「水音や」の巻、解説

初表

 水音や小鮎のいさむ二俣瀬     湖風

   柳もすさる岸の刈株      芭蕉

 見しりたる乙切草の萌出て     沾蓬

   刀の柄にくくる状箱      利牛

 食傷の腹をほしけり朝の月     湖風

   昼寝て遊ぶ盆の友達      芭蕉

 

初裏

 小構えに家は木槿の取廻し     桃隣

   銭一文に下駄をかる道     利牛

 菎蒻の色の黒きもめづらしく    沾蓬

   祭のすゑは殿の数鑓      曾良

 見るほどの子供にことし疱瘡の跡  芭蕉

   古き簾にころ鮫をつる     湖風

 小さうて砂場をありく原の馬    利牛

   螽を焼て誰が飡ぞめ      桃隣

 月影の臼も仏の台座也       芭蕉

   盗人かへる蔦の朝しも     沾蓬

 沓掛の峠ほのかに花の雲      曾良

   けふも野あひに燕うつ網    湖風

       参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

 水音や小鮎のいさむ二俣瀬   湖風

 

 「水音は小鮎のいさむや」の倒置で、何で勇んでいるのかというと、二俣瀬で両方からやってきた鮎が縄張り争いをするからだという落ちになる。

 鮎は縄張り意識が強く、侵入者には容赦なく体当たりを食らわす。それを利用したのが鮎の友釣りだ。実際に釣られているのは友ではなく敵なのだが。

 

季語は「小鮎」で春、水辺。「二俣瀬」も水辺。

 

 

   水音や小鮎のいさむ二俣瀬

 柳もすさる岸の刈株        芭蕉

 (水音や小鮎のいさむ二俣瀬柳もすさる岸の刈株)

 

 鮎の争いに対して芭蕉の脇は柳もすさる、今の言葉だとドン引きというところか。柳は切り株だけ残してどこかへ行ってしまった。

 発句、脇ともに特に挨拶の寓意はない。芭蕉の晩年の「軽み」の頃にはこういう脇も出てくる。

 

季語は「柳」で春、植物(木類)。「岸」は水辺。

 

第三

 

   柳もすさる岸の刈株

 見しりたる乙切草の萌出て     沾蓬

 (見しりたる乙切草の萌出て柳もすさる岸の刈株)

 

 「乙切草(弟切草)」は曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』に、 

 

 「弟切草:薬師草 青くすり ‥‥略‥‥薬に用ふ。相伝ふ、花山院の朝に鷹飼(たかがひ)あり、晴頼(はるより)と名づく。其業(げふ)に精(くは)しきこと神に入(いる)。鷹、傷を被(かう)ぶることある時は、葉を按(も)みてこれに傅(つく)るときは癒(い)ゆ。人、草の名を乞ひ問ども秘して言ず。然るに家弟(おとゝ)、密にこれを露洩(もらす)。晴頼、大に怒てこれを刃傷(にんじゃう)す。これより鷹の良薬をしる。弟切草と名づく。」

 

とある。

 葉に黒い点々があるのが、その時の返り血だとも言われている。

 今日、この草の名は、一九九ニ年にスーパーファミコンのソフトとして発売されたゲーム「弟切草」のタイトルとなったことでよく知られている。これはゲームの世界にサウンドノベルという新しいジャンルを確立したといわれ、その後のアドベンチャーゲームに多くの影響を与えたという。

 「青くすり」という別名については、慈鎮和尚の歌が引用されている。 

 

 秋の野にまた枯れ残る青くすり 

     飼ふてふ鷹やさし羽なるらん 

               慈鎮和尚」

 

 発句は鮎の縄張り争いを詠んだ句で、脇はそれに柳もドン引きでどこかへいってしまったのか、切り株だけがあると応じる。

 第三はそのドン引き(「すさる」)から「弟切草」を登場させる。

 

季語は「萌出て」で春。「乙切草」は植物(草類)。

 

四句目

 

   見しりたる乙切草の萌出て

 刀の柄にくくる状箱        利牛

 (見しりたる乙切草の萌出て刀の柄にくくる状箱)

 

 井原西鶴の『好色五人女』のお夏清十郎の物語の中に、

 

 「備前よりの飛脚横手をうつて扨も忘たり刀にくくりながら状箱を宿に置て來た男磯のかたを見てそれ/\持佛堂の脇にもたし掛て置ましたと慟きける」

 

とある。飛脚が刀に状箱を括り付けることはよくあったのだろう。

 乙切草から刀に展開して、「すわっ、刃傷沙汰か」と思わせて、実は飛脚だったという落ちになる。

 

無季。

 

五句目

 

   刀の柄にくくる状箱

 食傷の腹をほしけり朝の月     湖風

 (食傷の腹をほしけり朝の月刀の柄にくくる状箱)

 

 「食傷(しょくしょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 食中毒。しょくあたり。

  ※医学天正記(1607)坤「食傷 一、今上皇帝、御食傷、瀉利吐逆」

  ② 同じ食べ物がつづいて食べ飽きること。また比喩的に、同じような物事に接することが多くて、飽きていやになること。

  ※雑俳・柳多留‐九六(1827)「邯鄲の里にすむ獏喰しょふし」

  ※青年と死と(1914)〈芥川龍之介〉「一年前までは唯一実在だの最高善だのと云ふ語に食傷(ショクシャウ)してゐたのだから」

 

とある。②の意味は多分食べすぎでも下痢や嘔吐が起こるところから、食べすぎ気味、おなかいっぱいという所で、この意味が派生したのではないかと思う。

 「腹をほしけり」は「腹を日に干す」という項目でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 飲食をひかえる。腹のすくようにする。

  ※雑俳・歌羅衣(1834‐44)二「腹を干す日は畳にも酒染みて」

  ② 中国、晉の郝隆(かくりゅう)が腹中の書を曝すと言って、腹を日に干したという「世説新語‐排調」に見える故事。腹中の書を曝す。

  ※雑俳・柳多留‐八四(1825)「書をはむ虫も腹をほす土用干」

 

とある。「食傷」を食い過ぎの意味に取るなら、①の意味でうまくつながる。

 ただ、ここでは日に干すのではなく朝の月に干している。昨日の夜食い過ぎて腹を空かしてから飛脚は走り出す。

 

季語は「朝の月」で秋、天象。

 

六句目

 

   食傷の腹をほしけり朝の月

 昼寝て遊ぶ盆の友達        芭蕉

 (食傷の腹をほしけり朝の月昼寝て遊ぶ盆の友達)

 

 お盆は親戚一同集まるのでご馳走がふるまわれたりする。それを当てにして、昼は寝て夜になると誰それの友達だといって押しかける輩もいたのだろう。明け方には満腹の腹を減らそうとする。当時の「お盆あるある」か。

 

季語は「盆」で秋。「友達」は人倫。

初裏

七句目

 

   昼寝て遊ぶ盆の友達

 小構えに家は木槿の取廻し     桃隣

 (小構えに家は木槿の取廻し昼寝て遊ぶ盆の友達)

 

 小さな家は槿の垣根で囲われている。

 昼間寝ていると、せっかくの槿も、起きた頃には萎んでいたりする。

 

季語は「木槿」で秋、植物(草類)。「家」は居所。

 

八句目

 

   小構えに家は木槿の取廻し

 銭一文に下駄をかる道       利牛

 (小構えに家は木槿の取廻し銭一文に下駄をかる道)

 

 下駄は雨の日に履くことが多かった。急な雨で下駄を借りたか。前句は道の脇の景色とする。

 

無季。「下駄」は衣裳。

 

九句目

 

   銭一文に下駄をかる道

 菎蒻の色の黒きもめづらしく    沾蓬

 (菎蒻の色の黒きもめづらしく銭一文に下駄をかる道)

 

 当時の蒟蒻は生芋から作るため、芋の皮が混じって黒かった。今の黒蒟蒻は乾燥させた芋の粉で作るため本来は白いのだが、ヒジキなどを細かく刻んで入れて黒くしているという。

 芋の粉で作る白蒟蒻が広まるのは江戸後期で、この頃は蒟蒻は黒いのが普通だったはずだが、そのなかでもおそらく安い蒟蒻は不純物が多く、より黒かったのだろう。

 銭一文で下駄を借りるような人なら、蒟蒻にもそんなにお金をかけなかったに違いない。黒い蒟蒻でも愛づべきものだった。

 

無季。

 

十句目

 

   菎蒻の色の黒きもめづらしく

 祭のすゑは殿の数鑓        曾良

 (菎蒻の色の黒きもめづらしく祭のすゑは殿の数鑓)

 

 「数鑓(かずやり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 下卒に持たせるため作られた揃いの槍。

  ※浄瑠璃・国性爺合戦(1715)二「勢子(せこ)の者がさいたる剣・狩鉾(かりぼこ)・数鑓(カズヤリ)、手に当るを幸になげ付なげ付」

 

とある。

 王子の槍祭はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「陰暦七月一三日(現在は八月一三日)、王子神社の祭礼に、同社別当の金輪寺で、太刀三振りを帯びた法師武者と、それに従って槍を持つ多くの法師が出て行なわれる拍板田楽(ささらでんがく)の称。当日、神前に長さ八寸(二四センチメートル)ばかりの竹の槍を奉納し、社内に他人の供えたものを請い受けて帰り、火災・盗賊よけのまじないとした。王子祭。」

 

とある。数鑓はこの拍板田楽のための槍か。

 田楽といえば蒟蒻。祭で売られていたのであろう。

 

季語は「祭」で夏。「殿」は人倫。

 

十一句目

 

   祭のすゑは殿の数鑓

 見るほどの子供にことし疱瘡の跡  芭蕉

 (見るほどの子供にことし疱瘡の跡祭のすゑは殿の数鑓)

 

 ネットの「防災情報新聞」の「日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)」によると、寛文二年に長崎で乳幼児を中心に天然痘が大流行したという。芭蕉が伊賀の藤堂家に仕えるようになった年だが、その頃に噂を聞くこともあったのかもしれない。

 疱瘡が流行した後には、祭に集まる子供達にも疱瘡(いも)の跡がある。

 大垣の荊口の句帖にある「芭蕉翁月一夜十五句」には、芭蕉の『奥の細道』の旅のときの句として、

 

   木の目峠いもの神也と札有

 月に名をつつミ兼てやいもの神   芭蕉

 

の句もある。

 

無季。「子供」は人倫。

 

十二句目

 

   見るほどの子供にことし疱瘡の跡

 古き簾にころ鮫をつる       湖風

 (見るほどの子供にことし疱瘡の跡古き簾にころ鮫をつる)

 

 ころ鮫(胡盧鮫)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① カスザメ科の海産魚。全長約二メートルに達する。体形は、胸びれが左右に広がり、サメとエイの中間形。体色は背部が青褐色で、黒点と白点が散在する。腹部は白い。カスザメと混同されるが、カスザメに比べて胸びれが丸みを帯び、背中線上に棘がない点で区別できる。東北地方以南、台湾までの水深一〇〇~三〇〇メートルの砂泥底に多い。肉はかまぼこの材料、皮は研磨用のやすりにされる。〔俳諧・毛吹草(1638)〕

  ② 魚「かすざめ(糟鮫)」の異名。」

 

とある。簾に吊ってあるのはやすりにするための皮だろうか。

 疱瘡の跡に鮫肌の連想による付けであろう。

 

無季。

 

十三句目

 

   古き簾にころ鮫をつる

 小さうて砂場をありく原の馬    利牛

 (小さうて砂場をありく原の馬古き簾にころ鮫をつる)

 

 海辺の放牧地であろう。宮崎の都井岬のような所が、かつてはいたるところにあったのか。都井岬も高鍋藩の放牧地だった。

 

無季。「馬」は獣類。

 

十四句目

 

   小さうて砂場をありく原の馬

 螽を焼て誰が飡ぞめ        桃隣

 (小さうて砂場をありく原の馬螽を焼て誰が飡ぞめ)

 

 「喰い初め」は赤ちゃんの百日祝いで、食べる真似をする儀式だが、普通はお目出度いものをそろえる。

 イナゴは今でも一部で佃煮にして食う文化が残っているが、ウィキペディアには、

 

 「日本では昆虫食は信州(長野県)など一部地域を除き一般的ではないが、イナゴに限ってはイネの成育中または稲刈り後の田んぼで、害虫駆除を兼ねて大量に捕獲できたことから、全国的に食用に供する風習があった。調理法としては、串刺しにして炭火で焼く、鍋で炒る、醤油や砂糖を加えて甘辛く煮付けるイナゴの佃煮とするなど、さまざまなものがある。」

 

とある。

 農村では鯛などは手に入りにくいし高価だから、イナゴで喰い初めをすることもあったのか。

 

季語は「螽」で秋、虫類。「誰」は人倫。

 

十五句目

 

   螽を焼て誰が飡ぞめ

 月影の臼も仏の台座也       芭蕉

 (月影の臼も仏の台座也螽を焼て誰が飡ぞめ)

 

 仏様はきらびやかな寺院にしかいないものではない。貧しい家の臼の上にも、姿は見えなくても存在している。

 古代ギリシャでもヘラクレイトスがパン焼窯で暖を取りながら「ここにも神はおわします」と言ったという。どこか通じるものがある。

 

季語は「月影」で秋、夜分、天象。釈教。

 

十六句目

 

   月影の臼も仏の台座也

 盗人かへる蔦の朝しも       沾蓬

 (月影の臼も仏の台座也盗人かへる蔦の朝しも)

 

 月影の臼に仏の姿を見たのか、盗人も改心して何も取らずに帰ってゆく。

 『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)の中村注に、

 

 「『袖』は「朝しも」として脇に「細道」と書き添える。『金蘭』は「細道」として「朝霜」と脇に書き添える。」

 

とあり、下七が「蔦の細道」、つまり東海道の宇津ノ谷峠越えの道だった可能性もある。ここも昔は山賊が出ることがあったので、それだと山賊の頭領が今までの罪を思い、発心する句とも取れる。

 ただ、次に「沓掛の峠」が付くことから、芭蕉が「蔦の細道」は重いとして、朝霜に改めたのではないかと思う。

 

季語は「蔦」で秋、植物(草類)。「盗人」は人倫。打越の「誰」を見落としたか。『応安新式』には「人 我 身 友 父 母 誰 関守 主(如此類人倫也)」とある。

 

十七句目

 

   盗人かへる蔦の朝しも

 沓掛の峠ほのかに花の雲      曾良

 (沓掛の峠ほのかに花の雲盗人かへる蔦の朝しも)

 

 「沓掛峠」は福島中通りから会津に行く途中にもあるが、ここでは茨城県大子町のほうの、山桜の名所になっている沓掛峠であろう。大子町文化遺産のホームページには、

 

 「沓掛峠という呼称は、平安時代の終わりごろ八幡太郎義家が奥州征伐に行く途中、この地で馬の轡(くつわ)の手綱を松の木にかけて休息したところから「沓掛峠」と呼ばれるようになったと伝えられています(地元の伝承)。」

 

とある。このあたりは『奥の細道』の旅の事前調査の範囲だったのかもしれない。

 中村注は長野県小県郡の沓掛としている。中山道の碓氷峠の近くの沓掛宿もあるが、そこでもない。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。

 

挙句

 

   沓掛の峠ほのかに花の雲

 けふも野あひに燕うつ網      湖風

 (沓掛の峠ほのかに花の雲けふも野あひに燕うつ網)

 

 燕に限定したものかは知らないが、農作業が始まれば鳥除けの網は張られていただろう。今年も豊作を祈り、目出度く半歌仙は終了する。

 

季語は「燕」で春、鳥類。