一、古池の春

     ──池塘生春草、園柳変鳴禽。──

                謝霊運

1、明鏡止水

 芭蕉の古池の句は単に有名で誰もが知っているというだけでなく、芭蕉のイメージをほとんど決定してしまっているようなところがある。

 

 古池や(かはづ)飛び込む水の音     芭蕉

 

 この句は一般的に、蛙の音に静寂を感じる句として受け取られることが多いように思える。それもただの静寂ではなく、同時にそれが心の静寂であり、いわば禅の境地を表すかのように言われている。

  それは、『奥の細道』のこれまた有名な、

 

 閑さや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

 

の句にも言えることで、そこから芭蕉には常に、心頭滅却した禅僧のイメージがついて回る。

  こうしたイメージの源泉は各務支考(かがみしこう)が『葛の松原』(元禄五年刊)という芭蕉の存命中に書かれた本の影響とも言われているが、必ずしもそうではない。そこには、

 

 「蛙の水に落る音しばしばならねば言外の風情この筋にうかびて蛙飛こむ水の音といへる七五は得給へりけり。」

 

とは書いてあるが、静寂のことについては何も書いていない。また支考は、

 

 「一回は(ぞう)()となりて一回は白衣(びゃくえ)となつて共にとどまれる處をしらず。かならず中間の一理あるべしとて」

 

と言っている。

  「(ぞう)()」は字義通りだと黒い犬を意味するが、ここでは黒衣の僧となって、という意味。「白衣」はこれに対して、僧侶でありながら俗に染まって黒衣を着ないことをいう。

  これは一度は芭蕉が延宝八年冬頃(一六八〇~一六八一年)、深川で仏頂和尚に就いて参禅しながら僧にならなかったことをいうもので、後の『猿蓑』(去来・凡兆編、元禄三年刊)の「幻住庵記」にも、

 

 「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ」

 

と記されている。そして『野ざらし紀行』の伊勢参宮の所で、

 

 「僧に似て(ちり)(あり)。俗ににて髪なし。」

 

という僧とも俗ともつかない状態になったことを記している。

  仏頂和尚に禅を学びながらも、禅僧にならなかったという所に、むしろ芭蕉の句の本質を求めている。それは、日常卑俗の中に、ただ世俗の物事ありのままの中に真実を見出した、という所にあった。

  支考が古池の句に見出した風情は、そのどこにでもあるありふれた古池の蛙の水音であり、和歌に詠まれた華やかな山吹の咲く井手の玉川の清き水に棲む蛙の声ではなかったという所にだった。

  支考はこれより後、『俳諧十論』で、

 

 「古池の蛙に自己の(まなこ)をひらきて、風雅の正道を見つけたらん。」

 

とし、

 

 「天和の初ならん。武江の深川に隠遁して『古池や蛙飛こむ水の音』といへる幽玄の一句に、自己の眼をひらきて、是より俳諧の一道はひろまりけるとぞ。」

 

と重ねて言っている。ただ、この正道は支考の解釈では「虚において実をおこなう」道であり、俳諧を日常の談笑とすることで、絵空事のネタを通じながら人情を理解し、それを共通認識として行くことで、無理解や誤解や偏見による争いごとを抑制してゆくものだった。

  文学における虚構は人を傷つけない嘘であり、その嘘を以てして人間の真実の姿を広めて行く。これは今日の文学にも当てはまる。

  支考が古池の句に感銘したのは、歌に詠まれた井手玉川の蛙ではない古池の蛙の日常卑俗の談笑の道であって、「静寂」ではなかった。

  蛙の句に静寂を見出したのは、支考ではなく近代の正岡子規だった。

  子規は単にこの句が静寂を表すという解釈を思いついただけでなく、それがそのまま作者の句作に対する態度の静寂であり、いわば作意や技巧(掛詞、縁語、比喩、暗示、象徴、観念、洒落、滑稽、等)を排したということと、心に一点の曇りもないということを結び付けた解釈だった。

  それはまさしく近代俳句の理想であり、今日でも俳句や短歌に作意や技巧のあることを嫌う元になっている。

 

   *

 

 正岡子規は明治二十二年の『古池の吟』でこう言っている。

 

 「『古池や蛙飛び込む水の音』とは誰も知りたる蕉翁の句なるが、その意味を知る者は{|すくな}し。余は六、七年前にある人の話を聞きしに、こはふかみの三字を折句にせしものなり‥‥余、この説を信じてなかなか分らぬものとして考へたることなかりき、しかるにこの春スペンサーの文体論を読みし時、minor imageを以て全体を現はす、即ち一部をあげて全体を現はし、あるはさみしくといはずして自らさみしきやう見せるのが尤詩文の妙処なりといふに至て覚えず机をうって『古池や』の句の味を知りたるを喜べり。悟りて後に考へて池の閑静なる処を閑の字も静もなくして現はしたまでなり。」

 

 スペンサーという、当時としては最新の知識でこの句が解けたという子規の喜びは、大変よく伝わってくる。

  当時、子規はまだ二十三歳。最初の喀血があり、「子規」の号を思いついたのもこの年だった。

  古池の句が「ふかみ」の折句だというのは、江戸後期の川柳のネタで、別に昔の俳諧師の間で真剣に議論されてたような説ではなかった。同時代の明治の俳諧師にしても、真面目に取り合うような説ではあるまい。ただ、俗説として流布していて、子規も耳にすることになったのだろう。

  ただまあ、言わずして全体を表すというのは日本の和歌連歌俳諧、中国の漢詩でもそんなに珍しいものではなく、子規の発見の珍しさはむしろ西洋の理論で説明したという、その一点にあったのではないかと思う。明治の新しい教育の申し子といえよう。

  この解釈の後に与えた影響はというと、たとえば『松尾芭蕉』(宮本三郎、今栄蔵、一九六七、桜楓社)を見ても、

 

 「春深いころのひっそりとした昼ま、時おり、ボチャッと水面に音を立てて蛙が飛び込むと、一瞬静寂が破られ、すぐまたもとの静寂に帰る。」

 

と書いてあるし、大体学校でもこういう解釈で習った人が多いのではないかと思う。

  山本健吉の『芭蕉三百句』(一九八八、河出文庫)には「『古池や』は、自然に閑寂な境地をうち開いている」とあり、この句を静寂の句としている。

 

   *

 

 明治二十二年の段階で既にこの句が静寂を表すものだとした子規は、明治二十七年の『芭蕉雑談』で、更に詳しくこのことを論じることになる。

  ここで子規は、

 

 「近時西洋流の学者は則ち曰く、古池波平かに一蛙躍って水に入るの音を聞く、句面一閑静の字を著けずして閑静の意言外に溢る‥‥(略)‥‥夫の西洋学者の言ふ所稍々庶幾(ちか)からんか、然れども未だ此句を尽さざるなる。」

 

と切り出す。

  こういう西洋学者が実際にいたかどうかは知らない。どう見てもこれは明治二十二年の時点での子規自身のことだろう。まあ、いかにもありがちなレトリックで、この句が閑静を表すという説すら初耳の読者は、さらに「尽さざる」という言葉に再度びっくりするという寸法だ。

  そして、その「尽さざる」とは何かといった所で子規は「写生説」を展開することになる。

 

 「第一彼佶屈{贅牙|ごうが}なる漢語を減じて成るべくやさしき国語を用ふべきなり。而して其国語は響き長くして意味少き故に、十七文字中に十分我所思を現はさんとせば、為し得るだけ無用の言語と無用の事物とを省略せざるべからず。さて箇様にして作り得る句は如何なるべきかなどつくづくに思ひめぐらせる程に、脳中濛々大霧の起りたらんが如き心地に芭蕉は只々に惘然として坐りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず」

 

 これには特に出典はないし、実際に芭蕉がこのようなことを考えていたことを証明する文献は存在しない。

  そもそも「国語」というのは近代の概念であり、芭蕉の時代は「雅語」と「俗語」の二つが問題だった。和歌や連歌は「雅語」という古今から新古今に至る八代集の言葉があって、そこにそれ以外の世俗で用いられている「俗語」を交えた連歌のことを「俳諧」と呼んでいた。

  芭蕉が古池の句を詠む少し前の天和(てんな)の頃は、その俗語の中に漢語を交えるのが流行していた。

  たとえば、芭蕉がまだ伊賀にいて、宗房という名乗りを用いてた寛文の頃の句は、

 

 姥桜さくや老後の思ひ出     宗房

 月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿  同

 

のように、雅語を基調としながら「老後」「こなたへ入せ」と俗語を一つ交えるのが俳諧だった。

  天和の頃になるとこうした雅語を基調にするのをやめ、雅語でない言葉を無制限に用いるようになり、その雅語でない「俗語」の中に漢語も含まれていた。漢文は当時の公式文書を書く時に必要なもので、漢語は日常生活の中にかなり溶け込んでいたと思われる。ただ、和歌や連歌では嫌う言葉だった。

  また、連歌の式目に字余りに関する規定がないことで、延宝の終わり頃から何文字も字余りにする句が流行するようになっていた。芭蕉もその流行に乗って、

 

 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉    芭蕉

 櫓の声波ヲうつて(はらわた)氷ル夜やなみだ 芭蕉

 

のような句を詠んでいた。ただ、正確に言えば芭蕉(はせを)は漢語に起源があるとはいえ和歌に用いられている言葉だし、漢文の書き下し文調だというだけで、必ずしも漢語を多く用いているわけではない。

 

 髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ  芭蕉

 

の「暮秋」「歎ずる」は確かに漢語ではあるが、寛文の頃の、

 

 京は九万九千くんじゅの花見哉  宗房

 

の句に比べて漢語がとりわけ多いとは言えない。正確には書き下し文調と言った方が良い。

  同時期に関西では、伊丹流長発句という極端な字余りな句が流行していた。

  子規の明治二十七年の『芭蕉雑談』はこう続く。

 

 「万籟寂として妄想全く絶ゆる瞬間、窓外の古池に躍蛙の音あり、自らつぶやくとも人の語るともなく『蛙飛びこむ水の音』といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。芭蕉は始めて夢の醒めたるが如く、暫く考へに傾けし首をもたげ上る時覚えず破顔微笑を漏らしぬ。」

 

 子規の文章力はなかなかのものだが、何の出典も根拠もない見てきたような嘘だ。

  それでもこの文章がリアリティーを持ったのは、これが当時の子規の悩みと写生説の発見の喜びそのものだったからだ。つまり簡単に言えば、子規は自ら発見した写生説を芭蕉という権威に仮託した。それがすべてであろう。

  こうした方便は当時としては別に珍しいことでもなかった。富国強兵政策の下に急速な西洋化を推し進めるのに、西洋の進んだ文化は実は日本人がかつて発見していたものだった、みたいに言うことは多かった。やがて子規は短歌革新の時に『万葉集』に写生説を同じように仮託していった。

  開国による急速な西洋文化の流入に、日本人は自分たちの文化に自信を無くしかけていて、日本の貴重な文化遺産が二束三文で海外に流出している時代でもあった。その意味では俳諧の伝統を守るという意味で、子規が一定の役割を果たしたのは否定できない。

  ただ、方便とはいえ、嘘を広めたということは、後の日本の文化を歪んだものにしなかったかという問題となって残る。

  さて、その写生説が何だったかということだが、基本的には当時の西洋の写実主義の影響が当然あったであろう。もちろんそれ以上に、特に絵画において、線遠近法とスフマートを用いた西洋絵画は記号化された伝統絵画と異なり、そのリアルさに圧倒されるものがあった。

  まあ、逆に西洋人の方は日本の浮世絵や伝統絵画の大胆にデフォルメされた構図に衝撃を受けて、いわゆるジャポニズムが起きたわけだが。

  西洋では日本に学んで日本の真似をして、印象派やそれ以降のダダイズムやキュービズムなども起こっていったわけだし、和歌の散らし書きはマラルメの『骰子一擲』に影響を与え、そのスタイルはジャック・デリダの『()()』にも受け継がれている。

  その一方で日本では逆に、リアルでないものは絵ではないと言わんばかりに、斜投象によって書かれた絵を「遠近法がなってない」とぼろ糞にけなし、輪郭線を描くことも嫌った。

  皮肉なことに浮世絵は西洋人によって高く評価されたことによって、ようやく日本でも評価されるようになった。戦後の八十年代には日本の漫画アニメが西洋人によって評価を受けて、第二の浮世絵と呼ばれた。

  子規の写生説もそういう当時の日本人の西洋コンプレックスを反映してたとも言える。

  ただ、子規の写生説は単なる西洋の模倣ではなく、子規自身が悩んだ末自得したもので、それが余計に子規の写生説が大きな影響力を持つ根源にもなっていた。

  明治十八年頃から盛んに俳句を作り続けてきた子規は、明治二十五年頃になると、行き詰まりを感じるようになる。

  もっとも、子規が貞門や江戸末期の化政調(一茶は今でもよく知られているが)を真似ていたのはごく初期の頃だけで、やがて子規は蕪村などの天明調に惹かれてゆくことになる。

  この頃の子規の句はというと、

 

 山々は萌黄浅黄やほととぎす

 猿ひきを猿のなぶるや秋のくれ

 雲助の睾丸黒き榾火哉

 谷底に樵夫の動く桜かな

 白牡丹ある夜の月に崩れけり

 乞食の葬礼見たり秋の暮

 神に灯を上げて戻れば鹿の声

 汽車道の一すぢ長し冬木立

 

といったものだった。

 

 子規の句は特に師匠に学んだわけではないが、芭蕉や蕪村などの句を何度も読み返して自得したもので、「てには」はきちんと整っていて芭蕉や蕪村の句と比べても遜色がない。問題があったとしたら、古い時代の句への思い入れが強すぎて「流行」しなかったということではないか。

  猿引きの句は、『猿蓑』の「市中は」の巻十七句目、

 

   僧ややさむく寺にかへるか

 さる引の猿と世を経る秋の月   芭蕉

 

のオマージュではないかと思うくらい、芭蕉を引きずっている。芭蕉よりも蕪村に傾いていたとはいえ、その蕪村が芭蕉に傾倒していたのだから、似ててもおかしくない。

  おそらく子規に決定的に欠けていたのは、こうした世界を共有する人間的関係の欠如だったのではないかと思う。

  俳諧は本来談笑の文学であり、発句はその挨拶の意味を持っていた。それは談笑を通じて連衆の間で共通の認識を作り上げ、笑いを通じて緊張を緩和し、人間関係に平和をもたらすためのものだった。

  ところが近代に入って西洋文学の考え方が入って来ると、文学は「個」の表現になっていく。自分の主張したい事柄を伝えるための文学に変わって行く。当時の旧派の俳諧はまだ平俗談笑の本来を目的を失ってなかったが、子規の句はあくまで自己主張であり、何をやっても独り相撲だった。

  そうなると、どんな句を詠んだところでそれに満足することはない。それを喜んでくれて、惜しみない拍手を送ってくれる大衆がそこには存在しなかった。ただ言葉は空しく空を切るだけだった。

  明治二十五年頃、子規は小説『月の都』を書き上げている。この小説は幸田露伴に酷評され、すぐには日の目を見ることはなく、後に発表された時もさして評判にはならなかった。

  また、この頃子規は新体詩の創作をも試みているし、更に俳句を十二ヶ月並べて一組とした連作も盛んに作っている。

  その一方で、俳句の十七文字の組み合わせには数限りがあって、良い組み合わせはもうとっくに出尽くし、明治の終わり頃には、もう新しい句は一句も生まれないのではないかと考えるようになっていた。

  子規なりに考えた結果、月並みの原因が俳句の形式にあると考え、そのため他の形式を実験しようとしていたのであろう。

  日清戦争の始まった明治二十七年、子規に一つの転機があったようだ。

  子規は清国にいた弟子の瓢亭に「小生の哲学は僅に半紙三枚なり」と言って、次のような手紙を送っている。

 

 (一)我あり (命名)我を主観と名く。

        (命名)主観ありとするものを

        自覚と名く。

 

 そして、

 

 「此我と云ふは言ふに言はれぬものなり世間の我といふ意味と思ふ可らず。」

 

と説明している。

  「我」が世間の我ではないというのは、単なる世間の中の一人としての他人に対しての我ではなく、認識の主体としての「我」であり、認識の主観としての我は、大勢の人間の中の我も認識すれば、その他の多くの人間も認識する「我」でもある。そしてこの「我」は「我」以外によっては認識されない。これを哲学的には超越的自我という。

  つまり我のみしか存在しない。他人もこの世界総ても「我」の認識による、そういう意味での「我」を意味する。

  このことは、明治二十九年の『松蘿玉液』の次の文により詳しく表れている。

 

 「宇宙はわれにあり、方丈の中に八万四千の大衆を容れて息の出来ぬほど窮屈にもあらず。まだ八万由旬の蓮台も仏もはひるべき余地あり。さりとて入れ物が大きくなりたるにはあらではひる物が小さくなりたらんかし。一たびわが頭脳中に縮めたる宇宙の頭脳の外に投げ出せば宇宙は再び無量際にまでひろがりぬ。さてやわが頭脳を取りてこの宇宙に置けばこれはまた頭脳の小ささよ。おもしろきものは相対なり煩悩なり、つまらぬものは絶対なり悟りなり。」

 

 世間でいう自我は単に小さな頭脳に宇宙を縮め、矮小化して詰め込んでいるにすぎず、絶対だとか悟りだとかいうのも、こうした小さな頭脳の産物にすぎない。

  そして、こうしたものの相対性を知る自我が大なる自我ということになる。

  先の「我あり」が、こうした様々な思想信条や宇宙自然に対する様々な解釈を相対化する「我」の自覚であり、このことは俳句から思想性や自然を解釈するためのさまざまな技法を排除する子規の写生説へと、そのまま結びついている。

  『芭蕉雑談』の中の古池の句の解釈は、半紙三枚の哲学の直後に書かれたものであり、「夢の醒めたるが如く」「破顔微笑を漏らしぬ」という表現は、芭蕉が古池の句を詠んだ時の心境というよりは、写生説の着想を得た子規の心境に他ならなかった。

  『芭蕉雑談』の以下の文章も「蕉風」ではなく、子規の写生説そのものだ。

 

 「妄想を断ち名利を斥け、可否に関せず巧拙を顧みず、心を虚にして懐を平にし、佳句を得んと執着すること無くして佳句を得べし。‥‥略‥‥而して彼の雀はちうちう鴉はかあかあ柳は緑花は紅というもの禅家の真理にして却って蕉風の骨髄なり。古池の句は実に其ありの儘を詠ぜり。否ありのままが句とならん。」

 

 自然に情を託すのではなく、一切の情を相対化することによって、言葉は象徴機能を失い、単なる対象を指示するだけの言葉が残される。

  これは支考が思い描いたのとは大きく異なる。支考は日常の様々な人情を含めての有りの儘だった。日常生活で泣いたり笑ったりするそれ全体の有りの儘が禅家の悟りと結びついていた。そのため俳諧は平俗談話そのものでなければならなかった。もちろん支考は伝統的なさまざまな技法や言葉遊びを否定することはなかった。

  子規の場合、こうした相互のコミュニケーションの手段としての言葉ではない。そこにあるのは「標準語」の一般的な意味以上のものではない。「古池」というとただその言葉が意味する通りの「古池」であり、各自が心の中に思い描くそれぞれの古池ではない。あくまで古池一般の概念だった。そしてそこに主観的な判断を加えないということが「写生」だった。

  明治二十七年の時点では、まだ決してこの純粋な事物の描写として古池の句を理解していたわけではなかった。

  それは単なる一句の写生句というよりは、写生の理念そのものを含蓄した句として、特別な意味を持たせていた。

  それゆえ、若い頃思いついたminor imageの説を決して否定しなかった。蛙の音はあくまで静寂を意味し、そこから連想される古池に生じた波紋は、鏡のように静止した水面を連想させるためのものだった。そして、俳句もまた同時に、こうした鏡のように事物をありのままに写すべきであるという一つの意味が付け加えられていた。

  しかし、写生の理念をより徹底させるには、こうした新しい象徴もminor imageという技法も余計なものだった。

  明治三十一年の『古池の弁』では、その点をさらに徹底させている。

 

 「古池の句の意義は一句の表面に現れたるだけの意義にして、復他に意義なる者なし。」

 

 「さればこの句の真価を知らんと欲せば、この句以前の俳諧史を知るに如かず、意義においては古池に蛙の飛び込む音を聞きたりといふ外、一毫だもこれに加へなば、そは古池の句の真相に非るなり。明々白地、隠さず掩はず、一点の工夫を用ゐず、一字の曲折を成さざる処、この句の特色なり。豈他あらんや。」

 

 もはやここには静寂すらない。この句はもはや、芭蕉を写生説の先駆者に仕立てあげ、その記念すべき第一号であるほかに、何の意味をも与えてはならないのだった。

  子規自身、もはやこの句は写生句であるという以外に興味を引くものではなかった。

 

 「余らもまた古池を以て芭蕉の佳句と思はず、否、古池以外に多くの佳句あるを信ずるなり。」

 

 高浜虚子もまた『俳句はかく解しかく味う』の中で、

 

 「実際この句の如きはそうたいしたいい句とも考えられないのである。古池が庭に在ってそれに蛙の飛び込む音が淋しく聞えるというだけの句である。」

 

と言っている。「淋しく」は一つの解釈になるが。

  こうした読み方は他の芭蕉句へも拡大されていった。たとえば『仰臥漫録』の、

 

 「五月雨をあつめて早し最上川  芭蕉

 この句俳句を知らぬ内より大きな盛んな句のやうに思ふたので今日まで古今有数の句のとばかり信じて居た。今日ふとこの句を思ひ出してつくづくと考へて見ると『あつめて』といふ語はたくみがあって甚だ面白くない。」

 

 「芭蕉の

 あら海や佐渡に横たふ天の川

といふ句はたくみもなく疵もなけれど明治のやうに複雑な世の中になってはこんな簡単な句にては承知すまじ。」

 

などのように、作品の背後にどういう情が込められていたかということは、もはや決して問題になることがなかった。

  子規自身、もはや動き回る自由もなく、病床から見える蠅やヘチマを書き留めるだけの晩年の子規にとっては、どんなささいな事物でも輝いて見えていたかもしれない。そして、そこにそれ以上付け加えるものはなかったのかもしれない。

  しかし、それは子規がそういう境遇にあったことを読者が理解することによってさまざまに意味づけてくれるから、そこに句の価値が保たれていたとも言える。

  まあ、厳密に言えば「柳は緑花は紅」と言ってはみても、目の前の対象を「柳」だとか「花」だとか認識すること自体、既に一つの解釈が加わっている。古池の蛙もそれが「蛙」だと認識された時点で、すで目の前のそのあるがままの世界ではない。目の前の世界がどんなに輝いていたとしても、我々が目にするのはただ文字にすぎない。インクの染みか、あるいは液晶の光りを見ているにすぎない。

  対象の持つ輝きは、ただ、いかなる解釈の可能性からも「自由」であるからにすぎない。その自由は言葉になった瞬間に失われる。そう思えば、芭蕉の古池も五月雨も荒海も色あせたただの言葉にすぎない。それは文学の終着点と言ってもいいかもしれない。

  真実を伝えるための文学は、ただ真実が「自由」であるというその一点で終結する。もはやそれ以上の意味を持つことはない。それが子規の到達した境地と言ってもいいだろう。

  それはマルチン・ハイデッガーが「真理の本質は自由である」という所に行きついたのと似ている。あるいは現前の太陽に向かって飛び立っていって焼かれて落ちたイカロスに喩えられた、フッサールの現象学の究極に近い。

  ただ、子規の死後、この境地を理解する者は少ない。

  子規が近代の古池句解釈の方向を決定づけたとすれば、それはこの句を蛙の持つ様々な伝統的なものから切断したという所にある。

  しかし、芭蕉の俳諧そのものがそうした伝統との決別という性格を持っていたのかというなら、決してそんなことはなかった。

  伝統と決別したのはあくまで子規であり、その継承者に他ならない。そして、こうした俳人や研究者が芭蕉の句の「今日的な」意義を探そうとする限り、かすかな伝統との差異を拾い上げては強調し、伝統と連続している部分は極端に言えば無視してきたのだった。

  たとえば、白石悌三は『芭蕉』(一九八八、花神社)という本の「蛙─滑稽と新しみ─」の中で、古池の句が静寂を表すという解釈を斥け、断続的な水音に春の遅日の情を読み取ろうと試みている。

  しかし、この一見新しそうな解釈も、歌を詠み{|いくさ}をする蛙という伝統にあきたらなくなった芭蕉が「即座の興」に基づいて、「伝統歌学の重圧から感受性を解き放ち、失われた抒情性を俳諧において復活し」「蛙もまた観念から存在へとよみがえった」と言うあたり、子規の提起をそのままなぞるものだった。

  まあ、「遅日の情」自体が伝統ではないかという考え方もあると思う。

  復本一郎も、古池の句だけで一冊の本を書くくらい史料を揃え、いろいろな角度で論じてはいるが、その中心はあくまで「従来の諸文芸の蛙の『声』の桎梏から脱却して、『音』を詠んだ」というものであり、この音は閑寂さを表すという解釈だ。

  芭蕉は決して伝統を否定したり、古典の本意を軽視したような発言はしていない。ただそれを昔ながらの雅語によって表すのではなく、卑近な事象を以てして俗語で言い表すことによって新味を出そうとしたにすぎない。

  滑稽な俗語が同時に見事に古典の風雅を表現し、俗語を雅語の領域にまで高め「正す」ことが問題だった。支考もまたそこに目を止め、この句を蕉風の開眼とした。この雅俗の対立という視野を近代の芭蕉論はすっかり忘れてしまっていた。

 

   *

 

 なら芭蕉の古池の句の真意は何だったのか。批判だけして代案を出さないというわけにもいかないだろう。

  芭蕉の古池の句は支考の『葛の松原』によれば、おそらく天和二年の春、深川に隠棲してそれまでの桃青から芭蕉を名乗るようになった頃、「山吹や蛙飛こむ水の音」の形の句ができて、やがて上五を「古池や」として治定したという。

  山吹の蛙は古歌の趣向で、そこから思い浮かぶものは古歌の知識のなかの井手の玉川の蛙にすぎない。一部の歌枕を訪ね歩く数寄者以外は、どのような景色なのかはただ想像するしかない。

  これが「古池や」になると、誰もがそれぞれ記憶の中にある古池を思い浮かべることができる。田舎には農業用水を溜めておく池があり、また寛文・延宝の頃は新興商人が台頭し、その一方で没落する旧家も多かったし、武家でも廃藩・改易が続き、廃墟となった屋敷の古池もそれほど珍しいものではなかっただろう。

  こうした古池はどこか寂し気で、廃墟ともなればそれこそ幽霊が出そうな不気味な雰囲気もある。そんなところでじゃぼっという濁った水音がきこえて、一瞬ぎょっとすることもあっただろう。

  そういうわけで、古池の蛙の水音は当時の人にとって、幼少期の共通体験のようなものを呼び起こす「あるある」だったのではなかったかと思う。どこか懐かしく、どこか寂し気で、不気味な怖さも感じさせる、そんな原体験を呼び起こしたのではなかったかと思う。

  荒れ果てた古池はまた、古典の情にも通じている。それは『伊勢物語』第四段の、

 

 「またの年の睦月に梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、見れど去年に似るべくもあらず。うち泣てあばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ

     わが身ひとつはもとの身にして

とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣くかへりにけり。」

 

だった。

 

 春なのに昔と変わった姿に、目出度いはずの梅も月も涙を催すものになる。

  これは杜甫の春望のような、「時を感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」の心にも通じる。

  古池の句はこうした個人体験と古典の悲しい場面を繋ぐもので、それが多くの人の感動させ、当時の身分の低いものや子供に至るまで、誰しも知らない者のないような大ヒットとなった。

  山吹の蛙は古典の素養があって、井手の玉川の想像ができる者にしか伝わらない世界だが、古池の蛙は誰もが体験して知っている。その卑俗なもので古典の風雅の情を詠み変えることが、この句の最も画期的な点で、支考もまたそこに卑俗な日常のがすべてが禅家の「柳は緑、花は紅」の境地であるかのように、光り輝いて見えることに目を開かされた。

2、不易流行

 芭蕉の弟子の土芳による『三冊子』「しろさうし」に次のような一節がある。

 

 「詩歌連俳はともに風雅也。上三のものは餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし。花に鳴鶯も、餅に糞する縁の先と、まだ正月もおかしきこの比を見とめ、又、水に住む蛙も、古池にとび込む水の音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響に、俳諧を聞付たり、見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」

 

 詩歌連俳は漢詩、和歌、連歌、俳諧のことで、これがともに風雅だということは、芭蕉の『笈の小文』の中にある、

 

 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫通する物は一なり。」

 

と同様に考えても差し支えないだろう。いわば、

 

 「造化にしたがひて四時を友とする。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。」

 

ということにおいて、等しいということだ。

  造化にしたがうということは、いわば朱子学の言葉を借りるなら、天地万物の「理」に従うということになる。理は天地万物の本来通るべき道であり、「人間は万物の霊也」という儒教の思想は、人間だけがこの道を自覚する存在であることを言い表している。

  したがって、造化に従うというのは、自然の本来あるべき姿を自覚することによって、「夷狄を出、鳥獣を離れ」ることを意味する。

  ここでいう自然は、単なる物理的な自然ではなく、むしろ現象を越えた物自体の世界、神仏の世界を言い、こうした世界と同化したとき、はじめて風雅と呼ばれることになる。

  漢詩、和歌、連歌、俳諧、それに伝統絵画や茶道を含めて、いずれもこうした物自体を体得することを目標としている。

  「物自体」は日常語のの意味だと、花でも月でも目の前に見えるがまま、あるがままという意味になるが、ここでいう物自体は哲学用語で、目に見ることも耳に聞くこともできない、五感に与えられる以前の世界と言う意味で、神の世界、完全な世界といった意味で用いられる。

  日常語でいう「ものそのもの」はむしろ、現象(Ersheinung, Phaenomenon)、事物存在(Vorhandenes)、物質(Materie)、対象(Gegenstand)といったことを指す。

  物自体はカントによって、純粋理性によって証明できないものとして、既に科学の対象からは外されている。以来、哲学は科学の基礎付けのための「現象」の認識論となり、物自体は信仰の領域へと押しやられていった。

  しかし、近代以前の社会では、洋の東西を問わずむしろ物自体の存在は自明のことだった。現世は仮の世であり、浮世は夢であり、真実の世界は信仰の中にある。これは近代以前の知識人としては普通の認識だった。

  ただし、西洋のピュシスと東洋のピュシスとの間には、なお多少の隔たりがある。西洋の人々が現象の背後にあると考えたのは、まさしく唯一の神によって創造された世界で、従って自然法則の発見はそのまま神の天地創造の技術を垣間見ることになる。既にキリスト教以前にアリストテレスが、「真の実存が個々の事物の実存にではなくその本質にある」と言う際、いかなる個々の事物もより普遍的な本質へと一般化されてゆき、現実存在を超えてゆくところに真実在が考えられていた。

  西洋のピュシスは現象をより一般化することによって、現象をより一般化することによるものだった。いわば、個々の三角形を超えて理想状態の三角形を想定し定義することによって、現象を超えた所に成立する。

  プラトンの洞窟の比喩もあるように、我々が見ている世界は真理の光りの作り出す影絵のようなもので、それはイドラ(偶像)であり、真実の光りは通常は見ることが出来ない。なら、何でそれが存在するのかというと、それはすべての現象についての解釈を一度停止した時に、すべて物もがあるがままに光輝いて見えてくる、その光の体験に根差すものだと思われる。

  前節でみたように子規もそれを経験していたし、おそらく支考もまた経験していたと思われる。フッサールやハイデッガーが現象学のエポケーの手法で見た世界もそれだったし、禅の境地もそれだし、世界中の様々な神秘思想の根底には同じ光の体験があるのではないかと思う。

  ただ、光の体験は完全な沈黙であり、言葉で覆ってしまえば消えてしまう。それゆえに真理の本質は「自由(空っぽ)」であり、命題によって示すことはできない。

  物自体はこの光の体験から実際に五感に与えられる「現象」を引いたものと考えればわかりやすいのではないかと思う。現象はいつも見慣れたもので、特に光り輝いてはいない。それが光り輝いた時、光自体は五感を超えた所から来ていると、それは一つの想像であり、一種の感想といっていいかもしれない。

  西洋の場合はこの光の背後の世界と論理的な理性とが結びついたと言って良い。今の科学でも理論は「理想状態」のもので、実際にその通りになるとは限らない。現実の世界は理想と違う様々なノイズが存在しているからだ。一切のノイズのない世界を前近代の人は現象から導き出された仮説としてではなく、物自体と考えていた。

  これに対し、中国文化圏では、物自体を一般化するのではなく、個物そのものとして考えて行く傾向があった。

  それは『易経』の繋辞伝に「陰陽不測、之を神と謂う」とあるように、いかなる法則をも超えた測り難いもの、予測不能なものが神であり、それが天地自然のあるがままの姿だと考えた。

  そして、物事を一般化して法則を立てるという作業は、むしろ人間が自然を我がものにしようとする作為に他ならず、天地造化の作用とはほど遠いものと考えられていた。

  自然は文字通り、自ずからそう成ったものであり、そこには造物主はいないし、神の技術も存在しない。自然はむしろ一つとして同じものがない一回きりの事件だった。ただそこに一定のパターンが見い出されるにすぎなかった。

  理というのは「みち」とも訓じるように、道家の「道(ダオ)」と離れたものではなく、呼び名の違いだった。

  理というのはまさに道であり、ちょうどいろいろな顔した人々がいても、皆一本の道を通っているように、個々の事件に決まって現れるパターンのことにすぎなかった。それは一般法則というよりは、そのつど解釈されるべきものだった。陰陽五行というのは、そうした個々の事象を整理するためのモデルであり、物理法則ではない。

  道は神道でも仏道でも同じように「道」と呼んでいる。そこには根底は同じという考え方が常にあった。神仏儒道それぞれの立場はあっても、根底にある道は同じ。それは例えば伝統絵画の画題に「三酸図」というのがあり、そこで仏者、儒者、道者の三人が同じ甕の酢を舐めてみんな同じように顔を顰めている図だ。宗教は違っても道は一つ。それは我々の伝統に深く根差した考え方だった。

  神仏習合は長いこと本地垂迹という形で行われていた。仏教は普遍的な思想で、神道はその日本特有のローカルな顕現だという考え方だ。後に唯一神道が起った時には、これは逆で神道が普遍で仏道はインドのローカルだというものだった。やがて江戸時代に幕府が朱子学を国教としたとき、朱子学の理論が神道の根底にあるということで、林羅山の理当心地神道や山崎闇斎の垂加神道などが作られていった。

  吉川惟足もそういう朱子学神道の大家で、その高弟だった岩波庄右衛門が『奥の細道』の旅で芭蕉に同行した曾良だった。そして芭蕉が不易流行を説き始めたのはこの旅の直後からだった。芭蕉の不易流行説の成立に、朱子学神道の知識を持つ曾良が大きな役割を果たしたのではないかと思われる。

  風雅もまたこうした「道」のパターン認識になる。

 

 「見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。」という『笈の小文』の一節も、いわば自然には春夏秋冬があり月花があるという、個別的な現象に見られるパターンを宇宙全体に拡大してゆく所にあった。

  陰陽が五行を生み、五行が乾坤を生み、乾坤二気交感して万物が春に生じ秋に止む。そして春には花の心があり、秋には月の心がある。

  「師の曰、乾坤の変は風雅のたね也といへり」という『三冊子』の言葉も、そのままの意味だった。

  「たね」は『古今集』仮名序に「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。」とあり、乾坤の変が人の心の種と言い換えてもいい。余談だが「たね」という言葉は後に業界言葉でひっくり返して用いられ、「ネタ」という言葉の元にもなっている。

  乾坤変じて四季が生じ「春に万物を生じ、秋に止む」という生命のサイクルは、そのまま人生や歴史にも適用され、老いては我が身に秋風を聞き、国破れて天下の秋風を聞き、生まれれば必ず死があり、出会いがあれば別れがあり、形あるものは必ず滅び、栄える国もやがて衰退する。

  時が経てば破られることのなかった不破の関も破れて、その荒れ果てた板庇にただ秋の風が吹く。

 

 人住まぬ不破の関屋の板庇

     荒れにし後はただ秋の風

              藤原良経(新古今集)

 

の和歌のはまた俳諧に翻案され、

 

 秋風や薮も畑も不破の関     芭蕉

 

の句になる。

 「秋風」であって「春風」であってはいけない理由はそこにある。

 

   *

 

 さて、漢詩、和歌、連歌、俳諧のその根底は一つであり、それは雪舟の絵や利休の茶にも相通じるのは、どれも同じ「道」によるものだというのはわかった。

  ならば、俳諧が漢詩、和歌、連歌の三つの文芸に対して卓越している点はというと、それは「餘す所もそのその餘す所迄俳はいたらずと云所なし」という理由によるものだった。

  それは漢詩は異国の言葉の不自由もあり、和歌・連歌は「雅語」という古今から新古今に至る八代集の言葉で作られるという制約があるのに対し、俳諧は俗語を用いることでその制約がない、日常卑近のどんな些細なことでも風雅のたねとすることができる。それが漢詩、和歌、連歌の余らせたところだった。

  俳諧は日常のごくありふれたものの中に風雅を発見することが出来る。その例として土芳は『古今集』仮名序にある「花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける」の言葉を踏まえて、

 

 うぐいすや餅に糞する縁の先   芭蕉

 古池や蛙飛び込む水の音     同

 

を例として挙げる。

  この二句はまさに、こんなものの中にさえ風雅があるという例証にふさわしかった。

  和歌で蛙というと井手の玉川の蛙を読むことも多かった、中世も後期になると、

 

 言の葉の種をも春やまきもくの

     やまだの水に鳴くかはづかな

              正徹(永享九年正徹詠草)

 

のような山田の蛙を詠む例も出て来る。それでも巻向の山田と歌枕に詠んでいる。これに対して芭蕉はどこにでもある古池の蛙に、言の葉の種を蒔くこととなった。

  それよりは前になるが、

 

 みさびゐて月も宿らぬ濁り江に

     我すまんとて蛙鳴くなり

              西行法師(山家集)

 

の歌があるが、この場合は歌枕の景物としての蛙というよりは、『古今集』仮名序の歌を詠む蛙に自分の姿を投影させている。

  連歌でも「寛正七年心敬等何人百韻」の五十四句目に、

 

   散る花の水に片よる岩隠

 さざ波立ちて蛙なくなり     行助

 

の句がある。散る花を井手玉川の山吹と見ての展開になる。「さざ波」どまりで「水の音」には辿り着かなかった。

  蛙の声でなく、水音を詠んだというところも、まさにこんな所にも風雅の種がという見本になる。

  和歌では「水の音」の用例は幾つもあるが、概ね川音のこととして詠む所に風雅があった。中世の連歌論書、宗砌の『砌塵抄』には、

 

 「水音と云詞、いやしき也、河音などは可然候。」

 

とあるように、サラサラいう川音は風雅だが、じゃぼっという水音はあまり歓迎されなかった。もっとも例外がなくもない。中世には、

 

 陰しげき木の下闇の暗き夜に

     水の音してくいな鳴くなり

              永福門院(風雅集)

 

の歌もある。

  「古池」が和歌に用いる言葉ではなく、俗語だということは、支考の享保十年刊の『十論為弁抄』にも、「古池はつくろはずして俗語」とある。日文研の和歌データベースで「ふるいけ」で検索しても一件もヒットしなかった。古池は雅語ではない。卑俗な題材とされていたのは間違いない。

  不意に起こる水音は人をヒヤっとさせる。たとえば元禄二年、『奥の細道』の旅の途中の山中三吟五句目に、

 

   鞘ばしりしをやがてとめけり

 青淵に(うそ)の飛こむ水の音     曾良

 

の句がある。

  突然ジャボッという水音がしたので、すわっ曲者!と思って刀に手を掛けると、何だカワウソかという落ちになる。これが水音の本来のイメージであろう。

  荒れ果てた古池で不意にジャボッという音がして一瞬ビクっとする。その驚きが、杜甫の『春望』の「時に感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」の心に通じる。

  土芳が「草に荒れたる中より」と言っているように、古池は草に埋もれたような場所を連想させる。其角が古池の句に付けた脇も、

 

   古池や蛙飛び込む水の音

 芦の若葉にかかる蜘蛛の巣    其角

 

だった。

  何処にでもある草に荒れ果てた古池に、どっちかというと虚を突かれビクッとするような水音、いずれも卑俗な題材にも関わらず、漢詩、和歌、連歌に勝るとも劣らない風雅の情を聞きつける。それがまさに、

 

 「見るに有。聞に有。作者感るや句と成る所は、則俳諧の誠也。」

 

だった。

 

   *

 

 乾坤は儒教の概念で、万物を生み出す男性原理と女性原理をいう。万物は男女が交感する所から生じる。

  儒教の場合、あくまでもこの男女を抽象的な存在として扱うが、これを男神・女神の形で表す仕方が、東アジア全体で広く行われていた。

  道教の東王公・西王母や神道のイザナギ・イザナミもそうだ、

  神仏儒道習合があたりまえの時代にあって、芭蕉がどの影響を受けたかはたいした問題ではない。こうした習合された世界観からすると、風雅のたねである乾坤と、「造化にしがたひて四時を友とす」の造化と、『奥の細道』の冒頭の「道祖神のまねきにあひて」の道祖神とは同じものだった。道祖神もまたしばしば男女双体で表される。

  移ろい行き、一度として同じ事件の起こることのない現象の世界も、すべて乾坤によって生み出されては死に向かうものであれば、そこに四季を発見することが出来る。

  春夏秋冬のパターンをあらゆるものに拡大して当てはめて行く時、ただ一度の事件は常に反復される事件になる。

  こうした反復されるべきパターンを掘り起こし、表現することによって、初めて一つの言葉が普遍性を持つことになる。土芳の言う「とめる」とはこのことを言う。(笑いにおけるいわゆる「あるあるネタ」も、こうした反復されるパターンの一つと言える。)

 

 「師の曰、乾坤の變は風雅のたね也といへり。静なるものは不變の姿也。動るものは變也。時としてとめざればとゞまらず。止るといふは見とめ聞とむる也。飛花落葉の散亂るも、その中にして見とめ聞とめざれば、おさまることなし。その活たる物だに消て跡なし。」

 

 止めるとは、うつろいゆく現象の背後に乾坤の変を発見し、言い表すことをいう。単に移ろい行く外見を描写するのではない。ただそのつど新たに生じたものを記述するだけでは、その対象が消滅した時、もはや意味をなさなくなる。

  流行する現象は、その背後にある不易を発見した時のみ、「止める」ことができる。

  いわば、道行く人の一人一人を描写するのではなく、絶え間なく行き交う人の中になにか普遍的なパターンを発見した時、それは意味のあるものとなる。

  同じく芭蕉の弟子の一人、許六の『風俗文選』の序にも、

 

 「縦横自在を盡したりとも、ひとつの趣意をたつる所なくては、童蒙の丸い物つくしに落て、果ては松坂を仕舞となせる。甚無下の事なるべし。」

 

とあるように、古典に裏づけられた不易の情を趣意として立てなければ、単なる子供の「丸いものづくし」や盆踊りを能の舞台に乗せるようなものだいうことになる。

  去来は『不玉宛書簡』の中で、不易流行についてこう言っている。

 

 「俳諧に千歳不易の姿有、一時流行の姿有。我師(芭蕉)是を両端に分て教へ、しかも其血脈貫通す。貫通するは共に実地に立は也。不易の姿をしらざる時はその本行かたし。流行の姿を知らざる時は佚して不動。物動さる時は変ぜす。変ぜざる時は新ならず。此道は心辞共に新味を以て命とす。是流行の句行るる所以也。能流行する時は活々然として万歳を経て新也。久しく留時は濁て重し。今の軽を用るは当時。」

 

 毎年のように四季が過ぎ去ってゆき、そこには一つとして同じ春もなければ同じ秋もない。

  しかし、春には春の本質的な感情があり、それは昔も今も変わらない。こうした変らない部分に係わらないなら、去年の春の情は去年の情にすぎず、今年のものとはならない。即ち「不易の姿をしらざる時はその本行かたし。」

  かといって、時代の変化に無関心で、江戸時代にあって相変わらず王朝時代の春を詠んでもリアリティーがない。それは単なる空想にすぎない。

  それに、言葉は最初は高雅な情を表していたとしても、俗人がそれを卑俗な情を表すために形だけ真似て使ったりするから、いくら作者が高雅な意図で用いても、古い言葉は俗っぽく響きやすい。即ち「久しく留時は濁て重し。」「月並み」というのはそこから生まれるのではないかと思う。

  高雅な情は古い言葉と差別化した時に生み出されるもので、その生み出された一瞬に最高に輝くことになる。それゆえ「新味を以て命とす」となる。

  不易は季節の情のように反復されるもので、春夏秋冬があり、恋にも出合い別れの春夏秋冬があり、一生にも生まれて死ぬまでの春夏秋冬がある。

  これに対し変化してやまぬもの、流行するものは朱子学では「理」に対して「気」の方に属する。

  理は未発の情をいい、気は已発の情をいう。不易の情は未発の情で、それが気として実体化した時に人に感動を与える。

  気は清代の中国では今でもよく用いられる気功術のような神秘的な概念になるが、宋代の朱子学でいう気はむしろ形のある現象一般を意味する。理がその背後にある物自体なのに対し、気は現象を意味する。

  去来は不易流行を説明する際、人間の動作に喩えている。

 

 「先不易は無為の時、流行は座臥行住屈伸伏仰の形同じからざるが如し。」

 

これは朱子学の未発已発の概念をうまく言いあてている。

  情は何かしら移ろい行くものに向かって発せられる以上、移ろい行く現実を捉えてこそ意味があり、絶えず変わってゆく時代の中で、その時代に向けて発せられた情でなくては意味がない。

  しかし、一方で現象の正しい認識は、その根底をなす不易の地平が開示され、「通」じている時のみに限られる。(みち)はまさに様々な現象を通すことのできる場所にほかならず、この場所が塞がっているなら、単に一回限りの情があるにすぎない。

  失恋や死別の悲しみも、人は有史以前から繰り返してきたこどだからこそ人を感動させるもので、その人にしかわからない悲しみではなかなか人には伝わらない。

  ただ、同じ失恋でも古代人のそれと江戸時代のそれと今の時代のそれでは、同じとはいえそのシチュエーションは異なる。今の時代は今の時代の失恋を描いた方が心に刺さるし、古代人の失恋の話はその時代の気持ちになるというワンクッション置かないと、なかなか伝わってこない。いずれにせよ今も昔も変わらないというところで感動を呼ぶ。

  理(あるいは道)は移ろい行く現象の背後にあるという点では、幾何学的な空間を構成するというよりは、むしろ時間的な性格が強く、それが西洋の科学と大きく異なる点なのかもしれない。

  朱子学では人間と他の動物の違いを経(時間)の認識によるとしている。動物は空間に生きるのみで、人間だけが時間に向けて開かれているとする。それによって、気だけでなく理を理解すると考える。書物でも現象に対して記述したものは緯書と呼び、理に通じるものを経と呼ぶ。

  西洋でもハイデッガーが現存在の存在を「時間性」と規定している。

  筆者が思うのだが、意識というのは何らかの量子的な特殊な場において、一瞬だけ時間の逆向が起ることで発生するのだと思う。今の物理学では時間の逆向は説明できないが、この逆向がなければ認識されたものの順序を組み立て直す作業ができない。コンピュータと一緒で直線的な計算しかできなくなる。

  並列処理されて脳に上がってくる沢山の情報の間で光速を超えた伝達が生じるなら、その順位情報到達の順位に可変性と任意性が生じる。このわずかな時間の混乱が通常物理的には有り得ない同時性を生じさせ、それが意識になる。

  不易と流行は流れ去る時間と反復されるパターンに解消できる。反復されるパターンは乾坤の変から四季の循環へと導かれ、それを人生や恋などに当てはめることで一回きりの事件も繰り返される事件として不易の意味を持つ。

  いわゆる「あるあるネタ」も繰り返されるパターンの発見から生じる。

  古池は当時はありふれたもので、廃墟や耕作されてない荒れ地に残る古池は不気味な静けさのある場所で、いわゆる「出そうな」場所でもあった。そこで蛙の音に一瞬ギクッとする、そんな体験も一つのパターンとして繰り返されていた。古池の蛙は一種のあるあるネタだった。

 古典を学ぶなら、何が時代を超えて繰り返されるパターンなのか、わりと直感的にわかることがある。簡単に言えば今でも面白いというパターンは不易と言って良い。

  たとえば『源氏物語』桐壺巻の、親が死んだのに小さな子供がそれを知らずに無邪気に振舞う場面は涙を誘うし、今でもドラマなどで繰り返し用いている。柏木の滅多に人になつかない猫が恋を媒介するというのも、今でも時折用いられている。ジブリ映画の『耳をすませば』もその一つだ。

  不易が法則ではなくパターンなんだというのがわかれば、不易を見つけ出すことはそれほど難しくない。

  不易のパターンはあまり繰り返されると「またか」という感じになり、そこに月並みというのも生じる。ただ、それを嫌って完全なオリジナルで新しいパターンを作り出すのはそう簡単ではない。

  月並みの問題は芭蕉の晩年には既に顕在化していたのかもしれない。去来と許六の『俳諧問答』も、不易流行説の申し子だった去来に、その後の「軽み」の説を受けついだ許六との間の食い違いを露呈させるものだった。あるいは越人と支考の対立もその辺にあったのかもしれない。

  晩年の芭蕉は古典の本意本情のさらに向こう側に行こうとしたのか、むしろ古典の知識に囚われない純粋な初期衝動を重視するように変わっていった。それは不易のパターンも使いすぎると飽きられるという単純なことだったのかもしれない。

  そこで子規のことを振り返るなら、子規は古池の句の頃の芭蕉ではなく、軽みの頃の芭蕉の問題意識に近かったのかもしれない。

  子規の写生説は古典のパターンの反復ということを断ち切る所にあった。それが月並調から脱却するための一つの答えだった。

  ただ、これはあまりに困難な道であると同時に、実りの少ない道だった。夥しい数生み出された近代俳句の中で、我々の記憶に残っている句は一体どれくらいあるだろうか。同じことはそのまま芭蕉の死後の蕉門の衰退にも言えるのではないかと思う。

  俳諧は盛んになり、作られる句の数は飛躍的に増えた。それでも心に残る句は現れなくなった。古典のパターンを外した句や、多くの人が「あるある」と共感しない句、それはひょっとしたら古人の思いもかけなかったような新しいパターンの発見に繋がるかもしれない。しかし、結果的には不発に終わったと言って良い。

  それは結局、人間というのはいつの時代も同じなんだというだけのことかもしれない。昔の人が見つけられなかったものは、今の人も見つけられない。結局それだけのことなのかもしれない。

 

 

参考文献

 『筆まかせ、抄』正岡子規著、柴田宵曲編、一九八五、岩波文庫

 『松蘿玉液』正岡子規、一九八四、岩波文庫

 『評伝、正岡子規』柴田宵曲、一九八六、岩波文庫

 『正岡子規』粟津則雄、一九八二、朝日新聞社

 『文芸読本、松尾芭蕉』一九七八、河出書房新社

 『俳句はかく解しかく味う』高浜虚子、一九八九、岩波文庫

 『子規と虚子』山本健吉、一九七六、河出書房新社

 『俳句を楽しむ』復本一郎、一九九〇、雄山閣出版

 『芭蕉古池伝説』復本一郎、一九八八、大修館書店

 『笑いと謎』復本一郎、一九八四、角川選書

 『松尾芭蕉』尾形仂、一九八九、ちくま文庫

 『芭蕉』白石俤三、一九八八、花神社

 『芭蕉の世界』山下一海、一九八五、角川選書

 『芭蕉と蕪村』山下一海、一九九一、角川選書

 『松尾芭蕉』宮本三郎、今栄蔵、一九六七、桜楓社

 『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫

 『芭蕉紀行文集』中村俊定校注、一九七一、岩波文庫

 『風俗文選』許六編、伊藤松宇校訂、一九二八、岩波文庫

 『古今和歌集』佐伯梅友校注、一九八一、岩波文庫

 『連歌論集、上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫

 『朱子の自然学』山田慶児、一九七八、岩波書店

 『制作する行為としての技術』山田慶児、一九九一、朝日新聞社

 『易経、下』高田真治、後藤基巳訳、一九六九、岩波文庫

 『太極図説。通書・西銘・正蒙』西晋一郎、小糸夏次郎訳註、一九八六、岩波文庫

 『芥川龍之介全集七』一九八九、ちくま文庫

 『中国の哲学、宗教、芸術』福永光司、一九八八、人文書院

 『詩経 漢詩大系一』高田眞治、一九六六、集英社

 

 『詩経』目加田誠、一九九一、講談社