現代語訳『源氏物語』

14 蓬生

 須磨で藻塩垂れてわび住まいしていた頃は、都にもいろいろ不遇に耐えている人が多かったでしょう。

 

 それでも身の拠り所のある人は、ただ源氏一人の身を思って苦しむだけですむことです。

 

 二条の上なども平穏な日々を送りながら、旅先の生活の様子も知らなかったわけでもなく、手紙のやり取りもしながら、官位を退いた一時的な装束にも、竹の子の憂き節をそのつどお世話することで気を紛らわしていました。

 

 むしろ、源氏の君にとってはその他大勢の別れて行った女たちの様子の方が、他人ごとながら心を痛めることも多かったのでした。

 

 常陸宮の君は、今はなき父の親王の忘れ形見で、後見として世話する人もなければ、頼れる拠り所もなかったところに、思い掛けず源氏の君がやってきて、その援助は未だに絶えてはいないのですが、かつての源氏の君の権勢からすればたいしたものでもなく、わずかなお情け程度でたいした袖も振ってくれなくて、大空の星の光を盥の水に映すような思いで生活していました。

 

 そこに、例の世の騒ぎが起こり宮廷全体が迷走していくと、そんなに重要でない方への配慮などすっかり忘れてしまったようで、源氏の君が遠くへ行ってしまったあとは、訪ねてくる人もありません。

 

 過去のお世話のおかげで、しばらくは泣く泣くも生活できましたが、そうして年月が流れて行くばかりで淋しくも哀れな状態になっています。

 

 昔からいる女房などは、

 

 「なんとまあ、本当残念な星の下にあるのですね。

 

 思わず神仏が現れたような加護をいただいて、こんなラッキーなこともあるもんだと思って、有難く思っていたものを、世の中というのはこんなもので、他に頼る所もないのが悲しいものです。」

 

と愚痴の一つも出ます。

 

 親王様がいらした遠い過去には、言いようのない寂しさにも慣れて日々を送っていたのに、かえって一度世間並みの暮しを何年もしてしまうと、本当に耐えがたく辛く思えます。

 

 その時、自ずから集まってきたそれなりの女房達もみんな、一人また一人いなくなってゆきました。

 

 亡くなっていった女房もいて、月日が経つにつれて上の者も下の者も数少なくなりました。

 

 元から荒れていた宮の中は、ますます不気味な狐の住処になって、離れた所にある木立でフクロウが朝夕鳴くその声にも慣れてきます。

 

 人の気配がしてた頃はそういったものもどこかに隠れていたのですが、木魂など怪しげなものが所を得たようにいろいろ姿を現し、限りなく侘し気な所で、たまたま残ってしまった人は、

 

 「もう耐えられないわ。

 

 余所じゃ受領たちがお洒落な家を造って評判を得ているんだから、この宮の木立に興味を持って放出しないかと縁故をたどって申し出る人がいたなら、それもまたいいんじゃないかな。

 

 そしたら、こんなホラーな所ではない家に引っ越さない?

 

 残っている人も耐え難いでしょう。」

 

などと言ってはみても、

 

 「ああ、最悪。人が何と思うんだか。

 

 これからも生きるのに、大切な、思い出がなくなったらどうするのよ。

 

 確かに恐ろしく、荒れ果てているけど、親がまだここにいるような気のするの。

 

 昔ながらの家だから、安心してられるというのに‥‥。」

 

と急に泣き出して、相手にもしません。

 

 調度や何かも、古い時代から使われている昔ながらの立派なものですし、身分の低い受領なんかがその由来に興味を持って使ってみたいなと思っては、あの名工が、あの匠が作ったなんてことをどこかで調べて訪ねてくるのですが、所詮は貧しいからと足元を見て値踏みしている状態で、さっきの女房も、

 

 「どうにもなりませんわ。そうなるのはどこの世でもそうですから。」

 

と言ってはぐらかしながらも、さし迫った今日明日の生活苦を埋め合わせしようとするので、厳しく注意します。

 

 「これは私にって、作っていただいたものなの。

 

 どうして、卑しい人のお飾りに、しようとするのよ。

 

 亡き父の意思に背くなんて、悲しすぎるでしょ。」

 

と言っては売却を許しません。

 

 たとえたまたまであっても、訪ねてくる人はいません。

 

 ただ、兄の禅師の君だけがたまに京に出てきた時に覗きに来る程度で、それも世間じゃちょっとないような古風な人で、同じ法師のなかでも生活力が乏しく、浮世離れした修行僧で、茂っている蓬などの草すら刈り払うべきものとは思っていません。

 

 そういうわけでススキが庭をすっかり覆っていて、茂ったヨモギも軒に届くぐらいに伸び放題です。

 

 ムグラは東西の門を塞いでは侵入を防いでいるのですが、崩れかかった筑地(ついじ)は牛や馬が踏みならした道ができていて、春夏になれば放牧する牧童の総角(あげまき)の欲しいままで、うざいものです。

 

 八月の台風の荒れ狂った年には回廊も倒壊し、仕えている者たちの粗末な板葺の住居は中の骨が残っているだけで、住み続けている下女などもいません。

 

 炊飯の煙が立ちのぼることもなく、ただ悲惨というしかありません。

 

 血も涙もない盗賊すら、ひと目見て寂しげなこの宮には盗る者もないと思って通り過ぎるだけで、押し入ってくることもないので、こんなどうしようもない野となり藪となったところですが、さすがに寝殿の内だけは昔と変わりませんが、きれいに掃除する人もいません。

 

 ゴミだらけになっていても、まごうことなきご立派な住まいで、今日も暮らしています。

 

 色褪せたような古歌や物語などの娯楽で退屈を紛らわせば、こうした生活の憂さを晴らす手だてにはなるものの、それも次第に興味が薄れて行くものです。

 

 好きでやっているわけでもないけど、だからといって忙しいわけでもなく、ただ同じような境遇の人と文を交わしたりして、若い人は草木を見ては心を慰めているけど、亡き親王の教育のままに目立つようなことはしないようにして、たまにしっかりしたところから交際を求めてきてもあまり興味も示しません。

 

 古ぼけた御厨子(みづし)を開けて、『(から)(もり)』『()()()()()』『かぐや姫の物語』の絵巻などを出しては、時々暇をつぶしています。

 

 古歌にしても、面白いと思ったものを選び出して、題や作者もしっかりと記していれば良いんですが、立派な官製の紙屋紙(かんやがみ)や武骨な陸奥紙(みちのくにがみ)もすっかりけば立ってしまい、誰もが知るような古歌などをいかにも月並みなものを、何かの折々にとりあえず引っ張り出しては眺めています。

 

 今の皆さんがやっているような経を読んだりお勤めをしたりということは、何だか恥ずかしいことだと思っているのか、誰もやっている人もなくて、数珠などを手に取ることもありません。

 

 このようにご立派な生活をしています。

 

 侍従と呼ばれている乳母の子だけが、長年愛想尽かさずに仕えていますが、時々仕事で通っていた賀茂斎院も亡くなり、どうしようもなく心細かったところに、この宮の姫君の母の姉妹で、身分を落として受領の奥さんになっている人がいました。

 

 娘たちを大事にしているような所で、侍従のような若い人たちは、無理に知らないところに行くよりは、亡き母も行き来していたところならと思って、時々訪ねて行っています。

 

 宮の姫君は御存じのようにひどいコミュ障なので、何の交流もありません。

 

 その叔母も、

 

 「私のことをさんざん馬鹿にして、顔も見たくもないと思っているのでしょう。

 

 姫君の様子は気の毒だけど訪ねて行くわけにはいきません。」

 

などと文句を言いながらも、時々は手紙をくれました。

 

 元々受領クラスに生まれたような人だったら、むしろ高貴な人の真似をしようとして立派にふるまう人も多いのですが、最高位からここまで没落してしまったということで、すっかりプライドを失ってしまってしまったのでしょうね。

 

 「こんな落ちぶれ果てて、ただでさえ軽く思われているんですもの。

 

 宮家が衰えているというなら、姫君を私の娘たちの使用人にしたいものですわ。

 

 あの姫君は昔から何も変わっていない人なので、扱いも楽ですわね。」

 

ということで、

 

 「折に応じて、ここに呼ぶようにしましょうか。

 

 七弦琴の音を聞きたがっている人もいますし。」

 

と言ってきます。

 

 この侍従も、いつもいろいろ意見は行ってましたが、姫君に逆らうつもりもないのですが、ただどうしようもない引き籠りで、こうした交流をしようとしないのにイラつくだけでした。

 

 そうこうしているうちに、叔母の夫は大弐(だいに)になりました。大宰府の次官の最上位です。

 

 娘たちにはしかるべき縁組をして、大宰府へ向かおうと思います。

 

 姫君を誘って一緒に下ろうとたくらんでいて、

 

 「遥か遠い所に行ってしまうと、あなたがたのみじめな生活にこれまでもいつも訪ねていけたわけではないけど、これからは近くにいて頼ることもできなくなっちゃって、何だか本当に悪い気がしますわね。」

 

など恩着せがましく言うのですが、それでもついて来ないので、

 

 「あら困った子ね。穏やかでないこと。

 

 あなた一人思い上がっていても、あんな薮の中老けて行くばかりの人なんて、あの大将殿だって同等には扱わないでしょうよ。」

 

など、毒づきます。

 

   *

 

 そんな時でした。なんとまあ、あの源氏の君が罪をゆるされて都に返ってくるということで、世間はすっかり沸き立ってました。

 

 我も我もと、誰よりも先に源氏の君の御贔屓を得ようと先を争うのは男も女も同じで、身分の上下も関係なく人の心の変わり身の早さに、ただただ茫然とするばかりです。

 

 こんな世間のあわただしさに紛れて、姫君のこともすっかり忘れ去られたまま月日が過ぎて行きました。

 

 「もうおしまい。

 

 今までずっと、ありえないような悲しく忌々しい状態で、いつかは萌えいづる春になりにけるかもとずっと祈って来たのに、今や源氏の君の出世を石ころだらけの河原の者までが喜んでいるというのに、ここでは全く蚊帳の外なんて。

 

 源氏の君のことを悲しんでいた頃の心配は、ただ自分一人のことに過ぎなかったけど、ままならない世の中だこと。」

 

と心を折られて辛く悲しく、人知れず声を上げて泣きました。

 

 大弐の奥方は、

 

 「ざまあざまあ。後見もなくみすぼらしい人になんか、源氏の君が同列に扱うわーけがないでしょ。

 

 神も仏もたいした罪もない人にはご利益があるというもので、あんな落ちぶれ果てて居丈高に世間を見下し、未だに宮様夫婦が生きていた頃の調子で慢心しているなんて、ほんと可哀想可哀想。」

 

と、ますますあざ笑い、

 

 「もう決めちゃいなさいよ。

 

 時代に合わないんでしたら、人知れぬ山路を行くのも手ですわ。

 

 田舎暮らしは嫌かもしれませんが、決してみじめな思いなんてさせませんわ。」

 

なんて口当たり良いことを言えば、女房たちももはや抵抗することもなく、

 

 「そうしてくれたら、ねえ。

 

 何もいいことなんてないというのに、何を思っていつまでも頑張っているのやら。」

 

と口を合わせます。

 

 侍従もその大弐の甥と思われる人とできてしまって、京に残るわけにもいかず、どっちにしても大宰府へ行くことになり、

 

 「置いてきぼりにするなんてできません。」

 

と言って急き立てるのですが、それでもあの疎遠になってかなりの時が経っている人を待っていました。

 

 心の中では、

 

 「そうはいっても、生きていれば、いつかは思い出してもらえることもないとも言えないでしょ。

 

 哀れに思ってくれて、深い情けから約束してくれたのですもの。私の境遇のせいで忘れてしまったにしても、風の噂にでも、困窮しているありさまを知ったなら、かならず訪ねてきてくれます。」

 

と今まで思ってきたので、この家が大体において前より悲惨な状態になってはいても、何とか頑張って調度なども無くさないようにしてきたので、何としてでもこの状態を維持しようと努めてきました。

 

 すすり泣きながらますます悲しみに沈んでゆくその横顔は、まるで山の木こりに赤い木の実一つ顔にぶつけられたみたいで、普通の人ならとうてい直視に堪えるではないでしょうね。

 

 詳しいことは省きましょう。可哀想なのでこの辺にしておきます。

 

   *

 

 冬になると、ますますしがみ付くようなところもないまま、悲し気に時が過ぎて行きます。

 

 待っているあの殿は、亡き院のための法華経八講を行い、世間も湧き立ってました。

 

 特に僧などは、そんじょそこらのではなく、学識も実績も申し分のない当代きっての者を選び出していたので、兄の禅師も参加しました。

 

 帰りがけに立ち寄り、

 

 「そうそう、権大納言殿の法華経八講に行ってきたんだがね。

 

 まっこと恐れ多く、生きながら極楽浄土もかくやとばかりの荘厳かつ興味深いこと限りなしとはこのことだ。

 

 あのお方は仏様の菩薩になって現世に現れたに違いない。

 

 五濁に染まり切ったこの世に、何でお生れなさったか。」

 

と言って、すぐに帰って行きました。

 

 交わす言葉も少なく、世間のそこいらの兄弟とは違っていて、無駄な世間話などしません。

 

 「それにしても、こんな不遇な生活をしているというのに、慈悲すらかけずに放置するなんて、あきれた仏菩薩様だ。」

 

と心を痛めながらも、

 

 「本当におしまいなのね。」

 

としみじみ思うようになったところに、大弐の奥方が急にやってきました。

 

 日頃あまり親しくなかったけど、誘ってあげようということで、装束も用意して、立派な車を走らせ、表情といい態度といい、勝ち誇ったように得意満面で、いきなりやってきて門を開けさせると、そこは限りなく見すぼらしい寂しげな所でした。

 

 左右の戸がみんな崩れるように倒れてきて、男たちは取り合えず抑えては大騒ぎして、何とか開けました。

 

 漢の隠士の蒋詡(しょうく)が庭にあるという三径とやらは、この荒れ果てた家にも必ずあるはずだとばかり、よくわからない道をたどって行きます。

 

 何とか正面の格子を上げた部屋が見つかり、そこに車を寄せ、こんな所まで来ちゃって良いのかと思っていたところ、真っ黒に煤けた几帳を引っ張り出して、侍従が出て来ました。

 

 すっかりやつれ果てた様子です。

 

 ここ何年すっかり瘦せ細ってはいるものの、それでもどことなく美しさと気品を残していて、こう言っちゃなんですが、こっちが姫君と言ってもおかしくありません。

 

 「もう出発しようと思っているのですけど、気の毒な人たちを見捨てるわけにもいきませんものね。

 

 侍従を迎えに来たんですのよ。

 

 情けなく心を閉ざして、自分の方からは一度たりとも足を運んでくださらないなら、せめて侍従だけでもお許し願えますかね。

 

 こんな寂しい所に置いてくなんて‥‥。」

 

と言って、ここは泣き出すべき所なんでしょう。

 

 それでも、出世街道が見えているということで、やけに上機嫌です。

 

 「宮様ご存命の折は、私のことなど卑しい所へ嫁いで面汚しだと見放したんでしたっけね。そうやって会うこともなくなってしまいましたが、今になって見ればどうです。

 

 王族だからって思い上がり、源氏の大将殿も通ってくるのも前世の縁などと恐れ多いことを信じてたので、友誼を結びたいところもご遠慮申し上げたまま、今に至ってのことですが、世の中も随分と変わってしまいまして、身分の低い者としてはむしろ幸いでしたわ。

 

 遥かな高みにいらした方がこんなにも悲しく気の毒なことになっていても、近くにいた時には訪ねて行くこともせず、何事もないから安心してましたが、こうして遠くに行くことになりますと、うしろめたいやら悲しいやら。」

 

などと長々と言っても、姫君は警戒して従う様子もありません。

 

 「まあ嬉しいんだけど、今更世間並なんてね。

 

 こうやって朽ち果てて行くのも、定めと思ってます。」

 

とだけ言うと、

 

 「あらあら、それもいいかもしれませんね。

 

 でも、死んだようにこんなおぞましい暮らしをするようなことはありませんよ。

 

 この家を源氏の大将が建て直してくれれば天空の宮殿にもなって、それはもう悠々自適でしょうけど、あの方も今は兵部卿の宮の娘にしか興味ないみたいですし‥‥。

 

 昔から浮気癖があって、気まぐれに通った女の所なんて、どれも興味なくなったみたいね。

 

 まして、こんな落ちぶれ果てて薮の中に住んでいる人なんて、貞節を守って俺を頼りにしてくれてたかなんて言って訪ねてくることなんて、まずないことでしょうよ。」

 

なんて吹き込まれると、返す言葉もなくどうしようもなく悲しくて、じわっと涙が溢れてきます。

 

 それでもここを動こうとはしないので、これ以上言いあぐねているうちに日も暮れてきて、

 

 「それじゃあ、侍従を。」

 

と日がすっかり暮れてしまう前にと出発を急げば、それに急き立てられて泣く泣く、

 

 「それじゃあ、まず今日の所はね。

 

 ここまで言われちゃえば、せめて見送りだけでも行かなくてはいけないもの。

 

 言っていることはその通りでしょ。

 

 悩んじゃうのもわかるけど、板挟みになる方も辛いのよ。」

 

と耳元でそっとささやきました。

 

 この人までが見捨てて行ってしまおうとするのは残念で悲しいけど、引き留める言葉もなく、泣く声だけが荒々しくなっていきます。

 

 形見に与えるような着慣れた服もよれよれで、長年の務めの感謝の印になるようなものもなく、自分の抜け毛を集めて作ったエクステの三メートル近くのものがあって、なかなか見事なので、これを可愛らしい箱に入れて、昔の薫物の香ばしいものを一壺添えて与えました。

 

 「変わらない頼みの糸の玉カツラ

  思いがけずに抜けていくとは

 

 今は亡き乳母の遺言もあって、こんな駄目な私でも、見捨てることはないと思ってた。

 

 見捨てて行くのは仕方ないけど、もう誰も代りはいないと思うと、残念ね。」

 

と言って、ひどく泣き出します。

 

 侍従も声を詰まらせます。

 

 「乳母の遺言はもちろんのこと、長いこと堪えられないくらいの辛い時代をともに過ごしてきた仲じゃないの。

 

 今は知らない所に連れられて遠くへ行っちゃうんで、頭の中が真っ白なの。

 

 別れても心は同じ玉カツラ

     旅の神にもかけて誓いまーす

 

 生きてまた会いましょうね。」

 

と言っているうちに、

 

 「あらやだ、暗くなっちゃったじゃないの。」

 

とぶつくさ言いながら、有無を言わせずに車を走らせたので、振り返るのが精一杯でした。

 

 長年苦労をともにしながらも離れることのなかった人が、こういう形で別れてしまったことで、何とも心細く思っている時に、もう再就職も出来そうにない老婆までもが、

 

 「まあ当然じゃな。

 

 残る理由なんぞありゃしない。

 

 私らも我慢の限界じゃ。」

 

と、どこかに当てがないかあれこれ思い出しては出て行こうとしているのが、みっともないですね。

 

 十一月になると雪や霰が時折降って、余所では所々融けているのに、朝日や夕日を遮る蓬や葎の陰に深く積ったまま、越中白山を思わせるような雪の中には出入りする下人すらいなくなって、ただぼんやりと眺めていました。

 

 意味のないおしゃべりをしながらも慰め合い、泣いたり笑ったりしながら紛らわす人も無くて、埃まみれの寝床の(とばり)の内も、一人っきりで淋しく物悲しく思えます。

 

 あの二条院には愛すべき人がいて、ますますややこしいことになっている様子で、特に最優先に思っている人でないなら、わざわざ訪ねて行くこともありません。

 

 まして、「そういえばそんな人まだいたっけ」という程度にしか思い出せない人であれば、訪ねて行こうという気持ちはあっても、急ぐことではないと思いながら年も明けて行きました。

 

   *

 

 四月になって、花散る里を思い出し、対の上の姫君にちょっくら行ってくると言って外出します。

 

 ここんとこ降り続いていた雨もまだ少し降る中、タイミング良く月が顔を覗かせました。

 

 以前に五月雨の中、あてもなく外出した時のことがフラッシュバックすれば、なかなか風情ある夕月夜ということもあって、途中でいろいろなことを思い出していたところ、原形をとどめぬ程荒れ果てた家の、木立が茂り森のようになっているところを通り過ぎました。

 

 大きな松に絡まった藤の花が咲き、月の光になよなよとしていて、風に乗ってふっと匂って来るのが誘われているみたいで、何やら意味ありげな香りがします。

 

 花橘だったら昔の香もするという所ですが、それとは違う興味深い香りで、車から顔を出してよく見ると、柳の枝も枝垂れ放題で、筑地は崩れて邪魔されることもなく乱れ臥してました。

 

 「なんかこの木の茂り、見た事あるな」

 

と思えば、

 

 「そうだこの屋敷だった。」

 

 胸の締め付けられるような思いで車を止めさせました。

 

 例によって惟光はこういったお忍びの外出に外されることはないので、側に控えてます。

 

 近くに来させて、

 

 「ここは常陸宮の屋敷だったんじゃあ。」

 

 「そう存じます。」

 

 「ここにいた人はまだ居るんだろうか。

 

 行かなくちゃいけなかったんだけど、わざわざ訪ねて行くのも気詰まりだ。

 

 もののついでだ。

 

 入って言づてをしてくれ。

 

 ちゃんと確認してからにしろよ。

 

 人違いだと馬鹿だからな。」

 

 そう言いました。

 

 一方、姫君の方はますます憂鬱になる季節で、虚ろな気分でいた所、昼寝の夢に亡き宮様を見て、目が覚めてからそのことを悲しく思い起こして、雨漏りに濡れた{|ひさし}の間の端の方を拭かせて、部屋のあちこちの敷物を直したりしながら、いつになく人並みに歌を読もうなどとして、

 

 亡き人を思えば袖も乾かずに

 破れた軒の雫まで一緒

 

というのも痛々しいものです。

 

 惟光が入って行き、あちこちうろうろと人の音がしないかと見て回るのですが、まったく人の気配もなく、

 

 「そういえば今までも行き来の時に見ていたけど、人の住んでる様子もなかったからな」と思って帰ろうとすると、月の光が明るく差し込んできて、見れば(しとみ)の格子が二間ばかり上げてあって、御簾の動く様子が見えます。

 

 やっと見つけたと思い、恐る恐る近寄って声をかけると、よぼよぼの爺さんのような声で咳払いをしてから、

 

 「誰かえ。何という者かえ。」

 

と尋ねてきます。

 

 名を名乗ってから、

 

 「侍従の君という人に会いたいんだが。」

 

と言う。

 

 「そんれは、他所へ行っちゃただ。

 

 じゃが、似たような女ならおるがのう。」

 

という声はすっかり老いてしまってはいるものの、知ってる老人の声だとわかりました。

 

 中の人は、思いもよらない狩衣姿の男を静かになごやかに迎え入れてくれたので、このすっかりご無沙汰していた人たちが、ひょっとしたら狐が化けているのではないかと一瞬思いましたが、近づいて、

 

 「どうかはっきり言ってほしい。

 

 今で変わらないお気持であるなら、源氏の君も訪ねて行こうという気持ちを、今でも変わることなく持っていると思います。

 

 今も通りがてらに車を止めたのですが、何と報告しましょうか。

 

 どうか固くならずに。」

 

と言えば、女たちは笑い出して、

 

 「心変わりがあるんじゃったら、こんなススキが茫々と茂る所にいつまでもいることはないわな。

 

 ちょっと考えればわかるでしょうに。

 

 ここまで年は取って来たけど、それでもこれまでの人生で誰も経験したことのないような、珍しい体験をしてきたんですよ。」

 

と少しづつ語り出せば、とりとめのない話になりそうで、うざいなと思って、

 

 「そうですか。まず報告に行ってまいります。」

 

と言って源氏の所へ戻って行きました。

 

 「どうしたんだ。遅かったじゃないか。

 

 それでどうだった。

 

 蓬がこんなに生い茂って昔の片鱗もないんだが。」

 

と言えば、

 

 「どうにかこうにかやっと見つけました。

 

 侍従の叔母の少将という年取った人がいて、昔と変わらないようでした。」

 

とその様子を話して聞かせました。

 

 ひどく悲しそうに、

 

 「こんな草の生い茂ったところで、どんな気持ちでこれまで暮らしてきたか。今まで放ったらかしにしてたなんて。」

 

と自分の薄情さを思い知ったようでした。

 

 「どうしたらいいものか。

 

 こんなふうにお忍びで外出するのも難しいから、こうしたついででないと立ち寄ることもできない。

 

 変わらない様子だというなら、本当に待ってたんだというのは、あの人なら考えられる。」

 

と言いながらも、すぐに入って行くことをためらっています。

 

 こういう時は歌など送って返事を伺いたいのですが、以前なかなか返歌を返せなかったのが変わってなければ、お使いに行く方も待たされて気の毒なので、思いとどまります。

 

 惟光も、

 

 「蓬に露がびっしり降りていて、とてもあなたをそのまま歩かせるわけにもいきません。

 

 私が露払いをいたしますので、後から来てください。」

 

と言うので、

 

 何としても自分が行かにゃ道もない

     蓬に深く埋もれた心を

 

と独り言を言って車を降りれば、その前の草の露を惟光が馬の鞭で払いながら入って行きます。

 

 雨の雫もあたかも秋の時雨のように打ち付けるので、傘を差しかけます。

 

 「ほんと、木から落ちる露が雨よりもひどいですね。」

 

 指貫(さしぬき)はびしょ濡れです。

 

 以前来た時もあるのかないのかわからないようだった中門も、今では影も形もなく、無様な姿で家に入って行くのを、偶然でも見る人がいなかったのは幸いでした。

 

 姫君は、それでもとずっと待っていたのがついにその通りになって嬉しいのですが、こんな恥ずかしい姿で会うと思うと気が引けます。

 

 大弐の奥方から貰ってそのままの衣類は、貰った相手が相手だけに見るのも嫌だったのですが、そのときに女房達が香の唐櫃に入れておいてくれたので、何とも素敵な香りがしていて、これしかないと思って着替えて、あの煤けた御几帳を自分の前に置いて座りました。

 

 源氏の君は入って来ると、

 

 「長いこと合わなかったのは、心の中では変わらず思い続けてたのに、あなたがそっけないそぶりををしてたのが憎らしくて、今まで試すつもりでいたんだが、三輪の杉の恋しさならぬこの鬱蒼と茂る木立に、スルーするわけにもいかず、まあ俺の負けのようだな。」

 

と言って几帳の裾を少し横へずらすのですが、前に会った時のように、とにかく恥ずかしそうにしていて、なかなか返事をしません。

 

 こんな所へわざわざ来てくれたんだから、それだけでも大変なことなんだと思って、ようやく小声で何か言ったようです。

 

 「こんな草の中に隠れて過ごした年月の悲哀は並大抵ではないとおもうが、相変わらず何も言ってこなかったから、どう思われているかもわからずにここまで来た俺の気持ちをわかってほしい。

 

 長いこと来なかったのも、そういうことだから、みんなわかってくれると思う。

 

 これから先、あなたが不満に思うのだったら、約束を守らなかったという罪も追うことにするよ。」

 

などと、心にもないようなことを、いかにも思いやりのあるように言いくるめることも‥‥あるんでしょうね。

 

 ずっとここに居ようにも、場所からして目がくらむような状態なので、適当なことを言って出て行こうとします。

 

 引き抜いてきて植えたわけでもない松の木が高い木になる程の年月も悲しく、悪夢のような須磨明石のことも脳裏を離れず、

 

 「藤の花を見過ごすことができないのは

     まつだけが宿のしるしだからだ

 

 思えば何年前のことだったか。

 

 都もいろいろ変ってしまったことが多くて、どれもこれも悲しいもんだな。

 

 今に落ち着いて、田舎に遁れていた頃の話なんかもしなくてはな。

 

 あなたの長年の春秋の辛かった日々なども、誰かに何とかしてもらっているかと特に理由もなく思っていたのは、やはり変だったね。」

 

なんて言うのを聞いて、

 

 「何年もまつのしるしもない宿に

  花をだけみて去って行くのね」

 

と密かに体を震わせている気配、袖の薫りも、以前よりは大人になったのかと思いました。

 

 夕暮れに見えていた月も沈もうとしていて、西の妻戸を開くと本来ならあるはずの西の対屋とを繋ぐ渡殿の屋根はもとより、軒先すら残ってないため、差し込む光が部屋をこれでもかと明るく照らし出すので、その辺りをぐるっと見回してみると、昔と変わらない室内の調度類が並んでいて、忍ぶ草にやつれた家の外見に比べると優雅な感じがして、古い物語に夫に貞淑さを示すためにわざわざ塔の壁を壊して外から見えるようにした人がいたことなども思わせるような、昔と同じような生活を続けていたことが悲しく思えます。

 

 ひたすら自分を抑えて何も言わないその姿も、やはり気品があって惹かれるものもあり、今度こそは忘れまいと心を痛めるのですが、しばらくいろいろ辛いことが多くて完全に忘れてしまっていたのを、薄情だと思っているんだろうなと思うと、可哀想なことをしたと思います。

 

 あの花散る里も今を時めく華やかな世界とは程遠い所で、ここと比べても大差ないのいようなものなので、ここの欠点もそれほど目立たなかったのでしょう。

 

   *

 

 賀茂の祭り、斎院の禊などがあり、その支度にかこつけて、献上品が沢山あったのを、こうした面倒を見る人たちに心付けしました。

 

 中でも常陸宮には細やかに配慮して、懇意にしている人達に命じて雑用の者を派遣して、蓬を刈り取らせ、外から見て見苦しいので板塀でしっかりと囲わせました。

 

 姫君のところを尋ねて行ったことが噂になったりしても体裁が悪いので、その後通うこともありません。

 

 その代わりに心を込めて手紙を書き、

 

 「二条院の東の家を建てているから、そこに引っ越させようと思う。そこにふさわしい童女を探しておいてくれ。」

 

などと、女房の苦労まで思いやって、使者を送れば、このみすぼらしい蓬の家の人達も、どう感謝していいかわからず、女房達は空を仰いで、二条院の方に向かって礼を言うのでした。

 

 世の普通の男たちなら、たとえ軽い遊びのつもりでも誰も目を止めることもなければ聞き出そうともしないような女でも、世間のかすかな噂からこれはと思って、興味深々でわざわざ訪ねて行くのが源氏の君なのは周知のことで、このようにみんなの期待を裏切って、すべてに関して人と違うようなこうした人を妻の一人として扱うというのは、一体どういう理由があったのでしょうか。

 

 これも前世の契りということなのでしょうね。

 

 それじゃこれまでと見切りをつけて、いろいろ伝手を頼って我先にと去っていった女房たちも、戻ってきたくて先を争っています。

 

 姫君が性格的に、感情を外に現すことができないくらいに人のことをいつも気遣うという人の良い所があって、その気楽さに慣れてしまっていると、ごく普通のそこいらの生半可な受領の家に行ってもなじめず、居心地も悪く、あからさまに手のひら返して戻ってきました。

 

 源氏の君は以前にもまして権勢を誇っていたから、たくさんの人を養う余裕も出てきて、隅々まで配慮ができるようになって人望を得ていたので、屋敷の中も人が多くなり、庭の草木もただ荒れ果てるがままになっていたのを、遣り水の詰まりを取り除き、前庭の根元の雑草も涼し気に刈り取られ、特に世評も高くない六位以下の下家司(しもげいし)で仕事を探している人からすれば、この人なら心に留め、世話してくれるのではないかと思い、御機嫌を伺いへつらってきます。

 

 この翌年までは古い邸宅で過ごした後、東の院というところに移って行くことになりました。

 

 夫婦関係を持つのはちょっと無理でしたが、すぐ隣に住んでいるということもあって、普通にその辺りを通ることもあれば、ちょっと訪ねて来たりして、そんなに軽く扱っているふうでもありませんでした。

 

 あの大弐の奥方が上京した時の驚いた顔、侍従は嬉しいと思うものの、何でもう少し待てなかったかと、自分の浅はかさが恥じたことなど、もう少しお話しても良いのですが、頭が痛くなるような鬱陶しい面倒な話になるのでやめておきます。

 

 

 また別の機会があれば、その時に思い出して語っていきたいと思います。