鈴呂屋日乗2016

10月20日

 「土人」と言うのは本来はその土地の人という程度の意味だったのだが、近代になって未開人と同様の意味で用いられるようになった。

 アイヌに関してはかつて旧土人保護法と言う法律があったくらいで、先住民族という認識があった。近代化の波の中にあって、狩猟採取や古くからの農耕によって生活をしていた人たちの暮らしは、日本のみならず世界的に大きく変容せざるを得なかった。

 特に一番問題だったのは近代的な「所有権」の概念だろう。これは別にアイヌに限らず、江戸時代の日本人からしても寝耳に水の概念で、明治6年の地租改正の時には一揆が相次ぎ、様々な混乱を経て日本にも近代的所有権に基づく土地所有がなされ、これまでの共有地(コモンズ)は特定の所有者によって囲い込まれていった。

 日本が大韓帝国を併合した時には大韓帝国でも同じことが行われたし、アイヌに対しても同じようにかつての狩猟場となっていた共有地の多くは本土人の手に渡っていった。

 こうしたことはアメリカのインディアンでもオーストラリアのアボリジニでも起きてきたことだったし、今でも多くの先住民族が抱えている問題でもある。

 もちろん、近代化のもたらす圧倒的な豊かさと自由の前に、果たして古い生活をかたくなに維持することが本当にそこに住む人の幸福につながるのかという問題はある。どこの先住民族でもいまさら昔の生活に戻りたいとは思わないだろう。問題になるのは、そのとき失った民族の自決権や領土の回復、そして他民族の支配下で受けた差別や迫害といったところだ。

 旧土人保護法の対象はアイヌに限られ、琉球人(うちなんちゅう)には適用されていない。かつて琉球王国として栄え、独自の文化を持つ琉球の人たちを、明治の人たちは「土人」とは思っていなかった。それは旧大韓帝国人が「土人」ではないのと同じようなもので、土人でないから差別がなかったということではない。

 昭和になると「土人」のイメージは南洋のイメージになり、特に人食い土人だとか子供向けの物語の登場するようになった。

 さて本題に入るが、大阪府警機動隊員の「土人」発言だが、この言葉が琉球民族を差別する意図で発せられたのか、それとも「アホ」「ボケ」の延長で、たまたま口をついて出てきた罵り言葉がそれだったのか、おそらく後者だろうと思う。

 ほとんどの日本人は沖縄の人が「先住民族」だと言われると、「はあっ」って感じで違和感を覚えるだろう。福島県人や千葉県人や群馬県人がいるように沖縄県人がいるくらいの感覚で、すっかりそこを日本の一部と思っている。もちろん沖縄の人からすれば、「うちなんちゅう」と「やまとんちゅう」ははっきり区別され、やまとんちゅうではないという意識を持つ人が多い。そのあたりのには非対称性が見られる。

 民族問題で困ることは、こうした非対称性がこじれるとかなりやっかいなことになるということだ。

 本土人は群馬県をグンマーだと言って茶化すような感覚で沖縄のことを茶化したりすると、群馬県人は自分たちは本土人とは違う独立した民族だという意識がないから、ただ日本人同士で互いの出身地をディスりあったり地元を自慢したりするありきたりな会話で終わらなくなる可能性がある。

 ただ、長く持続的に差別的な言動を繰り返してるならともかく、たまたま発された言葉を捕まえて差別だと騒ぎ立てるのは、むしろ両者の違いを際立たせ過度に意識させることになる。

 本土人はたとえば具志堅さんや渡嘉敷さんや喜納昌吉さんやGACKTさんや新垣結衣さんやCHICO CARLITOさんのことを「先住民族」で差別を受けてきた人たちだと意識する必要があるのだろうか。逆にそれを意識することで、こうした今まで親しまれてきた人たちに妙な距離感が発生したりしないだろうか。

 旧ユーゴスラビアの人たちの悲劇も、最初はそういうところから始まったのではなかったか。昨日まで何の屈託もなく一緒に暮らし、毎日挨拶を交わし世間話をし、友人づきあいをしてきた隣人が、ある時から急に一方が被抑圧民族として保護されるべき対象だと気づかされた。

 そしてそこで「マイノリティのマジョリティへのヘイトは許されるが逆は許されない」という人権団体のルールが導入される。相手は言いたいことをあらん限りの憎しみをこめて罵倒するが、言い返す権利は与えられていない。

 ヘイトはスピーチに留まらず、ヘイトクライムからやがては拉致、殺害、奴隷化などのテロや民族浄化に発展してゆく。そして外国から軍隊がやってきて空爆を始める。

 沖縄のデモ隊はどんな罵詈雑言も許されているが(実際はマイノリティとは言えないような本土人が多数混ざっているのだが)、機動隊は「土人」と言っただけで大問題になる。これが言葉の問題だけですんでくれればいい。

 特に国連常任理事国が米英仏と中露に分裂して第二の冷戦状態にある今、民族紛争は容易にその両陣営の代理戦争に発展する。沖縄が独立すると言い出せば、中国が黙っていることはないだろう。ただでさえ中国はかつての朝貢国は中国固有の領土だと主張している。

 沖縄と日本がいつまでも平和であるためには、適度なガス抜きをしながらも事を荒立てない知恵が必要だと思う。

10月10日

 今日は古代東海道の続きで鐘ヶ淵から。

 田園都市線で久喜行きの急行に乗れば一本で行けるのかと思ったら、途中で東武線での人身事故の車内放送があり、押上止まりになってしまった。

 押上駅はソラマチの北側で、東武線のとうきょうスカイツリー駅は南側だから少し歩かなくてはいけない。朝9時ごろのソラマチ商店街は、所々開いてる店もあり、人通りも多かった。

 東武線は幸い動いていて、9時半には鐘ヶ淵駅に着いた。動いてなかったら、押上駅に戻って京成線で八広駅へ行って、そこから歩くところだった。

 取りあえず鐘ヶ淵駅で降りて踏み切りを渡り、左側の道へ入る。空は曇っていて肌寒い。この前と同じような下町の狭い道で、すぐに堤防に突き当たった。その向こうは荒川の河川敷が広がり、サッカーや野球の練習場になっている。

 今の荒川は大正から昭和のはじめごろに作られた人口の川で、子供の頃は荒川放水路と呼ばれていた。明治の頃まではここには何の障害物もなく真っ直ぐ四つ木の方へ行けたが、今は国道6号線の四つ木橋まで行かなくてはならない。

 四つ木橋を渡り堤防の上を行き堀切避難橋で綾瀬川を渡る。綾瀬川も本来は汐入の北の隅田川が大きく曲がるあたりで隅田川に合流していた。

 それと、前回のところで訂正するが、『伊勢物語』の「武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。」という記述は間違ってなかった。武蔵と下総の境が今の江戸川になったのは江戸時代に入ってからで、それ以前の隅田川の向こうは下総国葛飾郡で、今の江東、墨田、江戸川から市川市、さらには今の埼玉県北葛飾郡まで含む広い範囲を示していた。市川にある八幡神社が葛飾八幡宮というのもそのためだった。間違っていたのは『更級日記』の「しもつさの国と武蔵との境にてあるふとゐ河」の方だった。

 ってことは、ひょっとして江戸時代に境界線が変更されてなければ、深川両国あたりの江戸の下町も千葉県になってたかもしれない。そうなると佃島の領有権もあぶないし、お台場あたりも微妙な所だ。

 堀切避難橋だと今度は北に寄り過ぎるので、堤防の上をまた戻る。結局国道6号線まで戻ってしまった。そこで四つ木小橋を渡り、堤防の下の道を戻り、最初の斜めの道を入る。こうして古代東海道の痕跡とされる道に出る。

 6号線を渡るとその先に真っ直ぐ行ける道がある。ここに葛飾区教育委員会の古代東海道の説明板が立っている。

 狭い道はまいろーど四つ木商店街の一部で、キャプテン翼の幟が下がっている。その上にはサッカーボールの飾りもある。四つ木は作者の高橋陽一の出身地ということで、キャプテン翼の町になっている。

 奥戸街道の広い通りに出ると、ポスターに四つ木のいくつかのキャプテン翼のキャラの銅像のことが紹介されている。

 残念ながら、キャプテン翼はJリーグが始まった頃の第2作目のアニメの最初の方を子どもと一緒に見ただけで、あまり詳しいことは知らない。

 キャプテン翼のアニメは世界50カ国以上で放映されたたしく、ワールドカップに出場するような選手でも、このアニメでサッカーを始めたという人が結構いるらしい。リオデジャネイロ・オリンピックの閉会式のプレゼンでもこのアニメが一部用いられていた。

 世界にたくさんのファンを持つキャプテン翼だから、東京オリンピックに向けてうまくネットを通じて世界に発信できれば、ひょっとしたらクレヨンしんちゃんの春日部みたいに、世界の四つ木になるかもしれない。

 ただ、そのとき間違っても、世界からたくさん人が来るのだからもう少しハイカラな町に整備しようかなんて思わないことだ。外人さんはヨーロッパの町のフェイクなんて見てもしょうがない。あくまで昭和の下町の雰囲気を大事に守って欲しいし、その方が外人さんも喜ぶと思う。

 奥戸街道で見た銅像は中沢早苗の一つだけで、このキャラはよく覚えていない。一瞬野球のバットを振っているように見えたが、よく見ると後ろに旗が描かれていて、応援旗を振っている像だった。

 奥戸街道を行くとやがて京成線の踏み切りに出る。その先は立石になる。立石駅通り商店街にもキャプテン翼の幟が下がっている。作者の母校の南葛飾高校が立石にあるからだろう。キャプテン翼の舞台となっている静岡県南葛市の「南葛」は母校の名前から取ったという。

 立石にはこの先に喜多向観音地蔵の小さな社がある。

 そこからすぐに中川の橋の手前に出る。奥戸街道はここで右に曲がって橋を渡り、六軒島で蔵前橋通りに合流する。ただ、ここではあくまで真っ直ぐ行かなくてはいけない。となると目の前は中川だ。本来古代東海道は、ここを真っ直ぐ行って奥戸橋の向こうのスポーツセンターを通って三和橋のほうへ行くのだろう。いつからか、ここは中川によって断ち切られてしまっている。

 関東の川は治水事業によって何度も流れが変えられて今に至っている。おそらく古代にはここに川はなかったか、あっても小さな川だったのだろう。今の中川は春日部の方を通る大落古利根川や越谷を通る元荒川が合流して、結構水量がある。一部は新中川(子供の頃は中川放水路と呼ばれていた)に流れているものの、それでも結構大きな川だ。

 かつて利根川は大落古利根川の方を流れ、荒川も今の元荒川の方へ流れていたとすれば、利根川+荒川でその水量も大変なものだっただろう。それが今の中川に流れず八潮のあたりで西に流れて綾瀬川に合流し、最終的に隅田川に合流してたとすれば、隅田川は今の利根川の下流に匹敵するくらいのかなり大きな川だったことになる。あるいは一部は今の水元公園の方を通って太日川(今の江戸川)の方に流れていたのかもしれない。諸説あるようだ。

 しばらくは中川に沿って進む。川の横に小さなとげぬき地蔵の社がある。そして奥戸橋を渡ってスポーツセンターの所に出る。体育の日なのでなにやら大きなイベントをやっているようだ。そこから三和橋を渡る。そこから先の道は広く、電柱や電線がないのでかなりすっきりした感じだ。ここまで来るともはや下町ではなく、最近になって開けた住宅地なのだろう。

 京成小岩駅の近くに上小岩遺跡説明板があり、ここに古墳時代前期の集落があったという。このあたりの道は上小岩遺跡通りになっている。京成の線路を越えるとやがてお寺の所で終わりになり、お寺の裏に堤防が見える。右に曲がって少し行って左に行くと、その江戸川の土手に出る。昔の太日川だ。この河川敷も野球の練習場が何面もあり、川の向こうは高台になっていて和洋女子大の高い建物が聳え立っている。あのあたりに下総国府があったのだろう。

 江戸川に阻まれここから真っ直ぐには下総国府にいけないので、川下の市川橋まで江戸川の土手を歩くことになる。京成の線路をくぐったところに「小岩市川の渡し跡、小岩市川関所跡」の説明板がある。江戸時代はこのあたりで川を渡ってたようだ。このあたりでちょうど12時になった。

 市川橋を渡り川上の方へ戻るとすぐに真新しい市川関所跡の碑がある。そこの説明板によると、

 

 「奈良、平安時代の関所跡周辺には、井上駅屋(いかみのうまや)が置かれ、都と下総国を往来する公の使(つかい)が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。」

 

とある。古代東海道の位置からすると、ここよりはやや川上になる。室町時代に連歌師の宗長が『東路の津登』で市川に渡りがあったことも記されている。

 京成線の国府台(こうのだい)駅がすぐそこにあり、京成線の線路をくぐると水門があり、小さな川がある。真間川で、『万葉集』の真間の手児奈ゆかりの場所のようだ。この川がかつての水運の拠点で、国府に物資を運んだりしたのだろう。

 『万葉集』巻9、1807の高橋虫麻呂の長歌には、

 

  「勝鹿の真間の手児名が、麻衣(あさぎぬ)に青衿(あをくび)着け、直(ひた)さ麻(を)を裳には織り着て、髪だにも掻きは梳(けづ)らず、履をだに穿かず行けども、錦綾の中に包める、斎(いはひ)子も妹にしかめや」

 

と、この描写だと貧しいというよりも身なりへの無頓着と生への執着の薄さが感じられる。それが錦綾を着た両家の娘にも劣らず、多くの男たちが通ってきて、結局誰も選べずに「波の音の騒く湊の、奥つ城(き)に妹が臥(こ)やせる」と入水を匂わせる描写で終わる。

 どこか『竹取物語』に似ていると思ったのは俺だけでないだろう。竹から生まれたわけではないが、貧しい家に育ち、その美しさが評判になってたくさんの男たちに求婚され、かぐや姫が月に行くというのも月の都が冥府であることを思えば、自ら命を絶ったとも取れる。『竹取物語』の原型と言ってもいいかもしれない。

 まあ、一生懸命着飾って自己アピールする女よりも飾らない女を求めるのは、男の側に自分の色に染めたいという願望があるからなのか、キャラ的にはエヴァンゲリオンの綾波レイに近いのかもしれない。きっと古代の男たちはひそかに真間の手児奈育成計画を思い描いていたのだろう。特に赤人さんとか、赤人さんとか。

 作者の高橋虫麻呂さん自身は『万葉集』巻9、1738の上総の周淮(すゑ)の珠名娘子(たまなをとめ)を詠む歌一首という、巨乳でビッチな女を詠んだ歌があるので、どっちが好みなのかはよくわからない。

 その真間川の水門の近くに猫が二匹いた。地域猫という札が立っていて、コンクリートブロックで土台を作った立派な小屋と猫用トイレが置いてある。

 その先に水神宮という鳥居のある小さな祠があった。そこにもさび猫がいた。

 川を遡ってゆくと、やがてかつて国府のあった台地が川の方へ迫ってきて、川には波除の三角形のブロックが置かれている。

 古代東海道の江戸川に突き当たった所の対岸はこういう状態で、今ではとても川を渡って上陸できるような状態ではない。台地の上に登るにもかなり急な斜面になっている。

 確かに今のこの状態を見ると、ここを渡ったとは思えない。ただ、古代もこのような状態だったかどうかはわからない。長い年月の末、岸が削られてしまったのかもしれない。

 『更級日記』には、

 

 「そのつとめてそこをたちて、しもつさの国と武蔵との境にてあるふとゐ河といふがかみの瀬、まつさとのわたりの津に泊りて、夜一夜舟にてかつがつ物などを渡す。」

 

とあり、太日川の上(かみ)の瀬にある松里の渡りに泊ったことが記されている。

 これまで歩いてきた古代東海道と違う道が松戸の方にあって、そこを渡った可能性もあるが、松里が果たして今の松戸かどうかもわからないし、そんなたくさんのルートがあったとも思えない。

 おそらく、上総から下総国府への道は今の千葉街道に近いところを通ってきたのだろう。ただ、河を渡る時にはそのまま市川関所跡あたりを渡らずにやや上の方から渡ったのだろう。

 和洋女子大敷地内で発見された和洋学園国府台キャンパス内遺跡では、南北に走る道路遺構と思われるものが発見されている。その東側が国府だったと思われる。そこでは井上(いかみ)駅を示すものも出土し、井上駅が国府に付属するものだったことがわかっている。

 この道は市川の方から国府のある台地へと登ってくる道で、この北側、つまり川上側に井上駅があったのではないかと思う。今で言うと里美公園に近いほうだろうか。あたりは松の木が生い茂り、松里とも呼ばれていたのではないかと思う。そして、ここから、当時はまだ川によって削られてなくてなだらかだった斜面を下って川に出て、川を渡ったのではないかと思う。「ゐかみ」もふとゐ川の上という意味か。

 古代の太日川と隅田川は関東平野の3分の2くらいの水源の水を集めていて、どちらもかなりの大河だったはずで、その下流域には上流から運ばれてきた土砂によってたくさんの中州が作られていたのではないかと思う。

 今の江戸川区、江東区、墨田区のあたりは、こうした広大な河川敷で冠水しやすく、古代東海道はそれを避けて川上の方を迂回したと思われる。

 この地域には向島、京島、松島、大島など島のつく地名があるし、小岩、砂、なども川原だったことを思わせる。行徳は太日川の運んできた土砂による砂州で、その内側の瑞江、春江、一之江などは入り江になっていたのではないかと思われる。

 浅瀬より山が迫っていてある程度の深さのある川上の方が、船で渡るには適していたのかもしれない。『更級日記』では、

 

 「つとめて舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車ひき立てて、おくりに来つる人々、これよりみな帰りぬ。のぼるは止まりなどしていきわかるるほど、ゆくも止まるもみな泣きなどす。おさな心地にもあはれに見ゆ。」

 

と涙の別れの様子が記されている。車を積んで渡れるだけの大きな渡し舟なら、ある程度深い所の方が良かったのだろう。お貴族様は牛車で旅をしたので、峠道以外は歩くこともなかったのかもしれない。幅6メートルから12メートルの駅路も、牛車がすれちがうことを考えれば、それくらいの幅は欲しかったのだろう。

 だいたいさっき来た道の対岸かなというところで引き返し川下へ戻る。台地が川に迫るその入口の辺りに階段があり、台地の上に登れるようになっている。ここに黒猫がいた。今日はよく猫に会う。

 登ると和洋女子大の裏で、聴覚特別支援学校や国府台高校がある。国府台高校のところを曲がって突き当たったところに国府台公園の大きな野球場と陸上競技場がある。体育の日でここはにぎやかだ。

 野球場の手前に下総総社(六所神社)跡の説明板があった。下総は国府を中心に駅と総社と国分寺と国分尼寺が一箇所にコンパクトにまとめられている。

 陸上競技場の先は崖のような急斜面になっている。北側には廃墟のような団地が立っている。その2棟目か3棟目かそのあたりからだとなだらかなのか、戸建て住宅が並んでいる。国分寺への道はこのあたりにあったのだろう。

 急な坂を下り狭い道を行くと、左に国分尼寺の跡がある。ここは発掘されて建物の位置がわかっているようだ。

 さらに東へ行くと庚申塔がある。その先は道が右にカーブして、大きなお寺が見える。今の国分寺だ。突き当りを左に行くとすぐ国分寺跡がある。国分寺の方の全体像はよくわかっていないようだ。今の国分寺も含む広い敷地で、相模や武蔵のような七重の塔が聳えていたのだろう。

 国分寺の横には小さな天満宮があるが、狛犬はない。そういえば今日はまだ狛犬を見ていない。

 現在の国分寺の表のほうへ来ると、入口は閉まっていて朱色の新しそうな楼門が見えた。

 国分寺の南西も崖のような急斜面になっている。下に降りると外環道の建設現場になっている。国分寺跡の方なら、東に道があってもおかしくない。これまで見た国分寺や国分尼寺は駅路上にあるが、ここは盲腸線なのか、それともここから常磐方面に行く道が出ていたのか、よくわからない。

 取りあえず今日の旅はこれで終わりにし、市川の方に戻る。

 途中に、今の六所神社があった。狛犬は昭和49年銘の岡崎型。もう一つ小さな境内社の前に、結構堂々とした江戸狛犬があった。だいぶ風化していて先代さんの再利用か。

 このあと京成線の市川真間駅の近くの登竜門で坦々麺を食べて帰った。

10月9日

 今日のテレビで浦上玉堂のことをやっていた。

 岡山県立美術館で「浦上玉堂と春琴・秋琴父子の芸術」展を今やっていて、11月10日から12月28日まで、それが千葉市美術館に来るという。これは行かなくちゃ。

 玉堂の絵は人が見ているところでその場で描くというライブペインティングの側面もあったのかもしれない。

10月8日

 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」というのは孫子の言葉だ。戦いで一番危険なのは敵を見くびり過小評価することだ。

 自分の手の内はわかりやすいが、相手がどのような相手なのかは十分調査しなければわからない。それを怠って希望的観測だけで進撃すれば負けは目に見えている。

 「人の事を馬鹿だという奴が本当の馬鹿だ」というのは、結局そういうことなのだろう。

 瀬戸内寂聴さんの本は読んだことないが、たぶん本当は頭のいい人なんだと思う。ただ、いくら頭が良くてもそれを維持する努力を怠れば、やはり世間からは馬鹿だといわれることになる。

 まあ、死刑容認派も安保関連法賛成派もただの殺人好きの変態くらいにしか思ってないのだろう。そういう人間が相手なら、ただ「人を殺すことは悪いことだ」という小学生にでもわかるようなことを連呼していれば、世間はみんな自分たちに味方して簡単に勝利できるはずだ、とそう思っているのだろう。

 瀬戸内さんの名言集というのがネット上にあるのでちょっと読んでみた。

 

 理解できないと投げ出す前に、

 理解しようと相手と同じレベルに立って

 感じることを心がけましょう。

 

 なるほどと思う。これは相手のレベルが正確に判断できればという話で、理解しようとする相手のレベルを極端に低く見ていたのでは、死刑容認論者はただの「殺したがるばかども」ということにもなるわな。それで理解できたと思い込んでいるのだろう。

 

 人間として生まれると、

 他の動物にはない誇りが

 心に生じるのだと思います。

 学校の成績より、

 他者の苦しみを思いやれる

 想像力のある人間こそ素晴らしいのです。

 

 その想像力が貧困だと、相手のレベルを異常なまでに過小評価し、そのレベルで他者の苦しみを理解する。それでもって自分は他者を思いやれるのだと慢心し、人として誇りを持つ。

 

 あなたは苦しんだ分だけ、

 愛の深い人に育っているのですよ。

 

 レベルの低い苦しみを理解した所で、その程度の愛の深さしか身につかない。何がネックになっているのかもうお分かりだろう。

 

 相手が今何を求めているか、

 何に苦しんでいるかを

 想像することが思いやりです。

 その思いやりが愛なのです。

 

 想像するだけでは駄目なんだ。想像は人間の欲目で常に相手を過小評価し、矮小化された幻想を愛だと勘違いする。直感的な共感だけでは駄目なんだ。きちんと勉強しなければ、正しい認識を持たなくては、正義への情熱も誤った認識と結びついたらこれほど危険なことはない。94にもなってそれがわからないわけではないだろう。

 大事なのは死刑容認論者だろうが安保関連法賛成論者であろうが普天間移設賛成派であろうが在特会であろうが、きちんと議論して相手が単なる馬鹿ではないことを知るべきだ。そのうえで、十分話し合って問題を解決しなければならない。

 冷戦崩壊で社会主義の理想を失った左翼に残ったのは、かつての指導者でありインテリゲンチャであったというプライドだけ。その驕りが今の左翼をどうしようもなく劣化させている。持論です。

10月6日

 市場ずしの山葵の報道は、あの「日本死ね」のブログと同じ匂いがする。

 まず、真偽不明の韓国人のtwitterが元になっていて、それがネット上で話題になる前に報道が先行している。それに間髪いれずに左翼系の文化人がコメントを出す。そして左翼系のtwitterを通じて即座にこのニュースが拡散される。2ちゃんねるが完全に後手に回る。

 今日のテレビニュースではバスのチケットに「チョン」と書かれていたやはりtwitterが元になった報道をしていた。

 マスコミが不機嫌な時代的なコンセプトで、世界的にヘイトが蔓延していて、このままでは第三次世界大戦が起こると警鐘を鳴らすのは勝手だが、これがかえって民族感情を煽ってしまう危険もある。

 誰だって自分の国の国民が非難されれば面白いとは思わない。仲間を信じたいと思うのは人間の自然な感情だ。韓国人がいったからといってそれを鵜呑みにして日本人に対するヘイトが拡散されるのは、決して愉快なことではない。それで日本はやはり後進国だ、野蛮国だといって喜び、日本なんて国はなくなってしまえばいいんだなんて言っている西洋崇拝者を喜ばしたからといって、この国の文化が発展するわけではない。ただ日本の固有の文化が抹消され、まがい物の西洋が幅を利かすだけだ。

 俺は日本人を信じているし、たとえ事実だとしても悪気があったわけではないと思う。信じているのだから、それを裏切るようなことはしないで欲しい。

9月27日

 「ヘイト」という言葉は最近流行なのか、何でもかんでも「ヘイト」という言葉で片付けようとしている所がある。

 人が集まって暮らせば、そりゃあ愛も芽生えればぶつかりあってイライラすることも多いし、憎しみがあるのも当然のことだ。

 そもそも論で言うなら、有限な地球に無限の生命は住めない。これは生命誕生以来の永遠の矛盾だ。

 有限な地球に限られた生命しか生きることができない。そこで生まれるのが生存競争だ。

 有限な大地で有限な生産力なら、そこで生きられる人も自ずと定員がある。

 人口を一定に保つには、生まれた子どもがちょうど大人になって次の子を生む頃に二人生き残るようにしなくてはならない。

 かつては乳幼児の死亡率が高かったから、二人の子どもが残るようにするには四人くらい生む必要があった。出生率4くらいが適正ということになる。

 今は乳幼児の死亡率が低いので、出生率は2で十分ということになる。それ以下だと人口は減少に転じ、それ以上だと人口爆発の危険がある。

 人間に限らず、すべての生き物は子どもを絶やさぬために、たいていは過剰に子どもを生む。不足すれば個体数が減少し、やがては絶滅するわけだから、今生きている生物は不足しなかった、常に過剰に生んでた生物の子孫だからだ。なら何で少子化が生じるのか。

 ネズミは過密な状況に封じ込めておくと友食いを始める。サルも個体数が飽和状態になれば子殺しをする。人間はそれより進化しているから、過密になっても共食いをしたり子殺しをしたりせずに、子どもの数を減らすという選択ができる。それだけのことだろう。

 過密になると、どうしてもイライラが募る。定員オーバーになった船は誰かを下船させなければ船が沈む。そこで何か理由をつけては誰かを追い出さなくてはならない。それが「ヘイト」の根底にある。

 ヘイトは何ら現代社会の特殊な現象ではないし、また根絶できるものでもない。いつの時代でも人間はヘイトと共存してきたし、それはこれからも変わらない。

 「不機嫌な時代」というのも今に始まったことではない。人口がその時代の生産力からしてほぼ飽和状態になっていれば、いつでもどこでも排他的な不機嫌な時代になる。農村の閉鎖性は農業生産が土地面積に拘束され、既に開墾可能な土地が耕されていれば、もはや飽和状態だからだ。だから、様々な因習で持って土地の人間を縛り付け、何らかの形でそれにそぐわぬ人間を追い出してきた。

 近代化の過程では生産性の向上によって定員を増やすことができたため、いっときの自由を獲得することができた。その近代も高度成長期はいいが、やがて低成長、ゼロ成長、マイナス成長となると、定員はもはや増えない。人間関係は排他的にならざるを得ない。昔の村社会に逆戻りを始める。それが今日の「不機嫌な時代」の本質だ。それ以上でも以下でもない。

 少子化は社会全体に蔓延する漠然とした子ども嫌い、子どもへのヘイトから来る。子どもの声がうるさいだの子どもがちょろちょろ走り回るとうざいだの、保育園が立つと静かな生活環境が奪われるだの、そうした風潮は人口がこれ以上増え、過密になることへの無意識の抵抗で、本能といっていい。

 こうした本能的なヘイトは、必ずしもマジョリティーがマイノリティーに対して行うとは限らない。ヘイトがマイノリティーに向かいやすいのは単なる力学にすぎない。マイノリティーだって自分たちの勢力を拡大したいと思うのは自然なことだし、マジョリティーを排除して自分たちだけの世界を作りたいと思うのも自然なことだ。

 ウクライナではロシア人はマイノリティーだが、それが反乱を起こして独立し、最終的にロシアに帰属しようとしたことは記憶に新しい。そうなるとロシア人はマジョリティーになる。マジョリティーとマイノリティーは相対的なもので、当然ながら下克上もありうる。

 シリア難民も少数ならヨーロッパの国々も喜んで保護するであろう。問題はあまりに数が多いために自分の国の国民を脅かすレベルにまでなっていることだ。数が逆転すれば、ヨーロッパ人がマイノリティーになる。まあ、さすがにそこまではないにしても、局地的にシリア人が多数を占める地域ができれば、そこに住む土着のヨーロッパ人はマイノリティーに転落する。

 在日はたかだが50万人で1億2千万人の日本人に比べれば圧倒的にマイノリティーだが、朝鮮半島の二つの国に住む人たちや中国領内の朝鮮族まで合わせればかなりの大所帯になる。

 社会主義的インターナショナリズムは、こうした問題を上から権力で押さえつけることで解決しようとした。その結果、権力が緩んだとたんに、それまで共存していた民族間の関係が最悪なものとなった。サラエボの悲劇も記憶に新しい。今でもいわゆる「パヨチン左翼」は同じことをやろうとしている。法規制でヘイトはなくならない。

 大事なのは多様性ではなく多元性だ。どこかが中心となって多様なものを管理支配するのではなく、多様なものの相互の綱引きを極力自然な形で均衡に導く必要がある。必要なのは理念ではない。自然の均衡だ。

 インターネットの発達はむしろこうした相互に自由に発言する空間を生み出すという点で評価する必要がある。

 少なくとも片方の意見を一方的に法規制して押さえ込むのではなく、双方に意見を戦わせる場所を残すことは必要だ。論戦が封じ込められれば、不満は必ず暴力となって爆発する。法律は人間の本性を変えることはできない。人間の本性に合わせて法律を作らなくてはならない。

 ヘイトは過密に対する正常な反応であり人間の本能だ。押さえつければ爆発するし、かといって放置すれば争いが絶えない。法や制度は流体力学的な柔軟さが必要とされる。治水管理と似ている。せき止めれば氾濫する。いかに滑らかに流れるようにするかが人間の知恵だ。そこを間違えると旧ユーゴスラビアで起きた悲劇を何度も繰り返すことになるだろう。

 ヘイトを放置すればそれが虐殺に発展する可能性は確かにある。しかし、ヘイトを法規制してもそのリスクが減るわけではない。それはしっかり認識しておく必要がある。

9月25日

 今日は久しぶりに天気が良かったので、どこか近場でも散歩しようと、午後から出かけた。
 長津田駅から、取りあえず延喜式時代の古代東海道の駅の一つ店屋駅の候補地とされている町谷原の方へ向かった。
 長津田駅を出て線路に沿ってつくし野方向に行くと、道は上り坂になり、そこに金刀比羅神社・八阪神社があった。小さな神社で平成2年銘の岡崎型の狛犬がある。
 その先に大石神社があった。ここまで来る間に至る所に大石神社のお祭りの幟が立っていて、それだけに大きなな神社だ。狛犬は嘉永6年銘の江戸狛犬で、拝殿は新しい。相模国と武蔵国の境の石があっただとか、在原業平が賊に囲まれた時に大きな石があっただとかいう伝承があり、古くからここに道があったことが伺われる。
 この大石神社の前の道が旧大山街道で、この道はやがて国道246に合流するが、古代東海道はおそらく長津田宿の辺りの直線をそのまま延長した方へ行き、つくし野を経て町谷原という旧地名のある小川町の方へ抜けたと思われる。
 そういうわけで、森村学園の方へ向かった。駐車場には彼岸花が咲き、つくし野八角堂の前にはなぜか青く塗られた郵便ポストがあり、森村学園の門のところには芭蕉の木があった。その先につくし野駅がある。
 つくし野駅は切通しになっていて、その上の橋を渡る。このあたりは本来稜線だったのだろう。つくし野というとずいぶん前に「金曜日の妻たちへ」というテレビドラマの町として話題になったことがある。だが、町全体が老化してしまったのか、今はあまり活気が感じられない。
 住宅地の中を降りてゆくと、つくし野杉山神社がある。狛犬は彩色された岡崎型で、全体に丸味があって可愛らしい。銘は読み取れなかった。
 スーパー三和のある小川柳谷戸交差点を越えると、住所は小川町になり、道もやや細くなる。谷戸というだけあって、このあたりは谷間になっている。町谷原耳鼻咽喉科があり、このあたりが町谷原と呼ばれていることがわかる。この先に町谷原の交差点がある。多分、店屋駅はこの辺りだったのだろう。
 延喜式東海道は海老名市の望地で道路遺構が発見されていて、そこから相鉄さがみ野駅のほうへ北東に行く道がその名残と思われる。この道は西鶴寺のある大和斎場入口交差点で厚木街道に合流する。そこからつきみ野の南の鶴林寺のあたりまでほぼ一直線に来て、それを延長すると、町谷原交差点よりはだいぶ南側になってつくし野杉山神社のあたりに出てしまう。あるいは店屋駅は小川柳谷のあたりだったのか。
 このあと、この推定ルートからだいぶ北にそれて、町谷原から鶴間橋へと下り、トンネルを避けて細い道を行き、公所(くぞ)浅間神社に出る。狛犬は岡崎型で銘はなかった。この神社も文亀神明録に鶴間神社とある古い神社のようだ。神社の裏には下鶴間甲一号遺跡の説明板があり、このあたりに古墳時代後期の集落があったようだ。この裏側の道が何となく直線的で気になる。
 国道16号線を越えると、つきみ野駅はすぐだ。今日の散歩はここまで。 

9月19日

 今日は古代東海道の続きで、9時ちょっと前にお茶の水(正確には千代田線新御茶ノ水駅)をスタート。空はどんより曇っていて、ポツリポツリと雨が落ちてきている。 

 JR御茶ノ水駅の方へ戻り御茶ノ水橋を渡って、ここから古代東海道の続きになる。 

 聖橋をくぐると左側に湯島聖堂の塀がある。このあたりが昌平坂で江戸時代の浮世絵にも描かれている。どうやら雨は大丈夫のようだ。 

 湯島聖堂は2010年にも一度来たが、今回も一応立ち寄ってみた。大きな孔子像があり、人徳門という黒塗りの立派な門がある。時間が早くて杏壇門が開いてなくて大成殿の方には入れなかったが、屋根の上の大きなしゃちほこのような鬼頭(きぎんとう)や虎のような鬼龍子(きりゅうし)は見ることができた。 

 

 湯島聖堂の裏へ出るとすぐに神田明神の鳥居がある。ここも2010年に来た。きらびやかな楼門があり、昭和8年銘の大きな招魂社系の狛犬があるし、平成2年に再建された獅子山もある。今はラブライブとコラボしているようで、ラブライブのカステラ饅頭と御朱印帳の看板があった。おみくじを結ぶ所もハート型になっている。裏に行くと境内社がたくさんある。 

 神田明神を出て、坂を下るとすぐに秋葉原だ。 

 オタクの聖地だった秋葉原も、最近は新宿池袋あたりによくある、萌えとは似て非なるJKビジネスの店が進出してきていて、援交を斡旋しているという。 

 人権団体の人は「児童買春」という言葉を使っているが、これだと何だか東南アジアの裏社会にあるようなものを想像してしまう。「援交」というわかりやすい言葉を使った方がいいのではないかと思う。ジュニアアイドルのビデオも「児童ポルノ」と言われると、何かもっとすごいものを想像してしまう。 

 秋葉原の中心、ソフマップの角を行くと秋葉原の駅に出る。 

 秋葉原の名の由来は、今の秋葉原駅前広場や駅前ロータリーの辺りに明治の初めに火災よけのために建てられた鎮火社が建てられたのを、当時の江戸っ子が同じ火災除けの秋葉大権現と混同して秋葉っぱらと呼んだことによるという。秋葉原という名前は結構適当につけられてたようだ。 

 確かに手元にある復刻版の明治20年に地図には鎮火社が見られる。この鎮火社は幕末の地図には載ってない。 

 秋葉原の駅を過ぎ、昭和通りを渡ると神田和泉町で、伊勢国津藩藤堂家の上屋敷があったという説明板がある。この説明板に江戸時代の地図が書いてあるが、確かにそこにも鎮火社はない。 

 ちなみに芭蕉が若い頃料理人として仕え、俳諧の道に入るきっかけとなった蝉吟こと藤堂良忠は、藤堂高虎の子孫の津藩藤堂家とは別系統で、高虎の叔母の方の系統になる。 

 和泉町を東に行くと和泉公園があり、その隣に金綱(きんつな)稲荷神社がある。その先を左に行ってすぐ右に行くと福井町通りになる。この辺りは静かだ。 

 浅草橋一、二丁目交差点を左に曲がると遠くに鳥越神社の玉垣が見える。鳥越神社も651年に日本武尊を祀ったの始まりとする古い神社だ。ここも2010年に一度来ている。昭和7年銘の狛犬は細身で吽形の方は頭に角がある。 

 古代東海道の豊島駅は、おそらく秋葉原から鳥越の間のどこかにあったのだろう。かつての豊島郡は範囲が広く、練馬・板橋からこのあたりまで広がっていた。南は荏原郡、東は隅田川の向こうの葛飾郡だった。 

 鳥越神社を出て東へ行くと蔵前一丁目の交差点で国道6号線に出る。古代東海道は浅草橋一、二丁目で曲がらず、真っ直ぐ今の6号線のあたりに出たのだろう。鳥越神社は寄り道だった。 

 6号線の広い通りを行く。厩橋ではスカイツリーが見えてくるが、第一展望台の上が雲に隠れている。その先へ行くと駒形橋西詰の交差点に出、ここから浅草寺の参道が分かれていて雷門が見える。この交差点には駒形堂があり、団体さんが見物していた。 

 

 ここで浅草寺に行かず、さらに6号線を行くと東武鉄道の浅草駅に出る。駅ビルは浅草松屋になっている。その手前に神谷バーがあり、売店があったのでお土産にデンキブランを買った。そして、ここで曲がって雷門の方に向かう。雷門から仲見世通りに入るととにかく人が多い。特に外人さんが。日本人のように見えても喋っている言葉は中国語が多く、たまに韓国語も聞こえてくる。一体ここはどこの国? 

 神田明神よりもはるかに大きな楼門をくぐり、浅草寺にお参りする。そういえば五重塔がないと思ったら、足場に覆われたビルのような建物があった。 

 拝殿の横には境内社が並んでいる。大黒・恵比寿の社の前には小さな狛犬が赤い涎掛けをしている。銘はないが何げに古そうだ。隣の地蔵さんも綺麗な赤い着物を着ている。 

 浅草寺の裏には浅草神社があり、ここには昭和38年銘のブロンズの狛犬と、銘はないが古そうな江戸狛犬がいる。 

 お参りを済ませて外に出ようとすると、左側に夫婦狛犬と書いた札が立っている。札の説明書きには、 

 

 分類‥‥「先代江戸初め」 

 1600年代後半から700年代前半 

 

それに「良縁」「恋愛成就」「夫婦和合」と書いてある。 

 

 その先を見ると唐傘の下に狛犬が両方ともこちらを向いて並んで置かれている。立て札は新しく、縁結びのパワースポットとして整備したようだ。 

 このほか、弁天道の前には岡崎型の変形で、彫りが深すぎるために鬼瓦のような顔をしている狛犬がある。この狛犬の横には、 

 

 くわんをんのいらか見やりつ花の雲  芭蕉 

 

 

の句碑がある。貞享3年の春、古池の句を発表した頃の句だ。浅草寺の桜が満開で、それが雲のように見え、観音様の甍がほとんど隠れているという意味か。翌年には、 

 

 花の雲鐘は上野か浅草か  芭蕉 

 

の句がある。浅草も上野も花の名所で、花にお寺が隠れてしまって鐘がどこで鳴っているのかわからない。 

 徳川吉宗が享保の頃、王子の飛鳥山に桜を植え、それが江戸の花見の始まりとする説もあるが、それ以前に上野や浅草で花見が行われていたのは間違いないだろう。(続く)

 

 仲見世通りの一本裏の通りを通って神谷バーのあるところへ戻る。この道は人通りが少ない。駒形橋西詰の交差点に出ると雲がやや薄くなったのか、スカイツリーが上の方まで見えていた。

 言問橋西を過ぎると隅田川側は公園となり、左には待乳山聖天(まつちやましょうでん)がある。小さな山で、推古天皇の御世に地中から忽然湧き出たという伝説がある。

 ここでは大根をお供えするらしい。お供え用の大根が売っていた。文政3年の大根の碑があり、拝殿にも大根が描かれている。二本の二股の大根が絡み合うデザインだ。かなり即物的に夫婦和合を表している。拝殿前の石段の下に昭和38年銘の岡崎型狛犬がある。

 こんな低い山でもなぜか小さなケーブルカーがある。

 駐車場の方にも岡崎型狛犬がある。ここから登る石段は通行止めになっている。2010年に来た時には先代狛犬が二頭並んで、浅草神社の夫婦狛犬みたいになってたのだが、見つからなかった。

 待乳山聖天の先を斜め左に行くと今戸神社がある。ここも2010年に来た。招き猫発祥の地でもあり沖田総司終焉の地でもあり文政5年の狛犬もある、盛りだくさんの神社だ。文政5年の狛犬は残念ながら金網の中だ。この神社にはもう一つ昭和49年銘の招魂社系の狛犬もある。前に来た時は夏目友人帳のニャンコ先生と黒ニャンコ先生の招き猫が奉納されていたが、今回も健在だった。

 今戸神社を出、川沿いの道に戻る。右に白髭橋を見ながら進むと、その先に石浜神社が見えてくる。ここは2011ねん、震災直後の奥の細道の旅を始めた時に立ち寄っている。大正4年銘狛犬と平成元年銘狛犬がある。

 このあと、道の横はすぐに隅田川の土手になる。撫子と女郎花が植えられている。土手を登ると隅田川の向こうに首都高があり、その向こうに大きなマンションがある。何棟も横につながっていて、堤防を兼ねたマンションだ。川下にはスカイツリーが見える。また雲がかかって、第一展望台までしか見えない。

 しばし土手の上を進む。首都高の影に神社の屋根らしきものが見え、おそらく隅田川神社だろう。多分このあたりが古代東海道の隅田川を渡る地点だ。なかなか雄大な景色だ。

 

 名にし負はばいざ言問はむ都鳥

    わが思ふ人はありやなしやと

               在原業平

 

と歌に詠まれたのもこのあたりか。『伊勢物語』には「武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。」とあるが、武蔵と下総の境は隅田川ではなく太日川だが、そこはアバウトだったか。

 『更級日記』では「しもつさの国と武蔵との境にてあるふとゐ河」とあるが、隅田川に関しては「武蔵と相模との中にゐてあすだ河といふ、在五中将のいざ言問はむとよみける渡りなり。」となっていて、「あすだ河」が隅田川の別名だというから、隅田川の位置は正確には認識されてなかったようだ。

 今は、川を渡るには白髭橋まで戻るか、この先の水神大橋を渡らなくてはならない。

 

 水神大橋の手前に木造の汐入タワーという小さな展望台があった。ここからも隅田川を渡る地点の雄大な景色が楽しめる。

 水神大橋を渡り、土手の上を戻ると隅田川神社の裏を通り過ぎる。その先で通りに出られるので、そこから少し戻ることになる。

 隅田川神社は水神様の神社で、珍しい狛亀がある。境内社の小さな社にも石でできた亀が祀ってある。

 墨田川神社を出て、公園の中を行くと目の前にあの堤防を兼ねた巨大マンションが立ちはだかる。ただ、参道の所は通れるようになっていた。そこを抜けると隅田川神社の一の鳥居があり、広い道路に出る。

 ただ、この道筋だと南東の方へ進んでしまうため古代東海道の道筋と離れてしまう。古代東海道の跡とされている道は東北東へ行く必要がある。このため、広い道を北へ多少歩くことになる。この広い道の向こう側は狭い路地が多く、真っ直ぐ行ける道はほとんどない。ようやくその方角へ行く狭い路地を見つけた。ここが奥戸街道につながり下総国府のあったといわれる市川市国府台(こうのだい)へ一直線で向かう古代東海道の跡だ。これまではあくまで推定路だったが、ここから先はほぼ確定路といっていいところを行く。

 景色は一変して、下町の景色になる。そしてすぐに踏切が見えてくる。そこに東武線鐘ヶ淵駅がある。駅前には「武蔵・下総を結んだ古代東海道」という説明板がある。今日はここまで。

 

 帰りにとうきょうスカイツリー駅で降りてソラマチを見て帰った。ここも人がたくさんいたし、外人さんもたくさんいた。広くて迷う。

9月15日

 鈴呂屋俳話、始めました。

9月12日

 貧乏人叩きの虚構の次は台湾人叩きの虚構。

 だいたい蓮舫という名前からして普通の日本人でないことは誰でもわかるし、中国人なのか台湾人なのかハーフなのか、そこまで詳しくは知らなくても、そっち方面の人だということを今になって知ったなんていう人はいないだろう。

 それで政治家として長くやってきて、今まで中国人だとか台湾人だとか言うのが理由で叩かれてきたわけではない。今でもそれは変わっていない。

 ただ今回ネットを賑わしているのは、その蓮舫さんが総理になると言い出したことで、それなら内閣総理大臣の資質として、まさか二重国籍なんてことはないよねという一点で、一国の首相が二重国籍だと、外交上他国に有利な条約を結んだり、総理だから知りえた情報を他国にりーくしやしないかと、そういう不安が生じるからだ。

 そして、蓮舫さんがここまで非難されるようになったのは、二重国籍ではないのかという疑問に明確な答えを出さないばかりか、あたかもそれをヘイトであるかのように言いふらしているからで、あれから何日もたっているのに未だにまともな答えが出てこないところなど、意図的に二重国籍にしていたと勘ぐられても仕方ない。

 確かに台湾の場合、台湾の法律と中国との法律が重なっていて、複雑な状態にあるのは解る。日本国籍を取得すれば自動的に中国の国籍は失われるが、台湾の国籍は失われない。問題なのはその台湾の国籍が残っているのか、あるいは意図的に残しているのかだ。

 ゴジラを退治するのにアメリカが東京に核兵器を使用するといえば、日本人なら日本たたきだと思うかもしれない。だが、仮にニューヨークにゴジラが現れたなら、彼らはニューヨークにだって核ミサイルを撃ち込むだろう。それと同じことで、中国人だから叩かれているのではない。安倍さんが仮に日本とアメリカの二つの国籍を持っていたなら、やはり総理としての資質を問われることになるだろう。

 普通の民間人が二重国籍であることはそれほど大きな問題ではない。ブラジルのように国籍離脱を認めない国もあるから、多分ラモスさんは二重国籍なのだろう。

 まあ、日本には二重国籍の者が首相になってはいけないという法律はないから、あくまで資質を問われるだけで、法的処分はない。蓮舫さんが総理にふさわしいかどうかは別に国籍だけの問題ではなく、その他の資質を総合して有権者の決めることで、今の状態では国籍関係なくどのみち無理じゃないかと思う。それは今回の対応の仕方に蓮舫さんの人間力が表れているからだ。

 何でもかんでもヘイトに結びつけ、ヘイトがやがて戦争を生み虐殺を生むという恐怖ばかり煽って、恐怖で人を支配し言論を封じ込めようというやり方は民主主義国家にはふさわしくない。それこそ独裁者のやることだ。

9月5日

 戦争に反対し、戦争を起こそうとする勢力と戦うというのはかっこいいことだけど、それは実体があってのこと。平和な時代に戦争と戦うには、ほんのちょっとしたことでもあたかも戦争につながる重大な兆候であるかのように騒ぎ立て、今にも戦争が起こるかのように振舞うしかない。

 正義の味方は悪がいないと成り立たないから、何かかにか理由をつけて悪をでっち上げる。差別に反対する人はまず差別を見つけ出さなくてはならない。最初から存在しなかった貧困差別を大げさに騒ぎ立てれば、誰もが踊ってくれると思ったのかな。

 冷戦が終わり、戦う相手がなくなった左翼は、結局戦う相手を見つけ出すことから始めなくてはならなかった。

 安倍がヒットラーで戦争の準備を始めていると言ってはみたものの、なかなか戦争が起こる気配がないから、次はヨーロッパの移民排斥やアメリカのトランプさんのことを槍玉に挙げ、世界はヘイトに満ち溢れ、今にも第三次世界大戦が起こると言い始めている。

 日本の侵略戦争やアメリカの世界征服を阻止し、第三次世界大戦で人類が滅亡するのを防がなくてはならない。それが事実ならその通りだ。

 日本人は劣等民族だから放っておけば必ず戦争を起こすし、人類は愚かだから必ず破滅的な戦争で人類を滅亡させる。だから正義の味方のヒーローが必要で、それが俺たちだと言いたいのだろう。

 誰も先のことはわからないから、ひょとしたら第三次世界大戦は起こるかもしれない。「株が大暴落する」と言い続けていれば、いつかは大暴落する。「大地震が起こる」と言い続けていれば、いつかは大地震が起こる。「第三次世界大戦が起こる」と1万回言い続けて、たとえそんなことが起きなくても、1万1回目には何かが変わるかもしれない。

 でもどうせなら、「世界大戦なんて起こるはずがないんだ」と1万回言い続けてほしいものだ。そうすればいつかは本当に起こらなくなる。悪を血眼になって見つけ出してそれを裁くのではなく、もっと人の良い所も信じてくれないかな。そうすればきっと世界はもっと良くなるよ。

9月1日

『こやんの街道を行く、東海道編』pdf版をアップしました。

8月30日

 『こやんの鹿島詣で』pdf版をアップしました。

8月27日

 相模原の事件といい東松山の事件といい、リア充の犯罪が続いている。

 相模原の方はクラブ通いで東松山は田舎の暴走族、ともに仲間がいて外で遊び歩き、漫画アニメの影響が感じられないとなるとマスコミも叩き辛いのか、東松山に至っては「良い子達がなぜ」なんて論調になっている。

 まあ、田舎にヤンキーは付き物で、ほとんどの人は二十歳過ぎれば卒業していい親父さんになってゆくものだが、そこに至るまでに取り返しのつかないことをやってしまうこともある。この頃じゃ暴走族も稀で、昔みたいな抗争を繰り返す相手もいないのだろう。ついつい一般人のほうに矛先が向いてしまうのか。

 血気盛んで喧嘩したくてうずうずしている若者は昔も今もたくさんいる。それは左翼も同じだ。昔の左翼学生は内ゲバ・抗争に明け暮れていたが、こちらの方も戦う相手がいないのか、姿の見えない相手を一括りに「ネトウヨ」と呼んだりして、何でもかんでもヘイトに仕立て上げ、それを安倍ヒトラーに結び付けて気勢を吐いている。丸腰の在特会にはでかい面しても、街宣車右翼が来たら逃げてゆく。

 縄張りを守ろうとする本能は生得的なもので、未開社会なら隣の村に行って一人殺して来てそれで成人として認められるなんてこともあったんだろう。部族間の半ば儀礼化した戦争は、個体数調節の役割を果たしていたのかもしれない。ヤンキーの暴走はその時代の名残なのかもしれない。

 相模原の方は違う。あれは理性が人間の生理的感情を無視する決定を下したゆえのDQN理性の犯行だから一緒にはできない。でも、どこか根底には何か理由をつけて戦いたいという衝動があったのかもしれない。

 どっちにしても強い敵を倒したならヒーローにもなれたかもしれないが、弱い者苛めを評価する人なんて誰もいない。たった一人組事務所に押し入ってやくざを殺しまくったというならまだスカッとするが、手足も動かない障害者を殺してもただの卑怯者だ。東松山のパズルだって大勢で寄ってたかっての弱い者苛めはヤンキーの美学に反するだろうに。

 同様に、左翼の若者ももっと強い相手を探した方がいい。この世の中で貧乏がなくならないのは何が悪いのかといったら、相手はネトウヨじゃないだろう。もっと他にいるだろう。貧乏を食い物にしている奴らが。

8月25日

 間違ってはいけないのは、だれも「貧乏人」をバッシングしているのではない。偽貧乏人だというので炎上しているだけだ。そこを間違わないように。特にマスコミに言いたい。

 問題をややこしくしているのは、日本語では通常「貧乏」と「貧困」が区別されて用いられていることだ。

 たとえば「貧困か?」と聞かれればほとんどの人は「違う」と答えるだろう。だが「貧乏か?」と聞かれれば半数ぐらいの人は「ああ、うちは貧乏だ」と言うかもしれない。日本語の「貧困」は実際にはほとんど「絶対的貧困」の意味で用いられている。相対的貧困は日常的な言い回しだと「貧乏」の方を用いている。

 英語だと相対的貧困はrelative poverty、このpovertyという言葉は形容詞poorの名詞形で、貧乏という言葉を英和辞典で引いてもpovertyと書いてある。つまりrelative povertyは「相対的貧乏」と訳してもいいわけだ。

 「貧困をなくそう」と言うと、多くの人は首をかしげて、「今の日本に貧困なんかあるのかい」と言われそうだ。これを「貧乏をなくそう」と言い換えれば、「だったら俺の生活も何とかしてくれ」にならないだろうか。

 政治家は別にトランプさんでなくてもやはり中学生でもわかるような言葉を使うというのが基本ではないかと思う。相対的貧困と絶対的貧困がなんちゃらいっても大衆には何も伝わらない。それで切れて、「だから日本人は馬鹿なんだ」だとか、「そんなこともわからないなら貧困について議論するな」だとか、あからさまに大衆を見下した態度を取るから、「パヨクは偏差値低い」と言われてしまうんだ。単純に「貧乏をなくそう」と言ってくれればいいんだ。

 言葉の問題でいえば「児童買春」という言葉も何とかならないものか。日本語では昔から小学生は「児童」で中学生は「生徒」、大学生は「学生」と区別されて用いられている。だから「児童買春」というと小学生が親に無理やり売春を強いられているような、東南アジアあたりの裏社会にありそうなことを連想してしまう。

 それで「秋葉原で児童買春が行われている」なんて言うから、「今の日本でそんなことがあるはずない、悪質な秋葉叩きだ」となってしまうんだ。「援交」という誰もが知っている言葉を使えば済むのに、わざわざ変な言い回しをするから、問題の本質が伝わらない。

 翻訳調のおかしな日本語を使うから、「あいつは日本語がおかしい、チョン確定」ってなってしまうのではないか。

 

 ちなみにどこから下を相対的貧困と呼ぶかについては、国ごとに独自の基準があり、政治的に意図的に上下させられたりもする。日本の場合は特に政府が定めてないので、明確な基準はない。ただ、ネットを見るとこの手の議論で常に登場するのは国民生活基礎調査の数字だ。

 ウィキペディアによると、

 

 「2013年の国民生活基礎調査では、日本の2012年の等価可処分所得の中央値(名目値244万円、1985年基準実質値221万円)の半分(名目値122万円、1985年基準実質値111万円)未満の等価処分所得の世帯が、相対的貧困率の対象となる。各名目値で単身者では可処分所得が約122万円、2人世帯では約173万円、3人世帯では約211万円、4人世帯では約244万円に相当する。」

 

とのことだ、他のサイトを見ても大体似たり寄ったりの数字が示されている。

 4人世帯の244万は、ちょっと給料の安い業種なら容易に引っかかりそうだし、ましてリストラされてバイトで食いつないだりしてたらこのレベルはそんなに珍しいものではない。年収300万でも子沢山なら相対的貧困家庭の仲間入りになる。

 「2人世帯では約173万円、3人世帯では約211万円」も、母子家庭で親がパートだったら簡単にこれを下回る。独り者でも不安定なバイト生活だったら122万円くらいすぐに切ってしまう。そう考えれば相対的貧困は確かに珍しいものではない。

 なお、ここでは不動産や金融資産は計算されていないので、豪邸に住んでても働かなければ相対的貧困になる。相対的貧困家庭でも親の持ち家があるなら、年収300万の借家住まいよりもリッチな生活が楽しめる。

8月23日

 最初はNHKが「すいやせん、また嘘つきやしたー」という問題だと思ってたら、いつの間にかそれを指摘した側が貧乏人差別だの、貧乏人ヘイトだのという問題に広がって、そうなると結局こういうヘイトだらけの世の中にしたのは誰だ、安倍が悪い、というところに落ち着いてしまうのか。

 まあ、別に1000円のランチを食おうがワンピースのグッズを集めていようが、そんなのはどうでもいい問題で、そもそも日本の相対的貧困は6人に一人というから、クラスに7人も8人もそういう人がいるのが普通なんだということで、みんなと同じように生活している人が数字の上では貧困家庭なんだということで納得した方がいい。

 昔は絶対的貧困が問題だったし、今でもある程度の年の人なら、貧乏というと大体イメージできる貧乏人像がある。その感覚からすると、貧乏というのは三度の飯も切り詰めて、雨が降るとキャベツばかりかじってたり、一杯の掛けそばを3人で分けて食べたり、納豆をキャビアだといって食ってたり、田んぼで取ってきたタニシをアサリだと言ってたり、そこらへんの雑草を引っこ抜いて食っては生活保護の金を貯めてハワイに行ったり、とかそういうよく知られたエピソードなんかを思い浮かべたりする。終戦直後だったら芋のつるを食っただとか、そういう話もよく聞かされた。

 今問題になっている貧困問題はそういうのとは明らかに違う。それをマスコミは正しく伝えなくてはいけないのに、昔ながらの貧乏像に近づけて説明しようとするから無理が生じる。パソコンが買えないからキーボードだけ買って練習したとか、本当か嘘かは知らないが、今日の相対的貧困の問題を理解させるのに適切な例とは思えない。パソコンは新品でも安いものは2、3万で買える。ネットに接続すればプロバイダ契約料を毎月払わなくてはいけないが、スマホを持っているならスマホ用のBluetoothキーボードをという手もある。安いものは2千円しない。要するに、こういったことは貧困の例としてはふさわしくないしどうでもいい。

 第1回かながわ子どもの貧困対策会議の議事録を見ると、高校生代表の発言にこうある。

 

 「私は高校生で、私立高校に通っていますが、身の周りにあまり日本の子どもの貧困について知識がない、見たことがないという友人が多い。このような講演会や会議を開くことによって、子どもの貧困、日本にも子どもの貧困があるんだということを気づくきっかけにもなると思うので、マイナスなイメージを持つということよりも、まず知ることから子どもの貧困について始めるべきだと思います。」

 

 ほとんどの人は貧困というといわゆる昔からある「貧乏」のことだと思っているから、ほとんどの人はそういうのを見たことがないというのは当然だ。ただ、相対的貧困という意味ではクラスにそういう人が何人もいて、毎日顔を見ているんだということを問題として提起している。その人はみんなと同じようにスマホを持っていて、ラインやツイッターをやっているかもしれないし、アニメグッズをたくさん集めているかもしれない。しかしその家の収入を見ると実はほとんど余裕がないということもあるということが問題なだけだ。

 このあと大学生代表の発言にこうある。

 

 「子どもの貧困問題については、中学生の時から周りにいて、学校に来ない子とかもいて、若干いじめのようなこともありましたが、私はいじめを無くすためにも理解してもらいたいと思っている。私は中学生の時にいじめられていたこともあり、私自身、貧困のことを話したくはなかった。いじめのことを私が一番危惧していて、不安だが、そこを解決していきたいからこそ私はみんなに理解してもらいたいと思っています。」

 

 相対的貧困は目立たないから、隠そうと思えばある程度隠すことができる。これが昔の絶対的貧困との違いだ。いじめを恐れて貧困を隠す人がいることで、問題が表面化しにくくなる。これは同和や在日や性同一性障害や他の様々な差別にもいえることで、見た目にわからない場合はいじめを恐れて隠す傾向にあるのは普通のことだ。そのためにその実態が世間にわかりにくくなっている。なら、どういう実態があるのかということになるのだが。

 ただ、この会議はその辺の本質にほとんど切り込もうとしない。NPOだとか、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカーの活動を紹介したり、ぴっかりカフェなどの成果をアピールしたり、要するに大人というのはそういう生き物だ。対策しにしても子どもの貧困対策推進月間を作るだとか、何一つ具体策がない。

 そのほか、高校生代表の提案に、

 

 「神奈川県の花が百合ですが、英語でLily(リリー)というので、リリーというタイトルにして、リリーちゃんのキャラクターが作れるのではないかと思いました。」

 

というのがあったが、問題はそこなのかよ。それに対する大人の反応というのも、

 

(副座長)

 他の自治体でリリーちゃんという、ゆるキャラがいたと思います。

(座長)

 それだとダメですね。あと他にカモミールという意見がありました。

(大学生代表委員)

 カモミールという花言葉には「逆境に耐える力」という意味があるので、良いかなと思いました。

 

と、おいおいカモミールは図書館戦争だろうが。

 とにかく、この後の議論はどうアピールするかばかりで、何が問題なのかまったくわからない。こんな感覚の延長でNHKもあの番組を作っちゃったんだろうな。目立てばいいというだけなら、今回の事件でその目的は確かに達成したが。

8月15日

 今日は古代東海道東への続きで、9時10分中野駅を出発した。空はどんより曇っていて気温はそんなに高くなくて歩きやすそうだ。台風が近づいているせいだろうか。

 中野サンモールから中野三番街へ入る。早朝だが人通りは多く、開店前の店の準備で忙しそうだ。

 突き当りの保育園の所を右に曲がり、その先を左に行き、少し行くと北野神社がある。古そうな小さな江戸狛犬があるが、銘は読み取れない。右側の玉取りの玉に紐がついているのが珍しい。

 文園通りに入る。このあたりの道はどこも狭い。季節柄、槿の花をよく見る。赤い綺麗な槿があると思ったら、それはハイビスカスだった。

 やがて中央線の線路脇に出る。東中野駅が近づくと線路は下り勾配になり切通しを行くので、線路を下に見下ろすようになる。

 東中野駅は山手通りを渡ったところにあり、山手通りの落合方面は下り坂になっている。今まで歩いてきたのが神田川と妙正寺川に挟まれた小高い台地の上だというのがわかる。その台地も東中野駅の先で急坂になり、神田川へと降りてゆく。いわば山の手の終わりとも言えるところだ。

 東中野駅の交番の横は階段になっている。線路は高架になっている。そして下ったところの万亀橋で神田川を渡る。

 ここから先の道も狭い。大きな寺のあるところを左へ曲がり、学校の裏を抜けると鎧神社の裏側に出る。日本武尊の甲冑六具を収めたことを由来とする神社で、平将門の鎧もここに埋めたと言う。古代東海道が通るのにふさわしい神社だ。

 ここは震災前の2010年10月にも来ていて、天保7年の江戸狛犬、享保6年の狛犬型庚申塔(普通に江戸はじめの狛犬にしか見えない)は健在だ。

 中央線の鎧ガードという名前のガードをくぐると淀橋市場の前に出る。このあたりから緩やかな上り坂になり、戸山と言うだけあって若干高くなっている。されど山の手は続くと言った所か。神田川の反対側の台地が南の方から張り出しているようだ。

 明治通りを渡る。このあたりも南北が緩やかに下り坂になっていて稜線になっているのがわかる。マクドナルドの所を曲がるとここは谷になっている。正面に小さな山が見えるが、あれが箱根山か。

 箱根山は標高44.6メートルで、戸山公園サービスセンターでは登山証明書がもらえるらしい。ただ、この山は古代からあったのではなく、寛文の頃に作られた築山だと言う。ただ、先の稜線上にあるため、もとからこの辺りは多少盛り上がっていたのだろう。

 箱根山を過ぎると、この戸山の稜線と北側の谷との高低差が大きくなる。このまま稜線を進みたいところだが、早稲田大学と山キャンパスに阻まれる。正面に見える国立感染症研究所の建設中に100体もの人骨が出てきたため、この付近は心霊スポットとされているらしい。陸軍軍医学校の跡地だったため、731部隊との関連が疑われている。

 ここを左に曲がって箱根山通りを降りてゆくと、そこに穴八幡宮がある。

 穴八幡宮も2012年の2月に来ている。赤い楼門と黒と金の拝殿は荘厳だ。神武天皇遥拝所の宝暦5年銘狛犬も健在だ。阿形は宝珠を頭に載せ、吽形は角がある。この神社も康平5年(1062年)に奥州の乱を鎮圧した源義家に由来するという古い神社だ。

 穴八幡を出て夏目坂を登ると戸山の稜線の方に戻る。夏目の名はあるものの、残念ながらにゃんこ先生はいなかった。

 夏目坂をこのまま進むと反対側へ降りていってしまうので、左に曲がり、再び狭い路地に入る。牛込二中と早稲田小の間を通ると、漱石山房通りというこれも小さな路地に出る。何だ漱石の方の夏目か。未だに朝日新聞に連載を書いているらしい。漱石公園というのもあった。

 保健センターの前に出てその裏へ行くと小浜藩邸跡というのがあった。杉田玄白もここで生まれたと言う。公園の名前も小浜公園。さらに行くと矢来能楽堂の裏で突き当たる。左に行くと地下鉄の神楽坂駅に出る。ちょうど12時だ。71年前に玉音放送のあった時間だ。

 

 今日の神楽坂も平和だ。オリンピックはメダルラッシュだし、中国船はあれからそんなに目立った動きもない。ただ、先のことは誰もわからない。まあ、中国はあんなちんけな島なんかより、本当に欲しいのは東シナ海そのものではないかと思うから、いきなり日本に攻めてきたりはしないと思うが。

 

 

 左側の奥に赤城神社がある。筑土八幡神社ほどではないものの正安年(1300年)創建と伝えられている古い神社だ。

 狛犬は真新しく銘はないが、形は昔からあるものを復刻したらしい。いわゆる白山狛犬というおかっぱ頭の狛犬だ。

 拝殿も新しいが、境内社の螢雪天神の形は異様だ。やはり新しい拝殿だが、階段を登ると神楽殿のように床になっていてその向こうに扉があり、そこに御神体がありそうなのだが、奥行きがほとんどない。しかも床下は道路になっていて、その道路は奥にある稲荷社に続いている。

 この境内社は本来朝日天満宮だったのを、戦後旺文社の赤尾文夫の寄進によって再興されたもので、「螢雪時代」の神社というわけだ。もっとも俺は「赤尾の豆単」の世代ではなく「しけ単」の世代だが。

 筑土八幡神社はここからさらに狭い路地を右左に行った所にある。嵯峨天皇の時代(9世紀のはじめ)に起源があるとされている。やはり2010年10月、鎧神社に行ったのと同じ日に来ている。文化7年銘の江戸狛犬、桃の実を持った猿の描かれた庚申塔は健在だ。

 表側は長い石段になっていて、ここがこれまで歩いてきた戸山の稜線のエンドだ。この横を緩やかに下るのが神楽坂で、多分その起源は古代東海道にまで遡れるのではないかと思う。

 筑土八幡町の交差点に出ると、景色は一変する。広い道路に高いオフィスビルなど、もはや山の手の景色ではない。

 この先の道路はとにかく広い。首都高の下を通り、神田川に沿って進む。左には東京ドームや後楽園遊園地が見える。道路の脇には「お茶の水分水路」の碑があり、神田上水懸樋跡の碑もある。神田川の浚渫作業は芭蕉が若い頃指揮したとも言われている。

 

 やがて御茶ノ水の駅に出る。今日はここまで。

8月10日

 実際には今すぐ中国が日本に攻めてくることはないし、いくらなんでもそんな馬鹿なことは考えていないだろう。仮にあるとしても優先順位からすればかなり先のことだ。韓国やベトナムのあとだろう。

 今起きている大量の漁船(?)と何艘かの公船は尖閣諸島を狙っていると言うよりは、むしろ日本人の目を尖閣諸島に引き付けておいて、本当の狙いは東シナ海そのものにあるのだと思う。つまり大量の艦船を航行させることで、東シナ海の実効支配をアピールするのが狙いだと思う。

 東シナ海には油田やガス田があり、当然中国はそれを狙っている。その開発施設を守るためにやがて南シナ海のような人工島を作り、そこに軍事拠点を置くことの方が重要で、尖閣諸島は後回しでも良く、ただその海域に日本船が近づけないようにすることの方が重要なのだと思う。

 海洋の支配は南シナ海で前例を作ってあるし、海洋だけの侵略なら島を奪うよりも印象が薄く、国際的な非難も生じにくい。それでいて海洋資源を独占できる上、航路だけでなく航空路も奪うことができる。

 南シナ海と東シナ海の実効支配が完成したら、その次に両方の海の要となる台湾と沖縄を狙ってくる。台湾は「一つの中国」を大義名分として、香港のようにじわじわと影響力を強める作戦に出るだろう。沖縄は先住民族の独立の支援を名目に介入し、最終的に住民に中国への帰属を選ばせるように誘導する。

 このどちらかが成功すれば、中国の艦船は自由に太平洋へ行き来できるようになり、次は小笠原海域の実効支配を狙ってくるだろう。同時に日本とASEANは分断され、航路や航空路を失う。

 陸地を攻めるのはどうしたって世界に与えるインパクトが大きい。だから目立たない海洋進出から突破口を開くというのが、今の中国のやり方なのではないかと思う。

8月9日

 逆説的な言い方だが、中国が仮に既に日本侵攻を決定しているとすれば、パヨクの主張は現実味を持ってくる。

 簡単に言えば、戦わずに負けろということだ。戦わずに負ければ戦争にはならない。

 負けたあとは中国の支配の下で過酷な世の中が待っているかもしれないが、中国政府に胡麻擦ってうまく取り入れば、逆に日本人を支配し教育する役割を担うことができる。

 今まで西洋かぶれで、西洋の古い形而上学の論理を振り回して「だから日本人は駄目なんだ」と言ってたのを中国共産党の論理に変えるだけだから、彼らにとってそんな難しいことではない。今までどおり知識人として振舞うことができる。

 明治以降の日本の歴史が日本人による自己植民地化だったのだから、アメリカの植民地から中国の植民地に変わったところでそんなに変わるものではない。アメリカ合衆国日本州から中華人民共和国日本省に変わるだけだ。

 戦わずに負けるためには、憲法9条は何としてでも守らなくてはならない。憲法9条がなければ戦わない理由がないからだ。

 戦えば、たとえ勝ったとしても必ず犠牲者は出る。犠牲者を出さないためには、手っ取り早く土下座して謝って、この国を差し出せばいい。やくざに凄まれた時には下手に逆らうなというのと一緒だ。「長いものには巻かれろ」という古い言葉もある。あとは中国人になりきって、中国人のようにものを言い、「僕は本当は中国に生まれたかったんだ」なんて言っていればいい。既にその練習は十分してきただろう。

 もちろん、どんなに頑張っても中国人そのものになれるわけではない。ただ、これまで名誉白人の地位に甘んじてきたように名誉中国人になれれば、とりあえず安泰だ。あとはこんなに中国人になろうとしているのに中国人として認められないことを、悔しんで見せて同情を引いてればいい。

 戦後日本の知識人は、自らの歴史文化を根底から否定することがかえって日本人らしいと言ってたのだから、それが西洋から中国に変わるだけのことだ。

 敗戦が生んだ戦後思想は、戦後70年を経て既に賞味期限が切れている。多くの日本人は既に日本人としての誇りと自信を取り戻している。ただ、そこに起死回生リライトしてーができるとすれば、それは中国によってもう一度日本が否定され、敗戦状態のオキュパイド・ジャパンを復活させることだ。今度は中国人が新しい平和憲法を書いてくれることだろう。

 憲法9条を守り戦わずして負ける、このことでパヨクは失うものがない。 早く負けて楽になろうぜー、といったところか。

 

8月8日

 日本国憲法で定められている天皇の国事行為は以下の通り。

 

 「第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。

二  国会を召集すること。

三  衆議院を解散すること。

四  国会議員の総選挙の施行を公示すること。

五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。

六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。

七  栄典を授与すること。

八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。

九  外国の大使及び公使を接受すること。

十  儀式を行ふこと。」

 

 基本的にはこれ以上のことはやらなくていいのではないかと思う。あとは昔の天皇のように遊ぶことによって、古来からの遊びの文化を守るということも大事なことではないかと思う。まあ、基本的に一番大事な仕事は皇統を絶やさないことだが。

 それからすると、今の天皇は働きすぎ。

 今日の「お言葉」より、

 

 「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。 

 こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。 

 皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、 天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」

 

 象徴の立場を理解させるためのこうした活動というのは、本来の国事行為の外で、これはやらなくても良かったのではなかったかと思う。

 

 「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。」

 

 ここでは「国事行為」と「象徴としての行為」が分けてあるが、憲法で定められているのは国事行為のみで、「象徴としての行為」は特に決められていない。だから、これはまったくやらなくても問題ではないし、本人の気力体力ともに充実してるなら、やればいいだけのことではないかと思う。だから国事行為は縮小できなくても、「象徴としての行為」はいくらでも縮小できると思う。

 摂政を置くことを否定する理由が、

 

 「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。 」

 

というなら、一体それは誰が求めているのだろうか。

 「象徴」はあくまで象徴でありいわば天皇は「天」を意味する「人間」であればそれでいいのであり、いるだけで存在そのものが象徴なのだと思う。人間がわざわざ天であるかのように振舞う必要はない。決められた国事行為だけをやって、それ以外は自分の好きなことをやって遊んでていただければそれでいいのではないかと思う。

 今の宮内庁は天皇に仕事をさせすぎてはいないか、天皇をこき使っていないか、退位以前の問題として今の天皇の仕事がブラックなのではないのか、そこをまず問題にしたほうがいいのではないかと思う。

 

 「始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。 」

 

 象徴天皇はまず「存在する」ことが大事で、「務め」はあくまで形式的なものだからやってもやんなくてもいい。あまりその点を真剣に悩まないで欲しい。むしろそこで悩ませている人たちがいることが問題だ。

 また天皇陛下の発言についても、国事行為の際の発言のみが「お言葉」であり、それ以外の場であるなら、私人として自由に発言させてもいいのではないかと思う。どうせ今回の発言だって、政治家は口では「重く受け止める」なんて言ってるけど、左翼はそもそも天皇制そのものに反対だし、右翼は戦後憲法の「象徴天皇制」の固定化・既成事実化に反対だから、どちらも本音としてはこの問題に関わりたくないと思う。できれば先送りしてうやむやにしたいのだと思う。その程度の「お言葉」で昔のような「勅」の重みなどどこにもないのだから、もっと自由に発言しても問題ないのではないかと思う。

 今日のテレビで、ちゃんと姿勢を正して聞いた人って何人いた?戦前ならみんな不敬罪だ。

8月7日

 すっかり横浜の夏の恒例行事となった「ピカチュウ大量発生チュウ」に、今年も行ってきた。

 今日は午後4時からさくら通りで「ピカチュウ・ザ・パレード」をやるということで、午後から出かけた。

 クイーンズスクエア横浜の「スマイル!スマイル!スマイル!」というショーをまず見た。ピカチュウがスケート靴を履いて登場。フィギアスケートを取り入れたショーだ。内容は戦隊ショーみたいな、悪いピカチュウが登場し、子どもたちの応援の声でやっつけるというストーリーだった。

 パレードは人がいっぱいで、最前列で見ようとしたら暑い中をかなり待ってなくてはならなかっただろう。時間ぎりぎりに来たので、後ろの方からの見物となった。

 パレード開始前にやたら目立つ綺麗な人がいるなと思ったら、あとで女優の松岡茉優さんだとわかった。パレード大きなピカチュウの頭の風船とともに、たくさんのピカチュウが通っていったが、人ごみの中で耳以外は良く見えない。たくさんのピカチュウの耳が通り過ぎていったという感じだった。

 

 オリンピックでは萩野公介が金メダルと取るし、こんな平和な日々がいつまでも続けばいいなと思うが、東シナ海の方はますます不穏な空気になってきている。南シナ海で国際法が何の役にも立たないのがわかっちゃったから、東シナ海も同じようにやるんだろうな。

 今までは東西対立の前線基地としてアメリカが守ってくれてたが、トランプが大統領になったらそれも怪しくなる。中国、ロシア、北朝鮮に囲まれて日本はいつまで平和でいられるのか。10年後もピカチュウのパレードができるよう、やはり真剣に考えていかなくてはいけないんだろうな。

8月1日

 都知事選も終わり、世間は本格的にオリンピックモードになって行くのかな。ソチの時はいろいろあってオリンピックどころじゃなかったが、あれから2年経って今度は少しは楽しめるかな。

 鳥越さんは女性スキャンダルが出てこなくても勝てなかったと思うよ。むしろあれが出てきたことで敗因をそっちに押し付けて、何も反省しなくて済むようになってよかったんじゃないかな。責任は週刊誌と宇都宮さんと岡田さんということで目出度し目出度しだ。

 基本的に西洋かぶれの高飛車なエリート意識ではこの国を動かせない、ということに尽きると思う。結局自分たちは西洋の高尚な哲学を持つ指導者だということを確認しあい、この国の民度の低さを呪って終わる。何度も同じことを繰り返すんだろうな。

 「愚公山を移す」という言葉があるがそれは愚公だからできることで、自ら「賢公」を名乗って口先だけ偉そうなことを言って天帝を呪ってたんでは、山なんていつまでたっても動きやしない。かえって天帝が怒って、山をより高くしてしまうだけだ。

 もっと謙虚に、自分たちと反対の主張する人たちの声を聞き、そこから本当にやらなくてはならないことを学び取らなくてはならない。「聞く耳を持つ」というのはそういうことだ。桜井誠やマック赤坂の声をきちんと聞いてれば、何が足りなかったのかわかるだろう。

7月30日

 在日特権の問題は基本的には、特別永住者という日本人でも外国人でもないどっちつかずの中途半端な身分に在日の人たちを押し込めているところから来るのだと思う。

 こういっちゃ何だが、「特別永住者」の存在そのものが差別なのだと思う。

 彼らは本来なら日本人にすべき存在だし、本人がそれを拒むなら外国人であることを選択できなくてはいけない。いずれにせよ、どちらかはっきりさせる必要がある。

 在特会の間違いは、彼らを追い出そうとしている点に尽きる。彼らを日本人として迎え入れる度量を、本当の日本人なら持っているはずだ。古代でも近世でも日本は大量の帰化人を受け入れてきた。薩摩藩の一部の人たちを数少ない例外として、我々は彼らを日本人として認めてきた。今後もそれでいいのではないかと思う。

 帰化人は完全に日本人となるのも帰化人として独自の存在になるのも自由だ。日本に関西人や東北人やうちなんちゅうや薩摩隼人がいていいように、日本という一つのまとまりの中で緩やかに異化された独自の集団があることは悪いことではないし、むしろその多様性こそ日本の理想とするものだ。すべてを受け入れることが八紘一宇の我国の道ではないか。そう思わないかい?桜井さんよ。

 イギリスの旧植民地の人たちは「イギリス人」であって外国人ではない。独立後は徐々に入国が制限され、最終的には外国人となった。イギリスに特別永住者のような人はいない。

7月29日

 しばき隊の野間易通さんの在日特権に関するコメントが2チャンネルにアップされていた。とりあえず、特別永住権の所を読んでみよう。

 

「在日特権のウソ 

【特別永住権】 

 ヘイト側の主張:在日コリアンは一般的な外国人の永住資格とは違う『特別永住権』を持ち優遇されている。 

 野間の取材による実態:特別永住資格は、かつて日本が朝鮮半島や台湾などを大日本帝国に組み込んで支配していた時に日本に在住していた朝鮮人や台湾人とその子孫に与えられる在留資格。 

 すなわち、かつて日本人であったが戦後外国人となった人たちが、安定して日本に居住できるようにするためのもので、一般永住資格と比較する意味はない。 

 英国等は植民地が独立する際、法律を改正して植民地市民に選挙権なども含むフルの市民権を与えたが、日本の特別永住資格では権利は制限されている。 」

 

 「在日特権」の問題は、基本的には在日特権なるものがあるかないかの問題ではない。だから、「在日特権はデマ」だとか「在日特権はウソ」とは言えても「在日特権は存在しない」とは言えない。つまり実際にある法律や制度に関して、それを特権と解釈するかどうかの問題であることは一応断っておく。

 つまり、一般永住資格とは別に特別永住資格なるものが存在することは議論の余地はない。それが「特権」と言えるものなのかどうかはあくまで解釈の問題だ。

 イギリスの場合、戦前の大英帝国時代には国籍(=市民権)は出生地主義を採用していて、グレートブリテンやアイルランドだけでなく世界中にあるイギリスの植民地で生まれたものはイギリス臣民としてイギリス国籍が付与された。

 戦後の植民地が次々と独立してゆく頃、1948年のイギリス国籍法では、植民地出身者は独自のコモンウェルス市民という地位を与え、イギリス保護民、アイルランド共和国市民とともに外国人と区別されていた。このときはまだイギリス本土への出入りが自由であったために、戦後の高度成長期で労働力不足もあって、大量の移民が流入した。

 その後何度も移民法が制定され、移民を制限する方向に向かっていった。ここにおいて、イギリス国籍でありながらイギリス本土への移動が厳しく制限された人たち(特に有色人種)が区別されるようになっていった。

 そして1981年の国籍法によって、イギリス市民とイギリス属地市民、イギリス海外市民が厳しく区別され、イギリス市民の条件として血統主義が採用された。

 今日でもイギリスは複雑な移民問題を抱えている。EUの離脱問題もそのことが背景になっていることは言うまでもない。少なくとも「植民地市民に選挙権なども含むフルの市民権を与えた」というのは過去のことであることを一応付け加えておこう。

 どっちにしても、イギリスにはかつてのコモンウェルス市民でイギリス本土に渡ってきたイギリス市民と選挙権のない普通の永住権を持つ外国人は存在するが、その中間のような特別永住者は存在しない。俺は日本でも特別永住者に日本国籍を一度付与し、期限を決めて日本人になるか一般外国人永住者になるかを選んでもらうことを提案している。

7月26日

 相模原殺傷事件は精神異常ということで片付けられてしまうのかな。

 2月の段階で犯行を予告していて、標的や犯行方法まで御丁寧に説明してあったのに防げなかったというのもよくわからないし。

 大島衆議院議長に宛てた手紙は終始一貫していて文章の乱れも少ない。

 

 「衆議院議長大島理森様(1枚目)

 

 この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。

 私は障害者総勢470名を抹殺することができます。

 常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。

 理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。

 障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。

 私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。

 重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。

フリーメイソンからなる●●●●が作られた●●●●●●●●を勉強させて頂きました。戦争で未来ある人間が殺されるのはとても悲しく、多くの憎しみを生みますが、障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。

 今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。

 世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。

 私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。

 衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。」

 

 俺はこの文章を読んだ時すぐに頭に浮かんだのが、NHKのETV特集の「それはホロコーストの"リハーサル"だった~障害者虐殺70年目の真実~」で、放映されたのは去年の11月だから、この番組の影響も考えられる。

 T4(テー・フィアー)作戦と呼ばれる優生学思想に基づいたナチスの安楽死政策で、T4作戦終了後もこうした安楽死政策は継続され、20万人にも及ぶ精神障害者や知的障害者、回復の見込みがないとされた病人がガス室に送り込まれたという。

 これは決して精神障害者が考え出した妄想に基づくものなんかではなく、れっきとした理性的な人間が考え出し、実行したものだ。その源泉は、1920年にまで遡り、ウィキペディアによれば「1920年には、法学博士で元ライプチヒ大学学長のカール・ビンディング(ドイツ語版)と医学博士・フライブルク大学教授で精神科医のアルフレート・ホッヘ(ドイツ語版)により、重度精神障害者などの安楽死を提唱した『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』が出版されている。1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出されている。」という。

 こうした事件が実際に起きていることを考えると、植松聖の言っていることも狂気ではあるが精神異常とは思えない。ある意味、安倍首相が本当にヒットラーのような人だと信じていたなら、こういう提言があってもおかしくない。もう一枚の紙でも植松聖は、

 

 「私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想で今回の作戦を、提案を上げる訳ではありません。全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。」

 

と言っている。

 

 「私はUFOを2回見たことがあります。未来人なのかも知れません。」

 

という文章にしても、UFOを見たという人間は世界中にたくさんいるし、こういうことを言ったから精神異常だというなら、世のUFO研究家はどうなるんだ。

 それ以外で多少おかしいと思うところは、フリーメイソンに言及している所だが、フリーメイソンの陰謀説をまことしやかに語る人間も世界中にたくさんいる。それだけで精神異常とはいえない。

 

 「本当は後2つお願いがございます。今回の話とは別件ですが、耳を傾けて頂ければ幸いです。何卒宜しくお願い致します。

 医療大麻の導入

 精神薬を服用する人は確実に頭がマイナス思考になり、人生に絶望しております。心を壊す毒に頼らずに、地球の奇跡が生んだ大麻の力は必要不可欠だと考えます。何卒宜しくお願い致します。

 私は信頼できる仲間とカジノの建設、過すことを目的として歩いています。日本には既に多くの賭事が存在しています。パチンコは人生を蝕みます。街を歩けば違法な賭事も数多くあります。裏の事情が有り、脅されているのかも知れません。それらは皆様の熱意で決行することができます。恐い人達には国が新しいシノギの模索、提供することで協調できればと考えました。

 日本軍の設立。刺青を認め、簡単な筆記試験にする。

 出過ぎた発言をしてしまし、本当に申し訳ありません。今回の革命で日本国が生まれ変わればと考えております。」

 

 こうした主張もありがちなもので、大麻肯定論者も世の中にたくさんいるし、パチンコに関しては在特会もしきりに主張している。日本軍の設立にしても再軍備論者はいくらでもいるし、刺青はおそらく植松自身が刺青がばれて職場に居られなくなった個人的体験によるものだろう。

 

 「作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。

 逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。

 新しい名前(●●●●)、本籍、運転免許証等の生活に必要な書類、美容整形による一般社会への擬態。

 金銭的支援5億円。

 これらを確約して頂ければと考えております。」

 

 少なくとも「心神喪失による無罪」は実現する可能性があるし、それを最初から狙っているとも考えられる。

 少なくともこれらの手紙からは、精神異常は読み取れない。日常的な感覚で「狂ってる」とは言えるけど、書かれていることはあくまで理性的だ。ナチスが狂っているという意味では狂っているが、精神異常という意味で狂っているわけではない。

 人間の実践理性は肉体的な感情や欲望から自由であるが故に、われわれの通常の人間らしい感情を逆なでにするような帰結も「汝為しうる」なのである。そこに実践理性の限界がある。以前俺がDQN理性と呼んだのはこのことだ。アニメ「PSYCHO-PASS サイコパス」的に言えば、彼は色相を濁さずに人を殺した。

7月25日

 日本会議についてほとんどマスコミが報道してこなかったのは、基本的にマスコミは右翼団体の活動について報道しない自由を行使しているからではないかと思う。

 尖閣デモについてもフジテレビ前デモについてもそうだし、安保関連法案反対デモはあれほど大々的に報道したのに対し、右翼のデモはほとんど報道されることがない。ヘイトスピーチのことには触れるけど、実際そのデモの映像が流れることはない。

 だから一般の人は在特会は名前くらいは知っているかもしれないが、どういう団体なのかはほとんど知られてないし、しばき隊の存在を知る人もほとんどいない。2ちゃんねるをこまめにチェックしていればある程度の情報は得られるが、ネットを普段見ていても、積極的に調べようとしないなら、在特会vsしばき隊のことも、香山リカのことも「ぱよぱよちーん」のこともほとんどの人は知らない。これらの事件がマスコミではまったくといっていいくらい無視されているからだ。

 それはかつての全共闘と勝共連合の争いの時も同じだった。当時の学生なら噂程度のことは聞いていたかもしれないという程度だろう。だから、『日本会議の研究』菅野完、2016、扶桑社新書)に書かれていることも、ほとんどの人には初めて聞くような世界ではないかと思う。

 ただ、当時学生運動をやってた人なら、受け止め方はかなり違ってくるだろう。

 安倍首相に対して、あの世代の人たちが一様に怒りと憎しみをあらわにし、悪魔だのヒットラーだの史上最低最悪の首相だの言うのは、どこかでかつての宿敵の匂いを感じ取っているからなのかもしれない。

 自民党は歴代、少なからず左翼を激怒させ、理性を失わせるものが何なのか知っていたし、実際それを利用してきた。政局が苦しくなると元号の法制化や君が代日の丸法案や有事法制、そして憲法改正といったことを持ち出し、そのつど左翼の関心はその一点に釘付けにされ、その隙に逃げることができた。

 一般の人は左翼が何に怒っているのか理解できないため、結果的に左翼は自爆を繰り返してきた。今回の参議院選もそうだった。

 『日本会議の研究』も著者は最初は右翼だと言っていたが、最後の方になるとやはりパヨチン左翼そのものになってくる。しばき隊を破門されたとはいえ、基本的にはやはり左翼なのだと思う。一般人の知らない所で戦いながら生きてきた人ならではの本だといっていい。

7月24日

 菅野完 AKA noiehoieさんの『日本会議の研究』(2016、扶桑社新書)を読み始めたが、これが結構面白い。真面目なジャーナリストの書く本と違って、こういう破綻した人間の話というのはとにかく面白い。

 本人は右翼、保守主義者と言っているが、それは俺が時々自分のことを極右だと言っているようなもので、発想はあくまで左翼的だ。むしろ極左だからこそ極右に似ているというもので、その辺は俺も共感できる。要するに左右両方のバイアスから自由な人なのだと思う。

 普通の左翼なら日本会議を極右団体と決め付けて、危険思想だと糾弾する所だが、この本はそうではない。極右・危険思想というレッテル貼りは、むしろこの団体を過大評価するもので、むしろ日本会議としてはそうやって左翼連中が厳しく糾弾してくれることを望んでいるだろう。虚像をいくら攻撃されても痛くも痒くもない。この本が日本会議から出版停止要求が出されているのは、案外「ずぼし」だからではないかと思う。

 日本会議の起源を遡ると、俺がちょうど学生だった頃「勝共連合」と呼ばれていたものに突き当たる。あの頃の学生自治会は民青が仕切っていたようだが、そこに切り込もうとしていたのが原理研究会と生長の家との宗教の違いを乗り越え共産主義に勝とうという連合で、俺はノンセクトだったが、その選挙の時に民青サイドで駆り出されたことがあった。その時の敵方の生長の家の青年部の幹部らしき人はその後哲学科で一緒になったが、向こうがほとんど授業に出てこなかったので会う機会もほとんどなかった。

 生長の家はその後政治の方から離れたが、そこから分離した連中がどうやらこの日本会議の中枢にいるらしい。ただやっていることは事務方で、日本会議はさまざまな主義主張の人間がこれといったリーダーもなければ明確な主義主張もなく寄り集まっているだけようだ。

 時代が移ろい、冷戦崩壊で左翼は社会主義という明確な目標を失い、結局西洋崇拝のエリート意識に凝り固まった、何かと人権人権とうるさい団体に成り下がって行った。俺は元から西洋崇拝者ではなかったので、そうした連中とのかかわりもなく、未だに孤立無縁でこんな誰も見ないホームページで憂さ晴らししているだけだ。

 日本会議の連中も、西洋崇拝の左翼に対して日本の誇りという所で緩やかに集まっているだけで、未来の日本にそんな明確な理念を持っているわけではなさそうだ。

 憲法改正の問題でも、確かに一部の中枢にいる人間は昔ながらの右翼の主張である明治憲法への回帰を説いているかもしれないが、さすがに今更現実にそれを実行するのは難しい。それは生長の家が昔から主張していた優生保護法の問題と一緒だ。

 戦後の日本国憲法が最初英文で書かれていたなんてことは、俺の学生の頃から生長の家の連中の行ってたことだし、たいていの人にとってはだから何なんだというところだろう。

 夫婦別姓に反対するのも、おそらく最初の動機が何だったかなんてことはとっくに忘れられてしまっているのではないかと思う。夫婦同姓は西洋の習慣であって日本の伝統ではないからだ。おそらく大韓帝国を併合した時、当初同化政策ではなく異化政策を取り、旧大韓帝国民に夫婦同姓を押し付けずに夫婦別姓のまま日本人とは違う戸籍を作ったことに由来するのではないかと思う。つまり夫婦別姓=朝鮮人という発想があったのではないかと思う。

 それが戦後になって西洋で夫婦別姓が認められるようになってゆく中で、反西洋崇拝ということで、それも含めて夫婦同姓を守ろうという方向に行ってしまったのではないかと思う。

 安倍政権が日本会議の圧力で動いてるということも、左翼が安倍ヒットラーだとか安倍ドルフだとか言うのに反して、単に御輿に乗っているだけだということで、多分このほうが真実に近いのだろう。もちろんそうじゃない圧力もあるからぶれるし、実際どう見ても独裁者には見えない。

 その辺の安倍政権や日本会議の左翼側の過大評価ともいえるレッテル貼りではないところが、この本の面白い所だと思う。

7月18日

 今日は久しぶりに古代東海道東への続きで、8時45分頃井の頭線の三鷹台駅をスタートした。

 駅を出てすぐに神田川を渡る。前に来た時には鯉幟があったっけ。

 ここから北東へ荻窪を目指すのだが、残念ながら真っ直ぐ進める道はなく、碁盤目状の住宅地の道をジグザグに行くしかない。

 道は最初緩やかな上り坂で、そう高くない台地の上に出る。あたりは静かな住宅地だ。

 宮前五丁目交差点のあたりで井の頭通りを越え、西荻南交差点のあたりで五日市街道を越える。高井戸四小のあたりには小さな栗園がある。

 やがて荻窪八幡摂社天祖神社に出る。天正12年(1584)に、このあたりに小祠があったらしい。本能寺の変の2年後で、神社の説明板には「検地の際には、すでに小祠があったと伝えられており」とあるが、まだ北条氏政が汁かけ飯を食ってた頃だから太閤検地ではない。北条氏政が江戸を支配した時に独自に行った検地なのだろう。

 狛犬は岡崎型で台座には皇紀2660年記念とある。えーっとー、2600年が昭和15年で1940年だからーっ、それプラス60で、あー、わかった。ミレニアムの狛犬だ。境内社に御嶽神社がある。

 天祖神社を出てさらにジグザグに進む。南荻窪4丁目交差点を北に向かうと道は緩やかに下り、中央線のガードが見えてくる。その手前に東吾橋という小さな橋があって善福寺川を渡る。荻窪というのは多分善福寺川の河川敷に広い荻の茂った原っぱがあったからなのだろう。

 中央線のガードをくぐり少し行った所を右に曲がると、環八とその向こうの荻窪白山神社が見えてくる。

 荻窪白山神社は震災のあった2011年、アニメ「輪るピングドラム」の聖地廻りで来たことがあった。特に変わった様子はないようだ。

 白山神社を出ると、そこは荻窪の商店街で、餃子の王将やらあめん花月などが並ぶ。パチンコ屋の前には10時の開店の行列が出来ている。

 青梅街道の歩道橋を渡ると住所は天沼になる。俺の推定路が正しいなら、このあたりで古代東海道はほぼ真東へ、今の中央線に沿って向きを変える。このあたりに乗瀦(のりぬま)駅があったことになる。今の荻窪の町の下にはかつての乗瀦駅が眠っているのかもしれない。

 教会通りの細い路地を行き、東京衛生病院を右に曲がる。そして病院の先をもう一度右に曲がると公園があり、郷土博物館分館がある。池があり弁天様の小さな社がある。

 その少し先に天沼八幡神社がある。これも天正年間の創建。昭和28年銘の狛犬がある。

 この後、川をを埋めて遊歩道にしたような道がある。明治20年の地図を見ると、確かにこのあたりが小さな谷になっている。そこを流れていた小川のあとなのだろう。槿や芙蓉の花が咲いている。

 歩きやすい道だからついつい歩いてしまったが、多分この道だと北により過ぎている。この小さな谷の南側の台地と通っていたのではないかと思う。

 慈恩寺のあたりからやや南に進路を取る。このあたりは道が不規則で方向がわからなくなる。結局そんなに南へは行けずに法仙庵の北側に出た。ここから松山通りを少し南に行き、右に曲がり、中杉通りを横切り阿佐ヶ谷神明宮の裏に出る。この裏の入口の所に明治44年銘の狛犬がある。拝殿は伊勢造りのかなり立派なもので、神楽殿も新しく、能が演じられるような舞台になっている。

 日本武尊に由来する古い神社らしいが、本来阿佐谷北の杉森中学に近いほうにあったのを江戸中期にここに移したもので、古代道路の証拠としては弱いか。

 このあと河北総合病院の先を右に曲がりしばらく行くと中央線のガードが見えてくる。ガードの下に道があり、やがてガードしたに小さな店が並び、高円寺駅に出る。

 この先概ね中央線に沿って進む。環七を越え変電所のある辺りを過ぎると右側に小さな神社がある。正一位稲荷神社の額がある。その先のたかはら公園を左に行くと、広い道に出る。明治大学中野キャンパスがある。

 ここまで来ればもう中野駅前だ。中野区役所があり中野サンプラザがある。区役所の前には犬の像がたくさんある。徳川綱吉の犬屋敷があったところらしい。中野通りを渡り一つ向こうの筋は中野サンモール商店街だ。大体12時で、今日は暑いから古代東海道の旅はここまで。

 

 そのあとちょっと中野を散歩してから帰る。中野ブロードウェイには東証二部に上場しているまんだらけをはじめ、たくさんの漫画アニメ関係の店が並んでいる。ただ、秋葉原に比べると年齢層が高めか。

 そして今日のラーメンは、サンモールにある九州ラーメンの艶まるのどっかんまるラーメン。

7月15日

 民族問題は同化するにしても異化するにしても、そこに権力による強制力が働くと様々な不満が鬱積することになる。

 同化させようとすると民族の抹殺だということになり、異化させようとすると人種隔離政策だということになるる。どっちにしても被害者になる。

 緩やかな異化による自然な距離感を維持するには、できる限り権力の介入を控え、本人の意思にゆだねなくてはならない。

 在日問題の場合、特別永住者全員に自動的に日本国籍を与え、いったん二重国籍の状態にし、10年くらいの猶予期間を与えてどっちの国民になるかを選んでもらった方がいい。10年たった時点でまだ未成年の者は、さらに二十歳になるまで猶予を延長する。

 日本国籍を選択しなかった者はその時点で一般永住者とし、在日特権を実質的に廃止する。

7月14日

 『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか 民族意識と差別』(金一勉、1978、三一書房)も、先の『証言 朝鮮人連行』と一緒にネットで買った古書で、少しづつ読んでいるが、こちらの方は反日バイアスがかなり強力で読むのに注意を要するが、それでも少しづつ見えてくるものはある。

 壬申倭乱(イムジンウェラン)の時に日本にやってきた当時の朝鮮(チョソン)の人たちは、日本側では朝鮮半島で冷遇されていた陶器職人が新天地を求めて自発的に日本にやってきたことになったいるが、当然ながら反日バイアスがかかると全部強制連行されたということになる。

 1939年に始まった近代の強制連行のほうも、ちゃんと読めば最初の年は飢饉の年で、多くの人たちが日本に来たがって選ぶのに苦労したことが記されている。ただ、実際の現場での待遇が悪すぎたためあの手この手で脱走を企て、その結果監視が厳しくなり、人も集まらなくなったから連行の仕方も暴力的になるという負のスパイラルに陥っていった。

 チョソン出身の陶工は日本のあちこちで今の日本を代表する陶芸文化を生み出していったが、この本で取り上げられているのは島津藩の下で薩摩焼を生み出していった苗代川の人々のことを取り上げている。日本に来た多くの陶工は、その後日本社会の中に吸収され、その痕跡を求めるのも難しい中で、苗代川だけは島津藩が穢多村を髣髴させるような、一つの職種に縛り付けて一種の人種隔離政策を行ってきたことで、かえって先祖の朝鮮文化をそのまま保存していた。

 なお、この集団は慶長3年(1598年)12月に串木野の島平に漂着したとされている。壬申倭乱の終わった1年後、一度和平交渉が決裂したあとの慶長の役のときのことで、どこからどういういきさつで漂着したのかは定かでない。

 この集団は江戸時代から明治の初めにかけて、朝鮮式の姓と名を持ち、彼らが日本名を名乗るようになったのは併合の頃からだったようだ。

 これに対し壬申倭乱の際に朝鮮半島に残った日本人も多数いた。彼らは主に金姓を名乗り、金海金氏(キムヘキムシ)の族譜(チョクボ)を作成保有していた。

 複数の民族が一つの場所に共存する場合、同化の方向へ行く場合と異化の方向へ行く場合と両方ある。

 言語の場合は主流となる言語に速やかに吸収されてゆく。これは言語習得の生理的な特性で、外国人社会の中で暮らす日本人の子は親の話す言葉よりも外の世界の言葉を習得するし、世界中の少数民族で問題になるのは彼らが固有の言語を覚えないことだ。親の会話よりもテレビから流れてくる英語を最初に覚えてしまうという現象は世界中いたるところで起きている。

 言語の同化は自然現象で、これに抵抗するのは難しい。これに対し風習や信仰などは人為的なものであるため同化しにくいし、意図的に守り抜くことができる。

 どうゆいう場合に同化の方向に向かい、どういう場合に異化の方向に向かうかは難しい問題だ。西洋のユダヤ人は2千年に渡って異化の道を歩んできたし、そのほかにも今日世界中至る所で同化を拒み独立を求める民族がいる。

 これに対し、同化し、吸収されてしまった民族も多数ある。イギリスだってケルト人、ローマ人、アングロサクソン人、デーン人、ノルマン人など様々な民族が混ざり合って形成されたものだし、中国人だって元は呉人、越人、秦人、楚人、漢人など様々な民族が寄り集まってできたものだ。日本人もまた例外ではないし、韓国人もまた百済人、新羅人、高句麗人などが寄り集まって形成されている。

 朝鮮半島にいた日本人が朝鮮名を名乗り同化して行ったのも、日本に来た陶工たちの多くが日本に同化して行ったのも、自然の成り行きだったと思われる。これに対しむしろ苗代川のような例も、果たして政策的なものだったのか、それとも彼等自体が異化を望んだのかは定かではない。

 同化に比べれば異化を自ら選ぶのはかなりの覚悟を要する。少数派は様々な形で差別や迫害を受けることとなるし、その中で民族のアイデンティティーを保つには自らをゲットーの中に閉じ込めることになる。多数派の側から政策的に行われたのなら不幸なことだが、敢えて苦難の道を自ら選ぶ場合もある。

 バイアスのかかった見方をすれば、同化は多数は民族が少数派民族を強引に吸収し民族そのものを消滅させる暴力であり、異化もまた少数派を狭いゲットーの中に閉じ込め自由を奪う暴力ということになり、つまりどちらも許しがたい差別であり迫害であり暴力であるということになる。

 在日の人たちも帰化か、それとも日本の中で祖先の民族を貫くか選択に立たされている。同和の人たちも同様だし、アイヌもそうだし、うちなんちゅうも先住民族の権利を主張するなら同様だ。基本的には緩やかな異化が可能ならそれがいいに違いない。排他的なガチな異化ではなく、日本の中に関西人がいるくらいの感覚で韓国系日本人がいるとうのが一番いいのかもしれない。

7月13日

 政策も公約もなくてただ憲法改正反対だけ言って当選できるようなら、今までの選挙は何だったのかだな。都民もそこまで馬鹿でないことを祈る。

 大体、今回の参議院選だって憲法改正反対と言って、わざわざ争点の中心にすえてた党が惨敗しているのだから、それが2、3週間でひっくり返ったりするのかな。

 マスコミも多分、都知事選の間も憲法問題中心で行くんだろうな。うざいから早く憲法変えてくれないかな。

 若者は今頃日教組の教師に怒られているんだろうな。

7月12日

 goatmoonというフィンランドのバンドのユーラシアワシミミズクの羽を広げたジャケットが気になって調べてみてゆくうちに、naziが一つのキーワードだということに興味を引かれた。

 goatmoonはいわゆる「お一人様バンド」で、ライブはセッションのメンバーを集めて行っているようだが、ステージには例のハーケンクロイツが掲げられている。

 日本でもナチスの旗を掲げてデモ行進した人がいたが、それはかつてのナチスドイツの政策に共鳴するのではなく、むしろホロコーストは連合国のでっちあげだと主張する人たちだったが、さすがにヨーロッパでそんな認識は通用しないだろう。

 ただ、ネオナチを標榜するブラックメタルも、昔ながらのネオナチとは違うのではないかと思った。日本の右翼もここ数年で大きく変わったように、ヨーロッパの右翼ももはやかつての大戦の記憶を持たず、侵略戦争にも興味なければ、実際に異民族を嫌っているわけでもない。

 ネオナチのバンドも海外遠征するし、海外の、かつての敵国のバンドとも競演する。そしてそこでは国境を越えて盛り上がる。実は彼らは本当のナチスの信者などではなく、むしろナチズムもレイシズムもタブーとしない自由を叫んでいるだけではないかと思う。

 社会主義的インターナショナリズムは、抽象的な人類平等の観念で人間のもつ自然な感情を抑制することで、多民族の平和共存を図ろうとした。ただ、それは結局強力な権力による統制と教育の力によるもので、ひとたびその権力が緩めば旧ユーゴスラビアのような悲劇が生じる。

 多民族の共存は基本的には多様性をお互い認め合うことによるものだが、社会主義のインターナショナリズムはそのこと自体を一つのイデオロギーにして、結局は単一の価値観のもとで多様性を支配しているだけだった。本当の多様性は単一の価値観の下にはなく、多様性を認めること自体も多様でなければならない。

 多民族の共存の理想は、一つの理想ではなく多様な理想でなければならない。単一の価値観による支配への反抗が、それぞれの国のそれぞれのナショナリズムとなって、今世界に大きな広がりをみせているのではないか。そしてお互いのナショナリズムを認め合うことで、本当のインターナショナリズムが追求され始めているのではないか。

 右翼と呼ばれることも、ネオナチと呼ばれることも、異教徒(ペイガニスト)と呼ばれることも、悪魔の徒と呼ばれることも、彼らは厭わない。むしろ積極的にその旗を掲げることで、彼らの自由を宣言している。

 俺も基本的に戦争には反対だし差別にも反対だが、だからといって今のパヨチン左翼は支持できないし、はっきり言って不愉快な連中だ。多分そういうところが西洋のペイガンメタルに惹かれる理由なのだろう。

 ファシストだのレイシストだのレッテルを貼るだけで、自分たちの単一の価値観を正しいと信じ込む人たちに本当の多様性なんてわかるはずもない。ファシズムやレイシズムを包み込んでこそ本当の多様性のある社会、ヘテロトピア(混在郷)が実現できるのではないかと思う。

 Sieg Heil Goatmoon!

7月11日

 何か、与党で3分の2取れるかどうか言ってたのが、いつのまにかお維新を加えて「改憲勢力」なんて言葉で自民圧勝?ちょっと違うんじゃない?

 それに、改憲勢力は民進党内にもいるから、改憲勢力は最初から3分の2くらいいたのでは?改選前と非改選を合わせた議席は自民115、公明20、お維新7、こころ3で145議席。民進党内に改憲派が17人いれば3分の2の162議席になる。

 自民党は今回6議席増やしただけで、3年前の65議席を大きく割り込んでいるし、非改選と合わせても121議席でちょうど半数、単独過半数も逃している。お維新なしではなかった勝利と言ってもいいんじゃない?憲法改正は自民主導でなんて威張ってみても公明とお維新には頭が上がらないな。

 日本人のバランス感覚というか、自民党があまり増えすぎてもいけないからというだけの理由で、何もしなくてもただ何でも反対反対言って、野党らしい野党をやってれば自動的に票が入ってしまう。我々はこれまで野党を甘やかしすぎたのではなかったか。それを考えるなら、ここで「与党3分の2に届かず」で民進党の勝利としてしまうよりは、あえてお維新を加えてでも民進敗北とした方がいいのかもしれない。

 今回の自民は攻めの姿勢がまるでなかった。改憲を訴えて3分の2を取りに行くのではなく、増税延期やバラマキ政策で大衆迎合し、手堅く過半数を確保しようとしていたとしか思えないし、実際その結果となった。サッカーで言えば11人でびっしり引いて守って引き分け狙いの試合運びだ。野党は下手なシミュレーションでPKを取りに行ったが、ことごとく失敗した。

 憲法改正といったって国民投票で勝てる内容でなければ提出しても意味がないし、そうなるとせいぜい自衛隊とPKOと集団的自衛権の明記くらい、つまり既にやっていることを事後承認する程度のものになるだろう。

 若者は就職が最大の心配事だから、とりあえず失われた時代に逆戻りするのはもう少し先かなってところで、ほっと胸をなでおろしているかな。相変わらず円高圧力は容赦ないが、果たして打つ手なしのぼろぼろのアベノミクスを立て直せるのか。

7月7日

 「日本帝国主義は1910年、朝鮮に『韓日併合条約』を押しつけ、朝鮮を日本の植民地として支配したが、その年から9年間に渡って日本帝国主義によって実施された『土地調査事業』は、朝鮮の農民から広大な土地を奪い去った。日本帝国主義は当時、まだ近代的土地所有権の確立がなされていなかった朝鮮に『申告主義』による土地の所有登録制度を強引に確立し、広大な『共同所有地』や公有地を農民の手から取り上げた。」(『証言 朝鮮人強制連行』P.132)

 

 近代以前の社会では一般的に土地の多くは共有地(コモンズ)で、それが近代化の際に所有権が確立され、それによって大規模なエンクロージャー(囲い込み)が起きた。このことは朝鮮半島も例外ではなかった。

 ウィキペディアでは、こうしたコモンズの国有化だけではなく、「この土地調査の結果先祖代々その土地を耕作していた農民の権利は無視して、国家に対して租税を納めながら農民から小作料を徴収する地主の所有権を全面的に認めたことになる。」とある。

 日本では1873年(明治6年)の地租改正によって土地の所有権が明確にされるなかで、水呑百姓や小作人は所有権を失い、本百姓や地主が所有権を取得した。また入会地のような共有地(コモンズ)は政府に没収された。これを不服として伊勢暴動、真壁暴動など一揆が多発したという。つまり、朝鮮半島で行われたのは旧大韓帝国独自の政策というよりは、明治期に日本が国内で行ったことを適用したといった方がいいかもしれない。

 富国強兵を急ぐあまりの急激な西洋化政策は、西洋崇拝の支配者による日本の自己植民地化であり、夫婦同姓なども西洋に習ってものだった。

 

 「日本国内でも1918年に米騒動等の社会不安が激しくなり、日本人民の闘争が激化しており、‥‥略‥‥日本国内の社会不安を取りのぞくため、朝鮮で『産米増殖計画』を行い、朝鮮農民の米を収奪して日本に運び込み、日本で安く供給した。そのため、朝鮮の農民の生活はさらに苦しくなり、彼らは生きる道を求めて厳しい制度の網目をくぐり抜け日本に流入した。」(『証言 朝鮮人強制連行』P.133)

 「1932年10月には朝鮮人の身分証明書持参制度を徹底させ、朝鮮人の日本渡航を厳しく制限した。

 一方、朝鮮国内では『産米増殖計画』の名のもと朝鮮農民に対する苛斂誅求は続き、朝鮮で生きる道を絶たれた朝鮮人労働者の日本への流入は続いた。」(『証言 朝鮮人強制連行』P.134)

 

 この記述は若干バイアスがかかっているように思える。というのもすぐそのあとに、

 

 「その間の事情をある報告書は『‥‥‥労働者として内地、満州、その他に移住するものは多少生活にゆとりあるもの、または素質の良好なものに限り、依然、農業労働者として朝鮮に残留するものは極度の困窮にさいなまれている階級である』(大阪市社会部調査『なぜ朝鮮人は渡来するか』昭和5年刊)と述べている。」(『証言 朝鮮人強制連行』P.134)

 

とある。

 p.149の人口統計を見れば、1920年に3万175人だった在日朝鮮人人口は1925年には13万3710人、1930年には29万8091人、1935年には62万5678人と急速に増えている。厳しい渡航制限というが、実際には有名無実だったのではないかと疑われる。

 こうした労働者は、今日でも日本に大量にいる外国人労働者とそう変わらなかったのではないかと思われる。本国ではある程度裕福で教養もあり、渡航費用も捻出できれば日本語もある程度学習している、そういう人たちが戦争前に既に60万人を超える一大勢力として日本に滞在し、それが自由労働者として逃走した強制連行労働者をかくまったり、時には支配する側(暴力を振るう側)にもなっていたのは間違いない。

 強制連行でつれてこられたのは、本来日本に行くべきではないような、本当に貧しくて無学無教養だった人たちで、かれらは朝鮮人だからというよりは貧乏無学無能によって暴力を振るわれていたのではなかったかと思われる。むしろ貧民差別の方が大きかったのではないかと思われる。

 少なくとも戦前に渡航したいわゆる「在日朝鮮人」に対しては、アメリカで起きた日系人の強制収用のような事態は起きてない。だからこそこの本の著者の金賛汀さんも1937年の京都で生を授かることができたのであろう。

 

 おそらく事の次第はこうだったんだろう。

 1939年に炭鉱労働者の募集の話が来た時点では、旧大韓帝国の貧しい農民たちは大喜びした。というのも、裕福な連中の子息はとっくに日本に渡航し、そこで稼いだ金を親の元に贈っていた。ただ、厳しい渡航審査があり、貧しい俺たちには縁のないものだとあきらめていた。そこに降って涌いた炭鉱労働の募集に、ようやく俺たちにもチャンスが来たとばかりに飛びついた。

 しかし、その期待は徹底的に裏切られた。それは雇用者の側も同じだったのだろう。日本語のわかる優秀な韓国人を期待していた所、やってきたのは薄汚い日本語の喋れない底辺の人間ばかりで、はっきり言って「使えない」連中ばかりだった。契約の概念もないままに連れてこられた彼らの唯一の抵抗は逃げることで、実際多数の労働者がまだ働く前から逃げ出した。

 逃げ帰った人間は炭鉱労働がいかにひどいものであるかを当然人に話す。その噂から翌年、炭鉱労働の募集をかけてもほとんど集まらなくなった。

 南京事件が欧米に報道され経済制裁を受けた日本は、石油の輸入を止められ、炭鉱は国の経済の生命線だった。その炭鉱にいた若者たちが戦争に取られてしまったため、炭鉱夫の人員確保はどんな手段を使っても必要なことだった。実際そこで汚い手段に走ってしまった。

 汚い手段を使って集めてきても、実際はものにならない。そこで管理する側もいらいらを募らせ、暴力はエスカレートしていった。そうなるとますますあの手この手で逃亡する。さらに暴力をエスカレートさせる、その悪循環に陥った。

 何が悪いといえば、日中戦争で経済封鎖を受けるようなことをやったのがそもそもの原因で、そこで無理やりに戦局を拡大し余計に傷口を広げてしまったため、その付けが朝鮮半島の貧しい人たちにも及ぶことになった。

 だから今の中国人にも言いたい。国際世論には素直に従った方がいいよ。下手に突っ張るとろくなことがないから。日本の教訓。

7月5日

 『証言 朝鮮人強制連行』(金賛汀、1975、新人物往来社)を読み進めてゆくと、強制連行以前に日本に渡航した旧大韓帝国人のことが少しづつ出てくる。

 彼らは確かに数十万人いたし、「自由労働者」として強制連行された人たちとはまったく違った生活をしていた。中には強制連行された人を監視する側にいる人もいたようだ。

 「在日朝鮮人」という言葉もこの本では自由労働者として、強制連行された人たちと対比的に用いられている。まあ、いやいや連れてこられた人だから、戦争が終わるとあの手この手で早く国へ帰ろうとして9割がたは帰っていったようで、1割程度が諸般の事情から残留したという。1割と言っても10万人くらいにはなる計算だが。ただ、戦後の在日が50万、多いときでも60万程度だったことからすると、戦前の「在日朝鮮人」がほぼそのまま戦後の在日になったと考えていいのだろう。

 強制連行された人に加えられた夥しい暴力が必ずしも人種差別感情によるものとは思えないのは、強制連行と自由労働者との待遇の違いにも現れている。また、逃亡した強制連行がドヤ街や軍施設の工事で良い待遇を得られたことからしても、暴力は炭鉱現場特有の体質だったのかもしれない。

7月4日

 『証言 朝鮮人強制連行』(金賛汀、1975、新人物往来社)を読み始めた。

 ここで言う「強制連行」はいわゆる1944年8月に国民徴用令が朝鮮半島にも適用され、そのとき青紙一枚で連れてこられた人のことを意味するのではない。

 強制連行の人数というのは「強制連行」をどう定義するかによって大きく変わってくるもので、それは南京虐殺の人数と同じことだ。

 当然ながら、国民徴用令に基づいて日本に連れてこられた人の数が112万9千人ということではない。この数字は1939年から1945年までの「強制連行」の数だということに注意しておこう。

 簡単に言えば、ここで言う強制連行は1939年以降に、表向き朝鮮半島からの労働者の募集でありながら、実態としては詐欺や恐喝や拉致などが行われ、炭鉱などに連れてこられた人数を言う。

 当時という、韓国併合から終戦まで、朝鮮半島からの旧大韓帝国人の日本への渡航は厳しく制限されていた。ただ、それでも1935年の時点で62万人を越える旧大韓帝国人が日本で生活していた。これは今の在日よりも多い。そしてこの時代の日本への渡航者は軍国主義の過酷な支配を受けることもなく、比較的恵まれていたと思われる。こうした成功例があったからこそ、1939年の時点では容易に騙して日本に連れてくることができたと思われる。

 ただ、その時騙されひどい目にあった人が脱走したりして朝鮮半島に様々な形でうわさが広まると、日本への渡航希望者は激減し、かといって日本国内の労働力不足は深刻になる一方で、そこで騙すにしても手口が乱暴になり、脱走を恐れて監視を強化し、そのうわさが広まればますます誰も日本へは行きたがらなくなるという悪循環に陥ってしまったのだろう。

 1939年の朝鮮半島は大凶作で、日本へ行けば良い仕事があると言われると、瞬く間に定員以上の人が集まり選ぶのに苦労したという。しかし翌1940年は豊作で、おそらくその前年に日本へ渡った者から聞いたうわさもすでに広まっていて、あたま数そろえるのに困難になった。そして年々手口は乱暴になり監視も厳しくなるが、それでも脱走するものは後を絶たなかった。

7月3日

 ディープラーニングのおかげで今やAIブームとなったが、マスコミのコメントは相変わらず60年代SFの世界で、人型ロボットが権利を主張しやしないかだとか、ロボットと恋に落ちる映画だとかの話からなかなか発展しない。

 それはともかく総務省までもがロボットが参政権を要求するだとか反乱を起こすだとか振り込めさぎなどの犯罪に悪用されるだとか、いい加減に60年代SFの世界から卒業して欲しいものだ。

 実際にもっとも大きな影響を与えるのは工場の無人化が進むという単純なことで、これだけでも企業は新興国に工場を作る理由がなくなるし、工業以外の分野でも無人化が進んでいけば、最終的にはロボット関連のエンジニア以外の労働者は必要なくなる。マルクス主義者の夢見た未来とは真逆で、この世から消え去るのは資本家ではなく労働者の方だった。

 資本家は生き残れるが、市場を操作するロボットが行き着くところまで行けば、アダムスミスのいう神の手が実現することになるだろう。市場は完全な均衡に至り、儲けることはできなくなる。

 過渡期的には、先進国の産業がいち早く無人化し、新興国やフロンティア国が取り残される。先進国では労働者がいなくなり、誰もが資本家となって新興国やフロンティア国の資本を支配し、その収益から遊んで暮らす人たちであふれ、一方ではロボット化に遅れた新興国の人たちが死に物狂いで働き、その不満が様々な形で爆発するだろう。

 日本は今の状態では取り残される側に回る。なぜなら財政再建に失敗し、労働力が不要になって失業者があふれた時にそれに対する公的補助ができないため、結局は失業者を出すことを恐れ、ロボット化に踏み切れず、ロボットが自動的に作り出す膨大な生産力の恩恵からあぶれてしまうからだ。そうして結局、相も変わらずに生産性の低い長時間労働にしがみ付こうとするだろう。

 長時間労働に縛り付けられた労働者はプロシューマーにはなれないし、独自のコモンズを作ることもできない。ただ疲れ果てて死んでゆくだけだ。

 目先のバラマキはやめてきちんと財政を再建しセーフティーネットを整えなくては、これから来るロボット化の波に対応できない。60年代SFのくだらないおしゃべりをしている暇はないはずだ。

7月2日

 貧困問題が解決しないのは、貧困に対する多額な援助金が利権となって、貧困を本当になくしてしまうとその利権を失うことになるからだという。

 同様に差別もまた何らかの利権が発生するなら、差別がなくなることを恐れるに違いない。

 結局、在特会もしばき隊も手のひらの上で踊らされているだけではないか。在特会はこの国にいかに差別が根強いかをアピールするのに都合がいいし、しばき隊はヘイトスピーチ規制という新たな特権をプレゼントしてくれるし。

 日本に人種差別がないと言われるのは、ちょっとしたことでも差別だと騒がれるのが面倒だから、できるだけ深く関わらないようにしているだけ。電車の中で万歳しているようなもの。ネット上だけでガス抜きをしている。

6月26日

 今日の戦争の多くは局地戦か内戦で、そのような地域で後方支援活動を行った場合、こちらが手を出す意図がなくても向こうから降りかかる火の粉は払いのけなくてはならない。

 一つは自分たちの身を守るためであり、もう一つはそこにいる民間人を守るため、最低限の武力使用が認められないなら、ただそこにいる住人を見殺しにして一目散に逃げるだけになる。

 そのために海外での武力行使を行うのであれば、憲法を改正するというのが筋なのは明らかだ。それを解釈の変更でという所にあの法律は確かに無理があった。憲法との整合性を考えるなら、後付けでも憲法を改正するべきであろう。もちろん国民投票を行ったうえで。

 ただ、それは基本的に戦争に加担するための武力行使ではない。つまり海外で自分の身を守るにせよ、そこにいる無力な住人を守るためでも、どちらかの陣営に付いてその敵と戦うということが想定されているわけでないし、しかもそれは緊急措置であり継続的に「参戦」するわけではない。

 ただ、もちろんどのような理由であれ、戦闘ということになれば、相手がこちらを殺す気で来ている以上、よほど余裕で勝てる状態でない限り、こちらも殺すつもりで行かなくてはいけないし、実際人を殺すことになるだろう。漫画みたいに逆刃刀で倒すなんてことはできまい。

 PKO活動の場面に限らず、日本が他国の武力によって脅かされた場合でも、応戦する以上は人を殺すつもりで応戦するのは当然であり、そのための自衛隊であるなら自衛隊の予算で人を殺すこともありうる。

 平和を守るためには人を殺さなくてはならないという事態もある。ただ、こちらから積極的に戦闘を仕掛け敵を殺すことを目的とすることはあの法律は認めていない。自衛隊の予算は人を殺すためにあるのではない。

 もう一つ言えば、日米同盟は主従関係ではない。だから日本は主権国家である以上理由がどうであれ拒否権がある。あとは拒否する意志があるかどうかの問題だ。拒否する意志がない、日本の主権を主張する意志がないなら、もはや法律のあるなしの問題ではない。

 以上、この文章は特定政党や特定候補者をディスる意図は一切ありません。

6月25日

 『限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』(ジェレミー・リフキン、2015、NHK出版)をようやく読み終えた。

 74パーセントの所にこんなことが書いてあった。

 

 「2011年に日本の東海岸を襲った津波は、福島県の原子力発電施設を徹底的に破壊し、六基の原子炉のうち少なくとも三基が炉心溶融を起こし、本州全域に核放射能を拡散させて、発電所の周囲62平方マイル(約160平方キロメートル)は数十年、悪くすれば数世紀にわたって居住不可能になった。」

 

 このときちょうど並行して『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』①~③(竜田一人、2014~2015)を読んでいたので、リフキンさんの本の情報の精度はこんなもんかと思った。他の内容も十分疑うに足る。

 帰還困難区域は337平方キロメートルで、発電所の周囲62平方マイル(約160平方キロメートル)というのは原発に近いその半分の地域という意味か。双葉町、大熊町、富岡町の一部、浪江町の一部くらいを指すのか。既に20キロ圏内の内側にある楢葉町でも避難指示解除が行われている。これらの地域の避難指示解除もそう遠いことではあるまい。

 『限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』の方だが、情報の制度の問題だけでなく、やはり社会主義者にありがちな妙な社会進化説が見られるのもどうかと思う。まあ結局、希望的観測という奴がいつでも人の判断を誤らせるものだ。EU離脱に関しても。

 「神話的意識」から「神学的意識」「イデオロギー的意識」「心理的意識」と品は変わっても、基本的にそれは社会の「建前」の部分であり、本音の部分では未開社会の人たちだってみんな神話を信じているわけではないし、古代の人たちがみんな信心深かったわけではない。ただ社会生活上の建前としてそれ等が君臨していただけで、それは最終的な「心理的意識」の時代も同じことだ。

 人の行動の原動力となっているのは昔も今も同じ、利己的な遺伝子が命ずる自己の遺伝子を「保存」と「複製」、それはしばしば自己に近い遺伝子にも拡大され、そのためには自らの命をも投げ出す、それだけだ。

 後者は厳密なプログラムがあるわけではなく、しばしば誤作動を起こすため、溺れている赤の他人を助けようとして命を落とす人は絶えない。社会はそれを利用して自己犠牲を美化し、奨励する。その際たるものが戦争だ。

 「心理的意識」もそうした社会的に誇張された建前論に過ぎず、人間はそれをうまく利用しながらも水面下では少しでも自分や自分の愛する人のために、太古より生存競争を繰り返している。

 ネットは確かに多くの人をつなぐが、ネットでも絶えず騙しあいもあれば裏切りもあり、排他的なコミュニティーも形成されるし、当然のようにネット内でのいじめが行われている。「神話的意識」が「心理的意識」に変わっても、こればかりは人類が500万年前に誕生して以来何一つ変わらない真実だ。

 コモンズの世界も基本的には排他的な人たちがたくさんいて、ヘイトスピーチが繰り返されるのだろう。ただ、お互いに罵り合いながらも破滅的な結末を避けるだけの理性は持ち続ける。それができないほど人間が愚かな生き物だったなら、もうとっくの昔に人類は滅んでいた。今日まで人類が生き延びているのは、そりの合わない集団同士でも何とかうまく距離を取りながら付き合ってゆく知恵を身につけていたからだ。

 今世界的に吹き荒れる移民排斥の嵐も、結局は適当に距離を取ることできわどい所で回避されてゆくことだろう。それは信じよう。

6月21日

 思うに在特会は戦う相手を間違えていると思う。

 彼らが本当に戦うべきなのは民団・総連、それに同調する左翼団体で、名もなき50万の在日の人たちではないはずだ。

 対象を民団と総連に絞り込めば、在日の中でも支配的な人たちへの批判なので、マイノリティーへの差別や排除を扇動するいわゆる「ヘイトスピーチ」には当たらないと思う。

 民団のサイトを見たらいろいろな統計が載っていて、韓国が民主化した頃には毎年1万人にも及ぶ人が日本に帰化できている。日本政府も在日の帰化条件はかなり緩和しているし、それこそ他の国の人の帰化には認められないような、ある意味「在日特権」なのかもしれない。

 俺は別に在特会に義理はないし、パヨチン左翼にも義理はないが、ただあんたら双方の活動が結果的に日本の言論の自由を脅かしていることは放っておけない。

 

 そういえば子供の頃読んだ何かの本、誰のなんて本だかは忘れたが、オリンピックは本来古代ギリシャの軍事の祭典で、俺の所にはこんな強い兵隊がいるのだぞというデモンストレーションの場所だった、なんてことが書いてあったな。

 最近になって実際に古代ギリシャの文献を呼んでみると、実際は真逆で、オリンピック競技などにうつつ抜かしてそんなことだから戦争に負けるなんてことが言われていたようだ。

 オリンピックが軍事の祭典だったのは、1936年のナチスドイツ時代のベルリンオリンピックくらいのものではないかと思う。戦後はまだ多くの人がその記憶を持っていたから、オリンピック=国威発揚=軍国主義と考える人も多かったのだろう。

 今日でもなおオリンピックを目の敵にして、東京オリンピックを何とか中止させようとする人がいるのも、結局この時代の感覚からいつまでたっても抜け出せない人たちなんだろうな。

 戦争の悲惨な記憶は、もう二度と過ちを繰り返すまいと戦後になって一つの思想を生んだ。その時はそれで良かったのだと思う。しかしあれから70年経ちすっかり世界は変わったというのに、戦後思想の遺物は今もなお様々な恐怖の幻想を生み、人の心を縛り付けて前へ進むことを妨げている。やはり戦争はやってはいけないことなんだ。

6月20日

 何か、フジロックに政治を持ち込むななんていっている人がいるようだが、フジロックは最初から政治的なイベントだし、それはGypsy Avalonのアトミックカフェに出演する他のメンバーが遠藤ミチロウや加藤登紀子なのを見れば当然わかることだし、このフェスからメタル系が排除されていることを見ても最初から中立のフェスではない(BABYMETALはここではメタルとしてあつかわれてないようだ)。昔からパンクやオルタナは左翼的なもので、その集会に政治を持ち込むななんて何を今さらだと思う。趣旨に賛同できないなら行かなければいいだけだ。

 ネトウヨも悔しかったらバンドを組んで対抗フェスをやればいい。和の心を大事にしたフォークメタルなら俺も見に行くぞ。

 

 それはとにかくとして、もうすぐ参議院選公示で、すぐに都知事選が続くようなので、しばらくは政治ネタは自粛かな。

 さすがに去年みたいな戦争法一色になるようなことはないと思いたい。俺も当然戦争には反対だが、ベトナム戦争の時代とは違い、イスラム国でもウクライナでも今やっている戦争は皆局地的なもので、確かに世界は平和になったと思う。そんな平和な世界にありもしない戦争の種をでっち上げて恐怖を煽るやりかたは好きではない。恐怖に駆られヒステリックになった人間ほど恐いものはない。

 どこの党の公約もいまいちなので、俺が勝手に無責任に公約してみようか。もちろん俺も仕事が忙しいので政治活動をする暇はないし、まして立候補する可能性は1万パーセントない。

 まず経済政策だが、基本的にはアベノミクスを徹底します。金融緩和路線を維持し、インフレ誘導を行います。ただしバラマキは一切行いません。ヘリコプターマネーになるような独自通貨や商品券等の発行も行いません。

 財政再建は日本の急務なので、消費増税延期は行いません。2030年までに25パーセントを目標に消費税率を引き上げます。軽減税率も一切認めません。

 金融所得への課税は100万円までを非課税とし、NISAを廃止します。100万円を越える分には段階的に10パーセントから30パーセントの累進税率を適用します。

 福祉政策では、将来のベーシックインカム導入に向けて、手始めに老齢年金と生活保護と失業給付の一本化を行います。働いている人へのベーシックインカム給付は後回しにします。

 労働時間週40時間を厳守させ、ワークシェアを行います。労働力の不足分は女性や身障者や自宅警備員の雇用などで補います。最低賃金の引き上げは行いません。収入の低下した分は投資や有償ボランティア、ネットなどを利用した副業などで補ってもらいます。

 ネットでの生産=消費者(プローシューマー)としての活動の基礎として、クラウドファンディングを推進し、法整備を進めます。

 TPPはアメリカの方の都合でぽしゃりそうなので、基本は早期批准をめざしますが、それと平行して独自の経済連携協定を広く世界に提案して行きます。

 集団的自衛権もアメリカの方の都合でぽしゃりそうなので、アメリカに限らず日本と価値観を共有する国との連携を求めて行きます。海外の紛争で他国の軍隊と協力する場合にも、戦闘行為は行わず土木事業での貢献をメインに理解を求めて行きます。

 観光産業の促進のために、文化財や伝統工芸、伝統芸能などを保護し、日本的な景観の再建に力を入れます。電線は地下に埋設し、砂防ダムや津波よけの堤防なども自然の景観と調和するものに変えて行きます。これだけでもかなりまとまった公共事業になるはずです。

 教育はこれまでの均質な労働者を作る教育から、創意ある事業者を育てる教育に転換します。経済やITなどの教育に力を入れます。

 原発は2030年のゼロを目標に順次削減します。再稼動は他の原発の廃炉との引き換えに許可します。直置き型のメガソーラーの設置基準を厳しくし、商業施設や工場などの屋根へのソーラーパネル設置を促進します。小型の再生可能エネルギー発電施設を数多く作ることでエネルギーの地産地消を目指します。

 ロボットやAIなどの研究開発を支援し、最終的には働かなくても誰もがベーシックインカムで暮らせる世の中を2050年をめどに目指します。

 憲法改正はというと、これだけのことをやるのに憲法改正なしでなんて無理でしょ。

 以上、鈴呂屋こやんに清き一票は自由ですが、間違いなく無効票になります。

6月16日

 そろそろ在日特権についてもちゃんと調べなくてはいけないなって、だってあの人が都知事選に出るんでしょ。

 在日特権での一番の争点は、やはり永住権の問題だろう。これを認めないなら出て行けということだし、認められるべきものなら「出て行け」はヘイトだということになる。

 1910年の日韓併合により、かつての大韓帝国の統治権は日本の天皇の譲与された。これによって大韓帝国の国民は大日本帝国の国民となるわけだが、大韓帝国の国民は日本の国籍法で日本人と認められたのではなく、大韓帝国時代からあった戸籍をそのまま継承して朝鮮戸籍を作成し、日本人と区別されていた。

 このあたりでどうやら本音と建前というのがあったのか、つまり大韓帝国の国民は天皇に従属するという点では日本人だが、戸籍上は朝鮮人だということになる。

 またこの「朝鮮人」は日本への自由な渡航を認められていなかった。ならば日本にいた「朝鮮人」は何だったのかということになると、日本政府は再三に渡り密航の禁止令を出していた。当時の大日本帝国と大韓帝国との経済格差からすれば、法の網目をかいくぐっては様々な形で労働者が流入していたと思われる。日本は急速な工業化で労働力を必要としていた。朝鮮半島は開発が進まず仕事のない貧しい人たちがたくさんいた。原則日本への渡航は違法だが、まあ目をつぶっておこうかといったところか。この種の本音と建前の使い分けはまあ、今の外国人労働者にも言えることだが。

 貧富の差があり、たとえ進んだ西洋の文化が日本人経由で入ってきたとしても、そこには支配するものとされるもの、そういって語弊があるなら教育するものと教育されるものと言ってもいいが、そこに上下関係があったのは明らかだ。その不満は併合以前から続く抗日運動を引き起こし、1919年には三・一独立運動で頂点に達し、憲兵や警察によって鎮圧された。

 これに対して、合法的に許可されて日本に渡航できた旧大韓帝国人は日本で選挙権も与えられていた。もちろん半島の人たちにはなかった。

 満州事変以降は中国という共通の敵に対し日本人と旧大韓帝国人は協力し合うムードになっていたとも言う。中国は今日でもかつての朝貢国は中国の一部だと主張しているくらいだから、旧大韓帝国人にとっても中国は危険な存在だった。

 1939年に制定された国家総動員法4条に基づいて発令された国民徴用令は1944年には朝鮮半島に適用され、多くの労働者が日本へと渡った。これがいわゆる「強制連行」と呼ばれるもののようだ。まあ、この頃は日本の女学生も工場に動員されて戦闘機の翼の布張り作業をやってたと、俺も子供の頃母から聞かされていた。同時に徴兵も行われたが、なにぶん戦争末期のために実戦には参加しなかった。

 悪名高い創氏改名(ソンシケミョン)も1939年に始まったもので、これが今日の在日特権のもう一つの大きな柱である「通名使用」の問題の元となるものだった。

 韓国でも日本でも伝統的に中国文化と共通の根を持っていて、いわゆる「姓」というものがあった。姓は今日の名字ではない。ここは重要だ。たとえば徳川家康の徳川は姓ではない。姓は源、源家康(みなもとのいえやす)が本来の名前で、徳川家康はいわば通名ということになる。姓を名乗る場合には必ず「の」をつける。紀貫之は「きのつらゆき」、藤原定家は「ふじわらのていか」、ならば豊臣秀吉はというと、豊臣は朝廷から賜った姓なので「とよとみのひでよし」が正しいことになる。NHK大河ドラマ「真田丸」でもちゃんとそう発音している。西洋のdeやvonと似ている。

 姓は父系で子孫に受け継がれるもので、そのため基本的に夫婦は別姓だ。夫婦同姓は明治になって西洋に習って取り入れられたもので本来の日本の伝統ではない。

 創氏改名もこの西洋のファミリーネームの習慣を韓国に広めるというか押し付ける形で行われた。そのため伝統的な姓とは別に日本の名字に当たる「氏」を新たに作るということで「創氏」となり、名前の方もそれに合わせて日本式に「改名」することとなった。これは朝鮮半島に暮らす旧大韓帝国人には屈辱的だったが、既に日本で暮らしていた旧大韓帝国人には便利なものだった。そのため戦後になっても創氏改名によって作られた日本人名をそのまま通名と使用する人が多かった。

 さて1945年、日本は戦争に負け、米軍の支配下、オキュパイドジャパンになる。そして西洋人の常というか、皇国の民でありながら大韓帝国から引き継いだ日本人とは別の戸籍を持つというグレーな存在は認めず、旧大韓帝国民は日本人ではない、つまり外国人だと判断した。朝鮮半島の旧大韓帝国民は概ねこれを喜び、遂に独立を勝ち取ったと沸き立ったが、問題は日本に長く暮らしていた旧大韓帝国民だった。

 彼らの中には朝鮮半島に戻ってゆくものもいたが、日本に残ることを希望するたくさんの旧大韓帝国民もいた。これに関しては韓国側にも原因がある。根っこにあるのは、奴らは国を捨てたんだ、という意識ではないかと思う。つまり彼らは韓国人からも差別を受けて、帰るに帰れなくなったという事情があった。かといって帰化するにはその条件や何やら結構ハードルが高かった。こうして大量の在日が誕生した。

 歴史は繰り返すというか、百済(ペクジェ)・高句麗(コグリョ)が新羅(シルラ)に滅ぼされた時、応神天皇の三韓征伐の時代に日本に渡って来た百済人・高句麗人は新羅に行くことを望まずそのまま日本に住み着き、いわゆる帰化人となった。豊臣の秀吉の朝鮮出兵(イムジンウェラン)の時も、たくさんの朝鮮(チョソン)の職人が日本に渡ってきたが、彼らも半島に帰ることを望まずに日本に有田・伊万里の焼き物など多くの文化をもたらした。

 半島から来た人間を優遇し、それを日本の文化の発展に役立ててきた過去の歴史からすれば、戦後の日本政府がわざわざ日本に残りたいという旧大韓帝国人を追い出したりしなかったのは必然的なことだった。

 今日「在日特権」と呼ばれるものも、そうした外国人が日本に残ることを支援する法律であり、日本人であって日本人でないようなグレーな存在だった旧大韓帝国民に対し、アメリカの支配下でいきなり外国人になってしまったのはあんまりだということで定められたのが入国管理特例法であり、決して理由のない特権ではない。通名の使用に関しても、それは彼らが日本人として暮らすことを望んだ結果だといっていい。

 だから在日特権を解消するには彼らを追い出すのではなく、むしろ彼らの帰化を拒んでいる障壁を取り除く方向で解決した方がいいのではないかと思う。それは日本人だけの問題ではなく、韓国人同士の問題でもある。十三ベース事件がそれを象徴している。

6月15日

 民進党の国民との約束が発表されていた。

 内容はもちろんいろいろ問題はあるが、安倍首相が言っていることも、消費増税先送りと財政出動という名のバラマキで、いきなりポピュリズムに走り出し、そのほか相変わらずエネルギー政策が保守的だったりというのがあるので、どっちもどっちの部分はある。

 とりあえずまず「分配と成長の両立」で「人への投資」「働き方革命」「成長戦略」の三つをあげているから、そこから見てみよう。

 まず、人への投資だが、

 

 「保育園・幼稚園、義務教育の負担軽減、大学進学等のための給付型奨学金の創設に取り組みます。職業技術教育を充実させ、公的な職業訓練メニューを多様化するなど、学びと仕事をつなげます。起業を応援するため、IT・デザイン・人材育成・研究開発などソフト面への助成金等を充実します。」

 

と基本的には予算のバラマキで、消費増税延期と財政再建とどう調和させるのか、道筋は示されていない。

 働き方革命の方も、

 

 「残業が当たり前の働き方を変えて仕事の生産性を上げ、子育て・介護と仕事の両立を強力にバックアップします。誰もが時給1,000円以上となるよう、最低賃金を引き上げます。同時に、派遣法改悪を見直し、「同一価値労働同一賃金」を確立して、家計を温め、消費を刺激して成長につなげます。」

 

 これはあくまでも終身雇用にこだわろうとしているように思える。終身雇用制のまま正規雇用を増やすと、人材の流動性がなくなり時代の変化に対応できなくなるし、生涯一つの企業に拘束されてしまうことで政治活動やボランティア活動などへの参加も阻害される。

 また、正規雇用化促進と最低賃金の引き上げを同時に行えば、今の派遣社員の多くが失業する危険もある。

 むしろ必要なのは徹底したワークシェアの推進だ。

 成長戦略の方は、

 

「①遠隔医療、ⅰPS細胞、人工知能の研究支援、IoT、ビッグデータの活用など、命・暮らしを守るイノベーションを支援します。」

 

 こういったものはロボットが欠落しているほかは誰でも思いつくことだろう。まさかロボットは人の労働を奪うからはずしているとか、それだといくらなんでも時代錯誤だ。ラッダイト運動だと勘ぐられかねないが、さすがにそれはないだろう。それだったら人工知能も一緒だからな。

 

「②グリーンエネルギー革命、地球温暖化対策をすすめます。」

 

 これは評価しておこう。

 

「③正規雇用を増やした中小企業を応援するため、増えた社会保険料の事業主負担の2分の1相当額を助成します。中小企業の経営を支えるため、インボイス・外形標準課税の適用拡大は行わず、第三者保証制度は禁止します。」

 

 インボイス方式や外形標準課税に関しては、適用拡大をしないというだけで、外形標準課税の必要性は認識している。将来の状況の変化を考慮せずに現状維持だとそれはそれで問題がある。

 

「④社会の課題を解決する民間の力が、ビジネスとしても成り立つよう、NPO税制等をさらに拡充して「新しい公共」を推しすすめます。」

 

 寄付金を税金の控除の対象とすることは、NPOへの寄付を促進することにはなるが、ビジネスとしても成り立つようにするには、収益事業参加を促進するような税制や規制緩和が欲しい所だ。

 

「⑤観光需要を地域経済のエネルギーにするため、観光をマネジメントする人材を育成するとともに、有給休暇を取りやすくします。」

 

 これは国内観光向けの政策で、外人観光客を誘致するという視点を欠いている。

 

「⑥「特区」の成功例を全国展開して、新規参入・起業のハードルを下げます。」

 

 特区に限らず規制緩和は必要だし、起業のハードルを下げるという部分ではクラウドファンディングの促進に触れてもよかったのでは。

 次に、アベノミクスの失敗についてだが、始める前から失敗だ失敗だと言い続けていれば、いつかは失敗するというようなもので、地震が来るぞ来るぞと言い続けていればいつかは来るのと一緒だ。

 アベノミクスは一つの仮説であり実験だから、成功か失敗かはやってみなければわからない。むしろ問題なのは、途中で党内の圧力だとか選挙対策だとかでぶれてしまうことの方だろう。むしろそっちを攻めた方が良かったのではなかったかと思う。

 

 「アベノミクスは失敗し、本来やるべき消費税引き上げを実行できる状況にありません。ふつうの人の暮らしを立て直すため、以下の4点を前提として、引き上げを2019年4月まで2年延期します。

①年金・医療・介護の充実と子育て支援は、消費税引き上げを待たずに予定通り来年4月か

 ら実施します。

②税金のムダづかいをなくすなどの行政改革と身を切る改革を徹底します。

③2020年度基礎的財政収支の黒字化目標は守り、次世代にツケをまわしません。

④高所得者優遇の軽減税率は中止し、消費増税分を中低所得者に払い戻す給付付き税

 額控除を実施します。」

 

 ②は民主党時代にできなかったことが、どうしてこれからできると言えるのか、そっちの方の説明が欲しい所だ。また、それがどの程度の支出の削減につながるのか、明確な数字もない。それでいて消費税増税の延期と①を行えば、③と矛盾することになる。

 別の所に「国家公務員総人件費の2割を目標に削減をめざします。」とあるが、これだと1兆円ちょっとの削減にしかならない。まさか国民が総人件費60兆なんてことをみんな信じていると思っているのでは。

 ④の軽減税率の中止は、行政の無駄をなくすという意味でも当然のことだが、中低所得者

 

払い戻しはそのメリットを打ち消してしまうので×。

 

 「無理やり物価を引き上げようとしても、賃金上昇が追い付かなければ暮らしは苦しくなる一方です。特に、マイナス金利は、預金者にデメリットが大きいだけでなく、金融機能低下を招きかねない政策です。日本銀行に対し、デフレ脱却・為替の安定化に努めつつも、マイナス金利は撤回させ、金融政策は現状を踏まえ、より柔軟に行うように促します。」

 

 アベノミクスは無理やり物価を引き上げようとはしていない。金融緩和は輸入品価格を押し上げて若干のインフレ効果は期待できたが、原油をはじめとする世界的なコモディティの下落でその効果が相殺されてしまった。デフレの原因は地球規模での生産過剰ではないかと思う。

 マイナス金利の問題点は確かにいろいろ指摘されているが、それを撤回したあとが「金融政策は現状を踏まえ、より柔軟に行うよう」と具体策がなく、野党お決まりの「対案なし」。だらだらとまた1ドル80円時代に逆戻りしそうだ。

 安倍首相が、争点はあくまで経済だといっているのに、そこで望む所だ受けて立とうと言えない弱さがここに顕れてしまっている。そこで結局争点を安保問題に持っていこうとするわけだが、ここではほとんど共産党と差別化が図れない。となると、どっちつかずの中途半端さが目立ってしまうことになる。

  民主党と維新の会がやろうとしてきた政権交代可能なもう一つの現実的政党というコンセプトが守られていない。バラマキと増税延期、できもしない支出削減では仮に政権とったとしてもまたあの悪夢を繰り返すのは目に見えている。

 その弱点を隠すために、共産党に同調するような安保法制やTPP反対をメインに押し出し、実際マスコミもそっちの方ばかり取り上げている。これでは自力での勝利はない。自民党が墓穴を掘ってくれて、お灸票をもらうしかない。

 あと、「金融所得課税の税率を5%引き上げ」というのがあったが、正確な数字がわからなかったが、多分金融所得課税は税収としては1兆円に満たないと思う。それを5パーセント引き上げてもたいした財源にはならないし、個人投資家の意欲をそぐことになるだけだと思う。前にも書いたが、NISAなんてやめて、0から30パーセントくらいの累進税率にしたほうがいいと思う。

  このあたりにも、投資=博打=悪という古い考え方があるような気がしてならない。真面目に貯金しろと言いたいんだろうけど、貯金じゃ利息がつかない。マイナス金利をやめるだけでなく、昔みたいな高金利を復活させようとでもしているのか。そこまで馬鹿ではないと思うが。

 

 「分岐点に立つ日本

 戦後70年、私たちは今、時代の大きな分岐点に立っています。急激な人口減少、膨大な財政赤字、経済の長期停滞。こうした根本的な問題が解決されないまま、多くの子どもや若者が、その可能性を発揮できずに、未来への希望を失っています。戦後日本人が育み、培ってきた「立憲主義」「平和主義」「民主主義」といった基本的な価値や権利が脅かされています。この深刻な状況を前に、私たちは強い危機感と使命感を持って、自民党に代わって政権を担う新たな政党「民進党」を結成しました。「自由」「共生」「未来への責任」。これが、民進党の結党の理念です。」

 

 膨大な財政赤字、経済の長期停滞は事実としても、人口減少は急激ではなくごく緩やかにしか起こっていないからこれはいくらなんでも大袈裟。今回の民進党「約束」では、何らこの問題の解決にはなっていないし、未来への希望も見えてこない。

 確かに今は分岐点かもしれないが、分岐を恐れて旧来の戦後思想に逆行しようというのでは情けない。それに、「立憲主義」「平和主義」「民主主義」といった基本的な価値や権利は少しも脅かされていない。いたずらに不安を煽って恐怖で人を支配しようというのはテロリストの発想だ。

 国民が望むのは栄光の60年代に戻ることではない。まだ誰も知らない未来だ。

6月8日

 帝国主義の時代はとっくに終わっている。

 初期の資本主義は産業革命により大量生産に成功したものの消費大系は変わらなかった。だから生産過剰分を外地で捌こうとして、植民地争奪戦を行った。最終的に第二次世界大戦の悲惨な結末に至った。

 戦後、モータリゼーションやエレクトリゼーションによる消費革命が起こり、資本主義の拡大再生産は大量消費によって解消され、もはや植民地を必要としなくなった。

 それでも戦後しばらくはアメリカとソ連との間で市場が二分されたため、両者の市場の拡大をめぐって代理戦争が多発し、アメリカとソ連は米帝、露帝と呼ばれ、帝国主義の比喩で語られていた。

 冷戦構造が崩壊し、世界は一部の例外を除いて単一のグローバル市場に統一された。ここにおいて帝国主義の時代は完全に終わった。

 90年代のパソコンとインターネットの普及によるIT革命の波が一段落し、今はまた新たな消費革命が見えていない。そんな中で世界的に生産過剰に陥り始め、先進国が軒並みデフレ基調になっていくものの、今の世界で拡大できる市場は残り少ない。再び生産過剰の時代が来たとはいっても、帝国主義に逆戻りするにはもはや植民地にする余地がどこにもない。

 加えて地球的規模で進む少子化で、国土を拡大する動機付けも薄弱となり、もはや世界は新たな侵略戦争を起こす動機付けを失っている。

 今日まだ戦争の火種となっているところは、複数の民族が入り組んで居住する地域で、かつて西洋列強によって実情に合わない国境の引かれた地域がほとんどだ。

 世界は広く多様性を認めつつあり、この流れは逆行しない。ただ、多民族の混在か棲み分けかをめぐる対立があるにすぎない。混在論は一つの地域に複数の民族が生活する際、どうしても多数派と少数派の対立が生じてしまい、その処理に多くの労力を裂かねばならなくなる。かといって棲み分け論は既に混在してしまっている諸民族を強引に排除するわけにも行かず、行き詰まってしまう。

 未来はそのどちらでもない方向に、まだ未知の方向に進むしかない。70億人が知恵を絞れば、やがてなるべきところに落ち着くはずだ。それを信じよう。

6月1日

 猫のエンクロージャーという問題を考えてみよう。

 かつて猫はそれほど正確な所有権の対象ではなかった。猫の多くは家の中と外を自由に行き来し、そのまま他人の家の中に上がりこむことも普通のことだった。

 飼い主は猫を24時間所有するわけでもなく、ただ餌の時間や寝る時間などにやって来て、それ以外の時間は半野良の状態で生活することが多かった。中には複数の飼い主の間を渡り歩いて餌をもらい歩く猫もいた。それぞれの家で別々の名前で呼ばれ、飼い主たちはそれぞれそれが自分の猫だと信じていたりもした。

 おそらく、コモンズによる所有の概念もそれに近かったに違いない。いわゆる「共有」ではない。共有というのは共同で所有権を持つことをいい、私有の特殊な形態にすぎない。つまり契約に基づいた複数の人間による「私有」にすぎない。

 コモンズの所有は、私有財産として意識される以前の、いまだ私有化されていない天の領域のものだった。天というのはいわば人間の意のままにできないものの領域であり、使いこなすことができない、予測不能の世界だから天であり、神の世界でもあった。

 人間が耕す畑は人間の手を加えたものであり、そこから得られる収穫は耕した人間のものとなる。それに対して里山で取れる薪や山菜などは本来山で自然に生じるものであり、天が生産する。そのためそれは天の所有物であり、ただ天は所有権を主張しないので、人間がそれをありがたくいただくことになる。利用の仕方は人間同士の取り決めによる。天がそれに関与することはない。

 農地に関しても、初期の原始的農耕の時代には、土地は本来天のもので、人間が勝手に拝借して農地にしているにすぎなかった。農地は永続的なものではなく、連作すればすぐに土地は痩せて放棄され、また別の土地を求めて農家も移動していった。どこの土地を誰が取るかは人間同士の協定によるものだった。

 犬や牛や馬は明確な所有者がいても、猫は長いこと天に属していた。猫は人が手を加えなくても勝手に繁殖し増えるもので、それを人間がそれぞれ家に呼び込むことで自分ちの猫としてきた。そして、猫はいつの間にどこかへ行ってしまうものでもあった。

 猫は売買されるものではなく、ただふらりと家にやってくるものだった。飼い主も遊びに来ているうちは面倒見て、いなくなればあきらめる。生まれてから死ぬまで責任持って面倒見る必要はなかった。家に来るのも家から去るのも猫の気まぐれで、人間がどうこうできるものとは思っていなかった。猫は誰のものかといえば、それは猫自身のものだった。

 近代化とともに猫は他の動物のペットと同様、家に囲い込まれ私有財産化されるようになっていった。これは今も継続中の猫のエンクロージャーとでもいうべきものだ。そして、世界的にもまだこの過程は進行中で、終わってはいない。

 おそらく猫のエンクロージャーでもっとも先進的なのはドイツではないかと思う。動物の愛護団体が基本的には猫のエンクロージャーを推進する側にあるから、そのほかの国でも動物愛護の意識の高まりに比例して猫は自宅の中だけに囲い込まれている。

 動物愛護の見地からすれば、基本的に外で暮らす猫は不幸な猫であり、猫は人間の私有財産として死ぬまで同一の飼い主に面倒を見てもらうことで最も幸せになるという考え方に基づいて里親を選定する。

 地域猫活動は、こうしたエンクロージャーに抵抗する一つの動きといえるが、いろいろ問題点も指摘されている。しかし、うまくいけば地域猫は限界費用ゼロ時代のコモンズ復活の先進的なモデルになれるかもしれない。

5月31日

 保健所というのはひょっとしたら日本独自の世界にあまり例を見ないものなのかもしれない。

 ネットで調べると、保健所は英語でヘルスセンターだというふうに出てくるが、health centerを調べてみると、どうも医療施設のことらしい。犬猫を収容するのはアニマルシェルターで、また別のもののようだ。

 戦前の日本人の衛生管理を管轄してたのは警察だったという。外国からもたらされた様々な伝染病に対処するのがその主な目的だった。

 保健所の前身となるのは大正3年に日本赤十字社によって設置された乳幼児健康相談事業所らしい。大正15年には政府によって小児保健所の設置が推奨された。そして昭和12年に保健所法が制定され、翌13年には厚生省が創設されたという。健康な兵士の育成が主な目的だったようだ。

 戦後になり、GHQの指導の下に保健所は公衆衛生を幅広く取り扱う機関として再編された。このときに従来警察の管轄だった環境衛生も取り込まれるようになった。

 保健所が野良犬の駆除をするようになったのも、おそらくこの頃からだろう。昭和25年に狂犬病予防法が制定されている。

 アメリカで野犬の処分を行っているのはアニマルシェルターで、ヘルスセンターは何の関係もない。アニマルシェルターは州政府によって運営され、日本と同様殺処分を行っている。おそらく日本の保健所は戦後、アメリカのこのアニマルシェルターの機能を引き受けたのであろう。英語版のウィキペディアによると、2012年のアメリカでは約400万匹の犬猫が殺処分されたとのこと。(In 2012, approximately four million cats and dogs died in U.S. shelters.)

 そのアメリカでも動物愛護の機運の高まりから殺処分を極力行わないノーキルシェルターを目指すようになってきている。これも日本と似ている。

 アニマルシェルターもティアハイムも動物専用の施設で、日本の保健所のような公衆衛生を一般的に管轄する施設ではない。だからアニマルシェルターやティアハイムが「日本の保健所に相当する」と書かれていても、イコールではない。

5月30日

 『猫を助ける仕事 保護猫カフェ、猫付きシェアハウス』(山本葉子、松村徹、2015、光文社新書)を読んだ。これにはソーシャルビジネスとあるが、実際、東京キャットガーディアンの活動はボランティア活動の部分とソーシャルビジネスの部分とが合わさっている。

 捨て猫や保健所から預った保護猫などの里親探しの部分はドイツのティアハイムの活動に近く、猫カフェ型のシェルターも法的に保護猫を営利事業に使えない関係でやはりボランティア活動と見ていい。このあたりは規制緩和してもいいんじゃないかと思う。

 ソーシャルビジネスとして成り立っているのは不動産事業のほうで、猫付きマンション、猫付きシェアハウスがそれに当たる。

 ドイツの「ティアハイム」(日本語)をネットで検索すると、大体判で押したような同じような文言しか出てこない。それはちょうどネトウヨとパヨクの争いのように、両極端な意見で、一方ではすべて寄付で運営されている動物保護施設で、そこでの犬猫の入手はすべて無料、ドイツでは殺処分ゼロ、日本は遅れていると大体こんな所で、もう一方はドイツには日本の保健所に相当するものがなく、夥しい数の野良犬、野良猫がハンターによってその場で射殺されていて、そのほかにも殺処分と呼ばれないだけで様々な形での安楽死が存在し、ティアハイムも犬猫の仲介で多額のお金を取っているといったもの。

 ペット事情に関してはそれぞれの立場からのバイアスがかかっている場合が多く、なかなか正確な情報がない。ティアハイムと犬税のことを混同していた。犬税は目的税ではなく一般財源であり、それに対してティアハイムは民間のボランティア施設で寄付金によって運営されている。ドイツでは日本の保健所に相当する犬猫の公共の保護施設がないというのは、多分本当なのだろう。だから逆にティアハイムが発達せざるを得なかったのではないか。殺処分ゼロなのではなく、殺処分という概念そのものがないのではないかと思う。

 ちなみに、Tierheim die Vermittlungsgebühr(ティアハイム、仲介料)で検索すると、あちこちのドイツのティアハイムのサイトの料金表を見ることができる。それによると、命に値段はつけられないから動物を売ることはできないが、仲介の手数料は組織の運営と、去勢などの処置のために徴収するとのこと。犬は250ユーロ(30750円)くらいが相場で、猫は60から100ユーロ(7380から12300円)くらいで、そんな法外に高くはない。(1ユーロ123円換算)ベルリンのティアハイムはそれよりやや安い。

 ちなみに東京キャットガーディアンの譲渡費用もちゃんとホームページに記されている。猫一頭34000円でティアハイムに比べるとかなり高い。これは猫の医療費の違いだろうか。医療費を除いた、飼育費用、飼育施設維持費、しっぽコール加入費、事務手数料だけだと14000円でそれでもやや高めだ。

 ネットを見ていると、ドイツは日本に比べてペットを飼うためのハードルが高いためペットの数が少ないという説があったが、そんなことはなさそうだ。

 

 ドイツの人口8190万人

 ドイツの飼い猫1290万(2015)

 ドイツの飼い犬790万(2015)

 一人当たりの猫数0.15匹

 一人当たりの犬数0.096頭

 

 日本の人口1億2693万人

 日本の飼い猫974万(2013)

 日本の飼い犬1087万(2013)

 一人当たりの猫数0.076匹

 一人当たりの犬数0.086頭

 

 まあ、日本の住宅事情を考えれば、日本も結構犬猫を買うにはハードルが高い。だから猫付きマンション、猫付きシェアハウスというのが脚光を浴びたりするわけだ。

 犬猫がハンターによって殺されているというのはPETA(People for the Ethical Treatment of Animals:動物の倫理的扱いを求める人々の会)というアニマルライト運動の団体のドイツ支部、PETA Germanyのホームページに掲載されている。正確な統計はないが、推定猫40万匹、犬65000等という数字が載っている。(Schätzungsweise werden jährlich etwa 400.000 Katzen und 65.000 Hunde von Jägern erschossen.)

 狩りを廃止するためのイニシアチブ(die Initiative zur Abschaffung der Jagd)のサイトでも同様の問題が取り上げられていて、そこでは「ハンターは毎年約4万匹の犬30万匹の猫を殺します(Jäger töten jedes Jahr etwa 40.000 Hunde und 300.000 Katzen)」という若干控えめな数字が示されている。

 もっとも、この手の団体のことだから、いずれにせよ若干盛っている可能性はある。

 狩猟は西洋の伝統に根ざした一つの文化で、犬猫がたくさん射殺されたり罠にかかって死んでいるからといって西洋が遅れているわけではないし、どの国にもその国の文化や制度から来る固有の問題を抱えているだけのことなのだから、比較はできない。

 日本も保健所がなかったら最初から殺処分ゼロだし、そうなれば野良犬や野良猫を私的に処分する人があとを立たなかっただろう。昔は子猫の処置に困ると川に放り投げたりしてたらしいし。そこらじゅう野犬がうろうろしていれば、恐いから何とかしてくれということになり、猟友会にお願いするなんてことも起きたかもしれない。それに比べれば殺処分の方が進んだやり方だったとも言える。

 日本でティアハイムのような活動をしようとすれば、当然保健所との協力関係が不可欠になる。保健所だって好き好んで殺処分しているわけではないから、里親探しを手伝ってくれるボランティアはありがたいに違いない。ただ、保健所の仕事とかぶるという所が、日本で今ひとつ発達しない理由なのだろう。

 ティアハイム型の民間ボランティアは寄付によって運営されているが、神奈川県では県の収容施設を作るためにも寄付を集めている。つまり寄付集めという点ではお互いにライバルになっている。

5月29日

 『限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』で提起されている本当の課題は、価値とは何かということを問い直すことかもしれない。いわゆる労働価値説では、労働がロボットに取って代わられ人間が働かなくなった時代には、生産物のほとんどの価値が消滅することになる。今の世界的なデフレ傾向はその前兆なのかもしれない。

 ただ、この場合は経済成長とデフレが両立する状態になる。むしろデフレは自然な現象ということになりデフレ対策は不要ということになる。金利政策も、デフレ分を補填するだけのマイナス金利で用を成し、それ以上のインフレ誘導にいたるまでの極度な金融政策の必要はない。

 今朝の新聞にヘリコプターマネーという言葉が載っていた。この世界的なデフレの時代に敢えてインフレ誘導をしなくてはいけないとなれば、政府が直接紙幣や商品券を発行して、あたかもヘリコプターでお札をばら撒くように直接国民に配布するしか手がなくなるという議論だ。まあ、地域振興券というのは既にやったことだが、これをもっと大々的にということなのだろうか。ベーシックインカムと組み合わせるという議論もある。

 こうして人工的にインフレを起こした場合、その通貨の価値の源泉は何なのかということになる。価値は国家が恣意的に決めることができるのか。それとも労働ではなく何か別の根拠があるのか。

 

 ただ、ヘリコプターマネーまでしてインフレを起こさなくてはならない理由は何なのか。経済成長とデフレの共存する安定というのが既に起きているなら、それを是正する必然性はない。

 日本だけがそこに追い込まれるのは、理由は一つ、国の借金をインフレによって目減りさせたいからだ。日本ほど借金財政でない国は、インフレ誘導の必然性がない。

 アベノミクスの金融緩和と財政出動を組み合わせた政策は、ヘリコプターマネーではないにせよ、新聞では擬似ヘリコプターマネーだと指摘している。ただ、日本にそれをやらなくてはならない理由はあっても、他のG7の国がそれをやる理由はない。

 日本政府が今の状況をリーマン級の危機の前夜だと煽って財政出動を促したものの、それが不発に終わったのは、そういう事情なのだろう。単に消費増税延期のためだけの狂言ではあるまい。しかし、財政出動の足並みがそろわない状態で、日本だけがヘリコプターマネーを行えば、インフレになったとしても円が大幅に下落し、円建てではGDP600兆円を達成してもドル建てではGDP急落になりかねない。株も円建てでは上がるが、ドル建てでは安定という今の状態が続くだろう。

 消費増税を見送れば、税収の増えない分をインフレで補わなくてはならなくなる。日本だけがインフレになるのが嫌だから、世界に財政出動を呼びかけた、そういうことではなかったか。だが、それが失敗して消費増税見送りだけが残った。

 

 ロボットが大半の生産を行うようになった時、その生産物の価値はその生産手段としてのロボットの所有者がまず手にし、そこからロボットの開発や管理に携わる者に分配され、それ以外の仕事のない人たちは疎外される。

 ロボットの所有者はいわゆる株主だ。今日のような投資化の役割は消滅し、株の売買と相場の操作はAIに任され、あるいはそこで神の見えざる手の役割すら担うかもしれない。まあ、それをかき乱そうとしてハッキングするやからも出てくるとは思うが。ただ、相場の安定がもたらされるなら、株主は結局かなり幅広く、あるいは大衆のほとんどがここに属するようになるのかもしれない。仕事のない人たちも、株主であればその恩恵に預れる。

 ベーシックインカムがなくても、国民総株主ならロボットで仕事がなくなっても大丈夫か。

5月27日

 つい71年前には、G7参加国の人たちはみんな銃を持って殺しあっていた。戦争があって当たり前の時代があった。あれから71年、確かに世界は変わった。

 一部にはあの頃と意識の変わってない人もいる。世界は相変わらず弱肉強食で、G7の国々もいつまた戦争を起こすかわからないし、各首脳は平和を愛するように装っているだけで、実は着々と世界征服の準備を進めていて、それを止めることができるのはわれわれ民衆だけだなんて言ってね。

 多分あと70年たったら、昔の人は生きるために一生懸命働いてたんだなんて言うのかもね。ロボットが奴隷の代わりとなって生活に必要なものをすべて作ってくれる時代になったら、過労死なんてきっと信じられないと思うに違いない。

 あの時命がけで必死になって戦ってた人のことは忘れていいよ。だから、今必死になって働いてる人のことが忘れ去られる時代を作ってくれ。忘却は悪いことではない。忘れるから新しい記憶が作れるんだ。

 みんなの記憶が幸せなものだけになりますように。

5月26日

 サミットで日本の首相はリーマンショック前との類似を持ち出して危機感を煽っていたようだ。まあ、もちろんアベノミクスを発案した官僚の意見なのだろうけど、こんなんでまた円が買われて、円高株安になんなきゃいいが。

 まあ、今年の初めに世界的株安となったあと、アメリカもヨーロッパも速やかに回復したのに、日本がまだ回復していない(と言ってもドル建てだと驚くほど日本の株価は安定している)焦りがあるのかな。でもこれは逆効果かも。

 エネルギー価格の下落は単に原油安によるもので、世界的に再生可能エネルギーに移行して石油離れが加速してゆくなら、これは当然のこと。再生可能エネルギーは初期投資にはコストがかかっても、その後の限界費用が安いから、やはり価格下落の要因になる。これも日本は取り残されている。

 新興国の停滞も、今後工場の無人化が進めば新興国からの撤退も相次ぐから、新興国は内需中心の生産に切り替えなくてはならない。労働力の安さが武器にならなくなった以上は、もはや日本や韓国や中国の後追いはできない。開発力のあるところが生き残る。

 生産や流通に無駄がなくなり、それでいて消費生活にそれほど変化がないなら、物は安くなる。だから、今と少しも変わらなかったり、やや便利になったなと感じても、GDPは下がり続けるという事態は当然ありうる。デフレ対策の金融緩和ではなく、実際はデフレで金利の返済が困難だから、自然とマイナス金利に移行していると考えたほうがいいのかもしれない。物価の下落と通貨の下落でバランスを取っているだけで、インフレ誘導には成功していない。

 

 ところで、広島は何でオバマさん一人なの?みんな来ればいいのに。隣の国と違って謝れなんて言わないし、別に原爆投下に負い目があるから来るというわけではないんでしょ。純粋に核廃絶を願って来るのなら、一人でも多いほうがいい。核廃絶を願うというならキム・ジョンウンさんも来てみたら?

5月25日

 『限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』を読んでいると、ちょうどそれとシンクロするかのように新聞に、「靴生産24年ぶり国内回帰、独アディダス、ロボで効率的に」という見出しが目に入ってくる。

 かつては新興国の安い労働力を求めて、生産拠点を中国や東南アジアに移していったのだが、ロボットでほぼ無人の工場で生産するとなれば、わざわざ遠い所に工場を移転するメリットはない。ただ、工場が自分の国に帰ってきたからといって、自国民がそこで雇用されるわけではない。

 ロボットの開発ブームとなれば、ロボット関係の技術者の仕事は増えるに違いない。そこに確かに雇用は生じるが、あくまで専門的な技術者に限定される。工場でただ歯車の一部のように単純作業をする労働者は、もうずいぶん前からリストラされている。

 工場を誘致していた新興国経済も、工場のロボット化は少なからず打撃を受けるだろう。もちろん、それは日本の地方都市でも同じだ。

 先進諸国の不足する労働力をまかなってきた移民や外国人労働者も同様に雇用を失う可能性が高い。自国民にすら満足な仕事がなくなってくれば、それを外国人にやらせることには相当な抵抗を感じるだろう。かくして世界的規模で移民排斥運動が起きてくる。

 安倍首相もロボットとAIを成長戦略に盛り込むと言っているが、別に首相が音頭を取らなくてもどのみちこの流れは止まらないと思う。

 雇用は今後どうしようもなく減り続ける。これは避けられないことなのだろう。ちょっと前に先進国と新興国の労働者がグローバルに競争するから、先進国の賃金は上がるが先進国の賃金が下がると予想したが、これにロボットとの競争が加われば、先進国の労働者も新興国の労働者も最終的にはロボット並みの賃金になるということになる。もちろんロボットは給料をもらっていない。

 大量生産市場では、もはや人間の労働力は要らなくなる。人間はどこへ行くかといえば、いわゆる少数の需要に応じた少量生産の市場、つまりロングテール市場へと向かわざるを得ない。そこで3Dプリンタを活用した生産消費者(プロシューマー)の時代と言われているわけだ。

 それはたとえば大手ビール会社の作る第三のビールが安く出回る一方で、その3倍以上の値段のするクラフトビールがブームになってることを考えればいいだろう。市場は二極化するのだろうか。ロボット経済と人間の経済に二重化されるのだろうか。

 まだまだ今の段階では想像できないようなことが起こってくるかもしれない。だが、多分働かなくても食ってゆける時代が来るのだろう。ものごとはポジティブに考えた方がいい。

5月23日

 『限界費用ゼロ社会 <モノのインターネット>と共有型経済の台頭』(ジェレミー・リフキン、2015、NHK出版)を25パーセントくらいまで読んだ。

 限界費用というのは経済学の用語で、詳しいことはよくわからないが、最初の開発にかかるコストではなく、それを増産する際にかかる一個あたりのコストのことらしい。

 デジタルコンテンツで配信できるものは、確かに一度開発してしまえばあとはそれをネットで公開し、コピーして売るだけだから、限界費用は限りなくゼロに近い。原料もいらないし、工場も要らないし、店舗を構える必要もないし、在庫を保管する費用もかからないし、輸送費もかからない。せいぜいサイトを維持するためのサーバー代や電子決済の手数料、それに電気代くらいか。

 音楽は真っ先にその限界ゼロの衝撃を食らい、CD業界の嘆きの声はよく聞かれる。ゲームもゲーム機用のソフト販売から配信アプリの時代になり、無料ゲームが増えている。ただ、本当に無料だと商売にならないから、そのためにコンプガチャがあるわけだが。書籍の電子化はそれに比べると遅れているが、これも時間の問題だろう。電子書籍なら版を重ねる必要ないから、「重版出来」も近々死語になるに違いない。

 3Dプリンタが各家庭に普及すれば、デジタルコンテンツの幅も広がるに違いない。フィギアなどはいち早くそうなりそうだし、立体地図の販売は既に行われている。だが、日常使うものの何もかもがデジタル販売になる日は来ないだろう。

 この本にはいろいろな3Dプリンタの可能性が書かれているが、可能であるものが必ずしも普及するとは限らない。60年代のSFのようなものだ。ホバークラフトの開発には成功したが、街を走る車のタイヤが消えることはなかったし、動く歩道も早くから実用化はされていたが、一般の歩道がことごとく動き出すことはなかった。テレビ電話は確かに実用化しているが、日常のコミュニケーションは電話やメールやLINEで十分ということになっている。

 実際には3Dプリンタが家庭に普及しても、そこでプリントされるのはフィギアやファッション小物などに限定されるだろう。

 自転車の部品をダウンロードして自分で組み立てる人はいるかもしれないが、それは自転車の組み立てを楽しいと感じるだけの自転車好きに限られる。たいていの人はそんな面倒なことをするよりは自転車屋で買ってきたほうがいいと思うだろう。

 ある程度大きなものとなると、プリンターもそれだけでかくなるから、家庭用には向かない。町のラボに大型のプリンターを置いて、みんなで使うというふうになるのだろう。ただ、ある程度沢山のパーツを組み立てなくてはならないとなれば、ほとんどの人は面倒くさがる。やはり趣味のものにならざるを得ない。

 電気自動車ならパーツの数が少ないから、こうしたラボでダウンロードして組み立てる時代が来るかもしれない。ただ素人が組み立てた車の安全性は問題になるだろう。

 衣食住という点では、まず食品は無理。

 衣類は模様をプリントして自動で裁断するまでは何とかできるが、それを縫製するとなるとやはり面倒。AIで自動で縫製してくれるようになればいいかもしれない。ただ衣類の大きさを考えると、複数の大型の機器が必要で、家庭には無理だろう。ブティックに置いたほうがいいかもしれない。

 住宅となると、もっと大きなプリンターが必要になる。下手すると家より大きなプリンターが必要になる。建造物の骨組みを全部一体で作るなら、当然プリンターはそれより大きくなる。パーツに分けてプリントするなら、そのパーツを組み立てるのに、現場まで運び込むトラックとそれを吊り上げるレッカーが必要になる。

 旭化成のへーベルハウスを3Dプリンタで作るとどうなるかを想像してみればいい。躯体工事に必要な鉄骨、サッシ、へーベル板を作るプリンターを現場に持ち込むことは、果たして可能だろうか。荒野の中の一軒家ならともかく、たいていは2トン車がやっと入れる程度の路地を通らなくてはならない。建ぺい率ぎりぎりの家では、基礎をやってしまったら機材を置くスペースはほとんどない。やるとしたら、どこかにそういった大型のプリンター類を置くスペースを確保し、そこから2トン車に載せて現場に運び込み、レッカー作業を行うことになる。現場を見る分には今と何ら変わりない。ただメリットがあるとすれば、比較的小さなスペースでミニ工場を作って資材を搬入することで、輸送距離を縮めるくらいだろう。

 もちろん宇宙基地のような、周りに何もないところに材料を現地調達で立てなければいけないなら、それこそ3Dプリンタの出番だろう。ただ、一般家屋を3Dプリンタでというのは、かなりハードルが高いのでは。

 3Dプリンタ自体を3Dプリンタで作るというのも、いろいろな所で試みられているようだ。ただ、この場合ネックになるのはプリンターを作動させる電子パーツではないかと思う。いわばコンピュータに必要な精密な半導体製品はかなり難しいし、半導体チップは汎用部品なので、半導体工場で量産したものを買ってきた方がコスト的にも良いのではないかと思う。

 いずれにせよ、ある程度複雑な組立工程を必要とするものは、家庭や地域で手作りで組み立てるよりも、ちゃんとしたプロが組み立てたほうが面倒がないし安全だと思う。ただ、3Dプリンタを利用することで、工場が近くなるというメリットはある。どこか遠い所、時には外国に大きな工場を作り、そこから運ぶよりは、比較的近い工場で生産できるという点ではメリットはある。もっとも、AIが発達すれば、そのプロの部分がロボットになるかもしれないが。

 そういうわけで、この本の目玉でもある「協働型コモンズ」には懐疑的にならざるをえない。誰だって自分で作るよりは人に作ってもらった方が楽だし、誰しも自分の腕が信用できるわけではない。器用な人もいれば不器用な人もいるから、物づくりは器用な人に任せた方がいい。そして、その器用な人を上回るロボットがあるなら、物づくりはロボットに任せた方がいい。

 協働型コモンズのもう一つの問題点は、人間は昔からみんな仲良く平和に暮らしてきたわけではない。共同体の内部でも様々ないさかいや対立があり、恨みや嫉妬や憎しみが渦巻くどろどろとした世界が共同体の本質だ。そういうのから逃れたくて今の近代社会が作られたのだから、この点に関しては逆戻りはしないと思う。

 

 限界費用ゼロの例として、もう一つ忘れてはいけないのは再生可能エネルギーで、つまり一度設置すれば燃料代ゼロ、かかるのはメンテの費用だけというのが再生可能エネルギーの最大のメリットだ。原発はそうは行かない。燃料を再処理するのだって莫大なコストがかかる。

 最初の設置費用は大量に作られるようになれば当然少なくてすむ。実際太陽光パネルはかなり値崩れしている。ただ注意しなくてはいけないのは、再生可能エネルギーのもう一つのメリットが、必ずしも大きな設備を必要としないという所にある。つまりエネルギーを地産地消することで送電ロスを限りなくゼロにすることができる。

 太陽光発電ですぐメガソーラーを想像する人はそこのところがわかっていない。山の中にメガソーラーを作ればそれだけで自然破壊だし、周囲に家があればその反射光は公害だ。それにそこでできた電気を高圧線で運ぶとなれば、また鉄塔を建てたりして、それも景観を壊す。太陽光パネルは基本的に建造物の上に設置すべきもので、いわばその建物で消費する電力を自分でまかない、余ったら他に融通するというのが基本になる。

5月22日

 終身雇用の弊害は、他にもある。常識的で有能な多くの人が、生涯一つの会社に仕え、それ以外の道を考えられないため、自分が政治家になるかもしれないとは思ってもみないから、政治は自ずとどこか遠くの他所の世界の話になる。

 政治にあれこれ注文はするが、実際に何をどうすればいいのかを考えるのは自分の仕事ではないし、本業の片手間でそれを考えるのは困難だから、結局政治家にまかせっきりになる。そしてそれを考えるのは結局アウトローである政治家たちなわけだ。

 政治家は不安定な職業であるが故に、自分の金作りを優先させる。だから、確実な金づるとなる人たちの意見を最優先して政策を決定してゆく。終身雇用の中で普通に働いている人たちが政治家に資金を提供することはまずない。だから、政治が彼らのほうを向いて行われることはない。利権団体を最優先する。

 つまり、常識的で有能な世間の大多数を占める人の意見で政治は動かない。利権を持った一部の団体の声で動く。その不満が常識的で有能な人たちの政治への関心を失わせ、無党派層を形成する。政治家と一般大衆との間には何ら信頼関係がない。ヨーロッパ型の高税率・高福祉社会が作れなかったのは、そのせいでもある。

 政治家はただ不満を言うだけで何ら建設的意見も持たない大衆に対しては、票さえ取れればそれでいいということになる。だから長く政権与党をやってきた自民党すら、増税には消極的だった。

 大衆の方もまた、どうせ増税しても利権団体にばら撒かれるだけだからと、増税には乗り気でない。むしろ税金は1円でも安いほうがいいというムードになっていった。こうして消費税はようやく8パーセントになったものの、そもそも消費税を導入した頃には既に日本の経済は低成長からゼロ成長へと向かい、既に膨大な財政赤字を抱え、膨大な借金を背負っているため、はっきり言って今ヨーロッパ並みの20パーセントの消費税を取っても借金の返済だけで終わり、とても富の再分配などできる状態ではない。

 富の再分配がないから、失業者に満足な給付はできない。となると労働者は長時間低賃金でも我慢せざるを得ない。そこからはみ出せば貧困が待ち受けている。現役世代が貧困になれば、当然子どももまた貧困になる。

 企業もまた、システムを改善して生産性を上げる努力をしなくても、手っ取り早く労働時間を延長すればそれだけの増収を期待できるから、企業は何ら企業努力せず、古臭い生産性の悪いシステムを維持している。長時間労働に縛られた労働者は、ますます政治から遠ざけられてゆく。

 ブラック企業の取締りを強化した所で、そのブラック企業にしがみ付かざるを得ない人が沢山いる以上、ブラック企業がなくなることはない。むしろブラック企業の社員ほど必死になってブラック企業を守ろうとする。ブラック企業をなくすには失業しても生活できるような体制を作らなくてはいけないのだが、問題は誰がその金を払うかだ。

 今の日本に必要なのは一人当たりの収入減を覚悟の上での大胆なワークシェアで、長時間労働と失業の不安から開放することだ。一人当たりの労働時間が減れば、それだけ多くの労働者を雇う必要が出てくる。そこに女性や障害者や高齢者などを当てはめてゆくことができるようになる。

 今の長時間労働体質の日本では、女性や障害者や高齢者にはハードルが高いばかりでなく、普通に働ける人間すらニートの道を歩ませている。一億総括約社会を本気で実現したいなら、まず最初にやるべきことは労働時間の短縮によるワークシェアだ。

 今の日本は終身雇用の中で日々の長時間労働に縛り付けられ、疲弊している。だから成長戦略なんていわれても、これ以上働かされたら体が持たないという不安のほうが先走り、それが労働意欲をそいでいる。余計に働くよりも欲しいものを我慢する方が遥かに楽だからだ。

 労働時間が大幅に短縮され、それと同時に収入が減れば、むしろ余った時間で何か稼ぐ方法はないかと考えるようになる。そこから企業家精神も生まれれば、投資意欲も生まれる。そうした中からやがて誰かが破壊的イノベーションを成し遂げれば、そこから成長戦略が生まれる。

 野党は馬鹿だから、経済成長よりも生活が第一だと言ってワークシェアを提起してきた。そうじゃない、ワークシェアが成長戦略そのものだ。

 それは馬鹿な野党が原発を反対するのに、経済よりも人の命というのと同じだ。長い目で見れば限界費用が限りなくゼロに近い再生可能エネルギーで、送電ロスのないエネルギーの地産地消を進め、電力のコストを最小限にすることが経済成長につながる。だから「経済よりも」ではなく「経済のためにも人の命のためにも」というべきだ。

 野党でも与党でも誰でもいい。今の長時間労働に疲弊した日本を救ってくれる政治家がいるのなら、俺は今度の選挙で投票する。

5月19日

 日本の政治の貧困は、結局終身雇用制の弊害なのかもしれない。官僚は一度なったら一生でメンバーが代わらないから、政策の継続性はあるものの結局誰が総理になってもどこの党が政権をとっても変わりばえがしない。

 その一方で、選挙落ちたらただの人どころかプータローになる政治家にわざわざなろうという人は、結局終身雇用社会からはみ出したアウトローばかりだ。そこに世間の常識を求めるのも無理がある。

 常識あるものは実力があっても政治家にならないしなれない。終身雇用に縛られて、ただ自分の職務を全うするだけで一生が終わる。だから日本は国民は一流だが政治家は二流ということになる。

 政治家を志すアウトローも、ただ当選するためだけに精力を使い果たし、受けのいい公約を並べ立て、ポピュリズムに邁進する。結局地盤がしっかりしていてそれほどポピュリズムに走る必要のない世襲議員が一番使えるということになる。

 政治には資金が必要だが、アウトローが金を作ろうとすれば、そりゃいろいろ問題が出てくるのは仕方ない。

 猪瀬が去って舛添もそう長くはないだろう。そのあと誰がなるのかと言っても、だれも期待はしていない。夏の参議院選がダブル選挙になる可能性も否定できないとなれば、どの党も駒が不足している。

 二大政党制にして、政権交代で何かしら変化をもたらそうというのなら、ある程度官僚も入れ替える必要がある。ただ、日本の終身雇用制ではそれは無理。だから日本には官僚適合党と、官僚の梯子はずされ党しかいない。共産党が野党大連合を実現して政権を取ったとしても、結果は民主党の時とそう変わらないだろう。もちろん官僚が、今の居心地のいい終身雇用制をやめようと言い出すことはまずない。

 野党が独自に政策決定集団を組織したとしても、それにかかる費用はどこから捻出するのか。ただでさえ政治資金に苦労している野党に、有能な人材を多数雇う余裕はありそうにない。公明党や共産党のような奉仕集団なら、ある程度の人材は確保できるが、その内容が偏りすぎて現実的な政策遂行には問題がある。SEALDsがやろうとしているのもそのレベルのもの。

 ひたすらポピュリズムを追い求める何でも反対党は簡単に作れても、政策を担える第二の政党を作ることがいかに困難であるか、民主党のトラウマはまだしばらく消えないだろう。

 

 野党がもし本気で安保関連法案をなくす気があるなら、首相に恐る恐る衆参ダブル選はあるのかと質問しているようでは駄目だ。当然即解散総選挙で民意を問えと迫るべきだ。それができないのは、本人たちも勝てるとは思ってないからだろう。

 憲法改正に反対するなら、自民党に憲法改正案を出させて国民投票で決着をつければいいだけのことだが、やはり勝つ自信がないのだろう。

 現実的な政策が作れない弱点から目をそらさせるために、自民党や安倍政権を実際とはかけ離れた強力な独裁的権力をもっているかのように言いくるめ、巨大な権力の前に無力な哀れな被害者を装っている敗北主義者。もうこれ以上そんな奴らを甘やかす必要はない。一度とことん地獄に突き落としてやった方がいい。

 

 本当に日本の政治を変える気があるなら、派遣を正社員にする政策ではなく、派遣の権利を拡大することによって終身雇用制を突き崩す原動力にしたほうがいい。

 一億総活躍社会を作るなら、当然ワークシェアを徹底して労働時間の短縮に持ってゆくべきで、労働時間の短縮が日本人の創造性を開放し、破壊的イノベーションや消費革命の原動力になり、結果的に経済成長につながる。

 そういう公約をしてくれる野党がいるなら投票したいものだが、期待はしていない。

5月3日

  今日は車で護国寺の方へ行く用事があったので、そのあと庚申塚の巣鴨猿田彦大神庚申堂の狛猿を見に行った。

 庚申さんは本来三尸の虫が天帝に人の罪をちくって寿命を減らすのを防ぐためのものだったが、それが庚申の日だったため申つながりで猿田彦大神と結び付けられ、見ざる言わざる聞かざるの三猿となったようだ。道祖神や青面金剛とも習合している。

 巣鴨猿田彦大神庚申堂は地蔵通り商店街の入口の角にあり、鳥居ではなく猿、田、彦、大、神と書かれたちょうちんの下がる門をくぐって入る。すぐに左右に赤い着物を着て赤い帽子を被った猿の像がある。台座には三猿が刻まれている。昭和62年の銘がある。そんなに古くはない。境内は狭く、小さな拝殿がある。

 このあと地蔵通り商店街を散歩した。おみやげにおいもやさん興伸の大学芋を買って、ファイト餃子のテイクアウトを買いに行った。食べる方は行列していた。テイクアウトも作るのに時間がかかるので40分後ということで、そのあいだ、池袋氷川神社の富士塚にあるという狛猿を見に行った。境内は工事していて入口の狛犬は表側からしか見れない。首が長い。拝殿右側の境内社にも狛犬があったが近寄れなかった。

 拝殿へは左側から迂回するようになっていて、その拝殿の左側に富士塚があって、そこに小さな一対の狛猿があった。右側は手に何か持っているようだが、桃の実か。左側は子猿を抱いている。こちらのは古そうだ。

 地蔵通りに戻ると餃子は焼きあがっていた。家でコンベクションオーブンで暖めなおして食べた。

4月29日

 古代東海道の旅も沼津まで行き、ここから先は近世東海道とほぼ同じ道になるので、とりあえずここで一区切りとし、今回は東に向かうことにした。

 9時半に分倍河原をスタートした。分倍河原はこれが3度目で、一度目は南へ。それが最終的に沼津まで行くこととなった。二度目は北へ。これは東山道武蔵路の旅で、足利まで行った。今回は東へ。まずは市川の下総国府を目指す。

 まずは旧甲州街道に出て、武蔵国国府跡へ向かう。この道は東山道武蔵路の旅のはじめにも通った。弁慶坂も覚えている。

 5月の3、4、5は大国魂神社の祭のようで、通りには例大祭の幟が立ち、あちこちでお祭りの準備が進められている。「くらやみ祭」のポスターもあちこちにある。

 大国魂神社は、前に来た時は初詣の人が沢山いたが、今回は祭の前で参拝者は少ない。軍艦多摩戦没者慰霊碑の前に平成14年銘の狛犬があった。前に来た時に見落としてたようだ。

 

 拝殿裏にも見落としていた狛犬があったので行ってみた。まずは拝殿右側の住吉神社・大鷲神社の狛犬。招魂社系で首に鈴がある。両方とも口を閉じていて、右側は角がある。隣の東照宮の狛犬は大きめで、やはり招魂社系。後で調べたら、寛保2年(1742)という古いものらしい。阿形の方はやたら口を大きく開けている。

 拝殿左側の巽神社にも小さな狛犬がある。阿吽が逆で右側の吽形の方の顔がヒヒみたいだ。阿形の方はまだ普通。宝物殿の木造狛犬は、何となく谷保天神の時の記憶とごっちゃになっていて、つい見たと勘違いして今回もスルーしてしまった。

 大国魂神社を出て、その隣の国府跡に行く。前に来た時と同じで、特に変わったことはない。

 このあと甲州街道の旧道に戻り、さらに東へ向かう。八幡宿交差点の先は道が両側一車線になる。

 右側に鳥居があり、国府八幡宮とあったので行ってみる。参道を行くと踏切があり、神社はその向こうだった。京王競馬場線は線路が草に埋もれ、ローカル線だった。平成7年銘の岡崎型の狛犬があった。

 旧甲州街道に戻ると、右側に大嶽電機という廃墟のような謎の建物がある。

 京王線の本線の踏切を越えると東府中駅がある。このまま行くと、旧甲州街道は少しづつ南へカーブして行くので、直進するためには少しづつ左側の道に入っていかなくてはならない。東府中駅東交差点左に行き、その先の狭い道を右に入る。突き当たったところに常久八幡神社があった。昭和52年銘の招魂社系の狛犬があった。

 現在の甲州街道(国道20号線)に出て、さらに東に行くと上染谷八幡神社がある。八幡神社が続く。ここにも昭和50年銘の招魂社系の狛犬がある。

 八幡神社は道鏡事件の時に、道鏡を天皇にしろとの宣託が下されたいうので和気清麻呂が確かめた所「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」という宣託が下った、その両方の宣託に関わっている。天皇の万世一系がここに確立されたと同時に、それまでしばしばあった女帝も、その女帝の夫が皇位につくことを懸念して廃止された。八幡神社はもともと渡来系の神社だったが、皇室の正当性を保証したのと、さらに応神天皇の三韓征伐と結び付けられることで急速に広まっていったらしい。

 

 なお、八幡神社は白山神社や高麗神社などと同様、渡来系の神社には違いないが、それが即韓国起源を意味するのではない。「八幡神社は韓国起源ニダ」という説に騙されないように。

 上染谷八幡神社を出て次の信号、白糸台交番前のあたりから国道20号線も南へ曲がって行く。ここで直進を維持するために左に入る。少し行って右に入る狭い道を行くと西武多摩川線の線路に突き当たる。ここには地下道があってくぐることができる。狭い道を左に右に少し行くと広い道に突き当たる。正面は警察大学校で進むことができないので北に迂回する。

 それでもグランドに突き当たる。子どもたちが野球やサッカーの練習をしている。グランドの先は調布飛行場で進むことができない。

 今度は南に迂回して、味の素スタジアムの駐車場の所を入って行き、飛行場の横をさらに南に行き、市民西町サッカー場の所でようやく飛行場の東側に行ける。この市民西町サッカー場は去年の夏に飛行機事故があったとき、その飛び立ってゆく事故機の映像で何度も見たところだ。

 今日は北風なので飛行機は反対側に飛んでいっているようだ。

 この大きなスポーツ公園は調布市と三鷹市にまたがっているようで、北の方へ行くと三鷹市大沢総合グラウンドとなっている。このあたりで道路に出て再び東に向かう。

 野川を渡るとその先は上り坂となっていて、これまでいたところとは一段高い台地になっているようだ。羽沢小学校前を右に曲がると上り坂で、狭い道を抜けると武蔵境通りに出る。突き当たりに宿神明社がある。明治40年銘の小ぶりな狛犬があるが、彫りが深くてなかなかの名品だ。

 神明社の前の小さな道を下ってゆくと深大寺の門前の蕎麦屋が沢山並んでいる所に出る。ただ、深大寺やその植物園を見て回るとなると時間がかかるので、また別の日に譲って今日は通り過ぎる。蕎麦もいつか深大寺ビール(ホッピービバレッジが作っている)を飲みながらゆっくりと食べたいものだ。

 深大寺は天平5年(733)開創といわれる古刹で、この寺が武蔵国国府のほぼ真東にあるのは偶然ではないだろう。街道沿いで交通の便が良いことも関係していたに違いない。

 深大寺の反対側に出ると青渭神社がある。延喜式神名帳に武蔵國多磨郡青渭神社があるものの、稲城や青梅にも青渭神社があるため、どこの青渭神社を指すのか確定していない。

 青渭神社でも祭があるのか、子どもが太鼓の練習をしている。明治13年銘の江戸狛犬もなかなかの出来だ。青渭神社の道路を隔てた向かい側は急な斜面になって谷間になっている。このあたりから湧き出た水を祭った水神様なのか。

 さて、古代東海道のルートだが、実はこのあたりのルートはまったく分かっていない。物証となる道路遺構もなく、ただ推測で国府から東へまっすぐ深大寺に来たにすぎない。

 『続日本記』によると武蔵から下総への道の途中には乗瀦(のりぬま)駅と豊嶋駅がある。乗瀦は杉並区の天沼とする説が有力なので、これからそっちへ向かうことになる。深大寺のあたりから北東に進路を変える必要がある。

 

 青渭神社から三鷹通りを北に行き、深大寺五差路から消防大学通りに入る。この通りも緩やかな上り坂だ。坂の上に消防大学校がある。今日は警察大学校と消防大学校を見た。

 裏道に入って杏林大学病院の前を通って仙川の手前で広い通りに合流する。ここに仙川公園がある。ここにどこかで見たことのあるような像がある。確か長崎にあった右手を上に上げて左手を横に伸ばしたあの像のミニチュアだろう。「平和の像」と書いてあった。アンネ・フランクのバラというのもあった。

 仙川を渡る。川には白鷺がいる。

 東八道路を渡り、三鷹一小前から先は人見街道になる。この街道も古代東海道の名残だという説がある。深大寺と天沼を直線で結ぶなら、確かにこのあたりの人見街道に重なる。

 人見街道は牟礼二丁目交差点で右に曲がってゆくが、ここは直進し、三鷹台に向かう。この道は標高が低いながらも峠道のようだ。今は切り通しになっているが、昔は山越えの道だったのかもしれない。右側の小高い所に神社が見える。牟礼神明社だ。ここにも昭和8年銘の狛犬がある。境内社の三峰・榛名神社の前にも小さな狛犬がある。

 天文6年(1537)にはここで北条冶部少輔綱種が陣を張り、そのあと1590年に牟礼の開村だから、それ以前は山林かいわゆる武蔵野だったのだろう。眺めがいいから、東村山の八国山将軍塚のように道路を作る時のランドマークとして使われた可能性はある。

 坂を下りると小さな川がある。ここから先は三鷹台の商店街になる。自家製麺ほんわかというラーメン屋で天理ラーメンというのを食べた。奈良県天理市の御当地ラーメンらしい。韮や白菜が入っていて、前に渋谷で食べた神座(かむくら)のラーメンを思い切り辛口にしたようなラーメンだった。後で調べたら、天理ラーメンの方が先で、神座(かむくら)のラーメンの方がそれを甘口にしたようだ。

 三鷹台の駅のところにも川があった。これは井の頭公園から流れてくる神田川で、子どもの作った沢山の鯉幟が飾られていた。

 時間的には荻窪まで歩けそうだったが、ここから渋谷へ出れるので、帰り道の便を考えると今日はここで終了。

 天沼は荻窪の北で、ここから先のルートはこれもまったくの推定だが、台東区の鳥越神社まで東へ真っ直ぐに行こうと思う。

 将門ゆかりの神社をめぐった時に、鳥越神社、神田明神、筑土八幡神社、鎧神社が東西に一直線に並んでるというのが気になったからだ。この延長線上に天沼がある。ここに古代道路があった可能性大だ。

 一方で、鐘淵から立石、奥戸を経て市川の国府台公園へと続く直線的な道が古代東海道の有力な推定路になっている。和洋学園国府台キャンパス内では道路遺構も見つかっている。

 鳥越と鐘淵の隅田川を隔てた対岸、石濱神社のあたりとを結ぶ間には大化元年(645)に開かれた古刹、浅草寺がある。また、この直線を南南西に延ばすと、将門ゆかりの兜神社を経て、『更級日記』にも登場する竹芝寺(済海寺)へと続く。

4月27日

 メタルは好きだけど、正直BABYMETALには全然興味がなかったが、ピーターバラカンさんがBABYMETALをディスってるというのが話題になっているので、どんなものだかとりあえずMETAL RESISTANCEを聞いてみた。

 まあ、モモクロのようなアイドルの歌のバックがいかにもメロデスっぽくて、何かミスマッチな感じがするが、そのミスマッチという感覚は、おそらくアイドル歌謡とメタルは別の物だという先入観があるせいなのかもしれない。おそらく、先入観のない欧米の人にはもっと普通に聞こえるのだろう。

 「META!メタ太郎」だとか「GJ!」だとか、こういうコミカルな曲は嫌いではない。多分言葉や文化背景がわからないから見過ごしているだけで、向こうのメタルにもこういう要素はあるのではないかと思う。

 真剣にアイドルを応援している人や、真剣に音楽を追及している人からすると、この種の企画物的な遊びにはイラッとするのかもしれないが、これはこれで面白いと思う。

 まあ、向こうの人もこれが日本だ何て思ってないだろう。カンナムスタイルを聞いて韓国人がみんなこんなだと思う人はいないだろうし、Ylvisがノルウェー人を代表しているわけでもないだろう。ただ単純に面白そうな音楽があればどこの国のものであれ飛びつくというだけだと思う。それを日本の恥だと思うのは自意識過剰。

4月26日

 AIの未来はというと、相変わらずヒューマノイドが人間と共存して見たいなイメージで語られることが多いし、人型ロボット信仰からなかなか抜けきれていない。

 AIは生きていないから生存権を主張することもないし、意思を持たないから反乱を起こすこともないとなれば、基本的には労働はすべて機械が奴隷となって仕事をするようになり、人間はその生産物で遊んで暮らす自由人となるという未来を考えた方がいいのだろう。

 ただ、人間の中でその機械奴隷を管理する能力のあるものとないものとにはっきりと分かれてしまうところに問題が生じるのではないかと思う。つまりコンピュータオタク集団、ハッカー集団があらたな御貴族様として富を独占し、庶民は今よりはるかにアナログな世界に落ちて、御貴族様のお慈悲でばら撒かれるベーシックインカムで暮らすようになるのではないかな、というのが今の俺の考えだ。

 これに近いモデルがあるとすれば、ブルネイやトルクメニスタンではないかと思う。石油や天然ガスなどの地下資源の利権で巨万の富を持つ独裁者が、その富の一部を庶民にばら撒いて、それなりに不満のない社会を生み出している。それがすべての生産による富に関して同じ事が起きると思えばいいのではないかと思う。

 ディープラーニングの技術の確立と量子コンピュータによる膨大なデータの並列処理とが組み合わされば、長年にわたる経験をつんだ職人の熟練した技術すらも、囲碁名人のように打ち負かされる日が来るだろう。

 また今のコンピュータ取引は下がれば売り上がれば買うという短絡的なものであるため、相場の不均衡を増大させているが、これが「下がれば他のコンピュータが売るから買い時になる」ということをかなりの精度で予測できるようになり、多くのコンピュータが同じ予測をすることで総すくみ状態になると、むしろアダムスミスの夢見た神の見えざる手を実現する可能性もある。

 完璧な製品が当たり前のように手に入る社会では、逆にもてはやされるのはヘタウマだろう。それと「顔が見える」ということだけが庶民の武器になる。完璧に笑いの取れるAI漫才もそのうち実現するかもしれないが、逆にそんな時代だとすべってばかりの人間の芸人の方が受けるのではないかと思う。

 ただ、今のディープラーニングシステムはどの程度のものなのだろうか。グーグルは「ネコを認識する人工知能を開発した」というが、俺の使っているグーグルフォトは猫とフクロウの区別ができない。

4月24日

 「本好きの下克上」をkindleで読んでいるくらいだから、紙の本にはそれほど思い入れがないし、別に本に埋もれたいとは思ってないが、本を作ることへの憧れはなかったわけではない。

 学生の頃は手書きで書いたものをコピーしてホッチキスで綴じて本のようなものを作ったこともある。

 一度だけ共同出版で本を作ったことがある。『野ざらし紀行─異界への旅─』は一度紙の本になったこともあった。まあ、御他聞に漏れずほとんど書店に並ぶこともなく、売り上げわずか100部との通知をもらい、残った分は保管料を取るというので、そんな金払うわけにも行かずに断裁となった。家族からも見放され、誰から祝福されることもなく、ただ大金をどぶに捨てただけで終わった。それ以降本を作ることに興味を失った。

 電子出版の時代が来て、再び本が作れないかと思ったが、EPUB形式は難しくて挫折、PDFで作ったら20メガを越える大容量となってしまい、HPにアップできなかった。

 新しいHPを鈴呂屋書庫と名付けたくらいだから、いつか本を作ってみたいという気持ちは残っているものの、紙の本も電子書籍も相変わらずハードルが高い。まあ、結局才能がないというのが一番のネックなのだが。

 そういえば、かつての共同出版の会社って今はないところが多いみたい。多分ネットの普及で潰れたんだろうな。

4月18日

 オスプレイは確かに通常のヘリの3倍の輸送力があり、航続距離も長い。山間部の孤立した地域に救援物資を運ぶのには適している。安全性に関しても一般の航空機には劣るもののヘリよりはかなりましだとされている。

 問題は届いた救援物資を仕分けして被災者に配分する作業の方だ。揺れが収まらない、今後大きな地震がこないという保障がないといってボランティアを受け入れなかったり、屋外避難者が多くてどこに誰がいるのか把握しにくかったり、みんな一生懸命頑張っているのだろうけど、いろいろ不満の声が聞こえてくる。

 福島の時とは違い、熊本の県民性も関係しているのかもしれない。「肥後もっこす」だとか「肥後の議論倒れ」とか言われるように、どうも自己主張の激しい人が多いらしく、それが救援物資への不満の声ばかりが目立ってしまう原因なのかもしれない。他所者としては、熊本県民はそういうものだと思って温かく見守るべきなのだろう。

 もちろん災害を安倍政権打倒のネタくらいにしか思ってない奴らは問題外。確かに被災者の中にもそういう考えの人はいるから、そういう人と連携して、そういう人を優先的に支援してという考えはあるのだろう。

 復興と言っても人それぞれ思い描く未来は違うし、未来と未来が衝突して火花を散らすこともある。過去はどういう未来を望むかによって異なる解釈を生む。過去は現在のわれわれの記憶に過ぎず、記憶の意味は未来によって決定される。

 記憶は風化するのではなく美化されるというのは、記憶は未来から意味を与えられているからだ。未来が異なれば記憶も異なる。未来は人の数だけある。だから過去も人の数だけある。国や思想や立場によっても沢山の未来があり沢山の過去がある。どんな未来になるにしても、必ずどこかで不満というのは残るものだ。それでも未来へと進まなくてはならない。それぞれの未来へ。

 すべてのものに多様性があって、様々な未来を試してゆく中で、生き残った未来が今となる。

4月17日

 熊本の地震はこれまでの常識が通用しない。

 まず、大きな地震の後すぐにもっと大きな地震が来た。普通は大きな揺れがあったあと、大きな余震はあっても、あとからもっと大きな本震が来ることはなかった。だから地震の後に「もっと大きいのが来るぞ」という情報があっても、デマだと思えということになっていた。でも今回は本当に来るかもしれない恐さが残った。

 地震が一過性ではなく長く持続して、いつまた大きな地震が来るかわからないとなると、避難の仕方も変えなくてはならない。最初の地震で持ちこたえた建物も次の地震で崩れるかもしれないとなると、建物の中への避難は危険で野宿を余儀なくされる。首相官邸もそれで混乱して誤った指示を出したようだ。

 東日本大震災の時は、火力発電所が爆発して毒物が降ってくるというデマがかなり拡散されたが、今回はいろいろなデマが飛んだにもかかわらず大きな騒ぎにはならなかった。ツイッターは簡単にアカウントが取れるため怪しげな情報が多く、長くツイットを続けている人のオリジナルの情報以外は信用しない方がいい。匿名のブログや書き込みなども信用しない方がいい。

 しかし、「朝鮮人が井戸に毒をまいた」とか、関東大震災の話だろって、まあ今時そんなのに踊らされる人はいないが、川内原発の爆発のデマは福島のあとだけに困ったものだ。左翼の評判を落とすためのネトウヨの仕業か?だとすると「朝鮮人が」はパヨクの仕業?

 薩摩川内市の震度は一連の地震で最大が4。震度5だと自動停止するらしいが、今回はそこまではいかなった。

 ただ、震源が中央構造線を伝って移動しているから、今は東にずれて伊方原発の方へ向かっているものの、いつ西へずれて川内の方へ行かないとも限らないから警戒は必要だ。

 日本国中地震の巣窟で、どこに原発を建てても地震から逃れることはできないのだし、火山だっていたるところにある。日本は北欧と違って自然エネルギーが豊富なのだから、原発はやはり減らしていった方がいい。推進か即時ゼロかの究極の選択ではなく、普通に漸次削減を選びたいのだが、日本には相変わらず自民かポピュリズム政党かの選択肢しかない。悲しい国だ。

4月13日

 3月5日の所に引用したあの「日本死ね」の書き込みだが、あれをちゃんと読めばわかることだが、

 

 「オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。

 エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。

 有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。」

 

とあるように、保育園作る=予算よこせであって、保育園を作る際の他の障壁については何も言ってないし、最初からこの人は関心を持っていない。あくまで金にしか興味がない。

 

 「保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。

 保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど‥‥」

 「金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。」

 

と、とにかく金金金。

 その後国会前で起きたデモの映像がテレビで流れたけど、そこで叫んでたことも基本的には予算よこせ、金よこせ。

 せっかく国会が動いて待機児童対策にあれこれ案が示されても、予算が増えてないとクレームをつけてあくまで金にこだわる。

 こういう人たちが市川市の保育園断念なんてニュースを聞いても、大体反応はわかる。保育園に反対するのは住民の当然の権利であり、それでも作るというなら「金よこせーーー!!!!!!」そういうことだろう。

 日本がヨーロッパ並みの20パーセントの消費税を導入するなら、多少の予算も出るだろう。金は払わない、金よこせ、この日本のプロ市民の民度の低さが既に日本を殺している。

 

 今の左翼が駄目なのは、議論をしない、議論ができないということに尽きる。

 ヘイトスピーチにしてもレッテル貼ってそれを連呼して終わり。在特会の主張のどこがどう間違っているか一切説明しない。「在日特権はデマ」ということを何度も繰り返し言ってきたなんていうけど、どこがどうデマなのかをきちんとわかりやすく説明してくれなければみんなわからないよ。

 安全保障関連法案反対デモにしても、結局世の中を動かせなかったのは、あの法案のどこのどの部分が戦争法なのかを何一つ説明せず、レッテル貼って連呼するだけで終わっていたからだ。

 要するに最初から大衆に理解されることなんて求めていない。ただ有無を言わせず一方的にオルグしたいだけ。わからせるのではなく従わせるためのデモなんてのは、いくらやっても大衆の支持を得られない。

 

 安全保障関連法案に関していえば、あの法律は連合国(国連)に協力するための法律であり、連合国(国連)に楯突いて侵略戦争を始めようという法律ではない。もしそんな法律を作ったなら連合国(国連)の敵国条項に抵触し、国連決議なしで日本に制裁を加えることができる。特に中国が黙ってないだろう。

 つまり「戦争法」なるものが実在してたなら、日本はとっくに焼け野原だ。そうでなく、あくまで連合国(国連)に協力する法律だから、中国は不快感を表明はしても手が出せない。

 もっとも、公然と反米闘争を行っている人たちからすれば、むしろ「戦争法」が実在してくれたほうがいいのかもしれない。だが、あの法律が戦争法であることを証明できない。だからレッテル貼りだけで、あとは100万回繰り返し言ってたらそのうち真実になるのではないかということを期待しているだけだ。

4月9日

 ネトウヨの高齢化と若者の左傾化なんてうわさはあるが、2チャンネル見ていると、ここの書き込みの高齢化は明らかだろう。俺にわかるネタが多すぎる。

 左傾化は若者のパソコン離れとも関係があるのだろう。自分で検索して知識を得るのではなく、マスコミの報道を鵜呑みにしてゆけば、大体は左に傾くものだ。俺の世代もそうだった。現実を知らず、マスコミの振りかざす正義を真に受けていれば、だれだって急進的な共産主義者になる。

 今年に入ってからゲスな週刊誌がやけに注目されているが、それもパソコン離れ、ネット離れに関係があるのだろう。

 パケ代が高くて、若者の少ない小遣いを圧迫しているから、動画もそんなに見れないし、音楽だっていくら聞き放題と言われてもダウンロード容量が制限されているからメリットがない。スマホはせいぜい日常の友人との閉鎖的なやり取りに限定され、結果情報に疎くなる。そうなると、昔の若者とそれほど変わらなくなる。

 世界はやがて二極化して行く。

 一握りのロボット開発者や、それを中心とするビジネスに携わる者がロボットを造っては管理し、ロボットの労働によって得られる利益は彼らがほぼ独占することになる。その一方で、パソコンもろくに使えない大衆は仕事もなく、おそらくは公的補助によって最低限の生活をすることになる。

 ロボットがかつての奴隷に代わって勝手に生産してくれるわけだから、古代アテネの市民のようなもので、働く所がないからといってそんなに困ることはないかもしれない。ロボットビジネスがもたらす巨大な富の一部は、おそらくベーシックインカムとしてすべての人に配分されることになるのだろう。

 だから高度な知識を持つものは、若いうちに必死で働いて巨万の富を築き、どこかのリゾート地の豪邸で余生を過ごし、そうでない者はただやることもなく、一生暇つぶしの人生を送ることになる。

 近代が終わりネオ中世が始まるというのは、ロボットを開発したり管理したりできるものだけが、かつての領主様のように新たなお貴族様になり、その高度なノウハウが貴族社会だけで独占されるということなのかもしれない。

 一方、庶民は一切のハイテク機器から疎外されても、独自の職人芸能の文化を創る可能性はある。手仕事は彼らの最後の武器となる。

 機械が高度になればなるほどそれを作れる人間は限定されてしまう。産業革命は庶民が機械を手にし、貴族を追い払った。しかし、機械があまりに高度になり普通の人間では手が出せないものになってしまうと、新たな貴族制が生じる可能性がある。

 そう考えると『本好きの下克上』の世界の魔力がハイテク力に変わっただけのようなものなのかもしれない。

 香月美夜の『本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~』には今ちょっとはまっている。いわゆる異世界物で、異世界でこちらの世界の知識を活用して成り上がって行く物語だが、バトルではなく商売でというのが異世界ビジネス小説って感じで面白い。だけど「ちゃんりんしゃん」やグリコポーズ、世代的には親しみを感じるけど。

4月7日

 ソメイヨシノが散るとすぐに新緑の季節がやってくる。これからまた八重桜、山吹、つつじ、藤、牡丹など花には事欠かないから、そんなに寂しくはない。

 花見はこの前の日曜に近所の公園に行ってサンクトガーレンの桜のビールを飲んだし、後は八重桜を見に行けば、今年は河津桜と合わせて三度花見が楽しめることになる。

 戦後になって日本中どこもかしこもソメイヨシノだらけになったが、本来日本の桜は山桜だったし、敷島の大和心は山桜だと本居宣長の歌にもある。八重桜もいにしえの奈良の都にあったくらいだからソメイヨシノより遥かに長い歴史がある。

 ソメイヨシノは寿命60年説というのがあるくらい短命で、家の近所の桜並木も所々切り株になったり、若木に植え替えられてたりしている。多分植えられたのが69年だったので、既に47年になる。この分だと13年後にはほとんど二代目に入れ替わっていそうだ。だったらソメイヨシノにこだわらずに、河津桜や八重桜や、他にいろいろな桜を植えて、それぞれの桜をそれぞれの時期に楽しむ方が良いのではないか。花見が一回だけなんて、そっちの方が寂しい。

 韓国の王桜も世界に広めたがっているから、それもまた見てみたいし、雲南省の方にある原種に近い桜というのも見てみたい。

 今日は花散らしの雨だって言うけど、それほど散ってはいない。まだかなり残っている。

 

 散らすなよ花は世界にあまたあれ

4月3日

 吉田松陰が水戸の永井政介宅に約1カ月余り滞在したのは、嘉永4年(1851年)12月19日から翌年1月20日だという。豊田天功の『防海新策』の成立が嘉永5年秋だとすれば、蘭学者の説に関しては当然のことながら、吉田松陰の影響があった可能性が十分ある。

 つまり、豊田天功は吉田松陰から直々に、西洋列強に対抗するにはまず国力をつけねばならず、そのためには貿易を盛んにするだけでなく、こちらから韓国・中国に攻め入って東南アジアからオーストラリアに至まで領土を広げろという過激な思想を耳にしていた可能性がある。

 さすがに西洋諸事情について、すべて松陰から学んだということはないだろうが、多少の情報の交換は行われていただろう。少なくとも裏を取らずに22歳の若造の言うことを真に受けるということはあるまい。水戸藩も十分な情報を持っていたということは疑うべきではない。

 交易に関して、

 

 「又、交易に一説あり、我大艦を作りて、諸外国へ押渡りて、交易を為しなんには、利益莫大にて、我邦富国強兵の一助とも成ぬべし。畢竟我邦にそれ等の遠計なき故に、外夷に先鞭を著けられ、遂に彼が為に制せらるるに至りぬ。此方にて大船を作りて、外国に押渡り交易を為すは、所謂先即制人の勢にて、彼等我国へ入寇する事を得ざるべし」と云、蘭学者の徒多く此説を主張する。」(『水戸学』、日本思想大系、1973、岩波書店、p.345)

 

 と書かれているのは、蘭学者の多くというから、もちろんこれは松陰だけではなかったのだろう。これをいち早く実践しようとしたのは坂本龍馬だったが、もちろん龍馬の独創ではなく、蘭学者の間に一般的にこういう発想はあったのだろう。

 戦後の左翼が侵略戦争の責任を水戸学の国体論ばかりに押し付け、吉田松陰を免罪しているのはやはり理解できない。水戸学に侵略思想がなかったのは明らかだし、侵略思想と国体論を結びつけたのは明らかに吉田松陰の罪だ。

 今日では西洋列強の脅威は遠のき、先進諸国は長く平和な時代を享受している。あえて国土を拡大するような大儀もなく、それどころか貿易を盛んにして国力をつけるということ自体が既に大儀を失いつつある。アメリカの大統領候補が皆TPPに反対しだしたというのも、この現象が日本だけではないのは明らかだ。EUもまた同様に大儀を失いつつある。むしろアベノミクスだけが今の世界では浮いているのかもしれない。

 もっとも日米欧の豊かさに追いつけなかった中国・ロシアという新興国にはまだまだ警戒を要する。ただ、彼らのウクライナや南沙諸島への進出は限定的なもので、全面的な侵略戦争はリスクが大きすぎるからまずありえない。核戦争で自分の国まで壊滅するようなことはまずしないだろうから。

 ナショナリズムというのは他人の遺伝子より自分の遺伝子を優先するすべての生物の本能から来るもので、自分と同じ血を引くものを守ろうとする欲求は止めることができない。

 インターナショナリズムはどこまでも人工的なものであり、人間の自然の欲求ではない。様々な民族が均等に存在するような人工的な環境を作れば可能かもしれないが、現実には必ず民族は偏在し、そこにマジョリティーとマイノリティーの対立が生じる。

 科学と経済は人類の共通言語なので、経済のグローバル化が今後も進んでいくのは間違いない。ただ文化のインターナショナル化は限界がある。豊かさをもたらす文化は比較的早く世界に浸透し、貧しさに縛るつける文化はどこにあっても衰退の道をたどるだろう。だが、そうでない経済に中立的なものはむしろ多様化に向かう。

 価値観の多様化は、様々な形で人間関係に軋轢と衝突をもたらす。それを回避するには、ある程度の棲み分けが必要になる。

 出生率の低下と経済の停滞で国土の拡大の必要がないうちは、一つの民族の枠の中でつつましく暮らそうという鎖国的ナショナリズムが台頭するのは自然なことではある。

 経済のグローバル化と文化の細分化やナショナリズム化が同時に起こる時代を、我々は今生きている。ロマンチックな近代の後にはゴシック的なネオ中世がという話は前々からあったが、その潮流はしばらくは変わらないだろう。

3月30日

 香山リカのTwitterは確かに異様だ。

 これだけ見ていると、本当に日本は内戦状態なのではないかと思えてくる。もちろん、在特会のデモ会場のほんの一歩外に出れば、いつもと何一つ変わらない平和な日本がそこにあり、ここだけが特殊な世界なのは言うまでもない。

 Twitterの内容はどれもこれも戦いのことばかりで、平和な日常生活を営むごく普通の姿はどこにも描かれていない(猫の写真が一枚だけあったが)。修羅の道に迷い込んで蓮華の花が見えないのだろう。一体何が彼女をそうさせたのだろうか。俺は精神科医ではないが、パラノイアを疑いたくなる。

 冷戦の崩壊とともに、社会主義インターナショナリズムも急速に衰退していった。社会主義という万国共通の理想のもとに世界が一つになるという幻想は、社会主義そのものの崩壊に耐えられなかった。旧ソ連でも旧ユーゴスラビアでも諸民族が独立を求め、いくつかの場所で悲惨な虐殺事件にまで発展した。中国もその恐怖があるから独裁を緩められないのだろう。

 インターナショナリズムの崩壊のあと台頭してきたのは、旧来のナショナリズムとは若干異なる新しいナショナリズムだった。どこが新しいのかというと、それは人口減少社会のナショナリズムだという点で、領土拡大に興味がなく、むしろ鎖国に近い考え方に走るナショナリズムだ。

 人口増加社会では、黙っていても国の中は人でいっぱいになり、あぶれたものは外に出て行かざるを得ない。どの国もそうだから、どの国も新天地を求め国土や植民地の拡大を図るから、そりゃあ戦争は避けられない。だから、昔のナショナリズムは侵略戦争を肯定するもので、異民族は浄化されるべきもので、奴隷同然に扱うのも普通だった。レイシズムというのもかつての奴隷制の残滓で、血統は厳密に管理されるべきであるという牧畜民的発想に、ダーウィニズムの誤った理解が加わったものだった。

 これに対して人口減少社会では異民族を国内から排除すれば事足りる。外国人が入ってくるから国内は満員になり窮屈になるのであり、外国人を追い出してしまえば、それ以上外国まで攻めていって領土を拡大する理由もない。

 こういう新しいナショナリズムの観点で見るなら在特会の主張もわかりやすいし、トランプ氏の発言もよくわかる。メキシコとの間に壁を作るというのは、逆に言えばアメリカ側もそれ以上領土を拡大しないという守りの発想だ。在日米軍の撤退も、よその国を支配下にしようという意思のなさの表れだ。トランプ氏は世界を支配する強いアメリカではなく、アメリカ人だけがひっそりと暮らすこじんまりとしたアメリカを求めているように思える。共和党の主流派が反発するのは、むしろその点かもしれない。

 2チャンネルで、韓国側の報道で「日本は再び朝鮮半島を侵略しようとしている」という意見に対し、その反応はまったくこれを証明するものだった。口々に朝鮮人をののしりながらも、「そんな所行きたかねーよ」「頼まれても行くか」「北と南で勝手にやってろ」「いまさらロシアの盾なんて要らないよ」といった主張に侵略戦争の影はない。

 西洋列強の脅威が去り、人口減少でわざわざ侵略戦争を起こす理由はなくなって、鎖国志向が強まっている。今のネトウヨは幕末の攘夷運動の急先鋒に立った水戸学にあまりに似ている。

 インターナショナリズムの崩壊のあとに世界のいたるところに生じているのは、旧来の帝国主義ではなく、むしろ鎖国主義だ。

 これに対し、左翼はこの変化に気づいていない。ナショナリズムの台頭をあくまで旧来の帝国主義、軍国主義の文脈でしか理解できない。だから香山リカさんも必死になっているのだと思う。石頭の思い込みが現実から大きくずれてしまうと、結局妄想と変わらなくなる。早く彼女の戦いが終わることを祈る。

3月28日

 図書館で『水戸学』(日本思想大系、1973、岩波書店)をぱらぱらとめくっていたら、西洋の事情を書いている部分が目に留まった。ともすると、幕末に西洋のことを知っていたのは蘭学者だけで、それ以外の人はまったくの井の中の蛙で、ペリーが来た時にはまさに寝耳に水だったかのようなイメージがあるが、実際そんなことはあるまい。

 水戸学というと、薩長の志士たちとは正反対に、かたくなに外国船の打ち払いと性急な攘夷運動の急先鋒に立っていたというイメージが強く、特に天狗党が有名だが、彼らも別に西洋に関して無知で、わけもわからず行動していたわけではないのだろう。

 豊田天功の『坊海新策』はペリーが浦賀に来る前の年に草案が書かれ、ペリー来航の直後に上程した意見書だが、スペイン・ポルトガルの凋落からロシア、イギリス、アメリカの台頭、アヘン戦争のことなど、確かな認識を持っていたことが伺われる。今の状況が蒙古襲来の頃とはまったく事情が違うことくらいは当然認識していた。(ただ、アメリカの独立の事情に関しては、ピューリタンをカトリックと誤っている。)

 そして、蘭学者の説として大艦を作って諸外国へ進出して貿易を行い国力をつけることで、西洋列強が侵略してくる前に先手を打つべきだという説を紹介し、「似て非なる」としている。吉田松陰の説はこれに類するのだろうけど、それ以前にもこういう主張をする蘭学者はいくらもいたようだ。侵略思想は蘭学者の中でかなり一般的だったのに対し、水戸学はそれと相容れない立場を打ち出していた。

 基本的に、中国は大国で、特に経済力があり諸国に富をもたらすゆえ、諸国もこれを求めて朝貢し国を開いていたが、日本は小国だから武を持って外国人を近づけないようにするのが応神天皇以来の良法だとし、打ち払いによる鎖国の継続ということになる。「日本財用ゆたかなりといえども、小国なれば財用また限りあり」というあたりは、今の「資源のない国」という神話にも通じるようで面白い。

 今打ち払えば西洋の銃器や大砲によって返り討ちにあうのが落ちで、まず国内を整え、武器を準備し、国内気力充実した後うち払いすればいいという説は、蘭学者の説なのだろう。これに対し、それではいつになるかわからないと言うあたり、性急な攘夷論はこの説によって焚きつけられたのだろう。そのために武士だけでなく百姓町人も含めた総力戦を主張している。

 もちろんさすがに刀や槍で戦えるとは思っていない。銃と大型船が不可欠であることは認識していた。

 旧世代の右翼は再び戦争を起こして世界征服をたくらみ、その日のために体を鍛えたりしていたが、今のネトウヨは基本的に鎖国主義者で、幕末の攘夷論に近い。

 戦後左翼は、戦争に負けた、どうせ西洋には勝てないのだからという敗北主義から、いつか西洋中心で世界が一つになる日に備えて、愛国心を否定し自分の国に唾を吐きかけ、伝統文化は単純な保存以外に関心がなく、どこまでも西洋化に邁進した。今でも「日本死ね」が合言葉か。

 会沢正志の『時務策』は開国後の文久二年に書かれたもので、そのため打ち払いなどという過激な主張は「寛永の良法とはいえども、その本は天朝の制にも非ず、また東照宮の法にも非ず」としている。むしろ、「海外の万国皆和親通好する中に、神州のみ孤立して好を通ぜざる時は、諸国の兵を一国にて敵に受け」と国際的孤立を懸念している。

 「海内の百姓皆升平の徳沢を蒙り、その生を安んじて世を渡るは、天下の至慶なり」というあくまで平和を優先した会沢の説が広く認められていれば、日本は侵略戦争などせず、タイのような静かな独立国家になっていたのだろう。

3月22日

 昨日は古代東海道の続きで、御殿場線岩波駅からスタートした。

 途中、松田駅では、この前行った西平畑公園やあぐりパーク嵯峨山苑が見えた。西平畑公園の河津桜は完全に緑色になっていて「かぎりさへ似たる花なき」だった。あぐりパークの方はこの前行った時には咲いてなかった右端の別の種類の早咲きの桜が咲いていて、そこだけピンク色だ。

 8時20分頃岩波駅に着いた。結構降りる人がいる。近くに工場が多いせいか。空は曇っていて、昨日とうってかわって肌寒い。

 古代東海道とは言ってもあくまで推定で、前回も結局ある程度確実なのは駒門風穴のあたりを通っていたということぐらいだった。今回も岩波駅からスタートするものの、どこを通ればいいかかなり迷っていた。

 ただ、『事典 日本古代の道と駅』(木下良、2009、吉川弘文館)によると、唯一清水町玉井寺墓地移転の際に発見された熊之免遺跡で、幅9メートルの道路遺構が南西から北東へと通っていて、その北東の端では北西に向けて幅が11メートルに広がっているのがわかっている。木下良氏はこのあたりに長倉駅があった可能性を示唆している。

 古代道路の直進性を信じるなら、駒門風穴から清水町玉井寺の北東部を結ぶ線に古代道路があったのではないかと推定できる。これだと駒門風穴から真南よりはわずかに西に寄ることになるが、国道246の神山西のあたりで久保川にぎりぎり沿って、そこから東名の裾野インターの東をかすめ、千福、裾野市役所、桜堤、下土狩を経て千貫樋のやや西側に綺麗な直線を引くことができる。そこから玉井寺まではほとんど江戸時代の東海道をなぞることになる。

 

 木下良氏は伊豆国国府が今の三島大社の位置になったと考えているから、千貫樋から逆に北東に延びた線で伊豆国国分寺跡(現在も国分寺がある)の前を通り、そこから真東へ方向を変えて三島大社の前に出たと考えられる。

 とにかく、今回はこの道を通ってみることにした。

 そういうわけで、まず裾野インターの方へ行った。このインターは降りたあとそのまま直進するとまた高速道路に戻れるのと、東京からのキロ数が100キロにちょっと満たないということで、割引を利用するために降りてまた乗ったりしていた。

 その裾野インターの手前のセブンイレブンの所の狭い道を南側へ曲がると、すぐに急な下り坂になる。ここから今日の旅が始まる。

 市営グランドの横を通るあたりから、雨が降り出した。道は緩やかな下りで、右に左に緩やかにカーブしていて、家は途切れない。

 御宿平山西の手前で24号線に出、千福で246号線をくぐり、黄瀬川を渡るとようやくコンビニがある。ここで折り畳み傘を買った。

 中央公園入口バス停の近くに双体道祖神塔と単体道祖神塔が並んでた。このあたりから単体道祖神地帯の入るのか。

 そのすぐ先の信号の所に五竜の滝が右だとあったので行ってみた。橋のところから黄瀬川の川上に三つの滝が見えた。橋を渡った所に小さな社があり、馬の像やレリーフが置いてある所を見ると馬頭観音か。

 

 24号線に戻ると、まもなく裾野市の中心部に入る。といっても市街地はそんなに大きくない。

 雨は強くもならず、かといって止みそうで止まず、傘をたたんだりまたさしたりという状態だった。市役所の所を曲がり裾野駅の前を通り過ぎると左側に神社があった。佐野原神社という名前だった。藤原朝臣二条為冬卿を祭った神社だという。定家卿の血脈を継ぐ二条家の歌人だったらしい。境内には2009年に建立された真新しい歌碑があり、そのほかにもいくつか為冬の歌の書かれた看板があった。

 歌碑には、

 

 よそめにはさそまかふらんやまさくら

     木の下にたに雲かとそ見る

                二条為冬

 

の歌と、『菟玖波集』の、

 

 山かせや夕涼しくなりぬらん

 

の句が書かれていた。濁点がないのでわかりにくく、

 

 よそ目にはさぞ紛うらん山桜

 

    木の下にだに雲かとぞ見る

 

とした方がわかりやすいか。山桜は今日のソメイヨシノとちがって白く、遠くから見ると山にかかる雲のように見えるという古典的なテーマを、木の下から見上げても雲のように見えるのだから、遠くからだとさぞかし雲のように見えるのだろうなと、近くでも花の雲だというところに新味を求めている。

 中世の和歌や連歌は近代歌人から不当に低く評価され、研究も進んでないし、一般に知る機会もあまりない。それは近代短歌が俗語の文学なのに対し、連歌や和歌が雅語という当時の共通語であり規範言語でもある特殊な言葉で作られているせいでもあるのだろう。

 

 思ひ出づる雲まの月の面かげは

     またいつまでもわすれがたみぞ

                二条為冬

 

 この歌も紫式部の「雲隠れにし夜半の月」の系譜を引く、いわばほんのわずかな間しか逢う事を許されなかった人の比喩として理解されていたのだろう。

 

 分ゆけば野辺の小篠の上よりも

     袖にたまらで降る霰かな

                二条為冬

 

 

 源実朝の「もののふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原」の霰の「たばしる(飛び散る)」という言葉を、「たまらで」と留まることなくどこまでもこぼれ落ちてゆくという言葉に置き換えることで、戦の空しさをより際立たせている。

 いつの世ももののふの道はただ死に向かうだけのもので、勝利も敗北も悲しみや恨みだけを残してゆく。後醍醐天皇方に着いて戦死した二条為冬の名も今ではほとんどの人は知らない。それも袖に溜まらないで零れ落ちていった霰の一粒なのだろうか。

 なお、この神社には芭蕉の句碑もあった。

 

 眼にかかる時や殊更さつき富士   芭蕉

 

 何だ芭蕉さん、「富士を見ぬ日ぞ面白き」と言っておきながら、やっぱり富士が見えたら嬉しいんじゃないか。今日は富士山は見えない。

 この神社にいるときは不思議と雨がやんでいた。出るとまたポツリポツリと来る。

 なお、この神社には紀元2601年銘の狛犬もあった。

 

 御殿場線の線路を越え、左に大きな工場を見ながら県道21号線の広い道を行くと、やがて右側に熊埜神社がある、狛犬は昭和45年銘の無彩色の岡崎型。このまま21号線を行くと目標よりもやや東にそれて三島大社の方へ行ってしまうので、このもう一つ先の信号で右に曲がる。この道も結構広い。裾野の新市街のようだ。駐車場の完備した郊外型店舗が並ぶ。西松屋の前の小さなスペースには土筆がたくさん生えていた。

 

 

 

 

 

 雨の方はどうやら佐野原神社を出た後少し降っただけで終わったようだ。雲の切れ間から薄日も差してきた。

 伊豆縦貫道をくぐると長泉町に入る。右側には煙突から煙をもくもくと吐き出す工場があり、左にはこぶしの花が咲く。広い真っ直ぐな道がさらに続く。このあたりが桜堤という地名になっている。

 少し行くと右側に日吉神社がある。狛犬は無彩色の岡崎型。境内の右側に石灯籠が並び、その両端に先代と思われる江戸狛犬がある。どちらも銘はなかった。境内の中央に大きな楠がある。

 さらに先へ行くと右側に金山神社という小さな神社がある。

 この広い道もマックスバリューの先で終わる。突き当りを少し右に行くと、左に入るやや小さな道がある。緩やかにカーブして旧道っぽい。

 ここにも日吉神社がある。鳥居には山王宮とう額がある。狛犬は昭和57年銘の彩色された岡崎型で、首には注連縄を巻いている。この神社には文久3年(1863)に奉納された35句の発句を記した俳額があるという。実物は見なかったが、説明板にいくつかの句が抜粋されていた。

 

 花咲くやかへすがへすの誘引ふみ  近禅

 きき馴れぬ鳥の鳴きけり冬の月   乙雪

 雨の降る中にひと木の柳かな    広楽

 鶏の踏みなくしけり春の雪     呉山

 藻の花に魚のかかる浅瀬かな    磯女

 

 他にもまだあったが、いずれも確かな技術を感じさせる。

 ここを出ると右側に大きな東レの工場が見える。

 その先には願掛八幡宮がある。狛犬は昭和63年銘の彩色された岡崎型。ここも首に注連縄を巻いている。境内に屋根付きの土俵がある。ここでちょうど正午。

 八幡宮を出て左に行き、その先を右に曲がり、小さな小川の脇の細い道に入る。これを真っ直ぐに行き、新幹線の線路をくぐり、東海道線の踏切を越える。このあたりは三島駅に近く、完全に三島の市街地なのだが、住所はまだ長泉町下土狩になっている。

 昔で言えばここはまだ駿河国で、三島市か清水町に入ると伊豆国になる。古代東海道の長倉駅は今となってはその地名は残っていないが、途中で駿河国から伊豆国に移り、さらにまた伊豆国から駿河国に移転している。おそらく駿河国の長倉駅はこのあたりにあったのだろう。

 長倉駅は『続日本後紀』の承和7年(840)12月の条には伊豆国に移されたとある。その24年後の『三代実録』の貞観6年(864)12月10日の条には、柏原駅を廃止し、蒲原駅を富士川の東に移転したとあり、そこには長倉駅は駿河国となっている。

 柏原駅は近世東海道の旅のときに通っていて、江戸時代にも間宿があった所だ。沼津、原、柏原は海岸沿いをかなり直線的に結んでいる。この柏原駅の廃止をもって、古代東海道は海沿いの道ではなく、今の県道22号線に近い山側のルートに移ったと言われている。この二つのルートの間にはかつて大きな干潟があった。

 山側ルートであれば、伊豆国府のあった三島大社と伊豆国国分寺を結ぶ東西の道をそのまま西に延長し、今の上石田ICのあたりを真っ直ぐ行ったのだろう。だとすると長倉駅は長泉町下土狩あたりにあったと思われる。海側のルートだと近世の東海道の辺りまで南に行くから、長倉駅は今の清水町新宿のあたりと思われる。

 海側ルートは江戸時代の東海道にもほぼ引き継がれているし、熊之免遺跡で道路遺構が発見されているが、山側のルートは遺跡もなく未だに何の手懸りはない。そういうわけで、とりあえず今回は海側ルートの方を想定して進むことにする。11世紀の『更級日記』の旅も、田子の浦を船で越えたとあるから、海側のルートを利用したと思われる。ある時期は確かに山側ルートが駅路で海側ルートが伝路だったのだろう。だが、実際は海側ルートを使うことの方が多かったのではなかったか。

 下土狩から道路を一つ越えると清水町の新宿になる。昔ならここで伊豆国に入ることになる。もうすぐ近世東海道に出るという所で寄り道だが、伊豆国国分寺跡に行ってみた。

 途中に地方(ちかた)神社があった。秀吉の小田原征伐の頃に勧進されたとの説明書きがある。汁かけ飯を食っている高嶋政伸が浮かんでくる。

 国分寺は立派な近代的な寺で、正面には檀家の車なのか、何台も止まっている。入口の所に説明板があって、本堂の裏に塔の8個の礎石が残っているという。ここにも武蔵国や相模国のような巨大な七重の塔があったようだ。位置的にも熊之免遺跡あたりの道を通った時に正面に見えたのではなかったか。

 元も道に戻り、近世東海道の道に出る。ここは2年前の正月に東海道の旅で通った所だ。左に宝池寺一里塚、右に玉井寺一里塚、両方の一里塚が残っているこの場所はよく覚えている。この玉井寺に古代東海道の遺構があるというのは知らなかった。

 そして八幡の交差点、これもよく覚えている。この先に対面石のある八幡神社があったが、今回はその手前で左に曲がった。近世東海道の道をそのまま行ってもよかったのだが、それだと八幡の交差点を過ぎた所で一回西南西へ方向転換することになる。あえて、ここを直進したらどうなるか、ちょっとした思い付きだが、黄瀬川と狩野川の合流点あたりまで行って、そこで川を渡って狩野川の南側を通り、永代橋のあたりで再び川を渡るルートというのを考えてみた。これだと静岡銀行の角のところで近世東海道に合流し、そのまま一直線に原の方へ行く道に入れる。

 裏道をしばらく行くと、旧沼津海軍工作学校案内図という看板がある。ここからバス通りを渡り川のほうへ向かう。川沿いの道は進めず、病院の裏を通って香貫大橋に出る。

 川の位置というのは長い年月の間に洪水によって自然に変わってしまうこともあれば、治水事業によって人工的に変えられている場合もある。このあたりの川が古代どう流れていたのかはわからない。古代東海道の下総へ行く道も、途中、葛飾区奥戸のあたりで中川によって遮断されている。

 

 狩野川の南側の道を行くと、途中に土地区画整理事業完工記念碑というのがあった。それによると、このあたりは幾度も狩野川の氾濫に見舞われ市街地化が遅れていたと書いてある。平塚の金目川のときもこういう碑があった。水害に弱い所から、少なくとも近世の道は狩野川の北岸を通っていたのだろう。古代の道も北側だったのかなと思っていたところ、その先に関東玉造郷という大きな碑の立った玉造神社があった。これによると延喜式にも記された由緒ある神社だという。ネット情報によると、この地下から玉石30個が発見されているという。玉を加工する職人集団が住んでいたのだろう。となると、古代は狩野川南岸の方が開けていたのかもしれない。南岸ルートの可能性も捨てがたい。

 なお、この神社には昭和50年銘の岡崎型無彩色の狛犬がある。

 玉造神社を過ぎると、右側の小川に沿って進み、文化センターの方を抜ける。その先に永代橋がある。これを渡って近世東海道に合流した所で今日の旅は終わりだ。

 さて、今年は正月の東海道ではアオイブリューイングで締めくくり、前回の古代東海道の旅は御殿場高原ビールで締めくくった。沼津に来たからには、沼津港に行ってベアード・タップルーム・沼津フィッシュマーケットに行くしかないだろう。

 

 沼津港には観光向けの海産物の店や海鮮料理の店が並んでいる。沼津の町は静かだがここだけは結構人が沢山いる。ベアード・タップルームはそんな沼津港の見える場所にあった。お土産にセゾンさゆりとがんこおやじのバーレィワインを買った。

3月5日

 最近何かと話題になっている匿名ブログというのは、はてな匿名ダイアリーというはてなブログをやっている人が匿名で投稿できる掲示板に近いもので、これだと誰がどんな意図でこの文章を投稿したのかはわからない。つまり「釣り」の可能性も否定できない。

 このブログ(というよりは「書き込み」と言った方がいいのかもしれないが)のことを広めたのは駒崎弘樹という認定NPO法人フローレンス代表理事で、民主党とのつながりも深い。そこから民主党の国会追及ということになったのだろう。

 その内容は次のようなもの。

 

 「保育園落ちた日本死ね!!!

 

 何なんだよ日本。

 一億総活躍社会じゃねーのかよ。

 昨日見事に保育園落ちたわ。

 どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。

 子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?

 何が少子化だよクソ。

 子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。

 不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。

 オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。

 エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。

 有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。

 どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。

 ふざけんな日本。

 保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。

 保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。

 国が子供産ませないでどうすんだよ。

 金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。

 不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。

 まじいい加減にしろ日本。」

 

 もちろん、突っ込みどころはいくらでもある。基本的には子どもが保育園に落ちたので預けられないから仕事続けられないという不満をぶちまけたもので、これだけなら問題提起としてごもっともなことなのだが、この種の感情的な議論の常として、何でもかんでも社会が悪いと叫んでは、次には金よこせとなる。

 保育園の待機児童のことは、前々から問題になっているし、それをなくすために真面目に取り組んでる人も少なからずいる。そうしたなかで、一体この書き込みは何か目新しいことを提起しているだろうか。もちろん何もない。

 まあ、少なくとも俺も日本人の一人として、「子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやる」ということに何も不満はない。だから日本のすべてがそのことを不満に思っているわけではないのは確実だ。そうでないのが少なくともここに一人いるのだから。だから「日本死ね」、だとか「ふざけんな日本」という言葉は単なる感情的な激高が生んだだけの空虚な言葉にすぎない。

 それに、この投稿者が日本人であるなら、「日本死ね」は日本人である自分も死ねということになる。別にネトウヨの味方するわけではないが、アンタ本当に日本人なの?と言いたくなる。ここはむしろ「そんな日本でいいのかよ」とか「本当の日本はこんなもんじゃないだろ」とか言うべきだったのではないかと思う。

 「何が少子化だよクソ」には俺も共感する。政府は需要が伸びないのを少子化のせいにするなと言いたい。需要が伸びない原因は二つある。一つは長時間低賃金労働で消費しようにも金もないし暇もない。豊かにはなりたいが、その分さらに労働時間が増えたのでは過労死するから、命あってのものだねで豊かさを犠牲にするしかない。

 もう一つは言わずと知れた需給ギャップで、メーカーの売りたいものと消費者の買いたいものが一致したためしがない。メーカーはどうでもいいような機能をつけては高く売りたがるが、消費者はそんなものを求めてはいない。

 正直、少子化は自然現象で、政策によって変えられるものではない。保育園にいくら予算をつぎ込んで増設しようにも、付近の爺さん婆さんが騒音だと言って反対するような状況ではどうしようもない。ほとんど生理的な次元で蔓延している「子ども嫌い」が少子化の正体だ。空き地からも公園からも追い出され、職場でも邪魔にされ、保育園にいても騒音扱いされる、それは政策だけの問題ではない。むしろ人間がそのように変わってしまったと言った方がいい。いくら金をばら撒いても少子化は止められない。少子化を止める唯一の方法は、日本の経済を破綻させて、再び昔の貧しさに戻すことだ。

 この書き込みに多くの人が胡散臭さを感じるのは、批判対象をいきなり「日本」にして、いかにも自分は日本人以上の存在(ここでは半島人ではなく西洋人)であるかのような高飛車な言い方をしていることと、「一億総活躍社会」という安倍政権のスローガンを持ち出してること、オリンピックに反対していること、予算のバラマキを要求していること。このあたりから、ある種の政治思想が容易に汲み取れること。つまり何らかの左翼団体の人の書いた「釣り」ではないかという疑惑が拭い去れないことだと思う。

 それと、これは俺の直感だが、激高しているようでも文章はしっかりしているし、全体の構成も良い。このまま「詩人会議」に載せてもいいようなものだ。それなりの書き手が書いたのは確かだと思う。

2月28日

 東名高速を通る時、いつも春になると気になってたのが、大井松田インターの先に綺麗なピンク色の花の咲くところがあることだった。いつか行ってみようと思っていて、今日ついに行くこととなった。

 河津桜はこのごろテレビでも盛んに取り上げられ、松田のこの河津桜の名所もすっかり有名になったようだ。

 9時ちょっとすぎくらいに松田に着いたが、既に酒匂川の河原にある臨時駐車場は半分以上埋まっていた。

 天気も良く、富士山は霞がかかっていたがそれでもはっきり見えた。正月の時とは打って変わって真っ白だった。

 246と東名高速の下をくぐり西平畑公園に着くと、期待にたがわず河津桜は満開だった。入口に近くには珍しい白い河津桜もあった。この木は突然変異なのか、一本だけだった。これがもし沢山あったなら、季節感がずいぶん変わるだろうな。

 脚立がある撮影ポイントがあった。ここから富士山をバックにした写真が取れるのだろうと思ったが、行列していたのでやめた。

 

 松田山ハーブガーデンの入口があり、そこにはクリスマスローズやラベンダーが植えられていた。ここからだと富士山は見えないが、矢倉岳と金時山とその間の足柄峠が良く見える。

 ハーブガーデンを登ってゆくと、横の蜜柑園に猫がいるのが見えたが、遠すぎて写真は無理。ハーブガーデンの上にはハーブ館があって、みやげ物を売っていた。ラベンダー色したフクロウがあった。

 ハーブ館を出ると露店が並び、ここが桜祭りの中心のようだ。バス停もここにある。子どもの館の横を通りさらに登るとミニSLの乗り場があり、その上には自然館があってこのあたりの動物が紹介されていた。アオバズクもこのあたりにいるのか。

 そこからさらに上にあるあぐりパーク嵯峨山苑への道は急坂で、横には蜜柑園や茶畑があった。あぐりパーク嵯峨山苑の入口の所には枝垂れ河津桜の小さな木があった。

 中は急斜面で、河津桜、菜の花、梅、水仙などが咲き、小田原方向の眺めがいいが、今日は霞がかかって相模湾はよく見えなかった。富士見の岡からは富士山が見えたが、この頃には雲がかかってかろうじて山頂が見える状態だった。それでもまだ運がよかった。この後すぐに完全に雲に隠れて見えなくなった。

 降りてきて子どもの館の雛のつるし飾りを見た。綺麗だが全体的に現代的だった。フクロウの飾りも多かった。

 このあと、開成町の古民家瀬戸屋敷のつるし雛を見に行った。茅葺の大きな屋敷の入口の脇には水車があった。屋敷の中には古い雛人形が並び、沢山のつるし飾りがあった。享保の時代の雛人形もあった。離れには高さ2.4メートルの大つるし雛があった。

 屋敷の裏の小さな竹林のあるところを通り正面に戻ると、開成町のゆるキャラのあじさいちゃんがいた。

2月21日

 民主・維新がやっと安全保障関連法案の代案を出した。遅かりし由良之助とはこのことだ。なぜこれが一年前にできなかったのか。

 何かあってそれに対応するのに一年も掛かるような党に、政権担当能力がないのは言うまでもない。この一年何をやってたんだ。民主党政権時代から変わらないというか、悪くなる一方の仲間割れ、内紛、分裂騒ぎ、そんなものはもう飽きたし誰も関心がない。この法案だって、本当にコンセンサスができているのか怪しいものだ。

 一年前にこの対案を出し、自民党案に対しきちんと修正協議をしていれば、もう少しましな法律ができていただろうし、野党も存在感を示せて、支持率ももう少し維持できただろう。アンチ安倍は実は安部ファンというのはどうやら本当らしい。安倍政権を助けるためにあえて馬鹿を演じているとしか思えない。

 今の政治はどの分野でも高度な専門知識が要求されているから、どんな天才でも一人の指導者の力でできるものではない。いわゆるF1方式で、優秀なスタッフのいるチームの上にドライバーが乗るというやり方で、首相はそのスタッフの一員にすぎない。

 日本で政権担当能力のあるスタッフは、残念ながら官僚しかいない。官僚は政権が変わっても同じメンバーだから、結局誰が首相になっても一緒という状態が続いてきた。民主党や維新の党にはそういうブレインがいなくて、政治家がその場の思いつきでものを言うだけだからとんでもないことばかり言うし、異なった意見をまとめる人もいない。政権をとっても、官僚に梯子をはずされたら迷走する以外にない。それを変えないことには日本の政治は変わらない。

 アメリカの場合、党が変われば官僚も入れ替わる。だから一応政権交代である程度方向性が変わる。ただそれも限定的なもので、あまり非現実な政策を取ることは実際の所できない。

 だからサンダースがなっても、多分今のオバマ政権を基本的に継承するだろうし、トランプがなってもブッシュ政権時代の基本路線に戻るくらいのものだろう。それまではせいぜい過激な発言で人気取りをするだけ。誰がなってもそれほど変わらないのはどこの国も一緒だ。ただ日本にも二大政党をというなら、せめて官僚を入れ替えるだけの力は持たなくてはならない。

 SEALDsも国会の前の民主主義で満足するのではなく、どうすればまともな政権交代が可能になるのか、若い頭で考えて欲しいものだ。

2月18日

 『中国が喰いモノにするアフリカを日本が救う』(ムウェテ・ムルアカ、2016、講談社+α新書)を読み終えた。

 ムルアカさんというと、やはりあの昔見た鈴木宗男議員と並んだイメージが強烈で、多分フリースタイル・ダンジョンの山下さんはそれのオマージュなのではないかと思う。鈴木宗男議員の方はあのあと疑惑の百円ショップとか言われ、結局最終的には有罪確定で実刑となった。

 多分この本も、左側の人からすれば、汚職議員の元秘書の書いた嫌中本ということで片付けてしまうかもしれない。

 ただ、実際中国が盛んにアフリカに進出して、現地の人を雇用せずに本国から労働者を連れてきて不評を買っていることは他の人も指摘していることで、アフリカについての一般向けの数少ない情報としては貴重だ。

 インドネシアの新幹線の問題でも、中国のやり方についてはいろいろと指摘されているし、この本に書いてあることも中国を不当に貶めているとはいえないだろう。

 中国人との付き合いのなかったアフリカの人は、中国人の集団が大挙してやってきて住みつくとなると、いろいろ不安の多いのも事実だろう。ただそれは今に始まったことではなく、日本にも横浜や神戸や長崎に中華街はあるし、中華街は欧米にもいたるところにある。シンガポールなど、そうした中国人が国家まで作ってしまった例もある。ただ、中国人は基本的に血縁社会で、国家への忠誠心は薄い。むしろ放っておくと家ごとにばらばらになるから、昔から強力な権力で抑えつけてやっとまとまるような状態だったのだろう。だから、いきなりアフリカが中国になるようなことはないと思う。

 日本の技術とアフリカの資源とが結びつけば、確かに面白いとは思う。ただ、日本人がアフリカにあまり興味を示さないのは、この本の後半を読めば多分何となくわかると思うが、アフリカ社会がかつての日本の社会によく似ていて、有力者のコネや根回しがものをいう社会で、その点では鈴木宗男議員の秘書をしていた時も、多分違和感なくなじめていたのではないかと思う。

 ただ、日本人は常にそこから抜け出そうとしていたし、古い政治体質を越えて西洋化を目指すことが、単なる技術革新だけではなく新しい生活スタイルや消費スタイルを生み出す原動力になっていた。

 どんな高度な技術も既存の製品にだけ用いたのでは、日本は経済成長を遂げることはできなかった。経済成長の本当の原動力は消費革命を起こすことであり、生活を変えることだった。それがなくてただの既存製品の猿真似のための技術にとどまっていたなら、日本は今の中国と同じ道をたどっていたことだろう。

 事実、70年代くらいまでは「経済侵略」なんて言葉で呼ばれることもあり、東南アジアでも日本は嫌われていた。それが変わったのは80年代に入って、日本が独自のファッションやコンテンツを開発し、生活スタイルの点でもリードできるようになったからだ。

 今の日本は単なる西洋化から更に新しい段階に入りつつある。日本人はようやく西洋崇拝から脱し、特にネットを通じて入ってくる西洋の情報は、マスコミのような西洋を美化した情報とは違い、西洋がそれほど理想の国でないことを暴露してしまっている。西洋でも移民排斥のデモがあってヘイトスピーチがあって、むしろ日本よりひどいということはマスコミが伝えなくてもみんな知っている。

 日本がアフリカのパートナーになるには、日本がアフリカ社会の慣行にあわせるのではなく、むしろアフリカの方に変革を迫ることになるだろう。それはもはや西洋化でもないし、昔の日本でもない。日本人自身もまだはっきり自覚しているわけでもない何かに向かって変わる必要がある。

2月14日

 投資家の心理的不安だとか動揺だとかいう文字が新聞に踊っても、別にそんなにカッとなって売りまくっているわけではないだろう。

 投資家はこれからの世界がどのような方向に動くか予測しながら投資計画を立てるし、経営者もまた同じような予測に基づいて経営計画を立てる。ただ、その前提となっている状況が急変すると、計画を白紙に戻さざるを得なくなる。そして、新たな動向を見極め、計画を修正し、新たな投資方針や経営方針を策定しなくてはならない。それが「動揺」と呼ばれるものではないかと思う。

 一昨年に書かれた本には、「石油価格は今後上がることはあっても下がることはない」なんて書かれてたりしたが、それはその時の常識というか、土地神話や原発安全神話みたいな一種の神話となっていたことだった。石油資源には限りあるが、今後新興国やフロンティア国が経済発展すると石油需要はうなぎ登りになる。だから石油価格が下がるはずがない。そう考えられてきた。

 しかし、石油価格が上がるとなると代替エネルギーを求め、石油離れが起きてくる。再生可能エネルギー市場の急成長や省エネ技術の発達、それに地球温暖化が追い風になって先進国の石油需要はもはや増えようがない。それは新興国やフロンティア国にも波及してくる。

 「石器時代が終わったのは石が枯渇したからではない」という言葉通り、石油時代も再生可能エネルギーにとって変わられてゆけば、もはや先行きはない。

 そうなると中東の産油国は根本的に従来の方針を変えなくてはならない。石油時代が終わるとなれば、残っている石油は在庫処分の大バーゲンになる。かつては先進諸国が先を争って国内に侵略し、石油の利権を争ったが、それが今や石油は地球温暖化をもたらす悪者となったのだから、中東諸国もたまったもんじゃない。

 サウジとイランの対立も宗教の名を借りてはいるが、イランの石油解禁が脅威なだけだろう。

 サウジとイランの対立に加え、ロシアとトルコの対立、それにイスラエルやクルディスタンとその周辺との対立、さらにはアメリカ・イギリス・フランス対ロシア・中国の国連常任理事国の対立などが複雑に絡み合って、それが結局イスラム国を生かさぬように殺さぬように泳がせておく結果になっている。これによって欧米やインドネシアなどが常にテロの恐怖にさらされることになる。

 去年の株の大暴落(チャイナショック)の引き金になったのは中国の経済指標の粉飾で、これも中国をはじめとする新興国の成長力への期待が裏切られることとなった。ロシアがウクライナ問題でこけて、ブラジルのレアルは急落し、インドもまた過熱した投資が一段落したちょうどその時に中国のバブルがはじけたのは大きかった。

 中国は自由主義でないため、商品開発などに独創的な力を発揮しにくい。主に海外の製品の粗悪なコピーを安価で新興国やフロンティア国に流してただけで、豊かになった自国民は国産品を使わずに日本で爆買いするような状態だった。

 中国のインフラ輸出も中国が独裁国家であるためか、独裁体制の落としどころを良く知っていて、安価なプロジェクトを持ちかけては差額を着服できるようにして独裁者たちに売り込んでいった。労働者持参で手抜きだらけのずさんな工事を行い、結果現地の庶民は大迷惑で独裁者は私腹を肥やす。中国の経済援助はODA以上に利権に直結していて、フロンティア国経済を破壊する。

 先進国は過剰満足状態が続き、消費は伸び悩む。されど新興国やフロンティアは独裁がはびこって貧しいまま、これでは世界経済が伸びようがない。チャイナショックは中国だけの問題ではなく、新興国やフロンティア諸国の成長力に期待していた投資家や経営者を裏切った。

 もう一つ問題なのは、アメリカだ。世界経済の伸びしろがない。今後すぐにモータリゼーション・エレクトリゼーションやIT革命のような消費革命が起きる気配はない。となるとゼロ成長やマイナス成長が常態化するのは間違いない。なのに米国連邦準備委員会(FRB)は昔ながらの右肩上がりの感覚で、ゼロ金利を異常事態だとみなし、利上げを急いだ。

 投資家も経営者もこうした事態に計画を変更せざるを得ないのだが、それはすぐにというわけには行かない。新たな方針が決まるまでは資金を安全な所に移そうとする。それが今の世界的株安になっている。昔は有事は金だったが、今や有事には円が定着している。日本の株価はドルに連動しているから、円高になればその分だけ下がる。別に日本経済が不安で売られているわけではない。むしろ平和な日本の経済の安定性が評価されているからこそ円が上がっているのであり、円が上がるから株価が下がっているにすぎない。

 マスコミは経済の不安を煽って、アベノミクスの失敗をこれからも強調すると思うが、今の世界的な株安が安倍さん一人のせいだとしたら、安倍さん凄すぎる。でもそんなことはない。安倍さんにそんな影響力はない。

2月7日

 今年の干支は猿ということで、狛猿ということになるが、赤坂の江戸山王日枝神社と下谷の小野照崎神社の狛猿はすでに見ているので、とりあえず「神使の館」というサイトで一番近いところということで、新丸子にある丸子山王日枝神社に行ってみた。

 拝殿の前には大きな昭和2年銘の狛犬があり、その手前に色はやや黒ずんでいるものの、ほとんど磨り減っていない新しい狛猿があった。台座には奉納神猿とある。

 右が子取りで直立した小猿を抱えている。顔が人間っぽい。猿人だろうか。ホモエレクトスかもしれない。平成元年(1989)の銘がある。

 

 左は幣を持っていて、こっちの方が猿っぽい。昭和62年(1987)の銘があり、多分2年のうちに進化してしまったのだろう。

 拝殿の右側には稲荷神社・大鷲神社があり、紀元2600年のお狐さんがいた。

 境内の奥には大きな神木の切り株があった。かつては中原街道からも見えた大きな杉の木だったらしい。

 帰りに武蔵小杉のあたりを散歩した。法政通り商店街のキャラ「ニカッパ君」を見た。夜には光るらしい。

  このあと一度家に帰り、フクロウに会える店「ふわふわ」に行った。店の前の246で交通事故があって、消防車や救急車が止まっていた。フクロウたちも外の様子が気になってたようだ。

1月19日

 大阪のヘイトスピーチ条例が成立したというので、ここらで従軍慰安婦問題について書いてみよう。

 

 まずこの問題の根っこにあるのは「売春婦差別」だということだ。これは日本側韓国側双方に共通して存在する。日本側は慰安婦は売春婦だから救済の必要はないと言い、韓国側は慰安婦は売春婦ではなく、あくまでレイプ被害者だから救済されるべきだとしている。これはどちらも間違い。

 慰安婦が売春婦であっても、実際に肉便器同然の過酷な労働を強いられたことは、それが日本人であれ韓国人であれあってはならないことで、ともに救済の対象にしなくてはならない。

 「慰安婦が純粋な被害者ではなく売春婦であったなら、救済の必要はない」ということはない。つまり、韓国側は慰安婦の一部が売春婦であったことを認めたところで、何ら問題はない。それが問題だというなら、それは売春婦を差別しているということだ。

 大体、本当に30万人の韓国女性が国家公認の下に強制連行されて従軍慰安婦になっていたなら、彼女たちは肉便器になる必要などなかった。従軍慰安婦は常に不足していたから、軍としてもあの手この手でそれをかき集めざるを得なかった。

 そこで、

 1、日本人の人身売買ブローカー(いわゆる女衒)から入手した。

 2、韓国人の人身売買ブローカーから入手した。

 3、何らかの形で騙してつれてきた。

 4、拉致して連行した(強制連行)。

という事態が起こった。これらはすべて非合法であり、わざわざ証拠を残す馬鹿はいないから、犯罪の立証は今となっては困難で、それゆえグレーということになる。黒が証明できないから白ということではない。あくまでグレーだという認識を持つべきだ。

 特にブローカーから入手した売春婦は、親の借金のかたに取られた場合も多く、いわゆる債務奴隷という性格を持っていた。債務奴隷で性交を強いられるのだから、これは文字通り「性奴隷」だ。

 以前詩人会議の人が、韓国の元従軍慰安婦に接触するのだけど何も話してくれないみたいなことを言っていた。今思えばその人は、共産党が期待するような体験(4の体験)をしてなかっただけなのだろう。たとえ人身売買であれ、あるいは騙されたのであれ、「娼婦」として過ごした過去が発覚することは、日本でも韓国でも危険なことで、そりゃ言えるはずがない。高らかに証言できるのは、4の場合に限られる。だから4のケースだけが一人歩きする。

 結論、従軍慰安婦問題解決のためには、まず売春婦差別をなくそう。

 

 差別撤廃を訴えるのだから、当然この文章はヘイトスピーチには該当しない。

1月17日

 原田伊織の『明治維新という過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト(増補改訂版)』(毎日ワンズ、2015)を読み終えた。東海道を歩いた静岡の帰りの新幹線で読み始め、古代東海道で足柄から岩波に行った時にも持ち歩いていたが、ようやく読み終えた。

 まあ、はっきり言ってしょうもない爺さんだなって感じで、読み物としてはまあまあ面白いが、歴史書としては駄目だろう。

 長州史観からの脱却という点は共感できるものの、その代案が旧彦根藩の時代錯誤の武家教育では話にならない。イスラム原理主義と同レベル。まあ、長州の偉人をばっさばっさと切り捨てる爽快感は、きっとイスラム原理主義にも言えるのだろうな。

 それに結局この人は司馬史観から脱却できてないんだなと思うのは、最後の方での引用だ。

 

 「われわれが持続してきた文化というのは弥生式時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定して、明治後、崩壊をつづけ、昭和四十年前後にほぼほろびた(『街道をゆく』シリーズ「南伊予・西土佐の道」)(位置No.3787)

 

 こんな文章を賛美している所からもわかる。多分俺も「街道を行く」という文章を書いている一人として、そのうちどこかに書くと思うが、日本の文化は長江流域に発生した長江文明をベースとして、縄文・弥生に根を下ろし、平安時代に開花し、その後乱世の時代にも地下の連歌師を経て江戸の俳諧文化に受け継がれ、明治以降の長い西洋崇拝の時代をかいくぐり、昭和四十年前後にようやく復興を遂げた風雅の伝統、今で言う「ジャパンクール」に他ならないからだ。滅びるべきなのはお前らの西洋崇拝文化だ。

 まあ、それはともかくとして、長州史観を超えるためのポイントは、幕末の志士たちを突き動かした西洋列強の恐怖が本当に根拠のあるものだったかどうかだ。

 つまり、明治維新という暴力によるクーデターが明らかに過剰反応ではなかったかということだ。日本はあんな侵略戦争をしなくても、タイ王国のような静かな独立国でいることができたのではなかったか、ということだ。

 明治維新が西洋列強への疑心暗鬼の生んだ過剰反応だとしたら、その正当性は失われ、幕末の徳川家の外交を再評価しなくてはならない。最後の何人かの将軍は決してドラマで戯画化されてきたようなバカ殿ではなく、もう一度敬意を持って再評価されるであろう。そして、それが根底にあってこそ、幕府に忠誠を誓い、幕府に殉じた会津藩や彦根藩も再評価されるべきであろう。原田さんに言いたいが、あんたは徳川将軍を散々罵倒しているけど、それがあんたの武士道なのかい?

 徳川幕府は西洋列強の動きに無知だったわけではない。黒船が来る前から開国への準備をしてきたし、黒船が来ても頭に血が上った下級武士と違って冷静に対応した。それに引き換え、長州の若造は長崎で聞きかじった風聞に突き動かされて、簡単にテロに走ってしまった。彼らも政権を取ってしまい現実を突きつけられると、簡単に開国を受け入れた。まるで最近のどこかの党のようだ。

 平和と民主主義を説く人たちすら、何で吉田松陰などという侵略戦争の言いだしっぺを賛美しているのか、はっきり言って理解不能だ。左翼が駄目なのは結局そういういい加減さなのだろう。

 世良の酒と女に溺れた行状は、ある意味明治以降の軍隊の誤った武士道として受け継がれ、南京事件から従軍慰安婦に通じる道を用意したのではなかったか。確かに戦士は洋の東西を問わず豪放磊落というところはあるし、「英雄色好む」なんて言葉もあるが、それを近代的な軍隊に持ち込むのは時代錯誤。切腹も近代的軍隊に取り入れられれば一億総自決の愚に陥るだけ。

 どっちにせよ、正義はあくまで人々に豊かさと繁栄をもたらす所にある。今必要なのは武士道ではない。風雅だ。

1月12日

 昨日は古代東海道の続きで8時半ごろ足柄駅をスタートした。

 前回は地蔵堂川の脇を下ってきたので、近世の足柄越えルートの方がどうなっているのか気になっていたので、先に進む前にまずちょっとこのルートを振り返ってみようと思った。

 細い緩やかにカーブするいかにも旧道らしい上り坂を登ってゆくと、嶽之下神社があった。前回行ったのは嶽之下奥宮で、今回は前宮というところなのか。かつては浅間神社だったらしく、そのほかの神社を合祀して郷社にしたものなのか。

  石の両部鳥居の脇には赤い顔料の残る庚申塔があった。境内からは富士山が見えたが、ほとんど雲に隠れていて山頂部分がわずかに見えた。松田駅にいたときは晴れてたのだが。

 狛犬は平成19年銘の新しいもので、境内の奥にはかつての神木の名残とも言うべき木の根っこが祭られていた。

 このところ暖かかったが今日はやや寒い。梅は咲いているが草には霜が降りている。

 

 暖冬の梅はまだしも嶽之下

 

 この先の上り坂は浅間坂で、掘割状になっている。江戸時代の銘のある石塔などもあり、いかにも近世の旧道っぽい。広い道(今の足柄街道)に出ると竹之下一里塚がある。

 あくまで今日は寄り道で、このまま足柄峠まで行ったらそれだけで午前中が終わってしまうので、ここから今の足柄街道の方を通って降りた。

 浅間坂が江戸時代の道だとしたら、古代にはひょっとしたらこの尾根を真っ直ぐに降りて対岸の小山高校のほうへ直線的に抜けるルートがあるのかもしれない。これは俺の思い付きではなく「ヨコハマ古道紀行」というサイトで見たものだが。


 今の足柄街道は竹之下一里塚から先は大きく南に迂回するルートを通っている。これはこの尾根の突端が急な坂になっているためだ。尾根道はなだらかで歩きやすいし、道路を作るのに適しているが、たいていの場合尾根の突端部分がネックになる。浅間坂も最後のところで北に大きく曲がっている。これを直進した場合、宝鏡寺のあたりに降りてくることになるが、ここの斜面はかなり急だ。小さな谷もある。

 ここをもし通るとすれば、麓に向かって盛り土をしてなだらかに降りるようにしなくてはならない。それだけでなく、上の方は掘割にして掘り下げる必要があるだろう。そういう地形は残念ながら残っていない。

 下に降りて橋を渡ると、小山高校への車道は右へ左へ蛇行して登ってゆく。ここもかなり急な斜面だ。途中に谷間がある。ひょっとしたら道路の跡かもしれないと思ったが、上に登って小山高校の横から見下ろすと、やはりかなりの急斜面だ。古代東海道はここではあるまい。

 小山高校は横山遺跡があったところで、古墳時代から平安時代にかけての集落の跡が発見されている。

 小山高校を過ぎると、今の足柄街道に出る。左へ行くと陣馬と書かれた石の柱がある。その先、道の左側に日立ハイテクサイエンス小山事業所がある。ここに上横山遺跡の説明板が立っている。8世紀前半ごろの遺跡で、数多くの建物と幅5メートルの道路遺構が発見されている。幅5メートルだと駅路にしては細すぎる。集落の中の枝道だろうか。

 このあたりは広々とした台地で、隣にはアイリスオーヤマ富士小山工場や株式会社エヌビーエスの本社・工場がある。この先に左へ入る道がある。ここを曲がるとほぼ一直線に御殿場市の方へ行ける。

 小山から沼津へ抜ける古代東海道の道筋は、道路遺構などの物的証拠がなく、手がかりはというと、『更級日記』の、

 

 「からうじて越えいでて、関山にとどまりぬ。これよりは駿河なり。横走(よこはしり)の関のかたはらに、岩壺といふ所あり。えもいはず大きなる石の、四方(よはう)なる、中に穴のあきたる、中よりいづる水の、清く冷たきこと限りなし。」

 

という記述があり、この岩壺が駒門風穴だと言われているから、そのあたりに関山駅があり、横走りの関があったことくらいだ。

 その駒門風穴の方へ最短距離で直進するとなると、この道がちょうどいい。ちなみに、定規でこの線を逆に引っ張るとエヌビーエスの本社・工場の裏を通って有闘坂の上の稜線に出る。

 しばらく平坦な長閑な道が続く。左右は緩やかに下り坂になっているので、ここがなだらかな稜線だということがわかる。左には箱根金時山などの足柄の山々が見える。御殿場プレミアム・アウトレットの観覧車も見える。

 右側に水神宮の石塔があり、その奥に十王堂というのがあった。冥土で死者の生前の罪を裁く十柱の王様がいるらしく、その五番目は有名な閻魔様だった。

 やがて道は左にカーブしゆるやかな坂道を降りてゆき、その先に踏切がある。その途中には道祖神塔、庚申塔、馬頭観音塔などがある。

 推定した道路からやや東にずれてしまったため、線路に沿って西へ、隣の踏切まで行く。ここから南西へ行くと鮎沢川の横に出る。このあたりに東田中浅間神社があった。平成14年銘の狛犬がある。ここにも双体道祖神塔がある。今日は道祖神によく出会う。

 ここから南西に行く道はなく、西に大きくずれて南へ向かう。細い道で、ここにも双体道祖神塔が並び、ワンカップ大関が供えてある。

 そしていきなり郊外型店舗の並ぶ広い道に出る。国道138号線だ。

 東田中二丁目交差点を曲がり、住宅地の中に入る。その先に藍澤神社があった。藤原宗行を祭った神社らしいが、初めて聞く名前だ。説明板によれば、承久の乱で後鳥羽上皇とともに戦ったが敗れ、京より鎌倉に護送される途中この地で亡くなったという。1221年頃、このあたりに街道が通ってたということだろう。

 この後市街地を南西の方へと進むのだが、方向感がうまくつかめず、広い道に出たと思ったらいつの間にか御殿場インターの前に出ていた。そうこうしているうちに東名高速の脇に出る。南西ではなく南東に進んでいたようだ。東名高速に沿って進み、マックスバリュの所で曲がってゆくと、今度は大きく西の方にそれてしまう。

 結局御殿場線の線路を越え、県道394号線に出る。ここに永原大神宮がある。天照大神を祭る伊勢社系の神社のようだ。

 県道394号線も地図で見るとかなり直線的に見える。岩波駅のあたりで246号線に合流し、すぐに深良上原でまた分かれるが、ここから先の道はもともと246号線の旧道だったという。ここも古代東海道の候補地の一つと言えよう。

 今回は御殿場市を斜めに横切って、駒門風穴を通るルートを選んでいる。このあたりに道路遺構は発見されていないからまったくの推測にすぎない。

 再び東名高速に近づいた所で右斜めに入る道がある。この道は、アイリスオーヤマや株式会社エヌビーエスの先から御殿場市に至る深沢を南西に進む道とうまくつながる。

 右側に天王神社が見えるその先で国道246に合流する。すぐに左に行く旧道があり、橋を渡ると大六天宮神社の前に出る。ここに柴怒田(しばんだ)というバス停がある。柴怒田という地名はここより遥か北の国道138号線の方にもあるが、本来大六天宮神社はこの柴怒田にあったものの、1707年の宝永の噴火の時火山灰に埋もれ、村民13戸がこの地に移住してきて再建したものだという。それでバス停も柴怒田だったのだろう。国道138号線は鎌倉往還とも呼ばれ、駿河から甲斐へゆく駅路もこのあたりではなかったかと言われている。

 国道138号線の方の柴怒田が甲斐へ行く道と足柄へ行く道との分岐点だったという説もある。これだと、竹之下からほぼ真西へ向かい、柴怒田でほぼ真南に直角に曲がっていたことになる。

 この大六天宮神社には平成20年銘の狛犬があり、木に描かれた恵比寿さんの像がある。

 駒門風穴はここからほぼ真南にある。大六天宮神社から南に行くと東名高速の矢場居橋に出る。思えば仕事で静岡方面に行く時、何度やばい橋を渡ったことか。

 ここから先は246の広い通りを行くことになる。

 セブンイレブンの隣にスマル食堂があった。静岡県内ではよく目にするチェーン店だがまだ入ったことないので、今日はラーメンでなくここで昼食にした。

 スマル食堂の横には小さな鳥居があり、社がある。その前には「駒止め石」という岩があり、源頼朝が富士の巻狩りのときに馬を止めた石だという。

 サークルKのある久保前の交差点で246は右に緩くカーブしてゆくが、そこを直進する道を行くと駒門風穴の前へ行く。おそらくこのあたりに関山駅があったのだろう。畑と大きな農家の混在する中を行くと、左に少し入った所に駒門風穴がある。

 駒門風穴の入口には鳥居があり、そこで入場券を買う。中へ入ると大きなくぼみがあって、そこに洞窟の入口がある。入口の右上の方に社が三つ並んでいる。

 洞窟の中の電気は最小限にしているのか、かなり薄暗い。足元も舗装せずに溶岩のままになっているので、ごつごつしている。季節柄、洞窟の中はひんやりとはしていない。かといって暖かくもなく、外の温度に近い。蝙蝠はいなかった。結構奥行きがあった。『更級日記』には「中よりいづる水の、清く冷たきこと限りなし」とあったが、水は洞窟の中にはなく、外に涌き水の飲めるところがあった。 駒門風穴に着いたのが13時55分。足柄駅をスタートしたのは8時半だが、竹之下一里塚の方へ寄り道したから、足柄を出たのは実質的には9時半だとすると、


ここまで4時間半。前回大雄山を出たのが9時くらいで足柄に着いたのが14時だとすると、古代東海道の坂本駅から関山駅までの所要時間は9時間半ということになる。結構この一駅は長い。『更級日記』だと、「まだ暁より足柄を越ゆ」とあるから、朝の5時くらいに出発したか。そうすると「からうじて越えいでて、関山にとどまりぬ」とあるが、実際には十分明るいうちに関山に着いて、ゆっくり岩壺(駒門風穴)を見物できたのだろう。

 駒門風穴をあとにして、更に南へ行くと自衛隊の駒門駐屯地の前に出る。中には入れないので、西側246側を行く。外からでもシートを被った夥しい数の戦車が見える。日本にもこんなに戦車があるのか。そういえば駒門風穴にいた時から富士山の方で、例の爆音が聞こえていた。

 

 寒空に富士の巻狩りまだ止まず

 

 駐屯地の横を抜けると246の下をくぐって反対側に出る。このあたりから246は長い下り坂になる。左側の久保川との間にはかなりの高低差がある。この辺が溶岩台地の端っこになるのだろうか。そうなると、古代東海道はもう少し上の方で久保川を越えたのだろう。もっとも、長い年月の間に久保川の流れも変わってしまったのかもしれないが。

 ここから先は取りあえず246を歩き、今日の終着点の岩波駅に向かう。岩波の交差点を左に曲がると久保川と合流した黄瀬川を渡るが、このあたりだとあまり高低差はない。すぐに岩波駅に到着し、今日の旅を終える。15時5分。

 さて、何かお土産を買わなければと、さっきから気になってたのは御殿場高原時之栖(ときのすみか)の御殿場高原ビールの看板で、県道394号線を北に戻ることになるが、とにかく行ってみた。結構遠かったし、入り口がわからず神山復生病院の方まで行って、通り抜けられなくて戻ったりしたから、何のかんのいって1時間近くかかってしまった。

 既に薄暗くなる中、イルミネーションの明かりがともっていた。イベント広場では犬の玉乗りショーをやっていた。無事に御殿場ビールを買って、帰りは旧道を通って帰った。矢倉沢往還の駿河側の旧道はこのあたりを通っていたようだ。日は既に沈みかかっている。

 

 

 冬残照、銅の輝き道祖神

1月10日

 在特会vsしばき隊。はたから見てこんなに面白いものはない。

 2chでスレが立っていたが、

 

「Masayuki Kusakabe

‏@pfd1212

ヘイトスピーチ、ハラスメントとして通報しました。」

 

というそのヘイトスピーチとやらがこれらしい。

 

 

「慰安婦問題の日韓合意に絶対反対します!

 平成27年12月28日、それまで日韓で論争のあったいわゆる従軍慰安婦問題について電撃的な合意を両国政府が行いました。ソウルで行われた記者会見で岸田文雄外務大臣は「当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。」とし「慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する。」と謝罪しています。またこの合意に基づいて凡そ十億円におよぶ国税が元慰安婦のために使われると発表しました。

 一部安倍政権を熱狂的に支持する人たちからは「強制連行を認めたものではない」「賠償ではない」などの声が聞こえますが、であれば何故「苦痛を与え、癒しがたい傷を負わせた」として謝罪する必要があるのでしょうか?そして当時合法的かつ正当な商取引として行われた慰安婦家業について、最前線に出張っていれば当然軍も関与するでしょう。しかし今回の合意で海外へのプレスリリースとして「日本軍の強制連行に基づく性奴隷に対して日本政府が謝罪した」と流されており、この事実は動かしがたいものとなりました。

 先人の名誉に傷をつけ、それも保守本流を自称する政党のトップが行い、のうのうと生きていくなど保守のやるべきことではありません。どんなに苦しくても先人の名誉だけは守ってあげるのが保守たる者の務めではないでしょうか?ここで集まった署名を政府に届け、謂れなき謝罪を行い先人の顔に泥を被せ、さらに国民の血と汗と涙の税金を使うなどの日韓合意に反対を表明したいと思います。」

 

 どこにも特定民族に対する差別や憎悪を煽る表現は見られない。単純に慰安婦問題に対する一つの見解を表明しているだけで、もちろんその主張には賛否両論あるだろうけど、これが「ヘイト」なら、慰安婦問題に関して自由な発言は許されないということになる。

 その、当の本人の発言として、

 

「Masayuki Kusakabe

@pfd1212 最前線に「売春婦」が軍の管理下で置かれるとか、それがどんだけ異常かも分かんねえヘイト豚は死ね。」

 

とあるから、誰が見てもこっちの方が「ヘイト」だと思うだろう。

 この背景にあるのは、日本人が韓国人に対して何らかの意見を言うことが既に「ヘイト」であり、韓国人が日本人に対して「豚」だとか「死ね」とかいっても「ヘイト」ではないという思想だ。

 ちなみにもうすぐ可決するといわれている大阪の「大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例案」には、

 

 「1 「ヘイトスピーチ」とは、次に掲げる要件のいずれにも該当する表現活動をいう。

 ⑴ 次のいずれかを目的として行われるものであること(ウについては、当該目的が明らかに認められるものであること)

 ア 人種又は民族に係る特定の属性を有する個人又は当該個人の属する集団(以下「特定人等」という。)を社会から排除すること

 イ 特定人等の権利又は自由を制限すること

 ウ 特定人等に対する憎悪若しくは差別の意識又は暴力をあおること

 ⑵ 表現の内容又は表現活動の態様が次のいずれかに該当すること

 ア 特定人等を相当程度侮蔑し又は誹謗中傷するものであること

 イ 特定人等(当該特定人等が集団であるときは、当該集団に属する個人の相当数)に脅威を感じさせるものであること

 ⑶ 不特定多数の者が表現の内容を知り得る状態に置くような場所又は方法で行われるものであること

 

とある。在特会の発言に、これに該当するような表現は見られない。

 この条例案ではヘイトスピーチの対象が「人種又は民族に係る特定の属性を有する個人又は当該個人の属する集団」と定義されている。ここにはマジョリティーかマイノリティーかが特定されていないので、「日本人」もまた特定人と拡大解釈することが可能になる。また同和問題に関しては果たしてそれが人種や民族なのか微妙な問題を残している。逆にうちなんちゅーに関しては、知事が先住民族だと主張しているから、特定人に該当することになる。もちろん、共産党員のような単なる思想信条によるマイノリティーは対象にならない。

 実際外国人が多数派を占める地域が存在して、そこから日本人が排除されるような事態が起きたとしたら、こうした拡大解釈が必要な場合も生じるであろう。今現在ではありえないとしても、将来的に移民を多数受け入れたりすれば起こりうることではある。

 ウクライナのようなある地域にロシア人が多数居住してたりすれば、そこに住むウクライナ人が排除されるような事態は当然起こりうる。

 マジョリティーかマイノリティーかは相対的なもので、韓国へ行けば当然日本人の方がマイノリティーになる。国内でも、地域的にはこういう逆転がいつでも生じうる。

 

 そういうわけで、これからも在特会、しばき隊、どちら様も世間を笑かして下さい。

1月7日

 このごろ歳のせいか、くしゃみをすると喉に何か引っかかったようになり、声が出なくなることがある。そこで何度も咳払いしたりするのだが、この歳になってようやく何でくしゃみした後「畜生」と言ったりする人がいるのかわかったような気がする。あれは多分声を直していたのだろう。

 地方によっては「畜生」ではなく、「鍬担ぐ」と言う所があると前に聞いたことがある。「はっくしょん」が「ひゃくしょう」に似ているから、「百姓鍬担ぐ」になるのだという。これはひょっとして、伊勢の中川乙由の、

 

 百姓の鍬かたげゆく寒さかな  乙由

 

から来ているのだろうか。

1月3日

 別に毎年恒例というわけではないけど、3年連続で3日に東海道の旅の続きをすることとなった。今日は由比スタート。

 朝5時に家を出て、由比到着が8時6分。さすがに遠くなった。

 天気は良く、暖かい。富士山は雪が少なく、黒っぽく見える。

 去年見た桜海老のゲートを背にして歩道橋を渡り、薩埵峠へ続く旧道に出る。街道の風情を残した静かな道だ。

 少し行くと右側の坂道の向こうに宗像神社の鳥居と大きな幟が見える。坂道の右側にはプールがある。岡崎型のやや古めの狛犬がある。首には注連縄が巻かれている。銘は読みにくいが昭和3年だろうか。隣になぜか相撲の軍配をかたどったものが立っていて、台座には相撲場跡と書いてある。かつては境内に土俵があったのだろう。

 またしばらく街道の面影を残す路地が続く。家が少し途切れた後、再び家が並びだしたあたりの右側にまた鳥居がある。幟には八阪神社と書いてある。「八坂」ではない。ここにも岡崎型の狛犬がある。さっき見た宗像神社の狛犬と兄弟なのか。台座の銘の文字も同じで読みにくいが、これも昭和3年か。石段は急で下る時はかなり恐い。

 この先には山が迫った所があり、その中腹に神社の屋根が見える。これはいつも仕事で清水や静岡に向かう時に目にしてた見覚えのあるもので、ここまで来たかという感じだ。鞍佐里神社という幟が立っている。登ってゆくと、確かに大きくはないが立派な拝殿だ。左側に更に登ってゆく道があり、そこには石祠が並んでた。狛犬はここも岡崎型で銘はわからなかった。三兄弟なのか。

 ふたたび街道に戻って少し行くと、右側に細い急な登り坂が見えてきた。これより薩埵峠の道に入る。ここに倉沢の一里塚の碑があったらしいが見落とした。後でグーグルストリートビューで見たら、ちょうど道を曲がる時に建物の影になって見えなかったようだ。

 ここからしばらく車がやっと通れるくらいのアスファルトの登り坂が続く。時折視界が開けふりむくと富士山と駿河湾が見える。下には東海道線と国道1号線と東名高速が並行して走っている。東名高速には小さなサービスエリアがあり、その先で1号線の上を交差し、トンネルに入る。このあたりから蜜柑の木が多くなる。蜜柑を収穫するためのモノレールのトロッコがあったりする。

 やがて道路の右側に膨らんだ所に最初の薩埵峠の碑がある。最初のと言うのは、この先もいくつか薩埵峠の碑があるからだ。どこが本当の薩埵峠かというと、多分このあたりが全部薩埵峠なのだろう。道が大きくカーブし、駐車場とトイレのあるところに出る。ここにも薩埵峠の碑がある。蜜柑が一袋100円で売ってたので、お土


産に買ってゆくが、こうした無人販売の蜜柑はこの先至る所で見ることになる。

 この先は未舗装の道になる。咲いている梅の木があり、道の両脇には水仙の花が咲いている。去年一昨年と水仙がもう咲いているという所で写真に撮ったりしたが、今年は暖かくて家の周りでも咲いているから珍しくはない。

 しばらく景色の良い所が続いた後、道は急に切り通しの下り坂になり、そこをぬけると広い道路に出、あっという間の下界だ。

 このあたりで旧東海道は大きく内陸を迂回する道筋になっている。田子の浦のようなかつて入り江があったのかと思ったら、ここでは山を回避しての迂回路だった。その山にも神社があった。白髭神社で昭和12年銘の狛犬がある。これともう一つ、手水場の前に仲良く正面を向いた狛犬がある。

 白髭神社の手前を右に曲がりしばらく広い道を行った後、左に入る道がある。ここを降りてゆくといかにも旧街道らしい路地に出る。それもそう長くはなく、普通の道路に出て海の方へ向かう。

 やがて前に東海道線のガードが見えてくる。その手前に川越遺跡と書いた説明書きがある。興津川には橋はなく、連台や肩車で渡ったようだ。今は橋があるので、東海道線のガードをくぐり、そこを渡る。

 橋に出ると見覚えのある駿河健康ランドの建物が見える。これも一号線で東海道を下る時におなじみのランドマークで、これが見えると清水はすぐだ。

 橋を渡ってすぐ右側の狭い道を行くと、その向こうに東海道の旧道がある。県営団地があり、その先でバイパスでない方の一号線に合流する。

 ここから先はしばらく一号線を行くことになる。

 右側にまた宗像神社がある。ここにも昭和8年銘の古い岡崎型狛犬がある。

 その先には、身延道の分岐点の石塔がある。このあたりからが昔の興津宿で、興津宿公園がある。清見寺があり、このあたりに古代の清見が関があったとされている。この西側に古代の息津(おきつ)駅があったという。

 古代東海道はJR東静岡駅の駅前を開発する際に発見された曲金北遺跡で、幅9メートルの道路遺構が新幹線の線路と平行に走っているのが発見され、丸子宿入口あたりからこの清見寺のあたりまで一直線の道が存在したことが想定されている。ただ問題は薩埵峠のあたりをどう越えたかだ。いまの薩埵峠の道は近世のもので、それ以前は波の打ち寄せる海岸を通る難所だったと言われている。あるいは海に出て船で越えたのかもしれない。今でも東海道線と国道一号線は海岸に張り付くように走っているが、それも1854年の安政東海地震の時に隆起した結果だと言う。

 この先には高山樗牛假寓之處の碑がある。名前は聞いたことがあるが何した人だっけ。以前家で生まれたぶち猫に樗尾(ちょび)という名をつけたことはあるが。

 一号線静清バイパスをくぐり橋を渡り東海道線の線路を越えると延命地蔵堂がある。その先には東光寺がある。古代道路のあるところに東光寺ありか。すぐ後ろを新幹線が通っているから、古代東海道もこのあたりを通っていたのだろう。

 しばらく行くと開いている酒屋があった。お土産に臥龍梅の純米吟醸生貯原酒を買った。

 袖師には小さな馬頭観音の社があった。そういえば今日は道祖神を見ていない。こちらのほうだと文化圏が違うのか。どうやら道祖神塔があるから狛犬が浸透しなかったというわけではないようだ。神社の前に単体道祖神塔がなくても、やはり狛犬はなかった。

 そういえばこの前久しぶりに駒込富士神社に行った時、前には気がつかなかったのだが、石段の右側に単体道祖神塔があった。

 辻町の交差点には何があったのか知らないが消防車が止まっていた。ここが一号線と旧東海道の分岐点になる。ここには細井の松原の跡と無縁さんの碑がある。

 やがて住所が江尻東になる。昔の江尻宿も近い。左側に神社があるので行ってみる。伝馬町荒神社という説明板が立っているので、昔は伝馬町だったのか。紀元2600年銘の狛犬と鳥居がある。ここで正午を告げる音楽を聴く。

 神社を出ると、国道の方にラーメン屋が見えた。ちょうどいい。みなと屋麺神という店で、しお助という塩ラーメンを食べた。透き通ったスープは上品な味でなかなか貴重だ。

 旧街道に戻り、郵便局の先を右に曲がる。ここが江尻宿の中心だったようだ。正月で開いている店も少なく静かだ。くじらのオブジェがある。

 突き当たりに魚町稲荷神社があった。境内でまず目に付くのがサッカーボールのモニュメントで、日本少年サッカー発祥の碑と書いてある。さすがサッカーの本場だ。神社の横が公園になっていて、子供がサッカーをしている。お狐さんもなかなか味のあるもので、尻尾が垂れて台座に掛かっている。

 神社を出るとすぐに稚児橋、河童の飾りがついている。

 江尻宿を出るとしばらく清水市街地の中を行く。踏切を越えると上原堤という池があり、その向こうにイオンがある。このあたりで建物の切れ間から富士山が見えた。仕事で清水や静岡に行った時にはあまり富士山を見たという記憶がないが、富士山が見えないのは建物が多いからで、昔はどこからでも見えていたのだろう。池の所で道がカーブし、その先では背中に富士山を見ながら歩くことになる。

 やがて県道の広い通りに出る。このあたりから住所は草薙になり、草薙一里塚の碑がある。その先には大きな鳥居があり草薙神社とあったが、神社は見えない。ここから1キロくらいあるようなので行くのはやめた。

 草薙駅前の交差点を左に曲がり、一本裏の道に入る。こっちが旧道らしい。

 東名高速をくぐるとしずてつストアがあり、ここで静岡の酒、純米しぼりたて喜平を買った。

 草薙球場のところで突き当たり、ここを右、県道を越えてすぐに左に入る。道はJRの線路に沿って曲がってゆくが、そこに旧東海道記念碑がある。ここで旧東海道が線路に遮られててしまったことの記念碑のようだ。

 ここから線路を渡るには、一番近いのが地下道だが、これが車がすれ違えないくらい狭い上に歩道がない。車が終始クラクションを鳴らしながら通ってゆく。

 地下道を抜けて少し行くと右に斜めに入る道があり、これがさっきの道に続く旧東海道だ。この道もすぐに国道1号線に遮られる。長沼の交差点の所で右斜めに入る旧道へと続く。

 このあたりで寄り道して東静岡駅に向かう。曲金北遺跡のあったところを見に行くためだ。

 東静岡駅は新しい駅で広々としている。駅前には新しい立派なビルが建っている。

 線路の向こう側に出ると、着物着た人がたくさんいた。静岡県コンベンションアーツセンターで成人式をやってるようだ。この建物の横の線路側の歩道が曲金北遺跡で幅9メートルの道路遺構が発見された場所のようで、説明板があった。

 東海道の旧道に戻るとしばらく静鉄の線路沿いを行く。踏み切りの向こうに大きな神社がある。護国神社で、初詣の人でにぎわっていた。

 国道1号線に戻ると、ここからも富士山が見える。線路をくぐってすぐ右へ行く。このあたりの旧道は線路と国道1号線に至る所で分断されていてわかりにくい。地図が手放せない。また線路と国道を越えると伝馬町通りの商店街になる。ここに恵比寿さんを祭った西宮神社がある。この先は静岡市の中心部で人通りも多くなかなかにぎやかだ。

 江川町の交差点で今日の東海道の旅を終える。これまでは寂れている町をたくさん通ってきたが、ここはにぎやかで都会を感じさせる。日は傾いて薄暗くなり明かりがともると、横浜駅周辺を歩いているような気分になる。

 さて、最後の寄り道で、めざすはアオイブリューイング。開いているかどうかわからなかったが一応行ってみることにした。

 江川町を駅と反対側に、静岡浅間神社の方に向かった。駿府城のお堀と石垣の横を通り、中町から浅間神社の参道の商店街になる。ここも結構にぎやかだ。行列のできているどら焼き屋がある。

 幸いアオイブリューイングのビアガレージは営業していて、コの字型のカウンター席にすぐに座れた。サブテルIPA改とほんのりお茶エールを飲んだ。はるばる由比から30キロの道のりを歩いてきたのだから、これくらいのご褒美はあって良いだろう。

 このあと浅間神社を参拝した。ここも初詣の人でにぎわっていた。


1月1日

 柿生琴平神社に初詣に行った。朝の9時だが人は多かった。多分数年ぶりかでおみくじの大吉を引いた。去年もホームページが消えたり株が暴落したり(実際は新興国通貨の下落の方が響いたが)だったが、今年は何かいいことあるかな。

 戦豆猿まわしのめぐみるくが来ていた。小さなお猿さんが正月から働いていた。今年は忙しいかな。