ソクラテスへの道


哲学はギリシャ起源か

 「哲学の営みは、ギリシア人以外の異民族(バルバロイ)の間で起こったといっている人たちがいる。すなわち、ペルシア人たちのところにはマゴス(呪術師)たちがいたし、バビロニア人やアッシリア人たちのところにはカルダイオス(占星術師)たちが、またインド人のところにはギュムノソピステス(裸の行者)たちが、そしてケルト人やガラタイ(ゴール)人たちのところにはドゥリュイデスないしはセムノテオスと呼ばれる人たちがいたのであり、そのことはアリストテレスが『マギコス(マゴスの教え)』のなかで、またソティオンが『哲学者たちの系譜』第二十三巻のなかで述べているとおりだと彼らは言うわけである。さらに彼らは、モコスはフェニキア人、ザモルクシスはトラキア人、アトラスはリュビア人だと言っている。

 なおまたエジプト人たちも、ヘバイストスはナイルの子であって、彼が哲学を始めたのであり、そして神官や予言者たちが哲学の指導者であったとしているからである。」(『ギリシア哲学者列伝(上)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1984、岩波文庫、p.13)


 哲学の元は、ギリシャのみにかぎらず、それまでの世界のいろいろな文明の中にその萌芽があった。

 ディオゲネス・ラエルティオスの生きた2世紀後半から3世紀の同時代人たちには、そう考える人もいた。

 アリストテレスの『マギコス(マゴスの教え)』という書物は今日には残っていないし、それが存在したかどうかは謎である。(なお、「マギコス」は今日のマジックの語源とされている。)

 ただ、実際のところ、エジプトやメソポタミアの高度な古代文明を、古代ギリシャの哲学者たちがまったく学ばなかったということはない。

 タレスも、ピタゴラスもエジプトで学んでいることは、ディオゲネス・ラエルティオスも認めている。

 また、ギリシャ哲学がイオニア(今のトルコ西岸部)やイタリアのようなギリシャの辺縁部、異民族と接する地で起こり、後にアテナイに集約されたことを考えても、哲学は多くの異民族の学問の影響を受けながら形成されていったといってもいいだろう。

 これに対するディオゲネス・ラエルティオスの反論は、実証的ではない。


 「しかしながら、たんに哲学のみならず、人間の種族そのものもギリシア人から始まったものであるのに、これらの著者たちはそのことに気づかないで、ギリシア人の功業をあやまって異民族に帰しているのである。」(『ギリシア哲学者列伝(上)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1984、岩波文庫、p.14)


 「人間の種族」の起源まで持ち出されてしまうと、残念ながらここから先の論拠は神話になってしまう。

 ディオゲネス・ラエルティオスはムゥサイオス(ムーサイオス)とリノスの二人を、哲学の起源として挙げている。

 ムゥサイオスはホメロスやヘシオドスなどとと同様の古い時代の詩人で、ほとんど伝説に属する。5世紀に『ヘーローとレアンドロス』を書いた同名の詩人がいる。


 「事実たとえば、ムゥサイオスはアテナイ人の間で生れたのだし、リノスはテバイ人の間で生れたのである。」(『ギリシア哲学者列伝(上)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1984、岩波文庫、p.14)


 しかし、一方でムゥサイオスはエウモルボスの子だとも言う。『神代地誌』によると、エウモルボスはトラキア軍を率いてアテナイを領したともいうが、これによるとギリシャ人ではなかったことになる。(参考:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/historiai/hekataios3.html、F119)


 「そして前者のムゥサイオスはエウモルボスの子であり、この人が最初に神統記を著し、天球儀を作ったと言われているのである。また彼は、万物は一から生じてふたたびその同じ一へと解体されるのだと主張したとも言われている。」(『ギリシア哲学者列伝(上)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1984、岩波文庫、p.14)


 『神統記』というとヘシオドスのが知られているが、それより前に神代のことを書き表したということか。

 宇宙の始まりが混沌だったという考え方は、中国にもあるし、日本の記紀神話にも見られる。どこが起源であるのかははっきりしないが、ギリシャにも同様の考え方があった。

 同じ一へと解体されるという考え方も、中国にもある。中国の場合、解体されたあと、また別の宇宙が始まり、永遠にくり返されることになる。

 おそらく同じようの神話や世界観はエジプト・メソポタミアなどにもあったと思われ、これだけで哲学はギリシャが最初だというのには無理があるだろう。

 ならば、リノスのほうはどうか。


 「他方リノスは、神ヘルメスとムゥサの女神ウゥニアの子であった(と言われている)。そして彼は、宇宙の誕生、太陽と月の運行、動物や作物の成長に関する詩を作ったが、その詩は次のような句で始まっていたということである。

   すべてのものが同時に生じた、そんな時がかつてあったのだ。」(『ギリシア哲学者列伝(上)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1984、岩波文庫、p.15)


 リノスも両親が神だったというあたりが既に伝説に属する詩人で、宇宙が混沌から生まれたという神話を語っていたと思われる。

 世界中にある創世神話を哲学と呼ぶのであれば、哲学は人類が始まった時からあったと言ってもいいのではないかと思われる。

 しかし、それでも哲学はギリシャから始まった。それは神話でも宗教でもないし科学でもない。それは一言で言えば「議論すること」であり、知識が特定の集団で秘匿されることなく、あくまで公開され、誰もが議論に参加できる、そういう場所を作り出したのはギリシャ人だった。

第一章、ミレトス学派の三賢人

 古代ギリシャの哲学は、バルカン半島南端のいわゆる今日のギリシャで始まったのではない。その発端はエーゲ海の対岸にあるミレトスから始まった。ここは今ではトルコになっている。

 ミレトスはBC15~16世紀にまでさかのぼれる古い港町と言われている。

 マーティン・バナールの『黒いアテナⅡ』(金井和子訳、2005、藤原書店)によれば、ギリシャ人の祖先はBC18世紀ごろエジプトで「ヒクソス」と呼ばれた、今のシリアの方からやってきた二輪戦車に乗ったセム語を話すアジア系の諸民族の一つだったようで、BC15世紀には彼等は「アヒヤワ」と呼ばれ、これが後のアカイア人となったという。

 このアカイア人はBC1470~1370年の時期には、ギリシャのペロポネソス半島北部のミュケナイ(ミケーネ)を中心に地中海貿易を行っていた。ミレトスもその最初の頃から、ミケーネとキプロス島を結ぶ中継地点として栄えたとされている。

 この時代はパックス・アイギプティカと呼ばれる安定した平和な時代で、ミケーネ→エジプト→レヴァント→キプロス→(ミレトス)→ミケーネという、地中海東部を反時計回りする航路で、盛んに貿易が行われていた。

 レヴァントは今で言うシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル、パレスチナのあたりを指す。ここの一部を支配していることから、今日の某テロリスト集団の作った未承認国家のことも、ISIL(イラク・レバントのイスラム国)と呼ばれている。

 この頃のミケーネから出荷される特産物は鉛、銀、陶器など。


 エジプトからは、象牙、カバの歯、黒檀、香辛料、金、亜麻布、木綿、パピルス、小麦、軟膏、ダチョウの羽や卵など。

 レヴァントからは、ガラス、樹脂、香辛料など。

 キプロスからは銅、壺など。

 こうした様々な商品が行きかい、様々な民族が交流する国際都市としてミレトスも栄えたものと思われる。

 こうした国際商業都市では、一種のグローバル化が生じる。人々は異なる宗教、文化、価値観に寛容にならざるをえず、そこから伝統的な因習に縛られない自由な発想が出てくる。

 初期ギリシャの自然学はこの地で発生した。とはいえ、その多くはエジプトやメソポタミアの文明から学んだものだったであろう。

 ただ、専制君主の支配する地域では、優れた知識があったとしても、それらは王家の下に集約され、むしろ秘匿される傾向があったのではないかと思われる。そのため知識の多くは文字として残されることもなく、今となっては推測するしかない。ただ、ピラミッドの建造技術などを見ても、ある程度の幾何学は既に確立されていたと見ることができる。

 哲学がギリシャに始まったというのは、それが一般の下に公開され、文字に残されたという点にある。

 それはおそらく、ギリシャ人こそが始めて「知識」が商品になることを発見したからではなかったかと思われる。

 知識を金で売り買いすると言うのは、プラトンの著作に登場するソクラテスの台詞に、


 「そもそもソフィストとは、ヒッポクラテス、魂の糧食となるものを、商品として卸売りしたり、小売をしたりする者なのではないだろうか。このぼくには、どうも何かそのような者に見えるのだが。」(『プロタゴラス』プラトン、藤沢令夫訳、1988、岩波文庫、p.22)


とあるところから、あたかも悪いことであるかのように思われているが、実は今日のわれわれの社会はほとんどこうした知識の売買によって成り立っている現実を直視すべきであろう。

 何か情報を得るのには本や新聞を買ったりしないだろうか。また知識や技術を得るのに授業料を払って学校に行ったりしてないだろうか。借金で困ったときに司法書士を頼ったり、近隣とのトラブルに弁護士を立てたり、税金対策に税理士を使ったりしないだろうか。それはまぎれもなく知識の売買に他ならない。

 古代ギリシャでは知識は確かに需要があった。民会による直接民主制のもとでは、何か公共事業を行うにしても、あるいは犯罪の事実や無実の証明にも、常に大衆を説得する必要があったことから、科学や道徳や神々のことについても、常に知識は必要だった。そこでいわゆるソフィストたちは、今で言う弁護士の役割を果たしていた。

 ソフィストを批判するのは簡単かもしれないが、ならば今日の社会で学者や弁護士や様々な専門家が果たす役割も否定できるだろうか。

 この世界そのものについて知りたいという欲求は、どんな民族でも持っていただろうし、だからこそ世界中に様々な創世神話がある。また、文明化が始まれば、特定の技術の専門家が現われ、いわゆる学問が生れる。

 これらも「哲学」と呼ぶなら、哲学はギリシャに始まったものではなく、地球上のあらゆる地で自然発生的に生じたと言った方がいい。中国には中国哲学があり、インドにはインド哲学があるように、日本には日本の哲学があり、世界中どこでもその国やその民族の哲学はある。

 実際、古代ギリシャの哲学は、こうした世界中どこにでもある自然学や共感呪術とそれほど変わるものではなかった。

 たとえば、古代ギリシャの四元素と中国の五行説、どっちがすぐれているかは甲乙つけがたい。

 しかし、ギリシャ哲学の伝統はやがて独自の発展を遂げ、今日の科学の基礎を成すに至った。他の哲学とギリシャ哲学がどこから分離したのか、明確な線引きは難しいが、ギリシャ哲学の内部にその分岐点があったのは確かだろう。

 今日の科学の基礎にある、仮説検証の繰り返しは、何も古代ギリシャに始まるものではない。あらゆる技術はそうして作られ、こうした経験的な真実の多くは師匠から弟子へ継承されてきた。ただ、ギリシャのように文字にして公開され、広く市場で売買されることはなかった。

 つまり、今日の科学や哲学の基礎となっているのは実証性ではない。むしろ公開性だと言っていい。知識が公開され、誰もが議論でき、誰もが新たな仮説を提起できるということが、ギリシャ哲学を独自なものたらしめ、それが今日の諸学問の基礎になっている。

 特に宗教との分離の意味は大きい。中国の諸学問は儒教と結びつき、易や陰陽五行のような聖人の道に異を唱えることは難しかった。インド哲学も仏教からの分離がなかった。宗教は教祖様や一握りの聖人たちや神の代理人となる人たちが真理に関する絶対的な権利を持っている。それが知識の誰もが参加できる公開性を奪っている。そこからいち早く脱却したのがギリシャ人だった。

 そのギリシャ哲学の発祥の地がミレトスだった。BC7世紀からペルシャに占領されるまでの最盛期のミレトスでは、三人の有名な自然学者を輩出した。タレス、アナクシマンドロス、アナクシメメス、この三人は後にミレトス学派の三賢人と呼ばれた。

 しかし、BC500年から494年のイオニア反乱はペルシャによって鎮圧され、その後ペルシャの支配するところとなり、その後ミレトスは急速に衰退した。ローマ時代に一時期町は再び繁栄を取り戻したが、ローマの衰退と共に再びこの都市も衰退してゆくこととなった。今日のミレトス遺跡の多くは、このローマ時代のものだという。

一、タレス

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、


 「アポルロドロスがその『年代記』の中で述べているところでは、タレスは第35オリュムピア祭年の最初の年(BC640)に生まれた。そして78歳でその生を終えた。(或はソシクラテスの言うところによれば、90歳。)というのは彼は第58オリュムピア祭年(548~545に死んだといわれるから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.5)


とある。

 BC624~546とする説もあるが、出典はよくわからない。「第35オリュムピア祭年」のところに「Dielsは39の間違いと見ている。」という注釈があるところから、第39オリュムピア年(BC624)の生まれとし、78歳で没したという説に従い、BC546没としたか。つまり、


 アポルロドロス説によれば、BC640~562

 ソシクラテス説によれば、BC640~548くらい

 生年を第39オリュムピア年に修正して辻褄を合わせた説によればBC624~546


ということになる。


 同じくディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、


 「さて、タレスは、ヘロドトスとドゥリスとデモクリトスの言うところによれば、エクサミュアス(Ἐξαμύας)を父とし、クレオブリネを母として生れ、テリダイ族の出であった。この部族はポイニケ人で、カドモスとアゲルノの後裔のうち最も名門であった。‥‥そして彼(アゲノル)がミレトスで市民権を得たのは、ポイニケを追放されたネイレオスと共に、そこへやって来た時であった。だが、大多数の人々の言うところでは、ダレスは生粋のミレトス人であって、光輝ある部族に属していた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.5~6)


とある。また、ヘロドトスによれば、「イオニアの没落する前には、ミレトス人タレス─その祖先はポイニケ人だが」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.6)とあるところから、


 タレスはミレトス出身で、フェニキア(ポイニケ)人のテリダイ族の名門の家系か


ら生まれた。と言われている。


 万物の根源は水である。


 この有名な言葉は、アリストテレスの『形而上学(メタフィジカ)』に由来するもので、そこには、


 「最初に哲学に携わった人々の大多数は、ただ質料(ὕλη)の型に属する原理(ἀρχή)のみが万物の原理であると思った。‥略‥むしろこのような哲学の開祖タレスは水がそれであるといっている。(このゆえに彼はまた大地が水の上に浮いているという意見を持っていた)。(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.6)


とある。

 まあ、ようするに、タレスを初めとする初期の哲学者は形相と質料を区別せず、形相こそが質料に先立つものの本質なのだということに気づかなかったと言いたかったのだろう。

 そして、その理由として、アリストテレスはこう言っている。


 「彼がこのような見解を抱くにいたったのは、おそらく万物の栄養は湿っていること、また熱そのものは湿ったものから生じ、またそれによって維持されるということなどを観察したことからであろう。しかしそれから万物が生じてくるところのそれが万物の原理である。従ってその見解を彼が抱いたのはこのことによってであるが、同時にまた万物の種子(σπέρμα)が湿った本性をもっているということによってである。しかるに水は湿ったものに対してはその本性の原理なのである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.6)


 万物は神々に満ちている。


 この言葉も、アリストテレスの『デ・アニマ(魂について)』 に見られるもので、


 「しかし或る人々は宇宙全体のうちにも魂が混合されていると主張するが、そういう考えからタレスもあそらく万物は神々に満ちていると考えたのだろう。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.7)


とある。

 タレスが日食を予言したというのは、ヘロドトスによる。


 「彼等(アリュアッテスとキュアクサレスは互角の力で戦争をしていたが、第六年目に衝突が起こった時に、戦闘の最中に昼が突如として夜になったことがあった。この昼の変化はミレトス人タレスがイオニア人たちに、この年をそれの起こる範囲として定めて予言したものであったが、事実そのとおりに起こったのである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.7)


 これはBC585年5月28日の日食とされている。「範囲として」とあるから、正確な日時を予言したのではなく、大雑把な時期を予言したのだろうか。

 タレスが数学者であったことは、プロクロスによる。


 「ポイニケ人たちのもとで貿易や取引によって数の精密な知識が初めて起こったように、‥‥またエジプト人たちのもとで測地学(γεωμετρία)が上述の原因によって発見された。そしてタレスがエジプトへ行って初めてこの学問をヘルラスへもたらし、また自分でも多くのものを発見し、また後の人々のために多くのものの基礎をおいた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.7)


 「彼は初めて円が直径によって二等分されることを証明したといわれる。‥‥凡ての二等辺三角形の底角は相等しいと言ったが、しかし『相等しい』をやや古風に『相似る』と呼んだと言われる。‥‥二直線が相交わる時、対角項は相等しいという定理、‥‥これは、エウデモスの言うところによれば、タレスによって初めて発見されたものである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.7~8)


 ただ、本当に最初の発見者だったかどうかは疑問だ。というのも、それ以前にエジプトにはピラミッドを設計したり、そのほか高度な治水工事を行うだけの数学知識があったと思われるからだ。こうした定理はすでにエジプトで発見されていた可能性が高く、タレスはそれをギリシャにもたらしただけかもしれないからだ。

 また、ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』には、


 「ヒエロニュモスは彼がまた、われわれの身体とその影との相等しい時刻を狙って、影からピラミッドの高さを測定した、と言っている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.8)


 このエピソード自体は疑わしい。ただ、もちろん肯定する根拠もなければ否定する根拠もない。

 こうした伝えられるエピソードから浮かび上がるのは、タレスはミレトスというギリシャの植民地の住人だったとはいえ、その学問はフェニキアやエジプトの影響を強く受けたもので、タレスに端を発する初期ギリシャ哲学は、エジプトやメソポタミアの古代文明を継承しつつ、独自に発展させたものだったことがわかる。


参考文献

 『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.5~8

二、アナクシマンドロス

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、


 「アナクシマンドロスはプラクシアデスの息子で、ミレトス人。‥‥そして彼は陸と海との周線を描いた最初の人であった。しかしまた天球儀(σφαἲρα)を作った。また彼は彼の学説の概要を公にしたそしてアポルロドロスはその『年代記』の中で彼が第58オリュムピア祭年の第二年(547/6)に64歳であって、ほどなく歿したと言っている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.8)


 また、1~2世紀頃の学説誌家アエチオスによれば、


 「アナクシマンドロスはミレトスから(ポントスの)アポルロニアに送られた植民団の指導者であった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.8)


という。

 没年がBC547~546に64歳だったことから、生年はBC611年~610年とうことになる。そのため、一般的にはBC610~546頃ということになっている。

 「陸と海との周線を描いた」というのは、陸地の地図を描いたということか。

 アポロルニア(アポロニア)という名のギリシャ植民市はいくつかあるようだが、ポントスが黒海南岸地域を表すことから、今のブルガリアのソゾポルのことと思われる。いつ頃からかわからないが、アナクシマンドロスは故郷ミレトスを離れ、アポロルニアに移住したと思われる。移民団の指導者だったことから、ある程度の歳になってからだろう。


 ト・アペイロン。


 アナクシマンドロスは万物の根源(アルケー、ἀρχή)をタレスが「水」とした(かどうか本当のところはよくわからないが)に対し、無限なるもの(ト・アペイロン、τὸ ἄπειρον)としたとされている。

 5~6世紀のキリキアの新プラトン学派の哲学者、シムプリキオはこう記している。


 「原理は一つで、動いていて、無限であると主張する人々のうち、タレスの後継者であり弟子であった‥‥アナクシマンドロスは無限なるもの(τὸ ἄπειρον)を存在者の原理(ἀρχή或は、始源)であり、要素であると言ったが、この名前を原理の記述に用いた最初の人であった。彼は原理は水でもなく、またその他の要素と呼ばれているものの一つでもなく、むしろ或るそれらとは別の無限な原質(φύσις)であって、それから凡ての天(οὐρανός)とそれのうちにある世界(κόσμος)とが生じてくるという。そして、

 『もろもろの存在者にとってその生成がそれらから来たるところのそれらへ、またその消滅もそれぞれの負目(τὸ χρεών)によって、到る。何故ならそれらの存在者は時の指令に従って、まらた相互にその不正の償いをなすゆえのものゆえ』

という風にやや詩的な言葉でそれを語っている。明らかに、彼は四元素の相互変化を観察して、それらのうちの何か一つのものをではなくて、それらを越えた他の或るものを基体(ὑποκείμενον)とすることを適当と考えたのである。そして彼は生成の行われるのは、要素が質的に変化するからではなく、永遠の運動によって相対立するものが区別し出されるからであるとしている。このゆえにアリストテレスはまた彼をアナクサゴラス一派と一緒に配したのである。‥‥そして相対立するものとは温かきものと冷たきもの、乾けるものと湿れるもの、等々である。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.8~9)


 アナクシマンドロス自身が公にしたという説は、今日では失われてしまっているが、ここでシムプリキオが引用しているものが果たしてその断片なのかどうか、もしそうだとしたら最も貴重な資料となる。

 無限なるもの(ト・アペイロン)という発想は、おそらく数の無限から思いついたものであろう。シムプリキオはアリストテレスの用語である基体(ヒポケイメノン)ということばで、それを解釈している。この言葉は近代哲学では主体あるいは主観と訳されるように、人間の理性の側にある形式という意味に転用されるが、当時は宇宙の側にあるものと考えられていた。

 つまり、宇宙は無限であり、宇宙に果てはなく、始まりも終わりもなく、無限に分割が可能だと考えられていた。近代になってカントは、無限というのは理性の描く幻想であって、宇宙に果てがあるかどうかのような問題は実証することができず、そこに人間の理性の限界があるとした。

 またここではアナクシマンドロスがアルケーという言葉を原理という意味に始めて用いたとされている。アルケーは始原という意味と支配という両方の意味がある言葉で、今日でもアルケオロジー(考古学)のアルケは始原という意味で用いられており、一方でアナーキー(アン・アルケー=無政府状態)の場合は支配という意味で用いられている。古代ギリシャ哲学では、この両方の意味を合わせ持った、根源的であり、なおかつ万物を支配するものという意味でアルケーという言葉が用いられた。

 しかし、無限のものからなぜ有限のものが生じるのか、これは古代ギリシャ哲学にとっての大きなテーマとなる。

 おそらく、アナクシマンドロスは分割ということでそれを解決できると考えていたのであろう。つまり、無限のものの中に線を引っ張り二つに分けると、その引いた線によって限られた二つのものが生じる。こうした対立物として生じたものが有限なものと考え、有限なものは対立物があるゆえに互いにとって不正であり、負い目を持つものであり、最終的には対立は解消され無限に帰らなくてはならないと考えたのであろう。いわば物を分割するというのは宇宙に対して借りを作ることであり、いつかは無限に帰さなけらばならない。人生もまた宇宙から自分を分割しているから、最後は無に帰るというわけなのだろう。

 なお、ここでシムプリキオは「明らかに、彼は四元素の相互変化を観察して」といっているものの、果たしてアナクシマンドロスに四元素説(風、火、地、水を宇宙の根源的な四つの要素とする説で、西洋占星術にも取り入れられている)があったのかどうかは確認できない。四元素説は一世紀後にシチリア島アクラガスのエンペドクレスが唱えたものであり、アリストテレスにも受け継がれているが、それより古い時代にあったかどうかはわからない。

 アリストテレスはこの無限なるものを無限なるもの(ト・アペイロン)がアルケー(始原)であるという説を矛盾したものと考える。無限なるものは始原を持たない。


 「凡てのものは始源(ἀρχή)であるか、或は始源から派生したものである。しかし無限なるものの始源はありえない、何故なら、もしあるとすると、それはそれの限界となろうから。なお、また無限なるものは、何かある始源であるかのように、不生不滅なのである。というのは生成したものは必ず完成(τέλος)をもたなければならず、またすべての消滅には終局(τελευτή)があるから。(しかるに無限なるものには完成も終局もありえない。)それゆえ、我々の言うように、無限なるものの始源はありえない、むしろそれは他のものどもの始源であって、すべてのものを『包括して』(περιέχειν)、すべてのものを『繰る』(κυβερνάν)ように思われる。無限なるもののほかに、例えばヌース(νοῦς、精神)とか愛(φιλία)とか、他のものを原因としない人々の言うように、またそれは神的なるものである。というのはアナクシマンドロスや大多数の自然学者たちが言うように、それは『不死』『不滅』であるからだ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.9)


 また、アリストテレスは無限の物体は存在し得ないし、そこから有限な諸要素が生じることもありえないとした。


 「けれども一つでも単純な無限な物体(σῶμα)というものは、それが或る人々の言うように、諸要素を越えた或るもの(彼らはそれから諸要素が生じてくると言うのだが)であるにせよ、或は諸要素の一つであるにせよ、存在することは出来ない、というのは、これを無限なものとして、空気とか水とかをそうしない人々がいるからであるが、それは諸要素のうちの無限なものによってその他の要素が滅ぼされないためなのである。というのはそれらの諸要素は相互に対立した性質を有しているからである、例えば空気は冷たく、水は湿り、火は熱い、という風に。で、もしこれらのうちの一つが無限だとすれば、すでにその他のものは滅びてしまっていることだろう。そこで無限なるものはこれらの要素とは別のものなのであって、それから諸要素は生じてくる、と彼らは言うのである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.9~10)


 しかし、こうした諸要素の説が、おそらくエンペドクレスの四元素説を念頭に置いたものと思われるが、アナクシマンドロスにあったかどうかはわからない。

 シムプリキオによると、アナクシメネスは世界は無数に存在すると考えていた。これはひょっとしたら平行宇宙説?


 「アナクシマンドロスは生成のために惜しみなく用いることが出来るように、それを無限だとした最初の人である、しかしまた彼は世界は無数だとした。

 世界は無数という意見をもった人々のうちで、アナクシマンドロスは諸世界相互の距離は等しいといった。

 アナクシマンドロスは無数の天(οὐνιμόν)は神々だという意見を述べた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.10)


 アナクシマンドロスは天文学者でもあり、太陽や月や星の生成、食の原因、黄道の傾きなどを考察した。


 「永遠なるものから、冷たきものと温かきものとを生むもの(γόνιμον)がこの世界の生成にあたって分離し、そしてこのものから焔の球が大地を取り巻く空気のまわりに、ちょうど樹皮が樹木の周りに生じるように、生じてきた。それからこの球が破裂して、ある種のいくつかの輪の中に閉じこめられたときに、太陽や月やもろもろの星が生じた、と彼は言う。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.10)


 冷たきものと温かきものが水と火に相当するとすれば、四元素説を先取りしたといえなくもない。だが、偽プルタルコスの雑録の中の記述であるため、後の説が混入して伝えられた可能性もある。

 また、アナクシマンドロスは進化論の予言者でもあった。


 「アナクシマンドロスの語るところでは、最初の動物は湿ったもののうちに刺の多い外皮に包まれて生じたが、歳をとった時に、乾いたものの上にあがってきた。そしてまわりの外皮が裂け落ちて、しばらくの間、今までとは変わった生き方をした。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.11)


 「なお、彼は、初めには人間は他の種類の動物から生まれたと言うが、それは、他の動物どもが直ぐに自分自身の力で食っていくのに、ただ人間だけが長期間の保育を必要とする。それゆえ初めのうちにもこのようなものであったなら、生きのびることは決してなったろう、という考えにもとづいてなのである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.11)


 「アナクシマンドロスの意見によると、人間は魚のうちに生じ、その中でちょうど鮫のように育てられそして充分に自分で自分を助けることができるようになった時、初めてそこから出てきて大地に取りついたのである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.11)


 特に最後の説などは、今日の水生類人猿説を思わせる。


参考文献

 『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.8~11

三、アナクシメネス

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、


 「エウリュストラトスの息子で、ミレトス人アナクシメネスはアナクシマンドロスの弟子であった。‥‥彼は純粋で修飾のないイオニア方言を用いた。そしてアポルロドロスの言うところによれば、サルデイス陥落の頃(546/5)の人で、第63オリュムピア祭年(528~525)に没した。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.11)


とあり、ヒッポリュトスの『全異教徒駁論』によれば、


 「この人は第58オリュムピア祭年の最初の年(548/7)の頃男盛り(40歳)であった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.11)


とある。

 BC585~BC525というはっきりした数字を出している説もあるが、何によるのかはよくわからない。ヒッポリュトスに従い、BC548年ごろ40歳くらいだとすれば、BC588年ごろの生まれということになる。「男盛り」というのはアクメーのことで、この言葉はひところ別の意味で用いられることが多かった、古代ギリシャでは盛年の意味で40歳のことを言う。

 BC585~BC525という説は、あるいはサルデイス陥落の年をアクメー(40歳)とし、第63オリュムピア祭年歿としたものか。


 万物の根源(アルケー、ἀρχή)は気息(πνεῦμα)である。


 1世紀から2世紀頃の学説史家アエテウスの記すところによれば、


 「ミレトスの人アナクシメネスは、存在者の原理が空気である、という意見であった。何故ならこのものから万物は生じ、再びこのものへと解体していくからである。

 『われわれの魂が空気であって、我々を統括している(συγκραεῖ)のように、気息(πνεῦμα)、すなわち空気が世界全体を抱擁している(περιέχει)』

 と彼は言う。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.11)


という。この引用部分はおそらく原典に近いのであろう。

 こうした考え方はどこか中国の「気」の考え方に近い。中国で気の一元論が生れるのは宋の時代のことで、それよりはるかに古い古代ローマ・漢の時代から東西の交流、いわゆるシルクロードがあったから、ひょっとしたら何らかの形で影響したのかもしれない。

 気といっても物理的な気体のことだけではなく、目に見えないものを総称してこう呼ぶ場合、精神や霊魂も「気」に分類される。こうした発想は西洋にも存在したようだ。ただ、中国の気の概念は清代に入るとかなり変容し、今日の気孔術などの気の概念に近い、物質と区別された霊的な概念となる。しかし、宋代の気の概念はそうした特殊なものではなく、むしろ万物が凡て気からなるというところにあった。

 また、人間は呼吸することによって生きていて、呼吸が止まると死ぬということが、気こそが生命の源だという確信につながる。

 それに加えて、物質は気体・液体・固体と変化する。水は氷にもなれば水蒸気にもなる。こうしたことは当然古代ギリシャでも知られていたことで、石が高熱で燃やせば液体になることも、火山の溶岩や青銅の技術から知られていたであろう。そうなると、物質は本来すべて気体であり、それが凝り固まって液体や固体になると考えることができる。

 こうしたことから、気が万物の根源だと考えるのは、自然な発想でもあった。

 偽プルタルコスの雑録には、


 「アナクシメネスは宇宙の原理を空気であり、そしてこのものは量の点では無限であるが、その性質の点では、限定されている。万物はこのもののある種の濃厚化(πύκνωις)と稀薄化(ἀραίωσις)によって生じる。もちろん、運動は永遠より存在する、と言ったという。そして空気が凝縮することによって最初に生じたのは大地であって、これは非常に平たいものだ、と彼は言う。それゆえ、また当然空気の上に乗っている。そして太陽や月やその他の恒星はその生成の原理を土に負っている、と言う。何故なら太陽は土であるが、高速度の運動のために、その土が非常に熱くなって、燃焼するにいたった、というのが彼の意見であるから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.11~12)


とある。

 「濃厚化(πύκνωις)」と「稀薄化(ἀραίωσις)」という考え方は、東洋では気の精粗(麤)と呼ばれるものである。気が凝縮したり拡散したりということを永遠に繰り返すことで、天地は無始無終だとする考え方も、宋代の自然学に類似している。

 大地の生成は、中国では沈殿のイメージで説明されている。泥水を容器に入れておくと、やがて泥が沈んでゆく。それが大地であり、その上の上澄みの水が空気だというわけである。天が高速で運動するという考え方は、中国ではもっと古く、後漢の時代に作られた渾天説の考え方に近い。回転しているがゆえに、遠心力の働きで落ちてこないのである。

 シンプリキオスのアリストテレス『自然学』の注釈にはこうある。


 「アナクシメネスはアナクシマンドロスの仲間であったが、彼自身も、この人と同じように、基体として存する原質(φύσις)を一つにして無限である、と主張している。しかしこの人のように、それを無限定なるもの(ἀόριστον)ではなくて、限定されたものだ、と主張している。というのはそれを空気だと言うのだから、この空気は存在(οὐσία)によって稀薄さと濃厚さの相違がある。そうしてこれは薄くなると、火になるが、濃くなると、風になり、それから雲になり、さらにもっと濃くなると、水になり、その次に、土、またその次に石になって、残りのものはこれらのものから生ずる。さて、この人もまた運動を永遠なりとし、これによって変化も生ずるとなしている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.12)


 アナクシメネスのこの説は、別に師匠のアナクシマンドロスのト・アペイロン(無限のもの)を万物の根源とする説と対立するものと考える必要はない。むしろ、ト・アペイロンの一つの解釈だと考えることもできる。つまり、この宇宙には無限の量の気が存在し、それが凝り固まることによって液体や固体が生じ、大地や様々な天体現象が生じ、さらには生物も生じるとすれば、むしろ気=ト・アペイロンと見ることもできる。ちがうのは気は質的には限定されたものだという点だった。

 ここでも、宋学に近い、宇宙を無始無終とする考え方と、気の精粗によって物質が気→火→風・雲→水→土→石と変化する考え方が示されている。


 冷たいものと熱いもの。


 アナクシマンドロスは、永遠なる者から冷たきものと暖かきものとを生むもの(γόνιμον)が分離したという。これだと、冷たきものと暖かきものは、エンペドクレスの四元素の中の火と水のような独立した元素と取られかねない。そうではなく、アナクシメネスは冷たきものと暖かきものは質的変化ではなく単なる状態の変化と考えていたようだ。

 プルタルコスの『最初の冷たきものについて』にはこうある。


 「昔のアナクシメネスの考えたところによれば、我々は冷たいものをも熱いものをも実体として許容すべきではなく、むしろ変化に伴って起る質量の一般的状態とすべきである。何故なら、彼の述べるところでは、質量の凝縮したものが冷たいものであり、希薄なもの、すなわち『弛緩せるもの(τὸ χαλαρόν)』(こんな風に言葉の上では、それを名づけたのだが)が熱いものであるからである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.12)


 神も気である。


 アエテウスは、


 「アナクシメネスの言うところでは、空気は神である。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.13)


とも記している。

 気は無限なるもので、永遠の気の運動そのものが神だといっていい。そして、人が神々と呼んでいる様々な神格もまた、ここより生じる。ヒッポリュトスの『全異教徒駁論』には、


 「原理は無限な空気であって、それから生成しつつある事物、存在するだろう事物、神々および神的な事物が生じるのであり、残余の事物は空気の子孫から生ずるのである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.12)


と記されている。

 ちなみにわが国の18世紀後半の思想家三浦梅園によるなら、無限なる気は、限定され二つの体に分かれることで物となる。一から二が生じ、そこから四、八、十六と多が生じてゆくわけだが、それによって最初の無限なる一が消滅するのではない。むしろ無限なる一は多様な事物の背後に隠れて作用すると考える。ここに「神」を考えている。この神もまた物質が多様に限定されてゆくように、物質の背後に本神・天神が区別され、そこから造化・天命などが生じるとして、物質的な世界と霊的な世界を平行させている。

 アナクシメネスの学の体系は今日はその大半が失われてしまって、断片を残すのみだが、ひょっとしたら三浦梅園に匹敵するような壮大な体系があったのかもしれない。


 日食・月食の説明。


 二世紀後半のテオンの伝えるところによれば、


 「アナクシメネスは月が太陽から光を受け取ること、またどうして蝕が生ずるかを発見した最初の人である。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.12)


とある。

 蝕というと、タレスは日食を予言したといわれ、日食の時期を計算する方法はそれ以前からあったのだろう。それはおそらくエジプトから伝わる経験に基づく計算式で、日食がなぜ起るかという問題を必ずしも正確に認識しているわけではなかったようだ。

 というのも、アナクシマンドロスは天には呼吸口のような穴がいくつもあって、そこを通るとき天体は現れ、蝕はこの穴がふさがることによって生じると考えていたからだ。


参考文献

 『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.11~14

第二章、イタリア半島へ

 さて、ミレトスで始まったギリシャ哲学は、いきなりアテネに行くことはなかった。ミレトスにほど近いサモス島出身のピタゴラスによってイタリア半島に舞台を移した。

 ピタゴラスもまたエジプトで学び、多くのものを持ち帰った。

 ただ、一般にはあまり知られてないが、ピタゴラスはそれらの知識を利用してカルト教団を組織した。

 ただ、学問はピタゴラス教団の信徒によって書物に書き表され、結果的にはイタリア半島に当時の最先端の科学と数学、論理学を生み出すことになった。

一、ピタゴラス

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、


 「ピュタゴラスは宝石細工師、ムネサルコスの息子で、ヘルミッポスの言うところによれば、サモスの人であり、アリストクセノスの言うところによれば、アテナイ人たちがチュルレノス人たちを追払って占領した島々の一つから出たチュルレノス人である。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.14)


 サモス島はアテネから見るとエーゲ海をはさんだ対岸付近にある、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスのいたミレトスの目と鼻の先にある。

 チュルレノス人というのが、どういう民族なのかはよくわからないが、アテナイ人に追い出されたくらいだから、アテナイ人に対して何かしら反目するところがあったのだろう。

 ピタゴラスは生年没年とも不明で、一般的にはサモス島を去りイタリア半島のクロトンへと渡ったBC532年を盛年(アクメー=40歳)と見て、572年前後の生まれと見られている。ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』には、


 「サラピオンの息子ヘラクレイデスの言うところによれば、ピュタゴラスは80歳で死んだ、しかし大多数の人々の言うところでは、享年90歳であった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.14~15)


とあるから、BC490年代から80年代まで生きたと思われる。

 若い頃にはまだ対岸のミレトスでタレスが健在だったと思われる。アナクシマンドロスはアポロニアに移住した年代がはっきりしないのでわからいが、やはりピタゴラスが若い頃には健在だったと思われる。世代的にはアナクシメネスに近く、一回りくらいしかちがわなかったと思われる。


 ピタゴラスの師匠については、ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』にこういう記述がある。


 「彼はシュロスのペレキュデスに師事したが、彼の死後サモスに帰り、クレオピュロスの子孫で、すでにかなりの歳であったヘルモダマスに師事した。」(『初期ギリ


シア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.14)


 シュロスはエーゲ海に浮かぶ島の一つで、アテナイとサモスの中間ぐらいにある。ペレキュデスは生没年不明。神学者で、ダマスキオスの『第一原理についての疑問と解決』にはこうある。


 「シュロス人のペレキュデスは三つの第一原理としてザスとクロノスとクトニアとが常にあると言い、‥‥クロノスは彼自身の種から火(πῦρ)と大気(πνεῦμα)と水(ὕδωρ)とを作った。‥‥これらのものは五つの深淵(μυχός)のうちに別々にあったのだが、それらのものから神々の多人数な、五つの部に分けられた、従ってペンテミュコスと呼ばれた種族が成立した、と言った。しかしここのペンテミュコスはペンテコズモス(πεντέμυχος)というのと同じ意味で言ったのだろう。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.3)


 よくわからないが、火・気・水といったこの世界の元となるものを、万物の根源(アルケー)として議論するのではなく、あくまで神話の文脈の中で理解しようとしていたようだ。

 このことは後のピタゴラスの思想形成に大きな影を落とすことになったと思われる。ピタゴラスがミレトスの三賢人と違うのは、数学者でありながらも同時に神学者でもあったことだ。科学と神学との共存がピタゴラスを特徴付けるものであり、おそらくこのことが「哲学の祖」とされる一つの理由であろう。

 このあとミレトスのタレスやアナクシマンドロスにも学んだともいわれるが、どこまでが本当かはわからない。エジプトで学んだことは古い証言にもあるが、バビロンまで行ったという説については怪しい。この種の話には尾ひれがつくのが常だし、サモスとミレトスは対岸とはいえ敵国だったから、たとえミレトスの三賢人と面識があったとしても、ライバルだった可能性が大きい。


 エジプト行き。


 プラトンと同時代の哲学者であり弁論代筆屋でもあったイソクラテスは『プリシス』の中でこう書いている。


 「これ(エジプト人の敬虔)に注目したのは私が唯一の人間でも、また最初の人間でもなく、現在だけでなく過去にも多数いて、サモスのピュタゴラスはその一人である。彼はエジプトを訪れて彼らに学び、初めて哲学をギリシアに持ち帰った人であるが、何よりも特徴的なことは、とりわけ聖域で行われる犠牲と浄化の儀式の修行に励んだことである。これによって神々から褒賞は何も下賜されなくとも、少なくとも人間たちの間では、最大の名声が得られると考えたのである。そして事実そのとおりになった。ピュタゴラスの名声は冠絶し、若者はこぞって彼の弟子となることを願い、長上の者は子が家のことを配慮するよりも、ピュタゴラスの謦咳に接することを喜んだという。」(『イソクラテス弁論集2』小池澄夫訳、2002、京都大学学術出版会、p.55~56)


 ピタゴラスというと、今日では数学や音楽理論の功績が評価されているが(これも果たしてピタゴラスの独創かどうかは怪しく、エジプトで学んだものと思われるが)、かつてはむしろエジプト神学のほうで知られていたようだ。特に輪廻転生の説をギリシャに持ち込んだことがよく知られていたようだ。ヘロドトスはこう記している。


 「この説、すなわち人間の魂は不死であって、肉体が滅びた時には、その時々に生れてくる他の動物のうちに入っていく、そして陸の動物、海の動物、空飛ぶ動物の凡てを経めぐると、再び生れてくる人間の身体のうちへ入っていくが、この魂の循行は三千年を要するということを言った最初の人々はエジプト人たちである。この説をギリシア人たちのうちには、さきにも後にも、自分たちの独創のものであるかのように、使用しているものがある。私はその人の名前を知ってはいるが、誌さない。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.15)


これがピタゴラスのことだという。

 もっとも、輪廻転生の説は、我々の世界では仏教の説として知られているもので、中国の『荘子』の「胡蝶の夢」の話でもほのめかされているから、本当のところどこが起源なのかははっきりしない。


 ピタゴラスはエジプトに留学した後、サモス島に帰って来るが、そこはすでにポリュクラテスの軍事独裁体制下にあり、おそらくそこではせっかくエジプトで学んだ知識が役に立たないと見たのか、すぐにイタリア半島のクロトンへ新天地を求め、旅立つことになる。

 ローマのユスティヌスによると、


 「ピュタゴラスは二十年間クロトンで暮らした後、メタポンチオンに移住して、その地で没した。人々の彼に対する讃嘆は彼の家を神殿にしたほどであった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.14)


という。メタポンチオンもイタリア半島の南部にあり、クロトンよりはやや北のほうにある。

 ピタゴラスはクロトンでテアノと結婚し、テラウゲスという息子をもうけたようだが、これもはっきりはしない。ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、


 「ピュタゴラスにはまた妻があった。名前はテアノと言い、クロトンのプロンティノスの娘であった。だが、或る人々はプロンティノスの妻で、ピュタゴラスの弟子であった、という。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波

書店、p.15)


 また、息子についても同じくディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』にこうある。


 「彼等にまたテラウゲスという一人の息子があって、父の後を継ぎ、或る人々によれば、エムペドクレスを指導した。ともかくヒッポポトスは、エムペドクレスがこう言った、と言っている。  『テラウゲス、テアノとピュタゴラスとの名高き息子よ。』」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.15)


 ピタゴラス教団。


 ピタゴラスはこのクロトンの地で、教団を作り、信者たちとの共同生活を始めた。このあたりもミレトスの三賢人とは全く違った生き方をした。ミレトスはアテナイの影響で民主主義的な気風があったのだろう。これに対しサモスの独裁体制化で育ったピタゴラスは、ポリュクラテスの支配に反発をしたものの、結局クロトンでは自分が独裁者になるしかなかった。それ以外のやり方を思いつかなかったのだろう。

 ピタゴラスが最初の哲学者と言われるように、このことは後の「哲学」の歴史にも大きな影を落とすこととなったのではなかったか。ソクラテスはアテナイの民主制を愛し、民衆の裁きに従って死刑を受け入れることで、最後まで民主主義を否定しなかった。しかしその弟子のプラトンはこうしたソクラテスの死に納得できず、民主主義を否定し、哲人独裁の理想を持つに到った。アリストテレスもそれを受け継ぎ、アレクサンドロスの独裁を支持し、奴隷制と侵略戦争を肯定した。

 哲学的真理を持つものによる独裁政治という発想は、その後の哲学史の中で何度も頭をもたげてくる。あるいはハイデッガーのナチス入党もその延長線上のものなのかもしれない。あるいはポルポトに代表される、20世紀の社会主義が生んだ数々の虐殺についても。

 ピタゴラスは、それまでミレトス派が用いていたἀρχή(アルケー:根源)という言葉を、同時にアルケーのもう一つの意味の「支配」に結びつけたのだろう。3世紀から4世紀のイアムブリコスの『ピュタゴラス伝』にこうある。


 「一般にピュタゴラスの徒はこう信じていた。すなわち無支配(ἀναρχία)より大きな禍は何もないと考えなければならない。何故なら人間はもし上に立つものが何もなければ、本来その生を全うし得ないからである、と。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.17)


 無支配(ἀναρχία)つまりアナルキアは今日のアナーキーの語源で、アルケーがないという意味だった。

 そのピタゴラス教団の支配体制というのは、出家信者と在家信者とを区別し、前者に後者を支配させるという、今日のカルト教団にもありがちなスタイルをとった。イアムブリコスの『ピュタゴラス伝』にはこうある。


 「彼は一方の人々をピュタゴラスの徒(Πυθαγόρειοι)と呼び、他方の人々をピュタゴラス主義者(Πυθαγορισταί)と呼んで、‥‥このような風に名前を適当に区別することによって、前の人々を正統の後継者と制定し、後の人々を前の人々の追随者とることが明らかにされるように規定した。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.16)


 そして、出家信者は財産を没収し、すべてを共有財産として、共同生活をさせた。同じく、イアムブリコスの『ピュタゴラス伝』にはこうある。


 「ところでピュタゴラスの徒の方は財産を共有し、共同生活を一生涯にわたって続けるように制定したが、他の人々の方は各自の所有物をもち、同じところに集まってきて、ともどもに学ぶように命じた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.16)


 ピタゴラスのこうした教団は、あるいはピタゴラスオリジナルのものでなく、エジプトのあの有名なツタンカーメン王の兄であるイクナトンの影響を受けたものかもしれない。(参考:http://www.ffortune.net/social/people/world-reimei/tutankhamen.htm)

 あるいは、こうした教団のスタイルは、エレウシスの秘儀(ミュステリア)とも共通するもので、アリストパネスが『雲』という喜劇の中で描いたソクラテス教団もそれを踏襲するものだったのかもしれない。そして、それは今日の多くのカルト教団の元祖となっているのかもしれない。


 テオドロスによると、


 「シュバリス人たちのところでテリュスが民衆指導者になって、有力な市民たちを弾劾し、市民たちのうちの非常に富裕な人々五百人を追放して、彼らの財産を没収するように説得した。追放者たちはクロトンにやってきて、市場の祭壇の下に逃げ込んだので、テリュスはクロトン人たちに使を派して、追放者たちを引き渡すか戦争を受け入れるか、そのいずれかを択べと命じた。そこで民会が召集され、救いを求めて来た人々をシュバリス人たちに引渡すか、それとも自分たちよりも有力な人々に対する戦争を敢えてするかについて討議がなされたが、召集された評議会員も民会員も策に窮したので、最初には大多数の意見は戦争をきらって救援者たちの引渡しに傾いた。しかしその後哲学者のピュタゴラスが救うことを忠告した時、意見は変わって、彼らは救援者を救うために戦争を択んだ。‥‥クロトン人たちは怒りのために一人も捕虜にすることを望まず、逃走中彼等の手中に落ちた者は皆殺しにしたので、その大多数の者が惨殺された。その国を劫略して、これを完全に破壊した。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.17~18)


という事件があったという。

 ここからわかるのは、ピタゴラス教団自体がクロトンを支配していたのではなく、クロトンの民会や評議会は独立して存在していたのだが、教団はその議論をひっくり返すだけの影響力を持っていたということだ。

 ピタゴラスが逃げてきた裕福なシュバリス人を救出する動機は十分にあった。つまり、彼等を信者になることを条件に救出すれば、その財産はみなピタゴラス教団のものとなるからだ。

 逃走するシュバリス人に対し殲滅戦を指揮したのもピタゴラスの命令であった可能性が否定できない。教団にそむくことの恐ろしさを広く他国にも示すことができるからだ。


 ピタゴラスの著書は今日残っていない。


 そもそもピタゴラス自身が書いた書物があるかどうかについて、当初から問題になっていた。おそらくその理由は、イアムブリコスの『ピュタゴラス伝』に記されるこうした事情によるものだろう。


 「その哲学に二種類あった。というのは哲学に携わる人々にも、修行生(διαδοχή)と学問生(μαϑηματικοί)との二種類があったからである。これらの人々のうち、学問生の方は他方の人々からピュタゴラスの徒だと認められていたが、修行生の方を学問生たちはピュタゴラスの徒と認めもせず、また彼等の論文をピュタゴラスのものと認めもせず、ヒッパソスのものだ、とした。このヒッパソスを或る人々はクロトンの人と言うが、或る人々はメタポンチオンの人と言う。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.16)


 つまり、ピタゴラスの学問生の書いたものは、ピタゴラスのものとされていたわけだ。


 ピタゴラスの学問。


 アリストテレスの『自然学』によると、


 「ピュタゴラスの徒たちも、また空虚(κενόν)は存在する、そしてそれは無限な気息(πνεῦμα)から宇宙のうちに入ってくる、宇宙がまた空虚をいわば吸い込むので、そしてその空虚は、あたかもそれが連続しているものの項を何か独立させるもの、区分するもののように、諸本性(φύσεις)を区別する。そしてこのことはまず第一に数においてなされる、何故なら空虚が数の本性を区分するゆえ、と言っている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.23)


 このあたりはミレトス派の自然学を取り入れ、矛盾なく説明しようとしている。宇宙はアナクシマンドロスの言うように、無限なるもの(ト・アペイロン、τὸ ἄπειρον)と考え、そこにアナクシメネスの言うような気息(プネウマ、πνεῦμα)が流れ込んでくるとする。そして、この流れがおのずと分かれて、様々な存在者が区別されることになる。このこと分割が基本的に「数」によってなされるとする。

 ここでも我が国の三浦梅園との共通点が見られる。空虚とは無限定のままの玄なる一元気であり、それが一即一一と自ずと剖析されることによって、様々な気物が区別される。梅園はこの分立の原理を「条理」と呼ぶが、これがピタゴラスの言う「数」に相当すると言っていい。

 ここには、後のアリストテレス以降の西洋哲学のような、数を物理的な存在者と区別して超越的な原理と考える思想はまだなかった。東アジアでも、朱子学は「理」を物理的な存在者としての「気」に対して超越なものと考えたが、ここにはそのような思想はなかった。

 アリストテレスの『形而上学』にはこうある。


 「そしてピュタゴラスの徒たちも数の一つの種類、すなわち数学的種類のものを信じている、ただし彼等は、それは離れてあるものではない、むしろそれから感覚的存在は成立っている、と言っている。何故なら宇宙全体を数から構成しているからである、ただしその数は抽象的単位からなる数ではない、むしろ彼等はそれらの単位が大きさを持つと解している。しかしそうして最初の大きさを持つ一が成立したのか、説明に困っているようである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.21)


 ピタゴラスにおいても三浦梅園においても、数は宇宙に内在しつつ宇宙を構成するものであり、アリストテレスのように形相と質料を区別して、形相の超越性を主張することはなかったようだ。

 近代哲学ではこうした形相の超越性を主観の超越性と解釈したが、主観もまた進化の産物で、物理的な世界の一部ではないかという疑念を完全に振るい払うことはできなかった。

 数を宇宙の外にある超越的存在に帰すことは、やはり無理がある。数を宇宙に内在する原理だと考えることは、今日でも自然な発想だと思われる。そして、そのような、数を含んだ宇宙そのものがどうして誕生したかについては、もちろん今日でも説明できないが、だからといって超越者による創造のような神話的説明で解決できると考えるのもいかがなものか。むしろ、ピタゴラス派の欠点は、自然界に存在する数に、意味論的な解釈を持ち込んでしまったことだった。

 数は、一方では宇宙に内在し、物理的世界を成立させている原理であるとともに、一方では人間の主観の中にあって、物事を正しく説明するいわゆる「理性」の根源となっている。このことは、進化論の立場だと、世界を正確に理解することがこの世界に適応し、生存を有利にし、より多くの子孫を残す結果につながるために進化したと考えられる。

 ピタゴラスの場合、こうした進化の過程はもちろん知るよしもなく、単純に数を宇宙の霊性として捉え、人間に霊性が備わっていることを疑わなかった。ちなみに、三浦梅園は数の生成を縦気によるもの、いわば宇宙の時間性によるものと解釈し、他の動物が横気、つまり空間しか開かれてないのに対し、人間だけが縦気(時間)を認識するからだと考えた。

 アリストテレスの『形而上学』にはこうある。


 「彼等は‥‥この数学の原理は凡ての存在者(τὰ ὄντα)の原理だと考えた。しかし、数学の諸原理のうちでは、数が本性上最初のものである上、また彼等は、数のうちに、火や土や水などのうちによりも一そう多く、存在するものや生成するものどもと類似した点が観察される、と思ったから(数のこれこれの受動相〔πάϑος、属性〕が正義であり、また同様にそのほかのいわば凡ての物がそれぞれ数で言い表せるので)、さらに音階(ἁρμονία)の属性や割合(λόγος、比)も数で言い表されるので、─要するに、このように、他の凡てはその本性がすっかり数に真似て作られており、そしてそれぞれの数は、本性の全体のうちで一番最初のものである、と見えたので、彼等は数の構成要素(στοιχεῖ)を凡ての存在者の構成要素であると考え、また天界全体を音階〔調和〕であり、数であると考えた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.20)


 ピタゴラス律。


 ピタゴラスは最初に12音階を発明したという説があるが、この説は中国の曽侯乙墓から三分損益法に基づいて鋳造された編鐘が出土したことによって覆された。曽侯乙墓が完成したのはBC433年で、ピタゴラスよりはやや後の時代だったが、この頃にはすでに三分損益法に基づく編鐘た作られていたことになる。以前は中国の三分損益法は戦国末期にピタゴラス律が中国に伝わったものだと考えられていた。今日では襄公二十九年(BC544年)で呉の季札が周の舞楽を見聞したころには、すでに三分損益法による十二分律が存在していたと考えられている。もっとも、この三分損益法が中国起源かどうかも定かではない。黄河、長江、インダス、メソポタミア、エジプトのどこかに三分損益法の起源があって、その一部がエジプト経由でピタゴラスに伝わった可能性も否定できない。

 音の共鳴という現象は、おそらく文明の成立以前から経験的に知られていたと思われる。そのため、今日ではどんな未開な民族にも音楽が存在する。

 最初の発見はオクターブの発見だと思われる。そして、それに継いで5度音程の共鳴が発見され、それに長三度、短三度の音程が加われば、単純な音階が成立する。ここまではすべての民族に普遍的に見られる。

 こうした音階が任意の基音に対して三度、五度などの共鳴音を付け加えてゆくいわゆる「相対音程」なのに対し、12音階は12音どれを基音にとってもそこから同じ音階が生れる、いわば自在に移調を可能にする音階で、「絶対音高」の考え方が必要とされる。

 ただし、1オクターブを正確に12等分するには、高度な数学が必要とされる。

 中国の三分損益律は、最初のド(宮)の音を基音にとると、その一オクターブ上の音との間の3分の2をソ(徴)の音とし、ド(宮)とソ(徴)との間をさらに三等分して、ドから数えて三分の一のところをレ(商)とする。さらにレと上のドとの間を三等分してレから数えて三分の二のところをラ(羽)とするという、こういう三分割の作業を繰り返すことで12音階を導き出す方法だった。

 これに比べるとピタゴラス律のほうは、基音とオクターブ上の音との間の三分の二をソとし、三分の二上の音を一オクターブ上のレとし、その三分の二上の音を一オクターブ上のラとするもので、ここまでは、比率的に三分損益法と同じになのだが、どんどん音が上にあがっていってしまうので、実際にはオクターブ下げてやらなくてはならない。

 この作業を繰り返すと、最終的に12回繰り返したときにドの音に戻らない。つまりドとソの間の三分の二(1対1.5)という数値が実際に一オクターブを12等分したときのドとソの比率と若干のずれがあるのである。実際、今の平均率では1対1.5ではなく1対1.4983となっていて、三分の二よりほんのわずか長いため、三等分の作業を繰り返せば繰り返すほどそのずれが増幅されてしまう。そのため、ピタゴラス律では三分の二を上に積み重ねる作業をソ、レ、ラ、ミ、シ、ファ#、ド#と7回繰り返した後、一度基音に戻して下の方向に逆の作業をファ、ラ#、レ#、ソ#と行うことで、精度を高めている。

 もちろん、ピタゴラス律が果たしてピタゴラスの発明なのか、それともエジプトで学んだものなのかはわからない。ただ、中国の三分損益法だと、ドレミソラまでは比較的正確だが、ファの音は大きくずれてしまうが、ピタゴラス律のほうはその欠陥が少なくなっている。

 これは一つの仮説だが、世界中いたるところに見られる、いわゆる「よな抜き」と呼ばれるドレミソラの5音階は、それ以外の音を高い精度で作れなかったことによるのかもしれない。その意味ではピタゴラス律は西洋音楽が「よな抜き」から脱却するのに大きく貢献したのだろう。


参考文献

 『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.14~23

 『特別展 曽侯乙墓』図録、東京国立博物館編、1992、日本経済新聞社、p.46~49

http://homepage3.nifty.com/tora_tora/thedayafter/snail/tune.htm

二、アルクマイオン

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、


 「アルクマイオンはクロトンの人、そして彼はピュタゴラスの弟子であった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.23)


とある。生没年、盛年(アクメー)ともに不明。

 解剖をしたりして、実証的な医学を試みた人と思われる。4世紀の新プラトン派のカルキディオスによると、


 「それゆえ、眼の本性のことが述べられねばならぬ。これについては、多数の他の人々もさることながら、特に熟達した自然学者で、解剖に敢えて手をつけた最初の人、クロトンのアルクマイオンやアリストテレスの弟子カルリステネスやヘロピロスが多くの立派な発見をした。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.23~24)


というように、解剖によって眼の構造を明らかにするのに貢献したようである。

 また、ひょっとしたら脳科学の元祖かもしれない。BC372~288年頃のレズボス島エレソスの生まれで、アリストテレスの門下生だったテオプラトスは、『感覚論』のなかで、こう書いている。


 「彼によれば、凡ての感覚は何らかの仕方で脳と関連を持っている。それゆえにまた、脳が動かされて、その位置を変えると、感覚は麻痺させられる。何故なら感覚がそれを通って生じてくる通路(πόροι)をそれは塞ぐからである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.25)


 プラトンの『パイドン』に、


 「脳が聞く、見る、嗅ぐの感覚を与えるものである。そしてこれらのものから記憶と臆見(δόξα)とが生じ、記憶と臆見とが静止の状態に達すると、それらからその時知識(ἐπιστήμη)が生じてくる。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.25)


とあるのは、このアルクマイオンの説が元になっているのだろう。

 プラトンの『パイドン』のこの一節は、ソクラテス自身が若い頃自然科学に熱中したことを告白し、そのとき学んだ説の一つとして出てくるもので、そのあと「遂に僕は、自分がこういう研究に生まれつきまったく才能がない、ということに思い至ったのだ。」(『パイドン』プラトン著、岩田靖夫訳、1998、岩波文庫、p.121)と続く。

 このあと、プラトンのこの著作の中のソクラテスは、ある人からアナクサゴラスの書物を読み聞かせてもらったことも記しており、これがディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』にあるアルケラオスがソクラテスの師だったという噂に結びついているのだろう。アルケラオスはアナクサゴラスの弟子だった。ソクラテスがアルケラオス経由でアナクサゴラスの自然学を学んだ可能性は十分ある。

 アリストパネスの喜劇『雲』で描かれたソクラテスが、まだ40代のソクラテスの姿だったことを考えると、あれが自然科学に熱中していた頃のソクラテスの姿を反映している可能性も否定できない。

 ただし、アルクマイオンも近くが脳の作用だとは考えたが、霊魂はそれとは別に不滅のものと考えていたようだ。アリストテレスの『霊魂論』には、


 「彼は言う、魂は不死なるものどもに似ているがゆえに、不死である。そして魂がそうであるのは、それが常に動いているからである。何故ならまた凡ての神的なもの、すなわち、月、太陽、諸星、天全体も継続的に常に動いているからである、と。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.25)


とある。霊魂の不滅を前提にしながら、感覚による知覚は脳の作用によるもので、他の動物にも見られるものとし、人間だけが不死の魂の作用によって「理解」するものと考えたものと思われる。テオプラトスは、『感覚論』にはこうある。


 「人間が他のものどもから異なっているのは、ただ彼のみが理解するのに、他のものどもは知覚はするが、理解はしないという点においてである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.24)


 そして、この理解については、結局人間のそれは推測にすぎないことも述べていたようだ。カルキディオスによると、アルクマイオンは、


 「可死的なるものについてと同様、眼に見えぬものについて神々は確実性を持っている。然るに人間としての我々に許されているのは、ただ推測することだけである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.24)


と言っていたという。


 ピタゴラス派の人たちは、世界には10の対立項が存在すると考えていた。有限と無限、奇数と偶数、一と多などがそれだった。

 これに対して、アルクマイオンは無限の対立項があると考えていたようだ。このことはアリストテレスの『形而上学』に記されている。この考え方は我が国の三浦梅園の反観合一の説を髣髴させて面白い。

 アルクマイオンは病気もまたこの対立項のバランスの崩れから来ると考えていたようだ。1世紀から2世紀のアエチオスはこう記している。


 「アルクマイオンによれば、諸力(δυνάμεις)、すなわち、湿れるものと乾けるもの、冷たきものと温かきもの、辛きものと甘きもの等々の同権(ἰσονομία)は健康を保持するものであるが、しかしこれらのものにおける独裁(μοναρχία)は病気を作り出すものである。何故なら、両者のうちの一方の独裁が破滅をもたらすものだからである。そして病気が起きるのは、何かによってかと言うに、温さ或は冷さの過剰によってであり、何からかと言うに、栄養の多量或は欠乏からであり、また何においてかと言うに、血或は骨髄、或は脳においてである。しかしこれらのうちにはまた外部の原因から、すなわち或る性質の水や土地や骨折りや責苦やそのようなものどもから起ることもある。しかし健康は諸性質の均斉を得た混合である。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.24~25)


 対立項が均衡を保つことを同権と呼び、均衡が崩れて一方が極端に優勢になることを独裁と呼ぶ、この権力の比喩は、アルケー(根源)が支配というもう一つの意味を持つところから来たものか。これによると、独裁政治もまた一つの病気であり、民主政治こそが健康な社会だということにもなるだろう。この点でも、アルクマイオンは師匠のピタゴラスやその追随者とはちがっていたようだ。


参考文献

 『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.23~25

第三章、ヘラクレイトス

 ミレトスの三賢人の後、それよりやや北に位置するエペソス(エフェソス)に、ヘラクレイトスは生まれる。やはり今ではトルコとなっているところで、この時期のギリシャ哲学はギリシャとは対岸のトルコとイタリアで独自に発展していたことになる。

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、


 「ブロソンの息子ヘラクレイトス‥‥はエペソスの人。この人は第69オリュムピア祭年(504~501)の頃男盛りであった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.30)


とある。

 「男盛り」というのはアクメーのことで、古代ギリシャでは盛年の意味で40歳のことを言う。このことから BC540年頃の生まれとされている。

 同じディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』に「60歳で彼はその生涯を終えた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.30)とあることから、BC480年頃の没とされている。

 ピタゴラスやクセノパネスに比べると30くらい下になる。パルメニデスと同世代。

 エフェソスはタレス等のいたミレトスとクセノパネスのいたコロポンの間にあり、ピタゴラスの生まれ育ったサモス島も目と鼻の先だ。ミレトスと同様、BC1470~1370年のパックス・アイギプティカの時代からミケーネとキプロス島を結ぶ貿易路の中継地点として栄えたと思われる。

 ヘラクレイトスの育った時代も、国際貿易都市として、様々な民族が集まり、栄えていたものと思われるが、やがてペルシャの支配下に入る。

 十世紀に編纂された『スイダイ』というギリシャの百科辞典には、「彼は『闇の人』という綽名をつけられた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.30)とある。訳し方の問題だろうが、一般には「暗い人」「泣く人」で通っている。鬱病だったのか、あるいは苛めや虐待を受けた経験があったのだろう。

 西暦0年前後を生きたストラボンや3世紀のディオゲネス・ラエルチオスが伝えるところによると、ヘラクレイトスはこう言ったという。


 「エペソスの人間なんて、もう成年に達している者は、みんな首をくくって死んだ方がいい。そして後の国家は未成年者の手にのこしたらいいだろう。ヘルモドロスのような、自分たちのうちで一番有用な人物を、われわれのうちには一番有用な人などは一人も要らない、そんな者がいるなら、よそへ行って、よその人間と暮したらよい、と言って追い出すようなことをしたのだから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.30)


 ヘルモドロスがどういう人間なのかはわかっていない。ヘラクレイトスの友達だったとする説が多いが、ヘラクレイトスに友達がいたかどうかもよくわからない。この言葉はエフェソスがペルシャに占領される前のものだろうから、少なくとも40よりは前の若い頃のものだろう。しかも、自分がすでに成年だったのなら、この言葉は自分に跳ね返ってきてしまうから、ヘラクレイトス自身もまだ未成年だったか。

 おそらくはひそかに尊敬していた一人の政治家が、いかにもありがちな「出る杭は打たれる」というわけで追放されてしまったことで、人間社会そのものに怒りを覚えたのだろう。この言葉に、当時13歳だった螢の銀座小劇場での、


 「みんな死んでしまえばいいのに。

 帰る場所は死。誰が決めたの。人間がいちばん醜い。雨女。寒さを避けて。記憶の箱が襲ってくる。私を殺したいんでしょ。空耳ばかり。何も見えない。風が吹く。何も聞こえない。夢は叶うと思ってた。ゴミ箱を漁るカラス。水の中の嵐。外が見えない。ムダな人数。なんでこんなに生きてるの。真っ暗な闇。早く死ねばいいのに。みんな死んでちょうだい。早く死んで欲しい。悲しんでるの。喜んでるの。何を考えてるの。ココロはあるの。生きてるの。血は通ってるの。本当はあなたは人間なの。人間だけが自殺騒ぎ。

 はやく死んでほしい。……おしまい。」(『Quick Japan』Vol. 29、2000年2月号より 取材・文=上田ユージ)


という言葉を連想するのは、多分私だけだろう。

 おそらく、ペルシャ占領以前のエフェソスでは、ヘラクレイトスは常に孤立し、煙たがられ、苛めを受けていたのだろう。むしろペルシャに占領されることによって、町の有力者の多くは国外へ退去し、残ったものの中では一番有能な人ということで、逆にヘラクレイトスは町の人から持ち上げられるようになったのかもしれない。ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』はこういうエピソードを伝える。


 「そして彼は彼等〔エペソス人たち〕から法律の制定を求められたが、その国がすでに悪い国政によって征服されていたため、その要求を軽蔑した。それからアルテミス神殿へ退いて、子供たちと一緒に骸子遊びをしていた。すると、エペソスの人々が彼のまわりに立ったので、『この悪者たち奴、何でたまげているんだ。君等と一緒に政治に与るより、こんなことをする方がましじゃないか』と言った。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.30)


 アルテミス神殿は今でもエフェソスの名所だが、神殿は人の住むところではなく公共の場所なので、そこでホームレスをやっていたのか。骸子遊びというのはおそらくバックギャモンの前身にあたるゲームだろう。古代エジプトのゲームで、ギリシャ・ローマでも大流行した。奈良時代には日本にも伝わり「双六」と呼ばれ、鳥獣人物戯画でもゲームボードを担ぐ猿の姿が描かれている。

 ギリシャとペルシャとの間にペルシャ戦争が始まってもエフェソスの市民はペルシャの軍事力を恐れ、蜂起しなかったという。しかし、戦争はギリシャが勝ち、BC480年頃、つまりヘラクレイトスの死の直前にはエフェソスも開放されることになる。これはその死の直前のヘラクレイトスの姿かもしれない。

 ピタゴラスやクセノパネスが早々に新天地を求めてイタリアの方へ去っていったのに対し、ヘラクレイトスは機を逸したか、ペルシャ占領下のエフェソスにとどまった。そのため、ヘラクレイトスの学問も、師の元で学ぶのではなく、もっぱら書物相手の独学だったと思われる。


 「自分自身を探求して、凡てのことを自分自身から学んだ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.30)


という、『ギリシャ哲学者列伝』の伝える言葉は、単に性格的な問題だけではなかったと思われる。


 ヘラクレイトスには『自然について』という著書があったとされているが、この書は現存しない。ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によると、


 「彼のものとして伝えられる書物は、その主題から見れば、“自然について”であるが、しかし三つの論、すなわち、宇宙についての論と政治の論と神学の論とに分かたれている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.31)


 万物流転。


 「万物流転(Παντα ρει)」という言葉は有名だが、これは後から作られた言葉だと言われている。ただ、「同じ川には二度とは入れない」という比喩は有名だったのか、複数の書物によって伝えられている。プラトンの『クラチュロス』のものがよく知られている。


 「ヘラクレイトスはどこかで、万物は動いていて、何ものも止まってはいない、と言い、また有るものどもを河の流れになぞらえて、君は二度と同じ河へは入れないだろう、と言っている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.32)


 こうした河の比喩は日本人としてはすぐに鴨長明の『方丈記』の冒頭の、


 「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し。」


が思い浮かぶようで、しばしばヘラクレイトスを仏教の諸行無常に通じるものとして


紹介されたりもする。たしかに、鴨長明が源平合戦に荒れた都に無常を感じたように、ヘラクレイトスもまたペルシャに占領されて荒廃したエフェソスの町に無常を感じたのかもしれない。

 ヘラクレイトスのこの言葉は、単に現象として、目の前のものが変化してやまないということを意味するとともに、同時に変化には法則があるということを説いている。それを火、水、土の三元素の相生じ・相克として捉えたという点では、中国の『易』にも通じるものがある。易というのは変化の意味で、易経は英語ではThe Book of  Chengesと訳されている。

 ヘラクレイトスに「空気」という元素の考えがあったかどうかは定かではない。火、水、土に気を加えて四元素としたのは、もう少し後のエンペドクレスによるもので、ヘラクレイトスにはなかったものと思われる。

 火、水、土の三元素のなかでも中心となるものは火だった。二世紀から三世紀のクレメンスの『雑録』にこうある。


 「この世界(κόσμος)は、神にせよ人にせよ、これは誰が作ったものでもない、むしろそれは永遠に生きる火として、きまっただけ(μέτρα)燃え、きまったっだけ消えながら、常にあったし、あるし、またあるだろう。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.33)


 「火の転化、先ず海、次に海の半分は土、その半分は雷光、‥‥土は溶ければ海、そして計れば、以前がそれが土となる前にあったと同じ割合(λόγος)になる。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.33)


 この割合(λόγος、ロゴス)という言葉は多義的であり、今日ではロゴスは言葉だとか論理だとか学だとかいう意味で用いられる。バイオロジーだとかサイコロジーだとかリフレクソロジーだとか、末尾にロジーとつくのは、ギリシャ語のロゴスから来ている。

 この説によると、万物は火であり、火が分かれて土と水になる。そして、その比率を決めるのがロゴスだということになる。それは火の配分の論理なのである。プルタルコスの『追放論』には、


 「万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である、あたかも品物が黄金の、黄金が品物のそれであるように。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.33)


とある。ものに値段がつくように、ものには火による土と水の配分の値があるといってもいいだろう。

 万物流転とは、こうした火の論理のもとに土と水の比率が絶えず変化してやまないことを言うのだろう。火は今日では急激な酸化反応とされているが、古代の人にとって、なぜ物が燃えるかは理解困難なものであり、ひとたび燃えてしまえばすべてのものが跡形もなく灰になるところから、非可逆的な変化のシンボルとなってもおかしくはない。

 万物流転、諸行無常、生あるものは必ず死に、形あるものは必ず壊れる。ヘラクレイトスにとって、こうした変化を引き起こすものが火だった。そして、この宇宙は火の論理が支配していると考えた。火の崇拝の背後には、あるいはゾロアスター教の影響があったのかもしれない。

 我々の文化だと、万物流転、諸行無常、生あるものは必ず死に、形あるものは必ず壊れるという考え方は、目の前の厳然たる事実として理解されることが多い。これに対して、西洋的な考え方というのは、むしろこうした現象の背後に常に、それを引き起こしている法則をつまり論理(ロゴス)を求める。諸行無常は単なる事実ではなく、むしろ万物が諸行無常という原理によって与えられている(存在している)と考える。

 たとえば、ハイデッガーはヘラクレイトスの万物流転の「万物」を重視して、すべての存在者が変化してやまぬ時間の中に存在するとして、存在一般を時間性として解


釈したと見る。つまり、存在者が存在するのはその存在者が時間性において存在する


からだというのである。

 実際、我々がなぜ非可逆的で止まることのない時間を認識できるのかは、未だに謎だといっていいのかもしれない。なぜそれを認識した瞬間は流れ去らないで、止まることができるのか。時間を認識するということ自体が、すでに時間を止めているのではないか。これは時間認識の古くからのパラドックスである。

 ハイデッガーは、ヘラクレイトスは「暗い人」ではなくて、実は「明るい人」だったというが、これはあくまでも存在論的な意味で、存在の真理に明るかったという意味で、我々が普通に言う意味での「明るい人」ではない。

 むしろヘラクレイトスの暗さに価値があるとしたら、それは人間の心の闇を初めて哲学の思索の課題としたことだろう。

 心の闇というのは他でもない。人間が生存競争の掟の例外ではないところから来ている。

 生存競争というのは、ともすると生物の種と種の競争のイメージがあるが、実際は有限な地球上で等比数列的に(鼠算式に)人口が増えることによって生じるもので、人口調節のために仲間同士で争い、誰かを排除するための戦いなのである。

 たとえば、ライオンはシマウマを食い尽くすほどに増えることはない。それ以前にライオン同士の縄張り争いで一定以上増えることができなくなるからだ。同様に、シマウマもシマウマ同士の間で生存競争があり、群からはぐれたものがライオンの餌食になるにすぎない。

 人間も40億年にわたる生存競争の勝者の子孫であり、何ら例外ではない。有史以前から人間は苛めや差別・迫害・戦争をする動物で、それは今日でも何も変わってはいない。もちろん古代ギリシャも絶えず戦争の歴史だったし、当然のように苛めはあった。

 ヘラクレイトスの暗さとは、こうした現実の直視から来る暗さで、それが単純に愛や理性の力で簡単に克服されるものではないことを知っていた。むしろ愛があり、愛する人を守ろうとするからこそ、人は愛する人の敵に対してどこまでも残虐になることができる。しかし、なぜ敵が生れるのか。それは有限な地球上に無限に人が増えてゆくことができないから仕方ないのだ。人は自分が排除されないために人を排除する。


 「戦いは共通なものであり、常道は争いであり、すべてのものは争いと負い目(χρεών)とに従って生ずるということを知らなければならぬ。」

 「戦いは万物の父であり、万物の王である、そしてそれは或るものたちを神として、或るものたちを人間として示す、また或るものたちを奴隷とし、或るものたちを自由人とする。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.33)


 こうした断片もまた、現実の直視から生れるもので、安易なヒューマニズムに陥ることがない。それが、今やっているこの闘いに勝さえすればすべての平和を手に入れることができると信じるお目出度い人間からすれば、希望も何もない「暗い人」に見えるのであろう。

 ただ、救いがあるとすれば、それは「負い目(χρεών)」だ。人は生きるために、他人を殺して生きようとする。自分や自分の子供を守るためには、犯罪者に死刑を言い渡し、怪しからぬ国には宣戦布告をする。あるいは間接的にどこかの国の軍隊をサポートするにしても、それは同じことだ。

 しかし、人は結局そうした行為が人類を終わりのない報復合戦に導くことを認識することもできる。自分が生きることは誰かを犠牲にすることで、そこには負債が生じる。他人の生の分を奪い取ることは、同時に他人の生を借り受けることであり、他人の生の分まで生きねばならないという返済義務が生じる。これが「負い目(χρεών)」であり、良心の声となる。

 ハイデッガーはこの良心の声をやや抽象的に解釈しすぎている。確かに我々が生存すること(Existenz)は存在が与えられていることであり、与えられたことに対し返済の義務としての良心が生じる。しかし、ハイデガーはそれが生存競争によるものだということを見ずに、抽象的な民族・共同体のロゴスへの服従として捉えた。それがヘラクレイトスとの大きな違いであり、ナチスに心を動かされる原因となったといってもいい。ヘラクレイトスの「ロゴス」はあくまでこの世界が戦争であることを指すものだった。

 ヘラクレイトスにとって、世界は非可逆的な燃焼の作用に象徴される、すべてのものがやがて滅び行く時間的な世界であり、それが水と土とのバランスをとっている。水が不足し土が優勢になれば、その反動として負い目が生じ、水が優勢になれば人は好戦的になる。それがロゴスなのである。


 「魂にとって、湿ったものになることは快、もしくは死である。」

 「大人も酒に酔えば、年端もいかぬ子供に、よろめきながら、どちらへ行くかもわからず、導かれる、その魂が湿っているからだ。」

 「乾いた魂はこの上なく智で、この上なく優れている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.35)


 こうした断片は、本当の智が乾いたものであり、生存競争に対する負い目であることを示している。いわば生存競争に対する目覚めた意識に他ならない。

 おそらくヘラクレイトスは、ペルシャと闘おうなんて気はこれっぽっちもなかったのだろう。生存競争に憂き身を費やすよりは、子供とバックギャモンをして遊んでいる方がはるかにましなことだった。遊びの世界にはギリシャ人もペルシャ人もない。この認識に行き着いたという点では、ヘラクレイトスは今日の大衆文化の父といってもいいのだろう。


参考文献

 『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.30~37

付論、マルチン・ハイデッガー『ロゴス』解説

 ハイデッガーの『ロゴス』というこの論文は、ヘラクレイトスの断片50と呼ばれるものについての解釈である。
 その断片50とは以下のものをいう。


 oὐκ ἐμοῦ ἀλλὰ τοῦ Λόγου ὰκούσαντας
 όμολογεῖν σοφόν ἐστιν Ἓν Πάντα.


 ハイデッガーが一般的なドイツ語訳として引用しているスネル訳の、宇都宮芳明訳の日本語では、

 おまえたちが、私にではなく、理義ジン〔ロゴス〕に聞いて、
 同じ理義〔ロゴス〕で、〈全ては一である〉と言うのが賢いことだ。
  (『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.6)


となる。
 ちなみに、訳編山本光雄の『初期ギリシア哲学者断片集』では、

 「私にではなくて、ロゴスに聞いて、万物が一つであるということを認めるのが、智というものだ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.32)

となっている。出典はヒッポリュトス(169頃~235)の『全異教徒駁論』。

 たったこれだけの断片から、ギリシャ語の語源にまでさかのぼって、明示されていない細かいニュアンスまでも再現しようというのが、ハイデッガーのこの論文での試みだ。


一、ロゴス(λόγος)


 ハイデッガーはこう言う。


 「λόγοςがなんであるかを、われわれは、λέγεινから推測する。λέγεινとはなにか。言葉に通じている人はだれでも、λέγεινが言ったり述べたりすることを意味し、またλόγοςが言い表すこととしてのλέγεινと、言い表されたものとしてのλεγόμενονとを意味する、ということを知っている。
 ギリシャ語で古くからλέγεινが、述べる、言う、物語る、を意味していることを、だれが否定しようとするであろうか。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.7~8)


 しかし、ハイデッガーはロゴスの動詞形のレゲイン(λέγειν)を、ドイツ語のlegen、つまり〈下に=そして前におくこと:nieder und vorlegen〉に結び付けて考える。ギリシャ語とドイツ語とでは系統がちがうのだが、この二つの語は単なる偶然の音の一致ではなく、ラテン語のレゲレ(legere)を経由して、結びついているものだという。
 ラテン語のレゲレ(legere)は、取りまとめる、取り集めるという意味で、そこからギリシャ語のレゲイン(λέγειν)も、本来は、自他を集約しながら下に、そして前におくことを意味すると、ハイデッガーは推測する。
 そして、その根拠として、レゲスタイλέγεσθαιが「安らぎのうちへと自分を下に置く(横になる)ことを意味し、それがλεχος(寝台)にも通じるとする。ハイデッガーによれば、レクソス(寝台)は隠れ場所であり、そこにあるものが取って置かれたり、そこから何かが狙われたりするという意味だという。
 そこから、レゲイン(λέγειν)の本来の意味として明らかにされるのは、まずそれは「置くこと」であり、現前するものを集積し、保存し、管理する、支配するということとなり、それが言葉で言い表すことの本当の意義だというのである。


 「λέγεινは置くことである。置くこととは、一緒に現前するものを自らのうちに収集して前に横たわらせることである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.12~13)


 これは存在論的には現前するものが現前することそのものであり、存在するものが存在するそのものだということになる。

 しかし、ここに一つの飛躍がないだろうか?つまり、現前するものが単に現前するのではなく、そこに、人が各自それを「集積し、保存し、管理する、支配する」という属性を付け加えていないだろうか。
 つまり、ハイデッガーの存在理解は、存在そのものを単にあるがままにというのではなく、それを各自集積し、保存し、管理し、支配しようとする、いわば欲望の下に存在していることになりはしないか。
 確かに、生物学的に、なぜ我々が存在を感じるように進化したか、存在の生き生きとしたクオリアは何のために知覚されるようになったのかを考えるとき、それが利己的な遺伝子の存続、つまり生存したり子孫を残したりするのに有用な情報を、集積し、保存し、管理し、支配するためには、その財産目録を目の前に一同の下に表示できる方が有利になる。
 つまり、我々が今見ている目の前に有るものは全て、生存し、子孫を残すことに有利になるような情報の一覧であり、そうでないものは表示されていない。たとえば赤外線や紫外線は、長いこと生存に無関係だったので、目には映らないし、超音波も聞こえなければ、地電流を感じることもない。
 しかし、一体どうすれば、入力された様々な情報を「同時的なもの」として、一つの「空間」として一覧表示することが可能なのであろうか。それがまさになぜ人が世界を意識できるのかという難問中の難問なのである。
 しかし一方で、こうした存在の取り置きが純粋な理性によるものでなく、あくまで肉体的な欲望に応じて進化してきたものだとしたら、そして、それを哲学の名において特権化するなら、いわば様々な建前やきれいごとの下に覆われてしまうなら‥‥。
 まさにそれが、(ハイデッガー自身も加担した)20世紀に起きた最大の悲劇ではなかったか。


二、聞く


 言うということが、存在するものを取り置くことであるなら、聞くということは必然的にそれを受け取り、共有することを言う。それは各自がそれぞれ自分用の存在者を取り置きするのではなく、他人の取り置き分を受入れる、つまり他人の取り置きを押し付けられそれを受入れ、服従することを言う。日本語でも「言うことを聞く」というのは服従するという意味だ。
 そのため、聞くというのは耳の快さとは無関係で、むしろ耳に痛いものとなる。


 「われわれが聴き知っているのは、語りかけられたものにわれわれが聴従するときである。語りかけられたものの語ることはλέγεινであり、一緒に前に横たわらせることである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.19)


 そこで、ヘラクレイトス断片50のόμολογεῖν(同じ理義で)につながる。


 「本来の聴くことは、όμολογεῖνとしてのλέγεινのうちで現成する。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.19)


 たとえば、コイサン人(ブッシュマン)の社会では、しばしば複数の人間の同時発話が起こるという。人が何かを喋っているときに、同時にそれにかぶせて別の話題を喋っていても、特に誰もとがめることはないし、それで普通にスムーズに会話が進行するという。
 我々の社会でも、教壇の上で誰かが講義をしている前で、それぞれおしゃべりに興じるという状態があるが、それは一般的には失礼なこととされている。それはその場所で当然語るべき人というのがいて、それに対し、不特定多数の喋るべきではない人々と区別されているからである。つまり、そこに明らかに服従すべき人というのが存在するわけである。
 服従が義務でないなら、人は誰が喋っていようと自分も喋る権利があると思う。たとえば、街頭で一国の首相が演説していたとしても、動員された支持者でないなら拝聴する義務はない。お喋りしながら通りすぎても誰もとがめることはない。同じように、テレビやラジオが流れていて、そこで誰かが喋っていても、ほとんどの人は気にかけずにおしゃべりを続ける。
 つまり、同時発話は、聞く義務がなく、つまり話すものと聞くものとの間に服従関係が存在しない場合には、いつでも発生する可能性がある。コイサン人のような完全平等社会では、誰も他人の発話に関して黙って聞く義務というのは存在せず、自然に同時発話になる。
 そして、同時通訳を見ればわかるように、人間は聞きながら同時にしゃべるということもできる。だから、同時に喋っているからといって、必ずしも相手の話を聞いてないわけではない。我々がお喋りに興じながらも、テレビの音が耳に入っていることを考えれば、それほど不思議なことではない。


三、私にではなく


 しかし、ヘラクレイトスは、決して私の言うことを聴けとは言っていない。
 最初にはっきりとoὐκ ἐμοῦ(私にではなく)と断っている。
 真に聴くということは、われわれの目の前にある我々が共有する「取り置かれたもの」、つまりロゴス(λόγος)に聴くことであり、特定の個人の言うことを聴くことではない。
 これをハイデッガーは、人の耳に心地よい「決まり文句(ledensalt)」つまりことわざや格言の類ではなく、という点を強調する。
 確かにドイツ人は掟という言葉に弱く、決まりだからといわれると快く服従する国民性なのかもしれない。日本人にとってはむしろ、世間ではだとか、みんなそう言っているということに従いたがる、その種の心地よさをいうのだろう。
 しかし、ヘラクレイトスがoὐκ ἐμοῦ(私にではなく)と言うときは、そういう意味ではなく、凡そ人間の言うことは完全ではないから、という意味ではないのか。
 人のいうことを聴くのは、必ずしも心地よいことではない。掟でも世間の常識でも、それが自分のしようとしていることを拘束するなら、やはり不愉快だろう。


 「oὐκ ἐμοῦ ἀλλὰ‥‥おまえたちは、私に聞きつづける(見つづけるように)べきではない、そうではなくて‥‥死すべきものの聴くことは他のものに向かわなければならない。どこへであろうか。ἀλλὰ τοῦ Λόγου〔ロゴスへ〕。本来の聴くことのあり方は、λόγοςからして規定される。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.21)


 本来的に聴くということは、誰かの言うことを聞くというのではない。本来的に聴くというのは、誰にとっても共通して目の前に置かれている同じ理義(όμολογεῖν)に聴き従う、という意味になる。


四、賢さ、あるいは知


 「では、本来の聴くことがόμολογεῖνとして生じると、なにが生じるのであろうか。ヘラクレイトスは言う、σοφόν ἐστινと。όμολογεῖνが生じると、そこで生起し、存在するのが、σοφόνである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.22)


 σοφόν(ソフォン)はソフィア(知)に通じる言葉で、σοφόν ἐστινというときは「賢い」という意味になる。
 ハイデッガーの解釈だと、このσοφόν(ソフォン)は単に、かつて誰かが言った知識を保持するということではなく、むしろ一つの振る舞いを意味するという。つまり、目の前に取り置かれたものに対し自らを適合させること、つまり職人芸のような熟達することを言う。『荘子』の包丁解牛のようなものを想像した方がいいのかもしれない。
 そして、その知の内容というのがἛν Πάντα(一即全)ということになる。
 ここでハイデッガーは引用している文章が、一般的にはἓν πάντα εἶναιで、それを独断で変更したことに触れる。


 「今日流布しているテキストでは、ἓν πάντα εἶναιとなっている。εἶναιは、ただ一つの伝承された読み方であるἓν πάντα εἰδέναιの修正であって、ひとはこれ〔修正以前の原文〕を〈全てが一であるのを知るのは賢い〉という意味で理解する。εἶναιとする校訂は、より適切ではある。だがわれわれは、この動詞を無視しよう。いかなる権利をもってであろうか。Ἓν Πάνταで十分だからである。たんに十分であるだけではない。それだけの方がここで思索された事柄に、したがってヘラクレイトス風の言い方に、はるかに即している。Ἓν Πάντα 一すなわち全、全すなわち一。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.24)


 εἶναιは英語でいうbe動詞で、これを補うことで、一(へン)は全(パンタ)である、という文章になる。ハイデッガーは意図的にこの「である」を無視して、一は全と読ませようとする。これは三浦梅園の一即一一や西田幾多郎の一即多のようなニュアンスに近くなる。
 これは、デカルトの「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」の言葉を、カントがergoは不要として「我思う我あり(cogito sum)としたのに似ている。
 こうした修正が権利を持つのは、基本的には「同じ体験」を持つという確信以外にない。たとえば誰かが「縞模様の馬」を見たといった場合に、それを「シマウマ」だと確信もって言い換えるとすれば、それは、「縞模様の馬」を見たときの状況やら何やらを考え合わせて、我々が知っているシマウマと同一のものだと確信できるからだ。少なくとも、誰かがいたずらで縞模様を書き込んだような馬ではないということが確信できる程度に。
 ここでハイデッガーが、ἓν πάντα εἶναι(すべては一である)という言葉を、Ἓν Πάντα(一即全)と言った方がよりヘラクレイトス的だと確信するのは、ハイデッガー自身がヘラクレイトスが見たものと同じものを見ていると確信しているからだ。
 つまり、言葉は微妙に違ってはいても、指し示されている内容は「同じ」なのである。おそらくヘラクレイトスとハイデッガーが見たものは、三浦梅園が「一即一一」と呼び、西田幾多郎が「一即多」と呼んだものとも「同じ」ある種の体験を指しているのであろう。そして、このことを確信もって言える私自身をも含めて。
 個人的に強度の差はあるとしても(もっとも比較のしようがないが)、ある種の境地というのは存在する。
 アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ローズ著の『脳はいかにして<神>を見るか』(2003、PHP研究所)によれば、瞑想によって深い宗教的境地に達した時、上頭頂葉後部の方向定位連合野の活動が低下し、前頭前野の注意連合野の活動は逆に増大するという。これによって、自己と外界との区別が曖昧になりながらも、強い集中力で外界に接している状態が生れる。これによって、自他不二の宇宙と一体化したような意識が生れるという。
 こうした状態は、瞑想によらなくても、偶然突発的に生じることがある。仏教では「頓悟」ともいうが、天啓に打たれたような状態といえよう。西田幾多郎の場合は、学生時代に金沢の街の雑踏にぼんやりと見とれているうちに、その人々の姿や仕草など、次第にそれが何かという通常の思考判断が停止し、日常的な習慣や偏見に囚われない、そのままの事実のみを見るようになり、やがて、その外界の事実と自分との境界が消えていったのであろう。
 我々の日常は、様々な習慣や記憶に照らし合わせながら、まわりの出来事を解釈し、そこに様々な快不快の感情を感じたり、行動を促したりする。しかし、外界の景色がこうした思考から遮断されると、何ら解釈されていない裸のままも世界がそこに出現する。そこには、過去の様々な不快な感情の想起が生じないため、目に映るものすべてが新鮮で輝いて見える。サングラスを外して真夏の昼の光をもろに見た時のようなものである。
 一度でもこうした体験を持つものなら、哲学者の文章を読んでいてそれらしい記述があれば、大体あの体験のことだというのがすぐに理解できる。
 ヘラクレイトスはもとより、ハイデッガーの森の明るみ(Lichtng)の比喩、西田の金沢の体験、三浦梅園の「天地に条理あり」の直観、パルメニデス、ソクラテス、プラトンもおそらくこうした体験をしていると思われる。
 こうした体験をしたとき、多くの人はそれを「神秘体験」だと錯覚する。そして、自分が神のような知を得たと信じ込み、ある者は大宗教家や大哲学者になり、ある者はいんちき宗教の教祖様となって刑罰を受け、ある者は誰からも相手にされないまま不遇な人生を送る。
 間違ってはいけない。これは脳の一つの状態にすぎない。しかし、いかに多くの人がこの体験から、物理的に証明できる知識より高次な知識があると確信し、それを自分自身の内省的な直観で得ることができると信じ、それによって世界を支配できるという妄想に取り憑かれてきたことか。
 ハイデッガーがナチス党入党のあとに行った、フライブルグ大学での学長就任演説のなかで、「ロゴスへの服従」を説いている。このロゴスが、この論文で言うような、一即全の体験を目の前に取り集め横たわらせることに他ならないなら、ハイデッガーも自らのこの「知」によって世界を支配できるという妄想に取り付かれた一人だったのだろう。ヒトラーすらも言いくるめることができると思うほどに。
 実は、こうした体験をしたにしても、ヘラクレイトスは違っていた。ヘラクレイトスはこの世界が基本的に争いだと考え、その勝利のむなしさを知っていたから、決して権力争いにかかわろうとはせず、子供相手にゲームをして生涯をすごした。
 このヘラクレイトスの達観を学ぼうとしなかったソクラテスは、結局死刑になった。


五、ふたたびロゴスについて 


 ヘラクレイトスの断片50は、通常の解釈では、ロゴス(言葉)に尋ね、そのロゴスの意味を知り、「全てが一である」と思うのが賢いことだ、ということになる。
 これに対し、ハイデッガーはむしろ一即全(Ἓν Πάντα)という仕方で、ロゴスが現れるのだという。


 「ヘラクレイトスの言のうちで名ざされたἛν Πάνταは、Λόγοςがなんであるかに単純な眼くばせを与える。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.27)


 つまり、ロゴスが、現前するものを集積し、保存し、管理する、支配するというレゲイン(λέγειν)から来たというのであれば、それは現前する全てのものを一つにすることそのものである、というのである。そうやって一所に集められたものがロゴスであり、それに聴き従うなら、全ては一つであり、一つは全てである、一即全、全即一ということになる。


 「λόγοςは、現前するものを現前することのうちへと出し置き(フォルレーゲン)、そのうちへと納め置く(ニーダーレーゲン)、すなわち貯え置く(ツリュックレーゲン)。現=前(アン・ヴェーゼン)するとは、だが、隠れなきもののうちに出来して存続することを意味する。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.27~28)


 ハイデッガーはあくまで存在を、自分の外にある存在そのものではなく、それを自分の目の前に取り集める我々の(つまり現存在の)行為のうちで解釈する。
 それ(現存在)をいわゆる生物学的な存在としての「人間」と区別することで、その「取り集める」という行為を、人間の遺伝的で身体的な性質と切り離し、何らかの超越的なものとして解釈する。
 これによって、ロゴスは、人間の生存と子孫繁栄の欲求によって行われていることを押し隠したまま、何か崇高な行為として特権化される。
 そして、このようなロゴスはアレーテイア(真理)と同一視される。


 「Ἀληθείηとλόγοςは、同じものである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.28)


 ある種の特殊な精神状態によって、自己が世界と一体化するのを感じ、全てが一になるのを感じたとしても、一体どうしてそれが真理そのものだといえるだろうか。
 言えるのは、それがその人にとっては絶対的な真理だというだけではないか。この宇宙が存在し、それを感じることができる、まぎれもなく自分はその中にあり、それを意識し、生きている。俺はここにいる。それは確かにその人にとっては絶対だ。
 しかし、それがどうして、他人を服従させるようなロゴスになりうるのだろうか。取り集め、保管し、管理し、支配しようとする欲求は、ここでこうして生きている一人の自分のものであるなら、そして、他の人も同じようにしていると確信できるなら、そこに生じるのは世界の奪い合いに他ならないのではないか。
 真理(アレーテイア)がもたらすのは、むしろ我々がそれぞれ皆平等だということであり、誰かの知が世界を支配することではない。それは争いしか生まない。
 それは決してヘラクレイトスの意図するところではなかったはずだ。
 ハイデッガーはここでアレーテイア(Ἀληθείη)をἈ-Λήθειη(隠れ=なさ)と解釈する。Λήθη(レーテー)は隠すことをいい、それに否定の接頭語をつけたのがἈληθείη(アレーテイア)だというのである。この解釈に特に問題はないだろう。しかし、それがなぜ取り寄せることに結びつくのだろうか。
 Ἀληθείη(アレーテイア)は文字通り、目の前にあるものが何ら覆われてない、そのままの状態にあることであり、恣意的に取り置かれたり保管されたりしない状態を表すのではなかったのか。
 ヘラクレイトスの断片2には、

 「それゆえ共通なものに従わなければならない。しかるにこのロゴスが共通なものとしてあるのだけれども、多くの人間どもはめいめい、あたかも自分に特別な見識があるかのように、生きている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.32)

とある。なかなか耳の痛い言葉ではないか。ここでいうロゴスは、自らの現前に存在するものを取り置くことをいうのではなく、むしろ今日的な意味での「自然の法則」と解釈した方がわかりやすい。
 ロゴスは通常の意味では言葉のことをいい、多くの人は自分の体験だけでそれが真実だと決め付ける。そのため、言葉に言い表された、他人と共有できる、共通の知識に従おうとしない、と考えるのが自然なように思える。
 そして、アレーテイアは各自の取り置きではなく、対話や議論を通じて修正された共通の取り置きでなければならない。それは多くの人によって議論され、繰り返し検証された真理でなければならないのである。こうして維持されている法則こそが「ロゴス」と呼ばれるべきであり、それは今日の実証科学の精神にも合致する。
 ハイデッガーがロゴス=アレーテイアの根拠として引用している、断片112の「ἀληθείη λέγειν(アレーテイア・レゲイン)」は、むしろ目の前の何ら覆いなき世界の法則を明らかにしてという意味に取った方がよく、ハイデッガーのようにロゴス=アレーテイアに解釈すると、この言葉はトートロジーになってしまう。


六、雷光の閃き


 ひとたび、ハイデッガーがロゴス=アレーテイアを確定させると、次の帰結としてさらに、「ロゴス=一即全」を導き出す。


 「Ἓν Πάνταは、Λόγοςがなんであるかを言う。Λόγοςは、Ἓν Πάνταがいかに現成するかを言う。両者は、同じものである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.29)


 さっきは「Ἓν Πάνταは、Λόγοςがなんであるかに単純な眼くばせを与える」と言ったが、この単純さとは結局、Ἓν Πάντα=Λόγοςであるという意味での単純さだった。
 つまり、アレーテイア、ロゴス、一即全は全て同じなのである。同じ一つの体験を語るものであり、それはハイデッガー自身の体験であるとともに、何らかの形でヘラクレイトスも体験したものでなければならない。
 それをハイデッガーはヘラクレイトスの断片64に見出す。それは、「万物の舵を繰るは雷電。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.33)という一節だ。
 これをハイデッガーはこう解釈する。


 「ヘラクレイトスは言う(断片六四)、Τά δέ Πάντα οἰακίζει Κεραυνός.≪ところで、(現前するものの)全てを(現前することへと)舵を取るのは、雷光である。≫(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.30)


 ギリシャ神話では雷光はゼウスの仕業であり、この断片は単純に読めば、「万物を導いているのはゼウス様だ」という意味になる。
 しかし、この万物が文字通りの森羅万象のことではなく、先にハイデッガーが言ったアレーテイア=ロゴス=一即全のことを指すのであれば、意味合いはずいぶんと変わってくる。
 つまり、ある種の忘我の体験は神の導きであり、さらには神とはその体験そのものだというふうに、「アレーテイア=ロゴス=一即全」にさらに「=神」と付け加えることになる。
 現前するもの全てを、現前することへと舵を取るのは、ゼウスの雷光である──これは、ハイデッガーが森の比喩として述べるところのLichtung(森の間伐地、明るみ)を、ヘラクレイトスも体験していたとする根拠となる。
 『存在と時間』第一部第一篇第五章第28節には、こうある。

 Die ontish bildlich Rede vom lumen naturale im Menschen meint nichts anderes als die existenzial-ontologishe Struktur dieses Seienden, daß es ist in der Weise, sein Da zu sein. Es ist »erleuchtet«, besagt: an ihm selbst als In-der-Weltsein gelichtet, nicht durch ein anderes Seiendes, sondern so, daß es selbst die Lichtung ist. ("Sein und Zeit"p.133)

 「人間の内なる自然の光という存在的で比喩的な言葉は、この存在者がそのありうべき現という仕方で存在しているという実存論的かつ存在論的構造のことにほかならない。それが「明るく」されているということは、この存在者自身が「この世にいる(世界内存在)」という形で木が伐りはらわれ、光が射し込んでいるということをいうのであり、それも他の存在者によってそうなっているのではなく、この存在者自身が森の空き地なのである、ということをいうのである。」

 一般的にはgelichtetは「明るくされ」と訳され、その次のLichtungは「明るみ」と訳されている。しかし、ドイツ語の辞書を引いてみればわかるとおり、lichtenは森の余分な木を間引くこと、間伐することを言い、Lichtungは間伐によってできた空き地のことをいう。
 それをハイデッガーは自然の光(lumen naturale)によって明るくされている(erleuchtet)というのがどういうことかを説明する文脈にこのlichten、Lichtungという単語を持ってくることで、森の木が伐り払われて光が射し込み、明るくなるという両方の意味をもたせているのである。つまりこれはこういうイメージだ。

 村はずれのなだらかな岡をゆくと、やがてそのむこうに森が見えてきた。背の高い針葉樹のそびえ立つ森で、下草はそれほど茂らず、歩くのに困難はない。
 やがて森の奥で、カーン、カーンという、かわいたかん高い音が聞こえてきた。音のするほうに行くと、そこにいたのは一人の老いた木こりだった。老人は斧を振り上げ、木を切り始めている。やがて、メリメリメリと音をたてて木が倒れると、そこから一条の太陽の光りが射し込んでくる。一本、また一本と木が切り倒されると、そのたびに光の条は太く確かなものとなり、やがて森の一角にぽっかりと光のあふれる場所ができる。
 やがて、この老人はこう語った。
 「どうだ、すばらしいだろう。光というのは。
 君たちは『ある』というのがどういうことかわかっているか?この世界のありとあらゆるものがこうしてあるのは、『ある』ということを受け入れる場所があるからだ。『ある』というのは真っ暗な虚無の世界の中にさし込む光のようなものだ。この光があって、世界中ありとあらゆるものがそこに現れる。ただ、注意しなくてはならない。この光がさし込んで来るには、光がさし込んでくる場所が開かれてなければならない。森の木を切り払えば、そこに光がさすように、我々人間というのは、そうした光のさし込んでくる、開かれた場所)なのだ。」

 ハイデッガーはヘラクレイトスがただ単に「雷光」と言った言葉を、即座にこの森に射し込む「光」のことだと判断したのだろう。
 なるほど、雷もまた、天から鋭い光が射し込み、あたりを照らし出す。黒い雲が低く垂れ込め、大地が闇につつまれる中で、光によって世界の姿が目の前に映し出される。それは木が切り倒されて光が射し込むイメージに似てなくはない。
 しかし、ヘラクレイトスの雷光は、神によるものであることがほのめかされている。そして、ハイデッガーが一番重視するところだが、光のまばゆさだけに眼を奪われ、光の射し込んでくる場所が開かれてなくては、光もないということを忘れがちだということだ。
 たとえば、プラトンの「洞窟の比喩」にしても、洞窟の外のイデアの光にばかり気をとられて、やはりその光が可能な場所の存在を忘れていると指摘している。


 「いまやわれわれは、ΛόγοςとἛν ΠάνταとΖεῦςとを一緒にし、しかもヘラクレイトスは汎神論を教えると主張してもよいであろうか。ヘラクレイトスは、汎神論を教えはしないし、そもそも教説なるものを教えはしない。思索する者として、彼はただ思索することだけを与えるのである。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.31)


 ここで気をつけなくてはいけないのは、ハイデッガーが「汎神論を教えはしない」と言うのは、決して唯物論を教えているという意味ではないことだ。
 ハイデッガー自身はカトリックであり、もちろんギリシャの神々を信仰する立場にはないし、その教説を広める立場にはない。それだけなのである。
 だから、ロゴス=アレーテイア=一即全=神という考え方そのものを否定しているわけではない。むしろ、ロゴス=アレーテイア=一即全のうちに神の神たる本質、神性があると考えた上で、それを「神」という一介の存在者に貶めることこそが、存在忘却と呼ばれるものなのである。
 しかし、このことは基本的に現存在の開示性のうちに、すでに神性があるということであり、神は自分の外にある存在者ではなく、自分自身の内にあることを言っているにほかならない。
 神は人の心の中にあるという説自体は、それほど害のある説ではない。少なくとも自分だけの中にと言わないかぎりは。問題はロゴスである。
 キリスト教の聖書では、確かに「言葉は神なりき」というが、我々がそれぞれ目の前にある集められ取り置かれたこの世界を言葉に言い表すにしても、そこには決して絶対的な言葉はない。
 同様に、科学の法則もまた絶えざる検証によって維持されている仮説の体系であり、絶対ではない。哲学の命題にしても、必ずそれと矛盾する命題が可能であり、カントのアンチノミーを引き合いに出すまでもなく、すでにパルメニデスやゼノンの時代にこのことは知られていた。そして、それが弁論術と弁証法の起源となった。
 そうなると、絶対的な言葉とは、音声や文字によって存在するものではなく、あくまで存在の「声なき声」でなければならない。『存在と時間』では「良心の声」と呼ばれたこの「存在の声なき声」こそが、ハイデッガー哲学のもっとも重要でありながら、かつ、わかりにくいものといえよう。
 そのとらえどころのなさが、いつでも安易なナショナリズムのスローガンに入れ替わってしまう危険があった。「ロゴスへの服従」─それはあのフライブルク大学の学長就任演説『ドイツ 大学の自己主張』で「国家への服従」と結び付けられていた。
 存在の声が、実際は「人間」の声であり、目の前に存在者を取り置き保管し、財産目録を作るための遺伝子の声だとしたら、それが結局は生存と種保存の欲求に基づく肉体の声に解消され、その絶対性は否定される。
 そのため、ハイデッガーは、この声を特定の存在者に解消する全ての試みを退け、存在者と存在そのものとの根源的差異の下にその純粋性を保たなくてはならなかった。そのため、この声は「人間」という存在者の身体から来るものではなかったし、今の時代に生きていたなら当然「遺伝子の声」という描象も退けたであろう。
 それと同様、ハイデッガーはもう一方で、この声を「神」という存在者に結びつけることも退けなくてはならなかった。存在はゼウスの稲妻の一撃ではなく、あくまでその一撃を迎える真っ暗な、それでいてかすかに明るい空間の中にあるからだ。


七、存在忘却


 ヘラクレイトスがΛόγος(ロゴス)とἛν Πάντα(ヘン・パンタ=一即全)とΖεῦς(ゼウス)を一緒にしたかどうかについて、ハイデッガーはヘラクレイトス断片32の微妙な言い回しを参照する。


 Ἓν τὸ Σοφὸν μοῦνον λέγεσθαι οὐκ ἐθέλει
 καὶ ἐθέλει Ζηνὸς ὄνομα.
 ≪一なるもの、ひとり知あるものは、欲しないし、
 それでも欲する、ゼウスの名で名づけられることを。≫(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.31)


 ちなみに、この断片32は、訳編山本光雄の『初期ギリシア哲学者断片集』では、

 「一つのもの、ひとりそれのみが智であるもの、それはゼウスの名を以て呼ばれることを望みもしないし、望みもする」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.34)

となっている。出典はクレメンス(150頃~211)の『雑録』。
 ハイデッガーはまず、ἐθέλειを通常の訳の「欲する」ではなく、自分から‥‥の準備を整えている、自分自身に何かを許し認める、という意味に読み替えることを主張する。
 そこから、まず最初の「欲しない」は、一なるものとして現前するもの、アレーテイア、ロゴスをゼウスという一現前者(存在者)として自ら現前することを許しているわけではない、と読む。
 そして、次のκαὶ ἐθέλει(それでも欲する)は、それがロゴスとして、一つの存在者の名指しとしてではなく、あくまで一なるものが全てであるという仕方で自らを現すことを許すと解釈する。
 ゼウスは、一即全の、この目の前に取り寄せられた世界の「開示性」であり、それは暗闇を照らす一瞬の閃光によって導かれ、明らかにされるという意味で、ゼウスの名で呼ばれうる。
 さて、最初にロゴスを単なる言う(λέγειν)ではなく、むしろドイツ語のlegen(下に=そして前におくこと:nieder und vorlegen)として区別したように、ここで死すべきもの(現存在)の言語活動はロゴスそのものとは区別される。人間の言語活動は、ただロゴスを語るのに向いている、適しているにすぎず、ロゴスそのものではない。
 向いている、適している、性に合う、つまりドイツ語のeignenをハイデッガーは独自の仕方で、eigen(自分自身の、特有の)と結び付けて用いる。つまり、eigentlich(本来的)というときには、自分自身が本来所有している、得意とするものという意味を持つ。
 ロゴスは自分自身が所有している適性によって向かうところの、一つの事件(ereignis)であり、すでに語られた科学や形而上学の命題のことではない。ロゴスは語られたものではなく、語ろうとするものだといった方がいいのだろう。
 存在の意味が『存在と時間』のなかでerfragtes(問い求められているもの)だったように、ロゴスは言う(λέγειν)ことによって求められるer-eignis(適合が求められる=事件)なのである。
 ここでいうアレーテイアやロゴスやヘン・パンタ(一即全)が、いかなる存在者としても語りえぬものであるなら、神としてでも人間としてでも語りえないものであるなら、それは何なのか。それは「ある」という一番最初の感覚に他ならない。
 それが、「現存在」というハイデッガーが生み出した特異な存在者からも語りえないのであれば、『存在と時間』の放棄は必然的なものだった。存在を、どのような意味であれ存在者の一つとして議論することは、「存在忘却」として完全に放棄されたのである。


八、存在の小径


 「ある」という感覚を、我々は保持することはできる。しかし、それはいかなる存在者としても名指すことはできない。我々は「何がある」だとか「いかにある」だとかいうことは言える。それが「事物としてある」だとか「道具としてある」だとか「人間としてある」ということも言うことができる。しかし、それは「ある」をいろいろと恣意的に分類して見せただけで、そもそも「ある」とは何なのかという問いに答えているわけではない。
 ハイデッガーは言う。


 「いずれにせよ、小径は、ほかならぬギリシャ初期の思索が後に来るものたちのために拓いたもろもろの途によって、差し当たっては見失われ、謎めかされたままになっている。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.36)


 そして、最終的にヘラクレイトスの断片50を、こう翻訳する。


 「私に、死すべき語り手に、聞きつづけてはならない。だがおまえたちは、集め置きには傾聴的であれ。おまえたちがはじめて集め置きに聴従するとき、おまえたちはそれでもって本来的に聴くのである。こうした聴くことが存在するのは、一緒に前に横たわらせることが生じる限りにおいてであり、このことには総括が、すなわち集中しつつ横たわらせることが、集め置きが、先行している。前に横たわらせることの、横たわらせることが生じるとき、適合的なことが生起する。なぜなら、本来的に適合的なものが、送り定めのみが、存在するからである。唯一で一なるものは、一にしつつ全である。」(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.36~37)


 果たしてこれがヘラクレイトスの言わんとすることだったのかどうかは、何ともいえない。これは解釈の一つの可能性であり、もっと平たく言えば単なる「深読み」なのかもしれない。
 「ある」とは何なのか、なぜ我々は今「ある」と感じているのだろうか、そもそもこの「ある」と感じていることに何の意味があるのだろうか。
 古来人類はこの問いに、様々な仮説を提起してきた。神を持ち出すものもいれば、人間とは何かを問うものもいた。これをクオリアの問題として、脳科学のなかで問い続けることも可能だろうし、さらにはそれを人間の脳がいかに進化したかや、脳内でどんな物理現象が生じているのか、問うこともできる。
 存在を「存在者」の側から問うというのは、仮説を立てることに他ならない。だから、答は絶対ではない。
 ハイデッガーは哲学者にふさわしく、全ての仮説を退けて、直接「絶対」を問おうとした。そこから、存在を存在者の側から問う試みを、自らの現存在分析の試みをも含めて、すべてを「存在忘却」の名のもとにことごとく退けていったときに、一体何が残ったのだろうか。
 存在はある。しかし、存在者として語ることはできない。その先に何があるのだろうか。
 強いて言えば、われわれはまだ存在そのものを知ってはいない、謙虚になれ、という一つの戒めだろうか。
 ハイデッガーは最後に、ヘラクレイトスの断片43を引用する。


 Ὕβριν χρὴ σβεννύναι μᾶλλον ἢ πυρκαϊήν.
 ≪思いあがり〔量りそこない〕は、火事よりも先に消す必要がある。≫  (『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.37)


 この言葉は、いかに定説になっているようなものでも、それは仮説にすぎず、存在そのものの真理を言い表すものではないということを自覚し、既存の説に拘束されず、自由な発想で未来を切り開けという、そういう意味に解しておくのがいいだろう。
 ハイデッガーの言葉だと、こうなる。


 「この謎は昔から≪存在≫という語でわれわれにささやきかけている。それゆえ、≪存在≫は、ただ先触れの語にとどまっている。われわれは、我々の思索がこの語にただ盲目的に追従することのないように用心しよう。われわれは、≪存在≫が、始源的には≪現前≫を意味し、≪現前≫とは隠れなさのうちへと現われ出て存続することを意味するということを、まずもって熟考しよう。(『ロゴス・モイラ・アレーテイア』マルティン・ハイデッガー、宇都宮芳明訳、1983、理想社p.43)

第4章、エレア派

 かつて古代ギリシャの植民地であったエレアは、今日ではヴェリアと呼ばれている。イタリア南部のサレルノ県に属している。ヴェリアの古代遺跡は世界遺産にも指定されている。

 この町はBC540年に建設されたという。

 エレア派の祖であるクセノパネスは、サモスやエペソスにも近いコロポンの生まれで、ペルシャの領土拡大によってイタリア南部のエレアに移住した。理由はちがうが、サモス島出身のピタゴラスがイタリア半島のクロトンに渡り、ピタゴラス教団を立ち上げたように、イタリア南部にはトルコ西部との関係が深く、またこのトルコ西部地域を通じてエジプトやメソポタミアの文明も入りやすかったという事情もあったのだろう。

 北はローマに通じ、南イタリアのギリシャ植民地は北への貿易の拠点としても栄えたのであろう。特に、ペルシャ帝国の拡大期には、トルコ西部からの多くの亡命者がこの地域に集まったと思われ、三賢者を生んだミレトスの文化はこの南イタリアに受け継がれ、それがエレア派を生む土壌になったと思われる。

 エレア派の主張は基本的にはパルメニデスの、「存在はある、無はない」と「存在は一にして永遠である」という主張に尽きる。

 これが何を意味するかと言うと、まず存在と存在者を(ハイデッガー的な意味で)区別したということをいう。というのも、或る存在者、たとえば目の前にあるパソコンでもいいし、今手にしているマウスでもいいし、それを操作しているあなた自身でもいい。こうした存在者が始まりもなければ終わりもなく、何ら変化することもなく永遠であるということを主張するなら、誰の目にもそんなことはばかげていると思うだろう。

 真理(アレーテイア)はあくまで存在そのもので、そこに何も付け加えることはできない。これに対し、我々が知っているものはあくまで臆見(ドクサ)であり、限界のあるものだが、だからといって否定すべきものではなく、限界を知りつつ用いることが必要なのである。

 それを人はしばしば、有りもしないものについての神話を語ったり、単なる一つの教条を絶対的真理だと信じ込ませようとしたりする。それを戒めたのがエレア派だとしたら、その教えは十分現代にも通じるだろう。

一、クセノパネス

 2世紀から3世紀頃のギリシア教父、クレメンスの『雑録』によると、


 「エレア学派の初めをなすのは、コロポン人クセノパネスである。この人はチマイオスの言うところによれば、シケリアの君主ヒエロンや詩人エピカルモスの時代の人であったが、しかしアポルドロスの言うところでは、第40オリュムピア祭年〔620-617〕に生れ、ダレイオスやキュロスの時代まで生きのびた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.25)


とある。

 ダレイオスの在位期間はBC522~BC486年で、大キュロス(キュロス2世)の在位期間はBC559~BC529年と言われている。クレメンスの説によると、キュロスの時代まで生きたというのはありそうなことだが、ダイレオスの時代までというと100歳近くまで生きたことになる。もっとも、ゴルギアスもそれくらい生きたといわれているから、あり得ない話ではない。

 しかし、一方、ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』には、「第60オリュムピア祭年〔540-537〕の頃男盛りであった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.26)とある。これだと、BC580~577年の生まれとなる。

 また、そこで引用されているクセノパネスの詩に


  「ヘルラスの地を漂泊いつつ

  かなた、こなたに我が憂いを消し来りしも

  すでに早や六十と七とせ、

   かの時は生まれしより二十余り五とせなりしが、   これらのことにつきて

  我の語るところに誤りなければ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.26)


とあり、これをコロポンがペルシャに占領された年であるBC546年前に25歳で、それから67年間さすらったと解釈すると、BC570年ごろの生まれで、少なくともBC479年までは生きたことになる。もっとも、クセノパネスがコロポン占領のその年にコロポンを離れたとしなければならない理由はない。それ以前からペルシャの不穏な動きがあり、それより前に脱出した可能性がないわけではない。

 つまり、クレメンスの説によればBC620年から617年に生れ、BC522年以降まで生きた。

 ディオゲネス・ラエルチオスの説によれば、BC580~577年に生まれかなりの長寿だった。

 クセノパネスの詩からの推測によれば、BC570年ごろの生まれで、少なくともBC479年までは生きた。

 第三の説が有力ではあるが、クレメンスの説が第40オリュムピア祭年と第30オリュムピア祭年の取り違えで、クセノパネスがコロポン占領の十年前にコロポンを脱出したとすれば、ディオゲネス・ラエルチオスの説でも説明がつく。それにBC570年の生まれということになると、クセルクセス1世の時代まで生きていたことになる。私としてはディオゲネス・ラエルチオス説をとって、BC580年ごろに生れ、BC489~486年頃まで生きたとしたい。

 クセノパネスはコロポンを離れた後、シチリア島の西部のザンクレに渡り、後にイタリア南部のエレアの植民に参加した。また、シチリア島東部のカタナに住んでた時期もあったようだ。ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』はこう記す。


 「この人は祖国から亡命して、シケリアのザンクレで暮し、エレアの植民に参加し、そこで教えたが、しかしまたカタナでも暮した。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.25)


 エレアにいる頃、パルメニデスの教師となったところから、エレア派の祖とされている。


 クセノパネスの思想の大きな特徴は、一神教を信じ、ホメロスやヘシオドスの語る多神教の神々を攻撃したところにある。クセノパネスによれば、神は一つであり、物質的なものではない。これはタレスやピタゴラスと同様、クセノパネスもエジプトに学び、その時何らかの形でイクナトンの影響を受けたか、あるいはユダヤ教との接触があったのかもしれない。

 2世紀から3世紀にかけてのアテナイの教父、クレメンスの『雑録』によると、


 「コロポンのクセノパネスは、神が一つで、非物体的なものであることを教えながら、こう非難している。

   ひとりなる神、神々と人間どものうち、いとも大いなる神、

   その姿もその思いも、死すべきものどもには似ず。

  さらにまた、

   しかし人間どもは神々が自分たちのように、生れたものであり、着物や姿を持っているものだ、と思っている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.27)


とあり、2世紀末の医者で哲学者だったセクストス・エムペイリコスの『諸学者論駁』には、


 「〔神は〕全体として見、全体として考え、全体として開く。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.28)


 神は唯一のものであり、生れることもなく死ぬこともない。生まれたり死んだりするのであれば、神のいない状態を考えなくてはならないからだ。アリストテレスの『弁論術』には、


 「クセノパネスは言った、神々が生れるものだ、と主張する輩は、〔神々が〕死ぬものだ、と言う者どもと同様に不敬なのだ。何故なら、いずれの場合でもある時に神々はいなかったということになるだろうから、と。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.27)


とある。

 まして人間のように盗んだり姦通をしたり互いにだましあうようなことはありえないことで、その点で、ホメロスやヘシオドスを非難した。セクストス・エムペイリコスの『諸学者論駁』には、


  「コロポンのクセノパネスによれば、ホメロスとヘシオドスとは、

   神々の数限りなき無道な仕業─

  盗むこと、姦通すること、互いに騙し合うことを口にした。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.27)


とある。ギリシャの神々は一方で人間の規範でありながら、神話を読む限りでは結構悪いことをやっている。この矛盾は誰もが少なからず感じていたことだろう。アリストパネスの喜劇『雲』での正論と邪論との問答のなかにも、邪論がこう言う場面がある。


 「間男でつかまればこう反対するのだ。何も悪いことはしはしない。そうしてゼウスを引合いに出す、この神さまでさえ恋と女の奴となったのに人間のおまえがどうして神さまに勝てますかい。」(『雲』アリストパネース、高津春繁訳、1977、岩波文庫、p.78)


 多神教の神々は、一柱の神が完全である必要はない。この宇宙は多種多様な神々の均衡で成立っているのであり、それは人間の行動が一つの理由からではなく、様々な諸欲求の均衡から成り立つのと同じだからだ。善とは均衡であり(いわば「和」だといってもいい)、特定の神の独裁は悪なのである。それは同時に民主主義の原理でもある。

 これに対し、神が唯一であるという主張は、善とは均衡ではなく、一つの絶対的な原理(アルケー)による支配(アルケー)だという考え方に到る傾向がある。それは明らかに独裁の思想であり、多神教の社会では危険視される。

 ソクラテスの告発理由も、「国家が崇める神々は崇めないように教え、他方では新奇な神格を崇めるように教えていることによって(若者たちを)堕落させている」(『ソクラテスの弁明・クリトン』プラトン、三嶋輝夫・田中享英訳、1998、講談社学術文庫、p.38)というもので、ソクラテスの一神教的な傾向が危険視されたものと思われる。

 ただ、一神教は必ずしも独裁に通じるものではない。もし一人の人間が唯一絶対の神の声を代弁できるのであれば、それは独裁を正当化することになる。しかし、いかなる人間も神そのものには至りつけないという点で、神に対して人間の知を相対化できるのであれば、十分民主主義と共存可能なものになる。5世紀のストバイオスはこう記している。


 「神は初めから凡てのものを死すべきものどもには、お示しにならなかった、むしろ探し求めながら、時とともにより善いものを発見するのだ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.29)


 一神教の唯一絶対の神は、すべての物質的な作用を超越している。そのため、自然学は必ずしもこの思想と矛盾するわけではない。むしろすべての自然の法則を創造し、支配するものとして、神の絶対性を逆に証明することになる。

 4世紀のグレゴリオス弁論集の無名氏注釈に、


  「イリス(虹の女神)と呼ぶもの、それも本来雲にすぎない、紫に、紅に、また黄緑に見えるところの。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.29)


とあるのも、むしろ自然を物質的に説明することで、神話的な世界を解体し、かえって一神教を証明するものなのである。

 クセノパネスは、5~6世紀のキリキアの新プラトン学派の哲学者、シムプリキオによれば、


 「凡そ生じてきて成長する限りのものは土と水とである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.28)


と考えていた。そして、土と水は混合して泥なる。海と大地は混ざり合って泥になったり、分離して今のような海と大地になるということを繰り返すと考えていた。貝や魚などの化石が山の中の石切り場で発見されるのを、かつて海と大地は混ざり合って泥になっていたことの証拠と考えていた。2世紀~3世紀のヒッポリュトスの『全異教徒駁論』には、


 「クセノパネスは大地と海との混合が生じてくる、そして時のたつうちに大地が湿ったものによって解体されると思っているが、その証拠として次のようなものを持っている、と主張している。すなわち、大地や山の内部に貝殻が発見される。またシュラクサイでは石切り場で魚や海豹の跡型が、またパロスでは石の底に鰯の跡型が、またメリテでは海のあらゆるものの押しつけられて平たくなったものが発見される、と彼は言う。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.29)


とある。


 また、3世紀後半のアテナイオスによると、クセノパネスはオリンピックが嫌いなようだった。


 「ゼウスの神域がピサの泉の畔にあるところ、オリュムピアにて、或は足の速さで、或は五種目競技で、或は角力で勝利を得たなら、或はまた、痛い拳闘をしたり、パンクラチオンと人の呼ぶ恐ろしい競技をしたりして、勝ったなら、都市の人には今までより光栄に充ちたものに見え、競技場では人目につく名誉席を与えられ、国の公費で食事を賄われ彼にとっては家宝となるべき贈り物を授けられるだろう。或はまた戦車競技で勝利を得てすら、やはりそうだろう。しかしその人々は私ほどには、それら凡てを受けるに値しないだろう。われわれの知識(σοφίη)は人間或は馬の力に優るものゆえ。むろん、それは全く謂われなき人間のならわしである。しかし、力をよき知恵より優れりとするは、正しいことではない。何故なら、すぐれた拳闘家が国民の間にあろうとも、或はまた誰かが五種目競技に、或は角力に優り、或は足の速さで─これこそ競技において人間の業が示す力のうちで特に尊重されているものではあるが─勝利を得ようとも、そのためには国の秩序が立派なものとはならぬだろう。そして人がピサの泉の畔で競技をして勝利を得ても、そのことで国の受ける恩恵は大したことではないだろう。それは国の財庫を肥らせはしないのだから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.26~27)


 前半部分の「私ほどには、それら凡てを受けるに値しないだろう。」というあたりは、これが本当に古くからある伝承だとしたら、プラトンの『ソクラテスの弁明』に出てくるソクラテスの死刑に代わる対案を出す場面に影響を与えていたのではないだろうか。


 「それではそのような男、つまり皆さんに説く勧めてまわるために時間の余裕を必要とする貧しい慈善者には、何が似つかわしいのでしょうか。諸君、そのような人間にとって、迎賓館で食事にあずかることよりもふさわしいことはないでしょう。実際、そのほうが、皆さんのうちの誰かが馬や、二頭立てや四頭立ての馬車でオリュンピア祭で優勝した場合よりも、はるかにふさわしいのです。というのも、一方は諸君が一見したところ幸福であるように思わせるだけであるのに対して、私の方は実際に幸福にするのであり、また一方は栄養を全く必要としていないのに対して、私の方は必要としているからです。そんなわけで、もし私が正義にかなった仕方で自分にふさわしいものを刑として求めるべきであるとするならば、それ、つまり迎賓館での食事を要求します。」(『ソクラテスの弁明・クリトン』プラトン、三嶋輝夫・田中享英訳、1998、講談社学術文庫、p.70~71)


この類似はパクリといってもいいくらいよく似ている。

 クセノフォンの『ソクラテスの弁明』には、


 「まず第一には、刑の対案を申し出るように命じられた時、彼自身、申し出もしなければ、友人たちが申し出るのも許さないで、刑の対案を申し出ることは不正を犯したことを認めているもののすることであると、述べたからである。」(『ソクラテスの弁明・クリトン』プラトン、三嶋輝夫・田中享英訳、1998、講談社学術文庫、p.219)


とあり、対案は提示していないことになっている。もちろん「迎賓館での食事」なんてのは対案としてあまりにもばかげているから、仮にそんな対案を出したとしてもクセノフォンの記述が間違っていたということにはならないだろう。しかし、この対案がクセノパネスのパクリであるとするなら、プラトンの記述の信憑性も疑われる。


参考文献

 『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.25~29

二、パルメニデス

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』には、


 「彼は第69オリュムピア祭年〔504~501〕に男盛りであった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.37)


とある。「男盛り」というのはアクメーのことで、古代ギリシャでは盛年の意味で40歳のことを言う。このことから BC540年頃の生まれとされている。ヘラクレイトスと同世代になる。没年は不明。

 プラトンの『パルメニデス』だと、パルメニデスが65歳くらいのとき、まだ非常に若かったソクラテスと対面する設定になっている。しかし、ソクラテスがBC469年ごろの生まれとされているから、この時すでにパルメニデスは70を過ぎているし、ソクラテスが二十歳になる頃には90過ぎということになるから、ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』の記述と矛盾する。

 一方で、プラトンの『テアイテトス』のソクラテスの台詞には、


 「私は若いときにあの人にあって、一寸親しくさせて貰ったことがあるのです。その時あの人はもう大へんな齢でした。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.38)


とあり、こちらの方が信憑性がある。ソクラテスが若いとき、90過ぎのパルメニデスに会った可能性がまったくないとはいえない。ただ、パルメニデスが65歳で40歳のゼノンも一緒にソクラテスと会ったというのは、明らかに「作り」であろう。


 パルメニデスはイタリア半島南部のエレアの人で、クセノパネスの弟子だったとされている。

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』には、こうある。


  「ピュレスの息子パルメニデスはエレアの人で、クセノパネスの弟子となった(テオプラトスは“綱領”の中で彼はアナクシマンドロスの弟子だったといっている)。しかしそれでも、クセノパネスの弟子になったとは言え、彼の説を信奉はしなかった。また、ソチオンの語ったところでは、ヂオカイタスの息子でピュタゴラスの徒であったアメイニアスとも交わった。この人は貧しかったが、立派な人であった。そしてパルメニデスは〔クセノパネスよりも〕むしろこの人の説を信奉し、彼が死んだ時に、自分が富裕な氏族の出であったので、彼のために神社を建立した。またパルメニデスが静かな生活に転向させられたのはアメイニアスによってであって、クセノパネスによってではなかった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.38)


 パルメニデスがアナクシマンドロスの弟子だったという説は、生きた年代が食い違っているため、ありそうにない。ただ、そのような臆測を生むのは、アナクシマンドロスが万物の根源(アルケー、ἀρχή)を無限なるもの(ト・アペイロン、τὸ ἄπειρον)とし、数的な無限を宇宙の本質と考えたことが、パルメニデスの一にして永遠なるものに通じるからであろう。

 この類似は、途中にピタゴラスを挟むことで、うまく説明できる。そこで登場したのが、アメイニアスなのだろう。この人物についてはほとんど何もわかってはいないが、後世の人はアナクシマンドロス→ピタゴラス→アメイニアス→パルメニデス→ソクラテスという一つの正統を作りたかったに違いない。

 一方で、パルメニデスは明らかにクセノパネスの影響も受けている。それはなによりも思想を詩の形で表現していることだ。また、神が一つで、非物体的なものであるという主張も、パルメニデスに大きな影響を与えていると思われる。ただし、パルメニデスは一なるものを神としたのではなく、そこへと到る道筋を導きの神ダイモンと復讐の女神ヂケとの神話の形で語っている。


 ダイモンとアレーテイア。


 ダイモンはヘシオドスの『仕事と日』によれば、人類は五つの時代(黄金時代、銀の時代、青銅時代、英雄時代、鉄の時代)に別れ、その最初の黄金時代に生きた人々の魂だとされている。


 まず言葉を付与された人間の黄金の種族を

 オリュンポスに住む不死の神々は作った。

 彼らは天を統べるクロノスの支配下にあり、

 神々のように悲しみのない心を持ち、

 労苦と苦難から自由に生きていた。惨めな老年が

 その種族につきまとうでもなく、常に同じ足と手をしていた。

 豊かな中で満足し、あらゆる災厄とは無縁である。

 まるで眠りに負けるようにして死ぬ。あらゆるものが彼らにとって

 よいものであった。自ずから穀物を生み出す耕地が

 大量の果実を惜しげもなくもたらした。彼らは喜んで

 煩わされることなく、多くの幸福を感じながら畑を耕した。

  (http://arcadissima.cool.ne.jp/Hesiodus/opera_jp.htmより)


 過去を美化するというのは、いつの時代でもどこの国でも普通に見られる。これは結局、人間は辛いことは速やかに忘れて、美しい思い出だけをいつまでも残そうとするからだ。年をとれば人間は、子供の頃は良かった、若い頃は良かった、昔は良かったと言うもので、それに引きかえ今の現実はもはや世も末であり、今時の若い者はなってないとみんな言うものだ。

 ダイモンはこうした遠い過去のノスタルジーから生れる理想的な霊魂のことだったのかもしれない。


 「我を運ぶ二頭だての馬車は、ダイモンたちが凡ての人の土地の上へと知者を導くといとも名高き道に我を案内してゆきし後、我が心の願う限りのところまで、遠く我を送った。その道によりて我は運ばれた。すなわち、その道によりて馬車を牽く多識の馬どもは我を運び、処女子おとめごたちはその道を案内したのである。車軸は軸受けの中で熱して牧童の角笛の如き響きを発した(それはその両端において二つの回転する車輪によって急転させられるゆえ)。日輪の娘なる処女子たちが夜の住居を見捨て、手もてその頭からベールを払いのけつつ、光のうちに我を送らんと急ぐたびに。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.38)


 馬車は「凡ての人の土地の上へ」と、つまり空へと上ってゆく。馬はきっとペガサスなのだろう。この馬車を導くダイモンは「処女子おとめご」とも呼ばれる。これも観念的に理想化された「無垢なもの」の象徴であろう。なぜ処女なのかと言うと、それは結局哲学者が大体男だからだ。

 車軸が軸受けの中で加熱するのは、でこぼこで曲がりくねった道を疾走しているからで、例の処女たちもその顔を隠していたベールをかなぐり捨て、太陽の光の中でその姿をあらわにする。現実の世界は「夜の住居」であり、馬車は太陽に向かう。

 ここには、真理が先ず光であり、真理を得るとは、覆われていたものを取り除き、その光をあらわにすることなのである。カバーを採ることを英語ではディスカバー(発見)と言うように、こうした覆われてないもの、あらわなもの、開かれたもの、からっぼ(自由)なもの、という真理のイメージは、西洋では二千何百年にも及ぶ歴史を持っている。ハイデッガーの森の比喩もそれと同様なものだ。


 「そこに夜の道と昼の道とを分かつ門ありて、上よりは楣、下よりは石の敷居これを抱く。アイテール的な門そのものは巨大な扉をもてふさがれている。それらの門を開閉する鍵をもつはきびしき復讐の女神ヂケ。この女神に処女子たちは言葉柔らかに話しかけ、自分たちのために栓でとめてある門を速やかにはずし給われ、と上手に口説いた。すると門の扉は釘や鋲のはまった青銅の二つの軸柱を軸受けの中で相次いで回転させながら、はねとんで、そこに扉の大きな口を開いた。と、そこへ、処女子たちはその門を抜け、真直ぐに車道に沿って車と馬を導きいれた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.38)


 アイテールは天の上層に存在すると言われる光り輝く究極の物質であり、エーテルの語源となっている。

 車軸と軸受けの過熱のイメージは、ここで門の軸柱と軸受けのイメージとなって、意味ありげに反復されている。これは棒状のものと、それを受ける凹状のものとの摩擦という、どこか性的なイメージを喚起させようとしているようにも思われる。真理とはそれを覆っている膜を剥ぎ取ることであり、それもまた「処女」のイメージと結び付けられている。

 馬車を導くのも処女であり、夜の世界を抜けて真理の光の世界に入る入り口を守るのも女神である。


 「すると女神はねんごろに我を迎え、我の右手をその手にとって、次の如き言葉を語って我に話しかけた。おお、若者よ、不死なる馭者に伴い、汝を運ぶ馬もて我々の家へきたれる汝、ようこそ。実にこの道にて汝をここへ送りきたれるは悪い運勢(μοῖρακακή)ではなく(何故ならその道はたしかに人間どもの道の外にあるゆえ)、むしろ掟(θέμις)と正義(δίκη)とである。さて汝は凡てを、すなわち一方に手はまんまるき“真理”(Ἀληθείη)の揺るがざる心を、他方にては死すべきものどもの真なる確証(πίστις ἀληθίης)を含まぬ盲見(δόξαι)を学ばねばならぬ。げに、真なる確証は含まねど、汝はまたこれらの盲見につきては、凡てのものどもを通り抜けつつ、有ると思われる凡てのものどもを如何に裁かねばならぬかをも、学ばねばならぬ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.38~39)


 門の向こうにある光の世界は、人間の世界ではない。それは神の領域であり、カント的に言えば「物自体」ということになる。この何ら覆われていない、あらわなる光だけの世界、これをパルメニデスはἈληθείη(アレーテイア:真理)と呼ぶ。これに対し、我々の通常の経験的な知識はδοξα(ドクサ:意見)として区別する。そして、この両方を学ばなくてはならぬと言うのである。

 つまり、哲学的な存在の真理と、経験科学の与える仮説検証の繰り返しによって維持されている真理と、両方とも重要だということであり、どちらか一方を軽視するようなことは言っていない。そこを間違えてはいけない。哲学者はえてして後者を軽蔑しがちだからだ。

 アレーテイアはハイデッガーによれば、覆われてない状態を言う言葉で、有るものが有るがままに何も隠されていない状態を言う。つまり、人間が勝手な解釈をしたり、こういうものだという思い込みを棄てたときに現れるものなのだが、もちろん厳密に言って人間がいかなる解釈もなしに物に接するということはありえない。

 まず知覚の段階で、我々は感覚器官から得た情報を、脳の中で一度再構成しており、こうした働きなしに何かを知るということはありえない。ただ我々に知ることができるのは、こうした見たままのもの聞こえたままのものであっても何ら確実ではないということくらいなのである。本当に見たとおりのものなのか、疑い、検証するということができるにすぎない。

 さらには、その人が生れて以来様々な経験を繰り返し、膨大な量の記憶を持っているため、何かを見ても、それをすぐに自分の持っている記憶と結び付けて解釈する。歯ブラシを見れば、それをすぐに歯を磨くための道具だと認識し、その用途と切り離して、純粋にそれを一つのオブジェクトとしてみるのは芸術家の仕事となる。

 それに加えて、人間は生まれ育った文化の中で、様々な習慣・世界観・人生観にもとづいて、常に価値判断をしながら生きている。こうしたものも文化的偏見につながる。だが、それが偏見であることを知ることならできる。

 アレーテイアはこうした既存の固定された見方を極力排除してゆく中で得られる。それはたとえば、禅やヨガなどの瞑想によって心を無にすることで近づける場合もあるし、近代哲学で言う「現象学的還元」が結果的に同じ効果を生むこともある。あるいは仏教で言う「頓悟」のように、ある日突然襲ってくることもある。程度はどうであれ、この世界の習慣的な見方を棄て、もっと自由な解釈が可能であることを見つけたとき、人はこの世界が光り輝いて見えるのを感じる。

 ハイデッガーが「真理の本質は自由である」というように、アレーテイアの本質はそれが特定の考え方で凝り固まってないというところにあり、どんなに真実だと思われることでも、疑いを挟み、別の考え方をする可能性があるというところに、それがあくまでドクサにすぎず、アレーテイアはそれを疑う自由として残ることになる。

 真理そのものは一定の命題や理論の中にあるのではない。どんな精密な科学といえども、それらはみな仮説の体系にすぎず、絶対的なものではない。だから、真理とはむしろ理論の限界を知ることに他ならない。そして、この考え方がソクラテス・プラトンの「無知の知」に引き継がれている。ダイモン信仰とともに。

 この世界がすべて疑わしいものだとしても、この世界に向けて様々な仮説を立て、検証し、思惟し、認識する者がいる。本当に確実なのは、こうした存在、つまり自分自身だ。

 パルメニデスは知を一なる永遠の真理(Ἀληθείη:アレーテイア)と意見(δοξα:ドクサ)とを分けて考えた。アレーテイアは存在の真理であり、ドクサは一般的な経験的な知を指すと見ていい。存在の真理は、我々が各自今時分が生きて、この世界を感じていることの絶対性であり、それゆえ存在するということは思惟すると同じとなる。


 「何故なら思惟することと有ることとは同一であるから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.39)


 この言葉からデカルトの「コギト・スム(思う・ある)」という言葉を思い起こすものもいるだろう。我々がそれぞれ生きて、何かを意識し、何かを考えることなしに、それがあるということはない。しかし、この「ある」ということと、それが何であるかや何であるべきかということとの間には溝がある。


 存在はある、無はない。


 「いざや、私は汝に語ろう、汝はその話を聞きて受入れよ──探求の道はいかなるものだけが考えうるかを。その一つは“それは有る、そしてそれにとりて有らぬことは不可能だ”と説くものを、これは説得の道だ(真理に従うものゆえ)。他の一つは“それは有らぬ、そして有らぬことが必然だ”と説くもの。これは汝に告げるが、全く探求し得られない道だ。何故なら汝はあらぬものを知ることもできなければ(それは為し能わぬことゆえ)、また言い現すこともできないだろうから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.39)


 この場合の「有る」というのは、実際に有るかどうかという意味ではない。たとえ、虚構や幻想であれ、それを考えることができる以上、それは有るのである。つまり、存在者の実在を問うのではなく、存在者が有るということそのものを問うのである。

 しかし、一つの逆説だが、有らぬものについても、少なくとも「それが有らぬ」と言うことはできる。そして、それが知ることもできないし、言い表すこともできないということも言うことができる。後にゴルギアスはこう言う。


 「何も存在しない、存在したとしても知ることができない、知ったとしても伝えることができない」


 この言葉はパルメニデスの主張と矛盾するものではない。少なくとも、有らぬものが有るだとか、知りうるだとか、伝えうるとは言っていない。むしろゴルギアスがパルメニデスの徒であることを証明するものと言えよう。


 「必要なのは、ただ有るもののみ有る、と言い且つ考えることである。何故なら有は有るが、無(μηδέν)は有らぬゆえ、このことを汝がその心に留めおくことを、私は命ずる。すなわち、後者〔非有の道〕こそ先ず私が汝を隔離する探求の道である。されど次にはまた何事も知ることなき可死的なるもの、すなわち両頭の怪物どもがさ迷う道〔臆見の道〕からも隔絶する。何故なら困惑が彼等の胸のうちにてうろつく心を導くからである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.39)


 有らぬものが有るという主張は、おそらく神話についてあれこれ議論する人たちに向けられているのであろう。この点でも、パルメニデスはクセノパネスの忠実な弟子だ。一方では一にして永遠な存在があり、一方でドクサも学ばねばならないとする。排除するのは両者が混乱したような、勝手な神話をもてあそぶことで、単なるドクサにすぎないものを絶対的な真理であるかのように言いくるめたり、唯一の存在をドクサの一つにおとしめたりすることなのである。

 ただし、パルメニデスはこの唯一の存在を神とは言っていない。単にそこへ導くダイモンの神に従うだけというパルメニデスの考え方は、ソクラテスに受け継がれてゆく。しかし、それはギリシャの伝統の神々を否定することでもあり、それが結局ソクラテスの告発理由となった。プラトンはソクラテスの死にびびったか、霊魂不滅や転生やハーデスの神話を語り、伝統的な宗教との妥協を図っている。

 ちなみに、ハイデッガーも西洋形而上学の存在=神論を告発してはいるが、ハイデッガー自身は存在そのものが神であるという考え方は否定している。神はあくまで存在者の一つとしてしか扱われていない。


 存在は一にして永遠である。


 「そしてなお残れるは、ただ、有るものはある、と説く道の話である。この道の上には非常に多くの目じるしがある。曰く、有るものは不生なるものゆえ、不滅なるもの、何故なら完全無欠なるもの(οὐλομελές)、また動揺せざるもの、無終なるもの(ἀτὲλεστον)ゆえ。それはかつて或る時にだけ有ったでもなく、またいつか或る時に初めて有るだろうでもない、何故ならそれは現在一緒に全体とし、一つとし、連続せるものとして有るゆえ。何故なら、そのためにどんな起源を汝は探そうと言うのか。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.40)


 存在はかつてなかったものが有るようになったのではないし、今は存在しているがいつかなくなるものでもない。しかし、存在が思考と同じであるならば、これは奇妙な話かもしれない。何故なら、我々の思考は生まれるとともに始まり、死とともに終わるからだ。

 この問題について後世の人は、パルメニデスは思考は死によって終わるものではなく、死体を含めあらゆるものが思考すると考えていたことを伝えている。

 アリストテレスの弟子であるテオプラストスは、『感覚論』の中でこう言う。


 「すなわち、彼は知覚することと思惟することとは同一である、と言うのである。‥‥彼は屍体は火を欠いているがゆえに、光や暖かきものや声は知覚しないが、しかし冷たきものや沈黙やこのような反対のものを知覚すると言い、また一般的に、凡て有るものはある種の知識を持つと言っている‥‥」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.44)


 これに似た発想は今でもある。デビッド・チャーマーズはコンピュータはもとより単純なサーモスタットのようなものまで、程度の差こそあれ、情報処理システムはすべて意識が存在するという。パルメニデスはそれをさらに極端にして、思考をあらゆる物質の持つ性質だと言うのだろう。いわば、人は死んでも宇宙そのものは意識を持ち続け、それは永遠だと言うことになろうか。ある意味では生死を気の集散と考えた朱子学の考え方に近いかもしれない。

 一見荒唐無稽のようなこの説も、プラトンが単純に霊魂不滅を信じ、ハーデスの元へ行った魂がふたたび転生されるために人間は先験的な知を持つと考えたのと比べると、パルメニデスの方が先鋭的といえよう。

 ハイデッガーは存在と思惟を分けて考え、人間(現存在)をあくまで存在へと開かれた一つの存在者と考え、この開かれた場所に存在があらわになると考える。そのため、存在へと開かれた存在者はあくまで生まれては死んでゆく有限な存在者であり、しかもそれは人それぞれ独自のものだと考える。そして、存在そのものについてそれが永遠かどうかは語っていない。それはカント的な「物自体」であり、人間の理性を超えているからだ。

 パルメニデスは単に真理(アレーテイア)を学ぶだけではなく、臆見(ドクサ)も重要だと考えている。いわばドクサは仮説であり、これなしには現実の生活は何も成立たない。


 「これを以て私は真理に関する信ずべき言論と思想とを終る。これよりは死すべきものどもの臆見を我が説話の虚構に聞きて学べ。すなわち彼等は二つの形態(μορφή)を名づけようと決心した。されどそれらのただ一つさえ名づくべきではない──この点において彼等は迷っていた。そして彼等はその二つの形態の相反するものとして区別し、それらに目じるしを別々につけた。ここにては、炎のアイテール的な火、すなわち穏やかで、非常に軽く、あらゆる方向において自分自身とは同じであるが、他のものとは同じではないものを。しかしそれとは反対に、かのもの、暗き夜を、すなわち緻密にして重き形態を。我はこの世界の全構造を、それが外見的には、どのようなものであるかを、凡て汝に語り明かそう。すれば、死すべきものどものいかなる意見も汝を断じて追い抜くことはできまい。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.42)


 このあたりは、「永遠なるものから、冷たきものと温かきものとを生むもの(γόνιμον)がこの世界の生成にあたって分離し、そしてこのものから焔の球が大地を取り巻く空気のまわりに、ちょうど樹皮が樹木の周りに生じるように、生じてきた。それからこの球が破裂して、ある種のいくつかの輪の中に閉じこめられたときに、太陽や月やもろもろの星が生じた、と彼は言う。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.10)というアナクシマンドロスの説を踏襲している。 


 温かきものは火そのものではなく、一種のアイテール(エーテル)だとパルメニデスは解釈する。これに対し、現実の世界にある様々な物質は「暗き夜」と呼ばれる。これは水や土に相当する。地理的にかなり離れていて交流があったとは思えないが、ヘラクレイトスの、火の論理のもとに土と水の比率が絶えず変化して諸現象が起こると言う説とどこか似ているのは、どちらもアナクシマンドロスに端を発しているからであろう。


 「しかし凡てのものどもには光或は闇という名前が与えられ、そして彼等の能力(δυνάμεις)に応じたものがこれらのものに、或はそれらのものに名前として配されている以上、全体(πᾶν)は双方〔勢力の〕等しい光と目に見えぬ闇とに同時に満たされている。何故なら双方のいずれかに属さないものは何もありえないのだから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.43)


 温かきものと冷たきものは、一方では天と地を生み、霊的な永遠の存在と死すべき者とを分かち、光と闇とを生む。こうした考え方と中国の易の陰陽思想との類似は、やはり何らかの東西の交流があったのではないかと思わせる。

 光と闇とは一方が他方を包む輪のような形になる。つまり、冒頭の詩にあるような車輪と車軸受けのような関係にあり、それらが交わることで万物が生じると考える。


 「何故なら狭い方のいくつかの輪はまじりけのない火によって充たされ、そしてこれに続くいくつかの輪は夜によって充たされた。しかしその間には炎の部分が突入してゆく。そしてこれらのものの間に凡てのものを操るダイモンがいる。何故ならこの女神は交わりのために女性を男性に、また逆に男性を女性にさしつかわしていて、いたるところで苦痛な出産と交わりとを始めさせるのだから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.43)


 ここでダイモンの正体が明らかになる。ダイモンは回転する陰と陽との交わりを操り。万物を生み出すものであると同時に、導きの神であるという、いわば道祖神なのである。


参考文献

 『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.37~44

三、ゼノン

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』には、


 「ゼノンはエレア人、アポルロドロスが“年代記”で言うところによると、生まれではテレウタゴラスの息子であるが、養子縁組ではパルメニデスの息子である。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.44~45)


とある。

 生没年は不明。BC490年ごろの生れとする説は、プラトンの『パルメニデス』の、ソクラテスが二十歳くらいのときにゼノンが40くらいだったという記述によるものだが、パルメニデスのところで述べたように、これは当てにならない。

 パルメニデスが「第69オリュムピア祭年〔504~501〕に男盛りであった」というディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』の記述が正しいとするなら、ゼノンがBC490年生まれだとすると50歳も年下になってしまう。もう少し早く生れと考えたほういいだろう。


 1世紀中期のディオドロスの『歴史叢書』(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/diodoros/historica10.htmlの断片18を参照。)によると、ゼノンはネアルコスの僭主支配に反抗したために拷問にかけられたというエピソードが記されているが、これがいつ頃のことかやどこまでが本当なのかはよくわからない。

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』には、「彼はパルメニデスの弟子であって、また彼の稚児になった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.44~45)という記述もあり、これがおそらく、パルメニデスとゼノンがホモだったという噂の出所になっているのだろう。

 また、同じく、「彼は哲学においても国事においても極めて優れた人物であった。ともかく、彼の豊かな洞察に満ちた著作が伝えられている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.44~45)ともある。

  哲学だけでなく、政治論についても優れた著作があったのかもしれないが、残念ながら今日には残っていない。


 ゼノンのパラドックス。


 ゼノンについて今日伝わっているのは、ゼノンのパラドックスと呼ばれる一連の奇妙な論証で、西洋の哲学史の中では完全な無矛盾の体系が可能であるかどうかが問題になるときに、矛盾が必然的に生じることの根拠としてしばしば引き合いに出されることとなる。

 ゼノンのパラドックスの中心は、存在は一にして永遠であるというパルメニデスの命題を、背理法でもって証明することにあった。つまり、一から多が生じるというのであれば、こうこうこういう矛盾が生じるということを説いたものであった。

 これはおそらく、ピタゴラス教団の教義に対抗するものだったのだろう。ピタゴラスは無限なるもの(ト・アペイロン、τὸ ἄπειρον)に気息(プネウマ、πνεῦμα)が流れ込み、そして、この流れがおのずと分かれて、様々な存在者が区別されると考えた。つまり一なるト・アペイロンが分割されて多が生じると考えた。

 これに対し、パルメニデスの説では、多種多様な存在者も基本的に一にして永遠不動の存在の現れにすぎない。存在は分割されるのではなく、常に一なのである。分割は真理(アレーテイア)の次元には存在せず、ただ臆見(ドクサ)の中にしかない。

 この差は、ピタゴラスが論じた宇宙は、あくまで物質的な宇宙であるのに対し、パルメニデスが論じたのは、我々の思考がこの宇宙に対して開かれている、それを存在するものとして考えることを可能にしている、そのこと自体の一を問題にしているからである。宇宙は、我々にとって、どんなに多種多様な外見をしていたとしても、我々にとって唯一無二の宇宙なのである。

 ゼノンのパラドックスの意義は、数学的直観がアレーテイアではなく、ドクサであることを証明した点にある。

 アレーテイアの「一」は分割不可能であり、そこから二が生じたり、多が生じたりはしない。


 無限分割のパラドックス。


 具体的に数学的直観がどのような矛盾を引き起こすかというと、それは第一には、数は無限に分割可能であるが、どこかに最小の単位がないと時間も空間も存在しなくなってしまうという矛盾だ。

 もちろん、ゼノンがプランク定数のことなどは知るよしもなく、あくまで理論上の問題としてこれを考えたにすぎない。それでも、この問題はカントの『純粋理性批判』の二番目のアンチノミーに受け継がれている。


 「もしものが多く有るならば、それらはそれらがある数だけちょうどあって、それらはその数より多くあっても、より少なくあってもならない。しかしそれらがある数だけあるのなら、それらは有限であるだろう。

 もしものが多くあるならば、有るものは無限である。何故なら、有るものどもの中間には常に他のものどもがある。そして再びその他のものどもの中間にまた他のものどもがある。かくて有るものどもは無限である。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.47)


 これを具体的な例で示したのが、ゼノンがプロタゴラスに語ったとされる粟が落ちる音の例えだ。


 「すなわち、彼〔ゼノン〕は言った。“私に答えてくれ給え、プロタゴラス君。一粒の粟が、或は一粒の千分の一の粟が下に落ちた場合に音を立てるだろうか。”相手は“たてない”と答えたので、彼はさらに言った“では一メジムノス〔約十二ガロン〕の粟が下に落ちた場合に音をたてるだろうか。”で、相手が“一メジムノスの粟なら、音をたてる”と答えたので、ゼノンは言った“それなら、どうだ、一メジムノスの粟と一粒の粟、或は一粒の千分の一の粟との間には或る割合があるのではないかね。”で、相手は“ある”と答えたので、ゼノンは言った。“では、どうだ、その音にも相互の間に同じ割合があるのではなかろうか。というのは音をたてるものに応じて音もあるのだから。このことが事実このようであるとすれば、もし一メジムノスの粟が音をたてるなら、一粒の粟も千分の一の粟も音をたてることになろう”と言った、という。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.47~48)


 千分の一の粟も、実際に人間の耳が感知できるかどうかは別として、音はたてているのだろう。しかし、どこかに振動の最小の単位が存在するのかもしれない。

 ものは無限に分割してゆくと、どこかで量がなくなるのか、それとも最小単位の量が存在するのか、どちらの議論も成立する。つまり分割は無限であり有限であるという矛盾、カントの言葉で言えばアンチノミー(二律背反)が生じる。

 同じことは無限大の量についても言える。つまり宇宙に果てがあるのか無いのかという、カントの『純粋理性批判』の一番目のアンチノミーの問題である。


 「もしものが多くあるならば、それは大きなものであると共に小さなものである。一方ではその大きさが無限であればあるほどに大きなものであり、他方では何ら大きさを持たぬほど小さなものである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.48)


 宇宙に無限大の量が存在するのか、それとも有限なのか、これも両方とも立論可能であり、矛盾に陥る。


 アキレスと亀。


 こうした矛盾を運動の矛盾として示したのが、有名なアキレスと亀の例えとなる。これはアリストテレスの『自然学』の中で、要約された形で伝わっている。

 まず、「運動するもの(τὸ φερόμενον)は終点へ到達するよりも前に、その半分の地点に到らねばならぬゆえ、運動することができない」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.48)という第一のパラドックスは、こう考えればいい。

 始点から終点までの間に無限の分割が可能であり、且つ分割されたものが一定の量を持つというのであれば、始点から終点までの量は無限になってしまい、到達できなくなる。量を持たないのであれば、量の無いものを何倍しても量は生じないため、始点から終点までの距離は存在しなくなる。

 これは、よく考えれば、「運動するものは終点へ到達するよりも前に、その半分の地点に到らねばならぬ」という命令自体のうちに、その半分の地点で止まらなければならないという命令が含まれているため、実際には詭弁だ。つまり、実際に運動が可能なのは、物体は分割点で止まってないからだ。止まらずに通過するから運動が可能なのであり、運動はその間の距離を分割するしないにかかわらずに生じているのである。つまり、運動は分割不能な、一なる存在なのである。

 アキレスが亀に追いつけないというパラドックスも、同様に考えることができる。


 「すなわち、もっとものろい走者でも、決して最も早い走者によって追いつかれることはないだろう。というのは前者がそこから出発した地点へは追手は必ず達しなければならない、従って足ののろい走者でも常にいくらか先に進んでいなければならないから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.48~49)


 これも、「前者がそこから出発した地点へは追手は必ず達しなければならない」という命令の中に、すでに前者のいた地点を通り過ぎてはならないという命令を含んでしまっているため、アキレスは亀の先へ達することができなくなる。それは一定の分割点で止まってしまうからである。これも、実際の運動が分割不能であると考えれば、解決できる。

 第三のパラドックス、「飛んでいる矢は静止している」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.49)というのも同様、飛んでいる矢は、或る一定の地点を通過する以上、その地点で止まらなければならないというものだ。

 これは我々の人生に例えればもっとわかりやすいかもしれない。つまり、我々は今生きている。しかし何年何月何日何時何分何秒何曜日に生きていたとしても、そこで止まるということはない。それを何時何分何秒何曜日に生きてなければならない以上、そこで人生は停止したのだ、というわけである。

 「光陰矢のごとし」というが、我々が実際に生きている時間は数学上の一点ではない。むしろ連続した時間が開かれているというところに、我々は宇宙をひいては自分を認識することができる。つまり、時間は物理的な一瞬ではなく、時間そのものの開示性であり、またそれが存在そのものを認識する場所なのである。それがアレーテイアなのである。

 数学的直観はそれこそ1足す1が2であるように、あまりにも自明なことに思えるため、これをすべての経験に先立つ絶対的真理だと言いたくなる気持ちもわかる。しかし、数学的な体系は矛盾のない完璧な体系ではない。それはやはり経験科学でありドクサなのである。

 ただ、このドクサが他のものとちがうのは、数的認識が40億年もの進化によって鍛え上げられたものであるため、普通に生存してゆくには十分すぎるだけの精度があるということなのである。

 ただ、これまでいかなる生命も考えることのなかった、宇宙規模での計算や量子レベルの問題にかかわるようになると、我々の数学的理性は突如として壁に突き当たってしまう。いわゆる相対性理論と量子力学を矛盾なく説明できる「統一理論」の困難の問題だ。

 しかし、我々はたとえ「統一理論」がなくても、生きてゆくのに何も困ることはない。我々が生きているのはドクサの中ではなく、アレーテイアの中でだからだ。いくらアキレスが亀に追いつけない論証をしようとも、我々はアキレスでないのに楽々と亀の歩みを追い越してゆくことができる。

 経験科学の限界と、言葉で言えば簡単だけど、それを紀元前5世紀に証明したゼノンのパラドックスが今日でも有効なのは、やはり驚くべきことなのだろう。そうでなければ、単に人類はその頃から何ら進歩していないのか、どちらかである。この2500年の間、ドクサは飛躍的に進歩したが、アレーテイアに関する思索は何一つ深まったわけではない。それは老いたハイデッガーが嘆いていたことでもある。

 ヘラクレイトスやパルメニデスの「存在」の発見によって、哲学が終わったわけではない。むしろ、なぜドクサとは異なるアレーテイアを認識できるのか、これはいわゆるハードプロブレムだ。それが解けたとき、我々は本当の哲学の難問を解決することになるだろう。 


参考文献

 『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.44~50

四、メリッソス

 メリッソスはエレアの人ではないが、パルメニデスの弟子だったということで、エレア派に含められている。

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』には、


 「メリッソスはイタイゲネスの息子で、サモスの人。この人はパルメニデスの弟子であった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.50)


 おそらくパルメニデスは晩年、エレアを離れなくてはならない何かがあったのだろう。あるいはゼノンのところで見たようなネアルコスの僭主支配が原因だったのだろうか。

 パルメニデスが晩年、サモス島でメリッソスに教えていたとすれば、その途中アテナイにも立ち寄った可能性はある。プラトンの記した、若い頃ソクラテスが高齢のパルメニデスと会ったというエピソードも、その意味ではありえないことではない。

 同じく『ギリシャ哲学者列伝』には、


 「アポルロドロスはオリュムピア祭年第84期〔444~441〕に彼は男盛りであった、と言っている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.50)


とある。この通りだとすると、メリッソスはBC484年ごろの生れということになり、ソクラテスよりは5つ上ということになる。メリッソスがパルメニデスに習ったのが二十歳くらいだとすれば、その頃パルメニデスは86歳くらいだと思われる。そして、その頃まだ少年だったソクラテスも、パルメニデスの教えを受ける機会があったのかもしれない。

 また、『ギリシャ哲学者列伝』には、


 「しかし彼はまた政治家であって、国民たちの間で人気を博したそのためまた海軍の司令官に選ばれ、彼自身の功績によってなおもっと賞賛されるにいたった。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.50)とあり、この功績というのは、1世紀から2世紀のプルタルコスの記す、


 「しかしメリッソスによってまたペリクレス自身も先に海戦において打ち負かされた、とアリストテレスは言っている。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.50)


であり、BC440年ごろに起きた、ペリクレス時代のアテナイとサモス島との戦争でアテナイを苦しめたことを指すと思われる。(http://www.oct.zaq.ne.jp/poppo456/in/p_Pericles.htmを参照)


 メリッソスの思想は基本的にパルメニデスの教えを継承するもので、むしろ詩の形で語ったパルメニデスに比べると、メリッソスの言葉として残っているものは、その注釈のようでわかりやすい。

 その中で問題になるのは、次の言葉だ。


 「だから、いやしくも、それが有るなら、それは一つでなくてはならない。しかし、一つであるなら、それは物体を持つことは許されない。しかしそれが、もし厚さ(πάχος)を持つなら、部分を持つだろう、そしてもはや一つでなないだろう。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.53)


 この説に異論を唱え、パルメニデスの説ではなくメリッソスの解釈だとする人もいる。しかし、パルメニデスが「何故なら思惟することと有ることとは同一であるから」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.39)という以上、存在とは思惟そのものであって、思惟される物体ではない。

 (厳密に言えば、思惟そのものもまた生れて死んでゆく有限な存在者、つまり人間のものであり、いわば存在は思惟そのものではなく、思惟によって開かれたものでなくてはならない。そして、さらに厳密に言えば、思惟する存在者は人間とイコールではない。人間以外の動物にも思惟が存在するし、人間であっても思惟を失っている状態が存在するからだ。そのためハイデッガーは存在に対して開かれた思惟を行う存在者を、人間と言わずに「現存在」と言う。)

 存在が物体であるなら、当然のことながら、たくさんあるし、分割することもできるし、生じたり消滅したり変化したりする。存在が物体を持つことができないという


のは、至極当然の主張のように思える。

 エレア派はハイデッガー的な意味での存在と存在者をはっきりと区別している。これを混同するなら、たとえば目の前にあるパソコンは作られることも壊れることもなく、何一つ変化もせずに永遠だということになってしまうであろう。そんなばかげたことを主張する人間はいない。エレア派の主張が意味を持つのは、存在そのものが存在者とはっきりと区別されたときだけなのである。

 存在は人や犬や猫や牛や草や木や石や土や火や水といった個々の存在者の寄せ集めではない。むしろ、それらが生じたり消えたり変化したりするその場所とでも言うべきであり、それは宇宙のことでもない。むしろ宇宙が宇宙として存在できる、そういう場所を言う。それゆえ、宇宙に始まりと終わりがあるとしても、存在そのものに終わりはない。


 「それゆえ、このように、それは永遠(ἀίδιον)で無限で、一つで、また完全に同様(ὅμοιον)である。そしてそれは滅びることもなく、大きくなることもなく、容姿を変えることもなく、苦しむこともなく、悩むこともない。何故なら、これらのことを一つでも蒙るなら、それはもはや一つではないだろうから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.51)


 そして、このことは背理法的に論証される。


 「すなわち、それがもし違ったものになるなら、有るものはもはや同様ではないことにならなければならない。むしろ以前から有るものが滅びて、有らぬものが生じてこなければならない。従って、もしそれが一万年の間に髪の毛一すじほどでも多様のものになるなら、全時間のうちには、全く滅びるであろう。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.51)


 この「一万年の間に髪の毛一すじほど」という言い方は比喩であり、いわば存在は決して物質が変化するような変化をすることがないという意味だ。当然ながら、物質の世界は変化するから、命あるものは必ず死に、形あるものは必ず壊れる。宇宙にもビッグバンがあり、拡散し続け、やがてどうなるかははっきりとはわからない。しかし、それは存在そのものではない。


 「しかしまた容姿を変えられることも出来ない。何故なら以前からあるところの容姿は滅びないし、また有らぬ容姿は生じてこないからである。しかし何ものも附け加わらず、また何ものも滅び去りもせず、また他様なものにもならないのであるから、如何にしてそれは容姿を変えられた後までも、なお有るものに属することが出来ようか。何故なら、もし何か他様なものになるなら、それは直ちにまた容姿も変えられるだろうから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.51)


 存在はこの宇宙のことではないから、宇宙がいかに姿を変えようとも、存在そのものの姿は変わらない。


 「またそれは苦しみもない。何故なら、それが苦しむなら、完全に有ることはないだろうから。何故なら、苦しむものは永遠に有ることは出来ないだろうし、また健全なものと同一の力を持ちもしないから。また、もし苦しむなら、同様ではないだろう。何故なら、何ものかが去り行くので、或は附け加わるので、それは苦しむのであろう。そしてその時には、もはや同様ではないだろうから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.51)


 悩むのは存在に対して開かれている人間(現存在)の側であり、存在そのものは悩むことはできない。悩むのは変わるからであり、生れたり消えたりするからだ。

 人間の世界は、生まれてから死ぬまでの限られた時間の中で、様々な変化を経験する。そして、そのつど悩み、苦しまなくてはならない。だからこそ、悩みや苦しみのない永遠のものを求める。

 ともすると、それは幻想で、無いものだと見なされがちである。しかし、それを思い描くことができるという時点で、それは存在する。存在しないなら、思い描くこともできないからだ。しかしまた、そこに存在そのものと存在者との越えることのできない差異が存在してしまうのである。

 存在とは存在者との差異を生み出すものであり、差異そのものだといってもいいのかもしれない。それが有るからこそ、我々は果てしない夢や理想を求め、より良いものへと導かれることができる。

 それがダイモンの神の導きだといっていいだろう。


 「また健全なものは苦しむことは出来ないだろう。何故なら、もしそうだったら、健全なものや有るものは滅び去って、有らぬものが生じてくるだろうから。悩むことについても、苦しむことについてと同一の論証(λόγος)があてはまる。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.51~52)


 存在そのものは苦しむことができないのと同様、悩むこともできない。


 「また如何なる空虚(κενεόν)も存しない。何故なら、空虚は何でもないものである。だから、何でもないものなら、有りはしないだろうから。またそれは動かない。何故なら、もし空虚があるなら、それはその空虚へ退いてゆくことが出来るだろう。しかるに空虚は有らぬゆえ、退いて行けるところを何処にも持たないからである。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.52)


 アナクシマンドロスは万物の根源(アルケー、ἀρχή)を無限なるもの(ト・アペイロン、τὸ ἄπειρον)としたが、この無限なるものはあくまで物質的なものであり、それが分割されて冷たきものと温かきものに分かれると考えた。そして、分割し、有限化するのを一つの負い目(負債)と考え、必ずそれは返済されねばならないものとして、生成と消滅を説明した。

 アナクシメネスはこの無限なるものを「気息(πνεῦμα)」だと解釈し、その濃厚化(πύκνωις)と稀薄化(ἀραίωσις)が様々な存在者を生むと考えた。そして、ピタゴラス教徒はこれを「空虚(κενόν)」と考え、一から多が生み出され、その数が万物の根源(アルケー、ἀρχή)だとした。

 しかし、これらの学説はすべて存在者についての臆見(ドクサ)であり(むしろ仮説と言ったほうがいいか)、存在そのものについて述べたものではない。存在そのものの見地からすれば、無が無いのと同様、空虚も存在しない。空虚は無ではなく、むしろ気息の充満と考えた方がいいのであろう。


 「また、それは密でも粗でもあらぬだろう。何故なら、疎なるものは密なるものと同様に充ちてあることはできない、いや、疎なるものはすでに密なるものよりも、空虚なものとして生じて来るのだから。そして充ちたるものと充ちてないものとの間には次の区別をしなければならない、つまり、もし何ものかを含むなり、受入れるなりするなら、それは充ちたるものではない。しかし含みもせず、受入れもしないなら、充ちたるものである。従って、もし空虚がないなら、充ちていなければならない。従って、もし充ちているなら、それは動かない。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.52)


 空虚が密になったり粗になったりして様々なものが生じるという考え方も、おそらくアナクシメネスの濃厚化と稀薄化を受け継ぐ形で、ピタゴラス教団の考え方にもあったのだろう。

 粗になったり密になったりするには、何かが何かの中に入っていなければならない。たとえば、今日では空気の濃い薄いは空間中の分子の密度として示される。ところで、この空間は分子レベルでは真空であるが、何らかの量子レベルのものの充満と考えられている。そうでないなら、分子間でいかなる力も伝達することが出来ないからだ。

 もし空虚が密であったり粗であったりするなら、空虚は充ちていなければならない。そして、充ちたり、空虚になったりしなくてはならない。つまり、充ちた空虚と、充ちてない充満があることになってしまう。これは矛盾する。つまり、何かが何かの中に入っていて、その密度に差があると考えざるを得なくなる。

 もし何かが充ちているというのであれば、そこには何も受入れることができない。同時に同じ場所に二つのものは存在できないからだ。(つまり分子と真空との関係も、真空の充満の中に分子が入り込んでいるのではない。何らかの量子レベルのものの充満の中から、それが変化して分子の形となって現れているにすぎない。)

 何も受入れることが出来ないのであれば、それは充満しているといえる。充ちているものは空虚ではない。しかし、充ちているものがあるとすれば、それがどうして変化するのかが問題になる。

 しかし、そこから空虚は存在せず、変化することのない存在そのものの充足だけがそこにあると帰結するならば、やはり存在と存在者の混同ということになるだろうか。

 もし人間の存在そのものへの開示性が、特殊な霊性などを前提とせず、あくまで進化によって生じた物質的な基礎を持つものだとしたら、存在そのものもまた何らかの物質的な充足としなければならない。それは物質と反物質を含めた全体であり、三次元空間や四次元時空よりもはるかに高次の世界として成立っていることは想定できる。我々はそれを予見できる。しかし、我々の思考は分子レベルの数学に拘束されている。そこから結局、真理(アレーテイア)と臆見(ドクサ)の二重の世界が生じているのではないか。

 存在とは、結局のところいかなる臆見(ドクサ)からも自由になれる可能性であり、それがより高度な臆見(ドクサ)の創造へと導く。そして、限りないその上昇を導くものに他ならない。存在は神ではないし、何ら神話を語らない。ただ、我々がすでに知っているものとの差異として、差異の可能性として存在しているにすぎない。 


参考文献

 『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.50~53

第五章、エンペドクレス

 エンペドクレスは科学や哲学というよりは、後の魔術や占星術などに大きな影響を与えた。
 世界が気火地水の四元素から成立ち、それらの離合集散の背後に愛と憎しみという物理的には説明が出来ない、それでいて誰もが共感の出来るものを仮定したため、容易に共感呪術になりえたからだ。
 世界が四つの元素からなるという思想自体は、古代ギリシャ人の、タレスに始まり、パルメニデスやヘラクレイトスに至る、万物のアルケーを説明する様々な議論のなかで展開されてきたものの延長線上にあるのだが、その背後に「愛(Φιλότης)」を仮定したため、それはその後の科学や哲学とは別の、もう一つの道へと歩みだすことになった。
 それは今日でも「学問」とは別の場所で、脈々と生き続けている。
 私の記憶に残るところでは、King CrimsonのIn the Wake of Poseidonという曲のなかで、

 air, fire, earth and water, world on the scale
 air, fire, earth and water, balance of change
 world on the scale, on the scale

と歌われていた。
 最近では竜騎士07のサウンドノベル・ゲーム「うみねこのなく頃に」の魔女ベアトリーチェの台詞にも、その影響が見られる。

 「人間は世界を構成する元素について、紀元前の昔から探求を続けてきた。古代ギリシャ人たちは風火水土の4つで世界の説明を試みたという。その後も数千年かけて人間たちは、その4つに様々な元素を加え、五大、六大、七大、八大、十二大と、様々な解釈で世界を説明しようとしたが、唯一の真実である“一なる元素”を説明することはできなかった。‥‥‥しかし、星の導きによって現れたひとりの男が、ついにこの、世界を構成する一なる元素を説明した。何かわかるか‥‥?
 ‥‥それは『愛』よ。くっくくくくくくく!」(「うみねこのなく頃にEpisode 2」より)

 この魔女の住む世界では、「愛」の発見者がイエス・キリストになっているが、風火水土の四元素の背後に「愛」を発見したのは、実際にはエンペドクレスだった。

 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、

 「エンペドクレスは、ヒッポボトスによれば、(祖父)エムペドクレスの子であるメトンの息子で、アクラガスの人であった。そしてこれと同じことを、ティマイオスも『歴史(シケリア史)』第十五巻のなかで述べているし、またそれに加えて、この詩人の祖父のエンペドクレスは著名な人であったと記している。‥‥略‥‥メトンの父は第七十一回オリンピック大会(前四九六年)において(騎馬競争で)優勝したと記録している。」。(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.52)

とある。馬を飼えるのは古代ギリシャでも裕福な家で、それがいかに金を食うかは、アリストパネスの喜劇『雲』にも描かれている。
 まして、オリンピックで優勝するくらい、練習の暇があるというのだから、祖父の方のエンペドクレスは当時としては詩人として大成功を収めたのだろう。
 現代では詩人というと、本業の傍らに自腹を切って同人誌を発行したり、道端で詩集を売ってたり、あまり裕福なイメージはないが、かつての叙事詩は大衆娯楽の花形であり、今日で言えば芸能界のスーパースターだった。
 そういうわけで、孫の方のエンペドクレスもお坊ちゃんだったと思われる。

出身地
 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、

 「彼がシケリアのアクラガス出身の人であったことは、彼自身が『浄め(カタルモイ)』の冒頭で、
   親愛なる方々よ、黄金色のアクラガスの、
   都の高台に位置する大いなる町に住まう人々よ
と言っていることからも知られることである。」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.54)

とある。

 アクラガスはシチリア島の西南部にある町で今日のアグリジェント。
 当時シチリア島はアクラガス人とシラクサ人が対立していたようだ。その上、地中海を隔てた対岸にはフェニキア人の都市カルタゴがあり、シチリアの支配権を巡ってギリシャ系の植民市と対立していた。
 BC480年、東のアケメネス朝ペルシャのクセルクセス1世が大軍をギリシャに送り、あの300(スリーハンドレッド)でも有名になったテルモピュレの戦いの起きた年、それに呼応するかのように、カルタゴ軍も大軍を率いてシチリアに上陸しようとしたが失敗した。これが第一次シチリア戦争と呼ばれている。これはエンペドクレスの若い頃の出来事であろう。

 エンペドクレスの生没年は不明。ゴルギアスの師だったというから、BC485年頃の生れとされているゴルギアスよりは年長だったと思われる。ゴルギアスはメリッソスとほぼ同世代。エンペドクレスはむしろ世代的にはこの世代とパルメニデスやヘラクレイトスの世代との中間で、ゼノンに近かったと思われる。
 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』にはこうある。  「そして文法学者アポルロドスはその“年代記”においてこう言っている。


   彼はメトンの息子であったが、ツゥリオイへ
   それがすっかり建設され終わったばかりのところへ
   赴いた、とグラウコスは言う。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.53~54)

 トゥリオイはイタリア半島のピタゴラスのいたクロトンのやや北にある。最初はシュバリスと呼ばれ南イタリア最大の都市だったが、クロトン人によって破壊され、BC443年に再建された。このときトゥリオイという名前になった。この時ヘロドトスもこの地にやってきた。おそらくエンペドクレスがこの地に来たのもこの時で、既にかなりの年齢だったと思われる。また、この町の法律はプロタゴラスが作ったとされている。
 「アリストテレスも、さらにはヘラクレイデスも、彼は六十歳で死んだといっている」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.53)とあるところから、トゥリオイ移住がぎりぎり60歳だとすると、BC503年の生れになる。それよりは若干後に生れたと考えればいいのかもしれない。とりあえず、BC503年<x<BC485年ということにしておく。
 なお、『ギリシャ哲学者列伝』の引用するティマイオスも『歴史(シケリア史)』第十五巻は、

  「しかし、ある人たちは、彼は故国を追い出されてから、シュラクサイへ行ってその軍に身を投じ、
  彼らとともにアテナイ軍と戦ったと記録しているが、
  の記録は、少なくとも私には、完全に間違っているように思われる。
  なぜなら、彼はそのときにはもはや生きていなかったか、あるいは、
  ありそうにもないことだが、もう全くの高齢であったかのどちらかだから」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.53)

と続くとある。
 これがゴルギアスが故国を追われる原因となった、レオンティノイとシュラクサイ(シラクサ)との戦いを指すのであれば、BC427年以降のこととなる。エンペドクレスが長生きしていれば、全くありそうにもない話ではないが、少なくとも兵士として戦う年齢ではない。それに、これだと弟子のゴルギアスと敵味方になったということになる。

エンペドクレスの師
 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』にはこうある。

 「さて、ティマイオスは(『歴史』)第九巻のなかで、彼はピュタゴラスの弟子であったと記しているが、それに加えてさらに、彼はその当時、プラトンも(後に)そうしたとされているように、ピュタゴラスの教義を剽窃したと宣告されて、師の講義に参加することを禁ぜられたと述べている。また、エンペドクレス自身も次のように語って、ピュタゴラスに言及しているのだと記している。


   あの人たちのなかには、並外れた知識をもつ一人の男がいた。
   その人こそは、精神の最大の富を獲得していたのだ。
と。ただし、彼がこの詩句で言及しているのは、パルメニデスのことだと言っている人たちもいる。」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.54~55)

 ピタゴラスも生没年は不明だが、サモス島を去りイタリア半島のクロトンへと渡ったBC532年を盛年(アクメー=40歳)と見て、572年前後の生まれとする説が一般的で、90まで生きたとされているから、エンペドクレスが晩年のピタゴラスに会った可能性がないわけではない。
 ただ、おそらくここで「弟子」だという意味は、ピタゴラス教団に学んだという意味で言っているのであろう。この教団では、出家信者でなければ、ピタゴラスの説を発表することは許されてなかったから、エンペドクレスはおそらく在家信者だったのだろう。それでピタゴラスの説を詩にして公表したため、破門されたのであろう。
 当時は学問と宗教の境界も曖昧であり、学問的命題も著作物の一つのように考えられていたのかもしれない。つまり、ピタゴラスの説はピタゴラスの許しがなければ使ってはいけなかったということなのだろう。こうして、おそらくピタゴラスがエジプトで学んだ高度な文明の知識を独占しようとしたのだろう。
 しかし、ピタゴラスもまた、若い頃はペレキュデスに学び、火、気、水などの元素を神話的に解釈するやり方を学び、エジプト遊学以降も数学を神秘学的に解釈する形で教義を作り上げていった。決して今日イメージされるような数学者ではなく、むしろ神秘思想家であったと見たほうがいい。エンペドクレスの四元素の解釈もこれを踏襲するものだった。
 エンペドクレスがピタゴラス教団を破門されたとすれば、その後パルメニデスの方に傾倒していくのも自然の成り行きだっただろう。ただ、実際に交流があったのかどうかは定かではない。
 当時は論文を発表するような学会があったわけでもないし、もちろんそれを掲載する学術誌があったわけでもないから、哲学は叙事詩の形で、大衆娯楽の一つとして発表された。だから、エンペドクレスがパルメニデスの詩を聴く機会は十分あっただろうし、それに傾倒したと考えられる。
 またディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』にはこうも書かれている。

 「しかしヘルミッポスによると、彼が信奉していたのはパルメニデスではなくて、むしろクセノパネスの方であり、そしてこのクセノパネスと一緒に時を過ごしていたし、また、その人の作詞法を真似ていたのであって、ピュタゴラス派の人たちに出会ったのはそれから後のことだとされている。」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.56)

 クセノパネスの生没年もはっきりしない。BC580年ごろに生れ、BC489~486年頃まで生きたとすれば、全くありえないことではないが、信憑性は低い。エンペドクレスの詩のスタイルなど、作品から受けた影響の大きさから、そうした推測が生れたのであろう。
 はっきりとはしないが、エンペドクレスは若い頃に、ピタゴラス教団の講義を受けにいったりもしていただろうし、エンペドクレスやパルメニデスの哲学的叙事詩からも大きな影響を受けたのだろう。

弁論術の祖
 「なお、アリストテレスは『ソフィスト』のなかで、エンペドクレスは弁論術の、そしてゼノンは問答法の、最初の発見者であると述べている。」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.56)

 これはおそらく、弁論に押韻や音節数などを整える詩の手法を持ち込んだのが、エンペドクレスあたりに始まるという意味だろう。
 今みたいに録音もなければ、議事録もなかった時代には、誰がどういう発言をしたかを知るにも、聞いた人の記憶に頼るしかない。だから、いかに記憶に残る弁論をするかが重要だった。
 そのため、弁論家はコピーライターのように、一度聞いただけで強烈な記憶に残るようなフレーズを作る必要があった。
 それは叙事詩もまた同じことだった。本もレコードもCDもない時代に、人々の記憶に残るような物語を語るには、印象に残る覚えやすいフレーズを工夫する必要があった。
 それゆえ、叙事詩の創作で鍛えられたエンペドクレスの技術は、そのまま弁論にも応用できた。そして、それがゴルギアスに受け継がれ、後の弁論術の主流となって行ったのだろう。
 古代ギリシャの議会や裁判は、今で言えばヒップホップのMCバトルに近かったのかもしれない。いかに即興で韻を踏みながら、論敵をディスるか競い、受けた方が勝ちといったものに近かったのだろう。ソクラテスが裁判に負けたのは、案外単にライムのスキルがなかったからかもしれないw。
 やがて時代が下り、パピルスが盛んに使われるようになると、つまり、プラトンやイソクラテスの時代になると、次第に即興性が薄れ、あらかじめ書いた原稿を暗唱するようなスタイルに変っていった。後のローマ時代の弁論の手本とされたのは、むしろそうした台本のある弁論だったのだろう。台本を書くということになると、その場のイメージ戦略よりも論理の構成のほうに重点が置かれるようになる。

 「ところで、サテュロスが『哲学者伝』のなかで述べているところによれば、彼は医者でもあったし、また、きわめてすぐれた弁論家でもあった。事実、レオンティノイの人ゴルギアスは彼の弟子であったが、この人は弁論術において卓絶した人であったし、『弁論術教程(テクネー)』という書物を後世に残した人なのだからと。」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.57)

呪術師
 しかし一方、エンペドクレスには詩人で医者で弁論家というだけでなく、もう一つの顔があった。

 「また、このゴルギアスは、サテュロスによれば、エンペドクレスが魔術を行なっていたところに、自分自身も居合わせていたと語っていたという。いや、それだけではなく、エンペドクレス自身が、自作の詩のなかで、魔術にも、その他もっと多くの事柄にも、自分は精通しているのだと公言していたとのことである。というのも、彼は詩のなかで、次のように述べているからだと。
   そしてお前は、もろもろの禍(病気)や老齢を防いでくれるあらゆる薬を学ぶであろう。
   この私は、お前だけには、これらすべてのことを成就してあげるだろうから。
   またお前は、大地の上に突然起って、吹きすさぶ風によって田畑を荒らすところの、疲れを知らぬ風の力をしずめるであろう。
   さらにまた、もし望むのなら、お前はその仕返しに(微)風を送り返すだろう。
   お前はまた、人間たちのために、暗い長雨に代えて、時期に適した旱魃ひでりをもたらすし、
   また夏の旱魃に代えて、天空から流れ落ちて樹々を育む水の流れをもたらすであろう。
   さらにお前は、ハデス(冥界)から死者の力を取り戻してやるだろう。」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.57~58)

 もっとも、科学が未発達の時代の医術は、どこの国でも少なからず呪術の要素を持っていた。今の言葉で言うなら心理療法というところであろう。心因性の病気なら、それで治ることもあるし、日本でも昔から「病は気から」という言葉もある。患者を安心させ、また患者の周囲の人間からも患者に対する云われなき差別や偏見を取り除いてやることが、結果的に治癒を生み出す。
 たとえ空想的な物語であっても、患者自身に原因があるのではなく、誰でも取り憑かれうる魔物が原因であり、それが退治できるものであることを説くなら、患者は周囲の者からの過酷な扱いを逃れることができるであろう。
 水害や旱魃などの自然災害も、ともすれば共同体の様々な迷信から、ある種の人々が原因になっているかのように噂が広まり、共同体内部での激しい対立を生み出しかねない。あるいは流血の事態も起りうる。
 何か不吉なことが起ると、人というのは闇雲に犯人探しを行い、ちょっとしたことで仲間を不当に疑いをかけては、云われもない血祭りを始めかねない。それを防ぐのも呪術師の重要な役割といえよう。必ずしも科学的な真実を知る必要はない。むしろ最も平和的な解決につながるような作り話を即興で思いつくのも、呪術者の重要な仕事なのである。
 すぐれた詩人であるエンペドクレスが、そのような作り話を得意としていたことは十分想像できる。

 「例えば、あるとき季節風が激しく吹いて穀物に被害が出たときに、彼はロバの皮を剥いで、その皮でいくつかの袋をつくるように命じた。そしてそれらの袋が風をとらえるようにと、彼は丘の頂や山の尾根にこれらの袋を張りめぐらしたのだった。そうすると、風はやんだので、彼は『風をさえぎる男』と呼ばれるようになった、というのである。」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.58~59)

 実際のところ、ロバの皮の袋くらいで、風を防ぐことは出来まい。風が止んだのは偶然だろう。
 しかし、この物語はそのようなところに本質があるのではない。大事なのは、たくさんの袋を尾根に張りめぐらせることによって、村人たちを団結させたことにある。つまり、不吉なことが起ると、ついつい誰が悪いだの犯人探しが始まり、村人たちが猜疑心に満ち溢れかねないときに、村人総出で風と戦うという目的を与え、共同体が内部から崩壊することを防いだことが重要なのである。
 「ハデス(冥界)から死者の力を取り戻してやる」というのも、本当に失われた命を蘇らせる必要はない。
 たとえば、大した病気でなくても、それが愛する人であれば、このまま死んでしまうのではないかと心配になる。それを最初はこれはもう駄目だなどと言いながら、適切な治療を施していけば、死ぬはずのものが生き返ったということになる。

   「この人は、痛ましき病苦のために衰えつつありし数多くの者どもを、
   ペルセポリスの奥深き住居より引き返えさせたるなり。」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.59)

というのは、それだけのことだろうし、

 「それはとにかく、ヘラクレイデスは、気絶した女について、何かこんなことが起ったと報告しているのである。すなわち、その女は呼吸もせず、脈も打っていなかったのに、彼(エンペドクレス)はその身体を三十日間維持してやったのだと。」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.59~60)

 これも決して生き返らせてはいない。ただ、死体を上手く粉飾して、三十日間生きているように見せかけただけだろう。
 最初は愛する人の死を受入れられず狂乱状態だった遺族も、これだけ時間を稼いでくれれば、十分死を受入れる覚悟は出来ただろう。
 人間の知は限界がある。まして科学の未発達な時代のこと。本当に求められている解決策は、決してそれが真実であるかどうかではない。どうすれば人々が憎しみあうのを止め、「愛」を取り戻すことができるかだった。

愛の哲学
 ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』には、こうある。

 「ところで、彼の学説は次のようなものであった。すなわち、(万物)構成要素(ストイケイオン)は四つ、火と水と土と空気である。そしてそのほかに、それらの要素がそれによって結合される「愛(ピリアー)」と、それらが分離される「争い(ネイコス)」とがある。そしてその点については、彼は次のように述べているのである。


   光り輝くゼウスと、生をもたらすヘラ、そしてアイドネウス。
   さらにまた、その涙によって死すべきものどもの生の流れをうるおすネスティス。


 この詩句において、ゼウスとは火のことであり、ヘラとは土のことであるまたアイドネウスとは空気、そしてネスティスとは水のことである。
 「そして、これらのものは普段に交替しつづけて、決して止むことがないのだ」と彼は言って、(宇宙の)このような秩序は永遠であるかのように考えているのである。とにかく彼は、いまの言葉につづけて、こう言っているからである。


   あるときには、「愛(ピロテース)」によって、すべてのものはいっしょに集って一つになり、
   あるときにはまた、「争い」のもつ憎しみによって、それぞれが離ればなれにされながらと。」(『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.71~72)

 アエチオスやセクストス・エンぺイリコスによれば、最初の詩句には

 「先ず聞け、万物の四つの根源(ῥιζώματα)を:輝けるゼウスと生をもたらすヘレとアイドネウスと涙もて地上の泉をうるおすネスチスとを。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.55)

とある。
 また、5世紀後半から6世紀前半の新プラトン派の哲学者シンプリキオスのアリストテレス自然学の注釈には、こういう断片が引用されている。

 「いざや、我がさきの話を保証する次のものを観よ、もしなおさきの話のうちにて、〔元素の〕姿(μοτος)に何か欠陥きずがあったと言うならば。すなわち、見るに明るく、いずこにても温き太陽を、またその熱と輝く光輝とに浸されたる凡ての不死なる部分〔空気〕を、また凡ゆるところにおいて暗く冷たき雨を。而して土からは基礎の確たる固きものどもが流れ出る。そしてこれらのものは凡て怒(Κότος)の御代にありては、形を異にし、離れているが、愛(Φιλότης)の御代にありては、一緒になり、互に相求める。何故なら、これらのものから、かつて有りしものも、現に有るものも、後に有るだろうものも、すなわち木々も、男女も、獣どもも、鳥どもも、水に養われる魚どもも、命長く位いと高き神々も、出できたるゆえ。何故なら、ただこれらのもの〔要素〕のみあって、互に駆けぬけつつ、いろいろな姿のものになるゆえ。〔これらのものの〕混合はかくも甚しき変化をもたらす。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.57)

 要するに、万物は、神々も含めて、四元素の混合、つまり愛によって生れるということだろう。
 宇宙は最初は愛に満たされ、天も地も陸も海も渾然一体となっていたが、そこに憎しみが侵入し、宇宙はばらばらになるが、やがて愛を回転の中心にして、ばらばらになった元素が寄り集まったとき、様々な生物(死すべきもの)が生れた、と考える。以下も、シンプリキオスの伝える断片による。

  「されど我は改めて、さきに我の語りし歌の小道へ立ち戻らん、我が言論より新しき言論を流れ出させつつ。争いが渦巻の奥底に落ち、愛が回転の中心に達した時、その中でちょうどこれら凡てのものが一つのものとなるために、寄り集まる。しかし皆が一時にではなくて、いろいろのものがいろいろのところから自分の意志によりて一緒になるが如くにして。而してこれらのものが混合したとき、可死的なるものの無数の種族が生じた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.58)

 このあたりは、パルメニデスの回転する車輪の比喩の影響だろう。
  パルメニデスにおいて、愛と憎しみは光と闇とと呼ばれ、一方が他方を包む輪のような形になる。つまり、それは車輪と車軸受けのような関係にあり、それらが交わることで万物が生じると考える。この交わりは、男女の性交の比喩が用いられている。

 「何故なら狭い方のいくつかの輪はまじりけのない火によって充たされ、そしてこれに続くいくつかの輪は夜によって充たされた。しかしその間には炎の部分が突入してゆく。そしてこれらのものの間に凡てのものを操るダイモンがいる。何故ならこの女神は交わりのために女性を男性に、また逆に男性を女性にさしつかわしていて、いたるところで苦痛な出産と交わりとを始めさせるのだから。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.43)

 シンプリキオスによれば、エンペドクレスの愛と憎しみもダイモンだという。

 「されど一方のダイモン〔愛〕が他方のダイモン〔争〕ともっと大がかりに争いつつありし時には、これらの肢体は、それがたまたま出遭いし仕方にて結びついた。またこれに加えて、他の多くのものが絶えずつぎつぎに〔土から〕生じてきた。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.59)

 こうして様々な生物(死すべきもの)が生れたが、それらは、ランダムにいろいろなものが生じ、そのなかで合目的的に組織されたものだけが生き残った。
 この考え方は、今日に進化論の自然選択の考え方に似ている。いかにして偶発的な混合から、自然の見事なまでの合目的性が生れるかを問い詰めたとき、こうした考え方に至るのは必然といえよう。
 ただ、こうした淘汰されたものとしてエンペドクレスが仮定していたものは、二つの顔と二つの頭を持つものだったり、人面牛だったり、あるいは牛の頭をした人間のような、一種のモンスターだった。
 アエチオスによれば、

 「エムペドクレスの説くところでは、動植物の最初の発生においては、それは決して完全なものではなくて、部分が離ればなれになって、一緒に生えていないものだった。しかし第二の発生においては、、それらの部分が一緒に生えた結果、化物のようなものが生じた。第三の発生においては、分化していないものが生じた。第四の発生では、もはや土や水のような凡てに共通な要素からではなくて、もうお互いの関係によって生じたが、その関係はある動物では栄養が凝縮された結果なされるのであり、他の動物ではまた女の美しい姿が生殖運動の刺戟となるからである。そして凡ての動物の類は〔元素の〕混合の具合で区別される。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.59~60)

 また、テオプラストスの『感覚論』の伝えるところによれば、生物の知覚は、元素の流出物が、知覚の通路に適合することによって生じるとする。
 視覚は火と水の流出物によるもので、火は白、水は黒として認識され、それらの混合によって色が生れるとする。残念ながら、三原色の発想には至らなかった。
 聴覚は空気の振動によるものと正しく理解していた。
 味覚と触角については、特に規定していず、「ただ通路に〔流出物が〕適合することによって知覚が生ずるという一般的なことを言っているだけなのである」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.61)
 思慮もまた、知覚と同様のものだという。

 「何故なら、これらのもの〔諸元素〕から凡てのものは調合されて出来ている。そしてこれらのものを以てわれわれは思慮し、また快苦を感ずる。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.61)

 人間の意識を、超越的なヌース(精神)を仮定せずに、物質から説明しようとしているが、物質の中に愛と憎しみが含まれていると考える点では、唯物論というよりも汎神論に近いといっていいだろう。それゆえ、セクストスの『諸学者論駁』にはこうある。

 「エムペドクレスは‥‥凡てのものが、つまり動物のみならず、植物も思考するものであることを認め、はっきりこう書いている。
   何故なら、よいか、凡てのものが思慮をもち、思考に与かるゆえ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.61)

 エンペドクレスは理性や意識を持つがために人間を特別な存在として捉えるようなことはしなかった。
 すべての生き物は、ピタゴラスがエジプト人の受け売りで言っていたように、輪廻転生すると考えていた。
 かつて愛に満たされ、すべてが一つだった世界があったが、それは憎しみによって一度砕かれ、ばらばらになった愛の欠片の周りに元素を渦巻のように寄せ集め、形を生み出したものがすべての生物の本質であり、それらは形こそ違え、同じものだったのである。
 生きとし生けるものは愛によって生れ、憎しみによって死に、そしてまた別のものに生まれ変わってという繰り返しを延々と続けるだけなのである。こうして、ヘシオドスの『労働と日々』にあるようなダイモンたちの「黄金時代」を追放され、人は永遠に彷徨い続けるのである。

 「アナンケ〔必然の女神〕の神託、古く永遠なる広き誓もて封印されたる神々の決議あり、曰く、いと長き命を賦与されたるダイモンたちのうち、罪を犯し、己が手を流血もて染たる者、また争に従いて、偽誓をなせる者、これらは至福なる者ども〔ダイモンたち〕を去って三万年期漂わねばならぬ、その期間中可死的なるものどもの種々様々なる姿をとりて生れ来り、生の惨めなる小道を取換えつつ。何故ならば、空気の力は海へと彼らを追いはらい、海は大地の面へ吐き出し、大地は輝く太陽の光の中へ、しかし太陽は空気の渦巻の中に投げ出すゆえ。しかして一方は他方より受け取り、なべてみな彼らを憎む。我も今彼等の一人なり、神よりの追放者なり、漂泊者なり、狂える争を信じたるゆえ。」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.63)

 すべての生き物は憎しみによって互に引き裂かれた存在であり、輪廻転生を繰り返しながら愛を求めて彷徨っている。
 今日的に言えば、すべての生き物は生存競争の宿命を背負っているというべきであろう。生きるために互に互いを食わなければならない。それでも、無用な争いを避け、平和を夢見続け、愛を求めずにいられない。
 人間の知ることには限りがある。ならば、中途半端な知識を信じるより、愛の幻想を追い求めて生きるのも一つの真実なのではないか。
 それは科学ではない。魔法である。しかし、科学が戦争の道具となり、世界を破壊し続ける限り、この世から呪術的なものが消え去ることはないだろう。エンペドクレスの思想は、今日の西洋占星術の中にも痕跡を残しているし、文学にも影響を与え続けている。

エンペドクレスの最期
 Episode 1~4およびTips 1は『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、による。
 さて、推理は可能か?

Episode 1:エンペドクレスは、死んだと見なされていた女を生き返らせた後、ペイシアナクスの所有する畑のちかくで大勢の人を集めて生け贄の儀式を行なったという。
 この儀式の祝宴が終わったあと、参列した人々は畑の傍らの思い思いの場所で休息していた。  エンペドクレスもまた、そこで一緒に休んでいたのだが、夜が明けると、エンペドクレスの姿だけがなかった。
 みんなでエンペドクレスを探し出そうとし、召使たちにも何か見なかったか聞いて回った。
 そのうち、召使の一人が、真夜中に異常に大きな声がエンペドクレスに呼びかけるのを耳にし、起き上がってみると点から光が射していたことを証言した。
 それを聞いた弟子のパウサニアスは、エンペドクレスは神になったのだと言い、犠牲を捧げ、これ以上余計な詮索をしないように命じたという。

Episode 2:エンペドクレスは、アクラガスパンテイアという医者も見離した病気の女性を治療した後、およそ80人もの人を集めて生け贄の儀式を行なったという。
 この儀式の祝宴が終わったあと、参列した人々は畑の傍らの思い思いの場所で休息していた。
 エンペドクレスもまた、そこで一緒に休んでいたのだが、夜が明けると、エンペドクレスは起き上がり、火山の方へ向かって旅立った。
 そして、噴火口に飛び込んだのだが、その後、エンペドクレスの履いてた青銅製の靴の片方が、炎とともに吹き上げられたという。

Episode 3:セリノスという所では、近くの川から立ち昇った悪臭によって疫病に襲われ、死者が出ていた。
 それを知ったエンペドクレスは私財をなげうって、近くの二つの川をその川に流れ込ませ、水の匂いを中和したという。
 こうして疫病が終息すると、セリノス市民は祝宴を催した。
 その席にエンペドクレスが現われると、人々はまるで神であるかのように祈りを捧げたので、エンペドクレスは、それなら神にならなくてはいけないということで、そのまま火山へ行き、噴火口の中へ飛び込んだのだという。

Episode 4:エンペドクレスは金持ちで、結婚資金を持たない町の娘に婚資を贈ったりしていたという。
 エンペドクレスは金持ちに相応しく、深紅の服に黄金のベルト、青銅の履物、デルポイ風の月桂樹の冠をかぶり、髪はふさふさしていたという。
 そんなエンペドクレスがあるとき、祭りに出席するため、馬車に乗ってメッセネへ向かっていたところ、馬車から落ちて太腿の骨を折り、それがもとで病気になって、77歳で死んだという。
 エンペドクレスの墓はシチリア島のメガラにあるという。

Tips 1:トロイゼンのデメトリオスは、こう歌っている。
   彼は、高いミズキの木(はり)に輪索わなわをくくりつけて、
   それを首に吊した。そして彼の魂はハデスへと下って行ったのだ。

Tips 2:庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』の一場面にあるらしい。
 エンペドクレスのサンダルは人口に膾炙しているエピソードであるが、出典は不明。

 「ねえ、エンペドクレスのサンダルの話知ってる?」
 「え?、なんだって。」
 「エンペドクレスって、世界で一番最初に、純粋に形而上的な悩みから自殺したんですって。」
 「へえ。」
 「それでヴェスヴィオスの火山に身を投げたんだけど、あとにサンダルが残っていて、きちんとそろえてあったんですって。」
 「素敵ね、エンペドクレスって。」
 「うん(?)」
 「サンダルがきちんとそろえて脱いであったんですって。いいわあ。」
 「ふーん。」
 「ねえ、とってもすごい話じゃない?」
   (庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』より)

 

参考文献
『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、1958、岩波書店、p.53~64
『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、1994、岩波文庫、p.52~72