小さな細菌や虫けらから、たくさんの魚や鳥や動物たち。そんなに難しいこと考えるわけではなくても、みんな立派に生きている。だからおそらく、人生に本当はそんな悩むような難しいことなどありはしない。別に人生の意味だとか目的だとか、そんなこと知らなくたって何も困ることはない。
基本的に、自分の人生を少しでも豊かで楽しいものにしようとして努力するのは当然のことだ。それも、広野の真っ只中で、たった一人でもがくよりは、みんなで考えた方がいいアイデアも出るし、いろいろなアイデアが結びつけば、相乗効果というのもある。今の豊かな社会は決して一人の力で作り上げることはできなかったし、どんな天才だって、何もかも一から作り上げることなんてできやしない。一人の人間にできることなんて、そう多くはない。まして、どんな人間もすべてを知るなんてことはできるはずもない。
本来、何かを知るということは楽しいことだし、人生を豊かなものにしてくれるはずだ。そのために人は様々な突拍子もないことを思いつき、試してみて、使えるものを見つけ出す。そして、そのためにイマジネーションを豊かにし、好奇心を刺激するものには敏感に反応する。
哲学というのも、そういうものでありたいものだ。哲学は難行苦行を重ねて、わざわざ思考を型にはめてしまい、人生を身動き取れなくするようなものであってはならない。哲学はあくまで自由な想像力の翼を羽ばたかせるものでなければならぬ。
いわばこれはゲームだ。ゲーム作家が作った虚構の世界ではなく現実の世界の謎を解く、究極のRPGだ。あるいは推理小説といってもいいかもしれない。この合法ドラッグにはまってみない手はない。
ゲームをプレイしてわからなくなった時は攻略本に頼るように、何かわからなくなった時は、他人の哲学に耳を傾けてみるのもいい。偉大な先達もこう言ったはずだ。「学びて時にこれを習う、また悦ばしからんや。」
孔子もまた「学を好むこと色を好むが如く」と言われるくらいだから、この合法ドラッグの快楽を知っていたに違いない。
哲学書が難解なのは、第一には翻訳の問題で、哲学書は超訳はもとより、意訳すらしないのが普通だ。その点ではパソコンのウインドに表示されるメッセージの難解さに似ている。
たとえば、ドイツ語の口語で、"Da ist
Macdonald!"と言った場合、普通に訳せば「マクドナルドがある!」だが、これを直訳すれば哲学になる。「現(Da)にマクドナルドが存在する」となる。
"Da ist"は英語で言えば”There is"や"Here
is"と同様、日常的に使われる言い回しだが、この"ist"を動詞の原形にして、名詞化すると"Dasein"とすると、「現存在」や「定有」という哲学用語になる。同じ言葉だが、ハイデッガーや現代哲学の翻訳だと「現存在」と訳し、カントやヘーゲルなどやや古いドイツ観念論哲学の翻訳だと「定有」だとか「定在」だとかいうふうに訳す。「定在」というのは多分にダーザインとテーザイの駄洒落も含まれている。また、"Dasein"という言葉は法律学では「生存権」、生物学では「生存競争」のように、「生存」と訳されることもある。
こうした難解さを克服するには、残念ながら、原語を理解するしかない。ただ、原語がよくわからなくても、方法はある。それは、英語の長文読解の時に使う手だが、わからない単語は前後の文脈で判断するということだ。まずは、わからない単語は飛ばしてざっと読んで、何について書かれているかをおぼろげに理解する。そして、とにかくわかるところだけを集中的に読む。それが秘訣だろう。
原書が難しいものだから、とりあえず何か解説書を読んでからにしようと思うのは人情だ。しかし、解説書を書いている人間というのは、たいてい元の哲学者よりは一段落ちる人間が書いているもので、いわば名画の模写を鑑賞するようなものだ。あくまで参考程度にとどめよう。
だいたい、どんな人間でも、その人間の考えていることを完全に理解するなんてことは不可能だ。だから、哲学書の内容を完全に理解しようと思うと、その一冊を読むだけで人間の一生なんてものはあっという間に終わってしまう。
大事なのは、自分の知りたいことに答えてくれそうな本を選び、自分の問題解決に役に立ちそうなものだけを拾い読むことだ。そして、何より自分の問題は自分で解決することだ。
《偉大な先哲の書はみな攻略本、クリアするのは君だ!》