生まれ

 どうも、鈴呂屋こやんです。

 かつては「ゆきゆき亭こやん」と名乗ってました。「あきのあきみ」「武藤あきみ」という名前を使っていた時期もありました。どちらにしても有名ではありません。

 1961年生まれ、男。団塊の後の谷間世代です。

 先祖に外国人はいません。生粋の日本人です。

哲学の終わり

 高校生の頃、アルベール・カミュの『シジフォスの神話』を読んで以来、哲学に目覚めるものの、マルチン・ハイデッガーの『ヒューマニズムについて』やジャック・デリダの『エクリチュールと差異』等で哲学の終わりを知らされました。

 20世紀といいますと、1930年にクルト・ゲーデルが不完全性定理を証明し、演繹による矛盾のない体系が不可能なのがわかり、一方でカール・ポパーは帰納法の限界を指摘したことで、演繹法でも帰納法でも絶対的な真理が不可能なのが明らかになる、そんな時代でした。もっともこれは、古代ギリシャの時代に予見されていたことでもありました。

 ゼノンのパラドックスはどんな学説(ドクサ)でも必ず反対の主張が成り立つことを明らかにし、そこからソフィストたちの弁論術が発達し、弁証法が哲学に取り入られるようになってゆきました。絶対的な真理アレーテイアは一種の神秘体験のようにただ沈黙するしかなく、その間におびただしい数のドクサだけが作られては反証され、近代に入ってもそれこそ哲学者の数だけ哲学があると言われてたところを見ると、哲学は始まると同時に終わっていたのかもしれません。

 それに加えて先の大戦ではナチスがヘーゲルやニーチェなど様々な哲学を宣伝に用いてましたし、日本でも京都学派の哲学が学徒動員の学生に「これなら死ねる」と言わしめたともいいます。さらに戦後にスターリニズムの闇が少しづつ暴かれ、哲学は世界を救うどころか、むしろ世界の破滅に手を貸しているかのように思われたのも無理のないことでした。

 絶対的真理は不可能で、あるのは自然科学という真理への近似値だけ。その自然科学は20世紀の終わりごろから本来哲学の課題だった「意識」の問題にも果敢に挑戦するようになりました。

 そういうわけで、大学では哲学を専攻したものの、大学を出た後の私の興味は、自然科学と日本の古典文学の方に移って行きました。大学院でもう少し哲学を学ぼうという気持ちもありましたが、経済的事情で進学を断念し、それからはトラックの運転手をしながらの独学の生活が始まりました。

そもそも芸術とは

 そもそも美というのは何らかの秩序を発見した際に快楽物質を生じる生理的反応であり、数式に美を感じたり道具類に機能美を感じるのも同じ理由による。

 これに対して芸術の美は特に、当面役に立たないものでありながらも何らかの秩序を持ったものに感じられる美を言う。

 秩序のあるものは記憶しやすく、当面役に立たなくても、それをストックしておけば、何か予期せぬ事態が生じた時にそれが役に立つ可能性がある。

 問題解決の一つのモデルとして使用し、それによって新たな仮説を思いつき、それが的中したなら大きな利益となるし、それが生存や子孫を残すことに左右するなら、より多く美を感じるものが適者生存し、より多く美を感じるような進化が生じる。

 こうして人間にとって美を感じることは生理的欲求であり本能となった。

 

 芸術は何のためにあるのかと言えば、それはより多くの秩序のアイデアをストックすることで様々な問題に柔軟に対応し、問題解決のための創意を生み出すためにあると言って良い。

 問題解決の対象が森羅万象に及び、日々変化する世界の不測の事態を想定しなくてはならない以上、芸術は多様でなくてはならない。そのために芸術の創作は自由でなければならない。

 芸術は基本的に多様でなければならず、また無制限でなければならない。また、その価値を当面の有用性で判断することはできない。

 

 芸術に優劣をつける習慣は基本的にゲームから始まる。歌合せ、句合わせも本体はゲーム性の高いもので、古代オリンピックでは芸術も種目になっていたし、今日のBボーイカルチャーでもラップのMCバトルやダンスバトルなどはゲームから始まっている。

 芸術が有用性で評価されるのではない以上、芸術の優劣は基本的に遊びにすぎない。ただ、膨大な数の芸術作品が存在するものの、時代の変化や戦乱など不測の事態で芸術は容易に失われる。芸術の優劣を競うことはその際の保護・保存の優先順位をつけるのに役に立つ。

 今日のように膨大なデータが保存可能な時代にあっては、過去に比べて作品に優劣をつける必然性がなくなっているといえる。芸術批評の衰退はその意味では必然と言えよう。大量に保存可能な時代には作品の優劣よりも多様性を優先させなくてはならない。

 

 人間の五感は生得的にも後天的にも多様であり、一人一人みな違うと言って良い。同じ絵を見ても万人に同じに見えるということはないし、同じ音楽を聞いていても万人に同じ音に聞こえるということはない。

 色彩感覚は生活習慣や生活環境によって特定の色が研ぎ澄まされたりするし、音楽についても特定周波数の音が研ぎ澄まされたりする。もちろんその程度には個人差がある。

 同じに見えてない映像作品、同じに聞こえてない音楽作品に万人に通用する基準は存在しない。作品の多様性同様、好みの多様性も担保されなくてはならない。

 

 芸術の有用性は芸術の本質とは無関係で、あくまで政治的な問題にすぎない。そして、この政治の介入こそが芸術を最も歪めるものに他ならない。

 限られた芸術しか保存できなかった時代は、当然ながらその保存の優先順位に政治が左右した。勅撰集の選でも千載集で伊勢平氏の歌が排除され、「さざなみや」の歌だけが詠み人しらずで入集するということもあった。同様のことはその後の勅撰集にもあった。

 近代に入ると左右のイデオロギーの対立がさらに芸術を歪めることになった。作品は国家体制に有用かどうか、あるいは革命に有用かどうかといった、思想によって評価される習慣ができてしまった。思想性は芸術の本質には何の関係もない。芸術の本質は多様性であり一様性ではない。

 正岡子規は理屈は芸術ではないと言ったが、この言い方は正確ではない。どんな理屈があろうがなかろうが、芸術の芸術性には何の関係もないというべきであろう。芸術は作者の思想と無関係なるがゆえに、思想の違いを越えて多くの人を繋ぐ力がある。ある作品の価値は、その作者が極左であろうが極右であろうが関係ない。

 芸術を思想で判断するのは、芸術の保存の際の政治的判断であり、特に近代国家においては教育上の判断に他ならない。ただ、芸術教育は美意識にほとんど影響を与えない。ただ嫌々描きたくもない絵を描かされ、歌いたくもない歌を謡わされたトラウマを植え付けるだけだ。

 

 芸術規制は白紙説という非科学的な思想が大きく影響している。暴力を教えなければ誰も暴力を知らないなんて本気で思っているお目出度い考え方だ。

 暴力や性暴力や差別も人間の本性に根差すもので、その衝動だけでなく、その手口や心理など多くの情報があった方が対処も予防もしやすくなる。こういう表現は閲覧の制限はやむを得ぬにしても、情報そのものを無いものにすべきではない。

 特に人の性癖は多様で、自分と異なる性癖の人間のすることは予想しにくい。その多様な性癖を表現することで相互に理解し合えば、犯罪の抑制にもなる。LGBTに限らす暴力的な性癖の表現もそれをイメージし、対処するためにも規制すべきではない。サドの小説が文学であるのもそのためだ。

 ポルノサイトをよく見る人なら、人間の性欲がいかに多様かわかるであろう。それに気づかせてくれるだけでもポルノサイトには価値がある。閲覧の制限は必要だが、禁止すべきではない。

 そういうわけで、

 

 芸術は人間の生理的な自然の欲求であり、抑圧すべきではない。

 芸術は多様であり、優劣はゲームである。

 芸術は当面の有用性(特に政治的有用性)に左右されるべきではない。

 

 これをポリシーとしていきたいと思う。

人権思想の限界

 地球は広大な宇宙に浮かぶ小さなボートだ。このボートには定員がある。その定員を越えて人口が増えれば、命の選別をしなくてはならない。そうしないとボートは沈む。多分沈む前に闇雲に「あいつを降ろせ」とばかりに戦争状態に陥る。

 かつて近代化以前の社会では、命の選別が宗教と結びついて、その土地々々で様々なシステムを作り上げてきた。

 すべての人に平等の権利を主張する人権思想は、こうした命の選別と矛盾する。そこに人権思想は最初から限界があった。

 第二次世界大戦後の一部の先進諸国は経済の飛躍的な成長と少子化に助けられて、人権思想は一瞬勝利したかに見えた。だが、それは幻想だ。

 地球的規模で見れば、人口は相変わらず増加し続けている。それでいて世界経済は停滞している。世界中の人が平等の権利を主張すれば、必ず戦争が起こる。だからといって命の選別を認めようとすれば、人権思想はその大きな障害となる。

 有限な地球に無限の生命は生きられない。このこととすべての生き物は平等の生存権を持つという主張は相容れない。

 人権思想はただ経済の発展によって物があり余り、争う必要がなくなり、なおかつ人口増加が抑制された時のみ機能する。

 世界中がそうなれば何ら問題はない。

 だが今の現実はまだその状態には程遠い。無制限な人権の拡張は必ず地球に破滅をもたらす。すでに先進国は分断している。これが将来の虐殺を生まないという保証は何もない。

 フロンティアや新興国は侵略戦争でその危機を乗り切ろうとする可能性が高い。既にロシアがその口火を切った。

 繰り返す。有限な地球で人口が増え続ける限り、人権思想は矛盾する。無制限な人権の拡張は地球を滅ぼす。

歴史の終焉

 マルクスの予言した歴史の終焉は既に見えている。

 社会主義革命、プロレタリア独裁、計画経済、富の再分配という考え方は既に破綻したが、マルクスの予言は生きている。

 基本的にはプロレタリアが資本主義の高い生産性をもたらすシステムを理解し、それを自分のものにすればプロレタリアがブルジョワと同等の高い生産性を生み出す主体になることができる。

 この根底をマルクス以降の社会主義者はみんな忘れていたと言って良い。プロレタリアが高い生産性を学ぶことなく革命を起こせば飢餓に陥るのは当然のことだ。

 歴史の終焉は既に見えている。簡単なことだ。プロレタリアが投資に参加することで、全員が資本家になればいいだけのことだ。

 誰もが投資家であると同時に労働者であれば、資本の利益は労働者に配分され、誰も疎外されることがない。

 かつて株の売買は多額の手数料を伴うもので、素人には敷居が高かった。だが、インターネットがその問題を解決した。

 資本主義は必ず資本家が儲かるようにできている。これが真理なら、何で資本家にならないんだ。今なら誰でもなれる。

 もちろん、投資で損する人もいる。経済音痴で経済の発展に寄与できる能力を持ってない者は、市場で自然に振り分けられることになる。能力のあるものはそれに応じた富を持つ権利を、そうでない者にはそれなりのベーシックインカムを、これが正解だ。

 全員が投資家になれば資本家と労働者は対立するものではなくなり、疎外も存在しない。

 そして能力のあるものが経済を引っ張って、地球全体の生産性を高め、それと同時に自然な少子化によって人口増加の圧力から解放されれば、やがて世界中が今の先進国と同等の豊かさを獲得し、同等の人権を獲得できる。

 マイノリティも資本から疎外されているというなら、資本への参加を促さなくてはならない。既に対象生産大量消費の効率追求の時代は終わって、更なる経済成長のためにはロングテイル市場の発展が不可欠になっている。いわゆる少数者のための生産消費を付け加えることだ、より経済は発展する。その担い手はマイノリティこそふさわしい。

 LGBT市場、障害者市場をこれから作っていかなくてはならない。その担い手はLGBTであり障害者だ。

 衣食足りて礼節を知るとは昔の人の言葉だが、これは衣食足りて人権を知ると言ってもいい。生きるために他を犠牲にする必要がなくなれば、差別も自ずとなくなる。

 ただ、文化摩擦と差別を混同してはいけない。世界が多様であり続ける限り、文化摩擦はなくならない。ただ、どの文化圏も侵略することもなく受けることもなく独立を享受できるなら、文化摩擦は仲の良いほど喧嘩する程度の笑えるものになる。

 文化的多様性は世界経済の発展のために不可欠であり、絶対に世界を一つにしてはいけない。多様性は、一つの文化が行き詰まった時に他の文化がそれを補うことによって保険の役割を果たす。

 これは生命の多様性と同じだ。種が一つしかないならそれが滅んだら生命は全滅する。種が多様であればどれかが生き残る可能性が高くなる。それと同じで文化も多様でなければならない。

 多様な文化はそれぞれ国を持って独立しなくてはならない。なぜなら二つの相反するルールは共存することができないからだ。車は右を走っても左を走っても自由だということにはできない。文化的なさまざまな習慣も、相容れぬものが同一地域に併存するのは危険なことだ。日本人は昔から言っている。郷に入れば郷に従え。

 様々な文化が存在しても、共通の言葉がある。それは生産性を高めてくれるのに不可欠な共通言語、科学と市場だ。グローバル市場は米帝の支配なんかではない。それは科学を米帝の教義だというのと同じくらい馬鹿げている。科学と市場による統一と様々なローカル文化の共存、これが正解だ。

 経済が未発達な所に人権だけを拡張すれば、世界は取返しのつかない破滅的な戦争になる。経済を先行させて人権を後からついてくるようにすれば世界は平和になる。

 生産性の向上と人口の抑制で平和で安定した人権が保障された世界は実現可能だし、もうすぐそこまで来ていると言っていい。迷うな。ゴールはもう見えている。