「木の本に」の巻①、解説

元禄三年三月二日俳諧之連歌

初表

 木の本に汁も膾も桜哉       はせを

   明日来る人はくやしがる春   風麦

 蝶蜂を愛する程の情にて      良品

   水のにほひをわづらひに梟る  土芳

 草枕此ごろになき月の晴      雷洞

   猿のなみだか落る椎の実    はせを

 

初裏

 石壇の継目も見へず苔の露     風麦

   㒵よごれたる賤の子供ら    良品

 判官の烏帽子ほしやと思ふらん   土芳

   木わたあたりの雪の夕ぐれ   風麦

 売庵をみせんと人の道びきて    はせを

   井どのはたなるゆぶききる也  雷洞

 すずしさのはだかになりて月を待つ 良品

   筵をたてにはしりとびする   はせを

 ねて居かおかしく犬の尾をすべて  風麦

   神事見たつるわぎもこがたち  土芳

 饅頭のべにつけちらすはなざかり  半残

   日長きそらに二日酔ざけ    三園

 

 

二表

 かねかすむ喰さき紙を飛つきて   風麦

   荷ひ夾たる番匠のごき     芭蕉

 何事にいそぐめくらのひずむらん  土芳

   かざすあふぎのかなめはしりし 雷洞

 おかしきは鼓の拍子打のべて    風麦

   気おもに見ゆる脇息のうへ   良品

 かけがねのひとりはづれし夕嵐   三園

   香しみたるちんの首たま    木白

 はり道を傘指てひとひつき     良品

   飯のこわきをこのまれにける  土芳

 月影に燈籠張て泣暮し       三園

   髪筋よりもほそき秋風     芭蕉

 

二裏

 鶴の夢すすきの中にまどろみて   雷洞

   冬のかがしの弓を失ふ     三園

 房は留守仏はうににふすぼりて   木白

   けやき碁盤のいたの薄さよ   風麦

 老ながら廿日鼠の哀にて      半残

   石菖青くめをさましつつ    良品

 着かゆれば染物くさき単物     芭蕉

   おくの座敷へ膳すゆる也    土芳

 花あればいやしき家にとどめられ  三園

   終に出来たる燕の土      雷洞

     参考;『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店)

 秋屋編『花はさくら』(寛政十三年刊)の序にこうある。

 

 「蕉翁在世の俳諧は七部にもれたる巻々を集て、先に五升庵主のあらはしけるが、爰に伊陽なる小川氏風麦のもとにて興行有ける一巻あり。此発句にての歌仙、ひさご集に入といへども、全篇抜群にかはれり。初折はあるじ風麦の犱毫にて、二の表より翁の筆也。此道の好士聴雨のぬし、ゆへありて持伝へられしが、かかる真跡を其儘にひめ置侍るこそ本意ならねば、公にせんと思ひ、且は初好士の句々をも乞ひ、しりへにふして更に梓にのぼさんとす。将、古翁の遺稿・遺物等あり。是を図書していささか証拠の信をあらはすのみ。」(『校本芭蕉全集』第四巻、宮本三郎校注、一九六四、角川書店。p.337)

 

 芭蕉七部集の一つである『ひさご』(珍碩編、元禄三年刊)と同じ発句でまったく違う内容の四十句からなる一巻が発見され、これは公開せねばならないとして発表したことが記されている。

 初折は風麦の筆で、二折は芭蕉の筆であることが示されている。この筆の違いから、二折が後から付け足された可能性は否定できない。実際、文化七年に猪来編『蓑虫庵小集』が出版され、「右一巻之連句ハ柳下生ノ家ニ蔵ス、乞テ世ニ披露ス」と付記して、初折は同じだが二折のまったく異なる歌仙が収められている。

 そして、文政十年刊の古学庵仏兮・幻窓湖中編『一葉集』には、『花はさくら』と同様の一巻が、

 

 「元禄三年三月廿七日 伊賀上野風瀑亭にて」

 

と前書きし、末尾に、

 

   「以下四十句

 元禄庚午の春、木のもとに汁も鱠もさくら哉の立句にて歌仙有。此巻と一折までは大かた同じ。末廿二句は大に異也。然ども祖翁の作なること明らけし。故に諸書所見なしといへども、猶捨るに忍びず、爰に挙て考証となす。」(『校本芭蕉全集』第四巻、宮本三郎校注、一九六四、角川書店。p.337)

 

と記して収められている。

 おそらく古学庵仏兮と幻窓湖中は『花はさくら』のことを知らなかったのではないかと思う。『花はさくら』は寛政十三年(一八〇一)刊で『一葉集』は

文政十年(一八二七)刊だから二十六年も前の本のことが忘れ去られていたとしても不思議ではない。ただ、三年前に公刊された『蓑虫庵小集』文政七年(一八二四)の歌仙に対し、「此巻と一折までは大かた同じ。末廿二句は大に異也。」として発表したものと思われる。

 ただ、三月二十七という日付については、その可能性がまったくないとは言えないが、今日一般的にはこの頃芭蕉は伊賀を離れ、近江で『ひさご』に収録されたもう一つの歌仙を巻いた時期とされている。

 もっとも、『ひさご』の歌仙には特に日付は明記されていない。おそらくこういう推測によるものだろう。

 

 一、『ひさご』所収の「木のもとに」の巻は春の発句だから当然三月までに作られているはずである。

 二、芭蕉は三月十一日に上野東郊荒木村白髭神社で「畑打つ」の巻の興行を行っている。四月六日には幻住庵に入っている。ゆえに、芭蕉はこの間に伊賀から近江へと移ったと考えられる。

 また、芭蕉には、

 

 四方より花吹き入れて鳰の波

 草枕まことの華見しても来よ

 行く春や近江の人と惜しみける

 

といった元禄三年三月の近江で詠まれた句が存在している。ゆえに三月末までに近江に移ったのは明らかである。

 三、ゆえに『ひさご』所収の「木のもとに」の巻は近江で作られたものだから、三月十一日から三月末の間に作られたと考えられる。

 

 そういう理由から三月二十七日は『ひさご』所収の歌仙の日付の可能性が高く、『蓑虫庵小集』所収の歌仙の日付である可能性は低い。

 私見ではあるが、作風から言うと、『花はさくら』の風麦筆の一折が三月二日の興行の際の半歌仙であり、『蓑虫庵小集』の歌仙の二折はその日からそう遠くない日に付け足されたもので、『花はさくら』の芭蕉筆の二折二十二句は、かなり後になって作られたものではないかと思う。

初表

発句

 

 木の本に汁も膾も桜哉       はせを

 

 発句は二重の意味があり、一方では比喩としてメインディッシュではない汁や膾も桜の木の下では花見のご馳走であるように、金持ちも貧乏人も武士も町人も花の下では見た身分わけ隔てなく平等になる、という理想が込められている。

 これはいわば「花見」の本意本情でもあり、芭蕉の花見の句ではほぼ一貫したテーマだといっていい。

 貞門時代の、

 

 京は九万九千くんじゅの花見哉  宗房

 

から、天和の頃の、

 

 花に酔へり羽織着て刀さす女   芭蕉

 

そして、年次不明の、

 

 景清も花見の座には七兵衛    芭蕉

 

の句にしても、テーマは一貫している。花見の座の無礼講に、身分の差を越えた花の下でみんなの心が一つになる、そんな公界の理想を表している。

 その一方でそのまんまの意味としては、花の下では散った桜の花が汁にも膾にも落ちてきてみんな桜混じりになってしまう、という花見あるあるの句になる。虚実で言えば、身分の差なく一切合財が桜だというのが「実」になり、汁や膾に桜の花びらが散っている情景が「虚」になる。

 土芳の『三冊子』「あかさうし」にはこうある。

 

 「木のもとに汁も鱠(なます)もさくら哉  芭蕉

この句の時、師のいはく、花見の句のかかりを少し得て、かるみをしたりと也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,114)

 

 「かかり」は岩波古語辞典によれば、「歌などの語句の掛かりかた。また、詞のすわり。風体。」とある。語句の繋がり方、前後との関係での詞の収まりのよさ、といった所か。

 「花見の句のかかりを少し得て」というのは、桜と汁・鱠という取り合わせの面白さにふと気づいてというような意味で、出典のある言葉をはずして「軽み」の句にした、というのが、師の言いたかったことであろう。

 ならば、その直前の花見の句はどうだったか見てみよう。

 この句の詠まれた元禄三年の前年、芭蕉は深川にいて『奥の細道』に旅立つ直前で、この年には花見の句はない。

 その前年の貞享五年は『笈の小文』の旅の途中で、伊賀では、

 

 さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 この句は今(平成二十九年春)ちょうどJCBのCMに用いられていて「皆さんは春に何を思いますか?」と視聴者に問いかけている。

 この句は旧主家藤堂探丸邸の花見の際の発句で、

 

   さまざまの事おもひ出す桜かな

 春の日はやく筆に暮れ行く     探丸

 

の脇がある。

 当座の意味としては、芭蕉伊賀藤堂藩に仕えていた頃、主君藤堂良精の息子藤堂蝉吟の俳席に招かれたことが俳諧師としての道を歩むきっかけとなり、そのほかにも様々な形で蝉吟にはお世話になって、たくさんの思い出があり、今こうしてその今はなき蝉吟の息子である探丸にこうして招かれ、さまざまなことを思い出します、という挨拶だったと思われる。

 それに対し、探丸の脇は春の日は長いとは言いながらも、こうして俳諧を楽しんでいるうちにあっという間に暮れて行きます、と返す。裏には「時の流れというのは本当に早いものです」という感慨が込められていたと思われる。

 この芭蕉の発句は特に取り合わせというものはない。ただ、桜が古来様々な形で歌われたり物語りになったりしたことを思い起こし、それをそのまんま述べたにすぎない。

 探丸邸での興行のことを知らない読者に対しては、この句はあのCMの通り、私は様々なことを思い出しますが、あなたもそうでしょう、と問いかける句になる。基本的に「桜」は様々な古典に登場することを踏まえながら、読者にそれぞれの桜の思い出を思い起こさせる展開になっている。

 このあと芭蕉は吉野へと旅立つ。その途中薬師寺での句、

 

 初桜折しも今日はよき日なり   芭蕉

 

 この句も特に取り合わせはない。

 

 花を宿に始め終りや二十日ほど  芭蕉

 

 この句も単に瓢竹庵を訪れた時にちょうど二十日頃だったことを詠んだ挨拶句。

 

 このほどを花に礼いふ別れ哉   芭蕉

 

 これは瓢竹庵を出るときの挨拶。

 

 吉野にて桜見せうぞ檜木笠    芭蕉

 

 これは、万菊丸(杜国)と一緒に吉野へ行こうという句。

 こうした句も桜や花がもつ長い伝統を踏まえた上で、それを慣用的に挨拶の中に織り込んだだけのものだ。

 

   龍門

 龍門の花や上戸の土産(つと)にせん 芭蕉

 酒飲みに語らんかかる滝の花     同

 

 花見に酒は付き物ということでの取り合わせの句。李白の

 

   山中与幽人対酌    李白

 両人対酌山花開 一杯一杯復一杯

 我酔欲眠卿且去 明朝有意抱琴来

 

 二人向かい合って酒を酌めば山の花も開き、

 一杯一杯また一杯。

 俺は酔って眠たくなったので卿よ一先ず帰ってくれ。

 もし良かったら明日の朝琴を抱いて来んさい。

 

の連想を誘うが、古典に密着した作り方で、「汁も鱠も」といったリアルな情景にかかることはない。「滝」もまた李白観瀑図として、何度となく画題にされてきたものだ。こういう出典との密着した関係を、『奥の細道』から帰った頃から「重い」と感じるようになり、出典をはずした「軽み」へと向かうことになる。

 ある農夫の家での句。

 

 花の陰謡(うたひ)に似たる旅寝哉  芭蕉

 扇にて酒くむ陰や散る桜       同

 声よくば謡(うた)はうものを桜散る 同

 

 これも「花」に「謡(うたひ)」「花」に「酒」という古典に根ざして慣用句化した付け合いによる言葉のかかりにすぎない。

 

 六里七里日ごとに替える花見哉    芭蕉

 桜狩り奇特や日々に五里六里     同

 

 これも花を求めての旅の風狂の句で、「花」のイメージ自体は古典に立脚している。

 

 日は花に暮てさびしやあすならう   芭蕉

 

 これも、花を見ながらその日を終えると、「あすなろう」という植物に掛けて花見を明日に明日にと先送りしている忙しそうな人を戒めた句。

 

   芳野

 花盛り山は日ごろの朝ぼらけ

 

 これは芳野で呼んだ句だが『笈の小文』には載せなかった句で、自分でもこの句の凡庸さに嫌気が差したのだろう。

 このように芭蕉は花(桜)の句で、中々古典的な趣向から脱却できずに悩んでいたのだろう。

 元禄三年、ようやく「汁も鱠も」というリアルな花見の情景の掛かりを見出した時、さぞかし長いトンネルを抜けたような気分だったに違いない。

 

季題は「桜」で春。植物、木類。

 

 

   木の本に汁も膾も桜哉

 明日来る人はくやしがる春   風麦

 (木の本に汁も膾も桜哉明日来る人はくやしがる春)

 

 脇の内容はそのまんまの意味で、特に解説を加える必要はないだろう。

 付け方という点では、前句の既に桜の散り始めた情景を受けて、特に付け合いとなる景物を出すこともなく、ただ思ったことをそのまま句にする。これは意味で付く「心付け」といっていいだろう。「こころ」という日本語は特に心情と関係なく、単に「意味」を意味する場合もある。

 末尾の「春」は「放り込み」と呼ばれるもので、季題が入らない内容のときに、こうやって無理やり後付の季語を放り込んだりする。

 

季題は「春」で春。「人」は人倫。

 

第三

 

   明日来る人はくやしがる春

 蝶蜂を愛する程の情(なさけ)にて 良品

 (蝶蜂を愛する程の情にて明日来る人はくやしがる春)

 

 「明日来る人は蝶蜂を愛する程の情にてくやしがる、春」と付く。これも心付け。第三なので発句の桜のことは忘れて読もう。

 とはいえ、これは結構難しい。前句を暮春の情として、「くやしがる春」を「春が行くのを悔しがる」と取って、蝶や蜂を愛するような風雅の情を持つ人だから、という意味か。

 蝶はともかく、蜂はかなり特殊だ。ただ、漢詩では蜂と蝶は対として用いられるので、漢籍に通じた人ということか。

 『校本芭蕉全集』第四巻の宮本三郎の註には、次の四句目のところに補注として、

 

 蝶蜂随香 参考、唐の玄宗時代の長安の銘姫、蘇連香は容色無双で、一度出づれば、蜂長その香を慕うて集まり随ったという(開元天保遺事)。

 

とある。

 ネットで検索する時には「蘇連香」ではなく「楚連香」で検索しないと出てこない。中国のネット辞書には、

 

 「五代·王仁裕《开元天宝遗事》:“都中名妓楚莲香,国色无双。时贵门子弟,争相诣之。莲香每出处之间,则蜂蝶相随,盖慕其香也。”

 

とある。

 

 【解释】:蜜蜂和蝴蝶跟随花香而追逐。旧时比喻那些纨绔子弟追逐女色。

 

とあるから、これは比喩で、美人には男どもがいつも取り巻いてるということか。

 ここはまだ第三なので、恋の句ではない。蝶蜂を愛する漢文かぶれの風流人ということでいいだろう。

 

季題は「蝶」と「蜂」で両方とも春。虫類。

 

四句目

 

   蝶蜂を愛する程の情にて

 水のにほひをわづらひに梟(け)る 土芳

 (蝶蜂を愛する程の情にて水のにほひをわづらひに梟る)

 

 「梟」は「ケウ」と読むので音を借りて「梟る」を「ける」と読ませたのだろう。フクロウはこの際関係なさそうだ。

 「水の匂い」は近代だと悪臭を連想させるが、本来は水の景色の美しさを言う。「匂い」は語源的には「丹(に)ほふ」で赤らむ、明るく輝いて見えるというニュアンスを持つ。

 「わづらひ」も病気ではなく、「ほとんど病気」という言葉が昔はやったが、英語でもillという言葉にはかっこよくて惹きつけられるという意味があるように、水辺の景色のすばらしさに動けなくなる、釘付けになる、くらいに取っておいた方がいいだろう。

 これも心付け。漢詩に通じた風流人だから美しい風景には病的になる。四句目だからそれほど深く考える必要はないだろう。

 

無季。「水」は水辺。

 

五句目

 

   水のにほひをわづらひに梟る

 草枕此ごろになき月の晴    雷洞

 (草枕此ごろになき月の晴水のにほひをわづらひに梟る)

 

 旅体の句に転じる。前句の水の美しさを月の光のせいだとした。月明かりに波立つ水のきらきら光る様は、それこそ「わずらひ」になる。しかも、旅をしていて久々に晴れたならなおさらだ。

 

季題は「月」で秋。夜分、天象。「草枕」は旅。

 

六句目

 

   草枕此ごろになき月の晴

 猿のなみだか落る椎の実   はせを

 (草枕此ごろになき月の晴猿のなみだか落る椎の実)

 

 ここで芭蕉さんの登場。

 「月」に「猿」は付け合いなので、これは物付けになる。ただ、猿そのものを登場させるのではなく、落ちてくる椎の実を猿の涙かと疑う。

 猿といえば、前年の冬に、

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

 

の句を詠んだばかりだ。

 旅の途中、山越えの道に入ると猿と遭遇することも珍しくはなかったのだろう。「猿の声」は漢詩では古人を断腸の思いにさせる物悲しいものとされている。漢文ではニホンザルのようなマカクは「猴」の字を書き、「猿」の字はテナガザルを表す。テナガザルは夜明け前にロングコールを行い、それが哀調を帯びているのだが、残念ながら日本で聴くことはできない。

 猿の声の悲しさはそれゆえ日本では想像上のもので、俳諧のようなリアルさを追及するものでは、声でないもので猿の物悲しさを言い換える必要があった。

 猿の涙は、『奥の細道』の旅の途中、那須黒羽での興行で、

 

    洞の地蔵にこもる有明

  蔦の葉は猿の泪や染つらん       芭蕉

 

の句にも見られる。これも月に猿を付けた句で、しかも猿そのものを登場させるのではなく、蔦の葉が染まるのを見て猿の涙が染めたのかと疑う所も一緒だ。

 そういうわけで、悪い句ではないが使いまわしの感がなくもない。

 

季題は「椎の実」で秋。植物。「猿」は獣類。

初裏

七句目

 

   猿のなみだか落る椎の実

 石壇の継目も見へず苔の露   風麦

 (石壇の継目も見へず苔の露猿のなみだか落る椎の実)

 

 「涙」に「露」が付く。古来、涙は露に喩えられてきた。

 

 鳴き渡る雁の涙や落ちつらむ

     物思ふ宿の萩の上の露

            よみ人しらず(『古今和歌集』)

 

を本歌と見ることもできる。雁を猿に、萩を苔に変えている。椎の実を猿の涙に喩えた前句に対し、ここでは苔の露が「猿のなみだか」となり、「落る椎の実」はそれに添えた景色となる。

 苔むして石壇の継ぎ目も見えずという姿に一興ある。「石壇」は石で作られた祭壇。

 

季題は「露」で秋。降物。「苔」は植物、草類。

 

八句目

 

   石壇の継目も見へず苔の露

 㒵(かほ)よごれたる賤(しづ)の子供ら 良品

 (石壇の継目も見へず苔の露㒵よごれたる賤の子供ら)

 

 長く用いられず放置され、苔むした石の祭壇は、近所の子供たちの格好の遊び場となる。

 

無季。「顔」「子供」は人倫。

 

九句目

 

   㒵よごれたる賤の子供ら

 判官の烏帽子ほしやと思ふらん   土芳

 (判官の烏帽子ほしやと思ふらん㒵よごれたる賤の子供ら)

 

 宮本三郎の註には、

 

 「謡曲『烏帽子折』に金売吉次に伴われ奥州に下る牛若を、田舎の子と見立てた付か。同曲中にその途次、牛若が烏帽子屋に左折の烏帽子を所望し、烏帽子屋の主に身分を知られる条がある。或はそれを踏まえたか。」

 

とある。おそらく間違いないだろう。ただ、ここで登場するのは牛若丸ならぬ田舎の子供たちで、この子達はさすがに判官の烏帽子を欲しいとは思わないだろう、という意味になる。「らん」は反語になる。

 金売吉次はウィキペディアによれば、「奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けした」という。

 金売吉次の墓は壬生から鹿沼に向かう途中にあり、曾良の奥の細道の『旅日記』にも、

 

 「ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」

 

と記されている。芭蕉も見ているはずだ。

 

無季。「判官」は人倫。「烏帽子」は衣装。

 

十句目

 

   判官の烏帽子ほしやと思ふらん

 木わたあたりの雪の夕ぐれ    風麦

 (判官の烏帽子ほしやと思ふらん木わたあたりの雪の夕ぐれ)

 

 「木わた」は伏見の木幡山か。

 『平治物語』によると、平治の乱の時、常盤御前が今若、乙若、牛若の三人を連れて六波羅を脱出して大和に向かう途中木幡山を歩いて越え、ようやく大和国宇多郡龍門に辿り着くも宿もなく、夜もふける頃から雪になった。

 前句に「判官」が登場する以上、牛若丸からなかなか離れられない。本説を逃れるには別の本説を付けるというのは定石とでもいうもので、同じ牛若丸でも奥州ではなく、常盤御前に手を引かれての六波羅から大和へ向かう情景へと転じた。

 本説の時は必ずオリジナルを少し変えなくてはいけないので、夜更けから雪になったのを「雪の夕ぐれ」に変える。

 前句の「思ふらん」も反語から推量に取り成される。これも定石と言えよう。木幡の雪の夕暮れのあの子供は後の判官になって「烏帽子ほしや」と思うようになるのだろう、と付く。

 付け句だけを見ると、

 

 駒とめて袖うちはらふかげもなし

    佐野のわたりの雪の夕暮れ

              藤原定家『新古今集』

 

のパロディーになっている。難しい本説からの逃げ句にこの技はなかなかのものだ。

 

季題は「雪」で冬、降物。七句目の「露」から二句隔てている。「木わた」は名所。

 

十一句目

 

   木わたあたりの雪の夕ぐれ

 売庵をみせんと人の道びきて  はせを

 (売庵をみせんと人の道さびて木わたあたりの雪の夕ぐれ)

 

 木幡は木幡山の周辺の地域全体も指し、今の京都市伏見区だけでなく、宇治市にもまたがっている。宇治といえば都の巽(たつみ)、

 

 わが庵は都のたつみしかぞすむ

     世をうぢ山と人はいふなり

            喜撰法師『古今集』

 

だ。

 これは本歌というよりは宮本三郎の註にあるように、「雪→冬籠る庵」「宇治→我庵」という『類船集』の付け合いによるもので、物付けと見た方がいい。

 宇治でただ庵で隠棲する人を付けても俳諧ではないので、あえて「売り庵」として、隠棲やーめたって人の句にしている。

 

無季。「庵」は居所。「人」は人倫。

 

十二句目

 

   売庵をみせんと人の道びきて

 井どのはたなるゆぶききる也   雷洞

 (売庵をみせんと人の道びきて井どのはたなるゆぶききる也)

 

 「ゆぶき」はイブキのことで、白槇(柏槇、百槇:びゃくしん)ともいう。「ねずの木」も白槇(柏槇、百槇)の一種。大木になる。お寺や神社などに植えられたりするし、生垣にも用いられる。「きる」というのは剪定して形を整えるということか。

 庵の価値を高めるために、井戸の脇にあるイブキを剪定して、形を整えたのだろう。

 

無季。「ゆぶき」は植物、木類。

 

十三句目

 

   井どのはたなるゆぶききる也

 すずしさのはだかになりて月を待つ 良品

 (すずしさのはだかになりて月を待つ井どのはたなるゆぶききる也)

 

 夏の夕涼みに転じる。イブキが茂ってて、月を隠しているので剪定したのだろう。剪定作業に一汗かいて裸になって月を待つ。何だか蚊に刺されそうだ。木を切るのに月のためという理由をつけているので心付けになる。

 

季題は「すずしさ」で夏。「すずしさ」と組み合わせることで「月」は夏の月になる。夜分、天象。

 

十四句目

 

   すずしさのはだかになりて月を待つ

 筵をたてにはしりとびする     はせを

 (すずしさのはだかになりて月を待つ筵をたてにはしりとびする)

 

 これは曲芸だろうか。筵を縦に立ててそこを飛び越えるという大道芸か、あるいはその真似事をして遊んでいるのか。

 「見世物興行年表」というサイトに、小鷹和泉・唐崎龍之助の芸として、「竹籠口の径(わた)し尺半、長さ七八尺檈(だい)の上に横たへ、高さ五六尺の菅笠を被(かつ)ぎ、走り跳び、籠の中を潜り出でて地に立つ。」とある。

 月待つ夕暮れに裸になっている人を大道芸人の位として付けたか。だとすると「位付け」で匂い付けの一種となる。

 

無季。

 

十五句目

 

   筵をたてにはしりとびする

 ねて居(ゐる)かおかしく犬の尾をすべて 風麦

 (ねて居かおかしく犬の尾をすべて筵をたてにはしりとびする)

 

 「すべて」はすぼめてということか。岩波古語辞典に「す・べ【窄べ】[下二]すぼめる。ちぢめる。「尾を─・べ、頭(かしら)を地につけて申すは」<天草本伊會保>」とある。

 走り跳びする脇では犬が眠っている。要するに全然受けてないということか。

 十一句目までは本歌や本説のある重い付けが続いたが、それ以降は一転して軽くなる。あるいは最初から十八句で終わる半歌仙の予定で、そろそろ終りということか。

 

無季。「犬」は獣類。

 

十六句目

 

   ねて居かおかしく犬の尾をすべて

 神事見たつるわぎもこがたち   土芳

 (ねて居かおかしく犬の尾をすべて神事見たつるわぎもこがたち)

 

 これはまた難しいというか意味が全然わからない。でも近代連句のようなただの連想ゲームではないだろう。近代連句だとただ連想したことを自動記述的に付けるシュール付けが多いが。

 宮本三郎の註によると、「犬→神前」は『類船集』の付け合いだから、物付けと思われる。物付けの場合はかなり強引に辻褄を合わせてたりする。

 とりあえず、「神事 太刀」とかでネット検索してみると、いろいろ太刀にまつわる神事が出てくる。

 ただ、太刀を振るのはたいてい男なので、検索項目に「女」を加えてみると、島田大祭というのが目に止まった。安産祈願の祭で、元は女性が帯を披露していたのだが、やがてそれが大奴(男)が太刀に帯をかけて練り歩くようになったという。

 安産祈願という所で犬と神事は結びつく。句の方は「神事見たつる」だから神事ではないが神事を真似てということで、寝ている犬の脇で模造の太刀を持ってきて神事っぽく安産祈願を行ったということか。

 

無季。「神事」は神祇。「わぎもこ」は恋、人倫。

 

十七句目

 

   神事見たつるわぎもこがたち

 饅頭のべにつけちらすはなざかり  半残

 (饅頭のべにつけちらすはなざかり神事見たつるわぎもこがたち)

 

 宮本三郎の註によると、「饅頭→祭」が『類船集』の付け合いなので、これも物付けになる。

 花の定座ということで、前句を花見の余興に取り成したのだろう。天和の頃の、

 

 花に酔へり羽織着て刀さす女   芭蕉

 

の発句もある。この種のコスプレは花見の時にはよくあることだったのか。

 花見というと普通は酒だが女の「わぎもこ」の花見なので饅頭になる。紅で染めた饅頭というと紅白饅頭のようなものか。

 塩瀬総本家のホームページによると、十四世紀に塩瀬の始祖・林淨因が紅白饅頭を作っていたという。

 桜というと桜餅だが、ウィキペディアによると、「南方熊楠によれば、桜餅の知られている出現は天和三年(一六八三年)である。太田南畝の著『一話一言』に登場する京菓子司、桔梗屋の河内大掾が菓子目録に載せたという。」とある。

 餅を桜の葉で包んだものだが、当時の桜の主流は山桜で白かったから、桜餅も今みたいなピンク色ではなかった。長命寺の桜餅は享保二年(一七一七年)だから、この頃はまだなかった。その長命寺の桜餅も白い。桜餅がピンクになったのは染井吉野が広まってからのことだ。

 

季題は「はなざかり」で春。植物、木類。

 

十八句目

 

   饅頭のべにつけちらすはなざかり

 日長きそらに二日酔ざけ     三園

 (饅頭のべにつけちらすはなざかり日長きそらに二日酔ざけ)

 

 前句の花見の饅頭を二日酔いのせいだとする。「もう酒なんて見たくもない」なんて言いながら饅頭食っているのか。それでも次の日になるとまた飲んじゃうのが酒飲みの性(さが)。

 この句の「日長きそら」はいかにも長閑で桜とあいまって目出度い感じなので、本来は半歌仙の挙句だった可能性がある。

 

季題は「日長」で春。

二表

十九句目

 

   日長きそらに二日酔ざけ

 かねかすむ喰さき紙を飛つきて  風麦

 (かねかすむ喰さき紙を飛つきて日長きそらに二日酔ざけ)

 

 「かねかすむ」は遠くから聞こえてくる鐘の音が、春の湿気の多い空気の中を通って来るため、どことなくくぐもって聞こえてくることを言う。『源氏物語』「末摘花」でも、朧月の夜に謎の姫君の七弦琴を聞きに行こうと誘うと、大輔の命婦が「ものの音すむべき夜のさまにも侍らざめるに」と気乗りのしないふうに言う場面がある。昔の人は春と秋で音の伝わり方の違いに敏感だったようだ。

 問題は次の「喰さき紙」だが、ネットで検索すると紙の切り方で、カッターなどで裁断すると切り口の境目がはっきり出てしまうため、紙をあらかじめ湿らせて引き裂くことで切り口を毛羽立ったファジーなものにして、貼った所を目立たなくする技法だということがわかる。

 ここでいう「喰いさき紙」は、はそうやって切断した紙のきれっぱしのことだろう。風で飛んでしまったのだろうか。鐘霞む日長き空に消えてゆく、そんな二日酔いの日、と付く。

 

季題は「かねかすむ」で春。聳物(そびきもの)。

 

二十句目

 

   かねかすむ喰さき紙を飛つきて

 荷ひ夾(まぜ)たる番匠のごき   芭蕉

 (かねかすむ喰さき紙を飛つきて荷ひ夾たる番匠のごき)

 

 「番匠」は「ゑびす講」の巻の第三のところで触れたが、建築現場で大工の下働きをする人。律令時代は建築だけでなく、材木の伐採などに携わる者も含む建築一般に従事する人を指していた。ここでは前者だろう。大工さんの食事を運んだりもしていたか。

 飛んできた喰い裂き紙が背負っている食品の上に落ちて混ざってしまう。芭蕉らしい発想だ。

 軽みの風のようにも見えるが、「鐘」と「番匠」は付け合いなので物付けになる。

 

無季。「番匠」は人倫。

 

二十一句目

 

   荷ひ夾たる番匠のごき

 何事にいそぐめくらのひずむらん  土芳

 (何事にいそぐめくらのひずむらん荷ひ夾たる番匠のごき)

 

 番匠が御器を運ぶのではなく、番匠の御器を運ぶ人物として目の不自由な人を付ける。「ひずむ」は曲がるということ。

 

無季。「めくら」は人倫。

 

二十二句目

 

   何事にいそぐめくらのひずむらん

 かざすあふぎのかなめはしりし   雷洞

 (何事にいそぐめくらのひずむらんかざすあふぎのかなめはしりし)

 

 これも何の事だかさっぱりわからなかったが、「扇 盲人」で検索したら「心で学ぶ人間福祉入門: 実践ワーク」というのが出てきた。

 

 「例えば軍談語りですが、これは盲人と密接な関係にありました。俳諧師の野々口立園の『盲人画卷』には、軍談語りが閉じた扇を突き出し、膝立ちの身を乗り出している法師姿の男として描かれています。その姿は琵琶法師の変身か、その流れを引く盲人たちの‥‥」

 

とあるので、この可能性はある。

 軍談語りは辻講釈と呼ばれる大道芸の一つで、やがて常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。「講釈師見てきたような嘘をつき」と川柳にも詠まれている。明治になってそれが「講談」と呼ばれるようになったという。以上はウィキペディアの「講談」を参照。

 講釈も芭蕉の時代はまだ大道芸で、琵琶法師の流れを汲んでいたため目の不自由な人も多く、それが扇を様々に使って面白おかしく物語をしたのだろう。扇を使うというのは、落語の扇子にも受け継がれている。

 前句の目の不自由な人は大道芸の講釈師で、一体何を急いでひずんでいるのか、と問いかけて扇の要を走らすという落ちに持っていっているのだろう。つまり本当に急いで走ってたのではなく、扇をさっと広げる仕草のことを「走る」というだけのことだったというわけだ。

 

無季。「めくら」は人倫。

 

二十三句目

 

   かざすあふぎのかなめはしりし

 おかしきは鼓の拍子打のべて   風麦

 (おかしきは鼓の拍子打のべてかざすあふぎのかなめはしりし)

 

 これは簡単。かざした扇をさっと開く仕草を講釈師ではなく能の舞いに取り成し、そこは鼓をポンポン打ち鳴らして盛り上がるところだ。

 

無季。

 

二十四句目

 

   おかしきは鼓の拍子打のべて

 気おもに見ゆる脇息(けふそく)のうへ 良品

 (おかしきは鼓の拍子打のべて気おもに見ゆる脇息のうへ)

 

 

 鼓は立って打つ場合でも座って打つ場合でも背筋をピンと伸ばすもので、それがいかにも気だるそうに脇息(肘掛)に肘を突いて叩いていたら、そりゃあおかしいわな。でもそういう人、いそうだ。

 二の懐紙に入ってから、本歌本説の重い句はなく、こういうあるあるネタが続いている。芭蕉も初の懐紙が重くなりすぎたので、このあたりで付け句の方でも「軽み」を試そうとしたのかもしれない。

 

無季。

 

 

二十五句目

 

   気おもに見ゆる脇息のうへ

 かけがねのひとりはづれし夕嵐  三園

 (かけがねのひとりはづれし夕嵐気おもに見ゆる脇息のうへ)

 

 前句に恋の雰囲気を読み取っての付けで、脇息に寄りかかって物憂げに待っていると、門の掛け金がはづれたので、思う人が来たのかと思ったら風のせいだったというところか。

 

無季。

 

二十六句目

 

   かけがねのひとりはづれし夕嵐

 香(かをり)しみたるちんの首たま 木白

 (かけがねのひとりはづれし夕嵐香しみたるちんの首たま)

 

 掛け金が外れたのは狆(ちん)が帰ってきたからとした。猫でも自分でドアを開けたりするように、狆も賢いから自分で掛け金をはずすことを知っているのだろう。

 「首たま」は首輪のこと。浮世絵など見ても狆は布製のひらひらした首輪をつけて描かれている。大奥でも飼われていたし、吉原でも飼われていたという。ひらひらした首輪には香が焚き込んであったりしたのだろう。

 

無季。「狆」は獣類。「首たま」は衣装。

 

二十七句目

 

   香しみたるちんの首たま

 はり道を傘(からかさ)指てひとひつき 良品

 (はり道を傘指てひとひつき香しみたるちんの首たま)

 

 「はり道」は「墾道」と書く開墾された道のことだが万葉時代の言葉で、伊賀の方ではそういう古い言葉が生きていたのか。土芳も十六句目で「わぎもこ」という言葉を使っている。

 「はり道」というと『万葉集』の、

 

 信濃道は今のはり道刈りばねに

    足踏ましむな沓はけ我が背

 

しか思い浮かばないが、他に用例はあるのだろうか。

 古代の駅路は幅六メートルから十二メートルの舗装道路だったが、こうした帰化人などによって担われてきた道路技術は次第に失われ、時代が下って新しく開かれた道は切り払った枝や何かが残っていて靴がなければ歩けなかったのだろう。

 この句では多分そういうこととは関係なく、新しい綺麗な道を粋な唐傘を差して一日過ごす貴人のイメージで詠んだのだろう。前句の首輪に香を炊き込めた狆から、それを連れて歩く人の位で付けている。

 当時唐傘はまだ高級品で、一般に普及するのは江戸中期からだった。

 

無季。「唐傘」は衣装。

 

二十八句目

 

   はり道を傘指てひとひつき

 飯のこわきをこのまれにける    土芳

 (飯のこわきをこのまれにけるはり道を傘指てひとひつき)

 

 前句の「はり道」から古代の旅人に転じたか。だったら飯といえば甑で蒸した強飯だろう。土芳は「判官の烏帽子」の句といい「わぎもこ」の句といい、古代史マニアだったか。

 ここまで無季の軽い句の連続は『炭俵』の「雪の松」の巻の二表を髣髴させる。あるいは、この懐紙自体が元禄三年ではなく、かなり後になって付け足された可能性もある。

 (講釈師、狆の首輪、唐傘などという趣向は、どこか芭蕉の時代にしては新しすぎる感じがしなくもない。「はり道」「飯のこわき」にしても江戸中期以降の国学の影響を受けた感じがしなくもない。一応偽作の可能性も考えておいた方がいいだろう。)

 

無季。

 

二十九句目

 

   飯のこわきをこのまれにける

 月影に燈籠張て泣暮し     三園

 (月影に燈籠張て泣暮し飯のこわきをこのまれにける)

 

 月の定座だが、「燈籠」が出てくるようにこの月は旧暦七月のお盆の月だ。姫飯(釜で炊いた飯)など軟弱なものが食えるか、と言っていた昔かたぎの祖父のことでも思い出して、涙していたのだろう。

 

季題は「月影」で秋。夜分、天象。

 

三十句目

 

   月影に燈籠張て泣暮し

 髪筋よりもほそき秋風    芭蕉

 (月影に燈籠張て泣暮し髪筋よりもほそき秋風)

 

 さて、久しぶりの芭蕉さんの登場だ。特に目新しいものを付けず、前句の泣き暮らす人を女性に取り成し、その髪の毛よりも心細い秋風として、さらっと流している。

 

季題は「秋風」で秋。

二裏

三十一句目

 

   髪筋よりもほそき秋風

 鶴の夢すすきの中にまどろみて  雷洞

 (鶴の夢すすきの中にまどろみて髪筋よりもほそき秋風)

 

 鶴の夢というと鶴の恩返しを連想するが、当時この物語があったのかどうかはわからない。夢から醒めてススキの中というと何か狐に化かされたような感じだ。

 「鶴の恩返し」を検索すると「唐代のものとされる『鶴氅裒(かくしょうほう)』の寓話からきたもの、という一説もある」という一文がかなりの数出てきているが、肝心なその寓話はどこにもなく、裏を取らずに拡散されている感じだ。

 横井見明『源翁和尚と殺生石』が一応その出典らしい。これは国立国会図書館デジタルで読むことができる。儒者の着る鶴氅衣の起源の物語だ。

 ただそこには「昔の唐土のさる田舎に」という物語上の設定は書かれているが、物語自体がいつ成立したのかはわからない。

 そういうわけで「鶴の夢」が鶴の恩返しに関係があるかどうかは不明。単なる吉祥の夢かもしれない。いずれにせよ夢から醒めたらススキの中にいて、現実は「髪筋よりもほそき秋風」だったというわけだ。

 

季題は「すすき」で秋。植物、草類。「鶴」は鳥類。

 

三十二句目

 

   鶴の夢すすきの中にまどろみて

 冬のかがしの弓を失ふ    三園

 (鶴の夢すすきの中にまどろみて冬のかがしの弓を失ふ)

 

 前句を案山子の夢と取り成す。

 ススキの中に立つ案山子が鶴の夢を見て、醒めると薄が原はすっかり冬になり、案山子の持っていた弓がなくなっていた。ちょっと『俳諧次韻』っぽい展開。

 宮本三郎の註には参考として、

 

 道のべにまねく薄にはかられて

     今宵もここに旅寝をやせん

              『夫木抄』

 

の歌を記している。これを本歌として、旅人ではなく案山子の夢としたと思われる。

 (「鶴の恩返し」の趣向、夢落ちなど、江戸後期の創作だとしたらかなり納得がいく。)

 

季題は「冬」で冬。

 

三十三句目

 

   冬のかがしの弓を失ふ

 房は留守仏はうににふすぼりて 木白

 (房は留守仏はうににふすぼりて冬のかがしの弓を失ふ)

 

 「うに」は「雲丹」で泥炭のことだという。芭蕉の貞享五年の句に、

 

   伊賀の城下にうにと云ものあり、わるくさき香なり

 香ににほへうにほる岡の梅のはな   芭蕉

 

の発句がある。

 「ふすぼる」は「くすぶる」のことだと古語辞典にある。

 お寺の坊は留守で、誰もいないお寺のご本尊には付近の泥炭のにおいが染み付いていて、庭の畑の案山子の弓もいつしかなくなっている。「弓を失う」に「うににふすぼる」と響きで付けている。

 

無季。「仏」は釈教。

 

三十四句目

 

   房は留守仏はうににふすぼりて

 けやき碁盤のいたの薄さよ    風麦

 (房は留守仏はうににふすぼりてけやき碁盤のいたの薄さよ)

 

 碁盤には榧(カヤ)、桂、銀杏などが用いられる。欅は碁石を入れる碁笥にはよく用いられるが、碁盤にはあまり用いられない。「いたの薄さよ」というのは卓上碁盤か。留守がちな坊には、そんな立派なものも置いてないということか。

 宮本三郎の註にも、「前句の坊にある粗末な碁盤と見た」とある。

 

無季。

 

三十五句目

 

   けやき碁盤のいたの薄さよ

 老ながら廿日鼠の哀にて    半残

 (老ながら廿日鼠の哀にてけやき碁盤のいたの薄さよ)

 

 ハツカネズミは江戸後期になると趣味で飼われたりもするが、この時代は普通に家の中をちょろちょろ這い回った迷惑な存在だっただろう。欅の碁盤も齧られてしまったのだろう。年寄りの唯一の楽しみが奪われて哀れということか。

 本来なら花の定座で、次は挙げ句になるところだが、なぜかまだ続く。

 (江戸後期の偽作だとしたら、二十日鼠を飼う老人の句になって、こっちの方が自然な感じがする。)

 

無季。「廿日鼠」は獣類。

 

三十六句目

 

   老ながら廿日鼠の哀にて

 石菖(せきしゃう)青くめをさましつつ 良品

 (老ながら廿日鼠の哀にて石菖青くめをさましつつ)

 

 「石菖」はショウブ科の多年草で、葉は細く群生する。初夏に小さな花をつけるので夏の季語になっている。

 宮本三郎の註には「青々とした石菖の葉はよく眼病を治すともいう(和漢三才図会)。」とある。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「臞仙、神隠書に云、石菖蒲一盆を几上に置、夜の間書を視る時、煙を収て目を害するの患なし。」とある。

 あたりをハツカネズミの這い回る家で、老人は石菖の青々したのを盆の上に置いて、行灯の明りで書を読んでいるのだろう。

 

季題は「石菖」で夏。植物、草類。

 

三十七句目

 

   石菖青くめをさましつつ

 着かゆれば染物くさき単物(ひとへもの) 芭蕉

 (着かゆれば染物くさき単物石菖青くめをさましつつ)

 

 前句の「めをさましつつ」を朝起きる意味に取り成して、初夏の衣更えにふさわしく一重の小袖に着替える。今だったら防虫剤の匂いのするところだが、昔は染液の匂いが残ってたりしたか。

 

季題は「単物」で夏。衣装。

 

三十八句目

 

   着かゆれば染物くさき単物

 おくの座敷へ膳すゆる也      土芳

 (着かゆれば染物くさき単物おくの座敷へ膳すゆる也)

 

 単衣を着た人を女中の位と見たか。

 

無季。「座敷」は居所。

 

三十九句目

 

   おくの座敷へ膳すゆる也

 花あればいやしき家にとどめられ  三園

 (花あればいやしき家にとどめられおくの座敷へ膳すゆる也)

 

 「いやしい」といっても奥座敷があるくらいだからそこそこの家だろう。商人の家なら身分的には士農工商だから賤しいといえるかもしれない。

 奥座敷の前に桜の木があるからそこで花見ができるというので、外へ花見に行くこともなく家に閉じ込められている、といったところか。そのうえ給仕までさせられて。

 ここでようやく花の定座となり、次が挙句となる。

 

季題は「花」で春。植物、木類。「家」は居所。

 

挙句

 

   花あればいやしき家にとどめられ

 終に出来たる燕(つばくろ)の土 雷洞

 (花あればいやしき家にとどめられ終に出来たる燕の土)

 

 ツバメは泥と枯れ草で巣を作るが、そのときに泥が下に落ちたりする。

 

 盃に泥な落しそむら燕   芭蕉

 

という貞享の頃の句もある。

 燕も花に惹かれてこの賤しい家に来たのだろうか、巣作りを始め土が落ちている。

 ツバメが巣を作る家は繁栄すると言われていて、この一巻も「終に」目出度く終わる。「終に出来たる燕の土」とは、この一巻も燕が落とす泥のようなものと謙遜の意味を込めているのだろう。

 

季題は「燕」で春。鳥類。

 

 

 「木のもとに」の巻の三つのバージョンの内、『花はさくら』①の方はこれで終わる。

 宮本三郎の註に「『花はさくら』『十丈園筆記』にこの巻の末に『木白あとよりきたりければ、興に乗じて付延し侍る。されど、とり(雞)鐘に筆をとどむ』と付記する。」とあるので、これに従えば、途中からきた木白の句が二十六句目と三十三句目の二句だけで、もっと詠ませてあげたいからということになるが、ただ結局木白の句はこの二句だけで、延長した意味がない。多分後から推測でつけた理由だろう。

 句についても作風についても江戸後期の偽作を疑いたくなる部分がなくもないが、芭蕉の真跡が事実だとしたら、元禄三年よりかなりあとの最晩年のものではないかと思う。