「両の手に」の巻、解説

初表

   草庵に桃桜あり

   門人に其角嵐雪をもてり

 両の手に桃とさくらや草の餅   芭蕉

   翁に馴し蝶鳥の兒      嵐雪

 野屋敷の火縄もゆるすかげろふに 其角

   山のあなたの鐘聞ゆ也    芭蕉

 のり下に月毛の駒の有明て    嵐雪

   風ひややかにきれぎれの雲  其角

 

初裏

 傍輩に相撲の打身いたはられ   芭蕉

   帯ほころばす金のたしなみ  嵐雪

 寝言さへ初瀬籠の南無大慈    其角

   まめ蒔しまふ宵過の東風   芭蕉

 酒さます杖にかぼそき禿ども   嵐雪

   剥ゲやともらふ老の紅裏   其角

 屓軍巧者に引てかへる也     芭蕉

   ふたたび暮るる霧の明方   嵐雪

 見尽して蚊屋へ這入月の友    其角

   庵の雑水をすする小男鹿   芭蕉

 一通彼岸の華の咲ちりて     嵐雪

   日永にめぐる嵯峨や太秦   其角

 

 

二表

 あたたかに綿子とらせん弱法師  嵐雪

   御医者まじりに伽衆立るる  芭蕉

 舷を波よ波よと追もどし     其角

   てうちん見ゆる町の入口   嵐雪

 女房よぶ米屋の亭主若やぎて   芭蕉

   高田の喧嘩はやむかしなり  其角

 夏寒き関の孫六ぬきはなし    嵐雪

   たしなき風の石菖へ来る   芭蕉

 牛の子の牛にせかるる市の中   其角

   江湖披露の田舎六尺     嵐雪

 とつぷりと夜に入月の鳥羽繩手  芭蕉

   いづくとまりと鴫の行らん  嵐雪

 

二裏

 糊たちに四手うつ葛の裏表    其角

   ずんずとのびる男兄弟    芭蕉

 一度は江戸をみたがる小あきなひ 嵐雪

   みたらし汲で神の門前    芭蕉

 栄よと未来を植し花の陰     其角

   三人笑ふ春の日ぐらし    嵐雪

 

      参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

   草庵に桃桜あり

   門人に其角嵐雪をもてり

 両の手に桃とさくらや草の餅   芭蕉

 

 発句は元禄六年刊兀峰編の『桃の実』の巻頭を飾る句で、

 

 菓子盆に芥子人形や桃花     其角

 桃の日や蠏は美人に笑るる    嵐雪

   かかる翁の句にあへるは、人々

   のほまれならずや。おもふに素人

   の句は、青からんものをと人やい

   ふらん、おもふらん

 しろしとも青しともいへひしの餅 兀峯

 

と続く。

 三月三日の上巳の句で、今はひな祭りとも桃の節句ともいう。草餅はウィキペディアに、

 

 「現代では草餅に用いされる草とは主に蓬であるが、古くは母子草(春の七草のゴギョウ)を用いて作られ、名称も草餅でなく母子餅とよばれていた[1]。 餅に草を練りこむという風習は、草の香りには邪気を祓う力があると信じ、上巳の節句に黍麹草(鼠麹草、母子草)を混ぜ込んだ餅を食べる風習が、中国より伝わってきたものと考えられており、この風習は平安時代には宮中行事の一つとして定着していたことが『日本文徳天皇実録』(9世紀成立)嘉祥3年(850年)5月条に記されている。

 上巳の節句は江戸時代には女子の健やかな成長を願う雛祭りとして広まってゆき、当時の菱餅は餅の白と草餅の緑の二色で作られることが多かった。」

 

とある。

 ひな祭りだが、芭蕉の側にいるのは其角と嵐雪で、これを桃と桜に見立て、両手に花というわけだ。まあ、別の方で想像を掻き立てられる句だ。

 これを立句として芭蕉・其角・嵐雪の3P‥じゃなかった、三吟が始まる。

 

季語は「草餅」で春。「桃とさくら」は植物、木類。

 

 

   両の手に桃とさくらや草の餅

 翁に馴し蝶鳥の兒        嵐雪

 (両の手に桃とさくらや草の餅翁に馴し蝶鳥の兒)

 

 読者の期待を裏切らず、「兒(ちご)」を付けてくる。

 翁の手に桃と桜があれば、そこに蝶や鳥が寄ってくるように稚児が寄ってくる。

 まあ、このいかにもな盛り上げ方が、真偽の疑われる所でもあろう。

 印象からすると、蕉門らしさは十分感じられるし、かなり完成度の高い一巻なのだが、其角と嵐雪が何となくそのキャラではないように思える。ただ、それは軽みの風を指導した結果かもしれない。

 あるいは芭蕉が原型をとどめぬほど改作してしまい、実質独吟になってしまったのかもしれない。其角嵐雪がプライドを傷つけられた形になり、長いこと埋もれていたという推測もできる。

 

季語は「蝶」で春、虫類。「鳥」は鳥類。「翁」「兒」は人倫。

 

第三

 

   翁に馴し蝶鳥の兒

 野屋敷の火縄もゆるすかげろふに 其角

 (野屋敷の火縄もゆるすかげろふに翁に馴し蝶鳥の兒)

 

 野屋敷は田舎の別邸のようなものだろう。

 ただ、辺りの景色にそぐわない立派な屋敷は何か怪しい。さては狐の仕業かと火縄銃で撃てば、すべてはただ陽炎に消え去る。

 残ったものは翁の脇を跳ぶ蝶や鳥で、これが稚児の正体だったか。

 江戸時代は害獣駆除のための猟銃が百姓にも許されていた。

 

季語は「かげろふ」で春。「野屋敷」は居所。

 

四句目

 

   野屋敷の火縄もゆるすかげろふに

 山のあなたの鐘聞ゆ也      芭蕉

 (野屋敷の火縄もゆるすかげろふに山のあなたの鐘聞ゆ也)

 

 火縄は鳥獣の殺生を連想させるもので、それを諫めるように山の向こうから鐘の音が聞こえてくる。

 

無季。「山」は山類。

 

五句目

 

   山のあなたの鐘聞ゆ也

 のり下に月毛の駒の有明て    嵐雪

 (のり下に月毛の駒の有明て山のあなたの鐘聞ゆ也)

 

 「のり下」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「乗下」の解説」に、

 

 「① 荷をつけて運ぶ馬の鞍の下部。また、そこに付けた荷物。

  ※浮世草子・好色一代女(1686)二「大津馬に四斗入の酒樽を乗下(ノリシタ)に付」

  ② 乗りごこち。

  ※説経節・をくり(御物絵巻)(17C中)七「あのやうな、のりしたのよきむまがあるならば」

 

とある。この場合は②で「乗り下の良きに」の省略か。

 「月毛」はコトバンクの「デジタル大辞泉「月毛」の解説」に、

 

 「馬の毛色の名。葦毛でやや赤みを帯びて見えるもの。また、その毛色の馬。」

 

とある。

 前句の鐘を夜明けの鐘として旅体に転じる。

 

季語は「有明て」で秋、夜分、天象。旅体。「駒」は獣類。

 

六句目

 

   のり下に月毛の駒の有明て

 風ひややかにきれぎれの雲    其角

 (のり下に月毛の駒の有明て風ひややかにきれぎれの雲)

 

 秋なので「風ひややか」とし、片雲の思いを「きれぎれの雲」とする。

 

季語は「風ひややか」で秋。「雲」は聳物。

初裏

七句目

 

   風ひややかにきれぎれの雲

 傍輩に相撲の打身いたはられ   芭蕉

 (傍輩に相撲の打身いたはられ風ひややかにきれぎれの雲)

 

 興行相撲ではなく草相撲であろう。ありそうなことではある。

 

季語は「相撲」で秋。「傍輩」は人倫。

 

八句目

 

   傍輩に相撲の打身いたはられ

 帯ほころばす金のたしなみ    嵐雪

 (傍輩に相撲の打身いたはられ帯ほころばす金のたしなみ)

 

 「たしなみ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「嗜」の解説」に、

 

 「たしなみ【嗜】

  〘名〙 (動詞「たしなむ(嗜)」の連用形の名詞化)

  ① 芸事などに親しむこと。

  ※風姿花伝(1400‐02頃)二「およそ、女懸り、若き為手(して)のたしなみに似あふ事なり」

  ② 日頃の心がけ。そのものとしての、立場としての心得。用意。覚悟。

  ※太平記(14C後)二「朝暮只武勇の御嗜(タシナミ)の外は他事なし」

  ③ つつしみ。節制。

  ※羅葡日辞書(1595)「Castus〈略〉キレイ ナル、taxinami(タシナミ) アル モノ、フボンヲ タモツ モノ フインヲ タモツ モノ」

  ④ 身を飾ること。おしゃれ。身だしなみ。

  ※読本・占夢南柯後記(1812)六「すつる身を、何たしなみの髪化粧(かみけはひ)」

  ⑤ 嗜好品などを適度に口にすること。」

 

とある。この場合は③か。金を節約して帯も綻んだままになっている。

 相撲に弱い同輩は金にも縁がなさそうだ。位付けになる。

 

無季。「帯」は衣裳。

 

九句目

 

   帯ほころばす金のたしなみ

 寝言さへ初瀬籠の南無大慈    其角

 (寝言さへ初瀬籠の南無大慈帯ほころばす金のたしなみ)

 

 「南無大慈」は「南無大慈大悲観世音菩薩」で、観音霊場を廻る時に唱える。

 初瀬というと『源氏物語』の玉鬘を俤とすることが多いが、ここではそれは取らず、初瀬籠りだと『住吉物語』の初瀬の悪夢になるが、特にそれを匂わすものでもない。

 初瀬を出しながらも完全に出典をはずし、貧乏な巡礼者が初瀬に籠っても寝言で「南無大慈」と言っているという純粋な信心だけを描く。

 

無季。釈教。「初瀬」は名所。

 

十句目

 

   寝言さへ初瀬籠の南無大慈

 まめ蒔しまふ宵過の東風     芭蕉

 (寝言さへ初瀬籠の南無大慈まめ蒔しまふ宵過の東風)

 

 節分の豆まきも終わり眠りにつくと、風が春風に変わり、寝床の中の寝言にも観音菩薩の大慈を讃え、春を喜ぶ。

 

季語は「まめ蒔」で冬。

 

十一句目

 

   まめ蒔しまふ宵過の東風

 酒さます杖にかぼそき禿ども   嵐雪

 (酒さます杖にかぼそき禿どもまめ蒔しまふ宵過の東風)

 

 禿(かむろ)は遊女の見習いの少女で、支考が『禿賦』を記している。

 遊郭の節分で、ふらっとやってきた旅人が揚屋で酔いつぶれてしまったか。

 

無季。恋。「禿」は人倫。

 

十二句目

 

   酒さます杖にかぼそき禿ども

 剥ゲやともらふ老の紅裏     其角

 (酒さます杖にかぼそき禿ども剥ゲやともらふ老の紅裏)

 

 禿(かむろ)に「剥ゲ」という付けはちょっと支考っぽい。

 紅裏は「こううら」とルビがある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「紅裏」の解説」に、

 

 「こう‐うら【紅裏】

  〘名〙 紅染(こうぞめ)の裏を付けた着物。江戸時代、武家の老人、医師、茶坊主などが許可を得て着用したもの。

  ※俳諧・菊のちり(1708頃)「うけ給はって聞んの一役〈入松〉 紅うらをうち懸けにけり小夜衣〈其従〉」

  もみ‐うら【紅裏】

  〘名〙 もみを衣服の裏とすること。また、その裏地。

  ※俳諧・玉海集(1656)四「絹ならで皆もみうらのかみこかな〈梅盛〉」

 

とある。前者は男物で後者は女物か。

 前句の「禿(かむろ)」を単に子供という意味にして、紅裏を着た立派な老人が死んだ「剥げ」を弔うが、すっかり酔ってしまう。

 

無季。「紅裏」は衣裳。

 

十三句目

 

   剥ゲやともらふ老の紅裏

 屓軍巧者に引てかへる也     芭蕉

 (屓軍巧者に引てかへる也剥ゲやともらふ老の紅裏)

 

 屓は「まけ」と読む。

 主君は討ち死にしたが、巧者の参謀が率いて軍は撤収し、すっかり剥げた頭で主君を弔う。

 

無季。

 

十四句目

 

   屓軍巧者に引てかへる也

 ふたたび暮るる霧の明方     嵐雪

 (屓軍巧者に引てかへる也ふたたび暮るる霧の明方)

 

 夜が明けたがすぐに霧がかかって薄暗くなり、再び暮れてしまったかのようだ。

 気持ちの晴れない軍の撤収の心理と重なる。

 

季語は「霧」で秋、降物。

 

十五句目

 

   ふたたび暮るる霧の明方

 見尽して蚊屋へ這入月の友    其角

 (見尽して蚊屋へ這入月の友ふたたび暮るる霧の明方)

 

 俳諧師同士が一つ蚊帳に寝るのは『嵯峨日記』にもある。

 ともに月見した友が月見にも飽きて眠ると、霧の明方にまたほんの少し月が見えては隠れる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「蚊屋」は居所。「友」は人倫。

 

十六句目

 

   見尽して蚊屋へ這入月の友

 庵の雑水をすする小男鹿     芭蕉

 (見尽して蚊屋へ這入月の友庵の雑水をすする小男鹿)

 

 月見の後、友と一つの蚊帳で眠ると、朝になったら雑炊がなくなっている。「お前か?」「とんでもない、鹿が喰ったんじゃない?」

 

季語は「小男鹿」で秋、獣類。「庵」は居所。

 

十七句目

 

   庵の雑水をすする小男鹿

 一通彼岸の華の咲ちりて     嵐雪

 (一通彼岸の華の咲ちりて庵の雑水をすする小男鹿)

 

 彼岸は秋にも春にもあるので季移りに用いられる。

 秋の花が咲いては散って、庵に鹿がやってくるとなるが、そのまま桜に取り成して春に季移りする。

 

季語は「華」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   一通彼岸の華の咲ちりて

 日永にめぐる嵯峨や太秦     其角

 (一通彼岸の華の咲ちりて日永にめぐる嵯峨や太秦)

 

 彼岸でお寺の連想から京の郊外の散策とする。

 

季語は「日永」で春。「嵯峨」「太秦」は名所。

二表

十九句目

 

   日永にめぐる嵯峨や太秦

 あたたかに綿子とらせん弱法師  嵐雪

 (あたたかに綿子とらせん弱法師日永にめぐる嵯峨や太秦)

 

 「綿子(わたご)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「綿子」の解説」に、

 

 「① 真綿で作った防寒衣。《季・冬》

  ※実隆公記‐永正六年(1509)九月一三日「中院前黄門綿子被レ送レ之」

  ② 胴着用または小児用の袖なしの綿入れ。ちゃんちゃんこ。

  ③ =わたぼうし(綿帽子)①

  ※武江年表(1848)文化五年「頭巾の代りにわたこといふを被むる事はやりはじむ」

 

とある。

 「弱法師(よろぼうし)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「弱法師」の解説」に、

 

 「[1] 〘名〙

  ① よろよろした法師。よろよろした乞食坊主。よろぼし。

  ※説経節・説経しんとく丸(1648)下「『これなるこつがいにんな、物おくはぬか、よろめくは。いざやいみゃうおつけん』とて、よろほうしとなおつけ」

  ② 近世に行なわれた遊戯。縄を二人の足に結びつけ、互いに引きあって勝負を争うもの。

  ※日次紀事(1685)正月「或繋二縄於両人之一而互引レ之、是謂二透逃子(ヨロホウシ)一」

  [2] 謡曲。四番目物。各流。観世十郎元雅作。クセは世阿彌作。河内国高安の里の左衛門尉通俊は、ある人の讒言(ざんげん)を信じて子の俊徳丸を追い出すが、後になってあわれに思い、子の二世安楽を念じて天王寺で施行をする。俊徳丸は今は盲目のこじきとなって弱法師と呼ばれているが、折りしも天王寺を訪れこの寺の縁起などを語る。それを見て通俊はわが子と気づくが、人目をはばかって夜になってから親子の名乗りをあげ、ともに高安に帰る。よろぼし。」

 

とある。

 ここでは元の①の意味で良いのだが、この言葉からやはり当時の人は謡曲『弱法師』を連想したのではないかと思う。謡曲の方は天王寺が舞台で嵯峨太秦ではないが、季節は二月で俤と見ても良いと思う。

 

季語は「あたたかに」で春。釈教。「綿子」は衣裳。「弱法師」は人倫。

 

二十句目

 

   あたたかに綿子とらせん弱法師

 御医者まじりに伽衆立るる    芭蕉

 (あたたかに綿子とらせん弱法師御医者まじりに伽衆立るる)

 

 伽衆はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「伽衆」の解説」に、

 

 「〘名〙 戦国・江戸時代、主君に近侍して、武辺咄や諸国咄などをしたり、雑談などの相手を務めたりする職。また、その人。御伽衆。とぎ。〔鹿苑日録‐慶長二年(1597)八月一八日〕」

 

とある。

 綿子を取らせたのは立派なお殿様だが、それを句の表に出さずに匂わせている。

 

無季。「御医者」「伽衆」は人倫。

 

二十一句目

 

   御医者まじりに伽衆立るる

 舷を波よ波よと追もどし     其角

 (御医者まじりに伽衆立るる舷を波よ波よと追もどし)

 

 舷は「ふなばた」と読む。殿様の船旅だが、波が高いので船酔いに備えて船を呼び戻し、医者を随行させる。

 

無季。旅体。「舷」「波」は水辺。

 

二十二句目

 

   舷を波よ波よと追もどし

 てうちん見ゆる町の入口     嵐雪

 (舷を波よ波よと追もどしてうちん見ゆる町の入口)

 

 船が波に押し戻され、街の入口の提燈が見える。

 

無季。

 

二十三句目

 

   てうちん見ゆる町の入口

 女房よぶ米屋の亭主若やぎて   芭蕉

 (女房よぶ米屋の亭主若やぎててうちん見ゆる町の入口)

 

 町の入口で、いかにもありそうな情景だ。念願の女房を貰って急に若やいだ亭主の顔が浮かんでくる。

 

無季。恋。「女房」「亭主」は人倫。

 

二十四句目

 

   女房よぶ米屋の亭主若やぎて

 高田の喧嘩はやむかしなり    其角

 (女房よぶ米屋の亭主若やぎて高田の喧嘩はやむかしなり)

 

 この亭主も若い頃は血の気が多くて、しょっちゅうどこかで喧嘩していたのだろう。なかでも高田での喧嘩は御近所では伝説になっている。

 偶然だがこのあと元禄七年二月、高田馬場の決闘が起きている。ウィキペディアには、

 

 「高田馬場の決闘(たかたのばばのけっとう)は、元禄7年2月11日(グレゴリオ暦1694年3月6日)に江戸郊外戸塚村の高田馬場(現 新宿区西早稲田)で起きた、伊予国西条藩松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らによる決闘である。中山安兵衛こと堀部武庸が菅野に助太刀して名を挙げた。」

 

とある。

 

無季。

 

二十五句目

 

   高田の喧嘩はやむかしなり

 夏寒き関の孫六ぬきはなし    嵐雪

 (夏寒き関の孫六ぬきはなし高田の喧嘩はやむかしなり)

 

 「関の孫六」は孫六兼元のことで、ウィキペディアに、

 

 「孫六兼元(まごろくかねもと)は、室町後期に美濃国武儀郡関郷(岐阜県関市)で活動した刀工である。兼元の名は室町時代から江戸時代を経て現代にまで続いているが、そのうち2代目を特に「孫六兼元」と呼ぶ。「関の孫六」の名でもよく知られる。尚、孫六は、兼元家の屋号である。後代兼元には「まこ六」などとかな文字で銘を切るものもある。古刀最上作にして最上大業物。」

 「末関物を代表する刀工の一人である。和泉守兼定(2代目兼定)と共に名を知られる。美濃三阿弥派出身。2代目兼元が著名で、永正の頃に初代兼定のもとで修行し、その息子2代目兼定と兄弟の契りを結んだという伝説もある。戦国時代 に武田信玄・豊臣秀吉・黒田長政・前田利政・青木一重など多くの武将が佩刀し、実用性をもって知られる。特に青木一重所持の青木兼元は朝倉家の真柄直隆を討ち取った刀として、前田家伝来の二念仏兼元は、身体を斬られた人が念仏を二度唱えて死すなど斬れ味で著名である。」

 

とある。

 戦国時代の設定にして、前句の高田を大和高田城としたか。まあ、特に歴史的事件を題材にしたわけでなく、あくまで雰囲気であろう。

 

季語は「夏寒き」で夏。

 

二十六句目

 

   夏寒き関の孫六ぬきはなし

 たしなき風の石菖へ来る     芭蕉

 (夏寒き関の孫六ぬきはなしたしなき風の石菖へ来る)

 

 「たしなし」は「足し無し」で乏しいという意味。石菖(せきしゃう)はウィキペディアに、

 

 「セキショウ(石菖、学名: Acorus gramineus)は、ショウブ科ショウブ属に属する多年生植物。名称の由来は岩場に生え、ショウブに似ていることから。」

 

とある。なおサトイモ科と書いてある辞書(精選版 日本国語大辞典、デジタル大辞泉など)が多いが、ウィキペディアの「ショウブ属」の所に、

 

 「この属は古い新エングラー体系では、サトイモ科に含められていた。花は肉穂花序を作り、その根元には仏焔苞に当たる苞葉がある点でサトイモ科に似ている。しかし葉は平行脈で細長く、羽状脈で幅広い葉のサトイモ科とは見掛けも大きく違う。クロンキスト体系の分類ではこのような違いを重視して独立のショウブ科とした。

 近年の分子系統学的分析によれば、ショウブ科はサトイモ科とはかなり離れた系統で、単子葉植物の中でも最初に分かれた(系統的には"原始的")と考えられる。このため、APG分類体系では単独でショウブ目(Acorales)とする。」

 

とある。

 句の方は勇ましく関の孫六を抜き放つけど、あたりは弱々しい風が石菖を吹くだけで、そのコントラストが笑える。

 

季語は「石菖」で夏、植物、草類。

 

二十七句目

 

   たしなき風の石菖へ来る

 牛の子の牛にせかるる市の中   其角

 (牛の子の牛にせかるる市の中たしなき風の石菖へ来る)

 

 前句を市場の片隅の情景とし、売られていく牛の子を、何も知らない親牛が急き立てている。日本版のドナドナ。

 

無季。「牛」は獣類。

 

二十八句目

 

   牛の子の牛にせかるる市の中

 江湖披露の田舎六尺       嵐雪

 (牛の子の牛にせかるる市の中江湖披露の田舎六尺)

 

 「江湖披露(ごうこひろう)」は江湖会のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「江湖会」の解説」に、

 

 「〘名〙 禅宗、特に曹洞宗で、四方の僧侶を集めて行なう夏安居(げあんご)。また、その道場。江湖。」

 

とある。ウィキペディアには、

 

 「中国の唐代に活躍し、後に禅宗の中心的な教団となる馬祖道一と石頭希遷の2人が活躍した地域が、現在の江西省と湖南省であり、そこから禅宗僧侶の世界を「江湖」と称するようになり、後に「江湖会」と言えば、夏安居を指すようになった。」

 

とある。

 六尺は陸尺という字を当てることもある。ウィキペディアに、

 

 「六尺(陸尺)とは、武家のもとで雑用を行う下働きを指し、江戸幕府の場合には江戸城内において雑用を行う者を指していた。本項に登場する六尺とはそのうちの台所を担当していた者を指す。台所の六尺は当初、百姓役として農民から徴発していたが、交代制が円滑には機能せず、また徴発された農民の負担も大きかった。そのため、専門の日雇人夫を雇い入れ、その費用(給米)を農民に負担させる方式に変更され、享保6年(1721年)以後、日本全国の幕府直轄領(御三卿成立後は御三卿領にも)に対して一律の賦課をかける方法が採用された。」

 

とある。田舎六尺というのはこの初期の農民から徴発した六尺であろう。

 夏安居が終わった六尺はすぐに雑用に引き立てられてゆく。それを前句の市場の牛に重ね合わせている。

 

無季。釈教。「六尺」は人倫。

 

二十九句目

 

   江湖披露の田舎六尺

 とつぷりと夜に入月の鳥羽繩手  芭蕉

 (とつぷりと夜に入月の鳥羽繩手江湖披露の田舎六尺)

 

 鳥羽は京都伏見の地名で、幕末には鳥羽伏見の戦いが起こる。鳥羽街道が通っていて、ウィキペディアには、

 

 「平安京造営にあたり、平安京の玄関口である羅城門(羅生門)から真っ直ぐ南下していた計画道路である鳥羽作り道(とばつくりみち)に端を発する。 なお、この鳥羽作り道の久我森ノ宮から山崎へ南西方向に直線的に進んでいた道が久我畷(こがなわて)である。 鳥羽作り道は桂川河畔の草津湊を経て、巨椋池岸の納所(のうそ)へとつながっており、水上交通との接点となっていた。ここが納所と呼ばれるのは、平安京へ運ぶ物資の倉庫であったことに由来すると言われる。 また、鴨川と桂川に隣接している。これらの河道が大きく変化したことによって、最初は直線であった道も時代が経つにつれて次第に蛇行するようになった。」

 

とある。鳥羽繩手は久我畷(こがなわて)のことか。

 長い一直線の田んぼの繩手道を田舎六尺が歩いていくと、月は沈み闇に包まれてゆく。

 

季語は「入月」で秋、夜分、天象。「夜」も夜分。「鳥羽」は名所。

 

三十句目

 

   とつぷりと夜に入月の鳥羽繩手

 いづくとまりと鴫の行らん    嵐雪

 (とつぷりと夜に入月の鳥羽繩手いづくとまりと鴫の行らん)

 

 鳥羽の地名に掛けて鴫を付ける。夜になって鴫はどこで眠っているだろうか、と鳥のことを気にかける。

 

 鳥共も寝入っているか余呉の海  路通

 

の句を彷彿させる。

 

季語は「鴫」で秋、鳥類。

二裏

三十一句目

 

   いづくとまりと鴫の行らん

 糊たちに四手うつ葛の裏表    其角

 (糊たちに四手うつ葛の裏表いづくとまりと鴫の行らん)

 

 「四手(しで)うつ」は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注に「砧打の意」とある。衣類に糊をつけて砧で打ったかのように、鴫の塒の辺りの葛の葉はぴんとしている。

 

季語は「葛」で秋、植物、草類。

 

三十二句目

 

   糊たちに四手うつ葛の裏表

 ずんずとのびる男兄弟      芭蕉

 (糊たちに四手うつ葛の裏表ずんずとのびる男兄弟)

 

 葛の蔓も伸びるのが早いが、男の子も背が伸びるのが早い。

 

無季。「男兄弟」は人倫。

 

三十三句目

 

   ずんずとのびる男兄弟

 一度は江戸をみたがる小あきなひ 嵐雪

 (一度は江戸をみたがる小あきなひずんずとのびる男兄弟)

 

 男兄弟は親父の商いを継いで、一度は江戸に行ってみたいと願う。そこには商売を大きく発展させ、小商いから大商人になるという野心も含まれている。

 

無季。

 

三十四句目

 

   一度は江戸をみたがる小あきなひ

 みたらし汲で神の門前      芭蕉

 (一度は江戸をみたがる小あきなひみたらし汲で神の門前)

 

 御手洗の水を汲んで身を清め、いつか江戸に進出と心に誓う。

 

無季。神祇。

 

三十五句目

 

   みたらし汲で神の門前

 栄よと未来を植し花の陰     其角

 (栄よと未来を植し花の陰みたらし汲で神の門前)

 

 「未来」という言葉は許六『俳諧問答』に、

 

 「一、又、未来の句を案ずるといふハ、五年も七年も先を案ずる事也。未練の者ハ、斗方もなきやうニおもひ侍れ共、眼前ニしれたる事也。」

 

という用例があり、この時代には今と同じ用法で用いられていた。

 門前に新たに桜の苗木を植えて、栄えよと未来を祈る。ただ、発句の桃さくらを踏まえるなら、これからの未来の俳諧をここに植え置いたから大切にしてほしい、という芭蕉の願いも含まれていたのかもしれない。其角の句にはなっているが、実質的には芭蕉の思いであろう。

 未来の俳諧を思いながら、ここに桃と桜の苗木を残しておく。それが発句の「両の手に桃とさくら」だった。

 未だ延宝天和の栄光を引きずっている二人の門人に、今の俳諧はこうなんだという見本を見せたかったのだろう。ただ、二人は果たしてそれを受け入れてくれたのだろうか。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   栄よと未来を植し花の陰

 三人笑ふ春の日ぐらし      嵐雪

 (栄よと未来を植し花の陰三人笑ふ春の日ぐらし)

 

 俳諧の未来永劫の繫栄にさあ、みんなここで笑おう。って誰も笑わないのか。

 

季語は「春」で春。「三人」は人倫。