山は水無瀬の霞たつくれ
下解くる雪の雫の音すなり 心前
(下解くる雪の雫の音すなり山は水無瀬の霞たつくれ)
これはまさに水無瀬三吟の発句、
雪ながら山もと霞む夕べかな 宗祇
を本歌とした付けだ。
季語:「解くる雪」で春、降物。
下解くる雪の雫の音すなり
猶も折りたく柴の屋の内 兼如
(下解くる雪の雫の音すなり猶も折りたく柴の屋の内)
「折りたく柴」と「柴の屋」とを掛ける。「折りたく柴」といえば、
思ひ出づる折りたく柴の夕煙
むせぶもうれし忘れ形見に
後鳥羽院(新古今集)
の歌で、後鳥羽院の歌が続く。哀傷の雰囲気を残しながらも簡素な柴の戸の隠者の風情を加える。
季語:なし。その他:「柴の屋」は居所の体、非植物。
猶も折りたく柴の屋の内
しほれしを重ね侘びたる小夜衣 紹巴
(しほれしを重ね侘びたる小夜衣猶も折りたく柴の屋の内)
「小夜衣(さよごろも)」は夜着のこと。綿の入った着るタイプの蒲団。
「しほれし」は「しをれし」のことか。悲しみに打ちひしがれることをいう。前句の「折りたく柴」と合わせると、哀傷の意味になる。
「しほる」は湿るの意味もあり、音が同じ事から両義的に用いられていると思われる。湿るの意味だと、
まばらなる柴の庵に旅ねして
時雨にぬるるさ夜衣かな
後白河院(新古今集)
が本歌になる。
「折りたく柴」に掛けることで死別を暗示させる深い悲しみと、涙で濡れる小夜衣のイメージとを重層的に表わしているところが、紹巴一流のテクニックと言えよう。哀傷だが恋や羇旅の連想も働く。
季語:なし。その他:哀傷。「小夜衣」は衣裳。
しほれしを重ね侘びたる小夜衣
おもひなれたる妻もへだつる 光秀
(しほれしを重ね侘びたる小夜衣おもひなれたる妻もへだつる)
恋や羇旅の連想が働くところで、それを受けて旅により妻と別々に寝ることになったと展開する。光秀は愛妻家だったとも伝えられている。
季語:なし。その他:恋。「妻」は人倫。
おもひなれたる妻もへだつる
浅からぬ文の数々よみぬらし 行祐
(浅からぬ文の数々よみぬらしおもひなれたる妻もへだつる)
遠く隔たった妻だから、手紙のやり取りをしては涙ぐむ。ただ、打越の「しほる」が「湿る」であるなら、ここでまた「ぬらし」で輪廻気味だ。
季語:なし。恋。
浅からぬ文の数々よみぬらし
とけるも法は聞きうるにこそ 昌叱
(浅からぬ文の数々よみぬらしとけるも法は聞きうるにこそ)
前句の「ぬらし」を推量の助動詞に取り成し、経文をさぞかし深く読み込んだことであろう、とする。
「聞く」には「わかる」という意味もある。今でも「何言ってんだかさっぱりわからない」というときに「はあっ、聞こえねーよ」と言う。仏法を解くことが出来るのはちゃんと理解しているからだ。
前句を最初から推量の「ぬらし」にしてしまうと、自分の文を浅からぬと言うことになり、不遜な感じになってしまうので、やはり「濡らし」とすべきであろう。
季語:なし。釈教。
とけるも法は聞きうるにこそ
賢きは時を待ちつつ出づる世に 兼如
(賢きは時を待ちつつ出づる世にとけるも法は聞きうるにこそ)
「賢し」はいにしえの聖賢のことで、時にあらざるときには隠士となり、時が来れば現れる。
季語:なし。
賢きは時を待ちつつ出づる世に
心ありけり釣のいとなみ 光秀
(賢きは時を待ちつつ出づる世に心ありけり釣のいとなみ)
これはご存知太公望の古事。一応コトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」を引用しておこう。
「中国古代,西周建国の際の功臣。名は呂尚。師尚父と尊称される。姓は姜(きよう)氏で,周王室の姫(き)姓と通婚関係にあった姜族に出るのであろう。彼は,貧窮の中に年老いて,渭水で釣をするところを周の文王に見いだされ,周の先公の太公が望んでいた人物だということで太公望と呼ばれたという。軍師として武王の殷王朝討伐に力を尽くし,斉に封ぜられてその始祖となった。その事跡については,秦・漢時代にすでに物語的な要素が多く,後世それがより発展して,《封神演義》などの小説の中では魔術師的能力を備えた軍師として活躍する。」
季語:なし。その他:「釣」は水辺の用。
心ありけり釣のいとなみ
行く行くも浜辺づたひの霧晴れて 宥源
(行く行くも浜辺づたひの霧晴れて心ありけり釣のいとなみ)
前句の「心ありけり」を霧が晴れたので、天にも心があるという意味に取り成す。
釣り人を眺める流人の風情がある。古くは『楚辞』の「魚父」、日本では、
わたの原八十島かけて漕き出でぬと
人には告げよあまのつりぶね
参議篁(古今集)
の歌にも通う。
季語:「霧」で秋、聳物。その他:羇旅。「浜辺」は水辺の体。
行く行くも浜辺づたひの霧晴れて
一筋白し月の川水 紹巴
(行く行くも浜辺づたひの霧晴れて一筋白し月の川水)
夜の情景とし、川の水が月の光に照らされている。
一筋白しというのは波がきらきら光っている情景ではなく、浜辺伝いに旅行く途中、小高い場所から川を見下ろし、川全体が空の明るさを反射してほの白く見える情景であろう。
季語:「月」で秋、夜分、光物。その他:「川水」は水辺の体。
一筋白し月の川水
紅葉ばを分くる龍田の峰颪 昌叱
(紅葉ばを分くる龍田の峰颪一筋白し月の川水)
前句の川水を龍田川とし、龍田の峰を付ける。赤く染まった龍田の峰の間を分けるように川の水が一筋白い。
季語:「紅葉」で秋、植物、木類。その他:「龍田の峰」は名所、山類の体。
紅葉ばを分くる龍田の峰颪
夕さびしき小雄鹿の声 心前
(紅葉ばを分くる龍田の峰颪夕さびしき小雄鹿の声)
龍田の峰に小雄鹿の声を付けて、ここは軽く流す。
季語:「小雄鹿」で秋、獣類。
夕さびしき小雄鹿の声
里遠き庵も哀に住み馴れて 紹巴
(里遠き庵も哀に住み馴れて夕さびしき小雄鹿の声)
隠遁者の心情に転じる。
水無瀬三吟に、
山深き里や嵐におくるらん
慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き 宗祇
の句があるが、この世が憂鬱で嫌気がさしたので世を捨てて山に籠るものの、馴れた頃には世間が恋しくなり寂しいと思うようになる。この心の変化をふまえて、「住み馴れて」「さびしき」と付く。
芭蕉にも、
憂き我を淋しがらせよ閑古鳥 芭蕉
の句がある。
季語:なし。その他:「庵」は居所の体。
里遠き庵も哀に住み馴れて
捨てしうき身もほだしこそあれ 行祐
(里遠き庵も哀に住み馴れて捨てしうき身もほだしこそあれ)
「ほだし」は馬を歩けなくするための綱で、それが拡大されて動きを妨げるものを意味する。
住み馴れて寂しいから、住み馴れたのにかつて捨てた世俗での事柄が未だに足かせになっている、と展開する。
季語:なし。その他:述懐。「身」は人倫。
捨てしうき身もほだしこそあれ
みどり子の生ひ立つ末を思ひやり 心前
(みどり子の生ひ立つ末を思ひやり捨てしうき身もほだしこそあれ)
世を捨てたものの、時分の幼い子供がどうなってしまうかを思うと、それが道の妨げになる。
季語:なし。その他:「みどり子」は人倫。
みどり子の生ひ立つ末を思ひやり
猶永かれの命ならずや 昌叱
(みどり子の生ひ立つ末を思ひやり猶永かれの命ならずや)
この子を育て上げるためにも長生きしなくてはならない。
男に捨てられた女性の、死ぬほど辛い思いをしても、それでも子供のために生き抜こうという決意の句といっていいだろう。
君がため惜しからざりし命さへ
長くもがなと思ひけるかな
藤原義孝(後拾遺集)
を子のためと変えたか。
季語:なし。その他:恋。
猶永かれの命ならずや
契り只かけつつ酌める盃に 宥源
(契り只かけつつ酌める盃に猶永かれの命ならずや)
これは祝言の盃であろう。共に白髪の生えるまで心の変わらぬことを約束する。
季語:なし。その他:恋。
契り只かけつつ酌める盃に
わかれてこそはあふ坂の関 紹巴
(契り只かけつつ酌める盃にわかれてこそはあふ坂の関)
これは一転して離別の句になる。
別れの水杯を交わしては、それでもいつかまたきっと逢おうと約束する。「逢う」を「大坂」の関に掛けるのは和歌では常套と言えよう。
かつこえて別れも行くか逢坂は
人だのめなる名にこそありけれ
紀貫之(古今集)
名にしおはば相坂山のさねかづら
人に知られて来るよしもがな
三條右大臣定方(後撰集)
などの歌がある。
逢坂の関は京都と大津の間にかつてあった関で、室町時代にはまだ存在してたようだが、さすがにこの戦国時代にはもうなかっただろう。
季語:なし。その他:離別。「あふ坂の関」は名所。
わかれてこそはあふ坂の関
旅なるをけふはあすはの神もしれ 光秀
(旅なるをけふはあすはの神もしれわかれてこそはあふ坂の関)
旅となれば今日のことも明日のことも神のみぞ知る。ならば逢う坂の関なのにここで別れるのも人智の計り知れるものではない。
逢坂の関にはかつてここで、
これやこのゆくもかへるも別れつつ
しるもしらぬもあふさかのせき
蝉丸(後撰集)
の歌を詠んだ蝉丸を祭る関蝉丸神社がある。元は猿田彦命(上社)と豊玉姫命(下社)を主際神とする神社で、後に蝉丸も祭っている。猿田彦命は巷(ちまた)の神ということで道祖神と習合して、旅の神様といえよう。
季語:なし。その他:羇旅。神祇。
旅なるをけふはあすはの神もしれ
ひとりながむる浅茅生の月 兼如
(旅なるをけふはあすはの神もしれひとりながむる浅茅生の月)
前句の「あすはの神」を「阿須波神(あすはのかみ)」に取り成す。
『万葉集』の防人歌に、
庭中の阿須波の神に木柴さし
吾は斎はむ帰り来までに
の歌がある。
旅人の帰りを待ち、一人浅茅生の月を眺め、阿須波の神に無事を祈る。
季語:「月」で秋、夜分、光物。その他:「浅茅生」は植物、草類。
ひとりながむる浅茅生の月
爰かしこ流るる水の冷やかに 行祐
(爰かしこ流るる水の冷やかにひとりながむる浅茅生の月)
浅茅生といえば露だが、ここでは雨の後の露であろう。
この里も夕立しけり浅茅生に
露のすがらぬ草の葉もなし
源俊頼(金葉集)
の歌もあるように、一雨来たあと、いたるところに水の流れができて冷ややかになったところに、それを雨上がりの月が照らす。
季語:「冷やか」で秋。その他:「流るる水」は泉や川などでないなら水辺にはならない。
爰かしこ流るる水の冷やかに
秋の螢やくれいそぐらん 心前
(爰かしこ流るる水の冷やかに秋の螢やくれいそぐらん)
草の葉の露のきらめきは秋の蛍に喩えられる。
おく露に朽ち行く野辺の草の葉や
秋の蛍となりわたるらむ
壬生忠岑(是貞親王歌合)
の歌がある。「草の葉は秋の蛍となりわたるらむや」の倒置なので、秋の蛍は秋まで生き残った蛍ではなく、露を蛍に喩えたものと思われる。
季語:「秋」で秋。その他:「蛍」は比喩なら虫類にはならない。
秋の螢やくれいそぐらん
急雨の跡よりも猶霧降りて 紹巴
(急雨の跡よりも猶霧降りて秋の螢やくれいそぐらん)
秋の蛍は用例も少なく難題と言えよう。
むらさめの露もまだひぬまきの葉に
霧たちのぼる秋の夕暮れ
寂蓮法師(新古今集)
を本歌にしてしのいだといっていいだろう。
季語:「霧」で秋、聳物。その他:「急雨(むらさめ)」は降物。
急雨の跡よりも猶霧降りて
露はらひつつ人のかへるさ 宥源
(急雨の跡よりも猶霧降りて露はらひつつ人のかへるさ)
にわか雨で雨宿りしていた人も、霧に変わったので露を払いつつも帰って行く。
季語:「露」で秋、降物。その他:「人」は人倫。
露はらひつつ人のかへるさ
宿とする木陰も花の散り尽くし 昌叱
(宿とする木陰も花の散り尽くし露はらひつつ人のかへるさ)
西行法師の歌に、
花見んと群れつつ人の来るのみぞ
あたら桜の咎にはありける
西行法師
とあるが、花がすっかり散ってしまえば人も帰って行く。
季語:「花の散る」で春、植物、木類。その他:「宿」は居所の体。
宿とする木陰も花の散り尽くし
山より山にうつる鶯 紹巴
(宿とする木陰も花の散り尽くし山より山にうつる鶯)
花の散る頃には、里に下りていた鶯も山の奥へと帰って行く。
季語:「鶯」で春、鳥類。その他:「山」は山類の体。
山より山にうつる鶯
朝霞薄きがうへに重なりて 光秀
(朝霞薄きがうへに重なりて山より山にうつる鶯)
前句の「山より山」を山が幾重にも重なった情景として「重なりて」と付ける。朝霞が薄いので重なった山が見える。
季語:「霞」で春、聳物。
朝霞薄きがうへに重なりて
引きすてられし横雲の空 心前
(朝霞薄きがうへに重なりて引きすてられし横雲の空)
藤原定家の、
春の夜の夢の浮橋とだえして
峰にわかるる横雲の空
藤原定家(新古今集)
の歌を本歌に、霞の上に重なったものを山ではなく雲とし、その雲が「わかるる」という穏やかなものではなく「引きすてられし」とする。
季語:なし。その他:「横雲」は聳物。
引きすてられし横雲の空
出でぬれど波風かはるとまり船 兼如
(出でぬれど波風かはるとまり船引きすてられし横雲の空)
前句を嵐をもたらした雲が引き捨てられたとし、戻ってきた船を付ける。
季語:なし。その他:「波風」「とまり船」は水辺の用。
出でぬれど波風かはるとまり船
めぐる時雨の遠き浦々 昌叱
(出でぬれど波風かはるとまり船めぐる時雨の遠き浦々)
前句の急な波風を時雨のせいにする。
季語:「時雨」で冬、降物。その他:「浦々」は水辺の体。
めぐる時雨の遠き浦々
むら蘆の葉隠れ寒き入日影 心前
(むら蘆の葉隠れ寒き入日影めぐる時雨の遠き浦々)
時雨が上がって夕陽が射しても、蘆の葉の陰は寒い。前句の「めぐる時雨」を浦々を廻る時雨として、遠い浦に去っていったとする。
季語:「寒き」で冬。その他:「むら蘆」は植物、草類、水辺の用。用→体→用となるので、これは式目に反する。蘆が水辺の用になることを見落としたか。『応安新式』には「浮木 舟 流 浪 水 氷 水鳥類 蝦 千鳥 葦‥略‥(已上如此類用也)」とある。
むら蘆の葉隠れ寒き入日影
たちさわぎては鴫の羽がき 光秀
(むら蘆の葉隠れ寒き入日影たちさわぎては鴫の羽がき)
「羽がき」はここでは「はねがき」だが「はがき」ともいう。鳥が羽を繕うことをいう。
暁のしぎの羽がきももはがき
君が来ぬ夜は我ぞ数かく
よみ人知らず(古今集)
の歌にも詠まれている。
ここでは「数かく」を導き出す序詞のように用いられている。
光秀の句のほうは、前句の蘆の葉陰の夕暮れの景として付けている。
季語:「鴨」で冬、鳥類。その他:『応安新式』に「水鳥類」とあるので、これも水辺の用になる。泊り舟(用)→浦々(体)→むら蘆(用)→鴨(用)と水辺が四句続いてしまっている。
たちさわぎては鴫の羽がき
行く人もあらぬ田の面の秋過ぎて 紹巴
(行く人もあらぬ田の面の秋過ぎてたちさわぎては鴫の羽がき)
三句目の水辺はまだ紹巴さんとしても、ついうっかり見落としたということかもしれない。水辺は三句までOKだが、用、体ときてまた用に戻ることはできない。
『湯山三吟』の宗祇法師も、
うらみがたしよ松風のこゑ 肖柏
花をのみおもへばかすむ月のもと 宗長
藤さくころのたそがれの空 宗祇
と植物を三句続けてしまった例がある。
ただ、四句目の「鴨」は上客の光秀さんだから大目に見たか。
まあ、そういうことで、紹巴さん自らここは展開を図る必要があったのだろう。「田の面」は水辺にはならない。
ひと気のない田んぼでは鴨がのんびり羽づくろいをしている。
また、冬が三句続いた後で「秋過ぎて」は「行く秋」と同じでぎりぎり秋になる。
季語:「秋すぎて」で秋。その他:「行く人」は人倫。
行く人もあらぬ田の面の秋過ぎて
かたぶくままの笘茨の露 宥源
(行く人もあらぬ田の面の秋過ぎてかたぶくままの笘茨の露)
「笘茨(とまぶき)」菅や茅などを編んだ薦のようなもので屋根を吹くことをいう。通常の茅葺よりも簡単で、仮小屋や船の屋根などの簡易的な吹き方をいう。
秋の田のかりほの庵のとまをあらみ
我が衣手は露にぬれつつ
天智天皇(後撰集)
が本歌になる。
季語:「露」で秋、降物。
かたぶくままの笘茨の露
月みつつうちもやあかす麻衣 昌叱
(月みつつうちもやあかす麻衣かたぶくままの笘茨の露)
接頭語の「うち」は不意に、とか勢い良くというだけでなく「すっかり」という意味もある。月を見ながらついつい夜明けまで起きていた、という意味で、前句の「かたぶく」が月が傾くの意味に取り成されている。
麻衣で月みつつかたぶくままうちもやあかす笘茨の露、となる。
季語:「月」で秋、夜分、光物。その他:「麻衣」は衣裳。
月みつつうちもやあかす麻衣
寝もせぬ袖のよはの休らひ 行祐
(月みつつうちもやあかす麻衣寝もせぬ袖のよはの休らひ)
前句の「うちもやあかす」は心(うち)を明かすに掛けて用いることで恋に転じる。「休(やす)らひ」は寝るのもためらわれという意味。
やすらはで寝なましものを小夜更けて
傾くまでの月を見しかな
赤染衛門
の用例がある。
季語:なし。その他:恋。「袖」は衣裳。「よは」は夜分。
寝もせぬ袖のよはの休らひ
しづまらば更けてこんとの契りにて 光秀
(しづまらば更けてこんとの契りにて寝もせぬ袖のよはの休らひ)
人が寝静まったら夜更けに来ると約束したので、寝るのをためらっていると付く。
季語:なし。その他:恋。
しづまらば更けてこんとの契りにて
あまたの門を中の通ひ路 兼如
(しづまらば更けてこんとの契りにてあまたの門を中の通ひ路)
静まるのを待たねばならないのは、たくさんの門が並ぶ街中の家に通うからだとする。
季語:なし。その他:恋。「門」は居所の体。
あまたの門を中の通ひ路
埋みつる竹はかけ樋の水の音 紹巴
(埋みつる竹はかけ樋の水の音あまたの門を中の通ひ路)
前句の「通ひ路」を水の通い路とし、埋めた竹の筧とする。
季語:なし。その他:「竹」はこの場合筧の材料なので植物に非ず。
埋みつる竹はかけ樋の水の音
石間の苔はいづくなるらん 心前
(埋みつる竹はかけ樋の水の音石間の苔はいづくなるらん)
「石間」は「いはま」と読む。
西行法師の、
岩間とぢし氷も今朝はとけそめて
苔のした水道求むらむ
西行法師(新古今集)
を元に、水は埋めた竹の中を通ってゆくので、苔の下水はどこへ行った、となる。
季語:なし。その他:「苔」は植物、草類。
石間の苔はいづくなるらん
みづ垣は千代に経ぬべきとばかりに 行祐
(みづ垣は千代に経ぬべきとばかりに石間の苔はいづくなるらん)
これはいうまでもなく、
わが君は千代に八千代にさざれ石の
いはほとなりて苔のむすまで
よみ人知らず(古今集)
で、本来は主君を表わした「君」は中世には天皇の意味でも用いられた。「君が代」は神国日本を表わすようになり、ここでは神社の由来の古さに転じて用いられている。
神社の瑞垣(玉垣に同じ)は千代の時を経て、岩間には苔もむしている。きっと元はさざれ石だったのだろう。
行祐は愛宕神社の西坊(威徳院)の住職で、当時は神仏習合したいたから、本地の方のお坊さんだったのだろう。神社の方にも敬意を表しての句と思われる。
季語:なし。その他:神祇。
みづ垣は千代に経ぬべきとばかりに
翁さびたる袖の白木綿 昌叱
(みづ垣は千代に経ぬべきとばかりに翁さびたる袖の白木綿)
「木綿」は「ゆふ」と読む時は楮の皮から作った糸をいう。布は太布(たふ)という。ここでは神事の際に袖に付けた糸のことか。「翁さぶ」はいかにも翁らしく神々しくなる、という意味。
季語:なし。その他:神祇。「袖」は衣裳。
翁さびたる袖の白木綿
明くる迄霜よの神楽さやかにて 兼如
(明くる迄霜よの神楽さやかにて翁さびたる袖の白木綿)
翁を神楽の翁舞のこととする。
季語:「霜よ」で冬、降物、夜分。「神楽」も冬。その他:神祇。
明くる迄霜よの神楽さやかにて
とりどりにしもうたふ声添ふ 紹巴
(明くる迄霜よの神楽さやかにてとりどりにしもうたふ声添ふ)
神楽歌のこととする。神楽歌のなかには神楽の余興で歌われていた催馬楽も含まれているという。「霜よ」を助詞の「しも」で受けている。
季語:なし。
とりどりにしもうたふ声添ふ
はるばると里の前田を植ゑわたし 宥源
(はるばると里の前田を植ゑわたしとりどりにしもうたふ声添ふ)
前句の「うたふ声」を田植歌とする。
季語:「田植え」で夏。その他:「里」は居所の体。
はるばると里の前田を植ゑわたし
縄手の行衛ただちとはしれ 光秀
(はるばると里の前田を植ゑわたし縄手の行衛ただちとはしれ)
これまでしばらくまともだった光秀の句が、ここに来てふたたび(文字通り)暴走している。
合戦をするときは田植え時などの農繁期を避けるものだが、田植えがおわったので、ここぞとばかり馬に乗り、植え終わった田んぼのあぜ道をこっちが近道と駆け抜けて行く。「はしれ」という命令口調は、いかにも軍を率いているという連想を誘う。
これは武将としての実感に基づくのだろうが、明らかに風雅の道からは外れる。
季語:なし。
縄手の行衛ただちとはしれ
いさむればいさむるままの馬の上 昌叱
(いさむればいさむるままの馬の上縄手の行衛ただちとはしれ)
「いさむ」は「勇む」とも「諌む」とも取れる。この両義性を生かして、やんわりと光秀を諭した句なのだろうが、果たして光秀は理解できたかどうか。
「勇む」とすれば、光秀の思惑通りのいくさの句となる。「諌む」ならまた違った意味になる。
ともに平家打倒のために戦ってきた木曾義仲と今井三郎兼平が、いまや頼朝によって滅ぼされようとしている時、義仲は兼平に諌められ、一人自害するために粟津の松原に行き、最後は泥田に馬ごと沈んだ。
この故事を踏まえるなら、戦いを避けるために自害の道を選べと諭されて、田んぼのあぜ道を近道とばかりに走り、底なしの泥田にその最期を遂げよ、という句になる。
戦争を常に悲劇的に捉えるのが、本来の風雅の精神だ。しかし、光秀はこのあと、本能寺への縄手を諌められることなく勇んでしまった。
季語:なし。その他:「馬」は獣類。
いさむればいさむるままの馬の上
うちみえつつもつるる伴ひ 行祐
(いさむればいさむるままの馬の上うちみえつつもつるる伴ひ)
諌めたのお伴の人で、主人はそれを聞いて「そのとおりだな」と笑みを浮かべ、共に立ち去ってゆく。
季語:なし。その他:「伴ひ」は人倫。
うちみえつつもつるる伴ひ
色も香も酔ひをすすむる花の本 心前
(色も香も酔ゑひをすすむる花の本うちみえつつもつるる伴ひ)
花の下では花の色も香りも酒を飲んで酔うことを勧めているかのようだ。「飲みましょか」と言われればお伴の者も「従います」と同意する。さあ、花の下で乾杯。
季語:「花」で春、植物、木類。
色も香も酔ゑひをすすむる花の本
国々は猶のどかなるころ 光慶
(色も香も酔ゑひをすすむる花の本国々は猶のどかなるころ
光慶は明智光秀の長男で、この連歌会では挙句のみの参加となった。挙句は主筆が詠むことが多いことから、あるいはこの連歌会の主筆を務めていたか。光慶は結局このあと、本能寺の変、山崎の戦いの後、亀山城で死ぬこととなる。
挙句は祝言で締めるのを普通とし、ここではその習慣に従って無難に収めた感じがする。もっとも、戦国武将の一人としては、いつか諸国は戦乱から開放され、長閑に花に酔う、そんな時代を見たかったのかもしれない。無念。
季語:「のどか」で春。
明智光秀の評価は、近代では謀反を起こした逆臣とされてきたが、江戸時代の評価は決して悪くはなかった。もちろん、徳川家の治世なのだから、豊臣秀吉の評価が下がるのは当たり前なことではある。だがおそらくそれだけではなかっただろう。
基本的に庶民の感情としては、戦乱に明け暮れた時代には戻りたくないと思うのが普通だ。秀吉は、天下が統一されてもなお、わざわざ朝鮮半島まで行って戦争を続けた。これは決して庶民が望んでいたことではなかった。織田信長にしても豊臣秀吉にしても、天下統一によって平和がもたらされるということには興味がなく、あくまで戦争を続けることに生きがいを感じるタイプの人間だった。
それに、明智光秀の名誉のために決定的なことを一つ言えば、光秀は天皇を守った。秀吉は関白の位に満足したが、信長はそのような臣下の位には興味がなく、あくまで自分が天皇になることを求めた男だった。信長があのまま順調に天下を取っていたら、足利将軍を放逐したり、比叡山の虐殺を行ったように、天皇家を根絶やしにするくらいのことはやりかねなかった。私には光秀がそれを知ってて、身を挺して天皇を守ったように思えてならない。光秀はその意味では、和気清麿と並ぶ忠臣として讃えられても良かったはずだ。
光秀のやろうとしたことは、決して間違ってはいなかった。ただ結局は、信長や秀吉に比べて、その才能があまりに凡庸だったことで、天下統一の英雄になり損ねたのだろう。この『愛宕百韻』の光秀の句を見ても、凡庸さは致し方ない。しかし、下手なりに、一生懸命風雅の心を理解しようとした形跡は認めていいだろう。
芭蕉の発句に、
月さびよ明智が妻の話せむ 芭蕉
の句があるが、江戸時代に良妻賢母といえば、山内一豊の妻ではなく、明智光秀の妻だった。そして、この句にも、当時光秀を逆臣としてなじる風潮はどこにもなかったことが知られる。