「見渡せば」の巻、解説

初表

 見渡せば詠れば見れば須磨の秋   桃青

   桂の帆ばしら十分の月     四友

 さかづきにふみをとばする鳫鳴て  似春

   山は錦に哥よむもあり     似春

 ゑぼし着て家に帰ると人やいふ   桃青

   うけたまはりし日傭大将    桃青

 備には鋤鍬魚鱗鶴のはし      似春

   前ははたけに峰高うして    似春

 

初裏

 隠居にはおもしろき處にて候    桃青

   おし絵さまざま松あり菊有   桃青

 金砂子打払ふにも千代の秋     似春

   みがかれ出るお広間の月    似春

 木賊苅山はうしろに長袴      桃青

   鷺が袂は木曾の麻衣      桃青

 身を墨に何をうらみて鳴烏     似春

   異見はよそ吹森の木がらし   似春

 揚銭を其後の桂の大はらひ     桃青

   長者のごとき君にぞありける  桃青

 供養する別れの鐘やひびくらむ   似春

   寝ものがたりを筆にまかすう  似春

 花の香を驪山宮より聞伝へ     桃青

   宗盛のこころよぎもない春   似春

 

二表

 白砂の旗にまがへて残る雪     桃青

   ふじを軒端にあやめふく頃   似春

 世の聞え定家西行ほととぎす    桃青

   貫之以後の有明の月      似春

 八百年御燈の光露更て       桃青

   狸のこつちやう如来寺の秋   似春

 狼や香の衣に散紅葉        桃青

   骸導く僧正が谷        似春

 一喧嘩岩に残りし太刀の跡     桃青

   處立のく波の瀬兵衛      似春

 今ははやすり切果て飛ほたる    桃青

   賢の似せそこなひ竹の一村   似春

 鋸を挽て帰りし短気もの      桃青

   おのれが胸の火事場空しく   似春

 

二裏

 立さわぐ車長持おしやられ     桃青

   いざまた人をうり物もなし   似春

 銭の数素戔雄よりも読初て     桃青

   正哉勝々双六にかつ      似春

 おもへらくかるたは釈迦の道なりと 桃青

   親仁の説法聞ばきくほど    似春

 茶小紋の羽折は墨に染ねども    桃青

   つよさうな絹の日野山に入   似春

 簡略を木幡の関や守るらむ     桃青

   駕籠はあれども毛見をおもへば 似春

 腰の骨いたくもあるる里の月    桃青

   又なげられし丸山の色     似春

 片碁盤都の東花ちりて       桃青

   かすみの間より膳が出ました  桃青

 

 

三表

 立春や乗掛付てまつ内に      似春

   股引脚半きそ始して      桃青

 御供にはなまぐさものの小殿原   似春

   つづく兵膾大根        桃青

 無盡宿先をかけんもおとなげなし  似春

   万事は未来前世のあきなひ   桃青

 因果は夫秤の皿をまはるらん    似春

   善男善四と説せ給ひし     桃青

 又爰に孔子字は忠二郎       似春

   時にあはねば落す前髪     桃青

 不心中世にまじはりて何かせん   似春

   君が喉笛我ほてつぱち     桃青

 しのぶ夜は取手にかかる閨の月   似春

   秋を通さぬ中の関口      桃青

 

三裏

 寂滅の貝ふき立る初嵐       似春

   石こづめなる山本の雲     桃青

 大地震つづいて龍やのぼるらむ   似春

   長十丈の鯰なりけり      桃青

 かまぼこの橋板遠く見わたして   似春

   兼升勢多より参包丁      桃青

 ぬれ縁や北に出れば手盥の     似春

   粉糠こぼれて時雨初けん    桃青

 六臓が生駒のやまの雲早み     似春

   河内は在所ととの秋風     桃青

 さられては飯匙こぼす袖の露    似春

   㒵は鍋ぶた胸こがす月     桃青

 腫気のさす姿忽花もなし      似春

   春半より西瓜は西瓜は     桃青

 

 

名残表

 新道の温泉ながすうす氷      似春

   代八車御幸めづらし      桃青

 伺公する例の与三郎大納言     似春

   たはけ狂ひのよし野軍に    桃青

 口舌には空腹斬て伏たりけり    似春

   弓手のわきより赤いふんどし  桃青

 道具持つかへや京へのぼるらん   似春

   団子則五粒づつのむ      桃青

 唐に独の茶数奇有けるが      似春

   織部焼なる秦の旧跡      桃青

 鉢一ッ万民これを賞翫す      似春

   けんどむ蕎麦や山の端の雲   桃青

 小半の雫に濁る月も月       似春

   屈平沈む瓢箪の露       桃青

 

名残裏

 鸞鳳も山雀籠にかくれけり     似春

   からくりの天下おだやかにして 似春

 臣は水およぎ人形波風も      桃青

   海士のむかしは斯のごとくに  桃青

 あほう噺芦火にあたりて夜もすがら 似春

   八盃豆腐冬ごもる空      似春

 俤のおろし大根花見して      桃青

   あかり障子にかすむ夜の月   似春

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

 見渡せば詠れば見れば須磨の秋  桃青

 

 「見渡せば」「ながむれば」は和歌の常套句で、「見れば」は普通に俗語で言う言い方で落ちになる。似春と四友に、それでは須磨の方に行ってらっしゃいという気持ちを込めて送り出す。

 ちなみに、「見渡せば」といえば、

 

 見渡せば花も紅葉もなかりけり

     浦の苫屋の秋の夕暮れ

              藤原定家(新古今集)

 

の歌がよく知られている。

 「ながむれば」は、

 

 ながむれば霞も波も果てぞなき

     須磨の関屋のあけぼのの空

              後鳥羽院(後鳥羽院御集)

 

の歌がある。「見渡す」は景色に、「ながむる」は空に用いる場合が多い。

 

季語は「秋」で秋。「須磨」は名所、水辺。

 

 

   見渡せば詠れば見れば須磨の秋

 桂の帆ばしら十分の月      四友

 (見渡せば詠れば見れば須磨の秋桂の帆ばしら十分の月)

 

 桂は軽くて柔らかく木目が美しいのだ内装や家具に用いられる。桂が帆柱に使われたということではなく、月との縁で「桂の帆」と言っただけだであろう。

 月には桂の木があると言われている。『伊勢物語』第七十三段に、

 

 「むかし、そこにはありと聞けど、消息をだに言ふべくもあらぬ女のあたりを思ひける。

 

 目には見て手には取られぬ月のうちの

     桂のごとき君にぞありける」

 

とある。

 また、須磨の月は『源氏物語』須磨巻の名場面ともされていて、須磨にはたくさんの帆柱が並び、月見をするのに十分でしょう、それを見に行ってきます、と芭蕉の餞別句への返事にする。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「帆ばしら」は水辺。

 

第三

 

   桂の帆ばしら十分の月

 さかづきにふみをとばする鳫鳴て 似春

 (さかづきにふみをとばする鳫鳴て桂の帆ばしら十分の月)

 

 これは「雁の使い」と呼ばれるもので、コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《「漢書」蘇武伝の、匈奴(きょうど)に捕らえられた前漢の蘇武が、手紙を雁の足に結びつけて放ったという故事から》便り。手紙。かりのたまずさ。かりのたより。かりのふみ。雁書。雁信。雁使(がんし)。

  「春草を馬咋山(くひやま)ゆ越え来なる―は宿り過ぐなり」〈万・一七〇八〉」

 

とある。

 前句の帆柱の月をどこか遠くの港で故郷を思う場面として、月見の盃と重ねながら文を飛ばすという伝説のある雁の声を聞いて故郷を思う。

 月に雁は、

 

 さ夜なかと夜はふけぬらし雁金の

     きこゆるそらに月わたる見ゆ

              よみ人しらず(古今集)

 大江山かたぶく月の影冴えて

     とはたのおもに落つる雁金

              慈円(新古今集)

 

など、多くの歌に詠まれている。

 

季語は「鳫」で秋、鳥類。

 

四句目

 

   さかづきにふみをとばする鳫鳴て

 山は錦に哥よむもあり      似春

 (さかづきにふみをとばする鳫鳴て山は錦に哥よむもあり)

 

 月見から紅葉狩りに転じる。

 山の錦というと、

 

 このたびはぬさもとりあへずたむけ山

     紅葉の錦神のまにまに

              菅原道真(古今集)

 

の歌が百人一首でもよく知られている。

 

季語は「山は錦」で秋、山類。

 

五句目

 

   山は錦に哥よむもあり

 ゑぼし着て家に帰ると人やいふ  桃青

 (ゑぼし着て家に帰ると人やいふ山は錦に哥よむもあり)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 もみぢ葉を分けつつ行けば錦着て

     家に帰ると人や見るらん

              よみ人しらず(後撰集)

 

とある。

 錦着てと詠むべきところを「ゑぼし着て」とボケる。

 王朝時代から室町時代までは烏帽子を被るのは普通だったが、戦国時代くらいから武将は烏帽子を付けずに丁髷をさらすようになり、江戸時代には完全に廃れてしまった。烏帽子を被るというのは平安貴族を気取って、というニュアンスなのだろう。

 

無季。「ゑぼし」は衣裳。「家」は居所。「人」は人倫。

 

六句目

 

   ゑぼし着て家に帰ると人やいふ

 うけたまはりし日傭大将     桃青

 (ゑぼし着て家に帰ると人やいふうけたまはりし日傭大将)

 

 「日傭」は「ひよう」と読む。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① =ひようとり(日傭取)

  ※漢書列伝竺桃抄(1458‐60)陳勝項籍第一「傭耕とは人にやとはれて賃を取てひやうの様につかわれて耕するぞ」

  ※政談(1727頃)二「此七八十年以前迄は日傭を雇て普請する事はなき也」

  ② 日雇いの賃金。日用銭。日用賃。

  ※仮名草子・可笑記(1642)五「傅説(ふえつ)といふ大賢人は、日用をとり堤をつく、人足の中よりたづね出されて」

  ③ 江戸時代、日用座の支配下にあって、日用札の交付を受けて日雇稼ぎをする者。鳶口・車力・米舂・軽籠持などの類。

  ④ 林業地帯において小屋掛け・山出し・管流(くだなが)しなどの運材労働に従事する人夫の総称。」

 

とある。また、エキサイト辞書の「日用座」のところに、

 

 「日傭座とも書く。江戸幕府が江戸市中で日傭(日雇,日用)人を取り締まるために設けた機関。1665年(寛文5)に幕府が令したものであるが,それ以前の1653年(承応2)に,幕府は日傭人に頭から日傭札を受けることを命じて日傭人の取締りをはかっており,それを一段と強化したものである。最初は箔屋町の安井長左衛門,辻勘四郎の2人に日用座を命じ,鳶口,手子(てこ)の者,米舂(こめつき),背負(せおい),軽子(軽籠)などの日傭人がその対象となった(その後,駕籠かきや公儀の日傭者,通日雇(とおしひやとい)などへと拡大した)。日傭人は日用座へ1ヵ月24文の札役銭(札銭)を支払って札(日用札)を受け取り,傭価の指示に従う定めであった。」

 

とある。日傭大将はこうした日傭の側の代表か。桃青も小石川の浚渫工事でこうした人たちを取りまとめていたのだろう。

 烏帽子を被った昔の職人のような風情とプライドがあったということか。

 

無季。「日傭大将」は人倫。

 

七句目

 

   うけたまはりし日傭大将

 備には鋤鍬魚鱗鶴のはし     似春

 (備には鋤鍬魚鱗鶴のはしうけたまはりし日傭大将)

 

 日傭大将が必要な用具を受け取る。ただし「魚鱗」は関係ない。前句の「大将」から軍のときの陣形の魚鱗の陣、鶴翼の陣の縁で「つるはし」を導き出す。

 魚鱗の陣は一点突破に適した逆三角の陣形で、鶴翼の陣は両翼をV字型に開いた相手を包囲する陣形。

 

無季。

 

八句目

 

   備には鋤鍬魚鱗鶴のはし

 前ははたけに峰高うして     似春

 (備には鋤鍬魚鱗鶴のはし前ははたけに峰高うして)

 

 鋤鍬から山の畠に転じる。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『箙(えびら)』の、

 

 「魚鱗鶴翼もかくばかり、地後の山松に群れゐるは、残りの雪の白妙に」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.15877-15880). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 

無季。「峰」は山類。

初裏

九句目

 

   前ははたけに峰高うして

 隠居にはおもしろき處にて候   桃青

 (隠居にはおもしろき處にて候前ははたけに峰高うして)

 

 前句の景色は隠居するにはいい。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『頼政』の、

 

 「げにげに面白き所にて候。又これなる芝を見れば、扇の形に取り残されて候は謂れの候か。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.17591-17593). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 

無季。

 

十句目

 

   隠居にはおもしろき處にて候

 おし絵さまざま松あり菊有    桃青

 (隠居にはおもしろき處にて候おし絵さまざま松あり菊有)

 

 「おし絵」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 屏風などに書画を貼りつけたもの。また、いろいろな形を厚紙で作り、中に綿をつけて高低をつけ、美しい色の布でつつみ、板、厚紙などに張りつけた絵。羽子板、壁掛、小箱のふた等に使う。

  ※玉塵抄(1563)一八「もと屏風のおし画にあるをみたぞ」

  ② 型紙にいろいろな絵模様を切り抜き、刷毛で摺(す)り込んで描いた絵。押付絵、押型絵の一種で古くから行なわれた。形絵。摺込絵。」

 

とある。今でも羽子板飾りに名残をとどめている。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は陶淵明『帰去来辞』の「三逕就荒 松菊猶存」を引いている。

 『帰去来辞』はやや長いので、最初の方だけを掲げておく。

 

   歸去來辭  陶潜

 歸去來兮 田園將蕪胡不歸

 既自以心爲形役 奚惆悵而獨悲

 悟已往之不諫 知來者之可追

 實迷途其未遠 覺今是而昨非

 舟遙遙以輕颺 風飄飄而吹衣

 問征夫以前路 恨晨光之熹微

 

 乃瞻衡宇 載欣載奔

 僮僕歡迎 稚子候門

 三逕就荒 松菊猶存

 攜幼入室 有酒盈樽

 

 さあ帰ろう、ヘイ!

 里は荒れている、帰るっきゃねえ。

 すっかり仕事の奴隷になってたが、

 一人悶々と悲しむこたあねえ。

 過去を悔いてもしょうがねえってわかった。

 明日のことを追っ掛ける方がええ。

 道に迷ってただけだまだ間に合う。

 わかったんだ昨日の非は今の是。

 舟が勢いに乗ってぐんぐん行けば

 風がひょうひょうと衣を靡かせて、

 遠くからの旅人に昔の道を問うが、

 あいにく夜明けの光りもまだ弱え。

 

 崩れかけた旧家を見上げ、

 心はうきうきわくわくさ。

 童僕は歓迎してくれて、

 門には子供たちも立っていた。

 庭のお約束の三つの道の、

 松と菊ならまだ残ってた。

 幼な子に引かれて中に入れば、

 樽いっぱいの酒だ酒だ。

 

 三径は庭園に三つの道を作り、それぞれに松と菊と竹を植える決りで、漢の隠士の蒋詡が作ったと言われている。竹はどうなったかわからないが、松と菊は無事だった。

 『源氏物語』蓬生巻では、大弐の奥方が末摘花の所にやってきた時に、

 

 「左右の戸もみなよろぼひ倒れにければ、男ども助けてとかく開け騒ぐ。

 いづれか、この寂しき宿にもかならず分けたる跡あなる三つの径と、たどる。」

 (左右の戸もみんな崩れるように倒れてきて、男たちは取り合えず抑えては大騒ぎして、何とか開けました。

 こういう庭にあるという三径とやらは、この荒れ果てた家にも必ずあるはずだとばかり、よくわからない道をたどって行きます。)

 

とある。

 句の方は、江戸の町中の隠居所は狭くて、立派な庭も作れないが、押型絵で松と菊を飾って気分は陶淵明。

 

季語は「菊」で秋、植物、草類。「松」は植物、木類。

 

十一句目

 

   おし絵さまざま松あり菊有

 金砂子打払ふにも千代の秋    似春

 (金砂子打払ふにも千代の秋おし絵さまざま松あり菊有)

 

 「金砂子(きんすなご)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 金箔(きんぱく)を細かい粉にしたもの。蒔絵(まきえ)、襖(ふすま)、絵画などにおしたり、散らして用いる。金粉。〔日葡辞書(1603‐04)〕

  ※滑稽本・古朽木(1780)一「極彩色の金砂子(キンスナゴ)の額などへ書散し」

 

とある。薄い膠(にかわ)を塗った上に粉を振り掛けて固定するから、ここで言う「打払ふ」はその時に余った粉を打ち払うことをいうのだろう。

 前句から押絵を作る職人の秋とする。

 金砂子だけでなく銀粉を使う銀砂子もある。文部省唱歌の「七夕様」の歌詞にも「お星さまきらきら きんぎん砂子」とあるが、意味わからずに歌っている人も多いのではないかと思う。

 菊に千代の秋は、

 

   身のなりいてぬことなとなけき侍りけるころ、

   紀友則かもとよりいかにそととひおこせて侍りけれは、

   返事に菊花ををりてつかはしける

 枝も葉もうつろふ秋の花みれば

     はては影なくなりぬべらなり

              藤原忠行

   返し

 しづくもてよはひのぶてふ花なれば

     ちよの秋にぞ影はしげらん

              紀友則(後撰集)

 

の用例がある。

 

季語は「秋」で秋。

 

十二句目

 

   金砂子打払ふにも千代の秋

 みがかれ出るお広間の月     似春

 (金砂子打払ふにも千代の秋みがかれ出るお広間の月)

 

 広間の絵に描かれた月は金砂子で磨かれて光る。

 秋に月は付け合い。月に秋を詠んだ歌は、

 

 このまよりもりくる月の影見れば

     心つくしの秋はきにけり

              よみ人しらず(古今集)

 月見れはちぢに物こそかなしけれ

     わが身ひとつの秋にはあらねど

              大江千里(古今集)

 

などたくさんある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

十三句目

 

   みがかれ出るお広間の月

 木賊苅山はうしろに長袴     桃青

 (木賊苅山はうしろに長袴みがかれ出るお広間の月)

 

 前句の広間の月が後ろの山の木賊で磨かれるとする。

 

 木賊(とくさ)はウィキペディアに、

 

 「表皮細胞の細胞壁にプラントオパールと呼ばれるケイ酸が蓄積して硬化し、砥石に似て茎でものを研ぐことができることから、砥草と呼ばれる。」

 

 「古来、茎を煮て乾燥したものを研磨の用途に用いた。「とくさ」(砥草)の名はこれに由来している。紙やすりが一般的な現代でも高級つげぐしの歯や漆器の木地加工、木製品の仕上げ工程などに使用されている。」

 

とある。

 和歌では、

 

 木賊刈る園原山の木の間より

     磨かれ出づる秋の夜の月

              源仲正(夫木抄)

 

の歌もあり、月を磨くものとして歌われていた。延宝六年の桃青・杉風両吟「色付や」の巻の四十三句目にも、

 

   木賊にかかる真砂地の露

 その原やここに築せて庭の月   杉風

 

の句がある。

 

季語は「木賊苅」で秋、植物、草類。「山」は山類。「長袴」は衣裳。

 

十四句目

 

   木賊苅山はうしろに長袴

 鷺が袂は木曾の麻衣       桃青

 (木賊苅山はうしろに長袴鷺が袂は木曾の麻衣)

 

 謡曲『木賊』は木曾の園原山を舞台とする。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「鷺」は狂言の流派である鷺流で、狂言では麻の長袴を着用することが多い。

 延宝四年春の「此梅に」十三句目に、

 

   とも呼鳥の笑ひごゑなる

 青鷺の又白さぎの権之丞       信章

 (青鷺の又白さぎの権之丞とも呼鳥の笑ひごゑなる)

 

の句もある。コトバンクの「世界大百科事典内の鷺権之丞の言及」には、

 

 「狂言の流派の一つ。江戸時代は観世座付で,幕府などに召し抱えられたが,明治時代に廃絶した。室町初期の路阿弥(ろあみ)を流祖とし,その芸系が兎太夫や日吉満五郎,その甥の宇治源右衛門らを経て,9世鷺三之丞まで伝えられてきたと伝承するが確かでなく,観世座付の狂言方として知られた者たちを家系に加えたにすぎないらしい。日吉満五郎は大蔵流・和泉流でも芸を伝授したとされており,両流と同じ芸系にあることになる。三之丞の甥鷺仁右衛門宗玄(にえもんそうげん)が1614年(慶長19)に徳川家康の命で観世座付となり,流儀として確立した。」

 

とある。その後も鷺権之丞の名は代々襲名されてゆくことになり、鷺権之丞は何人もいる。

 

無季。「鷺」は鳥類。「木曾」は名所。「麻衣」は衣裳。

 

十五句目

 

   鷺が袂は木曾の麻衣

 身を墨に何をうらみて鳴烏    似春

 (身を墨に何をうらみて鳴烏鷺が袂は木曾の麻衣)

 

 これは相対付けで、鷺の麻衣に烏の墨染の衣を並べる。墨染の衣は僧の衣装で、烏は出家して何を恨んでいるのか、となる。

 カラスは、

 

 山がらすかしらも白くなりにけり

     我が帰るべき時やきぬらむ

              増基法師(後拾遺集)

 つらしとてさてはよもわれ山がらす

     かしらはしろくなる世なりとも

              安性法師(千載集)

 起きてけさまたなにごとをいとなまむ

     この夜明けぬと烏鳴くなり

              よみ人しらず(玉葉集)

 

などの歌がある。

 

無季。「烏。は鳥類。

 

十六句目

 

   身を墨に何をうらみて鳴烏

 異見はよそ吹森の木がらし    似春

 (身を墨に何をうらみて鳴烏異見はよそ吹森の木がらし)

 

 異見は意見と同じで、ここでは忠告のことか。木枯しの言うことも聞かずに鳴き続ける。

 冬の烏は、

 

 み雪ふる枯木のすゑのさむけきに

     つばさをたれて烏鳴くなり

              院一条(風雅集)

 

の歌がある。延宝八年の、

 

 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮  芭蕉

 

の句を思わせる。

 烏に森を詠む例も同じ『風雅集』に、

 

 朝がらす声する森の梢しも

     月は夜ふかき有明のかげ

              前大納言実明女(風雅集)

 

の歌がある。

 

季語は「木がらし」で冬。

 

十七句目

 

   異見はよそ吹森の木がらし

 揚銭を其後の桂の大はらひ    桃青

 (揚銭を其後の桂の大はらひ異見はよそ吹森の木がらし)

 

 揚銭(あげせん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 中世、利子をとって金銭を貸し出すこと。また、その金銭。こせん。

  ※吾妻鏡‐延応元年(1239)四月二六日「挙銭を取て、まづ寺家に令二進納一後」

  ② 営業権を他人に貸して、受けとる貸料。うわまえをはねて取る金。

  ※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)前「目鼻がなけりゃアわさびおろしといふ面(つら)だから、かながしらから揚銭(アゲセン)を取さうだア」

  ③ 小揚げの賃金。労賃。

  ※浄瑠璃・心中二枚絵草紙(1706頃)中「九間のおろせがあげせんの、残りもけふはすっきりと取って九両二歩のかね」

  ④ =あげだい(揚代)

  ※仮名草子・仁勢物語(1639‐40頃)下「恋しやと見にこそ来たれ上銭の金は持たずもなりにけるかな」

 

とある。この場合は④の揚代で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 遊女、芸妓などをよんで遊興するときの代金。揚げ銭。揚げ代金。あげしろ。

  ※浄瑠璃・夏祭浪花鑑(1745)七「六年以来(このかた)俺が娘を女房にして、慰(なぐさみ)者にしてゐる。サア揚代(アゲだい)囉(もら)ふ」

 

とある。人の忠告も聞かず遊女、芸妓などをよん遊び、あとで大金を支払うことになる。

 「桂の大はらひ」は桂の御祓いで、『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある通り謡曲『野宮(ののみや)』の、

 

 「その後桂の御祓」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.25175-25177). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

で野上豊一郎さんの解説に、

 

 「桂川で御息所は禊祓の式を御挙げになった。すべての穢(けがれ)を洗い落して斎宮に立たせられるのである。〔補注:正しくは、斎宮に立つのは六条御息所ではなく彼女の娘である。〕(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.25316-25317). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 

無季。恋。

 

十八句目

 

   揚銭を其後の桂の大はらひ

 長者のごとき君にぞありける   桃青

 (揚銭を其後の桂の大はらひ長者のごとき君にぞありける)

 

 脇の所でも引いたが、『伊勢物語』第七十三段の、

 

 目には見て手には取られぬ月のうちの

     桂のごとき君にぞありける

 

の歌の言葉の続き方を借りて、前句の桂の縁で、金払いがいいので長者のごとき、とする。

 

無季。恋。「長者」「君」は人倫。

 

十九句目

 

   長者のごとき君にぞありける

 供養する別れの鐘やひびくらむ  似春

 (供養する別れの鐘やひびくらむ長者のごとき君にぞありける)

 

 供養するは鐘供養のことでコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 新しく鐘を鋳造した時に行なうつき初めの式。道成寺の縁起に始まり、近世以来、多くは女子がつき初めをするようになった。鐘の供養。《季・春》

  ※雑俳・表若葉(1732)「鞴(たたら)踏む法のちがひの鐘供養」

 

とある。

 寺に寄贈したばかりの鐘の音で後朝の別れなんて、ほんに長者やなあ、というところか。

 

無季。恋。釈教。

 

二十句目

 

   供養する別れの鐘やひびくらむ

 寝ものがたりを筆にまかすう   似春

 (供養する別れの鐘やひびくらむ寝ものがたりを筆にまかすう)

 

 前句を愛しい人を亡くしての供養の鐘として、生前の寝物語を書き残しておく。

 

無季。恋。

 

二十一句目

 

   寝ものがたりを筆にまかすう

 花の香を驪山宮より聞伝へ    桃青

 (花の香を驪山宮より聞伝へ寝ものがたりを筆にまかすう)

 

 「驪山宮」は楊貴妃のいたところで、『長恨歌』には「驪宮高処入青雲 仙楽風飄処処聞」とある。

 前句を玄宗皇帝と楊貴妃の寝物語を書き記すとする。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『班女』の、

 

 「比翼連理の語らひその驪山宮のささめ言も、誰か聞き伝へて今の世まで漏らすらん。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.36463-36466). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 

季語は「花の香」で春、植物、木類。

 

二十二句目

 

   花の香を驪山宮より聞伝へ

 宗盛のこころよぎもない春    似春

 (花の香を驪山宮より聞伝へ宗盛のこころよぎもない春)

 

 「よぎもない」は「余儀もない」で、「余儀なし」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 他になすべき方法がない。やむをえない。「辞任を―・くされる」「―・い事情で参加を見合わせる」

  2 異議がない。

  「申し上ぐるところの辞儀(じんぎ)、―・し」〈曽我・二〉

  3 隔て心がない。

  「互ひに―・く見えければ」〈浄・二つ腹帯〉」

 

とある。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注も言うように、宗盛は謡曲『熊野』の熊野をむりやり花見に連れ出す平宗盛のことで、熊野の老母の手紙に、

 

 「甘泉殿の春の夜の夢、心を砕く端となり、驪山宮の秋の夜の月終りなきにしもあらず。末世一代教主の如来 も、生死の掟をば遁れ給はず。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.31238-31244). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

と今にも死ぬようなこともあり、それにもかかわらず熊野を京の花見に連れ出すが、最後は帰郷を認めざるを得なくなる。

 親の死よりも仕事を優先させろという鬼上司は今の時代にもいるもので、こうした悩みに最後は神仏が助けてくれるという話だ。

 

季語は「春」で春。

二表

二十三句目

 

   宗盛のこころよぎもない春

 白砂の旗にまがへて残る雪    桃青

 (白砂の旗にまがへて残る雪宗盛のこころよぎもない春)

 

 残る雪にまぎれて源氏の白旗が責めてきて敗走を余儀なくされた春というのは、おそらく一之谷の戦いであろう。延宝六年の「色付や」の巻の八十三句目でも、

 

   義経是にて雪の暁

 玉子酒即事に須磨を打つぶし   桃青

 

とこの日は雪になっている。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「白砂」は「白妙」の間違いとある。

 

季語は「残る雪」で春、降物。

 

二十四句目

 

   白砂の旗にまがへて残る雪

 ふじを軒端にあやめふく頃    似春

 (白砂の旗にまがへて残る雪ふじを軒端にあやめふく頃)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は前句の「白砂の旗」を五月幟のこととし、

 

 我が宿は松原遠く海近く

     富士の高嶺を軒端にぞ見る

              太田道灌

 

によって、富士を軒端に見るとした、とする。

 

季語は「あやめ」で夏、植物、草類。「ふじ」は名所、山類。

 

二十五句目

 

   ふじを軒端にあやめふく頃

 世の聞え定家西行ほととぎす   桃青

 (世の聞え定家西行ほととぎすふじを軒端にあやめふく頃)

 

 前句のあやめの季節にホトトギスは定家や西行のように名高い。

 「あやめふく」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「端午の節句の行事として、五月四日の夜、軒にショウブをさす。邪気を払い火災を防ぐという。古く宮中で行なわれたが、後、武家、民間にも伝わった。《季・夏》

  ※山家集(12C後)上「空はれて沼の水嵩(みかさ)を落さずはあやめもふかぬ五月(さつき)なるべし」

 

とある。

 ホトトギスにアヤメは、

 

 郭公なくやさ月のあやめぐさ

     あやめもしらぬこひもするかな

              よみ人しらず(古今集)

 

など、歌に詠まれている。

 

 軒近く今日しも来鳴く郭公

     ねをやあやめに添へて葺くらん

              内大臣(千載集)

 

のように、アヤメを葺く歌もある。

 西行法師にも、

 

 あやめ葺く軒に匂へる橘に

     きてこゑくせよ山時鳥

              西行法師(夫木抄)

 

の歌があるが、定家の歌はわからなかった。

 

季語は「ほととぎす」で夏、鳥類。

 

二十六句目

 

   世の聞え定家西行ほととぎす

 貫之以後の有明の月       似春

 (世の聞え定家西行ほととぎす貫之以後の有明の月)

 

 ホトトギスに有明の月というと百人一首でも有名な、

 

 ほととぎす鳴きつる方を眺むれば

     ただ有明の月ぞ残れる

              徳大寺実定(千載集)

 

の歌がある。

 ここでは貫之の古今集以降、有明の月もも有名になったということか。

 ちなみ古今集には、

 

 あさぼらけ有明けの月と見るまでに

     吉野の里に降れる白雪

              坂上是則

 有明けのつれなく見えし別れより

     暁ばかり憂きものはなし

              壬生忠寄

 いま來むといひしばかりに長月の

     有明けの月を待ちいでつるかな

              素性法師

 

といった百人一首でも知られている有明の歌がある。

 

季語は「有明の月」で秋、夜分、天象。

 

二十七句目

 

   貫之以後の有明の月

 八百年御燈の光露更て      桃青

 (八百年御燈の光露更て貫之以後の有明の月)

 

 有明行燈の縁で「御燈(みとう)」へと展開する。

 紀貫之はウィキペディアに、

 

 「生誕 貞観8年(866年)または貞観14年(872年)頃?

  死没 天慶8年5月18日(945年6月30日)?」

 

とある。この巻の詠まれたのが延宝七年(一六七九年)だから、紀貫之の時代から大体八百年なのは間違いない。西暦のような通時的な年号がなく、元号と十干十二支だけの時代でも、歴史的な年代はかなり正確に把握していたようだ。

 貫之以来八百年、有明の御燈の光は変わらない。

 有明に露は、

 

 おほかたに秋の寝覚めの露けくは

     また誰が袖に有明の月

              二条院讃岐(新古今集)

 霜凍る袖にも影は残りけり

     露よりなれし有明の月

              源通光(新古今集)

 

などの歌がある。

 

季語は「露」で秋、降物。「御燈」は夜分。

 

二十八句目

 

   八百年御燈の光露更て

 狸のこつちやう如来寺の秋    似春

 (八百年御燈の光露更て狸のこつちやう如来寺の秋)

 

 八百八狸の縁だと思うが、ただウィキペディアによると、

 

 「『松山騒動八百八狸物語』とは、享保の大飢饉に際して起こったお家騒動が1805年(文化2年)に実録物語『伊予名草』と題して書き下ろされ、さらに江戸末期、講釈師の田辺南龍により狸や妖怪の要素を加えた怪談話に仕立て上げられ、これが講談として広まったものである。」

 

とあるから、この時代にはまだ『松山騒動八百八狸物語』はなかった。原型となる物語が古くからあったのかもしれないが、よくわからない。

 狸の骨頂は狸も甚だしい、人を化かし続けてきたということで、特にどこの寺ということでもないのだろう。

 秋に露は多くの歌に詠まれている。

 

 秋の夜は露こそことにさむからし

     草むらことに虫のわぶれば

              よみ人しらず(古今集)

 秋の野におく白露は玉なれや

     つらぬきかくる蜘蛛の糸すぢ

              文屋朝康(古今集)

 

など。

 

季語は「秋」で秋。釈教。「狸」は獣類。

 

二十九句目

 

   狸のこつちやう如来寺の秋

 狼や香の衣に散紅葉       桃青

 (狼や香の衣に散紅葉狸のこつちやう如来寺の秋)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「諺『狼に衣』による句作り」とある。「狼に衣」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「凶悪無慈悲な人間がうわべだけはやさしく善人らしくよそおうことにいう。鬼に衣。

  ※俳諧・毛吹草(1638)二「おほかみにころもきせたるごとし」

 

とある。

 善人を装った狼の香りの衣に薄紅葉が散るように、そんな狸の骨頂のような如来寺の秋、となる。一体如来寺って何をやったんだ。

 秋に散る紅葉は、

 

 秋風に散るもみぢ葉は女郎花

     宿におりしく錦なりけり

              よみ人しらず(後撰集)

 

の歌がある。

 

季語は「薄紅葉」で秋、植物、木類。「狼」は獣類。「香の衣」は衣裳。

 

三十句目

 

   狼や香の衣に散紅葉

 骸導く僧正が谷         似春

 (狼や香の衣に散紅葉骸導く僧正が谷)

 

 僧正谷はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「京都市左京区の北西部、鞍馬山奥の院不動堂と貴船神社との間にある谷。牛若丸が武芸を修業したと伝えられる所。

  ※平家(13C前)一二「僧正が谷といふ所にかくれゐたりけるとかや」

 

とある。貴船神社では狼が祀られている。死者を導くこともあったのか。

 

無季。「僧正が谷」は名所、山類。

 

三十一句目

 

   骸導く僧正が谷

 一喧嘩岩に残りし太刀の跡    桃青

 (一喧嘩岩に残りし太刀の跡骸導く僧正が谷)

 

 僧正が谷は牛若丸が大天狗から太刀を学んだことでも知られている。その大天狗と喧嘩したか、太刀の跡が残っている。

 鞍馬寺には太刀跡の岩があり、近代だが、

 

 太刀跡の岩義経が裂きたるや

     杜鵑の声が紋を残すや

              与謝野晶子

 

の歌がある。

 『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』や『鬼滅の刃』でも岩を刀で斬るという修業があるが、牛若丸に由来するのか。

 

無季。

 

三十二句目

 

   一喧嘩岩に残りし太刀の跡

 處立のく波の瀬兵衛       似春

 (一喧嘩岩に残りし太刀の跡處立のく波の瀬兵衛)

 

 岩に太刀の跡を残したのは、波の瀬兵衛という刀鍛冶だった。

 波平(なみのひら、なみへい)と呼ばれる波平行安(なみのひらゆきやす)という刀鍛冶が平安時代にいて、ウィキペディアに、

 

 「波平行安(なみのひらゆきやす、生没年未詳)は、平安時代後期、薩摩国波平(現、鹿児島市東谷山付近)の刀工。

 大和国から移住してきた正国の子と伝えられるが正国の作刀は現存せず、行安が波平派の事実上の祖とされる。

 その作風は小鋒で腰反りの深い太刀姿で、白気ごころの地鉄に細直刃を焼く古風なものである。以降も明治に至るまで行安の名は波平派の嫡流によって襲名され続ける。」

 

とある。

 

無季。「波の瀬」は水辺。

 

三十三句目

 

   處立のく波の瀬兵衛

 今ははやすり切果て飛ほたる   桃青

 (今ははやすり切果て飛ほたる處立のく波の瀬兵衛)

 

 「すり切」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 すって切る。こすって切る。「鉄の棒をやすりで―・る」

  2 金銭を使い果たす。一文無しになる。

  「身上は―・りはつる故に、向脛をけづりて薪にする心地ぞしける」〈仮・浮世物語・一〉」

 

とある。2の意味は博奕で損することを「する」というのと同じであろう。すっからかんの火の車の蛍になって、波の瀬を飛び立つ。

 浪に蛍は、

 

 暮れゆけば浦の苫屋に影見えて

     波に蛍も藻塩焼きけり

              藤原家隆(壬二集)

 貴船川岩打つ波に飛ぶ蛍

     誰があくがるる魂にかあるらむ

              後鳥羽院(後鳥羽院御集)

 

などの歌がある。

 

季語は「ほたる」で夏、虫類。

 

三十四句目

 

   今ははやすり切果て飛ほたる

 賢の似せそこなひ竹の一村    似春

 (今ははやすり切果て飛ほたる賢の似せそこなひ竹の一村)

 

 竹林の七賢になりそこなってただの乞食になり下がった竹林の住人がいた。まあ、本物の七賢は国の要職にある人たちだから、金には困らなかったのだろう。

 蛍に竹は、

 

 さよふけて竹の園ふに灯す火は

     枝をかぞふる蛍なりけり

              俊恵法師(林葉集)

 

の歌がある。

 

無季。「竹」は植物、木でも草でもない。

 

三十五句目

 

   賢の似せそこなひ竹の一村

 鋸を挽て帰りし短気もの     桃青

 (鋸を挽て帰りし短気もの賢の似せそこなひ竹の一村)

 

 ひょっとして光ってる竹があったが鋸でかぐや姫もろともに切ってしまったか。

 

無季。

 

三十六句目

 

   鋸を挽て帰りし短気もの

 おのれが胸の火事場空しく    似春

 (鋸を挽て帰りし短気ものおのれが胸の火事場空しく)

 

 鋸は鳶口(とびぐち)・刺又(さすまた)とともに火消道具の一つで、消火能力の乏しかった江戸の火消しは周辺の家を壊して類焼を防ぐことで火事を抑えた。

 鋸で火事は抑えても、己の胸の怒りの炎を抑えることはできない。

 

無季。

二裏

三十七句目

 

   おのれが胸の火事場空しく

 立さわぐ車長持おしやられ    桃青

 (立さわぐ車長持おしやられおのれが胸の火事場空しく)

 

 前句を本物の火事場として、大八車や長持ちを押しては騒ぐ。

 

無季。

 

三十八句目

 

   立さわぐ車長持おしやられ

 いざまた人をうり物もなし    似春

 (立さわぐ車長持おしやられいざまた人をうり物もなし)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 

 なき名のみ辰の市とは騒げども

     いさまた人を得るよしもなし

              よみ人しらず(拾遺集)

 

を引いている。

 差し押さえにでもあったのか、車も長持ちも運び去られて商売ができなくなった。

 

無季。「人」は人倫。

 

三十九句目

 

   いざまた人をうり物もなし

 銭の数素戔雄よりも読初て    桃青

 (銭の数素戔雄よりも読初ていざまた人をうり物もなし)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の補注に、

 

 「古今集序『人の世となりて、素佐の雄の尊よりぞ三十もじあまり一もじは詠みける』」

 

とある。伊弉諾尊の黄泉の国から帰る所で伊弉冉尊が「ここをもちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり」と言ったところが人の誕生になり、それ以降は人の世となる。最初の三十一文字の和歌は出雲の国に須賀の宮を作った時の素戔嗚尊の、

 

 八雲立つ出雲八重垣妻籠みに

     八重垣作るその八重垣を

 

の歌になる。

 銭も素戔嗚より数え始めたが、まだ売り物はなかった。

 

無季。神祇。

 

四十句目

 

   銭の数素戔雄よりも読初て

 正哉勝々双六にかつ       似春

 (銭の数素戔雄よりも読初て正哉勝々双六にかつ)

 

 正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)は『日本書紀』に記されたアメノオシホミミの名前で、ウィキペディアに、

 

 「天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた五皇子の長男。弟に天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命がいる。

 高皇産霊神の娘である栲幡千千姫命との間に瓊瓊杵尊をもうけた。

 神武天皇は玄孫にあたる。」

 

とある。

 素戔嗚が数を数え始めたことで、その息子の天忍穗耳は双六に勝った。

 

無季。神祇。

 

四十一句目

 

   正哉勝々双六にかつ

 おもへらくかるたは釈迦の道なりと 桃青

 (おもへらくかるたは釈迦の道なりと正哉勝々双六にかつ)

 

 双六が神道の垂迹の道なら、うんすんかるたは釈迦本地の道でである。

 延宝六年冬の「わすれ草」の巻の九句目に、

 

   百にぎらせてたはぶれの秋

 仇し世をかるたの釈迦の説れしは 信徳

 

の句がある。

 「かるたの釈迦」はうんすんかるたのソータ(十の札:トランプのジャックに相当する)で、コトバンクの「ソータ」の「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (sota) ウンスンカルタの札の一つ。本来はトランプのジャックに当たる札。天正年間(一五七三‐九二)日本に渡来したとき女性の姿に変わり一〇番目の札になった。のち、僧侶とまちがえられ、頭を剃った坊主姿の札となった。坊主とか釈迦とか呼ばれ一〇番目の札であるところから釈迦十(しゃかじゅう)ともいう。

 かるたネタは延宝六年秋の「のまれけり」の巻の二十九句目にも、

 

   古川のべにぶたを見ましや

 先爰にパウの二けんの杉高し   似春

 

の句がある。

 

無季。釈教。

 

四十二句目

 

   おもへらくかるたは釈迦の道なりと

 親仁の説法聞ばきくほど     似春

 (おもへらくかるたは釈迦の道なりと親仁の説法聞ばきくほど)

 

 カルタでギャンブルに耽っている親父の説教を聞いていると、カルタも釈迦の道なんだと思う。

 

無季。釈教。「親仁」は人倫。

 

四十三句目

 

   親仁の説法聞ばきくほど

 茶小紋の羽折は墨に染ねども   桃青

 (茶小紋の羽折は墨に染ねども親仁の説法聞ばきくほど)

 

 小紋はウィキペディアに、

 

 「小紋(こもん)は日本の着物(和服)の種類の一つ。全体に細かい模様が入っていることが名称の由来であり、訪問着、付け下げ等が肩の方が上になるように模様付けされているのに対し、小紋は上下の方向に関係なく模様が入っている。そのため礼装、正装としての着用は出来ない(江戸小紋を除く、理由は後述)。」

 

とある。江戸小紋は、

 

 「江戸時代、諸大名が着用した裃の模様付けが発祥。その後、大名家間で模様付けの豪華さを張り合うようになり、江戸幕府から規制を加えられる。そのため、遠くから見た場合は無地に見えるように模様を細かくするようになり、結果、かえって非常に高度な染色技を駆使した染め物となった。」

 

 「上記のように大名が着用していたという経緯から江戸小紋の中でも定め小紋は格式が高く、柄は家紋の結晶を意味し、裃の柄の大きさが6段階あって殿様に一番近い席に座る上位の家臣がいちばん細かい柄を着用し下位になるほど柄は大きくなり、7段階以降の家臣は無地の裃を着用していた。これらのことから定め小紋は無紋でも礼装として着られる着物である。」

 

とある。

 僧ではないけど仏教の明るい堂々とした位の高い武士の説法とする。

 

無季。「羽折」は衣裳。

 

四十四句目

 

   茶小紋の羽折は墨に染ねども

 つよさうな絹の日野山に入    似春

 (茶小紋の羽折は墨に染ねどもつよさうな絹の日野山に入)

 

 日野絹はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 近江国日野(滋賀県蒲生郡日野町)で産した薄地の生絹。江戸時代には、布質が似ているところから上野国(群馬県)藤岡・富岡地方から産した上州絹をもいった。また転じて、絹の総称。日野。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

 

とある。日野山はウィキペディアに、

 

 「日野山(ひのさん)は、福井県越前市と南条郡南越前町にまたがる山。

 福井平野から眺める山容が秀麗な景観を見せることから、現在では俗に越前富士と呼ばれている。」

 

とある。ここではそれと関係なく、日野絹を着て行く寺ということで山号を日野山としたのだろう。

 茶小紋は俗形だが、強そうな日野絹なので日野山に入る。

 

無季。

 

四十五句目

 

   つよさうな絹の日野山に入

 簡略を木幡の関や守るらむ    桃青

 (簡略を木幡の関や守るらむつよさうな絹の日野山に入)

 

 簡略はここでは勘略のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① あまり手数や金銭がかからないように節約すること。倹約。簡略。

  ※大乗院寺社雑事記‐応仁二年(1468)一一月一二日「御訪事申入。不レ存二寺門一之由云々。諸色勘略者也」

  ※俳諧・江戸蛇之鮓(1679)秋「勘略や影をせばめて窓の月〈長短〉」

  ② 「かんりゃくぶき(勘略葺)」の略。〔随筆・守貞漫稿(1837‐53)〕」

 

とある。

 木幡の関は安土桃山時代まであった京都伏見の関で、今は無き関を勘略葺の京の街並が守っている。家には金をかけないが着物には金をかける、京の着倒れ気質をいう。

 木幡の関は、

 

 遠からぬ伏見の里の関守は

     木幡の峰にきみぞすゑける

              藤原家隆(新後拾遺集)

 

の歌がある。

 

無季。「木幡の関」は名所。

 

四十六句目

 

   簡略を木幡の関や守るらむ

 駕籠はあれども毛見をおもへば  似春

 (簡略を木幡の関や守るらむ駕籠はあれども毛見をおもへば)

 

 毛見(けみ)は検見のこと。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「毛見とも書き,検見は〈けんみ〉とも読む。田畑の立毛(たちげ)(農作物)を見分・坪刈りし,作柄に応じて租税を決定すること。鎌倉時代末期から史料にみえ,戦国期にも行われていたが,仕法は領主によってさまざまであった。江戸時代の仕法は寛永年間(1624年―1644年)にほぼ確立,幕府では享保頃(1716年―1736年)までは畝引検見取(せびきけみどり)法が行われ,以後定免制移行に伴って有毛(ありげ)検見取法に転換していった。前者は近世初頭の検地によって定められた田の地位(ちぐらい)(等級)・石盛(田畑1反当りの収穫量)を基準とし,後者は実際の収穫高をもとに年貢を決定した。検見法にはこのほか,有毛取の一種である色取(いろどり)検見,簡略な遠見検見・投検見・准合(じゅんあい)検見・請免居(うけめんい)検見があり,田畑とも綿作をしていた畿内・中国筋では木綿検見が行われた。」

 

とある。

 前句の「毛見」を倹約のこととして、年貢のことを思えば、駕籠に乗るのもやめて歩くことにする。

 

季語は「毛見」で秋。

 

四十七句目

 

   駕籠はあれども毛見をおもへば

 腰の骨いたくもあるる里の月   桃青

 (駕籠はあれども毛見をおもへば腰の骨いたくもあるる里の月)

 

 「あるる」は「荒る」。腰の骨が痛くと甚くを掛けて甚く荒れた里に月が出ている。駕籠はこの場合は背負い籠だろう。柴刈りにも行けない。

 里の月は、

 

 深草の里の月影寂しさも

     住み来しままの野べの秋風

              土御門通具(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「里」は居所。

 

四十八句目

 

   腰の骨いたくもあるる里の月

 又なげられし丸山の色      似春

 (腰の骨いたくもあるる里の月又なげられし丸山の色)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に丸山仁太夫とある。寛文から延宝の頃に活躍した力士で、仁王仁太夫の別名だという。

 コトバンクの「朝日日本歴史人物事典「明石志賀之助」の解説」に、

 

 「生年:生没年不詳

 江戸前期の初代の横綱とされる力士。実在したかどうか定かでない。『関東遊侠伝』に主人公夢の市郎兵衛の義兄弟として登場し,京都に上って天覧相撲で仁王仁太夫を投げ飛ばし,日下開山になったとされている。『古今相撲大全』(1763)には寛永1(1624)年江戸四谷塩町の笹寺で明石が晴天6日間の興行を行ったと書かれており,笹寺には「江戸勧進相撲発祥之跡」の碑があるが,興行の有無は確認できない。明治28(1895)年陣幕久五郎が深川富岡八幡宮に建立した横綱碑の裏面に横綱初代として明石の名を刻んだ。しかし4代横綱谷風梶之助以前の明石,綾川五郎次,丸山権太左衛門の3人は横綱免許を受けた史実がないため,谷風を初代横綱とする説もある。」

 

とある。また、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「仁王仁太夫」の解説」に、

 

 「?-? 江戸時代前期の力士。

  寛永(1624-44)ごろの人。東の大関の座にあり,京都での取組で西の大関明石(あかし)志賀之助を頭上にもちあげてなげようとしたが,胸をけられてまけたという。」

 

とある。

 前句を里相撲とし、また投げられて腰の骨を痛めてるのだから、似せ物の自称丸山何某であろう。

 

季語は「山の色」で秋、山類。

 

四十九句目

 

   又なげられし丸山の色

 片碁盤都の東花ちりて      桃青

 (片碁盤都の東花ちりて又なげられし丸山の色)

 

 前句の「なげられし」を投了のこととして、囲碁に転じる。「丸山」という京都の東の地名に、京都の街を碁盤に見立てた句で、右辺の白の大石がごっそり取られてしまったのだろう。

 

季語は「花ちりて」で春、植物、木類。

 

五十句目

 

   片碁盤都の東花ちりて

 かすみの間より膳が出ました   桃青

 (片碁盤都の東花ちりてかすみの間より膳が出ました)

 

 これは、

 

 山ざくら霞の間よりほのかにも

     見てし人こそ戀しかりけれ

              紀貫之(古今集)

 

の言葉を借りたもので、前句を都の東、清水寺の花見として、霞の間という座敷からお膳が配られた。

 

季語は「かすみ」で春、聳物。

三表

五十一句目

 

   かすみの間より膳が出ました

 立春や乗掛付てまつ内に     似春

 (立春や乗掛付てまつ内にかすみの間より膳が出ました)

 

 「立春」は「たつはる」と読み、立春(りっしゅん)と発つ春とを掛ける。乗り掛け馬を呼んで待つ内にもまた「松の内」に掛かる。

 正月もまだ松の内の立春に旅立というので、送別の宴が催され、かすみの間より膳が配られる。

 

季語は「立春」で春。旅体。

 

五十二句目

 

   立春や乗掛付てまつ内に

 股引脚半きそ始して       桃青

 (立春や乗掛付てまつ内に股引脚半きそ始して)

 

 きそ始は「着衣始(きそはじめ)」でコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 江戸時代、正月三が日のうち吉日を選んで、新しい着物を着始めること。また、その儀式。《季・春》

 ※俳諧・犬子集(1633)一「きそ初してやいははん信濃柿」

 

とある。

 一所不住の旅人ならば、股引と脚絆という旅姿が着衣始になる。

 

季語は「きそ始」で春。旅体。「股引脚半」は衣裳。

 

五十三句目

 

   股引脚半きそ始して

 御供にはなまぐさものの小殿原  似春

 (御供にはなまぐさものの小殿原股引脚半きそ始して)

 

 小殿原(ことのばら)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 若い殿たち。若い武士たち。わかとのばら。

  ※寛永刊本蒙求抄(1529頃)一「小殿原に孟玖と云者が有たが」

  ② 干した小鰯(こいわし)をいう女房詞。ごまめ。《季・新年》 〔日葡辞書(1603‐04)〕

  ※俳諧・新類題発句集(1793)春「臆せずも海老(えび)に並ぶや小殿原〈一箕〉」

 

とある。お伴には①なのだが、②の意味もあるので生臭い。

 

季語は「小殿原」で春。

 

五十四句目

 

   御供にはなまぐさものの小殿原

 つづく兵膾大根         桃青

 (御供にはなまぐさものの小殿原つづく兵膾大根)

 

 生臭物のごまめに続くつわものは膾大根。ごまめの生臭さを抑えてくれる頼れる奴だ。

 

無季。

 

五十五句目

 

   つづく兵膾大根

 無盡宿先をかけんもおとなげなし 似春

 (無盡宿先をかけんもおとなげなしつづく兵膾大根)

 

 無盡宿は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「無尽講」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 相互に金銭を融通しあう目的で組織された講。世話人の募集に応じて、講の成員となった者が、一定の掛金を持ち寄って定期的に集会を催し、抽籤(ちゅうせん)や入札などの方法で、順番に各回の掛金の給付を受ける庶民金融の組織。貧困者の互助救済を目的としたため、はじめは無利子・無担保だったが、掛金をおこたる者があったりしてしだいに利息や担保を取るようになった。江戸時代に最も盛んで、明治以後も、近代的な金融機関を利用し得ない庶民の間に行なわれた。頼母子(たのもし)。頼母子講。頼母子無尽。無尽金。無尽。

  ※雑俳・住吉みやげ(1708)「無人講は其方独りがたて木也」

 

とある。

 我先に給付を得ようなんて大人げない。

 延宝四年の「此梅に」の巻四十七句目にも、

 

   ももとせの餓鬼も人数の月

 大無尽世尊を親に取たてて    桃青

 

の句がある。

 「先をかけんもおとなげなし」の言い回しは『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある通り、謡曲『実盛』の、

 

 「六十に余つて軍せば、若殿原と争ひて、先をかけんもおとなげなし。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.18163-18166). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

という先陣争いの場面の言葉を転じている。

 

無季。

 

五十六句目

 

   無盡宿先をかけんもおとなげなし

 万事は未来前世のあきなひ    桃青

 (無盡宿先をかけんもおとなげなし万事は未来前世のあきなひ)

 

 万事は前世・現世・来世の全部ひっくるめてどうすれば一番儲かるかという商いで、現生だけ良ければいいというものではない。

 無尽講でずるをするな、ということ。

 

無季。釈教。

 

五十七句目

 

   万事は未来前世のあきなひ

 因果は夫秤の皿をまはるらん   似春

 (因果は夫秤の皿をまはるらん万事は未来前世のあきなひ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「因果は皿の縁を廻る」による句作りとある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「因果の循環の速いさまをいう。「昔の因果は皿の端回る、今の因果は針の先回る」という形で、昔に比べ今の方がより速いことをいう。

  ※三河物語(1626頃)三「昔は因果は、さらのはたをめぐると云けるが、今はめぐりづくなしに、すぐにむかいへとぶと云こと有」

 

とある。

 商業の盛んになった江戸時代の因果は天秤皿のように早いだけでなく金で廻る。前世・現世・来世の生涯年収の合計で考えろということか。

 

無季。釈教。

 

五十八句目

 

   因果は夫秤の皿をまはるらん

 善男善四と説せ給ひし      桃青

 (因果は夫秤の皿をまはるらん善男善四と説せ給ひし)

 

 善四は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「京都の秤座、神善四郎」とある。コトバンクの「世界大百科事典内の神善四郎の言及」に、

 

 「…守随家の初代吉川守随茂済(しげなり)は甲州出身で今川氏に奉公し,人質中の徳川家康に仕えた後,甲府に帰り1574年(天正2)武田信玄から秤製作の特権を得,82年には家康から三遠駿甲信の5ヵ国における秤製作の特権,さらに関八州における特権から,1653年(承応2)には日本を東西に神家と分掌して東33ヵ国における特権へと成長した。神家初代神善四郎は伊勢国白子の牢人で,京に出て公家に仕え秤座を開き豊後掾に任ぜられ,慶長(1596‐1615)末年ごろには製品を二条城にいた家康に納め,やがて西国33ヵ国を分掌するに至った。秤座では,国や都市単位に約10年ほどの間隔で秤改めを実施した。…」

 

とある。

 西国三十三か国は神善四郎で、東国三十三か国は守随彦太郎だった。守随彦太郎の方は「あら何共なや」の巻五十四句目の、

 

   昔棹今の帝の御時に

 守随極めの哥の撰集       信徳

 

で登場する。

 因果の回転は速く、金で動いているので、善男善女ならぬ善男善四になるよう努めなくてはならない。

 

無季。

 

五十九句目

 

   善男善四と説せ給ひし

 又爰に孔子字は忠二郎      似春

 (又爰に孔子字は忠二郎善男善四と説せ給ひし)

 

 孔子の本当の字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。町人っぽく呼び変えた。前句を町人の孔子が説いたことにする。

 

無季。

 

六十句目

 

   又爰に孔子字は忠二郎

 時にあはねば落す前髪      桃青

 (又爰に孔子字は忠二郎時にあはねば落す前髪)

 

 孔子は周の古い時代の理想にこだわり、春秋時代にの現実に適応できなかった。そのため「時にあはず」と言われた。

 町人の忠二郎はただ元服してなかっただけで、さすがにこの年で前髪を垂らしてるのはと思い、元服して月代を剃った。

 

無季。

 

六十一句目

 

   時にあはねば落す前髪

 不心中世にまじはりて何かせん  似春

 (不心中世にまじはりて何かせん時にあはねば落す前髪)

 

 「不心中(ぶしんぢう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (形動) 人に対して義理を守らないこと。誠実でないこと。特に男女のあいだで信義や愛情を守りとおさないこと。また、そのさま。

  ※浮世草子・男色十寸鏡(1687)上「親に不孝なるは大き成不心中也」

 

とある。

 前句の「落す前髪」を乱れ切った世の中をはかなんでの出家とする。

 

無季。恋。

 

六十二句目

 

   不心中世にまじはりて何かせん

 君が喉笛我ほてつぱら      桃青

 (不心中世にまじはりて何かせん君が喉笛我ほてつぱち)

 

 君は喉笛を搔っ切って勝手に死に、われはぼってっ腹を抱えて生き残って心中は成立しなかった。こんな不心中でどうやって生きていけばいいのか。

 男も流石に赤子がいるので殺せなかったのだろう。

 

無季。恋。「君」「我」は人倫。

 

六十三句目

 

   君が喉笛我ほてつぱら

 しのぶ夜は取手にかかる閨の月  似春

 (しのぶ夜は取手にかかる閨の月君が喉笛我ほてつぱら)

 

 前句の「君が喉笛」の原因を捕手(とりて)につかまったからだとする。捕手はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 罪人を捕えた者。

  ※太平記(14C後)一一「隠居(かくれい)たる平氏の一族共、数た捜し出されて、捕(トリ)手は所領を預り」

 ② 特に、罪人を召しとる役人。捕方(とりかた)。捕吏。とったり。

  ※地蔵菩薩霊験記(16C後)八「捕手(トリテ)の者ども此を見て浅間敷の足立や」

 

とある。

 この場合の「喉笛」は取り押さえる時に窒息させられたという意味になる。

 閨の月は、

 

 秋の色は籬にうとくなりゆけど

     手枕なるる閨の月影

              式子内親王(新古今集)

 こひわたる涙や空にくもるらむ

     ひかりもかはる閨の月影

              西園寺公経(新古今集)

 

などの歌がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。「しのぶ夜」も夜分。「取手」は人倫。

 

六十四句目

 

   しのぶ夜は取手にかかる閨の月

 秋を通さぬ中の関口       桃青

 (しのぶ夜は取手にかかる閨の月秋を通さぬ中の関口)

 

 秋は月が明るくて二人の仲の関所を通ろうとすると捕手につかまってしまう。秋は通れな中の関口だ。

 

季語は「秋」で秋。恋。

三裏

六十五句目

 

   秋を通さぬ中の関口

 寂滅の貝ふき立る初嵐      似春

 (寂滅の貝ふき立る初嵐秋を通さぬ中の関口)

 

 山伏が貝を吹きながら初嵐の関所を通ろうとするが、通してもらえない。謡曲『安宅』であろう。

 

 「これは加賀の国安宅の湊の関守にて候。さても頼朝義経御兄弟の御仲不和にならせ給ひ、義経は都の住居叶 はせ給はず、十二人の作り山伏となり、奥州秀衡を頼み御下向の由、頼朝聞こし召し及ばせ給ひ、国国に新関を 据ゑ、山伏をかたくえらみ申せとの御事にて候。(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.63681-63695). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 初嵐は、

 

 くる秋も分くるか荻のはつ嵐

     ふけは影入る閨の三か月

              正徹(草根集)

 草も木もとふらむ秋の初嵐

     松ぞこたふる千世へたりとて

              正徹(草根集)

 

の用例がある。

 

季語は「初嵐」で秋。釈教。

 

六十六句目

 

   寂滅の貝ふき立る初嵐

 石こづめなる山本の雲      桃青

 (寂滅の貝ふき立る初嵐石こづめなる山本の雲)

 

 「石こづめ」はウィキペディアに、

 

 「石子詰め(いしこづめ)は、日本の中世、近世の刑罰、私刑のひとつ。」

 

 「地面に穴を掘り、首から上だけ地上に出るように、人を生きたまま入れ、その周囲に多くの小石を入れ、徐々に石の重みで圧死させるというもの(罪人を穴に落としてその上に石を載せ続けて殺すとも)。」

 

 「寛永5年(1628年)、奈良の春日社の狛犬を盗んだ山伏を飯合川で石子詰めにした記録がある。」

 

とある。狛犬はこの時代だから石の狛犬ではなく、社殿の中に置く木像の神殿狛犬であろう。

 この場合は掟に背いて悪いことをした山伏を仲間が私刑にして、寂滅の貝を吹いて葬ったのではないかと思う。

 嵐に山本は、

 

 小初瀬や峯の常盤木吹きしをり

     嵐に曇る雪の山本

              藤原定家(続古今集)

 

の歌がある。

 

無季。「山本」は山類。「雲」は聳物。

 

六十七句目

 

   石こづめなる山本の雲

 大地震つづいて龍やのぼるらむ  似春

 (大地震つづいて龍やのぼるらむ石こづめなる山本の雲)

 

 大地震に続いて竜巻が起こったのだろうか。多くの人が崖崩れで岩が落ちてきて生き埋めになった。

 延宝五年に延宝房総沖地震が起きている。ウィキペディアに、

 

 「延宝房総沖地震(えんぽうぼうそうおきじしん)は、延宝5年10月9日(1677年11月4日)に房総半島東方沖付近で発生したと推定される地震。規模はM8 - 8.34とされている。「延宝地震」とも呼ばれる。

 房総沖地震の一つと考えられているが、震央位置については諸説あり、詳しい地震像については解明されていない。

 地震動による被害が確認されないのに対し、津波被害が顕著な津波地震との見方がある。」

 

とある。

 江戸での被害が少なかったものの、海に近い方で様々な被害が出たという噂から「龍やのぼるらむ」としたのかもしれない。

 

無季。

 

六十八句目

 

   大地震つづいて龍やのぼるらむ

 長十丈の鯰なりけり       桃青

 (大地震つづいて龍やのぼるらむ長十丈の鯰なりけり)

 

 地震は約三十メートルの巨大ナマズが起こした、とする。

 

無季。「鯰」は水辺。

 

六十九句目

 

   長十丈の鯰なりけり

 かまぼこの橋板遠く見わたして  似春

 (かまぼこの橋板遠く見わたして長十丈の鯰なりけり)

 

 三十メートルもあるナマズならでかい蒲鉾が作れるから、橋板を蒲鉾板にしなくては。

 延宝四年の「梅の風」の巻五十五句目に、

 

   弁才天に鯰ささぐる

 かまぼこの塩ならぬ海このところ 信章

 

の句がある。当時はナマズを蒲鉾にしていたようだ。

 

無季。「橋板」は水辺。

 

七十句目

 

   かまぼこの橋板遠く見わたして

 兼升勢多より参包丁       桃青

 (かまぼこの橋板遠く見わたして兼升勢多より参包丁)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『兼平』の、

 

 「兼平瀬田より参りあひて、地また三百余騎になりぬ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.18602-18604). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 また「兼升」は、

 

 「『買物重宝記』鍛冶之部に「大坂内平野剃刀小刀播磨兼升」と見える」

 

とある。

 前句の橋板を瀬田の唐橋とし、今井兼平ならぬ大阪の播磨守兼升が包丁を持って参上する。

 播磨守兼升は「刀剣ワールド」というサイトに、

 

 「「播磨守兼増」は、銘を播磨守兼升・播磨守兼桝とも切ります。播磨(はりま)は、現在の兵庫県のこと。元々は美濃の刀工で、のちに大坂で寛文(1661年~)頃に鍛刀しています。「兼(金)が増す」と喜ばれた名前ですが、あまり数を見ない刀工です。」

 

とある。剃刀小刀の方が本職だったのか、刀は少ないようだ。

 

無季。「勢多」は名所、水辺。

 

七十一句目

 

   兼升勢多より参包丁

 ぬれ縁や北に出れば手盥の    似春

 (ぬれ縁や北に出れば手盥の兼升勢多より参包丁)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『鸚鵡小町』の、

 

 「北に出づれば湖の志賀辛崎の一つ松は、身のたぐひなるものを、東に向へばありがたや、石山の観世音勢田 の長橋は」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.27733-27737). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 家の北側の濡れ縁で手盥に水を汲んで兼升の包丁を砥ぐ。

 

無季。

 

七十二句目

 

   ぬれ縁や北に出れば手盥の

 粉糠こぼれて時雨初けん     桃青

 (ぬれ縁や北に出れば手盥の粉糠こぼれて時雨初けん)

 

 盥の粉糠がこぼれて粉糠雨、ということで時雨になる。粉糠雨はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 細かな雨。霧のように細かい雨。細雨。ぬか雨。霧雨(きりさめ)。

  ※俳諧・毛吹草(1638)一「もみつけか柳の髪にこぬか雨」

 

とある。

 北に時雨で「北時雨」という言葉になるが、和歌では、

 

 窓あけてむかふ嵐の北時雨

     はれゆくみれば雪の山のは

              正徹(草根集)

 

くらいしか用例が見つからない。

 

季語は「時雨」で冬、降物。

 

七十三句目

 

   粉糠こぼれて時雨初けん

 六臓が生駒のやまの雲早み    似春

 (六臓が生駒のやまの雲早み粉糠こぼれて時雨初けん)

 

 これは下ネタ。内臓の調子が悪くて、糠の色したものがこぼれてきて、たちまち時雨となる。

 生駒の山は、『校本芭蕉全集 第三巻』の注にあるように、

 

 秋篠や外山の里やしぐるらむ

     膽駒の嶽に雲のかゝれる

              西行法師(新古今集)

 

の歌による。

 

無季。「生駒の山」は名所、山類。「雲」は聳物。

 

七十四句目

 

   六臓が生駒のやまの雲早み

 河内は在所ととの秋風      桃青

 (六臓が生駒のやまの雲早み河内は在所ととの秋風)

 

 前句の「六臓」を「六蔵」という人名とし、生駒の山を雲のように急いで越えようとするのを、河内が六蔵の父(とと)の在所(故郷)だからだとした。

 生駒山の秋風は、

 

 高嶺より霧吹きおろす秋風に

     麓も見えぬ生駒山かな

              藤原家隆(壬二集)

 

の歌がある。

 

季語は「秋風」で秋。

 

七十五句目

 

   河内は在所ととの秋風

 さられては飯匙こぼす袖の露   似春

 (さられては飯匙こぼす袖の露河内は在所ととの秋風)

 

 「飯匙(いひがい)」はしゃもじのこと。

 これは『伊勢物語』の筒井筒であろう。

 

 風吹けば沖つ白波たつた山

     夜半にや君がひとり越ゆらむ

 

という幼馴染の女に歌に感動して男は河内高安に行くのをやめるが、その一方で高安の女は「手づから飯匙取りて」とある。ここでは男女逆転し、女房に去られた「とと」が自分で飯匙で飯をよそいながら涙をこぼす。

 秋風に袖の露は、

 

 もの思ふ袖より露やならひけむ

     秋風吹けばたへぬものとは

              寂蓮法師(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。

 

七十六句目

 

   さられては飯匙こぼす袖の露

 㒵は鍋ぶた胸こがす月      桃青

 (さられては飯匙こぼす袖の露㒵は鍋ぶた胸こがす月)

 

 吹きこぼれた鍋のように涙を流す。

 袖の露に月は、

 

 今夜かくながむる袖のつゆけきは

     月の霜をや秋とみつらん

              よみ人しらず(後撰集)

 

の歌がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。恋。

 

七十七句目

 

   㒵は鍋ぶた胸こがす月

 腫気のさす姿忽花もなし     似春

 (腫気のさす姿忽花もなし㒵は鍋ぶた胸こがす月)

 

 前句の「㒵は鍋ぶた」をまん丸で平たい顔として、「腫気のさす姿」とする。花のかんばせが台無しだ。耳下腺炎だろうか。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

七十八句目

 

   腫気のさす姿忽花もなし

 春半より西瓜は西瓜は      桃青

 (腫気のさす姿忽花もなし春半より西瓜は西瓜は)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「西瓜は腫気の薬」とある。確かに今日でもシトルリンというアミノ酸が血流を促し、むくみを解消すると言われている。その一方でカリウムが多いので腎臓に悪いとも言われている。

 西瓜は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 

 「[和漢三才図会]慶安中、黄檗隠元入朝の時、西瓜・扁豆等の種を携へ来り、始て長崎に植。[本朝食鑑]水瓜は西瓜也。俗に、瓜中水多し、故に名く。[大和本草]三月種を下し、蔓延て地に布。四五月黄花を開く。甜瓜の花のごとし。」

 

とある。春半ばではこれから種を蒔く頃だ。

 

季語は「春半(なかば)」で春。

名残表

七十九句目

 

   春半より西瓜は西瓜は

 新道の温泉ながすうす氷     似春

 (新道の温泉ながすうす氷春半より西瓜は西瓜は)

 

 「新道(しんみち)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「江戸で本通りから分れた枝道を新道という。」とある。ただ江戸には温泉はない。お風呂のお湯ではないかと思う。排水が薄氷を溶かすして流すころには、西瓜の種を蒔く季節になる。

 西瓜は最初はもっぱら江戸の郊外で作られていた。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は王建の「華清宮」という詩の「内園分得温泉水 二月中旬已進瓜」の詩を引いている。

 春の薄氷は、

 

 年へつる山した水の薄氷

     けふ春風にうちもとけなむ

              藤原能通(後拾遺集)

 春風に下行く波のかすみえて

     残るともなき薄氷かな

              藤原家隆(風雅集)

 

などの歌がある。

 

季語は「うす氷」で春。

 

八十句目

 

   新道の温泉ながすうす氷

 代八車御幸めづらし       桃青

 (新道の温泉ながすうす氷代八車御幸めづらし)

 

 「代八車」は「大八車」であろう。

 前句の「華清宮」の江戸の裏道に移植したのを受けて、大八車の御幸とする。

 

無季。旅体。

 

八十一句目

 

   代八車御幸めづらし

 伺公する例の与三郎大納言    似春

 (伺公する例の与三郎大納言代八車御幸めづらし)

 

 「伺公」は公文書によく用いられるようだが「伺(うかが)う」ということか。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「烏丸光広大納言が牛車に乗って島原に遊んだという話がある。」とある。

 大八車だから与三郎なんだけど御幸だから大納言になる。ほとん御幸ごっこといっていい。

 

無季。「大納言」は人倫。

 

八十二句目

 

   伺公する例の与三郎大納言

 たはけ狂ひのよし野軍に     桃青

 (伺公する例の与三郎大納言たはけ狂ひのよし野軍に)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「芳野山と遊女の吉野太夫に言い掛けた。」

 

とある。与三郎大納言様の御参戦ということで、与三郎はさしずめ夜の街の北畠守親(きたばたけもりちか)といったところか。

 吉野太夫はウィキペディアに、

 

 「二代目吉野太夫(にだいめよしのたゆう、本名:松田徳子、慶長11年3月3日(1606年4月10日) - 寛永20年8月25日(1643年10月7日)) は六条三筋町(後に島原に移転)の太夫。生まれは京都の方広寺近くと伝えられる。実父はもと西国の武士であったとも。」

 

とある。

 

無季。恋。

 

八十三句目

 

   たはけ狂ひのよし野軍に

 口舌には空腹斬て伏たりけり   似春

 (口舌には空腹斬て伏たりけりたはけ狂ひのよし野軍に)

 

 口舌(くぜつ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① =くぜち(口舌)①②〔色葉字類抄(1177‐81)〕

  ※日葡辞書(1603‐04)「Cujetno(クゼツノ) キイタ ヒト〈訳〉おしゃべりな人。雄弁な人」

  ② 江戸時代、主として男女間の言いあいをいう。痴話げんか。くぜち。くぜ。

  ※評判記・難波物語(1655)「口説(クゼツ)などしても、銭なければ、はるべき手だてもなく」

  〘自動〙 (「くぜち(口舌)②」の動詞化。連用形「くぜち」だけが用いられたらしい) 言い争いをする。苦情を言う。

  ※平中(965頃)二三「さる間に、この女の親、けしきをや見けむ、くぜち、まもり、いさかひて」

 

とある。

 「空腹(そらはら)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① いつわって腹痛らしく見せかけること。

  ※浄瑠璃・三世相(1686)四「何のそらばらびくともさせじ」

  ② いつわって腹を切るまねをすること。

  ※俳諧・類船集(1676)以「忠信か空腹(ソラハラ)は君をたすけ、老莱が泣は孝を尽す至り也」

 

とある。今風に言えばエア切腹というところか。

 言い争いになって切腹の真似をしたということで、大した軍でもなさそうだ。

 

無季。恋。

 

八十四句目

 

   口舌には空腹斬て伏たりけり

 弓手のわきより赤いふんどし   桃青

 (口舌には空腹斬て伏たりけり弓手のわきより赤いふんどし)

 

 弓手は弓を持つ方の手で左手。エア切腹で血の代わりに赤いふんどしが流れた。

 

無季。

 

八十五句目

 

   弓手のわきより赤いふんどし

 道具持つかへや京へのぼるらん  似春

 (道具持つかへや京へのぼるらん弓手のわきより赤いふんどし)

 

 「道具持(どうぐもち)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 武家で、槍持ちのこと。

  ※御伽草子・猿源氏草紙(室町末)「小姓、若党、だうぐもち、そのほか、家来の者までも」

  ② 多くの道具を持つこと。また、その人。

  ③ 火消のうち、纏持(まといもち)のこと。〔随筆・守貞漫稿(1837‐53)〕

  ④ 江戸時代、船鑑札交付と船税徴収のために行なう廻船の鑑札積石数算出の際、肩廻し算法による本来の積石数から諸道具や作事の経費に見合う分として控除される石数。西宮など一部地方で行なわれ、控除の規定は三割。ほかに水主持と称する一割五分の控除もあり、鑑札積石数は本来の積石数の四割五分引である。〔辰馬半右衛門文書‐寛政二年(1790)二月・御鑑札御改返答写〕」

 

とある。「つかへや京へのぼるらん」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「痺れ京へ上れ」という諺のもじり、とある。「痺痺れ京へ上れ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「しびれたときに唱える呪文(じゅもん)。この文句を唱えながら額へ三度唾(つば)をつけるとしびれがなおるという。しびり京へ上れ。

  ※洒落本・御膳手打翁曾我(1796か)「見通しがながくなって、子どもがみんなしびれしびれ京へのぼれといふつらだ」

 

とある。

 弓手の脇にいた槍持ちが胸のつかえに「つかへつかへ京へ上れ」と回復呪文を唱える。

 

無季。「道具持」は人倫。

 

八十六句目

 

   道具持つかへや京へのぼるらん

 団子則五粒づつのむ       桃青

 (道具持つかへや京へのぼるらん団子則五粒づつのむ)

 

 胸のつかえの原因は、団子をいっぺんに五粒づつ口に放り込んだからだ。

 

無季。

 

八十七句目

 

   団子則五粒づつのむ

 唐に独の茶数奇有けるが     似春

 (唐に独の茶数奇有けるが団子則五粒づつのむ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には、前句に「五粒(こりふ)」を五柳先生と掛けて陶淵明とする。

 ただ、茶というと唐茶を日本に広めた隠元和尚も思い浮かぶ。

 

無季。

 

八十八句目

 

   唐に独の茶数奇有けるが

 織部焼なる秦の旧跡       桃青

 (唐に独の茶数奇有けるが織部焼なる秦の旧跡)

 

 織部焼はウィキペディアに、

 

 「千利休の弟子であった大名茶人、古田織部の指導で創始され、織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産した。当時の南蛮貿易で中国南方からもたらされ、茶人たちに珍重された交趾焼(華南三彩)を元にしたと考えられる。」

 

とある。

 秦の旧跡は徐福が蓬莱の島へ行こうとして日本に来たという伝説のことか。

 

無季。

 

八十九句目

 

   織部焼なる秦の旧跡

 鉢一ッ万民これを賞翫す     似春

 (鉢一ッ万民これを賞翫す織部焼なる秦の旧跡)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『高砂』の、

 

 「始皇の御爵に、あづかる程の木なりとて異国にも、本朝にも万民これを賞翫す。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.1858-1860). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。秦の旧跡の有難い織部焼だから万民これを賞翫す、となる。

 

無季。

 

九十句目

 

   鉢一ッ万民これを賞翫す

 けんどむ蕎麦や山の端の雲    桃青

 (鉢一ッ万民これを賞翫すけんどむ蕎麦や山の端の雲)

 

 「けんどむ蕎麦」は「けんどんそば」でコトバンクの「世界大百科事典内のけんどんそばの言及」に、

 

 「…江戸初期のそば屋は,三都とも菓子屋から船切り(生のそばを浅い矩形の箱に並べたもの)を取り寄せて使う店が多かった。1664年(寛文4)に〈けんどんそば切り〉が売り出され,4年後にははやりものの一つに数えられるまでになった。けんどんそばの元祖については,瀬戸物町信濃屋と堀江町二丁目伊勢屋との説があるが,吉原の江戸町二丁目仁左衛門とするのが正しい。…」

 

とある。

 一人分をあらかじめ分けて盛ってあって、給仕をせずにそのまま各自取って食べられたことが人気になったという。ファストフードの元祖ともいえよう。各自の鉢に入った蕎麦は万民に好まれた。

 「けんどん」は慳貪/倹飩で、ケチという意味と邪険という意味があり、おかわりができないという意味ではケチで、給仕をしないという意味では邪険だった。「つっけんどん」もこの「けんどん」から来ているという。

 「山の端の雲」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「山の井の水」が正しいという。どちらにしても単なる月呼び出しのあしらいであまり意味はなさそうだ。

 

無季。「山」は山類。「雲」は聳物。

 

九十一句目

 

   けんどむ蕎麦や山の端の雲

 小半の雫に濁る月も月      似春

 (小半の雫に濁る月も月けんどむ蕎麦や山の端の雲)

 

 小半(こなから)は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「二合半の酒、又は小量の酒」でけんどん酒とも言うという。

 けんどん酒の盃の濁り酒も月のようで、けんどん蕎麦は雲のようだ。

 ひょっとしたら前句は最初は「山の井の水」だったのを、句が付いてみると月に雲がいいというので「山の端の雲」に変えたのかもしれない。

 山の端の雲に月は、

 

 山の端に雲の衣をぬぎ捨てて

     ひとりも月のたちのぼるかな

              源俊頼(金葉集)

 

の歌がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

九十二句目

 

   小半の雫に濁る月も月

 屈平沈む瓢箪の露        桃青

 (小半の雫に濁る月も月屈平沈む瓢箪の露)

 

 屈平は一般には屈原として知られている。ウィキペディアに、

 

 「屈 原(くつ げん、紀元前340年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。」

 

とある。中国や台湾では端午の節句の起源として祀られている。

 ウィキペディアには、

 

 「『歳時記』ないし『歳時雑記』からの引用として、菖蒲を小人や胡蘆(ひょうたん)の形に彫刻して、これを帯びて辟邪(厄除け)したと『山堂肆考(中国語版)』に見える」

 

とあり、屈原と瓢箪は何らかのかかわりがあったと思われる。

 『楚辞』の「漁父辞」の有名な漁父問答で屈原が、

 

 挙世皆濁、我独清。衆人皆酔、我独醒。是以見放。

 (世間は皆こぞって濁り、我一人が清い。衆人が皆酔っているのに、我一人醒めている。これをもって見放さん。)

 

と言ったのを受けて、屈原は瓢箪の濁った酒に飲み込まれて死んだ、とする。

 

 もろともに草葉の露のおきゐずは

     ひとりや見まし秋の夜の月

              顕仲卿女(金葉集)

 

を始めとして、月に露を詠んだ例は数多くある。

 

季語は「露」で秋、降物。

名残裏

九十三句目

 

   屈平沈む瓢箪の露

 鸞鳳も山雀籠にかくれけり    似春

 (鸞鳳も山雀籠にかくれけり屈平沈む瓢箪の露)

 

 「鸞鳳(らんぽう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「らんぽう」とも) 鸞鳥と鳳凰。ともにめでたい鳥の名。君子などにたとえていう。また、同士の友または夫婦の契りなどにもいう。

  ※性霊集‐一(835頃)遊山慕仙詩「鸞鳳梧桐集 大鵬臥風床」

  ※三国伝記(1407‐46頃か)四「鸞鳳(ランホウ)争てか鶏雀と群せんと念て」 〔後漢書‐劉陶伝〕」

 

とある。

 屈原も露と消えて、鸞鳥と鳳凰も山雀を飼う籠に御隠れになった。

 山雀は『ヤマガラの芸:文化史と行動学の視点から』(小山幸子著、一九九九、法政大学出版局)によると、鎌倉時代から芸を仕込まれていたという。

 

   山陵鳥(やまがら)

 山がらの廻すくるみのとにかくに

     もてあつかふは心なりけり

              光俊朝臣(夫木抄)

 籠のうちも猶羨まし山がらの

     身の程かくすゆふがほのやど

              寂蓮法師(夫木抄)

 

の歌がある。瓢箪に穴をあけて巣にしたので「ゆふがほのやど」という。

 

季語は「山雀」で秋、鳥類。

 

九十四句目

 

   鸞鳳も山雀籠にかくれけり

 からくりの天下おだやかにして  似春

 (鸞鳳も山雀籠にかくれけりからくりの天下おだやかにして)

 

 山雀は、元禄五年の「青くても」の巻の十一句目に

 

   翠簾にみぞるる下賀茂の社家

 寒徹す山雀籠の中返り      嵐蘭

 

とあるように宙返りなどの芸をすることで知られていた。近代の山雀のおみくじ引きはよく知られているが、それ以前にも様々な芸があった。

 『ヤマガラの芸:文化史と行動学の視点から』(小山幸子著、一九九九、法政大学出版局)によると、「宝永七年(一七一〇年)刊の『喚子鳥』(蘇生堂主人著)に、

 

 「くるまぎにつるべを仕かけ、一方に見ず(水)を入れ、一方にくるみを入る。常に水とゑをひかへするときは、かの水をくみあげ、又はくるみの方を引あげ、よきなぐさみなり」

 

 「此鳥、羽づかひかろく、籠の内にて中帰りする。かるき鳥を小がへりの内、とまり木の上に、いとをよこにはり段々高くかへるにしたがひ、其いとを上に高くはりふさげ、のちには輪をかけ、五尺六尺のかごにても、よくかへり、わぬけするものなり。」

 

とあり、釣瓶上げの芸、輪抜けの芸のことが記されている。山雀籠の中返りはこの芸のことと思われる。

 山雀のこうした芸をからくり芸とし、みんなが山雀の芸を楽しむほど天下は平和になった、とする。

 

無季。

 

九十五句目

 

   からくりの天下おだやかにして

 臣は水およぎ人形波風も     桃青

 (からくりの天下おだやかにして臣は水およぎ人形波風も)

 

 「およぎ人形」は不明だが、水からくりの一種で、そういうからくり人形があったのだろう。「水からくり」はコトバンクの「世界大百科事典内の水からくりの言及」に、

 

 「…水を用いて種々のからくりを見せる見世物の一種。水からくり。水を利用した仕掛物は,すでに寛文期(1661‐73)から行われている。…」

 

とある。また、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「演劇,芸能におけるからくりの一種。水力を利用した仕掛けで人形などを動かしてみせる演芸。江戸時代には,からくり専門の一座の人気番組の一つに加えられ,操 (あやつり) 浄瑠璃や歌舞伎にも用いられた。水芸もその一種である。」

 

とある。

 からくり芝居は延宝六年の「青葉より」の巻六句目に

 

   糸よせてしめ木わがぬる秋の風

 天下一竹田稲色になる      桃青

 

の句がある。

 天下一竹田は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「竹田近江」とある。ウィキペディアに、

 

 「初代 竹田近江(しょだい たけだおうみ、生年不明 - 宝永元年7月3日〈1704年8月3日〉)とは、江戸時代のからくり師。また、そのからくりを使って興行をした人物。」

 

 「万治元年(1658年)、京都に上り朝廷にからくり人形を献上して出雲目(さかん)を受領し竹田出雲と名乗ったが、翌年の万治2年(1659年)に近江掾を再び受領し竹田近江と改名する。そののち寛文2年(1662年)大坂道頓堀において、官許を得てからくり仕掛けの芝居を興行した。竹田近江のからくり興行は竹田芝居また竹田からくりとも呼ばれ大坂の名物となり、のちに江戸でも興行されて評判となった。」

 

とある。

 こうしたからくり芸に天下はおだやかに治まり、臣民は水およぎ人形に波風も立たず、とする。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『養老』の、

 

 「水滔滔として、波悠悠たり。治まる御代の、君は舟。君は舟、臣は水。水よく舟を、浮かめ浮かめて、臣よく君を、仰ぐ御代とて幾久しさも尽きせじや尽きせ じ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.2539-2543). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

を引いている。

 

無季。「臣」は人倫。

 

九十六句目

 

   臣は水およぎ人形波風も

 海士のむかしは斯のごとくに   桃青

 (臣は水およぎ人形波風も海士のむかしは斯のごとくに)

 

 臣が泳ぐ人形を見て謡曲『海人(あま)』の昔もこんなだったかと思う。

 謡曲『海人(あま)』は海女が潜って龍に奪われた玉を取り戻したことを房前の大臣に語り聞かせる。

 

無季。「海士」は人倫、水辺。

 

九十七句目

 

   海士のむかしは斯のごとくに

 あほう噺芦火にあたりて夜もすがら 似春

 (あほう噺芦火にあたりて夜もすがら海士のむかしは斯のごとくに)

 

 海人は芦火に当たりながら一晩中馬鹿話をしている。今もそうだが昔もそうだったんだろうな。

 海人に芦火は、

 

 あまのたく浦の芦火のよるよるは

     波にもゆるや蛍なるらむ

               六条前中納言(亀山殿七百首)

 

の歌がある。

 

無季。「芦火」「夜もすがら」は夜分。

 

九十八句目

 

   あほう噺芦火にあたりて夜もすがら

 八盃豆腐冬ごもる空       似春

 (あほう噺芦火にあたりて夜もすがら八盃豆腐冬ごもる空)

 

 八盃豆腐はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 豆腐を細長く切って煮た料理。煮出し汁が水四杯、だし二杯、醤油二杯の割合であったので八杯と名づけたとも、豆腐一丁で八人前とれたので名づけたともいう。八杯。〔浮世草子・風俗遊仙窟(1744)〕」

 

とある。昔の豆腐は今よりも堅かったのかもしれない。

 芦火を囲みながら馬鹿話をして、八盃豆腐を食べて温まって、冬籠りとする。

 芦火に冬籠りは、

 

 芦火焚き冬籠りせし難波女も

     今は春べと若菜摘むなり

              (新葉集)

 

の歌がある。

 

季語は「冬ごもる」で冬。

 

九十九句目

 

   八盃豆腐冬ごもる空

 俤のおろし大根花見して     桃青

 (俤のおろし大根花見して八盃豆腐冬ごもる空)

 

 冬だけど真っ白なおろし大根を花に見立てて、八盃豆腐で冬籠りする。

 

季語は「花見」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   俤のおろし大根花見して

 あかり障子にかすむ夜の月    似春

 (俤のおろし大根花見してあかり障子にかすむ夜の月)

 

 「あかり障子」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 明かりを取り入れやすいように、片面だけに白紙を張った障子。現在の紙障子のこと。あかりそうじ。《季・冬》

  ※江談抄(1111頃)二「先考以二明障子一立二四面一、其中曝二涼家文書一」

  ※宇治拾遺(1221頃)五「広びさし一間あり、妻戸にあかりしゃうじたてたり」

 

とある。今のあの普通の格子の片側に一枚張った障子のこと。

 実際には冬なんだけど、大根おろしの花に障子に霞む月で、気持ちだけは春ということで一巻は目出度く終わる。

 花に霞む月は、

 

 花香り月霞む夜の手枕に

     短き夢ぞなほ別れゆく

              冷泉為相(玉葉集)

 

の歌がある。

 

季語は「かすむ夜の月」で春、夜分、天象。