「はつ雪の」の巻、解説

貞享元年十一月

初表

   おもへど壮年いまだころもを振はず

 はつ雪のことしも袴きてかへる   野水

   霜にまだ見る蕣の食      杜国

 野菊までたづぬる蝶の羽おれて   芭蕉

   うづらふけれとくるまひきけり 荷兮

 麻呂が月袖に鞨鼓をならすらん   重五

   桃花をたをる貞徳の富     正平

 

初裏

 雨こゆる浅香の田螺ほりうへて   杜国

   奥のきさらぎを只なきになく  野水

 床ふけて語ればいとこなる男    荷兮

   縁さまたげの恨みのこりし   芭蕉

 口おしと瘤をちぎるちからなき   野水

   明日はかたきにくび送りせん  重五

 小三太に盃とらせひとつうたひ   芭蕉

   月は遅かれ牡丹ぬす人     杜国

 縄あみのかがりはやぶれ壁落て   重五

   こつこつとのみ地蔵切町    荷兮

 初はなの世とや嫁のいかめしく   杜国

   かぶろいくらの春ぞかはゆき  野水

 

 

二表

 櫛ばこに餅すゆるねやほのかなる  荷兮

   うぐひす起よ紙燭とぼして   芭蕉

 篠ふか梢は下記の蔕さびし     野水

   三線からん不破のせき人    重五

 道すがら美濃で打ける碁を忘る   芭蕉

   ねざめねざねのさても七十   杜国

 奉加めす御堂に金うちになひ    重五

   ひとつの傘の下挙りさす    荷兮

 蓮池に鷺の子遊ぶ夕ま暮      杜国

   まどに手づから薄様をすき   野水

 月にたてる唐輪の髪の赤枯て    荷兮

   恋せぬきぬた臨済をまつ    芭蕉

 

二裏

 秋蝉の虚に聲きくしづかさは    野水

   藤の実つたふ雫ぽつちり    重五

 袂より硯をひらき山かげに     芭蕉

   ひとりは典侍の局か内侍か   杜国

 三ヶの花鸚鵡尾ながの鳥いくさ   重五

   しらがみいさむ越の独活刈   荷兮

 

       『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

   おもへど壮年いまだころもを振はず

 はつ雪のことしも袴きてかへる  野水

 

 野水はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「[2] 江戸前期の俳人。名古屋の人。岡田氏。名は行胤(幸胤)。通称佐次右衛門。屋号備前屋。清洲越の名家で、呉服店主人。はじめ貞門、のち蕉門に帰す。「冬の日」に一座し世に知られたが、晩年は茶道に専心し俳諧から離れた。明暦四~寛保三年(一六五八‐一七四三)」

 

とある。貞享元年(一六八四年)当時は数えで二十七歳。十五で元服四十で初老の時代だから二十七は一番脂の乗り切った頃というべきか。

 「ころもを振はず」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「文選・左思詠史詩八首の中『衣ヲ振フ千仭ノ岡、足ヲ濯グ万里ノ流』による」とある。左太沖『詠史詩八首』の五番目の詩で、

 

 皓天舒白日 靈景耀神州

 列宅紫宮裏 飛宇若雲浮

 峩峩高門内 藹藹皆王侯

 自非攀龍客 何爲欻來遊

 被褐出閶闔 高歩追許由

 振衣千仭岡 濯足萬里流

 

 眩いばかりの昼の空、神州に霊妙に躍る光

 王宮の裏に並ぶ豪邸、その屋根はあたかも雲に浮かび

 崖のように聳える門の内では、王侯貴族が優雅に

 龍の天子の客でないなら、馳せ参じてともに遊ぶこともない

 粗末な衣で宮殿の門を出て、許由の跡を追ってゆきたい

 千仭の岡で衣を振って、万里の川で足を洗いたい

 

というように、間違った権力に媚びるくらいなら隠士になりたいという詩だ。

 隠士の生き方にあこがれつつも、現実はなかなかそうもいかない。田舎に引き籠るにも所領があるわけでもないなら陶淵明にもなれない。かといって汨羅で入水するのは嫌だ。

 まあ、今の世でも田舎暮らしにあこがれながら都会でサラリーマンをやっているようなものだ。

 そういうわけで今年も初雪の降る季節になったが、仕事をやめることなく、今日も袴を着て家業に精を出す。

 

季語は「はつ雪」で冬、降物。「袴」は衣裳。

 

 

   はつ雪のことしも袴きてかへる

 霜にまだ見る蕣の食       杜国

 (はつ雪のことしも袴きてかへる霜にまだ見る蕣の食)

 

 蕣(あさがお)に食(めし)というと、天和二年の

 

 朝顔に我はめしくふ男哉     芭蕉

 

の句が思い浮かぶ。これは、

 

 草の戸に我は蓼くふ蛍哉     其角

 

の句に答えたものだった。酒を飲み遊郭に通い、昼夜逆転した生活をしている其角に対し、普通に朝起きて飯を食う男だと答えたものだ。

 ここではその意味ではなく、発句で言うような、仕事がやめられないというのに答え、霜が降りても咲いている朝顔を見ながらきちんと朝飯を食っています、と応じる。杜国は生まれた年がわかってないが、米問屋の大物で、やはり働き盛りだったと思われる。

 

季語は「霜」で冬、降物。「蕣」は植物、草類。

 

第三

 

   霜にまだ見る蕣の食

 野菊までたづぬる蝶の羽おれて  芭蕉

 (野菊までたづぬる蝶の羽おれて霜にまだ見る蕣の食)

 

 「蕣の食」を朝顔のような儚い飯という比喩として、晩秋の野菊に最後の力を振り絞った蝶も羽が折れて、霜の上に落ちたとする。

 

季語は「野菊」で秋、植物、草類。「蝶」は虫類。

 

四句目

 

   野菊までたづぬる蝶の羽おれて

 うづらふけれとくるまひきけり  荷兮

 (野菊までたづぬる蝶の羽おれてうづらふけれとくるまひきけり)

 

 王朝時代の貴族が車を仕立てて野菊を見に行くが、扉の蝶番が折れて鶉が鳴いたような音を立てる。

 鳩の鳴き真似を「鳩吹く」というように、鵜のような声を出すことを「うづらふけれ」とする。

 

季語は「うづら」で秋、鳥類。

 

五句目

 

   うづらふけれとくるまひきけり

 麻呂が月袖に鞨鼓をならすらん  重五

 (麻呂が月袖に鞨鼓をならすらんうづらふけれとくるまひきけり)

 

 鞨鼓は雅楽に用いられる打楽器で、つづみに似ているがスタンドに乗せ、床に置いて叩く。

 麻呂は『源氏物語』花宴巻に、

 

 「まろは、みな人にゆるされたれば、めしよせたりとも、なんでうことかあらん。」(麻呂は万人に許されたものなれば、誰をお召しになろうともなんちゅうこともない。)

 

とあるから、口語では一人称として用いられていたと思われる。

 打越から切り離すと前句は鶉の声を真似しようとして車で移動している、という意味になるので、月夜に鞨鼓を鳴らして鶉の声を真似ようとしているのか、と付ける。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

六句目

 

   麻呂が月袖に鞨鼓をならすらん

 桃花をたをる貞徳の富      正平

 (麻呂が月袖に鞨鼓をならすらん桃花をたをる貞徳の富)

 

 貞徳さんは金持ちだから仙界の不老不死の桃すら手に入れそうだということか。別名に長頭丸ともいうし、丸は麻呂の訛ったものだから、貞徳も麻呂様ということになる。

 桃の花の枝を折る場面は謡曲『西王母』のような雰囲気もある。謡曲だと鞨鼓ではなく鼓だが。

 正平は最初の歌仙「狂句木がらし」の巻と第三歌仙「つつみかねて」の巻の六句目だけに登場する。あるいは執筆だったか。

 

季語は「桃花」で春、植物、木類。

初裏

七句目

 

   桃花をたをる貞徳の富

 雨こゆる浅香の田螺ほりうへて  杜国

 (雨こゆる浅香の田螺ほりうへて桃花をたをる貞徳の富)

 

 福島郡山の安積沼は、

 

 みちのくのあさかのぬまの花かつみ

     かつみる人に恋ひやわたらん

              よみ人しらず(古今集)

 

の歌で名高く、陸奥の歌枕になっている。後に芭蕉も『奥の細道』の旅で訪ねてゆくことになるが、既に沼は田んぼに変わり、「かつみ」は謎のままだった。

 安積沼は今は田んぼだというのは既に名古屋でも噂になっていたのだろう。かつみならぬ田螺を植えて、お金持ちの貞徳なら洒落でやりかねない、ということか。

 

季語は「田螺」で春、水辺。「雨」は降物。「浅香」は名所、水辺。

 

八句目

 

   雨こゆる浅香の田螺ほりうへて

 奥のきさらぎを只なきになく   野水

 (雨こゆる浅香の田螺ほりうへて奥のきさらぎを只なきになく)

 

 田螺は鳴かないが、なぜか「田螺鳴く」が季語になっている。ミミズの鳴き声の正体はオケラ、蓑虫の鳴き声の正体はカネタタキ、田螺の鳴き声の正体はカジカガエルだという。カジカガエルというと、あの井出の山吹の蛙の声で、江戸時代には混同されてしまったようだ。ただ、気づいている人もいたか、

 

 田螺哉むかしを聞ば井出の里   桃隣

 

の句もある。

 

季語は「きさらぎ」で春。

 

九句目

 

   奥のきさらぎを只なきになく

 床ふけて語ればいとこなる男   荷兮

 (床ふけて語ればいとこなる男奥のきさらぎを只なきになく)

 

 遊女の取った客が薄暗くてよく見えなかったが、夜が更けて見ると実は従弟だった。まさかの再会で大泣きだが、こんなところで。

 

無季。恋。「いとこなる男」は人倫。

 

十句目

 

   床ふけて語ればいとこなる男

 縁さまたげの恨みのこりし    芭蕉

 (床ふけて語ればいとこなる男縁さまたげの恨みのこりし)

 

 この従弟というのがしょうのない男だったんだろうね。まあ、男の方も「俺がいたんじゃお嫁に行けぬ‥‥」なんて思ってるのかな。

 

無季。恋。

 

十一句目

 

   縁さまたげの恨みのこりし

 口おしと瘤をちぎるちからなき  野水

 (口おしと瘤をちぎるちからなき縁さまたげの恨みのこりし)

 

 「瘤」は「ふすべ」と読む。お嫁にいけないのは瘤のせいだった。

 

無季。恋。

 

十二句目

 

   口おしと瘤をちぎるちからなき

 明日はかたきにくび送りせん   重五

 (口おしと瘤をちぎるちからなき明日はかたきにくび送りせん)

 

 合戦で深手を負ったか。明日は敵に首を取られるかもしれないので、この瘤をさらされたら恥ずかしいから取っておきたいのに、それすらもできない。

 

無季。

 

十三句目

 

   明日はかたきにくび送りせん

 小三太に盃とらせひとつうたひ  芭蕉

 (小三太に盃とらせひとつうたひ明日はかたきにくび送りせん)

 

 これは敦盛だろう。小三太という少年を敦盛に見立てて、酒飲ませて謡わせて、明日は敵に首送りする場面を演じさせる。

 

無季。

 

十四句目

 

   小三太に盃とらせひとつうたひ

 月は遅かれ牡丹ぬす人      杜国

 (小三太に盃とらせひとつうたひ月は遅かれ牡丹ぬす人)

 

 小三太の謡いにみんなが気を取られている間に、牡丹を盗んでゆく人がいる。月が遅くて真っ暗なので誰も気が付かない。

 

季語は「牡丹」で夏、植物、草類。「月」は夜分、天象。「人」は人倫。

 

十五句目

 

   月は遅かれ牡丹ぬす人

 縄あみのかがりはやぶれ壁落て  重五

 (縄あみのかがりはやぶれ壁落て月は遅かれ牡丹ぬす人)

 

 「繩あみ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「壁や藁屋根に縄網を覆うて修理補強する」とある。縄網でかがった所が破れて、その向こうの壁も崩れていて、牡丹泥棒がまだ月も登らないとばかりに忍び込もうとする。

 

無季。

 

十六句目

 

   縄あみのかがりはやぶれ壁落て

 こつこつとのみ地蔵切町     荷兮

 (縄あみのかがりはやぶれ壁落てこつこつとのみ地蔵切町)

 

 戦乱や災害で荒れ果てた町だろう。亡くなった子供のために只一心にお地蔵様の像を彫っている人がいる。

 

無季。

 

十七句目

 

   こつこつとのみ地蔵切町

 初はなの世とや嫁のいかめしく  杜国

 (初はなの世とや嫁のいかめしくこつこつとのみ地蔵切町)

 

 「初はな」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」には、

 

 「①その年、その季節になって最初に咲く花。また、その草木に最初に咲いた花。[季語] 春。

  出典古今集 春上

  「打ち出(い)づる波や春のはつはな」

  [訳] 吹き出してくる白波。それが春の最初に咲く花であろうか。

  ②年ごろの若い娘をたとえていう語。」

 

とある。いつから初潮の意味になったかは不明。まあ、昔は数え十四で嫁入りとか多くて、初潮の頃=年ごろの若い娘だったのだろうけど。

 石工の多く住む町で、今で言えば年端もいかぬ娘の婚礼の儀式が厳かに行われる。

 初花は元は年の初めに咲く花だったが、最初に咲く桜の意味にも用いられる。桜の初花は『為忠家後度百首』(一一三五年)の、

 

 山深くたづぬるかひやなからまし

     初花桜にほはざりせは

              藤原為忠(為忠家後度百首)

 

に一例あり、『宝治百首』(一二四八年頃)の、

 

   初花

 軒ばなる初花さくらあかなくに

     かねて日数の春もうらめし

              信覚(宝治百首)

   初花

 しら雲のあまたにやらすたつた山

     初花桜いまさきにけり

              藤原為経(宝治百首)

 

などを含む、一連の「初花」という題で桜を詠んだ作品群の頃には、一般的に定着したと思われる。

 

季語は「初はな」で春。恋。

 

十八句目

 

   初はなの世とや嫁のいかめしく

 かぶろいくらの春ぞかはゆき   野水

 (初はなの世とや嫁のいかめしくかぶろいくらの春ぞかはゆき)

 

 「かぶろ」は「かむろ」でコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「 (1) 前髪の末を切りそろえ,後髪も結わずにそろえて垂らす髪型。 (2) 江戸時代,吉原などの遊所で,大夫,天神など上級の遊女に仕え将来遊女となるための修業をしていた少女。この禿を経ない遊女を「つき出し」といった。『江戸花街沿革誌』に「七八歳乃至十二三歳の少女後来遊女となるべき者にして遊女に事へ見習するを禿といふ。…禿の称号は吉原のみ用ひ,岡場所などにては豆どん,小職などと云ひ慣はしたり」とある。」

 

とある。世間では嫁入りでみんなから祝福される年ごろだというのに、かぶろで遊女にの所に行く春はかわいそうだ。違え付け。

 

季語は「春」で春。恋。「かぶろ」は人倫。

二表

十九句目

 

   かぶろいくらの春ぞかはゆき

 櫛ばこに餅すゆるねやほのかなる 荷兮

 (櫛ばこに餅すゆるねやほのかなるかぶろいくらの春ぞかはゆき)

 

 櫛箱の上に小さな餅を乗せて新年を祝っている閨がほのかにみえて、かぶろの少女は気の毒だ。

 

季語は「餅すゆる」で春。恋。

 

二十句目

 

   櫛ばこに餅すゆるねやほのかなる

 うぐひす起よ紙燭とぼして    芭蕉

 (櫛ばこに餅すゆるねやほのかなるうぐひす起よ紙燭とぼして)

 

 遊女たちの夜の正月に鶯の声はない。せめて紙燭を灯して、鶯よ起きてくれよ。悲しい句の続いたあとで展開を図る。

 

季語は「うぐひす」で春、鳥類。「紙燭」は夜分。

 

二十一句目

 

   うぐひす起よ紙燭とぼして

 篠ふか梢は柿の蔕さびし     野水

 (篠ふか梢は下記の蔕さびしうぐひす起よ紙燭とぼして)

 

 冬の情景で、早く春が来て鶯鳴いてくれ、となる。

 

季語は「柿の蔕(へた)」で冬、植物、木類。

 

二十二句目

 

   篠ふか梢は柿の蔕さびし

 三線からん不破のせき人     重五

 (篠ふか梢は柿の蔕さびし三線からん不破のせき人)

 

 三線は戦国時代に琉球から渡来したので、不破の関の時代にはオーパーツになる。まあ、琵琶では月並みだし。

 

無季。「不破」は名所。

 

二十三句目

 

   三線からん不破のせき人

 道すがら美濃で打ける碁を忘る  芭蕉

 (道すがら美濃で打ける碁を忘る三線からん不破のせき人)

 

 美濃で碁に負けたことも、不破の関を越える頃には忘れる。勝ったなら忘れないところだが。

 

無季。旅体。

 

二十四句目

 

   道すがら美濃で打ける碁を忘る

 ねざめねざねのさても七十    杜国

 (道すがら美濃で打ける碁を忘るねざめねざねのさても七十)

 

 寝ては目覚めてを繰り返し、いつしか七十の年になった。物覚えも悪くなりこの前打った碁のことも忘れていた。

 

無季。

 

二十五句目

 

   ねざめねざねのさても七十

 奉加めす御堂に金うちになひ   重五

 (奉加めす御堂に金うちになひねざめねざねのさても七十)

 

 奉加はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 

 「神仏へ財物を寄進し、堂舎の造営、補修、仏像の造立などを助成すること。事業に自分の財物を加え奉る意で、知識ともいわれた。奉加の趣旨を記したものを奉加状、財物の目録や寄進者の氏名などを記した帳簿や目録を奉加帳、奉加簿という。転じて、一般に財物(金品)を与えたりもらったりすること、またはその金品、寄付をもいう。[佐々木章格]」

 

とある。

 奉加を募っている御堂に金(こがね)を持ってゆく。特に何もなく生きてきたが、そろそろ来世のことも気になる年頃。

 

無季。釈教。

 

二十六句目

 

   奉加めす御堂に金うちになひ

 ひとつの傘の下挙りさす     荷兮

 (奉加めす御堂に金うちになひひとつの傘の下挙りさす)

 

 仏教では僧を助けたものはその僧とともに成仏できるとされている。それが托鉢の僧に食糧を提供するのみならず、お寺に多額の寄付をすれば救われるという根拠にもなっている。あたかもお寺という一つ傘にみんながこぞって入ろうとするみたいだ。

 

無季。釈教。

 

二十七句目

 

   ひとつの傘の下挙りさす

 蓮池に鷺の子遊ぶ夕ま暮     杜国

 (蓮池に鷺の子遊ぶ夕ま暮ひとつの傘の下挙りさす)

 

 書いてないけど夕立でも来たのだろう。人は傘の下に集まるが鷺の子は池で遊んでいる。

 

季語は「蓮池」で夏、植物、草類、水辺。「鷺」は鳥類。

 

二十八句目

 

   蓮池に鷺の子遊ぶ夕ま暮

 まどに手づから薄様をすき    野水

 (蓮池に鷺の子遊ぶ夕ま暮まどに手づから薄様をすき)

 

 蓮池の辺に庵を構える人は、窓に貼るための薄紙を自分で漉く。ガラス窓のない時代は障子窓だった。

 

無季。

 

二十九句目

 

   まどに手づから薄様をすき

 月にたてる唐輪の髪の赤枯て   荷兮

 (月にたてる唐輪の髪の赤枯てまどに手づから薄様をすき)

 

 唐輪(からわ)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「日本髪の一種。男女ともに結んだ。男性の唐輪は、鎌倉時代に武家の若者や寺院の稚児(ちご)などが結った髪形で、その形は後世における稚児髷(まげ)に類似している。その結び方は、髪のもとを取りそろえて百会(ひゃくえ)(脳天)にあげ、そこで一結びしてから二分し、額の上に丸く輪とした。一方、女性の唐輪は、下げ髪が仕事の際に不便なので、根で一結びしてから輪につくり、その余りを根に巻き付けたもので、安土(あづち)桃山時代の天正(てんしょう)年間(1573~92)から行われた。[遠藤 武]」

 

とある。ここでは髷を結わない古い時代の女性であろう。

 髪の赤枯れは加齢によって白髪になるのと違い、メラニン色素が減ることによって起きる。ストレスや栄養不良が原因になる。

 自分で反古を漉いて再生紙を作ったり、かなり生活に苦労があったのだろう。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

三十句目

 

   月にたてる唐輪の髪の赤枯て

 恋せぬきぬた臨済をまつ     芭蕉

 (月にたてる唐輪の髪の赤枯て恋せぬきぬた臨済をまつ)

 

 月に砧というと李白の「長安一片月」で、出征した愛しい人の帰りを待つ。恋せぬ砧はただ臨済を待つ。臨済宗の僧を待つというわけでないなら、臨済を文字通りに読んで救済の場に居合わせる、つまり死を待つということか。

 月に砧は付き物で、出典は李白の「子夜呉歌」であろう。

 

   子夜呉歌   李白

 長安一片月 萬戸擣衣声 

 秋風吹不尽 総是玉関情 

 何日平胡虜 良人罷遠征

 

 長安のひとひらの月に、どこの家からも衣を打つ音。

 秋風は止むことなく、どれも西域の入口の玉門関の心。

 いつになったら胡人のやつらを平らげて、あの人が遠征から帰るのよ。

 

 ここでは出征兵士の帰還を待つのではなく、お婿さんがやって来る不安と気体で眠れない夜の話となる。男が婿入りするというのは、織物の盛んな地域の話だろうか。

 月に砧は和歌にも、

 

 小夜ふけて砧の音ぞたゆむなる

     月をみつつや衣うつらん

              覚性法親王(千載集)

 

の歌がある。

 

季語は「きぬた」で秋。釈教。

二裏

三十一句目

 

   恋せぬきぬた臨済をまつ

 秋蝉の虚に聲きくしづかさは   野水

 (秋蝉の虚に聲きくしづかさは恋せぬきぬた臨済をまつ)

 

 秋蝉の虚(から)は空蝉ともいう。抜け殻なので鳴くことはない。そのように静かに死を待つ。

 

季語は「秋蝉」で秋、虫類。

 

三十二句目

 

   秋蝉の虚に聲きくしづかさは

 藤の実つたふ雫ぽつちり     重五

 (秋蝉の虚に聲きくしづかさは藤の実つたふ雫ぽつちり)

 

 ここは景を付けて逃げ句にする。

 藤の実というと、元禄二年に素牛(後の惟然)と出会った時、素牛がこの地を訪れが宗祇法師の話をし、

 

   美濃国関といふ所の山寺に藤の花の咲きたるを見て

 関こえて爰も藤しろみさか哉   宗祇

 

という句を残したのを聞いて、

 

   関の住素牛何がし大垣の旅店を訪はれしに彼ふちしろみさ

   かといひけん花は宗祇の昔に匂ひて

 藤の実は俳諧にせん花の跡    芭蕉

 

という句を詠んでいる。(『風羅念仏にさすらう』沢木美子、一九九九、翰林書房)

 藤はマメ科なので鞘に入った豆の実がなる。藤の花が連歌なら藤の実は俳諧ということで、花も大事だが実も大事だということを教えたという。ちょうど芭蕉にとっても不易流行説の固まる頃だったのだろう。

 この時芭蕉の脳裏にはこの重五の句もあったかもしれない。「藤の実」はこの時は遣り句の道具に過ぎなかったが、芭蕉はそれを発句の道具に高めることとなった。

 なお、季吟の『俳諧秘』には、

 

 「藤見といへる秀句は、人を棄市するわざに藤身といへるもの有て、身もやすらかにただすぎられぬをいへるにや。庭にもせよ山にもせよ、屠所云たてたるもいかがにや。」

 

とあり、「藤の実」ではないけど似ている「藤見」は忌むべき言葉とされている。屠所とあるところから、「ふぢみ」と呼ばれるその方面の賤業があったのかもしれない。

 

季語は「藤の実」で秋、植物、木類。

 

三十三句目

 

   藤の実つたふ雫ぽつちり

 袂より硯をひらき山かげに    芭蕉

 (袂より硯をひらき山かげに藤の実つたふ雫ぽつちり)

 

 矢立てのことであろう。筆のケースの先に小さな硯のついたもので、芭蕉が用いたのは檜扇型という扇子のように横に蓋をスライドさせて使うタイプのものだという。『奥の細道』の旅立ちの時に、

 

 「行春や鳥啼き魚の目は泪    芭蕉

 これを矢立の初として、行道なをすすまず。」

 

と記している。

 旅で矢立ての硯を開いて何か書きつけようとしていると、藤の実の雫が落ちてくる。

 

無季。旅体。「山かげ」は山類。

 

三十四句目

 

   袂より硯をひらき山かげに

 ひとりは典侍の局か内侍か    杜国

 (袂より硯をひらき山かげにひとりは典侍の局か内侍か)

 

 「典侍」は「ないしのすけ」でここでは略称で「すけ」と読む。ウィキペディアに「律令制における官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)。単に「すけ」とも呼ばれた。」とある。

 ここでは典侍自身は不在でそれに仕える局か内侍が一人付き従っているとする。となるともう一人は女御か更衣か。歌でも詠むのだろう。

 

無季。「典侍の局」「内侍」は人倫。

 

三十五句目

 

   ひとりは典侍の局か内侍か

 三ヶの花鸚鵡尾ながの鳥いくさ  重五

 (三ヶの花鸚鵡尾ながの鳥いくさひとりは典侍の局か内侍か)

 

 「鳥いくさ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 「鳥を闘わすのではなく、羽や声の美しさを競う。三月三日に宮中で行われた鶏合の行事。」

 

とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「〘名〙 鶏を戦わせて観賞する物合(ものあわせ)の一種。中国、唐の玄宗皇帝が好み、清明の節に鶏を戦わせた故事により、日本では三月三日に行なったという。宮中から民間に波及して広く行なわれた。とりあわせ。闘鶏。〔塵袋(1264‐88頃)〕」

 

とあり、元は闘鶏だったようだ。

 闘鶏は軍鶏だが、ここでは鸚鵡や尾ながなど珍しい鳥を競わせているので、ひょっとしたら鑑賞会みたいな闘鶏があったのかもしれないが、多分想像で作ったものだろう。

 鸚鵡はウィキペディアによると、

 

 「オウム、大型インコが日本に輸入されたのはかなり古く、記録に残っている最古のものは647年(大化3年)に金春秋とともに新羅から献上され、656年には遣百済使の難波国勝らによってももたらされており、その後もたびたび輸入されているようである。江戸時代に入ってからは、将軍、大名家で飼育され、庶民の見せ物小屋などでもみられるようになった。」

 

とあるから、王朝時代にいてもおかしくない。江戸時代では市場の見世物になることもあったのだろう。この興行の少し前に大垣で行われた「師の桜」の巻の三十三句目に、

 

   二疋の牛を市に吟ずる

 鸚兮鵡兮朝の喧き        芭蕉

 

の句がある。重五も同じものを見たのかもしれない。

 花の下で貴族の女性も列席してオウムやオナガを競わせて華やかに花の定座を盛り上げる。

 

季語は「三ヶの花」で春、植物、木類。「鸚鵡尾なが」は鳥類。

 

挙句

 

   三ヶの花鸚鵡尾ながの鳥いくさ

 しらがみいさむ越の独活刈    荷兮

 (三ヶの花鸚鵡尾ながの鳥いくさしらがみいさむ越の独活刈)

 

 前句を市場の情景とし、北陸から独活を売りに来る白髪の老人の闊達な姿を添えて一巻は目出度く終わる。

 

季語は「独活刈」で春、人倫。