「ゑびす講」の巻、解説

元禄六年神無月廿日ふか川にて即興

初表

    神無月廿日ふか川にて即興

 振売の雁あはれ也ゑびす講     芭蕉

   降てハやすミ時雨する軒    野坡

 番匠が樫の小節を引かねて     孤屋

   片はげ山に月をみるかな    利牛

 好物の餅を絶やさぬあきの風    野坡

   割木の安き国の露霜      芭蕉

 

初裏

 網の者近づき舟に声かけて     利牛

   星さへ見えず二十八日     孤屋

 ひだるきハ殊軍の大事也      芭蕉

   淡気の雪に雑談もせぬ     野坡

 明しらむ籠挑灯を吹消して     孤屋

   肩-癖にはる湯屋の膏薬     利牛

 上をきの干葉刻もうハの空     野坡

   馬に出ぬ日は内で恋する    芭蕉

 絈買の七つさがりを音づれて    利牛

   塀に門ある五十石取      孤屋

 此島の餓鬼も手を摺月と花     芭蕉

   砂に暖のうつる青草      野坡

 

 

二表

 新畠の糞もおちつく雪の上     孤屋

   吹とられたう笠とりに行    利牛

 川越の帯しの水をあぶながり    野坡

   平地の寺のうすき藪垣     芭蕉

 干物を日向の方へいざらせて    利牛

   塩出す鴨の苞ほどくなり    孤屋

 算用に浮世を立る京ずまひ     芭蕉

   又沙汰なしにむすめ産     野坡

 どたくたと大晦日も四つのかね   孤屋

   無筆のこのむ状の跡さき    利牛

 中よくて傍輩合の借いらゐ     野坡

   壁をたたきて寝せぬ夕月    芭蕉

 

二裏

 風やミて秋の鷗の尻さがり     利牛

   鯉の鳴子の網をひかゆる    孤屋

 ちらばらと米の揚場の行戻り    芭蕉

   目黒まいりのつれのねちミやく 野坡

 どこもかも花の三月中時分     孤屋

   輪炭のちりをはらふ春風    利牛

      参考;『「炭俵」連句古註集』竹内千代子編纂、1995、和泉書院

初表

発句

 

 俳諧連句の面白さを知るには、やはり一巻を一句一句たどってゆくのが一番だが、なにぶん江戸時代のこととなると生活習慣も今と異なり、当時の人がどんなネタで笑っていたのか知るのは難しく、当時のあるあるも今では意味不明になってたりする。

 そういう時役に立つのが古註で、竹内千代子さん編纂の『「炭俵」連句古註集』(一九九五、和泉書院)は有難い。

 今回読んでみようと思ったのは、「ゑびす講」の巻。まずはその発句を見てみよう。

 

   神無月廿日ふか川にて即興

 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 

 旧暦の神無月二十日は恵比寿講の日だった。江戸時代の商人の家では恵比寿様を祭り、恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。恵比寿様だけに特に鯛は人気があった。

 日本橋のべったら市は江戸時代後期なので、芭蕉の時代にはなかったと思われる。元禄の頃の恵比寿講はもっぱら各家ごとに行われていたと思われる。

 恵比寿講は神無月で神々が出雲に集まるため、その留守を守る異国の神として祭られたという説があるが、おそらくそれは後付けの説明だろう。余談だが今日の新暦神無月はハローウィンの西洋の妖怪鬼神に取って代わられている。

 元禄六年の神無月二十日に芭蕉は、深川の第三次芭蕉庵(第一次は天和の頃八百屋お七の大火で消失、第二次は『奥の細道』旅立ちの時に人に譲る)で野坡、孤屋、利牛を集め、歌仙興行を行っているが、これもささやかな恵比寿講だったのか。

 「即興」というのは、今日即興演奏とか言う意味での即興とは限らない。文字通り興に即しで、「興」というのは言い興すことで、たとえば桃の花の興で嫁ぐ娘のあでやかさを言い起こしたり、鼠の逃げてゆく様から圧制の苦しみを言い起こしたり、本題に入る前にそれを言い起こすための明白なイメージを与えることを言う。

 この場合は折からの世俗での恵比寿講から何かを言い起こす、恵比寿講の興に即すという意味で用いられていると思われる。

 恵比寿講の興に即すというように、芭蕉の発句は「恵比寿講」という冬の季題で始まる。

 

 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 

 振り売りは天秤かついで売り歩く商人のことで、店舗がなくても、立派な屋台を設置しなくても、商品さえ仕入れてくれば手軽に移動しながら商いができるため、小資本でも始められる。当時は鴨や鴫などと同様、雁も食用として普通に売られていたのであろう。ここでは恵比寿講の御馳走にと売られていたのか。

 「雁」は春の季語だが、それは帰る雁を本意本情とするもので、この場合は無季として扱われる。

 単純に考えれば、恵比寿講のために殺生される雁が可哀相という意味でいいのだと思う。仏者で晩年は菜食主義者だった芭蕉としては自然な発想だったと思う。

 『「炭俵」連句古註集』に列挙されている古註の多くはそう解している。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)では「畚(ふご)のさかなの類ひにはあらで、秋に迎ひ春に送り詩歌の人にもてはやさるれバ、其姿を見其情を思ふにもなどか感慨のなからざらん。しかるを歌舞遊宴の夷講にかけ合せて、無尽の情を含められり手段常ならず。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「雁鴨など買て恵比寿講するは世のならひなるに、都で雁を売て夷講せうとは、さてもさてもあはれなる事よと観想の句なり。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も同じような解釈。

 その他の意見としては、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の雁(がん)は元(ぐわん)に通じるから、雁を食うことは元銀を食うことになるので縁起が悪く、商人はそれを嫌う。それを知らない田舎物が雁を売り歩くのが哀れだ、としている。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)では、雁の鮮度が悪くて、よほど売れなくて生活に困っているんだなという哀れとしている。

 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)では、夷講は鯛を食うもので雁など売っても買う人もいないだろうにと解する。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)もそれと似ていて、「雁の振売、何程の価にもあらざあるべきに、それさへ買手無ければ、しきりに雁や雁やと呼びあるかるるを、蛭子講の賑ひにつけて、雁あはれなりとは興じたるなり。」としている。

 これで見ると、天保までの古い解釈では雁は恵比寿講の時に盛んに食べられていたが、幕末の万延あたりでは食う習慣がなくなっていたのではないかと思われる。これより新しい解釈は、雁など売れもしないのに哀れだという解釈に傾いている。ここは古い解釈に従ったほうがいいと思う。

 「振売の」の句は倒置になっているので、それを元に戻すと「ゑびす講にて振売の雁はあはれ也」となる。恵比寿講から「あはれ」を言い興す。

 連句の場合、去り嫌いなどの式目上のルールがあるため、分類される句材がある。「振売の」の句の季題は「恵比寿講」で冬。冬は一句から三句まで続けることができる。

 

 

季題は「えびす講」で冬。「振売」は「振売をする人」という意味では人倫になるが、ここでは「振売」という行為によって売られている雁なので、人倫にはならないと思われる。この辺は杓子定規に、ある言葉が使われていれば自動的に振り分けられるのではなく、実質的な意味で判断した方がいい。談林の頃は季題も句材も形式的扱われていたこともあったが、連歌や蕉門の俳諧では実質的に判断した方がいい。「雁」も同様、ここでは肉であって生きてないので生類にはならない。故に「鳥類」ではない。

 

 

 

   振売の雁あはれ也ゑびす講

 降てハやすミ時雨する軒    野坡

 (振売の雁あはれ也ゑびす講降てハやすミ時雨する軒)

 

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)では「佇ミ居たる風情ならん。句作に哀調を和せりといふべし。」とある。

 「降りては休み」というのは時雨が降ったので雨宿りして休むという意味。時雨が降ったり止んだりというのではない。当時の語感では雨が休むという擬人的な言い回しはほとんどなく、「休む」と言ったらその主語は人だと読んだ方がいい。

 発句が「恵比寿講」から「あはれ」の情を言い興しているので、脇はその情に逆らわず、和すように作る。雁の哀れに時雨の哀れを添える。時雨の雨宿りといえば、

 

 世にふるもさらに時雨のやどりかな 宗祇

 

の句が思い浮かぶ。

 倒置を元に戻すと、「ゑびす講にて振売の雁はあはれ也、時雨する軒で降てはやすみ」となる。

 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)も同じ、今だったらコピペのように同一の文章。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も大体同じ説で宗祇の句についても触れている。

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「時雨の折々降休みては又降」と時雨が休むとしている。

 他は発句の解釈が異なるため省略する。

 

季題は「時雨」で冬、降物(ふりもの)。「軒」は居所になる。俳諧は連歌の式目に準じるとはいえ、かなり簡略化され、特に歌仙などの短い形式で行われることが多いため、連歌では五句去りになるものも三句去りくらいにとどめている場合が多い。降物、居所なども俳諧ではおおむね三句去り。

 

第三

 

   降てハやすミ時雨する軒

 番匠が樫の小節を引かねて    孤屋

 (番匠が樫の小節を引かねて降てハやすミ時雨する軒)

 

 「番匠(ばんじょう)」は建築現場で大工の下働きをする人。樫の木を鋸で引いていると、小さな節があって堅くて切れないで困っているという情景だろう。うまく切れなくて四苦八苦しているうちに時雨になって、仕事の手を休める。「軒」はここでは今建てている建築物の軒ということになる。

 前句の「やすミ」を雨宿りのことではなく、仕事の手を休めることに取り成して付けている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「やすむの語に出て体用の変あり。」というのはそのことを言うのであろう。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は同一の文章でコピペ。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「休ムト言語ヨリ体用ヲワカテリ。」とある。

 軒での「休み」は雨宿りの「休み」なので名詞であって体言、引きかねて「休み」は休むという動詞の活用形なので用言となる。なるほと、古人は文法的な違いをよく観察している。

 これに対して、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は前句の「やすミ」を雨宿りではなく時雨が降っては休むとし、時雨で湿った木を番匠が引きかねてと解する。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)は「時雨ノ雨ヲイトヒテ、ハヤクシマハントスルニ、樫ノ節引割カネテ。」とする。

 この二つの解釈は一応理由がある。

 連歌も俳諧も第三は「て」で留めることが多い。これは「て」が原因にも結果にも使える便利な言葉だからだ。

 たとえば、

 

 急に雨降り俺はびしょ濡れ

 

という句にその原因を「て留め」で付ける。

 

   急に雨降り俺はびしょ濡れ

 油断して傘を持たずに家を出て

 

 これだと、

 

 油断して傘を持たずに家を出て急に雨降り俺はびしょ濡れ

 

とスムーズにつながる。

 結果を「て留め」で付けると、

 

   急に雨降り俺はびしょ濡れ

 脱いだ服ストーブの上で乾かして

 

となる。これだと、

 

 脱いだ服ストーブの上で乾かして急に雨降り俺はびしょ濡れ

 

となる。やや違和感はあるものの、上句の「て」で一度間を置き、一首全体が上句と下句で倒置になっていると思えば意味は通る。

 連歌俳諧ではこうした「て留め」で結果を付けることが多い。それは次の句を付ける人が結果を原因としてさくっと次に展開できるからだ。たとえば、

 

   脱いだ服ストーブの上で乾かして

 布団の上で猫もくつろぐ

 

のように。

 「番匠が」の句を脇句の原因ではなく結果だと解釈すれば、時雨が降ったので鋸を引きかねたというふうにも読めてしまう。ただ、節で引きかねているのに更に時雨で引きかねているとするのは屋上屋を重ねるようでくどい。

 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)は前句の時雨の降りては休みを鋸の屑のはらはらと落ちては節に引っかかって休みという比喩としている。これを「響き付け」としているが、明治三十年ともなれば蕉門の響き付け正しく認識されていたかどうかは怪しい。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「時雨する櫨に番匠の鋸挽、樅の小節の厭はしきに渋り働きするさま、ただ是市井の有るところの情景なり。」と単に前句の景色から連想される景色を付けたとする。現代連句の付け方は大体こんなもの。俳諧に非ず。

 冬は三句まで続けることができるが、三句まで続けることは稀で、たいていは一句か二句で終わる。ここでも発句脇と二句で終わり、第三は無季になる。月の定座があるので秋に転じやすくしている。

 

無季。「番匠」は人倫。人倫と人倫は打越を嫌うが、発句の「振売」は行為を表すもので人倫ではないのでセーフ。「樫」はこの場合材木なので植物ではない。

 

四句目

 

   番匠が樫の小節を引かねて

 片はげ山に月をみるかな    利牛

 (番匠が樫の小節を引かねて片はげ山に月をみるかな)

 

 第三が原因の「て」で付けたため、四句目も軽く流すようにさくっとつけようとすれば、第三が原因で四句目が結果になるという句になり、そのため脇句の趣向から思いっきり離さなくてはならないという苦しさがある。

 「片はげ山」はおそらく材木を取るために半分伐採した山のことなのだろう。番匠は本来建築だけでなく材木の伐採などに携わる者も含む建築一般に従事する人のことだった。ここでは大工の下働きという江戸時代的な番匠ではなく、律令時代の山から木を切り出していた番匠に取り成しているのであろう。樫の木を半分伐採した所で片禿になった山に月を見ている。

 古代のことなので句もやや古めかしく「かな」で留めている。和歌や発句では珍しくないが、連歌俳諧のつけ句としては珍しい。

 元禄三年の「灰汁桶の」の巻の、

 

   堤より田の青やぎていさぎよき

 加茂のやしろは能き社なり   芭蕉

 

の「なり」留めもそうだが、古い時代の素朴な感じを出そうという演出なのだろう。「かな」留め「なり」留めは和歌の体で、付け句の体ではない。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「古今抄に、番匠といふ詞の古雅なる万葉体の歌と聞なして、見るかなとハいへりけるとぞ。しかれバ論なふ二句一体にして、親疎に与奪の意あり。」とある。

 二句一体というのは付け筋によって付けるのではなく、最初から和歌を詠むかのようにストレートに言い下すことを言っていると思われる。「親疎に与奪」というのは、親句にすることで前句に生命を吹き込んでいる、といったような意味か。

 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)もほぼ同じ。ここでもコピペ。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も大体同じ。

 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)にも、「片はげ山 前の番匠の句を上の句として、歌のやうに付なしたる也。」とある。

 

季題は「月」で秋。連歌では「光物」というが江戸時代の俳諧では「天象」と呼ばれていた。夜分。「片はげ山」は山類。月の定座を一句引き上げているが、蕉門の俳諧ではよくあることで、七七の短句で月や花を詠むことも蕉門では嫌っていない。そもそも定座というのは連歌の式目には無く、あくまで慣習にすぎないのだから、厳密に守る必要はない。

 

五句目

 

   片はげ山に月をみるかな

 好物の餅を絶やさぬあきの風   野坡

 (好物の餅を絶やさぬあきの風片はげ山に月をみるかな)

 

 「片はげ山」はこの際単なる背景として捨てて、月を見る人のイメージから次の句へ展開する。これを位付けという。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「桑門隠者のもやうなど見定、それが有べき一事をのべたり。即換骨の意にして、打越の論なし。季節に無用の用あり。」とある。例によって『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)はほとんど同じ。

 桑門は出家僧で、山に篭って修行している僧の位で付けている。登場人物を番匠から出家僧に変えることで片はげ山の月を見る風景は換骨奪胎され、打越の趣向を離れ、輪廻を免れる。

 「季節に無用の用」というのは、いわゆる「放り込み」と呼ばれる、式目上季語が必要なため特に必然性もなく季語を放り込むことを言っているのだろう。「無用の用」は役に立たないことが役に立つこともあるという『荘子』の言葉。体に障害があるから戦争に取られなくてすむだとか、無能で使えないから権力闘争に巻き込まれないだとか、そういうことを言う。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は、前半はほぼ一緒だが「無用の用」に関しては「秋風トハ季節ノ用フカラ無用ノ用と言モノ也。秋ノ風サビシサヲ含ム。是則用也。」と反論している。秋風の淋しさに桑門隠者の風情があるから放り込みではないとのこと。

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は、「淳撲なる人の隠宅しておもしろくも、おかしくもなく明し居て外出もせず、唯好物の食類などたしなみ置さまを見せたり。<響>」と月見る人の位に踏み込んだ解釈をしている。概ね間違いないと思うが「響」ではなく「位」だと思う。

 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「劉伯倫が友ならで餅徳頌作る雅人ならむ。」と言っているが、ちょっと漢籍に詳しいことをひけらかしたかったか。劉伯倫の「酒徳頌」はかつては有名だったか。芭蕉の談林時代の『次韻』の「鷺の足」の巻の発句の前書きにも引用されている。ただ、そういう出典関係を知らなくても普通に楽しめるというのが「軽み」のコンセプトなので蛇足。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)も『徒然草』の真乗院盛親僧都の三百貫の芋頭のことを引き合いに出しているが、近代のようなもはや桑門隠者そのものが過去のものになって、どういう人たちなのかイメージしにくくなってしまった時代には、こういう解説は役に立つ。『徒然草』の第六十段に出てくる芋頭ばかり食ってるお坊さんだが、ググるとすぐに出てくる有名な話なので、ここでは割愛。

 秋風の頃は収穫前で、前年収穫した米がそろそろ底を尽く頃。米の値も上がり十団子も小粒になる季節だ。その時期でも餅を絶やさないというのはどんなけ餅が好きかという所なのだろう。

 

季題は「あきの風」で秋。「餅」は昔は必ずしも正月のものではなかったので無季。ただし餅搗きは冬になる。

 

六句目

 

   好物の餅を絶やさぬあきの風

 割木の安き国の露霜   芭蕉

 (好物の餅を絶やさぬあきの風割木の安き国の露霜)

 

 「割木」は薪のこと。鉈で薪割りするから割木。「安き」は安価ではなくやすやすと手に入るという意味だろう。近くに里山があり、薪がいくらでも手に入るような田舎ということか。秋風に露霜と言葉付けになっている。

 芭蕉があえてこういう言葉付けをするのは、まだ初折の表ということで軽く遣り句で流したかったからだろう。舞台を都から遠く離れた遠国のこととすることで、「好物の餅」はむしろその土地の名物の餅という意味に近いのではないかと思う。赤米か黒米か、あるいは粟稗などの雑穀を混ぜたものか、きっと素朴な味わいの餅があるのだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前句に辺土の風ありと見て、趣向し給ひけん。句作のさびハいふも更に附はたの寛なるをミるべし。季節又妙なり。」とあり、『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「二句の間にかぎりなき世態、まことに解つくすべからず。餅をたやさずくふてゐる人を貧士の驕者と見て、されど割木の安き国にて住よし、とことわりたる也。」とある。「解つくすべからず」というのは単なる遣り句だから特に明確な解もないということなのだと思う。

 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「コハ翁出羽行脚の事を思出て付られけむ。彼国ハ年中餅料理とて数百品に調して、酒の肴にもせり。」とある。数百品は大袈裟だが、それもあるかもしれない。多分干し餅のことだろう。冬の寒さで天然のフリーズドライとなった餅は保存性が高く秋まで持つ。

 

季題は「露霜」で降物。降物というと脇に「時雨」があり、ちょうど三句隔てている。

初裏

七句目

 

   割木の安き国の露霜

 網の者近づき舟に声かけて    利牛

 (網の者近づき舟に声かけて割木の安き国の露霜)

 

 これはわかりにくい。古註にヒントを得ながら読み解くとしよう。

 まず、露霜を捨てて「割木の安き」を割木舟(薪舟)のこととみなして「近づき舟」とし、海に網を張っている漁師がそれに声をかける。

 露霜を捨てているのは、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)が「此句露霜ト云ヲ付もらしけり。」と指摘している通りで、上句下句合せて読んだとき露霜は特に意味を持っていない。

 「割木の安き」から割木舟を導き出していることは、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「即割木ぶねなり。」とし、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)も同じ、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)なども同様の指摘をしている。割木舟は瀬戸内海など松の多い地方で薪を積んで売り歩く船のこと。

 「近づき舟」が近づいてくる舟のことで、網の物の方から舟に近づくのではないことは、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「近づき舟とつづけて読むべし。」とあり、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)にも「沖の通船の近づき船」とあり、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)にも「向より走来る舟」とある。

 ただ、何のために漁師が声をかけたかとなると、是もほぼ皆共通して網があるから入らぬように声をかけているという点で一致している。

 ただ、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)のみ、「割木を積し舟人と漁師は、平生心易き近付にと、海原迄と声をかけ船よばひして、語り合うさま也。」としている。

 この句は概ねの解釈に従い、割木の安い国から来た割木舟が近づいてきたので、地元の漁師が網に触らぬように声をかける、としておこう。「露霜」というのは「ちょっとした事件」くらいの意味にとっておくのが良いのかもしれない。

 なお、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「天地を一壺にちぢむるの術ありといハん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「大山を罌粟(けし)の一粒にちぢむる術ありといはん」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「大ナル者ヲ小サナル物ヲチヂムル変化也。」とある。同じことを言っていると思われる。スケールの大きな句という意味か。

 

無季。秋が三句続いた後無季に転ずる。「網の者」は人倫、水辺。「舟」も水辺。

 

八句目

 

   網の者近づき舟に声かけて

 星さへ見えず二十八日     孤屋

 (網の者近づき舟に声かけて星さへ見えず二十八日)

 

 これはわかりやすい。近づき舟が何であれ、星も見えない二十八日の夜だから網の者がこっちに網があるよ、と声をかけている。場面を夜に転じている。

 『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は『土佐日記』の正月二十八日の条を踏まえているのではないかと指摘している。本説というほどのものではなく「俤(おもかげ)」といったところか。

 

無季。「星」は天象(光物)、夜分。四句目の「月」から三句隔てている。

 

九句目

 

   星さへ見えず二十八日

 ひだるきハ殊軍(ことにいくさ)の大事也 芭蕉

 (ひだるきハ殊軍の大事也星さへ見えず二十八日)

 

 「ひだるき」は空腹のこと。腹が減っては戦はできぬというのは確かに大事なことだ。

 「也」留めは和歌の体ということで、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「二句一意」とある。

 『俳諧古集之弁』、『俳諧七部集弁解』、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「曽我兄弟の御狩場へ出たつもよう」とある。また、本願寺合戦だという説もある。元ネタをちょっとだけ変えて用いる本説と違い、俤はあくまで何となくそんな雰囲気がする程度のもの。前句の船旅から夜討ちへの転換なので、読者がそれぞれいろいろな夜討ちの場面を思い浮かべるのは、計算済みであろう。

 俳諧は平和主義を本意とするもので、基本的には武勇を賛美したりするものではない。この句も、みんな腹が減っているのに星さえも見えない夜に出陣とは、もののふとは気の毒なものだという情で読んだ方が良いだろう。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)の「暗のまぎれニ、夜討の大将より軍令する腰兵糧の用意ならん。」はその辺がわかってない。明治の軍国主義の解釈か。

 

無季。

 

十句目

 

   ひだるきハ殊軍の大事也

 淡気(け)の雪に雑談もせぬ   野坡

 (ひだるきハ殊軍の大事也淡気の雪に雑談もせぬ)

 

 前句の軍仕立てを引きずってはいけない。前句を単なる「腹が減っては軍はできぬ」という慣用句として、冬の寒い中では人もついつい無口になるという情景を付けたと解した方がいい。一九七七年のヒット曲「津軽海峡冬景色」(作詞:阿久悠)の「北へ帰る人の群れは誰も無口で」みたいなものか。気温が下がると体温を維持するためにそれだけ多くのカロリーを消費するから、どうしても腹が減る。腹が減っては軍はできぬとばかりに人は無口になる。と、そういうわけでこれを軍仕立ての句の続きと見た注釈は残念。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「雪は趣向にして句作に用を結べり。尤、爰に此季を出せる変化に工夫の浅からざるを見る。」とある。

 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)にも、「淡気の雪ハミぞれならん。是を趣向にして其用を結べり。尤、爰に此季を出せるハ変化に工夫の浅からざるを見る。」とある。後半はコピペ。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「冬を附タルハ変化の大事ナリ。工夫スベキコトナリ。」とある。

 『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)には「其人を見定たる附也。雑談もせぬハひだるきさま成べし。消へ安き淡雪に空腹をとり合ハせたる句作りなり。」とある。

 『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)には「冬の泡しき雪也。」とある。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「淡気の 雪ふり出し、たれだれも寒くおぼえて、雑談もせぬうちに時刻うつりて空腹になる。」とある。

 こうした解釈の方が当を得ている。

 

季題は「雪」で冬。降物。六句目の「露霜」から三句隔てている。

 

十一句目

 

   淡気の雪に雑談もせぬ

 明しらむ籠挑灯を吹消して  孤屋

 (明しらむ籠挑灯を吹消して淡気の雪に雑談もせぬ)

 

 「籠挑灯」が何なのかは芭蕉の時代にはおそらく自明だったのだろう。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「句意分明ナリ。」とだけある。

 しかし、幕末ともなると、既にわかりにくくなっていたか。ネットで調べても駕籠かきが使う小田原提灯のようなものを駕籠提灯と言ってたり、竹で編んだものに紙を張った看板用の提灯を駕籠提灯と言ってたりする。ただ、幕末明治の註でも概ね駕籠屋の使う小田原提灯系のものということで一致している。『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)のみ、籠に紙を張った元和の頃(江戸時代初期)の提灯としている。

 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「籠ハ書損ならん。箱の字成るべし。」とあるが、箱提灯も円筒形の小田原提灯系のもの。

 ここではおそらく駕籠かきの使う円筒形の折りたたみ式の提灯、小田原提灯系のものとし、雑談をせぬ者の位を駕籠かきに取り成しての句だと見て良いと思う。こういう物は場所によって呼び方がいろいろあるので混乱するのだろう。

 当時の旅は一日の距離を稼ぐために未明に出発することも多く、しばらく行って夜が白む頃提灯を黙々と吹き消して仕事を続ける。ついつい「いやー寒いっすねー」「マジ痺れるわー」なんて言いたくなるが、そこはお客さんの前、我慢するのがプロだ。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「用体の差別といひ句体の虚実に変あり。」とある。打越の「ひだるきハ‥‥」があくまで比喩だったのに対し、提灯を打ち消すとえう実景を付ける。「用体の差別」というのは、「ひだるきハ」の例として、いわば前句が体となり、その用(用例)として「淡気の雪に雑談」が引き合いに出されたのに対し、それを体として付けているという意味か。

 上句下句を合せた時「明しらむ籠挑灯を吹消して淡気の雪に雑談もせぬ」となるが、これは「淡気の雪に雑談もせず、明しらむ籠挑灯を吹消して」の倒置。

 

無季。夏冬は一応三句まではつづけられるが、一句で捨てる場合が多い。

 

十二句目

 

   明しらむ籠挑灯を吹消して

 肩-癖(けんぺき)にはる湯屋の膏薬  利牛

 (明しらむ籠挑灯を吹消して肩-癖にはる湯屋の膏薬)

 

 肩癖は肩凝りのこと。湯屋の膏薬については、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)に「湯屋、床屋等にて昔は薬を売りしこと間々あり。明治初年、猶ほ湯屋にて按摩膏、角力膏の類を売り居りしなり。」とある。ネットでも大体同じような記事がある。

 これも句意は明瞭で、特に駕籠かきに限らず携帯用の提灯を持ち歩く職業の人が、明け白む頃に湯屋で買った膏薬を張って肩こりに鞭打ち、さあ今日も頑張るぞといった所だろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「前底無用なるより奪て二句一章に作れり。」とある。「前底無用」は前句を必ずしも駕籠かきが旅の途中でという風景を引きずらなくても良い、むしろそれを一度忘れよということではないかと思う。「二句一章」は特に付け筋によらず一首の和歌のように構成したということで良いと思う。

 これに対し、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「前句てノ余韻明しらむ迄駕児の物堪し体ト見立、建場に休む間の用を付たり。」とし、「奪て二句一章に作れりト云ハ並物也。」と遅日庵杜哉をディスってる。曲斎はあくまで前句の人物を駕籠かきだとし、その用を付けたのであって、「無用」ではないと主張する。だが、これだと展開が甘くなる。

 

無季。

 

十三句目

 

   肩-癖にはる湯屋の膏薬

 上をきの干葉刻もうハの空   野坡

 (上をきの干葉刻もうハの空肩-癖にはる湯屋の膏薬)

 

 「干し葉刻む」で肩に膏薬を張った人物を女性にし、片肌脱いだ熟女の色気に転じている。「うわの空」は肩こりがつらいとも取れるが、誰かのことを思って上の空になっているとも取れる。もちろん恋への展開を予想しての恋呼び出しであろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「肉太なる女の肌ぬぎたる姿ミるがごとし。変化ハ更に自他明か也。」とある。遅日庵杜哉さんは熟女好き。

 これに対し、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「賤の女の四十もこえたるが、肩より胸のあたりまで、きたなく張りちらしたるさまと思ひよせたり。其痛みに堪えかねし余情をうはの空とあしらひたる也。」と言う。幻窓湖中はひょっとして蕪村派(ロリ)?

 

無季。

 

十四句目

 

   上をきの干葉刻もうハの空

 馬に出ぬ日は内で恋する    芭蕉

 (上をきの干葉刻もうハの空馬に出ぬ日は内で恋する)

 

 恋呼び出しとあっては、それに答えないのは野暮というもの。肩凝りは前句の話で、ここではそれを忘れ、棚の上に置いた乾燥させた野菜を切っている多分若い女性に取り成されている。相手は街道で馬を引く馬士(ばし)か何かだろう。仕事のない日は家で睦み合うのだが、それを思うと干し菜を刻む手もうわの空になる。

 位付けの見本の一つとして、『去来抄』はこの句を引いている。

 

  「上置の干菜刻もうはの空

 馬に出ぬ日はうちで恋する

此前句は人の妻にもあらず、武家町屋の下女にもあらず、宿や問(とひ)や等の下女也なり。」

 

 ここでは干葉が干菜になっているが意味は同じだろう。

 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には『去来抄』に関して、「宿屋問屋の下女ト云ハ、食品をしらぬ故也。」と言っているが、幕末と元禄では宿屋の食事事情もかなり違っていることだろう。

 また同書は各務支考の『続五論』を引いてこう記している。「賤しき馬士の恋といへども、上置の干菜に手をとどむといへバ、針をとどめて語るといへる宮女の有様にも、心ハなどか劣らむ。如此ハ恋の本情を見て、恋の風雅を付たりト賛じたり。」とある。この言葉は『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)でも引用されている。

 これは賤しき馬士が干し菜を手にとどむということなのか。そうではないだろう。宮女の有様に例えられるのだから、宿屋の娘が干し菜を手にとどむと見るべきだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、傍輩なる男の脚ふミそらして、挑み居る風情ならん。」とある。また、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は、「暁台曰く、傍輩なる男の風情と見るべしと。下品なる男女の挑みあひたるさま見えていとをかし。」とある。「挑む」は古語辞典だと「恋の誘いかけ」とあり、宮女の「語る」と同様、それ以上の想像はしないほうが良いのか。源氏物語でも時折「語る」という言葉が出てくる。

 

無季。「恋」は恋。「馬」はここでは姿として登場しないので獣類といえるのかどうかは微妙。

 

十五句目

 

   馬に出ぬ日は内で恋する

 絈(かせ)買の七つさがりを音づれて 利牛

 (絈買の七つさがりを音づれて馬に出ぬ日は内で恋する)

 

 絈(かせ)買についての解説は『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にまかせよう。

 「絈は『かせ』と訓ます俗字にして、糸未だ染めざるものなれば、糸に従ひ白に従へるなるべし。かせは本は糸を絡ふの具にして、両端撞木をなし、恰も工字の縦長なるが如き形したるものなり。紡錘もて抽きたる糸のたまりて円錐形になりたるを玉といふ。玉を其緒より『かせぎ』即ち略して『かせ』といふものに絡ひ、二十線を一トひびろといひ、五十ひびろを一トかせといふ。一トかせづつにしたるを絈糸といふ。ここに絈といへるは即ち其『かせ糸』なり。絈或は纑のかた通用す。絈糸を家々に就きて買集めて織屋の手に渡すものを絈買とは云ふなり。」

 それが七つ下がりの刻、つまり夕暮れも近い頃になってやってくる。ネットで見ると「午後4時を過ぎたころ」とあったりするが、当時は不定時法なので春分秋分の頃なら四時過ぎだが、夏はもっと遅く冬は早い。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「二句がらみの附ならん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)にも「打向ハせて二句がらミに附なしけん。」、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「打向ハセテ二句ガラミニハシタリ。」とある。この三つは大体一致することが多い。これまでからすると幕末のものよりは信頼度が高いが、「二句がらみ」はどうかと思う。

 熟女のうわの空から、馬士と宿屋の女の恋と二句続いたので、ここは恋離れと見て良いのではないかと思う。夫が馬に出ぬ日は一日ラブラブで過ごしていたが、夕暮れになってお邪魔虫でも良いのではないかと思う。

 

無季。「絈買」はこの場合人物を指すので人倫。

 

十六句目

 

 

   絈買の七つさがりを音づれて

 塀に門ある五十石取      孤屋

 (絈買の七つさがりを音づれて塀に門ある五十石取)

 

 さて、次の十七句目は花の上座で、初裏の月もまだ出ていない。ここで花を呼び出さなくてはいけない。ここはさらっと行きたい所だ。

 ネットで「五十石取り」を検索すると「たそがれ清兵衛」が出てくる。「教えて!goo」の回答によると、武士でも下っ端の方で年収百二十五万円なんていう算定もある。今で言えば相対的貧困家庭か。女房が内職して糸を紡いでいるのだろう。絈買が出来上がった絈を買いに来る。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)、には「用体の変なり。」とあり、『弁解』のみ「付意句意明也。」と付け加えている。「音づれて」に「恋する」と用で付いていたのを、訪れる場所である五十石取りの家という「体」を付ける。当時は句意明瞭すぎて解説の必要なしと判断されたか。

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「絈買といふより転じ来て、小身侍の家の老婦、又女兄弟などの手業に絈を製りて売なし、日用のたすけとするさまを余情に見せたり。」とある。異論はない。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「塀に門あるは門に塀あるにあらず、簡略なり。」「塀は勿論板塀の古びたるにて、筋塀錬塀などの立派なるにはあらず」とある。「門に塀ある」は立派な門に塀がついているというニュアンスで、「塀に門ある」は粗末な塀に小さな門が付いているというイメージか。

 五十石取りの家があるというだけの単純な句なので、次の句ではどうにでも展開できる。花呼び出しの見本のような句だ。ここまでお膳立てされるとかえって次の芭蕉さんにはプレッシャーかもしれない。

 

無季。「門」は居所。「五十石取」は人倫。次の句で人倫は出せない。

 

十七句目

 

   塀に門ある五十石取

 此島の餓鬼も手を摺月と花  芭蕉

 (此島の餓鬼も手を摺月と花塀に門ある五十石取)

 

 さあ、お約束で花ばかりか月も出してきました。

 五十石取りとはいえ小さな島ではいっぱしの島奉行で、最も偉くて最も金持ちということもあるが、月花の風流の心を知るということが何より慕われる理由だという、風流の道の宣伝とも取れる。

 隠岐に流罪となった後鳥羽院の、

 

 我こそは新島守(もり)よ隠岐の海の

    荒き波風心して吹け

              後鳥羽院

 

あたりの俤を意識したか。

 それにしても島人のことを「餓鬼」だなんて、いくら人倫を出せないからといって、「土人」同様今だったら先住民族差別だって騒ぎになりそうだ。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前句の語勢に情を起し、文に武もある島奉行と見て、いと怪しげなる夷等も心腹したる以為をいへりかん。句作の按配感味すべし。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)もほぼ同じだが、「文に武も」のところが「仁徳」になっている。「月と花」とあるのだから『笈の小文』の、

 

 「風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

 

にひれ伏したと考えた方が良いと思う。

 なお、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は、今だとやはり問題になりそうな文章だ。

 

 「此句は餓鬼といひ、島といへるに、宜しからぬ海中の荒れたる島の、痩せさらぼひて衣服だに能くも身を被はぬやうなる浅ましき土民をあらはし、しかも其の餓鬼のやうなる者も月花にあくがれ、それを見たしとは念ずるといふことを、餓鬼も手をする月と花とは作れるなり。‥‥略‥‥およそは伊豆の大島、薩摩の種子島あたりを想へるなれど、想像より成れる句にて、もとより確と定めてのことにはあらず。」

 

 まあ、こういう認識だった時代もあったってことか。

 

季題は「月」と「花」だが、月は一年中あるのでこの場合は花を優先して春の句となる。「花」は植物。「月」は天象。「島」は水辺。「餓鬼」は人倫にならない。

 

十八句目

 

   此島の餓鬼も手を摺月と花

 砂に暖(ぬくみ)のうつる青草  野坡

 (此島の餓鬼も手を摺月と花砂に暖のうつる青草)

 

 打越の島奉行のことを忘れて前句を見れば、単に花咲く月夜をに手を摺る島の先住民族ということになる。あるいは今日で言う「餓鬼」つまり子どものことか。

 季節は春で「砂に青草のぬくみのうつる」を倒置にしてこの句となる。砂浜にも春の草が生えてきて暖かそうに見える、ということか。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「踊躍したのしむ姿と見て、花下のけしきをいへるや。」とあり「餓鬼の語を転用して、かつぎの蜑の子どもらの花間に戯れ遊べると見ても変化おかしからん」とある。、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「悦び楽む姿と見て」としていて、後は大体同じ。

 

季題は「青草」で春。植物、草類。

二表

十九句目

 

   砂に暖のうつる青草

 新畠の糞もおちつく雪の上   孤屋

 (新畠の糞もおちつく雪の上砂に暖のうつる青草)

 

 「新畠の雪の上の糞もおちつく」の倒置か。「上」は「かくなる上」のように「あと」という意味がある。「雪ノ解けた後糞もおちつく」という意味に取った方がいいのだろう。

 川原や中洲など川沿いの石や砂でできた土地を開墾して切り開いた畑に雪が積もり、それが解ける頃に肥料をやると土壌が改良され、折から春の青草が生えてくる。大きな川の河口付近は幾筋もの流れに分かれ、その間に無数の砂州が形成される。江戸時代にはこうした土地の開墾が進んでいた。

 肥料を先にやってから雪が積もると、雪の水分で酸欠を起し、肥料の発酵が不十分になって有機酸が発生し、肥料あたりを起こすらしい。肥料は雪の上(後)というのはそういう長年の経験から来た知恵であろう。

 この句に関しては古註の意見はかなり割れている。新畑が川原を開拓した所だということはほぼ一致している。「雪の上」の解釈が割れている。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「新畠の 雪ノ上ニ芥土ヲオクトキハ、雪モハヤクキユトゾ。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「雪の上は雪の後といふがごとし。」とある。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には、「雪の上ニ置し厩肥のしっかりとしたりとなり。」とあるが、この「雪の上ニ」も雪の後にという意味だろう。

 これに対し、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「配置し厩こえの上に雪降」とある。肥が先で雪が後になっている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「配り置たる糞壌の雪きへて、おちつきしならん。」とあるが、この文章だと肥と雪どっちが先かよくわからない。「雪きへて配り置たる糞壌の」の倒置なら雪の後の肥になる。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には、「新畠はしんはた、糞はこえと訓むべし。」とある。それ以前の古註には読み方が指示されてないので、当初の読み方はよくわからない。新畠は多分「しんはた」で良いのだと思う。「新田」に対しての「新畠」であろう。「糞」は「くそ」なのか「こえ」なのかはよくわからない。ただ、『去来抄』にある「でっちが荷ふ水こぼしけり 凡兆」の句の初案の「糞こぼしけり」の読みが「こえこぼしけり」だったとしたら、ここも「こえ」であろう。

 なお、『去来抄』のこの場所には「凡兆曰、尿糞の事申すべきか。先師曰、嫌ふべからず。されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん、凡兆水に改あらたム。」とある。まあ、「糞」や「尿」はシモネタなので、一座一句と考えた方が良い。

 まあ、だけど芭蕉さんも、

 

 蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと  芭蕉

 鶯の餅に糞する縁の先      同

 

という発句を詠んでいる。『荘子』にも「道はし尿にあり」とある。

 

季題は「雪の上」が意味としては雪解けなので春になる。

 

二十句目

 

   新畠の糞もおちつく雪の上

 吹とられたう笠とりに行     利牛

 (新畠の糞もおちつく雪の上吹とられたう笠とりに行)

 

 雪解けの頃に吹く強い春風を付ける。東風(こち)とも呼ばれている。ただ、「東風」という言葉を使わずに東風を表現するところが匂い付けになる。

 

   抱込で松山廣き有明に

 あふ人ひとごとの魚くさきなり   芭蕉

 

と同じで、「松山」に「漁師」を付ければ普通の言葉付けだが、漁師と言わずしてそれを匂わせることで、文字通り魚の匂いを付けている。

 「東風」を表に出さないことには、無季の句となり、次の句の展開がしやすくなるというメリットもある。

 句意は明瞭で、前句を背景として、風に吹き飛んだ傘を拾いに行く人を付けている。畑の真ん中で春風に笠を吹き飛ばすのは「あるある」ネタ。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)の系統は「東風の時候」とだけ記している。

 

無季。「笠」は衣装。

 

二十一句目

 

   吹とられたう笠とりに行

 川越の帯しの水をあぶながり   野坡

 (川越の帯しの水をあぶながり吹とられたう笠とりに行)

 

 昔の街道は幕府が橋を作らせなかったため、川の水につかりながら徒歩で渡ったのは学校でも習ったことで今更だが、そうして渡る途中に風で笠が吹き飛んで腰まで水につかりながらおそるおそるそれを取りに行くというのは、当時の「あるある」だったのだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)系は「二句一体にして与奪の意なり。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「帯しハ腰のあたりといふ義也。」と付け加えている。

 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)はこれを大井川の川越制度に結び付けているが、川越制度は元禄九年からなので、この俳諧が巻かれた時にはまだなかった。

 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)には「驚き恐るべき程にもなき纔(わずか)腰切りの水を、かしましくいふ余情あり。」とあり、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には「川越人足ともあるものの帯ほどの水を危がるべきや。」とあるが、この両者は明治三年に川越制度が廃止された後の世代なので、川越の実態を知らない。みんなが渡ってたり、普段渡り慣れている所ならともかく、川下に流されていった笠を拾うために道を外れるとなると、急に深みにはまることがあるので危ない。今でも川で遊ぶ人は注意しなくてはならない。

 

無季。「川越」は水辺。旅体。「此島」から三句隔てている。

 

二十二句目

 

   川越の帯しの水をあぶながり

 平地の寺のうすき藪垣    芭蕉

 (川越の帯しの水をあぶながり平地の寺のうすき藪垣)

 

 平地は今では平らな土地という意味だが、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)に「平地は水辺の体」とあるから、かつては川や干潟を干拓した土地を意味していたのであろう。そのあたりは腰ほどまでの水の流れる用水路が縦横無尽に走り、それを避けながら寺の藪垣を頼りに進むと良かったのだろう。お寺は大概盛り土をしたりしてやや高い所に建てる。「うすき」というところに心細さを感じる。

 これは旅体ではなく、平地に住む人の日常の風景に転じている。

 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)や『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)はお寺が水に流されるのではないかと心配しているが、意外に他は沈んでも寺は残るものだ。お寺の開祖となるようなお坊さんは馬鹿ではない。

 

無季。「寺」は釈教。「平地」が式目上の水辺になるのかどうかはよくわからない。

 

二十三句目

 

   平地の寺のうすき藪垣

 干物を日向の方へいざらせて  利牛

 (干物を日向の方へいざらせて平地の寺のうすき藪垣)

 

 干物といってもお寺だから魚やイカではなく、柿だとか大根だとかだろう。「いざる」というのは「どかす」「移動させる」という意味。元は膝で歩くことを言ったが、そこからゆっくり移動するという意味に拡大されたようだ。名詞形はやばいので割愛。

 平地の寺で干物を日向に干すのは日常の光景で冬が来たなと感じさせる。日が低くなると薮垣の影になるので、垣から遠ざけたのだろう。

 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「弁を加ふるに及ず。」とあり、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「其場ニシテ明ナリ。」としている。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「いざらせて」の「いざる」を接頭語「い」+「去る」で「ゐざる」とは別だとしている。「い」と「ゐ」は江戸時代には既に混同されていて、発音に違いは無かったと思われる。「ゐざる」も「居(ゐ)」+「去る」から来たと言われている。

 

無季。「干し菜」は冬の季題だが、干し蕪や干し大根は春の季題で、「干し物」だけでは季題にならない。十三句目の「干葉」も「干し菜」にしなかったのは「淡気の雪」から二句しか離れてなかったからだろう。

 

ニ十四句目

 

    干物を日向の方へいざらせて

 塩出す鴨の苞(つと)ほどくなり  孤屋

 (干物を日向の方へいざらせて塩出す鴨の苞ほどくなり)

 

 「塩出す」は保存のために塩漬けにした食品(塩蔵)を塩抜きして戻すことを言う。江戸時代には鴨肉も塩蔵にしていたのだろう。塩漬け肉はかつて世界中にあり、ヨーロッパにも鴨の塩漬けや生ハムがあり、中国にも咸鴨腿というのがある。

 せっかく手に入った鴨肉なので塩出しして食べようと思うと、狭い長屋では置き場所がない。干してある干物をちょっとどける。

 こうしたあるあるネタでさくさく進んでいくあたりが、「軽み」の風の真骨頂なのだろう。こういうネタだと古註の意見もほとんど分かれない。

 

無季。「鴨」はここでは食品なので鳥類にはならない。

 

二十五句目

 

   塩出す鴨の苞ほどくなり

 算用に浮世を立る京ずまひ    芭蕉

 (算用に浮世を立る京ずまひ塩出す鴨の苞ほどくなり)

 

 なかなか良いテンポで進んでいるので、この調子を維持したい所だ。ただそこは芭蕉さん、やっぱり少しひねってくる。それだけにわかりにくい。

 まず今までかなりの信頼性のあった江戸後期の『俳諧古集之弁』系の注釈を見てみよう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「塩鳥に出てたまかなるそこの風俗をいへるや。」とある。「たまか」は堅実とか実直とかいう意味でつつましい、倹約という意味もある。まあ、悪く言えばケチということか。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「塩鳥より出たり」としかない。これではよくわからない。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「塩鳥ヨリ洛ノ生モノ不自由ノ地ヲ宣エリ。」とある。京都は海から遠いから鮮魚も入りにくいし、農産物や野生動物の肉に関しても生ものより乾物の方が主流だったということか。

 幕末系の注釈は、こうした注釈を踏襲している。

 『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)は「前句ハゐなかよりの到来もの也。まことにめづらしと引ほどきたるハ、算用に浮世を立るからき京の住居なるべし。よくはまりたる附合也。」とある。京都は商業都市で生ものに乏しいから、田舎から送られてきた塩鴨をありがたがるし、それが京都の人の合理精神でもあるといったところか。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「算用に浮世を立つるは、農もせず漁もせず樵牧もせで、商利のこまかきを積み、小利口に世を渡るを云ふなり。」も大体似たようなことだろう。

 京都というと今でも鰊蕎麦が名物だし、身欠き鰊のような乾物は京都の人の気質にもあっているのだろう。乾物はもどすのに手間はかかるものの、安くて長期に渡ってストックしておけるので、京都の商人気質に合っていたのだろう。多分芭蕉の時代に塩鴨から京都を連想するのは無理のない自然なもので、京都人の気質を象徴するものだったのだろう。

 

無季。

 

二十六句目

 

   算用に浮世を立る京ずまひ

 又沙汰なしにむすめ産(よろこぶ) 野坡

 (算用に浮世を立る京ずまひ又沙汰なしにむすめ産)

 

 『俳諧古集之弁』系の註では、前句の算用に浮世を立てる京住まいの人を「算術の師」と取り成しているという。ただ、算術師と多産がどう結びつくのかよくわからない。京都の算術師というと、芭蕉と同時代の渋川春海(二世安井算哲)が思い浮かぶが、子どもは一人しかいなかった。父親の一世安井算哲も京の算術師だったが、こちらもなかなか子どもに恵まれず安井算知を養子としている。

 算術師というと関孝和が有名だが、こちらは江戸に住んでいた。関孝和が継子算を数学的に解明したからか、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「御内義迄継子算が上手と咄す様也。」とある。面白いけど後付けだろう。

 『俳諧古集之弁』に、「さハ四方髪の兀あがりて先生顔ならんに、若やかなるものもてるなるべし。せつろしき所帯にあまた産せる按排余情あり。」とあるから、自由気ままに生きる流浪の算術師に、ナンパなイメージがあったのかもしれない。

 「産」と書いて「よろこぶ」と読むことに関しては、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「京都の方言に女の産するをよろこびと云。」とある。

 

無季。「むすめ」は人倫。

 

二十七句目

 

   又沙汰なしにむすめ産

 どたくたと大晦日も四つのかね  孤屋

 (どたくたと大晦日も四つのかね又沙汰なしにむすめ産)

 

 「どたくた」は「どさくさ」に同じ。「さ」と「た」の交替は、サ行をしばしばthに近い音で発音することから起こるものであろう。「真っ青」が「まっつぁお」なったりするのもその一例。相撲でよく使われる「どすこい」も「どつこい」との交替が成り立つ。「どつこい」は一方で促音化して「どっこい」になる。

 大晦日(おおつごもり)はかつては決算日で、借金取りもこの日に回収しなきゃと走り回っていた。今で言えば年度末の三月三十一日と大晦日がいっぺんに来たような忙しさだったのだろう。

 

 大晦日定めなき世の定めかな  西鶴

 

は談林の俳諧師でもあった井原西鶴の発句。

 大晦日の四つというのはこの場合夜四つ(午後十一時ちょい前)か。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「夜いそがしき折ふしに」とあり、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)も「四ツは亥の刻なり。」としている。これに対し『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「昼からの騒ぎに」と朝四つ(午前十時過ぎ)としている。

 どっちにしても大晦日は忙しいことに変わりない。その忙しいさなかに出産となれば、それこそ「どたくた」している。

 わかりやすい句で、『俳諧古集之弁』系では「句作おかし」とだけある。

 

季題は「大晦日」で冬。

 

二十八句目

 

   どたくたと大晦日も四つのかね

 無筆のこのむ状の跡さき   利牛

 (どたくたと大晦日も四つのかね無筆のこのむ状の跡さき)

 

 「無筆」は読み書きのできない人、「このむ」は注文をつけることをいう。日本は中世から識字率が高く、読み書きできない人は庶民といえどもそう多くはなかったし、連歌や俳諧が日本の識字率の向上につながった面もある。

 当時は年賀状はあるにはあったが、年明けていばらくしてから書くことが多く、年内に出さなくてはいけないわけではなかった。大晦日のどたばたしている時にわざわざ書かせる書状というと、借金の催促とか延期願いだとかだろうか。それにしては遅すぎる。

 『俳諧古集之弁』系では「前へ無用なる晦日へ附たり。」とある。前句の大晦日の体に打越の「むすめ産」の用が付いているから、ここで大晦日の用を付けると「用付け」になって、展開に乏しく輪廻気味になる。そのため「無用」、つまり大晦日の出来事としてそれほど必然性のないことを附ける必要があった。

 字の書けない人が手紙の代筆を頼むのは、別に大晦日でなくても良いことで、「むすめ産」のように「こんな時に」というネタにもなっていない。

 代筆を頼む人はお年寄りであったりしたのだろう。繰言が多くてどうにも要領を得ないのは、遺言を代筆する公証人の心境のようなものだろう。その呑気さと世間の大晦日の忙しさを対比したと見た方がいいのかもしれない。

 

無季。「四つのかね」が亥の刻なら夜分。

 

二十九句目

 

   無筆のこのむ状の跡さき

 中よくて傍輩合の借いらゐ    野坡

 (中よくて傍輩合の借いらゐ無筆のこのむ状の跡さき)

 

 さて、あるあるネタの連続で月の定座ことが忘れられてないかなという感じだが、ここは次の芭蕉さんに譲るということか。といっても、これは月呼び出しとは言えない。

 傍輩は同僚というような意味。「合」がつくと同僚同士ということか。

 『俳諧古集之弁』系では「女の風あり」と、女同士の仲良しグループのようなものを想像している。手紙を代筆させても、ついついガールズトークに花が咲いてしまい、なかなか進まないというのはありそうなことだ。そんな仲だから気軽にものの貸し借りもするのだろう。

 幕末・近代系の註釈は「いらゐ」という言葉についていろいろ論じてる。「借いらゐ」という言葉は、幕末あたりを境に日常的に用いられなくなり、死語となっていたか。「いらゐ」は「いらひ」の間違いというところはほぼ共通して指摘されている。ただ、それが答えるという意味の「いらへ」なのか、借りるという意味の「いらへ」なのか、議論が分かれている。てっきり「借り依頼」かと思ったが、この言葉が幕末にあったなら議論にはならなかっただろう。一応保留にしておく。

 

無季。「傍輩」は人倫。

 

三十句目

 

   中よくて傍輩合の借いらゐ

 壁をたたきて寝せぬ夕月   芭蕉

 (中よくて傍輩合の借いらゐ壁をたたきて寝せぬ夕月)

 

 誰も月を出さないもんで、結局ニ表の月の定座は芭蕉さんに丸投げとなった。初表の月花もそうだったが、俳諧の衰退もこうした過度な気配りや空気読みが原因の一つだったと思う。芭蕉さんも内心苦々しく思ってたのかもしれない。

 「夕月」は夕方に出る月で、満月よりも早く、三日月や半月のことを言う。七月七日の七夕の月の連想も働く。「星祭」とも呼ばれていた。

 町は七夕祭りで賑わい、寝ようにも傍輩がやってきては服を貸してくれだとか、なかなか寝させてくれないのも、江戸時代のあるあるだったのだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「帯も頭巾も人の物にて、夜祭などへ出かけるやつともミゆ。ひとへにこの附の姿なることを感ず。前句を実となせバ越の論なし。」これに論なし。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)が「夕月の一語に夜々の踊りに労れしものと為せるは、余りに思ひ過ぎたる解にて、窮屈なり。」と言うのは、明治になって旧暦の行事が禁止され、江戸時代の七夕の賑わいも見る影も無く、家庭での子供の行事と化した時代だったから、その意味では納得がいく。

 ここでは近代的に(あるいは西洋文学的に)「改釈」することを目的とはしていない。あくまで作られた当時の本来の意味を探求することを旨とする。幸田露伴の注釈は、近代的解釈としては敬意を表するが、ここではそれが目的ではない。

 古註を読むことで、われわれの知らない世界が見えてくる。面白いと思わないか?

 

季題は「夕月」で秋。夕方まだ明るいうちなら夜分ではない。「四つのかね」から二句去りなので夜分を避けたか。天象。

二裏

三十一句目

 

   壁をたたきて寝せぬ夕月

 風やミて秋の鷗の尻さがり   利牛

 (風やミて秋の鷗の尻さがり壁をたたきて寝せぬ夕月)

 

 「鴨の尻さがり」について、『俳諧古集之弁』系には何の説明もない。『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には「鷗は都鳥の事にて、尾の方のあがりたる鳥なるを、尻さがりとひねりて作りたる也。」とある。都鳥は今で言うユリカモメのこととされているが、概ねこうした水鳥は尻が上がっている。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「尻さがりハ句作ながら、秋の高汐に引方ハ出水の流るるにひとしけれバさも有べし。」というのはわかりにくいが、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)の「尻下がりは尻の方の低くさがりたるにはあらで、流の上に向ひて浮み居り、自然と流れて後退するを云へるなり。」と同じだろう。

 多分、尻下がりは説明の必要のないことだったのだと思う。それはカモメの声を聞けばわかることで、カモメの声が尻下がりということなのではないかと思う。

 「壁をたたきて」の主語は省略されているが、擬人化ではなく人が叩いているのだろう。

 「風やミて秋の鷗の尻さがり壁をたたきて寝せぬ夕月」とした時、上句と下句は「て」止めのときと同様倒置の関係になる。

 風が止んで秋のカモメも盛んに鳴き交わしている、さっきまでは友が壁を叩いて遊びに誘い寝かせてもらえない夕月だったが、とそう読むのが良いだろう。

 そう読めば、『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)の「青楼の酔をふかれに遊侠の徒のうかれ来れる升崎ハたりの風情などミゆ。変化おかし。」の註がぴたりとはまる。「青楼」は吉原のこと。「升崎」は真崎か。

 

季題は「秋」。「鷗」は鳥類、水辺。

 

三十二句目

 

   風やミて秋の鷗の尻さがり

 鯉の鳴子の網をひかゆる   孤屋

 (風やミて秋の鷗の尻さがり鯉の鳴子の網をひかゆる)

 

 江戸時代は鯉などの魚の養殖が盛んで、芭蕉の古くからの弟子に鯉屋杉風という人がいたが、魚問屋で深川に生け簀を所有していて、芭蕉はその近くの家を譲り受けて、そこに芭蕉を植えて芭蕉庵とした。使われなくなった生け簀は古池になり、あの名句を生んだ。

 深川あたりには養殖用の生け簀がたくさんあったのであろう。魚をユリカモメなどの鳥に食われないようにこうした生け簀の上には鳥除けの鳴子が取り付けられていたのであろう。「鳴子の網」というのは生け簀の上を覆うように、鳴子のたくさん取り付けられた網を張っていたのではないかと思う。

 こうした風景も幕末には既に失われていたのではないかと思われる。江戸の人口の増加によって隅田川の東岸の宅地化が急速に進み、今でいう下町が形成され、それと同時に輸送手段の発達で海で取れた魚が新鮮なうちに江戸に届くようになり、鯉の養殖は次第に廃れていったのであろう。いわゆる江戸前寿司が隆盛を極める傍らで、鯉料理は隅に追いやられていったのではないかと思われる。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「鷗ト言ヨリ、隅田ノ州崎村ノ生州ニ為タリ。」とある。天保の頃にはまだ州崎(今の東陽町)にこうした生け簀が残っていたのだろう。おそらくかつては深川あたりにもたくさんあったのではないかと思われる。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「これは旧解の、鯉の生州の上にしつらひたる鳴子にて、風止み日和らぎたれば鯉の小さきは長閑に浮み出でて禽獣などに捕らるるあるを防ぐなり、と云へるが却って宜し。」とある。

 風が止んで鷗が空を舞っては鳴き交わす情景に、鯉の生け簀を付ける。それが日常の風景だった時代の人には、悩むような句ではなかったであろう。

 

季題は「鳴子」で秋。しし威しと同様本来は秋の稲穂を守るための鳥獣除けで秋の季題となっている。「鯉」は水辺。前句の「鷗」も水辺で、水辺が二句続く。

 

三十三句目

 

   鯉の鳴子の網をひかゆる

 ちらばらと米の揚場の行戻り  芭蕉

 (ちらばらと米の揚場の行戻り鯉の鳴子の網をひかゆる)

 

 「ちらばら」は「ちらばる」ということで、多分「ちりちりばらばら」というのも同じ所から来たと言葉なのだろう。「ちらほら」とか「ちらりほらり」とかいう言葉とも類縁なのか。

 『俳諧古集之弁』系の註釈だとこの言葉は斜陽の人影の水面に映る様だという。貞享元年の『冬の日』の句、「ひのちりちりに野に米を刈る 正平」の「ちりちり」に近いのか。「はらはら」も乱れ落ちてゆく様を言うから、光がゆらゆらしながら降り注ぐ様を「ちらばら」と言ってた可能性は無くもない。

 幕末系の註釈は舟の往来のちらほらだとか、揚場から行き戻る人のちらほらだとか、ほぼ今日のちらほらの意味で解釈している。

 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)は「ちらほら」の誤りだというが、それは明治の感覚で、「ちらばら」だとか「ちらはら」という言い方をこの頃にはしなくなっていたからだろう。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「人多く往来するさま」としているから「ちらほら」というわけでもない。むしろ「ぱらぱら」だろう。

 芭蕉の時代に「ちらばら」がどういう意味で用いられていたかは、ここからではわからない。辞書を見たら用例が芭蕉のこの句だった。これではどうしようもない。

 米の揚場とは言っても大きな港のような所ではないのだろう。人もまばらで辺りに鯉の生け簀があるような所だから、町外れの川沿いの開けた所か。

 とりあえずここでは、鯉の鳴子の網の情景にその原因の鷗が付いていたのを原因とは切り離して単純な風景として、米の揚場の風景に転じたと見ておくことにしよう。「ちらばら」が人なのか影なのかは、保留する。

 

無季。「揚場」は水辺。水辺が三句続くが、「鷗」「鯉」は水辺の用で「揚場」は体だから輪廻にはならない。『俳諧古集之弁』系に「体用の変あり。」とあるのはそのことか。

 

三十四句目

 

   ちらばらと米の揚場の行戻り

 目黒まいりのつれのねちミやく 野坡

 (ちらばらと米の揚場の行戻り目黒まいりのつれのねちミやく)

 

 「ちらばら」もそうだったが「ねちミやく」も謎の言葉で、多分元禄の頃には普通に使われていたが、江戸後期には死語になっていたのだろう。辞書だと「思い切り悪く、ぐずぐずするさま」とあって、「辞がねちみゃくして」という用例が載っている。

 「ねちみゃく」は「けちみゃく(血脈)」のような漢語っぽい響きがあり、「熱脈」「涅脈」「涅覓」「佞脈」などの字を当てる説もあるが、定説はない。

 目黒参りの目黒は目黒不動尊のことで、東京都目黒区下目黒にある瀧泉寺が不動明王を祀っている所からそう呼ばれている。

 江戸の中心地からそれほど離れていないので、日帰りで行けたのだろう。そうは言っても何か迷う所があったのか、米の揚場のあたりでうろうろしてなかなか着かない、ということか。「ちらばら」が影のことだとしたら、途中の高輪あたりで日が暮れてしまったということだろう。『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「賑しき米上場ハ、品川高輪辺也。」とある。『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)も「前句の米の揚場を高輪、品川あたりに転じたり。」としている。

 品川から目黒だと今だったら山手通りだが、その前身となるような目黒川に沿った道があったのだろう。「品川観光協会」のホームページには、

 「目黒不動から荏原神社までは目黒川に沿って居木橋村を通る道と平塚橋を経由して南品川に達するみちがあるが、文政十年(一八二七年)戸越村御屋敷絵図には目黒川沿いに品川道が記されている。」

とある。

 

無季。「目黒まいり」は釈教。「つれ」は人倫。

 

三十五句目

 

   目黒まいりのつれのねちミやく

 どこもかも花の三月中時分  孤屋

 (どこもかも花の三月中時分目黒まいりのつれのねちミやく)

 

 二裏の花の定座なので、目黒参りに花の季節を付けたと言えばそれまでだ。ただ、「どこもかも」の一言が、「つれのねちミやく」の原因となっているあたりはうまく付いている。そこらじゅうは桜が綺麗だから、目黒参りに行くにもあれこれ目移りがしてしまい、つい道を外れてふらふらと花の方へ誘われる。

 『俳諧古集之弁』系に「花の一字なかりせバ前句の噂とならん。」とある。単に「どこもかも三月中時分、目黒まいりのつれのねちミやく」たっだら、前句の時期を特定しただけの内容になる。それを「前句の噂」と言うのか。「どこもかも」が「花」だから「ねちミやく」につながるのは確かだ。

 ただこれも、目黒参りの途中のことなのか、目黒参りに行こうと誘ったら他にも花の名所があるからぐずっている、という解釈も成り立つ。

 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「どこもかも花の三月中時分トハ、此頃ハどこの参所も花盛で面白いのにどうだ付合ぬか、おてかの顔ハ晩にも眺めらるる、思切て参らぬかと、種々説法しても、出嫌隠居の尻重き様也。」とある。

 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも、「目黒参りを誘ふに、いづれもぐずぐずして定らぬは、飛鳥山も上野も花のさかりなれバ」とあるが、飛鳥山は吉宗の時代なので残念。上野寛永寺や浅草浅草寺には桜も植えられていて、

 

 花の雲鐘は上野か浅草か   芭蕉

 

だった。この頃は寺社の花見が普通で、邸宅に住む身分の人は庭でも花見をしたのだろう。公園が整備されるのは享保の頃の飛鳥山が最初で、他は明治に入ってからだ。

 たくさんの桜がまとまってある所で花見をしたわけではなかったので、「どこもかも花の」というのはそこかしこにある寺社の境内や屋敷の庭の桜に目移りするという意味ではなかったかと思う。そんなのに気を取られていたのでは、いつまでたっても目黒不動に辿り着かない。

 

季題は「花の三月」。「花」は植物で木類。

 

挙句

 

   どこもかも花の三月中時分

 輪炭(わずみ)のちりをはらふ春風   利牛

 (どこもかも花の三月中時分輪炭のちりをはらふ春風)

 

 「輪炭(わずみ)」は茶事に用いる輪切りにした墨のこと、とネットの辞書を引けば出てくる。

 『俳諧古集之弁』系には「野風呂堤たばこ盆などの趣向にあるや。」とあるが、「野風呂」は露天風呂ではなく、お茶の野点のことだろう。茶の湯を沸かす風炉から来たと思われる。「たばこ盆」は火入れ、煙草入れ、灰落とし、キセルをセットにした手で下げて持ち運べるお盆のこと。ただ、煙草盆が茶席などで一般的に用いられるようになったのは江戸後期なので、ここでは単に野点の風炉と考えて方が良いだろう。

 花の下での野点は風流なもので、そこかしこで行われていたのだろう。その灰が春風に巻き上げられていくさまに目を留めるのは、まさに俳諧だ。野点あるあるとでも言うべきか。

 こうして目出度く春の野点のいかにも江戸時代のリア充な風景で歌仙一巻は終了する。花の定座が習慣化して以来、連歌も俳諧もこうして予定調和的に終わる。湯山三吟のような秋の挙句のような、挙句の多様なパターンが試せなくなったのは残念なことではある。

 花の句や恋の句を遠慮し合い、花呼び出しや恋呼び出しが行われて意外性がなくなり、何もかもお膳立てされた形式ばった方向は、芭蕉といえども逆らいようがなかったのだろう。

 芭蕉の軽みの俳諧は、そんな中世に花咲いた連歌の最後の輝きだったのかもしれない。連歌俳諧はそういう意味では、正岡子規が登場しなくても既に衰退の一途をたどっていたし、近代文学の観点から「愚なるもの」として一蹴されなくても、既に十分愚だったかもしれない。

 それでも昔の華やかなりし時代の連歌俳諧を蘇らせてみたい。今は衰退していても、未来には世界のどこかで息を吹き返し、新たな文学の可能性を開くかもしれないからだ。

 連歌俳諧の文化は副産物として、大喜利やネタものや今日の日本のお笑い芸の隆盛を生み出した。今や日本の芸人がyoutubeを通じで世界を制する時代にすらなった。あるいは世界に広まった日本の漫画アニメもまた、俳画の系譜を引いているともいえる。俳諧の精神はそこかしこ日本人の遺伝子(文化的遺伝子:ミーム)となって今の日本の平和な文化を支えている。それは誇りにしてゆきたい。

 

季題は「春風」で春