芭蕉発句集二

     ──野ざらし紀行の旅から笈の小文の前まで──

呟きバージョン


 芭蕉の句を芭蕉になり切った形でツイッターで呟いたものをまとめてみた。

 出典や参考文献などは省略しているので、歴史小説のような半分フィクションとして読んでほしい。

 芭蕉を小説に登場させる時の参考にでもしてもらえればいいと思う。

野ざらし紀行の旅

 

 野ざらしを心に風のしむ身哉

 

 今の多くの俳諧師は都市に定住して、そこで弟子を集めて点賃取って生活してる。でも今は隠居の身で自由がある。

 ならば、連歌師のように旅をしながら行く先々で興行して歩くという活動スタイルもありではないか。

 元来持病持ちでいつ死ぬともしれぬ身。自由に生きてみたい。

 それにあの句はもう完成した。確かな手応えだ。

 だが、普通に発表して面白くない。

 あの句を世間に強く印象づけるには物語が必要だ。

 旅に出て、旅路の果てに掴み取った新風、その物語は絵巻物にするのも良いかもしれない。

 その時までに中京から上方まで広く名を売っておく必要もある。

 母の死で帰郷しなくてはならない事情もあるし、伊勢の風瀑の所へも訪ねて行きたい。そういう諸々の事情もあっての貞享元年八月の旅立ちの句。

 

註、後にまとめられた『野ざらし紀行』には、

 

 「千里に旅立て、路粮(みちかて)をつつまず、(さん)(こう)月下(げっか)無何(むか)(いる)と云いけむ、むかしの人の杖にすがりて、(じょう)(きょう)甲子(きのえね)秋八月江上(こうじゃう)()(おく)をいづるほど、風の声そぞろ寒気なり。」

 

とある。この文章の言葉は『江湖風月集』(憩松坡(けいずんば)撰)の偃渓広聞(えんけいこうぶん)和尚(おしょう)の詩に

 

   褙語録        三山偃溪廣聞禪師
 路不賚粮笑復歌 三更月下入無可
 太平誰整閑戈甲 王庫初無如是刀

   語録の表装に
 食糧を持たずに笑って歌い道を行けば、
 真夜中の月の下で無何有の郷に入る。
 平和な世の中に誰がしまわれた武器防具を整えたりするだろうか。
 君子の倉庫には初めから刀のようなものはなかった。

 

とあるのが元になっている。

 

 

 秋()とせ(かへ)て江戸を(さす)古郷(こきゃう

 

 伊賀から江戸に出たのが寛文12年で今から12年前。

 一度伊賀に帰ったのが延宝4年で今から8年前。

 まあ、細かいこと言わずに10年ということにしておいて。

 最初の2年はバタバタして俳諧どころではなかったし、延宝2年に季吟師匠からのお墨付きを頂いて、ようやく俳諧師として一歩を踏み出したから。

 

 

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

 

 貞享元年、母の死を知って帰省するついでに俳諧を通じて知り合った人達を訪ねて上方方面の大掛かりな旅をしようと思った。

 箱根を越える時は霧に包まれて、何も見えない中を馬で越えた。

 まあ、いつ霧が晴れて富士が見えるかとワクワクするのも良いもんだ。

 

註、『野ざらし紀行』には、「関こゆる日は雨(ふり)て、山皆雲にかくれたり」とある。

 

 

 猿を聞人(きくひと)捨子に秋の風いかに

 

 富士川の河原で捨子を見た。

 もっとも捨子を見たのは初めてではないし、どうしようもないのもわかっている。

 前に、

 

 霜を着て風を(しき)()の捨子哉

 

の句を詠んだこともあったっけ。

 猿の声に悟りを開いたという広聞(こうもん)和尚(おしょう)なら、何かいい答えがあるだろうか。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、(あはれ)()に泣くあり。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露ばかりの命待つまにと、(すて)置きけむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝ちちに(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の(さが)のつたなきをなけ。」

 

とある。

猿を聞く人の広聞和尚の詩には、

   越上人住菴     三山偃溪廣聞禪師
 越山入夢幾重重 歇處應難忘鷲峯
 後夜聽猿啼落月 又添新寺一樓鐘

   (えつ)上人(しょうにん)の住む庵
 越の国の山は果てしない夢のように幾重にも重なりあい、
 休むところはまさに釈迦の説法した霊鷲山をいやでも思い起こさせる。
 夜明けに猿が、沈んでゆく月に向かって次々に鳴き出すのが聞こえる。
 それに寄り添うかのように新しい寺の鐘が鳴り響く。

 とあり、『江湖集鈔(こうこしゅうしょう)』には、「霊隠でさびしき猿声を聞きぬ鐘声を聞たことは忘れまじきそ。猿声や鐘声は無心の説法に譬るそ。無心の説法を聞て省悟したことは忘れまじきそとなり。」という註がある。

 

 

 道のべの()槿(くげ)は馬にくはれけり

 

 富士川の捨て子を見て気分がどよんとしてた時、街道で自分が乗ってる馬が、道に脇に咲いていたムクゲの花を食ってしまった。

 槿花一日自為榮と言われているムクゲも、その短い天寿を全うすることなく馬に食われてしまった。

 でも、馬が悪いわけではない。生きるというのはそういうことなんだ。

 この句では用いたが、「けり」という切れ字は言い方が強すぎて、使うのが難しい。

 発句は基本挨拶で「涼しいね」とは言っても「涼んだな」ではぶっきらぼうだ。

 「けり」は取り返しのつかない断定なので、相手に有無を言わせないが、逆にどうしようもない事実なんだという時は効果的になる。

 

註、『野ざらし紀行』には「馬上吟」と前書きがある。

 

 

 馬に()残夢(ざんむ)月遠し茶のけぶり

 

 大井川の川止めで島田宿に一日足止めされて、川止めが解除されたのは翌日の夕方だった。

 とりあえず菊川間宿まで行って、翌日は遅れを取り戻すべく、まだ真っ暗なうちに小夜の中山を越えた。眠かった。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「 二十日余(はつかあまり)のつきかすかに見えて、山の根際(ねぎは)いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。杜牧(とぼく)が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚く。」

 

とある。

この文章は、杜牧の『早行』という詩を出典としている。

 

    早行
 
 垂鞭信馬行  数里未鶏鳴
 
 林下帯残夢  葉飛時忽驚
 
 霜凝孤鶴迥  月暁遠山横
 
 僮僕休辞険  時平路復平

 

  鞭を下にたらし、ただ馬が行こうとするがままにまかせ、
 
 数里ほどやって来たのだが、未だ鶏鳴の刻には程遠い。
 
 林の下に明け方の夢の続きをぼんやりと漂わせていたのだが、
 
 落ち葉の飛び散る音にはっと驚き目がさめた。
 
 降りた霜がかちんかちんに固まり、ひとりぼっちの鶴がはるか彼方に見え、
 
 暁の月は遠い山の端に横たわる。
 
 召使の男はけわしい顔をして休もうと言う。
 
 それもいいだろう。時は平和そのもので、道もまた同じように平和そのものだ。

 

 

 あけゆくや二十七夜も三かの月

 

 貞享元年に伊勢へ舟で渡った時の句だったか。

 東海道の吉田宿からは豊川を下り、三河湾から伊勢湾へ出て伊勢白子へ行く船が出ている。

 伊勢への近道になるし、尾張国を出禁になった場合も抜け道になる。

 三日月は(おぼろ)(ほの)かを本意とするが、詞花集(しかしゅう)の、

 

 三日月のまた有明になりぬるや

    憂きよを廻るためしなるらむ

          藤原(ふじわらの)(のり)(なが)

 

のように、三日月がやがて有明に変わり月日は廻るというパターンもあった。

 有明も二十七夜になれば逆三日月になる。

 月末の逆三日月は末の三日月という言葉もある。

 

註、貝原益軒の『東路記』に、「吉田の川より船にのり、伊勢の白子にわたる。」とあり、このルートの存在が知られる。

 芭蕉のこの時の日程からして、船で近道をした可能性が十分にある。

 

 

 みそか月なし千とせの杉を(だく)あらし

 

 正確には829日だった。小の月でも月末は習慣で晦日(みそか)と呼んでた。

 なぜこんな月のない日に、それも嵐の夜に参拝に行ったかって?

 それは内緒。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「松葉屋風瀑(まつばやふうばく)が伊勢に有けるを尋ね音信(おとづれ)て、十日(ばかり)足をとどむ。腰間(ようかん)寸鐵(すんてつ)をおびず。襟に(いち)(のう)をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て(ちり)(あり)。俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。
 
 暮て外宮に詣で侍りけるに、一ノ華表(とりい)の陰ほのくらく、御燈(みあかし)処々に見えて、また上もなき峯の松風、身にしむ計、ふかき心を起して」

 

とある。

 

 

 (いも)洗ふ女西行ならば歌よまむ

 

 西行法師が隠棲していたという西行谷は神宮の南側だという。行くと里芋を桶に入れて棒でかき混ぜて洗ってる女性がいて、今どきの髷を結った女ではなく、髪を下ろした古風な姿だった。

 

 (しづ)()がすすくる糸にゆづりおきて

    思ふにたがふ恋もするかな

          西行法師

 

の歌があるなら、芋洗う女の歌があってもいいだろう。

 里芋は泥を落とすのに籠に入れて川の水に浸し、棒でかき混ぜる。西行谷でなくてもどこでも見られるありふれた光景だが。

 

註、『野ざらし紀行』には、「西行谷の麓に流れあり。をんなどもの芋あらふを見るに」とある。

 

 

 (らん)()やてふの(つばさ)にたき物す

 

 伊勢の茶屋にお蝶さんという奥方がいて、ここの主人は代々自分とこの遊女を娶ってるという。

 先代の妻のお鶴さんは梅翁さんも気に入ってたが、先代がお鶴さんと結婚したのを残念がって、

 

 蔦の葉のおつるの恨み夜の霜

 

の句を詠んだという。

 才気溢れる遊女だったんだろうな。

それが年とってもう商品にならないからと言って手を出して、ちゃっかり自分の物にしたここの主人。そりゃ恨むよな。

 商品に手を出して怪しからんというのもわかるが、別に遊女に思い入れはないので、ここは貞淑な蘭に喩えて祝福しておく。

 梅翁は恋句ばかりの独吟恋百韻を巻いた人で、その引き出しの広さは凄いと思った。(みなし)(ぐり)では晋ちゃんと嵐雪が両吟恋歌仙にチャレンジしたが。

 蘭は別名藤袴とも言う。花は匂いがないが乾燥させると良い香りになる。

 

 秋風にほころびぬらし藤袴

    つづりさせてふ蟋蟀(きりぎりす)なく

          在原(ありはらの)棟梁(むねはり)

 

の俳諧歌は俳諧の原点と言って良い。

 これと中国の貞節の象徴の蘭は別物らしい。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

「其の日のかへさ、ある茶店に立寄りけるに、てふと云ひけるをんな、あが名にほっくせよと云ひて、白ききぬ出しけるに書付(かきつけ)(かきつけ)侍る」

 

とある。

 また、土芳の『三冊子』には、

 

 「此の句ハ、ある茶店の片はらに道やすらひしてたたずみありしを、老翁を見知り侍るにや、内に(しょう)じ、家女(かじょ)料紙(りょうし)持ち出て句を願ふ。(その)の女のいはく、我は此の家の遊女なりしを、今はあるじの妻となし(はべ)るなり。先のあるじも、鶴といふ遊女を妻とし、そのころ、難波の宗因、此処(このところ)にわたり給ふを見かけて、句をねがひ請いたるとなり。(れい)おかしき事までいひ出て、しきりにのぞみ侍れば、いなみがたくて、かの難波の老人の句に、葛の葉のおつるの恨夜の霜、とかいふ句を前書にしてこの句(つかは)し侍るとの物がたりなり。老人の例にまかせて書き捨てたり。さのことも侍らざればなしがたき(こと)なりと云へり。」

 

とある。

 

 

 (つた)(うゑ)て竹四五本のあらし哉

 

 貞享元年伊勢へ行った時に廬牧という人の隠居所を訪ねた。

 蔦の絡まる壁に竹が四、五本あるだけの小さな庭があって、市中にあっても気分は竹林の七賢だ。

 夫木抄(ふぼくしょう)読人(よみひと)不知(しらず)の、

 

 我が宿のいささ(むら)(たけ)吹く風の

    音のかそけきこの夕べかな

 

の歌を思わせる。

 

註、『野ざらし紀行』には、「閑人(かんじん)茅舎(ぼうしゃ)をとひて」とある。

 

 

 手にとらば(きえ)んなみだぞあつき秋の霜

 

 貞享元年の帰郷は、亡くなった母の形見の白髪との対面になった。

 死に目に会えなくてごめんな。親不孝を許してくれ。

 これが都会で流行の長発句だ。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「長月(ながつき)の初め、古郷(こきょう)に帰へりて、北堂の萱草(かんぞう)も霜枯れ果てて、今は跡だになし。何事も昔に替はりて、はらからの(びん)白く、眉皺寄りて、ただ命有りてとのみ云ひて言葉はなきに、このかみの守袋(まもりぶくろ)をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやや老いたりと、しばらくなきて」

 

とある。

 

 

 わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

 

 貞享元年の秋、江戸からずっと同行していた千里(ちり)の故郷の大和国竹内に行った。

 この頃はあちこちで綿花の栽培が盛んになって、大和国竹内の辺りもそうだった。

 綿をほぐす綿弓の音がぶんぶんと聴こえてきて、この音も隠士の耳には琵琶の音に聞こえるのだろうか。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

「大和の国に行脚して、(かつげ)の郡竹の内と云ふ処に、かのちりが旧里(ふるさと)なれば、日ごろとどまりて足を休む」

 

とある。

 また、真蹟『竹の奥』に、

 

 「大和国(やまとのくに)竹内(たけのうち)と云ふ処に日比(ひごろ)とどまり侍るに、其の里の(おさ)なりける人、朝夕問ひ来りて、旅の愁を慰みけらし。誠その人ハ尋常(よのつね)にあらず。心は高きに遊んで、身ハ芻蕘(すうじょう)()()の交りをなし、自ら鍬を荷なひて、淵明がそのに分け入り、牛を引きてハ箕山(きざん)の隠士を伴ふ。(かつ)其の職を勤て職に倦まず。家は(まど)しきを悦びてまどしきに似たり。(ただ)(これ)市中に閑を(ぬす)みて、閑を得たらん人は此の長ならん。」

 

とある。

 

 

 冬しらぬ宿やもみする音あられ

 

貞享元年冬。千里の故郷の竹内に近くの長尾の邸宅の主人は、片隅に隠居所を作り庭を綺麗に手入れして、ここを蓬莱山のような不老不死の薬の取れる所にしたいと、ひたすら老いた母を思っている。

なるほどここは仙郷だから冬は来ない。霰の音もきっと籾摺りの音。

 

註、真蹟の『(もみ)する音』に、

 

 「大和国(やまとのくに)長尾の里と(いう)處は、さすがに都遠きにあらず、山里ながら山里に似ず。あるじ心(ある)さまにて、(おい)たる母のおはしけるを、(その)家のかたへにしつらひ、庭前に()(ぐさ)のおかしげなるを植置(うえおき)て、岩尾(いわお)めづらかにすゑなし、手づから枝をたはめ石を(なで)ては、(この)蓬莱(ほうらい)の島ともなりね、生薬(いくぐすり)取りてんよと老母につかへ、慰めなんどせし(まこと)(あり)けり。家貧して孝をあらはすとこそ聞なれ、貧しからずして孝を尽す、古人も難事(かたきこと)になんいゝける。」

 

とある。

 

 

 僧朝顔幾死(いくしに)かへる(のり)

 

 貞享元年の秋、(ふた)上山(かみやま)当麻寺(たいまでら)へ行った時、(ちゅうじょう)(ひめ)が植えたという大きな松の木があった。

 無用の用で斧斤(ふきん)を免れたのではなく、僧たちが仏縁を守ることでここまで大きくなった。 あれからここに住む僧は何代も入れ替わったことだろう。

 松の木の寿命からすれば僧の一生は朝に咲いて昼に萎む朝顔のようだが、朝顔は下から上へと次々と花をつけてゆく。

 荘子の指窮於為薪火傳不知其盡也だ。

 

註、『野ざらし紀行』に、

 

 「二上山(ふたかみやま)当麻寺(たいまでら)に詣でて、庭上(ていじょう)の松をみるに、およそちとせもへたるならむ、大イサ牛をかくすとも云ふべけむ。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤(ふきん)の罪をまぬがれたるぞ、幸にしてたっとし」

 

とある。

『荘子』養生主篇に「指は薪たるを窮むれども、火の伝わるやその尽くるを知らざるなり」とある。

 

 

 (きぬた)(うち)て我にきかせよ坊が妻

 

 花の季節には賑わうという吉野も、晩秋となると寂しげで、宿坊の客もまばらだった。

 白楽天の「琵琶行」の舞台となった

 廬山潯陽の江のほとりもこんな寂しげな所だったか。

 琵琶とまでは言わないが、せめて砧でも打って聞かせてくれ。

 参議(さんぎ)(まさ)(つね)

 

 みよし野の山の秋風小夜(さよ)ふけて

    ふるさと寒く衣うつなり

 

の歌もあるし。

 

註、『野ざらし紀行』には、「ある坊に一夜(ひとよ)をかりて」とある。

 以下は白楽天の『琵琶行』の最後の部分。

 

今夜聞君琵琶語  如聴仙楽耳暫明

 莫辞更坐弾一曲  為君翻作琵琶行

 感我此言良久立  却坐促絃絃転急

 凄凄不似向前声  満座重聞皆掩泣

 座中泣下誰最多  江州司馬青衫濕

 

  今夜は君が琵琶を弾きながらする物語を聞くとしよう。
 
 仙楽を聴いているようで、耳は少しづつさえてくる。
 
 遠慮しないで坐ってもう一曲弾いてくれ。
 
 君のために「琵琶行」という詩に作り直してあげよう。
 
 私がそういうとしばらく立っていたが、
 
 再び坐り直すと絃を促し、激しくかき鳴らす。
 
 凄凄として今まで聞いたのと違う声となり、
 
 満座は重ねて聞いて、皆涙をおおう。
 
 座中で最もたくさんの涙を滴らせたのは、
 
 江州の司馬であった白楽天自身で、その青衫(せいさん)を濡らした。

 

 

 露とく/\心みに浮世すゝがばや

 

 貞享元年に秋の吉野へ行った時に西行が一時期暮らしたという西行庵へ行った。

 西行が、

 

 とくとくと落ちる岩間の苔清水

    汲み干すほどもなき住まいかな

 

と詠んだ清水がそのままあった。その名の通り、とっとっとっとっというか細い流れで、西行法師の頃から変わってなかった

 自分も浮世を捨てた気持ちになって、口でも濯いでみようか。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「西上人(さいしょうにん)の草の庵の跡は、奥の院より右のほう二町ばかりわけ入ほど、柴人(しばびと)のかよふ道のみわずかに有りて、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし、彼のとくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ちける」

 

とある。

 

 

 御廟(ごびょう)()(しのぶ)は何をしのぶ草

 

 貞享元年に秋の吉野に行った時に、如意輪寺の裏に後醍醐帝の御廟があった。

 辺りにはしのぶ草が生えていたが、南北朝の昔を偲んだと思ったでしょう。

でも、後醍醐帝御製の歌に、

 

忍べばと思ひなすにも慰みき

   いかにせよとて漏れし浮名ぞ

 

とあって、実は言うに言われぬ恋心を忍んでいた。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「山を昇り坂を下るに、秋の日既に斜になれば、名ある所々み残して、まづ後醍醐帝の御廟を拝む」

 

とある。

 

 

 木の葉(ちる)桜は軽し(ひの)()(がさ

 

貞享元年、秋の吉野へ行った時の句。

桜の葉も紅葉して既に散り始め、桜の枯れ葉は檜木笠に雪のように積もるでもなく、笠に当たっては落ちて行く。

飛花落葉というが、飛花よりも落葉の方が諦めがつくのかもしれない。

 

註、真蹟詠草の前書きに「吉野の奥に入て」とある。

 

 

 (よし)(とも)の心に似たり秋の風

 

 貞享元年9月の終わり、中山道で関ヶ原を越え、今須宿へ行く途中に山中の里があって、そこに常盤(ときわ)御前(ごぜん)の塚があった。

 俳諧の祖(もり)(たけ)の、

 

   月見てやときはの里へかかるらん

 よしとも殿ににたる秋風

 

の句を思い出し、それを発句に作りなした。「心に」というのが大事。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「やまとより山城を経て、近江路に入りて美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤(ときわ)の塚有り。伊勢の(もり)(たけ)が云ける、よし(とも)殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又」

 

とある。

 

 

 秋風や藪も畠も不破(ふは)の関

 

 貞享元年に近江から美濃へ向かう時に中山道で不破の関を越えた。

 昔の関の影も形もなく、藤原(ふじわらの)(よし)(つね)の歌にもあるように「荒れにしあとは」だった。

 破れてもはだけても不破の関。

 不破の関があったということで、この辺りは関ヶ原という。天下分け目の戦いが二度あったところだ。

 一回目は白村江の戦いに敗れた天智天皇の後継を巡っての大友皇子と大海人皇子の戦いで、二回目は文禄慶長の役に敗れた豊臣秀吉の後継を巡っての石田三成と徳川家康の戦いだった。

 

註、『野ざらし紀行』には、「不破」とのみ前書きがある。

 藤原良経の歌は、

 

 人すまぬふはの関屋のいたびさし
     あれにし後はただ秋の風

          藤原良経(新古今集)

 

 

 しにもせぬ旅寝の(はて)よ秋の暮

 

八月の終わり頃に、

 

 野ざらしを心に風のしむ身哉

 

の句とともに旅立って一月、大垣の木因(ぼくいん)の所に辿り着いた。

 まあ、こうして無事知り合いの家に厄介になると、世は情け、いつ死ぬかもなんて大袈裟に考える必要もなかった。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ」

 

とある。

 

 

 琵琶(びは)(かう)の夜や三味線の音(あられ

 

 貞享元年の冬、大垣の如行の家に行ったら、座頭を呼んできてくれた。 昔は琵琶だったが、今は三味線が主流になっている。

 琵琶だったら、その昔白楽天が左遷された片田舎の湊に停泊しているときに、都から流れてきたという女の弾く琵琶の音を聞いて涙を流し、それを詩にした琵琶行が思い起こされるが、三味線のペンペンいう音も聞きように寄っちゃ(あられ)のようで悲しげだ。

 

註、如行編元禄八年刊『後の旅』所収で、前書きに、

 

 「そのゝち座頭など来て、貧家のつれ/\を紛しければ、おかしがりて」

 

とある。

 

 

 宮守よわが名をちらせ木葉(このは)(がわ

 

 貞享元年の冬、大垣から桑名へ行く途中に、多度山(たどさん)権現(ごんげん)寄った。

 拝殿の落書に、

 

 伊勢人の発句すくはん落葉川 木因

 

の句を見つけた。

 

 山口も紅を差したる紅葉哉 望一(もいち)

 

の句のことで紅葉の葉を拾うということか。

 望一は確かに超有名だが、何か対抗心が湧いてきた。

 

 

 いかめしき音や(あられ)(ひの)()(がさ

 

 貞享元年に大垣の木因(ぼくいん)の家から桑名へゆく途中、多度山(たどさん)権現(ごんげん)に行った時だったか。

 北の伊勢神宮とも言われ、巡礼の人がたくさんいた。

 巡礼者の被る(ひのき)(がさ)は折から降ってきた霰に、バラバラと音を立てていた。

 

 

 冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす

 

 桑名統寺で冬牡丹を見た時の句。千鳥が鳴いていたが牡丹を見ればそれもホトトギスに聞こえる。

 

註、『野ざらし紀行』には、「桑名本統寺にて」とある。

 

 

 (あけ)ぼのやしら魚しろきこと一寸

 

 貞享元年の冬に桑名へ行った時、白魚漁の最盛期だった。

 中世の連歌に、

 

   罪の報いもさもあらばあれ

 月残る狩場の雪の朝ぼらけ    救済(きゅうせい)

 

の句があって、今まで何とも思わなかった狩や漁が、ある瞬間ふっと殺生(せっしょう)の罪が気に掛かって発心するというテーマを、白魚でもできないかと思った。

 白魚は春の季語だが、桑名でこの句を詠んだ時は冬だったし、桑名の白魚漁は厳冬期に最盛期を迎える。

 だから最初は「雪薄ししら魚しろきこと一寸」としたが、季語に振り回されて句の質を落とすのもどうかと思った。

 

註、『野ざらし紀行』には、「草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちの浜のかたに出て」とある。

 

 

 あそび来ぬふぐ釣かねて七里(まで

 

 貞享元年、桑名から七里の渡しで熱田に戻る時の句。

 桑名は白魚漁の最盛期だったが、大きなトラフグが釣れることでも知られている。

まあ、本当に釣りをしたわけではないけど、七里に掛けて(りゅう)(ちょう)(けい)の「対酒寄厳維」の、

 

 郡簡容垂釣 家貧学弄梭

 門前七里瀬 早晩子陵過

 

を気取ってみた。

 ちなみに、熱田から桑名に行くのに七里の渡しではなく、佐屋街道で佐屋宿へ行って、三里の渡しで桑名へ行くルートもある。途中に津島(つしま)牛頭(ごず)天王(てんのう)社があるという。

 

 

 (この)海に草鞋(わらんじ)すてん笠しぐれ

 

 貞享元年の冬、熱田の木示(もくじ)の家で興行した時の発句。

 まあ、旅の途中しばらくここに厄介になるという挨拶だけど、考えてみれば本当の草鞋を捨てていつまでも居座られちゃ困るだろうな。

 安心して下さい。笠は手放してないし、それにこれはほんの時雨の雨宿りのようなもんですから、と一応フォローを入れておこう。

 この時の木示の脇は、

 

 むくもわびしき波のから牡蠣(がき)

 

だった。

 わびしきなんて言っているけど、この辺りの牡蠣は上物だし、牡蠣は好物で、江戸にいる時はいつも自分で炒り牡蠣を作って食べている。

 殻を剥かずにガラガラと鍋で炒るのが旨い。

 

 

 馬をさへながむる雪の(あした)(かな

 

 貞享元年師走の熱田での興行の発句。

 外を通り過ぎる馬に乗った旅人を見ていると、もう一人の自分の姿を見ているようだ。

 脇は、

 

 木の葉に炭を吹き起こす鉢 閑水

 

 今日は旅をしないんでしたら、火鉢に火をつけましょうという心遣いの句だ。

 

 

 しのぶさへ枯て餅かふやどり哉

 

 貞享元年に熱田神宮を訪れた時はすっかり荒れ果てて廃墟のようになっていて、昔を偲ぶにも忍びなかった。

 熱田神宮は信長、秀吉、それに家康公にも保護されてきたし、戦火にも遭わなかったというのに、平和になってからはなぜか放置されて荒れ果ている。

 まあ、名所だから境内はそれなりに賑わって、餅も売っている。建物は荒れても人の心は変わらない。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「社頭(しゃとう)大イニ破れ、築地(ついぢ)はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生ひたるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。」

 

とある。

 

 

 かさもなき我をしぐるゝかこは何と

 

 貞享元年の大垣にいた頃だったね。

 笠は旅の装束で晴れ着でもある。

 ところが大垣の木因の所に着いてちょっとだけ落ち着いてしまったというか油断したというか、笠なしで外出したりしていた。

 旅の移動の時は蓑笠着ているが、滞在中は普通の僧衣だから、時雨に遭うとびしょ濡れになる。

 冷たい雨の中、笠もないというのは惨めなものだ。自分の存在そのものを否定されているような感じがする。

 天皇の供御人の地位を失った公界に生きる賤民も、こんな気持ちなのかと思った。

 

 

 (つき)(はな)(これ)やまことのあるじ達

 

 貞享2年の春、名古屋にいた頃だったか、宗鑑(そうかん)(もり)(たけ)(てい)(とく)という俳諧の元祖三人の肖像に画賛を頼まれた。

 和歌連歌の風流を俗語で誰もができるようにした偉大な先人に、余計なことは言うまい。

 花の咲くのを喜び、月に浮かれ、尽きせぬ思いに涙する。それが自然の心だ。

 

 

 狂句木枯の身は(ちく)(さい)に似たる哉

 

 貞享元年の11月、名古屋で興行した時の発句。荷兮(かけい)野水(やすい)、それに()(こく)と出会い、新しい俳諧の始まりを予感させた。

 彼らは俳諧次韻のやや地味な「世に(あり)て」の巻に新しい息吹を感じていてくれた。

発句の方は仮名草子の竹斎という旅の藪医者を気取って自己紹介にさせてもらった。狂句木枯、良い響きだ。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「笠は長途(ちょうと)の雨にほころび、(かみ)()はとまりとまりのあらしにもめたり。侘びつくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。昔狂哥(きゃうか)の才子、此の国にたどりし事を、不図(ふと)おもひ出て申し侍る。」

 

とある。

 

 

 草枕犬も時雨(しぐる)ゝかよるのこゑ

 

 貞享元年の十一月、名古屋滞在中で毎晩のように時雨が降る。もうすぐ雪に変わる頃だろう。

 日が暮れると遠くから犬の遠吠えが聞こえて来るが、どこかで雨露を凌げているのだろうか。

 生類憐みの令が出てから犬を繋いでると処罰されるなんて噂が出て、捨て犬が増えているともいう。

 

 

 市人よ(この)笠うらふ雪の(かさ

 

 雪の笠といえば玉屑(ぎょくせつ)の閩僧可士送僧詩の「笠重呉天雪、鞋香楚地花」。

 晋ちゃんの句に、

 

 詩あきんど年を(むさぼ)酒債(さかて)

 

というのがあったが、旅に出た詩あきんどは笠あきんどといったところか。

 さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい。

ここに取りいだしたる笠は、かの玉屑が名高い呉天の雪の笠‥。

 この句は興行の時は、、

 

 市人にいで(これ)売らん笠の雪

 

だった。宿の主人が、

 

 酒の戸たたく鞭の枯れ枝 抱月

 

と脇を付けて、万菊が、

 

 朝顔に先立つ母衣(ほろ)をひきづりて 杜国

 

と第三を付けた。

 第三は発句と違う趣向にする必要がある。発句の風狂者から武士への展開、自分もそれしか思いつかなかった。

 

註、『野ざらし紀行』には、「雪見にありきて」とある。

 

 

 雪と雪今宵(こよい)師走(しはす)の名月(

 

 貞享元年の冬に名古屋の杜国の家に行った時に喧嘩の仲裁を頼まれて、似たもの同士仲良くせよということで、

 

 

 海くれて鴨のこゑほのかに白し

 

 貞享元年の1219日、熱田の木示や東藤と夕暮れの海を見に行って船を浮かべて遊んだ。

寝待ち月の夜で、そのあと興行をしたが、これはその時の発句。

 潮騒に混じって聞こえてきた微かだがはっきり聞こえる鴨の声を思い出した。

 

註、『野ざらし紀行』には、「海辺に日暮(ひくら)して」とある。

 

 

 年(くれ)ぬ笠きて草鞋(わらじ)はきながら

 

 貞享元年の暮は熱田で過ごしたが、故郷伊賀で正月を迎えるために、暮れも押し迫った頃再び旅路についた。

 人生は旅だというから、伊賀で草鞋を脱いだとしても心の草鞋は履いたまま。

 ()(ちん)和尚(かしょう)の、

 

 旅の世にまた旅寝して草枕

    夢のうちにも夢を見るかな

 

なんて歌があったな。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「爰に草鞋(わらじ)をとき、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮ければ」

 

とある。

 

 

 ()(むこ)歯朶(しだ)に餅おふうしの年

 

 貞享2年の正月、今年は丑年。久しぶりに故郷の伊賀で正月を迎えた。

 ここの風習で歯朶(しだ)で飾った牛がどこぞの婿の元へと餅を運んでゆく。

 そういえば犬子集(えのこしゅう)の昔は歳旦に干支を入れたな。

 

 霞さへまだらにたつや寅の年 貞徳

 福の神今日のせ来るや午の年 良徳

 日の顔や今朝茜さす申の年  政昌

 春の来る時を告るや酉の年  休音

 

註、『野ざらし紀行』には「といひいひも、山家に年を越して」とある。

『三冊子』には、「(この)句は、丑のとしの歳旦や。此古体に人のしらぬ(よろこび)ありと(なり)。」とある。

 

 

 ()()しに都へ(ゆか)ん友もがな

 

貞享2年の春は故郷の伊賀で迎えた。ここからだと京都もそう遠くない。京都の人日を見に行く人、誰かいないかな。

 

 

 旅がらす古巣はむめに(なり)にけり

 

 貞享2年の正月は故郷伊賀で迎えた。

 その時作影の家で興行があって、ちょうど床の間に梅鳥図がかかってたので、その興で発句を作った。

 絵の方はカラスではなく叭々(はは)(ちょう)だと思うが。

 

 

 春なれや名もなき山の薄霞

 

 春の霞といえば天香具山だったり、いろいろ名山に詠まれたりするけど、名もなき山にかかる霞でも十分風情がある。

 名山の霞が和歌や連歌なら、名もなき山は俳諧だ。

 名所というのは和歌に詠まれた、いわゆる歌枕のこと。いくら風光明媚でも絶景でも和歌に詠まれてなくては名所とは言わない。

 「名所ならねばしひて心とまらず」と、かの宗祇法師も嘆いていた。

 その名もなきものを救うのが俳諧だ。

 

註、『野ざらし紀行』には、「奈良に(いづ)る道のほど」とある。

 

 

 水とりや氷の僧の(くつ)の音

 

 貞享2年、奈良の二月堂のお水取りを見に行った。

 僧坊に泊まって朝未明の若狭井から水を汲み上げる様子を見ることができた。

 二月とはいえ、水が凍っていたのだろう。氷を割る音が聞こえる。

 句は「水取りの僧の沓の、氷の音や」の倒置だが、わかりにくくなってしまった。

 二月堂は寛文の頃に焼けたと聞いていたが、今では新しくなっている。

 それにひきかえ、大仏さんはどうにかならないか。松永弾正の時に焼け落ちて未だに雨ざらしだ。

 

註、『野ざらし紀行』には、「二月堂に籠りて」とある。

 

 

 初春先酒に梅売にほひかな

 

貞享2年の春に、再び千里(ちり)の故郷の竹内(たけのうち)に寄った。

遅ればせながらの新年の挨拶ということで、梅の香る里で飲む酒を、蘇東坡(そとうば)の月夜與客飲杏花下の酒や謡曲枕慈童の菊の酒にも劣らないと前書きを付けて詠んでみた。

 

註、真蹟懐紙に、

 

 「葛城(かつらぎ)(こほり)竹内(たけのうち)住人(すむひと)(あり)けり。妻子寒からず、家子(けご)ゆたかにして、春田かへし、秋いそがはし。家は(きゃう)(くわ)のにほひに(とみ)て、詩人をいさめ、愁人(しうじん)()す。菖蒲(あやめ)(かはり)、菊に(うつり)て、()(どう)が水に徳をあらそはん(ひつ)とせり。」

 

とある。

 

 

 世にゝほへ梅花(ばいくわ)一枝(いっし)のみそさゞい

 

 貞享2年の春に、再び千里の故郷の竹内に寄った。

 遅ればせながら新年の挨拶ということで、詩経巻頭のお目出たい鷦鷯(みそさざい)を梅の花に添えてみた。

 鷦鷯は嫁選びの歌で、池に咲く(あさざ)()を選ぶことに喩えている。日本ではあまり馴染みがないので梅花一枝にした。

 

註、青流編元禄八年(一六九五年)刊『住吉物語』には「竹内一枝軒にて」とある。

 

 

 梅白し昨日ふや鶴を盗れし

 

 貞享2年の春、三井秋風の鳴滝(なるたき)という北山の奥に入った所にある別邸を訪ねて行った。

 まあ、あの越後屋の三井家の一族で、沢山の梅が今を盛りと咲いていた。

 ただ梅翁と蛇之(じゃの)(すけ)常矩(つねのり)が相次いで亡くなり、それ以降俳諧は休業状態だった。

 梅は咲いてますが鶴がいません。盗まれちゃったのでしょうか。

 

註、『野ざらし紀行』には、「京にのぼりて、三井秋風が鳴瀧の山家(やまが)をとふ。」とある。

『去来抄』には、

 

「秋風ハ洛陽の富家に生れ、市中を去り、山家に閑居して詩歌を楽しみ、騒人を愛するとききて、かれにむかへられ、実に主を風騒隠逸の人とおもひ給へる上の作有」

 

とある。

また、『野ざらし紀行』の素堂の序は、

 

 「洛陽に至り、三井氏秋風子の梅林をたづね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし、梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたたんことかたかるべし。」

 

と称賛している。

  「西湖にすむ人」とは林逋(りんぽ)(九六七年~一〇二八年)のことで、生涯独身で「梅妻鶴子(梅は妻、鶴は子)」と呼ばれた。林和(りんな)(せい)とも呼ばれている。

 

 

 樫の木の花にかまはぬ姿かな

 

 貞享2年の春に京の北山のかなり奥にある鳴滝の山家(やまが)を訪ねた。

 梅の花が満開だったが、未だに梅翁の死から立ち直れなくて元気がなかった。

 まあ、悲しい時は無理をしてはいけない。花が咲いたからと言ってそれに合わせる必要もない。

 

 

 我がきぬにふしみの桃の雫せよ

 

 貞享2年の2月の終わり頃に京都へ行った。

 京の談林も梅翁さんの亡き後は意気消沈してたか、秋風も元気なかったが、伏見の(にん)(こう)さんは八十になっても元気一杯だった。

 きっと伏見の桃は不老長寿の桃なのだろう。あやかりたい。

 (にん)(こう)さんは延宝の頃磐城平藩の殿様の句合の時の判者の一人だった。お世話になった。

 

註、『野ざらし紀行』には「伏見西岸寺任口上人に逢て」とある。

 

 

 山路来て何やらゆかしすみれ草

 

 貞享2年の春、伏見から大津街道で山科(やましな)へ行き、追分から東海道に入って逢坂山(おおさかやま)を越える道にスミレが咲いていた。

 人通りも多く、ほとんどの人は目もくれずに踏んづけて行くが、それが何か不憫に思えた。

 昔ここに捨てられた蝉丸のことなども思い出した。

 327日、熱田白鳥山法持寺で興行した時には逢坂山からも遠く、あくまで当座の興で、

 

 何とはなしに何やら(ゆか)し菫草

 

とした。

 脇は、

 

 編笠しきて蛙聴居る 叩端

 

で、山路の言葉はなくても旅体の雰囲気を読んでくれた。

 

註、『野ざらし紀行』には「大津にでる道、山路を越えて」とある。

 

 

 辛崎(からさき)の松は花より(おぼろ)にて

 

 貞享23月、京から大津に出た。

 湖には日吉山王の辛崎の松が霞んで見えた。

 近江八景のの一つ、唐崎夜雨の元になった瀟湘八景の瀟湘夜雨は、朧げに見える木々と甍だけで夜を表現している。おそらく日が暮れて完全に闇に包まれる前の一瞬だろう。

 この瞬間の辛崎の松は春霞の花の朧よりもっと朧だ。

 「て」留の句は本来の発句の体ではないが、名古屋で興行した時に、

 

 霜月や(かう)(つく)ならびて 荷兮(かけい)

 

の句があって、そのさらに上を行ってあえて切れ字なしで作ってみた。前例のないことに挑戦して底を抜きたかった。

 

註、『野ざらし紀行』には「湖水の眺望」とある。

 

 

 つゝじいけて(その)(かげ)()(だら)さく女

 

 貞享2年春、大津に滞在したあと、熱田へ向かう途中の東海道の石部宿の茶屋だったか、鱈の干物を食べている女が、骨が気になったか難しい顔をしながら鱈の身を引き裂いているのを見て、芝居で手紙を引き裂く場面を連想した。

 何か季語が欲しいが、躑躅(つつじ)がいいだろう。字面といい、地団駄の意味がある。

 

 

 ()(ばたけ)に花見顔なる雀哉

 

 貞享2年、水口(みなぐち)()(ほう)と再会して一緒に水口の古城山や観音堂などを訪ねて回った。

 辺りの菜の花畑には雀が群れていた。

 雀のスケール感からすると、菜の花は桜の大木のようで、千本桜で花見してるような感覚か。

 

 

 (いのち)二つの中に(いき)たる桜哉

 

 土芳は十三年下で米屋の(せがれ)だった。伊賀藤堂藩の料理人をやってた頃に見たことはあったな。まだ七つかそこらだった。

 あれから20年、思いがけず水口(みなぐち)で再会して、入門を願い出てきた。

 桜の木の下での再会なんて、何か運命を感じる。

 まあ、同郷のよしみだし、同じ俳諧という桜の道に生きて行こうではないか。

 これを機に伊賀の俳諧が再び盛んになってくれればいいな。

 

註、『野ざらし紀行』には「水口にて二十年を経て、故人に逢ふ」とある。

 

 

 蝶の(とぶ)ばかり野中の日かげ哉

 

 貞享2年春、鳴海(なるみ)の辺りだったか、広い野原があった。

 野原の草もまだ低く、影を作る物といえば飛んでいる蝶だけだった。

 

 

 船足も休む時あり浜の桃

 

 貞享2年の3月、熱田滞在中に鳴海(なるみ)の方へ行くこともあった。一里半程度だし、4月に入ってからも二度行った。

 この辺りは新田開発が行われているが、まだ野原のまんまのところも多く、何もない所だ。

 そんな中に桃の木があると目立つ。沖の船もついつい見入ってしまう。

 

 

 杜若(かきつばた)われに発句のおもひあり

 

 貞享244日、鳴海の()(そく)の家で興行した時の発句。

 知足の家の庭には池があって、夏には蓮が咲くというが、今は杜若(かきつばた)の季節だ。

 まあ、今日はお招きくださってどうもありがとう。それでは庭の杜若を発句にして始めましょう。

 ここからちょっと離れた所に伊勢物語の杜若の歌で有名な三河(みかわ)八橋(やつはし)もある。

 脇は、

 

 麦穂なみよるうるほひの末 知足

 

で、麦の穂が一斉に靡くようにこうして興行できるのも、と型通りに返してきた。

 

 

 いざともに穂麦(くら)はん草枕

 

 熱田にいた頃だったか、路通(ろつう)と称する乞食僧に話かけられた。

 一所不住の生き方は憧れだったし、本当に乞食行脚しながら和歌や俳諧を嗜む人がいるんだと思った。

 まあ、出自の問題もあったんだろうな。忌部(いんべ)の姓も、かつての天皇の供御人の末裔か何かか。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「伊豆の国(ひる)が小嶋の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに我が名を聞て草の枕の道づれにもと、尾張の国まで跡をしたひ来りければ」

 

とある。

 

 

 梅こひて(うの)(はな)(をが)むなみだ哉

 

 貞享2年の4月の初めに熱田で円覚寺の大顚(だいてん)和尚(おしょう)1月に亡くなったことを知った。晋ちゃんが慕ってたお師匠さんだけに、すぐに晋ちゃんに手紙を書いた。この句を添えて。

 梅の季節に亡くなったのに、今は卯の花の季節。

 梅の花をもっと楽しみたかっただろうに、仏様の卯の花になってしまった。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「此の僧予に告げていはく、圓覚寺の大顛和尚今年睦月の初、せん()し給ふよし。まことや夢の心地せらるるに、先ず道より其角が許へ申遣(まうしつかは)しける。」

 

とある。

この時の手紙には、

 

 「草枕月をかさねて、露命(ろめい)(つつが)もなく、今ほど帰庵に趣き、()(よう)熱田(あつた)に足を休る間、ある人我に告て、円覚寺大巓和尚、ことし睦月のはじめ、月もまだほのぐらきほど、梅のにほひに和して遷化したまふよし、こまやかにきこえ待る。旅といひ、無常といひ、かなしさいふかぎりなく、折節のたよりにまかせ、(まづ)一翰(いっかん)(きゆうに)机右而(とうずる)(のみ)


 
 梅恋て卯花拝ムなみだかな   はせを


四月五日
 
其角雅生」

 

とある。

 

 

 団扇(うちは)もてあふがん人のうしろむき

 

 星崎の起倒子の家で見た爺さんの後ろ向きの絵を見て、何やら偉そうな人だなと思い、はいはい、わかりましたと‥‥。

 

 

 鳥さしも竿(さお)(すて)けんほとゝぎす

 

 いつだったか、名古屋近辺にいた時だったと思う。

 ある家で画賛を頼まれて、なぜか鳥餅竿を立て掛けた絵だった。

 何で鳥餅竿?だけど、鳥を捕まえるのを職業にしていた人が、ホトトギスの声に哀れを催して、ふっとその罪を悟って発心するという物語でいいのかな。

 急に発心したか、鳥餅を捨てていったのだろう。

 

   罪の報いもさもあらばあれ

 月残る狩場の雪の朝ぼらけ 救済

 

の心。

 

 

 白げしにはねもぐ蝶の形見(かたみ)

 

 去年の秋に()(ざら)しを覚悟して旅に出たが、これによって得たものが三つあった。一つ目は杜国との出会い、二つ目は杜国との出会い、三つ目は杜国との出会い。

 江戸へお持ち帰りしたかったけど、米問屋の仕事があるから駄目だって。

 嗚呼君は白いケシの花、私は羽をもがれた蝶。

 

註、『野ざらし紀行』には「杜国におくる」とある。

 

 

 牡丹(ぼたん)(しべ)ふかく(わけ)(いづ)る蜂の名残(なごり)

 

 貞享元年から2年の春、熱田の木示(もくじ)の家には長逗留し、いろいろお世話になった。

 このたび江戸に帰るということで、これはその留別句。

 牡丹は花も大きいが蕊も大きい。ここに蜜を吸いに来た蜂も、さぞかし飛び立つのは辛いだろう。

 木示の返しは発句で、

 

 憂きは(あかざ)の葉を摘みし(あと)の独りかな

 

だった。

 

註、『野ざらし紀行』には、

 

 「ふたたび(とう)葉子(ようし)がもとに有て、今や(あづま)に下らんとするに」

 

とある。

 

 

 おもひ立つ木曾や四月のさくら(がり

 

 貞享24月、これから中山道を通り、下諏訪から甲州街道で江戸に帰るので、熱田でお別れ興行があった。これはその時の発句。

 帰る途中、木曽ではまだ桜が咲いてるといいな。

 脇は東藤で、

 

 京の杖つく(そば)の夏麦

 

 信州も甲州も米があまり取れないからな。

 このあと鳴海でもお別れの挨拶をして、また戻って木曽街道で中山道の土田宿に出て帰った。

 

 

 (ゆく)(こま)の麦に(なぐさ)むやどり哉

 

 貞享2年、中山道から甲州街道を通って江戸に帰った。

 途中甲斐の国に立ち寄った。2年前に()()にお世話になった所だ。

 

 ()()遅行(ちかう)我を絵に見る心かな

 

の句を詠んだのを思い出す。

 信州もそうだが甲斐も米があまり獲れず、麦をよく食う。

 

註、『野ざらし紀行』には、「甲斐の山中に立よりて」とある。

 

 

 山賤(やまがつ)のおとがい(とづ)るむぐらかな

 

 貞享2年、中山道から甲州街道を通って江戸へ帰る途中、甲斐の国に立ち寄った。

 雑草の茂ってる道を行く時は、どうしても下の草の方を凝視して、掻き分けながら進むことになるので、あまり前を見てなかったりする。おとがいを閉じたままこっちに向かってくる。

 

註、其角編貞享四年(一六八七年)刊『続虚栗』に「甲斐山中」とある。

 

 

 雲霧の暫時(ざんじ)百景をつくしけり

 

 貞享元年に箱根を越えた時は富士山は雨と霧で見えなかった。

 昭文のような琴の名手でも一つ音を出せばその他の音が失われる。それで陶淵明は弦のない琴を撫でていたという。

 富士も見えれば、無数の富士が損なわれる。

 帰りに甲斐に寄った時、それを俳文にし、そこにこの句を添えた。

 

註、寛治編宝暦六年(一七五七年)刊『芭蕉句選拾遺』に、

 

 「崑崙(こんろん)遠く(きき)蓬莱(ほうらい)方丈(ほうじょう)まのあたりに()(ほう)地を(ぬき)蒼天え、日月(じつげつ)為に雲門(うんもん)をひらくかと、むかふところ(おもて)にして美景(びけい)千変(せんぺん)詩人句をつくさず、(げん)たち、画工(すて)てわしる。(もし)()()()山の神人(しんじん)(あり)(その)詩を(よく)せんや、(その)をよくせ()

 (くも)(きり)暫時(ざんじ)百景(ひゃっけい)をつくしけり

 

とある。

 

 

 (なつ)(ごろも)いまだ(しらみ)をとりつくさず

 

 貞享24月、去年の秋からの長い旅から戻った。名古屋近辺には長く滞在したし、吉野や奈良や京にも行った。

 旅に出ると(のみ)(しらみ)は付き物で、ずっと旅してたから取ってもまた次の宿でもらう。帰って来てようやく、今いる虱を取り尽くしたらのんびりできるかな。

 

註、『野ざらし紀行』には、「卯月の末、庵に帰りて旅のつかれをはらすほどに」とある。

 

貞享の江戸滞在期

 

 雲おり/\人を休める月見哉

 

 貞享2年の名月の句。この年も芭蕉庵の古池にみんな集まってくれて楽しかった。

 月明かりが頼りの宴会だけに、月が雲に入ると一休みになる。

 西行法師の、

 

 なかなかに時々雲のかかるこそ

    月をもてなすかぎりなりけり

 

だね。時々は休まないと朝まで持たない。

 

註、荷兮編貞享三年(一六八六年)刊『春の日』所収。

 

 

盃にみつの名をのむこよひ哉 芭蕉

 

貞享2年秋、隅田川河口の(れい)(がん)(じま)から男が3人来て名前が皆七郎(しちろ)兵衛(びょうゑ)だった。

この日は名月で3人は酒を飲んだが、あたかも李白の月下独酌のように、一人で月と自分の影と飲んでるように見えた。

実はこれ、熱田の知足が送った酒が霊岸島に届いたことで思いついた作り話。

 

註、『真蹟拾遺』に、

 

 「(れい)(がん)(じま)に住ける人みたり、(ふけ)(わが)草の戸に(いり)(きた)るを、案内(あない)する人に(その)名をとへば、おの/\七郎(しちろ)兵衛(びょうゑ)となむ(まうし)(はべ)るを、かの独酌(どくしゃく)(きょう)によせて、いさゝかたはぶれとなしけり。

 盃にみつの名をのむこよひ哉」

 

とある。

 

 

 秋をへて蝶もなめるや菊の露

 

 菊の露は菊酒で不老長寿の薬。

 晩秋の菊の候にまだ生きている蝶も、この菊の露を飲んだんだろう。

 

 

 木枯やたけに隠れてしづまりぬ

 

 貞享2年の冬、誰の家だったか、竹の画賛を頼まれて、折から木枯らしの季節だったので、木枯らしもどこかへ行ってしまったかのような見事な竹ですって感じで作ってみた。

 そういえば自分もちょっと前までは木枯らしの竹斎を気取って旅をしていたが、今は深川で大人しくしているな。

 

 

 花皆枯(みなかれ)(あはれ)をこぼす草の種

 

 貞享2年の冬、どこかの荒れ果てた庭だったか。

 菊は霜に枯れて、生い茂ってた草も枯れて種を落としてゆく。

 来年また芽が出て、また茂って、それを繰り返して行くんだろうな。

 旅から帰ってのんびりしてもいられない。来年はあの句を発表する勝負の年になる。

 

 

 月白き師走(しはす)()()(ねざめ)

 

 師走の月の白む頃は滅茶寒い。

 子路は死んで塩漬けにされたというが、今朝の寒さは塩漬けにされたみたいに縮こまったまま動く気になれない。

 子路というと(みなし)(ぐり)に、

 

   腕を(たきぎ)(うゑ)早蕨(さわらび)

 子路ガ廟夕べや秋とかすむらん 其角

 

の句があった。

 

 

 めでたき人のかずにも入む老のくれ

 

 「めでたい」という言葉は良い意味にも悪い意味にも用いられる。聖なるものは同時に賎でもある。

 まだ四十二なのに翁と呼ばれてる自分はどっちなんだろうか。もうすぐ四十三。

 みんな米をくれるから、山店のくれた大きな瓢箪の米櫃が空になることはないが、托鉢はしないから乞食のようで乞食ではない。

 

 

 (いく)(しも)に心ばせをの松かざり

 

 貞享3年の歳旦。

 芭蕉というと古今集の(きの)乳母(めのと)の、

 

 いささめに時まつまにぞ日はへぬる

    心ばせをは人に見えつつ

 

の歌があり、この歌は物名の歌で、笹、松、()()、芭蕉が詠み込まれている。

 幾霜を経て心を伝えようと待ってたかのような松飾りはお目出度い。

 

 

 古畑や(なづな)(つみ)(ゆく)男ども

 

 貞享3年の正月。深川の辺りでも七草の日には近所の男たちがまだ耕されてない畑に薺を摘みに来る。

 

 君がため春の野に出でて若菜摘む

    我が衣手に雪は降りつつ

          光孝天皇

 

の心だね。雪はなくても。

 

 

 よもに(うつ)(なづな)もしどろもどろ哉

 

 七草の日にはあちこちで囃し言葉を唱えながら薺を打つ音が聞こえてくるが、大体リズムもそれぞれ適当で、揃えようともしないから雑然とした感じになる。

 「しどろもどろ」は雅語で、

 

 おほなごが草刈る岡の刈萱は

    下折れにけりしどろもどろに

 

などの古歌に用いられている。

 

 

 (わづら)へば餅をも喰はず桃の花

 

 貞享3年の春は蛙合(かわづあはせ)興行の準備で忙しく、33日の(じょう)()の頃は体調を崩していた。

 上巳といえば草餅と桃の酒だが、草餅はやめておいて不老長寿の桃の酒だけいただいておいた。

 

 

 まふくだがはかまよそふかつく/\し

 

 智光(ちこう)という僧は幼い頃は()(ふく)田丸(だまる)という名だったが、良い所のお嬢さんに惚れたものの身分も低く読み書きも出来なかったので、私と釣り合うように学問を身につけなさいと言われて僧になった。

 その時そのお嬢さんが修行用の袴を縫ってくれたという。

 その女はすぐに亡くなるが、転生してやがて行基菩薩と呼ばれる高僧となり、老いた智光と再会するのだが‥。

 まあ、この物語はともかくとして、要は子供の頃に貰った袴を大人になってもまだ履いてるようなもの、ということ。

 

 

 地にたふれ根により花のわかれかな

 

 担堂和尚への追悼句を頼まれた。

 花の散る季節なので、散る花のように遷化したという意味だが、大往生というよりは旅での急死だね。

 

 

 観音のいらか見やりつ花の雲

 

 深川からでも遠くに浅草の観音様の屋根瓦が見えて、その境内の桜が雲のようになっている。

 

註、『真蹟詠草』には、

 

 「毘沙門堂(びしゃもんどう)花盛(はなざかり)四天王(してんのう)(えい)()(これ)にはいかでまさるべき。うへなる黒谷(くろだに)下河原(しもがわら)。むかし遍照(へんじょう)僧正(そうじょう)のうき世ヲいとひし()頂山(ちょうざん)(わし)()(やま)の花の色、(かれ)にし鶴の林までおもひしられて(あはれ)なり」

 

とある。

 

 

 花(さい)て七日鶴見る麓哉

 

 貞享3320日、小石川の清風(せいふう)の江戸屋敷での興行の発句。

 桜の花の盛りは七日間というが、その七日のうちに鶴を見るような、この目白の山の麓で、という挨拶で、鶴はもちろん清風のこと。貴賓を鶴に喩えるのは常套手段だが。

 

 

 ふるすたゞあはれなるべき隣かな

 

 宗波(そうは)は水雲の僧で、時折ふっといなくなる。今度は上方の方に行ったという。

 深川の近所にある庵はまた空き家になっている。

 いつか一緒に旅をしような。

 

 

 やまざくら瓦ふくもの(まづ)ふたつ

 

 貞享5年に吉野へ行った時だったか。

 とにかくお寺の屋根瓦の上に桜が散って、桜葺きみたいになっていた。

 長嘯子が「常に住む所は瓦葺けるもの二つ」と言ったのは瓦葺きの家二軒という意味だったが、ここでは瓦と桜と二つという意味に取り成してみた。

 

 

 ふくかぜの中をうを(とぶ)御祓(みそぎ)かな

 

 紀重就の絵に添えた画賛だった。

 御祓川(みそぎがわ)は源氏物語にも、

 

 みそぎ川瀬々に出ださむなでものを

    身に添ふ影と誰れか頼まむ

 

の歌がある。上賀茂神社の御手洗(みたらし)(がわ)のことであろう。清流に跳ねる魚が清々しい。

 少し後になるが元禄3年秋の興行で、

 

   堤より田の青やぎていさぎよき

 賀茂の(やしろ)()き社なり 芭蕉

 

の句を付けて、この一巻は猿蓑に入れた。

 

 

 古池や(かはづ)(とび)こむ水のをと

 

 天和四年から貞享元年に改元する頃だったか。

 かつて鯉屋(こいや)の生け簀だった庭の古池の側を歩いているとボチャッという音がした。多分蛙が飛び込んだんだろう。「蛙飛び込む水の音」のフレーズがパッと浮かんだ。

 上五をどうしようかといろいろ考えた。最初は和歌の井出(いで)の山吹の蛙から「山吹や」としたが、俳諧だからもっと身近な「古池や」にした。

 「山吹や」は出典のある言葉で、この言葉から思い浮かべるのはほとんどの人にとっては古典の知識として知っているだけの井出(いで)玉川(たまがわ)の山吹にすぎない。

 これに比べて古池はどこにでもあるし誰もが体験している。雅語でもなく謡曲や漢詩の言葉でもない、だけどみんな分かる言葉でこれからの俳諧を作っていきたい。

 これを世間に広く広めて、(てい)(とく)宗因(そういん)にない新たな俳諧をアピールするには、用意周到に準備をする必要があると思った。それが貞享三年春まで発表を遅らせた理由だった。まさかそれがここまで的中するとは。

 

 

 東にしあはれさひとつ秋の風

 

 貞享3年の秋、去来が妹の伊勢詣の付き添いで伊勢へ行き、それを伊勢紀行という文にしたということで、(ばつ)(ぶん)に句を添えて贈った。

 能因(のういん)法師(ほうし)がはるばるみちのくの白河の関まで旅して「秋風ぞ吹く白河の」と詠んだが、秋の伊勢の旅もその心に通じるものがある。

 

 

 いなづまを手にとる闇の紙燭(しそく)

 

 李下の虚栗の頃の、

 

 (あく)や今年心と臼と(とどろき)と 李下

 

 なんて(から)(うす)で重労働する労働者の気持ちになって、面白かったんだけど、最近は、

 

 一しきり寝られぬ夜の長さかな 李下

 

みたいな大人しい句で、稲妻だったのが紙燭の火のように弱々しくなっている。

 

 

 名月や池をめぐりて夜もすがら

 

 貞享3年と言えば、春には蛙合(かはづあはせ)興行を行い、古池の句の発表を盛大に行った。

 同時に上方では西吟撰の庵桜、中京では荷兮撰の春の日で同時発表を行い、それまでの旅 行脚も世間の話題になって、おかげで今や古池の句は知らない人もなく、全て狙い通り。

 秋には月見会を行い、門人達で一晩中盛り上がった。

 中秋は暑からず寒からずで、澄み切った空に浮かぶ満月は明るく、昔からこの夜を無駄にせずに遊び尽くす日だった。

 貞享3年の名月も晋ちゃんを始めとして大勢芭蕉庵の池の辺りで宴会をやり、隅田川へ船で繰り出したり楽しかった。

 この句にはちょっとした遊びがあって、「めいげつ」の後が「ついけをめ」になっているが、これが「めいけつ」が逆さまになりながらやや揺らいでいる様子になる。

 

 

 座頭(ざとう)かと人に見られて月見哉

 

 貞享3年の芭蕉庵での月見会は盛り上がった。

 春には古池の句が大ヒットし、蕉門の名も世間津々浦々に知れ渡り、蛙飛び込む水の音は誰もが知る流行語となった。

 ようやくこれで俳諧で生きていっていいんだなと世間に許されたような気がした。

 そういうわけであの古池の句の元になった鯉屋(こいや)の古い生簀(いけす)の周りで、夜を徹して飲んだ。

 ただ、酒が弱いんでついつい話の方で何とか間を持たそうと、ついうち月そっちのけで無駄話が長くなったりしてたら、「座頭(ざとう)か」と言われてしまった。

 座頭は平家物語や浄瑠璃姫などを語る琵琶法師で、近年はあまり見なくなったし、楽器も三味線だったりする。

 座頭はこの場合は比喩だが、障害者を詠むことは禁ずべきものではない。ただ千句に一句あればいい。

 「冬の日」にも、

 

   田中なるこまんが柳落るころ

 霧にふね引人はちんばか 野水

 

 梅翁同座の百韻にも、

 

   おもほえず古巾着の銭さぐり

 めくら腰ぬけ夢の世中 似春

 

の句がある。

 

 

 もの(ひとつ)我がよはかろきひさご哉

 

 前に貰った米櫃にしている大きな瓢箪に、素堂に名前を付けてと言ったら、

 

 一瓢重黛山 自笑称箕山

 莫慣首陽餓 這中飯顆山

 

だって。長すぎるので四山瓢にした。

 まあ、これで米さえ入っていればとりあえず生きて行ける。みんな頼んだぞ。

 

 

 水寒く寝入(ねいり)かねたるかもめかな

 

 元起(げんき)和尚から酒を貰った時のお礼の句。

 隅田川のユリカモメも夜通しうるさい季節だが、酒飲んで寝てしまうのも勿体無い。

 新古今集に、

 

 鴎居る藤江の浦の沖つ巣に

    夜船いざよふ月のさやけき

          (みなもとの)(あき)(なか)

 

の歌もあるし、罪なくして在所の月を見る気分も悪くはない。

 

 

 はつゆきや(さいはひ)(あん)にまかりある

 

 貞享3年の冬は雪が降らなくて、このまま正月が来てしまいそうだった。

 初雪が降ったらすぐに家に帰って庭の初雪を見ようと思ってたが、師走の18日にやっと雪が降った。

 

 

 初雪や水仙のはのたはむまで

 

 貞享3年の初雪は遅くて、師走も18日だった。

 既に咲いている水仙の葉の上に雪が積もっていった。

 これはそのまんまの意味。雪の程度を水仙の葉で表してみた。

 

 

 きみ火をたけよき物見せん雪まろげ

 

 貞享2年の暮に鯉屋(こいや)伝手(つて)で岩波庄右衛門という神道家が近所に越してきた。

 ほとんど内弟子のように、いつも飯を炊いてくれて、翌春には蛙合(かはづあはせ)興行にも参加した。

 冬の寒い中いつも火を焚いてくれるのは有り難い。することないんで、雪まろげでも作ってようか。

 

 

 酒のめばいとゞ寝られぬ夜の雪

 

 貞享3年の冬、この春に古池の句の大ヒットもあって、芭蕉庵にひっきりなしに人が来るようになった。段々面倒になって来て会わないようにしてたが、雪の朝くらいは一緒に喜んでくれる人が欲しいもの。

 夜から雪が降り出した。少しくらい酒を飲んでも眠れそうにない。

 

 

 年の市線香(かひ)(いで)ばやな

 

 貞享3年の暮の句。

 浅草の年の市はいつも人でごった返している。

 近頃は恵方(えほう)(だな)も派手になってきて、いろんな物を飾り付けるが、半俗半僧の草庵暮らしなので、仏様の線香があればいいんだが。

 売ってるよね、お寺だもん。

 

 

 月雪とのさばりけらし年の暮

 

 貞享3年はなんと言っても古池の句の大ヒットで、この風流の道で生きてゆくことを許された気がした。

 蛙だけでなく月や雪の風流に、これからものさばってゆけそうだ。

 

 

 誰やらが形にに似たりけさの春

 

 貞享4年の歳旦。

 嵐雪から貰った小袖を正月の着衣(きそ)始めに着てみたが、あいつの服の趣味はよくわからない。

 何かこれを着たら誰かさんにそっくりだ。

 

 

 わするなよ藪の中なるむめの花

 

 貞享4年の春にみちのくへ旅立つ門人がいたので、これはその時の餞別句。

 梅の花は手入れの行き届いた庭園のイメージがあるけど、打ち捨てられた庭で薮に紛れてひっそりと咲いていることもある。

 都が庭園ならみちのくは薮のようなものかもしれないが、そういう所にこそ風流の種は眠ってるものだ。

 

 

 さとのこよ梅おりのこせうしのむち

 

 梅の真っ直ぐ上に伸びた枝はしなやかで、牛や馬の鞭に用いられる。

 梅は剪定しないと枝が絡まるというから、こういう枝を折って利用するのは間違ってはいないけど、ただせっかく花の咲く枝なら、花の咲くまではのこしておいてほしい。

 

 

 蠣よりは海苔をば老の売もせで

 

 老倒疎慵無事日ということで、牡蠣(かき)を売るのが億劫(おっくう)なら海苔(のり)でも売ればいい。海苔は仏法の「のり」で成仏できる。

 

 同じくは牡蠣をぞ刺して干しもすべき

    蛤よりはなも頼りあり

          西行法師

 

牡蠣(かき)(かん)(きん)に掛けている。

 本歌を取る時は、そのまんまだと丸パクだから、必ず少し変えるもんだが、どうせ変えるなら本歌の一段上を行きたいものだ。本歌が雨なら雪に、秋ならば冬に。

 牡蠣(看経)の上を行くなら海苔(法)だろう。

 

註、『去来抄』に、

 

去来曰(きょらいいはく)、古事古歌をとるには、本歌を一段すり上げて作さくすべし。たとへば(はまぐり)りは()()を売レかしと云いふ西行の歌をとりて、

 かきよりは海苔(のり)をば(おひ)(うり)もせで

と先師の(さく)(あり)さくあり。本歌は同じ生物(いきもの)(うる)ともかきをうれ、()()はかんきんの二字に(かな)ふといふを、先師は生物(いきもの)(うら)んよりは海苔(のり)を売れと、一段すり上げて作り給ふ。のりは法にかよふ(なり)。老の字力あり。大概如斯(かくのごとし)

 

とある。

 

 

 よくみれば(なずな)(はな)さく垣ねかな

 

 貞享4年春の句。芭蕉庵の垣根にナズナを見つけた。

ナズナは和歌では唐薺(からなづな)で、藤原(ふじわらの)長能(ながとう)の、

 

 雪を薄み垣根に摘める唐薺

    なづさはまくの欲しき君かな

 

の歌が拾遺集(しゅういしゅう)にある。垣根に咲くのを本意とする。

 

 

 はなのくもかねはうへのかあさくさか

 

 江戸で花見といえば上野山の東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)(きん)龍山(りゅうざん)浅草寺(せんそうじ)

 深川からでもこの二ヶ所は白い雲のように見える。

 

 

 (こう)の巣もみらるゝ花の()(ごし)

 

 貞享4年の春、深川の辺りにもまだ水田の広がる長閑な景色が残っていた。

 そんな所では、春になるとコウノトリが木の上に巣を作り始めるが、ちょうど桜も葉桜に変わる頃完成したようだ。

 葉の出る時期を知ってて、それに合わせて隠れるようにしたなんて、賢い鳥だ。

 

 

 花にあそぶ(あぶ)なくらひそ(とも)(すずめ

 

 貞享4年の春、以前世話になった桑名本統寺のお坊さんたちが江戸にやってきた。これはその時の興行の発句。

 上野浅草の花を見に行くというので、せっかく花に遊びに来たんだから、虻とはいえ食べないでくれよ、という意味で作った。江戸は物騒だからね。

 脇は、

 

 猫和らかに揺るる緒柳 岩松

 

 猫は玉の緒柳のようにしなやかで、虻を食べる雀を食べる。

 

 

 永き日もさえづりたらぬひばり哉

 

 貞享4年の春、晋ちゃんの所の孤屋(こおく)が訪ねてきた。越後屋の手代だというがよく喋る人で、釣られて話し込んでしまった。

 人のお喋りを雲雀(ひばり)に喩えるのはありがちな発想だが、あからさまな比喩ではなく、本当に雲雀が鳴いていて、それがお喋りな人を暗示させるように作るというのも一つの技術だ。

 後の炭俵(すみだわら)の、

 

   (さらし)の上にひばり(さえづ)

 花見にと女子(をなご)ばかりがつれ(だち)て 芭蕉

 

というのも同じ。

 

 

 はらなかやものにもつかず(なく)ひばり

 

 雲雀は空中に浮いて鳴くもので、枝や軒を頼ったりしない。何もない草原で空高く飛んで鳴いている。

 

 

 笠寺(かさでら)やもらぬ(いはや)も春の雨

 

 貞享四年の春、熱田の知足の手紙で、笠寺の由来となった、(あま)(ざら)しの観音を見つけた娘がたまりかねて笠を被せてやると、それを見た藤原(ふじわらの)兼平(かねひら)がその娘を連れ帰って妻とし、その笠観音を祀る寺を建立したという縁起にちなんだ句を頼まれた。

 

 

 ほとゝぎすなく/\とぶぞいそがはし

 

 ホトトギスの声がしてそっちに行ってみたらどこかへ飛び去って、また別の所で鳴いている。

 夫木抄(ふぼくしょう)に、

 

 色深く誰も信夫の里の名を

    山ほととぎすなくなくぞとふ

 

の歌があったが、「なくなくぞ()ふ」ではなく「なくなくぞ()ぶ」にしてみた。

 

 

 (うの)(はな)も母なき宿ぞ(すさま)じき

 

 晋ちゃんの母の五十七日追善の時の句。初夏だけど(すさ)まじい。

 

 

 五月雨(さみだれ)(にほ)の浮巣を見に(ゆか)

 

 貞享4年の夏、磐城平藩の先代藩主(ふう)()の息子の露沾(ろせん)に、上方方面の大掛かりな旅をしたくて、資金の相談をしに行った。

 琵琶湖は昔から鳰の海とも言って、鳰の多いところで、その浮巣は定住することのない境遇の比喩として和歌に詠まれていた。

 露沾ならわかるよね。

 

 

 五月雨(さみだれ)や桶の輪きるゝ夜の声

 

 雨漏りを受けるために置いておいた桶が、水が溜まりすぎたのと長年使ってきた経年劣化で輪が切れて、辺りは水浸し。

 まあ、以前に、

 

 芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな

 

の句を作って、杜甫の茅舎の感と洒落てみたが、ここは今の貞享の風で。

 

 

 髪はえて容顔青しさ(つき)(あめ

 

 貞享4年の夏、また持病が出た。

 剃ってた髪が伸びてきて無精髭も白く顔色も悪い。

 みんな翁と呼ぶけど、どうやら八十くらいの老人に見えるらしい。

 

 

 雨折/\思ふ事なき早苗哉

 

 貞享45月、岱水の家で、吉日に夜明けを待つという影待(かげまち)をした。

 ただ、五月雨の季節で夜通し雨が降って朝日は拝めそうもない。

 朝日を拝めなくても、早苗が自ずとすくすく育ってゆくようなもので、願いも鍛錬を怠らないなら自ずと叶うもんだと思って、気にしないことにしよう。

 

 

 鰹売(かつをうり)いかなる人を(よは)すらん

 

 貞享4年の初夏江戸では鎌倉で上がった初鰹を売り歩く声がする。

 初鰹は高価で、天和の頃晋ちゃんの脇にも、

 

   偽レル卯花に樽を画きけり

 鰹をのぞむ楼の上の月 其角

 

とあったな。初鰹を肴に卯の花で花見とか、天才だな。

 

 

 いでや(われ)よき(ぬの)きたりせみごろも

 

 貞享4年に鯉屋の旦那から帷子(かたびら)を頂いて、早速着てみたよというお礼の句。

 (せみ)(ごろも)は透けるように薄い衣という意味で、勿論褒め言葉。できればもっと若い美男子に着せてあげたいな。

 そういえば光の君も夜這いする女を取り違えた上、逃げた女の脱ぎ捨てた蝉衣をクンクン匂いを嗅ぎながら、こっそりずっと持ってたっけね。

 

 

 さゞれ(がに)足はひのぼる清水哉

 

 清水の脇で一休みしていると、沢蟹が足に這い上ってくることってあるよね。

 

 

 酔て()むなでしこ咲ける石の上

 

 貞享4年の夏、隅田川で夕涼みの会をした。

 河原の石のゴロゴロした所でもナデシコは咲いていて、酔っ払った人がその辺の石を枕にして一休みをすると、ちょうどその辺りにナデシコが咲いてたりする。

 

 

 瓜作る君があれなと夕すゞみ

 

 貞享4年の夏だったか、深川の近くに主人の亡くなったまま荒れ放題になっている家があった。

 昔は瓜畑だった所も今は蓬に埋もれている。

 玉葉集に西行法師の、

 

 松がねの岩田の岸の夕涼み

    君があれなと思ほゆるかな

 

の歌があった。一緒に夕涼みがしたかったな。

 

 

 昼顔に米つき涼むあはれ也

 

 大きな米屋や酒蔵などには精米用の大きな(から)(うす)が何台も並び、そこの何人もの米搗(こめつ)きが一日米を搗いている。

 唐臼を使った精米作業は過酷な肉体労働の上、粉塵まみれになる。冬なんかでも絶対に火気厳禁。

 過酷な肉体労働で粉塵まみれになって昼休みに涼んでいる姿は哀れなものだ。

 まあ、農家の次男三男ともなると都会へ出るしかなくて、それでも働き場所があるだけまだましか。

 武家の中には米屋を悪の権化みたいに言う人もいる。でも、都市ができて、こうして働く場所ができた事で、今まで乞食坊主になって野晒しになるしかなかった人たちも生きられるようになった。

 

 

 (あさがほ)下手(へた)のかくさへ(あはれ)

 

 嵐雪が自分の描いた絵に画賛を入れてくれと頼んで来た。

 嵐雪も狩野安(かのうやす)(のぶ)の弟子の(ぎょう)(うん)に一緒に絵を学んだ仲だし、結構上手い。

 ただ、狩野派のリアルな絵をそのまま描いても俳諧っぽくないし、省略すべきところを省略して最低限に意味のわかるようにするのが大事。

 上手い人がわざと下手に描くところに俳諧ならではの面白さがある。

 大事なのは、一種の言葉として情やメッセージが伝わるかどうかで、それが伝わるなら下手でも面白い絵が描ける。

 嵐は上手く描こうとしすぎているのかもしれない。

 

 

 (しづ)のこやいね(すり)かけて月をみる

 

 貞享4年、名月の時期に合わせて鹿島(かしま)根本寺(こんぽんじ)(ぶっ)(ちょう)和尚(おしょう)の隠居所を訪ねて行った。

 木下(きおろし)街道、鮮魚(なま)街道を経て()()に行き、そこから船に乗った。

 途中に河原貧しい人たちの小屋があったが、そこでも米を搗いて籾摺りをしながら月見をしていた。

 

 

 いもの葉や月待里の焼ばたけ

 

 木下街道は行徳から木下へ、鮮魚街道は松戸から布佐へ行くが、浦部の辺りで交わっていて、今回は行徳から布佐へ行き、そこから鹿島まで船に乗った。

 途中の木下街道の道路脇は里芋畑が広がり、視界が開けていて筑波山が見えた。

名月には里芋を供えるもの。芋名月なんて言われている。

 

 

 月はやしこずゑはあめを(もち)ながら

 

貞享4年の秋、月を見に鹿島の根本寺(こんぽんじ)(ぶっ)(ちょう)和尚(おしょう)の隠居所を訪ねて行った。

その夜はあいにくの雨で早々に床に就いたが、明け方に和尚が月が見えたといって起こすから外を見たが、既に雲に隠れてた。

梢に雨の降る中、一瞬月の光が射したなら、さぞ綺麗だろうな。

 

 

 寺に()てまこと顔なる月見哉

 

 貞享4年の十五夜は鹿島根本寺の仏頂和尚の長興庵に泊まった。

 あいにく昼から雨になり、仕方ないから夜は早く寝た。

 明け方に仏頂和尚に、月が見えたから早くと起こされた。ようやく外を眺めると既に月は雲に隠れ、昨夜同様雨が降っていた。

 結局月は見えなかったけど、月見をしたぞって顔して帰ろう。

 

 

 この松のみばへせし()や神の秋

 

 貞享4年、鹿島の名月を見に根本寺の仏頂和尚の隠居所を訪ねて行った時の句。

 鹿島に来たからには鹿島神宮をスルーするわけにもいくまい。神道家の連れもいるしね。

拝殿に松の巨木があった。

 この松が芽を出した時は神代だったのではないかと思う程の古木だった。

 

 

 かりかけしたづらのつるやさとの秋

 

 貞享4年に鹿島へ行った時は稲刈りの季節で、刈りかけた田面のコウノトリがいた。

 厳密にいえば鶴とコウノトリは違うが、コウノトリを鶴に見立てて詠むことは時折ある。聞く人も迷う所だが、鶴は冬の物で、木の上に巣を掛けて卵を産むのはコウノトリだ。

 

 

 萩原や一夜はやどせ山の犬

 

 貞享4年の鹿島の月見の旅は、花野の中を行く旅だった。

 鮮魚を積んだ馬の通る木下街道も、その道の脇には萩、ススキ、女郎花などいろんな花が咲いていた。

 この辺りには狼信仰があるのか、山の犬とも呼ばれている。旅の無事を祈る。

 

 

 (みの)(むし)()(きき)にこよくさのいほ

 

 素堂が六間(ろっけん)(ぼり)の安宅に引っ越してきた。周りは田んぼで、ご近所のよしみで一緒に蓑虫の声でも聞こうと誘ってみた。

 まあ、本当に蓑虫が鳴くわけではないし、周りの音に耳を澄ませて静かに過ごそうという意味だったんだが、根っからの都会っ子の嵐雪にはわからないかな。

 

 

 起あがる菊ほのか(なり)水のあと

 

 貞享4年の芭蕉庵での句。

 庭の萎れた菊も一雨来ると元気になる。重陽も近い。

 鹿島の名月を見に行った時の疲れも癒えて来たし、来年は吉野で花見もしたいな。

 また一度故郷に帰らなくてはならないし、杜国のことも心配だ。

 来月には旅立たなくては。