありとし(近江愛智川の長野市でも同じ伝えがある),諸国の市が神によって開かれたことを述べている。これは三輪市も特定の神社と関係をもったことを示唆する。このような観点から,比定地として2案が考えられる。第1は,現,桜井市三輪字市尻で,大神(おおみわ)神社参道近くにあたる。」

 

とある。

 五十三句目。

 

   河かぜはらふ三輪の杉むら

 清く行く水も御祓のしるしにて    穆翁

 

 「御祓」は「みそぎ」であろう。

 

 風そよぐならの小川の夕暮れは

     みそぎぞ夏のしるしなりける

                藤原家隆(新勅撰集)

 

を本歌にして付ける。

 ただし、家隆の歌の「ならの小川」は京の上賀茂神社の御手洗川だとされている。

 五十四句目。

 

   清く行く水も御祓のしるしにて

 神よ心のつらさのこすな       尹盛

 

 禊をして心の苦痛がなくなることを神に祈る。

 五十五句目。

 

   神よ心のつらさのこすな

 泪をも手向になさばうけやせん    宗祇

 

 辛い涙も神様へのお供えにすれば、願いも聞き入れてくれるだろうか。

 つらさに泪を、神に手向けを付ける。四手付け。

 五十六句目。

 

   泪をも手向になさばうけやせん

 なきが跡とふ苔の下みち       牧林

 

 前句の「手向」を霊前へのお供えとして、墓地の苔の下みちを訪ねて行く。

 五十七句目。

 

   なきが跡とふ苔の下みち

 山ふかく住しは夢の庵朽ちて     穆翁

 

 前句の「苔の下道」を山奥の庵に続く道とする。主は既に亡くなり、庵も朽ち果てていた。

 五十八句目。

 

   山ふかく住しは夢の庵朽ちて

 みやこの月にたれかへるらん     宗祇

 

 庵の主は都へ帰ることなく。ここに朽ち果てた。「みやこの月」をひっくり返すと「月の都」で冥府のことになる。

 五十九句目。

 

   みやこの月にたれかへるらん

 しらぬ野に独つゆけき草枕      牧林

 

 都を離れての辛い旅路とする。野は武蔵野、那須野、宮城野などを連想させる。

 六十句目。

 

   しらぬ野に独つゆけき草枕

 かたしく袖はただ秋のかぜ      尹盛

 

 「かたしく」は自分の衣を敷いて一人で寝ることで、恋に破れた旅路になる。

 六十一句目。

 

   かたしく袖はただ秋のかぜ

 たまさかにかさねしままのころもへぬ 宗祇

 

 「ころもへぬ」は「衣」と「頃も」に掛けて用いられる。

 

 五月雨のころもへぬれば沢田川

     袖つくばかり浅き瀬もなし

                左近中将公衡(新勅撰集)

 

のように。

 「たまかさにかさねし」に二人の衣を重ねた夜を思い、その頃も過去となって「かたしく袖」となる。

 六十二句目。

 

   たまさかにかさねしままのころもへぬ

 浜ゆふほども我な隔てそ       尹盛

 

 浜木綿(はまゆふ)は海辺に生える草の名で熊野の景物だという。

 

 みくまのの浦のはまゆふももへなる

     心はおもへとたたにあはぬかも

                柿本人麻呂(拾遺集)

 

のように幾重にも重なるという意味で用いられる。

 ここでは前句の「重ねし衣」から、浜木綿のように幾重も仲を隔てる、とする。

 六十三句目。

 

   浜ゆふほども我な隔てそ

 玉づさのかへし斗を契にて      宗祇

 

 玉づさは便りを運ぶ使者や便りそのものを言う。人づてに帰ってきた手紙の返事だけの約束は冷たく、浜木綿のように二人の仲を隔てている。

 六十四句目。

 

   玉づさのかへし斗を契にて

 いつをまことのあふせならまし    穆翁

 

 手紙ばかりでいつ本当に会えるのか。

 

三裏、六十五句目

 

   いつをまことのあふせならまし

 夢なくば古郷人をたのまめや     尹盛

 

 夢にあの人を見なかったなら、故郷のあの人をいつまでもあてにする事はなかった。いつになったら故郷に帰って、逢うことができるのだろうか。

 

 うたた寝に恋しき人を見てしより

     夢てふものはたのみそめてき

                小野小町(古今集)

 

の歌を踏まえて、恋しき人を夢に見てしまったから、ついついまた会えることを期待してしまう。

 六十六句目。

 

   夢なくば古郷人をたのまめや

 まくらをかせな浅ぢふの陰      牧林

 

 故郷の人に会えることを期待しながら、浅茅生の草の陰で野宿をする。

 六十七句目。

 

   まくらをかせな浅ぢふの陰

 帰るなと花散りやらでかすむ野に   宗祇

 

 まだ花が散りきってしまわないので、この野辺にもう少し滞在したいと思う。枕を貸してくれ、となる。

 六十八句目。

 

   帰るなと花散りやらでかすむ野に

 春の日数よ思ふかひあれ       尹盛

 

 まだ帰るなと花が言っているかのように、散りそうでなかなか花は散らない。花見に長い日数を費やした甲斐があった。

 六十九句目。

 

   春の日数よ思ふかひあれ

 年越えて名残なをうき藤衣      宗祇

 

 日数(ひかず)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「日数」の解説」に、

 

 「① 経過した、またはこれから要するひにちの数。にっすう。また、何日かの日の数。

  ※書紀(720)神代下(兼方本訓)「各、其の長短(なかさみしかさ)の随(まにまに)其の日数(ヒカス)を定む」

  ※源氏(1001‐14頃)明石「かたみにぞかふべかりけるあふことの日かすへたてん中のころもを」

  ② 死後、四九日目。中陰。また、その法要。

  ※増鏡(1368‐76頃)八「故院の御日かずも程なう過ぎ給ひぬ」

 

とある。ここでは②の意味に取り成す。

 暮に亡くなった人のことを忍んで、未だに藤衣(喪服)を着て悲しみに暮れている。年が明け春になって四十九日が来れば、少しは悲しみも癒えるのだろうか。

 七十句目。

 

   年越えて名残なをうき藤衣

 きのふになさぬ別れぢもがな     穆翁

 

 「別れぢ(別路)」はここでは冥途へ行く道を意味する。

 悲しい死別をまだ過去のものにはしたくない。

 七十一句目。

 

   きのふになさぬ別れぢもがな

 いつのまに遠くも人のかはるらん   牧林

 

 前句の「別れぢ」を単なる分かれ道の意味にする。

 いつの間に遠くに見えていた人とすれ違ってしまい、今は離れ離れになって行く。

 七十二句目。

 

   いつのまに遠くも人のかはるらん

 子ぞつぎつぎに生れおとれる     宗祇

 

 次から次へと子供が生まれてきては、それが成長すると追い越されて行き、いつの間にか自分の身分も下がっている。地方に赴任されている人も入れ替って行く。

 

 振舞や下座になをる去年の雛     去来

 

のようなもの。

 七十三句目。

 

   子ぞつぎつぎに生れおとれる

 いやしきも大君の代をはじめにて   穆翁

 

 すべて日本人は天皇家を始祖とするが、人口が増えるにつれ身分の低い人の数も増えて行く。

 七十四句目。

 

   いやしきも大君の代をはじめにて

 まなべあさかのやまとことのは    宗祇

 

 大和歌(和歌)は古今集仮名序に「このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり。」

 そして、「なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。」とあり、難波津の歌と並べて、

 

 「あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて、かづらきのおほきみをみちのおくへつかはしたりけるに、くにのつかさ、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめなりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、

 

 あさか山かげさへ見ゆる山の井の

     あさくは人をおもふのもかは。

 

 このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、手ならふ人のはじめにもしける。」

 

とある。和歌を習う人はまず初めにこの歌を習え、とする。

 七十五句目。

 

   まなべあさかのやまとことのは

 花がつみかれど心の色はなし     尹盛

 

 「花かつみ」は、

 

 陸奥の安積の沼の花がつみ

     かつ見る人に戀ひやわたらむ

                よみ人しらず(古今集)

 

の歌で知られている。

 「花がつみ」は「かつ見る」に掛けて恋の歌にする事で心の色が生じる。和歌の心を知らずにただ仕事として刈り取っていても心の色はない。和歌を学んではじめて「かつみ」の心がわかる。

 七十六句目。

 

   花がつみかれど心の色はなし

 月に小舟のかへる夕川        牧林

 

 かつみに月は、

 

 蘆根はひかつみもしげき沼水に

     わりなく宿る夜はの月かな

                藤原忠通(金葉集)

 

の歌がある。

 「わりなく」は納得がいかない、しっくりしない、というニュアンスで、せっかくの月もカツミが茂っているときれいに映らないし、水面も明るくならないが、だからと言って歌に名高いカツミを刈ってしまったら、それも無風流というものだ。刈りたくもあり刈りたくもなし。

 七十七句目。

 

   月に小舟のかへる夕川

 山本に千鳥啼く江の霧はれて     穆翁

 

 月に「霧はれて」、「夕川」に「千鳥啼く江」と四手に付けて、前句にそれに合う景物を添える。

 七十八句目。

 

   山本に千鳥啼く江の霧はれて

 秋の村には風ぞさえぬる       尹盛

 

 瀟湘八景の漁村夕照のイメージか。

 

名残表、七十九句目

 

   秋の村には風ぞさえぬる

 ふくるまま砧のをとの近き夜に    穆翁

 

 秋風の吹く夜も更けて行く頃、村からは砧打つ音が聞こえてくる。

 

 み吉野の山の秋風さ夜ふけて

     ふるさと寒く衣うつなり

                藤原雅経(新古今集)

 

を本歌とした付け。

 八十句目。

 

   ふくるまま砧のをとの近き夜に

 よそのおもひも聞くからぞうき    牧林

 

 砧の音の悲しさは、

 

   子夜呉歌       李白

 長安一片月 萬戸擣衣声

 秋風吹不尽 総是玉関情

 何日平胡虜 良人罷遠征

 

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。

 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。

 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

 

の詩の心によるものだが、それを悲しく聞くのは衣を打っている張本人ではない。余所の人の思いに感じ入るから悲しい。

 八十一句目。

 

   よそのおもひも聞くからぞうき

 鳥べ野のけぶりに人の名を問ひて   宗祇

 

 京の鳥野辺は葬儀の行われた土地で、そこで火葬にしている人に、亡くなった人の名前を問えば、他人事ながら悲しく思えてくる。哀傷に転じる。

 八十二句目。

 

   鳥べ野のけぶりに人の名を問ひて

 消えなん事を歎く身のうへ      牧林

 

 煙が空に消えて行くように、他人の葬式であっても、自分もいつかこうして空に消えてゆくんだなと嘆く。

 八十三句目。

 

   消えなん事を歎く身のうへ

 望みある道に心やのこらまし     尹盛

 

 「望みある道」は仏道のこと。いつかは死んで行く無常を歎くなら、仏道に望みをかけてみようか。釈教に転じる。

 八十四句目。

 

   望みある道に心やのこらまし

 伝へん法の数なおしみそ       宗祇

 

 弟子への説法の伝授に悔いを残さぬよう、惜しむ所なくすべて伝えよ、とする。

 八十五句目。

 

   伝へん法の数なおしみそ

 松島は舟さすあまをしるべにて    穆翁

 

 見仏上人の故事による本説であろう。コトバンクの「朝日日本歴史人物事典「見仏」の解説」に、

 

 「生年:生没年不詳

 鎌倉初期の僧。奥州松島の雄島に住み,法華経の教義を人びとに授けた。法華浄土への往生を説いて,死後の不安を解消させた。死者の声を伝達することもあったらしい。空を飛ぶ超能力で知られる。「月まつしまの聖」「空の聖」の別称がある。北条政子は仏舎利2粒を見仏に寄進して,源頼朝の供養を依頼した。その書状(写)が瑞巌寺に現存する。平安末期の見仏は,かれの先代に当たる。この人も雄島に住み,法華経を読み,奇跡を現した。鳥羽院から姫松千本,本尊,器物を下賜されたという。(入間田宣夫)」

 

とある。

 八十六句目。

 

   松島は舟さすあまをしるべにて

 波に笘屋のやどりをぞかる      尹盛

 

 松島に波の苫屋は、

 

 立ちかへり又も来てみむ松島や

     雄島の苫屋浪にあらすな

                藤原俊成(新古今集)

 

であろう。「立ちかへり」は、

 

 立ちわかれいなばの山の峰におふる

     まつとし聞かば今かへりこむ

                在原行平(古今集)

 

の舞台を須磨から松島に移したもので、松島の海女の家に宿を借りる都人という趣向にしている。

 尹盛の句もその設定を借りて、都人が松島の波の苫屋に宿を借りるとする。

 八十七句目。

 

   波に笘屋のやどりをぞかる

 月も見よかかる藻汐の小夜枕     宗祇

 

 「小夜枕」は、

 

 松が根の雄島が磯のさ夜枕

     いたくな濡れそ蜑の袖かは

                式子内親王(新古今集)

 

の歌に用いられている。

 藻塩の小夜枕は「濡れる」ということで、我が泪を月も見よ、という意味になる。

 八十八句目。

 

   月も見よかかる藻汐の小夜枕

 衣にふかきあかつきのつゆ      穆翁

 

 月に露ということで、小夜枕に衣を濡らすとする。

 八十九句目。

 

   衣にふかきあかつきのつゆ

 帰るさの身もひややかに風吹きて   尹盛

 

 暁の露と来れば、後朝(きぬぎぬ)で恋に展開する。

 九十句目。

 

   帰るさの身もひややかに風吹きて

 わすれぬ思ひ心にぞしむ       宗祇

 

 「風吹きて」を「心にぞしむ」で受ける。

 九十一句目。

 

   わすれぬ思ひ心にぞしむ

 俤になりてや花もうかるらん     牧林

 

 前句の「わすれぬ思ひ」から、花を見てもあの人の面影を思い出しては憂鬱になる、とする。

 九十二句目。

 

   俤になりてや花もうかるらん

 こずゑかすめるいにしへの里     穆翁

 

 「いにしへの里」は古都の風情であろう。前句の「俤」はここでは往年の都として栄えた俤になる。

 

 さざなみや志賀の都はあれにしを

     昔ながらの山桜かな

                平忠度

 

など、桜に古都の面影を思う。

 

名残裏、九十三句目

 

   こずゑかすめるいにしへの里

 人も無き垣根に鳥の囀りて      尹盛

 

 いにしへの里には住む人のない廃墟があり、そこには鳥が囀る。

 杜甫の「春望」の「別れを恨んで 鳥にも心を驚かす」の心であろう。

 九十四句目。

 

   人も無き垣根に鳥の囀りて

 夕日かすかにのこる道のべ      牧林

 

 前句の「人も無き」を夕暮れで歩く人もいない道とする。

 後の芭蕉の、

 

 この道や行く人なしに秋の暮れ    芭蕉

 

の句を彷彿させる。

 九十五句目。

 

   夕日かすかにのこる道のべ

 入る山をさそひて鐘やひびくらん   穆翁

 

 夕日に入相の鐘となれば諸行無常の響きもあって、出家を誘われているかのようだ。

 九十六句目。

 

   入る山をさそひて鐘やひびくらん

 御たけはるけきみよし野の奥     宗祇

 

 吉野金峰山は「かねのみたけ」とも呼ばれている。前句を吉野金剛峯寺の鐘とする。

 九十七句目。

 

   御たけはるけきみよし野の奥

 出ぬべき仏にも身はよもあはじ    尹盛

 

 金峯山寺本堂(蔵王堂)の本の蔵王権現は、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊を合わせたものとされている。「出でぬべき仏」はその釈迦入滅後五十六億七千万年後に出づるとされる弥勒菩薩のことで、そんな遠い未来のことなら会うことはできない、今は蔵王権現に祈ることにしよう、とする。

 九十八句目。

 

   出ぬべき仏にも身はよもあはじ

 たのまば心ふかくあはれめ      牧林

 

 弥勒は遠い未来にならないと現れないが、それでもそれを頼りにする心はそれだけ深く悲しいものだ。

 九十九句目。

 

   たのまば心ふかくあはれめ

 別ては誰先だたむけふの友      宗祇

 

 今日の友も、いつかは誰かから順番に亡くなって行くことになる。残されたならどうか憐れんでくれ。

 ここで連歌を楽しんだ横岡の連衆ともこれでお別れで、もう会えないかもしれないという思いがあったのだろう。応仁の乱で戦国の世となった今、そうでなくても人間いつ死ぬかわからない。

「誰」とはいうものの、宗祇自身が私が死んだら、という意味を込めていたのではないかと思う。

 挙句。

 

   別ては誰先だたむけふの友

 契りはかなや道芝の露        穆翁

 

 約束しても、いつかは旅の露となって果たされないかもしれない、それはわかっています。

 連歌の挙句は習慣上目出度く収めることが多いが、ここでは離別の情で終わらせる。