12月31日

 今年一年ももうすぐ終わり。

 戦後レジームからの脱却というのは日本だけでなく、欧米でも着実に動こうとしているという一年だったな。

 真珠湾攻撃はそれまで第二次世界大戦に介入せずモンロー主義を通していたアメリカが、一転して参戦するきっかけになった事件で、それ以降戦後の冷戦もあって、朝鮮半島、ベトナムをはじめ積極的に参戦し、冷戦崩壊とともに世界の警察と言われるようになっていった。

 ただ湾岸戦争にしてもユーゴスラビア空爆にしても、結果は悲惨なものだった。シリアの反政府勢力の支援も、結局は内戦を泥沼化させ、イスラム国を助ける結果となった。そのイスラム国もアメリカ占領下のイラクでその不満分子の作った国だから、アメリカもそろそろそういうごたごたから手を引いて、昔のモンロー主義に戻りたいのだろう。

 ただ、いまさらグローバル市場そのものを廃止することはできないし、ヨーロッパの植民地を持っているわけではないからブロック経済に戻ることはないだろう。グローバル化の中で軍事介入に代わる国際紛争の解決手段が求められるだけだろう。今のところ経済制裁はほとんど効果を及ぼしてないが、だからといって軍事介入が劇的な成果を挙げたかというとそんなこともない。

 戦後レジームからの脱却は安倍政権の一貫したテーマだったが、あまりにもオバマの民主党路線に偏りすぎた。かつては安倍ヒトラーと呼ばれた強気な態度も所詮はアメリカの威を借る狐で、いまやアメリカ相手に土下座外交。

 EUも国連もこれからかなり揺れ動くだろうな。戦後レジームは日本だけでなく世界的に崩れ始めている。そんな中でトランプは化けるのか、それともただの人で終わるのか。来年の楽しみはそこかな。

 安倍首相もトランプに梯子をはずされてしまったら、ただ女々しくアメリカに必死に取りすがろうとする姿しか残らない。意外な形で安倍政権は終わるかもしれない。ただ、次は一体誰なんだろうか。ハシシタか村田R4かという究極の選択だけ早めて欲しい。

 在特会対しばき隊の争いはもう飽きた。どうせ国民の1パーセントにも満たない勢力同士の争いで、あれを日本国内の重要な動きと見ることはできない。勝手にやって自滅してくれ。

 世界中の多種多様の民族が共存しながら、お互いを束縛しないですむような何かいいシステムはないだろうか。同化でも異化でもない共存の仕方はないのか。ヘテロトピアへの一歩はそこから始める。

 来年も一日一日が本の新しいページをめくるようなわくわくする日々であるように。

12月25日

 デカルト『方法序説』第一部の冒頭の言葉、

 

 Le bon sens est la chose du monde la mieux partagée

 (良識はこの世で最も良く分有されている)

 

 このpartagéeは神より分配されたということを意味する言葉で、デカルト的な霊肉二元論の中ではLe bon sensは精神や理性に属する非物質的な神性に由来するもので、これに対し実際の個々の人間の能力差は肉体に由来する。

 しかし、Le bon sensが超越的な神性ではなくあくまで進化の産物であるとするなら、Le bon sensは進化によって獲得された様々の能力の総体であって、元から一つのものだったわけではない。ましてそれが分有されるということではない。

 Le bon sensは人間のみに存在するものではないし、多様性は進化にとって欠くべからざる要素でもある。Le bon sensは常に多様であり、そのなかで自然選択を経て今も進化の途上にある。

 人間の尊厳は神的な「理性」だとか「精神」だとか「良識(Le bon sens)」だとかが等しく備わっているところにあるのではなく、多様であることそれ自体のうちにある。その多様なものの中で優劣を判定し排除を決定するのも理性ではなく、あくまで人間社会の下世話な事情にすぎない。

 したがって人権の根拠は理性を持つことにではなく、あくまで多様なものすべてが有する根源的な生きる権利にある。

 生まれてきた以上、生きて子孫を残そうとすることはすべての生きとし生けるものの基本的な権利であり、それを制限するものは生存競争であり、自然淘汰の圧力に他ならない。

 生存権は同時に生存を脅かすものの生存権を奪う権利でもある。人間は様々な病原体を殺す権利を有するし、害獣を駆除する権利を持つ。

 また、生存権は同時に生存のために他の生存権を奪って食物にする権利でもある。つまり牛や豚を殺して食う権利を持つ。何を食物として選ぶかは文化によって差異を有し、ある文化では犬や猫を食用とするが、それに対して嫌悪感を抱くのも一つの文化である。

 生存権はあらゆる生き物が生きようとする限り必然的に生まれてくる自然の権利であり、同様に食べる権利や子孫を残す権利も原始的に存在する。又、生存が脅かされた時に抵抗する権利も同様に存在する。

 これらの権利は他のものの権利とぶつかり合うため当然ながら有限である。

 もし人間の理性なり精神なりが本当に神の知の分有であるなら、それが有限であるはずがない。ただ現実にはそれ同士の共食いになってしまっている。デカルトの意図としては、肉体的な差異を取り除いて純粋な精神を追求することで普遍的な真理を導き出し、それに基づいた法の支配に活路を求めたのだろう。ただ、それは遠い未来のことであって現実には暫定的に今の国家の掟の穏健なものに、ということになる。そして、その普遍立法はその後も未来のものであり続けた。

 その後の哲学の歴史では、こうした遠い未来の予定調和の夢は遠のくばかりだった。

 様々な人権の主張だけは繰り返されるが、それがただ一つの世界の秩序をもたらすことはなく衝突し合っている。一つの世界は未だ存在しないし、これから作るのだとしても意見はそろわない。それでもそれぞれ唯一の神が存在することを信じ、一つの世界が実現できることを信じ衝突を繰り返す。それがヨーロッパ的な理性だ。

 

 平等の観念は人類の進化の過程で共感能力を発達させ、弱いものが集まればどんな強い者でも倒せることを知ってしまった時から、個と個の腕力の戦いは無意味になり、狩猟採集社会に見られるような出る杭は打たれる式の実質的平等社会へ移行したところに始まると思われる。

 「良識はこの世で最も良く分有されている」というのは能力の平等ではなく、自分の言っていることが「良識」だという何が良識かを決定する権利の平等といったほうがいい。いわば人それぞれ正義があって、それを普遍立法だと主張する権利を誰もが持っている、という意味での平等だ。

 民主主義の多数決原理は、この平等性を根拠にして、人それぞれの正義に優劣を付けることができない以上、数で決めるしかないというものだ。もし誰かが哲学的独断で正義に優劣をつけられるなら、少数の優れた正義をもつ人たちが、正義の劣った大衆を支配し、指導する権利を有することになる。社会主義国家の民主主義がそれだ。

 議員の数の論理で決まる民主主義を衆愚政治と呼び、正しい民主主義は国会の外にあると考える人たちも、正義に優劣があるという発想によるものと見られる。

 誰もが正義に優劣をつけていいなら、みんな自分の正義を最良のものとするので、結局みんな平等になる。つまり指導者階級が存在し、そこに強力な権力が存在するのでなければ正義に一定の優劣をつけることはできない。哲学的にすべての人が納得するような真理を提示できない以上、どんな哲学的な正義も一つの考え方にすぎない。そのような真理はただいつかそれが実現できるという信仰の中にしかない。

 平等の観念が人間に特有なものだとすれば、平等は人間に限定された平等であり、良識や正義を主張する権利の平等も人間のものに他ならない。人権が動物権(アニマルライト)と区別される根拠はそれで十分だろう。動物権(アニマルライト)は人権の心情的な拡張であり、人間の傍で生活する犬猫やある程度の知能を有すると推測される高等哺乳類の外にまで拡張することは難しい。

 生存権をや子孫を残す権利はすべての生き物が持つとしても、そこに平等性を主張するのはあくまで人間にすぎない。この平等性の根拠は抽象的な神のもとでの平等ではなく、出る杭は打たれる的な、相互抑制的な平等に他ならない。つまり「あいつが俺より多くの権利を持つなんて許せない」と誰もが思うところで成り立っている。

 良識は多様なその表れから肉体的差異を取り除くことによって普遍道徳にいたるのではない。良識は多様な中から自然の選択を経て進化すべきものだ。それゆえ、社会の中で価値観の多様性は維持されなくてはならないし、権力による統制はすべきではない。統制は停滞しか生まない。

 「良識はこの世で最も良く分有されている」というのは、「良識はそれが何であるを誰もが平等に主張する権利を有する」ということであり、実践した結果である種の良識は淘汰されることになる。それは結果的に多くの人の不満を生み出すことで社会から受け入れられなくなり、排除されてゆくことになるからだ。多くの人が不満なものは淘汰され、多くの人が満足するものが残ってゆく。ここに一種の自然淘汰の過程が生じる。民主主義は少なくとも独裁体制よりは自然選択を円滑に進めることができる。どんな立派な哲人政治であれ、独裁者の独断的な判断では多くの人が満足しているものまで哲学的理由で葬り去られる可能性があるし、多くの人が不満を感じているものを権力の力で無理やり維持する可能性がある。

 独裁体制よりは民主主義のほうがよりよい良識を生み出す。一つの価値観を強要する社会よりは、多様な価値観に開かれた社会の方がよりよい良識を生み出す。そのために必要なのは平等な権利、人権の平等、これははずせない。

12月22日

 まあ、あまりパヨクの悪口を言っても批判だけなら誰でもできるんで、代案を出せないなら結局パヨクと一緒じゃないかということで、人権思想を本格的に見直し今の科学で再編する必要がある。

 18世紀の形而上学に基づいた自由主義と人権思想、19世紀の科学に基づいた科学的社会主義、戦後になって19世紀の観念論に回帰したヘーゲル・マルクス主義、どれも賞味期限切れで、今の科学的な世界観に耐えうるものではない。だからかたくなに「思想」に固執している。形而上学的な独断による教条主義は、結局今に限らず左翼に常に付いてまわってた呪縛だった。

 まあ、大体今の人権思想の根本的な問題は、デカルトが『方法序説』の冒頭の「良識(bon sens)はこの世でもっとも公平に配分されているものである」というところにある。

 良識が理性でもいわゆる理論理性、つまり数学的・論理的な思考能力であるとしたら、これはかなり個人差がある。数学の天才と凡人の差は単にどれだけ一生懸命勉強したかの差ではない。

 この良識がいわゆるカント的な実践理性を含むとすると、ますます道徳意識の多様性の問題にぶちあたってしまう。

 結局これはすべての人間が同じだったらという理想論で、現実には同じでないから困っている。

 理性といえども神から与えられた超越的なもの、非物質的、霊的なものではない。あくまで長年の進化の果てに獲得された肉体的能力にすぎないとしたら、その多様性は生物の多様性と同様、当然予想されることだ。

 理性という一つの能力があるのではなく、進化によって獲得された諸能力や感情、情動、欲望を含む総体を漠然と「理性」という言葉で言い表しているなら、むしろ多様性があるからこそ、そこに自然選択が働き、進化が起こると考えなくてはならない。多様性は理性の進化に必要不可欠なものであり、理性の多様性を前提に人権思想を見直さなくてはならない。

 未来は多様性のなかにある。多様なものが多様なものとして真に共存できる社会、ユートピアではないヘテロトピアにむけて、少しづつでも何か考えてゆきたい。

12月15日

 お台場にカジノを作るといってたのは石原都知事の頃だったか。あの時はちょっとしたブームになっていたが、忘れ去られたことに法律ができるとはな。

 日本にはカジノの文化はないし、昔は西洋への憧れということで、モナコやマカオやラスベガスまでわざわざ行った人も多かった。日本にできたとしても、きちんとした服装をして行かなくてはならないし、パチンコや競馬に比べてかなり贅沢な遊びというイメージがあって敷居が高そうだから、果たして流行るかどうか疑問だ。

 カジノへ行かなくても日本には庶民のギャンブルがたくさんある。パチンコ、スロット、競馬、競輪、競艇などラフな服装で気軽に行けるし、宝くじだって一種のギャンブルでつぎ込む人は結構大金をつぎ込んでいて、既にたくさんのギャンブル依存症の人がいる。それに比べるとカジノはむしろステータスと言った方がいいのかもしれない。

 既にカジノで成功した都市はたくさんあるから、日本が外国人観光客を呼ぶには他にはない要素が必要だろう。普通のカジノならわざわざ日本にくる必要もない。となると、パチンコ台でも置くかって、それじゃパチンコ屋だ。だが、外人向けの高級パチンコ店なら観光客を呼べるのではないか。

 まあ、せっかく大金を投資して壮大なリゾート施設を作るなら、きちんとマーケッティングして、すぐに廃墟にならないことを祈る。ハウステンボスもせっかく立ち直ったのだから、カジノに手を出してまたこけなきゃいいが。

 一部に「国家が賭博を奨励するのは人間としてどうよ」という声もあるが、それはモナコやマカオやシンガポールやアメリカに喧嘩を売っているのか。韓国にもカジノはあるから、それは韓国人へのヘイトではないか。問題は日本のカジノが本当に成功するのかどうか、無駄金になりはしないかというところだろう。

12月11日

 仮にこの世界から国境がなくなり、たくさんの民族が混ざり合って一つの社会を形成したとき、そこでの社会のルールはどうなるのだろうか。

 国家が存在し、そこに固有のルールがある場合は基本的に「郷に入れば郷に従え」ということになる。しかし、郷がないならそこは無法状態にならないか。そうでなければいわゆる最大公約数的なものにならざるを得ないだろう。

 問題になるのは「不快なものを退ける権利」であろう。たとえば神社が日本の侵略守護の象徴で不愉快だというなら、神社を見なくてすむ権利、神道の行事、つまりほとんどの祭りがそれに該当するが、それを公共の場所から排除する権利、あるいは人目につく場所から排除する権利、それ等が認められれば、神社は外から見えないような囲いで覆うか宗教色のない建築物の一室に閉じ込めなくてはならないし、祭りも基本的にその中でしかしてはならないことになる。鞄につけた神社のお守りや車に貼った神社のステッカーも公共の場所では禁止ということになろう。もちろん、道端の石祠などもってのほかで即時撤去ということになる。

 神道に不快感を持つ者は、日本人でも数多く存在するし、韓国人、中国人、琉球人の中にも多数存在する。日本という国家があり、そこで昔からの習慣として維持されているから存続できるのであり、真のインターナショナリズムが実現された時には、もはや神道は密室でしか存続し得ない。

 仏教に関しても、それに不快感を持つ異教徒が存在するなら、基本的に同じことになる。キリスト教も同じ。イスラム教も同じということになれば、基本的に宗教活動は決して表に出てはならないものであり、公共の場はすべて世俗的でなくてはならないということになる。

 クリスマスのイルミネーションは、ダビデの星だとかサンタクロースだとかいう宗教色のあるものを取りのぞけば存続できるだろう。ただメリークリスマスはNGでハッピーホリデーに代わる。豚も豚肉も酒も公共の場所から見えるところでは姿を消し、そのほかどこかの知らない宗教の戒律でタブーとされているものがあれば、それも撤去される。多分通りから目に付く所に置けるものは、かなり限定されてゆくことだろう。

 チョン・スンホ(旅行者で在日ではないようだ)の福島での石造破壊事件といい、金山昌秀(こちらは在日で帰化前はキム・チャンス)の寺社連続油被害事件といい、「不快なものを退ける権利」は既に行使されている。

 信教の自由は同時に信仰しない宗教を排除する権利にもなる。信教の自由とは結局すべての信仰を心の内にしまう権利にすぎないのか。

12月5日

 昨日は根津美術館へ『円山応挙─「写生」を超えて─』展を見に行った。

 円山応挙というと子供の頃教科書で読んだ、山の中でイノシシが寝ているのを見つけてその絵を描いたら、それを見た人が何で病気のイノシシの絵を書いたの?と言ったというエピソードのイメージがある。それだけ応挙というと、近代的な写実画の先駆者として公教育で宣伝されてきたイメージが染み付いているのかもしれない。タイトルの「写生を超えて」というのは、そうした旧来の見方を乗り越えてくれというメッセージだと思う。

 前に狩野探幽展を見に行った時に探幽の風景のスケッチを見たが、富士山や天橋立などなかなか写実的に描かれている。狩野派の人たちだって写実的に描けなかったわけではなく、絵というのは単に写実的に描けばそれで良いなんて思ってなかっただけなのだろう。

 いくら対象を正確に描いてもどうせ本物にはかなわないのだから、絵は絵としての独自の世界を作るべきで、自然を模倣してもしょうがないと思っていただけのことだろう。

 それは応挙も一緒で、ただ狩野派とは違う様式の絵を独自に確立しただけのことで、本人は写実画なんて思ってなかっただろう。

 『藤花狗子図』はもふもふ感が強調されて可愛らしく描かれているし、『雲龍図屏風』はおそらく蛇の動きを研究したことで、伝統的な龍の絵にリアリティーを加えようとしたものだろう。この展覧会にはなかったが、前に見たトラの絵は、おそらく毛皮か剥製のトラを基に描いたので、本物の目がどうなっているかわからず、推測で猫目にしてしまっていたようだ。

 富士山の絵があったが、それも雪舟が確立した三つのピークを持つ姿に様式化されたものを、右側に小さなピークを書き加えて左右非対称にしたことでリアリティーを持たせようとしていたが、実物を見て描いたのではないらしい。雪舟の様式から脱却するには30年以上もあとに北斎が『富嶽三十六景』を描くのを待たなくてはならなかったか。

 別の展示室にあった『七難七福図巻』は応挙のまったく別の面を表している。応挙独自の画風は影を潜めて、伝統的な絵巻物の画法で描かれているため、最初別の人の絵かと思った。斜投象で天井のない、絵巻独特の表現で室内の人々を描いているし、キャラクターも誇張して描かれている。流血シーンは後に江戸末期に流行する無残絵の先駆かもしれない。

 七難に比べると七福のほうはインパクトに欠ける。これが江戸時代のリア充かという感じで、今だったら川原でバーベキューの図とか描くのでは。

 根津美術館の庭園の紅葉は見頃だった。外人さんもたくさん来ていた。

 このあと外苑のイチョウや仮囲いだけになった新国立競技場予定地を見て、原宿、明治神宮の森を散歩し、富ヶ谷のShiny Owlのシロフクロウを見た。

 日も暮れて渋谷のイルミネーション、青の洞窟を見た。盛りだくさんの一日だった。

12月2日

 横浜の原発震災いじめ問題は相変わらず闇の中だ。こういう問題の闇というのは、まず「学校は治外法権である」という考え方にあるのではないかと思う。

 戦前の軍国主義の時代に学校教育に権力が介入してきた教訓を踏まえ、戦後の学校教育の現場では一貫して警察権力の介入を拒んできたし、警察も学校の問題には口出さないようにしてきた。そしていじめの問題が起こるたびに繰り返されたのは、学校、教育委員会、自治体が一丸になって、警察の介入を拒もうと一致団結して戦ってきた。すべては軍国主義との戦いということで正当化されてきた。

 だからいじめ問題が起こるたびに奇妙なねじれが起きている。いじめは左翼や人権団体が結束して隠そうとするのに対し、それを暴こうとするのはむしろ右翼系の人たちだ。

 子供のいじめだけでなく、慶応大学の集団レイプ、ネット公開事件にも同じ構図が成り立っている。

 まあ、日本は韓国人や中国人に散々ひどいことをし、日本人がいじめられようがレイプされようが拉致されようが虐殺されようが自業自得で、日本人はみんな本来死ぬべきなのだから(「日本死ね」が流行語大賞になる国だし)基本的に日本人には人権はないという認識なのかもしれない。

 左翼の人たちはみんな自称ヨーロッパ人だから(他称では朝○人)、自分たちだけは人権を謳歌する権利があるのだろう。

 「川島小学校」で検索すると、いろいろ怪情報が出てきて面白い。

 

 マルクス主義の基本的な考え方として、「意識が人間の存在を決定するのではなく、人間の社会的存在が意識を決定する」というのがある。マルクスの『経済学批判』序説の言葉だ。

 戦後のマルクス主義者はいわゆる唯物論ではなく、むしろヘーゲル観念論へと回帰し、極端な観念論に陥って行った。何のことはない。19世紀の科学が時代遅れになり、マルクス主義の理論を「科学」で支えることが困難になったから、哲学(形而上学)でその困難を打開しようとしたのだった。

 そうした中で、あの言葉は社会的存在がすべての存在者に関する認識を決定し、真理が何であるかも社会的関係以外の何物でもないと考えるようになっていった。

 俺も学生の頃、廣松渉の『存在と意味 事的世界観の定礎』くらいなら読んだ。要するに人間の社会的関係を離れて独立した普遍的真理なんてものは存在しないし、そのよな考え方はすべて「物象化」の一言で一蹴できるというものだ。真理を決定するのは社会に他ならず、マルクス主義的に言えば階級意識と言い換えても良いのだろう。極論すれば、真理を決定するのは唯一のプロレタリアの政党だということにもなるか。

 真理は「ある」のではなく「作る」ものだという考え方は、マスコミ関係者の中にもかなり浸透しているのではないかと思う。報道で大事なのは、「もの」として社会の外に存在している真理(物象化された真理)を伝えることではなく、あくまで真理を作るということだ、とマスコミはそう信じているとしか思えない。

 仏教は嘘も方便だと言ったが、左翼は嘘だとは思っていない。真理を作っているだけだ。

 

 人間の社会的関係を超えた超歴史的な「もの」が存在するかどうかは、もちろん科学的には証明できない問題で、形而上学的にもアンチノミーに陥る。だから「関係主義」は証明できなくても、少なくとも引き分けには持ち込める。あとは倫理的要請を盾にとって、DQN理性の定言命令として提起し、あとはひたすら行動あるのみということになる。

11月27日

 自民党の憲法草案がどんな糞でも、野党は対案を出さないし、どうせ修正協議にも応じずに審議拒否を続けるだけだから、無修正のまま少なくとも国会までは通る。今までほとんどの法案がそうだった。せいぜい採決の時になって暴力で抵抗し、「ここまで頑張りました」と努力賞をもらおうという腹だ。

 国民投票でひっくり返されないためには、まず憲法改正を国会だけでできるように憲法改正する必要がある。これが国民投票を通れば、いわゆる「外堀は埋まった」ということになる。後はやりたい放題というわけだ。

 ただこれも諸刃の剣で、憲法改正のハードルをあまり低くしてしまうと、日本も政権が変わるたびに憲法が変わるという状態に突入する。かつての民主党政権誕生のような珍事は、野党がどんなに駄目でも自民党がそれ以上に墓穴を掘ってしまえばありえないことはない。あの時もそうだったから。

 野党はいつ変わるのだろうか。「○○反対」が「○○をやめるように提案します」に変わったところで、ただ言葉が変わっただけだ。別に変えようとしなくても、一定の批判票が入るから変えるといってもポーズだけで良いと思ってるのだろう。

 日本人そのものを劣等民族だと思っているから、左翼政党は最初から国民を信用してないし、戦争を起して多くの人を虐殺した日本人をいかに懲らしめるかというところから出発しているからしょうがない。「日本死ね」が合言葉。

 外堀以前に真田丸すらない日本の野党に、最初から勝ち目はない。新憲法が自民党の言いなりで成立するのは時間の問題だ。

 

 世界は確実に平和になってきている。国家対国家の、いわゆるリバイアサンとリバイアサンの戦争は確実に過去のものになり、今起きているのはすべて内戦レベルで、それが複雑な代理戦争になっているにしても、かつての米ソのような超大国同士というよりは、それよりかなり格下の国同士の代理戦争になっている。

 そんな中で世界の警察は機能していない。日本がたとえ紛争国に入っても、目の前の虐殺をただ見ているだけしかできない。一発でも発砲したら「日本が軍事介入した」ということになってとんでもないことになりかねない。だから駆けつけ警護といっても実際には何もできないだろう。

 アメリカもいても意味のないばかりか、かえって問題をこじらすばかりの世界の警察なんて早くやめてしまいたいのだろう。モンロー主義に戻りたいのだと思う。

 平和になると困るのは、軍人の失業だけではない。反戦運動家も同じだ。世界が平和になれば反戦運動家は晴天の唐傘、いなくてもいい。だから彼らもまた小さな戦争に首を突っ込んでは大げさに騒ぎたがる。今は戦争が無くてもいつか起こるかもしれないといっては、小さなことでも第三次世界大戦の前兆だと言い続ける。それだけ世界は平和だということか。

 人権運動家も、ほとんどの国に人権が無かった時代には良い仕事をしてきたかもしれないが、ひととおり人権が行き渡ってしまうと、より小さな案件で過度に騒ぐしか自らの存在をアピールする手段がない。それもまあ、世界が平和だということか。

 

 カストロが死んだ。何の才能も無く、たいした仕事もしなくても、取りあえず飯が食えればそれで十分だという人には、カストロは良い人だったんだろうな。ただ、それ以上を求めた瞬間から、冷酷な独裁者に姿を変える。北朝鮮もきっとそうなんだろう。

 AIが人間に代わってほとんどの生産活動を行う新時代のスーパー社会主義というのがあるとしたら、才能のない人は、何一つ仕事をしなくてもベーシックインカムで何とか食っていくだけのことはできるようになるだろう。ただ、それより上を目指そうとすれば、IT関連のエンジニアになり、AIやAI搭載のロボットの開発やメンテナンスを行うくらいしか道はない。ただ、誰もそれを志さなくなれば、AI&ロボットは次第に老朽化してトラブルを起し、国民は飢えることになる。そのため十分な動機付けになるだけの報酬の配分は行われなくてはならない。多分それもAIが決めてくれるだろう。

 人間が働かなくなる時代には、税金は取れない。国家の財政は国家自身が資本家となって、自らが印刷したお金を運用するしかない。その頃の資産運用はAIがやるし、どこの国のAIの性能も似たり寄ったりならどこも儲からないから、結果的にアダムスミスの神の手と同じになる。少しでも性能を向上できれば、他の国が追いつくまでの間は利益を得られる。それくらいのものだろう。

 AIはやがて資本家と労働者という対立関係を止揚し、AIが資本を運用しAIが労働を行う新時代を作る。人間はAIが決めた配分通りに生きることを要求される。未来のスーパー社会主義にカストロはいない。AIがあるだけだ。何もしないで遊んで、ただ生きているだけで満足できる人には、きっと天国だと思う。

11月25日

 雪が降ると思い出すのが、親父とお袋が亡くなった時のこと。

 そして今でも思うのが、火葬場に行った時の人数の少なさ。親父の時が五人、お袋の時が四人。そして葬式の時も四人。いくら家族葬とはいえその少なすぎる人数。親戚もいない、友達もいない、仕事関係の人もいない。多分俺が死ぬ時もきっとこんなもんだろう。それを思うと悲しいとか淋しいとかではなく、ただただ空しかった。

 母方のおじいちゃんおばあちゃんが亡くなった時には大勢の参列者がいたのに、何でこうなってしまったのだろうか。

 師範学校に行ってぎりぎりで戦争に取られなかった親父は、戦後に左翼思想に傾倒して日本という国を否定し、親を早い時期に失いただでさえ折り合いの悪かった親族との関係を厭い、退職後は仕事関係の友人もどんどん減っていった。晩年は本当に夫婦二人と働かない兄と持病持ちのその妻、それだけの狭い世界だったのだろう。

 両親が死んでも悲しみもせずに、火葬の時も葬式の時もただくだらない冗談ばかり言う兄。最後まで両親に食わせてもらっていたのに平然とディスる神経。

 それは何か戦後左翼のたどる末路を見たような気がした。先祖、親族、同胞、すべて捨てて孤立してった果てにあったのは、たった四人の葬式。

 そして俺の旅が何なのかわかったような気がした。俺は日本に返りたかったんだ。でももはや帰る所はなく、多分俺の葬式も二人なのか三人なのか、そんなところだろう。すべてを合理的に割り切っていった果てにあるのは、ただ孤独な死だけだ。悲しさも淋しさもない、一切の感情を否定し去った空しさだけしか残らない。

 多分こうやって死ぬまで、「そうだ日本に帰ろう」と思いながら、どこに帰り着くわけでもなく、朽ち果てて行くのだろうな。

11月23日

 人間には多分二種類いる。

 一つは共感能力が発達した狩猟時代からいる旧タイプの人類で、相手の言葉尻に惑わされずに「あいつはああ言っているけど本当はこう何だろっ」って感じで常に本心を探りながら生きている。

 もう一つは論理思考の発達した職人の発生以降の新人類で、思考は論理的だが他人の感情や欲望を理解するのを苦手としている。いわゆる自スペとかアスペとか言われる人たちもこれに含まれ、自閉症スペクトルの遺伝子を有する。

 最近ではニホンザルに自閉症スペクトルの遺伝子が確認されたと言うから、この遺伝子は人類誕生以前の古い時代から常に生じていたのだろう。

 ただ、社会性の強い動物では生存に不利になるため、この遺伝子も人類では長いこと広まることが無かったが、道具の製作が高度化して専業化したとき、この遺伝子は生存に有利に働くようになった。

 職人の発生から都市の形成、国家の誕生はこの遺伝子なしには為し遂げられなかったであろう。

 もちろんこの二者は明確に区別できるものではなく、傾向としてどっち寄りか程度のもので、ほとんどの人間はこの両面を兼ね備えている。ヤンキーは前者の傾向が濃く、オタクは後者の傾向が濃いという程度のもの。

 哲学者や思想家になるのは後者が多く、西洋の近代国家のシステムや人権思想などは後者の人たちによって作られてきた。

 西洋の哲学はただ一つの真理の支配する「一つの世界」を作る方向に向かってきた。しかし、これはしばしば人間の持つ感情や欲望を逆撫でするものとなり、その行き過ぎは社会を非人間的なものにしてしまう危険を含んでいる。『1984』などに描かれたディストピア社会は、その不安を映している。

 また、「一つの世界」という思想はそれに順応する論理型人間の独裁につながる。

 こうした不安は近代社会の中で常に噴出する。イギリスのEU離脱もトランプ大統領爆誕もそうした「一つの世界」への不安の噴出の一つと思われる。そして、これに抵抗してデモを行っている人たちは、間違いなく論理型の新人類であろう。

 香山リカが「もう人間は私たちが知ってる人間じゃないのか」 とツイットしたのはその意味で当を得ている。香山リカは間違いなく新人類の方で、彼女の取り巻きもみんなそんな人たちだから、それが人間の標準だと信じている。ただ、世の中には旧タイプの人類もたくさんいる。彼らは論理だけが支配する「一つの世界」に恐怖を感じている。ただ新人類は残念なことに感情が読めない。だから世の中を見誤っている。

 ヘイトスピッチの問題にしても論理型の新人類は言っていることをすべてそのまま言葉通りに受け止めるから、誰かが「殺せ」と言ったら本当に殺戮が始まるのではないかと恐怖する。トランプさんの過激発言にもいちいちそれが本当に言葉通りに実現されると思って、戦々恐々としている。そしてデモを始め、一部は暴徒化する。

 トランプの支持者たちは「あいつはああ言ってるけど、ただ僕たちの気持ちを代弁してくれているだけで、実際には無理だろう。でも僕たちの気持ちをちゃんとわかってくれる良い人だ。」そう思って投票したのではないかと思う。そこに旧人類と新人類との亀裂が起きたのではないかと思う。

 人の言葉尻よりも共感能力を駆使して相手の本音を探りながら生きている人たちからすれば、民族や宗教や特定の思想を持つ人たちに相対すると、しばしば読み間違う。いわゆる「自分と一緒にする」と言うことが起きてしまうからだ。また性的非対称性についても相手をついつい自分と同じと思って読み誤る傾向が有る。そのためあまり異質なものとの共存を望まず、気の知れた仲間たちだけで過ごしたいという欲求が強いし、女性に対してはしばしば差別的な発言や行動を取ることがある。しかし、それはそれほど悪気があってやっていることではない。

 むしろ極端な民族主義やレイシズム、性差別主義は人間の自然な感情や共感能力を欠いた新人類の指導による所が大きい。そういう思想もまたナチズムのように「一つの世界」を作ろうとする。

 「一つの世界」は戦後やや行き過ぎた。これからその反動は至る所で起こってくる。それがわかっていればイギリスのEU離脱もトランプ大統領爆誕も想定内だったはずだ。

11月21日

 昨日は車で足柄峠へ行った。以前古代東海道を歩いた時は開成駅から歩いて越えたが、今回は普通のドライブ。 

 最初にまず道了尊(大雄山最乗寺)に行った。ここは子供の頃家族で明神ヶ岳登山に行った時に一度来たことがあり、何か印象に残ったのかその後何回か夢に登場した場所で、一度行ってみようとは思っていた。親の霊が呼び寄せたのかもしれない。薄暗い谷間で店が並んでてというイメージだった。 

 その前に石窯パン工房たかはしで昼食のパンを買っていった。 

 道了尊の駐車場に着いてみるとすぐにお寺の中で、記憶にあるのとはだいぶ違う。多分記憶の中のイメージは参道の露店が並んでた記憶で、車だとそこをすっ飛ばしていきなり三門まで来てしまったからだろう。 

 とはいえ大きな寺で何本もある大きな紅葉の木がちょうど見頃で、昨日の雨で湿っていたのでまぶしいくらい鮮やかな色だった。天狗の像があったり高下駄が奉納されたりして、天狗の寺だった。狛犬は三対あり、二対は銘のよくわからない江戸狛犬、一対は平成元年銘の岡崎型だった。 

 そのうち三面殿の前の江戸狛犬には「有難い狛犬」という石に刻んだ説明書きがあった。「数百年前に狛犬が祭られました」と書いてあるが、この狛犬はそんなに古くないだろう。「母犬が子犬をお腹に入れているのも全国でも珍しいですね」とあるが、おっぱいを吸う狛犬は時折見る。でもまあ信じる人は救われるというから、こんな突込みを入れる俺は救われないんだろうな。 

 道了尊を出て足柄峠に向かった。下界の方の紅葉は良い具合だった。山の上の方はやや終わった感じだ。地蔵堂のあたりの金太郎もみじの横では宴会をやっていた。 

 足柄峠の足柄城跡から見る富士山は前にも見たとはいえやはり絶景だ。今日は中腹付近に帯状の雲が流れていた。ここでパンを食べ昼食にした。 

 このあと夕日の瀧を見た。 

 時間があったので、足柄森林公園丸太の森へ行ってみた。隣の足柄ふれあいの村で「森の大地祭」をやっていたが、案内の看板も無く誘導する人もボランティアであまり慣れてないような感じで、どこから入るのかがよくわからない。しかも14時30分終了なので、着いた時には終わりかけていた。

11月16日

 イギリスのEU離脱もアメリカのトランプ大統領爆誕も、グローバル化の行き過ぎへの懸念から来ているという。

 独自の民族・文化を持っているのは、何もイスラム教徒やヒスパニックに限ったことではない。イギリス人だってアメリカ人だって独自の文化を持っている。世界が多様化に向かうなら、イギリス人やアメリカ人だって独自の文化を主張する権利はあるはずだ。マイノリティーへの配慮ばかりが先行し、肝心の自分たちが自分たちの文化を主張しにくくなっているのは日本だけではないということか。

 多様化多様化と言いながら、それぞれの民族が他の民族に向かってあれは不快だあれはやめてくれと言っていると、多様なはず民族が互いの個性を抑制しあって結局単一化して行く。人権思想という一つの価値観で世界中の民族が縛られ、我慢を強いられてゆく。

 最近ではヌーハラなどという、日本人が蕎麦を音立ててすするのは外国人へのハラスメントだなんて議論もある。まあ、昔からお寺のマークはナチスを連想させるからやめてくれなんてドイツ人の声もあるし、光を放射線状に描くだけで旭日旗を連想するからやめてくれという韓国人もいる。

 アメリカでも最近では異教徒への配慮で、メリークリスマスではなくハッピーホリデーズといわなくてはいけないような風潮があるらしい。

 フランスではイスラム女性の被り物が特定の宗教と結びついているという理由で、公共の場所から排除されたりしている。そんなことを行ったら十字架のネックレスや鞄につけた神社のお守りはどうなるのか。

 日本が広く移民に門戸を開放し、宗教的に非寛容な人たちの声が強くなれば、店や事務所に神棚を置いている所は撤去を命じられるようになるだろうし、お祭りも宗教行事で公の道路を占拠するのはいかがなものかになるかもしれない。

 イギリス人だってアメリカ人だって、そんな画一化された世界ではなく、もっとイギリス人らしく、アメリカ人らしく生きたいのではないかと思う。

 それぞれの民族が自分らしく生きられ自分たちの文化を堂々と表現できるようになることが真の多様性なら、今の人権派の言う「多様性」は偽物だ。

 すべての人が自分らしく生きられますように、遺伝子の多様性の一つを全うできますように、そういう祈りが今は右翼的な言動に流れている。それは左翼の頭が固すぎるからだ。

11月13日

 今日は千葉市美術館へ「浦上玉堂父子」展を見に行った。正確には「文人として生きる─浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術」展だが、長すぎるので略す。 

 2006年にも同じ千葉市美術館で「浦上玉堂展」があって見に行ったが、あれから十年が。あの時に書いた「浦上玉堂の山水画を読む」というたいした文章ではなかったけど、一応「鈴呂屋書庫」の方にアップしたのでよろしく。 

 前回は浦上玉堂全集みたいな感じだったが、今回は息子の春琴・秋琴にもスポットを当てている。 

 入るとまず春琴の「浦上玉堂像」、鶴氅衣を着て膝に七弦琴を乗せているやつがあり、今回もその七弦琴や何人もの文人が絵や賛を書いた琴嚢(ソフトケースのようなもの)が展示されていた。 

 玉堂の絵が年代を追って並べられて、今回は他の文人たちとコラボして描いたものが多い。玉堂の絵は一人部屋にこもって書いたものではなく、様々な文人宅に招かれながら、そこで酒を飲んだり琴を弾いたりして、みんなが見ている前で絵を描くという、今で言うライブアートの側面もあったのだろう。一枚の紙に他の人が別の絵を書き添えたり、一人が遠景を描いて一人が近景を描くというようなこともやっていたようだ。春琴の「平安第一楼会集図」には、玉堂が琴を弾いて春琴が絵を描いて、その周りで七人の男が琴に聞き入ったり酒を飲んだりという様子が描かれている。「酔筆山水図」などはきっとべろんべろんに酔ったところで無茶振りされて描いたのではないか。 

 新出の作品もいくつかあったようだ。前に見ても忘れているものが多いから、どれが新出なのか良くわからなかったが、大作のところにあった「夏山雨意図」や「山谿酔行図」がそうだったようだ。 

 玉堂の絵を見た後で春琴の絵を見ると、とにかく普通な感じがする。山水画だけでなく美人画もあったし花鳥や魚や野菜や虫などいろいろなものを描いている。どれも技術的には確かなもので、もっと有名になっていてもよかったのではないかと思う。親父の絵と比べられてしまったから平凡に見えてしまったのだろう。 

 弟の秋琴は玉堂の琴士のほうを受け継いだ人だったが晩年には山水画も書いている。親父ほどのインパクトはないが、それでのなかなか独特なタッチだ。 

 当時の伝統絵画は基本的には斜投象に近いもので、つまり固定した視点というものがなく、右に行けば視点も右に寄り、左に行けば左により、上へ行けば視点も上昇する。普通の山水画はこの視点の移動が整然とした秩序を持っているので、山の形がデフォルメされていても全体には落ち着いた感じに見える。 

 玉堂の場合、視点は不規則にめまぐるしく変わる。馬牙皴で描いた上の平らな山はしばしば上から見下ろすような視点で描かれ、山並みは時として右から見上げたり左から見上げたりして、渦を巻いたりする。その奔放な視点の移動が、見る人を落ち着かせない。鳥にでもなって飛び回っているかのような目の回る世界になる。一種のキュービズムといってもいいのかもしれない。 

 それに加えて、緩く円を描くような米点皴や披麻皴、運動表象を表すような鋭く尖った荷葉皴、丸い気の塊のような造形が散りばめられ、他の山水画にはないまったく独自の世界を作り上げている。 

 残念なのは十年前もそうだったが、会場ががらがらなことだ。伊藤若冲の絵も昔見に行った時は空いてたが、今では入場制限になるほど行列ができて何時間待ちとかの世界になっている。玉堂もいつかそうならないかなと思っている。 

 明治以降の日本の文化人は西洋崇拝がひどくて、平均律と対位法のないものは音楽でなくただの音だといい、江戸時代までの日本には音楽はなく節があっただけだ、なんて言っていたのと同じように、線遠近法とスフマートのないものは絵画として認めようとしない所があった。 

 伊藤若冲や歌川国芳が評価されるようになったのも最近のことだし、玉堂の絵も「つくね芋の山水」なんて言われたこともあった。いつかそういう伝統文化に対する差別やヘイトがなくなることを願うばかりだ。

11月10日

 トランプショックはほんの一過性のものだったな。本国アメリカではそれすら起こらなかった。むしろ普通に御祝儀相場になった。そんなもんだ。絶望している人が何に絶望しているのかわからない。

 人間だから愛もあれば憎しみもあり、それらがうまくバランスを取って世界というのは成り立ってるんで、憎しみだけの世界もなければ愛だけの世界もない。差別はいけないが緩やかな区別は認めなくてはならない。人間はみな同じではないんだし、多様なものがあって人間なんだ。その多様さをお互い認め合ったうえで、多少喧嘩のできるくらいの仲の方がいい。

 モータリゼーションとエレクトリゼーションが当たり前となった時代に育った世代が現役世代の大半を占めるようになり、少子化でもはや領土の拡大の必要がなくなった今、世界中で縮み志向の鎖国主義が台頭してきている。

 外に向かう衝動に基づいた侵略的ナショナリズムではなく、内に向かう引き篭もり的ナショナリズムで、トランプもそうした流れに乗っかって人気を博してきた。それが世界をどう変えてゆくのか、俺は恐怖は感じない。ひょうたんから駒が出るような思いがけない未来が開かれるのを期待したい。

11月9日

 トランプ大統領爆誕だなんて、まるでモンスター扱いだな。

 アメリカのメディアがあれだけ叩きまくっても止められなかったんだから、アメリカのマスコミの影響力もかなり低下している。選挙運動にアイドル歌手を呼んで盛り上げようなんてのも時代遅れだ。

 ただ、獲得した州を見てみると、何のことはない。昔から共和党の強い農村部を確実に抑えただけで、東海岸と西海岸の都市部はクリントンさんが取っている。つまり、共和党もあれだけ内紛があってごたごたしたけど、共和党の支持層は素直にトランプさんに入れたというだけのことではなかったか。

 まあ、これでTPPの承認もどうでもよくなったし、小浜さんに寄り過ぎた安倍政権は方向転換を迫られるだろう。

 ドゥテルテさんも政権が変わったから、これでアメリカと復縁する口実ができたわけで、そこまで読んでいたならさすが真田安房の守だ。

 まあ、大統領といっても独裁者じゃないんだし、所詮は神輿に乗る人なんだから、見栄えが良いにこしたことないし、大統領が代わったからといっていっぺんにそんな大きく変わることはないだろう。小浜さんだって結局核廃絶と言ってて何もしなかったし、チェンジとか言ってて何か変わったかい?

 そうやって裏切られてもやはり夢を見たい、それが人間かもね。

11月7日

 日本工業大学工学部建築学科の学生の作品はどう見ても建築家の谷尻誠さんの「MOUNTAIN GYM(マウンテンジム)」のパクリだし、ほんのちょっと違いを持たせようとして大鋸屑を巻いたことがあの惨事となった。

 オリジナルのMOUNTAIN GYMはTokyo Midtown DESIGN TOUCH 2012で公開され、昼は子どもが遊べるようにし、5時以降はライトアップして鑑賞するだけのものになっていたようだ。

 400ワットの白熱灯の投光器に大鋸屑を近づけたらどうなるかもわからない学生が将来ビルの設計なんかをやるのかと思うと先が思いやられるし、結局日本の建築のレベルというのは現場の優秀な職人がいるから成り立っているのだと思う。インターン制とかにして、一定期間現場で働かせた方がいいのではないかと思う。

 

 電通もひどいが、日本にはもっとひどい企業もたくさんあって、氷山の一角といったところなのだろう。

 企業だけでなく宮内庁もひどいね。あんなお年寄りをこき使って、過労死させるつもりか。あれは日本の労働者の「象徴」だね。まったく人権ってものがないのかね。

 一応言っておくが、「象徴」というのは意味するもの(シニファン)と意味されるもの(シニフィエ)から成り立つもので、意味されるもの(シニフィエ)がたとえ「神」であっても意味するもの(シニファン)は生身の人間なんだからね。現人神というのは意味論的には神様だけど、生物学的には普通の人間なんだから、いたわらなくてはいけないよ。

 退位の規定は高齢だけではなく、病気や精神疾患などによる不測の事態で公務が困難になった場合に備える意味でも必要なことで、いわば国家の危機管理の問題でもある。左翼がこうした問題に消極的なのは、天皇制そのものを否定しようとしているからでしょうがないが、現政権がこの問題に消極的なのはいかなるものか。今の姿勢では国賊と言われてもしょうがない。

 

 大川小学校の問題も結局官僚の非常識というに尽きる。

 官僚は国民の命を守るのが仕事で、官僚が指示した方法で国民の命が守れなかったなら、それは指示が間違ってたか不十分だったということで責任を負うのは当然のことだ。実際の多くの人が死んでるのに指示が正しかったから責任はないなんてことは言えない。

 それに、本当に多くに人の命がかかっている問題に「全員一致主義」はありえない。これは玉砕せよと言っているようなものだ。全員の意見が一致するまで待っていたら、それだけで手遅れになって、結局全員死ぬことになる。意見が分かれたなら別々に行動するのが筋。

 あの場で本当に裏山に避難するのが適切だと思ったなら、全員一致を待たずに、裏山に行くことに賛同する子どもを引き連れてさっさと登るべきだった。反対の人やそれに従う子どもたちは他に逃げればいい。そうすればどちらかは助かっていた可能性が高い。

11月4日

 昨日はフクロウの聖地めぐりの第四弾というか、掛川花鳥園に行った。ちょうど一年前の文化の日には富士花鳥園に行っている。それ以来だ。

 去年と同じように朝6時前に家を出、古いほうの東名高速で掛川に向かった。

 富士山は雲に隠れて、時折ちらっと山頂付近が顔を出す。富士川サービスエリアで車を止めたが、富士山はほんの少しの間しか見れなかった。

 8時には静岡を過ぎたので、吉田インターで降り、一般道を走った。茶畑の中の道を行き、島田へ向かった。ここに来る頃には雲ひとつないいい天気になり、茶畑と大井川のむこうにほんの少し雪を被った富士山が見えた。島田市街を通り、国道1号線のバイパスで掛川に向かった。掛川市内の掛川城の横を通り線路を越えて、開園時刻の9時をちょっと過ぎた頃には花鳥園に着いた。

 花鳥園の建物は富士の方と似ている。入口を入るとすぐにフクロウの展示や売店があるのも一緒だ。

 カラフトフクロウやいわゆるフクロウ、オナガフクロウやマレーワシミミズク、クロワシミミズクなどいろいろいた。シロフクロウは雄と雌の二羽。

 最初の建物を出ると、右側は鴨、左側はペンギンで、ペンギンの餌やり体験をやっていた。

 温室に入ると天井から花がぶら下がっていて、下はテーブルとイスが並べられ、フードコートになっていた。

 隣の温室へ行くとイベント広場で、その脇にもフクロウがいた。次の部屋ではインコがたくさん放し飼いになっていてふれあえるようになっていた。睡蓮やオオオニバスのプールもあった。

 イベント広場のバードショーを見た。フクロウやカンムリカラカラやモモイロインコを飛ばしていた。本来は屋外のショーの時間だったが、風が強いため屋内のショーに差し替えられていた。

 イベントの後、一番奥の部屋のハシビロコウを見た。動かなかった。

 屋外にもたくさんの水鳥がいた。白鳥、黒鳥、ペリカン、そしてここにもフクロウの小屋があり、奥にはエミューがいた。ゴミ箱にもフクロウやペンギンの絵が書いてあるのは芸が細かい。

 富士に比べて花はやや少なめだが、鳥とのふれあいコーナーは充実していた。

 昼食もここのバイキングを食べた。

 このあと、1号線バイパスを戻り島田市ばらの丘公園に行った。今年は生田緑地の秋バラを逃したが、ここもなかなかよく咲いている。静岡の方が咲くのが遅いのか。

 温室もあるし、ローズティーも飲める。島田高校吹奏楽部の演奏もあった。

 このあと静岡へ向かった。駿府城では大道芸のイベントが行われ、たくさんの屋台が並び、人も多くて盛り上がっていた。今日は車だからビールは飲めないが、キリンビアガーデンで静岡おでんを食べた。

10月29日

 ドゥテルテ大統領は真田安房守昌幸になれるか。

 フィリピンは経済力といい軍事力と言い、アメリカや中国に対峙するだけの力はなく、日本、韓国にも及ばない。そんななかでアメリカと中国を天秤に掛け、自分の国に有利にしようとするのは仕方がない。

 アメリカをこき下ろして中国に擦り寄って、南シナ海にフィリピン領の人工島を中国に作らせる約束を取り付けるあたりは、さながら上田城を徳川に建てさせた真田昌幸だ。

 ただ、昔と違うのはドゥテルテさんがどこでどういう発言をしたかを隠しておくことが難しいから、二枚舌は白日の下にさらされる。その中でどういうふうに立ち回るのか、見守ることにしよう。