「名月や」の巻、解説

初表

 名月や篠吹雨の晴をまて     濁子

   客にまくらのたらぬ虫の音  芭蕉

 秋をへて庭に定る石の色     千川

   未生なれの酒のこころみ   涼葉

 端裁ぬ鼻紙重きふところに    此筋

   曲れば坂の下にみる瀧    濁子

 

初裏

 猟人の矢先迯よと手をふりて   芭蕉

   青き空より雪のちらめく   千川

 入口の鎌預れと頼むなり     此筋

   きりかい鷹の鈴板をとく   濁子

 船上り狭ばおりて夕すずみ    涼葉

   軽ふ着こなすあらひかたびら 千川

 伏見まで行にも足袋の底ぬきて  芭蕉

   食のこわきも喰なるる秋   此筋

 月影は夢かとおもふ烏帽子髪   濁子

   殿の畳のふるびたる露    千川

 花咲ば木馬の車引出して     芭蕉

   ほこりもたたぬ春の南風   此筋

       参考;『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)

初表

発句

 

 名月や篠吹雨の晴をまて     濁子

 

 元禄五年八月十五日、江戸在勤中の大垣藩士が集まっての半歌仙興行。

 当日は雨が降っていたのだろう。残念ながら月は見えませんが、晴れるのを待ちながら興行を始めましょう、という挨拶になる。

 「篠」は『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)では「ささ」とルビがふってあるが、『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)では「すず」となっている。

 コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「すずたけ(篠竹)」の異名。 「今夜誰-吹く風を身にしめて/新古今 秋上」

 

とある。引用されている歌は、

 

 今宵誰すず吹く風を身にしめて

     吉野の嶽の月を見るらむ

           従三位頼政(源頼政、新古今集)

 

で、従三位頼政は「実や月」の巻の十五句目での「三位入道」の取り成しのところでも登場した。

 後ろに「吹」の文字があるから、「篠吹」を「すずふく」と詠むのはなるほどと思う。

 この句は「篠吹雨の晴(の)名月をまてや」の倒置だが、頼政の歌を踏まえてるとして読むなら、篠吹く風だけでなく雨まで降っているが、晴れるのを待てば身に染みる名月を見るだろう、という意味になる。

 濁子はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「?-? 江戸時代前期-中期の武士,俳人。美濃(みの)(岐阜県)大垣藩士。江戸詰めのとき松尾芭蕉(ばしょう)にまなぶ。絵もよくし「野ざらし紀行絵巻」の絵をかく。杉山杉風(さんぷう),大石良雄らと親交をむすんだ。名は守雄。通称は甚五兵衛,甚五郎。別号に惟誰軒素水(いすいけん-そすい)。」

 

とある。

 

季語は「名月」で秋、夜分、天象。「篠」は植物(草類)。「雨」は降物。

 

 

   名月や篠吹雨の晴をまて

 客にまくらのたらぬ虫の音    芭蕉

 (名月や篠吹雨の晴をまて客にまくらのたらぬ虫の音)

 

 芭蕉が脇を詠んでいるところから、芭蕉庵での興行と思われる。

 たくさんお客さんが来て、雨が止んで名月が見られるのを待っているというのに、枕が足りませんな、といったところか。この日は濁子、千川、凉葉、此筋の四人が訪れていた。

 「虫の音」はこの場合は放り込み。雨が止めば一斉に鳴きだす虫も、今はどこかで眠っていると見るならば、足らないのは虫のための枕とも取れる。

 

季語は「虫の音」で秋、虫類。「まくら」は夜分。

 

第三

 

   客にまくらのたらぬ虫の音

 秋をへて庭に定る石の色     千川

 (秋をへて庭に定る石の色客にまくらのたらぬ虫の音)

 

 新しく建てられた第三次芭蕉庵も、秋になりようやく庭石の置き場所も定まり、虫が鳴いているが、まだ枕は足りない、となる。

 第一次芭蕉庵は最初の深川隠棲の時のもので、天和の大火で焼失した。

 第二次芭蕉庵はそのあと再建されたが、『奥の細道』に旅立つ時に人に譲った。

 第三次芭蕉庵は翌元禄五年五月に竣工した。この興行の三ヶ月前だ。

 『奥の細道』の旅のあと、しばらく関西に滞在していた芭蕉は、元禄四年の十月二十九日に江戸に戻り、しばらくは日本橋橘町に仮住まいしていた。今でいえば馬喰町の駅の南側の東日本橋三丁目のあたりだ。

 

季語は「秋」で秋。「庭」は居所。

 

四句目

 

   秋をへて庭に定る石の色

 未生なれの酒のこころみ     涼葉

 (秋をへて庭に定る石の色未生なれの酒のこころみ)

 

 「未生なれの」は「まだなまなれの」と読む。

 「なまなれ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「1 熟れ鮨で、十分熟成していないもの。

  2 果物などで、十分熟していないもの。

  3 十分に熟達していないこと。また、そのさまや、そのような人。

  「―な商人の来る節句前」〈川柳評万句合〉人の来る節句前」〈川柳評万句合〉

 

とある。酒の場合はまだ十分に発酵が進んでないということか。「なれる」というのは輪郭がなくなることをいうから、まだ米の粒が残っている状態のどぶろくであろう。熟成するのを待ちきれずに試し飲みというところか。

 庭の石といってもここでは枯山水などに用いる白砂のことで、これがまだ米粒の残るどぶろくを連想させる。

 

季語は「生なれの酒」で秋。

 

五句目

 

   未生なれの酒のこころみ

 端裁ぬ鼻紙重きふところに    此筋

 (端裁ぬ鼻紙重きふところに未生なれの酒のこころみ)

 

 当時鼻紙として用いられていたのはちり紙で、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「廃物利用の下等紙のこと。本来は手漉(す)き和紙の材料であるコウゾ(楮)やミツマタ(三椏)などを前処理する際にたまる、余分の外皮などのくずを集めて漉いた。宮城県白石(しろいし)地方では、コウゾの外皮を薬品を使わずに自然発酵で精製して漉いたものをちり紙といい、外皮のくずを主原料としたかす紙とは区別している。塵紙(ちりがみ)の名はすでに1506年(永正3)の『実隆公記(さねたかこうき)』にみられる。1777年(安永6)刊の木村青竹(せいちく)編『新撰紙鑑(しんせんかみかがみ)』には「およそ半紙の出るところみな塵紙あり、半紙のちりかすなり」とあるように、江戸時代には各地で種々のちり紙が生産され、鼻紙、包み紙、紙袋、壁紙、屏風(びょうぶ)や襖(ふすま)の下張りなどに広く用いられた。」

 

とある。

 遊郭などで用いる高級な鼻紙となると、延紙がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「大和国(奈良県)吉野地方から多く産した縦七寸(約二一センチメートル)横九寸(約二七センチメートル)程度の小型の杉原(すぎわら)紙。鼻紙の上品として、遊里などで用いられた。小杉原。七九寸。のべ鼻紙。のべ。

 ※浮世草子・好色一代男(1682)一「朝鮮さやの二の物をほのかにのべ紙(カミ)に数歯枝(かずやうじ)をみせ懸」

 

とある。「朝鮮さや」は「朝鮮紗綾」で「二の物」は「二布(ふたの)」のことか。

 この句の場合、「端裁(はしたた)ぬ」と漉いたまま縁をカットしてない状態の物なので、安価なちり紙の方か。

 今のポケットティッシュのような小さなものではないので、懐に入れるとそれなりの重さがあったようだ。

 江戸中期の四方赤良の狂歌に、

 

 山吹の鼻紙ばかり紙入れに

     実の一つだになきぞ悲しき

 

とあるように、懐に鼻紙というのは、金がないという意味だろう。だから自家製のどぶろくの熟成を待ちきれずに飲んでしまう。

 懐に入れるという意味で「懐紙」という言葉もある。連歌は元々はこの懐紙に記入した。二つ折りなので、表裏両方に書ける。

 

無季。

 

六句目

 

   端裁ぬ鼻紙重きふところに

 曲れば坂の下にみる瀧      濁子

 (端裁ぬ鼻紙重きふところに曲れば坂の下にみる瀧)

 

 前句の「端裁ぬ」を「橋立たぬ」に取り成したか。橋がないので川の手前で曲がれば瀧になってしまう。

 瀧は近代では夏の季語だが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「滝殿」はあっても「瀧」は夏の季語になっていない。貞徳の『俳諧御傘』にも季節への言及はない。

 

無季。「滝」は山類。

二表

七句目

 

   曲れば坂の下にみる瀧

 猟人の矢先迯よと手をふりて   芭蕉

 (猟人の矢先迯よと手をふりて曲れば坂の下にみる瀧)

 

 「猟人」は「かりうど」、「迯よ」は「のけよ」と読む。

 これは何に向って手を振っているのだろうか。おそらく前句に記されてない何かに向ってであろう。つまり、かかれてないけど前句から匂うもの、おそらくは李白観瀑図や観瀑僧図のような絵によく描かれる、滝を見る風流の徒であろう。

 滝は同時に鹿が水を飲みに来る場所でもある。風流の徒も狩人からすれば迷惑な存在だったりして。

 

無季。「猟人」は人倫。狩でも鷹狩りの場合は冬になる。

 

八句目

 

   猟人の矢先迯よと手をふりて

 青き空より雪のちらめく     千川

 (猟人の矢先迯よと手をふりて青き空より雪のちらめく)

 

 これは、

 

   罪も報いもさもあらばあれ

 月残る狩場の雪の朝ぼらけ    救済

 

の心だろうか。青空は青雲のように明け方の空を思わせる。

 空が晴れているのに雪がちらちらと降ってくるのを見て、ふと殺生の罪のことが気に掛かり、狙ってた鹿に逃げよと手を振る。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

九句目

 

   青き空より雪のちらめく

 入口の鎌預れと頼むなり     此筋

 (入口の鎌預れと頼むなり青き空より雪のちらめく)

 

 『校本芭蕉全集』第五巻の注には、「鍵(かぎ)の誤りか。」とある。

 雪の明け方に鍵というと、『源氏物語』末摘花の鍵の爺さんか。

 元禄三年の「市中や」の巻の十二句目、

 

   魚の骨しはぶる迄の老を見て

 待人入し小御門の鎰       去来

 

は「待ち人」がいて、鍵は「小御門」の鍵でという具体的な情景が記されているが、それをさらに出典から離れて軽くするとこういう感じになる。

 猿蓑調と炭俵調の違いであろう。

 

無季。

 

十句目

 

   入口の鎌預れと頼むなり

 きりかい鷹の鈴板をとく     濁子

 (入口の鎌預れと頼むなりきりかい鷹の鈴板をとく)

 

 「きりかい」はよくわからない。餌を切って体重を落とす飼い方のことか。

 「鈴板」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 鷹の尾につける鈴を支える板。〔運歩色葉(1548)〕

  ※俳諧・糸屑(重安編)(1675)三「鈴板は小鷹の印のむすひ哉〈芳際〉」

 

とある。鷹の位置を知るために尾に鈴を付ける。

 冬の鷹狩りではなく、夏場の鷹を慣らすときの作業であろう。鈴板を解くために鷹小屋の入口の鍵を預れということか。

 

無季。「鷹」は鳥類。

 

十一句目

 

   きりかい鷹の鈴板をとく

 船上り狭ばおりて夕すずみ    涼葉

 (船上り狭ばおりて夕すずみきりかい鷹の鈴板をとく)

 

 鷹の訓練が終わり船で戻って夕涼みといったところか。

 

季語は「夕すずみ」で夏。「船」は水辺。

 

十二句目

 

   船上り狭ばおりて夕すずみ

 軽ふ着こなすあらひかたびら   千川

 (船上り狭ばおりて夕すずみ軽ふ着こなすあらひかたびら)

 

 「あらひかたびら」は西鶴の『好色一代男』に出てくる「あらひがきの袷帷子」か。「あらひがき」は色の名前で、洗われて色が薄くなったような柿色のことだという。

 芭蕉の元禄三年の発句に、

 

 川風や薄柿着たる夕涼み     芭蕉

 

というのがあるが、この薄柿より更に薄い柿色なのだろう。

 柿渋の衣はかつては穢多・非人の着るものだったが、まあ歌舞伎役者も身分としては非人だし、むしろそのアウトローっぽさがかっこよかったのではないかと思う。

 

季語は「あらひかたびら」で夏、衣裳。

 

十三句目

 

   軽ふ着こなすあらひかたびら

 伏見まで行にも足袋の底ぬきて  芭蕉

 (伏見まで行にも足袋の底ぬきて軽ふ着こなすあらひかたびら)

 

 この頃の伏見は秀吉の時代の繫栄の跡形もなく荒れ果てていた。

 伏見の撞木(しゅもく)町には遊郭があったが規模も小さく高級な遊女がいるわけでもなく、京のあまり金のない男が徒歩で遊びに行くようなところだった。

 芭蕉の時代より十年くらい後になるが、大石内蔵助がここで遊んでたといわれている。今の近鉄伏見駅の近く。

 伏見も広く、悲惨な事件のあった京アニ第一スタジオは六地蔵のほうで、だいぶ離れている。

 

無季。「伏見」は名所。「足袋」は衣裳。

 

十四句目

 

   伏見まで行にも足袋の底ぬきて

 食のこわきも喰なるる秋     此筋

 (伏見まで行にも足袋の底ぬきて食のこわきも喰なるる秋)

 

 「食(めし)のこわき」は強飯(こわいい)のことで、小豆の入ってない強飯は白蒸(しらむし)とも言った。

 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 小豆(あずき)を入れない白いこわめし。小豆を入れた赤飯に対していう。しろむし。

  ※浮世草子・当世乙女織(1706)六「伏見までの夜食にせよとて赤飯白(シラ)むし餠酒を小船に積でくばりありく」

 

とある。伏見へ行くときの弁当の定番だったか。

 

季語は「秋」で秋。

 

十五句目

 

   食のこわきも喰なるる秋

 月影は夢かとおもふ烏帽子髪   濁子

 (月影は夢かとおもふ烏帽子髪食のこわきも喰なるる秋)

 

 「烏帽子髪」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「 烏帽子をかぶる時の髪の結い方。髪を後部で束ねて、そのまままっすぐに上へ立てた型。烏帽子下(えぼしした)。」

 

とあり、烏帽子下のところには、

 

 「俳諧・桜川(1674)春一「大ふくの茶筅髪かや烏帽子下」

 

の句が引用されている。烏帽子下を茶筅にに喩えることにこの頃新味があったとするなら、茶筅髷という言葉はこの頃生まれた言葉か。織田信長が有名だが。本来はこの髷で烏帽子が落ちないように固定した。

 強飯は『源氏物語』末摘花巻にも出てきて、二条院に戻って寝込んいた源氏の所に頭中将がやってきて、

 

 「二条院におはして、うちふし給ひても、なほ思ふにかなひがたき世にこそと、おぼしつづけて、かるらかならぬ人の御ほどを、心ぐるしとぞおぼしける。思ひみだれておはするに、頭中将おはして、こよなき御あさいかな。ゆゑあらむかしとこそ、思ひ給へらるれといへば、おきあがり給ひて、こころやすきひとりねの床にて、ゆるびにけり、うちよりかとのたまへば、しか、まかではべるままなり。朱雀院の行幸、けふなん、がく人、まひ人さだめらるべきよし、うけたまはりしを、おとどにもつたへ申さんとてなむ、まかで侍る。やがてかへり参りぬべう侍りと、いそがしげなれば、さらば、もろともにとて、御かゆ、こはいひめして、まらうどにもまゐり給ひて、引きつづけたれど、ひとつに奉りて、猶いとねぶたげなりと、とがめ出でつつ、かくい給ふことおほかりとぞ、うらみ聞え給ふ。」

 

 (「朝寝とは随分いい身分じゃないか。さては何かあると見たな。」

と言うのでむくっと起き上がり、

 「独り気楽に寝床でくつろいでいるところに何だ?内裏からか?」

と答えると、

 「そうだ。ちょっとした用事のついでだ。

 朱雀院の紅葉狩りの件で、参加する演奏者や舞い手が今日発表されるので、この俺が内定したことを左大臣にも伝えようと思って来たんだ。

 すぐに帰らなくてはならないんだ。」

と急がしそうなので、

 「だったら一緒に。」

ということで、お粥やおこわを食べて、二人一緒に内裏へと向い、二台の車を連ねたけど一緒の車に乗って、頭の中将は、

 「にしても、眠そうだな。」

と何か言わせようとするものの、

 「隠し事が多すぎるぞ。」

とぼやくのでした。)

 

という場面がある。王朝時代では遅れた朝食をとるときにお粥と強飯を食べることはよくあったことなのか。それにしても炭水化物に炭水化物だ。

 古代では強飯のほうが普通で、むしろ水で炊いたご飯をお粥と呼んでいたという。

 ただ、この場合普段食べないものを食べなれてということだから、舞台は古代ではなく、既に烏帽子をかぶる習慣のなくなって烏帽子髪(茶筅髪)だけが残った戦国時代、落武者の風情と見た方がいいのだろう。

 

 「人間五十年

 下天の内をくらぶれば

 夢幻のごとくなり」

 

なんて敦盛を歌いだしそうだ。

 

季語は「月影」で秋、夜分、天象。

 

十六句目

 

   月影は夢かとおもふ烏帽子髪

 殿の畳のふるびたる露      千川

 (月影は夢かとおもふ烏帽子髪殿の畳のふるびたる露)

 

 畳の上に寝ているのなら落武者ではない。江戸時代の改易や減封によって没落した御殿のことだろう。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

十七句目

 

   殿の畳のふるびたる露

 花咲ば木馬の車引出して     芭蕉

 (花咲ば木馬の車引出して殿の畳のふるびたる露)

 

 当時の木馬は子供の遊び道具ではなく、乗馬の練習に使うものだった。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「日本では江戸時代に、武士の子弟の馬術の練習用としての木馬があった。木馬に、手綱(たづな)、障泥(あおり)などをつけ、鐙(あぶみ)の乗り降り、鞭(むち)の当て方を練習した。馬術を習うのに木馬を用いることは中国でもあったといわれている。また木馬は、乗馬に使用する鞍(くら)を掛けておく道具として用いられ、鞍掛とよばれた。」

 

とある。ある程度の重さがあるので、大八車に乗せて運んだか。

 老いて隠居した殿様は庭に桜の花が咲く頃には昔のことを思い出して木馬を庭に引っ張り出してみるが、木馬が去ったあとの部屋の畳もいつしか古びてしまった。これぞ「さび」といったところか。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。

 

挙句

 

   花咲ば木馬の車引出して

 ほこりもたたぬ春の南風     此筋

 (花咲ば木馬の車引出してほこりもたたぬ春の南風)

 

 強い春風は土ぼこりを巻き上げるが、ほこりも立たぬ程度のかすかな温かい風で、どうやらまだ花も散ることはないと、この巻は目出度く終わる。雨は上がったのかな。

 半歌仙ということでやや物足りないが、芭蕉さんの体調もそれほど良くなかったのだろう。冬になれば許六・洒堂を加えて、不易と流行のバランスを取った猿蓑調から、より初期衝動を重視する炭俵調の完成へ向かって加速してゆくことになる。

 

季語は「春」で春。