クリストフ・コッホ『意識の探求』の第一章

「意識研究入門」解説


 トーマス・マンは『詐欺師フェリクス・クルルの告白』の中で、世界の三段階の謎について語っている。

 1、宇宙の誕生
 2、生命の誕生
 3、意識の誕生

 

 おそらく、トーマス・マンはこの第三の謎を人間の誕生と考えていたのだろう。しかし、類人猿などのある種の高等な動物の意識は、今日多くの科学者の認めるところとなっている。

一、我々は何を説明すべきか

 われわれの体験する意識と、脳内での電気化学的な相互作用との間には、どのような関係があるのだろうか。

 「ポテトチップスのあの塩気の利いた味、ぱりぱりっとした食感。高山に登ったときに見えるあの空の濃青色。最後の安全な足場から数メートルの絶壁で、わずかな手がかりにしがみついているときの、手の感触、ぶらりとした足の感覚、それらからくるスリル感。いったい、これらの感覚は、どのようにして、ニューロン(神経細胞)のネットワークから生れてくるのだろうか。こういった感覚、知覚の質感は西洋科学、哲学の伝統において、クオリアと呼ばれてきた。」 (『意識の探求─神経科学からのアプローチ─』(上)クリストフ・コッホ著、土谷尚嗣、金井良太訳、2006、岩波書店、p.2)

 クオリアは日常的に感じられる質感のことで、何ら特別な体験をいうのではない。誰もが日々、何かを見たり聞いたり匂いをかいだり触ったり舌で味わったりする、そのそれぞれの特徴ある感覚をいう。クオリアはある人には感じられるが、ある人には感じられないという種のものではないし、クオリアに価値の差があるわけでもない。まして、特殊な精神修行を経験した者のみが本当のクオリアを得ることができるといった神秘主義的な解釈は、断じて退けなくてはならないし、そのような主張はまやかしだと断言していい。塩味の聞いたぱりっとしたポテトチップにのみクオリアがあって、湿気った味気ないポテトチップにはクオリアがないということでもない。その場合にも当然、湿気った味気ないというクオリアがある。バラの香りにはバラの香りのクオリアがあるが、くその匂いにもくその匂いのクオリアがある。
 およそ意識のあるところには何らかのクオリアがあるもので、クオリアがないというのは意識がないというのと同じである。目に前にある客観的な対象物はもとより、感情のような主観的なものにもクオリアはある。たとえ神秘的体験のようなものでも、体中にみなぎる充足感や高揚感・恍惚感や身の引き締まるような畏怖などのクオリアがある。物的な対象の有無にもかかわらず、クオリアは存在する。
 「クオリア」という言葉から「クオリティー」という言葉を連想しやすいが、クオリアがあるということは、決してクオリティーが高いということではない。優れた芸術作品にももちろんクオリアはあるが、駄作にもクオリアがある。茂木健一郎は「作品の価値は言語化も記号化もできないクオリア体験の質で決まる」(http://www.qualia-manifesto.com/qualiafundamentalismjp.txt)と言っているが、これは芸術作品の価値はそれぞれの受け手が作品から受ける感動の強度の総体によって決まると見るべきであろう。多くの人に広く感動を与える作品に価値があるのはもちろんのこと、限られた人に深い感動をもたらす作品にも同等の価値があると言わねばならない。
 なお、クオリアが言語で記述できるかどうかという問題だが、これはわれわれの意識が言語で伝達可能かどうかの問題であり、実際全く伝達できないということはない。我々は日々いろいろな体験を言語で伝達しているのは事実であり、その意味ではクオリアは言語によって伝達することができるともいえるが、それぞれが体験している意識そのものを伝えることはできない。

 クオリアには強弱がある。それは、直接感じている本人にしかわからない。数日間水を飲むことができなかった者の喉の渇きは、体験のないものにとっては想像を絶するものであり、それを直接感じ取ることはできない。
 それでいて、クオリアは特有の共通の感覚である。自分にとっての赤のクオリアは他人にとっても赤い。それは赤を感じる脳のパターンに共通性があるからだと思われる。
 人間だけでなく、多くの動物もまたクオリアを経験する。しかし、なぜそれが必要なのか。なぜクオリアを感じるように進化する必要があったのか。それが問題になる。
 クオリアがないにもかかわらず、機械的なプログラムでそれがあるかのような行動を取るものを、哲学では「ゾンビ」と呼ぶ。しかし、それが想像しがたいところに、いかに意識が日常生活に欠かせないものかがわかる。

 「外見上の立ち居振る舞いは全く普通の人と変わらないが、意識、感覚および感情が完全に欠けたもの、それが哲学用語としてのゾンビである。」(『意識の探求─神経科学からのアプローチ─』(上)クリストフ・コッホ著、土谷尚嗣、金井良太訳、2006、岩波書店、p.5)

 たとえば、「シーマン」や「ピカチュウ元気でちゅう」のようなゲームソフトで、バーチャルな会話を交わすことはできる。しかし、このソフトは、こちらの言ったことに対し反応はするものの、その意味を理解しているわけでもないし、その言葉から何かを思い浮かべているわけでもない。哲学でいうゾンビは、そのはるかに精巧に作られたものだと思えばいい。むしろ、人間そっくりの動作や行動をするようなロボットやアンドロイドのようなもので、ハイチの伝説にいう、魔術師によって操られた死体(ドラクエの「くさったしたい」やバイオハザードなどに登場する「ゾンビ」のもととなるもの)のイメージとはむしろ程遠い。

 

 実際には、脳の活動の大半は意識には上らない。そのため、なぜ脳内のある特定の電気化学活動が意識を生み出し、他の活動は無意識なのかが問題になる。脳の中には無意識に働く「ゾンビ・システム」がある。しかし、なぜゾンビ・システムだけではいけなかったのか。
 意識は直接他人に伝えることができない。先天的に視覚に障害のある人に「赤」を説明することは難しい。なぜ我々はそれを伝える手段を持たないのか。我々はこの疑問に答えてゆかねばならない。

二、どんな答えがありうるか

1、意識は不死の魂に依存する

 これはいわゆる霊肉二元論と言われるもので、プラトン、デカルト、近いところではカール・ポパーやジョン・エックルスにも見られる。
 魂が何らかの形で物質的な脳との間に相互作用を引き起こすとする限り、そのメカニズムが説明されなくてはならなくなる。
 もし、魂と脳との間に何の関係もないと言うのなら、何の矛盾も生じない。

 「すなわち魂とは、いかなる科学的方法によっても検出することのできない、ギルバート・ライルのいわゆる機械の中のゴースト、とみなすのである。つまり、魂は科学の扱う範囲外であると考えてしまうということである。」(『意識の探求─神経科学からのアプローチ─』(上)クリストフ・コッホ著、土谷尚嗣、金井良太訳、2006、岩波書店、p.13)

 こうした思考パターンはキリスト教をはじめとして、多くの宗教に見られるパターンであり、微妙な問題を含んでいる。しかし、この種の形而上学的な信念はカント的なアンチノミーを免れない。つまり、反証もできないが証明もできない。

2、科学的な手段では意識を理解することは不可能だ

 これはミステリアンと呼ばれる。ミステリアンという用語は最近できたフラナガンによる造語だが、不可知論という古い形而上学の主張に近いかもしれない。この流派には二種類あり、一つは、脳は脳自体を理解することはできないという理論的な主張であり、もう一つはそもそも人間の知性には限界があるから意識を理解できないのだという主張である。

 本当に知りえないのか、それとも知ろうとしないだけなのかという問題もあるし、少なくとも知りたいという欲求を抑制せねばならないというのが、最大の欠点であろう。

3、意識は錯覚である

 意識の存在そのものを否定する考え方は、行動主義の心理学にも見られたが、ダニエル・デネットもそれに近い立場に立つ。つまり、意識に関しては自分自身を反省的に振り返るような一人称的説明ではなく、第三者の観察による三人称的説明を目標にするべきだとする。つまり、「歯が痛い」というのは実際に本人が感じる痛みではなく、あくまでしかめっ面をするだとか、その歯で噛まないようにするだとかいう客観的事実の総体にすぎないというわけである。

 デネットは意識そのものを存在しないとみなしているのではなく、あくまで内観的な方法を科学になじまないとして排除しているだけのように思える。だが、仮に意識が幻想だとしても、なぜそのような幻想が生じるかについて説明しなくてはならない。

4、意識の解明には根本的に新しい法則が必要とされる

 理論物理学者のロジャー・ペンローズはこの問題の解決には「量子重力論」が鍵になるという。これによると、細胞の中にある微小管が集まると、「量子の共鳴状態」が生じ、意識が生れるという仮説を提起している。
 デビッド・チャーマーズはコンピュータはもとより単純なサーモスタットのようなものまで、程度の差こそあれ、情報処理システムはすべて意識が存在するという。一種の汎心論といえよう。

 

 どちらも魅力的な説ではあるが、証明するにはまだまだ難問が多い。
 物理的な時空概念からすると、時間はどこで計測するかで異なる、あくまで相対的なものとなる。たとえ、脳のある部位と別の部位とで同時発火したとしても、Aという部位での発火がBという部位に伝わる間に、わずかだが時間が経過することになるし、Bという部位での発火がAという部位に伝わる間にも、わずかに時間が経過する。そうなると、その前後関係は相対的なものとなる。意識が、分子レベルでの化学反応のような、直線的な時間で生じるとすれば、たとえ二箇所で同時に発火したニューロンでも、厳密に言えば前後関係があり、その順序は測定する場所によって異なることになる。つまり、同時はありえない。この困難を克服するには、確かにペンローズのいうような量子レベルの共鳴状態を仮定する必要があるのかもしれない。
 我々の思考は、さまざまな形で過去-現在-未来という直線的な時間概念によって拘束されている。そこから、宇宙には始まりがあって終わりがあるだとか、原因には結果があるだとか、物事は何らかの必然性によって生じるといった、思考の論理が展開される。哲学者のマルチン・ハイデッガーは、我々の存在了解がこうした時間の形式に拘束されていることに気づき、それを現象学的な直観の力で乗り越えようとしたが、残念ながら未完に終った。もし、われわれの意識がこの時間概念を越え得ないなら、あるいはミステリアンの言うことも正しいのかもしれない。
 チャーマーズの立場は、世界が自らを自覚することによって意識が生じるとする点で、何か西田哲学への共通点を感じさせる。

5、意識をもつには行動が必要だ

 つまり、意識は脳だけでは生じず、行動が不可欠であるという主張である。しかし、これに対し、ロックトイン・シンドローム(閉じ込め症候群)という病気も存在する。つまり、脳の障害によって眼球の動き以外のすべての体の動きが麻痺してしまうという病気の患者にも、意識は存在する。

6、意識は脳内のニューロン誘導から生じてくる特性である。

 これがクリストフ・コッホとフランシス・クリックとの共同研究の立場である。意識は脳内のニューロンの持つ特徴から出現する。

 「すなわち、意識は脳の中の多数のニューロン相互作用、あるいはニューロン内部に存在するカルシウムイオンの濃度などの相互作用、さらには活動電位の相互作用といった、物理的現象が複雑に相互作用することで生れてくるのだ。」(『意識の探求─神経科学からのアプローチ─』(上)クリストフ・コッホ著、土谷尚嗣、金井良太訳、2006、岩波書店、p.28)

三、我々のアプローチは、実用的で経験主義的なものである

 困難な問題に挑むには、十分な根拠を示さずにいくつかの前提を設けて、暫定的な仮説を立て、頻繁に修正されねばならない。分子物理学者のマックス・デルブリュックは、これを「適度ないい加減さの原理」と呼んだ。

1、作業定義

 ジョン・サールによると、意識(consciousness)は感覚(sentience)、感情(feeling)、気づき(awareness)から成り立つ。意識は、朝夢を見ていない状態から目覚めた時に始まり、ふたたび寝付いたり、昏睡状態に陥ったり、死んだ時に終る。
 ここでさらに一歩踏み込んで、コッホは暫定的に意識をこう定義する。

 「数秒以上情報を維持することが必要とされる、普段慣れていないことを行うことができること。」(『意識の探求─神経科学からのアプローチ─』(上)クリストフ・コッホ著、土谷尚嗣、金井良太訳、2006、岩波書店、p.29)

 定義の厳密さにこだわってしまうと、いつまでたっても研究を始めることができなくなる。ある意味で、保守的な人間ほど、新しい説が立てられると、その一言一言揚げ足をとって、この言葉の定義はいかにとか突っ込んで、検証が成される以前の所で葬り去ろうとするものだ。しかし、こうした足の引っ張り合いをいくらやっても、科学は進歩しない。最初の定義は、別にそれが絶対的な真実である必要はない。むしろ、仮説・検証の繰り返しによって、最初の仮説で間違ったものは修正されたり破棄したりを繰り返しながら、次第に真実に近づけてゆけばいいのである。科学的真理とは絶対的な真理ではなく、あくまで真理の近似値である。
 そもそも科学というのは100パーセント仮説であり、強いて言えば「100パーセント仮説である」ということだけは真実だから、99.9パーセントは仮説であると言い換えてもいいのだろう。だから、仮説を立てることを恐れてはいけないのである。大体、仮説も立てず何ら検証もせずに(瞑想や直観などによって)絶対的な真実を手にすることができるなんて思うことの方が、どうしようもない思い上がりではないか。

2、意識は人間に特有ではない

 人間以外でも、特に哺乳動物にも、人間とそう変わらない視覚、聴覚、嗅覚などの知覚経験があると思われ、特有のクオリアを体験していると思われし、コウモリのような超音波を感知する動物は、また特有のクオリアがあると思われる。

 「動物の感覚や意識を認めないという立場は、思慮の足りない推測に過ぎないし、さまざまな実験事実に反している。ネズミからサル、そして類人猿、人間までの動物種の間には、進化やDNAという証拠や行動学的な研究によって、つながりがあることが分っている。我々人間を含めた動物は共通の祖先をもち、進化の過程を経て大自然の中で生き残ってきたのであって、人間だけが意識や感覚を持っているという考えは間違っている。」(『意識の探求─神経科学からのアプローチ─』(上)クリストフ・コッホ著、土谷尚嗣、金井良太訳、2006、岩波書店、p.32)

 

 哲学者や言語学者は「言語のない動物には意識を持つことができない」と信じてきたが、言語がなくても見たり聞いたりする時のクオリアがあるとする説は、分断脳患者や自閉症の子供の臨床研究、進化論的な比較研究、動物行動学から導かれる結論と一致している。

3、どうやって意識を科学的に研究するか

 意識にもいろいろあるが、もっとも取り組みやすい意識である視覚的意識から研究を始める。

 第一に、人間は視覚的動物である。
 第二に、視覚は他の感覚に比べて鮮明で情報が豊富である。
 第三に、次々に発見される錯覚を使うことで、直接視覚経験を操作することができる。
 最後に、多くの視覚現象や錯覚を引き起こすニューロン活動研究が、さまざまな動物で行われてきた。

 アントニオ・ダマシオは、意識を中核意識と拡張意識に分けている。中核意識は「今/ここで」の 意識のことで、拡張意識は自分を客観的に見る自意識や、過去や未来に関する意識をいう。

 コッホの研究は今のところ中核意識に限られている。それは拡張意識が重要でないということではない。それはただ、拡張意識は動物実験などによる研究が困難なことによる。

四、意識と相関するニューロンNCC

 クリストフ・コッホとフランシス・クリックが、この本でめざすのは、NCC(neuronal correlates of consciousness)つまり意識と相関しているニューロンの発見である。これは、意識を生じさせる最低限のニューロン群をいう。つまり、このニューロン群が活動していれば意識があり、活動してなければ意識がなくなるような、そういうニューロン群のことをいう。

 このニューロンが明らかになることで、なぜあるニューロン群の発火が特定のクオリアを生み出すかが問われなくてはならない。

 このほかのさまざまなアプローチは、結局特定のクオリアに対応する特定のニューロン群の発見なしに、クオリアの生じる物理的な条件を飛び越えて議論するというところに弱点があるといっていいだろう。ただ、そういう誘惑もわからなくはないし、物理条件の研究と平行して、この問題に対するさまざまな仮説を立てることを、あながち否定するべきではないように私には思われる。最終的に両者の説が一致した時にクオリアの問題に答が出たと言えるのではないか。

五、まとめ

 

 

 意識がどうやって脳から生じるかという問題は、人類にとって何千年来の難問だが、今日の科学者は恵まれている。ニューロン活動を科学的に研究する下地が整ってきたからだ。科学的に証明できることを積み重ねながら、遠回りではあるが「千里の道も一歩から」の心でこの難問に挑むことも、今の技術なら可能である。