奥の細道─道祖神の旅─

プロローグ

   人も通わぬ古池の
   人も通わぬ古池の
   (かわず)飛び込む水の音

 

 江戸は深川、一人の老いた旅の僧がいた。
 「果てさて、江戸の町も大きくなって、ここいらはかつての豪商達の別荘地だったというのに、今ではすっかり家が建ち並ぶ。
 それにしてもどこをどう迷ったものか。
 突如目の前に現れたこの崩れかけた廃墟となった屋敷に、それに荒れ果てた濁りきった池‥‥。
 もしやこれがかの(しょう)(おう)芭蕉(ばしょう)(あん)だろうか。」
 春も弥生のぽかぽかとした陽射しも暖かく、長閑な昼下がりの葦の若葉も萌えいずる岸辺にその僧はたたずむと、にわかに水音がして、水面に波紋が広がる。
 やがてその波紋の中心からごぼごぼと泡が浮かび出で、そこから何かが姿を現す。
 「ひゃあっ!かっ、かっぱ!」
 それは確かに頭に名状しがたい皿のようなものがあり、紛れもなく河童だった。
 「そんな驚かなくても‥‥それに、()(はく)と呼んでほしいな。
 これでも一応神様なんだから‥‥。」
 「失礼、河伯さんでしたか。
 今の水音は蛙ではなくて。」
 「誰が蛙やねん。
 ったく、せっかくここでかつて暮らしていた蕉翁のことを語って聞かせようと思ったのに‥‥。
 まあ、多くを語るよりも、沈黙の余韻こそがいかなる説法にも勝るかな?」
 そう言うと、河伯はごぼごぼと水に潜っていなくなってしまった。
 「いえいえ、そんなこと言わないで聞かせてくださいよ!」
僧は大声を出すものの、それが間に合ったのか間に合わなかったのか、かすかに水底から声が聞こえてきた。
 「過去は過ぎ去ってもはやない‥‥過去を思うのは今この時‥‥今を見つめよ‥‥ゴボッ。」
 「何だかよくわからないけど、とにかくしょうがない、蕉翁の足跡は自分でたどってみるか。」
 僧はそのようにつぶやくと、ここから長い旅に出ることとなった。

 『奥の細道』は言わずと知れた芭蕉の代表作で、元禄二(一六八九)年の春から秋にかけて、江戸から奥州街道を北上し、松島、象潟などの歌枕を廻り、帰りは北陸道を通り、大垣を経て、最後は伊勢で終る紀行文だ。
 
 文章の完成度といい、蕉風確立期の円熟した句にさらに晩年の推敲を重ね、芭蕉の最高傑作というだけでなく、我が国の文学を代表する作品の一つとして、世界に誇れるものとなった。

第一章、旅立ち

一、道祖神の招き

 「道祖神」はどうやら芭蕉の口癖だったらしい。其角の『(かれ)尾花(おばな)』「芭蕉(ばしょう)(おう)終焉記(しゅうえんのき)」にも、

 

 「十余年がうち、杖と笠とをはなさず。十日とも止る所にては、『又こそ我が胸の中を道祖神のさはがし給ふなり』と語られしなり。」

 

とあり、「もう少しここにいて下さいよ」という門人たちの言葉に、いつも道祖神を引き合いに出しては去ってゆく芭蕉の姿が目に浮かぶ。
 芭蕉の高弟だった去来(きょらい)の言葉を編纂した『去来抄(きょらいしょう)』の冒頭の一節もそうした一例であろう。

 

 「蓬莱(ほうらい)に聞かばや伊勢の初だより 芭蕉


 ‥‥略‥‥去来(いわく)(みやこ)古郷(ふるさと)の便りともあらず、いせと侍るは元日の式の今様ならぬに、神代をおもひ出でて、便(たより)聞かばやと道祖神(どうそじん)の、はや胸中をさはがし(たてまつ)るとこそ承り侍ると申す。先師返事に(いわく)、汝聞く処にたがはず。今日神のかうがう(しき)あたりをおもひ出で(しげる)(ちん)和尚(かしょう)の詞にたより、初の一字を吟じ侍る(ばかり)なり。」

 

 蓬莢といえば中国の伝説で東の海の向こうにあるとされる蓬莢・瀛州(えいしゅう)方丈(ほうじょう)の三神山のひとつで、仙人の住む黄金の街があり、宝石の実る木(玉の枝)があり、そこに棲む動物はみんな真っ白だという。黄金の島の伝説は日本と混同され、黄金の島ジパングとなってマルコ・ポーロによって西洋に伝えられることともなった。
 
 一方、この島は空中に浮いていて、近づこうとすると消えてしまうということから、蜃気楼のことだとも言われている。

 蓬莱山はかつて正月と切り離せないもので、正月には蓬莱飾りをし、七福神を乗せた宝船も蓬莱山から来るとされていた。

芭蕉のこの句も、伊勢からの正月の便りをあたかも蓬莢から七福神が運んできたかのようだ、という意味だろう。
 伊勢といえば、お伊勢参りで、江戸時代という自由に旅行のできなかった時代でも、お伊勢参りや霊場廻りなどの名目であれば庶民でも自由に旅ができたし、講を作ってお金をみんなで積み立てて、代表で参拝に行く人を選んだりもしていた。

伊勢からの便りは旅への思いをさそうもので、去来の言うように道祖神の胸中をさわがす、旅の虫の騒ぐようなものだった。
 芭蕉のこの『奥の細道』の旅も、伊勢で終っている。つまり、これも名目上はお伊勢参りだった。『野ざらし紀行』や『(おい)の小文』も伊勢に立ち寄っている。伊勢ではないが、『鹿島(もうで)』は鹿島神宮、『更科(さらしな)紀行』は善光寺へのお参りが描かれている。
 道祖神は元来中国の神で、()(りゅう)(あん)梨一(りいち)の『奥細道(おくのほそみち)菅菰抄(すがごもしょう)』(安永七年)には、

 

 「黄帝の妹、(るい)()と云ふ人、遠遊を好み、(つい)に旅に死す。因て以て(ちまた)の神とすと云ふ。日本にては猿田彦(さるたひこの)(みこと)(ちまた)の神とす。‥‥略‥‥後世青面(しょうめん)金剛(こんごう)を傳会して庚申(こうしん)と称す。道路に庚申の像を建て、チマタの神とするも是の故なり」

 

とある。
 当時道祖神は一般に猿田彦と習合されていた。この両者の共通点はどちらも道の神、(ちまた)の神という点だろう。また、猿田彦と同じ「猿」の縁から庚申様(「庚申」は十干十二支の「きのえさる」のこと。)とも習合されていたようだ。また、神仏習合において、庚申様は青面(しょうめん)金剛(こんごう)に結びつけられていた。
 
 道祖神は庚申様でもあり猿田彦でもある。その起源は中国の黄帝の妹、(るい)()の旅に死んだことに結びつけられていた。死んだ旅人が自らの果たせなかった旅の夢を後世の人に託すべく、旅人の守り神になったという発想は、非業の死を遂げた人が神となる御霊(ごりょう)信仰(しんこう)と相通じる。
 たとえば、中世の「八所御霊」は、黒田俊男の『日本中世の社会と宗教』(一九九〇、岩波書店)によれば、「道祖神や男女性神の信仰と習合した(つじ)(まつり)や鉾・神輿の風流で」賑わっていたという。
 黒田俊男によれば、元来御霊信仰は、権力者と民衆との間で二重の意味を持っていたという。権力者の側からすれば、こうした霊は反体制の人間の霊であり、こうした霊を成仏できぬまま放っておくと国家に害を及ぼすという理由で祭る。しかし一方、政治に不満を持つ庶民の側からすれば、御霊は英雄の霊でもある。在原業平、菅原道真、平将門などが古くから庶民に親しまれてきたことを見てもわかる。

 『奥の細道』の旅もまた、道祖神の招きによるものだった。

 

 「月日は百代(はくたい)(くわ)(かく)にして、(ゆき)かふ年も又旅人(たびびと)(なり)。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて(おい)をむかふる物は、日々(ひび)旅にして、旅を(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(かうしゃう)()(おく)(くも)の古巣をはらひて、やや年も(くれ)(はる)(たて)る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ(かみ)の物につきて心くるはせ、道祖神(だうそじん)のまねきにあひて(とる)もの手につかず、もも(ひき)(やぶれ)をつづり、笠の()(つけ)かえて、三里に(きう)すゆるより、松島の月(まづ)心にかかりて、(すめ)る方は人に譲り、杉風(さんぷう)別墅(べっしょ)に移るに、

 

 草の戸も(すみ)(かは)()ぞひなの家

 

 (おもて)八句(はっく)(いほり)の柱に懸置(かけおく)。」

 

(現代語訳:月日は永遠はくたい旅客くわかくにして、行きかう年もまた旅人たびひとなり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いを迎えるむかふる者は、日々旅にして旅を棲家する。古人も多く旅に死んだせるもんだあり

 ()もいづれの(ねん)から(より)か、片雲の風に誘われて、漂泊の思い(おも)()()()()、海浜(さすらい(さすらへ)去年(こぞ)の秋、深川(かうじゃう)ボロ屋(はをく)の蜘の古巣を払って(はらひて)やがて(やや)年も暮れ、春()なったら(てる)霞の空に白川の関()こえ()よう()と、()()分らない()(かみ)()()()()りつ(つき)いて()心をくるわせ、道祖神のまねきにあって(あひて)取るもの手につかず、もも引きの破れを直し(つづり)笠の緒()新しく(けか)して(えて)、三里()(きゅ)()()()据えて(より)、松嶋の月()とにかく(づここ)()()かかって(かかりて)住んでた(すめるか)()は人に譲り杉風(さんぷう)()別邸(べっしょ)移った(うつるに)

 

 草の戸も住み替わる時代()()ひなの家

 

 表八句を庵の柱に掛けてかけおく。

 

 

 「月日は百代(はくたい)(くわ)(かく)にして‥‥」という有名な冒頭部分のすぐあと、「古人も多く旅に死せるあり」とある。道祖神が旅に死んだ人の霊だとすれば、これは単に旅の苦しさや前途への不安を語るだけでなく、「道祖神の招き」にもつながる。
 このあとすぐ、「予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ」と続くが、これは旅に死んだ古人の霊に誘われて、と考えるとスムーズにつながる。
 そして、このあと「去年(こぞ)の秋江上(かうしゃう)()(おく)(くも)の古巣をはらひて、やや年も(くれ)、春(たて)る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ(かみ)の物につきて心くるはせ、道祖神(だうそじん)のまねきにあひて(とる)もの手につかず」と続く。

去年の八月の終わりに芭蕉が『(おい)の小文』の旅から帰って来たことを言い、それからその年の暮には、また旅に出たいと思う。
 たくさんの御霊(ごりょう)が特に誰ということもなく気にかかる状態を、「そぞろ神の物につきて心をくるはせ」と表現し、それらの根底に思いをめぐらしたとき、「道祖神の招き」となる。
 心を突き動かす理屈では説明できないような衝動を、昔でいえば「神」と呼んでいた。

 当時は造物主にして全知全能の神のような西洋的唯一神の観念はなく、神という場合は多神教の神々のことで、『易経』の「陰陽不測是を神という」つまり人知を越えた、人間の理性で説明できないものは基本的に神と考えられていて、これは今日の日本人の神概念にも残されている。

芭蕉の場合、心の中を騒がす神は言の葉の道を極めたいという理屈抜きの衝動であり、それは同時に、過去の和歌や連歌や様々な物語を生んだその土地を、実際にこの目で見てみたい、という衝動でもあった。
 ある物語が好きなら、その物語の舞台となったところを見てみたい。それは誰しもあるものではないか。
 かつてそれは「歌枕を訪ねる旅」だったが、今でいえば「聖地巡礼」と言った方がわかりやすいかもしれない。それは今も昔も、神様の導きだ。
  古人の足跡を探り、その作品の舞台を目の当たりにすることによって、古人の気持ちを知りたいと思う、その強い衝動が「そぞろ神」であり、「道祖神の招き」だった。『奥の細道』の旅は、古人の足跡を探る、聖地巡礼の旅だった。
 古人の果たせなかったものへの共鳴と継承、それはまさに、

 

 「西行宗祇の見残しは、皆俳諧の情なり。」(許六(きょりく)『旅の賦』)

 

であり、

 

 「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」(芭蕉『許六離別の(ことば)』)

 

といった芭蕉の俳諧の根底をなすものだ。
 古人の果たせなかった思いを古人になり代わって果たす。それが古人への最大の鎮魂となる。
 「古人」という言葉は単なる過去の人ではなく、偉大な先人という意味を持っている。その和歌・連歌、あるいは漢詩の先人たちは、しばしば望んだわけでもない旅に出ている。流刑や左遷によるもの、そうでなければ西行のように遁世によるものだ。
 旅というと、今日ではどうしても観光旅行のイメージが強いが、いわゆる『八代集』に出てくる()(りょ)歌は、天皇の御幸(みゆき)をのぞけばほとんどが流罪、左遷、遁世によって都を追われたものの心情を詠んだ歌で、それが羈旅の本意本(ほいほん)(じょう)だった。

 

 「旅体の句は、たとひ田舎にてするとも、心を都にして、相坂(あふさか)を越え、淀の川舟にのる心持(こころもち)、都の便(たより)求むる心など本意(ほい)とすべし、とは連の教也(おしへなり)とあり、」

 

と芭蕉の弟子の一人、()(ほう)の書いた『(さん)冊子(ぞうし)』にもあるように、旅の句を都を追われ都を恋慕う気持ちで詠むということは、連歌の時代以来の伝統だった。古くは(かき)本人(もとのひと)麿(まろ)を始めとして、在原業平(ありわらのなりひら)行平(ゆきひら)、小野小町、菅原道真(すがわらのみちざね)、西行法師、後鳥羽院、(しん)(けい)僧都(そうず)宗祇(そうぎ)法師、(そう)(ちょう)法師、さらには芭蕉が、

 

 「上に宗因(そういん)なくんば我々が俳諧、今以て貞徳(松永貞徳)の(よだれ)をねぶるべし。宗因は(この)(みち)の中興開山(なり)」(『去来抄』)

 

と敬愛してやまない談林の祖、西山宗因すらも生涯旅に暮らした(くらした)連歌師(れんがし)だった。
 中国でも、屈原を始めとして、(しゃ)(れい)(うん)、杜甫、李白、白楽天、蘇東坡(そとうば)など、旅に死んだ詩人は数限りなくいる。芭蕉にとって旅は、こうした古人への共鳴と鎮魂の旅だった。
 芭蕉はあたかも古典の本意本情を捨てて、写生を説いて、新境地を開いたかのように言われてきたが、それは事実ではない。
 写生説は言うまでもなく明治二十年代の中頃に正岡子規が説いたものであり、これは西洋画の写実主義に触発されたものだった。正岡子規は日清戦争で富国強兵の機運が高まる中で、平和を愛する日本の伝統文化を軟弱なものみなし、このようなものを庶民が愛好していたのでは日本はやがて西洋列強の植民地になってしまうという不安から、日本の文化をもっと好戦的なものに作り変えねばならないと考えていた。
 正岡子規は写生説によって日本の和歌俳諧の伝統を根底から否定し、西洋的な芸術観に基づくものに作り変えなくてはならないと考えた。これがいわゆる俳句革新・短歌革新だった。
 今日の俳句研究も基本的に俳句革新を前提とした、俳句の西洋的・近代的解釈を目指すもので、芭蕉の句もその理念に従って、読み直されなくてはならないと考えられている。良いか悪いかは別としても、それは一つの歴史だ。しかし、それとは別に、芭蕉の句が本来どういう意味を持っていたかという探求もなされなくてはならない。いわば近代的に読みなおされる以前の本来の意味もまた、探求されなくてはならない。
 本来、芭蕉は古典の本意本情を否定して写生説を説いたりすることはなかった。
 『去来抄』にも、

 

 「俳諧は新意を(もっぱら)とすといへども、物の(ほんじょう)(たが)ふべからず」

 

とあるように、むしろ古典の本意本情を重視するのが蕉門の大きな特徴だった。
 本意本情の重視にはいくつか理由がある。

一つは今日でいう「テンプレを利用する」というもので、これは余計な説明を省くことで、句を分かりやすくすることができる。

 たとえば単に「山」と言ったら、どんな山なのか人それぞれ思い浮かべるものは違う。それを逢坂山(おうさかやま)と言えば、都へ行く人、出て行く人の行きかう峠道で、古典作品の様々なイメージが浮かんでくる。季語でも同様、秋の夕暮れと言えば西行、定家、(じゃく)(れん)三夕(さんせき)の歌が作り出した一定のイメージを多くの人が思い浮かべることができる。

 ひとたびこうした本意本情を無視した句を作ると、たとえば『去来抄(きょらいしょう)』は、「晩鐘のさびしからぬ」という句を例に挙げているが、これだと読者は晩鐘は淋しいものなのに何で?ということになり、それをわからせるための説明の言葉が必要になる。

 ()()の「花にも涙をそそぎ」にしても、それだけだと何で?となるが、長い詩であれば、戦火で荒れはてた都という背景が示されることで、普段喜ぶはずの花も悲しくなるという逆説が理解できるようになる。

 五七五の短い表現では、なかなかこうした背景の説明が行き届かないため、基本的には多くの人の思い浮かべるイメージに合わせて言葉を用いないと意図が伝わらないし、あえてそのイメージを裏切るには、それ相応の理由があって、逆説であることをわからせる必要がある。

 本意本情を重視するもう一つの理由は、長い時代の変化をかいくぐってきた古典の言葉には普遍性があるということだ。

 もともと言葉というのは記号であり、音声は空気の振動にすぎないし、文字は図形にすぎない。それに意味を与えているのは人間であり、いわば、言葉の意味とはその記号にかつて人がどういう思いを込めて用いてきたかという使用履歴に他ならない。
 魯迅(ろじん)の有名な言葉をもじって言えば「もともと言葉に意味なんてない。人が喋ればそこに意味ができる」というべきものだ。
 言葉が人に伝わるのは、その言葉がかつてどのように用いられてきたかをお互いに知っているからであり、自分勝手に意味を作ろうとしても、なかなか伝わるものではない。昔の人はそのことがよくわかっていた。だから、私意を排して本意本情に従うことを良しとした。共通の認識のないところに伝達は存在しない。
 多くの人が何百年・千何百年にもわたって繰り返し語り交わすことによってコード化された言葉は、まさに我々の文化である。それは我々の「文化的遺伝子(ミーム)」でだ。その意味では、本意本情を学ぶというのは、古人の残してくれた遺伝子を引き継ぐことなのである。
 長く多くの人に繰り返し語り交わされ、多くの人の思考実験を経て検証されてきた言葉には、それなりの真実が含まれている。文学とはまさに仮説であり、それが多くの人の共感を生み、大切に語り継がれていくことで絶えず検証されていくのである。
 文学に限らず、およそ芸術というのは作者の提示する美の仮説であり、我々みんながそれぞれ検証し、多くのものはその場でたいした共感を呼ばず、あるものは一時的なブームを巻き起こしながらもやがて忘れ去られてゆくが、その中で最後まで残ったものは、無数の人々によって検証されてきた普遍的な価値を持つと見ていい。

二、草の戸も

 さて、芭蕉は旅立つ。遥かなる夢を持ちながら、満たされずに死んだ古人の霊のために、道祖神に招かれるがままに。古人の見残した景色を見、古人が詠むことのできなかった思いを代弁するために。
 行ったっきりもう帰ることもないかもしれない、その覚悟を示す意味でも、長年住み慣れた芭蕉庵も引き払うことになった。

 

 「(すめ)る方は人に譲り、杉風(さんぷう)別墅(べっしょ)に移るに、

 

 草の戸も(すみ)(かは)()ぞひなの家

 

 (おもて)八句(はっく)(いほり)の柱に懸置(かけおく)。」

 

 芭蕉庵は今でいう江東区の常盤一丁目の隅田川に面したあたりにあったという。芭蕉なき後はしばらく荒れ果てていたらしく、今となって正確な場所ははっきりしないが、芭蕉記念館が建てられているその少し南側だといわれている。
 芭蕉庵は延宝八(一六八〇)年、深川隠棲の際、鯉屋(こいや)杉風(さんぷう)によって提供されたもので、その頃はまだ新大橋(元禄六年完成)や永代(えいたい)(ばし)(元禄九年完成)がなく、深川に行くには両国橋から回らなくてはならなかった。江戸の市街地は人口の増加によって拡大を続け、両国橋を越えて広がろうとしていたが、まだ深川のあたりは田畠もあって、金持ちが別荘を立ててちょっと遊ぶにはもってこいの土地だったのだろう。
 ここに当時松尾(まつお)(とう)(せい)を名乗っていた芭蕉は、門人の李下からもらった芭蕉の苗を植え、「芭蕉庵桃青」を名乗ることとなり、「芭蕉翁」の名を定着させることとなった。
 なお、今日では「松尾芭蕉」という呼び方が一般的だが、芭蕉は本来「芭蕉庵」という住んでいる場所から来た通称であり、俳号はあくまで「桃青」だった。
 庵号がそのまま呼び名として定着した例としては、中世の連歌師の梵灯庵がいるから、前例がないわけではない。
 芭蕉とはバナナのことで、日本の寒冷な気候では実がならず、大きな葉も秋風に破れてぼろぼろになる。その哀れな姿が文人には好まれていた。花も実もなく、薄物の風に破れやすい、というのが芭蕉の心だ。
 最初の芭蕉庵は天和二(一六八二)年の暮の大火で隅田川の対岸から渡ってきた火の子に燃えてしまい、この時、芭蕉は隅田川に飛び込み、難を逃れたという。
 だから、この『奥の細道』の旅立ちのときの芭蕉庵は築6年ということになり、それほど古びた建物ではない。庭の芭蕉の木も多分それほど大きく育ってはいなかっただろう。
 なお、この芭蕉庵の庭には、魚問屋の鯉屋杉風が使っていた古い生け簀があり、それがあの蛙の飛び込んだ古池だといわれている。
 芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出たときも、『笈の小文』や『鹿島詣』の旅に出たときにも、この芭蕉庵に戻ってきた。しかし、今回『奥の細道』の旅立ちのときには、長く江戸を離れ、戻ってこないかもしれないと考えたのだろう。芭蕉庵は人に譲ることとなった。それゆえ、

 

 「(すめ)る方は人に譲り、杉風(さんぷう)別墅(べっしょ)に移るに、

 

 草の戸も(すみ)(かは)()ぞひなの家

 

 (おもて)八句(はっく)(いほり)の柱に懸置(かけおく)。」

 

ということになる。
 まさに、一所不住を誓い、道祖神に招かれるがままに芭蕉の旅は始まる。
 旅立ちの句というと『野ざらし紀行』の、

 

 野ざらしを心に風のしむ身哉   芭蕉

 

や、『笈の小文』の、

 

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉

 

のような悲痛なトーンのものがこれまでだったが、今回は余裕があるのか、住居を譲った人への挨拶で始まる。
 
 句の意味は、

 「何もない殺風景な草庵も、華やかなひな人形が飾られ、世代の交代というものを感じさせます」

といったところか。
 「代」というのは、確かに深川の辺りも少しづつ開けてきたということもあっただろう。それに加えて、老いた芭蕉と小さな少女とを対比して、「年を取ったもんだ」とあらためて感じる、そういう世代の意味を込めていたのではないかと思われる。
 当時の雛人形は、まだ段飾りではなく、人形も和紙でできた立ち雛が主流だった。今のように座り雛になり、三人官女や五人囃子が加わるのは享保以降のことだ。
 元禄よりももっと古い時代になると、「流し雛」といって、紙で簡単に作った雛人形を身代わりとして川に流し、厄除けを願う風習があった。
 元禄の頃の雛人形は、まだその流し雛の頃の面影の残る紙の立ち雛だったが、千代紙を用いた華やかで大きなものとなり、毎年繰り返し飾られるようになった。
 去来の句に、

 

 振舞や下座になおる去年(こぞ)の雛   去来

 

とあるように、何年か飾っているうちにもっと新しい立派な雛人形を買ったり貰ったりして、二対、三対と増えてゆくこともあった。そのために、新しい雛が中央にどーんと置かれ、古い雛がその手前に置かれるという光景は、当時の「あるある」だったのであろう。
 あるいは 『去来抄(きょらいしょう)』には、


 春風にこかすな雛のかごの衆

 

という伊賀の無名作者の句がある。「雛の使い」といって、雛人形を小さな蓮台のようなものに乗っけて運ぶ行事があったようだが、春風でコケるようなものだから、やはり紙製の立ち雛だろう。
 とはいえ、草の戸とはいっても江戸の豪商鯉屋杉風の立てた芭蕉庵のことだから、実際はそれほど小さく粗末なものではあるまいし、その草庵を譲り受ける家族もそれなりに豊かな人であろう。その草庵が一気に華やぐのだから当時としては最先端をゆく立派なる雛人形だったにちがいない。
 最後の「表八句を庵の柱に懸置」は今日ではわかりにくいが、「表八句」は連歌百韻の出だしの八句のことで、いわばこれから百句連ねられる連歌の序曲に当たる。この「草の戸も‥‥」の発句は、鯉屋杉風を始めとする門人たちが脇や第三を付けて、挨拶の代りとしたものだろう。残念ながらこの八句は現存しない。

 鯉屋杉風は日本橋小田原町(今でいえば三越の向かいに当る一等地)で魚問屋を営んでいた。かつては芭蕉も同じ小田原町に住んでいた縁から、杉風と芭蕉は寛文十二(一六七二)年に芭蕉が江戸に出てきた頃からのつきあいで、杉風が芭蕉の弟子であるとともに、杉風は芭蕉庵隠棲後の芭蕉の生活を支えるパトロン的存在でもあった。その杉風の別墅である(さい)()(あん)は芭蕉庵の南東、清澄(きよすみ)庭園(ていえん)の少し南の仙台堀川沿いにある。もっとも当時はまだ清澄庭園はなく、紀伊国屋文左衛門の別荘があったという。どっちにしても、十分も歩けば着くようなすぐ近くにあった。

 実際の草庵の引き渡しは二月の終わりに行われてたようで、芭蕉は一か月近く(さい)()(あん)にいたことになる。

三、千住の別れ

 芭蕉は雛祭りの少し前、二月の終り頃に深川の草庵を離れ、杉風の採茶庵にしばらく滞在したあと、旧暦の三月二十七日にいよいよみちのくに向けて旅立つことになった。
 採茶庵から隅田川はすぐ近くだ。朝未明にそこから船に乗り、千住へと向かう。
 
当時はまだ隅田川には両国橋と千住大橋くらいしかなかった。ビルもなければアサヒビールの屋上の巨大なウンコもない。せいぜい浅草の待乳山(まつちやま)くらいが「山」だった。障害物がないから、そのまま上野や谷中までもが見渡せ、西の果てには富士山も見えた。
 船にはたくさんの江戸の門人たちが同乗し、千住に着くとみんなに見送られながら、日光街道を北へと旅だっていった。

 

 「弥生(やよひ)(すゑ)七日(なぬか)、明ぼのの(そら)朧々(ろうろう)として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる物から、不二(ふじ)の峰(かすか)にみえて、上野・谷中(やなか)の花の(こずゑ)、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは(よひ)よりつどひて、舟に(のり)て送る。千じゅと(いふ)所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、(まぼろし)のちまたに離別の(なみだ)をそそぐ。

 

 (ゆく)(はる)鳥啼(とりなき)(うを)の目は(なみだ)

 

 (これ)矢立(やたて)(はじめ)として、(ゆく)(みち)なをすすまず。人々は途中に(たち)ならびて、(うしろ)かげのみゆる迄はと、見送(みおくる)なるべし。」

 

(現代語訳:三月やよひ二十すゑの七日なぬか明け方あけぼのの空ろう朦朧ろうとして、月は有明ありあけにておさ失われてまれるものゆきから富士山ふじのみかすかに見えて、上野・谷中の花のこず、またいつかはと心細

 (むつ)()良い(じき)()たち(ぎり)()昨晩(よひ)から(より)集まっ(つどひ)て、船に乗っ(のり)見送(おく)る。千住という所(にて)船を降り(あが)れば、前途三千里の思い()(ねに)()っぱい(さがり)()、幻の都会(ちまた)別れ(りべつ)の泪()溢れる(そそぐ)

 

 行く春()()()()き魚の目は泪     芭蕉

 

 これを最初やた記述じめとして行こうゆくみする歩き出せずすすまず、人々は途中まで立ち並んでびて後ろうしろ姿かげの見るまではと、見送ってるなるいたべし

 

 (すみ)田川(だがわ)といえば、その昔『伊勢物語』で在原業平が東国に流されたとき、(みやこ)(どり)(今日でいうユリカモメ)の歌を詠んだあの川だ。

 

 「なほ行き行きて、武蔵の国と下総(しもふさ)の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわびあへるに、渡守(わたしもり)、『はや舟に乗れ、日も暮れぬ』といふに、乗りて渡らむとするに、皆人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。渡守に問ひければ、『これなむ都鳥』といふを聞きて、

 

 名にし負はばいざこととはむ都鳥
 
    わが思ふ人はありやなしやと

 

とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。」

 

 この歌が(こと)(とい)(ばし)の名のもとにもなっている。もっとも当時はまだ言問橋もなかった。この下りをよく読むと、ここに鳥と魚が出てきているのがわかるであろう。
 芭蕉のこの千住での別れは、こうした昔のことを踏まえて書かれたものと思われる。もっとも、春ももう行こうとしているときに啼いていた鳥は、都鳥ではなくホトトギスだったに違いない。
 ホトトギスといえば、あの山口(やまぐち)素堂(そどう)の有名な、

 

 目には青葉山ほととぎす初がつを 素堂

 

の句も思い浮かぶ。
 この句は旅立ちの少し前に公刊された撰集『()()()』に収録されている。多分この前年の夏に詠んだもので、既に芭蕉の古池の句にも匹敵する空前のヒット作になっていただろう。その素堂もおそらく見送りの列の中にいたに違いない。
 江戸はまさに初夏の新緑の眩しい季節を迎える。そんな中で江戸を去って行き、弟子たちとも別れてゆく。その悲しみに、ホトトギスも悲しげに啼き、初鰹も涙を流しているかのような気分だったのだろう。
 ところで、この「行春や‥‥」の句はだいぶ後になってからできたようだ。本来芭蕉が旅立ちのときに詠んだ句は、

 

 鮎の子の白魚送る別れかな    芭蕉

 

だったという。
 白魚は春になると産卵のために川に登ってくる。そのため白魚は春の季語となっている。鮎の子も春に川で生まれるが、春が終ると白魚は海へ帰り、鮎は川を登ってゆく。
 芭蕉はたくさんの門人たちを育て、海へと送り出すが、自分はいつまでも川に残って、既に時代から取り残されている。そんな気持ちを述べたものだろう。
 江戸という大都会で花々しく活躍する門人たちに対し、それに馴染みきれずに江戸を離れる、それは謙遜というよりは、ある程度芭蕉の本心だったのかもしれない。
 しかし、『奥の細道』ではそんな個人的な感慨の句よりは、もっと一般読者に向けて作られた「(ゆく)(はる)」の句のほうを採ったのだろう。
 なお、魚と鳥の組み合わせについては、『方丈記(ほうじょうき)』の、

 

 「魚は水に飽かず。いを(魚)にあらざれば、その心をしらず。とりは林をねがふ。鳥にあらざれば、その心をしらず。閑居の気味も又おなじ。住まずして誰かさとらむ」

 

の影響を指摘する説もある。
 魚と鳥の組み合わせ自体は古く、『詩経』の「鶴鳴」という詩にこうある。

 

 鶴鳴于九皐
 聲聞于野 魚潜在淵
 或在于渚 樂彼之園

 

 鶴は九重に重なる沢で鳴く。
 声は野に聞こえ、魚は淵に潜む。
 或る魚は渚にもいて、かの楽園に憩う。

 

 鶴と魚は隠士の象徴で、優れた才能のある者は山奥に潜んでいてもその名声は津々浦々に知れ渡り、深い淵にいる魚のように深い所にいることもできれば浅い渚に来ることもある。
 『方丈記』もこの詩をふまえたものだろう。芭蕉は元禄四年冬、『奥の細道』への旅立ちから二年半ぶりに江戸に戻ったとき、素堂の家で、

 

 魚鳥の心はしらず年わすれ    芭蕉

 

の句を詠んでいる。これは「ゆく春や‥‥」の句と対をなすものと見てもいいかもしれない。
 あの日鳥や魚が涙を流したことはもう忘れた。あの時は生きて江戸に帰れるかと思ったけど、こうして帰って来た今となってはもう過去のことだ、という意味だろう。

四、旅立ちの日付

 昭和十八年に()()の『奥の細道随行(ずいこう)日記(にっき)』(以下『随行日記』と略す)が発見されてからというものの、芭蕉の旅立ちの日付(ひづけ)が急に問題にされるようになった。
 というのも、曾良の日記には、

 

 巳三月廿日 同出 深川出船
  巳の下尅、千住ニ揚ル
 廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。

 

と書いてあったからだ。
 これを単純に曾良の廿(にじゅう)七日(しちにち)の書き間違いだとする人も多い。
 しかし、これでも疑問は残る。一つは途中で訂正する機会が何度もあったのではないかということ。しかし、曾良はこのミスに最後まで気がつかなかったのかもしれないし、『奥の細道』に旅立ちの日付が正確に書かれているから、わざわざ直すまでもないと思ったのかもしれない。
 もう一つは同じ日なのになぜ行を変えて「廿七日夜」としたかだ。
 さらに、もっと問題なのは、「巳の下尅(げこく)」つまり午前十一時ごろ千住に着いたのに、それから更に九里もの道を進んだことだ。馬に乗ったにせよ、街道の馬は早馬ではなく馬子(まご)が曳いて歩く馬だから、早さは歩くのと変らない。休憩なしでひたすら旅したにせよ春日部(かすかべ)に着く頃には真っ暗になっていただろう。しかも、『奥の細道』では明け方に旅立ったのだから、千住まで時間がかかりすぎている。
 もし千住に着いたのが十一時頃で、それから一、二時間くらい門人たちと名残を惜しみながら旅立ち、徒歩で『奥の細道』の記述のとおり草加まで行ったのなら、まだ明るいうちにゆっくり宿を探し、落ち着くことができただろう。しかし、そうすると次の日の行程が十四里くらいになってしまう。
 それなら、曾良が書き誤らなかったとしたらどうなるか。たとえば、曾良斥候(せっこう)説というのがある。曾良があらかじめ七日早く旅立ち、街道筋の手配をし、芭蕉と途中で落ち合ったという説だ。
 しかし、それならなぜ曾良は二十一日から二十六日までの行程を書かなかったのか。もう一つはお籠り説というのがある。つまり芭蕉と曾良は二十日に深川を出て、千住に一週間滞在していたという説だ。しかし、これも『奥の細道』のテキストと随分ずれてしまう。
 『奥の細道』の旅立ちは当初三月の初めを予定していたようだが、白川の方からまだ寒いので遅らすように便りがあった。その後三月二十三日の芭蕉の落梧(らくご)に当てた書簡では、二十六日に旅立つことに決定したと書いている。
 そうなると、曾良の『随行日記』の三月廿日という記述は二十七日の間違いというよりは二十六日の間違いだったのかもしれない。そう考えた方がいろいろな点でつじつまが合う。
 二十七日の間違いだとすると、千住到達の時刻が遅すぎ、春日部まで行くには無理がある。しかも、日付の記述が重複するという問題もある。かといって、記述通り二十日だとすると、六日間の日記の空白ができてしまう。これも不自然だ。二十六日の間違いであればこうした問題はすべて解決する。
 そして、曾良がこの間違いを書き直さなかったのは、二十七日の前日の記述だから、書き直さなくても自分ではすぐに二十六日だとわかったからだ。
 事情がどのようなものだったのかは、あとは推測するしかない。たとえば「門人引き留め説」というのはどうだろうか。
 二十六日、芭蕉と曾良は日も高く登ってから、予定通り深川採茶庵を出、船で千住まで行った。千住に着いたのは十一時過ぎだった。
 このとき曾良は二十六日と書くべきところを、誤って二十日として「巳三月廿日 同出 深川出船、巳の下尅、千住ニ揚ル」と書いた。そこで門人たちに見送られて、旅立つ予定だった。
 しかし、予想以上に多くの門人が駆けつけ、名残を惜しんでいるうちに、もう江戸には戻ってこないかもしれない、長の別れになるかもしれない、ということで、せめて今夜一晩だけでもじっくり語り明かそうかということになり、予定を変更してみんなで採茶庵に戻った。
 そして、「むつましきかぎりは宵よりつどひて、船に乗て送る。」と『奥の細道』に書いてあるとおりの状況となり、翌二十七日朝未明、あらためて旅立った。一日の遅れを取り戻すべく早朝の出発となり、その日は一気に春日部まで行った。これなど、いかにもありそうな話ではないか。
 まあ、こうした問題は結論を出すには手がかりが絶対的に少なすぎる。あくまで遊びとして楽しむべき議論だろう。

第二章、北へ

一、草加

 「ことし元禄(げんろく)(ふた)とせにや、奥羽(おうう)長途(ちゃうど)行脚(あんぎゃ)(ただ)かりそめに(おも)ひたちて、呉天(ごてん)白髪(はくはつ)(うらみ)(ぬといへ(ども)(みみ)にふれていまだめに()ぬさかひ、(もし)(いき)(かえ)らばと(さだめ)なき(たのみ)をかけ、(その)(にち)(やうやう)(さう)()(いふ)宿(しゅく)にたどり(つき)にけり。(そう)(こつ)(かた)にかかれる(もの)(まづ)くるしむ。(ただ)()すがらにと出立(いでたち)(はべる)を、帋子一(かみこいち)()(よる)防ぎ(ふせぎ)、ゆかた・雨具(あめぐ)(すみ)筆のたぐひ、あるはさりがたき(はなむけなどしたるは、さすが打捨うちすてがたく路次ろしわづらひとなれるこそわりなけれ。

 

(現代語訳:ことし元禄二年ふたとせ東北あうちゃ長い出るあんぎゃことただなくめに思い立ってちてごて積る呉天はくはつようらみ白髪といえども、耳に触れていまだ目に見ぬさか生きて帰れたららばと、駄目さだかもしれないなき望みをたのみのかけすゑながらをかけ、その日やう草加という宿場しゅくにたどり着いたつきにけり痩せたそうこつの肩に背負ったかかれ荷物るもまず苦しむ。

 ただ()一つ(すが)(らに)旅立とう(いでた)()した(はべ)けど(るを)紙子一枚(かみこいちえ)は夜のため(ふせ)()、ゆかた・雨具・墨筆のたぐい、断れなかった(あるはさりがたき)(はなむけ)()貰った(どし)もの(たる)は、さすがに捨て(うち)()わけ()()()いかず(くて)旅路(ろし)(わづらひ)なる(なれ)()()困った(そわり)もの(なけ)()。。

 

 「(さう)()」というのは今日の草加のことだ。当時は漢字の表記について音声を表わすことに重点が置かれ、同音であれば異なる字を使っていてもそれほど頓着しなかった。
 しかし、早朝まだ薄暗い頃に深川を発ったにしては千住から二里しか進んでいない。しかも、曾良の『随行(ずいこう)日記(にっき)』にはこの日は春日部に泊まったと書いてある。そうするとこの段は虚構なのだろうか。
 しかし、よく読めば「(さう)()(いふ)宿(しゅく)にたどり(つき)にけり」とはあるが、それはあくまで草加という宿場に来たというだけで、そこに泊まったとは書いていない。しかも、同行者の存在についても、ここまでの交通手段についても実は何も書いていない。ただ、所持アイテムだけが列挙されている。
 「帋子一(かみこいち)()(よる)防ぎ(ふせぎ)、ゆかた・雨具(あめぐ)(すみ)(ふで)のたぐひ、あるはさりがたき(はなむけ)など」は手放せない。本当は「只身すがらに」、つまり乞食のように身一つで何も持たずに旅立ちたかったという。
 この曖昧さこそ、芭蕉のしたたかな計算があったのではないか。
 理想と現実のギャップはいつの世でもあるもので、芭蕉の旅にしても理想と現実は随分違っていたようだ。
 ()(りょ)の歌の本意とされていたのは、都を追われ、乞食に身を落とした旅人のイメージだった。東国に流された在原業平、この世の無常を悟り旅に出た西行法師、都を離れても都が忘れられず、恋しくて泪を流す、そんな世界だ。
 実際は身分の高い人が流された時には、従者も引き連れ馬に乗っての旅だっただろう。しかし、芭蕉は貴族ではない、百姓の生まれで、江戸に出てきて町人となったただの人だ。俳諧師というと町人としても下の方で、すぐ下を見れば非人身分の様々な芸能者(歌舞伎役者もそうだった)がいた。そんな人が打ち破れて旅に出るとなれば、従者を連れ、馬に乗るというのは似合わない。身一つにぼろを着た乞食姿で、一人とぼとぼと歩く旅人でなければ、雰囲気が出ない。
 芭蕉はそれまでも意図的にこういうイメージを作ろうとしていた。
 たとえば『野ざらし紀行』では、

 

 狂句木枯(きょうくこがらし)()(ちく)(さい)()たる(かな)  芭蕉

 

という句を詠み、自分を『仮名(かな)草子(ぞうし)』の竹斎のようないかがわしい偽医者になぞらえていた。
 また、『笈の小文』の冒頭部分にも、

 

 百骸九竅ひゃくがいきゅうきゅうなかもの有りあり。かりに名付てなづけてふう羅坊らぼうといふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」

 

とある。これだと、いかにもみすぼらしい乞食姿の旅人がイメージされる。
 しかし、実際に現実を考えれば、本当にそんな旅をするわけにはいかない。
 芭蕉は世間一般では忍者説が出るくらい健脚のイメージがあるが、実際はどうだっただろうか。
 芭蕉には持病があった。延宝九年七月二十五日付けの木因宛の手紙に、すでに「拙者夜前は大に持病(じびょう)指発(さしおこ()り、昨昼之気のつかれ、夜中ふせり申さず候う間」とあり、この頃すでに「持病」だったのだから、この病はこの時が初めてではない。つまり、芭蕉は延宝期、働き盛りのときから既にしばしば病に苦しめられていたのだ。
 そして、()(りつ)の語るところによると、貞享期に初めて会った芭蕉は四十一~二歳なのに「六十有余の老人」に見えたという。
 そんな芭蕉であれば、一人徒歩の旅は自殺行為に等しい。芭蕉は決してドンキホーテではない。ちゃんと現実をよく心得ていた。

 例えば元禄二年秋の大垣での俳諧では、

 

   たふとさは熊野参りの咄して

 薬手づから人にほどこす     路通(ろつう)

 

という句に、

 

   薬手づから人にほどこす

 田を買ふて侘しうもなき桑門(よすてびと)   芭蕉

 

と、薬を人に施すような立派なことをするには、寺領を持つなど経済的基盤が大事なのを路通に諭してるかのようだ。

 『奥の細道』の虚実という点では、この草加の(くだり)は芭蕉の演出の一つの典型だろう。
 書かれていることにおそらく嘘はない。しかし、本来いるはずの同行者である曾良については意図的に省いている。どのような交通手段で旅したかも書かれていない。曾良の『随行日記』発見以来、芭蕉の最初の宿泊地が草加ではなく春日部だということがしばしば指摘されてきたが、よくよく本文を見ると、どこにも草加に泊ったとは書いていない。
 嘘はついていないが、読者にはあたかも老骨に鞭打って一人徒歩で旅をしているかのような錯覚を与える。しかも、この場面を最初に持って来ることで、その後の旅がすべてこのような苦しいものだったという印象を与える。それは計算されたものだ。実際は大きな街道で馬に乗れるところは馬を用いて、悠々と旅をしていたに違いない。

 みちのくに入ると馬に乗れずに難儀したようだが、船に乗れるところは船に乗っている。
 芭蕉忍者説というのも、ある意味でこうした芭蕉のレトリックに騙されたところから生じたものだ。老いたよろよろとした足取りで歩いたにしては、『奥の細道』の旅の日程は余りにもハイペースすぎる。そこで、みすぼらしい老いた乞食坊主は仮の姿で、実は忍者だったという説が生まれる。そう言われると、芭蕉は伊賀の出身で、忍者の本場だ。
 書いてないものを見せる宝井()(かく)はこれを「幻術」と呼んだ。芭蕉の文章は至るところ幻術に満ちあふれている。芭蕉の書くものは、しばしばテキストを離れ、書いていないことまで想像させてしまうように作られている。
 ここで、芭蕉の文が虚構だらけだと疑い出すと、想像の翼は無制限に飛翔を始めてしまう。だから、芭蕉の幻術を破るには、むしろ芭蕉の書いていることを一度そのまま信じてみることだ。そして、同時代の他の文献(たとえば曾良の『随行日記』など)と照らし合わせ、どうしても解消できない矛盾については、芭蕉の記憶違いか、あるいは意図的な変更か、と考えればいい。最初から全部疑ってしまうと、結局芭蕉は旅になんか出てなかったのではないかということになってしまう。

 意図的な変更の場合もそんなに難しく考えることでもなく、『笈の小文』に、

 

 「されども其所々の風景心に残り、(さん)(くわん)野亭(やてい)のくるしきも(うれひ)も、(かつ)ははなしの種となり

 

とあるように、事実そのままを書くというのではなく、あくまでも種(ネタ)として話を面白くしよういう意識によるものではないかと思う。ちょっと話を盛ったなくらいに考えればいい。

二、室の八島

 「(むろ)八嶋(やしま)(けい)す。同行(どうぎょう)曾良が曰く、『(この)(かみ)()(はな)さくや(ひめ)(かみ)(まうし)()()(いっ)(たい)(なり)無戸室(うつむろ)(いり)(やき)(たま)ふちかひのみ中に、火々(ほほ)()()のみこと生れ給ひしより室の八嶋と(まうす)。又煙を読習(よみならは)(はべる)もこの(いはれ)也。』(はた)このしろといふ魚を禁ず。縁起(えんぎ)(むね)()(つたう)(こと)(はべり)し。」

 

(現代語訳:室の八嶋に参拝けいする

 一緒(どう)(ぎゃ)いる()曾良が言う(いは)()

 「この神はコノハナサクヤヒメの神といって(まうして)富士()()一体()()()いう()無戸室(うつむろ)()()実子(やき)()証明(まふ)()ため(かひ)()()放ち(なかに)、ホホデミノミコト()生まれた(まれたま)こと()()より室の八嶋という(まうす)。また煙を読()習わし()ある()()もこのため(いは)らしい(れなり)。」

 またはた、コノシロといふ魚を禁ず。そのえんぎ理由のむねよに諸説つたふあることもはべいうりし

 

 草加ではあたかも一人旅であるかのような印象を与えたが、ここで初めて()()という同行者がいたことが明らかにされる。
 いくら江戸時代の日本の治安が良かったにしても、旅先ではいつ何が起こるかわからない。特に病気の心配というのは一番大きい。当時は、一人旅は避けるというのが常識だった。持病を抱え、いつ悪化するかわからない芭蕉なら。なおさらしっかりした同行者が必要だ。芭蕉の同行者、曾良もさっそく博識を披露する。
 室の八島は古来より歌枕として名高い。

 

 いかでかは思ひありともしらすべき
    室の八島のけぶりならでは
              藤原(ふじわらの)実方(さねかた)()(そん)

 

を始めとして、

 

 煙かと室の八島を見しほどに
    やがても空の霞みぬるかな
                源俊頼(みなもとのとしより)朝臣

 五月雨に室の八島を見渡せば
    煙は波の上よりぞたつ

                源行頼(みなもとのゆきより)朝臣

 

などの古歌がある。
 室の八島は、まずはコノハナサクヤヒメを祀った神社であり、大神(おおみわ)神社がそれだとされている。
 このあたりはかつて低湿地帯で、大きな池やそこに浮かぶ島が独特な景観を織り成していたのかもしれない。そこでは温泉が湧き出ていたのか、それとも温度差のある水が流れ込んでいたのか、とにかく八つの島がいつも煙で包まれていたため、この名があるという。ところが奇妙なことに、曾良も芭蕉も煙はおろか池や島のことについても何一つ触れてはいない。
 おそらく芭蕉の時代には川の流れが変わり、それに伴い地形も変化して、集落の位置なども昔と違ってしまったため、本来の室の八島は跡形もなく、それこそ池も煙もなく、あたりは森になっていたのだろう。
 ただ、大神神社だけは徳川家光の命により、立派な社殿へと再興されていたので、神道家の曾良はさぞかし感動したことであろう。だが、神道よりはむしろ仏教の芭蕉は退屈して、ただ曾良に言われたままのことを書き記したという感じだ。
 今では大神神社の境内に、小さな池と八つの小さな島(それぞれに小さな祠がある)があり、橋が架けられているのを見ることができる。これは大正十五年に作られた新しいもので、むしろミニチュアで再現されたといったところだろう。

 なお、この室の八島では、『奥の細道』には記されていないが、曾良の『随行日記』とともに発見された『俳諧書留』には芭蕉の五句の発句が見られる。

 

 糸遊(いという)に結びつきたる煙哉    芭蕉
 あなたふと()下暗(したやみ)も日の光  同
 入りかかる日も糸遊の名残(なごり)(かな)  同
 鐘つかぬ里は何をか春の暮   同
 入逢(いりあい)の鐘もきこえず春の暮   同

 

 最初の句は「糸遊」の情は室の八島の煙の情に通じる、というものだ。昔は春になると焼畑農業時代の名残で野焼きが至るところで行われていたのだろう。焼けた草木は灰になり畑の肥料になる。野焼きをすれば、そのめらめら燃える炎で陽炎つまり糸遊が生じる。陽炎や糸遊が春の季題となったのは、そうした背景があったからだろう。
 今日では陽炎というと夏の焼けつくアスファルトの道を連想してしまうが、古来春に陽炎を詠むというのは、野焼の煙に結びついていたからだろう。
 煙は哀傷歌などでは火葬の煙とも結びつく。後鳥羽院の、

 

 思ひ出づる折り焚く柴の夕煙
 
    むせぶもうれし忘れがたみに

 

の歌はよく知られている。それは死者の天に登ってゆく魂を表わすものだ。
 
 陽炎もまた、あるようでないようなその存在が、めらめら燃える魂の恨みの声のようでもあり、やはり死者の魂を連想させる。
 
 藤原定家はあるとき歌合わせで「野原柳」という題が出たとき、

 

 道の辺の野原の柳したもえて
    あはれ嘆きの煙くらべや

 

という歌を詠み、後鳥羽院の怒りをかい、一年間の謹慎を命ぜられたという話がある。
 ところが、この一年の間に承久の変が起こり、後鳥羽院らは隠岐の島に配流され、謹慎期間中で承久の変に巻き込まれなかった定家は、その後鎌倉幕府の後押しで出世してゆくことになる。この歌はおそらく既に挙兵の準備を進めていた後鳥羽院への暗号だったのだろう。
 野原はしばしば戦場となる。そこで死者の霊魂を暗示する煙がいくつも立って「嘆きくらべ」となれば、あたかも敗戦を予言しているかのように聞こえる。したたかな定家のことだから、戦争に荷担して出世の道を絶たれたくなかったため、わざと後鳥羽院の怒りを買うような歌を詠んだのではなかったか。
 二句目の「あなたふと」の句は日光の句で、おそらく曾良がこれを書き留めたのは日光に着いてからで、室の八島の句と日光の句とこのあとの鹿沼で詠んだ句が順不同になってしまったのだろう。

 三句目は夕日を陽炎に例えたものだ。春のうち霞む夕日の光はいかにもおぼろげで、糸遊の名残のようだ、という意味だ。芭蕉が室の八島を訪れたのは昼頃なので、これは夕暮れに鹿沼宿に着いた時のものであろう。
 四句目、五句目は同じ趣向で、五句目の方は四句目の改作と思われる。
 鹿沼の宿に寺がなかったわけではないが、余所で聞かれるような鐘楼がなかったのだろう。鹿沼市のホームページによると、現在の鹿沼市には医王寺半鐘と円徳寺(廃寺)半鐘が残されているが、いずれも芭蕉の時代より後の十八世紀のものだという。

 日が暮れても鐘の音が聞こえてこない。鐘の音も淋しげだが、その鐘の音すらないのはもっと淋しい。「春の暮」は「春の夕暮れ」の意味と「暮れの春」つまり「暮春」の意味とを掛けている。
 
 三月最後の日、まさに春の最後の夕暮れれを鐘の音も聞かずに終らせるのは淋しい限りだったのだろう。

三、仏五左衛門

 「(みそ)()日光山(にっこうさん)(ふもと)泊る(とまる)。あるじの(いひ)けるやう、『我名(わがな)仏五(ほとけご)()衛門(ゑもん)(いふ)(よろづ)正直((むね)とする(ゆゑ)に、人かくは(まうし)(はべる)まま、一夜(いちや)(くさ)(まくら)(うち)(とけ)て休み給へ』と(いふ)。いかなる仏の濁世(ぢょくせ)塵土(ぢんど)示現(じげん)して、かかる桑門(さうもん)乞食(こつじき)順礼(じゅんれい)ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとどめてみるに、(ただ)無智無分別にして正直(しょうじき)偏固(へんこ)の者也。剛毅(がうき)木訥(ぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気稟(きひん)の清尤専(もっともたふと)ぶべし。」

 

(現代語訳:三十日みそか、日光山の麓に泊る。宿ある主人のいひ言うにはやう

 「(わが)(なを)仏五(ほとけご)()衛門(ゑもん)申します(いふ)万事(よろづ)正直を旨とする故に、人はそう(かく)おっしゃる(まうし)だけですが(はべるまま)この(いち)()御宿泊(くさのまくらも)どうぞ(うちと)()()お過ごし(やすみ)ください(たまへ)

()こと()

 まあなるほと濁ったぢょくせ世界ぢんど現れてじげんしてこんなかかる出家さうもんの乞食順礼みたごとき人を救ってたすけくれるたまふんだにやと、あるじのするなすこころを付けてとど見てめてみるみるそんなむちむ良くふんなさそうべつにし馬鹿正直正直へんこだけようよくがうあるきぼ純粋くと素朴いいじんにちかたぐ天性きひん潔癖させいしつ立派っともたふもんとぶべし

 

 三十日とあるのは記憶違いであろう。この年の三月は小の月で二十九日で終わり、曾良の『随行日記』には、一日に日光を参拝して、その夜仏五左衛門の宿に宿泊することになる。
 
 昭和十三(一九三八)年に曾良の『随行日記』と『俳諧書留』が発見されて以来、この新発見の資料と『奥の細道』の記述をつき比べ、その相違点を明らかにする研究が盛んに行われてきた。
 
 ただ、相違点が少なからずあるからといって、それをすべて芭蕉の創作と決めつけてしまうのは行き過ぎであろう。芭蕉だって人間だから、記憶違いはある。我々だって三年前の旅行のことを自分の記憶だけをたよりに書けと言われれば、いったいどれだけ正確に書けるだろうか。この場合も、何も『奥の細道』が虚構だとしなくても、単なる記憶違いとして十分説明できる。
 
 『随行日記』と『奥の細道』との食い違いは、むしろ芭蕉が曾良の日記を読んでなかったということを証明すると考えた方がいい。

  仏教は輪廻(りんね)断って解脱(げだつ)を果たすことを目標にし、ブッダー、ダルマー、サンガーの三宝を崇拝する宗教で、日本では仏法僧(ぶっぽうそう)」と訳されている。
 
 仏様とその仏様の教え、つまり教義を信仰するというのはわかりやすい。それに加えて修行僧も同様に崇拝するというのは、仏教の大きな特徴だろう。
 
 特に、みすぼらしい姿をした乞食坊主を崇拝するというのは、他にあまりないのではないか。これは乞食坊主がその修行の果てに解脱を果たし、極楽往生できたなら、それを助けた人も一緒に成仏できるという発想によるものだ。
 
 仏教は煩悩を断つために、出家し、世俗との関係を断つだけでなく、労働なども煩悩の一つとして禁じている。そのために生活の手段がない。だから、僧の生活を誰かが助けなくてはならない。そこから乞食僧に施しをするのも仏教の重要な一要素となっている。

 もし、僧が単に自分だけ極楽往生できればいいということで乞食になったというなら、世間からすれば勝手にやってくれということになる。こうした考え方は近代的なものだ。

 かつての仏教は、人口の過剰から来る家督争いを緩和する役割を持っていた。技術革新が極めて緩慢なペースでしか起こらなかった前近代の社会では、農地を開墾すると言ってもその時代固有の技術的限界があった。そのため、農地を相続できる者はいいが、それ以上に子供がいても、農地を受け継ぐことができず、かといって都市が未発達な段階では他に仕事があるわけでもない。そうした人たちの受け皿になるのがお寺だった。

 言ってみれば、僧を崇拝するというのはそうした余剰人口となった人たちにも慈悲の心を持ち、最低限の生活を保障を求めたと言ってもいい。それは今日の言葉でいう福祉だった。多分西洋の中世の修道院にも似たような役割があったのだろう。

  どんな生物でも生きる限り生存競争を否定することはできない。ただ、競争を緩和することはできる。無用な争いを避けることは自分自身の生存のためでもある。争わずに生きられれば、それは理想である。しかし、有限な地球に無限の生命の繁栄は不可能。そうなれば、目指すのは争いを最低限で済ますことに他ならない。

 仏教の役割は生存競争に積極的に参加せずに、他人の施しによって最低限の禁欲的な生活を送ることで、いわば生存競争から降りることで無用な争いを避け、衆生を救済するというものだった。

 ただ、現実には難しい。そうした僧たちが生きる権利を主張して、施しを強要するようになれば、当然ながら争いに発展する。生産手段を持たない中世の肥大化した顕密仏教は、やがて生産手段を持つ領主と領民によって成り立つ武家社会と真っ向から対立することになる。

 結果は多くの虐殺を経て武家側が勝利した。ただその一方で商工業の発達が家督を継げない者たちの新たな受け皿となった。
 
 芭蕉の俳諧もまた、こうした新たな都市文化によって支えられてたと言っていいだろう。その意味では、乞食行脚とは言っても名ばかりで、托鉢して廻ってるわけではない。

 「いかなる仏の濁世(ぢょくせ)塵土(ぢんど)示現(じげん)して、かかる桑門(さうもん)乞食(こつじき)順礼(じゅんれい)ごときの人をたすけ給ふにや」というのは一種の自嘲で、江戸時代には仏の意味も大きく変わってしまっていた。

 仏五(ほとけご)()衛門(ゑもん)とは言ってももはや衆生を救うわけではない。ただ、朴訥(ぼくとつ)な人柄で世俗の狡猾さと無縁な生き方をする普通に「いい人」の意味で、「仏」という言葉が用いられるようになった。

  こういう人が至る所で普通に生きられるようになったのも、ひとえに江戸時代の天下泰平のおかげと言えよう。

四、あらとうと

 「卯月朔(うづきつい)(たち)御山(おやま)(けい)(はい)す。往昔(そのかみ)(この)御山(おやま)(ふた)荒山(らさん)(かき)しを、空海大師開基の時日光と(あらため)給ふ。千歳(せんさい)未来をさとり給ふにや、今(この)御光(みひかり)一天(いってん)にかがやきて、恩沢八(おんたくはっ)(くわう)にあふれ、四民安堵(あんど)栖穏(すみかおだやか)なり。(なほ)(はばかり)多くて(おおくて)(ふで)をさし(おき)ぬ。

 

 あらたうと青葉若葉の日の光」

 

(現代語訳:四月うづき一日ついたち東照宮おやま参拝けいはいする

 その(かみ)この(おやま)(ふた)荒山(らさん)呼んでた(かき)()を、空海大師開基の時日光と改め()()いう()

 千年先(せんざいみ)まで(らいを)見据えて(さとりた)いた(まふ)()()、今その(この)(みひかり)(いっ)全体(てん)に輝()て、この(おん)(たく)全体(はっくわう)()豊か()()して()()()()安心(あん)して(どの)暮らせる(すみか)世の中(おだや)()なった(なり)。なお、畏れ多い(はばかり)こと(おほ)なので(くて)これ()以上()()止めて(さしお)おく(きぬ)

 

 あああら尊いたふと青葉若葉の日の光

 

 四月一日、それはかつてエープリルフールではなく、夏の始まる日だった。昔の春夏秋冬は今日のようにいつが境目かよくわからないような曖昧(あいまい)なものではなく、月によってはっきり区切られていた。一、二、三は春、そして四月になれば何はともあれ夏になるのだった。その夏の初めの目出度い日に、芭蕉は日光を訪れる。
 日光は最初、二荒山(にこうさん・ふたらさん)と呼ばれ、この名前は今日も(ふた)(らさん)神社の名前で残っている。もともとは修験道の山で、(しょう)(どう)上人(しょうにん)によって開かれたといわれている。二荒山の名は「補陀落(ふだらく)山」から来たもので、海上の島を意味する梵語の「ポータラカ」から来ている。
 二荒山は()(こう)とも読む所から、弘法大師(空海)によって「日光」の字が当てられ、名前が改められたという伝承があり、そこから芭蕉は弘法大師が日光山を開いたと勘違いしたのだろう。その日光は江戸時代、天台宗の僧天海によって東照宮、徳川家康を祭る神社として生まれ変わった。
 徳川家康というと、近代の西洋流の進歩史観にかぶれた人にはすこぶる評判が悪かった。家康の鎖国政策によって日本は近代化に出遅れた、というのだ。

 ただ、昭和の終わり頃から日本の中世や江戸時代を再評価する機運が高まり、江戸学も盛んになった。歴史の評価も今やアカデミズムの学者よりも無数にいる歴史オタクの力の方が強くなったのかもしれない。

 近代の進歩史観は今や大きな反省に立たされ、徳川の平和な時代に対する評価も向上している。

実際、江戸時代の俳諧を見ても、徳川家が天下を平定し、平和な時代を築いたことに賛美の声が多く見られる。

 

 東より世はおさまるき春日哉  梅盛

 

という貞門の発句にも、その平和を喜ぶ気持ちがあふれている。
 もっとも、芭蕉のこの、

 

 あらたうと青葉若葉の日の光  芭蕉

 

の句は完全に無条件な無条件な徳川賛美だったというわけでもないだろう。
 確かに徳川幕府は東アジアに平和をもたらした。しかし、一方では身分制度を固定し、諸国を自由に往来していた芸能者を卑賤視し、士農工商のさらに下の非人に準じる身分のもとに定住化政策を押し進めた。
 そもそも芭蕉が俳諧に魅せられたのは、まだ伊賀にいた頃蝉吟のもとで身分を越えて談笑に耽る、その空間に魅せられたからではなかったか。松尾の氏は残ってたものの、「無足人(むそくにん)」として帯刀を許されていたのは遠い先祖のこと。芭蕉は貧しい水飲み百姓の子として生まれ、年端もいかぬうちに伊賀藤堂家へ奉公に出された。

しかし、俳諧の才能があったおかげで藤堂藩の嗣子(しし)だった蝉吟(せんぎん)のもとに呼ばれ、そこで藩に出入りする商人たちも交えて俳諧での交流を重ねてきた。しばし、身分の違いを忘れ、俳諧という一つの目標に心を一つにできるそんな瞬間、それこそ終生芭蕉が俳諧に求めていたものではなかったか。
 
 芭蕉が点取り俳諧を否定し、興行中心の俳諧にこだわり、新たな興行の場を求めて旅を続けたのも、顔の見えない点取り俳諧ではなく、あくまでお互いの顔の見える所で俳諧をしたかったからではなかったか。
 そこには近代とは違う身分社会の深い事情があったはずだ。桜の木の下で貴賎(きせん)群衆(くんじゅ)分け隔てなく集まり、それこそ汁も(なます)もみんな花になるような、景清もただの(しち)兵衛(びょうえ)に戻るような、そんな空間を夢見ていたのではなかったか。
 日光の句の原案である、

 

あなたふと()下暗(したやみ)も日の光   芭蕉

 

の句は、その意味でも芭蕉の本音だったのだろう。
 徳川東照宮の日の光は木の上の方だけを照らすのではなく、木下(このした)(やみ)までも、卑賤なものに至るまでも明るく照らして欲しい。そして、この気持ちは改作したあとも言外に込められていたのではなかったか。
 日光の山々は初夏の強い日差しを浴びて表面は輝いている。しかし、その一方でわさわさと茂る若葉の木の下に深い闇を生み出す。しかし、それでは公に発表する文章としては問題が生じる可能性がある。結局「(なほ)(はばかり)多くて筆をさし(おき)ぬ」とするしかなかった。
 「若葉」は今日では木々の豊かな生命力の象徴で、ポジティヴに受け止められている。しかし、昔からそうだったのだろうか。むしろ古い時代になればなるほど、春秋の美に対し、夏は「荒れ果てた」という意味を持っていたのではなかったのか。

 額田王(ぬかだのおほきみ)の歌に、

 

 冬ごもり春さり来れば
 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ
 さかざりし花もさけれど
 山を茂み入りても取らず
 草深み取りても見ず‥‥

 

とあるように、春の珍しい花や鳥も、夏の草木の繁りの中に埋没し、まさに「蓬生(よもぎう)」の荒れ果てた風景に変えてゆく。
 芭蕉にも「夏草や(つわもの)どもの夢の跡」の句があるように、夏の草木の茂りは、むしろ否定的なものだった。
 中世の頓阿(とんな)法師の歌にも、

 

 言の葉の栄ゆる御代を夏草の

    深くも行かで尋ねてもみん

 

とある。それを考えるなら、「青葉若葉の日の光」も無条件な徳川賛美ではない。「あなたうと」を「あらたうと」に改作したのは(ふた)()が尊いという意味か。

五、曾良登場

 「黒髪山は霞かかりて、雪いまだ白し。

 

  剃捨(そりすて)て黒髪山に(ころも)(がへ)   曾良

 

  曾良は河合(かわひ)(うぢ)にして、惣五郎と云へり。芭蕉下葉(したば)に軒をならべて、予薪水(しんすい)の労をたすく。このたび松しま・象潟(きさかた)(ながめ)共にせん事を(よろこ)び、(かつ)()(りょ)難をいたはらんと、(たび)(だつ)(あかつき)髪を(そり)墨染(すみぞめ)にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす(よっ)て墨髪山の(あり)。衣更の二字力ありてきこゆ。」

 

(現代語訳:黒髪山は霞かかってかりて、雪未だしろ

 

 剃り捨てて黒髪山に衣替え 曾良

 

 曾良は河合(うぢ)()()()惣五郎という(いへり)

 芭蕉(はせ)()()()()()に軒を並べて、炊飯()など()(しん)仕事(すゐ)()して(労を)くれて(たす)いる()。このたび松島・象潟()一緒(ながめ)(とも)見れる(にせん)ことを喜び、加えて(かつは)旅行()(りょ)()()仕事()引き受けて(いたはらんと)、旅立つ直前(あかつ)()髪を剃()て墨染()(さま)着て(かえ)、惣五を法名(あら)っぽく(ためて)宗悟()する()

 そのよっため墨髪山の句なる衣替えころもがへ文字二字強くありて響くきこゆ。)

 

  曾良という同行者がいたことは、既に室の八島でも明かされてきたが、ここであらためて詳しく紹介されることとなる。

  曾良は芭蕉より五年遅れて慶安二(一六四九)年信州上諏訪で、高野七兵衛の長男として生まれる。しかし、両親は曾良が六歳のときにこの世を去り、当時信州では末子相続の習慣があったため、岩波家へ養子として入ることとなる。しかし、ここでも不幸が続き、結局伊勢長島藩の河合氏に身を寄せ、河合惣五郎を名乗ることとなった。
 
 伊勢長島は木曽川、長良川の下流域で、いわゆる「輪中」と呼ばれる堤防に囲まれたゼロメートル地帯だ。

 

 この時代より後になるが、宝暦の頃には幕府が島津藩の力を恐れて弱体化させるために、この地域で大規模な堤防工事をおこなわせたが、その後もしばしば大規模な水害に襲われている。伊勢湾台風のときも最も大きな被害を出したのはこの地域だった。

 

 曾良の名は木曾川の「曾」、長良川の「良」を取ったものだ。

 

 曾良の前半生は空白が多く、いつ頃江戸に出てきたかも定かではない。延宝から天和の頃と推定されている。三十歳前後で、芭蕉が江戸に出てきた頃と年齢的にも似通っている。
 
 江戸に出てきた曾良は名前を岩波庄右衛門と改め、吉川(きっかわ)(これ)(たる)(「よしかわこれたり」とも言う)の門に入り、神道を学んでいる。伊勢に住んでいたという縁が、神道への興味を掻き立てたのだろう。

 

 江戸時代より前には、本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)に基く神仏混淆の両部(りょうぶ)神道(しんとう)やそれをひっくり返したような神道を本地して仏教の方を垂迹とする吉田家の唯一神道などがあったが、江戸時代になると朱子学を取り入れ仏教を排斥する新しい神道が生じていた。

 

 林羅山の「()当知(とうち)(しん)神道(しんとう)」、そして、唯一神道(吉田神道)と朱子学を融合した吉川惟足の「吉川神道」、そして、その吉川惟足の門下生で朱子学者の山崎(やまざき)(あん)(さい)が開いた「垂加(すいか)神道(しんとう)」、などがそれだ。
 
 曾良もまたこうした最新の神道と、それに付随して朱子学の知識を身につけたのだろう。曾良の神道家ぶりは徹底していて、『随行日記』の記述を見ても、神社には「拝見」「参詣」という言葉を使い、寺には「見物」という言葉を使っている。寺に行ってもお参りはしなかったようだ。
 
 その曾良が芭蕉と出会ったのは貞享二(一六八五)年、深川の芭蕉庵の近くに移り住んだ頃だった。「芭蕉の下葉(したば)に軒をならべて、予(しんすい)の労をたすく。」という『奥の細道』の記述も、そこから来ている。これは果たして偶然だったのか、それとも岡田喜秋の説のように、鯉屋杉風を通じて紹介されたのかは定かではない。
 
 翌貞享三(一六八六)年春には「古池」の句で有名な『蛙合(かはづあはせ)』興行に参加している。

 

「第二十番
 
   左
 
 うき時は(ひき)遠音(とほね)雨夜哉    そら
   右
 
 ここかしこ蛙鳴ク江の星の数   キ角

 

 うき時はと云出(いひいだ)して、(ひきがえる)の遠ねをわづらふ草(いほり)の夜の雨に、涙を(そへ)(あはれ)ふかし。わづかの文字をつんでかぎりなき(こころ)を尽す、(この)道の妙也。右は、まだきさらぎの二十日余リ、月なき()(ほと)リ風いまだ寒く、星の影ひかひかとして、声々に蛙の(なき)(いで)たる、(えん)なるやうにて物すごし。青草(せいさう)池塘(ちとう)処々(しょしょノ)()(やく)あつてきたらず、半夜(はんや)(すぐ)(いひ)ける夜の気色も(その)儘にて、()ル所おもふ所、九重(ここのへ)の塔の上に亦一双加へたるならんかし。」

 

 曾良の句は草庵で暮らす隠遁者の風情で、隠遁者にとっての「憂き」とは、隠遁の原因になったような、まだ世俗にいた頃受けた様々な苦痛を思い出す状態で、これが次第に癒されてくると、「寂しさ」へと変わって行く。

  ヒキガエルは声が低く、雨の中でも遠くからの声が聞こえてくる。梅雨の鬱陶しい雨の夜に、低く絶え間なく聞こえてくるヒキガエルの声、それがかつて受けた世俗の罵詈雑言のトラウマを掘り起こす。思わず叫びたくなるような状況だろう。

  まさに「わづかの文字をつんでかぎりなき(こころ)を尽す、(この)道の妙」で、当時の芭蕉の一番弟子ともいうべき宝井其角と引き分けるという、華々しいデビューだった。
 
 俳諧のほうの力量も十分保証付で、その後『鹿島詣』の旅にも同行し、この『奥の細道』の旅でも路通を押し退けて曾良が同行者に抜擢された。ただ、残念なことに、歴代芭蕉の旅の随行者の中で俳諧の才能がずばぬけていたせいか、詠む句の悉くが「芭蕉代作説」の攻撃にさらされることになってしまった。

 

 剃捨て黒髪山に衣更   曾良

 

 この句にも代作説があるのは残念でならない。この程度の句は曾良の力量なら十分詠むことができたはずだ。
 黒髪山は日光男体山の別名で、本当は神道家で黒髪を生やしていたのだが、旅の都合上髪をさっぱりと剃り捨てた、といういかにも曾良らしい洒落っ気と気骨を感じさせる句だ。「黒髪山に」の「に」は今日の向格の意味ではない。剃り捨てたのに黒髪山になったという逆説と取るのも面白そうだが、当時としてはそれならば「へ」を使っただろう。当時の「に」の普通の使い方はむしろ今日の「を」に近く、むしろ黒髪山を衣更したと取るほうがいい。
 『野ざらし紀行』の旅立ちの時に李下が贈った句、

 

 ばせを野分その句に草履(わらじ)かへよかし

 

も草履を芭蕉野分の句に変えるのではない。芭蕉野分の句を草履に変えよ、という意味になる。
 
 当時、移動の自由が制限されていた江戸時代にあって、伊勢神宮への参拝と修行僧は自由に旅ができた。この『奥の細道』の終点が伊勢になっているのもそのためだ。そして、諸国を自由に往来するにはとりあえず曾良も僧侶の格好をする必要があった。

 本当は切りたくもない髪だったのだろう。「衣更の二字力ありてきこゆ」という芭蕉の評も、その思いきりの良さを褒めたものだった。

六、裏見の滝

 「廿余丁山を登つて滝(あり)(がん)(とう)(いただき)より飛流して百尺(はくせき)千岩(せんがん)碧潭(へきたん)(おち)たり。岩窟(がんくつ)に身をひそめ(いり)て滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝(まうしつた)(はべ)也。

 

  暫時(しばらく)は滝に(こも)るや()(はじめ)

 

(現代語訳:二キロ二十余余りちょう山を登あったがん洞穴うのてっぺんただきからより飛び出す飛流三十メートル百尺(はくき)多いへきつぼたん落ちるちたり

 岩窟()(みを)()入る(そめいり)()()(うら)から()見れる(りみ)ので(れば)、うらみの滝と呼ばれて(まうしつたへ)いる(はべるなり)

 

 しばらくは瀧に籠ろうの初め

 

 滝の裏に隠し洞窟というと、冒険物の映画やゲームでもお馴染みだが、日本では滝というと修験者が滝に打たれて修行する場所で、滝の裏の洞窟も修行の場所だったりする。滝を見ながら静かに瞑想に耽り、悟りを得ようとする。

  「うら」とは古語では「心」のことで、言葉のうらといえば言葉の意味、本意のことだ。裏を見せるとは本心をさらけ出すということで、「うらむ」という言葉もそこから来ている。
 
 したがって、古語では「恨む」というのは決してマイナスの意味の言葉ではなかった。それは人間の本心の率直な表現であり、満たされなかった夢や理想を永遠に追い続けるが故の恨みだった。
 
 今日では「恨み」というと単なる「逆恨み」の意味しかないが、本来の恨みはもっとポジティヴなものだった。むしろ韓国の「(ハン)
」の心に近かった。
 
 たとえば、親が戦争で死んだとして、敵国の人を無差別に恨めば逆恨みだが、戦争そのものを恨み平和を求めるのは正しい恨みといえる。「戦争も仕方ないさ」とあきらめたのでは何も生まれない。うらみの滝も、そんな現実の人々の悲惨な暮らしを思いながら、みんなが本当に幸せに暮らせるように祈るような、そんな場所だったのだろう。
 
 この裏見の滝の所を読むと、イメージ的には芸阿(げいあ)()
観瀑(かんばく)僧図(そうず)』が浮かんでくる。滝の裏に藁葺きのほこらがあって、そこへ行く道の上に一人の僧とお供のものが描かれた絵だ。中国から伝わってきた伝統的な李白観瀑図(りはくかんばくず)に芸阿弥が日本独自の世界を開いた傑作だ。
 
 今日では滝の裏に通路があるのみで、修行のために籠るような施設は見当たらない。観光ルートからも外れがちで、寂れた感じがする。

 滝の高さが百尺(約三十メートル)とあり、元禄九年に桃隣がここに来た時も「十丈(約三十メートル)」と記しているが、今は高さ十九メートルされている。あるいは三百年経つうちに岩が削れたり崩れたりて、今の滝は芭蕉の時代より小さくなっているのかもしれない。ウィキペディアには明治三十五年に崩落があったとある。

  仏教では陰暦四月十六日から七月十五日までの間を()(ぎょう)または安居(あんご)といい、外出を断ち、教を読んだり、写経をしたりして過ごすという。安東次男は一日だけ芭蕉もその気分を味わったのだという。(『芭蕉百五十句』安東次男、一九八九、文春文庫)
 
 滝の間断ない音はかえって静寂を呼び、しばし下界の憂さを忘れ、自然が生んだこの景観に心をなごます。夏行はインドの雨期から来た習慣らしいが、日本でもこの頃は梅雨の季節で、田植えの忙しい季節と重なり、やはりお籠りの季節だ。それは古くは旧暦五月の夏至の祭りに結びついたものだったのかもしれない。

 一応仏教的には夏は虫などが多く、出歩くとそれらを踏んずけて殺生をすることになるからだというもっともらしい説明もある。

 

 暫時(しばらく)は滝に(こも)るや()(はじめ)    芭蕉

 

の句は原案と思われるものが二つ知られている。

 

 時鳥うらみの滝のうらおもて  芭蕉

 

の句はおそらく最初のものであろう。

 ホトトギスは昔蜀の国の杜宇が農業を指導して蜀の国を再興して望帝となったが、後に退位して隠棲し、亡くなるとその魂は鳥となって、農耕の開始を告げたという。ところが、やがて蜀の国が秦に滅ぼされたため、それを歎いて「不如帰去」と鳴きながら血を吐いた、そこからホトトギスの声が恨みの声とされるようになった。

 この句はその故事そのままに、夏の初めのホトトギスの声に杜宇の恨みと「裏見の滝」の名と掛けた句だった。

 もう一つの案は、

 

 うら見せて涼しき滝の心哉   芭蕉

 

というもので、ここでは心に表裏ないという竹を割ったような性格と結びつけて、表裏両方見せるという心意気を涼しさとして表現している。

 最終的には夏行に結び付けた今の形に落ち着いたものと思われる。

七、かさね

 那須の黒羽(くろばね)には黒羽藩(くろばねはん)城代(じょうだい)家老(かろう)浄法寺(じょうほうじ)図書(ずしょ)高勝(たかかつ)(俳号秋鴉)と鹿子(かのこ)(ばた)(ぜん)太夫(だゆう)豊明(とよあき)の兄弟がいて、他にも蓮見伝之丞・()(りん)などがいて、俳諧が盛んだったようだ。

  芭蕉の本来の俳号が(とう)(せい)、身内に桃隣(とうりん)桃印(とういん)がいるということもあり、やがてこれらの人達に浄法寺図書は桃雪、鹿子畑善太夫は翠桃、蓮見伝之丞は桃里という俳号が与えられることになる。
 
 途中、芭蕉は「農夫の家に一夜をかり」ることになる。

 

  「那須の黒ばねと(いふ)知人(しるひと)あれば、是より()(ごえ)にかかりて直道(すぐみち)をゆかんとす(はるか)一村(いっそん)を見かけて(ゆく)(ふり)()(くる)る。農夫の家一夜(いちや)をかりて(あく)れば又野中(のなか)(ゆく)。そこに野飼(のがひ)の馬あり草刈(くさかる)おのこになげきよれば野夫(やふ)といへどもさすがに(なさけ)しらぬには(あら)ず、

『いかがすべきや、されども(この)()縦横(じゅうわう)にわかれて、うゐうゐ(ういうい)(しき)旅人(たびびと)の道ふみたがえん、あやしう侍れば(この)馬のとどまる所にて馬を返し給へ』

とかし(はべり)ぬ。

ちいさき者ふたり馬の跡したひてはしる。(ひとり)は小姫にて名をかさねと(いふ)(きき)なれぬ名のやさしかりければ、

 

  かさねとは八重(やへ)撫子(なでしこ)(なる)べし  曾良

 

  (やが)て人里に至れば、あたひを(くら)つぼに結付(むすびつけ)て馬を返しぬ。」

 

(現代語訳:那須の黒羽という所に知り(しる)あい()()いた(あれ)ので()、これから(より)(ごえ)越えて(にかかりて)真っすぐ(すぐみち)そこ()()向かおう(かん)()した()

 やっと(はるかに)集落(いっそん)を見かけて行く()()降って()()暮れた(るる)。農夫の家に一晩(いち)泊めて(やをか)もらい(りて)翌朝(あくれば)また野中を行く。

 そこに野飼いの馬()いた()。草刈してた(るをの)()相談(なげ)する(きよ)(れば)農夫(やぶ)いって(いへど)もさすがに()()わからない(けしらぬ)わけ()()()()()

 「()うし(かが)()もん(べき)()なに(され)しろ(ども)この野はあちこち(じゅう)()別れ路(うにわ)()あっ()て、初めて(うゐう)来た(ゐしき)旅人()(ふみ)間違える(たがえん)恐れ(あやし)()ある(はべ)から(れば)、この馬の止まった(とどまる)(にて)馬を返し()くれ(まへ)

と貸し()くれた(べりぬ)

 小さ()子供(もの)二人馬の後()追いかけ(たひて)走る。一人は少女(こひめ)(にて)名をかさねという。聞きなれない()()可愛らしくて(やさしかりければ)

 

 かさねとは八重撫子の名()違いない(るべし) 曾良

 

 やがて人里に(いた)れば、幾ら(あたひ)()鞍壺に結び付けて馬を返し()

 

  この部分は曾良の『随行日記』にも「宿(やど)(あしき)(ゆゑ)、無理ニ()(ぬし)ノ家入テ宿カル。」とある。
 
 名主(なぬし)というのは村民の有力者で村長のような存在だが、身分としては「農夫」と言っても間違えではない。
 
 この一致からも、翌日のかさねとの出会いもあながち確固たる反証もなしに虚構と決めてかかるべきではない。
 
 宿屋であれば次の日に乗る馬の用意もしてくれるだろう。しかし、民家とあれば、次の日は徒歩で旅立たねばならない。
 
 曾良の『随行日記』によれば、四月二日、裏見の滝を見たあと、午の上刻(十一時前)に日光を出てすぐに仏五右衛門の案内で大谷川の北側へと渡り、瀬尾(せのお)川室(かわむろ)経て大渡(おおわたり)に出る近道を通る。ここから鬼怒川を渡り、船生(ふにゅう)を経て玉生(たまにゅう)で一泊する。

 この時、「船入ヨリ玉入へ弐リ。未の上剋ヨリ雷雨(はなはだ)(つよし)(やうや)ク玉入ヘ着。」と曾良は記す。「未の上剋」というと一時半くらいで、日光から大渡まで「三リニ少シ遠シ」とあり、そこから船入まで「壱里程」と曾良は記すが、この行程を三時間弱で歩いたとすると、かなりハイペースだったことになる。あるいは旧大谷川を下る船があったのかもしれない。
 
 ともあれ、船入から玉入へ行く途中に激しい雷雨に遭い、やむなく玉入で宿を取らざるを得なくなる。
 
 これが『奥の細道』本文の「(はるか)一村(いっそん)見かけて(ゆく)(ふり)(くる)る」と一致する。この一村が玉入(今の玉生)であることは間違いない。
 
 翌日出発して、すぐに馬を借りたとすれば、玉生から矢板へ向う峠道(倉掛峠)が、この「かさね」のエピソードに相応しい。前日の雨で道はぬかるみ、歩くのも困難な道で馬を貸してくれたのはありがたいことだった。
 
 この辺りならではの野飼いの馬に乗って旅立つと、二人の小さな子供が一緒について来る。そのうちの一人の少女が「かさね」という名前で、当時としても珍しい名前だったのだろう。同行していた曾良は名前が気に入ったのか女の子が気に入ったのか知らないが、即興で一句捧げる。撫子(なでしこ)といえば『古今集』に、

 

 あな恋し今も見てしか山がつの
    垣ほに咲けるやまと撫子
 
             よみ人しらず

 

の歌がある。「大和(やまと)撫子(なでしこ)」という言葉の起源になった歌だ。
 しかし、果たして当時、八重咲きの撫子というのはあったのだろうか。江戸時代は園芸植物の品種改良が盛んで、江戸後期には八重咲きの撫子もあったようだ。八重撫子は曾良の空想なのか、それとも、オランダナデシコ(カーネーション)を見たことがあったのか、それとも日本独自の品種改良で八重撫子がすでに存在していたのか、謎ではある。
 
 それにしても、大和撫子なら、おしとやかな雰囲気だが、八重咲きのカーネーションであれば、むしろ元気にあふれているお転婆な娘だったのだろう。芭蕉や曾良に平気でずけずけと物を言って、これが結構鋭かったり真実を突いていたり、知的好奇心あふれる学者なら、こういう娘に興味を持ってもおかしくない。何となく、強い目をしたボーイッシュな姿が浮かんでくる。
 
 曾良のこの句はなかなかほのぼのとしたエピソードで、長い旅の途中にはこういうこともあっていい。
 
 曾良の句にしても、『俳諧書留』にないだとかいうだけの理由で、安易に芭蕉の代作説など持ち込むものではない。理が強くストレートで、さびしおりのほとんど感じられない作風は明らかに曾良のものであって、芭蕉っぽさが感じられない。
 
 おそらくあまりにストレートすぎるこの句は、曾良としてもほんの戯れで詠んだ句で、作品として発表するつもりはなかったものを、たまたま芭蕉が覚えていて『奥の細道』のちょといい話として紹介したのではなかったのか。
 
 なお、今はあまり聞かなくなったが、かつて一部巷で囁かれてた芭蕉ロリコン説というのは、この句が芭蕉の代作であるという前提で生じたものであろう。
 
 しかし、そんなことを言ったら、市振の遊女はどうなるのか。あの遊女も実は未成年だったというのだろうか。『野ざらし紀行』の芋洗う女はどうだったのだろうか。
 
 美少女キャラは『源氏物語』以来の定番だし、いつの時代でも大衆はそれを求めるものだとすれば、芭蕉もその期待に応えたにすぎない。
 
 それに、ここではかさねに発句を捧げたのは明らかに芭蕉ではなく曾良だということもお忘れなく。

 『源氏物語』の(ははき)()巻の有名な「雨夜の品定め」の(とう)中将(ちゅうじょう)の話の中で撫子(なでしこ)とその別名である常夏(とこなつ)とを掛けた歌のやり取りが登場するが、そこでは撫子は「撫でし子」で子供のこと、常夏は(とこ)なつむ」で妻のことというふうに使い分けられている。撫子のことを気に掛けてくれという女とあくまで常夏を求める頭の中将とのすれ違いがこの二つの言葉で示されている。「撫子」はその意味でも子供のかわいらしさを表す言葉で、本来は恋愛対象ではない。

八、黒羽

 名もなき野夫のおかげで、その日、無事に芭蕉は黒羽にたどり着く。これより十四日間、芭蕉は黒羽()()鹿子(かのこ)(ばた)(ぜん)太夫(だゆう)豊明(とよあき)(俳号(すい)(とう))の家に滞在することになる。
 
 そのあいだ犬追物(いぬおうもの)の跡、那須の篠原、(たま)藻前(ものまえ)の古墳、八幡宮、光明寺などを見学する。

 

  「黒羽(くろばね)館代(くわんだい)浄坊寺(じゃうばうじ)何がしの方に音信(おとづ)る。思ひがけぬあるじの(よろこ)び、日夜(にちや)(かたり)つづけて(その)(たう)(すい)など(いふ)朝夕(あさゆふ)(つとめ)とぶらひ(みづから)らの家に(ともな)ひて、親属(しんぞく)(かた)もまねかれ日をふるままに、ひとひ郊外に逍遥して犬追物(いぬおふもの)の跡一見(いっけん)し、那須篠原(しのはら)をわけて(たま)()(まへ)の古墳をとふ。それより八幡宮に(まふづ)()(いち)(あふぎ)(まと)を射し時、『(べつ)しては我国(わがくにの)氏神(うぢがみ)(しゃう)八まん』とちかひしも(この)神社にて(はべる)(きけ)ば、感応(かんのう)(こと)しきりに覚えらる(くる)れば桃翠宅に帰る。

 修験(しゅげん)光明寺(くわうみゃうじ)(いふ)(あり)。そこにまねかれて行者堂(ぎゃうじゃだう)を拝す。

 

  夏山に足駄(あしだ)(をが)首途(かどで)(かな)

 

(現代語訳:黒羽の館代浄坊寺何がしの方()尋ねた(おとづる)。思いがけ()主人(あるじ)()喜び、日夜語り続けて、その弟桃翠()いう(どい)()()朝夕世話(つと)()して(とぶ)くれて(らひ)、自らの家にも案内(ともなひ)()、親族の方にも招かれ日()たつ(ふる)ままに、一日(ひとひ)郊外()散策(せうえう)して犬追物の跡を見たり(いっけんし)、那須の篠原を掻き分け(わけて)玉藻の前の古墳を尋ねた(とふ)

 それから(より)八幡宮に参拝(まう)した()那須与一(よいち)()(ふぎ)の的を射()時『(べっ)しては我が国氏神(うじがみ)正八幡(しゃうはちまん)』と誓った(ちかひ)()も、この神社だった(にてはべる)と聞けば、有難さ(かんのうこと)()()()深く(りに)感じられる(おぼえらる)()()暮れて(れば)桃翠()()に帰る。

 修験光明寺という()()()あって()。そこに招かれて行者堂を拝んだ(はいす)

 

 夏山に足駄を拝()出発(かどで)しよう(かな)

 

 曾良の旅日記を読むと、黒羽滞在の頃は雨が多かったことが分かる。長く滞在したわりには外出できた日は少なく、浄法寺図書・鹿子畑善太夫の兄弟と「日夜(にちや)(かたり)つづけて」の日々だったのも止むをえまい。

  犬追物(いぬおうもの)はかつて鎌倉時代の東国の武士が行っていた、犬を仮想敵に見立て、追い込み射止めるという一種の軍事演習だった。
 
 元来江南系の農耕民族だった大和民族は、日常的に生活の糧として弓矢を用いることはなく、弓矢はむしろ純粋に戦争のために兵器(ウェポン)として発達した。そのため、和弓は世界で類を見ないほど大型化し『延喜式(えんぎしき)』には七尺六寸、つまり二メートル三十センチくらいのものと記されている。
 
 この長さでは立って射るしかないため、射手は無防備になる。そのため二十キロもある重い鎧兜で防御力を補わねばならなくなる。
 
 そうすると、今度は防具の重さで移動力を失う。そのため馬に乗る。馬といっても国産の馬は大きくても体高百四十センチくらいで、これではポニーに乗っているようなもので、あまり長くは走れない。
 
 そのため、源平合戦の頃の戦闘は、馬に乗った武将同士がにらみ合い、間合いをはかりながら、ここぞという時だけ突進し、素早く相手の右側へ回り込み、弓を射掛けねばならなかった。その訓練が犬追物だった。
 
 しかし、南北朝の頃になると、戦闘の中心が武将同士の一騎討ちから集団戦に変わってきたため、馬上で弓を射る技術よりも、白兵戦での剣さばきのほうが重要になり、犬追物も廃れていった。
 
 「那須の篠原(しのはら)をわけて」とあるが、これは特定の場所ではなく、那須へ行けばそこらかしこが那須の篠原だった。篠(笹)は当時の人の背よりはるかに高く、視界が聞かないという意味では難所だった。室町時代に宗祇法師が白河に行った時のことは『白河紀行』に記されてるが、そこには、

 

 「那須野の原といふにかかりては、高萱道をせきて、弓のはずさへ見え侍らぬに、誠に武士のしるべならずば、いかでかかる道には命もたえ侍らんとかなしきに、むさし野なども果てなき道には侍れど、ゆかりの草にもたのむかたは侍るを、是はやるかたなき心ちする。枯れたる中より篠の葉のうちなびきて、露しげきなどぞ、右府の詠歌思ひ出でられて、すこし哀れなる心ちし侍る。」

 

とある。
 
 那須の篠原といえば、

 

  もののふの()(なみ)つくろふ籠手(こて)の上に
    (あられ)たばしる那須の篠原
 
               源実朝(みなもとのさねとも)

 

の歌もある。宗祇法師の「右府の詠歌」のこの歌のことであろう。江戸時代までは、この歌と百人一首の「世の中は常にもがもな」の歌が実朝の代表作と言って良かった。
 
 「(たま)藻前(ものまえ)」は妖狐玉藻のことで、最初は猫又のような二本の尻尾を持つ狐だったが、後に中国の『山海(せんがい)(きょう)』などの影響で九尾の狐になっていった。
 
 中国では狐は陰気を持ち、それゆえ女に化け、男の精気を吸い取るものとされていた。今日の漫画アニメでは、冨樫義博の『幽☆遊☆白書』の蔵馬以来、『地獄先生ぬ〜べ〜』の玉藻京介、『妖狐×SS』の御狐神双熾、『神様はじめました』の巴衛など、男の美形キャラとして定着しているが‥‥。
 
 妖狐玉藻の物語の発端は一一五四年、保元の乱の直前で、院政の崩壊期のことだった。
 
 鳥羽院のもとに一人の遊女がやってきて、それがまた絶世の美女だった。美しいだけでなく漢学の素養もあり、たちまち鳥羽院は気にいり、夫婦となった。しかしその後、鳥羽院は精気を吸い取られたかのようにやつれ、病気になっていった。
 
 そこで登場したのが阿部清明の子孫にあたる陰陽師(おんみょうじ)の、阿部(あべの)(やす)(なり)だった。
 
 阿部泰成は玉藻の正体を狐だと見破ると、泰山府(たいざんふ)(くん)の祭りを行ない、玉藻前に幣取りの役をさせ、泰成が祭文を読むと、玉藻は突然姿を消し、鳥羽院の病も回復した。
 
 その後玉藻は二本の尾の狐の姿で那須野に現れて、上総(かずさの)(すけ)上総(かずさ)(ひろ)(つね))と三浦(みうらの)(すけ)三浦(みうら)(よし)(あき))という武将に退治された。
 
 しかし、その後も玉藻の怨念は石になり、それに触れた生きものをすべてを殺した。(げん)(のう)というお坊さんが経を読むと、この石も粉々に砕け散り、玉藻も成仏したという。これが那須の名所となった「殺生(せっしょう)(せき)」だった。
 
 殺生石は那須湯元にあり、芭蕉もこのあと行くことになる。ここでいう玉藻前の古墳は多分玉藻稲荷神社にあったのだろう。
 
 今日では古墳はないが、蝉に化けていた玉藻が池にその真の姿が映ってしまったために正体を見抜かれ、退治されたという伝説の池がある。小さな古池だ。
 
 那須といえば弓の名手、那須の与市も有名だ。
 
 那須の与市の時代は、それまでの梓や檀の木でできた弓(梓弓、真弓)に竹で補強した合わせ弓が普及し、飛距離が飛躍的に伸びた時代だった。とはいえ、一般的な有効射程距離が十五メートルくらいと言われる中で、六十メートルも先の的を射止めた那須の与市は、まさに超人)と呼ぶにふさわしかった。
 
 芭蕉はその那須の与市ゆかりの八幡宮(金丸八幡神社)にも参拝する。
 
 その日は一度桃翠宅に帰り、翌日修験光明寺に行ったとある。
 
 このあたりの芭蕉の記憶は大ざっぱで、曾良の『随行日記』と照らし合わせると順序が逆になっている。
 
 『随行日記』によれば、光明寺に行ったのは旧暦四月九日で、十二日に篠原(玉藻稲荷神社)、十三日に金丸八幡神社、十九日に那須湯元の温泉(ゆぜん)神社(じんじゃ)で那須の与市ゆかりの扇や(かぶら)()を見たあと殺生石を見ている。
 
 このあとに出てくる(うん)巌寺(がんじ)は光明寺よりも前の五日に行っている。
 
 修験光明寺は修験道、つまり山伏の寺で、修験道の開祖、(えん)の行者を祭った行者堂にはそれこそ天狗の履くような一本歯の高下駄が祭られてあった。
 
 背を少しでも高くして、自分を大きく見せようという欲求はいつの世でもあったのか、高足駄は魔力を持つものとされていた。
 
 芭蕉もこの高足駄に旅の無事を祈る。

 

  夏山に足駄を拝む首途哉     芭蕉

 

  「足」の字と「首」の字が対になり、あたかも役)の行者の足駄が自分の首のあたりの高い位置にあるかのような印象を与える。(残念ながら、この光明寺は明治維新の頃に廃寺になってしまった。)

 この光明寺に行った前日は四月八日の灌仏会の日で、おそらく寺には多くの人が集まったと思われるが、その日に関しては特に記述はない。光明寺は翠桃の家のすぐそばだったのにこれは不思議なことだ。

 曾良の『随行日記』には「光明寺へ被招」とあるので、おそらく光明寺側にアポを取ったうえで、光明寺の側から招待するという堅苦しい手続きがあったのではないかと思われる。ふらっと訪ねて行って参拝したのではなかったようだ。

 なお、芭蕉はここで「桃翠」と書いているが、これは翠桃の間違いで、芭蕉の記憶違いと思われる。芭蕉はそのあと躬等も窮等と、洞哉も等栽と書き誤っているし、当時極めて親しくしていたはずの門人路通も「露通」と書き誤っている。

 これは当時の人は音があってれば文字にはそれほどこだわらなかったために、芭蕉も一々門人の名前を正確に漢字で覚えてたわけではなかったのだろう。ここで文字を逆にしてしまったのも、単に桃の字の頭に据えた門人が多いための勘違いではないかと思う。
 
 この翠桃の家では俳諧興行も行われた。

 

  (まぐさ)おふ人枝折(しをり)の夏野哉     芭蕉

 

を発句にするもので、この句は『奥の細道』には採られていない。
 
 「(まぐさ)おふ人」は那須に来る前にしばしば馬の放牧場で目にした光景からイメージしたか。
 
 枝折(しおり)は今日では本に挟むものだが、本来は枝を折って道に置き、道しるべにしたもので、秣おう人の後をついていって道を教えてもらう夏野だという意味になる。翠桃に案内され名所旧跡を見学して回ったことへの感謝の気持ちが表われている。
 
 これに対し翠桃はこう答える。

 

    秣おふ人を枝折の夏野哉
 
 青き()盆子(ちご)をこぼす椎の葉    翠桃

 

  椎の葉に乗せた木イチゴをぼたぼた落として歩いてるから道しるべになっただけです。謙虚な気持ちが表われている。
 
 この歌仙(三十六句からなる連歌の形式)で、芭蕉は、

 

    あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ
 露とも消ね胸のいたきに     芭蕉

 

といった恋句も詠んでいる。
 
 また、

 

    (ほら)地蔵にこもる有明
 
 蔦の葉は猿の泪や染めつらん    芭蕉

 

の句は「蔦の葉を染める」という所に「時雨」が暗示されていて、猿の泪を時雨に例えたところなど、この旅の直後に詠む、

 

  初しぐれ猿も小蓑をほしげなり  芭蕉

 

の句に先行するものとして注目してもいいだろう。

九、雲岸寺

 「当国(たうごく)(うん)岸寺(がんじ)のおくに(ぶっ)(ちょう)和尚(おしょう)山居(さんきょの)(あと)あり。

 

    『(たて)(よこ)の五尺にたらぬ草の(いほ)
 
      むすぶもくやし雨なかりせば

 

と松の炭して岩に書付(かきつけ)(はべ)り』と、いつぞや聞え給ふ。(その)跡みんと雲岸寺に杖を(ひけ)ば、人々すすんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど(うち)さはぎて、おぼえず(かの)(ふもと)(いた)る。山はおくあるけしきにて、(たに)(みち)(はるか)に松杉黒く苔しただりて、卯月(うづき)(てん)(なほ)寒し。十景(じっけい)(つく)る所、橋をわたつて山門に(いる)

さて、かの跡はいづくのほどにやと、(うしろ)の山によぢのぼれば、石上(せきしゃう)小庵(せうあん)岩窟(がんくつ)にむすびかけたり。(めう)禅師(ぜんじ)死関(しくわん)(ほふ)(うん)法師(ほうし)石室(せきしつ)をみるがごとし。

 

  木啄(きつつき)(いほ)はやぶらず(なつ)木立(こだち)

 

と、とりあへぬ一句を柱に残侍(のこしはべり)し。」

 

(現代語訳:下野(たう)()()雲巌寺の奥に仏頂和尚の山居跡()あった()

 

   「縦横の五尺足らず(にたら)()草の庵

      むすぶも悔しい(くやし)()ない(かり)なら(せば)

 

松明(まつのす)()()()岩に書き付けられた(はべり)

と、いつぞや聞いた(きこえ)こと()()ある()。その()()見よう(みん)と雲巌寺に杖を手に()すれ()ば、人々率先(すす)して(んで)お供(とも)()()集まり(ざなひ)若い(わか)()()沢山(とおほ)いて()途中(みち)騒いだり(のほどうち)しながら(さはぎて)いつ()()()()()の麓に着いた(いたる)。山はどこ(おく)まで(ある)()奥深く(しきにて)、谷道遥かに黒々(まつ)()した()(くろ)()()()()鮮やか(ただり)()初夏(卯月)()()()今なお寒()()巌寺(っけ)十景()()言われる(くるとこ)()、橋を渡って山門に()る。

 さて、()()旧跡(あと)どこ(いづ)()ある(のほど)()()と、後の山のよじ登れば、(せき)(しゃ)()()小さな(せうあ)岩窟(んが)()(くつ)()結んで(むすびか)あった(けたり)(めう)()禅師(んじ)の死関、法雲法師の石室を見る()()よう()()

 

  啄木鳥も庵はやぶらず夏木立

 

と、取り合え()一句を柱に残し()おいた(べりし)

 

  (ぶっ)(ちょう)和尚(おしょう)は寛永十九(一六四二)年の生れで、延宝二(一六七四)年に鹿島(かしま)根本寺(こんぽんじ)の二一世住職となった臨済宗(りんざいしゅう)の禅僧だ。深川には根本寺の江戸での宿泊所である臨川(りんせん)(あん)があり、芭蕉庵のすぐ近くだった。今では臨川寺となり、清澄(きよすみ)庭園(ていえん)の北側にある。日本橋小田原町から深川に隠棲した芭蕉は、ここで仏頂和尚と出会い、人生の転機となるような大きな影響を受けた。

 芭蕉の深川隠棲の理由は定かでない。特に深い理由を詮索しなくても、当時の四十歳は「初老」で、この前後に隠居をするというのは特別珍しいことではなかった。

もちろん、隠棲の理由については様々な憶測がこれまで語られてきた。健康状態の悪化という説に加えて、甥の桃印が何らかの事件を起したのではないかということも、しばしば話題になって来た。

  田中善信の『芭蕉二つの顔』によれば、江戸に出てきた芭蕉は、まず季吟(きぎん)門のつてで、日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入(俳号卜尺で「小沢」の文字の右半分から取っている)の家の帳簿付けをやった。

町名主は相当の激務で、業務を代行する町代を雇う名主が多かったという。芭蕉が江戸に出た頃は、まだ「町代」という名はなかったが、似たような業務を担当していたらしい。

 さらに、延宝期に入ると、小石川の神田上水の浚渫(しゅんせつ)作業がそれまで町人に割り当てられて、重労働を強いられていたのに目を付け、人足を集めて作業を代行する新商売を思いついた。

こうして、延宝期の芭蕉は延宝五(一六七七)年の俳諧師匠としての(りっ)()した時期とも相成って、まさにこの世の春を迎えていた。それが一転してすべての仕事から退き隠棲することとなった。

 田中善信はこのとき、芭蕉と甥の桃印が寿貞を廻って三角関係になったという説を立てている。延宝九年の『俳諧(はいかい)()(いん)』の「世に(あり)て」の巻十句目に、

 

   嬉しきや女房のせいて泣付を

 恋あぶれたる弟手討に      揚水

 

の句や、貞享元年の『野ざらし紀行』の餞別興行の二十二句目に、

 

   楢の葉に我文集を書終り

 弟にゆるす妻のさがつき     露荷

 

の句があるのを一種の楽屋落ちの句と見るなら、それも有り得たのかもしれない。

 そんな時、心の隙間を埋めてくれたのが仏頂和尚だったのだろう。すべてを失った時だからこそ、すべての物への執着を捨てる禅僧の生き方には引かれるものがあったのだろう。

 このときの芭蕉はかなり本気で寺に入ることを考えていたかもしれない。実際、芭蕉はこのときに剃髪し、僧形となったようだ。『笈の小文』に「暫らく学んで愚を(さと)らむ事をおもへども」とあるのも、『(げん)(じゅう)庵記(あんのき)』に「一たびは仏籬(ぶつり)祖室(そしつ)(とぼそ)に入らむとせし」とあるのも、このときのことだろう。しかし、芭蕉は俳諧の夢が捨てられなかった。

 芭蕉というと禅のイメージがあるが、芭蕉はそれほど禅に興味を持っていたわけではない。芭蕉の関心はむしろ仏頂和尚の生き方そのものであり、特定の宗派やその教義に傾倒したわけではない。この点はしばしば誤解されている。芭蕉はこの『奥の細道』の旅でも出羽三山に登り、その他にも日光、白山など修験道の聖地にも心引かれている。立石寺(りっしゃくじ)も密教の寺であって、禅寺ではない。光明寺では役の行者の足打を拝んでいる。もちろん禅寺にも行ってはいる。

一方、松島の瑞巌寺は臨済宗で、加賀の全昌寺、越前の天竜寺、永平寺は曹洞衆だから別に禅寺を嫌ってたわけでもない。

芭蕉はその他にも、おびただしい数の神社に参拝しているし、この旅の後説くに至った芭蕉の「不易流行」「俳諧の誠」といった俳論は朱子学の言葉を使っている。これは曾良の影響が考えられる。このことからも芭蕉は特定の宗派に傾倒していたとは考えにくい。

 困ったことに、十七文字の短い文学では、無理やり禅に結びつけて解釈しようとすれば、どうにでも故事つけできてしまうことだ。同じように、密教的に解釈しようとすれば、それもできてしまう。竹下数馬の『芭蕉マンダラの詩人』(一九九四、クレスト社)はその意味で面白い。しかし、私自身はこうしたゲームに深入りしようとは思わない。ただ仏頂和尚は芭蕉の人生の師だったということにとどめておこう。仏頂和尚に大きな影響を受けたとはいえ芭蕉の作品はあくまで芭蕉の作品だ。
 
 その仏頂和尚の和歌、

 

  竪横の五尺にたらぬ草の庵
 
    むすぶもくやし雨なかりせば

 

 が岩に書かれているという話を聞き、尋ねてみれば、「石上の小庵岩窟にむすびかけ」てあるのを見つける。五尺といえば一メートル五十センチくらいか。そんな小さな草庵では体を伸ばすこともできないだろう。それでもこれ以上大きい家は必要ない。雨が降らないならばこんな小さな草庵でも本来必要のないものだから。

 まさに身一つあればあとは何一つ所有することのない一所不住の乞食僧、それは芭蕉のあこがれでもあった。

 しかし、現実の芭蕉は違っていた。俳諧師という職業を持ち、興行のために馬に乗り悠々と旅する。そんな芭蕉にとって、本当に小さな庵を見つけたことは驚きだったのだろう。

 

  木啄も庵はやぶらず夏木立   芭蕉

 

  この句は逆説で、啄木鳥がつっつけばすぐに破れそうな、小さな粗末な庵が残っていたからこそ、「木啄も庵はやぶらず」となる。もっとも、仏頂和尚が一方では鹿島根本寺で住職としての確固たる地位を持っていることも知っているし、寺の境界争いで公事(くじ)(裁判)に巻き込まれてたことも知ってるはずだ。

 

 『鹿島詣』ではその鹿島根本寺に泊って、せっかくの名月も雨で寝てたところ、明け方に仏頂和尚に「月が見える」と言って起こされて、起きた時にはもう見えなくなってたなんてことも思い出していたことだろう。

十、殺生石

 「(これ)より殺生(せっしょう)(せき)(ゆく)館代(くわんだい)より馬にて送らる。(この)口付(くちつき)のおのこ、『短冊(たんざく)得させよ』と(こふ)。やさしき事を(のぞみ)(はべ)るものかなと、

 

  野を横に馬(ひき)むけよほととぎす

 

 

 殺生石は温泉(いでゆ)(いづ)山陰(やまかげ)にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ真砂(まさご)の色の見えぬほどかさなり死す。」

 

(現代語訳:そのこれあとより殺生石に行ったゆく。館代用意まにしててお送ってくれたらる

 その(この)(くち)(つき)馬子(のおの)()「短冊()欲しい(させよ)」という(こふ)そんな(やさし)()()照れる(とをのぞ)()()思いながら(べるものかな)()

 

 野()横に馬引いて(ひきむ)くれ(けよ)ほととぎす

 

 殺生石は温泉いでゆいづ山陰やまかげあったあり。石の毒気まだまだ残っててほろびず、蜂・蝶の類、まさごのいろ見えなくみえぬなるほど重なってかさな死んでたりしす

 

  芭蕉が殺生石を見に行ったのは旧暦四月十九日のことで、同じ日に那須の与市ゆかりの温泉ゆぜん神社じんじゃと八幡宮を見た。

妖狐玉藻の怨霊は物語では鎮められ、成仏させられたことになっているものの、実際の殺生石は有毒な亜硫酸ガスを噴き出す地域で、蜂や蝶の死骸が散乱していた。那須にはこのようなガスを噴き出す場所がいくつかあり、今日でも誤って迷い込んで死者を出すことがある。なお、殺生石で芭蕉は、

 

    殺生石
 
 石の香や夏草赤く露あつし  芭蕉

 

の句を詠んでいて、『随行日記』に書かれている。石は硫黄の香りがぷーんとし、夏草は赤く枯れ果て、そこに湯気で暖められた熱い露が降りている。見たことをそのまま詠んだ句で、近代でいう写生句のようでもある。この句は結局『奥の細道』には収められなかった。

なお、那須湯本の八幡宮は()(ぜん)大明神(だいみょうじん)(あい)殿(どの)(いわ)清水(しみず)八幡宮(はちまんぐう)を移して、一度に両方の神に祈れるようにしたというもので、石清水の冷泉と那須の温泉がここに共存する。そこで芭蕉は、

 

 湯をむすぶ(ちかい)も同じ(いわ)清水(しみず)  芭蕉

 

の句をここで詠んでいるが、その句も『奥の細道』にはない。
 
 馬で送ってくれた館代とは『随行日記』の十六日の条にある「図書・弾蔵より馬人にて被送る」とあるのを指すものか。館というの黒羽浄法寺図書の官邸ことだろう。十九日の条に「図書家来角左衛門ヲ黒羽へ戻ス」とあるから、角左衛門という名前で、黒羽を出た時からずっとついてきて案内を務めたと思われる。

 ただ、この時の馬は『随行日記』の十六日の条に「馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス」とあり、そこから高久宿までは歩いて、高久宿の高久角左衛門の宿を出る時に「馬壱疋、松子村迄送ル」とある。

  紛らわしいけど文字通り読むとここに登場する「口付のおのこ」は黒羽・野間間の馬を引いてた男ということになる。

この馬人に途中芭蕉は発句を書き付けた短冊をねだられる。それに対し芭蕉は、「やさしき事を望侍るものかな」と一句したためることになる。「やさしき」という言葉は本来両義的な言葉で、「やさしき」は「恥(やさ)し」から来た言葉で、良いにつけても悪いにつけても「恥ずかしくなるような」という感覚を表わす。
 
 一般的に此句は良いほうの意味にとって、こんな田舎のやまがつの類のような馬子でも俳諧をたしなむのかと感激して、一句したためたという意味に解されている。そのため、句自体は状況と切り離されて、独立したものとして読まれている。
 
 しかし、それでは「馬牽むけよ」という命令口調が生きてこない。この句は明かに馬子に向かって語りかけられている。もちろん芭蕉には、こんな田舎の馬子までが自分のことを知っててくれて、発句の揮毫を求めていることに感激する部分も多少はあっただろう。しかし、一方で、こんな道の途中で気恥ずかしいという思いもあったに違いない。
 
 昔見たプレスリーの伝記映画にプレスリーが食堂で食事をしていると、横にいたあんちゃんが「おまえはあのプレスリーだろ、ここで歌ってみせろよ」となれなれしく声を掛けてくる場面があった。プレスリーはしぶしぶほんのさわりだけ例の腰振りを交えて歌う。終った後逆に「お前の仕事は何だ、自動車の修理工か、なら今すぐ俺の車を点検しろ」と言って喧嘩になる。そこまで喧嘩腰ではないが、お互いにプロとして仕事が何なのか理解しあう必要はあるだろう。
 
 「やさしき」という言葉はそういう意味で両犠牲を含めて理解されるべきだろう。こんな所でいきなり気恥ずかしい、でも満更でもない、そういう両面を含めた「やさしき」ではなかったか。そうなると、この発句は馬子の失礼を諭すような調子で理解できる。

 

  野を横に馬(ひき)むけよほととぎす 芭蕉

 

 こんなところで短冊とはまた困ったことを言う人だ。それならせめてホトトギスの声がする所まで横道に入って連れて行ってくれ、そう馬曳きに語りかける句だ。

十一、遊行柳

 「又、清水しみずながるるの柳はあしの里にありて田のくろに残る。この所の郡守戸部こほうなにがしの、『この柳みせばや』など折々をりをりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日けふこの柳のかげにこそたちよりはべりつれ。

 

 

  田一枚(うゑ)立去(たちさ)る柳かな」

 

(現代語訳:また、「清水ながるる」の柳は芦野の里にあて田のくろに残る。この土地ところの郡守戸部こほう何がしの、「この柳見せあげたい」など折々におっしゃってたのたまひきこへたまふを、どこいづ遠くののほどと思ってたらひしを、今日この柳の陰についことよりはべできたりつれ

 

 

 田一枚植えて立ち去る(やな)だろう(ぎか)(

 

 この句は、(さか)()百川(ひゃくせん)の『田植図』という絵を見てみると、何を言おうとしているかわかりやすくなるかもしれない。この絵を見ると、当時の田植えが一種のお祭りだったことがわかる。烏帽子をかぶった神主のような人が幣をもって踊り、横では(つづみ)もあれば笛もある。そして、その田のかたわらには柳の古木があって、柳の下には杖をついた老人がそれを眺めている。

 彭城百川は芭蕉の弟子の各務支考(かがみしこう)に俳諧を学んでいるところからも、この絵は芭蕉のこの句の影響を受けている可能性がある。
 
 田植えは単なる野良仕事ではない。それは音楽を奏で、踊りを踊り、神様を喜ばせ、豊作を約束してもらう神事だ。おそらく辛い作業だからこそみんなでフェスにして楽しくやろうという、昔の人の知恵だったのだろう。

その音楽は地方地方で異なり、独自の調べを持っていて、その異国情緒漂う歌や踊りに、通りかかる旅人はしばし目を奪われ、思わず田一枚植え終わるまで見とれてしまったに違いない。
 
 田植えが神事であることが身近な事実であった時代にあっては、この句はそんな難解な句ではあるまい。しかし、近代に入って明治の近代化政策のもとで国家神道が強制され、地方の伝統行事が抑圧されていった中で、もはやこうした行事が若い世代にとっては古くさい因習でしかなくなっていったとき、様々な解釈を生むこととなった。この句は「近代的に」読み替えられなくてはならなかったのである。
 
 客観写生の信奉者たちは、これを単なる景色の句と捉え、お百姓さんが田を一枚植えて立ち去って行く様を詠んだ句とし、時間の経過の描写が見事だという評価をした。それはあくまで長閑な農村の日常の風景であり、ミレーの『晩鐘』のようなものとして捉えたのである。
 
 さらに西洋の象徴詩やシューリレアリズムなどの影響を受けてくると、こうした写生的な解釈にあきたらず、何と柳が田植えをして立ち去っていったという解釈が登場するに至った。
 
 この解釈は、一応謡曲『遊行(ゆぎょう)(やなぎ)』によった解釈ではあるが、『遊行柳』の柳の精は決して田を植えたりはしていない。この物語は、諸国遊行の僧が西行縁りの柳のもとに立ち寄ったところから始まる。

 

  道の辺に清水流るる柳陰
 
    しばしとてこそ立ちどまりつれ

 

 という西行の歌のもととなった柳だ。

しかしこの柳は既に枯れて朽ち果てている。そのままこの柳の由来を従者と語っていると、いつのまにか夜になり、そこに烏帽子狩衣を着た老人が現われる。これが実は柳の精で、小さな蜘蛛も柳の葉の船に乗って成仏した話や、玄宗皇帝の花清宮も「宮前の楊柳寺前の花」と詩に歌われた名木があり、清水寺でも朽木の柳が楊柳観音として顕れたといった柳の功徳を語り、踊りだす。

その踊る姿に朽ち果てた柳は春の美しい緑の玉のような芽を吹き、鳥も朗らかにさえずる。しかし、それは一瞬の夢で、目が醒めればもとの枯れ木が残っている、そういう物語だ。

 菅原(すがわらの)道真(みちざね)の、

 

  道のべの朽木(くちき)の柳春くれば
    あはれ昔としのばれぞする

 

の歌を踏まえたものだろう。幻想的で美しい物語ではあるが、だからといって柳が田植えをする必然性は何もない。
 
 実際、田植えは短期間に村人総出で片付けなくてはいけない作業だから、一枚だけ植えて帰るなんていうのは現実的ではない。また、たとえ謡曲「遊行柳」に柳の精が登場したとしても、柳が田を植えなくてはならない必然性は何もない。付け句などで思いきって突飛な展開を計るときにはそうした解釈もありだったかもしれないが、発句としてはやはり田植えに見とれた旅人の句で十分ではないかと思う。
 
 この句は、陰陽五行のことを知っていると、もう少し楽しめる。柳というのは文字でいうと「()」の木であり、卯の方角、つまり東を表す。東は周易(後天易)でいうと「震」であり「長男」をさすもので、初老の老人の場所を表す。ここに芭蕉が立っている。これと反対の西側の「()」は「少女」を表すもので、そこでは早乙女が田植えをしている。
 
 東は東王公、西は西王母の場所でもあり、陽と陰をも表す。東王公の場所に芭蕉がいて、西王母の位置に早乙女がいる。つまり、この句は陰陽和合によって万物が生じ、稲穂が実るように祈りが込められているおめでたい句だ。東王公・西王母はいわゆる「じさまとばさま」であり、「高砂」だ。そしてそれは芭蕉が信仰する「道祖神」の姿でもある。
 
 芭蕉の句も、もちろん先の西行の、

 

  道の辺に清水流るる柳陰
 
    しばしとてこそ立ちどまりつれ

 

 の歌を踏まえている。柳はその姿から古くから後ろ髪を引かれる木とされ、西行も立ち去り難く、しばし柳の木のしたで涼を取り、旅の疲れを癒したのであろう。

十二、白河の関

 「心許(こころもと)なき日かず(かさな)るままに、白川の関にかかりて旅心(たびごころ)(さだま)りぬ。『いかで都へ』と便(たより)求めしも(ことわり)也。中にも此関(このせき)三関(さんくわん)(いつ)にして、風騷(ふうさう)の人心をとどむ。秋風(あきかぜ)を耳に残し、紅葉(もみぢ)(おもかげ)にして、青葉の(こずゑ)(なほ)あはれ也。()(はな)白妙(しろたへ)に、(いばら)(はな)(さき)そひて、雪にもこゆる心地(ここち)ぞする。古人(かんむり)を正し衣装を(あらため)し事など、(きよ)(すけ)の筆にもとどめ(おか)れしとぞ。

 

  ()(はな)をかざしに関の晴着(はれぎ)かな   曾良

 

  とかくして(こえ)(ゆく)ままに、あぶくま川を渡る。左に会津(あひづ)()高く、右に岩城(いはき)相馬(さうま)三春(みはる)(しゃう)常陸(ひたち)下野(しもつけ)の地をさかひて山つらなる。かげ沼と(いふ)所を(ゆく)に、今日(けふ)は空(くもり)て物影うつらず。」

 

心もとな日数ひか重ねかさなるままに、白河の関までにか来てかりてたびころ慣れてさだま来たりぬいか」と便りしようもとめ思ったもこ。中もこの関は三関の一ついつにしふう流人さう関心ひとこ引くころものをとどむ

 秋風を耳に残し、紅葉を面影にして、青葉の梢(なほ)哀れ(あはれ)(なり)。卯の花()真っ白く(しろたへに)、茨の花()それ(さき)()添えて(ひて)(ゆき)の中を(にも)()える(ゆる)よう(ここ)()気分(ぞす)()昔の(こじ)人は()冠を正し衣裳をあらため()ことなど、清輔の筆にも記されて(とどめお)いる(かれし)とか(とぞ)

 

 卯の花()かざし(かざし)()関の晴着だろ()うか()  曾良

 

 とにかくとかしまあくて、越えたらゆくそのまままま阿武隈川を渡る。左に会津あひ高く、右に磐城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさか端にひて山連なる。影沼という所を通ったゆく、今日は曇ってくもりいててもなにのか映ってうついないらず

 

 白河の関は常磐道の勿来(なこそ)の関、北陸道で、芭蕉も帰り道に行く(ねず)の関とともに東北三関という。仁徳天皇の子、反正(はんぜい)天皇(てんのう)が造ったという伝説があるが定かではない。古来、蝦夷(えぞ)(縄文系の農耕民族)との国境を成していたようだ。いわば、この三関は「みちのく」への入り口だ。
 
 「風騒の人」とあるが、「騒」といのは屈原の『離騒(りそう)』という詩から来たもので、憂いとか悲哀という意味がある。そこから「風騒の人」というのは屈原のような隠逸の詩人を指す。ここ白河といえば何といっても能因法師の、

 

  都をば霞とともに(たち)しかど
    秋風ぞふく白河のせき

 

 の歌が有名だが、

 

 都にはまだ青葉にて見しかども

    紅葉散り敷く白河の関

             源頼政(みなもとのよりまさ)

 

の歌もある。

 実際は青葉若葉の季節でも、能因法師の故事を思えば、やがてこの青葉も秋風を聞き、源頼政(みなもとのよりまさ)の歌を思えば、これがやがて紅葉へと変わってゆくこともまた哀れに思われる。 

 宗祇法師の、

 

  秋風のおもかげそよぐ早苗哉

 

の発句もまた思いおこされる。
 
 白河の関について曾良は随分詳しく調べていたようで、『随行日記』に「(わすれ)ず山」「二方の山」「うたたねの森」「宗祇もどし橋」などについて書かれている。「宗祇もどし橋」というのは、白河の鹿島神社で連歌会(れんがえ)があったとき、三日間誰も付けられない難しい句があって、宗祇がたまたまこの地を旅し、その噂を聞いて駆けつけようとした。その時とある橋の上で四十がらみの中年女性に会い、その句はもうその女が付けたと聞いて引き返したという伝説だ。その句は、

 

    月日の下に独りこそすめ
 かきおくる文のをくには名をとめて

 

という句だ。「月日の下」を手紙の日付と取りなして、その下の署名を「独りすむ」としたものだ。この素人の女性の機知に、さすがの宗祇も舌を巻いたという他愛もない伝説だ。  

宗祇といえば連歌のプロ中のプロ。そのプロが帰ってしまうのだから、文字どおり「玄人(くろうと)裸足(はだし)」だ。
 
 曾良のこの白河の句は、『俳諧書留』には次のような前書きがついている。

 

    誰人とやらん、衣冠をただしてこの関をこえ
   玉ふと云事、清輔が袋草子に見えたり。上古
 
   の風雅、誠にありがたく覚へ侍て
 卯の花をかざしに関の晴着かな   曾良

 

  『奥の細道』の本文の「古人(かんむり)を正し衣装を(あらため)し事など、(きよ)(すけ)の筆にもとどめ(おか)れしとぞ」はこれを短く縮めたものだ。それに芭蕉らしい「()(はな)白妙(しろたへ)に、(いばら)(はな)(さき)そひて、雪にもこゆる心地(ここち)ぞする」という幻想的な文章が加わり、曾良の句をもりたてる。 

卯の花を晴れ着にするという花のある句は、芭蕉のさびしおりの句とは風情が異なり、名所を飾るにふさわしい。芭蕉の、

 

  早苗にも(わが)(いろ)黒き日数(ひかず)(かな)   芭蕉

 

の句と比べると、その違いがわかるだろう。この句は能因法師の、

 

  都をば霞とともに立しかど
    秋風ぞふく白河のせき

 

の歌に、実は能因は旅をせずにこの歌を作り、この歌にリアリティーをもたらすためにどこかに籠って体を日に焼き、いかにも旅をしてきたかのように見せかけたという『袋草子』の風説を踏まえている。実際にそんなことはないとは言われているが。

芭蕉も一応本当に旅をしていると言いたげに、まだ秋には早い早苗の季節でも既に日焼けをしているという句に作っている。

  芭蕉はこうした作風の違いを自分でもよくわかっていた。だからこそ、名所で晴れの句が欲しいときには、自分の句ではなくあえて曾良の句を使った。これは松島でもいえることだ。

 白河では、

 

 西か東か(まず)早苗にも風の音   芭蕉

 

の句もあるが、これは曾良の知的好奇心から、奥州街道の住吉・玉嶋の二つの明神をもってして白河の関とするというのに飽き足らずに、古代の東山道の白河の関を探すために遠回りさせられ、旗宿に一泊することになったことを詠んだものであろう。

十三、風流のはじめ

 「すか(がは)(えき)等窮(とうきゅう)というものを(たづね)て、四五日とどめらる。(まづ)『白河の関いかにこえつるや』と(とふ)。『長途(ちゃうど)のくるしみ、身心(しんじん)つかれ、(かつ)は風景に魂うばはれ、懐旧(くわいきゅう)(はらわた)(たち)て、はかばかしう思ひめぐらさず。

 

  風流の(はじめ)やおくの田植うた

 

 無下(むげ)にこえんもさすがに』

と語れば、(わき)第三(だいさん)とつづけて、三巻(みまき)となしぬ。」

 

現代語訳:須賀川の駅に等窮という者を尋ねたら、四五日泊ってとどいけ言う。まず、

「白河の関()越えて(かにこ)どう()だった(つる)()

聞く(とふ)

長旅(ちゃうど)の苦しみ、心身(しん)(じん)疲れ、それ(かつ)()風景に()奪われ、思い出す(くわいき)()()断腸(はらわた)()思い(たち)()なかなか(はかばか)いい(しう)言葉(おもひ)()浮かば(ぐらさず)

 

 俳諧(ふうりう)()始め(はじめ)よう()奥の田植歌(たうゑ)(うた)

 

 何も()せずに(げに)越えて(こえん)()なん(さす)()()

と語れば、脇、第三と続けて、歌仙みま三巻きとなったしぬ

 

 昔から歌に名高い東北地方の入り口の関、白川の関を越え、須賀川で等躬(とうきゅう)という地元の俳諧師に会う。長旅を労って「白川の関はいかがでしたか」と等躬が問う。白川の関の感想を詠んだ句で句会を始めたい、という意味だ。芭蕉は答える。「長旅に疲れ果て、景色を見れば昔の人の苦しみが切々と伝わってきて、何を言っていいのかわからない。」と答える。そう言いながら句会を開始する。

 

  風流のはじめや奥の田植うた   芭蕉

 

 風流という言葉はこの時代はしばしば「俳諧」と同義で用いられる。

 「ここでの風流(俳諧)は、みちのくの田植え歌の興で始めましょう。何もせずにここを通りすぎてしまうのは勿体ないことです。」こうしてこの句に等躬が脇を付ける。曾良の『俳諧書留』によれば、それは、

 

     風流のはじめや奥の田植うた
 ()盆子(ちご)を折りて我まうけ草     等躬

 

という句だった。()盆子(ちご)といっても今日のイチゴではない。野イチゴのことだ。野イチゴの実をたくさん摘んできで、田植えのご馳走の準備をしました、という意味になる。

 こんな田舎で大したものはございませんが、精一杯の歓迎の準備をしました、という意味が、裏に込められている。それにさらに曾良が、

 

     覆盆子折りて我まうけ草
 
 水せきて昼寝の石やなおすらん  曾良

 

と付ける。「三巻」と書いてあるが、残念ながら曾良の『俳諧書留』は歌仙(三十六句からなる連歌の形式を三十六歌仙にちなんでそう呼ぶ)一巻を記すのみで、後は省略されているが、そのなかでは、

 

    (ある)(とき)は蝉にも夢の入るらん
 (くす)の小枝に恋をへだてて     芭蕉

 

    宮にめされしうき名はづかし
 手枕(たまくら)にほそき(かひな)をさし入れて   芭蕉

 

といった恋の句も積極的に詠まれている。
 
 ちょっと変わった句で面白いのは、

 

    かなしき骨をつなぐ(いと)(いう)
 
 山鳥の尾にをくとしやむかふらん   芭蕉

 

という付け句で、これは謎句というか判じ物というか、ヒントは『小倉百人一首』の伝柿本(かきのもとの)人麻呂(ひとまろ)の歌。
 
 「風流のはじめ」は、私はこの句会の席での風流つまり「俳諧興行」の始まりと取っておきたい。

 江戸からはるばる旅をしてきて、ここ須賀川でようやく風流に出会ったとする説もあるが、それなら室の八島や日光や遊行柳は風流ではなかったのか、ということになってしまう。

 それに、「風流」を「俳諧興行」の意味に取るにしても、芭蕉はこれ以前に那須の翠桃の所で興行を行っているから、ここが初めてではない。須賀川でやっと風流に出会ったのではない。「風流のはじめ」はあくまで須賀川での俳諧興行の始めという意味だ。

 また、『奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)』のように「奥の田植え歌」が生仏という琵琶法師の作で『徒然草』にも書いてある由緒正しきもので、風流の起源のようなものだったというふうに解釈する説もある。これはあまりに学者的な解釈で、曾良ならあるいはそんなふうに詠んだかもしれないが、芭蕉的ではない。
 
 そうではなく、「白川の関といえば古来歌に名高い場所ですが、これは俳諧ですからもっと軽く、名もない百姓の田植え歌の興でもって始めましょう。まあ、風流の心というのは昔の羈旅の歌にも田舎の民謡にも等しく流れているものですから。」という挨拶と見た方が良い。
 
 旅の楽しみは何といっても、その土地でしか見られないものとの出会い、そこでしか聞けない音との出会いだ。今は全国どこへ行っても、均質化した似たり寄ったりの風景だが、かっては地方ごとの文化の違いも大きく、それこそ言葉も違う異国を旅するようなものだっただろう。初めて聞く異国のメロディー、見知らぬ言葉の不思議な響き、そんなものとの出会いが感動的だったのではないか。

 

 先ほどの謎句だが、あえてここに一つの答を出してみよう。
 まず、「山鳥の尾に置く」だが、これは「山鳥の尾に置く枕詞」ではなかったか。つまり、この句は、「足引きの年や迎ふらん」ではなかったか。これに下句をつなぐと

 足引きの年や迎ふらんかなしき(ほね)をつなぐ糸遊(いという)

 つまり、足を骨折した人が新しい年を迎え、添え木をしたりして一生懸命骨をつないでいるというのが句の意味で、最後に「つなぐ」の縁で糸遊のように幽かな望みで、と結ぶとすればどうだろうか。

十四、栗の花

 「(この)宿(しゅく)(かたはら)に、大きなる栗の木陰(こかげ)をたのみて、世をいとふ僧(あり)(とち)ひろふ()(やま)もかくやと(しづか)(おぼえ)られて、ものに書付(かきつけ)(はべ)る。(その)(ことば)

    栗といふ文宇は西の木と(かき)て、
 
   西方(さいほう)浄土(じょうど)便(たより)ありと、行基(ぎょうぎ)菩薩(ぼさつ)
 
   の一生(つえ)にも柱にも(この)木を(もちひ)
 
   (たま)ふとかや、


 
 世の人の見付(みつけ)ぬ花や軒の栗」

 

(現代語訳:この宿の傍らに、大きなる栗の木陰まもられたのみて世を厭う僧いた西行拾うろふ深山みやまもかくやと静かづか思えておぼえらきてれて、物に書き付けみたべる。その言葉、

 

   栗という文字は西の木と書()

   西方浄土に(たよ)()ありと、行基菩薩

   ()一生杖にも柱にもこの木を用い

   ()れた(まふ)()いう(かや)

 世の人の気付かみつけぬ花だな軒の栗

 

 同じ須賀川で「風流の‥‥」の句で始まる俳諧興行を行った二日後には可伸(かしん)という僧の庵で興行を行う。可伸の俳号は(りつ)(さい)といい、庵のそばに大きな栗の木があった。折りから栗の花咲く季節で鼻をつくような酸っぱい匂いが庵の仲にも漂ってきたのだろう。栗の花の匂いというと、色っぽいものを想像しがちだが、やはり風流人の発想は違う。栗は西の木と書く。西の木、西方浄土の木、極楽浄土の木というわけで、その木の下の庵は実は極楽浄土だったのだ。なかなか我々「世の人」では思いつかない発想だ。
 
 このときの興行の発句は、実際は、

 

  隠家(かくれが)やめにたたぬ花を軒の栗  芭蕉

 

だった。これに対し、栗斎こと可伸は、

 

    隠家やめにたたぬ花を軒の栗
 
 (まれ)に蛍のとまる露草        栗斎

 

  隠れ家には目立たない栗の花が軒に咲いている。そこには稀に蛍がやってきて露草の上にとまる。言うまでもなく、蛍は芭蕉のことだ。
 
 なおこの須賀川等躬亭滞在の間に、あまり注目はされていないが、

 

  さみだれは滝降りうづむみかさ(かな) 芭蕉

 

の句を詠んでいる。この句は一般的には等躬亭を立ち去り郡山に向かう途中に(四月二十九日に)、石河滝に立ち寄って詠んだとされている。
 
 しかし、とある新聞の記事(日本経済新聞1999、11、24、夕刊)に目を止めると、そこには「『実は芭蕉が、実際にその場所を見ずに想像して詠んだのではないかといわれている句があるんです』。須賀川市立博物館の館長で案内役の横山大哲さん(51)が、いきなり爆弾発言。」とあった。
 
 それによると、この「さみだれは‥‥」の句は、「確かに芭蕉は、須賀川を去るとき、滝に立ち寄った。ところがこの句は、どうも須賀川に滞在中に詠んだ可能性があるという。芭蕉は一度、滞在中に滝を見にいこうとしたが、雨で断念している。『想像で句を作り、あとで実際に訪れで確認したのではないか』(横山さん)という疑惑が生じてくるわけだ。」
 
 『随行日記』によると、「風流の‥‥」の発句で始まる俳諧興行が行われたのは四月二十二日で、その前日に芭蕉は白河の関を越えている。このあと二十四日の所に「昼過より可伸庵にて会(あり)」とあり、それが「隠家や‥‥」を発句とする興行だった。曾良の『俳諧書留』にはこの二つの歌仙の間に、

 

   早苗にも(わが)(いろ)黒き日数哉   芭蕉

 

の句が記されている。二十二日夜から二十四日の朝までに詠んだのだろう。  そして、「さみだれは‥‥」の句はこの「隠れ家や‥‥」のあとに記されている。そして、五月雨の句のあとに曾良の、

 

  旅衣早苗に包食(つつむめし)(こは)ん      曾良
 
 卯花をかざしに関のはれぎ哉   同

 

があり、そのあと須賀川の連衆との「旅衣」の句を発句とした三つ物(発句、脇、第三の三句)が書かれている。これが『随行日記』の二十七日の所のある「三つ物ども」だと思われる。
 曾良の発句二句はおそらく二十七日の会のための発句を前日か当日の朝までに練ったものだろう。そうすると、「さみだれは‥‥」の句は二十五日か二十六日に詠まれた可能性が高い。
 さて、そこであらためてこの句と、『俳諧書留』にある前書きを見てみよう。

 

   須か川の駅より東二里ばかりに、

   石河の滝といふあるよし。行きて
   見ん事をおもひ催し侍れば、此比(このごろ)

   の雨にみかさ(まさ)りて、川を越す事

   かなはずといいて(やめ)ければ
 さみだれは滝降りうづむみかさ哉 芭蕉

 

 前書きにはっきりと滝を見に行こうとしたがやめたと書いてあり、句の意味も(これが一番重要だが)五月雨が滝を埋めてしまった、五月雨の増水のせいで滝(へ行く道)が埋って見られなかった、それほどの増水に見舞われた、という意味だ。最初から滝が見られなかった無念さを詠んだ句で、かえって滝を見て詠んだとしたらその方が不自然な句だ。
 一度そう思ってしまうと、今度は何でこの句が二十九日に滝を見て詠んだ句だと言われるようになったのか、不思議になる。おそらく、『随行日記』の二十九日の条に滝を見たことが書かれていたところからの先入観のせいなのだろう。

十五、しのぶもぢ摺

 さて、等躬の家を出て、再び芭蕉は北へと旅立つ。その途中の安積(あさか)は『古今集』の、

 

  みちのくの安積(あさか)の沼の花かつみ
    かつ見る人に恋ひや渡らむ
               よみ人しらず

 

 の歌で名高い。
 
 しかし、「かつみ」というのは都の人が勝手につけた名前だったのか、地元の人に尋ねても結局わからなかった。その後安達ヶ原の二本松で有名な安達ヶ原の鬼女の塚を見る。翌日、「しのぶもぢ摺り」という()(ごろも)で名高い信夫(しのぶ)の里へもぢ摺り石を見に行く。

 

 「等窮が宅を(いで)て五里(ばかり)檜皮(ひはだ)宿(しゅく)を離れてあさか山(あり)(みち)より近し。(この)あたり沼多し。かつみ刈比(かるころ)もやや近うなれば、『いづれの草を花かつみとは(いふ)ぞ』と、人々に(たづね)侍れども、(さらに)(しる)人なし。沼を(たづね)、人にとひ、『かつみかつみ』と(たづね)ありきて、日は山の()にかかりぬ。二本松(にほんまつ)より右にきれて、黒塚(くろづか)岩屋(いはや)一見し、福嶋に宿る。
 
 あくれば、しのぶもぢ(ずり)の石を(たづね)て忍ぶのさとに(ゆく)(はるか)山陰(やまかげ)小里(こざと)に、(いし)(なかば)(つち)(うづもれ)てあり。里の童部(わらべ)(きた)りて(をしへ)ける、『昔は此山(このやま)の上に(はべり)しを、往来(ゆきき)の人の(むぎ)(くさ)をあらして(この)(いし)(こことみ)(はべる)をにくみて、(この)(たに)につき(おと)せば、石の(おもて)下ざまにふしたり』と(いふ)。さもあるべき事にや。

 

  早苗(さなへ)とる手もとや(むかし)しのぶ(ずり)

 

(現代語訳:翌朝あくれば、信夫文字摺りの石を尋ねて信夫の里に行く。はるか山影の小里に、石半ばかば土に埋もれてうづもれていたあり)

 

 里の少年(わらべ)()来たので(りて)聞いて(をしへ)みる()()

 

 「昔はこの山の上にあったん(はべり)()けど()、往来の人()(むぎ)()()()ちぎって(あら)擦り付けて(して)()()()()出る()()どう(ころ)()試す(はべる)のに(をに)手を焼き(くみて)、この谷に突き落としたら(せば)石の表(した)(ざま)(にふ)なった(したり)。」

 

という。ありそう(さもある)(べき)こと(こと)(にや)

 

 

 早苗とる手元()(むか)()偲ぶ(しの)信夫摺(ぶすり)

 

 ()り衣というのは植物や鉱物などをすり潰した染料を衣類に擦り付けるだけの、衣類の着色方法としては最も原始的なものだ。しのぶもぢ摺りというのは、おそらく染料を着けたざらざらした岩に衣を擦り付けることで、不定形の乱れ模様ができていたのだろう。植物のしのぶを染料に使ったから「しのぶもぢ摺り」だとか、しのぶの葉の模様だから「しのぶもぢ摺り」とする古説もあるが、陸奥の「信夫(しのぶ)」という地名から来たとする方が正しいようだ。
 
 『伊勢物語』では在原業平(ありわらのなりひら)が狩りに行ったとき、そこで見初めた女にしのぶ摺りの狩衣の裾を切って、

 

  かすが野の若紫のすり衣
 
    しのぶのみだれ限り知られず

 

 の歌を書き付けて贈ったという。

 

  陸奥(みちのく)(しの)()もぢずり(たれ)(ゆえ)
    乱れそめにし我ならなくに
               (みなもとの)(とおる)

 

の歌を踏まえてのことだ。
 
 万葉の時代には既に酢酸や灰汁によって染料を発色させ、ミョウバンなどによって色を固着させる方法が既に確立されていたという。万葉集の巻十二の三一一に、

 

  紫は灰さすものぞ椿市(つばいち)
    八十(やそ)(ちまた)にあひし子や誰
 
               よみ人しらず

 

 とあるのは、紫の染色を行うときに灰汁のアルカリで発色させるからだという。(『万葉集の服飾文化』小川安郎、1986、六興出版)
 
 在原業平の時代に信夫もぢ摺りのような原始的な摺り衣が好まれたのは、陸奥(みちのく)ならではの珍しさと素朴な味わいによるものだろう。今でいえばエスニック・ファッションといったところか。

 しのぶもぢ摺りはその乱れ模様が恋に悩み、乱れる心の様に例えられるように、不定形といっても単なるまだら模様やぼかし模様のようなものではなく、染料のにじみ具合が複雑なフラクタル図形を描いていたのではないかと私は想像している。
 
 ちょうど在原業平の時代は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)がアテルイの乱を鎮めた後で、朝廷も度重(たびかさ)なる武力制圧の疲弊から、エミシの中の朝廷よりのものにエミシを支配させる、いわばある程度の自治を認める方向に方針を転換し、陸奥に雪解けムードが生じた頃だった。

 そこで、それまでの恐ろしい残虐なエミシのイメージは薄れ、代ってエキゾチックな異国として陸奥(みちのく)が和歌などに詠まれるようになった時代だった。狩衣に信夫摺りを着たのは、おそらく陸奥のエミシが狩りの名手だから、それにあやかろうというものだろう。
 
 しかし、そのしのぶ摺りも遠い古代のことで、芭蕉の時代となっては見る影もない。あるのはただ、しのぶ摺りに使われた岩が農作業の障害になるとばかりに谷に打ち捨てられた無残な姿だった。

 岩自体が邪魔だったわけではなく、この土地に伝わる(みなもとの)(とおる)とこの土地の女性との悲恋から、文字摺り石に麦の葉を擦りつけると源融の顔が浮かぶというのが噂として広まり、ここを通る旅人が近くの麦畑の麦の葉を勝手にむしって源融の顔が出るかどうか試したため、近所の麦畑が荒らされることになったというのが原因らしい。

 芭蕉の句も皮肉が込められている。

 

  早苗とる手もとや昔しのぶ摺

 

  今ではただの百姓にすぎない早乙女の手に、昔の信夫摺りを偲ぶとしようか。
 
 曾良の『俳諧書留』には「しのぶの郡、しのぶ摺の石は、茅の下に埋れ果て、いまは其わざもなかりければ、風流のむかしにおとろふる事ほいなくて」と前書きがあり、

 

  五月()乙女(をとめ)にしかた望まんしのぶ摺   芭蕉

 

の句が見られる。「(おとろ)ふる事本意(ほい)なくて」というのが本音だったようだ。
 
 もっとも、これは都会人の身勝手といえないこともない。民族学者のコリン・ターンブルがかつて「エフェ・ピグミー」と呼ばれていたアフリカのエフェ族の祭りを見た時に、以前に見た竹製で細かな紋様の掘られた笛を捨てて、どこから拾ってきたか螺子穴までついた鉄パイプを笛代わりにしているのを見て唖然としたことがあった。しかし、この方がいい音が出ると言われ、実際にその音色を聞いて納得したという。

 我々だって琴や琵琶や三味線の古式ゆかしい音色を捨てて電気楽器や電子楽器に熱狂しているから、人のことは言えない。都会人が摺り衣などという粗雑ですぐ色落ちする衣をとっくに着なくなっているのに、田舎の人に摺り衣の保存を求めることは無理というものだろう。

十六、笈も太刀も

 「月の輪のわたしを(こえ)て、()(うへ)(いふ)宿(しゅく)に出づ。佐藤庄司(しゃうじ)が旧跡は(ひだり)山際(やまぎは)一里半(ばかり)(あり)。飯塚の里、(さば)()(きき)て、尋々(たづねたづね)(ゆく)に、丸山と(いふ)(たづね)あたる。(これ)庄司が旧館(きうくわん)也。(ふもと)大手(おほて)の跡など人の教ゆるにまかせて(なみだ)(おと)し、又かたはらの古寺(ふるでら)一家(いっけ)の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先哀(まづあはれ)也。女なれどもかひがひしき名の世に(きこ)えつる物かなと袂をぬらしぬ。()(るい)の石碑も遠きにあらず。寺に(いり)て茶を乞へば、(ここ)に義経の太刀(たち)・弁慶が(おひ)をとどめて什物(じふもつ)とす。

 

  笈も太刀も五月(さつき)にかざれ(かみ)(のぼり)

 

  五月朔(さつきつい)(たち)の事也。」

 

(現代語訳:月の輪の渡しを越えると、瀬の上という宿に。佐藤庄司旧跡は左の六キロ一里半ほどあるあり。飯塚の里、鯖野と聞て尋ね尋ね行く、丸山というそれづねあったたるこれ佐藤しゃ庄司うじ館のきうくわんだという

 麓の大手門(おほて)の跡など(ひと)()教えて(おしゆ)もらって(るにまかせ)()泪を落とし、また近く(かたはら)の古寺に一家(いっけ)の石碑()残って(のこ)いた()。中()も二人の嫁()石塔(しるし)とにかく(まづあは)悲しい(れなり)。女ながら(なれど)()勇ましい(かひがひしき)名の世に知られてる(きこえつる)(もの)(かな)()(たもとを)(ぬら)出る(しぬ)。堕涙の石碑も中国(とほ)だけ(きに)()()ない()

 寺に上がり(いりて)茶を貰えば(こへば)、ここに義経の太刀・弁慶が笈()宝物(とどめて)()して()保管(もつ)されてた(とす)

 

 笈も太刀も五月(さつき)にかざれ(かみ)(のぼり)

 

 五月一日のことだったなり

 

 佐藤(さとう)庄司(しょうじ)とは奥州藤原三代の一人藤原(ふじわらの)秀衡(ひでひら)の家臣、佐藤(もと)(はる)のことで、その息子(つぐ)(のぶ)忠信(たたのぶ)は義経とともに平家と戦い、八島で戦死した。
 
 謡曲『接待(せったい)』はこの佐藤庄司の家を舞台にしたもので、頼朝の軍に追われ東北に落ち伸びようとして山伏に化けた弁慶等十二人の一行を、そうと知らずに泊めるところから始まる。
 
 「出羽の山伏」を名乗るものの、言葉(なまり)からばれてしまった弁慶等は、継信・忠信の老いた母に、二人の息子が戦死したことを伝える。継信は義経をかばい、矢に打たれて落馬し、そのまま息絶える。継信の首を取りに来た(たいらの)(のり)(つね)の小姓(きく)(おう)(まる)を射て、仇を取る。しかし、それによって忠信は教経の小姓の仇となる。
 
 いつの世でも戦争というのはそういうものだ。最初はどちらがやったかわからないまま、お互い親兄弟を失った憎しみを晴らさんと、殺戮を繰り返す。仇討ちは新たな仇討ちを生み、延々と繰り返され、どこかでそれを断ち切らないことには戦争は終らない。
 自分の親や子を殺されれば、犯人を殺してやりたいと思うのは、確かに人として自然の感情だ。しかし、どこかでそれを抑えなくては、人はいつまでたっても同じ過ちを繰り返すことになる。
 
 謡曲『接待』では、話を聞いた継信の子が弁慶に、仇を打ちたいから一緒に連れていってくれと言い、それを弁慶が断わるところで終る。芭蕉も佐藤庄司の旧跡でそんな悲しい歴史を思い、涙したのだろう。
 
 かたわらの石碑には継信・忠信の妻のことが記されていたようだ。この二人の妻は二人の息子を失った義母を慰めるために、甲冑(かっちゅう)を着て、息子が帰って来たかのように演技したという。この孝行話にも芭蕉は再び涙する。
 
 芭蕉の女性観は当時の儒教的な女性観を出るものではない。それは『野ざらし紀行』の旅でも、

 

  蘭の香やてふの(つばさ)にたき物す 芭蕉

 

と詠み、浮気な遊女が結婚し貞淑な蘭の香になったことを賛美したことにも現われている。

 また、『奥の細道』の旅の後にも、

 

  月さびよ明智が妻の(はなし)せむ    芭蕉

 

と詠み、夫のために尽くす妻の姿を賛美している。こうした女性観は、当時としてはごく普通のものだったにせよ、俳諧・風雅とは本来そのような形式ばった道徳ではなく、もっと心の底にある本質的なものを詠むべきものなはずだ。

 その意味では芭蕉は女性に関しては凡庸な感覚しか持ってなかったと言ってもいい。それは遊郭通いなどの経験に乏しかったからかもしれないし、そうでなければ一般的に女性に興味なかったか。実際の女性の身の上を深く知ることはなかったのだろう。

  それはともかくも、今ではその佐藤庄司の家の跡は寺となり、芭蕉はそこで茶をいただき、寺に伝わる宝物を見せてもらう。本当は曾良の書くところによれば義経の笈と弁慶筆の写経だったようだ。
 句の方も、曖昧な記憶のもとに後から作ったのか、あるいは時期的に端午の節句に近いということで、端午の節句に飾るものということで写経の所を太刀に作ったのかもしれない。それが後に『奥の細道』を書く時に記憶の混乱のもとになったのかもしれない。

 

  笈も太刀も五月(さつき)にかざれ(かみ)(のぼり) 芭蕉

 

 曾良の『随行日記』によれば本当は5月2日のこと、ちょうど端午の節句の前で、「尚武(しょうぶ)」に通じるということで(のぼり)(かぶと)や武者人形が飾られていたのだろう。
 当時はまだ鯉のぼりや今日のような武者人形はなく、家紋を入れた四角い、(いくさ)の時に立てるような幟の上に、厚紙や板で作った人形や(かぶと)を飾ったという。
 
 義経の太刀・弁慶が笈も紙の幟の飾りとなり、戦争を知らない子供たちがそれを無邪気に眺めるような、そんな平和な時代がいつまでも続くことを祈らずにはいられなかったにちがいない。

十七、飯塚

 「(その)()飯塚(いひづか)にとまる。温泉(いでゆ)あれば()(いり)て宿をかるに、土坐に(むしろ)(しき)てあやしき貧家(ひんか)也。(ともしび)もなければゐろりの(いろりの)()かげに寐所(ねどころ)をまうけて()す。夜に(いり)雷鳴(かみなり)、雨しきりに(ふり)て、(ふせ)る上よりもり、(のみ)()にせせられて眠らず。持病(ぢびょう)さへおこりて消入計(きえいるばかり)になん。短夜(みぢかよ)の空もやうやう(あく)れば、又(たび)(だち)ぬ。(なほ)(よる)余波(なごり)心すすまず、馬かりて桑折(こをり)の駅に(いづ)る。(はるか)なる行末(ゆくすゑ)をかかえて、(かか)(やまひ)覚束(おぼつか)なしといへど、()(りょ)辺土(へんど)行脚(あんぎゃ)捨身(しゃしん)無常(むじゃう)観念(くわんねん)、道路にしなん、(これ)(めい)なりと、気力(いささか)とり直し、路縦横(じゅうわう)に踏んで伊達(だて)大木戸(おほきど)をこす。」

 

(現代語訳:その夜飯塚に泊る。温泉いでゆあったので湯に入りいりて宿を借りたかる土間どざに筵を敷いたきて怪しげあやし貧家だったなり行灯ともしびもなくてければ囲炉裏のに寝所を設けて寝たふす

 夜に入る(いり)()()()鳴り(なり)土砂降り(あめしきり)()(ふり)()寝て(ふせ)いる()(うへ)(より)漏る()()()()()にも()馬鹿(せせ)()されて(れて)()()やしない(らず)。持病()出て(へお)しまい(こりて)生きた(きえい)()()しなかった(かりになん)

 短夜の空もようやく(やうやう)明けた(あく)(れば)、また旅立った(ちぬ)

 なお、夜の余波なご気乗りこころしないすすまままず馬を借りて桑折の駅に出たいづるまだまだはるかなゆく長いすゑを思うかえ今度かか病気やまひ思いやられるぼつかなしといけどへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死のうしなんともこれれて天命のめいなりとりょいささか取り直し、六方みちじゅ踏むうわうに勢いふん伊達の大木戸を越えたこす。)

 

 芭蕉は「飯塚」と書いているが、本当は「飯坂」だ。東北弁で飯坂が「ええづが」に聞こえたのだろうか。曾良の『随行日記』には正しく飯坂と書いてあるから、芭蕉の勘違いだろう。
 
 ただ、宿についてろくなこと書いていないから、あえて飯塚(仮)ということにしておいた方がいいのかもしれない。草加の段の続編のようなもので、旅の苦しさをあえて強調している部分だ。
 
 旅の苦しみについての記述はこの後にもまだある。それは名所旧跡での感動、俳諧を通じてのいろいろな人との出会いなどを引き立てる意味もあるだろう。それに加えて、やはり旅そのものを苦行として捉えてるのは()(りょ)歌の伝統よるものが大きいのだろう。中世の連歌(れんが)でも羇旅は基本的に都を追われる旅人の情で作る物だった。
 
 芭蕉の旅は単なる物見遊山ではなく、道祖神に招かれての鎮魂の旅という役割も背負っている。西行、宗祇の見残しを自らが成り代わって実現し、左遷のうちに果てた(とうの)中将(ちゅうじょう)実方(さねかた)(いくさ)に倒れた義経、兼房(かねふさ)の魂に共感し、鎮めるという意味も持っていた。
 
 『奥の細道』は表向きは伊賀に住む兄の半左衛門に捧げた私的な読み物の形態を取っているものの、それはむしろ表向きというものだろう。実際には多くの時間をかけて入念な推敲(すいこう)を重ねたこの文章が、単なる私信であったはずはない。芭蕉は歴史の中の一人として、今あるものを見て語って残す責務を背負っていたはずだ。
 
 無名な作家の日記では残らない。当代きっての俳諧師だからこそ残せるもの、それを意識しないはずもなかっただろう。
 
 『奥の細道』は明らかに死後公刊されることを見越して書かれたものだ。いつ悪化するかわからない持病を抱えて、芭蕉も自分の長くない人生を予感していたのだろう。ジャーナリストではないから、正確に書くということには頓着しなかったが、一つの時代の精神、世に俳諧が盛んだったことの証、それを読み取るには十分すぎる。旅のつらさは芭蕉が背負っているものの重さだ。

 ただ、こうした旅の嘆きも一巻のメリハリの一つで、俳諧であるなら打越(うちこし)の情を速やかに捨てて、次のテーマに展開しなくてはならない。

  「路縦横(じゅうわう)に踏んで」というのは、芝居じみてはいるが、芝居でいう六方を踏む動きを踏まえたものであろう。

十八、道祖神の社

 「鐙摺(あぶみずり)白石(しろいし)の城を(すぎ)笠嶋(かさしま)(こほり)に入れば、(とうの)中将(ちゅうじょう)実方(さねかた)の塚はいづくのほどならんと人にとへば、『(これ)より(はるか)右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と(いひ)道祖神(だうそじん)(やしろ)、かた見の(すすき)今にあり』と教ゆ。此比(このごろ)五月雨(さみだれ)に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら(ながめ)やりて(すぐ)るに、簑輪(みのわ)・笠嶋も五月雨(さみだれ)の折にふれたりと、

 

  笠嶋はいづこさ月のぬかり道

 

  岩沼(いはぬま)に宿る。」

 

(現代語訳:鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入ったので。藤中将実方の塚はどこいづくのほどあるなら人に問えば、

 「ここ(これ)から(より)遥か右に見()る山際の里を箕輪・笠島といい、道祖神の社、形見の薄()()()ある(あり)

(おし)。この頃の五月雨()()ぐちゃぐちゃ(とあし)()疲れて(みつか)いる()()()あって(れば)ついつい(よそながら)通り過ぎて(ながめやりて)しまい(すぐるに)、箕輪・笠島も五月雨()(をり)()ある(ふれ)だけ(たり)()

 

 笠島はどこだ(いづこ)五月(さつき)のぬかり道

 

 岩沼に泊るやどる。)

 

 (とうの)中将(ちゅうじょう)実方(さねかた)藤原(ふじわらの)実方(さねかた))といえば『百人一首』にも、

 

 かくとだにえやはいぶきのさしも草
 
    さしもしらじなもゆる思ひを

 

の歌もあり、歌人として知られていた。
 この藤中将実方について、西行が書いたという伝説を持つ『撰集抄(せんしゅうしょう)』に一つのエピソードが書かれている。それによると宮廷の男たちが東山に花見に行ったとき、雨が降り出してみんなが慌てて帰ろうとすると、一人木の下に寄りかかり、

 

 さくらがり雨はふり()ぬおなじくは
    (ぬる)るとも花の影にくらさん

 

と歌い、ずぶ濡れで雨に打たれていたという。このことは宮中でも有名になり、さすが風流者だと評判になった。そこで、藤原(ふじわらの)(ただ)(のぶ)大納言(だいなごん)が、天皇にこのことを話して聞かせたところ、一人藤原(ふじわらの)(ゆき)(なり)は「歌はいいが、やることは正気ではない」と付け加えたため、これを後で聞いた実方は行成を恨むようになったという。
 実方には殿上で行成と口論になり、切れた実方が(しゃく)で行成の冠を叩き落としたという『八雲御抄(やくもみしょう)』の伝説もある。このとき行成は冠を正し平然としていたために、実方は一方的に悪者になり、「歌枕を見て参れ」と陸奥の守に左遷されたという。

まあ、宮中の熾烈な出世争いの中では、実方の風流の手柄を妬むというのもありそうなことだし、挑発して相手に先に手を出させるというのもありそうなことだ。まあ、真偽のほどはわからないが。

 さて、物語はそこで終らず、その実方が任地に赴く途中、この笠島の道祖神の前を通るとき、馬から降りて拝んで行くこともなしに、そのまま馬に乗って通り過ぎようとしたところ、社の前でばたっと馬が倒れて実方は転がり落ちて死んだという。そこでこの道祖神の社の隣に実方の塚を作り、後にこの地を訪れた西行法師が哀れに思い、

 

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて
    枯野のすすき形見にぞ見る

 

と詠み、この歌は『新古今集』に収められている。

歌人としては天才と言われながらも、既成の価値観をへとも思わない無頼振りが結局仇になって、こんな辺鄙な土地に朽ち果てた実方へのレクイエムだ。この西行にちなみ、「形見の薄」なるものもこの地にあったようだ。
 芭蕉としてはもちろんこの哀れな魂を慰め、実方の見残した夢をわが身に引き受けようと思ったのだろう。実方に代わって陸奥(みちのく)の歌枕を見、発句を詠むことでもって実方が詠むことのできなかった歌に代えようとそう思いつつも、折りからの五月雨で道がぬかり、道祖神の社、実方の塚、形見の薄はついに寄ることができなかった。その無念の思いが、

 

 笠嶋はいづこさ月のぬかり道   芭蕉

 

の句となった。
 
 ここで芭蕉は笠嶋だけではなくではなく、簑輪・笠嶋と対にしている。蓑と笠は常に対になるものだからだ。網野善彦も『異形の王権』(一九八六、平凡者)の中で指摘しているように、蓑笠は単なる雨具ではない。それは田植えのときなどの神事の時に着る衣装で、平時に着るものではない。

 

  (ふら)ずとも竹植る日は蓑と笠    芭蕉

 

という句もあるように、雨が降る降らないにかかわらず、本来蓑笠は「ハレ着」だった。
 その一方、当時の人々にとって蓑笠は「非人」を連想させるものでもあった。農民が一揆を起すさいに蓑笠を着たのも、身分を失い非人に身を落とす覚悟を意味するものであり、不退転の決意を示すためのものだった。蓑笠のこうした用い方は、明治初期の自由民権運動のスローガンにも見られるという。
 蓑笠は、こうした本来人間社会から排除されるべき卑賎さを意味するとともに、同時に通常の人間にはない自然の魔力を身に付けたという意味で、聖なるものをも意味した。

 こうした両義性は、蓑笠に限らずおよそ差別の対象となるシンボルには共通していた。わらわ髪、頭巾、柿かたびら、乞食袋(大黒様の持っているような)、赤という色彩も皆同様に両義的であり、聖なることが同時に差別の理由となった。(今日でも「おめでたい」という言葉にはこういう両義性が残っている。あるいは「タコ」も末広がりでお目出度いが、罵る時に用いられる。)
 中世にあって、蓑笠はむしろ「公界(くがい)」の象徴であり、権力の及ばない自由な空間、アジールの象徴でもあり、連歌俳諧という風雅もそういった空間に起源を持っていた。それが江戸時代の身分の固定、定住化政策によって、公界は厳しい卑賎視と差別の場となり、「苦界」となった。
 芭蕉はしばしば「笠がない」ことを嘆く。蓑笠の自由の消失、公界の後退、それはまさに芭蕉が常に肌身で感じていたテーマだった。
 貞享元(1684)年、『野ざらし紀行』の旅の途中でも、芭蕉は、

 

 笠もなき我をしぐるるかこは何と

 

の句を詠んでいる。

古池の句で俳諧師として誰もが知る存在になっても、俳諧そのものの地位はあくまでも低く、そこでどんな名句をものにしても勅撰集に選ばれるわけではない。俳諧師は笠を失っている。それは現実の世界でも、笠はともかく、この時代は既に蓑は旅装束ではなくなったことと重なるのかもしれない。

 

 笠嶋はいづこさ月のぬかり道   芭蕉

 

の句には、単に実方ゆかりの笠嶋に行き着けなかったという思いだけではない。道祖神に招かれながらもその道祖神に行き着くための「蓑笠」すらない。五月雨に打たれ、笠もなくぬかり道を這いつくばる。そんな自分のみじめさをこの句は訴えているのではないか。
 実方は何のかんのいっても大宮人だ。左遷されたとはいえ「陸奥(むつ)(かみ)」の身分があり、歌は勅撰集に載り、後世に語り伝えられた。しかし、こんな自分は一体どうなるのだろうか。そんな思いはこの年の冬、あの絶唱へと凝縮された。

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉

 

 安藤昌益は「直耕」ということを説き、すべての人が等しく田畑を耕し、自給自足の生活をすれば、争いのない平和な「自然世」が訪れると考えた。しかし、これはまったくの観念的な虚構にすぎない。少なくとも人口増加の圧力を止めることができないなら、永遠に絵に描いた餅だ。
 実際農耕の可能な土地は限られている。そこから上がる収穫も無限ではない。人口が増えれば子孫全部に土地を分け与えることができず、何らかの形で村からを追い出される者が出てくる。
 長閑の農村風景も、決して見かけほど素晴しい楽園ではない。そこには常に複雑な因習が支配していて、常に婚姻や相続を巡るどろどろとした陰湿な争いや苛め、差別が渦巻き、誰もがそこに留まれるわけではない。
 
 ひとたび故郷を追われたものは、生きるために技術を身に付け、その技術を農作物と交換することで生計を立てねばならない。彼等は農村の血縁的な人間関係から疎外され、代わりに一人の独立した個人として、互いの利害関係と実力主義に基づく新しい人間関係を創造する。そこでは農村とは比較にならないほど自由で対等な人間関係が可能だが、一歩間違うと職を失い野ざらしとして枯野に朽ち果てる運命も待っている。
 かつて、天皇はこうした公界の職人・芸能の中から生まれ、職人・芸能は天皇の供御人として税や労役を免除され、諸国往来自由の特権を与えられ、保護されていた。しかし、皇室の権威の失墜とともに職人・芸能もその後ろ楯を失い、卑賎視されるようになっていった。

 謡曲『蝉丸』でも蝉丸は目が見えないという理由で逢坂山に捨てられる。この時蓑・笠を渡される。雨の多い日本の風土にあって、「雨露(あまつゆ)(しの)げる」というのは人間としての最低限の権利だったのかもしれない。
 芭蕉は伊賀へ行く山中で一匹の猿の姿を目にする。山もまた紛れもなく「公界」だ。そこにいる猿は自分と同じように、社会の様々なプレッシャーに為す術もなく打たれている。それを見て芭蕉は猿に小さな蓑笠を着せてやる。蓑笠着た猿は「俳諧の神」である道祖神=猿田彦に姿を変え、たちまち断腸の思いを叫ぶ。それはまさしく失われた公界のアジールの夢であり、「自由・平等」へのあくなき熱望だ。

 「笠がない」というテーマは今日の我々の中にも生きている。井上陽水の『傘がない』や、それのラップヴァージョンとも言うべきECDの『Pitch pitch chappin'』。笠がない-それはまだ我々にとって、多くの社会的なプレッシャーから身を守るだけの「自由」がないということだ。
 ところで、『奥の細道』の自筆本には曾良の狂歌として次の和歌が記され、貼紙して抹消されている。

 

  (ふる)あとのいかに降けむ五月雨の
    名にもある哉みのわ笠しま

 

 藤中将実方の旧跡は年を経、五月雨に打たれて、今はどうなっているのだろうか。蓑輪・笠嶋という地名もあることだから、きっと蓑笠で雨を凌ぎ、今日にも残っていることであろう、そういう歌だ。
 この歌は、発想としては芭蕉の平泉での「五月雨の降りのこしてや光堂」の初案「五月雨や年々降りて五百たび」に近い。この歌は曾良の『随行日記』は『俳諧書留』にないところから、芭蕉の創作と考える人もいるかもしれないが、芭蕉の和歌は他に例がなく、曾良が和歌の素養のあることからも、曾良の真作と見て良いだろう。
 芭蕉の方がむしろ平泉の句を作るさい、曾良のこの歌の影響を受けたと考えたかもしれない。曾良の歌のできの良さからいっても、この歌を『奥の細道』に載せようという考えは、最初の段階ではあったが、結局「俳諧」の紀行文としての統一性の問題から削除されたのであろう。

 なお、この道祖神の社は七年後の元禄九年、桃隣がここを訪れ、

 

 「此所にあらたなる道祖神御坐テ、近郷の者、旅人参詣不絶、社のうしろに原有。實方中将の塚アリ。五輪折崩て名のみばかり也。傍に中将の召されたる馬の塚有。」

 

と記し、

 

言の葉や茂りを分ケて塚二ッ   桃隣

 

の句を残している。芭蕉の見残しを桃隣が見ることとなった。

十九、武隈の松

 飯坂では(やまい)に倒れ、実方(さねかた)ゆかりの道祖神にも挨拶できずに通り過ぎた芭蕉だが、ここ武隈(たけくま)では目の醒めるようなものに出会った。

 

  「武隈(たけくま)の松にこそめ(さむ)る心地はすれ。根は(つち)(ぎは)より二木(ふたき)にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。(まづ)能因(のういん)法師思ひ(いづ)往昔(そのかみ)むつのかみにて下りし人、(この)の木を(きり)て名取川の(はし)(ぐひ)にせられたる事などあればにや、「松は此のたび跡もなし」とは(よみ)たり。代々(よよ)あるは(きり)、あるひは(うゑ)(つぎ)などせしと(きく)に、今将(いまはた)千歳(ちとせ)のかたちととのほひて、めでたき松のけしきになん(はべり)し。

 

    『武隈の松みせ申せ(おそ)(ざくら)』と(きょ)(はく)
 
    と(いふ)ものゝ(せん)(べつ)したりければ、

  桜より松は二木(ふたき)三月(みつき)()シ」

 

(現代語訳:武隈の松にこそ覚めるむるようなここ心地ちはだったすれ。根は地面つちぎはからより二本ふたきに分かれて、昔の姿失ってしなはいないずというらる

 

 まず能因法師()思い浮かぶ(もひいづ)。その(かみ)陸奥の守に赴任(てく)された(だりし)()()、この木を切()て名取川の橋杭にした(せら)()いう(たる)こと(ことなど)(あれ)あって(ばにや)、「松は(この)()()跡形(あと)もな()(とは)()んだ()()()

 

 代々(よよ)切る()()()いれば(きり)植え直し(あるひはうゑつぎ)など(などせし)(とき)して(くに)、今まさ()()千年前(ちとせ)の形その(とと)まま(のほ)(ひて)、目出度き松の景色になって(なんは)いる(べりし)

 

 

 

   「武隈の松見せ()やろう(うせ)遅桜」と挙白と

 

    いう者の餞別()()()あった(けれ)ので()

 (さくら)から(より)(まつ)()二木を三月越しに(

 

 朝霞山(あさかやま)のかつみ、信夫(しのぶ)文字(もじ)()り石、あると思っていたものがなかった。しかしここではないと思っていた二木(ふたき)の松があった。根本の所で二つに分かれているところからこの名がある。

 なぜないかと思っていたかというと、『()拾遺和(しゅういわ)歌集(かしゅう)』に能因法師が二度目の陸奥行きのときに、かつて見た武隈の松が跡形もないのを見て、

 

 たけくまの松はこの(たび)跡もなし
   ちとせをへてや我はきつらん

 

 武隈の松は跡形もなくなっており、一体常緑の松がなくなるとは千年もの時が経ってしまったのだろうか、と詠んでいるからだ。

 芭蕉も書いているように、この木は名取川の橋杭にするために切られてしまったのだという。それが今日再び植えられ、二木の松は復元されていた。昔の名所旧跡を粗末にする人もいれば、大事に守る人もいる。所詮は偽物だなどと思う人もいるかもしれないが、文化を守ろうとする人の心意気は買うべきだろう。

 芭蕉は旅立ちのときに挙白から送られた餞別(せんべつ)句、

 

 武隈の松みせもうせ遅桜

 

を思い起した。三月、春も終りに旅立った芭蕉に、みちのくで花見はできない。花の季節に会えなかった芭蕉に、せめて常緑の松は見せてやってくれ。病弱なため陸奥(みちのく)の寒い季節を避けて旅立たねばならなかった芭蕉への心づかいの句だ。

 挙白は東北出身の商人だから、武隈の松が復元されていることを知っていたのだろう。芭蕉は今それに答える。

 

 桜より松は二木を三月越シ

 

 遅桜とともに旅立った私は二木の松を三月ごし(三月の終わりに旅立ち、五月の初めに見たので、足掛け三ヶ月になる)に見ることができた。「三月」は「見き」に掛かる。『後拾遺和歌集』の、

 

 たけくまの松はふた木を都人(みやこびと)
 
   いかがととはばみきとこたへん
               (たちばなの)季通(すえみち)

 

の歌を踏まえてのものだ。

二十、仙台

 「名取(なとり)(がは)を渡りて仙台に(いる)。あやめふく日(なり)。旅宿をもとめて四五日逗留(とうりう)す。(ここ)画工(ぐわこう)加右(かゑ)衛門(もん)(いふ)ものあり。(いささか)心ある者と(きき)て知る人になる。この者、『年比(としごろ)さだかならぬ名どころを(かんがへ)(おき)(はべ)れば』とて、一日(ひとひ)案内す。

 宮城野(みやぎの)の萩茂りあひて、秋の気色(けしき)思ひやらるる。玉田・よこ野、つつじが岡はあせび(さく)ころ也。日影(ひかげ)ももらぬ松の林に(いり)て、(ここ)()(した)(いふ)とぞ。昔もかく露ふかけれぱこそ、『みさぶらひみかさ』とはよみたれ。

 薬師堂・天神の御社(みやしろ)など(をがみ)て、(その)()はくれぬ。(なほ)、松嶋・塩がまの所々(ところどころ)画に(かき)て送る。(かつ)、紺の(そめ)()つけたる草鞋(わらぢ)二足(はなむけ)す。さればこそ風流のしれもの、(ここ)に至りて(その)(じつ)(あらは)す。

 

  あやめ草足に(むすば)草鞋(わらぢ)()

 

(現代語訳:名取川を渡て仙台に入る。屋根菖蒲葺くだったなり泊るりょしゅく探してもとめて四五日逗留する

 

 ()こに画工加右(かゑ)衛門(もん)という()()いた(あり)。いささか心ある者と言われて(ききて)いる(しる)(ひと)だった(になる)。この()()

 

 「年月()()経って(ごろ)分かりにく(さだか)()なった(らぬ)名所(などころ)(かん)調べて(がへおき)おいた(はべ)ので(れば)

 

とい()って()一日(ひとひ)案内(あん)して()くれた(いす)

 

 宮城野の萩茂()のを()見る()()、秋の景色()想像(もひ)できる(やらるる)。玉田・横野・つつじが岡はアセビ咲く頃だった(なり)

 

 ()(かげ)射さない(ももらぬ)松の林に入っ(いり)て、ここ()「木の下」()(いふ)いう(とぞ)。昔もこんな(かく)露深かった(けれ)から()こそ「みさぶらひ()(かさ)」と詠まれた(はよみたれ)

 

 薬師堂・天神の御社など拝()()、その日は暮れ()

 

 その()()、松島・塩釜などの場所(のところど)(ころ)絵に書いて(きて)もらった(おくる)さらに(かつ)、紺の染め緒()つけた(けたる)草鞋二足、()()貰った(むけす)全く(され)もって(ばこそ)風流()知られる(しれ)()()ここに至()本物(そのじつ)()()わかる(らはす)

 

 

 あやめ草足に結ぼう()()草鞋の緒)

 

  かつて武隈の二木の松をも橋杭にしたという名取川は、歌枕としても名高い。『古今集』に、

 

  陸奥(みちのく)にありといふなる名取川
 
   なき名取りては苦しかりけり
             壬生忠岑(みぶのただみね)

 

という歌もある。この川を渡れば仙台城下だ。ちょうど五月四日、端午の節句の頃で、八日まで滞在する。その間、名所見物をした。

 

  宮城野の(もと)あらの小萩露を重み
   風を待つごとに君をこそ待て
                よみ人しらず
 うちなへて寝やは寝らるる宮城野の
   小萩が下葉色に出でけり
                よみ人しらず

 

と歌にも詠まれた宮城野の萩は季節はずれで、ただ茂る若葉に秋を偲んだのだろう。つつじヶ丘のあしびも見に行ったが、これは咲いていた。

 

  取りつなげ玉田よこののはなれ駒
 
   つつじが岡にあせみ花さく
                源俊頼(みなもとのとしより)

 

あせみ(あしび)は馬酔木とも書き、葉に毒があり、食べると馬が痺れるところからそのような字を当てる。
 
 木の下では、

 

  みさぶらひ()(かさ)(まを)せ宮城野の
    ()の下露は雨にまされり

 

 の歌を思い起す。『古今集』の東歌(あづまうた)で、以来宮城野の露は萩と組み合わされ、数々の歌に詠まれている。
 
 案内した画工加右衛門は俳号を加之(かし)といい、大淀三千風(みちかぜ)の門に属する。三千風は東北で大きな影響力をもった俳諧師で、かつては西鶴と「矢数(やかず)」を競ったこともあった。

 西鶴というと今では『好色一代男』や『日本永代蔵』が有名だが、小説家に転向する以前は談林を代表する俳諧師だった。西鶴は一人で一夜にしていかに多くの俳諧(はいかい)連歌(れんが)を完成させるかを競う「矢数(やかず)俳諧(はいかい)」というのを考えだし、大阪の俳諧に新風を巻き起こした。当時俳諧連歌は百句からなる(ひゃく)(いん)が主流で、西鶴は延宝五(一六七七)年に一夜にして百韻十六巻、つまり千六百句を早口で詠み上げる矢数俳諧興行を行った。
 
 当時句というのは吟じるものだった。吟というくらいだから、普通は今日の詩吟のようにゆっくりと歌い上げたのだろう。これに対し、西鶴の俳諧は阿蘭陀(おらんだ)流ともいわれ、早い調子で歌い上げる独特のスタイルを持っていたという。
 
 その西鶴の矢数俳諧に触発され、翌延宝六(一六七八)年には紀子(きし)が千八百を興行し、翌延宝七(一六七九)年にこの仙台の大淀三千風が三千句の独吟興行を行った。しかし、その翌年には西鶴が四千句興行を行い、その後西鶴は次々と新記録を樹立し、貞享元(一六八四)年には二万三千五百句という大記録を樹立した。

 

  俳諧の息の根止めん大矢数    西鶴

 

の句とともに、それ以降西鶴は俳諧を離れ、今日知られるような作家となった。
 
 そんなかつて西鶴と矢数を競った三千風の弟子に名所を案内され、さらには青い鼻緒の草鞋(わらじ)までをももらった。青い色は蛇が嫌うと言われていて、ジーンズが青いのもそのせいだという。芭蕉はその鼻緒の色を折りからの端午の節句ということであやめの色に取りなし、一句詠む

 

 あやめ草足に(むすば)草鞋(わらぢ)()   芭蕉

第三章、奥の細道

一、壷の石文

 「かの(ゑず)にまかせてたどり(ゆけ)ば、おくの細道の山際(やまぎは)十苻(とふ)(すげ)(あり)。今も年々十苻の管菰(すがごも)調(ととのへ)て国守に献ずと(いへ)り。
 (つぼの)(いしぶみ) 市川村(いちかはむら)多賀城(たがじゃう)(あり)
 つぼの石ぶみは、高サ六尺余、積三尺(ばかり)()。苔を穿(うがち)て文字(かすか)也。四維(しゆい)国界之数里(こくかいのすうり)をしるす。

 

(この)(しろ)(じん)()元年、按察使(あぜち)鎮守(ちんじゅ)符将軍大野(おほのの)()(そん)東人(あづまひと)之所置也。天平(てんぴょう)(ほう)()六年、参議東海東山(とうさんの)節度使(せつどし)(おなじく)将軍恵美(ゑみの)()(そん)(あさかり)修造(にして)、十二月(つい)(たち)

 

(あり)(しゃう)()皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ(おけ)る歌枕、おほく語伝(かたりつた)ふといへども、山(くづれ)(ながれ)て道あらたまり、石は(うづもれ)て土にかくれ、木は(おい)若木(わかぎ)にかはれば、時移り()(へん)じて、(その)(あと)たしかならぬ事のみを、(ここ)に至りて(うがたひ)なき千歳(せんざい)記念(かたみ)、今眼前に古人の心を(けみ)す。行脚(あんぎゃ)の一徳、存命(ぞんめい)(よろこ)び、()(りょ)の労をわすれて(なみだ)(おつ)るばかり也。」

 

(現代語訳:書いて(かの)もらった(ゑず)()()通り(かせ)()辿()()()行けば、奥の細道の山際に十符の菅があ()った()。今も毎年(年々)十符の菅菰を揃えて(ととのへて)国守に献じる(ずと)()いう(へり)

 壺の(いしぶみ) 市川村多賀城にあり。

 壺の碑は高さ百八十センチ(ろくしゃく)余り、幅九十センチ(さんじゃく)程度(ばかり)か。苔むして(をうが)かろう(ちて)じて(もじ)文字(かす)()読める(なり)東西南北(しゐこく)()()距離(すうり)が記()されて(しる)いて()

 

 「(この)(しろ)(じん)()元年按察使(あぜち)鎮守(ちんじゅ)(ふの)将軍、大野(おほのの)()(そん)東人(あづまひと)()所置也(おくところなり)天平(てんぴょう)(ほう)()六年、参議東海東山(とうさんの)節度使(せつどし)(おなじく)将軍恵美(ゑみの)()(そん)(あさかり)修造(にして)、十二月(つい)(たち)

 

とあ()。聖武天皇の時代(おんとき)に当(れり)

 昔から(より)詠まれて(よみお)きた(ける)歌枕、多く語り伝えられて(ふとい)いて(へど)()、山崩れ川流れて道(あら)変わり(たまり)、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に変わったり(れば)、時()流れ(つり)時代(よへ)()変り(じて)、その跡()はっきり(しかな)しない(らぬ)()多い()のに()、ここに至()ては疑い()ない()千年前(せんざい)記念物(かたみ)、今()()(ぜん)に古人の心を見る()よう()()

 行脚の成果(いっとく)、存命の喜び、長旅(きりょ)疲れ(らう)()忘れて涙も落()るばかり(なり)


 この紀行文のタイトルである『奥の細道』は本来仙台から塩釜にゆく道を指していたようだ。今でいうタイトル回収になる。

十苻(とふ)(すげ)は冠川土橋を渡った先の岩切新田の裏に、垣根のように植えられていたという。

 『夫木抄(ふぼくしょう)』にも、

 

みちのくの()()菅菰(すがごも)(なな)()には

   君を寝させて()()に我が寝む

 

の歌があり、昔より伝わる十苻(とふ)(すげ)で編んだ(こも)はこの時代にも栽培されていて、伊達の殿様に献上されていた。

 この道を横に入った所で、芭蕉は「壺の(いしぶみ)」に出会う。
 壺のいしぶみは『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』に「陸奥(みちのく)のおくにつぼのいしぶみ(あり)。日本の東のはてと(いへ)り。但、田村の将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付けたれば、石文と(いふ)(いへ)り。(下略)」とある。

 古来歌にも詠まれているが、その存在は伝説の域を出ない。芭蕉がここで見たのものは、坂上の田村麻呂が記したものではない。むしろ多賀城碑と呼ばれるもので、神亀元(724)年に多賀城が造られ、天平宝字6(762)年に改修したときのもので、古さという点では坂上の田村麻呂の時代より古い。
 その碑に「四維(しゆい)国界之数里(こくかいのすうり)をしるす」とあるのは次の文字をいう。

 

 去京一千五百里
 去蝦夷(えぞ)国界一百廿里
 去常陸国界四百十二里
 去下野国界二百七十四里
 去靺鞨(まっかつ)国界三千里

 

  当時の一里は六丁で670メートルくらいだから、京までは約千キロ、蝦夷国との境界までは80キロということになる。靺鞨(まっかつ)国は、今でいうナホトカより北側の沿海州から黒竜江(アムール川)の北岸を経て北満州にかけて広がる国で、唐から契丹(きったん)を経て、靺鞨(まっかつ)から蝦夷(えぞ)へと続く貿易路があったとされている。
 この多賀城碑の時代は、ちょうど日本に(ぼっ)(かい)使節がやってきて、交流を始めた年代でもあった。その発端は神亀4(727)年9月21日、北方の蝦夷地に高仁義以下24人の使節団が漂着したが、そこで16人が殺され、残った高斉徳以下の8人が出羽国の海岸にたどり着いた。一向8人は同年12月20日に平城京に入

った。
 (ぼっ)(かい)という国は聞きなれないかもしれないが、新羅(しるら)高句(こぐ)(りょ)を滅ぼして朝鮮半島を統一した後、北に逃れた高句麗の遺民が建てた国で、使節がかつての高句麗王朝の王家である()氏を名乗っているのもそのためかと思われる。そのため日本側の記録では高麗国と表記されることもあった。その国土は遼東半島から黒竜江南岸にかけての広大な領土を持ち、今の中国、北朝鮮、ロシアにまたがっている。『源氏物語』桐壺巻に登場する「こまうど」も、この渤海国の使節と思われる。
 時代は折から玄宗皇帝のもとで(755年の安録山の乱までは)唐が最も栄えた時代で、杜甫・李白が活躍した時代でもあった。当時、遼東半島が渤海国の領土だったため、唐はその向こう側の新羅との同盟関係を強化し、さらに渤海の北にある契丹や靺鞨国とも手を組んで、渤海に対する包囲網を形成していた。これに対抗するために、渤海が日本と同盟関係を結ぼうとして送ったのが、この使節団だった。しかし、航海技術の未熟さから、その日本と敵対し、靺鞨との間に貿易路を持つ蝦夷の領内に流れ着いてしまったのは不運だった。
 日本としても、この同盟の話はまんざらではなかった。日本は一方で唐へ遣唐使を派遣し、中国との関係を重視していたが、新羅とは国交がなく、むしろ脅威だった。渤海と手を組んで新羅を背後から牽制することには大きな意義があった。安録山の乱で中国の力が弱まると、この機に乗じて新羅侵攻という話もあったが、実際は当時の日本にそれだけの兵力はなく、あくまで藤原仲麻呂が外からの脅威を利用して国内での権力の強化を図るためのポーズにすぎなかった。
 763年に安録山の乱が終息すると、唐の高圧的な外交も終わり、唐と渤海の関係はもとより、東アジア全体に雪解けムードが生れる。
 この石は伊達藩の手によって名所として整備されていた。「から(より)詠まれて(よみお)きた(ける)歌枕、多く語り伝えられて(ふとい)いて(へど)()、山崩れ川流れて道(あら)変わり(たまり)、石は埋もれて土に隠れ、木は老いて若木に変わったり(れば)、時()流れ(つり)時代(よへ)()変り(じて)、その跡()はっきり(しかな)しない(らぬ)()多い()のに()」というのは、信夫(しのぶ)もぢずりの石のように粗末に放置されているものも多いものを、という意味だろう。芭蕉は感激しながらそのいしぶみの文章を書き写し、まさにはるばる「おくの細道」を旅し、「生きていてよかった」とばかりに泪を流した。
 この碑にはひところ偽作説があり、あたかも芭蕉が偽の碑とも知らず、『徒然草(つれづれぐさ)』で反対向きの狛犬に感銘したお坊さんよろしく、あだに涙を流したみたいに言われてきた。しかし、戦後は本物とする説のほうが有力となり、芭蕉の涙もどうやら無駄ではなかったようだ。
 壺のいしぶみを詠んだ歌としては、

 

 陸奥(みちのく)のいはでしのぶはえぞ知らぬ
    書き尽くしてよつぼの石ぶみ
                源頼朝(みなもとのよりとも)

 陸奥の壺のいしぶみありと聞く
 
    いづれか恋のさかひ成らん
                (じゃく)(れん)法師(ほうし)

 うけひきは遠からめやはみちのくの
    心づくしのつぼのいしぶみ
                和泉式部(いずみしきぶ)

 

といった歌がある。これで見ると、壺のいしぶみはかつてのエミシと和人の民族紛争の記録としてではなく、陸奥の遠さを男女の仲に例え、(いしぶみ)を「ふみ(手紙)」と掛けて用いるものだった。芭蕉の感激もその遠さを実感してのことだろう。遥か遠くの地にあるとされていた伝説の壺のいしぶみ、それが本当にあったということが感激の中心であったとおもわれる。
 ところで、古代に蝦夷(えぞ・えみし)と呼ばれた人々については、古くから和人説とアイヌ説とがある。皇国史観の支配的だった時代には日本は単一民族との立場から和人説が優勢だった。(この頃は日本人と朝鮮人はもともと同じ民族だとする朝鮮民族同系説も声高に唱えられ、日韓併合を正当化する論理となっていた。)しかし、戦後になると、東北のアイヌ語起源と思われる多くの地名の存在や、さらには血液型や遺伝子の研究、化石人骨の研究などから、エミシ=アイヌ説が有力になってきている。
 しかし、私はあまり和人かアイヌかという二者択一にこだわるべきではないと考えている。アイヌ・縄文人・琉球人が遺伝子的に近縁であることはほぼ確実ではあるだろう。しかし、もともと同じ民族でも長い年月にわたり海によって隔てられ、隔絶されれば、各々の民族は独自な発展を遂げる。

 特に、本土の縄文人は早くから長江流域で発生した農耕文明の影響を受け、最近の考古学的発見によれば、縄文中期には既に農耕民族化している。それに対し、北海道のアイヌは気候的に農耕に適さないこともあって、江戸時代まで狩猟民族としての生活を続けてきた。

 特に、7~12世紀にアイヌは北方のオホーツク文化の影響を強く受け、ユーカラやイオマンテ(熊送り)などの今日のアイヌを代表する文化は、この頃生じたものとされている。

両者の間には遺伝的に共通点はあっても文化的には大きな隔たりがあり、とても同一民族とはいえない。その意味では、エミシは縄文系の民族ではあるが、それが即ちアイヌだということにはならない。エミシがアイヌなら琉球人もアイヌと呼ばなくてはならないだろう。
 エミシはエミシであり、和人ともアイヌとも違う独立した民族と考えるべきであり、強いて言うなら縄文系農耕民族とでも言うべきだろう。
 これに対し、いわゆる和人は元来長江流域に住み長江文明の担い手だった、中国の史書にある会稽山(かいけいさん)の麓に住む呉人や越人と同系だったと考えた方がいいだろう。

漁撈民族で、全身に刺青をしているなど、『魏志倭人伝』に見る倭人との共通点が多い。秦や漢の領土拡大によってはじき出された呉・越などの末裔が、船に乗って津島海流に乗り、北九州地域に渡来したのがいわゆる弥生人であり、それが後に畿内に大和朝廷を建て、日本人の原形になった。
 90年代にベトナム人や中国人を乗せた難民船が、津島海流に乗って北九州から韓国全羅(ちょるら)()のあたりにしばしば流れ着いていた。かつて倭人もそのようにして北九州から全羅道にかけて住み着き、一方の韓国でも、百済(ぺくぢぇ)の内部に多くの倭人が住み着いていた。元来、百済と高句(こぐ)(りょ)()()人の建てた国で、その後、扶余人は新羅に吸収される形で、今の朝鮮民族を形成してゆくことになる。(騎馬民族征服説はむしろ韓国の方に当てはまるのかもしれない。)
 今でも全羅道出身者が韓国国内で差別を受けているのは、通常は風水上の理由で、この地域の地形がソウルに向って弓を引く格好になっているからだとか言われているが、かつて何らかの形でその民族の出自の問題が絡んでいた、その名残なのかもしれない。
 やがて、百済は東方から来た新羅(しるら)によって滅ぼされ、大量の帰化人が日本になだれ込んでくることとなった。そして、新羅は高句麗をも征服して、ここにおいて今日の日本と韓国の大まかな枠組みが成立した。

 こういうことをいうと、それなら朝鮮半島の南部はやはりかつて日本人が住んでいた日本の領土だったのではなかったか、という人も出てくるだろう。しかしそれはあまりに短絡的な発想であり、それを言うなら、韓国は中国東北部の、かつての扶余(ぷよ))人の領土を固有の領土だと主張できるし、渤海国が韓国人の建てた国であることを根拠に南満州からロシアのナホトカまで韓国固有の領土だと主張できてしまう。
 それを言えば中国だって楽浪郡のあったことを根拠に朝鮮半島を中国の領土だと主張することも出来る。(それ以前に、かつての朝貢国は中国の固有の領土だという考え方があるようだが。)
 さらにいえば、それだと北海道はアイヌの領土だし、モンゴルはジンギスカンの時代の最大領土をモンゴルだと主張できるし、アメリカ合衆国はインディアンに返還しなければならない。

 世界の諸民族は有史以前のみならず、歴史時代に入っても何度となく民族移動を繰り返し、ほとんどすべての民族は侵略者であると同時に亡命者でもある。固有の領土などという思想は意味がない。そんなものはこの地球上には存在しない。あるのは戦後体制の中で国境の変更が禁止された後の今の領土、それも至る所で紛争を抱えたままのものがあるにすぎない。これすら、ロシアがウクライナに勝利したなら、堰を切ったように世界中で国境のリセットが始まるかもしれない。

 大きな河川の下流域には広大で肥沃な平野が広がる。しかし、この肥沃さは洪水の危険と裏腹なもので、洪水によって上流の土砂が運ばれてくるから肥沃なのだ。今日の高度な土木技術をもってしても、梅雨や台風の集中豪雨で河川はしばしば氾濫する。まして古代であれば、その危険は計り知れないものだ。今日穀倉地帯と呼ばれている地域でも、縄文人にとってはうかつに手を出せない危険地帯だった。そこに水田を切り開いたのは、長江で鍛えられた高度な治水技術を持つ弥生人の集団だった。
 そのため、弥生時代も初期の段階では、弥生人と縄文系農耕民族との間にはある程度の棲み分けが可能だっただろう。平地には弥生人が、山地には縄文系農耕民族が、そして高山の奥地に行けばまだ縄文系狩猟民族も細々と暮らしていたかもしれない。狩猟民族は原生林の豊かな植性と野性動物相に依存して暮らしていたから、農耕民族の焼き畑によって生じた二次林帯は彼等にとっては食物の乏しい荒涼とした世界にすぎなかった。したがって、一度原生林が破壊されてしまえば、もはやそこに棲むことは困難で、農耕民族化するかまだ原生林の残る奥地へ移動するしかなかった。
 しかし、この状況も長くは続かない。弥生人の間に生じる人口増加の圧力は、必然的に縄文人の棲む山間部への進出を余儀なくされた。これに対し、弥生人の技術を取り入れた縄文人は逆に平地への進出を始めただろう。そうなると、両者の間に激しい衝突が生じる。勝負は何世紀もかけて一進一退の攻防を繰り返しながら、最終的には弥生人が勝利を収め、古墳時代には白河の関まで、奈良時代には北上川流域にまで達し、縄文系農耕民族を追い詰めた。この間には、弥生人に降伏し同化していったものも多数いたことだろう。その意味で、大和民族は弥生人と縄文人との混血によって生じたといっても間違いではない。
 こうした民族抗争の歴史は中世・近世でも継続されていた。江戸時代には最後のエミシであった松前藩が和人化することによって、和人対アイヌの抗争へと舞台を変えた。

 

 壺の碑の時代はアザマロやアテルイなどエミシの反乱が相継いだ時代だった。エミシ平定を日本人の反乱分子との闘いと見る説もあるが、当時の記録には村を焼き払うなどの殲滅戦が行われた形跡があり、同一民族同士の権力争いの域を越えている。もちろん、エミシの中には朝廷に不満をもっている和人や流刑人もいただろうし、職人や商人の中にも貿易の利権上の理由でエミシに与するものもいただろう。それは今日の日本のやくざの中に在日もいれば中国人やイラン人もいるからといって、それを「ボーダレス集団」と呼ぶことが出来ないようなものだ。

二、末の松山

 「それより野田の玉川・沖の石を(たづ)ぬ。末の松山は寺を(つくり)末松山(まつしょうざん)といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる(ちぎり)の末も、(つひに)はかくのごときと悲しさも(まさ)りて、塩がまの浦に入相(いりあひ)のかねを(きく)五月雨(さみだれ)の空(いささか)はれて、(ゆふ)月夜(づくよ)(かすか)に、(まがき)が嶋もほど近し。(あま)小舟(をぶね)こぎつれて、(さかな)わかつ声々に、『つなでかなしも』とよみけん心もしられて、いとど(あはれ)也。(その)()()(くら)法師の琵琶をならして奥上るりと(いふ)ものをかたる。平家にもあらず舞にもあらず、ひなびたる調子うち(あげ)て、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺士(へんど)遺風(ゐふう)忘れざるものから、殊勝(しゅしょう)(おぼえ)らる。」

 

(現代語訳:その(それ)あと(より)野田の玉川・沖の石()行った(たづぬ)。末の松山は寺を建てて(つくりて)末松山(まっしょうざん)という。松の(あひ)(あひ)墓地(はかはら)(にて)、羽根を交わし枝を連()る契りの末も、ついにはこう(かく)なる(のご)()()と悲しさ()込み上げ(まさりて)、塩竃の浦に入相の鐘を聞く。五月雨の空わずか(いささ)()晴れて、夕月夜幽かに、籬が島もすぐ(ほど)近く(ちか)()。海人の小船()次々()入港(つれ)して()を水()揚げ()する()声々に、『綱手悲しも』と詠んだ(みけん)心も知られて、ますます(いとど)悲しく(あはれ)なった(なり)

 その夜、盲目(めく)()法師の琵琶を鳴らして奥浄瑠璃というものを語る。平家でも(にも)なく(あらず)幸若舞(まひ)でも(にも)なく(あらず)、鄙び(たる)調子()掻き鳴らして(ちあげて)(ちか)()騒がしい(かしまし)けど(けれど)、さすがに辺境(へんど)()残る()芸能()()忘れられる(ざる)こと()()できず(から)良い(しゅ)もの(しょ)()()いた(おぼ)()思った(らる)


 塩釜もまた、古来和歌に詠まれることの多かった風光明媚な地で、『古今集』の東歌にも、

 

 みちのくはいづくはあれどしほがまの
    浦こぐ船の綱手(つなで)かなしも

 

 わが背子せこを都にやりてしほがまの
    まがきの島のまつぞ恋しき

 

 君をおきてあだし心をわが持たば
    末の松山浪も越えなむ

 

といった歌がある。これらの歌を本歌として、

 

 世の中は常にもがもななぎさ漕ぐ
    あまの小船の綱手かなしも
              源実朝(みなもとのさねとも)

 契ちぎりりきなかたみに袖をしぼりつつ
    末の松山浪こさじとは
              清原元(きよはらのもと)(すけ)

 

 

といった『百人一首』でも知られる名歌をも生んだ。
 「末の松山」は現在の多賀城市にあり、869年の貞観地震によって起きた10メートルを越す津波も越さなかったことで、「末の松山を浪が越える」というのはあり得ないことのたとえとして、平安貴族たちの話題にもなったのだろう。2011年3月11日の東日本大震災の大津波も、末の松山は越えなかった。
 それにしても、「末の松山」は浪も越さないと誓った恋も、やがて人は年老い、今は墓を残すのみとは、芭蕉は何て冷めた人か。熱い恋の思いも結局ははかなく消え行くものだというそういう冷めた心が、芭蕉が恋句を苦手とした一番の原因だろう。「あまの小船」を見ても、結局はこの世は常ではない、と思ったのだろうか。
 確かにそれは真実なのだろう。生あるものは必ず死に、形あるものは必ず滅びる。地球に栄える生命もいつかは太陽に飲み込まれて滅びる運命なのだろうし、宇宙もやがて膨張の果てに終息するのだろう。だが、生きるということは、結局その運命に逆らい続けることではないだろうか。生まれてきたのに死ななくてはならないというのはまったく不条理な運命であり、生きるというのは結局最後の一分一秒までその運命に反逆することではないのか。芭蕉も最後には死を目の前にしてもなお夢が枯野を旅し続けていることを素直に告白している。
 やがて死に別れ年老いてゆく男女も、それでも生涯忘れることのないような今の一時の永遠を感じる。蜑あまの小船を見た感動はそれだけで一瞬の目の前の永遠を感じられる。本当はそれがすべてではないのか。それがわかるからこそ、結局運命に勝てず、土に帰ってゆくものを本当に哀れむことが出来るのではないか。
 その夜、目の不自由な琵琶法師が奏でたのは平家物語ではなく、浄瑠璃(じょうるり)(ひめ)のローカルバージョンだろうか。諸行無常の響ではないが、悲恋の物語であろう。無常の中にあってなお永遠を願うこと、表裏一体の喜びと悲しみ、それが生きるということだ。

三、塩釜神社

 翌日芭蕉は塩竈(しおがま)明神に参拝した。


 「早朝(さうてう)塩がまの明神に(まうづ)(こく)(しゅ)再興せられて、宮柱(みやばしら)ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、右の(きざはし)九仭(きうじん)(かさな)り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の(はて)塵土(ぢんど)(さかひ)まで、神霊あらたにましますこそ、(わが)(くに)の風俗なれといと(たふと)けれ。神前に古き(ほう)(とう)(あり)。かねの戸びらの(おもて)に、『文冶三年和泉(いづみの)三郎(さぶらう)寄進』と(あり)。五百年来の(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命今に至りて、したはずといふ事なし。誠まことに人(よく)道を(つとめ)、義を(まもる)べし。『名もまた(これ)にしたがふ』と(いへ)り。」

 

(現代語訳:早朝、早朝、塩釜(しほがまの)明神(みゃうじん)に詣でた()。国守(さい)再興(こうせら)して(れて)宮柱を太()して()(さい)(てん)きらびやかに、石の階段(きざはし)二百段(きうじん)及び(かさなり)(あさ)()(あけ)()玉垣を輝かす。こんな(かかる)()(ちの)()()この(ぢん)()()果て(さかひ)まで神霊あらたかなる(にまします)こそ、我が国の風俗(ふうぞく)()と思()()()とにかく(とたふと)尊い(けれ)

 神前に古()宝燈()あり()(かね)の扉の表に『文冶三年和泉三郎寄進』とあ()。五百年来の面影()()目の前に浮んで(びて)とにかく(そぞろに)有り難い(めづらし)。彼は勇義忠孝の士だった(なり)名声(かめ)()(いま)(にい)なお(たりて)薄れる(したはずと)こと(いふ)(こと)ない(なし)。まこと、『()()よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従う』という()通り()()


 塩竈神社は多賀城の鬼門を守る神社で、九世紀頃からある、東北地方ではもっとも大きく由緒のある神社だった。かつて蝦夷(えみし)の住んでいたこの土地にあって、まさにこの神社は大和民族ここにありといったものだったのだろう。芭蕉はここに五百年前の和泉三郎の名を見つけ、感銘する。
 和泉三郎とは奥州藤原氏三代の藤原(ふじわらの)秀衡(ひでひら)の三男忠衡(ただひら)のことだ。父秀衡は源頼朝(みなもとのよりとも)に追われた義経をかくまっていたが、その秀衡が死んだとき、長男泰衡(やすひら)はこのまま義経をかくまい続ければ頼朝の軍に攻め滅ぼされると考え、頼朝の側につくことで東北地方の独立を守ろうとした。これに対し忠衡(ただひら)は父秀衡の遺命に従って、義経を守り最後は自害した。しかし、義経問題は奥州の内紛を誘う陽動作戦に過ぎず、泰衡はまんまとそれに引っかかっただけだった。
 元来、奥州藤原氏は朝廷より鎮守府将軍の位を与えられ、いわば朝廷によって奥州蝦夷の統治を委託され、実際に一世紀に渡る東北の平和を実現してきた実績もあった。それに対し、頼朝は元来朝廷への反乱軍として兵を起し、平氏の所領を奪ってはそれを私的に配分していた。朝廷にはそれに対抗するだけの軍事力はなかった。

 そんな頼朝も、さすがに平将門(たいらのまさかど)と同じ(てつ)は踏まなかった。自分が天皇になるのではなく、あくまで既存の皇室の権威を利用しながら、ただありもしない外国の脅威を煽り、非常事態を宣告することで軍事独裁政権を正当化した。今日の軍事政権にもよくあるパターンだ。

 理想は理想で一応それは置いといて、今は外からの脅威があるから我慢しろと、よくある話だ。だから、頼朝にとって奥州征伐は、どんな理由をつけても引くことのできない戦いだった。そして、戦いが終ったあとは、ただ朝廷から征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)の地位を手にいれ、自らの権力を既成事実化してゆくだけだった。
 おそらく頼朝なら、望めばもっと上の官位を得ることもできただろう。しかし、あくまで「征夷」の二文字にこだわったところに、頼朝の権力の本質があるのではなかったか。

 こうした武家政治の時代は、多くの人に「乱世」として認識されていた。その後、戦乱が起るたびに、失われた王朝時代は人々の記憶の中で果てしなく甘いノスタルジーとなり生き続けた。芭蕉の判官(ほうがん)びいきも、奥州藤原氏への同情も、当時の一般的な庶民感情の反映と見ていいだろう。
 結局奥州藤原氏は滅亡した。仮に兄弟一致団結して義経等とともに頼朝の軍と戦っていたとしても、二十八万四千騎とも言われる頼朝の大軍の前に、結果は同じだったかもしれない。それでも兄弟での無益な内紛は悔やまれることだ。親の命に従い、義経に忠誠を尽くした忠衡はその名のとおり「忠」孝の士名を残した。「名もまた是にしたがふ」というのはそういう意味だ。こうした言葉の一致も当時は単なる言葉遊びではなく、一種の仏縁と考えられていた。

四、松島や

 松島といえばかつては安芸の宮島、天の橋立とならんで日本三景と呼ばれていた。しかし、今日のように多くの人が海外旅行に出かけ、グランドキャニオンやマッターホルンやナイアガラの滝などを目のあたりにし、さらにはお茶の間のテレビに世界のありとあらゆる絶景が映し出されるとなると、日本三景もすっかり色あせてしまった感がある。私も松島の印象はというと、露店で亀を売ってたという記憶の方が大きい。昔の人はこの島がたくさん浮かぶ海の向こうに(ほう)(らい)の島を夢見たのだろうが、その感激がどうもダイレクトに伝わってこない。
 ところで芭蕉の松島の句というと

 

 松島やああ松島や松島や    伝芭蕉

 

という句が思い浮かぶ。この句は今では江戸後期の狂歌師の、

 

松島やさて松島や松島や    田原坊

 

の句が、伝わっていくうちに変化したものとされている。
 『奥の細道』では旅の当初から「三里に(きう)すゆるより、松嶋の月(まづ)心にかゝりて」と言っていたように、旅の最大の目的地の一つだった松島に芭蕉の句がないというのは、出版当初から大いに話題になり、いろいろな憶測を生んでいたのであろう。

 ()(ほう)の『(さん)冊子(ぞうし)』に、


 「師のいはく、絶景にむかふ時は、うばはれて不叶(かなはず)、物を見て取所を心に(とど)()不消(けさず)、書写して静に句すべし。うばはれぬ心得もある事也。そのおもふ所しきりにして、猶かなはざる時は書うつす也。あぐむべからずと也。師、松島にて句なし。大切の事也。」


とあるのもまた想像を掻き立てる。そうした空気があの伝芭蕉の句を生んだのだろう。
 実際には芭蕉には松島を詠んだ句が二句伝わっている。

 

 島々や千々ちぢにくだけて夏の海
 松島や夏を衣装に月と水

 

 どちらにしても芭蕉にしてはそれほどいい出来の句ではない。夏の海というと今では海水浴やマリンスポーツで賑わうが、当時としてはこれといって何もない海でしかなかった。春の松島なら花や鳥で彩ることが出来るが、夏の松島というのは発句のテーマとしては難題といえよう。「千々にくだけて」の句は大山(おおやま)つみの神が島を打ち砕いたという神話によるもので、それが殺風景な夏の海に恨みの色を添える。「夏に衣装を」の句も、何とか殺風景な夏の松島に衣装を着せようとして、水に写る月の美しさを添えたものだ。
 この難題を見事に解決したのは、むしろ曾良の方だった。


 「日(すでに)()にちかし。船をかりて松嶋にわたる。(その)間二里(あまり)()(じま)の磯につく。
 (そもそも)ことふりにたれど、松嶋は扶桑(ふそう)第一の好風にして、(およそ)洞庭(どうてい)西湖(せいこ)(はぢ)ず。東南より海を(いれ)て、江の(うち)三里、(せっ)(こう)(うしほ)をたゝふ。嶋々の数を(つく)して、(そばだつ)ものは天を(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばふ)。あるは二重(ふたへ)にかさなり三重(みへ)(たた)みて、左にわかれ右につらなる。(おへ)るあり(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉(しえふ)汐風(しほかぜ)(ふき)たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。(その)気色(けしき)(えう)(ぜん)として美人の(かんばせ)(よそほ)ふ。ちはや(ぶる)(かみ)のむかし、大山(おほやま)ずみのなせるわざにや。造化(ぞうくわ)天工(てんこう)、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。
 ()(じま)が磯は地つゞきて海に(いで)たる嶋也。雲居(うんご)禅師(ぜんじ)の別室の跡、坐禅(ざぜん)(せき)など(あり)(はた)、松の木陰(こかげ)に世をいとふ人も稀々(まれまれ)見え侍りて、落穂(おちぼ)(まつ)(かさ)など(うち)けぶりたる草の(いほり)(しづか)(すみ)なし、いかなる人とはしられずながら、(まづ)なつかしく立寄(たちよる)ほどに、(つき)(うみ)にうつりて、(ひる)のながめ又あらたむ。江上(かうしゃう)に帰りて宿を(もとむ)れば、窓をひらき二階を(つくり)て、風雲の中に旅寐(たびね)するこそ、あやしきまで(たへ)なる心地はせらるれ。

 

 松嶋や(つる)に身をかれほとゝぎす   曾良

 

  予は口をとぢて(ねぶ)らんとしていねられず。旧庵をわかるる時、素堂(そだう)松嶋の詩あり。原安適(はらあんてき)松がうらしまの和歌を贈らる。袋を(とき)てこよひの友とす。(かつ)杉風(さんぷう)濁子(ぢょくし)発句(ほっく)あり。」

 

(現代語訳:正午(ひす)近く(でに)なった(うまに)(ちかし)、船を借りて松島に渡る。その間四キロ(二里)余り(あま)()、雄島の磯に着く。

 そもそも()から()言われる(ふりに)よう(たれ)()、松島は扶桑第一の絶景(かうふう)にして、およそ洞庭・西湖にも()も恥()じない(ぢず)。東南は海()面し(いれ)て、その()入江(のう)()十二キロ(三里)、浙江のよう()()()湛える(たたふ)。島々()えきれない(をつく)ほど()()、そばだつものは天を指さし、臥すものは波に腹這う。ある()もの()は二重に重なり、三重に積み重なっ(たたみ)て、左には分()れて()()、右に()()なる。負ぶさったり(へるあり)かれたり(けるあり)()()()()愛する(いす)が如し。松の緑こまやかに、枝葉()潮風(ほか)()吹かれて(にふきた)たわみ(はめて)、屈曲()自然(のづか)()捻れた(ためた)()()ようだ(ごとし)。その景色(けしき)(えう)遠い(ぜん)()()した()美人の(かん)(ばせ)よう(をよそほ)()。ちはやぶる神の昔、オオヤマ()ミのなせる技だろ()うか()。造化の天工()()()文章(のひと)()表す(ふでを)こと(ふる)()できる(ことば)だろう(をつく)(さむ)

 雄島の磯は地続き()、海に突き出た(いでたる)(なり)。雲居禅師の別室の跡、座禅石など()ある()また(はた)、松の木陰に世を厭う人も(まれ)にや(まれ)って(みへ)来て(はべ)(りて)、落穂・松笠など(うち)()洩れる(ぶりたる)草の庵()静か(づか)()住んで(すみなし)どんな(いかなる)()()知らない(しられず)ながら、とにかく(まづ)惹き付けられて(なつかしく)立ち寄れば(ほどに)()()海に映()て、昼の眺めとも(また)また(あら)異なる(たむ)()()海岸(しゃう)戻って(かへりて)宿を求()れば、窓を開けて(ひらき)二階から()眺めれば(つくりて)、風雲の中に旅寝する()()不思議(あやし)()までに高揚(たへ)した(なる)気分(ここ)()させられる(はせらるれ)

 

 松島では()鶴に変身(みを)せよ(かれ)ほととぎす 曾良

 

 ()は口を閉じて眠ろう(らん)()()けど()眠れず(ねむられず)芭蕉(きう)(あん)出る(わかるる)時、素堂(そだ)()松島の詩(あり)原安適(はらあんて)()松が浦島の和歌を貰ってた(おくら)ので()、袋を解()て今宵の友とする()()()杉風・濁子()発句もあ()った()


 句の方は低調だった芭蕉も、散文による松島の描写はさすがに見事なものだ。没になった芭蕉の発句も「ちはや(ぶる)(かみ)のむかし、大山(おほやま)ずみのなせるわざにや。」「月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ」という下りに生かされている。そして、この夜の松島の景色を飾るのは曾良の発句だった。

 

 松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす   曾良

 

 松島だから郭公(ほととぎす)も鶴の姿になってくれ。そうすれば夏の夜の松島も、朝日に舞う鶴のあたかも初春のようなお目出度い景色に変わるだろう。やはり松島にはその方が似合っている。芭蕉の夏の松島の描写の後に突如鶴の舞う初春の松島が出現することによって、両者の対比が生じ、互いに引き立てあう。
 芭蕉は『野ざらし紀行』の中で桑名本統寺で、

 

 (ふゆ)牡丹(ぼたん)千鳥(ちどり)よ雪のほととぎす

 

 という句を詠んでいる。これも冬に季節はずれに咲く牡丹という難題の句だ。それを芭蕉は冬の千鳥を夏の郭公に見立てることで乗り切っている。しかし、芭蕉の発想は千鳥が郭公みたいだという所で、冬の中に夏の景色を同居させるところで留まっている。この発想で、芭蕉は夏の松島に何か衣装を着せて引き立てようとするに留まっていた。
 しかし、曾良は思いきってこの殺風景な夏の松島を否定して、いないはずの鶴を出してしまった。この発想は芭蕉もまねできなかった。曾良は歌学にも通じていたから、鴨長明(かものちょうめい)の『無名抄(むみょうしょう)』に書かれていたエピソードを思い起こしたのだろう。それは(ゆう)(せい)法師がある歌会の席で「千鳥も着けり鶴の羽衣」という歌を詠んで、みんながこれは面白いと言っていたとき、一人素覚法師が「面白いけど寸法が合わないな」と言ったので、みんなどっと笑ったというものだ。鶴の羽衣といっても着ぐるみではなく、ただ鶴の羽を付けただけだろうから、サイズがどうこうという問題ではない、ということを鴨長明は書いている。
 この元となった「千鳥も着けり鶴の羽衣」の歌は今日残ってなく、芭蕉の時代には伝承歌として、

 

 身にぞしる真野の入江に冬の来て
   千鳥もかるや鶴の毛衣

 

というふうに伝えられていたらしい。この場合、寒いから千鳥も鶴の羽毛が欲しいというものだが、曾良の句だと松島が殺風景だから、夏だけど郭公も鶴の羽衣を借りてきて欲しい、という意味になる。
 曾良のこの博識と機知にはさすがの芭蕉も舌を巻いたのだろう。芭蕉はただ「予は口をとぢて眠らんとしていねられず。」ということで、旅立ちのときに門人からもらった詩や歌や発句を詠み返し、長かった旅路を振り返るのだった。
 なお、この時の素堂の詩はこのようなものだったという。

 

 夏初松島自清幽 雲外杜鵑声未同
 眺望洗心都似水 可憐蒼翠対青眸

 

 夏の初めの松島は自ずと清く奥深く、
 雲の上のホトトギスの声はいまだそろわず、
 眺望に心が洗われるようでまさに水のようだ。
 可憐な青いカワセミの青い瞳が並ぶ。

 

 

いかにも文人の嗜みで作ったような詩だ。
 原安適の和歌、杉風・濁子の発句は残念ながら今日には伝わっていない。

五、瑞巌寺

 「十一日、瑞岩寺に(まうづ)当寺(たうじ)三十二世の昔、真壁(まかべ)平四郎(へいしらう)出家して、入唐(にったう)帰朝(きてう)(のち)開山す。其後(そののち)雲居(うんご)禅師(ぜんじ)徳化(とくげ)(より)て、七堂(いらか)(あらたま)りて、金壁(こんぺき)荘厳(しゃうごん)光を(かがやかし)仏土(ぶつど)成就(じゃうじゅ)大伽藍(だいがらん)とはなれりける。(かの)見仏(けんぶつ)(ひじり)の寺はいづくにやとしたはる。」

 

現代語訳:十一日、瑞巌寺に詣でる()この()()()三十二世の昔、真壁の平四郎出家して、入唐帰朝の(のち)開山した()。そのあと(のち)雲居禅師の徳化によ()て七堂(いら)再建(かあらた)(まり)(こん)()()(しゃ)荘厳(うご)()輝く(をか)もの(がや)()()、仏土(じゃ)かく(うじ)()の大伽藍となった(はなれ)()いう(ける)()の見仏上人(ひじり)()『寺はどこ(いづ)なん(くに)()』と慕って()来た()()いう()


 松島をはさんで塩釜神社と(ずい)巌寺(がんじ)の記述があるあたりも、芭蕉が神仏のバランスをうまくとっているのが感じられる。瑞巌寺は本当は天長5(828)年、アテルイの乱も収まり陸奥に平和が訪れた頃、滋覚大師によって建立され最初は延福寺と呼ばれ、天台宗だった。鎌倉時代に、芭蕉がここで述べているように、真壁平四郎が出家し法心と名を改め、宋へ渡り臨済宗を学び、帰国の後、延福寺を瑞巌寺と改め、禅寺となった。

雲居禅師は江戸時代になって二代目仙台藩主伊達忠宗の命によって瑞巌寺を再興し、ここで述べられているようなきらびやかな姿となった。
 芭蕉というとやはり禅の影響ということが昔から言われてきた。芭蕉が深沢隠棲時代に(ぶっ)(ちょう)和尚のもとで禅を学んだことは「雲巌寺」のところでも触れた。しかし、だからといって芭蕉の句を神秘めかして、凡人には想像もつかないような境地で詠んだと考えるのは間違いだ。芭蕉の俳句は今でこそ意味が分かりにくくなってはいるが、決して禅問答だったわけではない。
 芭蕉の句が難解なのは三百年にわたる言語や習慣の変化が最大の原因で、決して芭蕉が禅によって常人にはうかがい知れぬような境地に達していたからではない。この点を認めてしまうと、どんなにとんでもない解釈をやっても「天才の言うことだから」で正当化されてしまうことになる。特に注意しなくてはならないのは、仏教の生への執着を否定する思想が一歩まちがうと単なる人命の軽視、人を人とは思わぬような思想につながってしまうということだ。
 なぜ私がこんなことを言うかというと、こうした傾向がしばしば一流の芭蕉研究者の解説の中にも見られるからだ。上野洋三の『芭蕉論』(1986、筑摩書房)の「曾良を送る」の論は氏の精密な文法的解析とは裏腹に、とんでもない解釈を引き出している。それはこの『奥の細道』の中の一場面で、私自身の解釈は後で示すが、それはこういうものだ。

 

 行々(ゆきゆき)てたふれ(ふす)とも萩の原   曾良
 今日よりや書付(かきつけ)消さん笠の露  芭蕉

 

 「最も簡単にいえば、『死にます』という相手に、『死ね』といっているのだ。『行きます』という人間に、『去れ』というのだ。ややくどくいえば、『喜んでお先に参ります』という相手に、『思い残すことなく立派に死んでこい』といっているのである。このように書けば禅僧の言動に似るが、もちろん表現の上では、発句の応酬には、やや浄土教的な感覚があるし、地の文にも濃厚な感傷がある。」(『芭蕉論』上野洋三、1986、筑摩書房、p.243)


 『野ざらし紀行』の、

 

 猿を聞く人捨子(すてご)に秋の風いかに 芭蕉

 

の句について、山本健吉が捨て子の声の切実さを感じていながらも、結局「猿声に秋風 左勝 捨子に秋の風」といったようなおちゃらけにしてしまったのも、多分同じ理由なのだろう。

 

 私は両氏は本当は人間としても優れた人だとは思うが(会ったことないから本当の所はわからないが)、こんなとんでもない解釈をしてしまったのは、仏教の観念に振り回されてしまったからだろう。

第四章、象潟へ

一、平泉への道

 「十二日、平和(ひらい)(づみ)と心ざし、あねはの松・()だえの橋など聞伝(ききつたへ)て、人跡(じんせき)(まれ)に、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)(ゆき)かふ道、そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻という(みなと)(いづ)。こがね花(さく)とよみて(たてまつり)たる(きん)花山(くわざん)海上(かいしゃう)に見わたし、数百の廻船(くわいせん)入江につどひ、人家地をあらそひて、(かまど)の煙(ちた)つづけたり。思ひがけず(かか)る所にも(きた)れる哉と、宿からんとすれど更に宿かす人なし。(やうやう)まどしき小家に一夜(いちや)をあかして、(あく)れば又しらぬ道まよひ(ゆく)。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの(かや)はらなどよそめにみて、(はるか)なる(つつみ)(ゆく)。心細き長沼にそふて、戸伊摩(といま)(いふ)(ところ)に一宿して、平泉に到る。其間(そのかん)廿余里ほどとおぼゆ。」

 

(現代語訳:十二日、平泉()向かおう(こころざ)()、姉歯の松・緒絶えの橋など(きき)()聞き(たへて)、人跡稀()雉兎蒭蕘の行き交う道()どこ()()()わからず(わかず)結局(つひに)()間違えた(みたが)()()、石巻という港に出た(いづ)。『こがね花咲く』と()()()詠まれた(たてまつりたる)金華山海上()()()すと(たし)、数百の廻船入り江に集まり(つどひ)、人家()競う(をあ)()()ように(ひて)竈の煙()立て続(ちつづ)けて(けた)いた()。思()()よら()()この()よう()()()来て(きた)しまった(れるか)()と宿()借りよう(らん)()して(すれ)()宿(さらに)貸す(やどかす)()ない()やっと()()こと()()貧しい(まどしき)小家に一夜を明かして、明()ればまた知らない()道に迷い行く。袖の渡り・牧山(をぶちのまき)真野(まのの)萱原など余所目に見て、遙かなる堤を行く。心細き長沼に沿()登米(といま)という所に(いっ)(しゅく)して平泉に至る。その間八十キロ(二十余里)以上(ほど)あった()()思う(ぼゆ)

 

これまでの奥州街道は、一応幕府の政策としてもきちんと整備された街道だったし、塩釜への道は絵図に書いてもらっていた。しかし、松島から平泉への道は主要な街道から外れて、馬も使えなかったため難儀したようだ。

『奥の細道』では11日にはまだ松島の瑞巌寺にいて、12日に「平和(ひらい)(ずみ)と心ざし」、その日は石巻に「(やうやう)まどしき小家に一夜をあかし」、翌13日「戸伊摩(といま)(いふ)(ところ)に一宿し」14日に平泉に着いたことになっている。其間(そのかん)廿余里ほど」を3日で歩いたことになっている。一日平均七里はかなりの強行軍で、れなら芭蕉忍者説が出るのも無理はない。

 しかし、この日程は芭蕉の記憶違いだろう。曾良の『随行日記』によると、瑞巌寺詣では9日のことで、10日には松島を立っている。その日石巻に行き、翌11日には登米(といま)まで行き、12日には一関まで行き、13日にようやく平泉に着いたことになっている。4日かけて二十余里なら納得がいく。『随行日記』には「松島より此迄両人共に歩行。雨強降る」とあり一関の四里手前の安久津でようやく馬に乗れたと記されている。
 岡田喜秋は『旅人・曾良と芭蕉』(1991、河出書房新社)の中で、「曾良の『随行日記』をみると、馬に乗った場合は、ちゃんと書いてある。」と言い、特に馬に乗ったと書いてない部分すべてを徒歩とみなし、芭蕉が馬に乗らない理由をを芭蕉が痔だったからだとしている。

 しかし、曾良の『随行日記』には歩いた場合もちゃんと書いてある。この松島から安久津までの道のりの他に、新潟でも「馬高く、無用之由、源七指図にて歩行す。」とあり、市振のあとでも「入善に至て、馬なし。人雇て荷を持せ、黒部川を越。」とある。

 つまり、『随行日記』は正確にいえば、馬に乗ったと明記されている箇所、歩いたと明記されている箇所、どちらとも書いてない箇所、の三種類があるということになる。問題はどちらとも書いてない『随行日記』の大半の箇所をどうとるかだ。岡田喜秋は原則としてどちらとも書いてない場合は歩いたと考えているようだ。しかし、これには確固たる根拠はない。

 私はむしろ主要な街道はほとんど馬で旅したと考えている。仙台までの奥州街道は馬で行き、そこから先の「奥の細道」から徒歩の箇所が多くなり、北陸も加賀藩に入るまでは概ね歩いていたが、そこから先は馬に乗れたと考えている。

酒田を出てから残暑の厳しい中を延々と歩いたことで、芭蕉も体調を崩しているし、曾良の病気の原因の一つだったと思われる。
 また、須賀川で石河滝を見に行ったとき「歩にて行かば」という表記があり、そのあとで「小作田村と云馬次有。それより弐里下り、守山宿という馬次有。」とある。これも奥州街道から外れた山道で馬が使えなかったという特殊なケースと思われる。出羽三山登山のさいにも「高清。是迄馬足叶道」とあり、そこから先が歩きだったと思われる。また、尾花沢から立石寺、天童へ行く時にも「馬にて」「馬借て」の表記がある。これも街道をはずれた地域で、例外的なものと思われる。

 街道筋では基本的に馬に乗るのが芭蕉の旅の真の姿で、『野ざらし紀行』でも東海道を下るときに馬を使ったことははっきりしている。『奥の細道』だけ例外的にその大半を歩いたとは考えにくい。
 芭蕉の病歴を考慮するという意味では、芭蕉には延宝九年七月二十五日付けの木因宛の手紙に、すでに「拙者夜前は大に持病指発(さしおこ)り、昨昼之気のつかれ、夜中ふせり申さず候う間」とあり、まだ若い頃から持病を抱えていた。また、()(りつ)の語るところによると、貞享期に初めて会った芭蕉は41~2歳なのに「六十有余の老人」に見えたという。芭蕉が病弱だったのは明らかであり、決して健脚で毎日徒歩で八里九里を旅をできたが、たまたま痔がひどくて馬に乗れなかった、という程度のものではない。

 この箇所も松島を出たあと曾良は「松島立(馬次ニ 而ナシ。間廿丁計)。馬次、高城村、小野(是より桃生郡。弐里半)」と記している。ただ、馬がたまたま出払ってたか以上に高かったかで、徒歩で歩き、途中の矢本(やもと)新田(しんでん)の辺りで脱水状態になって、たまたま通りかかった根子村の今野源太左衛門のお世話になって石巻の宿を紹介してもらっている。

 石巻は想像以上に大きな街で、廻船の拠点として栄えていたようだ。日和山(ひよりやま)に登って万石(まんごく)(うら)、牡鹿半島の山々、牧山、真野(まのの)萱原(かやはら)などを見渡したものと思われる。

 その先は宿にいた一人が気仙沼(けせんぬま)へ行くついでに矢内津(やないつ)(今の柳津)まで同行し、登米(といま)の儀左衛門の宿の紹介所を貰っていた。矢内津(やないつ)まではおそらく船に乗ったと思われる。当時の北上川は矢内津(やないつ)から真っすぐ南へと流れて石巻の旧北上川に注いでいた。その川筋は広く、沼となっていて矢内津(やないつ)から先は土手を歩いたものと思われる。

 なお、登米(といま)の儀左衛門の宿は結局泊れず、それが「(やうやう)まどしき小家に一夜(いちや)をあかして」ということになった。曾良の『随行日記』には、検断(けんだん)の庄左衛門の家に泊まったとある。

二、奥州藤原氏三代の夢の跡

 「三代の栄耀(ええう)一睡(いっすい)(うち)にして、大門の跡は一里こなたに(あり)秀衡(ひでひら)が跡は田野(でんや)(なり)て、(きん)鶏山(けいざん)のみ形を残す。(まづ)高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るる大河(たいが)也。衣川(ころもがは)和泉(いづみ)(じゃう)をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)泰衡(やすひら)等が旧跡は、(ころも)(せき)(へだて)南部(なんぶ)(ぐち)をさし堅め、(えぞ)をふせぐとみえたり。(さて)も義臣すぐって(この)(しろ)にこもり、巧妙(こうみゃう)一時(いちじ)(くさむら)となる。『国破れて山河(さんが)あり、(しろ)春にして(くさ)(あを)みたり』と笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで(なみだ)を落し侍りぬ。

 

 夏草や(つはもの)どもが夢の跡
 卯の(はな)兼房(かねふさ)みゆる(しら)()かな   曾良」

 

(現代語訳:奥州(さん)三代(だい)(えい)栄華も(えいえう)一睡の内()こと()()、大門の跡は四キロ手前(一里こなた)にあった()。秀衡の()()は田野にな()て、金鶏山だけ(のみ)()残って(たちを)いる(のこす)。まず高館に登れば、北上川南部(なん)地方()より(なが)()る大河だった(なり)。衣川は和泉が城をめぐ()て高館の下(にて)大河に合流(おち)する(いる)。泰衡らの旧跡は衣が関を隔てて南部口を閉ざして(さし)固め(かため)、蝦夷を防ぐ()()思えた(えたり)それ()にし()ても()義臣()選んで(ぐって)この城に籠り、功名()一時(ちじ)()草むらとなる。『国破れて山河あり、城春にして草木(くさあを)()たり』と()()うち敷()て時の移るまで涙を落と()こと()()なった(りぬ)

 

 夏草はつわものども()夢の跡な()るや()

 卯の(はな)に兼房()白髪(ゆる)()見る(らが)ようだ(かな)()

 

 ここでひとまず東北地方の歴史をざっと振り返ってみよう。旧石器時代にはおそらくここにはイヌイットの祖先が棲んでいたのであろう。氷河期が終ると日本列島西部から大陸にかけて広く分布していた狩猟民族が東北、北海道へと分布域を拡大してゆく。彼等が縄文・アイヌ系の民族として、紀元前3世紀くらいまで日本の主要民族だった。このうち北海道をのぞく地域では江南方面から早い時期に伝わった焼畑農耕を営み、農耕民族化し、北海道に純狩猟民族として残ったものとの間に、文化的な隔たりが生じるようになった。

 ここに縄文人とアイヌが分離していった。もっとも、東北地方でも長く縄文系の狩猟民族と農耕民族は共存していたようだ。斉明天皇5(659)年の遣唐使のさいに連れていった蝦夷(えみし)が「五穀なく、肉を食ひて、(わた)()ふ」とあるのは、そのせいだろう。

 しかし、北海道の縄文系狩猟民族は本土のそれとは植生や気候の異なる場所で生活し、海によって隔絶されていたため、異なる歴史を歩み、特に7~12世紀頃のオホーツク文化の影響をもとに今日のアイヌ独自の文化を形成したと思われる。蝦夷の中に狩猟民がいたからといって、それが即アイヌだということにはならない。
 そして、紀元前3世紀頃には春秋戦国時代から秦漢による中国の統一の時代を経て、長江流域の江南系の民族(彼等は「()人」と総称された)は次第に漢民族に圧迫され、一部は南へのがれ、その最後の末裔が雲南、タイ、ビルマのワ族、ラワ族などの少数民族に痕跡を残すこととなった。

 これに対し東へのがれたものは津島海流に乗って北九州から朝鮮半島南部に流れつき、日本に弥生時代をもたらした。生産力の高い水田稲作農業を営む彼等はまたたく間に関東甲信越地方にまで広がり、畿内を中心に国家を形成するようになった。いわゆる大和朝廷の誕生だ。このとき、縄文系の民族は東北地方に次第に追いやられていった。彼等は倭人でもアイヌでもない、蝦夷(えみし)という独自の存在となった。白河、勿来(なこそ)()()の東北三関は仁徳天皇の子反正(はんぜい)天皇が蝦夷の侵入を防ぐ為に造ったと伝えられているが、定かではない。
 大和朝廷は蝦夷と接触するために東北各地に「柵」という役所を設け、そこに中央官人を派遣した。それとともに東北地方への移民も増え、蝦夷との衝突がしばしば生じるようになった。奈良時代後半から平安時代初期には移民と蝦夷との対立が激化し、蝦夷の反乱が相次いだ。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷大将軍になり、反乱を鎮圧したのも、この頃だった。

 11世紀になると安倍頼(あべのより)(よし)が東北六郡の郡司となり、本来蝦夷を鎮圧する立場だった郡司がかえって蝦夷を支配する力を利用し、蝦夷系の豪族とともに1051年、朝廷に対して反乱を起したのだった。ここに東北蝦夷の独立の時代が始まる。安倍氏の反乱は結局1062年には鎮圧され(前九年の役)、代わりに出羽の国の清原(きよはらの)武則(たけのり)鎮守府(ちんじゅふ)将軍になる。しかし、清原氏も陸奥(むつの)(かみ)として赴任してきた源義家(みなもとのよしいえ)と対立し、1083年反乱を起す(後三年の役)。
 このあと半独立状態の東北の支配者となったのが藤原(ふじわらの)清衡(きよひら)だった。藤原清衡は安倍氏、清原氏とも血縁があり、蝦夷の力を統括するとともに、京都の藤原家の血を引くということで、朝廷との強力なパイプを持ち、貿易を活発にすることで経済力をつけ、奥州藤原三代の繁栄の基礎を築いた。清衡は勢力を東北北部にまで延ばすことにより、北海道のアイヌを経て、樺太から沿海州への交易路を手にいれ、北方経由で中国の織物「蝦夷(えぞ)(にしき)」を輸入し、京都へ輸出した。またアイヌからはアザラシの皮や鷺の羽を輸入し、津軽の糠部(ぬかのぶ)の馬、気仙・本吉の金なども盛んに朝廷に貢納した。その一方で、清衡は中尊寺を建立し、仏教を広め、京都風の文化を東北に広めた。その栄華の跡は中尊寺の有名な金色堂に今日も見ることができる。
 清衡(きよひら)基衡(もとひら)秀衡(ひでひら)の三代に渡って繁栄を極めた奥州藤原氏も、秀衡が死に泰衡(やすひら)の時代になると(より)(とも)は1189年に総攻撃をかけ、奥州藤原氏は滅亡した。鎌倉幕府の支配下に入った東北の蝦夷は、その後も独立を求め、再三に渡って反乱を起した。そして、鎌倉後期には津軽を中心に安東氏が北海道のアイヌを従え、津軽から北海道、千島に渡る広大な千島国を築き、その力は北方から侵入してきたモンゴル軍と対峙するだけの強力なものとなった。
 やがて安東氏は室町幕府に臣従(しんじゅう)の形式を取り半独立状態を保った。しかし、鎌倉時代以来、北海道は流刑地として本土の人々が入植し、彼等と安東氏が結びつくことでやがてアイヌとの対立が深刻化してきた。その不満は1457年のコシャマインの乱で頂点に達した。その後もしばしばアイヌの反乱は続いたが、そのつど安東氏は和睦を申し出る振りをして首謀者を酒宴の席で暗殺し、鎮圧してきた。
 しかし、度重なるアイヌの反乱によって弱体化した安東氏は、やがて戦国時代に蠣崎(かきざき)氏にその地位を譲ることとなった。勢力の中心を津軽から北海道南部の松前に移した蠣崎氏は江戸時代には松前藩として形式的には江戸幕府に仕える大名の地位になったが、実質的には半独立の状態を維持した。蠣崎氏はアイヌ最大の反乱ともいえるシャクシャインの乱を鎮圧することで、アイヌに対する支配力を強めていった。シャクシャインの乱が起きたのは寛文9(1669)年のことで、その噂は芭蕉も耳にすることはあっただろう。
 やがて北海道は幕府の直轄地となり、それに連れてアイヌへの支配を強化してきた。これに対しアイヌは何度も反乱を起している。その中でも最大のものは寛政元(1789)年の「クナシリ・メナシの乱」で、それ以降もアイヌの抵抗は続いた。しかし、明治維新の頃にはロシアとの国境確定のさい、北方領土が日本固有の領土であることを主張するために、アイヌに対してそれまでの風俗、伝統文化から言語から何から何まで奪い去る強力な民族同化政策が取られるに至った。これと同様の同化政策はその後、韓国併合のさいに朝鮮民族に対しても行われた。

 これによって、縄文系の蝦夷もアイヌ系の蝦夷もほとんど息の根を止められ、今日の単一民族国家「日本」の幻想を生み出すに至った。しかし、アイヌは今日も少数ながら健在であり、彼らは独立した一つの民族としての誇りを守っている。蝦夷(えみし)、アイヌこの二つの民族と日本人との間に長い闘争の歴史があったことは記憶に留めておこう。
 衣川は10世紀ごろには北の安倍氏の支配地域と朝廷の支配地域との国境をなしていて、前九年の役のときには激しい戦闘が行われた。藤原三代の時代にも、これより北は縄文系の農耕民族だった蝦夷の住む地域だった。蝦夷の支配者だった安倍・清原氏の血と朝廷の藤原氏の両方の血を引くこのハイブリッドな王家は、蝦夷を交易ルートとして利用する一方で、やはり蝦夷の反乱の危険を常に抱えていたのだろう。『奥の細道』にも「衣川(ころもがは)和泉(いづみ)(じゃう)をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)泰衡(やすひら)等が旧跡は、(ころも)(せき)(へだて)南部(なんぶ)(ぐち)をさし堅め、(えぞ)をふせぐとみえたり。」とある。西行法師もこの地を訪れて、

 

 とりわきて心もしみて冴えぞわたる
    衣川みにきたるけふしも
               西行法師

 なみだをば衣河にぞながしける
    ふるき都をおもひいでつつ
               西行法師

 

の歌を詠んでいる。前者は衣川の戦いの故事を思い、後者は流人の心を歌ったものだ。西行の佐藤家も奥州藤原氏とは遠縁にあたり、秀衡とは面識もあったのかもしれない。
 衣川の北の高館は源義経(みなもとのよしつね)のかくまわれていた所で、この地は源頼朝の軍の攻撃によって再び悲劇の地となった。芭蕉の時代にはもはやかつての繁栄のあとはなく、ただ杜甫の『春望』の詩を思い起こすのみだった。

 

 国破山河在 城春草木深
 感時花濺涙 恨別鳥驚心
 烽火連三月 家書抵萬金
 白頭掻更短 渾欲不勝簪

 

 都が破壊尽くされても山河はそこにあり、街には春が来て草木が生茂る。
 時が時だけに目出度い花にも涙が溢れ、離れ離れになった運命を恨んでいれば鳥の声にはっとさせられる。
 戦火は三か月に渡り、家族からの便りは万金の価値がある。
 白髪頭を掻けば抜けてゆくばかりで、もう役人として冠を被ることもできないのだろう。

 

 目出度いはずの春も、戦火の中ではただ悲しいばかりだ、というこの詩は、謝霊運の「池塘生春草、園柳変鳴禽(池の土手には春の草が生い、庭の柳に鳴く鳥も変る)」の名句を踏まえたもので、謝霊運の満たされぬ春の嘆きを現実の戦火の悲惨に重ねている。そこには芭蕉の過去の繁栄を夏草にしのぶ気持ちと若干の温度差がある。杜甫のリアルは芭蕉にあってはノスタルジーにすぎない。しかし、それが渾然となるところに、この夏草の句が生まれる。

 

 夏草や(つはもの)どもが夢の跡      芭蕉

 

 奥州三代の繁栄、それは王朝時代の夢につながる。失われた過去は心の中で果てしなく美化され、黄金郷の夢を形作る。プラトンが夢見たアトランティスのように、孔子が夢見た先王の治世のように、室町、江戸時代の日本人にとって、王朝時代は理想郷だった。

 江戸時代の日本人は天皇のことをほとんど意識しなかったという人がいるが、そんなことはないだろう。天皇は八代集や源氏物語や能を通じて一つの夢物語として理解されていた。それが国学の原動力となり、幕末の王政復古につながっていった。聖人君主の政治によって、民衆の声はダイレクトに国政に反映され、一君万民のユートピアを形作る。

 それはあまりに淡く非現実的な夢想だ。しかし、どんな聖人君主が政治を行おうと、官僚的な独裁体制のもとでは民衆の声は官僚の間を通って君主に伝えらるまでにゆがめられてしまい、君主は正確な情報に基づいての判断ができないばかりか、君主の意思も官僚組織を伝わる間にどうしようもなく醜く歪められてしまうであろう。一君万民は一人一人の顔が見える程度の小さな部族社会では可能かもしれない。それより社会が大きくなれば、やはり民主主義的な形態の方が民意を正確に反映できるだろう。
 芭蕉もそんな一君万民の淡い夢を見る一人だったのだろう。たとえば、

 

 日の道や葵かたむく五月雨(さつきあめ)    芭蕉

 

の句の寓意は明瞭だ。日の道、つまり天道、天皇の道、天照大神の道に葵、つまり徳川家は傾いてゆく。しかし、天道そのものは五月雨の厚い雲に遮られて見ることができない。徳川東照宮の光は木の下闇までも照らすことができない。見えない天道。本当の太陽の時代は遠い過去の追憶でしかない。

 当時の人の歴史観からすれば、奥州三代の栄華も、蝦夷といえども天皇の保護のもとに平和が保証されればこそのものだったのだろう。今日の一民族一国家の考え方からすれば理解しがたいかもしれないが、前近代の帝国には、少なからず「保護された民」という考え方があった。文明の遅れた民族は抹殺するのではなくむしろ教化し育てるという考え方は、洋の東西を問わず存在していた。

 中華思想というのも、四方の夷狄を朝貢・冊封という形でその独立を認め、保護するというものだった。奥州藤原氏もまた、そうした関係で独立状態を保っていた。奥州藤原氏の栄華は同時に天皇の威光の現われでもあったのである。この関係は江戸時代の松前藩と幕府との関係にも受け継がれている。それが根本的に崩壊したのは明治の近代化のさいに西洋から一民族一国家の考え方が入ってきてからだ。一民族一国家観が悲劇を引き起こしたのは、アイヌや朝鮮民族だけではない。オスマン・トルコのもとに「保護された民」として平和共存していたバルカン半島の諸民族は、いまだに多くの火種を抱えている。
 「兵どもが夢」とは一体何だったのだろうか。国を守るため、民族を守るため、家族・同胞を守るために闘い、果てた人の夢はただ一つ、平和だったに違いない。武家政治という名の軍事政権は、しばしば国際関係を弱肉強食の血で血を洗う世界に変える。芭蕉の時代には秀吉の朝鮮侵略の暴挙もまだ記憶に遠くない。
 しかし、そんな素朴な平和への祈りも、残念ながら武家政治に対抗できるだけの明確な政治理念として結実することはなかった。幕末の王政復古も理論を欠いたまま、結局軍国主義という新たな武家政治を生んだだけだった。敗戦の中で残ったものは結局、ただ天皇親政に幻滅した人々と、まだ夢から醒め切れぬ人々の二つだった。

 天皇は中世・近世と実際に政治の舞台に出ることがなかった。だからこそ神聖でいられた。人々はノスタルジーの中に各々理想の君主の姿を思い描いていればよかった。しかし、ひとたびそれが権謀術策渦巻く政治の表舞台に引き出されれば必ず汚れる。敗戦により日本が焦土と化したあの日、どれだけの人が杜甫の「国破れて山河在り」と芭蕉の夏草の句を思い起こしたことだろうか。もっともまだ山河が残っただけ恵まれていたかもしれない。都市が破壊されただけで農村はほとんど無傷で残ってた。今のウクライナとはそこが違う。
 芭蕉のこの句に、曾良もまた、

 

 卯の花に兼房(かねふさ)みゆる(しら)()かな   曾良

 

と付け加える。桜の咲く山は白い雲に例えられるが、卯の花の咲いた山は若葉の緑と卯の花の白が入り交じり、ちょうど白髪がまじって胡麻塩頭になったようになる。それを非業の死を遂げた兼房の面影とした句で、あたかも兼房が転生して卯の花になったかのようだ。

 朱子学では人は死ぬと気が散じ、天地に還ってゆく。そして、気は循環し、また新しい生命を生み出してゆく。兼房の魂はあたかも今もなお付近の山の卯の花となって残っているかのように感じたのだろう。

三、光堂

 「(かね)て耳(おどろか)したる二堂開帳す。経堂(きゃうだう)は三将の像をのこし、光堂(ひかりだう)は三代の(ひつぎ)を納め、三尊(さんぞん)の仏を安置(あんち)す。七宝散(しちほうちり)うせて、(たま)(とぼそ)風にやぶれ、(こがね)の柱霜雪(さうせつ)(くち)て、(すでに)頽廃(たいはい)空虚(くうきょ)(くさむら)(なる)べきを、四面(あらた)(かこみ)て、(いらか)(おほひ)て風雨を(しのぐ)暫時(しばらく)千歳(せんざい)記念(かたみ)とはなれり。

 

 五月雨の(ふり)残してや光堂」

 

(現代語訳:かねてより()驚く()べき(おど)もの()()聞いてた(したる)二堂(にだ)()開帳した()。経堂は三将の像()残されてて(のこし)、光堂は三代の棺を納めて(おさめ)三尊の仏を安置(あん)して()いた()本来()なら()七宝()()散り失せて玉の(とぼそ)は風に破れ、(こがね)の柱も()()(せつ)に朽ちて、とっく(すで)()頽廃空虚の草むら()なって(なる)いた()もの()を、四方を新たに囲(みて)、甍で覆()て風雨を凌いで(しの)きた()一時()()はず()()もの()()千年()()残る()記念(かたみ)(とは)()なった(れり)

 

 五月雨()降り残し()()光堂

 

 私も光堂の実物を見るまでは、光堂があまりにも素晴しく神々しいため、五月雨もここだけ降らなかったようだ、というような一種の比喩だと思っていた。しかし実物を見て、何だそういうことかと納得し、思わず笑ってしまった。これじゃあ五月雨が降るはずもない。後で『奥の細道』の本文を見てみると、ちゃんと「四面(あらた)(かこみ)て、(いらか)(おほひ)て風雨を(しのぐ)」と書いてある。
 かつて藤原清衡が建立した中尊寺光堂は、鎌倉時代には既にさや堂(套堂、覆堂、鞘堂などと人によってばらばらな字が当てられている)が立てられていたという。だが、このさや堂の存在はなぜか昭和の芭蕉研究者たちには嫌われていたようだ。
 たとえば、山本健吉は『奥の細道』(1989、講談社)の中で、「芭蕉は詩人としての特権で、散文的な套堂(さやどう)などは詩としてのイメージのなかから取り除いてしまう。」といい、安東次男も『芭蕉百五十句』(1989、文春文庫)の中で、「当座、覆堂(さやどう)の矚目などを詠まなくてよかった」といい、なぜかさや堂は無視されている。
 これに対し、荻原(おぎわら)井泉水(せいせんすい)は「殊に注意すべきことは、これを後世まで保有するための、施設をしたということに、芭蕉が感謝していることである。今日で云えば国宝建造物の保存ということを芭蕉より四百年も以前にやっておいてくれた為に、後世の者が往昔の文化を直接鑑賞することができる、その文化事業的な意義を芭蕉は高唱しているのである。」とし、「五月雨が降ったとても鞘堂(さやどう)があるために、ここだけは降り残すことであろうし、それゆえにいつもこの堂は光輝さんらんとしているのだ」(『奥の細道ノート』1956、新潮文庫)という解釈を示している。私もこれに付け加えることはない。
 
 さや堂が詩にならないなんて一体誰が決めたことか。この句はさや堂を賛美し、単なる歴史の感傷を越え、光堂を守ってきた人々へ感謝の気持ちと、その背後にある人々の信仰心への畏敬が、そのまま句になったところに価値がある。

 この句は倒置法でできていて、正しい順序にすれば「光堂のみぞ五月雨の降り残してや」となる。

 この句は先の「夏草や兵どもが夢の跡」の句と対になる。「七宝散(しちほうちり)うせて、(たま)(とぼそ)風にやぶれ、(こがね)(ばしら)霜雪(さうせつ)(くち)て、(すでに)頽廃(たいはい)空虚(くうきょ)(くさむら)(なる)べきを」、つまり夏草に埋もれ、夢の跡だけしか残らなかったかもしれないものを、「四面(あらた)(かこみ)て、(いらか)(おほひ)て風雨を(しのぐ)(しばらく)千歳(せんざい)記念(かたみ)とはなれり」としたところに、五月雨の降り残しの光堂を見ていた。

 芭蕉はこれまでの旅でも、かつての名所旧跡の保存状態の悪さを何度となく目にしてきたからこそ、さや堂への感動はひとしおだったのだろう。『奥の細道』のしのぶもぢ()りの場面でも、もぢ摺の石が粗末に扱われていることを嘆いたばかりだった。
 五月雨といえば、芭蕉はその後『嵯峨日記』の中で、

 

 五月雨や色紙(しきし)へぎたる壁の色

 

という句も詠んでいる。壁に張ってあった紙を剥がせば、そこだけ元の色の壁が残っている。ここでも五月雨は年月がふる(経る、降る)という意味で用いられている。壁紙を剥がしたあと、まだこの家の新しかった頃の壁の色が残っているのを発見する。それは日常の何気ない風景で、まさに、この頃の「軽み」を感じさせる句だが、その裏にも、五百回の五月雨をかいくぐった光堂の輝きが隠されている。
 ところで、『奥の細道』には「(かね)(みみ)(おどろか)したる二堂開帳す。経堂(きゃうだう)は三将の像をのこし、光堂(ひかりだう)は三代の(ひつぎ)を納め、三尊(さんぞん)の仏を安置(あんち)す。」とあるが、曾良の『随行日記』によると、経堂の方は実際は開帳してなく、中は見られなかったという。それならこの「三将の像」は何だったのだろうか。ここだけは虚構なのだろうか。芭蕉を信じるとするならば、これはどこかで見た別の「三将の像」か、あるいは人から話に聞いた「三将の像」のイメージが記憶が紛れ込んだために生じた「偽記憶」だろう。

 1966年に公表された芭蕉自筆本には、「五月雨の降り残してや」の句ではなく、

 

 五月雨や年々(としどし)降りて五百たび
 蛍火の昼は消えつゝ柱かな

 

の二句が記されている。最初は五百年という年月の重みの方に重点を置いて考えていたようだ。しかし、五月雨が五百回降ったというだけの句では、光堂のきらびやかさもそれがさや堂に守られていたことも表現できてはいない。もう一句の方も、

 

 御垣(みかき)(もり)衛士(ゑじ)の焚く火の夜は燃えて
    昼は消えつつ物をこそ思え
            大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶの)()(そん)

 

の歌を踏まえたもので、昼間の光堂の静寂に裏に、長い歴史の恨みを隠し込んだものだ。蛍は人の魂にしばしば例えられ、その消えそうな微かな光は苦しい恋に傷ついた女の泣き声のようでもある。それを芭蕉はこの地に果てた人々の嘆きの声に聞いたのだろう。

 奥州三代滅亡の兵どもの夢は、見た所何もないかのように平穏にさや堂に守られている。しかし、非業の死を遂げた魂達は昼の蛍のように見えないところでふつふつと恨みの炎を燃やしているかのようだ。後に桃隣が芭蕉の足跡を慕い、この地で詠んだ句に、

 

 (いくさ)せん力も見えず飛ほたる

 

という句がある。これは芭蕉の「蛍火の‥‥」を踏まえたものだろう。

四、シトとバリ

 「南部(なんぶ)(みち)(はるかに)にみやりて、岩手(いはで)の里に泊る。小黒崎(をぐろさき)・みづの小嶋(をじま)(すぎ)て、なるごの湯より尿前(しとまえ)の関にかかりて、出羽(では)の国に(こえ)んとす。(この)(みち)旅人(たびびと)稀なる所なれば、関守(せきもり)にあやしめられて、(やうやう)として関をこす。大山(おほやま)をのぼって日既暮(すでにくれ)ければ、封人(ほうじん)の家を見かけて(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

 

 (のみ)(しらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」

 

(現代語訳:南部道()遥か(るか)に見ながら(やりて)岩手の里に泊る。小黒崎・美豆の小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関()通って(かかりて)出羽の国へと()越えよう()()した()。この()()旅人(たびびと)()()(なる)(なれば)、関守()怪しんで(あやしめられ)()やっと(やうや)()こと(とし)()関を越す。大山を登って日()()に暮れてた(けれ)ので()()()役人(じん)の家を見かけて泊めて(やどり)()れと(もと)頼む()。三日雨風(ふう)吹き()荒れて、仕方なく(よしなき)山中に逗留した()

 

 ノミ・シラミ馬のバリする枕もと

 

 この「(のみ)(しらみ)‥‥」の句は長いこと「馬のシトする」と読まれ、親しまれてきた。実は、古くから定本とされてきた()(りゅう)本には、この「尿」という字に振り仮名が振ってなかったところから、一般にそう読まれてきたものだった。多分に「尿前(しとまえ)の関」という地名からそう読まれたのだろう。

 ところが、昭和18(1943)年に、曾良の『随行日記』とともに『奥の細道』の曾良が所持していた写本である『曾良本』(上野洋三によれば利牛による写本、村松友次は芭蕉自筆説を唱えている)が発見され、そこにはバリと振り仮名が振ってあった。この時はそれほど大きな問題にはならなかった。写した人が勝手に振った振り仮名かもしれないということで終わっていた。

 ところが芭蕉自筆本が1996年に公表されると、様子が違ってくる。そこにも芭蕉の筆跡ではっきりと「バリ」と書かれていたからだ。そうなると、この句は本来、

 

 (のみ)(しらみ)馬のバリする枕もと

 

 ではなかったか、という疑問が湧いてくる。

 もちろん、最初は「バリする」としたが、後に推敲し「シトする」と改めたという解釈も成り立つ。長いことシトするで通ってきて、それで名句だということですっかり馴染んでしまった耳には、「バリ」なんてとんでもないという気持ちが起こるのも無理はない。

 私も始めはそうだった。しかし、時間が経つと不思議とこの「バリ」という語感にも何となく馴染んでくる。「シトする」というのは確かに上品で奇麗な感じがする。「シトする」のイメージだと、芭蕉や曾良は蚤や虱の痒さに悩まされながら、半分寝て半分目覚めたような朦朧とした状態で馬の小便の音を聞いているようだ。その小便の音はいかにも「シトシトシト」といった静かなもので、それは夢の中で清水のせせらぎに変ってゆくような、ほのぼのとした情景に変ってゆく。

 「バリする」ということになると、イメージはかなり変ってくる。馬の小便はいかにも「バリバリバリ」と大音響を立てる。蚤や虱で体中が痒くて、寝るに寝られないところにもってきて、ようやく寝入ろうかというところで馬の小便の音に目が醒めてしまう。横にいる曾良と「すげぇ音だな」「いやまったくまいったっすね」などと言いながらクスクス笑い、ついに一睡もできなかったというような情景が目に浮かぶ。

 旅の句の本意、また夏の夜の心はというと、やはり旅寝の苦しさ、眠れない夜という方が本来の風雅の趣向だったのではなかったのか。そういうわけで「シトする」の奇麗さより「バリする」のリアリティーのほうを支持する。少なくとも「バリ」は自筆本で証明できるが、後に「しと」と改めたとする証拠は見つかっていない。

 馬の尿(シト、バリ)は尿前の関という地名に書けたものであり、また、それは「道は()尿(にょう)に有り」と言った荘子の心にも通じる。

五、山刀伐(なたぎり)峠

 「あるじの(いふ)、是より出羽(では)の国に大山を(へだて)て、道さだかならざれば、道しるべの人を(たのみ)(こゆ)べきよしを(まうす)。さらばと(いふ)て人を頼待(たのみはべ)れば、究竟(くっきょう)若者(わかもの)反脇指(そりわきざし)をよこたえ、(かし)の杖を(たづさへ)て、我々(われわれ)が先に(たち)(ゆく)。『けふこそ(かならず)あやうきめにもあふべき日なれ』と、(から)き思ひをなして(あと)について(ゆく)

 あるじの(いふ)にたがはず、高山(かうざん)森々(しんしん)として(いっ)(てう)声きかず、()下闇(したやみ)茂りあひて()(ゆく)がごとし、雲端(うんたん)につちふる心地(ここち)して、(しの)の中踏分(ふみわけ)踏分(ふみわけ)、水をわたり岩に(つまづい)て、(はだ)につめたき汗を流して、最上(もがみ)(しゃう)に出づ。かの案内(あない)せしおのこの(いふ)やう、『(この)みち(かならず)不用(ふよう)(こと)(あり)(つつが)なうをくりまいらせて仕合(しあはせ)したり』と、よろこびてわかれぬ。跡に(きき)てさへ胸とどろくのみ也。」

 

(現代語訳:主人(あるじ)が言うに()ここ(これ)から(より)出羽の国()大山を隔てて道()分かり(だか)()くい(らざ)から(れば)、道案内(しるべ)の人()付いて(たの)もらって(みて)えた(ゆべ)()()良い(しを)()言った(うす)それ()なら()ばと言()て人を頼んだら(みはべれば)、屈強の若者(そり)反り(わき)脇指(ざし)()()差し(たへ)、樫の杖を携えて、『俺たち(われわれ)露払い(さきにたち)()する(ゆく)。今日(こそ)危ない(かならず)()()って(うきめ)(にも)おかしく(あふべ)ない(きひ)()()』という(から)から()びくびく(おもひを)しながら(なして)()ついて行く。主人(あるじ)の言った(ふに)通り(たがはず)(かう)()()(しん)鬱蒼(しん)として(いっ)(てう)(こゑ)()聞こえず(かず)、木の下闇()()()茂って(あひて)()いてる(くが)みた(ごと)いだ()()()()()上げた()が降()って()来るん()じゃ()ない()()()(しの)の中()掻き分けて(みわけふみわけ)(みづ)渡る()()には()岩につまずいて、肌に冷や(つめたき)汗をかきながら(ながして)最上の庄に出()。かの案内(せし)(おのこ)()いう(いふ)(やう)『この道()必ず(ならず)(ぶよ)()()起こる(ことあり)無事(つつが)(なう)(をく)()こと(まい)()()きて(しあは)()かった(したり)』と喜()()帰って(わか)行った(れぬ)そう(あと)()われて(ききて)()()はり(むね)動悸(とど)()()まら(のみ)ない(なり)


 ここ山刀伐(なたぎり)峠越えのくだりは荻原井泉水(せいせんすい)によれば『奥の細道』の一番のヤマ場だという。たしかに山越の道ではある。しかし、松島・象潟きさかたを差し置いてここが一番のサワリというのはちょっと無理があるかもしれない。それでも、この段がそれに勝るとも劣らない名文であることは確かだ。

 街道筋からはずれた山道で、道に迷いやすく、おまけに山賊まで出るというので、屈強な若者が刀を携えて同行する。「高山(かうざん)森々(しんしん)として(いっ)(てう)声きかず」は王安石の「一鳥不鳴山更幽(一羽の鳥さえも鳴くことがなく、山はいよいよ深くなる。)」の詩句を思い浮かべたか。「雲端(うんたん)につちふる心地(ここち)して」は杜甫の「已入風磑霾雲端(風の挽き臼に引き込まれてしまったようで雲の端は巻上げられた土埃が降ってくる。)」の詩句を踏まえたものだという

 「(この)みち(かならず)不用(ふよう)(こと)(あり)」というのは山賊が出るということだが、人通りの少ない山道ではそういうことも多かったのだろう。
 旅の苦しみは草加、飯坂を経て、この山刀伐峠で頂点に達するから、ここが一番のヤマとする荻原井泉水の説も理由のないわけではない。病弱な体に鞭打っての険しい山道越えで、山賊が出ると聞き、命の危険にさらされるとあれば、なおさらだ。

 曾良の『随行日記』によれば前日は一日大雨で、道も悪かっただろう。案内の者に荷を持たせたとあるが、馬が使えたのかどうか、(かし)の杖を持っていたからおそらく徒歩で、草に埋もれかけた道の露をこの杖で払いながら進んだのだろう。山賊は出なくても熊は出るかもしれないから、音を立てながら進む必要もあった。

 ただ、この山越の道はそんなに長くなく、昼過ぎには尾花沢の清風(せいふう)のもとに着いたとある。

六、尾花沢

 「尾花沢(をばなざわ)にて清風(せいふう)(いふ)(もの)(たづ)ぬ。かれは(とめ)るものなれども、(こころざし)いやしからず。(みやこ)にも折々かよひて、さすがに旅の(なさけ)をも(しり)たれば、日比(ひごろ)とどめて、長途(ちゃうど)のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

 

 涼しさを(わが)宿(やど)にしてねまる也
 這出(はひいで)よかひやが下のひきの声
 まゆはきを(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
 蚕飼(こがひ)する人は古代のすがた哉   曾良」

 

(現代語訳:尾花沢()()清風という者を尋ねた()。彼は裕福(とめるも)(のな)けど(れど)(こころ)(ざし)卑し()ない(らず)。都にも何度(をりを)()()て、さすがに旅の情けも知って(りた)いる()ので()何日(ひご)()泊めて(とど)くれて(めて)長旅(ちゃうど)()気遣い(いたはり)、様々にもてなし()くれた(べる)

 

 涼しさ()我が宿()よう()()くつろいだ(ねまるなり)

 這出でよ()小屋(ひや)()下のヒキガエル(ひき)の声

 眉掃き()面影になる(して)紅の花

 蚕飼いする人は古代の姿だろ()うか() 曾良

 

 清風は紅花(べにばな)問屋で金融業をも営み、まさに「富とめるもの」だった。しかし、俳諧をたしなみ、貞享2(1685)年に江戸に出てきたときには芭蕉や曾良とも会っている。芭蕉はこの尾花沢の地に5月17日から27日まで滞在している。この間、尾花沢での興行で残ってるものは二回だけだった。

 

 涼しさを(わが)宿(やど)にしてねまる也   芭蕉

 

 留守がちな清風の家で芭蕉だけが暇そうに昼寝している姿が目に浮かぶ。「ねまる」はこの地方の方言で、寝そべるという意味だという。

 

 這出(はひいで)よかひやが下のひきの声   芭蕉

 

の句もいかにも退屈していた時に詠んだような句だ。この句は『万葉集』巻十の二二六五の、

 

 朝霞かひやが下に鳴く(かはづ)
   声だに聞けばわれ恋ひめやも

 

の歌を踏まえたもので、おそらく忍んできた若い男が蛙の鳴き真似を合図にしていたのだろう。それが(ひきがえる)の声となれば、むくつけき中年男、清風が誘いに来ないかな、という所か。しかし、長い旅で疲れている芭蕉にとっては、下手に興行や名所見物に引っぱり回されるより、時には何も考えずにぼーとしていられるのが、何よりも最高のもてなしだったのかもしれない。

 

 まゆはきを(おもかげ)にして紅粉(べに)の花   芭蕉

 

 眉掃(まゆはき)というのは眉を書くための刷毛(はけ)のことで、紅花の花がその刷毛に似ていることからこの句が生まれている。尾花沢は紅花の産地で、清風も紅花問屋だった。
 曾良の、

 

 蚕飼(こがひ)する人は古代のすがた哉    曾良

 

の句は、本当はここで詠まれたものではない。曾良の『俳諧書留』には黒羽と白河の関の間に詠まれた句となっている。最初の句形は、

 

 (こがひ)する姿に残る古代哉      曾良

 

だった。(かいこ)を飼っている人の姿に、古代の人もこのように蚕を飼っていたのかなと想像する。いかにも学者らしい句だ。しかし、この句を尾花沢に持って来たのは、芭蕉の記憶違いによるものか。
 なお、ここ尾花沢で芭蕉の句と伝えられている、いわば「伝芭蕉」の句として、

 

 行末(ゆくすゑ)()が肌ふれん紅の花

 

というのがある。山本健吉はこれを芭蕉の句とみなし、「色っぽい句である」と評価している。
 
 この句は元禄12(1699)年刊の各務支考(かがみしこう)編『西華集』に見られるもので、一応芭蕉の直弟子の選集に載っているという点では由緒ある句だ。ただ、芭蕉の句としては異色の句であるため、当初から芭蕉の作を疑う人も多かった。加賀の千代女(ちよじょ)(「朝顔に釣瓶(つるべ)をとられてもらい水」の句はよく知られている)の作という説もあったが、千代女は元禄16(1703)年の生れなのでこれは無理だ。
 始めに「行末は誰が肌ふれん」と来ると、聞いた人はついついどんな男がこの女の肌に触れるのか、などど想像してしまう。それを下五で「紅の花」ともってきて、「何だ、紅の花がどんな女の肌に触れるのかという意味だったのか」と「落ち」になる。こうした構成法は榎本()(かく)が得意としていた。

 

 切られたる夢はまことか蚤のあと 其角

 

 「切る」という言葉が本来俳諧では避けるべき言葉とされていた。つまり今でいえば暴力シーン規制のようなものだ。いきなり「切られたる」で始まるのはその意味で「あぶない」表現だ。「夢は」と続くことで、何だ夢かということで納得する。しかしそのあとさらに「まことか」と来て、再びどきっとさせる。そして最後に「蚤のあと」で締めくくり「落ち」をつける。其角はこうした落ちのつけ方が実にうまい。

 ある書家が桜を描いた屏風に何か揮毫(きごう)してくれと言われたとき、酔っ払っていたその書家は「此の所小便無用」などとしょうもないことを書いてしまった。せっかくの屏風が台なしだと思っているところに榎本其角が「花の下」と書き加え、見事発句にしてしまった、というエピソードもある。
 しかし、こうした構成法を売り物にしている句は、芭蕉にはそんなに多くはない。「誰が肌ふれん」という言い回しも芭蕉にしては確かに露骨な感じの言い回しだ。支考は芭蕉存命中の元禄五年、芭蕉の足跡を慕い『奥の細道』のコースを巡ったというから、この句のことは旅の途中で聞いたのだろう。
 私自身はこの句が芭蕉の作であるという可能性を捨てていない。しかし、もし芭蕉の作だとすれば、おそらく「まゆはきを俤にして紅粉の花」の句の初案であろう。可能性として考えられるのは、芭蕉が清風の所で雑談しているときに、たまたま「行末は‥‥」の句ができて披露した。

 しかし、「誰が肌ふれん」は少しばかり露骨な感じがして、芭蕉は何とかそれをほんのりと匂わすような別の言い回しを案じた。その時、折りから紅花の咲く季節で、アザミを黄色くしたような紅花の形が眉はきに似ているのにふと気付いた。「これだ!」と芭蕉は思った。そこで「行く末は誰が眉はきの紅の花」だとか「まゆはきは誰が面影の紅の花」だとかいろいろ案じているうちについに「まゆはきを俤にして紅粉の花」の最終形に至った。曾良はその完成した句だけを書き留めた。

 この句は『俳諧書留』では尾花沢の句ではなく、尾花沢から立石寺(りっしゃくじ)へ行く道で詠んだことになっている。改作が尾花沢を出た後なら、清風はこのことを知らず、初案の方をあとから訪ねて来た支考に語った可能性は十分にある。
 眉はきは女の人の肌に触れる。紅の花がいずれどんな人の肌に塗られるのだろうか、という初案の趣旨は、この「眉はき」を持ち出すことで、言わずして語ることができる。いかにも芭蕉らしい幻術ではないか。

七、閑(しづか)さや

 「山形領に立石寺(りふしゃくじ)(いふ)山寺あり。()(かく)大師(だいし)の開基にして、(ことに)清閑(せいかん)の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに(より)て、尾花沢よりとつて返し、其間(そのかん)七里ばかり也。日いまだ(くれ)ず。麓の坊に宿かり(おき)て、山上の堂にのぼる。岩に(いはほ)(かさね)て山とし、松柏(しょうはく)(とし)(ふり)土石(どせき)(おい)(こけ)(なめらか)に、岩上(がんしゃう)の院々(とびら)(とぢ)て物の音きこえず。崖をめぐり岩を(はひ)仏閣(ぶっかく)を拝し、佳景(かけい)寂寞(じゃくまく)として心すみ(ゆく)のみおぼゆ。

 

 (しづ)かさや岩にしみ(いる)(せみ)の声」

 

(現代語訳:山形領に立石寺という山寺があ()った()。慈覚大師の開基()とに(して)かく(ことに)清閑()()だと()いう()一度(いっ)()()()()()良い()()()から(々の)勧められる(すすむるに)まま(よりて)、尾花沢より横道(とって)()それ(へし)、その間三十キロ(七里ばか)(りな)()

 日()未だ(まだ)暮れず、麓の宿坊(ばう)()借り()おいて(きて)、山上の堂に登る。岩に(いはほ)を重ねて山とし、松柏()()経て(ふり)、土石風化()して()苔滑らかに、()()(しゃう)建物(いん)()()扉を閉じて(もの)(のお)一つ(ときこ)ない(えず)。崖をめぐり岩を這()て仏閣を拝()、佳景寂寞として心()澄んで(みゆく)ゆく(のみ)よう(おぼ)()

 

 (しづ)()()()岩に染み入る静かさ(せみのこ)()

 

 5月28日、旅立ちからちょうど二か月、この日、芭蕉は尾花沢を出、曾良の『随行日記』によると七里半もの道のりをわざわざ山寺へ行くためにたどったことになる。朝の7時頃に出て、着いたのは4時近くだった。夏至の頃なので日が長く、芭蕉は宿に荷物を置いて一息つき、それから山寺を参詣した。おそらく既に日は西に傾き、そこかしこヒグラシが鳴いていたにちがいない。
 「松柏(しょうはく)(とし)(ふり)」の松柏は墓地のことだ。立石寺(りっしゃくじ)は修験の寺で、修験道ではかつて風葬の風習の名残から、遺体を山に葬るという。

 山があの世への入り口だという考え方はアイヌにもあり、日本でも昔から死者は死出の山を越える旅をするという。立石寺も東北各地から納骨の人が訪れ、岩に戒名を掘り込んだ岩塔婆を祭る。立石寺の岩はその意味では墓石そのものだ。夕暮れてヒグラシの鳴く墓所を巡れば、寂しさ物悲しさは胸を締め付けるばかりだ。

 おそらく、自分もいつかはあの墓の下へ行くのだろう。一体今こうして生きているというのは何なのだろうか、そんなことを振り返らざるを得ない。

 満足な人生だったか。こうして旅をしている一瞬は本当に生きているのだろうか。この一瞬はやがて消え去ってしまうのだろうか。ここには何代にも渡ってたくさんのかつて生きていた人々が眠っている。一体その人たちは何を見たのだろうか。そして人生をどのように考え、どのような思いで死を迎えたのだろうか。遥かな夢、満たされぬ思いを背負い、最後はこれが精一杯とあきらめて息を引き取ったのだろうか。思い残すことはなかったのだろうか。はかない命、不条理な死、人はいつまでそれを繰り返すのか。そんな取り留めもない思いに胸が締め付けられるような思いになりながら、ただヒグラシの「カナカナ」いう声だけが際限なく繰り返されている。

 それはまさに立石寺の岩の中にしみ入ってゆくかのように、かえって果てしない静寂を生み出して行く。こうした静寂は「仏閣(ぶっかく)を拝し、佳景(かけい)寂寞(じゃくまく)として心すみ(ゆく)のみおぼゆ」とあるように、夕暮れの山寺の心細さは、仏にすがり、山頂から見る山水画のような絶景を眺め、その美しさに心和ませることによってのみ、しばし救われる。

 この句は一般的には昼間のやかましいばかりの油蝉やニイニイゼミが、心澄ませばかえって静寂に聞こえる、という禅的な解釈がなされている。しかし、それだと作者の心がいかにも澄みきって一点の曇りもない、だとか、いかにも悟り切っているかような自慢めいた句になってしまう。そういう慢心の心は中世の連歌が最も嫌うところのものだった。

 その事情は芭蕉の時代の俳諧でも同じだろう。山寺の静けさは心に曇りのないという明鏡止水の静けさ、尾形仂が言う「禅定悟入の境地を思わせさえもする」ような静けさではない。むしろ死の不安や人生の悲しみに打ち震えるような、そういう閑寂さを読み取るべきだろう。
 なお、曾良の『俳諧書留』にはこの句の原案と思われる

 

   立石寺
 山寺や石にしみつく蝉の声

 

の句が書き留められている。さらに元禄8(1695)年刊の壷中・芦角編『こがらし』には、

 

 淋しさの岩にしみ込む蝉の声

 

元禄9(1696)年刊の風国編『初蝉』には、

 

 さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ

 

とある。『奥の細道』の書かれたのが元禄5(1692)年頃とされてい、自筆本『奥の細道』にも今の姿で書かれているから、この二句はそれ以前の推敲過程のものが何らかの形で伝わったもので、刊本『奥の細道』(素流本)が出たのが元禄15(1702)年のことだから、完成形を知らずに掲載されたものだろう。しかし、そのおかげで、この「閑さや」の句の推敲過程をたどることができる。

 順番としては、

 

 山寺や石にしみつく蝉の声
 淋しさの岩にしみ込む蝉の声
 さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ
 閑さや岩にしみ入蝉の声

 

となるだろう。
 まず最初の「山寺や」の句意は明瞭だ。山寺とは前書きにある立石寺のことで、その立石寺の石に蝉の声が染み着いている。いわを「岩」と表記せずに「石」という字を当てているのは、「立石寺」の名前に掛けようとしているからだろう。その立石寺の岩には蝉の声が、おそらく長年に渡って数えきれないほど数の蝉の声が染み着いている。この蝉の声の寓意も明白だ。それは長い歴史の中でこの世を去っていった無数の人々の悲しみであり、そのはかない命を「春秋を知らぬ」はかない蝉の命に例えているのだ。光堂での初案である「五月雨や年々降りて五百たび」の趣向に近い。俳諧興行のさいの発句としてはこの程度のもので十分であろう。
 しかし、この句だと、前書きで立石寺だとわかっているところでもう一度「山寺や」と繰り返しになるのがいささかくどく、立石寺と石を掛けるのもわかりやすすぎてあざとく見える。また、「染み着く」の語感もきれいではない。そこで、

 

 淋しさの岩にしみ込む蝉の声

 

という第二の案になる。「淋しさの」を補うことによって、句の持つ情はよりはっきりする。この句は明らかに蝉の声のはかなさに託された人生の寂寥感にあった。

 「石」は「岩」と改められることによって、掛け言葉のあざとさもなくなり、「染み着く」は「しみ込む」になることによって、より優雅な言い回しになった。

 しかし、強いて欠点を言えば、句切れの悪さだ。「淋しさの」だと「岩にしみ込む」は「淋しさ」と「蝉の声」の二つの主語を両側から受けなくてはならない。本来の語順に戻せば、この句は「蝉の声の淋しさの岩にしみ込む」となる。「蝉の声」を倒置することによってこの句になる。そこで、切れ字を使い、

 

 さびしさや岩にしみ込む蝉のこゑ

 

とする。意味は変わらないが、句の切れはだいぶ良くなる。これでほぼ完成といっていい。いや、並の作家ならこれで完成とするところだろう。
 しかし、この後芭蕉は二つのことを見い出した。一つは「しみ込む」をさらに「しみいる」に変えるということ。そして、もう一つは「淋しさ」を「閑かさ」に変えるということだ。

 「しみ込む」だと水が地面にしみ込んだりするような、物理的な印象が強く残る。それに比べ「しみいる」という表現はよりメンタルな「心にしみいる」という印象を与える。これによって、岩にしみいる蝉の声の静けさは、そのまま心にしみいるかのように響く。

 そのため「淋しさ」という表現は不要になる。蝉の声が心にしみいるなら、それだけで既に十分淋しいからだ。そこから「閑かさ」が導かれてくる。この言葉は、これまでもしばしば指摘されてきたが、王籍の『入若耶渓(にゅうじゃくやけい)』という詩から来た言葉だ。

 

    入若耶渓
 艅艎何汎汎 空水共悠悠
 陰霞生遠岫 陽景逐回流
 蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽
 此地動帰念 長年悲倦遊

 

 豪華船はすいすいと滑るように進み、空も水も果てしなく広がっている。
 霞の陰は遠い山々に生じ、陽の光は廻り来る水の流れを追いかけている。

 蝉は騒がしく鳴いて林はいよいよ静けさを増し、鳥が鳴いて山は更に奥深くなる。

 この土地に来ると、ここに落ち着きたいという気持ちが抑え切れず、長年の役人勤めが悲しくなる。

 

 蝉の声の間断ない鳴き声は、人の耳にはかえって慣れを生じさせ、むしろ他の雑音を押し流して静寂感を与える。滝の音、雨の音、淡々としたリズムのBGMなどは皆同じような効果がある。あちこちから聞こえてくる蝉の悲しげな声も、その間断のなさがかえって静寂感を深める。その悲しく淋しい静寂が岩にしみ入ると共に心にもしみ入ってくる。ここにこの句は完成する。

 技術というのは、一見してその技法がわかってしまうようでは、まだ完成度が低い。技術が高度になればなるほど、素人目にはどういう技法が使われているか見破れなくなり、かえって何の技巧もないように見える。

 たとえば、初期のコンピューター・グラフィックは一見としてそれとわかるもので、単純な球や立方体や三角錐などの組み合わせで出来ていた。それが技術が進むに連れ次第になめらかな曲面を出せるようになり、動きも自然なものになる。言葉の技法にも同じようなことがいえる。

 掛け言葉や縁語なども、一見してそれとわかってしまうようでは、まだ高度な技法とはいえない。技法が本当に完成された時には、あたかも何も考えずにすっと口をついて出てきたかのように見える。

 芭蕉の句もほんの一部の句ではあるが、その域に達している。この「閑さや」の句はそのいい例であろう。

 芭蕉の多くの句、特に俳諧興行の席で即興的に詠んだ句ほど、作為や技巧が誰の目にも見えるような形で顔出している。「山寺や」の原案もそのような句だ。即興で詠んだ句ほど技巧的に見え、二年三年と時間をかけて練り上げられた句ほど自然に口をついて出てきたかのような「技巧のない句」に見える。

 正岡子規はこうした芭蕉の高度な技法の句を即興で出来た、むしろ技巧を徹底的に排した句と解釈することによって、写生説を広めていった。そこから、近代俳句は技巧を否定し、むしろ自動記述ともいうべきほど即興に徹しようとした。(子規の場合、これは誤解なんかではなく確信犯ではなかったかと私は思っている。)近代の俳人が束になってかかっても結局芭蕉に勝てないのは、おそらく「技法」というものに対する考え方がまったく擦れ違ってしまったからではないか。

 なお。「立石寺」には「りっしゃくじ」と「りゅうしゃくじ」の二つの読み方がある。今日では「りっしゃくじ」という読み方が一般的だが、どちらも間違いではない。本来「立」の字は古代中国ではリプと発音され、古代日本語ではハ行音をパ行で発音していたから、これを「りふ」と表記していた。その後、ハ行音がア行で発音されることが多くなったため、「りふ」は「りうりゅう」と読まれるようになった。しかし、一方で古い時代には「プ」の音が促音便化する傾向があったため、「リプシャクジ」は「りっしゃくじ」とも読まれた。

 つまり、これは「日本」を「にほん」と読んでも「にっぽん」と読んでもいいのと同じだ。

八、最上川

 「最上(もがみ)(がは)のらんと、大石田(おほいしだ)(いふ)所に日和(ひより)(まつ)(ここ)に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、()角一声(かくいっせい)の心をやはらげ、(この)(みち)にさぐりあしして、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻(ひとまき)残しぬ。このたびの風流(ここ)に至れり。
 最上川はみちのくより(いで)て、山形を水上(みなかみ)とす。ごてん・はやぶさなど(いふ)おそろしき難所(なんじょ)(あり)板敷山(いたじきやま)の北を(ながれ)て、果は酒田(さかた)の海に(いる)。左右山(おほ)ひ、茂みの中に船を(くだ)す。(これ)に稲つみたるをやいな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々(ひまひま)(おち)て、仙人堂岸に(のぞみ)(たつ)。水みなぎつて舟あやうし。

 

 五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」

 

(現代語訳:最上川の船()に乗()ろう()と大石田という所に天気()()回復()を待つ。ここに古()俳諧の種()こぼれて(ぼれて)()()花やか(れぬはな)なり()しころを(むかしを)慕い(したい)()(かく)角笛(いっ)の音(せい)ように(こころ)()穏やか(やはら)()、新古二つ(ふた)()()に迷って(ふといへ)いて(ども)どう(みち)指導(しる)して(べす)良い()やら(ひと)()いう(なけ)こと(れば)()理屈(わり)抜き()()一巻()残した(こしぬ)今度(この)()()俳諧(ふうりう)()ここ(こに)()極まる(たれり)

 最上川はみちのく()(りいで)()山形を上流(みなかみ)する()。碁点・(はやぶさ)などいう恐ろしき難所()ある()。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山()覆われ(ほひ)、茂みの中()(せん)()(くだ)()。これに稲()積んだ(みたる)こと()から()稲舟と呼ばれて(いふなら)いる()。白糸の滝は青葉の隙間(ひまひ)から(まに)落ちて、仙人堂()()()面して(のぞみて)立つ。水(みな)()多く(って)も危()なっかしい(やうし)

 

 五月雨を集めて早()最上川

 

 みちのくの辺鄙な土地では馬の便もままならず、徒歩による厳しい旅を強いられがちだった。渡りに船とはこのことか、大石田より新庄を経て、清川まで、船で下ることとなる。修験の山、出羽三山に向かう道だ。

 「わりなき一巻ひとまき残しぬ。」というのは大石田での興行のことで、「このたびの風流爰ここに至れり。」は白河での「風流の初はじめや」の句の呼応する。俳諧(=風流)の道はこんな辺鄙な土地まで浸透していたという感慨が込められている。ただ、貞門時代の古い俳諧の残る中、芭蕉と親交のある清風の新風との間で迷いが生じていたのであろう。

 曾良の『随行日記』によれば、24日に大石田の一栄こと高野平右衛門亭で興行を行い、そこで

 

 五月雨を集めて(すず)し最上川    芭蕉

 

の発句を詠んでいる。水が暑さで蒸発する時、熱を吸い取る効果がある。打ち水もそのためにするのだが、折りからの梅雨(つゆ)で増水した最上川も打ち水したみたいに涼しげだ。最上という地名に掛けてまさにここは最上級の川だ。これに対し一栄はこう答える。

 

   五月雨を集めて涼し最上川

 岸にほたるをつなぐ(ふね)(くひ)     一栄

 

蛍といえば須賀川の可伸(栗斎)の句、

 

   隠家やめにたたぬ花を軒の栗

 稀に蛍のとまる露草       栗斎

 

が思い起こされる。夏に来た大事なお客さんを蛍に例えるのはありふれた発想だったのか、ここでも芭蕉は蛍に例えられている。

 この時の歌仙で芭蕉は、

 

   ねはんいとなむ山陰の塔

 ゑた村はうき世の外の春富て   芭蕉

 

    星祭ル髪は白毛のかるる迄

 集に遊女の名をとむる月     芭蕉

 

という句を詠んでいる。()()や遊女といったいわゆる士農工商の外にいる人々を、芭蕉はしばしば好んで題材にしている。

 

 最上川はただでさえ急流で知られていたが、この直前になって梅雨が明けたのか、立石寺に行く頃から晴天が続いていた。右手には仙人堂、白糸の滝を望み、芭蕉はあらためて最初に大石田に来たときの発句、

 

 五月雨をあつめて涼し最上川

 

の句を思い出したのだろう。後にこの句は改作され、あの有名な、

 

 五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川

 

となって『奥の細道』の一ページを飾ることとなった。涼しさで最上の川は、早さでも最上の川だった。
 五月雨というと、

 

 湖の水まさりけり五月雨(さつきあめ)    去来

 

の句が思い浮かぶ。「まさる」には増さるという意味と勝るという意味がある。湖というのは琵琶湖のことで、広大な琵琶湖の水が五月雨の雲に接し、雄大な景色を描き出す。『()()()』に収録されたこの句は、芭蕉も旅立ちの前に耳にしていただろう。

九、出羽三山

 「六月三日、羽黒山(はぐろさん)に登る。図司(づし)()(きち)(いふ)者を(たづね)て、(べっ)当代(とうだい)会覚(ゑがく)阿闍(あじゃ)()(えつ)す。南谷(みなみだに)の別院に(やど)して、憐愍(れんみん)(じゃう)こまやかにあるじせらる。
 四日、本坊にをゐて俳諧興行。

 

 有難(ありがた)や雪をかほらす南谷」

 

(現代語訳:六月三日、羽黒山に登る。図司佐吉という者を尋ねて別当代会覚阿闍利に拝謁(えつ)した()。南谷の別院に泊り(やどして)主人(れんみん)()心遣い(じゃう)こまやかに感じられる(あるじせらるる)

 四日、本坊において俳諧興行。

 

 有り難()雪を薫らす南谷

 

 江戸幕府は修験(しゅげん)(どう)を弱体化させるために、修験の山は「学問専一たるべし」とされ、活動が大きく制限された。また、修験道を天台宗と真言宗に系列化させたため、東日本の多くの修験も熊野を本山とする天台宗に傾いた。羽黒山でも天宥(てんゆう)が幕府の介入から羽黒修験の独立を守るために進んで天台宗の天海の弟子となり、関東・東北の修験道の結束を計ったが、出羽修験の勢力拡大を快く思わない庄内藩の陰謀で、天宥は伊豆七島の新島に島流しになり、延宝四年に死んだ。芭蕉がちょうど江戸で談林俳諧の新風に心酔している頃だった。

 その後羽黒山は東叡山から派遣された別当(べっとう)によって支配されるようになった。その別当の下にいるのが別当代で、芭蕉は別当代会覚阿闍(えがくあじゃ)()の招きで、南谷で俳諧興行を行う。

 

 有難(ありがた)や雪をかほらす南谷     芭蕉

 

 この発句、季語は何だろうかと思う人もいるだろう。これは「雪をかほらす南谷は有難や」の倒置なのだが、何が雪を香らしているのかが示されていない。これは「風」の省略で、「雪をかほらす南谷の風は有難や」となる。風が雪を香らす、つまり「風薫る」が夏の季語となる。
 この句は曾良の『俳諧書留』では、

 

 有難や雪をかほらす風の音    芭蕉

 

になっていて、これだとまだわかりやすい。

 雪はこの俳諧興行に参加した人の比喩でもあり、皆さんがこんなに嬉々としてお集まりになられているのも、南谷の風の音のおかげであり、有難いことです、というような意味か。「風の音」は風流(=俳諧)にも通じる。

 これに対し、図司佐吉(俳号呂丸)はこう答える。

 

   有難(ありがた)や雪をかほらす風の音
 住む程人のむすぶ夏草      露丸(呂丸)

 

ただ雨露をしのげる程度に夏草を編んで粗末な草庵を結んでいるだけです。

 「雪をかほらす風」でも、これが「風薫る」という季語だということはわかりにくい。ましてその風が消えてしまうと余計わかりにくい。句全体の意味から「涼み」が季語だとする説もある。どっちにしても「雪」とあるから冬だなんて短絡的に考えてはいけない。

 中世の連歌ではむしろ句全体の意味から季節を特定していた。「柳」とあっても季節感のないものは「ただ柳」といって無季として扱ったし、柳に清水とあればそれは柳の下涼みのことだから夏となった。今日の俳句は入っている季語によって自動的に季節が決まる形式季語なのに対し、中世の連歌や芭蕉の俳諧は実質季語とでもいうべきだろう。

 

 世にふるもさらに宗祇の宿り哉  芭蕉

 

の句は宗祇の宿りが時雨の宿りであるから、季題は「時雨」で冬になる。また、

 

 あけぼのや白魚白きこと一寸   芭蕉

 

の句は、この句がが詠まれた桑名の白魚漁が厳冬の風物であるため、冬の句となる。

 今日の俳句では季重なりを嫌うのに対し、芭蕉の句には異なる季節の季語を重ねている句がそう珍しくないのも、季語ではなく句全体の意味で季節を判断しているからだ。

 ところで、曾良の『俳諧書留』を見ると、この「有難や」の句で始まる歌仙が、

 

 涼しさやほの三か月の羽黒山

 雲の峯幾つ(くづれ)て月の山

 語られぬ湯殿にぬらす(たもと)かな

 湯殿山銭ふむ道の泪かな     曾良

 

などの句の後に書かれている。そうすると、これらの句は出羽三山に登る前に予定稿として用意されていたのだろうか。しかし、それは違うようだ。曾良の『随行日記』にその秘密が隠されている。

 そこには4日の所に「俳。表計おもてばかりにて帰る」と記されている。つまり、ここでは三十六句からなる歌仙のうちの最初の六句だけしか詠まなかったのだ。そして、翌5日には「俳、一折にみちぬ」とある。ここでようやく十八句目まで進んだ。6日に月山に登り、7日に湯殿へ行き、そして9日にようやく「俳、終。」という記述がある。つまり何のことはない。出羽三山に登り、降りてきたときにようやくこの歌仙は完成し、曾良はそれを出羽三山の句の後に書き留めただけのことだった。俳諧というのは時としてお喋りのほうに興が入りすぎて、こうしたのんびりとしたペースで作られることもある。

 

 「五日、権現(ごんげん)(まうづ)。当山開闢(かいびゃく)能除(のうぢょ)大師はいづれの()の人と云事(いふこと)をしらず。延喜式(えんぎしき)羽州(うしゅう)里山(さとやま)の神社と(あり)書写(しょしゃ)、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山と(いふ)にや。出羽といへるは、鳥の毛羽を(この)(くに)(みつぎもの)(たてまつ)ると風土記(ふどき)(はべる)とやらん。月山(ぐわっさん)湯殿(ゆどの)(あはせ)て三山とす。当寺武江(ぶかう)東叡(とうえい)に属して、天台(てんだい)止観(しくわん)の月明らかに、(ゑん)(どん)融通(ゆづう)(のり)(ともしび)かかげそひて、僧坊(むね)をならべ、修験(しゅげん)行法(ぎゃうぼふ)(はげま)し、霊山(れいざん)霊地(れいち)験効(げんかう)、人(たふとび)(かつ)恐る。繁栄(とこしなへ)にしてめで(たき)御山(おやま)(いひ)つべし。」

 

(現代語訳:五日、権現に詣でる()。当山開闢能除大師はいつ(いづ)()()()の人(とい)(ふこ)分らない(とをしらず)。延喜式に羽州里山の神社とあ()書き(しょ)写す時(しゃ)、黒の字を里()して(なせ)しまった(るに)()。出羽とい()()は鳥の羽毛をこの国の貢物に献上(たて)した()から()()と風土記にある(はべると)()いう(らん)。月山・湯殿山を()合わせて三山とする()。この寺は武江東叡山に属して、天台止観の月()明るく(きら)照らし(かに)、円頓融通の(のり)の灯火を掲げて(かかげ)添い(そいて)、僧坊棟を並べ、修験行法()励み(はげまし)、霊山霊地の験効()人は()尊び、また(かつ)恐れる(おそる)変わる(はんえ)こと(いと)なく(こし)繁栄(なへ)してる(にして)目出度()(おや)()とい()べき()だろう(べし)

 

 能除(のうじょ)大師は芭蕉の言うとおり、完全な伝説の人で、その風貌も狼のような異形として描かれている。鳥の羽毛とは実際は北海動産の鷲羽のことで、交易によって手にした鷲羽やアザラシの皮は朝廷への献上品として金や馬と共に重要な品だった。「武江(ぶかう)東叡(とうえい)に属し」とあるのは、先に述べたように天宥(てんゆう)が幕府の介入から羽黒修験の独立を守るために進んで天台宗の天海の弟子となったところから天海(てんかい)東叡(とうえい)(ざん)に属している。天海は徳川幕府の側近でもあり、日光に東照宮を建てるよう提案したのもこの人だった。

 その天海の弟子となり、出羽三山を守った天宥も地元では英雄であり、芭蕉もこの地で「(のり)の月」という天宥を称える文章を書き、末尾に、

 

 (その)(たま)や羽黒にかへす法の月   芭蕉

 

の句を記している。
 天台宗の保護下にあって出羽の修験道は「僧坊(むね)をならべ、修験(しゅげん)行法(ぎゃうぼふ)(はげま)し、霊山(れいざん)霊地(れいち)験効(げんかう)、人(たふとび)(かつ)恐る。繁栄(とこしなへ)にしてめで(たき)御山(おやま)」であり続けることが出来た。
 密教というと80年代の中頃から、ちょうどバブル経済と呼応するかのようにブームになり、中沢進一などが一躍スターになった。しかし、この時のブームは「心の時代」などと言いながら、結局は自分の幸せ、自分の心の安らぎ、癒し、能力開発を優先するもので、結局はエゴイズムに基づいた浅はかな、悟りさえも金で買おうというものだった。そのため、結局こうしたブームにのっかった恐ろしい殺人教団をのさばらせる結果となった。

 本来宗教というのはそういうものではない。宗教はまず他人を救済するもので、自分だけが救われればそれでいいというのは宗教ではない。キリストが万人の罪を背負って自ら十字架に架けられたように、修験道も本来万人の罪を己の一手に引き受け、罪を亡ぼすために厳しい修行を続けた。自分の救済のためではなく、衆生救済のための難行苦行だったのだ。その究極にあるのが即身成仏だった。彼等が自分のために修行していたのなら、誰も修験者を尊敬したりはしなかっただろう。世のため人のために身を犠牲にしていたから、彼等は敬われ、恐れられた。

 オウム真理教は人々の罪を救済するのに己を殺すのではなく、罪深い人々の方を殺せばいいなどと考えた。こんなものはまったく馬鹿げている。しかし、この馬鹿げた妄想を生む土壌には、ただ自己の救済だけを願う誤った密教ブームが根底にあった。

 

 「八日、月山(ぐわっさん)にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に(ひき)かけ、宝冠(ほうくわん)(かしら)(つつみ)強力(がうりき)(いふ)ものに道びかれて、(うん)()山気(さんき)の中に氷雪を(ふみ)てのぼる事八里、更に日月(にちぐわつ)(ぎゃう)(だう)雲関(うんくわん)(いる)かとあやしまれ、息(たえ)身こごえて、頂上に(いた)れば日(ぼつし)て月(あらは)る。笹を(しき)(しの)を枕として、(ふし)(あく)るを(まつ)。日(いで)て雲(きゆ)れば湯殿に(くだ)る。」

 

(現代語訳:八日、月山に登る。木綿(ゆふ)を絞()めて()身に引き掛け、宝冠()(かしら)を包み、剛力という者に導かれて、雲霧()立ち込める(んきのなか)()雪渓(ひょうせつ)()踏んで(ふみて)登ること十六キロ(八里)、さらに日月(じつげつ)()通り道(ゃうだう)(うん)の門(くわん)()くぐる(いる)かと恐れながら(あやしま)()息絶()え絶えに(きた)()()凍えて頂上に達す(いた)れば、日()沈み(っし)()現れる(らわる)笹を敷き篠を枕として眠り(ふし)夜明け(あくる)を待つ。日()昇り()()消えた(ゆれ)ので()湯殿山(ゆどの)へと()下る。

 

 山というのは死出(しで)の山という言葉もあるように、死者の魂が山に帰って行くという発想が根底にあった。月山の月には「月の都」つまり黄泉(よみ)の国という意味が含まれている。そこは死を象徴する山で、修験者はそこを白い死に装束を着て登って行く。しかし、間違ってはいけないのは、こうした象徴としての死の体験は単に自分が新しく生まれ変わるためのものではない。自分さえよければいいというエゴイズムは、およそ宗教とは無縁のものだ。雪溪の残る月山の山頂で、身も凍えながら夜を明かすのも、自分のためではない。この世の苦しみ、悲しみ、恨みの歴史がいつか終ることを祈る気持ちで新たな朝を迎えるためのものだ。

 

 「谷の(かたはら)鍛冶(かぢ)小屋(ごや)(いふ)(あり)(この)(くに)の鍛冶、霊水を(えらび)(ここ)潔斎(けっさい)して(つるぎ)(うち)(ついに)月山(ぐわつさん)と銘を(きっ)て世に賞せらる。(かの)(りょう)(せん)(つるぎ)(にらぐ)とかや。干将(かんしゃう)莫耶(ばくや)のむかしをしたふ。道に堪能(かんのう)(しふ)あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ(なか)ばひらけるあり。ふり(つむ)雪の下に(うづもれ)て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天(えんてん)の梅花(ここ)にかほるがごとし、(ぎゃう)(そん)僧正(そうじゃう)の歌の(あはれ)(ここ)に思ひ(いで)て、猶まさりて(おぼ)ゆ。惣而(そうじて)(この)山中(さんちゅう)微細(みさい)行者(ぎゃうじゃ)の法式として他言(たごん)する事を禁ず。(よっ)て筆をとどめて(しる)さず。坊に帰れば、阿闍梨の(もとめ)(より)て、三山順礼の句々短冊(たんざく)(かく)

 

 涼しさやほの三か月の羽黒山

 雲の峯幾つ(くづれ)て月の山

 語られぬ湯殿にぬらす(たもと)かな

 湯殿山銭ふむ道の(なみだ)かな     曾良」

 

(現代語訳:谷の傍らに鍛冶小屋という()のが()あった(あり)。この国の鍛冶、霊水を選んで(びて)ここに潔斎して(つるぎ)を打ち、ついに月山と銘を切って世に賞賛さ()れて()いる()。あの竜泉()()()()()鍛えた(にらぐ)よう()なも()のか()。干将・莫耶の昔()憧れ(したふ)、道を究めよ(かん)うとい(のん)()(しふ)()浅からぬ(さからぬ)こと(しら)分かる(れたり)。岩に腰かけてしばし休憩(やすら)する(ふほ)()一メートル(三尺)(ばか)()(なる)桜のつぼみ半ば開いてる(ひらけ)()があ()った()。降り積もる()雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花の(ここ)()()とも()けな()げだ()炎天下(えんてん)の梅花ここに香る()()よう()()。行尊僧正のもろ()とも()にの()()()哀れ()もここに思い()され()て、それ(なほ)以上(まさ)()すら()思える(おぼゆ)

 総じてこの山中の子細(みさ)()行者の法式として他言することを禁じる()。よってこれ(ふで)以上(をと)()こと(めて)()記さない(るさず)。坊に帰れば阿闍梨の求めによ()て、三山順礼の(くく)を短冊に書()

 

 涼しさ()ほの三日月の羽黒山

 雲の峰幾つ崩れて月の山

 語られぬ湯殿に()()ぬらす(すたもと)(かな)

 湯殿山銭踏む道()する(かな) 曾良

 

 月山から湯殿山に向かう途中の谷には鍛治小屋がある。昔、この国の刀鍛治が、鉄を鍛えるのによい名水を求め、ここに住み着き、ここでできた名刀は「月山」という名で知られていたという。干将(かんしょう)莫耶(ばくや)とは春秋時代の呉の国の刀鍛治夫婦で、江南地方の職人魂は日本の職人魂にも生き続けている。こうした、一つの道に執着し、それを極めようという欲求は、それ自体は煩悩といえるかもしれない。しかし、こうした強力な執着心があってこそ、他人のそれも理解できる。悟りきったようなことを言ってすぐあきらめてしまう人に、他人の気持ちはわからない。芭蕉も俳諧という一つの道に執着し、自らの煩悩の深さを自覚しているからこそ、そこから生まれてくるものの価値も知っている。
 月山の桜は高山植物のタカネザクラ(俗称タケザクラ)というものらしい。雪の中に小さく咲くこの桜を見て、芭蕉は『百人一首』にもある(ぎょう)(そん)の、

 

 もろともにあはれと思へ山桜

    花よりほかに知る人もなし

 

の歌を思い起こす。孔子は「人知れずしていからず、それ君子なるや」と言ったが、山の中にひっそり、誰からも見られることなく散ってゆく花は、世に用いられなかった隠士の心だ。

 ただ、実際に見たのは時期的にはチングルマの可能性もある。雪の中に十センチ程度の丈でやはり桜のような花を咲かす。

 山を降りた芭蕉は出羽三山の句を書き付ける。

 

 涼しさやほの三か月の羽黒山   芭蕉

 

 「ほの見る」と「三日月」とが掛け言葉になっていることは、従来多くの人が指摘してきた。「涼しさをほの見る三日月の羽黒山」という意味になる。夏の暑い一日が終って、夕暮れの涼しさにしばしくつろぐひと時は、まさに値千金だ。もっとも、榎本其角がいたら「蚊を疵にして五百両」と値切るかもしれないが。

 

 雲の峯幾つ(くづれ)て月の山      芭蕉

 

 この句も「月の山」が「尽きぬ山」に掛かっているように思える。古来この山にいくつの雲の峰が掛かっては消えていったが、それでも本当の山(月山)は尽きることなく残っている。

 一日のうちにいくつもの雲の峰が現われては消え、夜になって月の出る山となったという解釈が一般的だが、それではまるでテレビの早送り映像だ。いずれにせよ、雲は煩悩の曇りに通じるもので、現われては消えてゆく生きとし生けるものの様々な夢を天台(てんだい)止観(しかん)真如(しんにょ)の月だけがじっと見守り続けている、そういう意味をも込めているのだろう。

 繰り返される命、生命、遺伝子の夢、一つ一つははかない。それでもみんな精一杯生きてゆく。恋に命を燃やすものもいれば、刀鍛治や俳諧の道を極めんとするものもいる。そんな人々の泣き笑いを、あの月は静かに見守っているのだろう。

 

 語られぬ湯殿にぬらす(たもと)かな   芭蕉

 

 この句には一見季語がなさそうだが、「湯殿参り」が夏の季語となる。袂を濡らすというのは涙するということで。湯煙の露で濡れるのと両方の意味を持たせている。

 湯殿山には何やら語ってはいけない何かがあるらしいが、語り得ぬものについては沈黙するしかない。

 

 湯殿山銭ふむ道の(なみだ)かな     曾良

 

 湯殿山に限らず出羽三山の道の上には至るところ賽銭が投げられていたという。五来重(『山の宗教』1991、角川選書)によれば、山伏の一番下の聖という階級には、お賽銭を拾う権利があり、それで月山へ登ったら、たとえわらじの緒が切れても下を向いてはいけない、金を拾ったと思われるから、と言われていたらしい。

 出羽三山の信仰は、こうした名もなき多くの人によって支えられていたのである。修験者は生活の面倒をみてもらう代りに、人々の罪を自らの一手に引き受け、難行苦行を積むことでそれに答えていたのである。

十、酒田

 「羽黒を(たち)(つる)(をか)の城下、長山(ながやま)(うぢ)重行と(いふ)物のふの家にむかへられて、俳諧(はいかい)一巻(あり)。左吉も共に送りぬ。川舟に(のり)て酒田の(みなと)(くだ)る。(ゑん)(あん)不玉(ふぎょく)(いふ)医師(くすし)(もと)宿(やど)とす。

 

 あつみ山や(ふく)(うら)かけて夕すずみ
 暑き日を海にいれたり最上川」

 

(現代語訳:羽黒を()()鶴岡(つるがをか)の城下、長山氏重行という武士(もののふ)の家に迎えられて、俳諧一巻あった()。佐吉もここ(とも)まで()送って(おく)くれた(りぬ)。川舟に乗()て酒田の湊に下る。淵庵不玉という医師(くすし)のもと()泊る(やどとす)

 

 あつみ山から()吹浦かけて夕涼み

 暑き日を海に入れたり最上川

 

 羽黒山を出ると、先ず鶴岡(つるおか)の長山重行の所で興行を行う。発句は、

 

 めづらしや山を()()初茄子(はつなすび)  芭蕉

 

で、重行の脇は、

 

   めづらしや山を出で羽の初茄子

 蝉に車の音添ふる井戸      重行

 

だった。出羽の羽黒山を出て来た芭蕉さんに初茄子を振る舞われた感謝の発句に、蝉の啼く中、井戸で水を汲みましょうと応じる。

 そのあと最上川を下り、ここ、坂田で10日余り滞在する。この間、松島と並ぶもう一つの目的地でもある象潟(きさかた)を訪れることにもなる。その間にも、俳諧興行が行われた。曾良の『随行日記』には寺島彦助亭で興行があったことが記されている。

 その時の発句は、

 

 涼しさや海に入れたる最上川   芭蕉

 

だった。最上川に涼しさを詠んだという点では、

 

 五月雨をあつめて涼し最上川   芭蕉

 

の句とそれほど変わらない。芭蕉にしてはひねりも何もない平凡な発句だ。実際この日はひどく暑かったようで、曾良は「(あつさ)(はなはだ)し」と書いている。興行の挨拶ということで、無理やり涼しさに結びつけてみたものの、情がうまくのっからなかったようだ。この日の俳諧は低調だったのか、曾良も最初の七句を記しただけでやめてしまっている。

 しかし、この句の上五を改め、

 

 暑き日を海にいれたり最上川

 

とすると、句もずいぶん変わる。この方が実感だったのだろう。やはり暑い時は暑いと言うほうがいい。最上川は西に流れ日本海に注ぐから、厳しく照りつける西日も海へと沈んでゆく。「あつきひ」という言葉は「月日」にも掛かっていて、沈む夕日にはるばるここまで来たその長い月日も偲ばれる。

 もう一つの句、

 

 あつみ山や(ふく)(うら)かけて夕すゞみ  芭蕉

 

は象潟を見て戻ってきてから淵庵不玉の家で、芭蕉、不玉、曾良の三人で歌仙を詠んだときのものだ。この歌仙は3日かけてじっくりと作られている。温海山(あつみやま)は酒田の南にあり、吹浦は酒田の北、象潟へ行く途中にある。温海山というくらい今日は暑い一日だが、ここ酒田には吹浦という地名もあることで、風が吹くということに掛けて夕涼みと洒落てみようじゃないか。暑さに辟易していたときだけに、こうした機知で人を和ませるとは、別の意味でこれは名句といってもいいだろう。

 これに対し、不玉は答える。

 

   あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
 みるかる磯にたたむ()(むしろ)     不玉

 

 風が吹いてきたから海草を採りに船を出そうと思ったが、せっかくの涼しい風だから帆をたたんで夕涼みするのも悪くはない。

十一、象潟

 日光の曾良登場の所でも「このたび松しま・象潟(きさかた)(ながめ)共にせん事を悦び」とあるように、象潟は松島と並ぶこの旅での最大の見せ場だ。そのため、この象潟の場面は力が入っている。残念ながら象潟は文化元(1804)年の地震の際に土地が隆起して、かつてのリアス式海岸の美しさの面影はない。その意味でも芭蕉のこの文章は、往年の象潟を偲ぶ貴重なものとなった。

 

 「江山(かうざん)水陸(すいりく)の風光数を(つく)して、今象潟(きさかた)方寸(はうすん)(せむ)。酒田の(みなと)より東北の(かた)、山を(こえ)(いそ)を伝ひ、いさごをふみて、(その)(さい)十里、日影ややかたぶく(ころ)汐風(しほかぜ)真砂(まさご)(ふき)(あげ)、雨朦朧(もうろう)として鳥海(てうかい)の山かくる。闇中(あんちゅう)()(さく)して、雨も又()(なり)とせば、雨後の晴色又頼母敷(たのもしき)と、(あま)(とま)()に膝をいれて雨の(はるる)(まつ)

 (その)(あした)天能霽(てんよくはれ)て、朝日花やかにさし(いづ)る程に、象潟に舟をうかぶ。(まづ)能因(のういん)(じま)に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、『花の上こぐ』とよまれし桜の老木(おいぎ)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。江上(かうしゃう)御陵(みささぎ)あり、(じん)(ぐう)后宮(こうぐう)の御墓と(いふ)。寺を干満(かんまん)珠寺(じゅじ)(いふ)此処(このところ)行幸(ぎゃうがう)ありし事いまだ(きか)ず。いかなる事にや。此寺(このてら)方丈(はうぢゃう)に座して(すだれ)(まけ)ば、風景一眼(いちがん)(うち)(つき)て、南に鳥海、天をささえ、(その)(かげ)うつりて()にあり。西はむやむやの関、(みち)をかぎり、東に堤を(きづき)て秋田にかよふ道(はるか)に、(うみ)北にかなえて、浪打入(うちい)る所を汐ごしと(いふ)。江の縦横(じゅうわう)一里ばかり、(おもかげ)松嶋にかよひて又(こと)なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢(ちせい)魂をなやますに似たり。

 

 象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花

 汐越や(つる)はぎぬれて海涼し

   祭礼
 象潟や料理何くふ神祭   曾良
 (あま)()や戸板を敷しきて夕涼(ゆふすずみ) みのの国の商人低耳(ていじ)

   岩上(がんしゃう)()(さご)の巣をみる
 波こえぬ(ちぎり)ありてやみさごの巣   曾良」

 

(現代語訳:山川(かうざん)海陸(すゐりく)絶景(ふうく)(わう)多く(をつ)見た(くし)()、今象潟に来て()視野()の狭()さを()実感()した(せむ)。酒田の港から(より)東北の()()、山を越え磯を伝い砂浜(いさご)歩き(ふみて)その距離(さい)四十キロ(十里)()(かげ)やや傾く頃、潮風()真砂(さご)を吹き上げ、()()朦朧として鳥海(のや)(まか)隠す(くる)瀟湘(あんちゅ)(うに)(もさ)()よう(して)()幽か()()見える(また)景色(きな)()面白い(とせ)()雨上がり(うご)(せい)(しょく)また期待(たのも)して(しきと)海人(あま)の苫屋に(ひざ)()()て雨の晴()のを()待つ。

 翌朝(そのあした)天気(てん)よく晴れて朝日華やかに差し込んで(いづる)きた(ほど)ので()、象潟に船を浮かべた(うかぶ)。まず能因島に船を寄せて、三年幽居の跡を訪ね(とぶらひ)、向こうの岸()船を降り(あが)れば、『花の上漕ぐ』と詠まれ()桜の老木、西行法師の史跡(かたみ)を残す。(かう)(しゃ)()御陵(みささぎ)()あり()、神功皇后(こうぐう)の御墓()()いう()。寺を干満珠寺という。この(ところ)御幸(ぎゃうかう)した(ありし)こと()聞いた(まだ)こと()()ない()どう(いか)いう(なる)こと()()()()。この寺のお堂(ほうぢゃう)に座()て簾を上げれ(まけ)ば、風景()一望(ちがん)する(のうちに)こと()がで()きて()、南に鳥海天を支え、その陰(うつ)(りて)(えに)映る(あり)。西はむやむやの関()()()区切り(かぎり)、東に提を築()て秋田に通う道遥かに、()()(きた)待ち受け(かまへ)て、()()打ち入る所を汐越という。()()縦横四キロ(一里)ばかり、面影松島に似て(かよ)いて(ひて)また異な()。松島は笑うが如く、象潟は恨むが如し。淋しさに悲しみを加えて地(せい)は魂を悩ます()()よう()()

 

 象潟()雨に西施()眠る()合歓()の花

 塩越し()鶴脛濡れて海()涼しい(ずし)

   祭礼

象潟()料理何食う神祭り 曾良

海人の()()戸板を敷()て夕涼み 美濃の国の商人 低耳

   (がん)(しゃ)()にミサゴの巣を見る

波越()ぬ契り()ある()()()ミサゴの巣 曾良


 本文のほうは次から次へと象潟の名所を並べ、この『奥の細道』の中でももっともきらびやかな部分だ。「闇中(あんちゅう)()(さく)して、雨も又奇也(きなり)」というのは室町時代の僧、策彦の詩、

 

 余杭門外日将晡 多景朦朧一景無
 参得雨奇晴好句 暗中模索識西湖

 

 余杭の城門を出れば今しも日は暮れようとしていて、
 どの景色もみんな朦朧としていて何一つ定かでない。
 蘇東坡の「雨でも素晴しく晴れでも嬉しい」という句にも比較し得るだろうか。
 《暗中模索のうちに西湖を知る。》

 

によるらしい。この詩の趣向は牧谿(もっけい)の『瀟湘(しょうしょう)()雨図(うず)』あたりをイメージするといいかもしれない。多分この詩もかつては有名だったのだろう。芭蕉が最初に象潟に来た日は雨で日も暮れ、景色は朦朧としていた。その印象とこの詩は見事に重なる。

 翌日は昼頃から雨も上がり、象潟や周辺の景色もはっきり見ることができた。「秋風ぞふく白河の関」の歌でも有名な能因法師は、ここでも

 

 世の中はかくてもへけり象潟(きさかた)

   あまの苫屋(とまや)をわが宿にして

 

という歌を詠んでいる。

  また、西行の和歌、

 

  きさかたの桜は波にうづもれて

   はなの上こぐあまのつり舟

 

は、何とも幻想的で美しい。しかし、残念というか、芭蕉はいつも季節はずれにやってくる。せっかく西行ゆかりの桜の老木を目にしても、そこに花はない。それでも『奥の細道』には収められてないが、芭蕉はここで、

 

 夕晴や桜に涼む浪の花

 

という句を詠んでいる。桜といってもこれは似せもの(比喩)の桜で春の季題にはならない。波が砕け散って飛ぶ白い泡を桜に見立てて夕涼みという句だ。「桜に涼む」といって一体何だろうと思わせて、実は波の花だったと落とす、芭蕉には珍しいパターンの句だ。
 このあと鳥海山や汐越の雄大の景色を描写したあと、「松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。」という名文句へと続く。そして、前日の雨の象潟を思い起こしてか、この句を詠む。

 

 象潟や雨に西施がねぶの花  芭蕉

 

 西施(せいし)は中国の春秋時代、越の国の有名な美女で、当時の越王がその美貌に目を着け、当時敵対していた呉の国の王を惑わし、国を傾けさせるために送り込まれた。

 西施は最後に西湖に身を投げ入水したという。「象潟は恨むが如く」とあるように、この象潟に、入水する西施の姿を思い浮かべたのだろう。美人であるが故に戦争の道具にされ、その罪に悩む。本当は思いを寄せた愛しい人と平和に暮らしたかったものを、運命がそれを許さなかった。

 恨みといっても誰に復讐しようとか、そういう恨みではない。求めていたのはほんのささやかな幸せ、平和な暮らし、それすら満たされずにただ悲しみと諦めだけが静かに雪のように降り積もってゆくような、そんな感覚だ。無益な争いに満ちたこの世を嘆き、自ら命を絶った時の西施の顔は、釈迦の涅槃(ねはん)にも似た、満ち足りた笑みを浮かべていたのだろう。この世の地獄は終ったのだと。

 西施の眠たそうな顔とはそういう顔だろう。涅槃の顔は合歓(ねむ)の花の淡い赤い花と重なり、その花の色は雨ににじむ。それは色気というよりはむしろ聖なるものを感じさせる。
 象潟は伊勢の()()湾のような入り組んだ静かな内海だったのだろう。その象潟が外の海と接するあたりが「(しお)(ごし)」と呼ばれていた。ここでも一句、

 

 汐越や鶴はぎぬれて海涼し  芭蕉

 

 「鶴はぎ」というのは川や海に入る際に着物の裾をたくし上げる様を鶴に例えたもので、夏の句としてはそう取った方が自然ではある。そう取るなら、この句は汐越という地名に掛けて、芭蕉自ら着物の裾をたくし上げて海に入り、足を水に浸してみた、その涼しさを詠んだもののようだ。日頃夢にまで見た象潟を今目の前にして、子供のようにびしょ濡れになってはしゃぐ芭蕉の姿は、前の西施の句と対称的で、何とも微笑ましい。 ただ単純にそうもいかないのは、この句には芭蕉自筆の真跡懐紙が現存し、そこにはこうあるからだ。

 

    (こし)(たけ)の汐といふ処はいと浅くて鶴おり立てあさるを
 (こし)(たけ)(つる)(はぎ)ぬれて海涼し   武陵芭蕉翁桃青

 

 井本農一は『芭蕉とその方法』(1993、角川書店)でこの問題について、当時は鶴とコウノトリの区別が曖昧で、コウノトリを指して夏の鶴を読む例があるところから、この句を真跡の前書きのとおりに鶴を詠んだものとしている。

 鶴は確かにめでたいもので象潟で西施に加えて鶴を出すことは『奥の細道』のこのハイライトに彩りを添えることになる。しかし、それだと松島で鶴のいない季節にあえてホトトギスに鶴に身をかれと詠んだ曾良の句の意味がなくなってしまいやしないか。むしろ、その真跡は土地の人に揮毫する際、サービスとしてコウノトリをあえて鶴と呼び、鶴のいる象潟を詠んだのではなかったか。

 どちらにせよ、冬を連想させがちな鶴に「海涼し」という夏の季語は収まりが悪い。その場の即興での揮毫であればこれでもいい。しかし、『奥の細道』のハイライトを飾る句としては、どうだろうか。私は、実際は人の鶴脛が濡れていることから、本物の鶴がいるかのような面影を連想させようとしたものではないかと思っている。
 それにしても、たいていの野性動物は水を嫌うのに、人間は水を見るとついじゃぼじゃぼと入って行きたいという衝動に駆られるところを見ると、人類が昔水生類人猿だったという説は本当かもしれない。

 この汐越にある熊野神社では、折しも祭りが行われていた。神道家の曾良としては黙って見ているわけにはいかない。

 

   祭礼
 象潟や料理何くふ神祭   曾良

 

いかにも学者らしい、好奇心に満ち溢れる句だ。このあと、『奥の細道』では唐突に登場する低耳(ていじ)の句がある。

 

 (あま)の家や戸板を敷て夕涼  低耳

 

象潟へは酒田から不玉も同行していて、四人だったようだ。

 この句は曾良の『俳諧書留』には、

 

象潟や(あま)の戸を(しく)(いそ)(すずみ)   低耳

 

の形になっている。汐越の浜で戸板を敷いて、夕涼みをしながら新鮮な魚介を肴に酒盛りをしたのだろう。

不玉の句は漏れてしまったが、

 

 象潟や(しお)(やく)跡は蚊のけぶり  不玉

 

の句が曾良の『俳諧書留』に記されている。またこの時曾良も、

 

象潟や苫やの土座も(あけ)やすし 曾良

 

の句を詠んでいる。夜になるまで飲んでいたのだろう。それだけ盛り上がったなら、芭蕉が羽目を外して水の中に入って行ってもおかしくもあるまい。
 さらにもう一句曾良の句。

 

   岩上に雎鳩の巣をみる
 波こえぬ(ちぎり)ありてやみさごの巣   曾良

 

みさごを「雎鳩」と書く場合、漢文に造形の深い曾良のことだから、当然『詩経』の「關雎(かんしょ)」という詩を踏まえてのことだろう。それはこういう詩だ。

 

 關關雎鳩 在河之州
 窈窕淑女 君子好逑

 參差荇菜 左右流之
 窈窕淑女 寤寐求之

 求之不得 寤寐思服
 悠哉悠哉 輾轉反側

 參差荇菜 左右采之
 窈窕淑女 琴瑟友之

 參差荇菜 左右芼之
 窈窕淑女 鍾鼓楽之

 

 仲睦まじく鳴き交わすみさごが河の中州にいるように、
 奥ゆかしく清らかな女性を君子は好んで伴侶とする。

 てんでばらばらに茂るじゅん菜の中、片っ端からこれを掻き分けて、
 奥ゆかしく清らかな女性を寝ても醒めても求めてみよう。

 求めたところで得られるものでもなく寝ても醒めても思い慕い、
 長い長い夜を何度も寝返りを打つ。

 てんでばらばらに茂るじゅん菜の中、片っ端からこれを摘み採ってみよう。
 奥ゆかしく清らかな女性は五弦琴や琴を友としているはずだ。

 てんでばらばらに茂るじゅん菜の中、片っ端からを抜き採ってみよう。
 奥ゆかしく清らかな女性は編鐘や鼓を楽しみとしているはずだ。

 

 妃選びは悩むほどのことではない。雎鳩の雌雄が鳴き声で互いに愛を伝えるように、君子が妻とするにふさわしい女性は詩を好み音楽を愛することでこれがわかる。片っ端から妃候補を集め、音楽を奏でさせてみればいい。

 この詩は周の最初の皇帝、文王が妃を娶った時の歌と言い伝えられている。『詩経』の「小序」には「中睦まじいみさごの詩は妃の徳であり、風雅の始まりである。(關雎后妃之徳也。風之始也。)」と賛美されている。
 曾良は象潟の海に浮かぶ岩の上に雎鳩の巣を見つけ、鳴き交わす雎鳩の姿に風雅の起源を思う。鳥が鳴き声で恋を伝えるように、ラブソングこそがすべての風雅の基本なのだと。『古今集』東歌に、

 

 君をおきてあだし心をわが持たば
    末の松山浪も越えなむ

 

とあるように、永遠の愛の誓い、それがあの岩の上の雎鳩にもあるのだろうか。芭蕉が末の松山で墓石の方にばかり気を取られ、どんなに愛しあっていてもいずれは死ぬものをなどと思っていたのとは何とも対称的だ。正反対の二人だからうまくいっているのかもしれない。
 
 象潟の場面はたくさんの名所をちりばめたきらびやかな本文に五句もの発句を加えた大判振る舞いで、まさに旅のクライマックスだ。
 
 この象潟をもって『奥の細道』を前編後編に分ける人もいる。それは理由のないことではない。ここまでの旅は往路で、未知の土地、未知の人々との出会いに心踊らせる、まさに旅の喜びに満ち溢れている。

 しかし、ここから先は帰り道だ。ニーチェではないが、「おお、ツァラトゥストゥラよ、お前は誰よりも高く石を投げた!しかし、その石は必ず落ちる!」といった所だ。芭蕉の軽やかな心は重力の魔に引きずられるがままに、北陸路を経て、馴れ親しんだ近江、美濃、伊勢の地へと着陸する。季節もまた夏から秋へと変わり、もはやそこに浮かれた芭蕉の影はない。

第五章、帰り道

一、七夕の二句

 「酒田の余波(なごり)日を(かさね)て、北陸(ほくろく)(だう)の雲に(のぞむ)遥々(えうえう)のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百卅里と(きく)(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)(あらため)て、越中の国一ぶりの関に到る。此間(このかん)九日(ここのか)暑湿(しょしつ)の労に(しん)をなやまし、(やまひ)おこりて事をしるさず。

 

 文月(ふみづき)六日(むいか)も常の夜には似ず
 荒海(あらうみ)や佐渡によこたふ(あまの)(がは)

 

(現代語訳:酒田()あと(なご)()日を重ねて、北陸道の雲()眺め(のぞむ)遥か(えう)彼方(えう)()()思い()()(むね)()(いた)()まま(しめて)、加賀の中心()まで五百キロ(百三十里)と聞く。(ねず)の関を越()れば越後の地へと()新た(あゆ)()歩み(あら)()始まり(めて)、越中の国市振の関に来た(いたる)。この九日間(かんここのか)暑さ(しょ)(しつ)湿気(のらう)()調子(しん)崩して(なやまし)病気(やまひ)(おこ)なり(りて)記す(こと)こと(をし)()ない(さず)

 

 六月(ふみづき)()六日もいつも(つね)の夜()()ない(にず)

 荒海()佐渡()の前()に横たう天の川

 

 曾良の『随行日記』によれば酒田を立ったのは6月25日のことで、27日には鼠の関を越える。もっとも昔の関が残っているわけではなく、()州浜(しゅうはま)街道(かいどう)の温海宿に番所があるだけで、実際は芭蕉一人が馬を借りて見に行って温海宿に戻り、そこから出羽街道山通りに向かったようだ。

 この区間を別行動とする人も多いが、当時の人は一人旅を避けるのが普通だし、曾良の『随行日記』には、「予ハ湯本へ立寄(たちより)、見物シテ(ゆく)」とある。温泉に入ってのんびりと辺りの温泉街を散歩したのだろう。明らかに芭蕉の帰りを待っての時間つぶしだ。

 鼠の関は念珠の関とも書き、白河の関、勿来(なこそ)の関とともに東北三関の一つだ。この三関は廃絶されて久しく、その所在地も不明になっていた。白河の関では、曾良はわざわざ古代東山道の名残りとも言うべき道に行って、真の白河の関を突き止めようとしたが、鼠の関に関しては心当たりもなかったのだろう。

 結局鼠の関はそっけなく通り過ぎ、7月2日には新潟に着く。7月4日には出雲崎に着き、そこで「荒海や」の句を詠むことになる。この日は快晴だが夜中から大雨になったようだ。

 このあと雨が断続的に降ったり止んだりの状態で、7月7日の七夕も晴れなかったようだ。季節柄、台風が近づいていたのだろう。天気がよくなったのは11日からで、12日にようやく市振に着く。
 「此間(このかん)九日(ここのか)暑湿(しょしつ)の労に(しん)をなやまし、(やまひ)おこりて事をしるさず」の9日は新潟から市振(いちぶり)までの9日のことだろう。この間、曾良はあちこちから俳諧興行の話があったのを天候を理由に断わっている。芭蕉の健康状態の不安があっただけでなく、曾良自身もこの頃から長い徒歩の旅のに加えて、宿の手配などの心労も重なっていたのではないかと思う。

 結局6日の夜に宿に集まった人達と「文月や」の句を発句として興行を行うが、曾良の『俳諧書留』には二十句しかなく、途中で夜遅くなったので止めにしたのだろう。
 それ以降も俳諧興行は一応行われたが、曾良も表三句しか書き留めていず、芭蕉は健康状態だけでなく俳諧の方も不調だったのだろう。「事をしるさず」とあるのは多分満足な興行ができなかったことで、新潟の人達に遠慮してのことと見たほうがいいだろう。本来なら七夕で新潟の門人たちともっと盛り上がってもいいはずだった。
 
 明治政府の新暦の採用は、日本人の季節感や伝統行事を大きくくるわせてしまったようだ。正月には梅が咲き、鴬がさえずるはずだったのに、今では厳冬のさなかとなり、七夕もまた梅雨のさなかになってしまった。かっては秋風の声を聞き、澄みきった秋の夜空に天の川がくっきりと見え、牽牛織姫の悲恋に思いを寄せたものだった。七夕に付き物の夜這い星(流星)も、この時期がペルセウス座流星群の時期に重なるからであろう。

 7月は易でいえば天地否(上乾下坤)であり、天が上昇し地が下降することによって、天地が引き裂かれていく季節だった。天を表す乾は陽で、地を表す坤は陰だから、それは同時に引き裂かれた男女の姿でもある。
 かって長閑な村落共同体の中で暮してた人々は、近隣の村の人々のことは皆知りつくし、そんななかで誰と誰が仲良くしているかはすぐにわかったことだった。仲を引きさこうにも狭い世界のことで、どうせそこいらを歩いていればいやがおうでも出くわしてしまうような中で、悲恋などというものもさほど深刻なものではなかった。

 しかし、村は都市となり国家となり、そこに身分社会が形成されたとき、人々は生きながらに引き裂かれてゆかなくてはならなくなった。男女はもとより、親や兄弟や息子を兵隊や労役にとられて遠い異国の地に送られたり、刑罰によって島流しになり、永遠に逢うことのできない境遇におかれた者がいくらもいた。まして、すぐそばにいながら身分違いゆえに逢うことも儘ならぬなどということも日常茶飯事だった。
 七夕は自由な恋愛になれきった男女の軽い気持には程遠い、恨みのこもった行事だった。秋風に露霜の降り、逢うことも儘ならぬまま年老いてゆく男女の怨霊にも似た心、それを祭りを行なうことによって鎮めるのが本来の七夕だった。

 

 文月や六日も常の夜には似ず   芭蕉

 

 「や」という切れ字は本来倒置によって末尾の疑問・詠嘆の「や」が前倒しになったもので、この句も「文月の六日も常の夜には似ずや」が倒置で「文月や六日も常の夜には似ず」になったもの。風国編の『(はく)船集(せんしゅう)』には、

 

 文月の六日も常の夜には似ず   芭蕉

 

とある。曾良の『俳諧書留』には「文月や」とあり、『泊船集』の形は原案ではないが、「文月の」と書き誤っても意味がさほど変らない句だったのである。この句は7月6日の直江津での興行の発句で、

 

 文月や六日も常の夜には似ず   芭蕉
   露をのせたる桐の一葉(ひとつば)    左栗
 朝霧に食焼(めしたく)(けぶり)立分(たちわけ)て       曾良

 

に始まる二十句が曾良の『俳諧書留』に記されている。左栗の脇は文月のはじめということで、桐の一葉の露に秋の訪れをイメージしている。一粒の露のきらめきは、もちろん芭蕉さんのこと。

 そして、『奥の細道』での七夕のもう一句。

 

 荒海や佐渡に横たふ天の川    芭蕉

 

 この句はたいへん有名な句であるが、誰もがその意味を誤解してきた句だ。誤解のもととなったのは、やはり「写生説」という偏見であり、それとともに切れ字「や」の用法についての誤解だ。

  たいていの解釈は、この句を

 

 荒海や!
 佐渡に横たふ天の川

 

というふうに句を二つにぶった切って読もうとする。それはこの句に限ったことではなく、「や」という切れ字があると何でもかんでもそこで文章を終わらせようとするのだ。文が切れている以上、この句は荒海と天の川という二つの景色の並列であり、近代の俳人たちは『去来抄』に「発句は物を合すれば出来るなり」とあるのを根拠に、こうした二つの事物をボンと並べておいただけの句を「二物衝撃」などと呼んできた。しかし本当にそうだろうか。
 「や」は確かに今日では文の末尾にしか置かない。意味は「疑問」か「詠嘆」ということになっている。しかし、元来「や」という助詞は係助詞で、文の途中に置かれていたはずだ。

 

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
    我が身ひとつはもとの身にして
                在原業平朝臣

 

 この歌を

 

 月や!あらぬ。
 春や!昔の春ならぬ。
 
 

 

と読むわけにはいかない。あくまで「月はあらぬや、春は昔の春ならぬや、」の意味に読むことになっている。係助詞は倒置によって生じたもので、「月はあらぬや」は「月やあらぬ」となる。そのため、末尾は連用形になり、「月やあらず」にはならない。「こそ」の場合は「人見えねばこそ」が倒置で「人こそ見えね(ば)」になる

ため、已然形になる。
 中世の連歌になると、係助詞「や」の用法は大分限定され、「らん(らむ)」という形のみが多用された。

 

    舟さす音もしるき明け方
 
 月や猶霧わたる夜に残るらん   肖柏

 

    垣根をとへばあらはなる道
 
 山深き里や嵐におくるらん    宗長

 

    たらちねのとほからぬ跡になぐざめよ
 月日の末や夢にめぐらむ     宗祇
 
           (水無瀬三吟より)

 

  この場合、末尾の「らん(らむ)」に既に疑問・反語の意味が込められてい、「や」はそれを強調しているだけなので、こうした「や」は「は」に置き換えても十分に意味が通じる。

 

 花や雪あらしの上の朝ぐもり 二条良基

 

の句もまた決して、

 

 花や!
 雪。
 あらしの上の朝ぐもり。

 

ではない。「花は雪(なるらむ)、あらしの上の」なのである。

 

  朝顔や花といふ花の花の夢    宗長

 

の句も同様、「朝顔は花といふ花の花の夢(なるらむ)」と読むことが出来る。「や」よりあとに比喩的な文が来ることが多いのは、「や」自体にまだ疑問・反語のニュアンスが残っているからで、末尾に「なるらむ」を補うとより意味ははっきりとする。こうした用法は『古今集』にもあるにはある。

 

  谷風にとくる氷のひまごとに
    打ち出づるなみや春のはつ花
                源まさずみ

 

 しかし、多用されるようになったのは中世の連歌においてである。
 芭蕉の時代の俳諧では、確かにこうした「や」の用法は減っている。今日のように、「や」を文末に用い、疑問か詠嘆を表す例が増えてくる。こうした「や」は、今日の関西地方の口語に用いられる「や」に近い。(宮廷の雅語は、そもそも京都の言葉であり、関西弁の古い形である。たとえば「かな」も今日の「やがな」「でんがな」というときの「がな」という形で残っている。)しかし、だからといってすべてがこの文末にくる疑問・詠嘆の用法になっているわけではない。むしろ「らん(らむ)」の形を離れ、広く「に」「の」「を」などの助詞を強調するために用いられている。 芭蕉の句の中には本によって形の違う句が少なくない。それが推敲の過程にあるものであれ、編者の記憶違いによるものであれ、その中には「や」が他の助詞に置き換えられているものがかなりの数にのぼる。それはおそらく、こうした置き換えが作品の意味を根本的に変えるものではなかったからであろう。

 たとえばあの

 

 古池や蛙飛び込む水の音   芭蕉

 

の句でも、意味からすれば「古池に蛙飛び込む水の音(のする)や」であって、「古池や!蛙飛び込む水の音」ではない。切れ字の「や」をこのように考えるなら、従来「二物衝撃」と思われていた多くの句も、実は「(こがね)を打ち延べしたる如き」句であったことがわかるであろう。
 このような「や」は単なる助詞の強調というだけでなく、一部については疑問の係助詞としての名残を留め、「や」のあとに続く部分が比喩的な内容となり、末尾に「なるらむ」を補っていい場合もある。『奥の細道』でも、

 

 行春や鳥啼魚の目は涙      芭蕉
 夏草や兵どもが夢の跡      〃
 閑さや岩にしみ入る蝉の声    〃

 

などの句は、明らかに「や」のあとに続く部分が比喩としての性格をもっている。少なくとも魚が泪を流したり、蝉の声が岩にしみ込むことは実景ではなく、兵の夢も主観的な想起だ。

 こうした「や」の用法は治定(じじょう)の「や」と呼んだ方が良い。つまり「だろうか」と疑いつつ最終的に「だ」と肯定する、そういう疑問を含んみつつの主観的な断定の「や」だ。

 それならば

 

 荒海や佐渡に横たふ天の川    芭蕉

 

の句はどうかということになる。佐渡に天の川が横たうというのは果たして実景だろうか。この時期に佐渡の方角に天の川がないことは、古くから指摘されているとおりだ。
 結論を言おう。この句は「荒海は佐渡によこたふ天河(なる)や」の倒置であり、「荒海は佐渡に横たう天の川のようだ」というのがこの句の真意だ。天の川は実際の佐渡に横たわっているのではなく、佐渡の前に横たわっている荒海が、佐渡の流刑人にとってさながら天の川のように冷酷に人と人の仲を引き裂いている、と言うのだ。

 芭蕉自身、『銀河(あまのがは)の序』で、

 

 「北陸道に行脚(あんぎゃ)して。越後ノ国出雲崎(いづもざき)といふ所に泊る。(かの)佐渡がしまは。海の面十八里。滄波を隔て。東西三十五里に。よこおりふしたり。みねの嶮難(けんなん)谷の(くま)ぐままで。さすがに手にとるばかり。あざやかに見わたさる。むべ(この)島は。こがねおほく出て。あまねく世の寳となれば。限りなき()出度(でたき)島にて侍るを。大罪朝敵のたぐひ。遠流せらるゝによりて。たゞおそろしき名の聞えあるも。本意なき事におもひて。窓(おし)(ひらき)きて。暫時の旅愁をいたはらむとするほど。日既に海に沈で。月ほのくらく。銀河(あまのがは)半天にかゝりて。星きらきらとれ冴えたるに。沖のかたより。波の音しばしばはこびて。たましひけづるがごとく、(はらわた)ちぎれて。そゞろにかなしひきたれば。草の枕も定らず。墨の袂なにゆゑとはなくて。しほるはかりになむ侍る。

 あら海や佐渡に横たふあまの川」

 

と記しているように、この句は流人の心境に思いを馳せ、断腸の思いを表したもので、決して単なる景色を詠んだものではない。
 芭蕉には他にも、

 

   魚積む船の岸に寄る月
 露の身の島の乞食と黒みはて   芭蕉

 

   朝づとめ妻帯寺の鐘の声
 今日も命と島の乞食       芭蕉

 

   更くる夜の壁突き破る鹿の角
 島の御伽の泣き伏せる月     芭蕉

 

と言うような流人を詠む付け句があり、流人に並々ならぬ関心をもっていたことは、古く柳田国男も指摘している。(『木綿以前の事』岩波文庫、P,215217

 

 しかし、このことは、『詩経』大序の「国史はこれら政治の得失を明らかにし、人倫の廃れるのを傷み、刑政の過酷を哀れみ、情性を吟詠し、以てそれを風刺し、世の事々の変化に通じ、その旧俗を懐かしむのである(国史明乎得失之迹、傷人倫之廃、哀刑政之苛、吟詠情性、以風其上、達於事変、而懐其旧俗者也。)」の言葉を知っているなら、当然のことである。
 佐渡が流刑地でなくなって久しくなるが、今も日本海が引き裂かれた肉親の悲痛な叫びの色に染まっているのは残念でならない。荒海は今も横たう天の川なのか。
 なお、「横たふ」という言い回しにも、古来「横たはる」が正しく、文法的に破格ではないかという指摘がなされている。しかし、これは他動詞を自動詩に転化した言い回しで、一種の造語として受け止めればいいことだろう。荒海がただ横たわっているのではなく、自ら意思を持ってそこに立ちはだかっているかのような感覚を狙って、あえて自動詞化した言い回しを選んだのだろう。

二、市振の遊女

 「今日(けふ)は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返(こまがへ)しなど(いふ)北国(ほくこく)一の難所(なんじょ)(こえ)てつかれ侍れば、枕(ひき)よせて(いね)たるに、一間(ひとま)(へだて)(おもて)(かた)に、若き女の声二人(ばかり)ときこゆ。年(おい)たるおのこの声も(まじり)て物語するをきけば、越後の国新潟(にひがた)(いふ)所の遊女(なり)し。伊勢参宮するとて、(この)関までおのこの送りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす(ふみ)したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也。白浪(しらなみ)のよする(なぎさ)に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう(くだ)りて、定めなき(ちぎり)、日々の業因(ごふいん)いかにつたなしと、物(いふ)をきくきく寐入(ねいり)て、あした(たび)(だつ)に、我々にむかひて、『(ゆく)()しらぬ旅路のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍はべらん。(ころも)(じょう)御情(おんなさけ)に、大慈(だいじ)のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせ給へ』と泪を落す。『不便(ふびん)の事には侍れども、我々は所々(ところどころ)にてとどまる(かた)おほし。(ただ)人の(ゆく)にまかせて(ゆく)べし。神明(しんめい)の加護かならず(つつが)なかるべし』と云捨(いひすて)(いで)つつ、(あはれ)さしばらくやまさりけらし。

 

 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

 

曾良にかたれば(かき)とどめ侍る。」

 

(現代語訳:今日は(おや)不知(しらず)()不知(しらず)・犬もどり・駒返しなど()いう()北国一の難所を越えて疲れ果てて(はべれば)、枕引き寄せて寝たら(いねたるに)、ひと間隔てて表の(かた)に若い女の声二人ばかり聞こえて(ときこ)くる()。年老い(たる)(おのこ)の声も混じ()話してる(ものがたりす)()を聞けば、越後の国新潟という所の遊女だった(なりし)。伊勢参り(さんぐう)(する)ため(とて)、この関まで老人(おの)()送って(おく)来て(りて)明日(あすは)故郷に持ち帰る(かへす)手紙()()したためて、些細(はかな)()近況(こと)など(づて)知らせる(しやる)()いう()。白波の寄()る渚に身を放り出す(はふ)海女()のように(かし)この(あまの)(この)(よを)底辺(あさまし)()落されて(くだりて)その場限り(さだめな)()契り、日々の暮らし(ごふい)()とにかく(いかに)劣悪(つたな)()話してる(ものい)()聞きながら(きくきく)眠り(ねい)()落ち()翌朝(あした)旅立つ時に()我々に向か()て、

どう()なる()()わからない(しらぬ)旅路()憂鬱()()とにかく(あまり)心細くて(おぼつかなう)悲し()もの(はべれ)()、見え隠れする()程度()()距離(んあ)()着いて(したひ)いかせて(はべ)ください(らん)(ころ)(もの)して(うへ)のお情け()大慈の恵みをお与え(たれて)成仏(けち)()()()させて(させ)下さい(たまへ)。』

と涙を落とす。

 『大変(ふび)申し訳(んのこ)ない(とに)()とです(はべれ)(ども)、我々はいろいろ(ところど)寄って(ころにて)行く(とど)(まる)(かた)多くて(おほし)。ただ、人の流れ(ゆく)に任せて行った()()が良い()です()。』

断って(いひすてて)出た(いで)もの()()悲しみ(あはれ)()しばらく止まらなかった(やまさりけらし)

 

一つ()に遊女も寝てた(たり)萩と月

 

 曾良に語って(れば)書き(とど)()もらった(べる)

 

 「親しらず・子しらず・犬もどり・駒返し」は名前からしてもいかにも険しい断崖の道を歩いたかのようではある。しかし、曾良の『随行日記』ではそのようなことは一つも書かれていない。天気もよく、日の沈む前に無事市振の宿に着いている。むしろその翌日の方が雨に見舞われ馬もなく人足を雇って黒部川を越えたとある。親しらず・子しらずの方は悠々と馬で越えることができたようだ。それでも途中、川でつまづいて転んでびしょ濡れになったりして、疲れたことには変わりあるまい。

  それはともかくとして、ここでのメインはやはり二人の遊女との出会いだ。お伊勢参りの旅に出、送ってきた年老いた男ともここで別れ、故郷への便りを男に託し、明日からは二人っきりに心細い旅が始まる。

 しかし、よく本文を読むならば、ここにはただ隣の部屋のそういう会話が聞こえてきたとしか書いていない。つまり、この夜芭蕉は遊女たちと直説顔を合わせたわけでもないし、ましてそれ以上の男女の仲などは期待できない。

 翌日、遊女のほうから、これからの旅が心細いので、伊勢まで一緒に行って欲しいと頼まれたが、芭蕉はそれも断わる。芭蕉も確かに伊勢へ向かうのだが、途中俳諧興行のために長逗留することもあるので、そのたびにいちいち待たせるわけにもいかない。

 結局この一夜だけでなく、それからも何もなかった。話としてはいかにもありそうなことだし、この話をむきになって虚構だと言い張る理由もないのではないか。
 とはいえ、この時の句、

 

 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月    芭蕉

 

はいかにも意味ありげだ。男と女が一つ屋根の下に、などとはいかにも想像を誘っている言い方だ。それに萩はその形状から「()す」ものだし、それもまた「寝る」に通じる。月明りの下で華やかな萩の花の臥せる姿から、明らかに遊女の寝姿を連想させようとしている。
 本文には、最後のこの一句を「曾良にかたれば書とゞめ侍る」とある。虚構説は曾良の『随行日記』にも『俳諧書留』にもこの句が見られないことを根拠にする。しかし、果たして芭蕉は曾良の『随行日記』や『俳諧書留』の存在を知っていたかどうかは疑問だ。知っていたとしても、まったく関心がなかったのは明らかだ。もし、芭蕉が曾良の『随行日記』を読んでいたなら、『奥の細道』の随所に見られる地名や人名や日程の間違いは防げたであろう。芭蕉は曾良の日記のことはおそらく知らなかったか、知っていたとしても人のプライベートな日記にまったく興味がなかったのだろう。

 それなら、最後の「曾良にかたれば書とどめ侍る」の一節は嘘だったのだろうか。そうだったかもしれない。しかし、ひょっとしたら本当だったのかもしれない。可能性はまったくないわけではない。たとえば、『随行日記』や『俳諧書留』とはまったく別の芭蕉用のメモが存在していたということも考えられなくはない。芭蕉用のメモであれば、旅のあともそれは芭蕉自身が所持し、『奥の細道』を書き終えた時点では不要になり、他の草稿と一緒に反故にされて今日にまでは残る可能性はほとんどない。今日それが残ってない以上、証拠は何もない。ただ、仮にここで芭蕉が書いたことがすべて事実だとしたら、そのようなことも考えられるというだけのことである。

 特に、この市振の遊女の場面と、かさねの場面、那須篠原での「野を横に」の句の場面、松島、平泉などの旅のトピックスには、独自のメモがあったとしてもおかしくはない。しかし、結局どっちみち我々が手にしている証拠はあまりに少なすぎる。そこからいろいろ想像を膨らますのは一つの楽しみではある。しかし、結局事実とも虚構とも、断定的なことは言えないのがこの世界である。

 なおこのあと山中温泉での歌仙の

 

   松ふかきひだりの山は菅の寺
 役者四五人田舎わたらひ     曾良

 

の句を、芭蕉が「遊女四五人」に直したという。柳田国男も指摘しているが、旅をする遊女の姿はそれほど珍しくはなかったのだろう。

 元禄11年になるが、各務支考(かがみしこう)が九州を旅した時の『(ふくろう)日記』にも「()の童」の伊勢参りに遭遇して、

 

 「次の日(この)山中を通るに、めの童共(わらわども)の伊勢詣するに逢ふ。首途(かどで)(この)あたりちかきほどならん。髪かたちもいまだつやつやしきが、みな月の土さへわるゝ、といへるあつき日には、我だにたふまじきたびねの頃なるを、いかに道芝のかりそめにはおもひたちぬらん。百里のあなたははるけき(わが)いせのくにぞよ。道のほとりなる家によび(いり)て何がしがかたに文つかはす。その奥に(この)童ア共もに茶漬(くは)せ給へ、柹本(かきのもと)のひじりもあはれと見たまへるものをとかきて、

 姫百合の(なさけ)は露の一字かな」

 

 と記している。

三、那古の浦

 「くろべ四十八が()とかや、数しらぬ川をわたりて、()()(いふ)浦に(いづ)()()藤浪(ふぢなみ)は春ならずとも、初秋の(あはれ)とふべきものをと、人に(たづね)れば、『(これ)より五里いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、(あま)(とま)ぶきかすかなれば、(あし)一夜(ひとよ)の宿かすものあるまじ』といひをどされて、かゞの国に(いる)

 

 わせの香や分入(わけいる)右は()(りそ)(うみ)

 

(現代語訳:黒部四十八が瀬とかいう()数知()ぬ川を渡()て、那古という浦に出た(いづ)。田子の藤波は春だけ(なさ)()なく(とも)、初秋()哀れ()()言われてた(ふべきものを)()、人に尋()れば、

 『ここ(これ)から(より)二十キロ(五里)()通り抜けて(たひして)向こうの山陰に入り、漁師(あま)小屋(とま)()()ずかに(かす)ある(かな)だけ()()、芦の一夜の宿(かす)(もの)ない()だろう(るまじ)。』

止められて(いひをどされて)加賀の国に入る。

 

 市振を出るとまず境川があって、その先に加賀藩の入口になる境の関があった。ここから先はようやく馬に乗れたのだろう。ただ、黒部川の河口は広大な河川敷に小さな川が無数に分れている状態で、ここでは馬から降りなくてはならなかった。

 このあと滑川(なめりかわ)に一泊して翌日神通(じんつう)(がわ)に出るとそこから船で渡った所が那古の浦だった。加賀藩は富山藩によって東西に分断されるような形になっていて、この渡し舟は富山藩を通らずに東西を行き来する回廊のようなものだった。

 

越の海あゆの風吹く那古の浦に

    船は留めよ波枕(なみまくら)せむ

            藤原(ふじわらの)(なか)(ざね)

 

の歌にも詠まれた歌枕で、大きな入り江があって干潟になっていた。

 ()()藤浪(ふぢなみ)は田子の藤波という字も当てる。

 

 この頃は田子(たご)藤波(ふじなみ)なみかけて

    ゆくてにかざす袖や濡れなむ

            土御門院(つちみかどいん)

 

の歌にも詠まれている。今の氷見で、曾良の『随行日記』にも、「氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。」とある。

 氷見の方へ行く道は能登へ行く道で、芭蕉と曾良はそちらへ行かずに高岡の方へ向かった。この分岐点の句が「()(りそ)(うみ)」の句だったのだろう。

 有磯海というのは荒磯海(あらいそうみ)のことで、万葉時代の日本語はフランス語のようにリエゾンした。大石はopo isi→op'isi(おひし)、我が妹子はwaga imoko→wag'imoko(わぎもこ)というように、荒磯もara iso→ar'iso(ありそ)になる。本来有磯海は一般名詞だったのだが、大伴家持(おおとものやかもち)

 

 かからむとかねて知りせば(こし)の海の
   荒磯(ありそ)の波も見せましものを

 

といった歌で有名となり、越中の国の歌枕となった。

 高岡へ行く道は田んぼの中の道で、北国では秋が来るのが早く、かつては早稲の産地だったようだ。当時の早稲は今でいう香米の系統のもので、独特な香りがあった。貞享五年の興行の句に、

 

   帷子に袷羽織も秋めきて

 食早稲くさき田舎なりけり    芭蕉

 

の句があり、芭蕉はこの匂いがあまり好きではなかったのかもしれない。曾良は直江津の興行で、

 

   星今宵師に駒引いてとどめたし

 色香ばしき初刈の米       曾良

 

の句を詠んでいる。

 一面の田んぼに実る稲穂はさながら海のようで、風が吹けば稲穂は波打ちさながら荒波を掻き分けて行くようだ。その早稲の匂いを磯の香に見立てたのだろうか。日のじりじり照りつける中を歩きながら、あの稲穂の海の向こうには有磯海があるのだろうか。そう思いながら那古の浦を離れ、高岡に一泊し、そのあと()()伽羅(から)(とうげ)を越えて金沢に入ることになった。

四、塚も動け

 「()花山(はなやま)・くりからが谷をこえて、金沢は七月(なか)五日(いつか)也。(ここ)大坂(おほさか)よりかよふ商人何処(かしょ)(いふ)(もの)(あり)。それが旅宿をともにす。
 一笑(いっせう)(いふ)(もの)は、(この)(みち)にすける名のほのぼの(きこ)えて、世に知人(しるひと)(はべり)しに、去年(こぞ)の冬早世(さうせい)したりとて、(その)追善(ついぜん)(もよほ)すに、

 

 塚も動け(わが)泣声(なくこゑ)は秋の風」

 

(現代語訳:卯の花山・倶利伽羅(がたに)を越えて、金沢は七月十五日(なかのい)()着いた(かなり)。ここ()大阪から(より)通う何処(しゃうにん)()いう(しょと)商人(いふ)()会った(のあり)一緒(それ)()泊って(りょしゅくを)行った(ともにす)

 一笑という者は俳諧()の道に少し(すける)ばかり(なのほ)(のぼ)()聞いて(きこえて)世間()でも()知る人もいた(はべり)のに(しに)去年(こぞ)の冬老い(そう)()待たず(した)()亡くなり(とて)、その兄追善を催して(すに)

 

 塚も動け()()泣く声は秋の風

 

 「七月(なか)五日(いつか)」は七月十五日。つまりお盆。この日芭蕉は倶利伽羅峠を越えて金沢に着いた。

 金沢は加賀百万石の地で、文化的にも進んだ地域だった。その地の俳諧で期待されていた一笑の名は芭蕉も知っていて、よっぽど会うのを楽しみにしていたのだろう。『阿羅野』にも、

 

 元日や明すましたるかすみ哉   一笑

 いそがしや野分(のわき)の空に夜這(よばひ)(ほし)   同

 火とぼして幾日になりぬ冬椿   同

 

と言った句が選ばれていた。それだけに、その一笑が若くして死んだことを耳にしたときの落胆もひとしおだったようだ。期せずして金沢での俳諧興行は一笑の追善興行になってしまった。

 芭蕉の発句は「秋の風に塚も動け、我が泣く声は」というふうに解釈する人もいるが、秋の風に塚を動かす力があるとは思えない。やはり芭蕉の泣く声が塚を動かすという句ととっておきたい。我が泣く声が秋の風となり、その哀れさに鬼神も感応し、死者を生きかえらせて欲しい、そういう願いを込めた一句だ。泣く声というのは、いわゆる「号泣」の事で、墓の前で大声でなく儀式のことだろう。

 人の死は残された人にとっては悲しくないはずがない。悲しいのをじっとこらえるよりは、大声で泣いて発散したほうがストレスも溜まらないし、吹っ切りもつく。昔の人は感情を無理に抑制するようなことはなかった。悲しかったり感激したときには思いっきり泣く。ただ、武士の社会では笑うという感情は抑えられていたようだ。笑うというのは勝ち誇ったような印象を与え、笑われるほうは不快になる。しかし、悲しいときの感情は、抑制されてはいなかった。アルベール・カミュの『異邦人』でも、葬式の日に涙を流さなかったことが死刑につながることが描かれているが、人間というのは喜びを露骨に表わす人間には不快感を感じ、悲しみをはっきり表わす人間には逆に安心感を覚えるのだろう。
 これに対し、おそらく昭和に入ってからの日本人は、何でもかんでも感情を抑制しすぎるように思える。親の死にも涙を流さず仕事を続けることを賛美するのは、いささか異常なような気がする。

 人間の表情というのは大まかなところではどこの国でもいつに時代でも共通点はあるだろう。しかし、その生まれ育った社会の文化によって、ある部分は抑制され、ある部分は誇張されたりして、その民族特有の表情を作り出す。我々が自然だと感じる表情も、実際には複雑な人間関係にもまれながら鍛えられた表情だ

 表情は決して普遍ではない。芭蕉のこの句に対し、特に昭和に入ってから「大げさ」だとか「芝居が掛かっている」という批判をたびたび受けてきたのは残念だ。
 なお、曾良の『俳諧書留』には、

 

 玉よそふ墓のかざしや竹の露

 

という曾良の追善句も添えられている。「かざし」とは簪のこと。竹に降りた露の玉に死者の魂を感じたのだろう。それが墓の簪のように見える。芭蕉の句の力強さの前には霞んでしまいそうだが、曾良らしい好句だ。

五、秋涼し

  「ある草庵にいざなはれて
 秋涼し()(ごと)にむけや瓜茄子(なすび)

 

(現代語訳:ある草庵に招待(いざな)()れて

 秋は涼し()()()()()()()毎に(うり)むけ(なすび)

 

 このあたり、また順序が入れ替わっている。実際は金沢に着いてすぐに一笑の死を聞き、その一週間後の7月22日に(がん)念寺(ねんじ)で一笑追悼会を行い、「塚も動け‥」の句を詠むことになる。「あかあかと‥」の句とこの「秋涼し‥」の句はその間に詠まれたもので、本来の順序としては「塚も動け‥」の句の前になる。

 7月20日、お盆も明けた頃に斎藤一泉の家に招かれ、芭蕉はこのとき、

 

 残暑しばし手毎に(れう)れ瓜茄子

 

という発句を詠む。「(れう)れ」というのは変な言い回しだが、料理を「(れう)る」という動詞にして命令形「料れ」を作るこうした造語法は今日でも見られる。「メモれ」「コピれ」「テプれ」(これはちょっと古いが)というのと同じだ。

 この句は竹下数馬によれば、霊前に供える供物をめいめい自分で皮を剥いて賽の目に切ってお供えしましょうという意味だという。高橋庄次もこれを盆棚の瓜茄子だと解する。時期的にはお盆明けなので、それまで精霊棚に供えてあったものを下げて頂く、と考えた方が良いかもしれない。いずれにせよ、単なるおやつではなく、何らかの追善の意図を持ったものだったのだ。そうでないと次の脇句の意味が通らなくなる。

 

   残暑しばし手毎に料れ瓜茄子

 短さ待たで秋の日の影    一泉

 

 

 秋の夕日の光りはその短い一日を待たずして沈んで行く。まことに人の一生なんてはかないものだ、という思いが込められている。「影」はかつては光の意味だったが、この場合は亡き人の面影に掛かっている。この句を単にみんなそれぞれ自分で瓜や茄子の皮を剥いて食べましょう、という意味に取るなら、なぜここで短い秋の日を言わなくてはならないのか意味がはっきりしなくなる。
 この一泉の脇句はあるいはその三日前に詠んだ芭蕉のこの句の面影だったかもしれない。ここでも順序が逆になっている。それは次のこの句だ。

六、帰り道

 旅行というのは行く時は楽しいが、その楽しさがいつまでも続くわけではない。行けば必ず帰りが待っている。日常のいやなことを忘れ、はるばる苦労して遠くまで来てみたけれど、結局いつものことながら疲れた体に長い帰り道が待っている。また明日からいつもの仕事が、平凡な日常が待っている。
 同じように、人生もまた帰り道がある。生まれてきたからには必ず帰らねばならないところがある。人は永遠に若さを保つことはできない。人はいつか年老い、死を向かえねばならない。昨日まで見えてたものが見えなくなり、昨日まで聞こえてたものが聞こえなくなり、昨日までできていたことができなくなってゆく。そしていつか、すべてが消えてゆく。

 旅先での楽しかったこと、松島や象潟での感動、いろいろな人との出会い、遊女との一夜、みんな一時の夢として消えていってしまうのだろうか。そして、『奥の細道』を読み、芭蕉とはまったく別の人生を送っているこの私もまた、そしてこれを読んでいるあなたもまた、いつかは帰らねばならない日が来るのだろう。

 今は何か信じられないような、信じたくないような、でもいつかはきっと最後の瞬間を迎えるのだろう。脳内モルヒネが作り出す最後の夢、人生のパノラマ、お花畑、神仙境、それが消えたあと何があるのだろうか。
 元来物理的には時間の「流れ」はない。ただ、一瞬一瞬がそこにあるだけだ。そのつど生じては消えてゆく無数の量子、波動、干渉。しかし、我々はほんの少しだけいくつかの瞬間をひとまとめにして、「今」「現在」という意識を生み出す。何がそのような意識を生じさせているのか、どのようなメカニズムがそこに働いているのか、あるいは何らかの量子的な場がそうさせるのか、それは現代の科学をもってしても未だに謎だ。それでも我々はほんの少しだけ時間を止め、世界を止めている。そこで世界を眺め、質感(クオリア)を意識し、自己を見つめている。しかし、いつか世界を止められなくなるのだ。それは宇宙が本来あるべき姿に戻ってゆくだけなのかもしれない。
 朱子学ではこのことを気の集散として説明する。気が一点に凝縮されれば、そこに万物が生じ、生命が生じる。気が散逸すれば死を迎える。それは四季の循環、昼夜の循環のアナロジーで語られる。春に生じた万物は秋には死に向かい、昇る太陽は必ず沈む。その運命は誰も逃れることはできない。

 

  「途中吟

 あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風」

 

 (現代語訳:途中吟

 あかあかと日はつれな()()秋の風

 

 芭蕉の北陸路の旅は長い長い帰り道だった。そして、それは初老で持病を抱えあまり体の丈夫でない芭蕉にとっては、人生の帰り道のようでもあった。本当は蝦夷や千島までも行ってみたかった。しかし、健康状態はそれを許さなかった。平泉と象潟を一つの果てとして、泣く泣く引き返した。これ以上長逗留すれば、すぐに秋は過ぎ、長く厳しい北国の冬が来る。それでも行ってみたい。でも曾良は体のことを心配して必死に引き留める。そんな曾良に随分芭蕉は恨み言を言ってきたのだろう。今みたいに飛行機で一っ飛びというわけにはいかない。まだ見ぬ地はおそらく永久に行くことのない地として夢の彼方に消えてゆく。芭蕉は古人の見残しを見ることによって古人の魂を鎮めようとしたものの、ここにまた「芭蕉の見残し」ができてしまった。

  一笑の死の知らせ、初盆と続き、人生のはかなさを感じたところで、陽はまさに沈もうとして、西の日本海の上に赤々と燃え盛る。そして折りから秋風が冷たく吹きすさぶ。辛い帰り道。「途中吟」とはそんな芭蕉の人生のパッセージか。
 この句は場所の指定もなく、この二行だけで独立している。その意味でも『野ざらし紀行』でのあの名吟、

 

   馬上吟
 道のべの木槿は馬にくはれけり  芭蕉

 

と同じ演出がなされている。「あかあかと‥‥」の句は芭蕉自筆のイラスト入の『入日に萩自画賛』も残されてい、芭蕉にとってはまさに「自賛」の句だったのだろう。

七、むざんやな

  「小松と(いふ)所にて
 しほらしき名や小松(ふく)(はぎ)すゝき

 

 (この)太田(ただ)の神社に(まうづ)(さね)(もり)(かぶと)(にしき)(きれ)あり。往昔(そのかみ)、源氏に(ぞく)せし時、(よし)(とも)公より給はらせ(たまふ)とかや。げにも(ひら)(さぶらひ)のものにあらず。()(びさし)より吹返(ふきかへ)しまで、菊から草のほりもの(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)鍬形打(くはがたうっ)たり。(さね)(もり)討死(うちじに)(のち)木曾(きその)(よし)(なか)願状(ぐわんじゃう)にそへて此社(このやしろ)(にこめられ(はべる)よし、樋口(ひぐち)の次郎が使(つかひ)せし事共(ことども)、まのあたり(えん)()みえたり。

 

 むざんやな(かぶと)の下のきりぎりす」

 

(現代語訳:[松風というには]しおらし()だな()小松吹く萩すすき

 

 この土地(とこ)()多田の神社に詣でた()。実盛の(かぶ)()錦の(きれ)があった。その昔源氏()()()いた(せし)時、源義朝(よしともこう)より賜った(たまはら)()いわれ(たまふ)()いる(かや)確か(げに)()ただ()()(さむらい)のもの()()ない(らず)()(びさし)から(より)吹返まで、()()唐草の彫り物()黄金(がね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形が打って(うった)ある()。実盛討ち死にの後、木曾義仲願状に添えてこの社に奉納(こめ)された(られは)こと(べる)(よし)、樋口の二郎が使い()した()ことなど(ども)()縁起()()目の()当たり(んぎ)()見えた(えたり)

 

 無残()な兜の下のコオロギ(きりぎり)()

 

 「しほらしき‥」の句は小松での俳諧興行での句。小松という地名に掛けて小さな松を秋風が吹いているようでしおらしいと詠んだものだ。

 「しほ(を)らし」は「しをる」から来た言葉で、花が萎れるように本来は悲しげなものだった。それが転じて、はかない、控えめな弱々しい美しさ表わす言葉となり、芭蕉は「さび」と並ぶ「しほり」を俳諧の一つの理想の体とした。

 「萩すすき」は「萩の上露、荻の下風」を思わせるもので、本来なら「しおらしき名の小松を吹く萩すすきの風」となるべきところを省略したものだ。「しおらしき」というのは、松風なら蕭々として吹きすさぶ風の悲しさに断腸の思いになる所だが、小松の風だからそこまで行かない、という意味が込められている。

 初案は「萩すすき」ではなく「荻すすき」だった。荻とススキは似ているし、ともに風に縁があるからこの方が意味はわかりやすいが、萩の方が花がある。萩の露を散らし、すすきの葉を鳴らす秋風に吹かれる小さな松は、小町の面影もあってのことか。

「むざんやな‥」の句は小松の多田(ただ)八幡に詣でた時の句で、そこには実盛の兜は木曾願書などがあった。句の方は後日小松から山中温泉に向かう時に再び多田八幡を訪れ、その時奉納された句のことが曾良の『随行日記』にあるので、その時のものと思われる。

 後に山中温泉から再び小松に戻った時の興行で、

 

 あなむざんやな(かぶと)の下のきりぎりす 芭蕉

 

を発句にしていることから、それと同一のものと推定されている。

 真盛は実盛のことで、斎藤(さいとう)別当(べっとう)(さね)(もり)という。はじめは源義朝(みなもとのよしとも)に仕えたが、後に平宗(たいらのむね)(もり)につき、自分の故郷でもある加賀篠原の合戦で(きそ)(よし)(なか)の軍と戦い戦死した。

 義仲にとって実盛は育ての親のようなものだったのだが、その後の運命が二人を敵味方にしてしまった。

 篠原の合戦のとき、実盛は既に年老いていたが、白髪を黒く染め、赤い錦の直垂(ひたたれ)を着て戦い、文字どおり故郷に錦を飾るはずだった。木曾義仲もその実盛の無念の気持ちを汲んで、せめて兜だけでも故郷に錦を飾らせようと、この神社に納めたのだろう。

 「きりぎりす」は今日のコオロギのことで、篠原=ススキが原のイメージからの連想だろう。冬が来れば死んでしまうコオロギに老いた実盛の姿を重ね、故郷の篠原で今を盛りと鳴いている声に、在りし日の実盛の姿を偲んだのだろう。

 この句は最初「あなむざんやな」としたのを後に改めてこの形となった。この改作について、『去来抄(きょらいしょう)』は「基より出る、出ず」の問題として不易流行の説と合わせて論じている。『去来抄』にはこうある。

 

 「魯町曰(ろちゃういはく)(もとゐ)より(いづ)ると不出(いでざる)風はいかに。去来曰、基をしらずしては(とき)がたからん。(まづ)あらはに知るもの、一二をあげて物語すべし。(たと)へば先師の風といへども、
   貞固(ていこ)が松けさ門に(あり)(おんな)(ども)きほひ
   瀧有(たきあり)蓮の葉に(しばら)く雨をいだきしか   素堂

是等(これら)は詩か語か。文字数不合(もじかずあはざる)のみに(あら)ず。又合(またあひ)たるにも

   散る花にたたらうらめし暮の声    幽山

 (これ)謎句也(なぞくなり)。魯町曰、俳諧歌に謎の体も有事(あること)にや。去来曰、是等は皆はいかい歌の体よりは不出(いでず)、察し見らるべし。

 魯町曰(ろちゃういはく)、先師も(もとゐ)より不出(いでざる)(はべ)るにや。去来曰、奥羽行脚の前はまま有り。(この)行脚の内に工夫(くふう)(たま)ふと見へたり。行脚の内にも、あなむざんやな(かぶと)の下のきりぎりすと()ふ句あり。後にあなの二字を(すて)られたり。(これ)のみにあらず、異体の句どもはぶき捨給(すてたま)ふ多し。(この)年の冬はじめて、不易流行の教を説給(ときたま)へり。 

 

 去来はまず典型的な破調の句を挙げる。是等の句は単に字余りということではなく、和歌の本来のみやびな日本語の文体ではなく、漢詩・漢文調であることも重視する。こうしたものを去来は「俳諧歌の体よりは不出(いでず)」、または「基より不出(いでざる)」と呼ぶ。ここでいう俳諧歌とは必ずしも『古今集』の俳諧歌だけを指すのではなく、広く伝統的な和歌・連歌の一要素としての俳諧を指す。つまり、伝統的な俳諧の体に基づいていないということをいう。

 本来の和歌・連歌の伝統にないような句は、延宝の終りから天和の時代、貞享の始めまで、芭蕉の俳諧にも頻繁に見られる。たとえば、

 

 櫓の声波ヲうつて(はらわた)氷ル夜やなみだ 芭蕉
 芭蕉野分(のわき)して(たらい)に雨を(きく)()(かな)     同

 

などは漢詩調。

 

 雪のふぐ 左勝 水-無月の鯉    芭蕉

 

は句合わせの体。

 

 (えんなる)(やっこ)今やう花にらうさいス    芭蕉

 

は謡曲調。これらは和歌・連歌の文体ではない。「基より不出」というのは、こういう体を指す。それなら「むざんやな」の句の初案、

 

 あなむざんやな(かぶと)の下のきりぎりす 芭蕉

 

がなぜ「基より不出」の体なのか。それは「あなむざんやな」という言葉が謡曲『(さね)(もり)』の「唯一目見て、涙をはらはらと流いて、あなむざんやな、斎藤別当にて候ひけるぞや」という台詞から取った謡曲調だからだ。「あな」を取るのは、ただ五七五の字数に収めるというだけのことではない。本来の古典から受け継がれた文体に戻すということでもあった。

 「あなむざんやな」という言葉は謡曲『実盛』の見せ場の一つ、首検分の場で、白髪を黒くめてたのを池の水で洗うと元の白髪姿にもどって、斎藤別当実盛の首であることが明らかになる、その時の言葉だ。

 知っている人にはすぐに、能のその場面が浮かんだのだろう。出典のある言葉を使うというのは、確かにそういう効果がある。

 たとえば、たまの1990年のヒット曲『さよなら人類』に、「ピテカントロプスになる日が近づいたんだよ」というフレーズがあるが、知っている人はそこで映画『猿の惑星』を思い浮かべ、この歌が核戦争による人類の滅亡をテーマにしたものだということまでわかるようになっている。しかし、知らない人にはこの歌は単なるナンセンスな言葉の連続にしか聞こえない。

 松永(まつなが)(てい)(とく)いわゆる貞門(ていもん)の時代は戦国時代の諸国に分断され、いわばブロック経済に陥ってた時代から、諸街道が整備され、全国規模で商業が活性化し、多くの人の行き来するようになる時代だった。

 中世のまだ商業のそれほど活発でなかった時代には、人々の生活は所領が単位で、所領ごとの独自の方言が用いられていて、そのため和歌や連歌は八代集の言葉、いわゆる雅語で作られていた。それに対して俗語を解放していったのが俳諧だった。

 ただ、初期の頃はまだ俗語の通用する範囲が狭く、貞門も俗語は一句に一語としていた。ただ、(かん)(ぶん)の頃になると、謡曲もまた地域を越えて多くの人が知っているということで、一句一語の制限を越えて謡曲の言葉を盛んに用いるようになった。

 延宝(えんぽう)の頃になると、江戸上方などの都市の共通語も広まり、また寛文期の出版産業の成長から、仮名草子、浄瑠璃(じょうるり)本、様々な漢籍や読み書きの教科書などの言葉も共通の言葉となっていたこともあって、西山(にしやま)宗因(そういん)(だん)(りん)の流行とともに様々な新しい言葉が解放されていった。

 天和(てんな)の頃には西鶴の草子類も流行し、江戸時代の文語のスタイルが確立されてくると、俳諧の言葉も雅語から脱却し、こうした多くの人に共有される新しい文語で作られるようになっていった。

 こうした中で、寛文の頃には画期的だった謡曲調も流行遅れになったのは確かだろう。それは江戸時代の庶民が自分たちの文語を確立した結果で、もはや過去の出典に頼る必要がなくなったということだった。

 貞門から談林を経て正風を確立してゆく流れは、単なる美意識だけの問題ではなく、むしろ言語の問題として研究されてゆく必要がある。

八、那谷寺

 「山中の温泉(いでゆ)(ゆく)ほど、白根(しらね)(だけ)(あと)にみなしてあゆむ。左の山際(やまぎは)に観音堂あり。花山(くわざん)法皇(ほうわう)三十三所の順礼(じゅんれい)とげさせ給ひて(のち)大慈(だいじ)大悲(だいひ)の像を安置し給ひて、()()名付(なづけ)給ふと也。那智(なち)谷汲(たにぐみ)の二字をわかち(はべり)しとぞ。()(せき)さまざまに、古松植(こしょううゑ)ならべて、(かや)ぶきの小堂(せうだう)、岩の上に造りかけて、殊勝(しゅしょう)の土地也。

 

 石山の石より白し秋の風」

 

(現代語訳:山中の温泉に行く()()、白根が岳()せに()して(にみ)ゆく(なし)こと()()なる(ゆむ)

左の山際に観音堂()ある()花山(くわざんの)法皇()三十三箇所(んじゅうさんしょ)の順礼(とげ)遂げた(させたまひし)(のち)、大慈大悲の像を安置し(たまひて)那谷と名付け(たま)(ふと)いう(なり)。那智・谷汲の二字()(わか)()取った(はべ)()されて(しと)いる()様々(きせ)()(さま)(ざま)(こし)(ょう)古木(うゑ)()並び(らべて)、茅葺きの小さな(せうど)()()()の上に建てられて(つくりか)いて(けて)素晴らしい(しゅしょうの)風景(とち)(なり)

 

 石山の石より白いか()秋の風

 

 ()谷寺(たでら)は養老元年(717年)に(たい)(ちょう)法師が開いたとされ、白山に登り、白山の神が十一面観音の垂迹(すいじゃく)であるとのお告げを受け、十一面観音を祀ったのを始めとする。泰澄法師は白山の修験(しゅげん)(どう)の開祖とも言われている。

 花山の法皇は花山天皇の出家後のことで、色好みでも知られ、忯子(しし)という女御を溺愛して死に至らしめたことで、『源氏物語』の桐壺帝のモデルにもなっていると思われる。

 女御の死の後、花山天皇は出家して法皇となり、西国三十三箇所を廻ったとされている。このあたりは伝説に属するので真偽の程はわからない。西国三十三箇所を廻った後、小松を訪れ、泰澄法師が開いたお寺に感動し、西国三十三箇所の一番の「那智」と三十三番の「谷汲」から一時づつ取って「那谷」と命名したとされている。
 さて、その那谷での発句だ。

 

 石山の石より白し秋の風   芭蕉

 

 「石山」は近江の石山寺のことだとするのがすっかり定説になっているが、なぜここで唐突に百キロも離れた石山寺が出てくるのかよくわからない。それに、歌枕というのはその土地への挨拶なのだから、その土地の名を詠み込むことに意味があるのであって、縁もゆかりもない地名を詠み込むことは歌枕の本意本情に背くことになりはしないか。この句はあくまで倒置によるもので、「秋の風は石山の石より白し」と読んだ方がいいのではないか。
 那谷の奇岩は石英質で真っ白だが、秋の風はそれよりもっと白い。「白し」は「しるし」、つまりはっきりとしている、という意味を含んでいる。「目にはさやかに見えねども」と藤原敏行朝臣ふじわらのとしゆきのあそんの歌にもあるが、秋風が石の白さにつられて、白く透き通ってる様を「白し」と表現したのが、この句の本来の意味ではなかったか。夏の水蒸気を多く含んだ濁った空気に対し、秋の空気は乾いていて、目に見えるものをくっきりとシャープに映し出す。

 もちろん、秋風が白いのは、五行説で秋の色が白だからというのも理由かもしれない。古来、中国の五行は万物を木、火、土、金、水の五つのエレメントに分けて考えるもので、木が燃えて火になり、火の跡には土が残り、土の中には金が生じ、金で冷やされた空気は露を生じ、水は木を育てる、というふうに循環する。

 この循環は季節にも当てはめられる。春は草木が生じ、夏は太陽の火が燃え盛り、季節の変わり目の「土用」を経て、秋は大地に金色に稔らせ、冬は露霜の生じる季節となる。この五行は三原色プラス白と黒の基本的な五色にも対応する。木-春-青、火-夏-赤、土-土用-黄、金-秋-白、水-冬-黒。「青春」という言葉もここから来ている。今日では青春以外の言葉は死語になってしまったが、本来は「朱夏」「白秋」「玄冬」という言葉もあった。北原白秋の「白秋」もそこからとったものだ。それでいえば、確かに秋の色は白ということになる。

 なお、五行は他にも五常の徳にも、木-仁、火-礼、土-信、金-義、水-智というふうに対応しているし、五感や五味や動物の五つの分類(鱗を持つもの、羽を持つもの、裸つまり人、毛もの、甲羅を持つもの)にも対応している。動物の五つの分類は、鱗を持つものの王としての青竜、羽を持つ朱雀、毛を持つ白虎、甲羅を持つ玄武といった、いわゆる「四聖獣」をも生んだ。

 また、秋は五味でいうと「辛」になるため、

 

 身にしみて大根からし秋の風   芭蕉

 

となる。五行説はまさに万物を五つにカテゴライズするものだった。
 白という色は、ここでは当然秋の色というだけでなく白根が嶽(白山)を意識したもので、修験の山、白山を遠くに眺め、そこに無常の秋風の声を聞いたのだろう。

 

 『奥の細道』では例によって順序が逆になっているが、芭蕉が那谷寺を訪れたのは山中温泉から再び小松へ向かう途中で、ここで曾良と別れ、芭蕉と北枝は小松に、曾良は全昌寺(ぜんしょうじ)に向かったものと思われる。

九、山中温泉

 「温泉(いでゆ)(よく)す。其功有明に(つぐ)(いふ)

 

 山中(やまなか)や菊はたおらぬ湯の(にほひ)

 

 あるじとする物は、久米之(くめの)(すけ)とていまだ小童(せうどう)也。かれが父誹諧を好み、(らく)(てい)(しつ)若輩(じゃくはい)のむかし(ここ)(きた)りし(ころ)、風雅に(はづか)しめられて、洛に(かへ)りて(てい)(とく)の門人となつて世にしらる。功名の後、(この)一村(いっそん)(はん)()(れう)(うけ)ずと(いふ)今更(いまさら)むかし(がたり)とはなりぬ。」

 

(現代語訳:温泉に入った(よくす)効能(その)(こう)有馬(ありあけ)匹敵()する()という。

 

 山中では()菊は折らなくて(たおら)いい()湯の匂い

 

 宿(ある)(じと)主人(するもの)久米之(くめの)(すけ)()いって(てい)まだ少年(せうどう)だった(なり)。彼()()()俳諧を好み、(らく)(てい)()()若輩だった(のむか)()ここに()(たり)いて(しころ)俳諧(ふうが)()ディス(はずかし)(めら)れて、(らく)(かえ)()て貞徳の門人となって有名(よに)()なった(らる)()()成した(みゃうの)のち、この(いっ)(そん)では(はん)授業料(じの)無料(れう)()教えた(けず)という。()()なって()()(かたり)なって(はなり)いる()

 

 「有明」とあるのは有馬の間違い。先ほど石山のことで那谷を石山寺と比較して那谷を褒めるのは、かえって石山寺に失礼になりはしないかと言ったが、ここでは「有明(馬)に次」と書いてある。これなら有馬の湯に失礼にならない。

 この他にも日本語には「勝るとも劣らない」といううまい言い方がある。はっきり「勝る」と言ってしまうと比較された方に失礼になる。「劣らない」だとか「次ぐ」、あるいは「匹敵する」というう言い方が適切だ。
 句の方の「菊は()()らぬ」という言い回しも同じだ。菊の酒は古くは不老長寿の仙薬とされ、そのため菊はかつては花を鑑賞するというよりは折って薬にするものだった。(おほし)河内躬(こうちのみ)(つね)の歌に、

 

 心あてに折らばや折らん初霜の
    おきまどはせるしらぎくの花

 

とあるのもそのためだろう。ここ山中温泉は温泉の浴効があるので菊を折る必要はない。

 なお、菊の酒は当時通常は菊の花を酒に漬けたものを言い、盃の底に菊の花が見えるため、それが十六弁の菊の花の描かれた朽木盆のようだということで、延宝の頃芭蕉は、

 

 盃の下ゆく菊や朽木盆    芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 これとは別に加賀には加賀(かが)(きく)(ざけ)というのがあって、これは通常の菊の花の入った酒ではなく、諸白(もろはく)のような清酒だった。精米歩合がやや低くて、江戸の酒ほど黒くないけど、ほんのり黄色い色がついて、それを重陽の菊酒になぞらえて、菊酒と呼ばれていた。

 加賀名産の菊酒と不老長寿の菊の酒、両方の意味を込めても、ここ山中温泉の湯は菊を折る必要がないくらい体に良い、そういう句だった。

 「山中」も地名でもあるが、同時に山の中という意味もある。山中というだけあって、本当に桃花源のような山に囲まれた土地で、仙薬の菊も必要ないくらいの不老長寿の湯が湧き出いて、その上加賀菊酒まである。土地への挨拶の句としては模範的な詠みっぷりだ。

 その山中温泉の宿の主人はまだ14歳の子供だったという。その父が俳諧をたしなみ、安原(やすはら)貞室(ていしつ)に俳諧に目覚めさせたと伝説にもなったという。これはやや記憶違いがある。

 曾良の『俳諧書留』には、

 

 「貞室若くして彦左衛門の時、加州山中の湯に入て宿、泉や又兵衛に進められ俳諧す。甚だ恥じ悔やみ、京に帰て始習て、一両年過ぎて名人となる。来て俳もよほすに所の者、布而之を習う。以後山中の俳、点料なしに致遣す。又兵衛は今の久米之介祖父也」

 

とある。父ではなく祖父だった。貞室の活躍した時代からしても祖父でないと合わない。

 近代俳句では貞門・談林の俳諧が不当に低く評価されてきたため、今日では安原貞室と言われても、一体何した人と思うかもしれない。かつては

 

 これはこれはとばかり花の吉野山

 

の句は誰しも知る古典的名作だった。『去来抄』でも不易の句の例として挙げられている。しかも、俳諧師として名声を得たあとも俳諧で金を取ろうとしなかったという潔癖な人柄は伝説となっていた。

第六章、出会い、そして別れ

一、曾良との別れ

 「曾良は腹を(やみ)て、伊勢の国長嶋(ながしま)(いふ)所にゆかりあれば、先立(さきだち)(ゆく)に、

 

 (ゆき)ゆきてたふれ(ふす)とも萩の原  曾良

 

書置(かきおき)たり。(ゆく)ものの悲しみ、(のこる)もののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、

 

 今日(けふ)よりや書付(かきつけ)消さん(かさ)の露」

 

(現代語訳:曾良は腹()病気(やみ)()伊勢の国長島という所()故郷()()よう()()もの()なので(れば)先に(さき)そっち(だち)()行く()

 

 行き行きて倒れ伏した()()して()()()()()なら() 曾良

 

書き残して(かきおき)いった(たり)。行く者の悲しみ、残るものの恨み、つが()いの()()()別れて雲に迷う()()よう()()

 ()もまた

 

 今日よりは書き付け消そう(さん)笠の()()
 
 曾良の句は倒置法によるもので、句意は「萩の原を行きゆきてたふれ伏すとも」だ。たふれ伏すとも何なのか、このままでは分かりにくいが、この句と芭蕉の句は『芭蕉翁略伝』(幻窓湖中著、弘化二年刊)に次の様な形で収められてい、原案と思われる。

 「同行なりける曾良、道より心地煩わしくなりて、我より先に伊勢の国へ行くとて

 

 跡あらん倒れ臥すとも花野原

 

といふ事を書き置き侍るを見て、いと心ぼそかりければ

 

 さびしげに書付(かきつけ)消さん笠の露」

 

 これによるなら、花野原で倒れ臥すとも跡あらん、という意味だったことになる。文字どおり、同じ道を先に行くわけだから、途中で倒れても、芭蕉さんあなたが後から来てくれるでしょう、という意味になる。野原で倒れても、花を踏みわけて通った跡が残っている、という事に掛けた句だ。そこには、芭蕉への師としての信頼の気持が込められている。

 それに対して、芭蕉も残念なことと思いつつ、淋しい気持で、旅立つ際に笠に書き付けた「同行二人」の文字を抹消したのである。「今日よりや」の句もまた倒置法の句で、句意は「笠の露で今日よりや書き付けを消さん」となる。「笠の露」は比喩で、いわば涙でまだ未練の心を残しつつ、泣く泣く書き付けを消したのである。

 なお、「行きゆきて」の句は『(さる)(みの)』などに収められている、

 

 いづくにかたふれ(ふす)とも萩の原

 

の形のものがあり、同様の句は、『鳥の道』『乞食嚢』『続雪まろげ』などにも見られる。この「いづくにか」の上五は西行法師の、

 

 いづくにか眠り眠りて(たふ)れ伏さんと

    おもふ悲しき道芝の露

 

を踏まえたもので、そのイメージから「行きゆきて」の句は通常、行きゆきて倒れ伏すともせめてそこは萩の原であってほしい、と解されている。しかし、西行の歌はあくまでも道で倒れ伏して道芝の露となるのは悲しいなという歌で、死の覚悟を詠んでいるわけではないし、曾良にしても病気を治すために旅立つのである。死ぬためではなく、生きるために旅立つのである。

 曾良は仏者ではない。曾良は神道家で、死んで露になることに美を求めていたわけではない。だからこそ、この句は西行から引いてきた上五「いづくにか」をやめ、『文選(もんぜん)』の古詩にある、「行き行きて重ねて行き行く」の「ゆきゆきて」を持ってきたのであろう。
 「行きゆきて」の形の句が『奥の細道』にしかないところから、この句を芭蕉の改作とする説があるが、おそらく芭蕉なら西行の「いづくにか」の方を支持したであろう。そこをあえて仏教色のない「行きゆきて」に置き換えたところに曾良らしさがある。それに、漢詩の文句をそのまま使った体は『奥の細道』出筆時の芭蕉の「軽み」の風体とも違うように思える。

 なお「隻鳧(せきふ)のわかれ」(自筆本には「隻鴨のわかれ」とある)は、()(りゅう)(あん)梨一(りいち)の『奥細道(おくのほそみち)菅菰抄(すがこもしょう)』によれば「雙鳧のわかれ」の誤りだという。『前漢書』の蘇武別李陵詩に「雙鳧倶北飛、一鳧独南翔」とあり、それをふまえたものとのこと。南と北へ離ればなれになる別れの情は、『文選』の古詩「行き行きて重ねて行き行く」の中でも、「胡馬依北風、越鳥巣南枝(モンゴルの馬は北風に誘われ、越の国の鳥は南国の木の枝に巣を掛ける)」というふうに出てくる。

 この曾良との別れについても、しばしば仮病説を目にするのは残念なことだ。

曾良の病気の記述は七月十七日の『随行日記』に、既に「翁、源意庵へ遊。予、病気故、不レ随」と記されている。そのあと二十一日に「高徹ニ逢、薬ヲ乞」とある。二十二日の一笑の追善会も「予、病気故、未ノ刻ヨリ行」とあり、翌二十三日にも「翁ハ雲口主ニテ宮ノ越ニ遊。予、病気故、不レ行。」とある。

 そのあとの山中温泉滞在も、病気療養のためと思われる。おそらくその前に既に曾良の伊勢長島行きは決定していたのではないかと思う。なぜなら、病人を一人で旅させるわけにはいかないからだ。曾良が先に行くなら、曾良の同行者を呼び寄せなくてはならない。そのための時間稼ぎが山中温泉滞在だったのではないかと思われる。
 この曾良との別れの前日、芭蕉、曾良、北枝のメンバーで三吟歌仙(さんぎんかせん)興行(こうぎょう)が行われている。この時の句と、芭蕉の添削指導の簡単なメモに北枝が書き留めていて、後に『山中三吟(やまなかさんぎん)評語(ひょうご)』という名前で公刊されている。当時の芭蕉の俳諧連句の手法を知るうえで貴重な資料となっている。

二、全昌寺

 「大聖持(だいしょうじ)の城外、全昌寺(ぜんしゃうじ)といふ寺にとまる。(なほ)加賀の地也。曾良も前の夜、(この)寺に泊とまりて、

 

 終宵(よもすがら)秋風(きく)やうらの山

 

と残す。一夜(いちや)(へだて)千里に同じ。(われ)も秋風を(きき)衆寮(しゅれう)(ふせ)ば、(あけ)ぼのの空近う()(きゃう)声すむままに、鐘板鳴(しょうばんなっ)食堂(じきだう)に入いる。

 けふは(ゑち)(ぜん)の国へと、心早卒(さうそつ)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧ども(かみ)(すずり)をかかえ、(きざはし)のもとまで追来(おひきた)る。折節庭中(をりふしていちゅう)の柳散れば、

 

 庭(はき)(いで)ばや寺に(ちる)

 

とりあへぬさまして草鞋(わらぢ)ながら書捨(かきす)つ。」

 

(現代語訳:大聖寺の(じゃ)()(ぐわ)()全昌寺という寺に泊る。まだ(なほ)加賀国(のち)(なり)。曾良も前の夜、この寺に泊()て、

 

 よもすがら裏山()()()()を聞くこと(うら)()なった(やま)

 

と残す。

 一夜の隔たり(へだ)()千里()よう(おな)()

(われ)も秋風を聞()て衆寮に寝れ(ふせ)ば、夜明け前(あけぼの)()()近く(ちこ)()読経の()()澄むままに、鐘板()なり(って)食堂(じきだう)に入る。

 今日は越前の国へと(ここ)()そぞろ(さうそつ)にしてお堂()()()向かう(くだる)と、若き僧たち()()紙硯を抱え、石段(きざはし)(もと)まで追いかけて(おひき)来た(たる)。折節()()(ちゅう)()が散()ってたので(れば)

 

 庭掃()出よう(いでば)()寺に()()散ってる(やな)()

 

 とりあえ()草鞋(さまし)()履いた(わらぢ)まま(ながら)書き捨てた()

 

 涙で泣く泣く「同行二人」の書き付けを消した芭蕉だったが、寂しく切ない気持ちは曾良とて同じだ。

 

 終宵(よもすがら)秋風(きく)やうらの山   曾良

 

の句には、そんな気持ちが込められ、芭蕉が後でここに来ることを見越して書き残したものだろう。「うら」は「恨み」にも通じる。誰を恨むでもない。ただ離れ離れの運命を恨むのみ。「行ものの悲しみ、残るもののうらみ」と芭蕉は言ったが、曾良から見ればこれは「残るものの悲しみ、行くもののうらみ」となる。

 さて、曾良の無事を祈りつつ、寂しくも不安な夜が明ける。寺を出ようとすると若いまだ修行中の小坊主が筆と硯をもって追いかけて来る。何か一句頼むという。庭に柳の葉が散っているのを見て、即興でこう詠む。

 

 庭(はき)(いで)ばや寺に(ちる)(やなぎ)   芭蕉

 

 この句は一般的には芭蕉が自ら庭を掃いて出たというふうに解されているが、それでは前後との文脈がわからなくなる。この句も那須野の句と同様に考えるべきだろう。確かに、お寺に一夜泊めてもらった以上、その庭を掃除して出て行くのは礼儀だろう。しかし、寺の子坊主に揮毫(きごう)をせがまれたというのであれば、この句は

こういう句となる。

 「ああ、庭を掃いて出て行かなくてはならないな、庭に柳が散っているぞ。庭掃きは本当は私の仕事だが、揮毫をしてくれというなら君たち、私の代わりに庭を掃いておいてくれないか。」

 那須野の時と違うのは、この場合芭蕉の方が寺を出る時は庭を掃いて行くものだというのを無視して、早く越前に行こうと気がはやっていたのだろう。だから揮毫をせがまれた時、そうだったな、こういう時は庭を掃いてくもんだなと、そういう感じだったのではないかと思う。

 今日の俳人というと、名前ぐらいはどこかで聞いたことがあるという程度の人が多く、作品はと言われるとどうも思い浮かぶものがない。まして顔はというと全く知らない。テレビで一生懸命俳句講座を見ている人ならともかく、普通はそういうものだ。だから、道端でつかまって句をねだられたりという心配はない。
 それに較べれば、芭蕉の名は全国津々浦々に知れ渡り、当時古池の句は庶民の間でも大流行した。今日みたいにテレビや週刊誌はないが、その分口コミで噂はぱっと広まっていっただろう。噂はマスメディアに較べて伝達速度が遅いが、その分芭蕉自身の移動速度も遅いから、十分バランスがとれてしまう。したがって、芭蕉が来るという噂は街道の馬子や籠かきの間でも持ち切りになり、寺の小坊主たちもうちの寺に来ないだろうか、来たら何か書いてもらおうか、などど話合っていたことは十分考えられる。
 純粋に俳諧が好きで短冊が欲しいという人ばかりならいいが、当然それが高く売れる、金になるという理由で欲しがる人も出てくる。実際、江戸時代には芭蕉の書の偽物が無数に飛び交っていた。
 ファンサービスという点では、今日ならサインという便利な手段がある。しかし、発句となるとやはり技術を売り物にしているわけで、あまりいいかげんな句を書き付けたりすると、世間で芭蕉はこの程度かということにもなってしまう。そこが難しいところだ。

 おそらく句をねだられてもほとんどの場合はことわるのが普通だろう。しかし、芭蕉だって、本当に俳諧が好きで寄ってくる人を無下にことわり続けるのは心苦しいことだろう。本当はそういう名もない人の相手もしてやらなければいけないなどと思いつつも、実際にはなかなかできない。そんな苦悩の跡をこの「散る柳」の句に読み取ってもいいし、また即興ですぐに句が出来てしまうというアピールにもなる。

三、汐越の松

 「越前の(さかひ)吉崎(よしざき)入江(いりえ)を舟に(さを)さして(しほ)(こし)の松を尋たづぬ。

 

 終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
    月をたれたる汐越の松  西行

 

 (この)一首にて数景(つき)たり。もし(いち)(べん)(くはふ)るものは、無用の指を(たつ)るがごとし。」

 

(現代語訳:越前()(さか)()、吉崎の入江へ()船に乗っ(さをさし)て汐越しの松を訪ねた()

 

 夜もすがら嵐に波をはこばせて

     月をたれたる汐越の松

             西行法師

 

 この一首(にて)全部(すう)言い尽く(けい)されて(つき)いる(たり)。もし一(べん)でも(をく)付け加える(はふるもの)なら()五本指(むよう)()六本(ゆび)()する(たつ)よう(るが)()もの()()

 

 「終宵(よもすがら)」の歌は当時西行の歌として知られて一般によく知られていたようだ。しかし、()(りゅう)(あん)梨一(りいち)の『奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがこもしょう)』によると、この歌は蓮如(れんにょ)上人の歌だという。吉崎は真宗中興の祖といわれる蓮如上人が迫害を受けて北陸に逃れ、ここを布教の拠点とした地だ。

 歌の出典はよくわからない。日文研の和歌データベースの検索に掛からないので、勅撰集にも『夫木抄(ふぼくしょう)』や『歌枕(うたまくら)名寄(なよせ)』にもない伝承歌であろう。

 なお、かつて風光明媚の地だった吉崎の入り江も、今は北潟湖になり、汐越しの松の面影も今はなく、ゴルフ場になっているという。地元の観光の中心も蓮如上人の吉崎御坊が中心で、芭蕉が「無用の指」などと言わず一句詠んでいたら、ひょっとしたら保存されていたかもしれない。残念なことだ。

 おそらく、こうした干潟になっている入江は北陸道を歩いていると何度も目にした光景で、それほど新鮮さを感じなかったのだろう。特に象潟で曾良、低耳、不玉らと過ごした汐越の浜と名前まで被っている。あの時の歓喜の絶頂に比べると、どこか色あせたものに感じられたのかもしれない。志賀から敦賀を経てここに来ていたなら、もっと感動できたのかもしれない。

 それに加えて曾良との別れのショックもあったことだろう。ここ西行ゆかりの汐越の松を訪れても、何の詩想も湧いてこなかったようだ。ただ、伝西行の歌を思い浮かべ、もうこれ以上何もいうことはなかったのだろう。

四、北枝との別れ

 「丸岡(まるおか)天龍寺(てんりゅうじ)長老(ちゃうらう)、古き(ちなみ)あれば(たづ)ぬ。又金沢の北枝(ほくし)といふもの、かりそめに見送りて、此処(このところ)までしたひ来る。所々の風景(すぐ)さず思ひつゞけて、折節(をりふし)

あはれなる作意など(きこ)ゆ。今(すでに)(わかれ)に望みて、

 

 物(かき)扇引(あふぎひき)さく余波(なごり)(かな)

 

 五十丁山に(いり)永平寺(えいへいじ)(らい)す。道元(だうげん)禅師(ぜんじ)()(てら)也。邦機(ほうき)千里を(さけ)て、かかる山陰(やまかげ)に跡をのこし給ふも、貴きゆへ(あり)とかや。」

 

(現代語訳:丸岡天竜寺の長老(ちゃうら)()江戸(ふる)()いた(ちな)()()()()訪ねた(たづぬ)。また、金沢の北枝という()()短い間(かりそ)()()見送る(みおくり)ため()福井(この)まで(ところ)一緒(まで)()来て(たひ)くれた(くる)。所々の風景も見逃さず記憶にとどめ、()()()機会()()()()しよう(なるさ)()してた(いなど)よう(きこ)()

 それ()()既に別れ()()()なり(みて)

 

 物書いて扇引き裂()名残惜しむ(かな)

 

 五キロ(五十)ほど()山に入()て永平寺を参拝(らい)する()。道元禅師の()(てら)(なり)畿内()一万六千キロ(うきせん)平米()を避けて、こんな(かかる)()()に跡を残す(のこした)(まふ)も尊むべき(きゆ)理由()()ある(りと)()()

 

 山中温泉からここまで、曾良がいなくなったから一人旅かと思い気や、ちゃんと北枝が同行していることが明らかになった。実は北枝とは金沢に着いたときから会っていて、曾良の『随行日記』によれば一笑の追善会が行われる前日の7月21日に既に登場している。そのあと25日には小松で、「しほらしき名や小松(ふく)荻すすき」を発句とした興行にも参加している。
 そのあと山中温泉へも同行し、曾良と別れる前日にも芭蕉、北枝、曾良の三人で歌仙を巻き、『山中三吟評語』として今日北枝が記した芭蕉の評が加えられ、当時の芭蕉が俳諧連歌でどのような指導をしていたかが偲ばれる。それはこのようなものだ。

 

 馬かりて燕追行(おひゆく)(わか)れかな     北枝

   花野に高き岩のまがりめ   曾良

 「みだるゝ山」と直し給ふ。

 月はるゝ角力(すまう)袴踏(はかまふみ)ぬぎて    翁

 「月よしと」案じかへ給ふ。

 

 つまり、

 

 馬かりて燕追行(おひゆく)(わか)れかな     北枝

   花野みだるゝ山のまがりめ  曾良

 月よしと角力(すまう)袴踏(はかまふみ)ぬぎて    翁

 

と直している。
 その次で、

 

   月よしと角力(すまう)袴踏(はかまふみ)ぬぎて  翁

 (さや)ばしりしを友のとめけり    北枝

 「とも」の字おもしとて、「やがて」と直る

 

の「おもし」の言葉から、芭蕉がこの旅の途中で既に「軽み」の作風を意識していたと考える人もいる。しかし、これには少々疑問がある。というのも、「友の」を「やがて」に直すことは、出典とは何の関係もなく行われているからだ。

 この句は月の下で若い衆が袴を脱いで相撲を取ろうとしていたら、勝負に物言が着いて言い争いになり、どっちかが切れてしまったのか刀を抜き放ち、それを慌てて周りにいた「友」が引き留めた、というものだ。「鞘ばしりし」というのはそのままの意味だと、刀を傾けたさいにひとりでにするすると刀が抜けていったということだが、文字どおりの意味ではない。

 ()(ほう)の『(さん)冊子(ぞうし)』では俳諧に使うべきでない言葉として、「人を殺す、切る、しばる」といった言葉を挙げている。今でいえば暴力シーン規制のようなものだろう。これでいえば、刀に手を掛けるだとか刀を抜き放つだとかも危ない言葉の部類に入るだろう。つまりこれは本当なら「刀抜きしをやがてとめけり」とすべきところを「鞘ばしりし」に自主規制したのであろう。本当に刀が滑っただけと解するのは正直すぎる。

 想像をたくましくするなら、早まって刀に手をかけたところ、周りの人たちが止めに入ったので何とか冷静になって、「すまんな、ちょっと刀が鞘走った。」とか言ってその場を収めたとも解釈できる。

 しかし、「友に」のどこがいけないのだろうか。それは連歌特有の問題で、連歌の場合、常に後の人に付けやすいような句作りを考えなくてはいけない。それにはあまり状況を限定せず、どうとでも取れる曖昧さを残す表現のほうが好まれる。「友に」だと複数の人のいる状況に限定されるが、「やがて」に変えれば、一人刀を抜き放つ場面として次の句を付けることが出来る。実際曾良はそのように付ける。

 

   鞘ばしりしをやがてとめけり
 (せい)(えん)(うそ)(とび)こむ水の音   曾良

 

 この句は言うまでもなく、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」のパロディーだ。意味としては、草むらががさがさいうので、「すわっ、曲者!」とばかりに刀に手を掛けたが、じゃぼんと水音がして、「何だ、川獺か」という、ありがちな場面だ。ここでも、「鞘ばしり」は文字通りの意味ではない。「友のとめけり」だったら、この句は生まれなかった。「やがて」という曖昧な言葉に改めたから、こうした場面転換も可能だったのだから、芭蕉の指導は適切だったといえよう。
 もっとも芭蕉の指導がいつも適切とはかぎらない。この曾良の句に芭蕉は「二三匹と直し(たま)ひ、(しばら)くありて、もとの青淵しかるべしと(あり)し」としている。「青淵」も場所が限定されすぎる、という欠点がある。しかし「二三匹」としてしまうと、意味が通らなくなる。一匹の川獺だからこそ刀を抜き放つだけの緊張感があるのであり、二三匹だとほのぼのとしてしまう。結局いい考えが浮かばぬまま、もとの「青淵」に戻したのだろう。

 連歌では去り嫌いの規則というのがあり、句材を「植え物」「鳥類」「水辺」「人倫」などに分類し、植物を出したら、その後何句かは植物を出してはいけないという規則がある。それで行くと「友」は人倫だから、この後二句、人倫を出せなくなる。曾良の「青淵」の句に芭蕉はこう付けている。

 

   (せい)(えん)(うそ)(とび)こむ水の音
 (しば)かりこかす(みね)のささ(みち)   芭蕉

 

 「柴かり」が柴を刈る人を意味するなら、これは「人倫」になるから、「友」という字があったらこの言葉は使えないことになる。

 「青淵」を嫌うのも、その点で理由がなくはない。これも「水辺」であり、その後三句水辺が出せなくなるので、創作の幅が狭まってしまうからだ。

 この『山中三吟評語』の「おもし」はこの『奥の細道』の旅の後「不易流行」とともに説くに至った「軽み」とは直接関係なく、単なる日常的な言いまわしではなかったか。場面が限定されたり、式目上後の句で使える言葉が限定されてしまうような言葉だったりして、後に付ける人が身動き取れなくなることを「重い」と表現することは、そんなに特殊なことではない。

 その北枝もここで芭蕉と別れ、金沢に帰ることになる。

 

 物(かき)扇引(あふぎひき)さく余波(なごり)(かな)    芭蕉

 

『卯辰集』には

 

   松岡にて翁に別れ侍りし時、扇に書きて給はる
 もの書いて扇子(あふぎ)へぎ分くる別れ(かな)

 

とあり、この句は扇子に書いて北枝に送ったものだ。もちろん「引きさく」は単なるレトリックで、扇は裂いたりせずにそのまま渡したのだろう。気持ちの上では扇を引き裂かれるような思いだという意味だ。「かたみ」という言葉もあるが、まさに自分のもう片方の身を預ける心境だったのだろう。北枝はこう答える。

 

   もの書いて扇子(あふぎ)へぎ分くる別れ(かな)

 笑うて霧に(きほ)()でばや     北枝

 

 そんな悲しまないで、私のことなど気にせず、笑ってこの霧の向こうへと進んでってください。

五、福井

 「福井は三里(ばかり)なれば、夕飯(ゆふげ)したためて(いづ)るに、たそがれの(みち)たどたどし。(ここ)等栽(とうさい)(いふ)古き隠士(いんし)(あり)。いづれの年にか江戸に(きた)りて予を(たづぬ)(はるか)十とせ(あま)り也。いかに(おい)さらぼひて(ある)にや、(はた)(しに)けるにやと人に(たづね)(はべ)れば、いまだ存命してそこそこと教ゆ。

 市中でひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいへ)夕貌(ゆふがほ)・へちまのはえかかりて、鶏頭・はは木々に戸ぼそをかくす。さては(この)うちにこそと、(かど)(たたけ)ば、(わび)しげなる女の(いで)て、

 『いづくよりわたり給ふ道心(だうしん)御坊(ごぼう)にや。あるじは(この)あたり(なに)がしと(いふ)ものの方に(ゆき)ぬ。もし用あらば(たづね)給へ』

といふ。

 かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかかる風情(ふぜい)は侍れと、やがて(たづね)あひて、その家に二夜(ふたよ)とまりて、名月はつるがのみなとにとたび(だつ)。等栽も共に送らんと、(すそ)おかしうからげて、路の枝折(しをり)とうかれ(たつ)。」

 

(現代語訳:福井は十二キロ(三里ばか)()()()()、夕食()食べて(たため)から()出発(いづ)する()()、黄昏の道()わかりにくい(どたどし)

 ここに(とう)(さい)というくからいる(ふるき)隠士()いた()だいぶ(いづれの)(とし)()()江戸(えど)()()訪ねて(てよをた)来た(づぬ)もう(はるか)十年(ととせ)以上前(あまり)のこ()とか()すっかり(いかに)年取(おい)って(さら)しまった(ぼひて)こと(ある)だろう(にや)もし()()亡くなって(しにけ)しまった(るに)()と人に尋ねれば(はべれば)、いまだ存命()いう()こと()()()()()わかった(をしゆ)

 町中(いちなか)()奥まった(ひそかに)わかりに(ひきいり)くい(てあ)小さな(やしのこ)(いへ)に夕顔・へちま()()()()()()て、鶏頭・コキア(ははきぎ)(とぼそ)を隠す。さてはこの(にち)(にと)(こそ)(かど)を叩けば、侘し気(なる)(おんな)()出て(いで)きて()

 『どちら(いづく)から(より)いらした(わたりたまふ)お坊(だうし)さん(んの)でしょ(ごばう)うか(にや)主人(あるじ)はこの辺り(あたり)(なに)とか(がし)という者の方に行ってます(ゆきぬ)。もし用があ()なら()そちら(たづね)()どうぞ(まへ)。』

という。

()()()だとい(なる)うことがわかる(べしとしらる)。昔(もの)(がたり)出て(こそか)くる(かる)ような(ふぜ)雰囲気(いは)()あった(べれ)()この()あと(がて)そこ(たづ)()()てその家に二()()て、名月は敦賀の湊()と旅立つ。洞哉も一緒(とも)行こう(おくらん)と裾(おか)()()挟んで(からげて)()()道案内(のしを)()と浮かれてた(たつ)

 

 等栽はまたも芭蕉の記憶違いで、本当は(とう)(さい)だった。曾良が去ったあと、芭蕉のパーティーのメンバーはめまぐるしく変わる。

 当時は一人旅は避けるので、福井松岡という所で芭蕉と北枝が別れたのなら、そこで(とう)(さい)に会い、引き継がれたと考えた方が良い。一度は洞哉の家に行ったが留守で、そこで洞哉の妻にどこへ行ったか尋ね、松岡へ向かったのであろう。
 「いかに(おい)さらぼひて(ある)にや、(はた)(しに)けるにやと人に(たづね)(はべ)れば」というように、加賀での一笑のこともあり、果たして会えるのかどうか不安だったが、それは杞憂にすぎなかった。隠士にふさわしい粗末な家に住み、庭には夕顔や糸瓜(へちま)、それに鶏頭もあったのだろうか。

 (ははき)()というと遠くからその姿は見えるが、近づこうとすると消えてしまう伝説の木で、北欧神話の聖樹ユクドラシルを彷彿させるが、「ははき」は(ほうき)のことでもあるから、ここでは単に箒の材料にする(ほうき)(ぐさ)のことだろう。いまはコキアという洒落た名前もあるが、元禄七年の俳諧に、

 

   (いたち)の声の棚本の先

 箒木は(まか)ぬにはへて茂る也     芭蕉

 

とあるように、貧しい家の庭に自生するというイメージがあったようだ。

 戸を叩くと出てきたのは「佗しげなる女」で、こういう女性は結構芭蕉の好みなのだろう。こうして洞哉と会うことができた芭蕉はともに敦賀の名月を見るために旅立つことになる。ここには記されていないが、この時芭蕉は、

 

 名月の見所問はん旅寝せん     芭蕉

 

という句を詠んでいる。

六、敦賀の名月

 「(やうやう)白根(しらね)(だけ)かくれて、比那(ひな)(だけ)あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江(たまえ)(あし)は穂に(いで)にけり。(うぐひす)の関を(すぎ)(ゆの)()(たうげ)(こゆ)れば、(ひうち)(じゃう)、かへるやまに初鴈(はつかり)(きき)て、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。その夜、月(ことに)(はれ)たり。『あすの夜もかくあるべきにや』といへば、

 『越路の習ひ、(なほ)明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし』

と、あるじに酒すすめられて、けいの明神に夜参(やさん)す。仲哀(ちゅうあい)天皇の御廟(ごべう)也。社頭神さびて、松の()()に月のもり(いり)たる、おまへの白砂霜を(しけ)るがごとし。

 『往昔(そのかみ)遊行(ゆぎゃう)二世の上人(しゃうにん)大願発起(ほっき)の事ありて、みづから草を(かり)土石(どせき)(にな)泥渟(でいてい)をかはかせて、参詣往来(わうらい)(わづらひ)なし。古例(これい)今にたえず、神前に真砂(まさご)を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持(すなもち)(まうし)(はべ)る』

と、亭主(ていしゅ)のかたりける。

 

 月清し遊行のもてる砂の上

 

 十五日、亭主の(ことば)にたがはず雨(ふる)

 

 名月や北国(ほくこく)日和(びより)(さだめ)なき」

 

(現代語訳:ようやく(やうやう)白山(しらね)()見えな(たけ)()なって(くれて)日永嶽()見えて(らは)来た()浅水(あさむづ)の橋を渡()て玉江の芦は穂に()立ってた(でにけり)。鶯の関を過ぎて湯尾峠を越()れば燧が城・(かへる)山に初雁を聞()て、十四日の夕暮れ()敦賀(るが)の津に宿を求めた(もとむ)

 その夜月()よく(とに)晴れ(たり)。明日の夜もこうだったらなと言えば、

 『越路あるある(のなら)()明日(なほ)(みゃう)晴れる(やのいん)(せい)どう()()()分らない(がたし)。』

主人(あるじ)に酒を勧められて気比の明神に夜参した()。仲哀天皇の御廟(なり)。社殿(とう)()()()重ね(びて)松の木の間から()()漏れ(いり)(たる)参道(おまへ)の白砂()()()いた()()()よう(ごと)()

 『その(かみ)遊行二世の上人大願発起する()ことあ()て、自ら草を刈り、土石を運んで(になひ)ぬかるみ(でいてい)を乾か()て、()()汚さ(けい)ずに(わう)参拝(らい)できる(のわづ)よう(らひ)()した()その()前例()()()倣い(たえず)、神前に真砂を運び込んで(になひた)いる(まふ)。これを遊行の砂持ちと呼んで(まうし)いる(はべる)。』

と亭主()言って(かたり)いた(ける)

 

 月清し遊行の運んだ(もてる)砂の()()

 

 十五日、亭主の言葉どおり(にたがはず)雨が降る。

 

 名月にも()北国日和()変わりやすい(だめなき)

 

 加賀の白根山ともついにお別れとなり、洞哉とともに芭蕉は福井から敦賀に向かう。

 順序的にはまず玉江があって、

 

 夏刈りの芦のかり寝もあはれなり

  玉江の月の明けがたの空

            藤原俊成

 

の歌に詠まれている。夏に芦を刈って秋には水に月が映るはずのものを、芦を刈る習慣がなくなってしまったか、「穂に(いで)にけり」と芦の穂の上に沈む有明を見ることとなった。

 そのあと浅水(あさむづ)の橋を渡る。浅水といえば催馬楽(さいばら)に『浅水橋』というのがある。

 

 浅水の橋の とどろとどろと 降りし雨の ふりにし我を 誰ぞこの なかびとたてて みもとのかたち 消息(せうそこ)し (とぶら)ひに来るや さきむだちや

 

 最後の「さきむだちや」は催馬楽にしばしば用いられる意味不明の語句だが、あとの内容はそう難しくない。老いの苦しみと孤独、死んでも誰も見つけてくれないかもしれないという嘆きを歌うこの歌は、三途(さんず)の川を渡り「冥土」へと渡って行く老人の姿にも見える。この歌は『奥の細道』よりも百年のちの(うら)上玉堂(かみぎょくどう)が好んで五弦琴で演奏した歌でもあったし、玉堂の山水画には必ずといっていいほど、橋を杖ついて渡る老人の姿が描かれている。

 しばらく行くと武生宿の先に日永嶽(日野山)がある。越前富士とも呼ばれている。湯尾峠は武生宿と今庄宿の間にある。帰る山もこの辺りの山と思われる。

 その他にも数々の名所を越え、芭蕉は敦賀で名月を見ることとなる。かつて旧暦8月は三日月から満月、下弦の在明(ありあけ)の月に至るまで、一ヵ月中月のことを気に掛けよといわれるくらい、風雅の道に月は欠かせぬものだった。14日はきれいに晴れ渡り、まさに月を見るにふさわしかった。

 実際敦賀で芭蕉は「月一夜十五句」を一気に詠んでいる。比那ひなが嶽では、

 

 明日の月雨は占はん比那(ひな)が嶽   芭蕉

 

あさむづの橋では、

 

 あさむづを月見の旅の明け離れ  芭蕉

 

玉江の蘆は、

 

 月見せよ玉江の芦を刈らぬ先   芭蕉

 

という具合に、福井から敦賀までの名所を悉く句に詠んでいた。『奥の細道』に掲載されているのは、その中の二句だった。

 

 月清し遊行(ゆぎゃう)のもてる砂の上   芭蕉

 

 一遍上人が開いた時宗は、上人が熊野権現のお告げにより諸国を遊行して歩いたところから、「遊行宗」とも呼ばれていた。中世の人は労働を煩悩とみなし、生への執着を捨てて神仏の道に「遊ぶ」ことを価値のあることとみなしていた。時宗は特に中世の遊びの文化に大きな足跡を残し、踊念仏は、今日の盆踊りの原型とされているし、その動作は能や歌舞伎にも大きな影響を与えた。

 また、時宗の宗は「阿」の文字のつく法名を名乗ることが多く、その中には中世の芸術の頂点に立つ人も少なくない。和歌の頓阿(とんな)法師、連歌師の周阿、良阿、水墨画の能阿、芸阿、相阿、そして能の大成者である観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)も時宗の僧だった。その時宗の開祖である一遍上人の弟子の遊行二世、真教上人とも呼ばれる他阿(たあ)には、気比明神の参道に敦賀湾の白砂を運び、敷き詰めたという、「遊行の砂持ち」の伝説があった。十四日はここで月を見ることができた。

 しかし、肝心な十五夜は見られなかった。

 

 名月や北国(ほくこく)日和(びより)(さだめ)なき    芭蕉

 

 なお、この日は曾良が無事に伊勢長島に帰り着いた日だったが、そのことを芭蕉は知る由もない。

七、色の浜

 「十六日、空(はれ)たれば、ますほの小貝(こがひ)ひろはんと、(いろ)(はま)に舟を()す。海上(かいしゃう)七里あり。天屋(てんや)何某(なにがし)(いふ)もの、(わり)()小竹筒(ささえ)などこまやかにしたためさせ、(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風(おひかぜ)時のまに(ふき)(つき)ぬ。浜はわづかなる海士(あま)小家(こいへ)にて、(わび)しき(ほっ)花寺(けでら)あり。(ここ)に茶を(のみ)酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に(たへ)たり。

 

 寂しさや須磨にかちたる浜の秋
 浪の間や小貝にまじる萩の塵

 

 (その)()のあらまし、(とう)(さい)に筆をとらせて寺に残す。」

 

(現代語訳:十六日、()()晴れたので(れば)ますほの小貝をひろおう(はん)と色の浜へ舟を出して(はし)もらった(らす)。海上二十八キ(七里)ロの()所だ()。天屋なん(なに)とか(がし)という()()割子(わりご)竹筒(ささえ)などいろいろ(こまやかに)準備(した)して(ため)くれて(させ)雑用(しも)()何人(あま)()船に同乗(とりのせ)()、追風(とき)すぐ(のま)着いた(ふきつきぬ)。浜はわずか(なる)海士の小屋が(こい)あるの(へに)()、侘しげな法華寺のみ(あり)。ここで茶を飲み酒を温めて夕暮れの淋しさ()()()()()んと()くる()

 

 淋しさでは()須磨に勝った(ちた)()浜の秋

 浪の間の小貝にまじるのは()()()()

 

 その日のあった(あら)こと()()(とう)(さい)に筆を取らせて寺に残す。

 

 敦賀の色の浜は西行法師の、

 

 汐そむるますほの小貝拾ふとて
     色の浜とはいふにやあるらむ

 

の歌で名高く、芭蕉が来たときも近所の小な子供までがそのことを知っているのに感動したことを等栽への手紙に書き記している。

 曾良も九日にこの地に来ている。病気を押して、色の浜観光の段取りをしたのだろう。敦賀の出雲屋の手配から、天屋五郎右衛門の船の準備、雑用の手配、宿泊場所の本隆寺の確保に加えて金一両も置いて行ったという。

 あたりは家もまばらで、本当にうらさびた漁村だったようだ。芭蕉はそのわびしげなたたずまいに古歌で名高い須磨(すま)明石(あかし)を思い起こし、

 

 寂しさや須磨にかちたる浜の秋

 

と詠む。
 ここで「石山の石より白し秋の風」の句を思い起こす人もいるであろう。あの時は確か石山寺と比較するのは石山寺に失礼ではないか、と言ったが、ここでも芭蕉は種の浜と須磨を比較しているではないか、というご指摘はもっともだ。おそらく「石山の‥」の句を石山寺との比較ととる解釈は、この「寂しさや‥」の句を踏まえ、それに習ったものだろう。しかし、ならばなおさら似たような趣向の句を同じ紀行文のそれほど離れてない位置に置くのは不自然ではないか。

よく読めばわかることだが、色の浜が須磨に勝ったというのではない。淋しさという点では色の浜は須磨に勝るという句だ。

 芭蕉は貞享五年の『笈の小文』の旅で須磨を訪れているが、そこではもはや藻塩焼く煙はなく、昔の面影も失われていた。それに比べると、この色の浜は昔と何一つ変わってないのではないかと思わせるくらい淋しげだった。じわじわと心に染み入るような込み上げてくる情動(エモーション)に何とか耐えてるような、今の言葉で言うとエモいとでもいうところか。

 ここで種の浜と須磨を比較するのは、他にも理由がある。つまり、どちらも有名な歌枕だからだ。歌枕である以上、歌合わせを行うことは失礼ではない。「(まさ)る」ではなく「()ちたる」というあからさまに勝負ごとに使う言葉を使っているのもそのためだ。松島と象潟に関しても「松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。」という比較が見られるがこの二つも誰もが知る名所であり歌枕だ。
 須磨といえば須磨明石というふうに対にして呼ばれることも多い。明石はかつて万葉集の時代には畿内の政権の直接及ぶ西の端で、明石の門より向こうは異界という意識があった。伝柿本人麿の、

 

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に
     島がくれゆく舟をしぞおもふ

 

の歌も都落ちして行くか、あるいはあの世へと渡って行くイメージがあったのだろう。須磨明石は在原(ありはらの)行平(ゆきひら)(ちっ)(きょ)の地だったし、『源氏物語』でも光源氏が一時隠棲した地だった。
 須磨はその中でも、藻塩(もしお)焼く(やく)(あま)の煙に行方知れぬ恋の思いを詠んだ 

 

 須磨のあまの塩焼く煙風をいたみ
     思はぬ方にたなびきにけり
             よみ人しらず

 

の歌以降、浦さびた(あま)苫家(とまや)、涙に干さぬ袖、藻塩焼く身も焦がれる思い、などの連想を誘う歌枕だった。そして、こうしたうら寂しさの中に隠された艶なるものは、中世の幽玄の美の一つの典型となった。それを決定づけたのが、三夕(さんせき)の歌の一つ、

 

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫家の秋の夕暮れ
               藤原定家

 

だった。ここまで来れば、芭蕉が種の浜と須磨とを較べた意図が見えてくるだろう。つまりこれは、

 

   左勝

 汐そむるますほの小貝拾ふとて
     色の浜とはいふにやあるらむ
               西行法師
 見渡せば花も紅葉もなかりけり
     浦の苫家の秋の夕暮れ
               藤原定家

判、種の浜の寂しさは須磨明石に勝ちたり

 

という歌合わせとしてに読んでもいいのではないか。
 色といえば、『明恵(みょうえ)上人(しょうにん)伝記(でんき)』の中に西行法師が明恵上人に語った話として蓮阿が書き留めた有名な西行の歌論がある。

 

 「西行法師つねに来りて物語して云はく、わが歌を詠むは、遥かに尋常に異なり、(はな)郭公(ほととぎす)・月・雪すべて万物の興にむかひても、およそあらゆる相みなこれ虚妄(こまう)なること眼に遮り耳に満てり。また詠み出すところの言句はみな真言(しんごん)にあらずや。華を詠むとも実に華と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず、ただかくのごとくして、縁に随ひ興に随ひ詠みおくところなり。(こう)(こう)たなびけば虚空(こくう)いろどれるに似たり。白日かがやけば虚空明らかなるに似たり。然れども虚空はもと明らかなるものにもあらず、また、いろどれるにもあらず。我またこの虚空のごとくなる心の上において、種々の風情をいろどるといへどもさらに(しょう)(せき)なし。この歌すなはちこれ如来の真の形体なり。されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我この歌によりて法を得ることあり。もしここに至らずして、みだりにこの道を学ばば、(じゃ)()に入るべしと云々。さて詠みける。


 山深くさこそ心のかよふとも
     すまであはれは知らむものかは」

 

 桜の花や月を見ても、郭公の声を聞いても、それは仏教の観点からすれば、見せかけの幻にすぎない。そんな見せかけだけの花を描写するのではなく、あくまで言葉の縁、故実や来歴に従い、自らの心の様を自在に詠むだけだ。それは空に例えるなら、もともと空に色はない。ただ夕日がさせば赤くなり、虹がかかれば七色になるようなものだ。花や鳥などの見せかけの景色に囚われず、いつも色のない虚空の心で詠むなら、歌は仏像を刻むが如く真如の体になる。

 ますほの小貝は見せかけの「色」つまり色相に他ならない。その小貝を見てなるほど「いろの浜」だという西行のこの歌は、小貝そのものを超えて、その背後にある虚空を見ている。花も紅葉もない何もない浜辺の空になおかつ色を求める定家に対し、虚空を見つめ続ける西行の方が勝るという意味に、芭蕉のこの句を解してもいいのではないか。
 さて、芭蕉はここでもう一句詠む。

 

 浪の間や小貝にまじる萩の塵

 

 この萩は本物の萩なのだろうか、それとも似せもの(比喩)なのだろうか、迷うところだ。いわゆる「波の花」が萩に見えたのか、それとも本当にどこかで萩が散っているのか。西行の心になれば迷うこともあるまい。どちらでもいいのだ。いずれも「色」にすぎない。

八、二見の別れ

 「露通(ろつう)(この)みなとまで(いで)むかひて、みのの国へと(ともな)ふ。(こま)にたすけられて大垣(おほがき)(しゃう)(いれ)ば、曾良も伊勢より(きた)(あひ)越人(ゑつじん)も馬をとばせて、(じょ)(かう)が家に入集(いりあつま)る。前川子(ぜんせんし)(けい)(こう)父子(ふし)其外(そのほか)したしき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)のものにあふがごとく、(かつ)(よろこ)(かつ)いたはる。

 旅の物うさもいまだやまざるに、長月(ながつき)六日(むいか)になれば、伊勢の迂宮(せんぐう)おがまんと、又舟にのりて、

 

 (はまぐり)のふたみにわかれ(ゆく)秋ぞ」

 

(現代語訳:路通もこの湊まで出迎え(いでむかひ)て、美濃の国へ()()行く(なふ)(こま)助け(たす)()借り(られ)て大垣の庄に入れば、曾良も伊勢よりやって(きたり)来て(あひ)、越人も馬()急遽(とば)来て(せて)、如行()家にみんな(いり)集まった(あつまる)

 前川子、荊口親子(ふし)、その他親し()たち()()日夜やって(とぶら)()て、蘇生した()者に()った()()()よう()()喜んだり(かつよろこび)いたわったり(かついた)する(はる)

 旅の物憂さも未だ止まない()うち()に、旧暦(なが)九月(つき)六日になれば、伊勢の式年(せん)遷宮(ぐう)を拝()ため()()また船に乗()て、

 

 蛤の「ふたみ」に別れ()()()なる(きぞ)

 

 さて、長かった『奥の細道』の旅もいよいよ終りが近付いてきた。芭蕉を敦賀まで迎えに来た路通(ろつう)とともに大垣へ向かう。

 実際は八月二十一日に大垣に着いた時にはここで如行、前川、(けい)(こう)やその三人の息子此筋・千川・文鳥、それに木因などの大垣の面々との再会は果たしたことと思われるが、曾良はまだ伊勢長島で療養中で、越人もまだ到着してなかった。一堂に揃うのは九月四日のことだった。

 「蘇生(そせい)のものにあふがごとく」は病気だった曾良のこととも思われるが、何よりも芭蕉自身のことで、門人たちの視点から、死ぬやもしれぬ陸奥(みちのく)の長旅から生きて帰って来てくれたんだ、ということではなかったかと思う。

 しかし、ここで芭蕉の旅が終ったわけではない。そう、人生は旅。一つの旅の終りはまた新たな旅の始まりにすぎない。芭蕉は大垣から曾良や路通とともに伊勢長島を経て伊勢神宮へと旅立つ。この句は伊勢長島で越人と別れる時の句だった。越人もかつて『笈の小文』の旅からの帰り道、『更科紀行』の旅をともにした仲だった。

 

 (はまぐり)のふたみにわかれ(ゆく)秋ぞ   芭蕉


 芭蕉の離別の句には、一つのものを二つに引き裂くというイメージのものが多い。『野ざらし紀行』で杜国とこくと別れたときの、

 

 白げしにはねもぐ蝶の形見哉  芭蕉

 

この『奥の細道』の旅での北枝との別れの、

 

 物書て扇引さく余波哉     芭蕉

 

そしてこの二見の句となる。文字どおり生木を引き裂くというのか。自分の体の一部を引き千切るような悲痛なイメージだ。これを単なる社交儀礼と解釈してしまったのではもともこもない。

 芭蕉は生涯のうちに何度も親しかった門人の離反にあっている。芭蕉がこの『奥の細道』を書いていた頃、曾良はまだ親しくしていたが、俳諧の方からは遠ざかりがちだった。当初『奥の細道』の同行者の候補の一人で、敦賀に芭蕉を迎えに来た路通も、『野ざらし紀行』の旅で「いざともに穂麦喰らはん」と誓いながらも、路通が膳所の門人たちとの不仲からあらぬ嫌疑をかけられ、元禄三年の春には、

 

   路通がみちのくにおもむくに
 くさまくらまことの華見しても来よ 芭蕉

 

の句とともに一度は破門された。この句にはどこかあの(とうの)中将(ちゅうじょう)実方(さねかた)の面影がある。

 また、「軽み」の新風をめぐって、素堂(そどう)()(かく)(らん)(せつ)等江戸で一時代を作った門人たちとも遠ざかり、名古屋の荷兮(かけい)もまた新風について行けず『()()()』の風体にこだわり続けた。

 自分はもっと先に進みたい。どこまでも前に向かって世界の果てまでも旅したい。そう思っていても、同行者はいつしか旅に疲れ果て、もうここまででいい、身を落ち着けたいと言い出す。そんな時、芭蕉は泣く泣く同行者をその場に残し、自分一人で旅立って行く。

 ついて来てくれると思った仲間の脱落は芭蕉にとっても残念なことだが、残された者にとっても自分を見捨てて先に行ってしまった師に裏切られたような気持ちが残る。

 人は肉体的に老化するだけではなく、精神的にも老化する。その最大の原因は「記憶」だと思う。過去の記憶は時が経つにつれて嫌な思い出が消え去り、甘く美しいものに変わって行く。若い頃の苦労も自分が最も輝いていた日の記憶となり、新しいどんな体験も過去の輝きの前には色褪せてしまう。

 こうして、人は歳を取るととともに次第に新しいものを受け入れることができなくなる。どんな新しい刺激的な出来事でも、自分の輝かしい過去の記憶に比べれば陳腐であり、日々次々に起る事件もすべて、記憶の中で美化された昔では考えられなかったような世も末の出来事に映る。

 だから、其角や荷兮の気持ちもわからないではない。其角にとって談林時代に芭蕉とともに青春を過ごし、ともに当時の最先端の俳諧を切り開いた日々は、あまりに美しすぎたのだ。荷兮にとっても青春を芭蕉とともに蕉風確立のために捧げた、あの日々が忘れられなかったのだ。

 誰が言ったか忘れたが、25歳停滞説というのがある。人は25歳までに見につけたファッションや音楽の趣味から生涯脱することができないのだ、と。

 しかし、中には停滞を知らぬ人もいる。いくつになっても若々しく子供のような無邪気な感性を保てる人間は、一見幸せそうかもしれない。しかし、その裏では途中で脱落してゆく仲間の姿を何度も見なくてはならない。芭蕉の離別の句には、常にそうした悲しみが込められていたのではなかったか。

 芭蕉とて、過去の美しい思い出を忘れたわけではない。『奥の細道』の旅は芭蕉にとっても最高に素晴しい偉大なる日々だったに違いない。だからこそ、それを紀行文に留めようという気にもなったのだろう。去っていった仲間、脱落していった仲間へのせめてものはなむけのつもりで。
 芭蕉がいかに桜の木の下で身分わけ隔てなく、本当の自分に戻って平和を満喫する瞬間を夢見ていたにせよ、芭蕉に為しえたのは、たかだか(れん)(じゅ)という狭い空間に、ほんの一時その夢を共有する幻想に酔いしれることだけだった。そんな昨日の仲間も、今は去っていった。芭蕉は一人「そこ」にい続ける。

  しかし、見せかけの桜の花は散っても、夢見ていた心の花は散らない。自由、平和、平等、人類の永遠の夢は、どんなに時代が変わっても散ることがない。古人の見残したものは結局芭蕉も見残し、その見残しは今も我々の見残しだ。

 今となってみれば、俳諧はとうの昔に廃れ、近代俳句も往年の輝きはない。それでも悲観することはない。風雅の心は形を変え、今も生きている。ロック、ソウル、Hip hop、フォーク、それに漫画やアニメだって俳画の遠い末裔だ。連歌の運座でいう出勝ちという句を競うやり方は、その後の大喜利に受け継がれているし、笑いの道も今日の漫才の基礎にもなる。時代とともに風雅の形態は変わり、変風変雅を繰り返すが、結局道は一つしかない。絶えず変転を繰り返しながらも変わらないもの。「不易流行」。

 折りから伊勢神宮は遷宮の年を迎え、神々もふる年の穢れを降り払い、新しい年を迎えようとしている。『奥の細道』の旅の終りは、芭蕉にとって新たな旅の始まりだった。たとえ誰もついてくる人がいなくなっても、芭蕉はどこまでも進み続ける。そう、最後の最後の瞬間まで。

エピローグ、猿蓑夢幻

   さらに世にふる初時雨
   さらに世にふる初時雨
   猿も小蓑をほしげ也

 

 伊勢から伊賀へ行く道すがら、一人の老いた旅の僧がいた。秋も暮れ、折りからの時雨に降られ、あたりは霧に巻かれ、白一色の世界だった。しばし古木の陰で雨やどりをしながら、宗祇・芭蕉を偲んでは、吟じるのだった。
 ふとその時、目の前に一匹の猿の姿が目に入った。雨に打たれ、毛皮の先に白玉の露をたたえ、哀れそうな目で老僧を見ていた。これぞかつて蕉翁が見た小蓑を欲しがる猿かと、老僧は自らの蓑と笠を脱ぎ、猿に投げた。
 するとどうだろう。霧に霞んでいた猿の姿は見る見る大きくなり、そこに現われたのは身の丈二メートルはあるかという大男の蓑笠着た姿だった。顔は赤く、鼻は三十センチ以上はあった。
 「さっ、猿田彦
 「いかにも。ところでおまえは一体なぜそこにいるのだ。」
 「私はしがない旅の僧だ。」
 「なら聞く。おまえは一体なぜ旅をしているのだ。」
 「……
 「この時雨で今は身動きがとれないんだろう。ちょうどいい機会だ。おまえがなぜ旅をしているのか、聞かせてあげよう。なに、ちょうど退屈していたところだ。」
 そう言うと、猿田彦は瓢箪の酒を飲み、物語を始めた。

 「いいか、おまえには親はいるな。その親のまた親のまた親、とずーっと遡っていったとしよう。百年、千年、万年、そう今から五百万年も前のことだ。そのころのおまえの祖先は決して今のおまえのような姿をしているわけではなかった。そう、全身毛で蔽われ、両の手で木の枝からぶら下がる猿の姿をしていた。猿といっても猿曳きの連れているような猿ではない。むしろ中国の南に棲む、漢詩にも三声の涙下ると歌われた、あのテナガザルに近かった。
 およそ生きとし生けるもの生きなくてはならない。でもただ生きるだけでは死んでしまえば終りだ。おまえが今生きていられるというのは、おまえの先祖がただ生きていたからではない。子供を作り、子孫を残したからだ。生きて、子孫を残し、またその子孫が生きて、それが子孫を残し、それを繰り返してきたからだ。
 おまえには二人の親がいるはずだ。父さんと母さん。その父さんと母さんには二人ずつ親がいた。一代前には二人、二代前には四人、三代前には八人。十代前には何人になるかわかるか。何と千二十四人もの先祖がおまえにはいたことになる。二十代前にはその千二十四倍もの先祖がいた。三十三代前には今この世にいるすべての人の数よりも多い数の先祖がいたことになる。実際にこんな多くの先祖がいたはずがない。どこかで同じ祖先を持つもの同士が結婚していたはずだ。まして、今いる人々がすべて別々の先祖を持っていたなんていうはずはない。どこかで血がつながっているということだ。つまり赤の他人のように思えても、みんなどこかで血がつながっているということだ。しかし、人が猿だったのは三十三代前ではない。もっとずっと昔、二十万代前、三十万代前のことだ。
 生きとし生けるものすべて、生きるために、そして子孫を残すために戦わなくてはならない。なぜだかわかるかな。おそらく戦わない生きものもいただろうし、子孫を残さない生きものもたくさんいただろう。だが、その子孫は今ここにはいない。今ここにいるのはおまえは元よりそこいらの虫けらの一匹に至るまで、すべて子孫を残すことができたものの子孫だからだ。見る所おまえは坊さんとなり生への執着を捨て、子孫を残すことも断念したようだな。立派な心がけだが、その心がけはおまえが死ぬとともにこの世から消え去る。はっはっはっ。そして世の中には相変わらず生存競争

に勝ち、性欲に身を任せたものの子孫ばかりが残ってゆくのだ。
 その昔、生きとし生けるものはみんなライバルだった。一匹の獲物、一匹の雌をめぐって命懸けで戦った。しかし、そんなことは賢いやり方ではない。ちょっと考えればわかるだろう。力の似通ったものが命懸けで戦えば、相打ちになって両方とも死ぬかもしれない。やっとのことで勝ったにしても、戦いの傷でよれよれになった時に別な敵が現われでもしたらひとたまりもない。もっといいやり方がある。何だかわかるかな。そう「三十六計逃げるにしかず」だ。ほんの少し戦ってみて、相手が強そうだと思ったら逃げればいいのだ。脱兎の如くその場を立ち去ってもいいし、ほんの少し逃げるだけでも相手はおまえを倒すことが目的ではないから、獲物か雌のほうへ行くだろう。もっといいのは降参だという合図を決めることだ。こうすれば逃げなくてもすむ。逃げずに強いものにくっついて行けば、ひょっとしたらおこぼれを頂戴できるかもしれない。こうしていつのまにか動物は強いものの回りに集まり、群れを作るようになった。」

 

 「今から五百万年前、おまえらの御先祖さんはそうやって群れを作って暮らしていた。木の実や木の葉を食べて、強いものからいい場所を陣取り、弱いものがその周辺でという具合に寄り集まって、そして最も弱いものはいつも少ししか食べられず、痩せ細り、のたれ死にしていった。
 悲しいかな、畜生の性。生きとし生けるものの定め。強いものは弱いものを食い、勝ったものだけが生き残る。馬にとっては木槿もただの食料。猫の母は蝶を噛んだその口で子猫を舐めさする。雉もまた蛇を喰うと思えば恐ろしや。それは太古より延々と繰り返されてきた生存競争、利己的な遺伝子の夢。いかにして星崎の闇を見よとや。
 しかしだ。群れを作ると一つ大きな問題が生じる。群れがいつも同じ面子ばかりだと、できた子供は皆同じ親から生まれてきた兄弟になってしまう。兄弟で結婚してばかりいてはちと困ることがあってな。そこで、生まれてきた雄はみな年頃になると生まれた群れを離れ、旅をするようになった。生まれた群れの雌はほとんどが兄弟親族だから、自分の本当に求める結婚相手を探しに旅に出たのだ。それがいわば、旅の起源だな。妻問う鹿のびいと鳴く尻声も悲しく、飛ぶ鳥もまた故郷を思っては鳴く。ただし、それは動物の旅だ。人間の場合はちと事情が違う。それをこれから話そう。
 動物はただ腕力が強ければいいというものではない。生存競争に勝ち抜くためには頭も必要だ。喧嘩だってそうだ。作戦も必要だ。相手の攻撃を読み、それによって自分の攻撃方法を考えなくてはならない。あるいは戦わずして相手を怖じ気づかせ、降参させる術も必要になる。鹿を知っているか。あの大きな角は森の中を歩けば木に引っかかったり蔦に絡まったり、邪魔っけなもんだ。それでもあれは強そうに見せるためには必要だった。それに対して、人間の祖先だった猿は別の競争を始めてしまった。それは相手の攻撃を予測することにあまりに多くの能力を使ってしまったということだ。
 ある時こう考えた。俺が敵の立場だったらこういう攻撃をする。そう考えれば敵の攻撃が面白いように読める。しかし、何で敵の攻撃がわかるのだろうか。それは敵が俺と同じだからだ。そう、それが一つの始まりだった。俺とおまえは同じだ。それは一つの想像だ。猿たちは殴り合い、引っ掻き合いながら、拳で語り合った。ひょっとしておまえは俺と同じなのではないか。そういうおまえも俺と同じなのではないか。こうして猿たちは『共感する』ということを覚えた。
 想像力は生きてゆくためにとても役に立つ能力だった。一見何もない木の茂みも、恐ろしい虎や毒蛇が潜んでいるかもしれない。その予測がつくかつかないかで生死を分けることもあった。見えないものを見るという能力は、単なる杞憂に終ることもあったが、おおむね生きてゆくのに役立った。この能力は戦うときでも役に立った。敵の背後に自分と同じものを仮定する能力、それが相手の攻撃を見切り、勝利を導いた。そして戦いはやがて相手の心理を読み、裏をかき合うようになっていった。これは人間の祖先の始めてしまった特異な戦い方だった。これによって、この猿は想像力を発達させ、そのため大きな脳を具えるようになっていった。
 この能力には副産物もあった。相手の行動を読む能力は、子育ての際、赤んぼの欲しいものを正確に把握し、正確に対応する能力となり、少ない子供を確実に育てる能力ともなった。これによって、大きな脳をもった猿を育てるだけの長い期間の育児もできるようになった。
 そして徐々に異変が起った。それは最初は些細な狩りの経験からだった。誰かが獲物を追っかけている。獲物はその追っかけている奴から逃れるように動くに違いない。なら先回りすれば、とそう考えた。その読みは当たっていた。みんながそれに気付いてしまえばどうなるか。あるものが獲物を追っかける。あるものがその反対側で待ち伏せる。すると獲物は挟み打ちを逃れて横へ逃げるはずだ。その横へまた誰かが回り込む。こうして敵を包囲すれば、確実に仕留めることができる。最初それは偶然だった。しかし、こういうふうに取り囲めば、一人では倒せないような強い相手でも捕えることができる。それは仲間に対しても当てはまる。
 それまで威張っていた群れのボスも、これでうかうかしてられなくなった。どんなに強いものでも大勢で取り囲まれれば無力だ。ある時それがわかってしまった。群れで二番目か三番目くらいに強いものがある日ボスと戦いを挑む。それを見ていた他のものが、ボスの背後から挟み撃ちをするように襲いかかる。そして勝利する。しかし、そのあと起るのは仲間割れだ。二頭、三頭が協力して戦った程度では何も変らない。しかし、四頭、五頭、ついに群れ全体が一頭のボスをやっつけたとき、すべては変った。どんな強い屈強なものでも、全員で協力してかかれば難無く倒せる。これが人間の遠い祖先を『出る杭は打たれる』というジレンマに陥れてしまったのだ。」

 

 「これこそ人間の祖先にだけ起きた事件だった。それ以来、人間の祖先だけ生存競争の方法ががらっと変ってしまった。それまでは一対一で戦って、いわば群れの中で総当たり戦をやって一番弱かったものから順に群れからはじき出され、のたれ死にしてゆくようなものだった。時に二対一、三対一になったとしても、大きく変るようなことはなかった。しかし、一人対残り全員という戦いになると、もはや腕力の強い弱いは無意味だ。どんなに屈強なものでも全員で袋叩きに合えば強さは無意味だ。むしろ強いがゆえに自分だけいい食いものを独占しようとする。そうすると他のみんなの

反感を買う。みんなから袋叩きに合う。かえって弱い方がいいということになる。
 だったらみんなで仲良くすればいいじゃないかと思うだろう。しかし、自然はそんなに甘くない。森になる木の実の数は限られている。しかし、子孫は増え続ける。これは仕方のないことだ。もしすべての雌がみな二人しか子供を生まないとしたら、人口は一定に保たれるように思えるかもしれない。しかし、自然は時折山火事や地震や火山の噴火や洪水など、様々な災害をもたらす。そうして多くの命を失うと、二人だけの出産ではもとの人口に回復することができない。だから常に生き物は多めに子供を生んできた。多めに生んでふるいにかけ、強いものだけを残す。そうして生きものは悠久の時を生き存えてきた。
 人の祖先も同じだった。限られた大地の恵に対し人口は常に増え続ける。誰かが排除されなくてはならない。排除する理由は後からつければいい。とにかくまず排除することが先だ。他の動物は総当り戦を行い、負けたものが排除されてゆく。人間は大勢で一人を仲間外れにすることでしか排除することができなかった。真っ先に槍玉に上がったのが、強くて威張っている奴。食料や雌を独占しようとする奴。こうして人は大きな牙を持ち頑丈な肉体を持つものを排除し、牙の小さい、華奢なものを残していった。
 人間は他の動物に比べ、なんて無力なものか。虎のように強いわけでもなく、馬のように早く走れるわけでもなく、猿のように木に登れるわけでもなく、犬のように鼻が利くわけでもない。猫は二階から落ちても怪我一つしないが、人間はすぐに足を折る。猿回しの猿もまた、人より小さくても腕力では人を凌駕する。だから猿曳きは猿がまだ小さいうちに人間の恐怖を徹底的に叩き込んで言うことを聞かせる。
 もっとも、体が華奢になったのと引き替えに、人間は様々な能力を獲得した。人は生きるためには絶えず多数派にならなくてはならなかった。少数派に回れば仲間外れにされ、苛められ、群れを追い出されてゆく。だから、多数派工作に必要なあらゆる能力を発達させた。どうすればみんなから好かれ、仲間外れにならなくてすむか。そのために人は微笑み、挨拶を交し、贈り物を交換し、言葉を喋るようになった。横暴なものに対してはいかにも自分は傷ついた、被害者だという顔をし、みんなの同情を引くことも必要だった。人間は涙もろくなり、自分で自分を責め、時には自虐的な行動をもとるようになった。こうして、控えめで、腰が低く、気前がよく、傷つきやすく、それでいてしたたかで計算だかく、いつでも多数派に立ち回るものの子孫が繁栄し、今日の人となった。」

 

 「出る杭は打たれる。それは必然的に平等主義を生んだ。獲った獲物はみんなで分けあう。一人だけ多く取ろうとすれば袋叩きにあうからだ。雌は各雄に一人ずつ配分する。そうしないと嫉妬によって殺されかねないからだ。こうして雌の分配システムとして家族が誕生した。家族が誕生すると、人は近親者ではない結婚相手を探すために旅に出る必要はなくなった。いくつかの血族の間でメンバーを相互に交換しあうだけで、容易に近親婚を避けられるようになった。
 人は仲間外れが怖くて人を愛し、人から責められたくなくて仲間に恩恵を施し、出る杭の打たれるのが怖くて謙虚になり、人の出方を絶えず気を配っては賢くなり、人に嫌われるのが怖くて約束を守り、こうして仁義礼知信の五常の徳が生じた。そして、長い年月を経て、それはいつしか生まれながらの自然の情となっていった。自然の情として具えたものの方が、策略でそうするものよりもみんなから信頼され、仲間外れになることが少なかったからだ。こうして孟子の言う四端が生じた。そして平等と博愛がいつでも人類の目標となり、理想となった。
 こうして人は仲間を思いやり、愛情と慈悲に満ち溢れ、頭が良く、それでいて謙虚な、まさに万物の霊にふさわしい性質を身につけていった。しかし、仲間を思う気持ちが深ければ深いほど、それを脅かす敵に対しては最大限に残酷になれた。その残虐さはしばしば仲間の中の排除の対象とされたものにも向けられた。人口の増加に対して個体数を調節せねばならない。それは天の掟だ。人は天に従い、犠牲を捧げねばならなかった。天に捧げる儀式として人は人頭祭を行い、仲間を血祭りに上げた。しかし、そこは優しい人間のこと、やがて人は仲間を殺すのに忍びないとばかりに、近隣の集団を襲い、捕虜の首を捧げるようになった。ここに戦争が始まった。他の動物の喧嘩は一対一の、いわばタイマン勝負が基本だった。しかし、人間だけが集団同士で作戦を練り、組織的に殺戮を行う、いわゆる戦争をするようになった。
 排除する理由は何でもよかった。蝉丸は目が見えないということで排除され、逆髪は髪の毛が逆立っているという理由で排除された。犯罪者はもちろんのこと、傲慢なもの、威張っているもの、頭が良すぎるもの、足を引っぱるもの、身体に障害のあるもの、病気のもの、とにかく人と変っているもの、美人の妻を独占しているもの、嫉妬、反感をかうものや恐怖心を与えるものすべて、排除の対象になりうる。それが万物の霊長たる人類のもう一つの歴史だった。一方で平等と博愛、一方で差別と迫害。矛盾しているのが人間だ。
 しかし、こうした差別と排除は理不尽なものだった。それは排除する側からすれば常に理由があった。病人は病気をうつすかもしれないし、身障者は日々の労働に足手まといになる。精神異常者は何をしでかすかわからない危険な存在だし、並外れて能力のありすぎるものも集団行動を乱す。それは排除する側の理屈だ。排除される側からすれば、すべてそれは自分が望んだものではなかった。
 犯罪者はもちろん真っ先に排除の対象となっただろう。人が死んだり傷つけられたりすれば、恨みと復讐心と自分もやられるかもしれないという恐怖心を爆発させ、ここぞとばかりに責めたてる。証拠があろうがなかろうが関係なく、殺害の方法がわからなければ呪い殺したことにすればいい。とにかく誰かしら犯人に仕立て上げて血祭りに上げなければ気がすまない。無法というのはあらゆる犯罪がまかり通るというよりは、むしろ些細な犯罪に無制限なリンチが加えられる状態だ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。悪いことをする奴が許せなければ、その家族も親戚もみな許せない。村全体が、一族全部が許せない。そうして、制裁は必ず罪のないものにまで及ぶ。法律は本来それを抑えるために発明されたものだった。
 一方的な排除の宣告に、あるものは自らの命を断ち、あるものは一人山野をさまよい歩いたが、既に野性のたくましさを失った人間にとってそれは自殺行為だった。」

 

 「人は一人一人がみな特別な存在だ。一人一人顔かたちが違うように一人一人ものの考え方も違う。だからその特別だという理由で誰でもが社会的な排除の対象になりうる。だから人はもって生まれたその人独自のもの、個性、いや、もっと大事な『自分が自分であること』を捨てたり、ひた隠しにして平均を装う。人はもって生まれた自分を殺し、社会的なもう一人の自分の仮面を作り出し、それと同化してゆくことで立派な社会人となる。人は人間に生まれるのではない。人間になる。
 しかし、その仮面の窮屈さは誰しも感じていることだ。人は生きてゆくために日常的・平均的なものに同化しなくてはならない。だが、時には本当の自分に戻ってみたい。そこで人は一時的な非日常の時間を作り出し、そこで抑圧しているものを解放しようとする。祭がそれだ。
 祭となると男たちは力くらべをし、女たちは美しく着飾る。ここにスポーツとファッションの起源がある。日頃力自慢をしていると、あいつは威張っている、やな奴だと思われる。日頃から派手に着飾っていると、自分の美しさを鼻にかけて、何よあの女、ということになる。だから祭が必要になる。
 芸能もまた祭の場で生まれた。日頃抑圧している体の動きは踊りとなり、日頃抑圧している言葉は詩となり歌となる。しかし、それは無制限ではなく、決められたルールのなかでほんのちょっとの逸脱を楽しむといったものだった。
 もともと排除される人間には、人にはない能力を持つものが多かった。そこから、いつしか自活して生活する手段を身につけたものがいた。自分の能力をどこか見知らぬよその村に売り込んで、その代償に食料をもらう。そんなことを繰り返し村から村へと点々と旅を続ける。それが人間にとっての旅の始まりだった。彼らは一括りに呪術師と呼ばれるものだった。それはどこぞの村で覚えた薬草の知識、病気治療の方法、物語、歌や踊り、藁細工や竹細工、土器、石器の製造などの技術を、まだそれを知らない村に伝え、それで飯を食うといったものだった。彼らは技術が村人を魅了している間は歓迎された。そして、その技術が伝わり、村人のものになってしまえばもはや用済みだった。だから旅を続けるしかなかった。」

 

 「旅を続けてゆくうちに、呪術師たちはお互いに出会い、寄り集まり、持っている知識や技術を持ち寄り、素人には容易にまねのできない職人の域に達するものもあらわれた。そうすれば、長く村に留まることもできたし、彼らはもはや排除されることを恐れる必要がなく、自由気ままにふるまうことができた。そして、呪術師は村人にとってあこがれの職業にすらなることができた。有能な若者は村で出る杭は打たれる的な抑圧の中で悶々としながら生きるよりも、呪術師になることを望んだ。こうして呪術師集団はやがて巨大化し、技術も高度となるにつれ、専門化していった。宗教家、医者、芸能人、職人、商人、そしてその中から戦争の手伝いを専門にする軍人、軍隊を指揮する君主も現われた。
 彼らの人口が増えるにつれて、やがて一所に集まり都市を形成するようになった。

 しかし、彼らもまた同じ人間だった。小さな村に何人もの呪術師は必要ない。彼らもまた限られたポストを争い、お互いに排除しあうしかなかった。呪術師には呪術師の、芸能人には芸能人の、職人には職人の、商人には商人の、軍人には軍人の縄張り争いがあり、熾烈な競争があった。まさに世の中はとてもかくても同じこと。争いの果てなきは何処も変らず。十字路に立てども何処も同じ秋の夕暮れ。敗れたものは淋しさの果てない道を今日も行くのみぞ。
 都市と都市との果てない縄張り争いの中で、力を握ったのは軍隊だった。そしてその軍隊を指揮する組織として国家が作られていった。こうして国家が生まれれば支配するものと支配されるものという階級に違いも生じてくる。だが階級というのも決して単に抑圧するものと抑圧されるものの関係ではない。それは同時に同化する集団の違いでもある。武士は武士らしく、百姓は百姓らしく、町人は町人らしく、みんな自分の所属する集団のユニフォームを着、仮面を被っている。そこからはみ出した仁侠や狼藉者もまた群れをなし、お互いに同化しようとする。そのどれにもなれずにはみ出したもの、それが本当の旅人だ。」

 

 「集団に同化するということは、得るものもあれば失うものもある。得るものは生活の糧、生きてゆくために必要な収入。失うものは自分らしくいられる自由。人は子供から大人になる際、生きてゆくために取り引きをしなくてはならない。それは生存の取り引きだ。これは決して生易しいことではない。身を引き千切られるような思いで自分の半身を切り捨てて、集団に同化する。それは誰もが通ってきた道だ。思春期の悩み、自分が自分でなくなる恐怖、それに負けたものはしばしば死を選ぶ。あるいは闇雲に社会に反抗を企てる。命懸けの取り引き。しかし、一度その取り引きが既成事実となり、ささやかながらも一人前の大人として飯を食っていけるようになると、あとはあの時の悪夢をすみやかに忘れ、青春を甘い思い出に変えてゆく。おまえもそうではなかったか。
 成人儀式というのはどこも同じだ。死の恐怖を与えることによって社会・共同体への服従を約束させる。それだけだ。社会はいつでも個人を抹消することができる。命だけは助けてやる。だから忠誠を誓え。そして、共同体が危機に瀕したときには喜んで命を投げ出すよう、約束させる。人は生きているのではない。生かされているのだ。
 しかし、ある日その平凡な幸せがもろく崩れ去る。ままならぬのは人の世の常。失業、離婚、事故、病気、あるいは不運にも犯罪に巻き込まれたり、時には災害や戦争により、身を寄せていた大樹も呆気なく倒れてしまうことがある。そうなると、世間の風向きも変る。誰だって自分が生きるのに精一杯で、他人の不幸まで背負いたくはない。親しかった人もいつしか自分を邪魔もの扱いするようになり、自分が世間からのけものにされようとしているのを感じる。この木戸は冷たく錠を閉ざされて、一人古池に蛙の水音を聞く。おまえもきっとそういうことがあって仏道に入ったのだろう。そうでなければ、あの生存の取り引きで捨てたはずのものを不幸にも思い出してしまったか。平和な日々、平凡な日常、決まりきった毎日、そんなものにふと空しさを覚え、真理への道に目覚めてしまったか。
 だが、それは決して悲しむべきことではない。夢が終ったところから本当の夢が始まる。誰もが理不尽な排除を受けることのない、自由で平等な世の中。自分一人の幸福ではない、全人類の夢。誰もが捨てざるを得なかった己の半身、失った希望。その恨みの声はこの大地にいつでも雪のように降り積もっている。半身の抜け落ちた体の中にはいつでも風が吹いている。その心に吹く風の音がきっと導いてくれるだろう。

 いつかきっと人類は人口を調節し、生産を調節する手段を見い出し、もはや人口過剰から排除しあう必要もない、生産の不足から争うこともない、夢の国を実現できるに違いない。
 旅人は別の可能性を持っていた。つまり旅人には、みんなそれぞれ自分の役割存在に徹して生きてゆく中で捨ててしまったもの、抑えつけているものを思い出させる力がある。それは人として一番大切なもの、自分が自分であること。それが風雅だ。身分や階級を越えて、みんなただの一個の自分として寄り集まり、心を通わせ合い、一つになる。一瞬でもそんな夢を見ることができる。それが風雅の魔力だ。
 西行は貴族でも武士でも勧進聖でもない、ただの西行として生きた。芭蕉もまた農人でも小作人でもなく、江戸の町人でもなく、ただの芭蕉として生きた。だから、その歌は身分や時代の壁を越え千歳不易の域に至った。いつか人々がみな窮屈な仮面を脱ぎ捨て、誰が誰を排除するということもなしに、同じ桜の木の下に寄り集まり、和気あいあいと談笑の時を過ごせるように、世の中全体がそうなることを夢見た。その夢は人類の永遠の夢ではなかったか。花の下では影清もただの七兵衛に戻り、汁も膾も貴賎群衆を問わずみな桜となる。
 長い旅路の果て。心の底に吹くは秋風。我が泣く声もまた竹四五本を吹き鳴らし、木枯らしの身は枯野を駆け巡り、海に出ては帰るところもなし。まこと、果てはありけり。されど、その満たされぬ魂の叫びは変風変雅の歌となり、我々を導き続けることだろう。」

 

 「人というのはあわれなものだ。誰もが幸せになりたいと思っているのに、人の幸せが許せなくて足を引っぱりあう。そうして結局それは自分に跳ね返ってくる。幸せになろうとすれば周囲のやっかみに押し潰され、不幸のどん底に落ちれば、それ見たことかとあざ笑う。仲睦まじい二人を見れば石を投げ、夢を追う若者を見れば潰そうとする。それは生きとし生けるもの誰しもが持つ畜生の性。排除は天の掟。
 それでも人はそれを悲しむことができる。哀れむこともできる。木槿の花はもとからはかない命といえども、馬に食べられたとなれば悲しい。一輪の菫の花にも、一寸の白魚にも命の尊さを感じ、哀れを感じることができる。それが救いだ。花の心、それだけが人を禽獣から分かつ。
 道はいろいろな人が通る。老いも若きも、男も女もそのどちらともつかぬものも、身分の高いものも低いものも、日本人も外国人も、平凡なものも異形のものも、職業や立場が違っても、みんな同じ道を行く。道ではすべての人が渾然一体となり、すべての声は混じり合い溶け合い、ただのざわめきとなる。どこに差別があるのだろうか。人はすべてみな等しく道を行き交い、何処へとも知れず去ってゆくのみ。出会い、言葉を交すも一瞬の夢。せめてこの道こそ平穏であれ。
 我の正体はすべての旅に死んだ人の魂の怨霊であり、すべての人々の心から排除されたもう半分の魂だ。夢破れた魂、それが我だ。
 そう我は巷の神、道の神。陰と陽、あい反するものも結局は一つ、道の混淪鬱渤のあるのみ。混沌こそ万物の母にして、すべてはそこにある。人はそれぞれ立場があって争っていても、世間から振り落とされないように戦々恐々としていても、本当はその終りのない苦しみから救われることを願っている。だからこそ、人は芸能に救いを求める。我、すなわち猿田彦は芸能をもってして人を導く神だ。戦争、飢餓、差別、迫害、搾取、苛め、世の中というものはそういうものだとあきらめている人はおらぬか。しかし、もし人が少しでもそこから救われたいという気持ちを起すなら、きっといつか人が本当に自分らしく、お互いに争うこともなく、幸せに生きられる日も来るだろう。
 おまえは地獄行きを心配しているかもしれないが、もともと地獄なんてものはない。人の心が地獄を作る。」

 

 そう言い終えると猿田彦は謡い、舞い始めた。

 

 柳桜をこきまぜて
 道は錦の玉鉾の
 知るも知らぬも別れては
 また逢う坂の果てもなき

 

「やめた、こんな古くさい歌は流行らない。」
 そう言うと猿田彦は見たことのないような激しい舞いで、聞いたことのないような

軽口の早歌を歌い出した。「こは喇風ラップなり。」

 

 兮(ヘイ)!有(ヨー)!風来の民 我は八街(やちまた)の神
 幾千の秋 吹き荒れる野分(のわき)
 変らぬ人達 悲しい歌を歌い
 守り続けた舞台 導いた風雅の舞


 いつしか時も流れ 見知らぬ舞も舞われ
 歌う歌も変れ 変風変雅(へんぷうへんが)の定め
 知れよものの哀れ 道よ光輝け
 菫すみれよ花咲け まさに人の世は情

 

 也(イェー)!我は猿田彦の神 巷ちまたの神
 道端の神 道に倒れた旅人の魂
 目指すは未知の国 歌えよ道の民
 誰だって見てみたい まだ見ぬ未来


 今日はこの初時雨 やがて山は日暮れ
 光の国も見ゆれ 化かすんじゃないぞ狐
 夫(フー)!旅は道連れ 行く先々人を愛して
 たどり着くさいずれ 生きる意味を見つけ

 

 嗚呼 風を求めて 走り出せよ
 嗚呼 風を求めて 走り出せよ

 

 歌が終ると猿田彦の姿も消えうせた。長い話はほとんど意味不明で、所々何かわかるといったものだった。あれは遠い未来の言葉なのか、それとも太古の言葉なのか。旅の僧にはわからなかった。
 いつしか時雨の雨も上がり、雲の切れ間から夕日が差し込んできた。そのまばゆい光に照らされ、雲の去って行く山際の紅葉は露に輝きだした。やがて雲が消えるとそこには夕日に映える幾重にも連なる赤や黄色に輝く山並みがあった。唐紅とはまさにこのことか。旅の僧はしばし時を忘れ、その景色に見入った。(完)

参考文献

芭蕉関係
 『芭蕉紀行文集』中村俊定校注、1971、岩波文庫
 『おくのほそ道』萩原恭男校注、1979、岩波文庫
 『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫
 『芭蕉俳句集』中村俊定校注、1970、岩波文庫
 『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、1976、岩波文庫
 『蕉門名家句選』(上下)堀切実編注、1989、岩波文庫
 『去来抄・三冊子・旅寝論』?原退蔵校訂、1939、岩波文庫
 『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、1939、岩波文庫
 『風俗文選』伊藤松宇校訂、1928、岩波文庫
 『俳諧問答』横澤三郎校注、1954、岩波文庫
 『松尾芭蕉』尾形仂、1989、ちくま文庫
 『歌仙の世界』尾形仂、1989、講談社学術文庫
 『芭蕉百五十句』安東次男、1989、文春文庫
 『芭蕉三百句』山本健吉、1988、河出文庫
 『奥の細道ノート』荻原井泉水、1956、新潮文庫
 『文芸読本、松尾芭蕉』1978、河出書房新社
 『芭蕉の書と画』岡田利兵衛著作集・、1997、八木書店
 『芭蕉年譜大成』今栄蔵、1994、角川書店
 『芭蕉庵桃青の生涯』高橋庄次、1993、春秋社
 『松尾芭蕉』宮本三郎、今栄蔵、1967、桜風社
 『芭蕉論』上野洋三、1986、筑摩書房
 『芭蕉二つの顔』田中善信、1998、講談社
 『芭蕉とその方法』井本農一、1993、角川書店
 『芭蕉の狂』玉城徹、1989、角川書店
 『芭蕉の世界』山下一海、1985、角川書店
 『芭蕉のうちなる西行』目崎徳衛、1991、角川書店
 『笑いと謎』復本一郎、1984、角川書店
 『芭蕉古池伝説』復本一郎、1988、大修館書店
 『俳句を楽しむ』復本一郎、1990、雄山閣
 『芭蕉歳時記』乾裕幸、1991、富士見書房
 『芭蕉マンダラの詩人』竹下数馬、1994、クレスト社
 『芭蕉句々』清水杏芽、1988、洋々社
 『芭蕉俳諧における詩的表現形態の研究』四戸宗城、1980、桜楓社
 『芭蕉の俳諧』(上下)暉峻康隆、1981、中公新書
 『芭蕉さんの誹諧』中尾青宵、1996、編集工房ノア
 『奥の細道』山本健吉、1989、講談社
 『旅人曾良と芭蕉』岡田喜秋、1991、河出書房新社
 『芭蕉』白石悌三、1988、花神社
 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71、大内初夫校注、1994、岩波書店
 『芭蕉の門人』堀切実、1991、岩波新書
 『古典文学の散歩道』斎藤国治、1992、恒星社
 『おくのほそ道 図譜』尾形仂・森川昭監修、1989、朝日新聞社
 『芭蕉翁正筆 奥の細道』村松友次、1999、笠間書院

俳諧関係
 『談林叢談』野間光辰、1989、岩波書店
 『俳諧の系譜』鈴木棠三、1989、中公新書
 『宗因独吟俳諧百韻評釈』中村幸彦、1989、富士見書房
 『俳諧史の研究』?原退蔵、1948、星野書店
 『近世俳句俳文集』日本古典文学大系、阿部貴三男、麻生磯次校注1964、岩波書店
 『連歌俳諧集』日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館
 『俳家奇人談、続俳家奇人談』竹内玄玄一、1987、岩波文庫
 『西鶴と元禄メディア』中島隆、1994、日本放送出版協会

連歌関係
 『連歌文学の研究』福井久蔵、1948、喜久屋書店
 『連歌論集』(上下)伊地知鉄男編、1956、岩波文庫
 『宗祇』奥田勲、1998、吉川弘文館
 『宗祇の生活と作品』金子金治郎、1983、桜風社
 『宗祇と箱根』金子金治郎、1993、神奈川新聞社
 『連歌師宗祇』島津忠夫、1991、岩波書店
 『宗祇』荒木良雄、1941、創元社
 『宗祇』小西甚一、1971、筑摩書房
  『心敬』篠田一士、1987、筑摩書房

その他
 『元禄時代』日本の歴史16、児玉幸多、1984、中央公論社
 『元禄文化-遊芸・悪所・芝居』守屋毅、1987、弘文堂
 『山の宗教』五来重、1991、角川書店
 『修験の世界』村山修一、1992、人文書院
 『出羽三山と日本人の精神文化』松田義幸変、1994、ぺりかん社
 『的と胞衣』横井清、1998、平凡社
 『無縁・公界・楽』網野善彦、1978、平凡社
 『異形の王権』網野善彦、1986、平凡社
 『日本論の視座』網野善彦、1990、小学館
 『竹斎』守随憲治校訂、1942、岩波文庫
 『岩波講座 日本通史 第7巻』1993、岩波書店
 『道教と古代日本』福永光司、1987、人文書院
 『日本史を彩る道教の謎』高橋徹、千田稔、1991、日本文芸者
 『日本の道教遺跡』福永光司、千田稔、高橋徹、1987、朝日新聞社
 『近代日本と東アジア』加藤祐三編、1995、筑摩書房
 『倭族から日本人へ』鳥越憲三郎、1985、弘文堂
 『日本の古代1-倭人の登場』森浩一編、1985、中央公論社
 『静かなる大地ー松浦武四郎とアイヌ民族』花崎皋平、1988、岩波書店
 『エゾの歴史-北の人びとと「日本」』海保嶺夫、1996、講談社
 『古代蝦夷と天皇家』石渡信一郎、1994、三一書房
 『アイヌ民族と日本人』菊地勇夫、1994、朝日新聞社
 『時宗の美術と文芸』時宗の美術と文芸展実行委員会編、1995、東京美術