連歌集

文和千句第一百韻の世界

水無瀬三吟の世界

湯山三吟の世界


天正十年愛宕百韻の世界

宗祇独吟何人百韻の世界


享徳二年宗砌等何路百韻

 享徳二年(一四五三年)三月十五日の興行で、宗砌、忍誓、行助、専順、心恵(心敬)による五吟百韻。当代きっての連歌師五人が揃うにはわけがあって、この巻には「本歌連歌」として、各句に本歌が挙げられている。その本歌も八代集やその時代の歌人の和歌ではなく、その多くは俗歌と思われるもので、いわば俗歌を本歌に取ることで、当時の雅語の限界を突破しようという実験的な試みだったと思われる。

 発句:咲く藤の裏葉は浪の玉藻哉    宗砌

寛正七年心敬等何人百韻

 寛正七年(一四六六年)三月四日の興行で行助の東国下向の送別会だった。なお、寛正七年は実際には二月二十八日に文正元年に改元されている。

 発句:比やとき花にあづまの種も哉   心敬

応仁元年夏心敬独吟山何百韻

 あの応仁の乱が起きた応仁元年(一四六七)の夏、戦乱の京を遁れて武蔵国品川に下った心敬の独吟百韻。

 発句:ほととぎす聞きしは物か不二の雪 心敬

応仁二年冬心敬等何人百韻

 応仁二年冬、武蔵国品川での十一人の連衆による興行。心敬が発句を詠み、宗祇が脇を付ける。

 発句:雪のをる萱が末葉は道もなし   心敬

宗伊宗祇湯山両吟

 文明十四年(一四八二年)の二月、有馬温泉での興行。宗伊は宗祇より三歳年長にすぎないが、連歌の道では大先輩になる。京に種玉庵を開き、連歌師としての名声も高まる中、その大先輩の胸を借りて挑んだ両吟だが、宗伊はこの二年後に世を去ることとなる。発句もどこか悲しい別れを暗示させる。

 発句:鶯は霧にむせびて山もなし    宗伊

新撰菟玖波祈念百韻

 明応四年(一四九五年)一月六日の興行で、湯山三吟の二年半四年後になる。「新撰菟玖波祈念」とあるように、これから『新撰菟玖波集』を作るぞという決意表明の興行で、制作発表のプロモーションと言ってもいいかもしれない。宗祇・兼載・宗長をはじめとして大勢の連衆が集まり、賑やかな興行だったのだろう。脇は三条西実隆が付けている。

 発句:あさ霞おほふやめぐみ菟玖波山  宗祇