鈴呂屋日乗2012

12月31日

 今日も一日正月の料理を作りながら一年の終わり。煮物、ぶり照り、鶏照り、ローストビーフ、チャーシュー、玉子焼き、つくね、鶏のテリーヌなど毎度一貫性もなく作っている。今年はシーザーサラダやひよこ豆サラダも作ってみたが、特にコンセプトはない。こやんの気まぐれ御節。
 今年の大晦日は特にアニメは見なかったなあ。
 illionのヴィデオクリップは見た。ピアノとチェロをバックにしたバラードで、あとはボーカル勝負?英語はうまいし、これで世界を狙うのか。
 それにしてもすっかり、ロックは衰退しましたという感じで、これからの音楽はどこへ向うのか。楽器やエフェクターの技術革新もそうそう画期的なものが出てくるとは思えないし、人工的に作れそうな音はあらかた作られてしまったとなると、自然の音に近いものに戻ってゆくのか。

12月30日

 今年の年末はやけに忙しかった。渋滞もひどかったし、こんな時期に山梨に2度も行った。でも、渋滞は大月から初雁までで、意外にたいしたことなかった。それに十何年ぶりくらいにささやかながら賞与というものを見た。まだ日本にはこの風習が残ってたんだと思った。
 まあ、世間ではいろいろな配慮からあまり大声では言いたくなくて、不景気を装っているのだろうけど、景気は順調に回復していているみたいだ。原発が止まっても景気がよくなっているということを認めたくない人がいるのかもしれない。
 外国で、小麦粉や卵を投げつけあう祭の映像がテレビに映し出されていたけど、トマト祭りといいオレンジ祭といい、こういう祭も元は生産過剰対策だったのだろう。日本ではテレビ祭とかやって、みんなでテレビをビルから落として楽しむといいのかもしれない。
 日本の内需はそうそう伸びようがないし、成長戦略といってもせいぜい高齢者の貯蓄を崩して消費に回すか、そうでなければ新興国や途上国市場を狙うということになるのだろう。金融緩和しても、資本は海外へ流れて行くだけだし、内需拡大は貯蓄を減らすことになる。公共事業といっても、まず震災復興と古いインフラの修理に費やさなくてはならない。原発復活なら再生可能エネルギー市場は中国に持っていかれる。それで景気が良くなったとしても、あとの財政破綻が恐い。
 まあ、自民党が派手にばらまいて、その後処理は維新の会に任せるつもりなんだろう。維新の会に政権を取らせて増税だけさせたら、後は内部分裂を待つだけ。石原派もいれば、旧民主党グループもいるから、橋下さんも大変だろう。

 今年は忘年会には行かなかったが、過去の恨みを素早く水に流し、後に残さないというのは日本人の最大の美徳で、原爆を落とされてもアメリカを恨まずに来たからこそ戦後の高度成長もあった。
 歴史というのは、当事者が死亡した後は文献学の問題にすぎず、実際に過去に遡って事実を確かめることができないのだから何とでも言えてしまう。だから歴史認識なんてものは神話のようなもので、どこの国でも自分達の都合の良いようにゆがめるのが恒だし、共通認識ができたとしてもそれは政治的妥協の産物であって客観的事実ではない。
 歴史問題については、ある程度の年月が経過したなら「忘れる」ということも重要なことで、それを韓国や中国にも判ってもらう必要がある。そうしないと、必ず新たな戦争の火種になる。
 もっとも、忘年会というのは本来「年を取るのを忘れる」という意味だという説もあるが、本来はそうだったとしても、この言葉は、過去のことは速やかに水に流して、常に未来に向ってポジティブに進んでいこうという精神の表れとして既に定着している。だからこれを「望年会」に変えろという意見は却下。日本をいつまでも過去の恨みを引きずるネガティブな国にしてはならない。

 うだうだと理屈は言わず年忘れ

12月23日

 ようやく葵巻クリアーということで、今年一年もあとわずか。
 途中でペースダウンしたが、来年もまた最低でも明石巻までは終らせたい。
 世の中を見ても、日本でも遅ればせながら再生可能エネルギーや電子書籍など新しい波が押し寄せた一年で、震災を契機にした新しい日本の再生の始まりを感じさせる年だったかも。政治も自民党・官僚主導政権で元に戻らなければいいが、三年間の民主党の嵐のあとで元通り復旧というわけには行かなくて、やはり何かが変わって行くことだろう。
 年は後戻りはしない。人は取り残されても。

12月16日

 事前の世論調査が大きく外れることがないから、結果は最初から見えていたようなものだけど、要するに官僚の勝利、政治主導の敗北ということに尽きるのだろう。
 実の所前回の衆議院選挙では俺も自民党に投票した。民主党のマニフェストはどれも時代遅れなバラマキ政策ばかりだったから、ほとんど何も期待はできなかった。実際鳩山政権はボロボロだったし、菅・野田の二代はまだましだったが、小沢派の執拗な揺さぶりでやはりボロボロだった。
 政治主導を実現するには、政党が独自に政策決定能力を持つ専門家集団を組織する必要がある。ただ、それには金がかかる。政治家自身の選挙資金の調達にも苦労しているような現状では、やはり夢の夢なのか。
 もちろん、政党が政策決定機関を持ったとしても、それだけでは不十分だ。官僚が終身雇用で、政権がどう変わろうが同じメンバーなのでは、政権が変わっても官僚は動かない。いくら政治主導で頑張っても官僚にそっぽ向かれたのではどうしようもない。官僚の終身雇用をやめて、政権交替の際に官僚も入れ替れるようにしなくては意味がない。
 しかし、これだけのことは一朝一夕にできることではない。今回の民主党の3年間の混乱ぶりは、しばらく日本人にとって大きなトラウマになるだろうし、これから4年の間にそれを払拭できるような政党が現われるのかどうか。それができないなら、自民党政権と官僚支配はふたたび長く続くことになるのではないかと思う。
 有権者の意識も変わる必要がある。バラマキを期待するようなたかり根性は言わずもがなで、いつか政治家が何とかしてくれるという感覚ではいつまでたっても無力感が残るだけだ。なぜなら政治家は官僚の言いなりになるか、官僚の反乱にあうかどちらかなのだから、政治家は何も出来ない。ただ甘い公約を掲げて有権者の気を引くだけの存在だ。
 本当に何とかしようと思うなら、自分から金を出し、口を出し、行動するしかないだろう。つまり、本当に自分達の政党を作るしかない。

12月7日

 この前、岡本倫の「エルフェンリート」をブックオフで8巻まで買ってきて読んだ。
 元はというとyoutubeでalmoraというトルコのバンドを見つけ、その中に、Işık Ver Bana (elfen lied)というバックにどう見ても日本のアニメと思われるアニメの画像が流れいてるものがあって、何だろうと思っていたら「エルフェンリート」というアニメらしかった。
 日本ではグロテスクなシーンが多くて最初は地上波で放送できず、後にその辺のシーンをカットしたものが地上波で放送されたらしいが、全く知らなかった。
 日本よりも海外で高い評価を得たらしく、それでこのトルコのバンドの曲のカラオケにも用いられたのだろうか。
 最近iTunesでこの曲の入ったアルバムをダウンロードしたので、そのついでに原作を探してみたら、8巻まではすぐに見つかった。
 日本のアニメは世界を魅了する力を持っている。この文化を大事にしてくれる政治家はいないものか。選挙中だから、これ以上は言えないが‥‥。

 今日は山本淳子の『私が源氏物語を書いたわけ』(2011、角川学芸出版)を読み終えた。
 この文章はいわゆる「女房語り」ではない。主に女性の読者を対象に、お気軽なガールズトーク風の文体とは程遠い。
 かといって、御門や大臣に奏上する体でもない。敬語が使われてないからだ。
 となると、この「紫式部」は誰に対して語りかけているのか。おそらく、気難しいが権威のある文章博士を読者として想定して書いているのだろう。
 そのせいか、この紫式部は、常に先祖を敬い、帝や政敵だった家系についても配慮を欠かさないし、漢文の素養を決してひけらかすことなく、いつもおっとりとした良い女であることをアピールしている。
 当然、あの「ニンニク女」が自分ではないと言い張っているが‥‥。

 こやん源氏の葵巻は、目下の所87パーセントというところか。今年中にupしたい。

11月25日

 今日は黒田原スタートで「奥の細道」の旅の続き。
 さすがに遠いので新幹線を使った。
 高架線から朝焼けのほの赤く染まった富士山や丹沢奥多摩の山々がくっきりと見えた。
 谷中、、荒川、戸田の競艇場、大宮などあっという間に通り過ぎ、すぐに広い田んぼの広がる所に出た。
 小山では日光の山々も見え、奥の方は雪を抱く。
 今まで歩いてきた道があっという間にすっ飛ばされ、ドラクエのルーラの呪文もこんなかと思った。

 旅木枯し新幹線をルーラにて

 旅のお供は前回に続きkobo touchで、おととい本が届いて早速入力した上野白浜子の『猪苗代兼載伝』(2007、歴史春秋出版)を読みながら行った。本をばらさずに取り合えず読めればと急いで入力したのと、二段組の頁を四つに分けたため、一部文字が切れている所があった。
 兼載の年賦の集成は大変な作業で、近代の連歌冬の時代にあっては貴重なものではある。ただ、付け句は基本的にフィクションであるにもかかわらず、あたかも兼載自身の境遇であるかのように引用されるのは、やはり写生説に毒された近代俳人の悪弊か。
 そうこうしているうちに、那須塩原に着き、そこから黒磯へ行く電車に乗り換え、黒磯でまた乗り換えて、8時過ぎには黒田原をスタートした。
 快晴で、那須の山々の山頂の方は雪だった。
 黒田原から真直ぐ県道28号線で足のへ行っても良かったのだが、曾良の「旅日記」だと、
 「芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ (十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)、八幡ノ大門通リ之内、左ノ方ニ遊行柳有。」
とあり、奥州街道で芦野の宿の手前に出て、宿場町を通り過ぎてから左に曲がったようなので、線路沿いに前回来た道を戻り、ゆめプラザの方へ曲がり、りんどうラインに出て、豊岡から奥州街道に合流することにした。
 今年一番の冷え込みという話だったが、霜柱が立ち、畑の野菜には霜が降りているものの、日は既に高く、小春日和だった。
 ゆめプラザの先に鬼子母尊堂があった。犬がやたらと吠えていて、ゆっくりお参りもできない。俺の体から犬嫌いの匂いが出ているのか、昔から犬には吼えられる方だ。

 公孫樹散り犬吠え立てる鬼子母堂

 りんどうラインに合流する地点に毛足の長い白馬がいた。その先には青々とした草の生えている所があちこちにある。冬枯れの山にあってなかなか奇麗だ。牧草地なのだろうか。
 下川を過ぎ熊田坂温泉神社の方へ行く分岐点のすぐ手前にお稲荷さんがあった。この当たり人家も少なく、長閑な農村風景が広がる。なかなかのいい眺めだ。ついつい写真をたくさん撮ってしまうが、歳とって足が不自由になったら、この「奥の細道」の旅の写真のスライドショーをきっと何度も見るんだろうな。
 やがて旧奥州街道に出る。すぐに豊岡の集落がある。ここも長閑でいい所だ。
 黒川を渡ると、右側に鳥居が見える。夫婦石神社で、二つに割れた大きな石が祭られていた。末永い夫婦和合を祈りつつ先へ行くと夫婦石の一里塚があった。今ではひなびた田舎道だけど、かつてはやはりメインストリートだったのだろう。
 西坂を降りる旧道があり、芦野の里が見えた。途中草鞋を掛けた石祠があり、四方を注連縄で囲ってあった。大神の字は分かったが、上の字は分からなかった。
 下ると広々とした盆地で、ここが西行・芭蕉ゆかりの「遊行柳」のある芦野の里だ。
 田んぼの向こうに鳥居が見えたので行ってみた。途中、芦野氏居館跡があった。鳥居は健武山温泉神社の鳥居で、二の鳥居のあたりは紅葉が散って赤い絨毯になっていた。
 その向こうに狛犬があり、銘は読み取りにくいが嘉永4年か。
 拝殿前にも狛犬があるが、震災で崩れたのか、左側のは直置きされ、右側は転がってた。左側の台座には昭和9年の銘がある。ただ、転がっている方はよく見ると尻を持ち上げた獅子山型の狛犬だ。ネットで調べたら崩れる前の写真があり、そこには左側が普通の狛犬で右側が柱の上にその尻を持ち上げた狛犬が乗っていた。黒田原神社の「逆狛犬」の仲間か。
 境内の左側には巨大な杉の木があった。「天然記念物 杉」と書かれている。
 健武山温泉神社をあとにすると、そのまま294号線に出た。旧道は本当はこの一つ向こうにある。新道の脇には柳の木が植えられている。
 駐在所前の交差点を右に行くと旧道に出る。仲町通りと書いてあり一応商店街になっている。その先にはお寺があり、那須歴史探訪館がこっちにあるらしい。普段はこの手の博物館はスルーするのだが、黒田原駅前からずっとコンビニがなく、ここならトイレがあるのではと思って200円払って入った。立派な建物で、トイレも奇麗だった。
 展示物の説明の中に、黒田原は明治20年に鉄道ができるまでは原野だったことが書かれていた。なるほど、それなら曾良の「旅日記」に黒田原が出てこないはずだ。漆塚の集落があった以外は原野だったのだろう。
 この歴史探訪館には芦野の観光案内の地図やなんかが置いてあり、その中の一つ、「奥州街道・芦野宿 早わかりMAP」に「愛宕山と兼載」「愛宕山重修碑」が載っていたのは役に立った。
 旧道の所まで戻って遊行柳に向う。
 その途中に酒屋があった。お土産に純米吟醸池錦酒聖を買った。いろいろ勧められたが、大体は大田原か矢板の酒で、酒聖も太田原の酒だった。那須の伏流水が酒に向いているからだろう。その伏流水の源流に福島の放射性物質に汚染された廃棄物を埋めようなんて、国は何を考えているのやら。
 隣には石の博物館があり、その先道が右に曲がってすぐに左に曲がり、その先に行くと田んぼの中に大きな柳の木があり、その後には小高い山があり、岩が露出していた。あれが遊行柳と鏡山か。曾良の「旅日記」に、
 「芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ (十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)、八幡ノ大門通リ之内、左ノ方ニ遊行柳有。」
とあるのはこのあたりか。
 小さな川を渡り、新道を越えてゆくと、たしかに遊行柳と書かれていた。芭蕉の、「田一枚植えて立ち去る柳かな」の句碑はお約束といったところか。
 鳥居の向こうは散ったイチョウが絨毯のようになり、上の宮神社がある。明治29年銘の狛犬がある。
 遊行柳の所にはベンチもあり、ちょっと一休みする。立ち上がって歩き出そうとすると、何だか足がチクチクする。見るとズボンにびっしりとセンダングサの種が引っ付いている。そういえばあぜ道を歩いたりした。
 立ち止まって取っていると、どこからか「喜びの歌」のメロディーが流れてくる。正午を知らせる合図のようだ。

 立ち止まるわけは様々冬柳

 この後、兼載が晩年住んでいたという愛宕山を、さっきの案内図をもとに探しに行く。
 兼載は室町時代の連歌師で、宗祇と並ぶ中世連歌の大成者だ。

 花ぞ散るかからむとての色香かな   兼載
 夏の日に色こき山や雲の影      同
 月は名をわくるも一つ光かな      同
 一花を冬さく梅のさかりかな      同

といった発句がある。心敬の弟子で、宗砌・宗祇の流れとは違った、景物を並べ立てずに簡潔にその心を述べる風を受けついでいる。
 曾良の「旅日記」では、
 「其西ノ四五丁之内ニ愛岩(宕)有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄仍ノ松トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。」
とあり、里村紹巴の息子の里村玄仍(げんじょう)と間違えている。こっちの方は安土桃山時代の連歌師だ。ただ、実際に芦野の愛宕山の麓に暮らし、松の名前にもなったのは兼載だ。
 黒田原の方へ行く県道28号線を越え、「芦野基幹集落センター」を探した。赤い屋根の二階建ての大きな建物で、隣に野球のグランドがあった。その裏手の小さな山がどうやら愛宕山のようだ。
 公園のようになっていて登る道があり、山頂には聖徳太子と書かれた大きな碑がひっくり返っていて、震災で倒れたのか。
 その東側の道路を隔てた向こうに石碑が立っていた。文字が漢文でびっしり刻まれていたがすっかり磨り減っている。これが愛宕山重修碑なのだろう。案内のパンフレットにも判読不能と書いてあるが、今の技術なら多分読み取る方法はあるのだろう。予算の問題か。
 ふたたび旧街道に戻り、白河方面に向って歩き始める。道を猫が歩いている。今日はよく猫を見る。芦野は猫密度の高い町のようだ。
 突然爆音が聞こえてきてくる。見ると新道の方を数台のバイクが駆け抜けて行く。去年も日光へ行く途中の杉並木でこんな光景を見たなと思う。昨今の若者の車離れ、バイク離れが囁かれる中で、こういうのもそのうち無形文化財になるのではないか。
 少し行くと旧道は新道に合流する。新町の地蔵尊がある。
 新道に出て少し行くと、今度は左側に旧道が分かれ、峯岸の集落に入る。
 左側に小さな鳥居があり、狭くて険しい石段がある。峯岸愛宕神社だ。社殿には合掌した仏像と馬に乗った神像が並んでいた。
 このあたりは駒形切妻屋根の建物をよく目にする。車が止まっていてガレージになってたりするところを見ると、もとは馬屋だったのか。別にこんな所にクトゥルーの邪神たちが来ていたわけではないようだ。
 峯岸を出ると、今度は右側に旧道があり、板屋、高瀬などの集落がある。板屋の集落を過ぎると板屋の一里塚がある。夫婦石の一里塚からちょうど一里ということか。その先に道が広くて真直ぐになるところがある。雰囲気的に会津西街道の大内宿に似ている。違うのは建物が新しいということだ。このあたりが昔の板谷宿だったのだろう。
 脇沢でふたたび新道に合流する。合流地点に脇沢の地蔵様がある。左側のお地蔵さんの顔がやけに現代的だ。後から作り直したのか。
 やがて今度は左ヘ旧道の分岐点が見えてくる。その手前の右側に狛犬が一対直置きされている。なかなか面白い顔の狛犬だ。石段を登って行くと小さな石祠があった。
 旧道へ入るとかつての寄居宿で、ここもさっきの板屋宿によく似ている。東北の宿場はこういう広い直線道路に形成されることが多かったのか。
 この寄居宿から東北本線の豊原駅へ行く道が分岐している。時間も三時。この季節は日の暮れるのが早い。今日の「奥の細道」の旅はここまでということで、豊原駅に向う。
 道を曲がった所に鳥居がある。社殿はなく、庚申塔が立っていた。
 しばらく人家の少ない静かな道が続く。途中、笹平湿地の看板があり、公園として整備されている。「昭和天皇御視察地」と書いてある。
 豊原の駅から電車に乗って黒磯に出て、駅の立ちそば屋でそばを食う。何しろ食堂もコンビニもずっとなかったので、かなり遅い昼食となった。
 帰りは在来線で、今回は初めてグリーン車に乗ってみた。グリーン券は駅のホームでPASMOで買える。これは快適だ。本を読みうとうとしているうちに、あたりは東京のビル街。さっきまで歩いていたのが夢だったのか、それとも今見ているのが「幻の巷」なのか。何かかなりのギャップを感じる。日本も広いものだ。
 さて、今年の「奥の細道」の旅はこれで終り。結局白河の関まではいけなかった。あとは来年の春になるか。

11月18日

 今日は高尾山へ紅葉狩りに行った。
 さすがに人が凄かった。ケーブルカーは長い列だったので、歩いて登った。
 ケーブルカーの駅の前では紅葉祭でイベントが行なわれていたのか、なぜかCielito Lindoが聞こえてくる。確かに空は青くて奇麗だった。
 舗装された登山道も人の列で、外人さんもたくさんいた。
 金毘羅台の展望台からはスカイツリーも見えたし、筑波山や房総半島の山まで見えた。金毘羅台というだけあって、金毘羅さんの社があった。狛犬はなかった。
 ケーブルカーの高尾山駅に来ると、いよいよ身動きできないくらいの人で、そんな中、昼飯に焼おにぎりを買った。
 たこ杉を見て、浄心門へ来ると、2号路との分岐点の間にもう一本道があった。あまり人が通らないので行って見た。途中、静かな所でベンチもあったので、そこで焼おにぎりを食べた。上までいくと林野庁の慰霊碑があって、ここで行き止まりだった。それにしても立派な慰霊碑で、これって税金で?
 浄心門に戻り、薬王院に向う。途中、仏舎利塔があった。ここも結構静かで紅葉も奇麗だった。
 薬王院も身動きできないくらい人が多くて、ご本堂へ行く階段は列になっていてなかなか動かない。ここにそれほど古くない狛犬があった。横からも登る道があったので、そっちへ回った。ここにも狛犬があった。銘はなかったが、こちらの方はなかなか愛嬌がある顔をしている。子供が「シーサー!」って言ってた。
 あまりに人が列を為しているので、御本社や奥の院は断念した。
 帰りは来た道をそのまま引き返した。登山口付近で何かの儀式のようで、火を焚いて、山伏達が法螺貝を吹いていた。いくつもの法螺貝の音は不協和音を奏で、雅楽の笙の音にも通じる所がある。火を焚くせいか、傍には消防車が何台も待機して、物々しい感じだった。
 ケーブルカーの駅の前のステージでは太鼓の演奏があった。3時を過ぎていたが、これから登っていく人もたくさんいた。確かに夕陽に照らされた紅葉の方が昼間見るよりも奇麗だろう。日が暮れるのが早いから夜景を見に来ているのかもしれない。
 紅葉は庭園や公園のきちんと手入れされ、計算して植えられたものの方がきらびやかだが、山の自然の紅葉はやはり捨てがたい。去年は日光へ行ったし今年は高尾山で、来年はどこへ行こうか。

11月17日

 マスコミとしては昔のような保守・革新一騎打ちみたいな盛り上げ方はできないし、二大政党時代の到来もあっという間に過去のものになってしまったから、しょうがないから第三極で何とか盛り上げて選挙速報の数字を維持しようというところなのか。
 特に石原さんをやたらに持ち上げて、連日のようにメディアに乗せているから、そういうムードに流される人もいるのだろうな。橋下さんとか、橋下さんとか、橋下さんとか。
 今の日本の政治の一番の課題は財政再建でも震災復興でもエネルギー問題でもTPPでもなく、憲法改正だという釣りに、あとどれくらいの人が引っかかるかは見ものだ。
 官僚を批判するくらいは誰でもできるもので、問題はそれならどのように官僚システムを改革するのかというところだが、これは一政治家のその場の思いつきでできるものではない。
 40歳定年にすればいいなんて言ってた人がいたが、そんなことしたら今以上に多くのの天下り先が必要になる。その程度のアイデアしかないなら、石原氏に着いていった方がいいのかもね。
 政治は科学であり、制度や法律は仮説にすぎない。やってみてうまくいくものがあれば、それはいろいろな国や地域で取り入れられ、そこでまた検証され、生き残ったやり方はやがて世界のスタンダードになって行く。新しい制度を試みるには、世界でどういうやり方が試みられ、どういう結果になったかということを詳しく調査する必要がある。
 憲法改正を伴うような大改革であればあるほど、思いつきだけで乗り切ろうとすれば、ただ混乱を招くだけだ。さよなら維新の会。

11月15日

 かつて長いこと官僚が実質的な政治をやっていた時代があった。
 政治家は官僚の書いた原稿を読むだけで、特にこれといった専門知識を必要とせず、ただいかにして当選するかだけを考えていればよかった。
 当選することが最大の目標で、そのために嘘やできもしない公約で有権者を釣るのは当然のことだった。そして、当選した暁には当選し続けることが目標になる。当選回数何回ということで大臣の座が回ってきたからだ。
 民主党が政治主導を宣言して、官僚の梯子をはずしてしまった以上、自分達で政治をしなくてはならなくなったというのに、ほとんどの議員は相変わらずいかにして当選するかだけが最大の関心事だった。
 一部には今の状況をちゃんと自覚して、何とか変わろうともがいている政治家もいる。これが第一極。
 そして、昔ながらの官僚主導を懐かしむ人たちがいる。これが第二極。
 そして、相変わらず当選さえできれば政策は二の次だという人たちがいる。これが第三極。
 さあ、賢明な日本の国民はどれを選ぶのか。
 消費税を20パーセントにしても借金を返せるかどうかわからない国家財政。
 着実に力をつけてきた再生可能性エネルギー市場と福島原発事故で、今やエネルギー戦国時代に突入したと言ってもいい状況で、どのようなエネルギー政策を取るのか。
 国家やマスコミが世論への影響力を失い、代わりにネットが戦争すら起こしかねないような時代に、政治はどう対応していくのか。
 難問山積の今の日本に、答を出せる政治家は現われるのか。
 今度の選挙は地味だけど、前回の民主党政権が誕生した選挙以上に大きな転換点となる。

11月11日

 雑司が谷鬼子母神のススキミミズクが復活したというので、久しぶりに行ってみた。
 ススキミミズクは雑司が谷案内処で売っていた。小さいのは1000円、子持ちの大きいのは5000円だった。
 鬼子母神はお寺なので、入口の所には石の仁王像があった。樹齢600年といわれる大銀杏はまだ枝の先のほうがうっすらと黄色くなっている程度だった。
 お堂の前には狛犬があった。銘はなかったので、年代はわからない。
 鬼子母神を出たあと池袋の方へ向った。
 池袋周辺にはフクロウの像がたくさんある。「いけぶくろう」という駄洒落みたいだが。百円ローソンの前にもフクロウの像があった。「若者も老人も今も精一杯生きよう」と書いてあった。
 その百円ローソンの向かいに古本屋があった。講談社学術文庫の「カレワラ」上下を500円で買った。
 池袋はさすがに賑やかで、服やなんかが渋谷や新宿に比べて安い。チープながらも華やかな独特なファッション文化を感じさせる。
 その池袋もサンシャインを越えて大塚側に来ると急に店が途絶え、昔ながらの下町になる。銭湯があったが煙突がない。どうやって沸かしてるのだろうか。洗面器を持った近所の爺さんらしき人が歩いている。
 結局東京は広いといっても、ファッショナブルな所はごく限られたエリアなのだなと思った。

11月7日

 『ついにやってきた!電気自動車時代』(舘内端、学研新書)を読み終えた。文章も面白く読みやすい本で、電気自動車が高いのはバッテリーが高いからだというのもわかった。
 ただ、この著者はやはり趣味で車を運転する人で、俺のような仕事で車に乗っている人間からすると、はやり航続距離160キロは「使えない」と言わざるをえない。これでは一日走れないからだ。
 電気自動車のランニングコストの少なさは魅力だし、航続距離が400キロを越えるなら、タクシーや営業車などの大口需要が見込めるのではないかと思う。電気自動車が飛躍的に普及するかどうかは、やはり航続距離にかかっているのではないかと思う。
 パソコンのメモリー増量のように、電気自動車も買う時に自由にバッテリーを増量できるようにするといいかもしれない。
 マイカーの方は通勤と近所への買い物がほとんどだから、その点では電気自動車でもいいかなとは思うけど、旅行へ行くのに農家の庭先を借りて充電させてもらって、ついでに泊めてもらって一杯なんて、一昔前の無銭旅行みたいな文化論はちょっと時代錯誤ではないかと思う。やはりちゃんとインフラは整備してほしい。

 凸版が電子書籍に参入するというが、あまり乱立して共倒れにならなければいいが。大体どこも似たようにコンテンツだし、ファイルの互換性どころかバックアップすら取れないシステムでは、売れないからといって事業から撤退されてしまうと、あとはハードの寿命でソフトも消えるんじゃ、本当に手元においておきたい本は、紙の本を買って自炊した方がいいと言うことになる。
 音楽でもそうだが、本来著作物や有用な発明は人類の共通の財産であるべきであり、著作権はあくまで限定的なものでなければならない。そこをあまりがめつくなられてしまうと、かえって売れるものも売れなくなる。
 文化はまさにミーム(文化遺伝子)であり、複製することによって後世に伝えられてゆくもので、複製されなければ淘汰されてゆくだけだ。ありがたいお経は「写経」というコピーを取る行為によって広まっていくもので、複製のできない著作物はその場限りで消えて行くしかない。

 それにしてもオバマ大統領、ノーベル賞は貰うだけ貰って核廃絶は進まないし、グリーンニューディールと言いながら原発を推進するし、だからといってロムニーじゃもっと悪いということなのか、この程度でも再選させざるを得ない政治の貧しさは日本とそんなに変らないのかもしれない。
 テレビのニュースだと、いかにも盛り上がってるように見えるけど、本当は投票率も低いし、熱狂しているのはほんの一部で、大多数のアメリカ人はもっと醒めていて日本並に無党派層も多いんだろうな。

11月4日

 連休はほとんど家で過ごした。
 『野ざらし紀行─異界への旅─ver.3』『鹿島詣─花野の旅─ver.2』をupした。
 テキストファイルは簡単にPDFやEPUBファイルにできて、たいがいの電子ブック機器で読めるようだし、ネットを見ていると電子ブック作成ソフトもいろいろあるようだ。
 これだと、結局わざわざ出版社に原稿を持って行って、そこで編集者のOKをもらわなくても、勝手に本を作ってネットで売るという、音楽で言うインディーズのようなこともできるから、案外大手出版社が電子ブックに消極的な理由はそれが一番大きかったりして。
 ただ、ばらばらにあちらこちらのサイトで売っていても、読者の方もなかなか探せないから、それを一所に集める市場を作る必要があるな。
 今ではまだ夢みたいな話だが、そのうちそういう所からベストセラー作家が現われたりする時代が来るのかもしれない。

10月29日

 石原新党とか言うけど、結局たちあがれ日本の党首が変って党名が変るだけではないのか。それ以上の広がりが現実的に可能なのか。何か誇大妄想に取り付かれているような感じがする。
 第三極の結集なんて言ってるけど、自民も民主もバラバラで最初から第一極も第二極もないんじゃないかと思う。二大政党なんてとっくに終っている。
 石原氏は肝心な所をぼかしているけど、結局こういうことなのかな。つまり、日中はこれから戦争になるから、すぐに憲法改正して再軍備し、核保有する必要がある。そのためには、その他の政策論争をすべて棚上げにしろ、と。
 残念ながら今の日中戦争は民間の戦争であって、国家の戦争ではない。だからむしろ今やらなくてはならないのは、2ちゃんねるに対する様々な圧力をやめることと、領土問題をテーマにした愛国デモをマスコミが大々的に報道することだと思う。日本人も怒っているんだということを、もっと世界にアピールしていいと思う。国家はそれに対し、「よしなさい」とビートきよしになっていればいい。
 これが国家の戦争に発展すれば、日中双方とも市場で一斉に売られてしまい、ただでさえ停滞している経済が崩壊する。だから、いかに民間の間だけでガス抜きさせるか、日中両政府はそのことにかかっているといってもいい。

 書店でも楽天のイーブックストアでも、原発関係の本がたくさん並んでいるし、それだけ売れていて、再生可能エネルギーに対する認識も随分変わってきているのではないかと思う。変らないのは政治家やマスコミだけで、一般庶民のほうが先行しているのではないかと思う。
 日本の強みは無知蒙昧な群集が存在しなくて、江戸時代の頃から庶民が高い教養を身につけているところだ。だから、政治が多少まずくても何とかなってしまう。
 政権が自民党に戻ったからといって、すぐに再生可能エネルギーが駄目になるということではないだろう。成長する産業には必ず誰かが投資する。

10月28日

 昨日は『日本は再生可能エネルギー大国になりうるか』(北澤宏一、2012、ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読み終えた。俺も似たようなことを考えていたとはいえ、やはりこういう専門家が書くと説得力が違う。
 著者は超電導ケーブルの方の人らしく、これが実用化されれば確かに送電ロスがなくなり、日本全国で電力を融通できるようなネットワークが作れる。ただ、バイオマスに消極的なのは、基本的に電気の人だからか。
 今日は雨で「街道を行く」はなし。那須の旅のページをupした。

10月21日

 『野ざらし紀行─異界への旅─』はまだ20世紀だったことに書いたもので、2000年4月8日に一応出版されたのだが、当然ながら100部そこそこしか売れず絶版になった。
 その後、ネットを始め、ホームページを作ったので、そこに若干手直ししてUPするとき、スタイルもネット向けに本文を頭に持ってきて、それを解説するというふうに変え、いろいろリンクボタンを作ったりしてVer.2ということにした。
 今回はふたたび単純なテキストの形に戻し、Ver.3というのを作ってみた。内容もあれから10年以上経って、さすがに書き直したいところがいくつかあって改めた。
 目立たないけど、とりあえず『野ざらし紀行』-異界への旅-目次のページに前編をUP。

10月17日

 さて、最近の読書だが、仕事のときの待機時間が長くなって読書量が増えている。その分、夜の『源氏物語』を読む時間が圧迫されているが。
 とりあえず今日は『スウェーデンはなぜ強いのか』(北岡孝義、2010、PHP新書)を読み終えた。
 スウェーデンを賛美するのでもなく批判するのではなくと言いながらも、やはり賛美する本だなという感じは、既にタイトルに現われている。
 日本が他の国と大きく違うのは、明治以来一貫して西洋か政策を推進した時、伝統文化をことごとく破壊してきた点にある。だから、スウェーデンと日本を比較するという段になると、どうしても日本がいかに駄目かという視点になりがちになる。この本も例外ではない。
 たとえば、スウェーデンが個性尊重の国だという背後には、日本は没個性の国であるという一方的な思い込みが感じられてならない。
 実際はどうだろうか。日本は明治以降自国の伝統・文化を否定して西洋のスタイルを吸収してきた上、まして戦後は、敗戦を日本民族の文化・伝統の敗北だったとばかりにアメリカに追従し、明治以降に作られた新しい伝統までも否定してきた。
 その結果、日本の町並みは和洋中華エスニック何でもありのアナーキーなものとなり、西洋にしても、アメリカンスタイルやカントリー、カナディアン、北欧風、南欧風、東欧風、ロシア風からポストモダンに至るまで何でもありだ。
 町並みがそうだから、インテリアもファッションも何でもありで、その意味では日本ほど一人一人が個性的な国はない。
 むしろ「自由がありすぎる」というのが、多くの人の実感なのではないかと思う。
 三谷幸喜の『みんなのいえ』は多少誇張されているとはいえ、少なからず日本の家は何でもありのアナーキーなことになっている。
 サッカーにしても、ナデシコジャパンのメンバーがみんなそれぞれ個性的な髪型をしているのに対し、スウェーデンでもドイツでも、みんな判で押したようにロンゲのポニーテールだ。
 ヨーロッパの町並みも、どこの国でも大体そこの土地の決まった様式があり、一つの町の中はどこへ行っても金太郎飴みたいに同じような路地が続く。戦争で破壊されても、彼らは以前と寸分も変らないような建物を建てて復興する。
 H&Mは行ったことないから何ともいえないが、イケアに日本人が求めているのは豊かな個性ではなく、むしろ本物の北欧スタイルだと思う。
 そして、そこに来る人は同じ足で本格アメリカンカントリーの輸入雑貨の店にも行けば、中華街のエスニックグッズの店も覗いて行くし、小京都に旅行すれば和風雑貨をお土産に買い込んだりもする。
 つまり、イケアは「スウェーデン風のものがあってもいい。自由とはそういうものだ。」というところで受け入れられている。
 同じように、福祉国家を作ろうとしたときも、理念やビジョンが欠如しているのではなく、政治家や文化人一人一人がそれぞれ、スウェーデンの制度を真似るべきだ、いやオデンマークを学んだ方がいい、ドイツのシステムはこうだ、今アメリカではこうだ、中国では‥‥、ブータンでは‥‥と、みんなバラバラなことを言ってまとまらないのが最大の原因ではないかと思う。
 すべては伝統という一番中心となる軸を捨ててしまった喜劇だと思う。
 日本人は概して優秀で、天才的な能力を発揮する人が多く、それを許容する自由を持った国なのだと思う。ただ、それがそれぞれぶつかり合って共食いになっているのがこの国の最大の弱点なのではないかと思う。
 結果的には妥協、思考停止、先送りで、一番駄目な所に落ち着いてしまう。個性がありすぎるから、かえって打ち消しあって没個性のように見えてしまう。
 今日もテレビで、オランダのシステムを日本は見習うべきだと言ってた人がいた。猿真似ではなく日本のシステムを作ることが本当は大事なんだということを見落として、勝手なことばかり言っている。
 北欧の高度な福祉制度は、戦後の高度成長期の一番いい時期にタイミングよく作られたからうまくいったのであって、今の日本でそれをやるのはどっちみち無理な話だ。福祉に予算を割く前にまず借金を返さなくてはならない。多額の借金を背負ったままスウェーデンの真似などしたら、ギリシャより悪い状況になる。

10月14日

 今日は久しぶりの鎌倉。
 朝からどんより曇ってた。
 コースは同行者にお任せで、極楽寺に始まり、稲村ガ崎小を右に曲がって狭い道を行くと、やがて急な上り坂になり、やがて長谷給水塔に出る。ベンチとテーブルが二組ばかり置いてある。眺めはなかなかいい。
 そこから反対側に降りて行くと大仏トンネルの所に出る。古くて廃墟になっているものの、なかなか味のあるレンガ造りの建物がある。何の建物だろうと思って家に帰ってから調べたら、最初は県営水道ポンプ上だったところを後に大仏坂体育館になって、現在は使われてないということ。ドアの上に「戸萬露泉清」と書いてあった。これもよくわからない。
 道路の反対側に鳥居が見えたので行ってみた。小さな稲荷神社だった。お狐さんの顔がなかなか整っていて美形だ。
 大仏の方へ降りて行くとここは観光客がいっぱいだ。武器屋さんがあった。剣や刀や銃など、RPGに出てくるような装飾の施されたものがたくさんあった。
 この後また裏道を通って鎌倉文学館へと向った。途中大きな鳥居があるので行ってみると(同行者は神社に興味がないので俺だけ勝手に)、甘縄神明宮と書いてあった。観光コースから外れているのか人の気配はない。それでも鎌倉最古の神社らしい。
 石段の下には北条時宗産湯の井戸があった。「井」の字の形をした石組みの上に屋根がかぶせてある。神輿の置いてある倉庫の横には大きなイチョウの木があった。
 石段を登ると狛犬があった。昭和12年銘の招魂社系で、古いわりには色白で、ちゃんと手入れされてきたようだ。
 拝殿も本殿も立派だし、左側には境内社の五所神社、右側を登って行くと秋葉神社があり、そこにまた鳥居があり上に登って行くと小さな石祠があった。
 さて、鎌倉文学館だが、源実朝展をやっていた。鎌倉右大臣実朝というと、

 大海の磯もとどろに寄する波
     われて砕けてさけて散るかも

の歌の通り、数え28歳で砕けて散ってしまった人だが、磯に咲く波の花の儚く散る様に、自分の運命を重ねていたのかもしれない。
 『小倉百人一首』の、

 世の中は常にもがもな渚漕ぐ
     海人の小舟のつなでかなしも

の歌も、戦乱に打ちひしがれた世の中の悲しみに満ち溢れている。
 鎌倉右大臣実朝というと、正岡子規以来、写生の先駆者として、武士に相応しい勇猛な歌を詠んだとされてきたが、むしろ近代最も誤解されてきた歌人なのかもしれない。
 すっかり明治の軍国主義の宣伝に使われたまま、戦後も修正されずに今に至っているけど、本当は誰よりも平和を愛する人だったのだと思う。
 ところで、鎌倉文学館と言うと、『うみねこのなく頃に』では推理作家の八城十八が住んでいた所だし、最近ではアニメの『TARITARI』でウィーン(前田敦博)の家として使われていた。そういえば、この鎌倉文学館も本来は前田侯爵の別荘だった。
 庭にはバラ庭園があり、4分から5分の開花だった。秋薔薇は六軒島の記憶かな、かな?
 鎌倉文学館を出る頃から頬っぺたにひんやりと雨の気配が感じられた。佐助稲荷に向うと次第に霧雨になっていったが、佐助稲荷に入るとぴたっと止んだ。いや、止んだのではなく、木が茂っているため落ちてこなかったのだろう。
 佐助稲荷は何回か来ているが、相変わらず小さな石や陶器のお狐さんがたくさんいる。ただでさえ薄暗いところにどんより曇って雨まで降っているから、暗くて写真もうまく写らない。いつもはたくさんいるリスも一匹しか見なかった。
 このあといったん鎌倉駅の方へ向い、小町通を歩き、若宮大路の天金でかき揚げ丼を食べた。いつもは1000円を越えるような店には入らないのだが、でもこのかき揚げは分厚くてさくさくで、確かに今まで食べたかき揚げとは違っていた。
 次に海蔵寺へ行った。紫苑の花が咲いていた。寺の奥に小さな鳥居があり、洞穴(やぐら)の中に石が祭られていた。とぐろを巻いた蛇のように見える。水神さんか。海蔵寺には「底脱ノ井」と「十六ノ井」があるから、水の守り神がいてもおかしくない。
 このあとまた急な坂道を登り、亀ヶ谷坂切通しを越えて北鎌倉に出た。
 浄智寺は『TARITARI』では紗羽ちゃんの家になっていたが、この頃には雨も強くなってきて、それに前に来たこともあるので、入り口だけ見て北鎌倉駅に向った。

10月11日

 デイヴィッド・J・リンデンの『快感回路』(2012、河出書房新社)を読んでいたら、こういう一節があった。
 「脳スキャンの結果、唯一性別により大きく食いちがったのは、中脳水道周囲灰白質(PAG)と呼ばれる脳幹の古い領域だった。ここが男性では活性化するのに対して、女性ではしなかった。ここの活性化にどのような意味があるのかはよくわからない。PAGは苦痛を伴う刺激により活性化し、ここからエンドルフィンが放出されることが知られている。男性のオーガズムの快感にはPAGから放出されるエンドルフィンが関わっている可能性がある。」(P.133)
 つまり、性的オーガズムは男女に共通しているのはドーパミン・ニューロンの活性化による急激な興奮と、オキシトシンの働きによる穏やかな至福感だが、男だけはそれにエンドルフィンの快楽が加わるというわけだ。
 要するに、昔からよく言われる、女のほうが男よりもより多くの快感を得ているというのはどうも間違いで、実際は明らかに男の方が多くの快感を得ているということだ。
 しかし、男は女に男と同様かそれ以上の快感を女に与えることで、自分を優位な立場にしたいと願う。これはポトラッチ(競覇的な贈与)の原理と同じで、より多く与えた方がより多くの恩を売ることができ、心理的に優位に立つということによるものなのだろう。
 そこから、女は男を悦ばせるために、フェイクオーガズムを使うといったことが起きてくる。
 今でもネットで検索すると、女がいかにしてβエンドルフィンを出すかといういかがわしいサイトが無数にある。
 実際には女性にはエンドルフィンの快楽は得ていない。だから、多くの女性はむしろドーパミンによる性的興奮以上に、オキシトシンの穏やかな心地よさを求める傾向にある。このあたりは加藤鷹が「エリートセックス」の中で書いていたこととも一致すると思う。
 おそらく男性のみがエンドルフィンの快楽に預かるのは、より多くの子孫を残すために、男は可能な限りバラまき、女は相手を厳選するという戦略の違いから別々に進化したせいではないかと思う。
 男はすぐに快楽が病みつきになり、のめりこみ、ほとんど中毒に近くなり、失恋しても「思い切り」が悪く、いつまでも未練を残すのは、エンドルフィンのせいなのかもしれない。  そういえばニャルラトホテプも言っていた。
 「そりゃ、こんな事覚えたら思春期の小市民だって、もう二度としないと誓っても次の日またしてしまいますよね。嘉門達夫も歌いたくなりますわ。」
 「確かに女の子には分からない感覚でしたよーうふふー」
(逢空万太『這いよれ!ニャル子さん3』より)

10月10日

 今回那須への行き帰りに読んだ本は岡田尊司の『統合失調症 』(PHP新書、電子版)だった。
 統合失調症 はかつて精神分裂病と呼ばれていた。俺も思春期の多感?な頃は、精神病関係の入門書などを見ては、あれもこれも自分に当てはまると思い、一時期自分を分裂病の気があるなんて言っていた。今なら中二病と診断されるところだろう。
 昔はドーパミンの異常と言われていたが、今ではグルタミン仮説の方が有力になっているらしい。いずれにせよ脳内物質の異常であり、社会が悪いわけでもなければ、まして親のしつけが悪いわけではない。治療も薬物療法が一番大事なことには変わりない。
 もちろん、いくら風邪薬を飲ませていても、寒い中を過酷な労働をさせていたなら風邪は良くならない。それと同じで精神病の治療も、周囲の人間が温かく見守ることが大事なのは言うまでもない。周囲の人間の精神病への偏見から、下手に病院へ行くと「通院歴がある」なんて言われて、それだけで欠格者扱いされたのでは治るものも治らない。
 俺の欠点は読書の時でもついつい別のことを考えてしまうことで、たとえば「行動にいちいちコメントしてくる『注釈幻声』」なんて文章が出てくると、幻聴でいちいち失敗するたびにつっこみを入れられる「つっこみ幻声」なんてあったりしてなんてしょうもないことを考えて、ページをめくる手が止まってしまうことだ。
 「破瓜」という言葉もそんな思考を脱線させてくれる言葉で、昔辞書で調べて、「瓜」という字を二つに割ると「八」と「八」に所から来た言葉だということは知っていた。八が二つで米寿の婆さんにならずに十六歳の少女になり、瓜という字の形状を割るイメージから処女喪失を意味するようになったという。
 ただ、今考えると、「源氏物語」を読んでも昔は数え十四くらいで結婚するのが普通だったのだから、十六歳というのは昔としては遅い。案外近代に入ってから生じた意味だったのではないか。
 統合失調症の発生率が時代や民族を超えて一定だというのは、何らかの形でその遺伝子にメリットがあるからなのだろう。みんなが統合失調症じゃ困るけど、100人に一人くらいはいた方がいい、そういうことなのではないかと思う。
 その役割は、たとえばサッカーでいうファンタジスタのようなもので、みんなが正常な判断を下していると、何か未知の課題に接した時に一様に頭を抱えてしまうことになる。そういう時にやすやすとブレークスルーをしてしまう人が一人いるだけで、世界は救われるかもしれない。
 ドーハの悲劇は、11人全員がロングボールで来ると思ったからで、一人くらいショートでくると思った人がいたら、あの悲劇はなかったかもしれない。
 一つの問題に対して一つの回答ではなく、たくさんの可能性を同時に思いついてしまうのは、神経伝達系がそれだけ過剰に働いているということで、日常生活でいちいち誰かが何か言ったことにどういう意味だろうと考え込んでしまうと、素早い反応ができないし、本人も疲れてしまう。それを傍から見ると「鈍い」ということになる。
 もちろん天才の中に統合失調症だった人がいるからといって、天才のすべてが統合失調だったわけでもないし、統合失調症の患者がすべて天才のわけでもない。その辺は遺伝子のシャッフルによるものなのだろう。有用な組み合わせを生む中には、病気をもたらす組み合わせの可能性も含まれているということなのだろう。
 どっちにもなれない中途半端な組み合わせだと、俺みたいになるのかもしれない。

10月8日

 彼岸も過ぎてようやく涼しくなり、今日は久しぶりに「奥の細道」の続き。
 前回は一軒茶屋でダウンしたので、今日はそこから前回断念したJR黒田原駅までの道を歩くことにした。
 歩く距離が短いので新幹線は使わず、スーパーラビットで宇都宮まで行き、黒磯まで各駅で行き、そこからバスに乗って一軒茶屋まで行った。ほぼ10時ちょうどにスタート。
 天気は快晴で、長袖でちょうどいいくらい涼しい。
 まずは県道21号線を黒田原方向に下って行った。森の中の真直ぐな道の脇はじめじめしていてキノコがたくさん生えていた。
 やがて前にも行ったことのある那須ステンドグラス美術館の前に出た。竜騎士07さんの「うみねこの鳴く頃に」で九羽鳥庵のモデルになったところだ。門の前にはでっかいかぼちゃが置かれていて、建物の入口もすっかりハローウィンバージョンになっていた。
 高原の道をさらに降りて行くと、やがて池田という所に出る。その途中にモンゴリアビレッジ・テンゲルがあったが、なぜか入口に狛犬があった。
 このあたりの道は「曾良旅日記」には

 「ウルシ塚迄三 リ余。 半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不知シテ難通。」

とあるだけで、どの辺を通ったかよくわからない。とにかく山道で、街道のような所を歩いたわけではなく、知らなければ迷うような道だったから、今それがどの道かなんて特定は無理そうだ。池田が「小や村」ではないかと言われているが、それも本当かどうか。はっきりしているのは漆塚を通ったということくらいだ。
 芦野へはこのまま21号線を真直ぐ行ってもいけるが、これだと漆塚の北のはずれを通ることになる。漆塚の真ん中を通るなら、池田で右折してすぐ左折してりんどう湖のまえを通った方が近い。
 その池田からりんどう湖への分岐点には馬頭観音塔が10基ほど並んでいた。どれも明治大正のもので江戸時代にこの道があったことを証明するものではない。碑の上部には馬の顔が刻んである。
 この道もいかにも観光地の道で、こじゃれたレストランが並びテディーベアミュージアムがあった。猫ミュージアム・ニャンダーラの看板があったが、ちょっと離れた所に移転してた。
 りんどう湖はりんどう湖ファミリー牧場の中にあり、入場料を払わないとは入れない。その向かいになぜかお城が立ってた。店ではなく自宅なのか、私有地だから入るなって書いてあった。
 道端にはアザミや彼岸花が咲き、溜池やトウモロコシ畑もあった。このあたりからだと那須の山々がよく見える。山梨子の交差点の前に案内標識があり、芦野の里、遊行柳は左ヘ16キロと書いてあった。そういうわけで、ここを左に曲がる。
 りんどうラインという名前だが、別にリンドウが咲いているわけではない。ひょっとして「林道」と掛けた駄洒落か。コスモスは咲いていた。東北自動車道を越え、睡蓮の咲く溜池の脇を過ぎると漆塚の集落も近い。
 漆原南の信号に出る少し前を左に入ると、漆塚の集落が見える。その入口に公民館があり、その横に温泉神社があった。那須のいかつい狛犬の口は赤く、目も黒く塗られていた。昭和12年の銘がある。境内には大黒様の像もあった。
 漆塚の信号で国道4号線を越え、あぜ道のような所を行くと、ふたたびりんどうラインに戻る。
 新幹線の線路をくぐると奇麗な花壇のある川上公民館の先に虚空蔵尊のお堂があった。ここを曲がると黒田原の駅に行く。余笹川を渡りガードをくぐると広い通りに出る。これが黒田原の町のメインストリートなのだろう。
 まだ2時20分と時間は早いが、とりあえず黒田原神社にお参りして帰ることにした。  黒田原神社はファミマの裏にあり、二つの鳥居は震災で倒壊したのか、一の鳥居の所には注連縄が張ってあり、二の鳥居は柱だけが残っている。
 一の鳥居の先には尻を高く上げた一対の狛犬があり、右側は普通の位置だが左側はかなり高い位置にある。「逆狛犬」という立て札があり、「ご火神(火伏せ)のシンボル、高さは日本一=世界一」と書いてあった。
 参道は90度右に折れ、二の鳥居の先に大正3年銘の狛犬がある。右が吽形で玉取り、左が阿形で子取りになっている。やはり那須の首の太い厳ついタイプだ。吽形の方は「子授かり狛犬、毬の又玉を中指で三回転がします」、阿形の方は「安産狛犬、狛犬の子をやさしく撫でます」と祈願の仕方が書かれていた。
 拝殿の前には左右に蛙の像があるが、狛蛙か。右側は小さく左側は大きい。
 境内社には八雲神社と稲荷神社がある。
 黒田原駅前には黄金の那須駒の像があり、その横に「クロロとゆめな」というご当地のゆるキャラが紹介されていた。

10月5日

 『マグネシウム文明論』(矢部孝・山路達也、2010、PHP新書)、これは面白い。kobo touchで読んだが、図や表の表示が小さすぎる。
 今は原発か既存の自然エネルギーかという選択だが、今後どんな新技術が台頭してくるかは予想もつかない。
 核融合や水素燃料が壁に突き当たっている状態のなかで、マグネシウムの可能性は液体トリウム原発以上に刺激的だ。
 ただ、日本でと言うと悲観的にならざるを得ない。むしろ、これを読むとそのうち地球の文明の中心が中東や北アフリカに移るのではないかと思えてくる。もちろんアメリカ西海岸やオーストラリアも有望だ。
 基本的には太陽エネルギーをレーザーに変換して、海水からマグネシウムを取り出し、製錬する。そしてマグネシウムを燃焼させた後に残る酸化マグネシウムもまた太陽レーザーでふたたびマグネシウムにもどすというものだ。
 太陽光発電なら曇ったり雨が降ったりしてもある程度の発電はできる。またソーラーパネルは暑さに弱く、かえって春の涼しい時期のほうが効率がいいとも言う。その点でも日本のような温帯に向いている。また、規模の大小に関わらず効率が同じなので、小型で分散して発電できるから地産地消に向いている。
 これに対し、太陽光によるマグネシウムの製錬は一定以上のエネルギーを常に要求されるのと、マグネシウムの大量生産のためにはかなりのまとまった面積が必要とされる。そのため、日本国内では困難で、海にそう遠くない砂漠地帯に限定される。
 これだと日本はあくまで技術を輸出して製品(マグネシウム)を輸入するしかない。その技術もおそらく程なく韓国や中国や他の新興工業国が参入して熾烈な競争は避けられないであろう。
 酸化マグネシウムをリサイクルするにしても、わざわざマグネシウムの生産国にまで運ばなくてはならない。これだと自国で生産できる国に対しかなり不利になる。
 もちろんまだ実験段階で、少量のマグネシウムの製錬に成功した程度だから、これが本格的に実用化するにしてもかなり先のことではあるだろう。その頃にはソーラーパネルの変換効率も改善されているだろうし、他の自然エネルギー技術も進歩しているだろうから、世界がマグネシウム一色になるとは限らない。ただ、一つの選択肢にはなりうるだろう。

9月30日

 今日は「街道を行く」の続きで、東神奈川から。
 電車の中のお供はこの前買ったkobo touchで、自炊した『源氏物語と東アジア世界』(河添房江、2007、NHKブックス)を読みながら行った。
 京浜急行の仲木戸駅を越えて国道15号線に出る。
 小さな川を渡り少し行くと右側に宮前商店街のゲートがある。ここから旧道になる。
 宮前というだけあって、すぐに洲崎大神の白い大きな神明鳥居があった。
 境内に左側に赤い鳥居があり、額に「井戸守元町稲荷社」と書いてあった。その隣には溶岩を積み上げた獅子山なのか富士塚なのか、白い親獅子二頭と子獅子一頭が配置されていた。
 正面奥に石段があり、その手前に昭和45年銘の狛犬があった。石段の上に神明造の拝殿があった。
 神社を出ようとすると、全身茶虎の猫が現われた。神社の猫なのか近所の猫なのかは分からない。
 宮前商店街のすぐ先の甚行寺の門の前にはフランス公使館跡の石碑があった。
 宮前商店街はすぐに終り、青木橋でJRの線路を渡る。その先からまた旧道に入る。
 少し行くと右側に赤い神明鳥居があり大綱金比羅神社がある。
 石段の下の右側の空き地に尻尾の長いうし猫がいた。今日は立て続けに猫に出会う。暑さもやや和らいで猫近き秋になった感がある。
 石段を登ると両脇に獅子山があり、丸みを帯びた穏やかな顔の狛犬がいた。
 境内正面は礎石だけが残り何もなかった。本来はここに大綱神社があったのか。
 左側に金刀比羅神社の拝殿があり、その右側には大きな天狗の頭があり、その奥に小さな祠があった。
 その右には弁天池があり、小さな瀧があって池には鯉が泳いでいた。その奥に弁天様を祀った洞穴があった。
 さらに右には稲荷神社があった。
 大綱金比羅神社の先は緩やかにカーブした上り坂になっていて、安東広重の神奈川宿の浮世絵はこのあたりを描いたもののようだ。昔は左側が海だったようだ。今は横浜の市街地になっている。
 旧道は横浜の市街地を迂回するかのように緩やかにカーブしている。これがかつての海岸線だったのだろう。首都高三ツ沢線をくぐり、静かな通りを行くとやがて三ツ沢へ登って行く一般道に突き当たる。
 右側の小さなトンネルをくぐって道路の反対側に出ると、南側に小高い山があって神社の屋根が見える。あれが浅間神社なのだろう。宮田に小学校入口の交差点で、さっきまで歩いてきた旧道の続きだと思って広い道に入ったが、これが失敗だった。
 浅間神社の入口は一向に見えないし、そのうち道が細くなって、どうやら道を間違えたようだ。
 正しい道はローソンの先の小さな路地で、こっちの方にちゃんと旧東海道と書いてある。それにすぐ浅間神社の入り口がある。ただ、これはどうも裏参道のようで、その先の表参道から登って行く。
 赤い大きな鳥居をくぐると右手に招魂社があって、そこに平成9年銘のま新しい狛犬がある。顔は今時の物だが、真直ぐ参道の内側の方を向いているから一応招魂社系なのか。左側には真赤な稲荷社があり、大正14年銘のお狐さんがいる。その脇に背中を丸めた獅子の先代さんの片方が置かれていた。獅子山があったのか。
 正面の拝殿前には慶應2年銘の狛犬がある。左右とも子取りだ。
 左奥の柵の向こうにも赤い鳥居と赤い社があり、その前には背中に翼をつけた烏天狗の立像一対が狛犬代わりに立っていた。
 静かな旧道をしばらく行くと、大山へ行く道との分岐点(追分)があり、その向こうは何やら人がたくさんいてお祭りのようだった。
 行ってみるとお祭ではなく松原商店街で、入口の駐車場には車が列を成していた。
 商店街は築地の場外市場のような賑わいで、焼き鳥のにおいがして八百屋の威勢のいい声が響き、昭和に戻ったかのような賑わいだった。寂れた商店街が多い中で、どうやってこんなに盛り上げたのか、ちょっと知りたい気がした。
 八王子街道を渡ると急にまた静かになる。左に橘樹神社があった。境内は静かだった。嘉永5年銘の狛犬は力強い足の指といい、優美な毛の流れといい、バランスのよさといい名品といっていい。状態もいい。
 橘樹神社というと、子母口の橘樹神社は子犬のようなオオカミ狛犬だったが、ここは正統派の狛犬だ。
 境内奥には神田不動尊と庚申塔三基があった。
 川を渡ると相鉄線天王町駅に出る。その先で環状一号線の広い通りに出る。
 JR保土ヶ谷駅を過ぎるとまた道が細くなり、JRの踏み切りに出る。その先で国道1号線に突き当たる。
 右へ曲がるとしばらくは国道1号線を行くことになる。左側の川の向こうに外川神社が見える。羽黒山麓の外川仙人権現の分霊を祀ったという。
 仙人橋という新しい奇麗な橋を渡って神社に入ると、真新しい狛犬とその下に先代の狛犬がある。
 左側が外川神社の拝殿で、その隣中央に道祖神の社があり、草鞋がぶら下がっている。右側は稲荷神社だ。
 岩崎ガードの歩道橋を渡ると、その先右側に旧道がある。元町ガードを左に曲がり、ふたたび1号線に出る少し前を右に行くと、急な上り坂になる。権太坂だ。
 保土ヶ谷バイパスの上を越えると、ランドマークタワーが見える。昔はここで海が見えたらしい。東海道を登ってきて、権太坂で江戸の海が見えた瞬間は、さぞかし感動的だっただろう。権太坂の上は尾根道で、今日は見えなかったが雲がなければ富士山も見えるという。
 やがて広い道に出て境木地蔵尊の前を過ぎ、その先をまた左に入ると焼き餅坂という、昔餅を焼いていた茶店があったという坂を下る。道が細くなり、信濃一里塚がある。鬱蒼と茂った山は塚なのかどうかよくわからなかったが、県内に残っている唯一の一里塚だという。
 やがて右側に東戸塚の高層マンション群が見えてくる。福寿観音の所を曲がると環状2号線を渡る橋があり、東戸塚駅の方に行くのだが、今日は戸塚まで頑張ろうと思って、先へ進む。
 すぐに環状2号線を見下ろす場所に出る。階段を下りて歩道橋を渡るとその反対側に道がある。信濃坂になる。
 坂を下りて川沿いの道を行くとふたたび国道1号線に出る。
 大きなパチンコ屋があったから、こういうところには食う所もあるのではないかと思っていたら、「品の一」というラーメン屋が目に入った。というか看板の字がよく読めなくて「花の」だと思っていた。「花」ではなく「品」の字で、「品の」の下の赤い横線がアンダーラインではなく「一」だったようだ。
 とんこつベースの北海道風中太麺のラーメンで、醤油、塩、味噌の三種類がそろっている。塩ラーメンを食べた。この「街道を行く」、「芭蕉と狛犬とラーメンと」というサブタイトルでもつけようか。何か、ラーメンばかり食べている。
 ここから先はしばらく一号線を歩く。正午過ぎの陽射しは強く、夏に戻ったみたいだ。時折黒い雲が日を遮って、台風が近づいているのを知らせる。
 赤関橋の先の秋葉立体をくぐると、合流する道があり、そこに旧東海道と書いてある。どうやらまたコースアウトしたようだ。赤関橋のところに左に入る道があり、そっちが旧道で、ここで合流していた。
 不動坂のところから右に旧道に入る。坂といっても坂道は緩やかで短い。やがて交差点があり、その向こうに川がある。てっきりここを真直ぐ行くものだと思い、しばらく行くと道はどんどん狭くなり、やがて田んぼや家庭菜園のあるところに出る。今日3度目のコースアウトで引き返す。
 川の手前に戻り、右に行って国道1号線に戻る。すぐにもうひとつ川を渡り、戸塚駅に出る。ここから地下鉄に乗って帰った。あざみ野に着くと雨が降り出していた。

9月25日

 政治というのは、様々な立場の異なる無数の声から成立つもので、政治的事件というのは誰か一人の声に操られて起こるわけではない。
 だけど、人間というのはそういう不確定要素の多い分かりにくいものを嫌い、何か一つの原因を求めようとする。そこで、政治を考える時、誰かが世界を裏で操っているという、いわゆる「陰謀説」というのが横行する。
 中国の反日デモにしても、参加している中国人は様々で、いろいろな思惑で参加しているのだが、そのとらえどころなさを認めたくないのか、すぐに「裏で中国政府が操っている」という説に靡いてしまう人たちがいる。
 ならば、尖閣国有化は裏で石原慎太郎が操ってたとでも言うのか。反原発デモは裏で某政党が操っているとでも言うのか。イスラムの反米デモはアルカイダの仕業とでも言うのか。
 問題の本当の難しさは、こうした集団的な行動は、誰が操っているわけでもなければ、誰が組織しているわけでもなく、そのため誰と話し合えばいいのか、誰と交渉すればデモが終息するのか、その答がないということだ。
 黒幕がいるなら、その黒幕を説得するか何か取引をすればいい。裏に組織があるなら、その組織の代表と交渉すればいい。それがないというのが、昨今のデモの特徴だ。
 ちょっと前までの政治は、庶民の有象無象の声を汲み上げたり丸め込んだりして、一定の組織をつくり上げ、組織同士の交渉と言う形で行なわれていた。
 しかし、組織は独自の原理で一人歩きし、実際の庶民の声から離れてしまったため、次第に組織そのものへの信頼が失われてゆくことになった。
 有権者の政党離れは何も日本だけのものではない。どこの国でも有権者は随分前から政党政治に疑問を投げかけ、より直接民意を反映できる政治を求めてきた。そこにインターネットが現われた。
 それは政党政治に変る新しい民主主義の希望でありながらも、相異なる無数の声をどのように政治的決定に反映させてゆくのか、まだ何も次に来る民主主義の姿を思い描くことができない。
 古い秩序は確実に崩れているのに、次に来るものが姿を現さない。今回のデモも、そんな中で、一つの声だけが突出して一人歩きした結果なのではないかと思う。
 組織なき人格なきシュプレヒコールがネット上でコピペされ、拡散されている。それがあるとき突発的に具現化され、デモという形で現わる。誰もコントロールできない。
 国家や政党はそれを抑圧したり利用したりはできても、本当の所誰もコントロールできていない。

9月20日

 今日は「ニャル子さん」7巻を読み終わった。これであとは青空文庫しか読むものがない。
 kobo touchを買ってから、いろいろネットで調べながら、とりあえずテキストファイルをChainLPでPDFファイルにしてkobo touchで読むことはできるようになったし、試験的に15ページくらいの冊子をスキャナでjpeg連番にしてPDFにするというのもやってみた。一枚一枚スキャンするのが結構面倒くさい。
 PCに保存してあったすずちゃん(我が家の猫)の写真を連番にして、8ページばかりの写真集みたいなのも作ってみた。
 電子書籍は、「購入する」なんて書かれてあっても、結局手元にファイルのバックアップをとって保管できないから、買っても所有できない。実際の所閲覧する権利を買ってるようなものだ。
 それも、新刊が出ると同時に電子版も出るというわけでもなく、本の種類も限られていて、要するにレンタルだと思ったほうがいい。それも品揃えの悪いレンタル店だ。
 紙の本だってコピーが取れるし、スキャナで入力できるのに、電子書籍は過剰なまでに著作権を保護しているのか、ファイルそのものに手を触れさせないようにできている。
 本を読み捨てにして、本を取っておこうと考えない人ならいいかもしれない。しかし、本を手元に残したいなら、結局紙の本を買わなくてはならない。
 電子書籍はいろいろ便利な面もあるけど、日本ではそんなにはやらないかもしれない。儲からないからといって電子書籍の配信がなくなれば、電子ブックのハードはただの板切れになる。
 だから、今のところ自炊に興味のない人には、電子ブックはあまりお勧めできない。

9月19日

 kobo touchで読んだ電子書籍版の『職業としてのAV女優』(中村淳彦、幻冬舎新書)は、ついつい引き込まれて一気に読んでしまった。さっそく星五つ。
 AV業界の歴史や実体が分かりやすく、変なモラルや思想を交えずに淡々と描かれていて、「生きる」ということが何なのか、ひしと伝わってきて、涙が出そうになった。まさに人間の裸の生きざまがそこにあった。
 AVというと村西とおる監督が一世を風靡した頃には、俺はもう結婚していて、そんなにのめり込むわけにはいかなかったし、その後しばらくたまにエロ本を立ち読みする程度で、いつの間にかあちこちに「ビデオ安売り王」ができてるなとか、本屋に行ってもいつの間にか鬼畜物ばかりで、これはちょっとと思い、「写真時代」の頃を懐かしんだりしたこともあった。
 最近になって、ネットでモロ動画が以外に簡単に見れるのを知って、そういえば最近レンタルでもセルでもAVというものを見なくなったなと思ってたら、いつの間にダウンロードの時代に入ってたようだ。
 村西とおるの時代には、騙してスタジオに連れてこられた女優を口説くのが棹師の仕事だっただとか、レンタルビデオとセルビデオとの対立、鬼畜路線が終息するきっかけになった事件のことなんかも面白かった。
 ギャラは安くなる一方なのに志願者は増えて、もはやどこにも行く所のない人の行く付くセーフティーネットではなくなったAV業界の姿は、どこか俺の属する運送業界にもかぶる所がある。日本中が抱えている問題なのだろうと思うと、日本は本当にこれでいいのかと思う。
 とにかく、いろいろなことを考えさせられた。

9月17日

 あれはデモではないし暴動というレベルのものでもない。あれは戦争だ。国家ではなく民間の戦争が始まった。
 国家は経済的に豊かになればなるほど戦争のコストが上昇し、ついにはマクドナルドのある国同士は戦争をしないと言われるまでになった。だが、国が戦争を望まなくても民衆は勝手に戦争を起こす。
 もっとも、彼らにどれくらい死ぬ覚悟があるのかどうかはわからない。民主化闘争をするよりは安全な憂さ晴らしをしているだけなのか。
 特に尖閣に来ている船団には、実際に海上保安庁でも自衛隊でも出て行って、一発ぶっ放してみればいいのだが。
 もしこれで尖閣が民間船団に占領されるようなことがあれば、次は沖縄にやってくるかもしれない。沖縄本島の占領は無理としても、人口の少ない島なら簡単に制圧されてしまうだろう。

 そんな不穏な空気の中、いつものように休日の「街道を行く」、今日は川崎駅からスタートした。日本は至って平和だ。
 「旧東海道いさご通り」を行くと、やがて商店街は途切れ、八丁畷の駅が見えてくる。ここに芭蕉の句碑があった。

 麦の穂をたよりにつかむ別れかな    芭蕉

真蹟懐紙では「麦の穂を力につかむ別れかな」となっている。
 しかし、路通編の『芭蕉翁行状記』には「弟子ども追々にかけつけて、品川の驛にしたひなく」とあり、桃隣編の『陸奥鵆(むつちどり)』にも「各品川まで送り出、二時斗の余波、別るる時は互いにうなづきて声をあげぬばかりなりけり、駕籠の内より離別とて扇を見れば」とあり、品川で詠まれた句になっている。
 句碑の説明板にある「門人たちと川崎宿はずれの現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ」というのは『蕉翁句集草稿』(土芳編)の「五月十一日武府を出て古郷に趣。川崎迄人々送けるに」によるものか。『蕉翁句集草稿』には「浪化集には、人々川崎迄送りて餞別の句を云返し」とあるから、出所は『浪化集』のようだ。どっちが本当なのか。
 芭蕉が大腸癌の悪化で駕籠に乗って、やっとの思いで旅をしているところで、溺れる者は藁をも掴むの喩えのように、頼りない麦を杖に旅立つ別れかな、という方がリアリティーがあるように思える。川崎で団子を食べながらというのはどうも怪しい。
 八丁畷駅前の踏切を越え、市場上町に来ると熊野神社がある。慶応2年銘の狛犬がある。
 その先左側に鳥居が見える。市場一里塚だった。塚は今はなく、社になっている。
 鶴見川橋を渡る。橋から森永の工場が見える。
 鶴見駅の近くに鶴見神社があった。立派な獅子山狛犬がある。
 右奥の境内社が並ぶ先に、柵があって入ることができなくなっているが、富士塚(浅間神社)があり、そこにも狛犬があった。狛犬だけでなく、石碑の影に四つの長い足をピンと伸ばした、奇妙なお狐さんのようなものがあった。
 鶴見駅前を通り、京急鶴見の駅をくぐると、やがて国道15号を越えて生麦魚河岸通りに入る。子育て地蔵、樫森稲荷神社を過ぎると、やがて生麦事件発生現場という看板があった。生麦事件というと豊田有恒の『ブロンドとブルネット』という小説を思い出す。あれは殺された白人の視点で書かれていた。
 その先、左側に鳥居が見えたので行ってみたが、狛犬はなかった。蛇も蚊も祭というのがここであるらしい。藁で作った二匹の巨大な蛇を絡ませる祭で、本来は海に流していたという。
 隣の公園に蛇の遊具があった。
 左にキリンのビール工場が見えてきて、15号線にふたたび合流する手前に生麦事件の碑があった。「横浜環状北線建設工事のため、この場所に仮移設しています」と書いてあったが、元あった場所も別に事件の現場というわけではない。現場はさっき通り過ぎた。本来の場所はリチャードソンが落命した場所と書いてあるから、深手を負いながらこのあたりまで馬に乗ってここで息絶えたのだろう。碑は明治16年のもの。
 15号線に出ると、ちょうどそこがキリンビール生麦工場、キリン横浜ビアビレッジの入口で家族連れとかが見学に来ていた。一人で飲むのも淋しいんで素通りしたが、生麦に麦酒工場はできすぎている。大正6年にできたという。
 ここから先は日が容赦なく照りつける国道15号線。途中、狐の嫁入りでしばらく雨宿りする。
 京急の線路の向こうに笠のぎ稲荷神社が見えた。「のぎ」は禾偏に皇だが、フォントが見つからない。目が中央に寄ったお狐さんがいた。
 その先に神明宮があった。境内のわりには小さな拝殿で、柵に囲まれていて、柵の向こうに狛犬が一対直置きされていた。
 JR東神奈川駅で今日は終了。

9月16日

 ついこの間まで日本人はデモをしないといわれていたが、尖閣デモを皮切りに毎週のようにデモの行なわれる国になった。
 日本ですらそうなのだから、他の国ではそれ以上加熱するのは道理で、尖閣問題での中国の半日デモ、イスラム圏の反米デモ、ちょっと前までは欧米で格差反対デモと、いずれもかなりヒートアップしている。
 昔だと、大きなデモの背後には国家があるか共産主義勢力があるかだった。だが今は違う。ネットでデモを呼びかけて、国民が勝手にデモを始めるから、国家もマスコミも困惑している。どちらかと言うと、なだめるか無視する側に回っている。
 今の国家は昔みたいに簡単に戦争をおっぱじめるわけにはいかない。先進国では一人の戦死が何億円もの損失になる。それは賠償を支払うという意味だけではない。賠償額の大きさは、その人間の将来経済に貢献するであろう金額であり、それはそのまま国家の経済的損失につながる。
 マクドナルドのある国同士は戦争しないというのはこういうわけだ。
 人命だけでなく、兵器のコストも上がっている。神風特攻隊なんてのは人命も飛行機も安いからできただけで、今だったら「おい正気か、戦闘機一機いくらすると思ってんだ」になる。
 国家は基本的に戦争をやりたがらず、なあなあですませようとする。だから国民のナショナリズムは国家とは無関係なデモという形で爆発する。世界が豊かになればなるほど「ネトウヨ」は世界的現象となっていくのだろう。
 これはいわば、戦争が国家の仕事から民間の仕事に移行したということなのかもしれない。
 政治家も人気取りのために多少のリップサービスをしなくてはいけないのだろうけど、李明博はちょっとやりすぎた。老獪な石原さんは責任を民主党政府に押し付けてうまく逃げた。
 まあ、ナショナリズムは人間の自然な感情だし、互いに張り合うことでお互いの発展の方に向えばいいのだが、潰し合いになってはいけない。ネトウヨだって論戦を繰り返しているうちに、いつの間にか韓国や中国の文化に詳しくなっている。
 今回の中国の暴動は、いわば民間の戦争だ。国家もどう対応していいかわからず、国家の戦争のような国際法もない。しかし、これからこうした民間の戦争はどこでも起こりうる。
 何とか「喧嘩をするほど仲がいい」という方向に持ってけないものだろうか。闇雲な破壊活動をするのではなく、きちんとルールを守った戦争ができないものだろうか。日本の統制の取れたデモを見習ってほしい。中国は孔子の国だし、韓国だって東方正義の国だったはずだ。一定の礼節は守ってほしい。

9月13日

 民主党は、ようやく30年代に原発ゼロと言ったと思ったら、今度は温暖化ガス排出目標削減を撤回するなんて言い出した。やはり民主党だ。原発をなくすというと、火力発電所を立てることしか思いつかないようだ。自然エネルギーは既存の技術ではなく、まだまだ未知の夢のエネルギーだという30年前の認識なのだろう。
 脱原発を進めるには、前から何度も言ってきたように、人里はなれたところに巨大発電所を作り、そこから広範囲に電力を供給するという集約型のシステムを見直すことに他ならない。
 そういうわけで、原発の代わりにメガソーラーをという孫さんの発想にも「ちょっと待った」と言いたい。
 テレビで紹介されていたメガソーラーの映像を見ると、たいてい何もないと野っ原にソーラーパネルを並べている映像が映るが、、ここはカルフォルニアではないんだぞ、と言いたい。
 カルフォルニアやオーストラリアみたいに都市の近くに砂漠があるなら、確かにそこを利用しない手はない。ただ、日本でそれをそっくり猿真似では困る。
 日本は土地が狭い。その上すぐに雑草が生い茂り、放っておけばすぐに藪になり、木が生えてくる。だから、野っ原にメガソーラーなんか作ったら、雑草対策だけでも大変だ。コンクリートで固めても、そのうちひびが入り、古くなった道路のように雑草に覆われて行く。
 山林を切り開いてメガソーラーを作るなんてのも愚の骨頂で、そんなことをすれば山は保水力を失い、ただでさえゲリラ豪雨が多発しているのだから、麓の村は大洪水だ。
 日本は休耕地がたくさんあるとはいっても、休耕地は他にもできることがたくさんある。たとえば菜種を植えればバイオ燃料が作れる。そこに風車の一つも建てれば電気も作れる。
 日本には別に山林を潰さなくても、ソーラーパネルを設置できる所はたくさんある。
 たとえば田舎へ行くと、何もないところに突如として巨大ショッピングモールが出現したりする。この敷地、もったいなーい。建物部分はもとより、巨大駐車場、もったいなーい。
 日本には敷地面積が10万平方メートルを越えるショッピングモールが50以上もある。浮島太陽光発電所が11万平方メートルで年間で740万キロワットが見込まれているが、その何十個分のスペースがここにある。(ちなみに東京ドーム1個分の面積は46,755平方メートル。)原発一基分をメガソーラーで補うとしたら580万平方メートル必要と言われているが、50軒の巨大ショッピングモールにソーラーパネルを乗っければ十分お釣が来る。
 節電の話が出ると必ず槍玉に挙げられるパチンコ屋も、郊外にあるものはたいてい大駐車場完備だ。屋根のない駐車場は夏になると灼熱地獄になり、毎年のように子供が死んでいる。せめて屋根をつけて上げられないだろうか。その屋根にソーラーパネルを乗っけてやれないだろうか。
 郊外型の大型パチンコ店は敷地面積が1万平方メートルを越えるものがざらにある。全国のパチンコ屋の屋根で発電が行われれば、電気の無駄と言うネトウヨの批判もかわせるだろう。
 こうしたソーラーパネルは、その施設での電気を賄っても十分あり余るだろうし、残りは売ってお金になる。駐車場に電気自動車の充電器を設置すれば、遊んでる間に充電できる。電気自動車の普及にもつながる。
 そのほかにも、工場や流通センターなど、遊んでる屋根はたくさんある。まずこういうところからはじめた方がいいのではないか。規制があるならすぐにでも緩和すべきだろう。
 ドイツでは、サハラ砂漠にメガソーラーを作って送電線を引っ張る計画があったらしいが、こんなのは最悪だ。巨大発電所という大艦巨砲主義は日本だけではないようだ。
 太陽光に限らず、この狭い日本で自然エネルギーを広めるには、「発電所を作る」という発想を捨てた方がいい。むしろ「発電できる多目的スペース」という発想が必要だ。
 地熱発電にしても、発電所を作ろうとすると温泉業者が反対するから作れませーん、なんて言ってる場合ではない。むしろ温泉業者がついでに地熱発電を行えばいい。温泉旅館や歓楽街の電気を自分達で賄い、余ったら売る、という発想がほしい。
 農家の使う電力は用水路の水力で作れないだろうか。漁業基地には洋上風力発電に加えて、波力、潮力のコンボというのはどうだろうか。
 そして、マンションの屋上にもソーラーパネルを置けば、ある程度の電力は賄えるだろうし、一戸建ての屋根には今でも既にソーラーパネルのある家がたくさんある。
 そうした小さな試みを積み重ねて行けば、少しづつ原発を廃炉にし、次には火力発電所も廃止してゆくことができる。もちろん、即時全廃なんてのは問題外。
 脱原発をするには、無数の発電施設が建設される必要がある。それは即「特需」ではないかと思う。

9月12日

 kobo touchが昨日届いた。今日セットアップをした。
 発売当初はKobo Desktopがインストールできなくて、まったく使い物にならなかったという苦情が殺到し、大変な騒ぎだったようだが、さすがにその点は解消されていた。セットアップはスムーズに終った。
 マニュアルも紙ぺら一枚ではなく、そこそこの冊子になっていた。
 ところで、値段も手ごろということでとりあえず買ってはみたものの、今のところ読むものといえばニャル子さんくらいだ。6巻までは紙の本で読んだから、取り合えず7巻を購入。
 自炊にも挑戦したい。PDFよりもJPEGの方が良いという情報もあるが、そのうち試してみよう。

9月10日

 大森海岸へ行く電車のなかで、しばらく中断していた「グリーン経済最前線」(伊田徹治、末吉竹次郎、2012、岩波新書)の続きを読んだ。
 世界自然保護基金(WWF)とエネルギー問題コンサルタントとの共同研究で、既存の技術だけで2050年までに世界のエネルギー消費の95パーセントを再生可能エネルギーで賄える、と発表したというのを読んで、やはり日本は世界の流れから取り残されると思った。
 日本だけでも2050年の脱原発がいかがなものかといわれている中で、未だに原発の削減目標が決まらないどころか、解散総選挙で自民党政権に戻ったら、ふたたび原発推進に逆戻りしかねない。
 原発推進で日本が世界に冠たる国に本当になれるなら別にいいのだが、世界全体が再生可能エネルギーの方に雪崩うって行ったら、日本の原発技術はあっという間に時代遅れになって、かつての大鑑巨砲主義のように日本経済に惨めな敗北をもたらすことになる。
 原発と再生可能エネルギーは、例えて言えばかつてのβとVHSのようなもので、勝敗は政治が決めるのでもなければメーカーが決めるのでもない。消費者に支持された方が勝ちだというだけだ。世界の人たちがどっちに傾くかで勝敗ははっきりと決まる。
 重要なのは、再生可能エネルギーは「既存の技術」であって、海のものとも山のものともつかない夢のエネルギーではない。30年前のチェルノブイリのころはそうだったかもしれないが、今は違う。
 ところが、日本では原発推進派も反原発派も、80年代のまま思考停止をしていて、あのころとまったくおなじ議論を繰り返している。大前研一も石破茂もまったく30年前の認識なのは少しも驚くに値しない。マスコミ報道もネットでの議論もまったく30年前そのままの議論を繰り返しているのが現状だ。
 推進派だけでなく、国会前でデモをしている連中の認識も、原発をなくせば経済が崩壊するという主張をはじめから認めてしまっていて、経済より人の命が大事だなんて言っている。こいつらは本当は推進派なんではないかと思う。
 人の命が大事だなんて言ったら、自動車こそ廃止すべきではないか。あんなのは、ちょっと歩行者に接触するだけですぐに人が死ぬ。ひところは年間1万人を越える死者を出していたし、今では減ったといっても5000人近くが死んでいる。飛行機だってそうだ。あんなものが落ちたら、乗ってる人も下敷きになった人も死ぬ。それでも、自動車や飛行機がもたらす利便性と計りに掛け、人命よりも経済をみんなが選択してきたのではなかったか。
 脱原発の議論の基本は、世界の人々が原発よりも再生可能エネルギーの方を選択したなら、原発はβのように消えて行くということだ。つまり、原発に固執すれば、それこそ日本経済は大きなダメージを受けかねないということだ。経団連の人たちに言いたいが、世界の人たちが欲しがるものを作ってこそ金儲けというのは可能なのではないか。それが読めないなら会社経営なんてやめた方がいい。多くの人が路頭に迷うことになる。
 もっとも、今となってはβもVHSも時代の流れで消えて行った。新しいエネルギー技術が現われれば、もちろん今の再生可能エネルギー技術も過去のものになる。だから、とにかく日本の繁栄に必要なのは時流を読むことだ。

9月9日

 さて、今日は東海道の旅の続きで大森海岸から。
 10時ちょっと前に京急大森海岸駅を出発。いきなり国道15号(第一京浜)の大通りで太陽が照りつける。
 やがて国道15号が右にカーブし、直進すると三原通りに入る。ここが旧東海道になる。
 ここも街道の町として商店街が力を入れているようだ。すぐに右側に美原不動院がある。境内には稲荷神社もあった。
 その先の十字路の右側を見ると並行する国道15号線の向こうに鳥居が見える。大森神社だ。赤い柱のきらびやかな拝殿で、狛犬はなかった。
 三原通りの商店街を抜けると、ふたたび国道15号線に合流する。
 谷戸交番の横に神社があった。貴菅神社という名前で、貴舩(きふね)神社と菅原神社が合併というか合祀されてこの名前になったようだ。大正4年銘の狛犬はどっしりしていた。境内には福満子稲荷大明神があった。「ふみこいなり」と読むのでまちがえないように。
 梅屋敷には「明治天皇行幸所蒲田梅屋敷」と書いた大きな碑があった。
 そこからすぐに蒲田だが、ここは俺が小学校一年の時まで住んでいたところだったが、もう40年以上も前のことで記憶は定かでない。ここで寄り道で蒲田駅の方へ行ってみた。
 蒲田八幡神社があったが、どうも記憶にない。昭和36年という俺の生まれた年の銘の狛犬があった。ずんぐりと丸みを帯びたデザインで足が太い。
 もう一つ、境内社の天祖神社の前に明治11年銘の狛犬があった。こちらは色黒で彫りが深い。左右とも子取りだ。
 境内社の稲荷神社には金網の檻に入ったお狐さんがあった。
 蒲田東口中央通りはおぼろげに覚えている「のんべ横丁」のあったところか。小さな釣堀があったのを覚えているが、さすがに今はないようだ。
 ふたたび国道15号線に戻る。雑色の北海道らーめん楓で味噌ラーメンを食べた。スープはかなりこってりして今風なのか。太いちぢれ面がなかなか腰がある。
 らーめん楓の向い側にはOKストアがあり、その前にも稲荷神社があった。ブロンズ製のお狐さんがあった。
 六郷に入りしばらく行くと左に鳥居があった。六郷神社というと古い狛犬があると聞いていたが、拝殿の前にあったのは昭和12年の狛犬だった。
 例の狛犬はというと、小さな植え込みがあって中には入れないようになっている所の井戸の前にあった。近づけない上に木の影になって写真が取りにくい。
 なるほど、足が短くて顔は豚ッ鼻で目はくぼんでてインパクトがある。初期のまだ江戸狛犬のスタイルの確立される前の「江戸はじめ」というやつだ。貞享2年というから、芭蕉の「野ざらし紀行」の頃はまだなかったが、「笈の小文」の旅の時には見たかもしれない。
 てっきり最古の石造り狛犬だと思ってたら、目黒不動、赤坂氷川神社に続く都内三番目らしい。
 境内に右奥の立ち入り禁止の所にも狛犬があった。後にあるのは小さいが富士塚だろうか。
 六郷神社のすぐ先は、もう多摩川だ。河川敷にはブルーシートをかけた小屋が転々としている。今も昔も河原者というのはいるもんだ。川を渡ると明治天皇六郷渡御碑がある。碑自体は新しい。
 橋の側道に「旧東海道」と書いて矢印のしてある看板がある。親切なことだ。橋をくぐると旧街道に出る。
 旧街道はやはり商店街になっていて、やがて川崎駅の前に出る。今日はここまで。

9月7日

 おとといTENGGER CAVALRY のセカンドアルバム、「Cavalry Folk」が届いた。二枚組みで一つはメタル、一つはフォークになっている。
 メタルの方は前作のブラックメタルから、バイキングメタルの影響を受けたような、やや分かりやすい音になっていた。馬頭琴がフィードルみたいで、フィンランドのコルピクラーニを彷彿させる。
 なんか、前作がモンゴルの平原を駆け抜ける騎馬軍団のイメージそのものだったのに対し、今回はワールシュタットで敗走する過程で西洋の音楽と出会ったみたいな感じがする。
 もっとも、フィンランド語はウラルアルタイ語族だし、モンゴルの文化とどこか通じている部分はあるのだろう。北欧に限らず、ケルトからアメリカのブルーグラスに至るまで、騎馬民族の音楽はどこかよく似ている。馬のリズムというのもあるのだろう。
 フォークサイドの方は、その意味で西洋とも東洋とも付かない微妙な民謡風の音楽が面白い。

9月1日

 新聞には中国の景況感の悪化が伝えられていて、人件費の上昇で競争力が低下してきたのが響いてるようだ。
 ここでリストラをちらつかせて強引に賃金を抑制して競争力を維持しようとすると、かつての日本のようにデフレスパイラルに陥って、失われたなんとかになってしまうのだろう。
 まあ、中国人も日本の悪い所を見ているだろうから、同じ轍は踏まないとは思うが、どうやってこの問題を解決していくのかは見ものだ。
 最近ネットで伏羲(FU XI)のIn The Quiet Road とTENGGER CAVALRY のBlood Sacrifice Shamanを買った。中国のロックは伝統音楽と見事に調和している。なかなか日本にこういうのはない。和楽器を取り入れたメタルは西洋にはあるが、日本ではあまり聞かない。
 富国強兵のために西洋崇拝に走り、伝統文化を切り捨ててきた日本とはやはり愛国心の程度が違う。韓国にしても伝統音楽を取り入れたメタルバンドがいくつもある。
 もっとも中国の場合、勝手に平和賞を作ったり、ローマ法王に背いて勝手なキリスト教を作ったり、行き過ぎの部分もあるが。
 日本人もようやく敗戦のショックから立ち直りつつあるのか、愛国心に芽生えてきている。明日は浅草あたりでデモがあるようだが、どうせマスコミは無視するだろう。

8月31日

 2ちゃんを見ていたら、『デフレの正体』の著者、藻谷浩介氏のことが随分批判されていた。俺はこの本にそんなに興味がもてなかったし、まだ読んでいないが、少なくともデフレの正体が人口減少によるものなんて議論をしているのであれば、トンデモ本だろうと思う。
 日本の文化人の昔からの欠点だが、すぐに「日本の特殊性」の議論に逃げ込んで、普遍的な議論をしようとしない。
 片方が「日本の特殊性」を取り上げて、「だから日本は駄目なのだ」と言えば、それを面白く思わない愛国者達が「そこが日本の美徳なのだ」と反論する。どっちも「日本の特殊性」という隘路に陥って、普遍性のない議論を果てしなく繰り返す。
 2ちゃんで引用されていた文章だと、その日本の特殊性とやらは、
 第1は、 利益を犠牲にして値上げを回避するという日本企業に一般的な行動。
 2つ目は人口。
 3つ目は日本人の貯蓄志向の強さ。
だそうだが、まず第一については根本的に間違っている。日本の企業はそんなお人よしではない。
 ×利益を犠牲にして値上げを回避する
 ○利益を維持するために値上げを回避する
これが正しい。
 価格競争がないなら、わざわざ値上げを回避しようとする企業なんかどこにもない。新興国との価格競争があるから値上げできないだけのことだ。
 2つ目の「人口」だが、少子化は日本特有の現象ではなく世界的な現象であるという根本認識を欠いている。
 3つ目の日本人の貯蓄志向の強さにしても、それがどういう理由によるのかきちんと説明せずに、何か日本人のDNAにそんなものがあるかのように論じるべきではないのは言うまでもない。江戸時代の日本人は「宵越しの金を持たない」と言われていたくらいだから、日本人も昔から貯蓄志向が高かったわけではない。
 貯蓄志向の高さは金融機関の安定やセーフティーネットの未熟など、条件さえそろえばどこの国でも起こりうる理由によるもので、実際世界では金融機関の安定した国ではセーフティーネットも発達していることが多く、金融の信用できない国ではセーフティーネットも未発達であることが多い。金融機関が安定しながらセーフティーネットの不十分なアンバランスな国が少ないというだけのことで、日本人の特殊性によるものではないと思う。
 「消費をせずに死ぬ日本人」なんてのも、きちんとした統計上の数字が出ているのだろうか。今の高齢者は貧乏な若者をよそに、結構派手に消費しているように見えるが、気のせいだろうか。健康なお年よりは結構自分の趣味を楽しんでいるし、不健康なら医療費や介護費が馬鹿にならない。
 金と暇があれば消費する。金と暇のどちらかが欠けていれば消費しない。普遍法則だと思うが。
 そして、日本のデフレへの処方箋はと言うと、「最低賃金の引き上げと 女性の雇用促進により、消費性向の高い現役世代と女性の所得を増やすこと。また、人口減少に 歯止めをかける長期的な対策として子供を産むインセンティブを高めること」だというが、最低賃金を引き上げれば、企業は雇用を減らすだろうし、子供を産むインセンティブなんてのは自然の摂理で、意図して高めることはできない。まあ、経済が崩壊し、思いっきり不景気になれば、多分出生率は自然に上がると思うけど。昔から「貧乏人の子沢山」というからね。
 60年代のモータリゼーションやエレクトリゼーションや90年代のIT革命に匹敵する大規模な消費革命がおきない限り、需要はそんなには増えるものではない。需要が増えない所に無理に企業が拡大戦略を取れば、自ずと生産過剰になりデフレになる。単純なことではないかと思う。
 デフレを脱却するには、新たな消費革命(たとえば自然エネルギーを主体としたエネルギー革命のような)を起こすか、そうでなければ国際規模で生産調整をするか、どちらかだと思う。
 藻谷さんは札幌市在住の高校教諭のブログに過激な書き込みをして話題になったらしいが、俺のこのしがないHPに反論してくる暇はあるかな、なんて、あるわけないな。

8月19日

 昨日、竜騎士07さんの新しいゲーム、「ROSE GUNS DAYS」が届いた。
 今回は推理物ではなくギャング物で、喧嘩の場面では簡単なミニゲームみたいなのが付いている。マウスの反応が悪いと結構苦戦するが、失敗してもゲームオーバーにはならないし、戦闘を簡単に済ます方法もある。
 途中でマウスの左クリックができなくなって、急遽新しいマウスを買いに行った。
 設定は敗戦のあと大災害が起こり、壊滅した日本はアメリカと中国に占領された状態になるといったもので、日本が占領されて消滅する設定は「コードギアス」以来しばしば用いられているが、これもその一つといっていいのだろう。
 まあ、実際の戦後もアメリカ合衆国日本州なんて言われるくらいアメリカの属国に近い状態だったから、心理的には今でも日本は独立できないでいるのかもしれない。
 アメリカと中国というのは、今の日本を象徴的に描いたからなのだろう。実際あの当時では旧ソ連が朝鮮半島や北方領土まで来ていたのだから、中国ではなくソ連が入り込んできて、日本が東西に二分された可能性のほうが高かった。戦後処理をめぐって米ソ英中による分割統治案もあったが、いずれにしろ、あの時代でソ連が入ってこないはずはなかっただろう。
 今の日本だと、確かにアメリカか中国かという構図はわかりやすい。
 アメリカと中国にはさまれて、日本人が愛国心を取り戻し、一致団結し、独立を取り戻そうとする戦いは、明らかに今の日本に対するメッセージだ。
 それがお仕着せのスローガンやシュプレヒコールに終らず、いかに面白い物語に仕上げてゆくかが竜騎士07さんの腕の見せ所だろう。ギャングの抗争から始めるというのはなかなか面白い。さすがに魅力的なキャラをそろえてくれている。
 俺もまた、日本の古典を西洋文学の支配下から開放したいのだが、なかなか戦いのスタートラインにすら立てない。この問題で仲間になってくれる人はいないものだろうか。

8月15日

 終戦記念日も67年目ということで、当時二十歳の若者はもはや87歳。いくら高齢者人口が増えたといっても、戦争体験者の数はかなり減っているのだろう。
 生きていたとしても、67年も経てば人間の記憶というのは変容するもので、本当に苦しいことは早く忘れようとするものだし、後に誰かから吹き込まれたイメージがだんだん本当の記憶とごっちゃになっていったり、こうして戦争の真実は消えて行き、政治的プロパガンダばかりがネット上にあふれて行く。
 何が真実かっていえば、それは生きた体験が絶対的な意味を持っている。
 しかし、残念ながら、われわれはそれを言葉という、常に誤解を招いてしまうあやふやなものでしか伝えられない。
 言葉は人から人へ伝わっていくうちに都合よく書き換えられ、そこから怪しげな学説がたくさん生まれて行く。
 そして、生きた体験を持つものがいなくなった時点で、すべては文献学の領域になる。
 どんなトンデモ学説を立てても、実際にそれを見た人がいないのだから、否定するのは困難になる。
 消極的証明の困難、どんなにありそうにないことでも「絶対にないとは言い切れない」という論理は、まさに「悪魔の証明」だ。
 イミョンパク大統領だって、1941年生まれで戦争の記憶はないだろう。日本も韓国も中国も、もはや国民の大半はあの戦争の生きた体験を持っていない。
 証明困難なのをいいことにそれぞれ勝手なことを言い出す。「ネトウヨ」は世界的な現象なのだろう。
 ただ、こうした国々は、よほど国民が飢えるくらいに経済が落ち込まない限り、戦争はしないだろう。
 マクドナルドのある国同士は戦争をしないというように、豊かさに慣れた、命の値段が何千万とも何億ともいう国で、大量の死者を出す戦争を起こすだけの心構えもない。それはかえって救いだ。
 本当に戦争になる心配がないところで、ネット上で舌戦と繰り広げ、ネットでデモを呼びかけてパフォーマンス合戦をすることも、日頃の生活のストレスを発散する一つの手段なのかもしれない。
 かつては本当にまた戦争になるかもしれないという不安から、ナショナリズムを抑え、平和と人権を唱え、友好ムードを装ってきた。今のナショナリズムというのは、かえって平和が定着し、戦争の不安が忘れ去られた結果だと思えばいいのかもしれない。

8月13日

 そういえばまだロンドンオリンピックのことを何も書いてなかった。
 なかなかメインの試合が未明の時間帯だったのと、なかなか早く起きる気力もなかったということで、今回は開会式も見逃したし、でもようやく閉会式はちゃんと見ることができた。
 閉会式では日本人が退場させられるということもなく、終始映っていた。
 想像通り、イギリスのエンターテイメントのこれでもかというアピールで、東京もこれに対抗できるか。
 日本にもYMOだとか北野監督だとかdir en greyだとかきゃりーぱみゅぱみゅだとか世界に通用する人材はいるし、初音ミクをCGフォログラムで登場させるとか、世界的に有名なアニメキャラやゲームキャラの着ぐるみを登場させるとか、いろいろ工夫はできそうだ。
 イギリスにもミスタービーンやモンティ・パイソンの人たちがいるが、日本も芸人には事欠かない。長野では欽ちゃんが出てたが。
 とにかくジャパンクールを世界に売り込むチャンスなのだから、そこははずさないでほしい。こういうのも国威発揚の一つだと思う。

 閉会式を見たあと、久しぶりに車で出かけた。
 あきる野の養沢神社の狛龍を案内したあと、大岳鍾乳洞へ行った。
 養沢神社の所を曲がって林道を行くのだが、途中に採石場があって一瞬行き止まりかと思った。
 そこから先は未舗装の道となり、坑道のようなトンネルをくぐると、ちょっとしたRPGのダンジョンのような気分。
 やがて道の脇に車がずらっと並んでいる所があり、ここが終点。お盆休みということもあって結構混んでいて20分待ちだった。
 今まで行った鍾乳洞と違って、狭くてルートのほとんどは腰をかがめなくては通れず、そのため入口でドカヘルを貸してくれる。洞窟探検の気分になれる。ただ、下手すると歩くのに精一杯で足元ばかり見て、肝心な鍾乳石を見逃しそうだ。
 入口の売店には98歳になるというおばあちゃんがいた。鍾乳洞が発見されたのが俺の生まれた年で、51年にわたってこの鍾乳洞を守ってきたというから凄い。このおばあちゃんから見ると、俺もまだまだ人生半分というところか。
 携帯は圏外になっていたから、ミステリーの舞台にも使えそうだ。
 山を降りて、帰りがけにあきる野の白滝神社に寄った。倶利伽羅不動は清水のそばにあった。白滝の名前はこの脇水によるものなのだろう。狛犬は新しいもので目が血走っていた。
 帰りに道の駅八王子滝山に寄った。「新選組」という酒を買った。

8月12日

 お盆休みは、当初は「奥の細道」の旅の続きを予定していたが、前回で那須高原とはいえそんなに涼しくはなく、長距離を歩くのは困難と見て、軟弱にも今日は東海道の続き、泉岳寺スタートとなった。
 まあ、芭蕉だって夏場の暑い時期は体調を崩したりしているし、別に芭蕉と体力で張り合う気もないし。
 都営地下鉄線泉岳寺駅を降りると、ポツリポツリと雨が降りだした。
 歩き始めてまず目に入ったのが、泉岳寺交差点の角にあるビルの二階の神社だった。
 一階の入口の所に「稲荷神社」とだけ書かれていた。
 階段を登ると拝殿の前に黒くて彫りの深い形の整った狛犬があった。弘化4年の銘があり、江戸時代のものとしては状態がいい。
 奥にはお狐さんがぽつんと置いてあったが、これが背中合わせに二匹がつながった形のもので、珍しい。
 稲荷神社を出ることには雨が本降りになってきていて傘をさす必要があった。
 すぐ先に高輪神社があった。このあたりの神社の法則だが、必ず街道の右側にある。左は昔海だったせいだろう。
 拝殿の前の狛犬はすっきりしたデザインで顔はやや潰れている。銘は宝永6年でかなり古い。
 拝殿のとなりには太子宮があり、ここにも狛犬があった。大正15年銘で、これも彫りの深いいい狛犬だ。太子宮入口の石塀の裏側のレリーフも見事だった。
 やがて高輪プリンスと品川プリンスのビル群の前に出る。その向い側はJRの品川駅だ。駅前には品川駅創業記念碑が立っていた。
 道路の反対側にはプリンスホテルに囲まれた、高山稲荷神社の古風な社殿が見える。
 狛犬は慶應元年の銘で、今日はこれで江戸時代が3対目、豊作といえよう。大きくて堂々としたもので、この辺の狛犬の特徴なのか、石は黒い。
 手水場はセンサー式で、その横には「港区文化財 石燈籠(おしゃもじ様)」という札のある小さな社があった。一説にはキリシタン灯篭だという。その脇には小さなお狐さんが一体あった。
 拝殿の縁側では大きな薄い茶色の虎猫が寝そべっていた。この神社の猫神主か?
 なかなか雨は止みそうになく、猫も起き上がって顔を洗い始めていたから、先に品川で昼食を済ませることにした。ちょうど品達の前だし。
 「麺達七人衆 品達」というくらいで、7件の名店が並んでて迷う所だが、とりあえず旭川ラーメンSaijyoの塩ラーメンにした。初代「けいすけ」の前には行列ができていた。ラーメンではないが、隣のどんぶり五人衆エリアの方の花畑牧場ホエーどん亭も人気のようだった。
 食べ終わると雨は止んでいた。
 旧八つ山橋を渡ると、東海道品川熟のマップがあり、ここから踏み切りを渡ると東海道の旧道になる。
 ここから先は街道の町として整備されていて、延々と商店街が続くが電柱や電線がない。
 江戸時代風の塀のあるコインパが珍しいなと思ったが、ここは旅籠「朝日楼」の跡地で、この土地のオーナーの洒落なのだろう。
 品川橋を渡ると、となりに赤い橋が架かっていて、その向こうに荏原神社が見える。昔は目黒川が北側に蛇行していて、荏原神社の後ろ側に川があったという。
 鳥居の左脇には恵比寿さんがいる。拝殿前の狛犬は明治29年銘で、彫りが深く状態がいい。阿形の方は子獅子が二匹、吽形の方は牡丹の花を持ち、背中に子獅子が乗っている。
 品川橋から先は電線や電柱がある。少し行くと諏訪神社がある。
 ここにも狛犬があった。古そうだが銘はわからなかった。頭が小さめで、阿形の方の子獅子はおっぱいを吸っている。龍の巻きついたデザインの石灯籠があった。
 青物横丁から先は電柱も電線も復活する。
 品川寺の大きな仏像があり、黄色い提灯がたくさん並んでいる。
 その先の、少し右側に入ったところには幸稲荷神社があった。
 鮫洲に入ると道が祭のために通行止めになっていた。鮫洲八幡神社の祭で、祭囃子が流れ、子供みこしと浦島太郎の乗った山車が通っていった。ただ、祭にしては人は少なく、盛り上がりに欠いていた。
 鮫洲八幡神社には、二、三、的屋の屋台も出ていたが、静かだった。
 ここには狛犬が三対あり、手前のは昭和16年銘の小ぶりなもので、真直ぐ伸びた前足と正面向きの顔が招魂社っぽいが、招魂社系らしい厳つさはない。江戸狛犬との折衷型という感じだ。
 真ん中のは嘉永2年銘で大きくて立派だ。
 奥のは大正11年銘で、これも大きい。
 拝殿右の出世稲荷大明神には昭和15年銘のお狐さんがあり、屋根の上にも狐の飾りがある。
 左側には浅間神社の小さな富士塚があり、そのさらに横には池に囲まれた厳島神社があった。
 鮫洲八幡を出て、先へ進むと、乙姫様の山車と、やはり子供御輿が待機していた。通りすぎたあと、太鼓の音がなり、子供達が御輿の方へ向っていった。
 立会川の駅の近くには仲町稲荷があり、その横の公園に坂本龍馬の銅像があった。何で坂本龍馬かと思ったが、ペリーが来航した時に土佐藩がここで警備をし、そのときにまだ無名だった坂本龍馬が来ていたとのことだった。三谷幸喜脚本の大河ドラマ「新選組!」で香取慎吾がふんどし姿になった、あの場面がここだったのだろう。
 立会川を渡るとすぐに南大井天祖神社がある。これでもかとここにも慶應3年銘の狛犬がある。玉も子獅子もない、シンプルなものだった。右側には丸い池がある、厳島神社があった。
 その先には浜川神社のビルがあったが、中に入れなかった。
 やがて国道15号線に合流する地点に、鈴ヶ森刑場遺跡があった。こんな街道の人通りの多いところに刑場を作ったのは、やはり見せしめのためか。
 15号線に出たところで、京浜急行の大森海岸駅が見えてきたので、今日はひとまずここで終わりにした。盛りだくさんな狛犬豊作の一日だった。

8月9日

 「源氏物語」花宴巻クリアー!
 今回は短かった。

8月7日

 5日の新橋へいったときの電車の中で「グリーン経済最前線」(伊田徹治、末吉竹次郎、2012、岩波新書)の前半を読んだ。
 原発事故の影に隠れて、地球温暖化対策ということが最近忘れ去られているように見えるが、今年も猛暑が続いているし、忘れてはならないことだと思う。
 テレビではこの前相変わらず、小氷河期が来るなんて話をしてた。
 小氷河期は既に来ているし、事実江戸から明治にかけて、地球は寒冷化していた。ただ、現在、地球の平均気温は着実に上昇している。つまり、産業革命以降、小氷河期による寒冷化を上回る勢いで温暖化しているということだ。
 ここで、日本人の悪いくせなのか、すぐに問題を二者択一だと思って、小氷河期と温暖化、どっちが本当かなんて考えがちだが、実は両方来ている。小氷河期が来るからといって、地球温暖化の問題がなくなるわけではない。
 温暖化対策で、世界が自然エネルギーやバイオ燃料や天然ガスへの切り替えなどの様々なアプローチを行なってきたのに対し、日本は原発さえ作れば解決すると思って他をないがしろにしてきた、その付けが来たのではないかと思う。
 その背後には、温暖化問題をあまり科学的に考えず、物を燃やせば炭酸ガスが出るから物を燃やさなければいい、という短絡的な発想のもとで、原発・オール電化モデルというのが何となく出来上がってしまったということがあったかと思う。
 ピジョンやピジョットに進化できなかったあの元首相も、その発想で25パーセント削減なんて大きなことを言ってしまったのだろう。その頼みの綱の原発がこけたら、いきなり脱原発を言い出すし。
 まあ、大体世襲議員というのは御輿に乗っているだけだから、これといった信念もなく、その場その場の雰囲気で物を言って、ブレまくる人が多かったが。
 中国はその点で日本よりも柔軟性があり、多方面の展開をしてきたから、結局この分野でも日本は中国に敗れるのだろうか。

8月5日

 今日は先々週とは打って変わって暑い一日になりそうで、早めにスタートして早めに終わることにした。
 地下鉄銀座線で新橋まで行くと、15号線を目指したのが、地下道を行くうちに出口がわからなくなって、いつの間にか日テレを通り過ぎて、浜離宮のすぐそばに出てしまった。
 浜離宮は築地の配送をやってた頃、毎日その横を通っていたのだが、考えてみれば一度の中に入ったことはない。こういう機会だから、さっそく寄り道して行くことにした。
 さすがにこの暑い中で人はまばらだった。写真を撮っても人の姿が映らなくていい。ちょっとしたTokyo Nobody感覚だ。日本庭園の裏には汐留のビル群が迫る。
 園内にはかつて将軍の鷹狩の場だったカモ飼育用の池があり、そこに大覗(おおのぞき)という小さな円い覗き穴が付いた東屋や、小覗(このぞき)という土手のように土を持ってカムフラージュされた覗き窓があった。
 海側に出ると対岸は勝鬨で、遠くにはレインボーブリッジが見えた。
 水上バス乗り場のあたりは、築地市場の裏になる。
 園内に旧稲生神社の鳥居と拝殿があったが、狛犬はなかった。近くに女郎花が咲いていた。秋の花だと思っていたが、こんな夏の盛りから咲いているんだと思った。考えてみれば、もう立秋も近いんだが。

 まだ夏をあきらめないと女郎花

 一面赤い花が咲いている花壇があった。近づくとコスモスのようだった。キバナコスモスというらしい。花の少ない炎天下の数少ない装い(コスメ)といったところか。
 浜離宮を出て東海道(15号線)に戻った。
 その途中、汐留のビルの谷間に旧汐留駅を再現した建物があった。
 汐留のビル群は、かつては仕事の帰りに建設が始まった頃からいつも見ていたが、夕暮れの明かりが灯った景色を見ると、子供の頃親に手を引かれて夕暮れの銀座通りを歩いた時のことを思い出す。子供心にもそのきらびやかさに圧倒されたし、それが心の中の原風景になっているのか。
 人間というのは見かけはちっぽけでもこんなすごいものを作るんだと、何かこれを見るために生まれてきたような気分になるし、この時代に生まれてきた奇跡に感謝したくなる。
 新宿での配送の仕事も3年やったが、ヒルトンホテルとワシントンホテルを結ぶ副都心の道を、夜、車から降りて歩くのが好きだった。その食品卸しの会社も今年4月末で卸売り業務から撤退したという。何のこともない、あのまま会社に残っていても、結局3年後には仕事がなくなっていたわけだ。
 15号線に出ると、JRのガードをくぐり、その先には日比谷神社がある。ここは去年の1月9日に来ているので、そのまま通りすぎる。
 少し行くと右側に芝大神宮があった。
 狛犬は昭和6年の銘があり、頭の上にはそれぞれ立派な宝珠と角がのっかっている。なかなかひょうきんな顔をしていて、股のところには陶器製の白い小さなレプリカのような狛犬がおいてあった。阿形の宝珠の方はなぜか二体あった。
 拝殿は近代的で、鳥居の横には貯金塚という石碑があり、「根氣根氣、何事も根氣」という武者小路実篤先生の有難いお言葉が刻まれていた。
 札の辻を過ぎると、今度は御田八幡神社があった。こちらは提灯が並び、お祭モードに入っていた。
 狛犬は2対あり、石段したの狛犬は檻に入っていて、銘はわからなかったが、かなり古そうだ。阿形の方はよく見ると子獅子がおっぱいを飲んでいる。石段上の狛犬はもっと古そうで、これも銘はよくわからなかった。ネットで見たら、1696年(元禄9年)という数字があった。
 このあと都営地下鉄泉岳寺の駅まで歩き、ここでセーブということにした。
 帰る途中、中延の駅前のでびっとで醤油豚骨ラーメンを食べた。たまたま入ったんで知らなかったが、デビット伊藤の店だとのこと。

7月25日

 「源氏物語」紅葉賀巻クリアー!
 一巻としてのまとまりは欠くものの、光源氏にとっての人生の転機となるような事件が含まれていて、単なる小ネタ集ではない。

 ところで、共産党の方もあの脱原発デモで赤旗の号外を出したことをテレビで吹聴したりしたらしく、結局戦略のないデモは本人は純粋な気持ちでやってるつもりでも、政治家にいいように利用されてしまうだけなんだな。
 大飯原発はもうとっくに動いているし、それをもう一度止めればそれで終りということでもないだろうし、もっと本当に要求すべきことはたくさんあるのだから、何か戦略を変える必要があるのだけど、こう大きく膨れ上がっちゃうと逆に小回りが利かなっちゃうのかな。
 戦略がなければ烏合の衆、無駄な人数。
 これからまた、再稼働へ向けていろいろな動きが出てくる中で、個々の再稼働に反対したところで国のエネルギー政策が何一つ明確にならない段階では一時しのぎにすぎない。
 今原発が止まっているのはストレステストのためで、廃炉が決定されたからではない。だから、条件さえ満たされれば全部動き出すのは当然のことで、脱原発を本気で要求するなら、叫ぶべきなのは「再稼働反対」ではないはずだ。まして「野田はnoだ」ではないと思う。

7月23日

 那須へ行った時と深川へ行った時の電車の中で、脇坂紀行の『欧州のエネルギーシフト』(2012、岩波新書)を読んだ。
 最初にフィンランドの話が出てきた時は、日本がいかに恵まれた国かがわかった。
 国土の大半を森と湖が占めるフィンランドは、高い山がないために水力には期待できず、偏西風もスカンジナビア山脈にさえぎられて風力も期待できない。電力消費がピークになる冬には長い夜に閉ざされるため、太陽光にも頼れない。内海だから波力も期待できない。火山帯が通ってないから地熱も無理。あるのは林業が生み出す端材によるバイオマスくらい。
 こんなないない尽くしの国では、原発もやむを得ぬかと思った。それに比べれば、日本はやろうと思えばなんだってできる。却って器用貧乏で一つに絞れないのが弱点なのかもしれない。
 ヨーロッパに脱原発の国はいくつかあっても、即時全部停止なんて言ってる国はどこにもない。そういうデモがあるのかもしれないが、国家の政策は大体において穏健で、自然エネルギーへの緩やかな転換を目指している。
 日本の脱原発デモは、「野田はnoだ」なんて駄洒落を言ってるから、野田降ろしにうまいこと利用されてしまったようだ。
 小沢といい鳩山といい、今になって急に脱原発を言い出して、20万人も人が集るなら、これを票に結び付けない手はない、というところか。それにしても、脱原発で消費税増税反対なら、共産党や社民党との差別化が難しいのではと思う。
 もちろん、野田政権にも、原発縮小のための行程表の遅れという落ち度は否定できない。大飯原発再稼働にしても、老朽化したいくつかの原発の廃炉を同時に発表してたなら、こんな混乱にはならなかっただろう。
 いついつまでに原発依存比率を何パーセントまで減らすということが明確に示され、そのためにはこの原発を廃炉にし、この原発は再稼働して残すというなら、話はわかりやすい。
 それをせずにただ財界からの圧力で再稼働なら、今後日本は本当に自然エネルギーへの依存を高めていくのかどうかすら怪しくなり、そんな先行きわからない状況では自然エネルギーに投資する企業も二の足を踏む。
 まずは穏健な線でいいから、脱原発路線を確定させ、その後の代替エネルギーの状況に応じて上方修正するなり下方修正するなりしたほうが良かったのではないかと思う。

7月22日

 「奥の細道」の旅はすっかり遠くなってしまい、連休の時以外はなかなかいけないし、基点や終点となる駅が限られているため歩く距離も長くなる一方で、なかなかのんびり寄り道もできないような状態になってきていて、最初の頃のような、もっと気軽に歩きたくて、「奥の細道」と並行して新たな旅を始めようと思った。
 とりあえず東海道でも歩いてみようかと、もちろん気軽に日帰りできるのは小田原くらいまでだろうけど、しばらくは暇つぶしになるだろう。東海道は芭蕉も「野ざらし紀行」「笈の小文」で歩いている、というか実際は馬で旅していたみたいだが。(最後の大阪行きの旅では、体調不良から籠にも乗っている。)
 「東海道の一筋も知らぬ人、風雅に覚束なし」と芭蕉も言っているように、故郷の村社会から解放されたところに都市の文化というのは成立っている。中世から日本は平和で治安がよく、武装をしない庶民でも容易に旅ができる環境が作られていたことが、今の世界に通用するジャパンクールの基礎となっている。
 そういうわけで、今日は清澄白河で降りて、1年3ヶ月ぶりに深川芭蕉庵にやってきた。「奥の細道」の旅立ちが採荼庵スタートだったから、「鹿島詣」以来だ。
 芭蕉稲荷の前に来ると、何か様子が変っている。隣の家がなくなっていている。草の戸の隣も変る世や駐車場。
 芭蕉庵跡の芭蕉像のあたりは特に変わったことはなかったが、入口の所に「川上とこの川下や月の友 芭蕉」の句碑があった。こんな所に句碑があったかと思ったが、これって四つ目通りの方にあった句碑ではないか。
 正木稲荷神社にはムクゲの花が咲いていた。夏だというのに3日前から肌寒い日が続き、梅雨の前に戻ったのか秋が早く来たのかわからないような景色で、これもエルニーニョのせいか。

 寒い夏、この世の景色まだ飽きず

 芭蕉庵を出て東海道の基点、日本橋へ向うのだが、芭蕉の時代にはまだ永代橋も新大橋もなかったから、両国橋まで行かなくてはならない。
 とりあえず北へ向って歩いていると、江島杉山神社の鳥居が見えてきた。
 狛犬は昭和30年銘。境内には池があり橋が架かっていて、奥には岩屋がある。
 岩屋の手前には其角の「ほとゝぎす一二乃橋の夜明けかな」の句碑があり、その裏に先代の狛犬の片方があった。
 蔵前橋を渡り、浅草橋を左に曲がると、日本橋の方へ行く。
 小伝馬町に来た時に、ちょっと寄り道を思い立って、ここを左折し、人形町を越えて、箱崎に行こうと思った。国芳の浮世絵で見たスカイツリーの絵の場所を確かめたかったからだ。
 途中、右側に鳥居が見えたので行ってみると、椙森神社だった。
 烏森、柳森、椙森の三つで江戸の三森というらしい。鳩森八幡宮はちがうようだ。
 新橋烏森神社は去年の2月に行ったが、小さな神社だった。秋葉原の柳森神社は今年狛龍を見に行った。これで一応三森そろったことになる。
 狛犬は昭和8年銘。子取りの方は、子獅子の尾がぴんと立っていて、玉取りの方も大きな玉を抱えていた。
 かつてここで富籤の興行が盛んだったため、富塚がある。
 水天宮の脇を抜け、箱崎のターミナルを越えると隅田川に出る。
 問題の「東都三ッ股の図」だが、だいぶデフォルメされているものの、やはり右側の大きな橋が永代橋で、左側の小さな橋が萬年橋ではないかと思う。佃島の方は埋め立てで拡大し、高層マンション郡が立っていて、今では東京湾は見えない。萬年橋は清洲橋で邪魔されている。二つの橋はかなり距離があり、反対側に見えるが、それが一つの画面にデフォルメされて押し込められて描かれているのではないか。
 小伝馬町に戻り新日本橋で左に曲がり、日本橋に向う。
 日本橋、京橋、銀座と、子供の頃にもよく通った道だ。昔は買い物というと銀座だった。丸善で「ムシウタ」の12巻を見つけたので買った。
 銀座4丁目で何やら人だかりがしていて、みんなシャメで何かを撮っていた。
 見ると、銀座4丁目の看板の上に、何やら名状しがたい生き物が。
 その生き物の名前は本当はすぐわかるものなのだが、真似する人がいるといけないので伏せておくが、まあ、自分の可愛いペットを人に見せたいという気持ちはわかるが、だったら胸に抱いて歩いていればいいので、こんな所に乗せて晒し者にするのはちょっと違うんじゃないかと思う。確かに可愛いから、その生き物には罪はないけど、飼い主は放火魔が燃え上がる家を見るみたいに、どこか近くでこの人だかりを見てほくそえんでいるのだろう。
 その冒涜的にも晒し者になった生き物は、大勢の人に取り囲まれて降りることもできないで不安そうだった。
 帰ってからネットで調べたが、池袋や桜の咲いた上野公園にも出没するらしい。
 まあ、東京というところはいろいろな人がいると思いつつ、新橋へとそのまま歩き続け、今日の散歩はそこで終りにした。

7月16日

 ようやく待ちに待った連休で、「奥の細道」の旅も再開。
 きょうは黒磯スタートということで、あさ5時に家を出て、那須塩原まで新幹線を使った。新幹線に乗るのは30年ぶりだが、乗ってみると昔とそんなに変ってない。外見は随分変ったし、スピードも速くなっているのだろうけど。
 「♪新幹線はうんと、うんとうんと早い」なんて歌にあったとおり、7時半には那須塩原に着いた。そこから乗り換えて黒磯に着いたのは7時50分と、今までで一番早いスタートとなった。
 ところで、空はいつのまにどんより曇っていた。東京を出たときには晴れていて、夏の富士山の黒々とした姿がくっきりと見えていたのに。那須の山々もまったく見えない。
 黒磯駅を降り、まず黒磯神社に参拝。狛犬は昭和4年銘のこのあたりに多い厳つい角ばった狛犬だった。
 境内には神馬のブロンズ像があり、面足尊・惶根尊という男女一対の神像があった。
 このあと晩翠橋を渡り、ちょっと寄り道になるが那須分岐点を右に曲がり熊田坂温泉神社に向った。珍しい狛猫に逢いに行くためだ。
 しばらくは田舎道が続き、道の脇にはユリの花が咲き、水がしょろしょろ流れ、蛙の飛び込む水の音がする。りんご園があり、東北がもうすぐそこだと感じさせる。
 熊田坂温泉神社は赤坂バス停の前にあり、短い石段を上がり、一の鳥居の前に小さな狛猫がちょこんと座っていた。耳は磨り減っていて、顔もよくわからないが、短い鼻と真直ぐでふくらみのない尻尾がお狐さんでないことを示している。
 そこからさらに石段を上がってくると、壊れた二の鳥居があり、奥に真新しい社殿があった。
 熊田坂温泉神社を出ると、芭蕉の宿泊地、高久へ向った。
 那須高原病院の前を通り左ヘ行くと聖跡愛宕山公園があり、入口の所に、

 落くるやたかくの宿の郭公 風羅坊(芭蕉)
 木の間をのそく短夜の 曾良

の新しい句碑があった。
 この公園内には高久神社があった、狛犬はなかった。
 芭蕉は旧暦4月16日にこの地に到着し、角左衛門の家に泊まっている、その翌日は一日雨が降って足止めされ、18日に午の刻というから、昼になってやっと出発している。この日は卯の刻、つまり夜明けの頃に地震があったことが記されている。
 芭蕉の一行は松子まで馬に乗り、未の下刻というからだいたい4時頃に那須湯元に着いている。
 那須インターまでは田舎道が続く。
 道端に牛魂碑という真新しい碑が立っていた。馬頭観音はたくさん見てきたが牛の供養等は珍しい。
 さらにいくと、マリア様の立っている十字路があった。観音様なのかもしれないが、手には緑の十字を持っている。その裏には江戸時代の古い石塔があったが、字がよく読めなかった。
 インターのすぐ先にファミマがあったが、看板が茶色で、この辺から那須高原の観光エリアに入る。看板は茶色で文字のみを記すシンプルなものに統一されている。
 曇っているとはいえ蒸し暑く、取り合えずここで一休み。サッポロの限定ビールが売っていたが、今ビールを飲んだら歩けなくなりそうだ。
 本来、那須街道はインターの料金所のあたりを通って、JOMOのスタンドのあたりに抜けていたのだろう。このあたりに左に入る小道があり、これが旧道だったと思われる。
 連休とあって車がひっきりなしに通る県道を離れ、静かな小道に入る。途中、県道との間にはさまれた所にお堂があった。そのさらに先、県道へと合流する直前の所を左に曲がると、小さな池があって、水草の白い小さな花が咲いていた。
 さらに人家の庭先をかすめて通りぬけると松子神社がある。ここには狛犬があったはずなのだが‥‥。
 震災で崩れたまま放置されているのだろう。阿形の方は台座に額をこすりつけるような形で置かれていて、吽形の方はひっくり返って足を上に向けている。無残な姿だった。ネットでは「松子神社」と「那須町」で検索すると2008年の震災前の姿を見ることができる。
 気を取り直して旅を続ける。
 やがて左側に那須高原ビールの建物が見えてくるが、まだ時間が早いせいかひっそりしている。その先にはサッポロビールの那須森のビール園がある。さっきファミマで見たのはここの限定ビールのようだ。いつか時間のあるときにじっくり見学していきたいが、車で来るとビールは飲めないし、バスはさすがに観光地で一時間に一本は通っているが‥‥。
 この先は保養地だけあって、いろんなミュージアムの看板がたくさん並んでいる。とっくりあーと、ではなくてとりっくあーと、これは高尾山にもなかったか。戦争博物館、オルゴール美術館、ステンドグラス美術館、これは2年前に行った。「うみねこ」の九羽鳥庵だ。黄金の巨大神像というのは、実物は見なかったが名前だけでいかにも胡散臭い。「手力男命」らしいが、そういえば船生にもハンドパワー神社があったが、何か関係があるのか。
 やがて、2年前にも立ち寄った道の駅「那須高原友愛の森」に着いた。あの頃はまだ首相が鳩山だった。とりあえずここでまた一休み。
 さて、ここから先もいろいろな看板の並ぶ高原の道で、車の数も増えてきて、なかなか渡るのが困難になる。だが、それほどの渋滞もしていない所を見ると、やはり風評のせいなのか。
 歩道もない道で車がびゅんびゅん通るとなると、なかなか歩きにくい。その上、この辺りから予想以上に上り坂がこたえる。
 このあたりで、那須湯元から黒田原へ歩き通すのは無理だという気分になってきた。季候が良ければできたかもしれないが、この上り坂と暑さでは到底無理だ。となると、駅でセーブというルールをどうすればいいか。幸いにバスは一時間に一本通っているから、帰れないことはないが。
 とりあえず、那須湯元までは歩き通すことにした。途中、パン香房ベル・フルールで昼食用とお土産用のパンを買った。
 一軒茶屋のセブンイレブンで一休みをすると、あとは温泉街の坂道に入る。
 現代の道路だと、道の駅のあった辺りから那須湯元まで6キロの表示があり、松子からでもせいぜい10キロくらいではないかと思う。曾良の旅日記に松子から湯元まで3里とあるのは、おそらく今日ほど道が真直ぐではなかったからだろう。
 一日雨で足止めされたように、雨が降ると通行困難になるような山道で、金森敦子さんの言うような「豪雨でもらくらく歩く芭蕉と曾良」というわけにはいかなかったようだ。この人は芭蕉忍者説の信者なのか、芭蕉と曾良に超人的な体力を求めているようなところがある。芭蕉と曾良も、高久から湯元まで4時間近くかかったのは、忍者でないなら妥当な線だろう。
 一軒茶屋から先はいよいよ坂も急になり、道も曲がりくねっていて昔の道に近くなる。  地酒・地ビールと書いた看板のある酒屋があり、帰りには寄ろうと思う。だが、そろそろ足が限界に近づいている。鹿沼から30キロ歩いて日光の手前まで来たときの、あの時の状態に近い。
 とにかくようやく那須湯元の温泉神社にたどり着いた。
 前に一度来ているから、細かい境内社などは見ずに、一直線に拝殿へ行って参拝し、となりの九尾稲荷神社にも参拝してから殺生石の方へ行った。東屋でさっき買ったパンを食べた。
 一休みして、若干体力も回復し、とりあえず、次回湯元からスタートするよりは少しでも距離を減らして、一軒茶屋からスタートしたいので、歩いて降りることにした。途中、さっき見つけた酒屋で那須高原ビールと「平成の森」という日本酒を買った。あとでよく見たら、製造が大田原の天鷹酒造になっていた。天鷹の純米辛口は美味しかったから、問題はないが。
 一軒茶屋からバスに乗って黒磯駅に戻ると、ちょうど上野行きの快速ラビットが止まっていた。何か前回と同じパターンだが、新幹線だと座れるかどうかわからないので、確実に座れるこれに乗って帰ることにした。途中古河で大船行きに乗り換えて、8時頃には帰れた。
 さて、駅をセーブポイントにというルールを厳密に守るとなると、今回はクエスト失敗ということで、黒磯再スタートになって、もう一度那須湯元まで歩かなくてはならなくなる。  ただ、場所的にも苦しい所で、今回に限っては一軒茶屋バス停に臨時のセーブポイントがあったということにして、次回はそこからのスタートとしたい。

7月15日

 大津といえば、謡曲でも知られる三井寺があり、今話題の皇子山中学はその鬼門の方角にある。
 その先には近江宮の跡があり、さらにその延長線上には人麿の歌や芭蕉の句でも名高い唐崎がある。
 皇子山はその意味でも様々な歴史を背負った土地で、古くからのいろいろな因縁が残っているのかもしれない。
 皇子山中というと2001年3月31日にも青木悠君リンチ殺人事件があり、今回の事件も自殺ではなくリンチ殺人であった疑いがもたれている。
 今回の事件は奇妙にイデオロギーが絡んできてしまって、話をややこしくしている。
 つまり、事件の隠蔽体質をいわゆる「人権派(主に左翼の)」と結び付けて、右翼系の人たちがその闇を暴いてやるという図式になってしまうと、別の意味で事件の本質が隠されてしまう可能性がある。
 右だとか左だとか関係なく、いじめる奴は悪いし、それを隠す奴は悪い。そこはぶれないでほしい。
 まあ、ネットに掲載された情報が同姓同名の別人だったり、関係する会社や官庁などに電話がかかってきたり、多少行き過ぎたこともあるようだが、それも一言で言えば「警察頑張れ」ということではないかと思う。

 唐崎の松は今でも朧にて
     船は冥土に通うばかりに

   人権思想そのものは本来そんなに変なものではないが、日本で「人権」という言葉が用いられると何か変なのは、結局勉強方法に問題があるのだろう。
 俺の大学の時の哲学の助教授は「本というのは無謬性を信じて読まなくては駄目だ。」なんていってたのがいたが、200年も300年も前に書かれた本に無謬性なんて言っても無理な話で、当時の科学のレベルや文化的偏見を差し引いて読まなくてはならないのは言うまでもないことなのだが、長くこういう研究をやってると、それを忘れちゃう人が多いのだろう。
 少なからず日本人の学問の中に、こうした「無謬性」信仰があるのではないかと思う。
 外国人が日本の文化のことをあれこれいうと、そのたびにその「無謬性」を信じて、日本は野蛮国なんだと決め付ける。そして、西洋の本を読んだ自分だけは除外で、あとの日本人はみんな野蛮人にしか見えなくなる。こうして、自分も日本人のくせに「だから日本人は駄目なんだ」なんて言う。
 「無謬性」という考え方は、権威を維持するのに都合がいい。何十年、何百年前の説でもそれを批判してはいけないもんだから、いつまで経っても何の進歩もないし、それを試験に出して、そのとおりに答えないとバツになるような教育システムを作っているから、日本から新しい考え方は生れようがない。新しい考え方は西洋から輸入するものだという考えだから、いつまでたっても後追いしかできない。
 過去にはまことしやかに信じられてきたことでも、今となっては荒唐無稽な説というのもあるが、それでも疑うな、ひょっとしたら我々にはわからないような深遠な思想がそこにあるかもしれない、そんなことを言い出したらそれこそ白いものも黒くなる。
 こういう無謬性を信じさせるやり方は、新興宗教の洗脳のようなものだ。
 自分のこれまで生きてきた中で培われてきたいろいろな考え方を一度徹底的に破壊し、本の中に書いてあることだけを真実と認めさせようというものだ。
 そしてこれは負の連鎖を生む。
 自分が本の無謬性を信じてついには学者になって本を書く側になったのだから、生徒にも自分の本を読む時に無謬性を信じて読むことを要求する。それに着いて来れる者だけが次の世代の学者になるのだから救いようがない。こんなだから日本の知識人の書いた書物というのは、どれもこれもSAN値の下がるものばかりだ。
 疑うことを知らないから、ネットで情報を検索しては「釣り」に引っかかって、それで一度恥をかくと「ネット情報は信用できない」と言って、ネット叩きを始める。これはプラトンの著作に出てくる「ミソロゴス」と同じだ。
 本を読むにしてもネットを閲覧するにしても、基本は突っ込みを入れながら読むということだ。書いてあることを全部真に受ける必要はない。ただ自分が取り入れたいことがあれば取り入れて、そうでないなら無視してもいいし、批判してもいいし、茶化して笑ってもいいんだ。
 大体どんな偉い人の書いた本だって所詮は人間の書いたものだ。同じ1400ccの頭脳で思いつくことに、そんな凡人に理解できないような特別深遠なことなんてない。
 よく、職人の世界では、「仕事は教わるものではない、盗むものだ」というが、これは本当だ。
 先輩の職人さんは、それぞれ自分の経験で物を言うだけだから、言ってることはみんな違うし、いちいち全部教わった通りにやっていたら頭がおかしくなる。だから、先輩も教えないし、後輩も何から何まで追従する必要はない。自分の考えで先輩のやっていることを見て、良いものは盗む、それでいいのだ。
 学問も基礎レベルのことをひと通り習ったら、あとは自分の考えで先人の良い所だけを盗むようにした方がいい。
 日本の人権思想のゆがみは、西洋の人権思想の無謬性を信じて、無批判にコピーをくり返してきた結果ではないかと思う。ちゃんとみんなが自分の頭で考えるようになれば、人権思想は本当は素晴らしいものなのだと思う。

7月10日

 随分前にマネキン人形を使った『オー!マイキー』という短いドラマがあったのを、ひょんなきっかけで思い出すことになった。あれは面白かった。
 監督は佐藤航で、制作、脚本スタッフの一人に石橋義正がいる。
 その石橋義正が主催する映像・パフォーマンス集団キュピキュピには、今や時の人となった木村○束がいるのだが、救いなのは、Wikipediaを見る限り『オー!マイキー』のスタッフにこの名前がないことだ。

 いじめ問題を考える際、いじめる側も追い詰められているという部分は確かにあるのだろう。
 それはどんな犯罪にも言えることで、誰も犯罪者になんなくてもいいような社会を作ることは必要なのだが、だからといって起きてしまった犯罪に対し、無罪放免していいということではない。
 まあ、親がPTA会長を務めてたり、人権団体をやっていたり、祖父が警察OBで警察にも顔が利くということがあれば、親に反発してグレて困らせてやろうと思っても、いつの間にか裏で手を回してなかったことにされてしまう。
 そうなれば、もっと過激なことをやらなくては親を本当に困らせることができないのだから、やることもどんどんエスカレートしていくもんだ。それに便乗する悪い仲間も増えて行くし。
 こういう奴らは、力を誇示してないと、今度は自分がいじめられる側に回るから、事件が発覚しても強気なのは当然だ。追い詰められているからこそ、あとには引けないのだろう。
 それを断ち切るには、きちんとした刑罰を与えることで、警察がそれをできないのであれば、ネットで世論を盛り上げて社会的制裁を加えるというのは必然の流れだ。

7月6日

 官邸前の大飯原発再稼働停止デモは続いているようだ。
 こういうのに対して、推進派はただ無責任を連呼するしか脳がないみたいだ。
 原発の代替は一言で言えば「原発以外のすべて」だ。それを、何か一つ選べみたいに言って、複数回答すると「何一つこれといったものがないじゃないか」といい、一つだけを選んで答えるとその弱点をあげつらう論法は、いいかげん欠伸が出る。
 ただ、今すぐにか時間をかけてか、そこで脱原発派でも極端派と現実派が分かれる。

 大津市皇子山中学校いじめ事件は、どうせなら犯人の名前を公表すればいいのにと思ってた所、どうもフジテレビが流してしまったらしい。
 まあ、どうせ隠していても、地元ではすぐに噂になって広まっていることだから、早かれ遅かれこういうのはバレるもので、法の制裁は逃れても、世間の制裁を逃れるのは難しいだろう。やはりイジメというのはやらない方がいい。

7月1日

 今日もどんよりと曇っていて、なかなかお出かけ日和とも言えず、ご近所散歩ということで宮前平の馬絹神社に行ってみることにした。
 家を出ようと思ったら、ポツリポツリと雨が降り出していた。傘をもって出発。
 途中、有馬神明神社に寄った。平成14年銘の真新しい大きな狛犬があった。裏手には小さな稲荷神社があった。
 馬絹へ向う途中、宮前休日急患診療所交差点の近くに小さな鳥居と社を見つけた。額には猿田彦之尊と書いてある。社の中にあったのは庚申塔だった。すぐ横に「三ツ又の庚申様」と書いた立て札があった。
 そこから坂を下りて行くと246と尻手黒川道路が交差する所に出る。そこから尻手黒川を尻手方向に行くと馬絹神社入口の交差点があり、そこを曲がり、JRの梶ヶ谷貨物ターミナルをくぐると小さな公園があり、その向こうに馬絹神社があった。
 入口の所に神明鳥居と小さな社があったが、中は庚申塔だった。
 馬絹神社は一の鳥居も二の鳥居も銅製で、その間の参道脇には石灯籠が並んでいた。さすがに「宮前」の地名の元となったというだけあって、境内は広かった。
 狛犬は昭和43年銘で、良く手入れされているのか真っ白で鼻の穴や口や耳の穴爪の所の赤い色が鮮やかだ。
 拝殿の横には稲が植えられていた。
 この神社はかつて女躰権現社と呼ばれていたらしく、明治43年になって八幡神社、三島神社、熊野神社、白山神社を統合して神明神社となったという。馬絹神社という名前になったのは昭和61年というから新しい。
 戦前は国家神道の元に何でもかんでも神明社に吸収合併されて来たのだが、戦後になってその反動で寂れていった神明社も多かったのだろう。
 川崎の駅の裏側にも女体神社があったが、女体神社は関東を中心に大きな河川の流域に広く分布していたらしく、治水に関係あるらしい。川崎の女体神社には、多摩川の氾濫に悩まされる村人を人柱となって救った女性を祀ったという伝承があるが、馬絹にも夕子さんがいたのか。「黄昏乙女×アムネジア」のアニメは終っちゃったけど。
 多分、自ら進んで人柱となったというあたりは嘘だろう。だからこそ、その恨みを鎮めるために神社が必要だったのだ。
 生贄に少女を捧げるのは、人口学的に理由があるという。つまり、男を犠牲にしても人口が一人減るだけだが、少女を犠牲にすればその少女が将来生むであろう子供やその子孫の分まで減らすことができるというのがその理由らしい。それでいくと姨捨なんてのはほとんど無意味だという。
 境内の左奥に境内社が並んでいた。一つは八坂神社、秋葉神社、三嶋神社を合祀したもの。もう一つは稲荷神社で、新旧の4対のお狐さんが並んでいた。金属製のものもあった。
 ところで、八坂‥‥八坂‥‥八坂ニャルラトホテプ‥‥。八坂姓には何か裏設定があるのだろうか。牛頭天王の子孫で邪神に関係しているとか。
 午前中は時折小雨がぱらつく程度で、何とかいい散歩が出来た。午後から雨が強くなった。

6月29日

 今日も官邸前で大規模な@TwitNoNukesの大飯原発再稼動反対デモが行なわれた。主催者側は8万人と言っているが、ちょっと無理があるだろう。
 まあ、急進的な人たちには物足りなくても、少なからず緩やかな脱原発への流れはできてきているのではないかと思う。
 むしろ、昔ながらの文明批判や原発を資本主義の象徴のように扱うやりかたとは一線を画したいし、「野田はNOだ!」なんて駄洒落はいいけど、だからと言って自民党やみんなの党や小沢派になったらもっとひどいことになりそうだし、脱原発だからといって社民党や共産党はちょっとというところだ。菅と野田はまだ良くやった方だと思う。
 需要が伸びない所へ持ってきて企業が生き残り競争に必死になれば、慢性的な生産過剰で、仕事は増えるけど給料は減っていくという状態は今後も続くにちがいない。原発を再開しても、結局そんなこんなで日本全体が疲弊して行くだけで、今のやり方では日本が世界に冠たる国になる日は程遠い。
 大事なのは従来の枠組みを変えることで、脱原発はその起爆剤になりうる。
 日本海で油田がという話もあるし、南鳥島にレアメタルがという話も、この頃にわかに報道されている。その前に、東シナ海にもガス田や油田があることは随分前から言われてきている。原発安全神話が崩れたように、これから徐々に「日本は資源のない国」神話も崩れていくことだろう。
 原発を代替するのに大規模な発電施設を必要としないということが徐々に広まって行けば、「代案なき脱原発」神話も消えて行くことだろう。原発を代替するのに、何かものすごい新技術が必要なわけではないし、従来からある既に実用化されている範囲内のものでも、数多く作ればそれでいいのだから。
 高度成長期に作られた様々な神話が、いまでもマスコミ業界の感覚の中に根強く残っている。それを変えていけるのはネットの力ではないかと思う。だからこういうデモは右左関係なく、やれやれ、もっとやれ、というところだ。

6月26日

 デイヴィッド・J・リンデンの『快楽回路─なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか』(2012、河出書房新社)を読み始めた。
 脳に電極を繋いで、電気刺激で快楽刺激を得られるスイッチがあると、ラットは餓死するまでそれを押し続けるという。人生も結局そんなもんなんだろう。
 あと、エーテルというのはFFシリーズの中だけのものではなく、19世紀のアイルランドで酒代わりに飲まれていたらしい。

 ハイになるといえば「リーガルハイ」だが、あの終りかただと続編があるのかな。
 どこかのブログでギリシャ人気質のことが書いてあったが、何かギリシャへ行くと古美門先生がたくさんいそうだ。
 古代のギリシャ哲学でも、プラトンの「プロタゴラス」にあるように、基本的に快楽は善だというところがあって、快楽のために借金をこさえて苦しむことになっても、快楽は善、借金が悪という割りきりがあるのだろう。
 ギリシャ人の言う「良く生きる」というのはそういうことなのか。

6月24日

 今日は原宿の太田記念美術館へ「浮世絵猫百景─国芳一門ネコづくし─」展を見に行った。
 久しぶりに表参道を歩いた。人がたくさんいた。アイスクリームやには長い行列ができていた。
 足元にじゃれ付く猫や手ぬぐいかぶって踊る化け猫や役者の顔が猫になったものなどたくさんあった。
 猫がたくさん集って猫の顔を作る「五拾三次之内猫之怪」「小猫をあつめ大猫とする」は国芳ではなく芳藤。
 前にネットで見た「初雪の戯遊」という雪で巨大な白猫を作る絵もあった。人の背よりも高い雪像で、札幌雪祭りみたいだ。
 一月の森アーツセンターギャラリーの「歌川国芳展」で見た「猫の字当 たこ」や「荷宝蔵壁のむだ書」や「流行猫の曲鞠」もあった。
 切り抜いて組み立ててジオラマのようなものを作るタイプのものもあったり、花巻人形や伏見人形の猫もあったり、いろいろなものがあった。
 朧月猫の草紙は新書本サイズで、字が細かい。昔の人は目が良かったのか。
 どれもこれも遊び心にあふれたもので、これが、この平和さが日本の文化なんだとあらためて思った。
 あんな原発事故を起こしながら、なおかつ核開発だの物騒なことを言うのは本来の日本人のすることではない。西洋の影響だと思いたい。
 外に出ると華やかなファッションを身にまとった人がたくさんいて、今ではきゃりーぱみゅぱみゅとともに世界に知られる原宿。この平和と繁栄をいつまでも。

6月17日

 天気予報が雨で今日も一日お籠りかと思ってたら、昼くらいには薄日が刺してきて、晴れるとわかってたらどこか遠くへ行きたいと思っていたものの、とりあえずご近所の散歩ということにした。
 宮前平というからには神社があるはずだが、この「宮」がどの神社を指していたのかはよくわからない。
 宮前平という地名はかつてあった「宮前(みやさき)」という村の名前から来ているらしいが、いずれにせよどこの宮なのかはよくわからない。
 宮前平駅から近いのは駅前にある八幡神社とその境内にある小台稲荷神社、それに駅からそう遠くない所にある土橋神社だ。
 土橋神社は尻手黒川道路から一本北側に入った通りにあり、大日霊貴命を祀った元は神明社だったから、二の鳥居は神明鳥居だが、一の鳥居と三の鳥居は柱の上に屋根を乗っけた独特な鳥居だった。狛犬は昭和47年銘で戦後の標準的なものだ。
 社殿の縁側には年老いた猫が舌を出して寝ていた。悟りきったような独特な風格があり、猫神主だろうか。
 八幡神社は本当に駅前にあり、石段の前に平成7年銘の新しい狛犬がある。
 石段を登ると八幡神社の社殿と小台稲荷神社が並んでいて、ここにも平成7年銘の真新しいお狐さんがいる。
 今日はそれだけ。

6月15日

 相変わらずマスコミというのは、共産党系のデモだと100人200人でも報道し、背後に特定政治団体の付いてないデモは一切報道しない。
 尖閣デモ、フジテレビデモもそうだったし、昨日の首相官邸前の首都圏反原発連合主催のデモは1万人を超える人が集まったにもかかわらず一世報道されず、今日の再稼働反対!全国アクションのデモしか報道されてないし、その人数も100人から400人とまちまち。
 マスコミ報道だけ見ると、日本には原発に反対する人はきわめて少数というふうに映るに違いない。特定のイデオロギーから原発に反対する人は確かに少数だが、そうでない既存の左翼思想と無関係なところで反対している人はたくさんいるし、右翼系の人たちのなかにもたくさんいる。
 かつての尖閣やフジテレビのことを考えるなら、マスコミは右か左かで報道をしないのではなく、政党の後ろ盾のある団体かそうでないかで区別しているとしか思えない。
 どのような主張のデモかではなく、マスコミというのはネットが世論を動かしているということを認めたくないため、ネットで呼びかけられたデモは無視し、政党や市民団体組織で動員されたデモだけを報道している。
 奇妙なことだが、動員されて仕方なく参加しているデモは大々的に報道され、国民が本当に自発的に行なっているデモは一切報道しないのだ。
 しかし、これは自らの首を締めるようなものだ。国民はこの国の本当のことを知りたければネットを見るしかないということを、高らかに宣言しているようなものなのだから。

6月14日

 「ラヴクラフト全集6」の「未知なるカダスを夢に求めて」を読んでいたら、ようやく何で真尋がニャル子の持ち込んだ肉を食べないのかがわかった。

6月13日

 昨日の続きだが、食欲、性欲、睡眠欲は基本的に代償が利かない。つまり、絵に描いた餅では腹は膨らまない。
 だが、脳内快楽物質の欲望は、より簡単でより高い快楽を得られる手段があれば代償可能だ。
 だから、犯罪になるような快楽追求手段は、シミュレーションでより簡単に効果的に達成させることができれば、代償することができる。
 つまり、犯罪への軽度な欲求であれば、できの良いシミュレーションで容易に代償できる。それが、まさに物語や動画や音楽やゲームやスポーツなどのエンターテイメントのもつ功徳といえよう。
 エンターテイメントは、社会生活の中での様々な不安やもやもやを、暴力的な形で爆発させるのではなく、シミュレーションのなかで発散させることで、社会に平和をもたらす。
 エンターテイメントは、社会に害をもたらす行為の代償を与えるものである以上、そこには社会に害をもたらす行為のシミュレーションが含まれている。
 つまり、現実に喧嘩をする前に、格闘技を観戦したり、あるいは戦記物を読んだり、格ゲーをやったりすることで発散させるのだから、当然そこには暴力的な内容が含まれる。
 そこがたいていの場合、エンターテイメント規制の根拠とされる。
 確かに、現実の喧嘩をシミュレーションの喧嘩で代償できるのだから、その逆も可ということになる。
 ただ、実際はコストを考えると、ほとんどの人は現実の喧嘩よりもシミュレーションの喧嘩を選択する。
 問題は、ごく少数でも逆の選択、つまりシミュレーションに飽き足らなくなって実際にやってしまう人間がいると、犯罪事件として派手に報道されて目立ってしまうのに対し、大多数のシミュレーションを選択している人間のことは、平和な日常の中に紛れてしまうということだ。
 むしろ大多数の平和こそ、エンターテイメントの持つ力だということを知るべきだろう。
 実際、日本の類稀な治安の良さは、世界でジャパンクールと賞賛される高度なエンターテイメントの文化と表裏をなすものであり、これを何でも西洋の方が進んでいると思っている西洋かぶれの意見でもって欧米並みの規制を行なうなら、必ずや日本の治安も欧米並みになるだろう。
 エンターテイメントは平和をもたらす。
 だからこそ、実際に戦争をさせようと思っている為政者からすれば、エンターテイメントは戦意を無駄に消費する有害なものとして抑圧したがるのが常でもある。
 軍事独裁とエンターテーメントの抑圧は必ず着いて回るもので、この二つはセットといっていい。
 右翼は国土奪還と外国人排斥のために、左翼は革命のために、人々を戦いに導こうとする限り、それをシミュレーションで発散されては困るというわけだ。
 現実に目を向けろと言うが、人間の現実はいつの時代でもどこの世界でも変わるわけがない。それは生存競争の繰り返しだ。だから、現実に目を向ければ、最初から永久に終ることのない悲惨な戦いだけしかない。
 終る戦いならする価値もあるが、終らない戦いなら幻想でも平和の方がいい。
 結論として、日本のエンターメントは守らなくてはならない。
 以上、「這いよれ!ニャル子さん」原作第三巻、アニメ版第10話の解説としたい。

 ところで、第二巻に出てきた宇宙にも寿司屋があるというのの元ネタは、ガゼット爺さん?
 世田谷区深沢のあたりで大きな望遠レンズをつけたカメラを持ってUFOを探している爺さんで、吉田照美のやる気まんまんに出演してた。

6月12日

 人間の欲望と言うと、昔から食欲・睡眠欲・性欲が三大欲求だなんていわれるが、それ以上に人間の行動を支配している第四の肉欲があるのでは、ということをちょっと思いついた。
 それは要するに脳内快楽物質に係る欲望なのだろう。
 通り魔にしても放火にしても、それが腹を膨らましてくれるわけではないし、心地良い眠りをもたらすのでもないし、もちろん性欲を満たすこともない。
 脳内快楽物質は、いろいろな場合に分泌される。
 それは快楽報酬とも言われるもので、人間が生存競争を勝ち抜くのに有利になる行動に対して、脳が報酬を出すもので、過度の苦痛に耐えたとき、極度の恐怖や緊張から開放された時、悩みぬいて何かを発見した時など、いろいろな場合に人は快楽を得られる。
 そして、その快楽をもう一度得ようとして、人は何度も同じことをくり返そうとし、常習化し、依存状態になる。
 人によってはそれがジョギングだったり登山だったり、様々なスポーツだったり、ダンスだったりするし、人によってはそれがホラーだったりギャンブルだったり、あるいはジェットコースターだったり、スカイダイビングだったりする。
 さらに人によってはゲームだったり、推理だったり、あるいは学問だったりもする。
 そして、人によってはそれが犯罪だったりもする。
 麻薬というのも、そうした脳内快楽物質の代用品で、ただ何もせずに薬によって得ようというものだ。
 人はそれぞれの資質や環境から、一番脳内快楽物質を得やすいものにはまってゆき、一生それの奴隷となる。
 あるものはたまたま社会に役に立つものにはまって多くの富と名声を手にし、あるものは犯罪にはまってしまい一生を棒に振る。
 それだけのことなのかもしれない。

6月5日

 男子バレーの試合をテレビで見た。
 勝ったからよかったけど、それにしても日本も韓国もみんなテクノカットで黒髪で、ネックレスだけは許されているようだったが、髭やピアスはNGなのか。まして刺青なんてのはもってのほかなのだろう。
 まあ、バレーの方が駄目になったら、みんな目出度く大阪の公務員になれそうだ。
 せっかく背が高くてそこそこ顔がよくても、ファッションが伴わなければスター性もアピールしにくい。これじゃあ、背が高くて運動神経のある男子はバスケに取られてしまうのではないか。
 そこが今ひとつバレーが盛り上がらない原因ではないか。
 バレーの後はリーガルハイだった。サンタクロースの存在証明は、いわゆる悪魔の証明の問題だ。
 消極的証明の困難は、「疑わしきは罰せず」の原則の根拠でもある。有罪を立証するには証拠を突きつければいいのだが、無罪の立証はどうしようもない。
 人は疑われる限りみんな灰色だ。

6月3日

 今日は車を車検に出した。
 ハイブリッドカーを進められたが、値段が高いし、通勤と買い物くらいでたいした距離を走らないから、ランニングコストで回収と言うわけにもいかない。
 遠出をほとんどしないなら電気自動車でもいいかと思うのだが、自宅に車庫があるわけではないから充電する所がない。
 急速充電器の設置は100万から250万くらいでできるというから、ガソリンスタンドを作るよりはかなり安いようだが、電気の単価が安すぎて商売にならないのが普及しない原因なのだろうか。
 団地に充電器を設置できないかとも言われたが、団地の自治会は高齢化していて、聞く所によると未だに、これから車がどんどん大きくなるから駐車場の区画を見直さなくてはいけない、なんてことを言っているという。脳内ではいつまでも高度成長が続いているようだ。

 ブラジルあたりでは、自動車は電化よりもバイオ燃料化に向っているようだが、日本ではなかなかバイオは根付かない。昨日のテレビでは、大量の食品が廃棄されていて、その1パーセント程度しか再利用されてないという。
 「もったいない」という感覚はいいが、食べなくてはいけないとなるといくらなんでも全部食べるのは無理だし、問題は食品を何か別のものに利用するということに妙に潔癖になっていることではないか。
 おからの利用というと、コロッケを作るのもいいが、そんなみんなおからのコロッケばかり食べて生きていくわけにもいかないし、だからといってバイオ燃料にしようとすると、食べられるものを燃料になんてとんでもないということになって、結局普通に廃棄されてしまう。
 確かに世界には飢えている人がたくさんいるけど、実際にそこに届けられないのに食べる以外の利用は認めないというなら、結局全部無駄になる。妙な信仰だ。
 車の電化が本格的に進めば、そこでまた大量の電力需要が発生するし、そのための発電のために原発を作ってまた事故を起こしてでも困る。ハイブリッドカーでは、化石燃料の消費量を減らせはするがなくすことはできない。バイオ燃料で発電するとか、バイオ燃料でハイブリッドカーを走らすとか、やはり何らかの形でバイオ燃料は必要になるだろう。
 なんか、おいしいものを貰うと、すぐに食べるのは「もったいない」といって取っておいて、結局腐らすようなもので、日本人の「もったいない」も、結局かえって資源を無駄にしているのではないか。
 食べ物に燃料になんかするのはもったいない、といいながら化石燃料を大量消費し、その上原子力に頼らざるを得なくなる。それが日本人が世界に誇る「もったいない」なのか。

5月24日

 オリンピックは今や単なるスポーツの祭殿ではなく、その国の環境対策技術や建築技術はもとよりエンターテイメントに至るまで世界中にアピールできる、いわば国際見本市でもある。
 特に日本がこれから震災から復興し、生まれ変わった日本をアピールするには、またとないチャンスでもある。当然ながら、日本の再生可能エネルギー技術とエンターメント産業(ジャパンクール)が大きな柱となる。
 電力不足の不安と言うが、実際に原発が全部止まってみてわかったのは、夏場の電力需要がピークになる時期をのぞけば、現状でもそんなに不安はないということだ。夏場だけの電力なら、そんなに解決困難なことではない。
 スペインはバルセロナでやったばかりだし、トルコはクルド人問題を抱えている。ドーハがこけた以上日本に十分チャンスはある。
 むしろ最大の障壁は、実は石原慎太郎氏自身だったりする。
 石原氏の古い感覚で、これを原発復活の口実にしようだとかいうやましい政治的動機が見え隠れしたり、都のマンガアニメ規制に見られるような、わざわざ世界に通用するジャパンクールを弾圧し潰そうとしたりして、せっかくのオリンピックを古臭い陳腐なものにしてしまう可能性が大きいのが一番の問題だ。
 オリンピックに向けて日本の世論が盛り上がらない最大の原因もそこにあるのではないかと思う。
 日本でもう一度オリンピックを成功させるには、結局都民が次の選挙で賢明な判断を下すかどうかにかかっているように思える。脱原発とジャパンクールに肯定的な人間を選ぶこと、それが唯一の道だと思う。

5月21日

 金環日食を見た。
 朝起きた時は曇っていたが、会社へ行く途中の車のなかで雲が切れて太陽が時折顔を出し、手近にあった紙に安全ピンで穴をあけて車の中に映してみると、三日月状の光が映った。
 コンビニの観測眼鏡は売り切れていた。昨日まではたくさんあったが、そういえばコンビにはどこも結構車がたくさん止まっている。
 会社の車庫に着いて少しすると金環になった。あたりは薄暗くなった。明け方や夕暮れのような赤みがかかった暗さではなく、灰色になる暗さだ。曇った時の暗さではなく灰色の光が降り注いでいるような暗さだ。
 あたりで犬が吠えてたりカラスが鳴いたり、雀が二羽戯れながら飛んできたり、結構賑やかだった。
 雲がうっすらかかっているので何とか肉眼でも見ることができたが、やはり1秒も見ていることはできない。目を閉じると金環の残像がいくつも現われる。
 さっきのピンホールを空けた紙をかざして、その穴から見ると、エスキモーサングラスの原理で若干光は和らぐが、それでも長くは見れなかった。
 写メを取ったが、全体に光ってしまってうまく写らなかった。

5月20日

 今日は午前中いい天気だったので、ご近所の散歩に出た。
 保木から川崎市麻生区の白山神社と月読神社を目指した。保木のあたりには芍薬を植えてる農家があり見事に咲いていた。
 そのちょっと裏手に十社宮があった。この辺はよく通るのだけど今まで気づかなかったものがたくさんある。となりが薬師堂で本地垂迹そろっている。狛犬はなかったが古い庚申塔があった。
 このあと、裏門坂から白山神社の方へ向った。
 白山神社には赤いきれいな両部鳥居があり、その前に明治20年銘の狛犬があった。横に平たい顔でどこかにこやかに見える。阿吽両方とも子取りで阿形の方は二頭の子獅子を抱えている。
 拝殿には立派な彫刻があり、本殿は石造りの鞘堂に覆われていたが、中にはもっときれいな彫刻に彩られた建物があるらしく、写真入の解説板があった。
 そのあと、月読神社を目指したが、途中で道を間違えて石橋の方へ出てしまった。
 柿生の里散歩道案内図の看板を見て、この散歩コースをたどって月読神社へ向うことにした。
 この散歩コースは結構狭い道を通る。
 途中、神明社と稲荷森稲荷(とうかもりいなり)神社があった。このあたりは竹薮が多く、竹の子を取るなという看板がある。
 籠口ノ池(ろぐちのいけ)公園を抜け東柿生小学校の交差点を抜け、不動橋を渡った所に月読神社入り口があった。
 ここもやけに狭い道で家の庭先をかすめていくので本当かと思ったが、やがて鳥居が見えてきた。
 正面の表参道ではなく東側に出る裏参道だった。
 ここの狛犬は大正7年銘で、子取りの子獅子も玉取りの玉も大きめだった。このあたりの狛犬は優しい表情をしているものが多い。狛犬もムスコニウムの補給が必要なのだろうか。
 帰る途中に王禅寺の裏側にある原子力研究所の前を通った。
 子供の頃、市ヶ尾古墳と王禅寺を結ぶ「原始から原子へハイキングコース」があったのを思い出した。結局一度も歩くことなくすすき野の造成が始まって消滅してしまった。
 1970年頃だったか、まだ原子力が未来のエネルギーとして期待されてた頃だった。

 よく、自然エネルギーはまだまだ何十年先の未来のエネルギーだと言う人がいるが、自然エネルギーは既に実用化されているものがほとんどで、むしろ原発の核燃料再処理の方が技術的に問題が多く、まだ実用に何十年もかかりそうなもので、そんなロマンチックなものを見切り発車させてしまったのはやはり失敗だったのだろう。
 核分裂反応の制御も、今の固形ウラン燃料の原発では、ほとんど石炭ストーブのようなもので、火掻き棒ならぬ制御棒で火力を調節し、消す時には水で冷やすという意外にローテクな物で、液体トリウム原発なら石油ストーブくらいに扱いやすくなるのだろうけど。
 原発も先端技術というよりは60年代に作られたかなり古い技術だということなのだろう。
 日本企業はインド進出が遅れているが、インドは侮れない。民主主義の国だし、人口もやがて中国を追い抜くし、それに唯一液体トリウム原発を実用化している国でもある。
 なぜか韓国はインド進出が進んでいる。同じB型同士、気が合うのか。日本人はドイツ人と同じA型文化だから、ドイツに倣って自然エネルギーに力を入れた方がいいのだろう。

 ところで、日本野鳥の会が福島の風力発電所に反対しているという報道があり、これだけ見るといかにも自然エネルギーの導入に消極的であるかのような印象を与えてしまう。
 ただでさえ、法人会員に電力会社や原発関連の企業が名を連ねているというところで、いろいろ勘ぐる向きもあるだろう。
 もちろん日本野鳥の会も原発には反対しているし、今回の事故で多数の野鳥が被曝したのみならず、ツバメの減少にまで影響を与えていることにまで憂慮している以上、法人会員のお金の力で組織の方針が捻じ曲げられるということはないと思う。
 日本野鳥の会は風力だけでなく、もちろんダム建設にも反対しているし、野鳥の立場からすれば、人間の活動は基本的にことごとく脅威になる。
 本当の脅威は生息域の減少で、これは農地開発でも、宅地開発でも、工業団地の建設でも、道路の建設でも、ありとあらゆる開発が野鳥に限らず野性生物全体にとって脅威になる。
 野鳥を保護するのは人間であり、人間に「生きるな」とは言えない。ただ、無制限な開発ではなく自然との調和があくまで目的なのだから、自然に与える影響を最小にする努力は必要だろう。
 風力発電の風車に、野鳥の衝突を防ぐ工夫はできないか、場所も山地よりは洋上の方がふさわしいのではないか、その辺のことはやはり考えなくてはいけないことで、脱原発だからと言って風力発電を水戸黄門の印籠にするわけにはいかないし、そういうやり方は地球温暖化を盾に原発ルネッサンスを押し進めてきた論理と何ら変らない。

5月18日

 「源氏物語」末摘花巻クリアー!
 ついでに序文も付けてみた。
 源氏物語は今読んでも古さを感じさせない。ただ翻訳が古かっただけだ。
 今のところ俺に翻訳に関しては苦情は一件も来ていないので、これでいいのだと思う。ドナルド・キーンの名前を出しているけど、未だにその方面からの苦情も来ていないから、これはもうドナルド・キーン公認といってもいいのかもしれない‥‥なんて、ただ知らないだけなのだろうけど。

5月14日

 ここんとこ洋楽ばかり、主にメタル系(バイキング、ゴシックなど)を聞いてたけど、最近また少し邦楽に戻ってきた。
 赤い公園が、目下のヘビロテ。
 きゃりーぱみゅぱみゅもいい。パフュームは特に何とも思わなかったけど、中田サウンドというのは、基本は土屋昌巳のライスミュージックなのかなと思った。テクノと日本的なメロディーとの融合によるポップサウンド。

5月11日

 源氏物語を訳してふと思ったんだが、能や歌舞伎が見ていてつまらない理由の一つに、言葉がわからないということがあるのではないか。
 あれが今の言葉で演じられたらどんな感じかなって思う。
 もちろん、いわゆる翻訳口調ではなく、昭和の標準語でもなく、本当に今の言葉で蘇ったら、もっと興味を持つ人がいるかな、なんてね。
 でも、結局古典の好きな人というのは、今の日本の文化が大嫌いな人たちばかりで、嫌悪と憎悪の塊だったりして、そういう人たちが古典に救いを求めていることを思うと、結局そういうのは古典への冒涜と見做されて潰されてしまうんだ。
 古典はあくまで今の日本にないものでなくてはならず(西洋にあるものはよくて)、今の日本を否定してくれるものが古典に期待されている以上、古典はいつまでもわれわれの日常とは別世界で超然としたものでなくてはならない。
 古典を保護し、普及しようとする人たちも、基本的には今の日本を否定させるためにそれを行なっているのだと思うと、そんなのはいつまで経っても無理な話で、結局誰も見ないものに対して無駄に税金をつぎ込むだけになっているんだと思う。
 古典の保存が必要なことには異論はないが、問題はその背後にある思想なんだと思う。
 古典に限らず、オーケストラへの援助なんかも、結局今の日本の誰もが親しんでる文化を呪う人たちによって牛耳られているのが問題なんだと思う。
 能を現代語にするというのは、いつかやってみたい。でも能を保存しようとする人たちからすると、とんでもないと一笑に付されるだけだろう。
 大阪の文楽の問題も、結局そういうことなのではないのか。

5月10日

 ここんとこ雷が続いている。
 地上では電力が不足するというのに、空の上では電気が余っているのか、何かそういうのも利用できないのかなんて思ったりする。
 雷は瞬間的に大きな電力を発生させるけど、問題はそれを溜めておけないということなんだろうな。
 竜巻なんかも凄いエネルギーなんだから、それで発電できないのかなんて思ったりする。
 もちろんいつどこで起こるかわからない竜巻は、実際には無理だろうけど、竜巻の正体は上昇気流なんだから、それを利用すればと、「上昇気流」「発電」でぐぐれば、いろいろと上昇気流発電のことが出てくる。とっくにみんな考えてたんだな。
 自然エネルギーというと、すぐ電力の安定供給に問題がという議論になりやすいが、実際日本の場合、電力需要が真夏の昼間に極度に集中するのだから、真夏の昼間に集中的に発電するものがあってもいいのではないか。その点では、上昇気流発電というのもありではないかと思う。
 風力や波力や潮力を利用した洋上発電は、結局漁民の反対で進まないのか。漁業にだって電気は不可欠なのだから、その電気を自分たちで作るという発想にはなれないのだろうか。
 海の安全を守るためにも魚を集めるためにも灯を煌々と照らすし、魚を加工するにも電気は要る。将来は漁船だって電気で動くようになるかもしれないし。

5月6日

 正直言って一年前の今頃は、原発が本当に全部止まって大丈夫なのかと思っていた。だが、実際止まってみると、何ごとも起こらない。夏の電力に不安があるといっても、それは去年も同じだったし、去年は国民の多くが節電に協力したことで無事乗り切れた。今年もおそらく同じだろう。
 多分去年の、火力発電所がまだ復旧しない時点で原発を「即時停止」していたなら、夏の計画停電も避けられず、かなりの混乱が起きただろう。くしくも何の混乱も起こらず理想的な仕方で脱原発へソフトランディングできたと言ってもいいのかもしれない。
 多少荒療治ではあるが、産業界もこれで電力会社に全面依存するのではなく、自家発電に再生可能エネルギーを利用する方向へ、いやおうなく向わざるを得なくなるだろう。もちろん家庭用のソーラーパネルの普及も早まるに違いない。
 工場が海外へ移転し産業の空洞化につながるという意見もあるが、それは原発事故が起こる以前から、安価な労働力と現地生産によるコスト削減で、原発事故があろうがなかろうが早かれ遅かれ起きていたことだ。
 むしろ自然エネルギー利用の技術を促進することで、日本に新たな輸出産業を創出する方が重要だ。原発ルネッサンスの幻想は早かれ遅かれ終り、脱原発は世界的な流れになるからだ。
 原発推進派の根拠の一つに、将来の再軍備・核武装のために原発は何が何でも維持しなくてはならないという考え方がある。
 そこには、日本が敗戦国として国連常任理事国から排除され、事実上国際秩序が戦勝国によって作られていることへの不満があるのはわかる。
 だが、果たして日本は核武装できるのだろうか。核の管理は相変わらず戦勝国の手の中にあるし、この状況を変えるのが困難であるなら、敗戦国には別の戦略が必要なはずだ。
 原発を推進する限り、日本は戦勝国を越えられない。もし無理を押して核開発をすれば、イランや北朝鮮のようになるだろう。
 ドイツとイタリアが脱原発に舵を切ったのは偶然ではない。敗戦国は原発・核開発では戦勝国を越えられないのだ。ならば再生可能エネルギーの利用で戦勝国の先を行くことを考える方が現実的だ。この流れに日本も加わり、新たな三国同盟を結成するのには十分意味がある。
 これから日本がかつての戦勝国を押しのけて世界に冠たる国になるには、軍事中心、核中心の発想を切り替える必要があるだろう。核兵器の廃絶も、これからの世界の流れとなるなら、それに変って世界を支配するのは地球に優しい技術だ。
 原発によって撒き散らされた放射能は、これからの日本にとって何十年にも渡って大きな足枷になる。除染や被害者の補償や廃炉費用などにも莫大な金がかかり、東電だけではまかないきれず、必ず国家財政を圧迫するにちがいない。
 そんなハンディを背負いながら、戦勝国とまともに渡り合おうというのは所詮無理な話だ。ならば、再生可能エネルギー開発に活路を求めるのが最も合理的な考え方ではないかと思う。

5月5日

 今日は等覚院のツツジを見に行った。
 ツツジはやや終りかけてたけど、正面の赤いツツジは鮮やかだった。
 今年は寒さのせいでツツジの咲くのが遅れ、木によって開く時期がまちまちになったのかもしれない。なかなかきれいに咲きそろわなかったのだろう。
 そのあと東高根森林公園を一回りし、バスで溝の口の駅へ出て帰った。

5月4日

 今日は西那須野スタート。
 朝5時半に出発。天気予報は外れて、まだ雨が残っていた。
 上野駅についてスーパーラビットを待つが、宇都宮線の大雨のせいで遅れているという。結局10分遅れて出発。間々田-小山間でも徐行運転で、結局西那須野到着は9時25分でほぼ30分遅れだった。
 ただ、駅の前にちょうど黒羽行きのバスが止まってたので、これに乗って大田原神社まで行くことにした。西那須野-大田原間は別に芭蕉が歩いた路でもないので、別にかまわないだろう。大田原神社は前回行っているので、路はちゃんとつながる。
 神社と城址公園を結ぶ橋をくぐると蛇尾(サビ)川を渡る。昨日からの雨でかなり増水している。そこからひたすら461号線を歩く。
 家も途切れてまっ平で見晴らしがいいが、山の方は雲がかかっている。上奥沢で広い道に合流する。脇を歩いていると、田んぼにジョボッとタゴンくんの飛び込む水の音、でなくて蛙の水音がする。蛙の声も賑やかだった。
 ここへ来るまでの電車の中で読んだラヴクラフト全集1の「インマウスの影」では半漁人というか半蛙人のようなのがいかにも不気味に描かれていたが、日本では田んぼの蛙は昔から親しまれてきたので、蛙に対するイメージも西洋人とは違うのだろう。
 ニャルラトホテプもキリスト教の文化では邪神だが、東洋では混沌は老子が「万物の母」と呼んだように、万物を生み出す元のなるもので、陰陽未分という意味では太一神に相当するのではないか。
 まあ、その辺の文化の違いからニャルラトホテプも日本だと萌えキャラになるのかもしれない。「這いよる混沌」というよりは「母なる混沌」か。

 混沌というやさしさよ蛙鳴く

 那須神社(金丸八幡宮)の近くになると、ふたたび雨が降りだした。那須神社は二年前のちょうど同じ日に一度行っている。この時は車で那須のステンドグラス博物館や殺生石を見てから黒羽を一回りし、雲巌寺を見て、最後に室の八島にも寄った。
 震災の後でも那須神社は特に変わったところはなかった。大田原神社のあたりは特別だったのか。
 黒羽の中心地に入る。2年前に来た時は寂れた印象があったが、今回は逆で、むしろ壬生の町みたいに旧市街と新市街が分離しない、こじんまりとしたなりの活気が感じられた。矢板や大田原を見てきたせいだろうか。
 今回は時間の都合で黒羽城址の方へは行かなかった。前回も来ているし、ここと雲巌寺への路は宿題ということにした。
 黒羽向町を左折し、芭蕉の宿泊した余瀬の方へ向った。
 光明寺跡は、前回見つけられなかったところで、芭蕉が「夏山に足駄を拝む首途哉」の句を詠んだところだ。このころ雨は止んだ。
 次に、前回も見た鹿子畑桃翠邸跡へ行った。それから玉藻稲荷神社に向ったが、この頃からふたたび雨が降り出し、着いた頃はどしゃ降りだった。蜂巣集落センターの方に戻り、犬追物の跡を見に行こうと思ったが、この雨なので黒磯駅の方へ急ごうと思った。それに、このあたりから犬追物の跡のある場所は見える。どっちにしても何もないところだ。
 そこから北へ向い黒磯駅に向った。
 蜂巣小の先で路が分かれ、そこに最近立てられた「奥の細道」と書いた碑と馬頭観音塔があった。左の細い方の路が「奥の細道」なのか。
 雨も小降りとなり、道の脇にはスミレがたくさん咲いていた。あたりは水田や麦畑だが、昔は那須の篠原だったのだろう。
 曾良の旅日記に「‥‥余瀬ヲ立。及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。」とあり、ここから野間までは芭蕉は馬に乗っている。そして、この道で「野を横に馬牽むけよほととぎす」の句を詠んでいる。
 ホトトギスの声は聞こえないが、鶯は鳴いていた。
 やがて雨も上がり雲が切れて日も差込み、車もほとんど通らない長閑な田舎道が続く。いい所だ。
 羽田(はんだ)に入ると視界が開ける。天気が良いと那須の山々がくっきり見えるのだろう。今日は山頂に雲がかかっている。
 県道と交差する所に「和郷之絆」と刻まれた立派な碑がある。何の碑だかよくわからない。隣には獣畜霊魂供養塔がある。
 さらに行くと左に小さな観音堂がある。
 その先に道が左にカーブする所の突き当たりに鳥居が見える。八龍神社だ。
 狛犬は平成18年銘で新しいが、全体に角ばった感じが那須神社の狛犬も通じる、このあたりの伝統なのだろう。
 境内に羽田太々神楽の舞台があった。このあたり特有の神楽があるのだろう。
 この先、公民館前のバス停の先を右に曲がると道は未舗装になり、田んぼの間を抜けると旧奥州街道に出る。このあたりが野間になる。
 旧奥州街道を少し行くと野間十文字がある。このあたりでは十字路のことを十文字というようだ。
 いままで八龍神社の通る道を「野を横に‥‥」の句の道だと思って歩いてきたが、実際の所はっきりとしているわけではない。
 奥の細道の碑のある分岐点を右に行き、砂の目を通り黒羽刑務所やなべかけ牧場の中を突き抜け、野間十文字に出たのかもしれない。あるいは、八龍神社の手前を右に行き野間十文字へ抜けたか、これが唯一というのを証明するのは難しいだろう。
 それと、このあたりで気になるのは、ムスカリがあぜ道などにこぼれて雑草化していることだ。スミレ、タンポポ、ハルジオン、ナガミヒナゲシなどに混じって咲いている。
 野間十文字の先に樋沢神社がある。八幡太郎義家が蹄の跡をつけたという伝説のある巨石がある。
 その先には鍋掛の一里塚があり、その奥には愛宕神社がある。その先すぐにファミマのある鍋掛十文字がある。
 今回はここで左に曲がり、真直ぐ黒磯の駅に向った。芭蕉はここを直進し、越掘から左折したらしい。ただ、曾良の旅日記には「鍋掛」は書いてあるが「越掘」の地名は見えない。
 黒磯までの道は真直ぐな一本道だった。駅に着くとちょうど上野行きの快速ラビットが止まっていたのですぐに乗って帰った。8時半には帰れた。

5月3日

 「奥の細道」の旅は、だんだん電車に乗る時間が長くなり、本を読むにはちょうどいい。
 以前電車通勤をしていた頃には週1冊ペースで読めたのだが、車で通勤するようになってから読書量はかなり減った。それを少しは埋め合わせできるか。

 上田雄の『渤海国─東アジア古代王国の使者たち─』(2004、講談社学術文庫)は、この種の歴史書にしては読みやすく、渤海国入門にはちょうどいい。
 それにしても、日本が渤海国に送った使節を中国への使節だなんて言っている中国は油断ならない。彼らの論理では中国に朝貢した国はみんな中国だというのだから困ったものだ。「沖縄は中国の領土だ」と言うのもその論理だ。
 小野田守という人物が出てきたが、マンガ日本史みたいなのだと安易にサングラスキャラにされてしまいそうだ。個人的には眼帯キャラにしてほしい。新羅にも渤海にも行ったという謎の外交官だ。
 能登号の漂流では、迷信によって女子供を海に投げ込んだという記録があり、著者は「当時の航海中の船中の様子をリアルに描写した」(p.114)と言っているが、ちょっと裏読みしたくなる。
 案外真相は、漂流中に飢餓に陥り、食ってしまったのを、後で公に報告する時に口裏を合わせて、海に投げ込んだことにしたのかもしれない。

 平沼光の『日本は世界一の環境エネルギー大国』(2012、講談社+α新書)も、なかなか日本の未来は明るいという感じの本だ。
 自然エネルギーの可能性については、原発推進厨がいちいち難癖つけてぶっ潰そうと企んでいるようだが、そんなに核武装がしたいかという所だ。
 今さら日本が核を持ったところで、どのみち戦勝国に遥かに先を越されてしまってるのだし、原発も戦勝国の管理下にあるのだから、そんな所で頑張るよりもドイツ・イタリアと三国同盟を復活させた方がいい。
 洋上での風力発電は、日本の造船業界を救うことにもなるから一石二鳥で、早く実現するといいなと思う。
 そのときには開いているスペースで太陽光発電もやったり、同時に波力でも発電するような複合施設にすると良いと思う。
 今の日本で一番駄目なのは、「あれかこれか」という硬直した発想だ。大体、サルトルの実存主義の「あれかこれか」も、ハイデッガー哲学を誤解した九鬼周造という日本人の影響で誕生した哲学で、本来西洋は対立する意見をより高次な思考で乗り越えて行く弁証法的な「あれもこれも」の文化で、そこに西洋の強みがある。
 日本だって本来は「あれもこれも」の文化だった。本地垂迹説なんてのは神道と仏教のいいとこ取りから生まれたのではなかったか。
 「増税か歳出削減か」なんていつまでも下らない「あれかこれか」議論をやってるから、いつまで経っても財政再建が進まない。両方やれ!
 一石二鳥を狙うなら、洋上複合発電所の横にさらにもう一つ大きな船を浮かべて、漁業基地を作ったらどうだろうか。
 何しろ送電ロスのない採りたての新鮮な電力をふんだんに使うことができるのだから、そこで急速冷凍したり缶詰にしたりすればいいのではないか。されにそこに市場の機能を持たせ、そこから世界に輸出なんてのはどうだろう。
 宇宙太陽光発電の可能性も、せっかく「宇宙兄弟」が盛り上がってる今だからこそ、もっと大騒ぎしてほしい。
 ただでさえ宇宙開発競争は、日本が自動車作りに邁進している間に中国というできの悪い弟に先を越されているのだから、ここらで兄ちゃんの貫禄を見せてほしい。早く敗戦からの出発というコンプレックスをふっきってほしい。

5月1日

 ネットで注文していた「ラヴクラフト全集1」がやっと届いた。ニャル子さんの2巻を読み終わった。

4月30日

 今日は「奥の細道」の旅の続きということで、矢板スタート。
 朝6時に家を出て、矢板着が9時40分。
 西口を出て扇町から461号線の陸橋の方へ行く。陸橋前から左ヘ行く道が旧道なのだろうけど、線路で途切れている。
 線路を渡って長峰公園の脇に下りて、公園の北側を行くと、長峰霊園の脇に出、更に行くとやがて日光北街道旧道の分岐点がある。旧道は未舗装の山道になる。
 しばらくは昔の道を偲ぶような山道が続き、視界が開けると工事現場の塀のような所に「奥の細道」の解説が書かれていて、その先に芭蕉と曾良の像がある。古池の句も刻まれていたが、もうひとつ、「宇久ひ寿や柳のうし路藪の前 玄甫」の句碑があった。天保5年と書いてあるけど、どう見ても最近立ったものだ。
 その先、製材所の脇を通って国道4号線に出る。合流ポイントには「大聖不動明王」の額のかかった木の鳥居があり、小さな社がある。本体は赤い衣と覆面でほとんど覆われている。後に古代の剣のような形をした金属性のものがたくさん飾ってある。「名状し難き剣のようなもの」とでもいうべきか。
 日光北街道に行くには4号線の向こうの県道52号線に行かなくてはならないのだが、信号はおろか横断歩道もない。車が途切れた隙を見て渡り若干後戻りをして県道52号線に入った。
 少し行くと新幹線の線路が見えてきて、その下の交差点に「沢」とある。曾良の「旅日記」にも出てくる沢村だ。
 新幹線の線路をくぐり少し行くと右側に鳥居が見える。行ってみると、小さな山へと路が続いていてその上に石祠があった。橿原神社と八幡神社と書かれていた。そのほかにも金毘羅社の石祠があった。
 沢の集落は大谷石の蔵や塀など大谷石を多用していて、静かな別世界のようなところだった。小さな稲荷神社があったが、狛犬やお狐さんの姿はなかった。心なしか、日光を過ぎるとかなり狛犬との遭遇率が減る。神社も小さな所が多い。
 沢を過ぎると箒川があり、そこにかかる橋が「かさね橋」となっている。
 曾良の「旅日記」が昭和18年に発見されるまでは、芭蕉の宿泊地などはまったくわからなかったため、「奥の細道」の「かさね」のくだりは那須野ということで、このあたりと推定されてたようだ。そのため、矢板から大田原までは「かさね」の里とされている。
 いったんここがその「かさね」の舞台として流布してしまうと、あとから曾良の「旅日記」が発見され、芭蕉の宿泊地が玉生だったことが明らかになっても、そう簡単に説を変えるわけにはいかない大人の事情があるのだろう。既に観光開発されてしまったところで、実は違ってましたというわけにはいかない。
 一番手っ取り早いのは、「かさね」のエピソードそのものが虚構だとすることだろう。虚構である以上、舞台は日光から黒羽の間のどこであってもいい。
 次に考えられるのは、このエピソードが玉生を出てからしばらくしてであっても良いという説で、もちろん「かさね」そのものは「奥の細道」の登場する以外に他の史料がないため、どのみち実証できない。結局、決定的な証拠がない以上、どこでもいいということになる。
 芭蕉か曾良の真筆で、「かさね」の消息について触れた書簡とかが出てこない限り、この問題は永久に決着のつかない問題なので、まあ、それぞれの場所でうちが本家と主張しあってればいいのだろう。
 かさね橋を渡ると大田原市に入る。このあたりは麦畑と水田が入り組んでいる。麦は穂が出ているもののまだ青く、田んぼは水が張られ一部田植えが終っている。その合間に咲いているタンポポがやけに大きい。このあたりのタンポポは種類が違うのか。

 大田原、田んぼタンポポ麦畑

 また少し行くと八雲神社がある。ここにも狛犬はなく、拝殿もない。石祠が並び、その上を鞘堂が覆っている。
 その先には塩化ビニールのパイプを組んで作った鳥居があった。中は立ち入り禁止になっていたが、奥に拝殿のようなものが見える。近くのバス停には「合格神社」と書いてあった。
 さらに行くと道の左側に赤い鳥居があり、雷電神社の石祠がある。その横に「なんじゃもんじゃ」と刻まれた石が立っている。どうやらそこに立っている木が「なんじゃもんじゃの木」らしい。
 やがて田んぼや麦畑が少なくなり、大田原の市街地に近づく。
 サンクスのある角を過ぎると道が細くなり、旧道っぽくなる。
 そしてやがて日光北街道の新道(国道461号線)と合流する。その合流点のあたりに愛宕神社があるが、ここにも狛犬はない。社殿は公民館を兼ねていているようだ。草鞋の供えられた小さな境内社がある。
 そのすぐとなりには薬師堂があり、石の七重塔は貞享元年建立というから、芭蕉がここを通った時には既に存在していたのだろう。寛政5年のお堂もなかなかきれいだった。
 大田原信金の前には那須与一の銅像があり、金燈篭の角は公園になっていた。
 旧市街が寂れた印象なのは、鹿沼、今市、矢板と見てきて今に始まったものではないが、震災の影響もあるのかもしれない。若い活力がないと、復興への意欲も萎えてしまうのかもしれない。
 龍頭公園から大田原護国神社、大田原神社を回ったが、ここは震災後1年経ってもまだ荒れ果てたままだった。
 大田原城址のほうへ行く橋は通行止めのままだし、大田原護国神社の狛犬倒壊したまま放置されていた。右側の方は横倒しで、倒れた鳥居などの瓦礫に埋もれ、左側の方はちょっと離れた所の地面にぽつんと直置きされていた。ひっくり返った台座には昭和16年の銘があった。
 社殿のあるはずの場所も石垣だけが残り、何もなかった。おそらく倒壊のおそれがあるというので撤去されたのだろう。
 大田原神社の方も鳥居や燈篭などに大きな被害があったようだ。
 狛犬は拝殿前に二対、手前のが昭和15年銘、奥のが大正9年銘のがあり、こちらはどうやら無事だったようだ。
 境内の右側には狛オオカミと昭和12年銘の小さな狛犬があった。ただ、その先には何もなく、三峰神社の社殿も撤去されたようだ。
 狛オオカミは耳が長く、ムーミン谷のスニフに似ている。ただ、阿形の方は上顎が欠けていた。ネットで5年前の写真を見たら欠けてなかったので、震災で欠けたのか。
 境内には稲荷社もあり、昭和8年銘の老獪そうなお狐さんがいた。
 石段を降りて外に出ようとすると、そこには江戸時代の古い鳥居があり、こっちの方は無事だった。あらためて昔の人の技術は凄いと思った。
 さて、今日の「奥の細道」のたびはここまでで、セーブポイントの西那須野駅へと向う。
 その前に白河中華そばよし川家で中華そばと餃子を食べた。醤油味で佐野ラーメンに似ていた。
 西那須野へはぽっぽ通りという遊歩道があった。ぽっぽといっても、どこぞの元首相とは何の関係もなく廃線跡を遊歩道として整備したからで、途中に駅もあった。
 西那須野駅の前で天鷹純米辛口をお土産に買った。駅前の交番にはなぜか巨大なピカチュウ像らしきものがあったが、警察のことだから著作権法に違反するようなことはしていないにちがいない。

4月29日

 立川の昭和記念公園から玉川上水のあたりを散歩した。
 昭和記念公園は昭和の日ということで無料のせいか、かなり人が多かった。
 ポピー、シバザクラ、ムラサキハナナは今が見ごろという感じで、チューリップやムスカリはやや終りかけていたがまだ十分咲いていた。そのほかにも、菜の花、山吹なども咲いていたし、牡丹も咲き始めていた。
 西立川駅の方から入り砂川口を抜けて、2年前に行ったことのある阿豆佐味天神社にいこうとしたのだが、2年前のことで道がうろ覚えで、五日市街道を反対の方向に行ってしまい、残堀川の橋の所に出てしまい、先に玉川上水沿いの散歩をすることにした。残堀川と玉川上水が交差する所では、玉川上水が途切れたようになっていて、水がどこを通っているのか謎だ。
 玉川上水沿いの桜はすっかり若葉になっていて、ところどころ八重桜が残っていた。このあたりは昔ながらの大きな農家が多く、立派な蔵があり、屋根の上にしゃちほこのある家もあった。ブルーベリーや独活産地でもあるし、造園業も盛んなようだ。
 金毘羅橋の手前には小さな山があり金毘羅神社があった。境内には秋葉神社と浅間神社があった。この山自体が富士塚だったらしい。公園としてきれいに整備されていた。
 金毘羅橋から南へ向い五日市街道へ出て、ようやく阿豆佐味天神社にたどりついた。新しい神楽殿ができていた。猫神様も健在だった。

4月24日

 今日の突然の雷で停電した。
 パソコンは一度切れて再起動したが、ファイルが開けなかったりした。
 後でもう一度再起動させたら元に戻っていたが、危ない所だったのかもしれない。
 雷というと、この前テレビで見たスプライトのことを思い出した。あれだと宇宙から見たスプライトや、飛行機を飛ばして撮影したものなどで、NHKの技術をアピールしていたが、ネットで見たら地上から撮影された映像とかもあったから、別に宇宙に行かなくても見えるけど、一瞬のことなので気付かないだけだったのだろう。
 遥か上空に電気の溜まっているそうがあるなら、将来はそこから電気を引っ張ってくることも可能になるのかもしれない。そのころには「昔は電気を起こすのに苦労した」なんて言って、原発などがあったことが笑い話になるのかもしれない。

 「リーガル・ハイ」は結構よくできている。弁護士ものというと、正義だの人情だの押し付けがましくなりがちだが、それがないのがいい。
 第一回のラストのあたり、真相は神のみが知るというのは、古代ギリシャで弁論術を極めたゴルギアスの「何も存在しない、存在したとしても知ることができない、知ったとしても伝えることができない」を思い出す。
 推理小説では作者が造物主となって、たった一つの真実を示すことができるが、ゴルギアスの言葉は長年裁判に携わってきた人の率直な感想なのだろう。

4月22日

 今日は上野の国立博物館へ「ボストン美術館、日本美術の至宝」展を見に行った。
 朝からどんより曇っていて肌寒く、雨になるとの予報もあり、かえってこういう日は人も少なくてチャンスなのではないかと思った。
 実際、上野公園には人が少なく閑散としていた。
 ソメイヨシノはすっかり葉桜になり、八重桜や山吹が咲いていた。
 上野動物園にはパンダを歓迎する垂れ幕と「ホッキョクグマとアザラシの海」ニューオープンの垂れ幕がかかっていた。この時期にパンダと白熊の組み合わせは「しろくまカフェ 」を狙っているのか。
 国立博物館を入ると左側に休館中の表慶館があるが、今まであまり目にとめなかったが、ここの玄関の前のライオンは狛犬みたいに阿吽があった。
 まずは「ボストン美術館、日本美術の至宝」展をやっている平成館へ。
 最初に岡倉天心が釣竿をもった像があった。
 狩野芳崖の「江流百里図」はなかなか緻密に描かれ、若干線遠近法やぼかしの西洋的な技法を取り入れてはいるものの、伝統的な大胆な構図に最後の伝統絵画の輝きが感じられる。まだいわゆる「日本画」になってないところかいい。
 平安時代末の「普賢延命菩薩像」は八頭のゾウが描かれているが、目つきが危ない。本物のゾウを見たことがなくてモンスターにされちゃったのか。
 快慶の「弥勒菩薩立像」もなかなか目立つ。ぽっちゃりとしているものの、鼻筋がしっかりと通っていておとがいのはっきりした顎は、当時の美男だったのだろう。光源氏の顔も本来はこういうイメージだったのか。
 「吉備大臣入唐絵巻」は今で言えばハンター試験みたいなものか。幽鬼の助けを借りて「文選」の試験ではカンニングするし、碁の勝負ではずるをするし、昔の日本人はこういうマリーシアを高く評価する民族だったのだろう。
 『源氏物語』空蝉巻でも軒端荻が整地でごまかそうとして空蝉に見破られているが、当時碁でのインチキは普通のことで、ヒカ碁の佐為は正直すぎたのだろう。
 祥啓の「山水図」は間違いなく室町時代の日本の絵画を代表するものだろう。
 伝狩野元信の「宗祇像」。宗祇さんのえらの張った顔は相変わらずだ。
 伝狩野雅楽助筆の「松に麝香猫図屏風」のジャコウネコはペルシャ猫っぽい。
 長谷川等伯の「龍虎図屏風」。真ん中の雲の曲線は女体のイメージなのだろうか。
 長谷川左近の「牧牛・野馬図屏風」は馬と一緒に桜の木が描かれているが、これは「桜肉」の洒落か。
 狩野山雪の「十雪図屏風」、雪下ろしをしている様子が描かれている。
 そして最後を締めくくるのが曽我蕭白。どれもこれも凄い。圧倒される。
 「?居士・霊昭女図屏風」は娘の足に見とれる怪しげな老人の絵で、この目つきがなかなかいやらしい。天井から吊るされた鉈や部屋の中のディティールがよく描かれている。
 「朝比奈首曳図屏風」は、鬼が岩を体にくくりつけてずるしているが、それでも勝てないところが、どんなに厳しいハンディを背負っても最後には必ず勝つというアメリカ映画みたいだ。
 「虎渓三笑図屏風」は儒者の陶淵明、僧の慧遠、道士の陸静修が道についての議論しながら大笑いする絵で、電車ごっこみたいなポーズが面白い。右の木の切り株と左の滝は「陰陽」を表しているのか。
 「雲龍図」これは言うことなし。

 本館の通常展へ行く途中の企画展示室に平安時代の木造狛犬があった。開脚ポーズなのでついつい股間に目が行くが、右側は明らかに玉と思われるものがあるがペニスはよくわからない。左側は小さな突起があるが玉はない。この一対は雌雄なのだろうか。
 本館には伝藤原行成の「敦忠集切」があった。和歌を散らし書きにするようになったのはこの頃からだと言うが、行成の仮名の真筆はないらしい。『源氏物語』に昔風の「手」や今風の「手」が対比されるのは、行成の時代を境にしてのことらしい。
 そのほか、雪舟の四季山水図や浦上玉堂の「春山欲雨図」があった。

 国立博物館を出ると、雨がぽつぽつと降ってきていたが、たいした雨にならずにすぐ止んだ。
 東照宮の牡丹苑を見た。まだあまり咲いてなくて、半券を切らずに次に来た時にこれで入れると言っていた。花がまだ咲きそろってないとはいえ、十分楽しめた。
 せっかく来たのだから、ついでに根津神社のツツジも見に行った。
 ツツジ祭をやっていて的屋の屋台も並んでいたが、まだ三分咲きくらいだった。ツツジも牡丹もゴールデンウィークが見ごろになりそうだ。
 根津神社には大正元年銘の招魂社系狛犬があり、境内社の乙女稲荷神社にはお狐さんがたくさんあった。獅子山ならぬお狐山の右側のお狐さんは耳と鼻が欠けて猫みたいだった。

4月21日

 ネットで『ラヴクラフト全集 1』を注文したら、在庫切れでいつになるかわからないとのこと。みんな同じこと考えるのか、出遅れた。
 「這いよれ!ニャル子さん」の逢空万太の原作の方を読み始めた。
 原作でははしよられたネタもあるが、原作にないアニメだけのパロディーネタもあるとわかった。
 登場人物の言動に突っ込みを入れて、漫才のような面白さを出すスタイルが、紫式部と谷川流に共通していることは、以前にも指摘したが、これもその延長線上のもので、どつき漫才に近いかもしれない。
 フォークが出てくると、世代的にアブドラー・ザ・ブッチャーを思い出す。

 「関係ですか。そう、例えるなら五十六億七千万年経っても愛しぶげぅ!」
 「衆生を救いに来るのかお前はっ!」(p.109)

の所を読んで、ひょっとして『源氏物語』夕顔巻?と思ったが、ネットでは「創聖のアクエリオン」の「一万年と二千年経っても愛してる」が元ネタだとされているようだ。
 「恐怖のズンドコ」(p.168)というフレーズが出てきたとき、「吉田照美のやる気まんまん」というラジオ番組を思い出した。小俣雅子の言い間違えで、しばらくネタにされていたが、この作者も聞いてたのだろうか。「バールのようなもの」ネタもやってたし。

4月15日

 今日も近所の散歩くらいで軽く過ごした。
 先週行った桃畑にまた行ったが、花は8割がた終っていた。これから一気に若葉の季節になるのか。
 新しいアニメが大体出揃ったが、今回は宇宙人ネタが多いみたいだ。「這いよれ!ニャル子さん」は何か面白そうだが、「謎の彼女X」にはさすがにディープ過ぎてついてゆけない。
 矢板へ行った頃から少しづつ読んでいた『電力改革─エネルギー政策の歴史的大転換』(橘川武郎、2012、講談社現代新書)を読み終わった。
 電力業界の歴史が書いてあって、脱原発派の人は読んだ方がいいだろう。
 今回の原発事故は、マスコミ報道だと何だか東電と菅前首相に責任を押し付けているようなところがあるけど、そもそも原発を作らせたのは誰なのかというところが曖昧で、当時の自民党政府や通産省や、またそれを後押しした財界の責任があまり追及されてないように思える。
 原発は国策で、政府の介入なしには進められなかったのだから、その責任は政府が負うべく、原発を電力会社から切り離し、国営化すべきというのは、一応筋が通っているように思える。
 ただ、ただでさえ毎年何十兆もの赤字を出しているところに、今後の廃炉や除染や保証などの莫大な費用をすべて政府が賄うということになると、一体どれだけ増税が必要になるのかということにもなる。
 特に昔からの反原発派は、原発事故の収集を国民負担でということに納得しないだろう。
 ただ、どこが金を出すにしても、それは日本経済の足かせとして重くのしかかるのだから、廻り廻って結局国民の所に帰って来ることには変わりない。
 だから、今後の脱原発を速やかに進めるには、案外電力会社を原発から開放し、新たな電力事業への参入者を待つよりも、まず既存の電力会社が積極的に脱原発を行えるようにするというのも必要なのかもしれない。

4月9日

 あさっては雨の予報が出ていて、桜の季節もこれで終ってしまうのかと思うとなんか寂しい。
 これでまた変りばえのしない一年がだらだらと過ぎてきそうな気がして、

 何か一つ心に刻め花の下

 稲作農耕民族の日本人は、長いことこの桜の季節になると苗代作りが始まり、一年の仕事の始まりの節目としてきた。
 いわば、正月の長い農閑期(バカンス)が終って、これから一年がんばろうと、酒を酌み交わし、誓い合う季節だった。
 ところが、吉田松陰を筆頭に、昔から西洋かぶれの文化人というのは、右翼左翼を問わず、この花見文化を呪い続けてきたようだ。
 まあ、江戸時代には花見は庶民のものとされ、武士たるものそのような所に出入りしてはならぬと教育されてきたから、花見で浮かれ騒ぐ人を見るにつけて、疎外感から来る嫉妬心を抑えることができなかったのだろう。
 去年のこの季節に噴出した花見自粛論も、そういった歴史が背景にあったのだろう。そしてその後、にわかに出てきた大学を9月入学にするという話も、根底にあるのは花見文化を潰そうということだったりして。
 西洋が9月を節目とするのは、彼らが麦作農耕民族だからであり、初夏のいわゆる麦秋に収穫した後、夏の農閑期(バカンス)を経て、9月にさあ一年の仕事が始まるというところで成り立っているもので、麦作を主流としない日本人には感覚的に無理がある。
 ただ、Jリーグくらいは世界のサッカーに合わせて9月開幕にしたほうが、移籍交渉などもしやすくなっていいのではないかと思う。

4月8日

 今日は近所を軽く散歩。
 この時期の散歩というと、去年も一昨年も来た平川神社からになる。桜はほぼ満開で長閑な日曜日だった。
 そのあと保木へ行き、プロローグというパン屋のあるその道の反対側の方に行ってみた。いつも桜や桃の木が遠く絡みえていたが、長くこの辺に住んでていったことがなかった。  坂道を登ると、家庭菜園みたいな小さな区画の畑が広がっていた。
 馬に乗った小さな子供がいた。もちろん周りには大人たちがいて馬を引いていたが、中田動物病院の馬だろうか。この付近でたまに馬を見かける。
 このあたりでもいろいろな花が咲いてきれいだったが、さらに上のほうへ登って行くと、紅白の桃の木が見え、その先へ行くと視界が開け、桃畑があった。
 住宅地に囲まれた中で、ここだけ山が残っていて、まるで桃花源。家の近くにこんな所があるなんて知らなかった。
 今日はそこで終わり。食品館あおばで買い物して帰った。
 午後は近くの公園の桜祭を見に行った。去年は自粛でチャリティーイベントになったが、今年は昼間のみの開催で復活した。コロナビールを飲んで、もつ煮込みを食べた。

4月1日

 今日は若干風が冷たいもののよく晴れたいい天気で、東池袋に狛猫があるとのネット情報をもとに出かけることにした。
 駅前ではいつのまに桜が咲いていた。まだ梅も散らぬうちに桜とは、きっと北国の春はこんななのだろうか。
 電車に乗り、有楽町線の東池袋を降りてそれほど離れてない所に、それはあるらしかった。
 店がたくさん並ぶ賑やかな所を抜けると、やがて昔風の小さな路地に入り、やがて右側に鳥居があって、その後に一対の狛猫があった。阿吽の別はなく両方とも同じ形をしている。銘はなかったが平成になってからのものだろう。
 拝殿の前にもほぼ同形のものがあり、こちらは片方だけで、おみくじの出る回転するタイプのものだった。
 鳥居の前には餃子屋さんがたくさん並んでいる。
 狛猫はもう一対、「もののけ番外地」と呼ばれる袋小路十三丁目の入口にもあった。こちらの狛猫は恐い顔して、時折目が赤く光りだして首がニューッと伸びる。
 そう、ここはナムコ・ナンジャタウン内の福袋神社。
 というわけで、本当はナンジャタウンの「輪るピングドラム inナムコ・ナンジャタウンを見に来た。設定画や台本などの展示もあり、ほかにもタイバニや春の乙女祭(いぬぼく、君と僕、夏目友人帳、螢火の杜)などのフードやデザートもあった。
 縁日みたいにいろんな食べ物が売っているので、片っ端から食べたくなってしまうが、そうもいかない。餃子だけでもかなりの種類があるから全メニューを制覇するなんてことは考えない方が良さそうだ。
 とりあえず二階と三階を一回りしてから、二階へ降りて餃子から食べようかと思ったら、イタリアントマトの、たこ焼きとタコウインナーののった「食いしん坊2号のたこ焼きピザ、キュッ!」があったので、とりあえずそれから始めた。
 次に餃子スタジアムに行って、丸満の「まんまるニャンコ先生餃子」を食べた。かりっとした揚げ餃子に近い焼き餃子で、それに春巻きの皮で作った、これもかりっとしたニャンコ先生の顔がついていた。
 餃子の丸満は古河の店で、去年の夏に「奥の細道」を歩く旅で古河を通ったが、知ってたら行ってみたかった。
 ふたたび三階に戻り、ろまん亭の「苹果のカレー型チョコモンブラン」を食べた。
 アトラクションなしの300円のエントリー券でも結構楽しめた。

3月26日

 ようやく『源氏物語』若紫巻、クリアー!

3月25日

 一年ぶりに三ツ沢へ横浜FCの試合を見に行った。
 去年開幕戦を見たきり、何となくサッカー観戦から遠ざかっていたから、横浜FCの監督や選手が誰なのかもよくわからなかった。HPを見たらいつの間にか山口素弘監督になっていたが、今シーズンからだと思っていて、これが最初の試合だとは知らなかった。
 試合は今まで見た中で最低だった。ボールがラインの方に飛んでいくと、すぐにあきらめて追いかけるのをやめるし、ヴァンフォーレ甲府の選手が全力で走りこんでくるのを見て、ようやく動き出したり、何かファイトが感じられない動きが多かった。横浜に戻ってきたウッチーと左サイドバックの阿部くらいが頑張っていた。
 前半は終始防戦一方で何とかしのいでいたが、終了間近、ようやく前へ攻めてったと思ったら、あっけなくカウンターで失点といつものパターン。
 後半も似たようなもので、セットプレーからあっけなくまた失点。
 時折横浜の方もゴール前に来るが、カイオまでがゴールの直前で後に誰もいないのにヒールパスして、そんな所まで日本に馴染まなくてもいいのに。
 後半40分近くなってカズが出て来たが、顔見世にしてもどこにいるのかわからないくらい存在感が薄い。最後の意地を振り絞ってゴールに迫ることもないまま試合終了。
 終了後にスタンド前に来る選手たちもいかにも元気がなくて、ブーイングする気も起こらない。
 横浜FCは、初期のメンバーが入れ替わるころ、かつての日本代表の古手が入ってきて、若手とベテランとがうまくバランスの取れたときに一度J1昇格をしたものの、そのベテラン達が抜けてって総崩れになって行ったような所がある。
 興業的にもカズの人気にあやかるばかりで、若い選手の中から目立つ選手が出てこなかったし、そろそろチームを根底から作りなおさなくてはいけない時期なのだろう。
 カズも現役にこだわらずに、早く指導者としての修行を積んで、監督としてワールドカップに出場する姿を見てみたい。

3月20日

 今日は「奥の細道」の旅の続きで、大桑をスタートした。
 朝6時前に出発して、大桑到着は予定通り9時16分。
 田園都市線は下りがかなり遅れていて心配したが、上りは通常通り動いていた。北千住で東武線の快速に乗った。
 一昨日までの天気予報では曇りだったが、前日に晴れ曇りに変り、今日は朝から多少雲があったものの、栃木県に入るころには快晴となる。これも日頃の行いがよかったせいだろう。電車の中からも、雪を被った日光の山々がくっきりと見える。
 下今市で大きなカメラを提げた車両の写真を撮っている一団がいた。服装からして中国の留学生かと思ったら、喋ってるのは日本語で、テツの一団だったようだ。アニメオタクが結構おしゃれになったのに対して、テツは昔ながらだ。
 大桑駅を下りて、大桑バイパスの歩道橋を渡り、突き当たりを右に曲がると、長閑な農村風景が続き、道路脇の水路には鮮やかの緑の水草が生えていた。
 少し行くと川室の公民館があった。川室は曾良の「旅日記」にも出てくる。だが、芭蕉と曾良がどのルートを取ったかは定かでない。瀬尾から真直ぐ日光北街道には言った方が最短コースだと思うのだが、芭蕉はこの川室を経由している。
 公民館の少し先に道祖神の社があり、男根型の道祖神が大小二体あった。
 すぐに日光広域農道に入る。広い道は大型トラックが通るが、杉並木の道よりは歩きやすい。
 大渡りに近くなったあたりに貴船神社と刻まれた石柱が立っていた。
 そこから斜めに戻るような形で参道があり、その先に鳥居が見えた。狛犬はないのかと思ったら、拝殿の階段の脇に小さな狛犬が置いてあった。だいぶ磨り減っていて江戸中期のものを思わせるようなデザインだが表面は奇麗で、いつのものかは定かでない。足元に木の葉の上に飯が盛られていた。何か「万葉集」の世界だ。
 戻るとすぐに「大渡」と書いてある交差点に出た。振り返ると鳥居があり、小さな社と、となりにはお堂があり、本地垂迹両方そろっていた。
 このあたりには大谷石の蔵がたくさんあるが、結構新しそうなものも多く、窓の所にいろいろな装飾が施されている。大渡り交差点を過ぎると大谷石でできた消防団の建物があった。
 やがて左に折れると東照温泉の建物があり、その先に「のらないよ!しらない車 とどろく小PTA」と書いた小さな立て札があった。
 田舎の方は、歩いていると泊まって乗せて車があったりするが、実際には親切な人ばかりでもないのだろう。
 轟(とどろく)というのは川室の南側の日光北街道沿いにある地名で、芭蕉らが黒羽で巻いた俳諧連歌に、

   尋ルに火を焼付る家もなし
 盗人こはき廿六(とどろく)の里    翠桃
の句がある。ここには轟早進という、名前のとおり足の早い義賊がいたらしい。
 芭蕉が日光北街道を避けたことをネタにした、さては盗賊が恐くて避けたかという句だったのかもしれない。これに対し芭蕉は、

   盗人こはき廿六の里
 松の根に笈をならべて年とらん    芭蕉

 旅の僧に取られるようなものは何もなく、ただ歳を取るだけだ、と答えている。
 すぐ先に橋があり、鬼怒川を渡る。曾良の「旅日記」には、
 「絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡し。」
とあり、普段は渡し舟があるが、水量の少ない時には仮橋が架かっていたようだ。

 大渡はその名のとおり、川幅が広くなっていてその分浅く渡りやすかったのだろう。
 橋を渡り、船場の信号を右に行き、日光北街道の旧道と船生バイパスとの分岐店で右下に降りる道があり、河原に出る。旧道はここから始まっていたのだろう。途中聖徳太子の石塔があるが、そんなに古いものではない。
 むしろバイパスとの分岐店を過ぎた旧道に、古い馬頭観音や庚申塔などが並ぶ。
 しばらく行くと船生(ふにゅう)宿の中心に出る。静かな町だ。右側に小さな鳥居があり、愛宕神社の石祠がある。
 中心部をやや過ぎたあたりに廃墟となった大きな駐車場のある店があり、その角に新しい「芭蕉通り」の刻まれた道標があった。岩戸別神社の入口にもなっていて、遠くに鳥居が見える。
 行ってみると、途中に駐車場があり公衆便所があったのはありがたく、その先は公園として整備され、そこにも同じような「芭蕉通り」と刻まれた石があった。地図には「ほたるの里」と記されている。芭蕉と螢で観光を盛り上げようとしているのだろうか。人の気配はなく閑散としていて、トイレも大の方は故障中だった。
 岩戸別神社は天手力雄命(あまのたぢからをのみこと)を祀った神社で、力岩や力の文字の刻まれた巨大な臼、それにお守りや絵馬にも「力」の一字が書かれていて、文字通りパワースポットとして盛り上げようとしている。
 狛犬は明治44年銘で以前那須の方で見たような角ばったいかつい顔をしている。
 夢福神という獏のキャラがいたが、石像の方は某有名ネズミキャラに似ている。
 岩戸別神社を出て、日光北街道に戻るとしばらくして天頂という交差点で船生バイパスと合流し、ファミマがある。今日初めて見るコンビニだ。
 ここから山あいの道になり、玉生(たまにゅう)へと向う。
 曾良の「旅日記」には、
 「船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上剋ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。」
とある。未ノ上刻(1時半くらい)だが、問題は芭蕉が日光を出たのが午の刻で、これが午の上刻(十一時前)だったとしても、二時間でここまで来たことになる。
 今日の俺の足だと、大桑から大渡りの川を越えるまでで一時間以上かかっていて、前回日光から大桑までは途中迷ったりしたせいもあり、3時間かかっている。
 曾良も日光から大渡まで「三リニ少シ遠シ」と記していて、普通に歩いたら3時間以上かかるところだ。大渡から船生までは「壱リ半ト云ドモ壱里程」とあり、合わせて4里余りということになる。
 芭蕉が実は忍者で、フルマラソンを5時間くらいで走るペースで走り続けたというのを別にするなら、唯一考えられるのは、古大谷川を船で下ったのではないかということだ。
 これだと、なぜ真直ぐ轟(とどろく)の里を通らずに、川室のほうへ大きく北回りしたか説明がつく。
 芭蕉が旅する数十年前、慶長の大洪水の前は、古大谷川の方が大谷川の本流だったという。芭蕉の時代はまだ古大谷川の水量も多く、水上の交通路となっていて、仏五左衛門はそれを芭蕉に教えたのではなかったか。
 大渡まで1時間程度でショートカットできるなら、その日の内に一気に矢板まで抜けることも可能だっただろう。ただ、あいにく船生を過ぎたあたりで激しい雷雨に遭い、思うように進めず難儀した末、やむをえず玉生で宿を探すこととなった。そこであの「かさね」との出会いが生まれたのだろう。

 芭蕉と曾良は船生から玉生へ行く途中に雷雨に遭い、難儀した末に玉生に宿を求めたが、良い宿がなくて名主の家に頼み込んで泊まらせてもらい、これが『奥の細道』の、
 「那須の黒ばねと云ふ所に知る人あれば、是より野越にかゝりて直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行くに雨り降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行く。」
というあの「かさね」のエピソードの元になった。
 曾良の「旅日記」にも、
 「船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上剋ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。
 一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。」
とあり、『奥の細道』の本文と一致している。
 これからその舞台となった地に入るということで、天頂のコンビニを出た後、玉生へと向った。
 道はほぼ真直ぐで坂もなだらかだ。ただ、昔の道はこれほど真直ぐではなく山あいを縫うように進んで行ったのだろう。
 旧道の名残はごく一部に残されていて、ここを歩いた先人がネットでupしていてくれたのでそれを尋ねながら行くことにした。
 まずは芦場新田の先の幼稚園の辺りから、その先の左へ大きくカーブする所に抜ける道だというが、幼稚園はどこにもなかった。多分公園か何かを作る工事していたあのまとまった敷地が幼稚園の跡だったのだろう。
 この工事現場の横に鳥居がある。地図で見ると芦場神社とある。
 鳥居の所から山道のような所を登っていくと、小さな社があった。五日市で見た日天神社と雰囲気が似ている。
 結局その先の左へ大きくカーブする手前を戻るように左に登っていく道の古い道標を見つけただけだった。昔の街道はこんな山道だったのだろうという、雰囲気だけは味わえた。
 地蔵坂という緩やかな上り坂を登ると、玉生の集落に出る。
 左に石垣があり、その上に墓地があり、その下を斜めに入る細い道があった。変電所の裏を通る道で、ここが旧道らしい。ただ、別のサイトによると、本当の旧道はさらに山側にあったという。確かに、今は道になっていないが、それらしきものが見えた。
 やがてバス道(と言ってもバスは一日3本くらいのようだが)に合流すると、そこに道標があった。その先に「芭蕉一宿之跡」記念碑入口と書いてある。
 矢印に従って左に行くと、空き地にかつての池の跡と思われる石がごろごろと転がった場所があり、裏手には小さな石祠がある。ここが「芭蕉遺跡 尾形医院」の跡地で、芭蕉が泊まった名主の家は時代が下って尾形医院になったようだが、それも今はない。
 その医院跡の横に「芭蕉一宿之跡 元禄二年四月二日」と刻まれた新しそうな石碑があった。これが元禄二年に立ってられたのでないことは一目瞭然だ。
 バス道に戻ると、道はすぐに右に折れ、突き当たりに伯耆根神社と書いてあったが、社や鳥居の姿は見えない。昔玉生城のあった山の上にあるらしい。
 右に曲がった所が玉生のメインストリートのようだが、この南側の一本入った細道が旧道のようだ。玉生小学校の手前で道は民家に阻まれて途絶えるが、そこに道標をかねた熊野山、湯殿山、男体山の三つの石祠が並んでいた。
 荒川という川を渡る。もちろん東京の荒川とは何の関係もない。この川は那珂川へ合流し、水戸の方へ流れている。このあたりで家が途切れると雪を被った那須の山々が見える。
 やがてローソンのある所で日光北街道の今の新道と合流する。道はなだらかに下り「たてば」というドライブインというか、自販機のたくさん並んだ所の先に分岐点があって、ここから右に入った所が旧道らしい。
 アスファルトで舗装された道は静かで、小山帰の小さな集落をぬうように、なだらかに行く。多分、途中に分岐していた未舗装の林道のような道が本来の倉掛峠を越える旧道だったのだろう。そうとも知らず道なりに歩いてゆくと、峠のような所に小さな社があった。地図だと八坂神社と記されている。庚申塔やお地蔵さんなどが並んでいて、その中の一つだけ、色鮮やかな赤いものをたくさん着せられていた。
 そこから新道に合流する直前に道標があり、右日光道とあった。本来の倉掛峠の道はここに出たのだろう。
 なるほど、やはりわかりにくく、この俺も別の道を来てしまったことでもわかるように、『奥の細道』で草刈るおのこが、
 「いかがすべきや、されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐしき旅人の道(みち)ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとどまる所にて馬を返し給へ」
と言って馬を貸してもらい、「かさね」という女の子とともに越えたのは、那須野ではなく倉掛峠だったのだろう。
 『奥の細道』の本文のその前の、「明れば又野中を行く。そこに野飼の馬あり。」も、玉生の名主の家を出て、これから倉掛峠を越えて矢板に向おうとするその矢先に、玉生宿を出たあたりに野飼いの馬がいて、と読むのが自然ではなかったかと思う。
 このあたりは山といってもそれほどの高さはなく、なだらかで、「山越え」というよりは「野越え」の方が相応しい。

 かさねとは八重撫子の名なるべし  曾良

の句の、「八重撫子」は大和撫子ではなく、おそらくオランダから入ってきたカーネーションのことだろう。
 きっと「かさね」という女の子は、ほんわかしたの平安貴族が理想とした女の子ではなく、強い目をして時折鋭いことを言うようなツンデレ系ではなかったかと思う。曾良のような学者には、その方がいろいろ刺激があって楽しかったのではないかと思う。まあ、これは勝手な妄想だが。
 このあと新道に左側にあるという、倉掛の松に通じる戸方坂というのも結局わからずに通りすぎてしまった。
 このころにはかなり疲れていたし、早く帰りたいという気持ちから、とにかく黙々と新道を矢板に向かって下っていくだけだった。
 やがて道が開け、東北自動車道が見えてくる。着いた、という感じだ。日光から歩いてくると、何かようやく下界に戻ってきた気分になる。『奥の細道』に「頓て人里に至れば」とあるのはこういうことだったのだろう。
 さて、矢板の町に着いたらお土産の地酒でもと思って、まず道の駅に行ったが、酒のコーナーはそんなに大きくなく、めぼしいものは売り切れていた。
 町中の酒屋を探すが、ここは新鹿沼駅前以上に寂れた感じだった。まあ、多分ここも郊外に、大都市資本の大型郊外型店舗の並ぶ地域があるのだろう。
 ようやく郵便局のあたりにあった酒屋に入ると、店の棚はがらんとしていて、地酒を探していると奥からおばあさんが出て来る。何でも、あの震災の時に棚のものが一斉に崩れ落ちた恐怖から、棚の上に酒を並べるのが怖くなったのだと言う。
 それでも、地元の酒はちゃんとそろえてあった。「花子」というピンク色の瓶の酒を買って帰った。

3月11日

 近所で「3.11 未来へのキャンドルナイト」をやっていた。
 蝋燭に火を灯してもらい、水に浮かべてきたが、水に浮かべる直前に火が消えてしまった。結構日が消えた蝋燭がたくさんあって、ボランティアの人が一生懸命着火マンで火をつけていた。
 それとは別にキャンドルホルダーに入ったろうそくがたくさんたくさん置かれていた。こちらの方は別の所で販売されていたらしい。
 会場では弾き語りライブが行なわれていた。誰だか知らないが「ひぐらしの鳴くころに~」と唄っていた。
 鯨の缶詰と長寿味噌のセットを買った。

3月8日

 ドナルド・キーン氏が日本国籍を取得したということで、ありがたいことであるとともに、生まれながらの日本人でありながら、未だに『源氏物語』の若紫巻をやっと80パーセントほど読んだだけというこの俺は、ただただ恥じ入るばかりだ。
 その恥の上塗りという意味でも、こやん源氏に「偉大なる日本人、ドナルド・キーン氏に捧ぐ」という献辞を付けることにした。
 ひょっとしたら外国の人で日本語が読める人で、たまたまこやん源氏を読んで興味を持ってくれる人が一人くらいいるかもしれないという儚い期待を胸に、俺も駄目は駄目なりに、これからも日本文学研究に貢献していきたい。
 こやん源氏の「若紫」、今月中にUpできるかな。

2月26日

 天気予報は晴れだと思ってたら、急に予報が曇りに変り、実際に朝からどんよりと曇っていた。
 出かけようかどうしようか迷っていたが、とりあえず大山のもう一つの狛竜を見に行くことにした。
 出発も遅かったので伊勢原駅からバスに乗り、ケーブルカーで阿夫利神社(下社)まで行った。
 伊勢原駅の前には大きな鳥居があり、大山ケーブル駅からケーブルカーの乗り場までは土産物屋や豆腐料理の店などが並んでいた。シーズンにはまだ早いけど市営第二駐車場は既に満車で、やはり車で来るのは厳しいようだ。
 参道の街ということもあって、店の前に狛犬を置いているところもあった。
 途中小さな稲荷神社があり、ケーブルカーの駅の前には根之元神社があった。イワサクノカミを祀っているというから、日光へ行く時に見た磐裂根裂神社の系列なのか。
 ケーブルカーの発車まで時間があったので近くを散歩すると、八意思兼神社追分社 があった。ここから男坂と女坂に分かれて、徒歩で阿夫利神社へ登る石段が続いている。
 ケーブルカーで上に登るとすぐに阿夫利神社の下社があった。曇ってはいるものの相模湾が見渡せ、江ノ島も見えた。
 入口の狛犬は昭和63年銘の新しいもので、招魂社系。次にブロンズの昭和11年銘の狛犬があって、これも招魂社系だった。
 古い神社だから狛犬がなくて新しく作られたのかと思ったが、奥の院には安永の狛犬があるらしい。大山は子供の頃家族ハイキングでも学校の遠足でも登ったことがあったが覚えていない。
 境内には天満宮、大天狗の碑などがあった。ここから奥院への参道があったが、いつもの通り、特に登山やハイキングの装備はしてないので、とりあえず狛竜のある二重社を見て帰ることにした。
 途中道が崩れたのか補修してあって、そこを過ぎるとすぐに橋があって瀧があった。水量は多くない。冬だからというのもあるのか。そのとなりに二重社があった。
 八代竜王の幟とともにすぐにブロンズの狛竜が目に入ってきた。そんなに大きくはない。それに左側の吽形の方の下顎がない。帰ってから狛研の「神使の館」の映像を見たらちゃんと下顎があったので壊れたようだ。
 二重社の際神は高?神(たかおかみ)で、これも日光へ行く途中に高?神社というのを見たのを思い出した。
 帰ろうとするとなにやら空から白いものが。さすが阿夫利神社で、さっそく雨ならぬ雪を降らせて歓迎してくれたようだ。
 ケーブルカーで下へ降りると雪は降ってなくて、上だけだったようだ。千葉の木下街道沿いの阿夫利神社でも似たような体験をしたのを思い出した。そういえばあふりらんぽに「あふり伝説」という曲があったが、一昨年解散してしまった。
 さて、行きは楽をしてしまったから、帰りは一応伊勢原まで歩くことにした。
 参道を少し下ると良弁滝があった。歌川国芳展にあった「大山石尊良弁滝図」のイメージとは随分違い、水はちょろちょろで滝壺も狭かった。葛飾北斎の「諸国瀧廻り」の良弁滝の方がリアルで、本当に見て描いたのだろう。
 水が出るところには竜の顔があり、これも浮世絵にはない。最近になって作られたものか。多分、時とともに水量が減ってしまい、滝の人気自体も衰えてしまったのだろう。
 その先には愛宕滝があり、こちらの方がやや水量が多い。これも国芳の「相模州大住郡雨降大山全図」の中央付近に描かれている。この絵には良弁滝がない。
 この鈴川沿いの参道を、今は車で通りすぎてしまうが、江戸時代にはたくさんの人が歩いたのだろう。
 やがて大きな鳥居があり、三の鳥居と書いてあった。その先に諏訪神社がある。
 さらに行くとまた小さな鳥居があり、入るとそこは神社の裏側で、境内社が並んでいて、そこに小さな狛犬があった。獅子山狛犬にあるような尻を持ち上げ、尾を立てた形のもので、額は前へ突き出ている。土台には永代常夜燈と彫られていて、明和5年の銘があった。
 拝殿も古そうなわりには奇麗で、入口には平成12年(紀元2660年)銘の新しい狛犬があった。そこにはさらに、「明和五年建立ノ狛犬付常夜灯老朽化セルニヨリ撤去シ茲ニ之ヲ建ツ」とあった。その狛犬付常夜灯が、境内社の前に移動したようだ。表から外へ出るとそこに子易明神比々多神社とあった。
 東名高速が見えてくるあたりに、二の鳥居があった。となると、一の鳥居は伊勢原駅前で見たものということか。二の鳥居の辺りは参道が途切れ、駐車場になっていて梅の花が咲いていた。先週五日市へ行った時には見なかったが、この一週間、少し暖かい日があったせいかようやく咲いた。
 高速の下をくぐると、五霊神社があった。工事中なのか、拝殿の前に重機が置いてあった。
 駅に着いたのは4時ごろ。今日のお土産は「おおやま地ビール」。

2月19日

 今年の寒波は異常なのか、例年なら一月から梅もちらほら咲きだし、この時期にはいろいろな花も楽しめるというのに、相変わらずの寒さで、狛竜めぐりも年が明けてあまり時間が立ってしまうのもなんなので、とりあえずあきる野の養沢神社に行った。
 9時過ぎに家を出て武蔵五日市駅に着いたのが11時前。そこから歩いた。
 五日市七福神めぐりの幟が立っていて、33号線桧原街道を行くと「恵比寿天」という札の貼ってある子育て地蔵尊があった。少し先には延命地蔵尊があって、そこには毘沙門天と書いてあった。
 五日市高校前のあたりに鳥居が見えた。八幡神社のようだった。昭和54年銘の狛犬があった。ただ、その横にある大きな招き猫の書いてある店が気になる。招き猫にはそれぞれ名前が付いていた。
 やがて桧原街道の旧道との分岐点が見えてくる。今日のテーマは街道ウォーキングではないが、それでも自然と足は旧道へ。
 すぐに子生神社が見えた。(こやすじんじゃ)と読むらしい。大正2年銘の狛犬がある。

     子生神社
 遅れてる梅をついつい祈ったり

 これは、語尾の(して)を省略している。文語の「たり」ではない。
 その脇の公衆トイレに入ると、「急ぐとも器にそそげ」と書いてある。こういう中途半端な57を見ると下5を付けたくなる。トイレから若水を汲む景に転じて「春の水」というのはどうかと思ってよく見てみると、その横に「朝の露」という落書きがしてある。老境の哀れも見えて、いづれの風流のまさらんや。
 橋を渡り道は右にカーブすると、清酒喜正(野崎酒造)の蔵があった。日曜はお休みのようだった。その先を左に曲がり狭い急な坂道は登って行くと三島神社がある。なかなかこれは足が鍛えられる。鳥居の先の石段と合わせると、体育会系の部活の練習に使われてそうな坂だ。
 登ると渋い木の鳥居が二つあり、境内はひっそりしていて、霜柱が立っている。
 小さい古そうな狛犬が見える。銘はないが、江戸中期の古い狛犬のような顔をしている。左側は形がよく残っているが、右側は見る影もなく円い石のようで、よく見ると足らしきものが見える。もう一対の狛犬もかなり古そうだ。
 境内社というには大きすぎる武多摩神社の拝殿は赤と黒に塗られていて火頭窓があり、元はお寺で本地垂迹の関係にあったものが、明治の神仏分離令で神社にされちゃったもののようだ。
 三島神社の裏から桧原街道にもどるとやがて養沢への分岐点、十里木に着く。
 その先に鳥居が見えてきたので行ってみると、またしても急な石段があり、その上に大戸里神社がある。狛犬は大正2年銘。ちょこんと上を向いた鼻が可愛らしい。
 秋川国際マス釣場の近くに、馬頭刈尾根への登山口を示す道しるべがあった。このあたりは、まだ子供だった頃、親に連れられて大岳山から馬頭刈尾根をハイキングした時、夏休みの終わりごろの厳しい残暑のなかで水筒が途中で空になり、喉がからからになって、やっとこのあたりで水を飲んだのを覚えている。そのとき、川の向こう側に登る道があって、何だろうと好奇心に刈られどんどん登っていってしまい、迷子になった記憶がある。山の神に呼ばれ、危うく神隠しにあうところだった。
 その先にも、同じように右側の斜面を登って行く神社があった。最初は下の方に赤い鳥居が見えただけだが、よく見るとその上のほうにも鳥居があり、登って行くと、途中に小さい稲荷があったり、石祠が並んでる所があったりし、社殿には太鼓が置いてあった。
 その先には八坂神社があり、これはそれほど奥に入らなくてもよかった。さらに崩れた石段のあるところがあり、鳥居はないのだが、川沿いの立て札に神社下とあって、ここも神社なのかととりあえず通りすぎた。
 やがて道が緩やかに右にカーブする先に赤い欄干の橋が見え、その向こうに大きな鳥居が見えた。その手前で道は分かれ、左は大岳鍾乳洞になっている。ここが養沢神社だった。すでに2時近く、3時間は歩いてきたことになる。
 狛竜は鳥居のすぐ後にあってでかい。遠くからでも目立つ。だが、近くに行ってみると、あれ?って思った。竜はなぜか後ろを向いている。
 両方とも口を開けているから阿吽はないが、右側は玉(ドラゴンボール?)を咥え、左側は稲妻の剣を持っている。昭和60年の銘があり、そんなに古くはない。
 この神社には他にも昭和56年銘の狛犬があり、境内社にはお狐さんがいる。山に囲まれて午後2時でも薄暗い。
 さて、帰りは来た道を引き返すのだが、途中気になったあの崩れた石段を登っていくと、確かに小さな社があった。地図だと日天神社と書いてある。
 後はひたすらもと来た道を戻った。何とか2時間で武蔵五日市の駅まで戻った。お土産に純米喜正を買った。なかなかラベルが昔風で渋い。
 どこか日光から裏見の滝を往復したコースに似ていて、結構いい距離を歩いた。これから暖かくなった頃、大桑─矢板間を歩くのに、ちょうどいい足慣らしになった。

2月12日

 久しぶりに二日間ゆっくりと家で過ごした。
 『長恨歌』を読んでいたら、最初に「漢皇」と出て来て、そのすぐあとに「君王」となっているから、中国でも「皇」と「王」ってそんなに厳密に区別されてたわけではないのだろう。
 川添房江の『光源氏が愛した王朝ブランド品』(2008、角川選書)を読んだ。若紫巻にも出てきた紺瑠璃の壺の写真が乗ってきた。
 平安時代にもやはり流行はあったようだ。中国や渤海からの輸入品は国際情勢に左右されるから、それで流行ったり廃れたりしたのか。
 アニメのAnotherは、原作とかスタッフとか全然違うけど何か竜騎士っぽいところがある。田舎の学校に転向してきて、というパターンといい。

2月11日

 天皇に関する議論は、戦後長いこと右翼と左翼で硬直したまま思考停止に陥ってたような所があって、この頃いろいろ考える。
 まず、天皇とはそもそも何かということ。1月10日の日記で一部答えたが、天を意味する人間。それは意味を与え続けることによって存続している。神秘主義的な解釈を排するならそう言うほかない。
 天は人間にとって計り知れないもので、人間は天の真意を知ることはできない。そこに恐れが生まれる。人間は天を知ることはできない。ただそれを求めて止まないことができる。西洋ではダイモンの声と呼ばれ、日本では道祖神・猿田彦大神の導きと呼ばれる。求めても得られないところに、無知の自覚が生じ、思い上がりを防ぎ慎みが生まれる。
 コンピュータは未知を認識することはないだろうとおもうと、これが人間の意識にとって本質的なことであり、最大の謎とも言える。
 武家政治の問題。
 歴史の授業じゃ聞かなかったことだが、常にそこには「征夷」の文字が呪縛のように武家にのしかかってた。源頼朝が「征夷」の名を得るには平泉征伐が不可欠だったし、元寇で鎌倉幕府は権威を失い、一時的にではあるが後醍醐天皇の親政となった。
 その後「征夷大将軍」の職名を足利家、徳川家が継承し、既成事実化していっても、この「征夷」の二文字は重くついてまわった。徳川幕府が黒船が来た際に攘夷を行なわなかったことで、「征夷」の大儀を失い、徳川家だけでなく武家政治の時代そのものが終った。
 そして、この二文字は近代をも呪縛する。
 武家ではできなかった「征夷」を、近代国家の軍隊が継承する。そこから明治の軍国主義が始まる。彼らもまた、攘夷ができなければ近代国家の意義が失われると考えたのだろうか。それが闇雲に戦争に突っ走らせたのだろうか。
 そうなると、結局近代国家と天皇との関係を新たに構築できなかったのが軍国主義の原因だったのか。明治政府が単なる将軍家の代用になってしまったのが原因だったのか。
 もし、戦争に勝つことでしか近代国家のシステムは存在する意義がなく、未だに攘夷ができないなら政権を朝廷にお返しするべきだということなのか。そうではないだろう。
 大政奉還は、天皇の下に広く公議に基づいて行なわれるというものだったのだから、司法・立法・行政といった近代国家のシステムは、その公議のためのシステムだったわけだから、別に攘夷を行なわなくても存在する意味はある。戦後の新憲法下の政権もそこに根拠があったはずではないか。
 大臣、参議などの古代からの用語が今の政治システムの中に残っているのも、そのためなのだろう。近代国家のシステムが古代王朝の政治システムを継承するものだとしたら、将軍家のように攘夷に拘束される必要は最初からなかったはずだ。
 一方では天皇制が戦争の元凶として天皇制の廃絶を求め、君が代・日の丸を否定する人たちがいる。一方では天皇制のもとに行なわれた戦争は聖戦だとする人たちがいる。しかし、この議論はどちらも「征夷」だとか「攘夷」だとかいう言葉に呪縛されてたのではなかったか。

2月5日

 狛研の「神使の館」の情報だと、狛竜は秋葉のほかに大山、あきる野、入間にあるらしいが、山は寒そうだし入間はちょっと遠いし、そこで今回は早稲田にある倶利伽羅不動尊を見に行くことにした。
 倶利伽羅というとヤのつく職業の人の「もんもん」を連想するが、竜となった不動明王が炎の剣を飲み込む姿を、倶利迦羅竜王だとか倶利伽羅不動尊とかいうらしい。ネットで調べていたら、「もんもん」には紋紋だという説と「燃え燃え」が訛ったものだという説があるらしい。「萌え萌え」の字を当てると可愛らしいが。
 そういえばかなり前だが、ドラえもんの紋紋をしたやーさんがいるという都市伝説があったな。
 その倶利伽羅なんちゃらのある金乗院は副都心線の雑司が谷から行った方が近かったのだが、早稲田にあるというイメージから西早稲田で降りてしまい、明治通りをしばらく散歩することとなった。
 高戸橋を右に曲がり、都電の線路のある通りを面影橋まで行き、橋を渡って少し行くとその目白不動、金乗院があった。
 途中、神社があったが、「写真撮影はご遠慮ください」と書いてあったので、紹介の方も遠慮することにする。
 倶利伽羅不動尊の掘られた石塔は、その下に三猿が彫られてあって、庚申塔になっていた。本殿のすぐ脇の目立つ所にあった。寛文年の銘がありかなり古い。この寺には他にも庚申塔がいくつかあり、延宝や元禄など古いものが多い。大きな刀の鐔(つば)の形をした鐔塚というのがあった。
 倶利伽羅不動尊はあきる野の白滝神社にもあるらしく、狛竜を見に行く時には寄ってみたい。
 この後面影橋へ引き返し、水稲荷神社へ向う。
 面影橋のすぐ南側に天祖神社があった。狛犬はなかった。さらに南へ行くと如意山と書いた山門があり、その内側に狛犬の姿が見えた。延享元年(1744)のものらしく、きりっと釣り上がった眉毛といい平たい顔といい、独特な味のある逸品だ。
 この少し先から左へ折れると水稲荷神社の参道に出る。
 ここは稲荷というだけあってお狐さんばかりだ。メインの拝殿前の大きなお狐さんは昭和3年も銘があった。
 裏側には富士塚があり、ここもたくさんのお狐さんの社に占領されている。麓にはお狐さんの洞もあり、小さなお狐さんがたくさん並んでいる。右側には北埜神社や水神社、三島神社などの境内社もあった。猫も二匹いたが、柳森神社と違ってなかなか寄ってこない。
 水稲荷神社の隣は甘泉園という庭園があり、公園になっている。
 このあと、早稲田通りに出て穴八幡宮へ行った。大きく立派な神社で建物も新しい。拝殿前の狛犬は平成4年銘の大きなものだった。
 その境内の片隅に白い鳥居があり、そこに狛犬がいた。神武天皇遥拝所を守る狛犬で、平成8年修復の銘があったが、宝暦5年(1755)の古いものだ。頭の上の宝珠と角があり、これもなかなかいい顔をしている。頭のてっぺんに穴の開いた狛犬をよく見るが、本来はこうした宝珠と角が乗っかってたのだろう。
 今日の散歩はここまでで、このあと新宿のジュンク堂に寄って渤海国関係の本を仕入れて帰った。

1月29日

 展示の入れ替えがあり、ふたたび六本木ヒルズ52Fの森アーツセンターギャラリーへ、「歌川国芳展」を見に行った。
 「忠孝名誉奇人伝 兼女」のバックに描かれている馬がどこかで見たようなと思ったら、前回見た「近江の国の勇婦於兼」の異様にリアルな馬を左右反転させて小さくしただけで、そのまんまだった。この馬のポーズは「流行道外こまづくし」の独楽と駒という駄洒落の作品にも流用されていた。「義経功臣 四天王出世鑑之内 亀井六郎」の中央の黒い動物のポーズにも引き継がれている。
 「三代目尾上栄三郎のしづか御ぜん‥」の狐は、いかにも着ぐるみという感じで、実際こんな感じで芝居をやっていたのだろうか。
 美人画の所にあった、「四季心女遊 冬」では、女たちが大きな雪像を作っていたが、達磨にしては耳があるし、何だろうと、トトロみたいだと思ったが、ひょっとしてミミズクか。
 昔から女はこういう雪遊びが好きだったのか、ネットで国芳の画像を探している時偶然見つけた「初雪の戯遊」という絵では、雪で巨大な白猫を作っていた。15万円で売っていた。
 「本朝景色美人図会 防州岩国錦帯橋之景」の鳥の提灯みたいなのが描かれているが、こういうみやげ物があったのだろうか。
 「絵兄弟やさすかた」鵺退治は、お魚ではなく鰹節をくわえたドラ猫の首根っこを掴まえて、この美人は裸足で追いかけてきたのだろうか、ってそれじゃサザエさんだ。
 子供の出てくる絵もたくさんあった。江戸時代は児童虐待は死刑で、子供は大事にされていた。子供の頃のいっぱい遊んだ楽しい記憶があるからこそ、大人になっても子供のような遊び心を忘れず、こうした浮世絵の文化を生んだのだろう。
 風景画の所には、最近スカイツリーみたいだということで有名になった「東都三ッ股の図」があった。右側の大きな橋は永代橋で、その向こうに見えるのは佃島だろうか。だとすると、左側にあるのは小名木川でその左には元禄の頃に芭蕉庵があったあたりということになる。当時はまだ清洲橋はなかった。そうすると、これは箱崎の辺りから見た景色か。そうなると、左側の低い方のタワーは新川西水門の火の見櫓だ。今では2010年に完成した15.5メートルの火の見櫓が立っているが、そっちの方を予言してたのではなかったか。スカイツリーとはだいぶ方向が違うように思える。
 小名木川と新川は今では荒川で分断されているが、昔は行徳へと続く水路で交通の要衝だったから、何かそういう塔のようなものが立っててもおかしくはなかったのではないか。
 「本朝名橋之内 江都日本橋略図」は日本橋の人の多さを物語るもので、さすがに「降る雪を地にも落とさぬ日本橋」と川柳に詠まれただけのことはある。
 戯画のところの「金魚づくし」はポニョの原型か。
 そしてやはり猫。たくさんあった。東海道五十三次の双六に猫股が踊ってる絵があったが、何だろうと思ったら、「其まま地口猫飼好五十三疋」に答があった。岡崎(おかざき→おがさけ)の駄洒落。
 他にも色々面白い絵があった。
 今日は北風が強く、ヒルズの下はビル風が突風のように吹いていた。そういうわけで、今日はお散歩はなく、ノースタワーにあるらーめん鐵釜で久留米ラーメンを食べて帰った。

1月22日

 大河ドラマの「平清盛」をチラッと見たが、「王家」という言葉以上に、台詞全体が堅苦しすぎるのが問題なのではないか。歴史家でない素人には何を言っているのかさっぱりわからない。
 歴史観ばかりが先行し、肝心なドラマとしての面白さを忘れている。それが「王家」という言葉に象徴されているのではないか。

1月19日

 今日は仕事で日光街道を通った。
 ところどころで去年の夏に歩いた時のことを思い出す。
 草加のところで、あの時見つからなかった三峰神社が、日光街道の新道沿いにあるのを見つけた。
 曾良の像が見えたので芭蕉像を見ようとしたら、草加せんべいの碑を見落とした。車だとあっという間に通りすぎてしまうので、見落としも多い。
 あらためて、日光までよく歩いたものだと思うと、多分死ぬ間際になっても思い出すような人生の一大イベントだったのかもしれない、なんて考えが浮かんできた。
 余命後わずかになったときに、もう一度あの景色を見てみたいなんてわがまま言って、また車に乗せてもらって走るのかもしれない。
 今年もまた日が長くなったら続きを歩きたい。
 東北へ行くというのが当初の目標だったのだから、白河まで行けたらなと思う。

 ところで石原慎太郎。
 「いつか若い連中が出てきて、足をすくわれる。そんな戦慄(せんりつ)を期待していたが、全然刺激にならないのでやめる。」
と言ったらしいが、本当の戦慄は文学ではなくてマンガやアニメやラノベなのではないのかな。
 今時西洋文学の猿真似みたいな「現代文学」なんて流行らないし、とっくに衰退しているから、そんな凄いものがこれから出て来ることはないだろう。それはみんな思ってることだと思う。
 文学全体が、マンガやアニメに押されて足をすくわれているから、あんな変な条例を作ってでも何とか潰したいのだろう。本人はプライドが高くて認めないだろうけど、きっととっくに戦慄しているにちがいない。

1月15日

 「ああ、俺だ。
 狂気のマッド・ヒューマニスト、鈴呂屋こやんだ。
 たった今、さる組織から、狛竜があるという情報を入手した。
 すぐに柳森神社に向う。」

 なーんてね。実際はネットで狛研の「神使の館」を見ただけだが、久しぶりに秋葉原に行った。
 柳森神社は「シュタインズ・ゲート」に出てくる柳林神社のモデルになったところで、「シュタインズ・ゲート」の聖地でもある。もっとも、このアニメに出てくる柳林神社は、台東区松が谷の秋葉神社の画像と合成されているようだ。
 日比谷線の秋葉原駅で降りて、京浜東北線のガードをくぐるとラジオ会館があったが、全体が足場で覆われて工事中だった。万世橋を渡り左へ行き、ふたたびガードをくぐった向こうに柳森神社はあった。
 神社は道路より一段低くなっていて、石段を降りて中に入る。まず正面に狸の像がある。この神社は狸の社でもあり、「他を抜く」といって、出世祈願の場所でもあるようだ。また、八畳敷きではないにせよ、狸の像のあれは巨大で、そこから「金運」の神様でもあるようだ。
 本殿はお狐様の社だが、狭い境内に境内社がたくさん並んでいて、その中におたぬきさん福寿神の社があり、石造りの小さな狛狸があったが、顔が欠けていた。社の下にも素焼きの狛狸があった。
 秋葉原らしく秋葉大神の社もあり、そこには小さな狛犬があった。
 ちょっと奥まった所に水神厳島大明神と江島大明神と書いたある社に、やはり小さいが、狛竜があった。
 境内には猫が2匹いて、片方はぶち猫で人懐っこく寄ってくる。カメラを提げたおじさんがずっとこの猫を撮ろうとしている。もう一方の猫はおなかの白い雉虎だった。
 神社のすぐ向こうは川で、すぐそばに神田・ふれあい橋があり、そこを渡って駅前に戻った。
 取り合えず秋葉原まできたから、一応アニメイトに寄ってみやげ物でも買っていこうかということで、メラルーさぶれを買った。
 そのあと、一応聖地巡礼ということでラボのある方へ行った。なんてこともない路地だった。芳林公園、メイリッシュの辺りを一回りした。
 この後、マックでグランドキャニオンバーガーを食ってから、もう一つの柳林神社のモデル、松が谷秋葉神社へ向った。
 春日通で謎の石像を見たが達磨だろうか。さらに、西町太郎稲荷神社、下谷神社に途中立ち寄った。下谷神社には昭和9年銘の招魂社系狛犬があった。正月なので、吽形の方はテントの中にあった。境内社に下谷稲荷神社があったが、本当はこっちの方が先にあって、下谷神社の方が後にできたようだ。
 松が谷秋葉神社は本当は秋葉原にあり、秋葉原の地名の元にもなった神社だったのだが、秋葉原駅ができる時に立ち退きになり、ここに移ったという。狛犬は昭和47年銘の結構大きなものだった。
 「シュタインズ・ゲート」では入り口の石段を下って入る部分と、そこへゆくのに神田・ふれあい橋を渡るところが柳森神社で、境内や拝殿、手水場の映像はこの秋葉神社が使われていた。
 秋葉神社の近くにキムチ屋があったので、キムチを買って帰った。上野駅へ行く途中に、前におおかみさがしで一度行ったことのある、下谷三峰神社に寄った。神社修復のための募金の告知が貼ってあった。

1月10日

 確かに、皇室を「王家」と呼ぶのは何となく違和感がある。
 だからと言って「皇家」と言えばいいのかというと、それも違う気がする。
 別に「王」という文字を使うから問題なのではない。それなら「王朝時代」という言葉もいけないということになる。
 天皇は皇帝であって王の上に立つ者だという人もいるが、それは西洋的な概念であって、確かに天皇はエンペラーと訳されるが、これも便宜上のものだろう。天皇は中華皇帝と同等のものではない、というより同質のものではないと言ったほうが良いし、シーザーやナポレオンと一緒というのもなんか違う感じがする。
 天皇は覇王ではないし、武力によって諸国の王を束ねてきたわけでもない。重要なのは「天」の概念であり、天を象徴し、地上における天帝の役割を果す一つの血統、というべきもので、単なる地上の支配者としての皇帝ではない。支配者であるかないかは問題でなく、「天」であることが問題なのだから。

 天皇とは、一言で言うなら「天を意味する人間」だと思う。
 記号論的に言えば、能記(意味するもの)は人間であり、所記(意味されるもの)は天、ということになる。
 戦後に天皇の人間宣言というのがあったが、天子様であることと人間であることは最初から矛盾してはいない。
 「天」という言葉は、能記という側面から見たら、単なる空気の振動であったり、紙の上のインクの染みであったり、液晶の発する光にすぎない。その意味では天皇は一人の人間に違いない。
 「天皇だとか言ってもただの人間にすぎない」というのであれば、「君のその主張はただの空気の振動にすぎない」、と言うことができる。
 ならば、能記と所記を結び付けているのは何か?
 もともと言葉に意味はない。人が喋ればそこに意味ができる。
 それと同様、一人の人間が「天」を意味するというのは、人がそのような意味を与えているからであり、誰もそのような意味を与えなくなれば、意味は消滅する。
 つまり、一人の人間が「天」を意味するのは、過去にたくさんの人間がそのような意味を与えてきた結果であり、要するに「伝統」だからだ。
 そしてそのような人間は、誰もがなれるものであってはならない。誰もがなれるなら、たくさんの「天」が存在し、争いになってしまうからだ。だから、特定の血筋に限定する必要があった。それは権力争いを緩和し、国の統一を維持するには良い方法だった。
 日本では王の地位をめぐる血で血を洗う時代が古代の早い時期に終結し、そして世界に類を見ない平和な国となったのは、たとえどんなに武力や経済力などの現世的な実力があっても絶対に王にはなれない、というこのシステムがあったからだ。
 このシステムは平将門も源頼朝も織田信長もくずせなかった。
 この平和が破られたのは、天皇が世界の中でたくさんいる王や皇帝の一人になってしまったときだった。その中で天皇に軍隊の統帥権を与え、武力で「皇帝」であることを示そうとした時、日本の平和は終った。そして、「天」の地位に戻った時、日本はふたたび平和になった。

 皇室は血統であり、いわゆる「家」とは区別されるという説もあるが、だからといって「王氏」というと、何か「王」という姓の氏族みたいに聞こえる。王貞治も王氏なのか。

1月9日

 何かテレビで日本語のことをやってて、真剣に聞いてるわけではなかったけど、平安時代は音声の構造が複雑だから今よりもゆっくり喋ってたなんて、はっきり言ってありえない説だ。世界には音韻構造の複雑な言語がたくさんあるけど、どの言語も喋る速さなんてそんなに変わるもんではない。
 江戸時代になってからいろいろな方言ができた何で戦前の説も、未だに信じている人がいるのかな。
 方言の分化は言語集団の孤立により徐々に形成されるもので、一気に形成されたりはしない。しかも、江戸時代は街道が整備されて馬や船などの交通も発達し、商業も活発で、参勤交代などもあり、人の移動がむしろそれまでより盛んになった時代だというのが、今の考え方だ。
 テレビは結局そんなに専門知識のない人間が、どこぞのネタ本かなんか見て企画するから、新しい知識と古い知識がごっちゃになっていて、聞いてて頭がおかしくなりそうだ。
 まあ、昔からテレビばかり見ていると馬鹿になるというのは、結局そういうことなのだろう。テレビの与える知識は玉石混交で、あまり真に受けないほうが良い。