とにかく暑い日で、源氏の大臣は東の釣殿で涼んでました。
息子の中将の君も一緒です。
親しい殿上人もたくさんいて、桂川から献上された鮎や、賀茂川で石臥しと呼ばれているカジカなどを、目の前で調理してもらってます。
例によって内大臣の所の公達も中将を訪ねてやって来ました。
「暑さで気力もなく眠かったところで、なかなかいいタイミングだ。」
そう言って皇族御用達の酒を持って来て氷水で冷やし、干し飯もその冷水で水汁にして食べました。
風は涼しく吹いて来るけど、天候は安定していて空に雲はなく、西日になる頃には蝉の声も何とも暑苦しく聞こえてきて、
「池の水も役に立たないほど今日は暑いな。
ちょっくら失礼する。」
と言いながら隅っこで壁にもたれて横になりました。
「こんな時には音楽などもするきにならないし、そうでなくても過ごしにくくて苦しい季節だ。
こんな時に宮仕えする若者は大変だろうな。
帯を解くこともできないからね。
ここにいる時くらい楽な格好して、宮中であったことなど、何か珍しいこととか眠けも覚めるような話を聞かせてくれ。
この頃なんだか老け込んだようで、世間のこともよくわからなくなってきた。」
なんて無茶ぶりするものの、そんな珍しいことなんてそうそうあることでもなく、委縮してしまい、結局みんなひんやりした廊下の欄干に背中を当てて座ったままでした。
「どこで聞いたことだったか。
内大臣が他の女に産ませた娘を探し出して育てると言ってた人がいたが、本当か?」
と弁少将に聞くと、
「大袈裟な。
そんなことさら言うことでもないんだが、春の頃だったか、夢に見たことを話してた時に、それを噂で聞いた女が、『私に心当たりがある』と名乗り出て来て、中将の朝臣がそれを聞いて、『本当にゆかりの者だという証拠があるのか』とその女の所を尋ねて行ったんだ。
詳しいことは知るべくもないけどね。
実際、この頃興味本位で世間の話題になっていて、あちこちで囁かれてる。
こうした軽はずみに言ったことが家の恥になってしまうのは困ったことだ。」
源氏の大臣は、その通り恥じだと思い、
「妻もその子供たちもたくさん列を成してるのに、その列にはぐれて遅れてしまった雁を無理に探すのは欲張りな話だ。
俺の所は子供が少なくて、そんな隠れた落し種でも見付けたいけど、名乗り出る程の所でもないと思ってるのか、そういう話もなくてね。
まあ、でもその女も全く無関係ということはないだろう。
騒動があると、とかく紛れ込もうとするものがいるもので、清く澄んでない水に映る月は曇るものだ。」
と言って軽く笑いました。
息子の中将もその話を詳しく聞いていたので、そんな真面目には受け止めません。
内大臣家の少将や藤の侍従は、やなこと言うなと思いました。
「中将朝臣よ。その落葉を拾ってこいや。
馬鹿にされたまま後世に名を残すよりは、同じ家の娘を貰って雪辱を果たすというのも悪くないんじゃないか?」
などと、息子のことをいじってました。
こういうところなど、内大臣とは表向きは良好な仲のようでも、昔からいろいろわだかまりがありました。
まして内大臣が中将を軽く見て辛い思いをさせてることも見過ごすことができず、内大臣のことを快く思ってないことを密かに噂として流しておこうと思ってました。
内大臣の娘と称する人が現れたことを聞いて、
「玉鬘のことを知ったなら、軽く扱うことはできない大切な切り札として扱われるだろうな。
とにかくプライドが高く、利用価値の高いものには飛びつく人で、善悪の境もきっぱりしていて、普通の人以上に悪いものは徹底的に貶めるところがあるあの大臣のことだから、隠してたことをどう思うことか。
知らなかったととぼけて玉鬘を差し出したなら、軽く扱いはしないし、誰も近寄れないようにするだろうな。」
などと思います。
夕方になる頃の風はなかなか涼しくて、若い人達はこのままここにいたいと思ってました。
「気軽に休んで涼んでいってくれ。
俺も今となっては、若者に交じってもうざがられる年になったしな。」
と言って西の対に行こうとすると、若い公達は皆見送りにと着いてきます。
黄昏時で姿がはっきり見えず、同じような直衣を着た人達で誰なのかよくわからない状態なので、源氏の大臣は姫君に「少し外へ出てきなさい」と言って、ひそひそと、
「少将や侍従などを連れてきた。
すぐにでも駆け付けたいと思ってた人たちだったのに、中将がとにかく堅物で、今まで連れてこなかったのは人の心がわかってなかったのだろう。
この人たちは、皆思う気持ちがないわけではない。
とりたてて高貴な身分でなくても、家の奥に籠っていても、隠れれば隠れるほど見てみたいと思うものなんでな。
この家の評判も、内部でもいろいろあるというのに、世間ではかなり大袈裟に評価されているところがある。
他にも夫人たちがいるけど、さすがに恋愛対象としてアプローチするにはふさわしくない。
こうして連れてきたのは、そうした恋の相手を求める人の愛の深さ浅さを試そうと、何事もない退屈な中で思ってたことなので、今がその時だと思ったんだ。」
などと囁きました。
前庭には、雑多な草は茂らせずに撫子だけが整然と植えられ、唐撫子(セキチク)や日本のカワラナデシコの周りは柴を編んだ低い垣根で大切に守られながら、咲き乱れる花は夕日に映えて何とも言えぬ風情です。
みんなその前に立ち寄りはするが、思いのままに折り取ることができないのを残念そうに眺めてます。
「風流をわかってる人たちだな。
右中将など、何か心に恥じることがあるのか、この頃何だか静かだな。」
手紙もよこさないけど、どうしたんだ?
決まりが悪いからと言って遠慮しないでほしい。」
息子の中将はこうした人達の中でもなかなか洒落てて男の色気があります。
「中将を嫌うなんて、内大臣は何考えてるんだ。
純粋な皇統の血筋の輝かしさにこだわるあまりに、諸王(おおきみ)同然の者ではみっともないというのか。」
と言えば、玉鬘の姫君も、
「催馬楽『我が家』ではないですが、『おおきみいらっしゃい婿にしよう』と言う人はいくらもいるでしょうに。」
と言います。
「まあ、その『肴は何かなアワビにサザエ』ってもてはやされようとは思ってない。
ただ、幼い頃に約束し合った者同士の、気持ちが一つになったままいつまでも離れ離れにさせられてるのは辛いことだ。
まだ身分が低く外聞が悪いと思うのなら、表ざたにせずにこちらに任せてもらえれば、後ろ指さされることもないというのに。」
玉鬘も、「そんな行き違いのある仲なんだ。」と思うと、親に会える日がいつになるのか分からず、暗雲垂れこめる思いでした。
*
月もない頃なので燈籠に大殿油(おおとなぶら)を設置して廊下に並べようとしますが、
「近すぎて暑苦しい。
篝火の方が良い。」
と言って人を呼んで
「篝火の台を一つこちらへ。」
と命じました。
洒落た和琴があるのを引き寄せて、軽く掻き鳴らしながら、平調の律にきっちりチューニングしました。
音の抜けも良く、少し弾いて、
「和琴の方はあまり好きでないと、ここ何ヶ月かずっとそう思い込んでた。
秋の夜の月影も涼しい頃に、遠慮などせずに虫の音に合わせて掻き鳴らすには、中国の楽器にはない今風の親しみやすい音だな。
ここは派手な音で気楽に引くと良い。
六弦の単純な楽器だが、多くの楽器のメロディや拍子を演奏できるところが凄い。
やまと琴などと言うと中国高麗に劣るように見えるが、演奏法が確立されてないだけに無限の可能性を秘めた琴だ。
どうせ弾くんだったら、いろんな楽器などに関心を持って、その技法を取り入れながら学ぶと良い。
他の楽器のような秘伝とかもないから、それだけに弾きこなすのが難しく、今の時代ではあの内大臣に並ぶ人はいない。
基本的には、菅(すが)掻きという六弦全体を掻き鳴らしてからミュートすることで、その余韻の中であらゆる楽器の音を想像させ、無音にして心の中に響かすものだ。」
そう言うと、玉鬘もすうすわかっていたのか、どうして今と思うと不審に思い、
「この六条院でそうした音楽の遊びのときなどに聞くことができるのでしょうか。
得体の知れぬ田舎者の中にも和琴を学ぶ人はたくさんいることですし、そんな難しく考えなくてもと思ってました。
その方が凄いというのは、全く別のことなんでしょうか。」
と興味を持って、聞いてみたいと切実に思いました。
「その通り。
東琴(あずまごと)という別名もあって、名前からして田舎に下ってるようだけど、神前での音楽でもまず書司(ふみのつかさ)に和琴を演奏させる習わしはよその国にはなく、この国では 和琴をすべての楽器の親とされてきた。
楽器の親を学ぶのには、親とすべき名人から学び取るのが一番いいことでしょう。
この六条院にも何かの折には来ることもあるだろうけど、和琴に関しては出し惜しみせずにここぞとばかりに掻き鳴らしてくれるかどうかというと、かなり難しい。
どの分野でも名人というのはそんな安売りはしないものだ。
それでもいつかは聞くことになると思う。」
そう言って少し曲を弾きます。
その奏法は音に厚みがあり、今風で面白いものです。
「これより凄い音を出すのか」とますます親に会いたい気持ちが募り、和琴一つ取っても「いつの世になったら本当の親子になって、その演奏を聞くことができるのだろうか」
と思いました。
催馬楽『貫河(ぬきがわ)』の、
♪貫河の逢瀬の柔らかい手腕枕
柔らかに寝る夜はなくて
親引き裂く夫
と何とも甘い声で謡います。
「親引き裂く夫」の所は少し笑いながら、さりげなく六弦を掻き鳴らしてはミュートする余韻が、言いようもなく面白く聞こえます。
「さあ、弾いてみなさい。
恥は芸の大敵という。
『想夫恋』という唐楽なら、心の中で夫を思って弾いては気を紛らわす人もあるという。
恥ずかしがらずにいろんな人と合わせながら学んでいけばいい。」
そう言ってしきりに勧めるものの、あの田舎の片隅で、自称京都人の古大君女に習ったものなので、正しい弾き方かどうかもわからずためらっては、和琴には手を触れません。
「少しでも弾いてくれ。
何かわかるかもしれない。」
とじれったく思ってると、玉鬘の方からこの膝で歩いて近寄って来て、
「どういう風が吹けばこんなに響くのでしょうか。」
と首をかしげる様子が、火影に美しく見えました。
源氏の大臣は笑って、
「私のこの風の思いを聞こうとしない人には、身に染みるような風が吹くことになる。」
と言って和琴を遠ざけてしまいました。
意地悪なことです。
女房達が近くに控えているので、いつものように戯れに迫ってくるようなこともなく、
「撫子を鑑賞しないで、みんな帰ってしまったのかな。
内大臣にもこの花園を見せたかったのに。
人生どうなるかわからないと思うと、昔何かのついでに撫子のことを語ってくれたのが、つい今しがたのことのようだ。」
そう言って昔のことを口にするのも何とも悲しそうです。
「撫子の床懐かしき色見ようと
元の垣根を誰が尋ねる
事の難しさに、蚕の繭に閉じ込めしまうのは、俺だってころぐるしいんだ。」
姫君も泣き出して、
「山人の垣根に生えた撫子の
元の根っこを誰が訪ねる」
儚げにそう言って泣いてる様子が、本当に魅力的で若々しく思えます。
♪尋ねて来なかったならば
と古歌を暗唱しては、ただでさえ悩ましい心の内が、余計に堪えることができなくなってきます。
*
西の対へあまりにも頻繁に通うものですから、女房達に見つかりそろそろ注意されるのではないかと思い、心の中に鬼を抑えなくてはと思いとどまるのですが、何かと用事にかこつけて手紙が途絶えることはありません。
ただこの煩悩だけが、明けても暮れても心の中を占めてました。
「何でこんな馬鹿なことをしてばかりで気持ちが収まることがないんだろうか。
もうやめようと、このままだったらそのうちスキャンダルになって世の人の非難を浴びて、自分のことはともかく、玉鬘にとって可哀想なことなってしまう。
どうしても欲しいんだと思っても、紫の上の長年連れ添った愛と秤にかけるほどのものとは思えない」
それはわかってました。
「なら、それ以下の妻達の列に加えるなら問題はないだろうか。
自分一人なら源氏姓とはいえ王族の血を引く者で、そこいらの殿上人や上達部ではないが、たくさん妻がいる中の末席に据えるだけなら、たいした身分にはなれない。
それだと、何の変哲もない納言クラスの上達部の正妻になるよりも劣ることになる。」
それくらいは自分でも分ってるので、そんなことをしても可哀そうなだけで、
「兵部の卿の宮や右大将に結婚を許そうか。
そうして連れ去ってくれて離れ離れになれば、この思いも忘れられるのだろうか。
残念なことだが、そうしてみようか。」
と思う時もあります。
それでも、玉鬘の所に行ってその姿かたちを見てしまうと、今は琴を教えることにかこつけては、いつもびとっとくっついて離れません。
姫君も初めの内はきもくて虫唾が走ると思ってましたが、「今のところ何もしないし、変な気持ちも起こしてない」と、少しずつ慣れが出てきて、そんなに避けることもなく、それなりの会話もして、親しくなり過ぎないようにしてましたが、それが却って見る側としてはデレてきて更に魅力的になって、絶対人にやるかっ、と思い直します。
それならここでずっと世話をすることにして、その都度気が向いたらこっそり通って、様子を見るだけで我慢しよう。
まだ男女の仲を理解してないあたりが面倒くさいし、可哀想でもあるけど、まあいくら関守が頑張ってても、ちょっと居眠りしたりして隙があればその手のことは覚えてしまうもので、そんな困ったことでもなく、俺の愛の方が勝ってるから、筑波山の歌垣にいくら人が大勢来ても問題ないと思ってる辺り、何とも怪しからんことですね。
どっちにしてもうかうかとしてはいられないと、恋から逃れられないのは苦しいことでしょう。
適当にやり過ごすことがどうしたってできないのが、世間の理屈では割り切れない男と女の仲の面倒くさい所なのです。
*
内大臣は最近自分の所に名乗り出た娘のことを、内大臣家の人からは認めて貰えず軽くあしらわれて、世間からも馬鹿じゃないかと非難されていると聞けば、弁少将が事のついでに源の太政大臣が「娘を探してるのは本当か?」と聞いてきたことを話すと、
「そうか。
源氏の所でもこの頃どこの誰とも知れぬ山賤の娘を引き取って、大事にしてるのか。
そうそう他人とは張り合わないあの大臣が、この辺りのことには敏感に反応して非難してきたか。
これは身に覚えのある証拠だな。」
弁少将が、
「あそこの西の対に囲ってる人は、特に難のない人のように見える辺り、それなりの人だと思われます。
兵部の卿の宮など、すっかり夢中になって結婚のことも言い出そうとして悩んでるとか。
並大抵の人ではないとみんな思ってるようです。」
と言うと、
「うむ、それはあの大臣の姫君だと思うから、そんなふうにとてつもない人のように評価されるだけだ。
人の評価なんてのは大体そんなもんだ。
実際はそれほどでもあるまい。
殿上人にも劣らないなら、前から有名になってたはずだ。
なまじっか源氏の大臣が完璧すぎて、この世にこれ以上ないというくらいの評価を受けているのに、その最愛の妻にすら大切に無傷に育て上げ先行き安泰の子供がいないし、大体において源氏には子があまりできず、不安になってるんだと思う。
それよりは下の妻だが、明石の夫人が生んだ娘の方が世にも稀な幸運に恵まれ、望みを繋いでるようだ。
今度出てきた姫君はおそらく実の娘ではあるまい。
多分、凄く才能があって置いておくに相応しい人だというんで、引き取って来たんだろう。」
と軽く見てそう言います。
「さて、その姫君の聟はどうやって決めるのか。
兵部の卿の親王を傍に入れて、そいつにやろうとしるのか。
もともと特に源氏と仲が良く、人柄も目を見張るものがあってお似合いだろうな。」
などと言っては自分の娘のことをが悔やまれてならなりません。
「あんな風にいろんな男に気を持たせておいて、さて誰にやろうかなどとやきもきさせててみたかったのに。」
と羨ましがれば、相当な官位でもない限り結婚を許さないと思いました。
源氏の大臣が何度も丁重に申し入れしてくるなら、根負けしたことにして承認しようと思うが、あの中将は特に焦れた様子もないのが面白くありません。
そんなことをいろいろ考えながら、予告することもなく軽い気持ちで娘の所へ行きました。
弁少将も一緒です。
姫君は昼寝をしてたところでした。
薄物の単衣(ひとえ)を来て寝転んでる様子は暑そうにも見えず、とにかくちまっとして可愛らしいものでした。
透き通ったような肌にとにかく可愛らしい手つきで扇を持ちながら、肱を枕にして、そのままになってる髪の毛はそれほど極端に長くはないけど、髪の毛先の感じがなかなか優美です。
女房達は几帳の後ろで物に寄りかかって寝転がり休んでいたので、すぐに飛び起きることもありません。
扇を鳴らすと、姫君のぼんやりとこちらを見あげる目も可愛らしく、顔を赤らめてるのも親の目にはただ可愛いなと思うだけです。
「端近くでのうたた寝のことはきつく注意していたはずだ。
何でこんな不用心な格好で寝てしまうんだ。
女房達も近くに控えてないというのは怪しからん。
女は常に自分の身を意識して守らなくてはならない。
そんなだれてちゃらんぽらんになってたんでは、品がないぞ。
まあ、あまり頑なに身構えて、不動明王が陀羅尼を唱えるみたいに印を作ってても困るけどな。
目の前の人にあまり他人行儀に距離を取ってるのも、高貴なようでいても冷淡な感じで性格悪いし。
源氏の太政大臣が后候補の姫君にやってる教育というのは、何でも一通りのことを学ばせて、一つのことにこだわるのでもなく、どの分野でもわからなくなってまごまごすることもなく、ゆったりと構えるというのを基本としている。
まあ、確かにそれは理想だが、人間どうしたって得手不得手があるんだから、得意なものを生かすというのもありだと思う。
あの姫君が大人になって宮廷に出仕するようになる頃がどうなってるのか、とにかく楽しみだ。」
そうは言うものの、
「前は自分の計略通りになんて思ってたこともあったが、それも難しくなってしまい、今はどうすれば宮中で笑われることのないようできるかと、他の人達のいろんな意見を聞くたびに悩んでるんだ。
ただ片っ端から試そうとして馴れ馴れしく寄ってくる人の願いなんて聞いてたらきりがないし、そんなのを真に受けてはいけない。
俺にも考えがある。」
など、可愛いなと思いつつ説経します。
娘君としては、以前は何も深く考えることなく、実際あんな困った騒ぎになってしまっても、平気で楯突いてたなと、今思うと胸の塞がる思いで、本当に恥ずかしいと思いました。
宮様からもいつも会えないことで不満を聞いてましたが、右大臣がこのように言っているので遠慮して、会いに行くこともできませんでした。
*
内大臣は北の対にいるこの新たな姫君を、
「どうしたものか、
勝手に引っ張って来ておいて外聞が悪いからと帰らせるのもあまりに安易だし、何やってんだって感じだ。
ここに囲っておいても本当に育てる気があるのかと人から言われるのも嫌だな。
女御の女房達と一緒にして、笑い者になっちゃえばいいか。
女房達が障害があるのではないかという顔付も、多分そんなに言うほどでもないんだろう。」
そう思って女御の君に、
「あの人を出仕させよう。
見苦しいことがあったら、年取った女房などに遠慮なくびしびし言ってもらえばいい。
若い女房達が噂の種にしてても笑わないようにしろ。
軽々しく思われるからな。」
と笑いながら言いました。
「そんな特別ひどいなんてことはありません。
中将朝臣などがまたとない素晴らしい人だと言ってたのに、それほどでもなかったというだけのことでしょう。
そんなふうに言われて騒がれてしまって、期待に応えられないもんで、顔から火が出る思いなのでしょう。」
と何とも恥ずかしそうにそう言います。
その様子に親し気な可愛らしさはなく、とにかく高貴でつんと澄ました中に親しさも具わり、さながら寒い中に梅の花が開き始めた朝ぼらけのようで、多くの言葉を余韻に残すように微笑むあたり、ただものではないと思いました。
「中将朝臣がそう言ったのは、若さが故の思慮不足だった。」
など言うものの、新姫君の扱いは気の毒なものでした。
すぐに、この女御を訪ねたついでにふらっとその新姫君のを所を覗くと、縁側の方にはみ出すように簾が押し出すように座って、五節の君という遊び好きの若い女房と双六(バックギャモン様のもの)をしてました。
手をひたすら擦り合わせて、
「小さい目出ろ、小さい目出ろ」
という声がひどく早口でした。
「うわ、何だこりゃ。」
と思ってお供の先導しようとするのを手で制して、それでも妻戸のわずかな隙間から障子の開いてるところを覗き込みました。
五節の方も同じような興奮した調子で、
「お返し、お返し。」
と賽筒を掴んだまま、すぐには振りません。
何か思うことがあってそうしてるのでしょうけど、まったく何も考えてないかのように振舞います。
見た目は弾けるような可愛さがあって、髪も綺麗で前世の罪も軽かったでしょう、額が狭く早口なのが玉に疵なようです。
取り立てて美人ではないが、全く他人だと言い張ることもできず、鏡に映った自分の顔と照らし合わせても、」不愉快なくらい宿世の縁を感じました。
「こうしてらっしゃるのは、まだ不慣れでどうしていいかわからないとかだったりするのか。
いろいろ忙しくて尋ねることもできなかったが。」
そう言うと例によって早口で、
「こうしているのは何の心配もないからです。
長いことどういう人かわからないけど逢いたいと思っていた人のお顔をいつも見れないということで手詰まりな感じがします。」
と言います。
「確かに、自分の傍で使う人があまりいないから、近くに置いて慣れさせようと今まで思ってたけど、そうもいかないみたいだな。
大体人に仕える人と言うのは、どうであれ自分からその中に加わり、周囲の人もそれを容認できる者でなければ安心して任せられない。
それですら、その女が主人の子と知られるとなれば、親兄弟の面汚しになる事が多い。
まして。」
と続けようとしたところ、空気も読まずに臆面もなく、
「何でよ、そんな大げさに考えてお傍に引き立てるなんて窮屈なこと言うの、尿瓶持ちでも十分だというのに。」
と言えば笑いをこらえることができずに、
「そんなことさせたりはしないよ。
こうして巡り合えた親に孝行したいというなら、物を言う時の声をもう少しゆっくりさせたらどうだ。
そうすれば、俺も安心して長生きできる。」
と冗談を言う大臣に、にっこり笑ってこう言います。
「早口は生まれつきのことです。幼い頃言葉を喋り始めた時にも亡き母もいつも悩んでは治そうとしてました。妙法寺の別当大徳が産屋に入って来たのでその口調がうつったと嘆いてました。どうすればこの早口が治るのやら。」
そう言って落ち着かない様子にも、親孝行の気持ちが深く表れていて、哀れに思います。
「大徳が近くに入ってきたというのは災難だったな。
その大徳の前世の罪のむくいだ。
発話障害や吃音は大乗を誹った罪だとされてるからな。」
と言うと内大臣は、我が子ながら女御となり、自分すら気が引けるような人にこれを合わせるのは恥ずかしいし、
どういう理由でこんな怪しげなのを疑わずに家へ迎え入れたんだ、と思いました。
女房達もみんなこの人と一緒にいるんなら、いろいろ言いふらすに違いないと考え直し、
「女御が家に戻ってきた時だけそちらの方へ行って、その人の振る舞いなどを見習うと良い。
特になんてことない人でも、そうした立派な人と交わり、それに慣れていけばそれなりの者になるはずだ。
そういう気持ちで接すると良い。」
そう言うと、
「それは大変嬉しいことであります。ただ何としても何としても皆様方の仲間に入れてもらってわかってもらえることを寝ても覚めてもずっと前からそれ以外のことを思ってたわけではありません。お許しいただけないなら水くみでもいいから使ってほしいと思ってます。」
と気を良くしてより一層長々と喋り出したので、言ってもしょうがないと、
「まあ、その、そんな卑下して薪を拾おうなんてしなくても、女御の所にいればいい。
ただ、あのお手本としてきた法師だけは勘弁を。」
とわざとボケて言ったのもスルーして、大臣の中でも特に立派で威厳があって華やかなで、普通の人では会うことも姿を見ることもできないのも知らぬげに、
「ではいつから女御殿の所に参りましょうか。」
と言えば、
「吉日などを指定すべき所だがな。
まあ体裁を考えることもないな。
そう思うんだったら今日からでも。」
と言い捨てて行ってしまいました。
立派な四位五位の人達に守られて移動するにすら、とにかく圧倒的するような力を見せつけているのを見送って、
「ええ、うわあ、お父さんなんて凄いの。あんな血筋だったというのに粗末なあばら家で生まれ育ったってこと?」
それを聞いて五節が、
「そんな大げさに騒ぐと、こっちが恥ずかしくなるでしょ。
普通の親で大切にしてくれる人を探したらどうなの。」
と、ひどいことを言います。
「いつもいつもあなたはそうやって人が傷つくことばかり言ってひどいじゃないの。大臣の娘になったんだからそんなため口叩かないでよ。本来あるべき身分になったんだからそう扱って。」
と怒った顔も親し気で愛嬌があって誇らしげなのは、ある意味高貴とも言えるもので罪のないものです。
ただ、滋賀のど田舎で得体の知れぬ下人たちの所で生まれ育ったので、物の言い方も知りません。
特に何ということもない言葉でも、穏やかな口調で落ち着いて話すなら、耳に入ってきた時に大事なことのように聞こえるし、面白くもない歌物語でもそれっぽい口調でもったいぶった感じで最初と最後を不明瞭に歌い上げると、良い歌なのかどうかわからなくても何となく面白そうに聞こえるものです。
逆にたとえどんな深い意味のある良いことを言っても、心地良く聞こえてこない、チャラい調子で口をついて来る言葉はがさつな感じで、言葉が訛っていて思ったことをずけずけという乳母のもとで覚えたような言葉は、態度が悪いふうに聞こえてしまうものです。
全くどうしようもないわけではないが、三十一文字の上句と下句の繋がらない歌を早口で次々と詠みます。
「これで女御殿に参上するように言われたのに、なかなか行かないようなことがあると機嫌を損ねてしまうわ。夜には行きましょう。内大臣の君がこの世でかけがえのない人だと思ってるにしても、あの方々に冷たくされたんではこの家にはいられなくなっちゃうし。」
と言います。
そんなに大臣の気持ちは軽いのでしょうか。
まず手紙を書きます。
「逢うよしもないという芦垣のすぐそばに居ながら、影踏むばかりの近くまできて勿来(なこそ:来るな)の関を設置するのでしょうか。
知らなくても武蔵野といえば紫の王家の縁もあって畏れ多いことですけど。
あな畏(かしこ)、あな畏(かしこ)。」
と線の途中がかすれたようになって、点がたくさん並んでるような書体になってしまっていて、 裏には、
「実は、日の暮れる頃にも参上しようと思ってますが、嫌われるとかえって行きたくなるものでしょう。
いやいや、不審に思って逢わないというのでしたら水無瀬川の水屑となるものを。」
そしてまた隅っこに、
「生え揃わぬ常陸の浦はいかが崎
どうすりゃ会える田子の浦の波
吉野の大川水のなみなみならぬ思いです。」
そう青い紙一重ねに、古めかしい草仮名に近い荒っぽい書体で、どこの流派とも知れず、行の軸が左右ぶれているにもかかわらず、字の最後を下に長く伸ばして連綿させようとして、無理に気取って書いたような感じです。
行の下の方が詰まってしまうと横に曲げて書いたりして、行が傾いて倒れそうになってるのを、上手く描けたとほくそ笑むように見直しては、またそれをやたら小さく巻き結んで撫子の花につけました。
便所掃除の童(わらわ)は清楚で気さくな人で、女御の所に行きました。
女房達の詰所にもなっている台盤所に寄って、
「これを渡してくれ。」
と手紙を渡します。
下仕への人が知ってて、
「北の対に仕えてる童だ」
と言って受け取りました。
大輔(たいふ)の君と呼ばれてる人が女御の所に持って行って、解いて手紙を見せます。
女御が少し笑いながら置いたものを中納言の君と呼ばれてる人が近くにいて、横からチラ見します。
「随分斬新な手紙のようですねえ。」
と興味を持ったようで、
「正しい草仮名を見たことないのでしょうね。歌の意味も支離滅裂ね。」
と言って女御は手紙を渡しました。
「返事をこれに劣ない気品でもって書かなくては、田舎もんだと思われますね。」
すぐに書きなさい。」
と中納言の君に振ります。
顔に出すことはなくても、若い女房達は意味もなくおかしくて、みんな心の中で笑ってます。
返事をと言われても、
「古歌の言葉ばかりを繋げて文にしても、伝わりくいし。
下々に下す宣旨のような代筆だとすぐにわかってしまっても気の毒ですし。」
と言って直々の手紙のように書きました。
「芦垣の近くで聞こえない声を上げる不安な気持ちだったとは、悔やまれます。
常陸国の駿河の海の須磨の浦に
波よ来なさい箱崎の松」
と書いて読んで聞かせれば、
「あらやだ。
本当に自分で書いたと思われちゃうわ。」
痛いなとは思いましたが、
「そこは読んだ人がわきまえるべきことです。」
と言って手紙を紙に包んで持っていかせました。
新姫君はそれを見て、
「なかなか面白い詠みっぷりね。
松(待つ)とおっしゃったのなら。」
ということで、思いっきり甘い香りのする練り香を念入りに薫きこみました。
紅などを真っ赤に塗りたくり、髪を梳いて整えれば、それなりに見栄えがして愛嬌もあります。
逢った時には、また余計なことを言うのでしょうね。