「松風に」の巻、解説

戌九月四日會猿雖亭

初表

 松風に新酒をすます夜寒哉     支考

   月もかたぶく石垣の上     猿雖

 町の門追はるる鹿のとび越えて   芭蕉

   きてはゆかたの裾を引ずる   雪芝

 二十日とも覚へずに行うつかりと  惟然

   此山かりて時鳥まつ      卓袋

 麁相なる草履の尻はきれかかり   望翠

   床であたまをごそごそとそる  支考

 

初裏

 夷講島の袴を手にさげて      猿雖

   喧花の中をむりに引のけ    雪芝

 仕合と矢橋の舟をのらなんだ    芭蕉

   あふげど餅のあぶれかねつる  望翠

 せりせりとなく子を籮につきすへて 卓袋

   大工屋根やの帰る暮とき    芭蕉

 用の有時はかけ込藪どなり     支考

   雨のふる日の節句ゆるやか   雪芝

 きわ墨を置直しても同じ㒵     卓袋

   親といふ字をしらで幾秋    支考

 月影に又せり返すせめ念仏     望翠

   かりたふとんのあとのひややか 猿雖

 咲花に每の咄すつれ斗       惟然

   陽気をうけてつよき椽げた   卓袋

 

二表

 幸と猟の始の雉うちて       雪芝

   内儀の留守に子供あばるる   支考

 道場の門のさし入だだくさに    猿雖

   一里の渡し腹のすきたる    望翠

 山はみな蜜柑の色の黄になりて   芭蕉

   日なれてかかる畑の朝霜    支考

 母方にはなれて月の物淋し     雪芝

   鼠の籠るまき藁のうち     卓袋

 傍輩の髪を結あふ黴の雨      猿雖

   肴出す程さけはしみなり    雪芝

 小倉とは向ひ合の下の関      惟然

   巳の日の風に人死がある    支考

 水くさき千日寺の粥喰て      芭蕉

   歯かけ足駄の雪に埋まれ    猿雖

 

二裏

 漸に今はすみよるかはせ銀     望翠

   加減の薬しつぱりとのむ    芭蕉

 渋紙をまくつて取れば青畳     支考

   こぼれて生る軒の花げし    卓袋

 朝夕の茶湯ばかりを尼の業     猿雖

   飼ば次第に牛の艶つく     雪芝

 枯もせずふとるともなき楠の枝   卓袋

   月見にいつも造作せらるる   支考

 駕もゆらゆらとする秋のかぜ    望翠

   浜の小家を過る霧雨      惟然

 懐に取出して置くとどけ状     卓袋

   いそぎの薺に白豆腐にる    支考

 雪隠の窓よりのぞく花の枝     猿雖

   根笹づたひに鶯の啼      雪芝

       参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

   戌九月四日會猿雖亭

 松風に新酒をすます夜寒哉    支考

 

 元禄七年(一六九四)の干支は甲戌。猿雖は伊賀の門人で、芭蕉の最後の旅での伊賀滞在中の興行になる。

 支考の『芭蕉翁追善日記』にはこの九月四日に「松茸やしらぬ木の葉のへばりつき 芭蕉」を発句とする歌仙興行があったとしているが、記憶違いではないかと思う。メンバーは大体一緒なのでこの前日か翌日か、「松風に」の巻の興行と記憶が混ざってしまったのだろう。

 新酒は前に「一泊り」の巻の三十一句目、

 

   そろそろ寒き秋の炭焼

 谷越しに新酒のめと呼る也    蘭夕

 

の時にも触れたが、江戸初期の四季醸造の頃の古米で秋に仕込む新酒ではなく、延宝元年に寒造り以外の醸造が禁止されたあとなので、早稲で仕込んで晩秋に発酵を終える「あらばしり」だったと思われる。

 その一方で安価な酒としてどぶろくも飲まれていたし、自家醸造することも多かった。「名月や」の巻の四句目、

 

   秋をへて庭に定る石の色

 未生なれの酒のこころみ     涼葉

 

はどぶろくだったと思われる。

 酒を木炭で濾過する方法は既に室町時代に確立されていたが、この場合の新酒があらばしりのことだとしたら、「新酒をすます」というのは醪(もろみ)の入った袋を吊り下げて、搾り出す過程ではないかと思われる。

 こうして出来たあらしぼりは若干白濁しているが、どぶろくに較べれば雲泥の差の澄んだ酒になる。

 寒い夜に澄んだ新酒はありがたい。ただ、飲むのは興行が終わってからで、それまで新酒を澄ませておきましょう、ということか。

 いずれにせよ猿雖への感謝の意が込められた発句になっている。

 

季語は「新酒」で秋。

 

 

   松風に新酒をすます夜寒哉

 月もかたぶく石垣の上      猿雖

 (松風に新酒をすます夜寒哉月もかたぶく石垣の上)

 

 興行開始が夕暮れだったのだろう。四日の月が西の空に、今にも沈みそうになっている。石垣は伊賀上野のお城の石垣だろうか。かつて芭蕉はそこで藤堂家に仕えていた。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

第三

 

   月もかたぶく石垣の上

 町の門追はるる鹿のとび越えて  芭蕉

 (町の門追はるる鹿のとび越えて月もかたぶく石垣の上)

 

 町中に鹿が出てくるあたりはさすが伊賀上野。田舎ですと自分の故郷をやや自嘲気味に詠んでいる。門を飛び越えて出て行った鹿には若い頃の芭蕉自身を重ねているのかもしれない。

 

季語は「鹿」で秋、獣類。

 

四句目

 

   町の門追はるる鹿のとび越えて

 きてはゆかたの裾を引ずる    雪芝

 (町の門追はるる鹿のとび越えてきてはゆかたの裾を引ずる)

 

 雪芝(せっし)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「1670-1711 江戸時代前期-中期の俳人。

寛文10年生まれ。松尾芭蕉(ばしょう)門人。伊賀(いが)(三重県)上野で酒造業をいとなむ。屋号は山田屋。服部土芳(どほう),窪田猿雖(えんすい)らの縁者。句は「続猿蓑(さるみの)」などにのこる。正徳(しょうとく)元年9月28日死去。42歳。名は保俊。通称は七郎右衛門。別号に野松亭。」

 

とある。発句の「新酒」は雪芝さんの差し入れだったか。

 鹿がいきなり出てきたので、あわてたのか浴衣の裾を引きずる。

 前句の「とびこえて」に続けることで、「きて」が来てと着ての両方に掛かる。

 鹿がいきなり出てくるような町だから、湯治場かあるいは近くに修験の山のある町だろう

 「浴衣」というと延宝四年の「いと涼しき」の巻五十三句目に

 

   雪崩れする其岩のはな

 松明の煙につづく白湯かた    信章

 

という句もあり、当時はまだ「浴衣」は季語になってなかった。

 江戸後期の曲亭馬琴の『俳諧歳時記栞草』の夏のところには確かに「内衣(ゆかたびら)」とあるが、貞徳の『俳諧御傘』や立圃の『増補はなひ草』には出てこない。「かたびら」は夏だが特に浴衣はない。

 このころはまだ夏の納涼に浴衣を着る習慣が無かったのかもしれない。

 

無季。「ゆかた」は衣裳。

 

五句目

 

   きてはゆかたの裾を引ずる

 二十日とも覚へずに行うつかりと 惟然

 (二十日とも覚へずに行うつかりと松明の煙につづく白湯かた)

 

 二十日は特に何月と指定はない。浴衣や温泉が修験者に関係があるなら

 

、弘法大師の縁日二十一日の前日ということか。

 

無季。

 

六句目

 

   二十日とも覚へずに行うつかりと

 此山かりて時鳥まつ       卓袋

 (二十日とも覚へずに行うつかりと此山かりて時鳥まつ)

 

 卓袋(たくたい)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「1659-1706 江戸時代前期-中期の俳人。

万治(まんじ)2年生まれ。伊賀(いが)(三重県)上野の富商。松尾芭蕉にまなび,その作品は「猿蓑」などにおさめられている。宝永3年8月14日死去。48歳。通称は市兵衛。屋号は絈屋(かせや)。別号に如是庵。」

 

とある。

 時鳥(ほととぎす)といえば、

 

 卯の花の咲ける垣根の月清み

     寝ねず聞けとや鳴くほととぎす

             よみ人知らず(後撰集)

 夕月夜入るさの山の木隠れに

     ほのかに名のるほととぎすかな

             藤原宗家(千載集)

 五月雨の雲まの月の晴れゆくを

     しばしまちける郭公かな

             二条院讃岐(新古今集)

 

など月の時鳥を詠むことも多い。ただ、二十日ともなると月の出も遅く真っ暗な中で時鳥を待つことになる。

 

季語は「時鳥」で夏、鳥類。「山」は山類。

 

七句目

 

   此山かりて時鳥まつ

 麁相なる草履の尻はきれかかり  望翠

 (麁相なる草履の尻はきれかかり此山かりて時鳥まつ)

 

 望翠も伊賀上野の門人。これより少し前の八月二十四日の興行では、

 

 つぶつぶと掃木をもるる榎実哉  望翠

 

の発句を詠んでいる。

 「麁相(そそう)」はここでは粗末なこと。軽率の意味だと打越の「うつかりと」とかぶってしまう。

 時鳥を待つ人を粗末な草履の侘び人とした。

 

無季。

 

八句目

 

   麁相なる草履の尻はきれかかり

 床であたまをごそごそとそる   支考

 (麁相なる草履の尻はきれかかり床であたまをごそごそとそる)

 

 粗末な草履の男は剃髪して僧形になる。

 

無季。

初裏

九句目

 

   床であたまをごそごそとそる

 夷講島の袴を手にさげて     猿雖

 (床であたまをごそごそとそる夷講島の袴を手にさげて)

 

 旧暦神無月二十日の恵比寿講は神無月の留守を預る恵比寿様を祭る日で、商人の家では恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。

 

 振売の雁あはれ也ゑびす講    芭蕉

 

の句は一年前の江戸での発句で、恵比寿講のご馳走に雁を売りに来る人がいたことを記している。

 商人もこの日は正装をし、袴を穿く。

 

 えびす講酢売に袴着せにけり   芭蕉

 

の句も一年前に詠んでいる。

 前句の「あたまをごそごそとそる」はこの場合月代(さかやき)のことであろう。きちんと月代を剃って長袴を穿いて恵比寿講の宴席に臨むのだが、この句はまだ準備の段階。

 島の袴は縞の袴のことか。

 

季語は「夷講」で冬。「袴」は衣裳。

 

十句目

 

   夷講島の袴を手にさげて

 喧花の中をむりに引のけ     雪芝

 (夷講島の袴を手にさげて喧花の中をむりに引のけ)

 

 「喧花(けんか)」は喧嘩と同じ。酒宴となれば酔っ払っての喧嘩は付き物。加賀山中温泉での山中三吟の第三、

 

   花野みだるる山のまがりめ

 月よしと角力に袴踏ぬぎて    芭蕉

 

ではないが、喧嘩の時にも袴は邪魔なので脱ぎ捨てたのだろう。その袴を拾って「まあまあまあまあ」と中に割って入る。

 

無季。

 

十一句目

 

   喧花の中をむりに引のけ

 仕合と矢橋の舟をのらなんだ   芭蕉

 (仕合と矢橋の舟をのらなんだ喧花の中をむりに引のけ)

 

 「仕合」は「しあはせ」と読む。めぐり合わせや幸運をいう。前句の喧嘩から「仕合(しあひ)」とも掛けているのかもしれない。

 「矢橋(やばせ)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「滋賀県南西部,草津市西部の琵琶湖岸にある地区。旧湖港。江戸時代,東海道の近道となった大津-矢橋間の渡船場として栄えた。」

 

とある。

 矢橋の船頭さんが喧嘩をしている人を見て、「あんたら、これも何かの縁だ、はよう舟にのらなんだ」とでも言ったのだろう。

 「のらなんだ」といい、五句目の惟然の「うつかりと」、八句目の支考の「ごそごそとそる」といった口語的な言い回しは、後の惟然の風に繋がるものかもしれない。

 

無季「矢橋の舟」は水辺。

 

十二句目

 

   仕合と矢橋の舟をのらなんだ

 あふげど餅のあぶれかねつる   望翠

 (仕合と矢橋の舟をのらなんだあふげど餅のあぶれかねつる)

 

 ちょっと茶屋で餅でも食ってから行こうかと思っていると、薪が湿っているのか火力が弱く、餅が焼けない。

 それも何かの縁と、餅をあきらめて舟に乗ろうということになる。

 矢橋に近い草津宿では姥が餅が名物で、

 

 千代の春契るや尉と姥が餅

 

の句が芭蕉に仮託されているが、この頃からあったのかどうかよくわからない。

 

無季。

 

十三句目

 

   あふげど餅のあぶれかねつる

 せりせりとなく子を籮につきすへて 卓袋

 (せりせりとなく子を籮につきすへてあふげど餅のあぶれかねつる)

 

 「せりせり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)

 ① 動作などの落ち着かないさま、せきたてるさまを表わす語。せかせか。

 ※浄瑠璃・心中宵庚申(1722)道行「気のとっさかな姑に、せりせりいぢりたでられて」

 ② せせこましいさまを表わす語。こせこせ。

 ※中華若木詩抄(1520頃)中「祗自寛すと云は、これをせりせりと思ても叶ふべきことか」

 ③ 言動などのうるさいさまを表わす語。

 ※俳諧・みかんの色(1768)「せりせりとなく子を籮につきすへて〈卓袋〉 大工屋根やの帰る暮とき〈芭蕉〉」

 

とある。

 「籮」は「ふご」と読ませているが、餌籮(えふご)の「ふご」か。餌籮は餌を入れる竹籠のことで、「ふご」は単に籠のこと。赤ちゃんを入れる駕籠は「いづめ」とも言う。

 芭蕉筆の『甲子吟行画巻』の富士川の捨て子もいづめに入れられている。

 

無季。「子」は人倫。

 

十四句目

 

   せりせりとなく子を籮につきすへて

 大工屋根やの帰る暮とき     芭蕉

 (せりせりとなく子を籮につきすへて大工屋根やの帰る暮とき)

 

 昔は子供は大事にされていた。それには理由があって、幼児虐待は死罪だから、少しでもそれと疑われるようなことは避けなくてはならなかった。

 だから大工さんが来て屋根屋さんが来ても子供は自由に遊びまわり、大工さんや屋根屋さんに可愛がられていた。

 帰るときには子供も別れが嫌で泣き出す。

 

無季。「大工屋根や」は人倫。

 

十五句目

 

   大工屋根やの帰る暮とき

 用の有時はかけ込藪どなり    支考

 (用の有時はかけ込藪どなり大工屋根やの帰る暮とき)

 

 これは用を足すということだろうか。芭蕉の人情味溢れる前句に対して、シモネタで落としたか。

 

無季。

 

十六句目

 

   用の有時はかけ込藪どなり

 雨のふる日の節句ゆるやか    雪芝

 (用の有時はかけ込藪どなり雨のふる日の節句ゆるやか)

 

 用があると何かと頼られてしまう人なのだろう。節句とあらば、お客さんをもてなす家から、何かとものを借りに来たりして、おちおち昼寝もできない。

 雨ならば静かなものだ。

 

無季。「雨」は降物。

 

十七句目

 

   雨のふる日の節句ゆるやか

 きわ墨を置直しても同じ㒵    卓袋

 (きわ墨を置直しても同じ㒵雨のふる日の節句ゆるやか)

 

 「㒵」は「かほ(顔)」と読む。

 きわ墨(際墨)はコトバンクの「世界大百科事典内の際墨の言及」に、

 

 「井原西鶴《好色一代女》で,女が化粧の際,硯(すずり)の墨で額の際を染めているように,江戸時代の女性は額の形容にも心を配った。生れつきのままで良いのもあるが,額のなりが悪いと愛嬌がないから髪の生え際を剃れと《女鏡秘伝書》にあるように,額を剃ったり生え際に際墨(きわずみ)を薄くぬって形を整えた。」

 

とある。

 雨の日は化粧が乗りにくい。湿気のせいで書いてもすぐ崩れる。節句でおめかししたいけど何度もやり直しているうちに、一日が緩やかに過ぎてゆく。

 

無季。

 

十八句目

 

   きわ墨を置直しても同じ㒵

 親といふ字をしらで幾秋     支考

 (きわ墨を置直しても同じ㒵親といふ字をしらで幾秋)

 

 幼い頃に親と別れた不遇な境遇で、遊女にでもなったのだろうか。際墨は手馴れたもので、いつも同じ顔になるようにメイクする。でも、読み書きはついに習わなかったのだろう。

 幾年でも良さそうだが、ここは月呼び出しで幾秋とする。

 初裏にこれまで月がなく、二十一句目は花の定座になるから、二十句目で秋を終わらせたい。そのためにはここで秋にし、十八、十九、二十と秋にしなくてはならない。

 

季語は「秋」で秋。「親」は人倫。

 

十九句目

 

   親といふ字をしらで幾秋

 月影に又せり返すせめ念仏    望翠

 (月影に又せり返すせめ念仏親といふ字をしらで幾秋)

 

 前句の「親といふ字をしらで」から亡き父の供養で念仏を出す。「せり返す」の「せり」は十三句目の「せりせりと」と同様、せかせかとせきたてるように繰り返すということか。

 「せめ念仏(ねぶつ)」コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「鉦(かね)を鳴らしながら、高い声で早口に唱える念仏。」

 

とある。

 

季語は「月影」で秋、夜分、天象。釈教。

 

二十句目

 

   月影に又せり返すせめ念仏

 かりたふとんのあとのひややか  猿雖

 (かりたふとんのあとのひややか月影に又せり返すせめ念仏)

 

 一晩中念仏を唱えていたので、借りた蒲団は体温で暖められることもなく冷ややかなままになっている。

 

季語は「ひややか」で秋。

 

二十一句目

 

   かりたふとんのあとのひややか

 咲花に每の咄すつれ斗      惟然

 (かりたふとんのあとのひややか咲花に每の咄すつれ斗)

 

 「每の咄す」の読み方がよくわからない。『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)の注には「底本・『さ賀』は初め「毎の」とし、見せ消ちにして、脇に「年」と改める」とある。「年」だとしても「としのはなす」と字足らずになる。

 あるいは「每(つね)の咄(はなし)す」か。

 意味としては多分、花見だというのに周りにいるのはいつもと同じことしか言わない連中で、面白くないということだろう。泊っていけるように蒲団も借りてきたけど、使わずじまいになる。

 まあ、宴会だというのに仕事の話しかしない人というのは今でもいるものだ。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。

 

二十二句目

 

   咲花に每の咄すつれ斗

 陽気をうけてつよき椽げた    卓袋

 (咲花に每の咄すつれ斗陽気をうけてつよき椽げた)

 

 「椽」は垂木のことで、「椽げた」は「椽桁」か。前句の花が咲いても普段どおりの人を腕の良い大工集団としたか。仕事熱心で花も眼に入らない。

 

季語は「陽気」で春。

二表

二十三句目

 

   陽気をうけてつよき椽げた

 幸と猟の始の雉うちて      雪芝

 (幸と猟の始の雉うちて陽気をうけてつよき椽げた)

 

 前句を易の地天泰の卦に見立てたか。

 地天泰は下三本が陽、上三本が陰で、下から陽気が上昇し、上から陰気が降下し、互いに交わる天地和合を意味する。天地が引き裂かれてゆく天地否と真逆になる。

 屋根を支える桁(けた)を陽、その上に左右に渡す椽(たるき)を陰に見立てれば、地天泰の卦になる。

 天地否が七月で秋の初めのように、地天泰は正月、春の初めになる。それで一年の猟の初めに雉を撃つ。

 「いる」のではなく「うつ」とあるから火縄銃で撃ったのだろう。ウィキペディアの「銃規制」の項に、

 

 「徳川綱吉の時代、貞享4年(1687年)の諸国鉄砲改めにより、全国規模の銃規制がかけられた。武士以外の身分の鉄砲は、猟師鉄砲、威し鉄砲(農作物を荒らす鳥獣を追い払うための鉄砲)、用心鉄砲(特に許された護身用鉄砲)に限り、所持者以外に使わせないという条件で認められ、残りは没収された。この政策は綱吉による一連の生類憐れみの令の一環という意味も持ち、当初は鳥獣を追い払うために実弾を用いてはならないとするものだった。それでは追い払う効果が得られず、元禄2年(1689年)6月には実弾発射が許された。」

 

とある。猟師は鉄砲の使用を許されていた。

 

季語は「雉」で春、鳥類。

 

二十四句目

 

   幸と猟の始の雉うちて

 内儀の留守に子供あばるる    支考

 (幸と猟の始の雉うちて内儀の留守に子供あばるる)

 

 「内義(ないぎ)」は町人の妻の敬称。子供からすれば母になる。

 そのうるさい母親が留守なのをこれ幸いと、子供達は狩猟ごっこで大暴れする。

 

無季。「内儀」「子供」は人倫。

 

二十五句目

 

   内儀の留守に子供あばるる

 道場の門のさし入だだくさに   猿雖

 (道場の門のさし入だだくさに内儀の留守に子供あばるる)

 

 「だだくさ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (形動) 雑然として整理のいきとどかないこと。また、そのさま。粗雑。疎略。ぞんざい。

  ※俳諧・新続犬筑波集(1660)一一「そろへぬはこれぞだだくさなづなかな〈重定〉」

 

とある。

 「さし入(いり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 中へはいること。また、はいってすぐの所。

 ※曾我物語(南北朝頃)七「まづ見たまふやうにとて、さしいりの障子の際にぞをきたりける」

  ② はいってすぐの時。その季節やその月にはいってすぐの頃。

 ※浮世草子・懐硯(1687)三「持病に顛癇(てんかん)といふものありて、年毎の小寒の末大寒のさし入にかならず発(おこ)りて」

  ③ (「さしいりに」の形で) まずはじめに。

 ※身のかたみ(室町中頃)「御はなは、顔のうちのぐに、とりわきさしいりにめにたつものにて候」

 

とある。今日でいう「さし入れ」ではなく、道場の門を入ったあたりがちらかっていてという意味で、どうしたのかと思ったらお内儀さんが留守で子供が暴れまわってるからだ、となる。

 

無季。

 

二十六句目

 

   道場の門のさし入だだくさに

 一里の渡し腹のすきたる     望翠

 (道場の門のさし入だだくさに一里の渡し腹のすきたる)

 

 一里の渡しは浜名湖の今切(いまぎれ)の渡しのことか。ただ、この頃はまだ宝永地震の津波の前なので、一里ではなく二十七町だった。(一里は三十六町)

 前句との関係がよくわからない。道場は元は釈迦が悟りを開いた場所のことで、それが転じてお寺の意味もあるが。

 

無季。「一里の渡し」は水辺。

 

二十七句目

 

   一里の渡し腹のすきたる

 山はみな蜜柑の色の黄になりて  芭蕉

 (山はみな蜜柑の色の黄になりて一里の渡し腹のすきたる)

 

 腹がすいている時は山の黄葉も蜜柑に見える。

 

季語は「蜜柑」で秋(近代では冬)。「山」は山類。

 

二十八句目

 

   山はみな蜜柑の色の黄になりて

 日なれてかかる畑の朝霜     支考

 (山はみな蜜柑の色の黄になりて日なれてかかる畑の朝霜)

 

 「なれる」は輪郭を失うこと。朧月ならぬ朧太陽といったところか。朝霧のせいでそうなる。日の光が乱反射して、山は蜜柑色に染まる。

 

季語は「朝霜」で秋(近代では冬)、降物。「日」は天象。

 

二十九句目

 

   日なれてかかる畑の朝霜

 母方にはなれて月の物淋し    雪芝

 (母方にはなれて月の物淋し日なれてかかる畑の朝霜)

 

 両親が離婚し、母方に引き取られてということか。「日なれて」を新しい生活にもようやく慣れてという意味に掛けて用いる。

 『江戸の農民生活史』(速水透、一九八八、NHKブックス)の美濃国安八郡西条村の宗門改帳の調査によると、

 

 「他方、離婚の方をみると、天明元年(一七八二)からの四十年間に二十件と、同じ時期の結婚件数一〇六件の十九パーセントに達し、夫婦五組に一組は離婚したことになる。その後は激減し、残りの五十年間では結婚一二三件に対し六件と五パーセント、二十組に一組に減ってしまった。」(p.139)

 

という。

 一つの村の統計だけだが、江戸時代の離婚率もそれなりに多かったことが予想される。夫婦にトラブルがあると、妻の父が怒って引き戻すということもあり、蕪村の娘もそうだった。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

三十句目

 

   母方にはなれて月の物淋し

 鼠の籠るまき藁のうち      卓袋

 (母方にはなれて月の物淋し鼠の籠るまき藁のうち)

 

 「まき藁」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「稲のわらを巻いて束ねたもの。弓術練習の的、また空手道で突きの稽古など、武術練習の道具に用いられる。」

 

とある。

 母子家庭で弓を教わることもなくなり、父の形見のまき藁も鼠の巣になっているということか。

 

無季。「鼠」は獣類。

 

三十一句目

 

   鼠の籠るまき藁のうち

 傍輩の髪を結あふ黴の雨     猿雖

 (傍輩の髪を結あふ黴の雨鼠の籠るまき藁のうち)

 

 黴は「つゆ」で梅雨のこと。梅雨のさ中、仲良く髪を結いあう二人の男は今なら腐女子が喜びそうな場面だが、「源氏物語」の雨夜の品定めのイメージか。

 『源氏物語』自体も女性の作者により女房向けに書かれた作品だから、当然の事ながら源氏の君と頭の中将、あるいは兵部卿宮(藤壺中宮の兄の方の)とのツーショットシーンはそれが意識されていると思われる。

 

季語は「黴の雨」で夏、降物。「傍輩」は人倫。

 

三十二句目

 

   傍輩の髪を結あふ黴の雨

 肴出す程さけはしみなり     雪芝

 (傍輩の髪を結あふ黴の雨肴出す程さけはしみなり)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注には、「しむなり[翁俳・幽・金・一・珍]。染けり[袖])」とある。「しみなり」は酒が染みる(酔いが回る)という意味。

 

無季。

 

三十三句目

 

   肴出す程さけはしみなり

 小倉とは向ひ合の下の関     惟然

 (小倉とは向ひ合の下の関肴出す程さけはしみなり)

 

 下関は当時は赤間関とも呼ばれていた。寛文十二年より北前船の寄港地となり、繁栄した。赤間関稲荷町は西鶴の『好色一代男』にも描かれた遊里だった。

 対岸の小倉は城下町で、大分雰囲気も違っていたのだろう。

 

無季。「下の関」は水辺。

 

三十四句目

 

   小倉とは向ひ合の下の関

 巳の日の風に人死がある     支考

 (小倉とは向ひ合の下の関巳の日の風に人死がある)

 

 「巳の日」は弁天様の縁日でお目出度い日だが、この日に何か下関で事件があったのだろうか。よくわからない。

 「人死(ひとじに)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 事故など、病気以外の原因で人が死ぬこと。

 ※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「村時雨衆道ぐるひの二道に〈信章〉 人死の恋風さはぐなり〈芭蕉〉」

 

とある。引用されている俳諧は延宝四年春の「奉納貳百韻」の、「此梅に」の巻に続く、

 

 梅の風俳諧国にさかむなり    信章

 

を発句とする百韻の六十二句目で、

 

   村時雨衆道ぐるひの二道に

 人死の恋風さはぐなり      桃青

 

の句を指す。病気以外の原因だから刃傷沙汰も含まれるのか。この次の句は、

 

   人死の恋風さはぐなり

 大火事を袖行水にふせぎかね   信章

 

で、明暦の大火を付けている。明暦の大火は、振袖火事とも呼ばれている。

 

無季。

 

三十五句目

 

   巳の日の風に人死がある

 水くさき千日寺の粥喰て     芭蕉

 (水くさき千日寺の粥喰て巳の日の風に人死がある)

 

 千日寺はウィキペディアの「千日前」のところに、

 

 「道頓堀の南東に位置し、演芸場や映画館などがある娯楽街になっている。西隣の難波にある法善寺と竹林寺(現在は天王寺区に移転)で千日念仏が唱えられていたことから、両寺(特に法善寺)が千日寺と呼ばれ、その門前であることに由来する。」

 

とある。

 「水くさき」はコトバンクの「水臭い」の「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「[形][文]みづくさ・し[ク]

1 水分が多くて味が薄い。水っぽい。「―・い酒」

2 よそよそしい。他人行儀である。「婚約を隠すような―・いまねはよせ」

 

とある。2は人間関係の人情の薄いところから来た比喩による意味の拡張と思われる。

 『校本芭蕉全集 第三巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の「大風に家もくづれ、おびただしき人死に千日の葬礼のすさまじくあるとなり」を引用している。これだと炊き出しのお粥だから薄いということになる。

 この年(元禄七年)の五月下旬に

 

 牛流す村のさはぎや五月雨    之道

 

を発句とする興行があったから、五月に大きな災害があったのかもしれない。

 

無季。釈教。

 

三十六句目

 

   水くさき千日寺の粥喰て

 歯かけ足駄の雪に埋まれ     猿雖

 (水くさき千日寺の粥喰て歯かけ足駄の雪に埋まれ)

 

 薄いお粥を歯がないからだとした。足駄は雨天用の高下駄。足駄の歯が欠けて雪に埋もれているのと、口の歯が欠けてお粥に埋もれているイメージとを重ね合わせている。

 

季語は「雪」で冬、降物。

二裏

三十七句目

 

   歯かけ足駄の雪に埋まれ

 漸に今はすみよるかはせ銀    望翠

 (漸に今はすみよるかはせ銀歯かけ足駄の雪に埋まれ)

 

 前句を貧乏な状態とし、漸(ようや)く為替を銀に交換する事ができたとする。「すみよる」は「済み寄る」。

 為替取引は直接金銀を送金することの手間やリスクを省くために作り出されたもの。金銀銭の交換比率は変動相場で動いていたので、安く買って高く売れば儲けることができたのは今のFXと同じ。

 

無季。

 

三十八句目

 

   漸に今はすみよるかはせ銀

 加減の薬しつぱりとのむ     芭蕉

 (漸に今はすみよるかはせ銀加減の薬しつぱりとのむ)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の、

 

 「これも例の人情世態なり。金銀の取りまはしにこころづかひして、癪気(シャクキ)をなやめる人と見たり。かはせ銀の事の長引て段々と手間どりたるが、やうやうとすみよりたるなり。かかる身の上の人は年中薬のむさま、まことにしかりなり。」

 

を引用している。

 まあ、相場というのは今の言葉だと「胃が痛くなる」ものだ。

 「しっぱり」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「[副]

 1 木の枝などがたわむさま。また、その音を表す語。

 「柳に雪降りて枝もたはむや―と」〈浄・吉岡染〉

 2 手落ちなく十分にするさま。しっかり。

 「たたみかけて切りつくるを、―と受けとめ」〈浄・滝口横笛〉

 3 強く身にこたえるさま。

 「あつつつつつつつ。―だ、―だ」〈滑・浮世風呂・三〉」

 

とある。しっかりと、きちんと飲むというほどポジティブでもなく、仕方なしに、それでも飲まなあかんな、というニュアンスがあったのだろう。

 

無季。

 

三十九句目

 

   加減の薬しつぱりとのむ

 渋紙をまくつて取れば青畳    支考

 (渋紙をまくつて取れば青畳加減の薬しつぱりとのむ)

 

 「渋紙」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「柿渋(かきしぶ)で加工した和紙。柿渋は古くは柿油ともいって、晩夏のころに青柿より絞り取る。この生渋(なましぶ)を半年以上置くとさらに良質の古渋になるが、成分はシブオールというタンニンの一種で、これを和紙に数回塗布することによって耐水性ができ、じょうぶになる。江戸時代には紙衣(かみこ)、合羽(かっぱ)、敷物、荷札、包み紙などに広く使用された。また、捺染(なっせん)の型紙も渋紙の一種である。とくに渋とべんがら(紅殻・弁柄)を混ぜたものは、雨傘の「渋蛇の目(しぶじゃのめ)」の塗料とされた。[町田誠之]」

 

とある。

 新しい家には畳を守るために渋紙が敷かれていて、それを捲り上げると青々とした畳が目に眩しい。これもきちんと薬を飲んで頑張ってきた結果だが、逆に言えば屋敷に住んでももう先がない。

 一生懸命働いて一財産を築いても、それを使う間もなく死んでゆく人というのは結構いるものだ。何のために生きているのか、考えさせられる。

 黄ばんだ畳でも俳諧を楽しむ人もいる。

 

無季。

 

四十句目

 

   渋紙をまくつて取れば青畳

 こぼれて生る軒の花げし     卓袋

 (渋紙をまくつて取れば青畳こぼれて生る軒の花げし)

 

 これは向え付けか。畳みは新しくなったが、藁葺き屋根の軒は古いままで、芥子の花が咲いている。

 

季語は「花けし」で夏、植物(草類)。「軒」は居所。

 

四十一句目

 

   こぼれて生る軒の花げし

 朝夕の茶湯ばかりを尼の業    猿雖

 (朝夕の茶湯ばかりを尼の業こぼれて生る軒の花げし)

 

 「茶湯(ちゃとう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「仏前や霊前に供える煎茶湯。禅家では忌日などに仏前に供える茶と湯をいう。さとう。」

 

とある。

 前句の花芥子の生える軒を尼僧の住む庵とする。

 

無季。「尼」は人倫。

 

四十二句目

 

   朝夕の茶湯ばかりを尼の業

 飼ば次第に牛の艶つく      雪芝

 (朝夕の茶湯ばかりを尼の業飼ば次第に牛の艶つく)

 

 尼と牛は「牛に引かれて善光寺参り」の縁か。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《信心のない老婆が、さらしていた布を角にかけて走っていく牛を追いかけ、ついに善光寺に至り、のち厚く信仰したという話から》思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえ。」

 

とある。

 老婆は出家して尼になったが、老婆を連れてきた牛はどうなったのかはよくわからない。その牛は老婆に飼われたのかもしれない。

 江戸後期になると牛は善光寺に着くと姿を消し、実は観音様だったという落ちがつく。

 

無季。「牛」は獣類。

 

四十三句目

 

   飼ば次第に牛の艶つく

 枯もせずふとるともなき楠の枝  卓袋

 (枯もせずふとるともなき楠の枝飼ば次第に牛の艶つく)

 

 牛と楠の枝は四国八十八箇所霊場の第四十二番札所の佛木寺の起源となる弘法大師のエピソードによるものか。ウィキペディアに、

 

 「大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。」

 

とある。

 仏様になった楠は枯れることもないし、育って太くなることもない。

 

無季。「楠」は植物(木類)。

 

四十四句目

 

   枯もせずふとるともなき楠の枝

 月見にいつも造作せらるる    支考

 (枯もせずふとるともなき楠の枝月見にいつも造作せらるる)

 

 前句を庭の楠として、月見の邪魔になるのでいつも造作(面倒なこと)をさせられる。

 

季語は「月見」で秋、夜分、天象。

 

四十五句目

 

   月見にいつも造作せらるる

 駕もゆらゆらとする秋のかぜ   望翠

 (駕もゆらゆらとする秋のかぜ月見にいつも造作せらるる)

 

 「駕」は「のりもの」と読む。

 月見の季節は台風の強い風が吹くことも多い。駕籠もあおられる。月見の宴とはいっても、行くのがおっくうになる。

 

季語は「秋風」で秋。

 

四十六句目

 

   駕もゆらゆらとする秋のかぜ

 浜の小家を過る霧雨       惟然

 (駕もゆらゆらとする秋のかぜ浜の小家を過る霧雨)

 

 浜辺は海風が強く吹く。

 駕籠に乗る身分の者と浜辺の小家に住む身分の者とを対比させて、駕籠に乗るのも大変だが、霧雨の吹きつけてくる小家はもっと不安だろうなとなる。

 

季語は「霧雨」で秋、降物。霧雨は今では春に使うことが多いが本来は秋のものだった。「浜」は水辺。「小家」は居所。

 

四十七句目

 

   浜の小家を過る霧雨

 懐に取出して置くとどけ状    卓袋

 (懐に取出して置くとどけ状浜の小家を過る霧雨)

 

 江戸時代は飛脚が発達していたが、僻地ともなると飛脚問屋も遠く、誰か通りがかる人に託したのだろう。何の手紙なのか。

 

無季。

 

四十八句目

 

   懐に取出して置くとどけ状

 いそぎの薺に白豆腐にる     支考

 (懐に取出して置くとどけ状いそぎの薺に白豆腐にる)

 

 「薺」は「斎(とぎ)」のこと。法要など仏事のさいの食事で、コトバンクの「お斎」の所には「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「時,斎食 (さいじき) ,時食ともいう。斎とは,もともと不過中食,すなわち正午以前の正しい時間に,食べ過ぎないように食事をとること。以後の時間は非時といって食事をとらないことが戒律で定められている。現在でも南方仏教の比丘たちはこれをきびしく守っている。後世には,この意味が転化して肉食をしないことを斎というようになり,さらには仏事における食事を一般にさすようになった。」

 

とある。

 前句を死亡を知らせる手紙とし、葬式の準備とした。

 「白豆腐」というから白くない豆腐もあったのだろうか、高野豆腐に対しての言葉なのか。

 

無季。

 

四十九句目

 

   いそぎの薺に白豆腐にる

 雪隠の窓よりのぞく花の枝    猿雖

 (雪隠の窓よりのぞく花の枝いそぎの薺に白豆腐にる)

 

 「雪隠(せっちん)」はトイレのことだが、その語源についてコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 

 「〈せついん〉の促音。厠(かわや),便所のこと,義堂周信の《空華集》によれば,唐の雪竇(せっちょう)禅師が霊隠寺の厠をつかさどったところから由来したとも,同じく唐の禅師雪峰義存が厠を掃除して大悟した故事に由来するともいう。地方名せんちん,せちん,せんち。」

 

とある。今でも素手でトイレ掃除をすると運が開けるだとか出世するだとかいうのは、このあたりから来ているのか。

 前句のお斎を僧院での食事とし、その縁で厠ではなく仏教に縁のある雪隠という言葉を出し、花の枝に雪隠で悟りを開いた古人を思うといったところか。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。

 

挙句

 

   雪隠の窓よりのぞく花の枝

 根笹づたひに鶯の啼       雪芝

 (雪隠の窓よりのぞく花の枝根笹づたひに鶯の啼)

 

 根笹はアズマネザサなどのどこにでもある雑草の笹で、高さは三メートルから四メートルにもなる。雪隠の桜に、あまり風流ともいえない根笹と鶯を取り合わせる。雅俗入り混じりお目出度くこの五十韻も終了する。

 あとはこの雪芝さんの作った新酒で乾杯といったところか。

 江戸で炭俵調を確立して上方へ登った芭蕉さんだったが、どこか猿蓑調の残る故郷の門人達と、とにかく出典をはずして軽くすることで新しいものを生み出そうと工夫した跡は残っている。

 「うつかりと」「ごそごそとそる」「のらなんだ」「せりせりと」「しみなり」「しつぱりと」「ゆらゆらとする」といった言葉の使用は後の惟然風にも繋がるものだろう。

 

   朝夕の茶湯ばかりを尼の業

 飼ば次第に牛の艶つく      雪芝

   飼ば次第に牛の艶つく

 枯もせずふとるともなき楠の枝  卓袋

 

は物付けといえば物付けだが、古典だけでなく伝承の類に俤付けを拡大させたとも言える。

 

季語は「鶯」で春、鳥類。「根笹」は植物(草類)。