笈の小文─風来の旅─

前書き

 俳句なんてのは、人それぞれ好きなように解釈すればいいというのは確かに道理で、別にこう読めなんて強制されるような筋合いのものではない。

 ただ、古典に関して言えば、詠まれた当時の本来の意味を知りたいという気持ちも、なかなか抑えることができないものだ。

 古典には現代のマンガやアニメやラノベやゲームなどのような華やかな刺激を求めるすべもないが、それは長い時代を経て、言葉も変り、人々の生活も変り、その作品が作られた当初の感動を再現することが困難になっただけのことで、本当は作られた当初は今のものと変らないくらい刺激的だったはずだ。

 古典の価値は、それがかつて多くの人を感動させ、多くの人が大切にし、守り、今日にまで残してくれた所にある。そうした人たちの気持ちを無駄にしないためにも、古典を読み続けなくてはならない。そして、彼らの感動の再現を常に試みていかなくてはならない。

 『野ざらし紀行』はまだ芭蕉が蕉風(しょうふう)を確立して行く過程にある、いわば未完成の面白さがある。ひょっとすると芭蕉は全く違う方向に風雅を確立していたかもしれない、そんないろいろな可能性を秘めている。これに対し『奥の細道』は完成されている。一つの頂点を究めた技術が、あたかも何でもないことをやっているかのように軽々と自在に、即興のような自然な形で駆使されている。

 『(おい)小文(こぶみ)』はその中間に位置する。それは芭蕉が貞享三(一六八六)年にあの有名な、

 

 古池や(かはづ)飛び込む水の音

 

の句を発表し、芭蕉の新風(蕉風)の確立を世間に知らしめ、一つの頂点を究めたその一年後の貞享四(一六八七)年の冬から翌五(一六八八)年の秋にかけての旅だ。

 芭蕉はその足で信州更級(さらしな)姨捨(おばすて)(やま)に登り、江戸の戻ると、その年のうちに元号は元禄と改まり、翌元禄二(一六八九)年の春には『奥の細道』の旅に出ることになる。『奥の細道』に、


 「去年(こぞ)の秋江上(かうしゃう)()(おく)(くも)の古巣をはらひて、やや年も(くれ)、春(たて)る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ(かみ)の物につきて」

 

とあるとおりだ。

 元来この紀行文にタイトルはなかった。『笈の小文』は芭蕉の死後、近江の弟子の乙州(おとくに)の付けたもので、他に『()(たつ)()行』『大和紀行』『吉野紀行』と呼ばれることもあったが、今日ではほとんど聞かなくなった。

第一章、再び故郷へ

一、風羅坊

 芭蕉というとしばしば「わびさび」という言葉が帰ってくる。実際のところ、芭蕉は「わび」という言葉はほとんど使っていない。「さび」「しおり」「細み」というのが実際芭蕉が好んで使った言葉だ。とはいえ、やはり芭蕉の俳諧は「わび」を一つの特徴とするものだ。

 「わび」というのは下がる、落ちるといった意味がおそらくもとになっているのだろう。この言葉は動詞の「わぶ」「わぶる」、形容詞の「わびし」という形で古代中世を通じて多義的に用いられた。その主なものいうと、まず一つは今日でいう「落ち込む」に近い、苦しみや嘆きを現わすもので、もう一つは「落ちぶれる」という意味で、「わびびと」というと乞食を意味する。この二つは「(わび)」という字を当てるが、それとは別に「詫び」という字を当てると、謝る、頭を下げるというもう一つの意味になる。

 このうち中世文学でいう「わび」は人々の煩悩の苦しみを訴えるという意味での「わび」と、侘人(乞食坊主)の立場に身を置くという意味での「わび」との合わさったものだった。

 

 「百骸九竅(ひゃくがいきうけう)の中に物有り。かりに名付て(ふう)羅坊(らばう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」

 

(現代語訳:沢山(ひゃく)()()九つ(きう)()()の中に()()ある(あり)。仮に名付けて風羅坊という。まさ(まこと)に薄物の風に破れやすそう(から)()ことを言う(にや)だろう(あらむ)。)

 

 (ひゃく)(がい)の骸は骸骨(がいこつ)の骸でいわば全身骨格を意味する。死ぬとその骨があらわになるという意味で、死骸の骸でもある。九竅(きゅうきゅう)の竅は体にあいた穴のことで、目の穴が二つ、耳の穴が二つ、鼻の穴が二つ、口の穴が一つ、それに小便の穴とケツの穴で九竅となる。物というのは、今では物質を表すが、かつては魂という意味で用いられることも多かった。心敬法師の発句、

 

 ほととぎす聞きしはものか富士の峰

 

の「もの」は「もののけ」とか言うときの「もの」と同様幽霊を意味する。体を失い霊魂だけになったものも「もの」という。ちなみに「もののけ」はから傘や下駄などの物が化けたから「物の化」だというのは後世の俗説。本来は「もの」だけでも「もののけ」を意味した。「百骸九竅の中に物有」とはつまり、肉体の中に魂があるという意味になる。

 さて、その魂の名は、「かりに名付て風羅坊」という。風羅坊(仮)というわけだ。

 風羅坊は肉体の名ではない。魂の名だ。肉体の名は生まれた時親からもらったり、俗世で名乗るときの名前だ。つまり金作だとか宗房(むねふさ)だとか、芭蕉(ばしょう)(あん)(とう)(せい)だとかいう名だ。

 ちなみに、松尾芭蕉という呼び方が今では普通となっているが、本来の呼び方ではない。俳諧師としての芭蕉は正式には芭蕉庵桃青であって、芭蕉が署名するときにはほとんどの場合この名を用いている。

 芭蕉は先祖を松尾氏に持つものの、武士の身分はとっくに消失していたから、本来正式の名字はない。しかし、通称としては便宜的に、「松尾氏 桃青」あるいは「松尾氏 芭蕉」と先祖の松尾氏の名で呼ばれることもあった。松尾芭蕉という呼び方は近代の戸籍制度の確立によって、人名を表す時は名字+名前で表記するものとされ、それに倣ったものと思われる。(田氏捨女も今は田捨女と表記されることが多い。)

 ここで登場する(ふう)羅坊(らぼう)の名はそれほど頻繁に用いられたわけでもない。この名はむしろこの『笈の小文』で用いられたということ以外には、あまり知られていない。羅というのは本来網を意味するもので、そこから薄い透き通るような布をも表すようになった。羅紗(らしゃ)だとか綺羅(きら)だとかいうときの羅でもある。風になびく薄絹、それは乞食の着る破れた薄い着物のことなのか。この風羅坊の名は「風来坊」にも通じるが、この言葉がこの時代にあったかどうかは定かでない。「風来者」「風来人」は十八世紀初めに見られるから、「風来」という言葉は既にあったのかもしれない。

 ちなみに芭蕉というのはバナナのことで、日本の寒冷な気候では実はならず、大きな葉は秋風に破れてぼろぼろになるところから、しばしば「うすもののかぜに破れやすからん」といわれる。

二、風雅の道

 さて、『笈の小文』の本文は次のように続く。


 「かれ狂句を好むこと久し。(つひ)に生涯のはかりごとととなす。ある時は(うん)放擲(はうてき)せん事をおもひ、ある時はすすむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を(たて)てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク(まなん)で愚を(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして(ただ)此の一筋に(つなが)る。」

 

(現代語訳:()()狂句を好むこと久しい()。ついに生涯の仕事(はかりごと)する(なす)。ある時は飽きて(うんで)放り出そう(ほうてきせ)()した()こと()()あった(おも)()、ある時は気負って(すすむで)人に勝とう(たむ)得意(ことを)()なり(こり)いつも(ぜひ)胸中迷う(たた)ばかり(かふ)()その(これ)せい(がた)()()休まる(やす)こと()()なく()、一時は仕事で出世しようとしたけどその(これ)思い(がた)()邪魔(さへら)()仏道(しば)でも(らく)学んで愚か()さを()ろう(らん)()おもった(とをおも)けど(へども)その(これ)思い(がた)から()挫折(やぶら)()、ついに無能無芸()まま(して)ただこの一筋()頼み(つな)()する()。)


 これを一種の芭蕉の自伝として、「しばらく身を立てむ事」は伊賀藤堂藩に仕えたときのことで、「暫ク(まなん)で愚を(さとら)ン事」は深川で(ぶっ)(ちょう)和尚のもとで参禅したことを指すとも言われている。しかし、「狂句」という言葉もだいぶへりくだった卑下した言い方だし、自分の姿を落ちぶれ果て、乞食に成り下がったかのように演出しているが、そこには多少自己を過剰に演出している部分もあるだろう。

 ただ、この道は決して本来卑下するべきものではなく、風雅の伝統の道としての誇りを持っている。


 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、(その)貫道(くわんだう)する物は(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうくわ)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。」

 

(現代語訳:西行の和歌でも(における)宗祇の連歌でも(における)雪舟の絵でも(における)利休の茶でも(における)そこ(そのか)()(どう)(する)もの()一つ(つな)()。しかも風雅()()()いる(るも)者は()天地(ぞう)自然(くわ)従い(したがひて)四季(しいじ)を友とする()。見るもの(ところ)(はな)みんな(にあらず)(とい)(ふこ)なり(となし)、思うこと(ところ)(つき)みんな(にあらざる)(といふ)(こと)なる(なし)(ここ)()(にあ)ない(らざる)なら(ときは)鳥獣()たぐい(るい)()野蛮(いてき)脱却()()、鳥獣()区別(はな)して(れて)天地(ぞう)自然(くわ)に従い天地(ぞう)自然(くわ)に帰れという(なり)。)


 西行、宗祇、雪舟、利休と中世芸術の巨匠の名を挙げ芭蕉自身もその継承者と位置付ける。「しかも風雅におけるもの」の風雅はこの場合俳諧を指すと思われる。芭蕉はしばしば風雅や風流を俳諧と同義に用いる。だからここは「しかも俳諧におけるもの」と読んでもいいように思える。その俳諧とは「造化(ぞうくわ)にしたがひて四時(しいじ)を友とす」。書き出しで卑下しているように見せながら、やはり芭蕉の文は堂々と自信に満ちあふれている。

 「造化」という言葉は老荘思想の色彩の強い言葉で、『列子』に「(ろうたん)曰く、造化の始まる所、陰陽の変ずる所、これを生と謂ひ、これを死と謂ふ。」とあり、『荘子』には「造化に順つて而して万物となる」とある。

 この部分は、芭蕉自身が書いた数少ない風雅の本質論という点でも重要だ。「(その)貫道(くわんだう)する物は(いつ)なり」という一文はいわゆる不易流行説にも関連している。

 なお、この『笈の小文』の一節は、しばしば『(さる)(みの)』に収められた俳文『(げん)(じゅう)庵記(あんのき)』との類似が指摘されている。そこにはこうある。


 「かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず。やや病身人に(うみ)て、世をいとひし人に似たり。(つらつら)年月(としつき)(うつり)こし(つたな)き身の(とが)をおもふに、ある時は仕官(しくわん)懸命(けんめい)の地をうらやみ、(ひと)たびは仏籬(ぶつり)祖室(そしつ)(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲(ふううん)に身をせめ、花鳥(くわてう)(じゃう)を労して、(しばら)く生涯のはかり事とさへなれば、(つひ)に無能無才にして(この)一筋につながる。」


 この初期の草稿と思われるものが、『芭蕉翁手鑑』に、真蹟からの透写として伝えられているが、この方が『笈の小文』に近い。


 「我しゐて(かん)(ぢゃく)(いち)をさくるにあらず。多病(ひと)(うん)で、世をいとひし人に似たり。しかも閑に有てなせるわざもなく、わかかりし年よりこのむ事有て、(つひ)に生涯のはかり事となす。(しばら)く人にしたがひ身を立てん事をねがはずしもあらずなん侍れども、この一物にさえられ、(ただ)無能無才にして(この)一筋につながる。およそ西行のわかに(おけ)る、宗祇の連歌に置る、利休が茶に置る、雪舟が絵に置る、皆その貫道する物は一なるべし。」

 

 今栄蔵によると、『幻住庵記』は元禄三(一六九〇)年の六月以降大津の幻住庵滞在中に何度も書き直されたもので、この草稿は六月下旬に書かれた第二稿とされている。七月下旬の第三稿も「凡そ西行・宗祇の風雅における、雪舟の絵における、利休が茶における、賢愚ひとしからざれども、(その)貫通するものは(いつ)ならんと‥‥」の文があるが、その直後の第四稿からはこの部分は消える。そして、8月に『幻住庵記』の最終稿ができた頃、「西行・宗祇」の部分を独立させ、『笈の小文』の冒頭部分ができたとしている。

三、旅人と

 「神無月(かんなづき)(はじめ)、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、

 

 旅人と(わが)名よばれん初しぐれ
   又山茶花(さざんくわ)宿々(やどやど)にして

 

 岩城の(ぢゅう)、長太郎と云ふもの、此脇を(つけ)()角亭(かくてい)におゐて関送リせんともてなす。」

 

(現代語訳: 旧暦(かんな)十月(づき)の初め、空模様(さだめ)()定まらず(きけしき)自分()()()()舞う()()行方(ゆく)()知れぬ(へなき)心地して、

 

 初時雨(たびびと)()我名は旅(わが)人と(なよ)()呼ば(れん)れるだろう(はつしぐれ)

   また山茶花()泊り(やどやど)歩いて(にして)

 

 磐城の住人(ぢゅう)、長太郎という者がこの脇を付けて其角亭で送別会(せきおく)()開いて(せんと)もてなす。)

 

 冬の西高東低の気圧配置が安定する頃には、関西方面では決まったように明け方と夕方にぱらぱらとにわか雨が降る。昼の海からの湿った風と夜の山からの乾いた風が交差するせいだろう。最近では温暖化でたまに関東でも降ることがあるが、関東では大体冬はからからの天気で、私は鹿児島で何年か過ごしたとき、毎日のように朝夕にぱらぱら来るのが不思議で、当時は「時雨(しぐれ)」などという名前も知らなかった。

 関東ではからっときれいに晴れ上がった空に北風が吹いてくると、冬が来たという感じがするが、関西の方では夕暮れの時雨が冬の訪れを告げる合図なのだろう。芭蕉の時代では江戸でも時雨は降ったのだろうか。地球の気温は幕末・明治の頃が一番寒く、それ以降温暖化し始めたが、それ以前は寒冷化の傾向にあったという。西行の時代には如月の望月の頃に桜が咲いたが、今で言えば三月の半ばだからやや早い。

 時雨は芭蕉の時代には冬の季題となっているが、『古今集』では紅葉を染める秋の時雨が読まれている。

 

 龍田河紅葉(もみぢ)ばながる(かむ)なびの
   みむろの山に時雨ふるらし
             文武天皇
 しら露も時雨もいたくもる山は
   下葉のこらずいろづきにけり
             紀貫之

 

などがそれで、雨に濡れた紅葉に夕日が射す瞬間は、まさに金色に輝く錦といったところだろう。
 「初時雨」もまた、この系譜の上で、秋に詠まれている。

 

 小倉山秋の梢の初しぐれ
    今いくかありて色に出でなむ
             藤原(ふじわらの)為相(ためすけ)

 初しぐれ降るほどもなくしもとゆふ
    葛城山は色づきにけり
             覚性(かくしょう)入道(にゅうどう)親王(しんのう)

 

 こうした秋の時雨が詠まれているところからも、連歌では「時雨」は秋にも冬にも詠むものとされ、便宜的に、単独では冬、秋の季題と重なった場合は秋の句とされていた。そのため、

 

 長月や山どりのおのはつ時雨   智蘊(ちうん)
 露にみよ青葉の山ぞ初時雨    宗祇

 

といった秋に分類される初時雨の句がある。

 秋の時雨が基本的に紅葉を染めるという発想によるものなのに対し(宗祇の句も紅葉だけでなく青葉も染めるというもので、

 

 時雨の雨まなしく降れば真木の葉も
    あらそひかねて色づきにけり
              柿本(かきのもとの)人麻呂(ひとまろ)

 

による。冬の時雨は定めなき空、山に入る僧というもう一つの系譜を生み出す。冬の時雨を詠んで歌は『古今集』にすでに、

 

 竜田川錦おりかく神な月
    しぐれの雨をたてぬきにして
              よみ人しらず

 

があるが、次の勅撰集『後撰和歌集』になると、

 

 神無月ふりみならずみさだめなき
    時雨ぞ冬のはじめなりける
              よみ人しらず
 神無月時雨ばかりを身にそへて
    しらぬ山路に入ぞかなしき
              増基(ぞうき)法師(ほうし)

 

 時雨の定めなさと、山に分け入る僧に冷たく降りつける時雨の趣向は、『新古今集』の、

 

 世にふるは苦しきものを(まき)の屋に

    安くも過ぐる初時雨かな

              二条院(にじょういんの)讃岐(さぬき)

 冬を浅みまだき時雨と思ひしを

    堪へざりけりな老いの涙も

              清原元(きよはらのもと)(すけ)

 

といった歌に受け継がれてゆく。清原元輔の歌には、時雨と老いとが結び付けられ、芭蕉の元禄五年の、

 

 今日ばかり人もとしよれ初時雨

 

の句にも通じる。さらに、時雨の晴れ間の月を見出すことによって、より冷えさびた趣向へも高められてゆく。

 

 月を待つ高嶺の雲は晴れにけり

    心あるべき初時雨かな

             西行法師

 たえだえに里わく月の光かな

    時雨を送る夜半のむら雲

              寂蓮法師

 

 連歌発句の、

 

 月は山風ぞしぐれににほの海   二条(にじょう)良基(よしもと)

 

もこの系列にある。

 こうした中で、宗祇の、

 

 世にふるもさらに時雨の宿(やどり)かな   宗祇

 

という連歌発句は、時雨という言葉に決定的な解釈を与えた。降るを経る、古る、老いるといういみに掛けて用いる詠み方は、それまでもしばしばなされていた。「世にふる」という言葉には、年を取ることの苦しさと、定めなき時雨に打たれる苦しさとの、両方の意味が込められている。

 二条院讃岐が「槇の屋」での隠遁生活に安らぎを詠み込んだのに対し、宗祇は見知らぬ軒での雨宿りに人生そのものの姿を見出す。人生はどこに住もうとも結局は生まれて死ぬまでの仮の宿に過ぎず、どこであっても決して永遠に住めるということはない。定めない宿命ではあるが、そこに貴重な一期一会もある。その瞬間は、時雨の晴れ間の輝く紅葉や、時雨の止んだ後の月にもたとえることができるだろう。芭蕉もまた天和(てんな)二(一六八二)年に、

 

   手づから雨のわび笠をはりて
 世にふるもさらに宗祇の宿(やどり)かな   芭蕉

 

の句を詠む。今でいえばサンプリングともいえるようなきわどい手法の句だ。

 貞享元年の『野ざらし紀行』の旅の途中でも、芭蕉は、

 

 この海に草鞋(わらんじ)すてん笠しぐれ

 笠もなき我をしぐるるかこは何と

 草枕犬も時雨(しぐる)るかよるのこゑ

 

といった句を詠んでいる。ここにも宗祇法師への共鳴が見られる。

 こうした人は生まれてから死ぬまでの短い間この世に遊びに来た旅人であり、定めなき旅に一夜の宿りを乞う旅人だという世界観が、この『笈の小文』での旅立ちの句となった。

 

 旅人と(わが)()よばれん初しぐれ   芭蕉

 

この発句に福島県小名浜の内藤家の家臣、井出長太郎(俳号は由之(ゆうし))が脇を付ける。

 

   旅人と我名よばれん初しぐれ

 (また)山茶花を宿々(やどやど)にして      由之

 

 冬の定めなき旅とはいえ、行く宿行く宿には山茶花の美しい花が咲いていることでしょう。この日は()(かく)の木場にあった其角亭で餞別会が行われ、そのときの句だった。

 山茶花は『冬の日』の第一歌仙の、

 

 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉  芭蕉

   たそやとばしるかさの山茶花   野水

 

のイメージもあったと思われる。

 

 ここでスポンサーの紹介。

 

  「時は冬よしのをこめん旅のつと

 

(この)句は露沾(ろせん)公より下し給はらせ侍りけるを、はなむけの(はじめ)として、旧友、親疎、門人()、あるは詩歌(しいか)文章をもて(とぶら)ひ、(ある)草鞋(わらぢ)(れう)(つつみ)みて志を見す。かの三月の(かて)(あつむる)に力を(いれ)ず、(かみ)()綿(わた)()などいふもの、帽子(まうす)・したうづやうのもの、心々に送りつどひて、霜雪(さうせつ)の寒苦をいとふに心なし。あるは小船をうかべ、別墅(べっしょ)にまうけし草庵に酒肴(さけさかな)(たづさへ)来りて、(ゆく)()を祝し、名残をおしみなどするこそ、ゆへある人の首途(かどで)するにも似たりと、いと物めかしく覚えられけれ。」

 

(現代語訳:時は冬()()餞別(のを)()吉野(めん)()詰めよう(びのつと)

 

 この句は露沾公から(より)いただいた(くだしたまはらせ)(はべ)(りけ)(るを)、はなむけの初めとして旧友、親疎、門人らのある()()は詩歌文章を持って(てと)訪れ(ぶらひ)ある()()は草鞋(のれう)を包()寸志(こころざ)(しを)する(見す)荘子()の『三月の(かて)』を集()苦労(ちからを)()なく(れず)、紙子、綿小()いった(どいふ)もの、帽子、下沓(したうづ)などもみんな(こころ)それぞれ(ごころに)持って(おくりつ)きて(どひて)()()(ゆき)寒さ(かんく)(をい)心配(とふにこ)ない(ころなし)

 ある者は小船を浮かべ、別荘(べっしょ)に設け()仮説(さう)()()()()()持ち込んで(づさへきたりて)前途(ゆくへ)を祝し名残を惜しんだり(おしみなど)してる(するこ)()大宮(ゆへある)人の門出する()()よう(にたり)()々しい(めかしく)感じ(おぼえ)(られ)する(けれ)。)


 内藤露沾(ろせん)は本名内藤政栄で、(いわ)()(たいら)藩七万石の城主内藤左京大夫義泰の次男。父も(ふう)()という俳号で貞門・談林の俳諧に親しんでいた。大名家の豊富な財力で、芭蕉のみならず、江戸俳諧のパトロン的な存在で、芭蕉のこの『笈の小文』の旅のスポンサーでもあった。旅の資金だけでなく、(かみ)()綿(わた)()帽子(まうす)などの旅行用品も提供し、旅立ちの際にも盛大な送別会を開いてくれた。なおこの、

 

 時は冬よしのをこめん旅のつと  露沾

 

の句は九月に内藤露沾公邸で興行したときの発句で、元は、

 

 時は秋よしのをこめし旅のつと  露沾

 

だった。

四、芭蕉の旅行記論

 「(そもそも)、道の日記といふものは、()()長明(ちゃうめい)阿佛(あぶつ)(あま)の、(ぶん)をふるひ(じゃう)(つく)してより、余は皆(おもかげ)似かよひて、(その)糟粕(さうはく)を改る事あたはず。まして(せん)()短才(たんさい)の筆に(およぶ)べくもあらず。

 (その)日は雨(ふり)、昼より(はれ)て、そこに松(あり)、かしこに何と(いふ)川流れたりなどいふ事、たれたれもいふべく覚侍れども、黄哥蘇(くわうきそ)(しん)のたぐひにあらずば(いふ)事なかれ。されども其所々の風景心に残り、(さん)(くわん)野亭(やてい)のくるしきも(うれひ)も、(かつ)ははなしの種となり、風雲の便(たよ)りともおもひなして、わすれぬ所々跡や先やと書集(かきあつめ)侍るぞ。猶酔ル者の𢛴(まうご)にひとしく、いねる人の(うは)(ごと)するたぐひに見なして、人又亡聴(ばうちゃう)せよ。」

 

(現代語訳:そもそも紀行(みちのに)(っき)というものは紀貫之(きし)鴨長明(ちゃうめい)阿仏(あぶつの)(あま)(ぶん)を揮い旅情(じゃう)(つく)して以降(より)自分()全部(みな)真似(おも)()してる(げにか)だけ(よひ)()、その残り粕(さうはく)()(あら)(たむ)出て(ること)いない(あたはず)。まして、浅学(せんち)非才(たんさい)()先人(ふで)に及ぶべくもない。

 その日は雨が降()って()昼より晴れて、そこに松があ()って()そこ(かし)()()何という川()流れてた(がれたり)など()いう()こと()()(たれ)(たれ)言いそう(いふべく)()こと(ぼえ)(はべ)けど(れども)珍しく(くわう)()新しく(そしん)()ない(たぐひに)ならば(あらずば)書かない(いふこ)()()良い(かれ)

 そうは言ってもその所々の風景が心に残り、(さん)(くわ)野辺(んや)()宿()の苦し(きも)悲しさ(うれひ)も、一方()()は話の種になり、(ふう)(うんの)噂話(たより)くらい(ともお)(もひ)思い(なして)忘れられ(わすれぬ)ない(ところ)場所(どこ)()後先(あとや)()なく(きやと)書き集め(はべ)みた(るぞ)。なお、酔っぱらい(へるもの)妄言(まうご)()同じ(ひとし)()寝て(いね)る人のうわごと()言ってる(るたぐひ)()思っ(みなし)て、読者(ひとま)()聞き流して(ばうちゃう)くれ(せよ)。)

 

 「紀氏・長明・阿佛の尼」のうち、紀氏は紀貫之(きのつらゆき)で、道の日記は『土佐日記』を指す。

 鴨長明(かものちょうめい)は『方丈記(ほうじょうき)』が有名だが、ここではかつて鴨長明作とされていた『鴨長明海道記(かいどうき)』と『東関(とうかん)紀行(きこう)』のことを指すとみられる。ただ、鴨長明は久寿二(一一五五)年生まれで建保(けんぽう)四(一二一六)年没とされており、貞応二(一二二三)年四月四日に始まる『海道記(かいどうき)』も仁治(にんじ)三(一二四二)年八月から二か月の京都から鎌倉の旅を描いた『東関(とうかん)紀行(きこう)』も、鴨長明の生きた年代と合致せず、今日では作者不詳とされている。そのため、『鴨長明海道記(かいどうき)』も今日では鴨長明の名を冠せず『海道記(かいどうき)』の題で呼ぶ。

 阿仏(あぶつ)()は『十六夜(いざよひ)日記』の作者で、弘安二(一二七九)年の京都から鎌倉への旅を描いた日記だ。

 『海道記』『東関紀行』『十六夜日記』は中世の三大紀行文と言われている。純粋な大和言葉だけで書かれる「和文」ではなく、漢語を混ぜて書く「和漢(わかん)混淆(こんこう)(ぶん)」で、今でこそこうした書き方は当り前だが、当時としては画期的だったのだろう。漢文や和文は文章言葉として発達したのに対し、おそらく当時の口語はかなり漢文の語彙が浸透していて、その意味では「和漢混淆文」は口語に近い書き方だったのだろう。

 もちろん、一口に「和漢混淆文といっても、漢文と和文の比率はまちまちで、中世三大紀行文では漢文の比率が高い方から順に『海道記』『東関紀行』『十六夜日記』となる。たとえば『海道記』の書き出しは、

 

 「白川の渡、中山の麓に、簡素幽栖の侘士(わびびと)あり。性器(しょうき)に底なければ、能を拾ひ芸を容るに足るべからず。身運は本より薄ければ、報を恥ぢ、命を顧みて、恨みを重ぬるに処なく、徒らに、貧泉の蝦蟇(がま)と成りて、身を(うきくさ)に寄せて、力なき()をのみ啼き、空しく、窮谷の(むもれ)()として、(こころ)の樹、花たえたり。惜しからぬ命の、さすがに惜しければ、投身の淵は、胸の底に浅し。(そん)しかひなき心は、(なまじ)ひに存したれば、断腸の(うばら)は、愁の中にしげる。」

 

 この中には「簡素幽栖」「性器」「能」「芸」「身運」「報」「命」「貧泉」「蝦蟇」「窮谷」「投身」「存」「存」「断腸」と漢語が十四語用いられている。
 
 これに対し、『東関紀行』は、

 

 「(よわひ)百年(ももとせ)の半ばに近づきて、(びん)の霜やうやう冷しといへども、なすことなくして、いたづらに明かし暮すのみにあらず、さしていづこに住み果つべしとも思ひ定めぬ有様(ありさま)なれば、かの白楽天の『身は浮雲(ふうん)に似たり、(かうべ)は霜に似たり』と書き給へる、あはれに思へ合せらる。

 もとより金帳七葉の栄えを好まず、ただ陶潜五柳のすみかを求む。しかはあれど、深山(みやま)の奥の柴の庵までも、しばらく思ひ休らふほどなれば、なばじひに都のほとりに住ひつつ、‥‥」

 

 ここまでに漢語は「鬢」「白楽天」「浮雲」「金帳七葉」「陶潜五柳」と五語しかない。
 さらに『十六夜日記』になると、

 

 「昔、壁の中より求め出でたりけむ(ふみ)の名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも、身の上の事とは知らざりけりな。水茎の岡の葛原かへすがへすも書きおく跡たしかなれども、かひなきものは親の諌めなりけり、又(けん)(わう)の人を捨て給はぬ(まつりごと)にももれ、忠臣の世を思ふ(なさけ)にも捨てらるるものは数ならぬ身一つなりけりと、思ひ知りなば、又さてしもあらで、なほこの憂へこそやる方なく悲しけれ。

 更に思ひ続くれば、倭歌(やまとうた)の道は、ただまこと少なく‥‥」

 

 ここまでに漢語は「賢王」「忠臣」の二語しかない。

 ちなみに宗祇法師の『筑紫(つくし)道記(みちのき)』は、

 

 「二毛(にまう)の昔より六十(むそぢ)の今に至るまで、をろかなる心一筋に引かれて、入江の葦のよしあしに迷ひ、身を浮草の浮き沈む嘆き絶えずして、移り行く夢現(ゆめうつつ)の中にも、時に随ふ春秋のあはれ思ひ捨がたく侍るままに、国々の名ある所見まほしく侍る程に、筑波山も思ひ入る障りなく、白河の関の越がたき境をも見侍りしかば、今は松浦(まつら)・箱崎のあらましのみ深う侍りながら、近き世となりて、葦原の風の騒ぎ(しきり)にて、都の中も波の音絶えず侍れば、草の庵いとど住がたく侍るを、思はざるに、左京(さけい)(てう)のかぐはしき(ちぎり)(ふか)うして、西の国の磯の上までを頼めをき給へる事ありき。‥‥」

 

という調子で、ここまでに漢語は「二毛」「左京兆」のこれはほとんど和文といってもいいだろう。

 さてそれでは芭蕉はというと、

 

 「百骸九竅(ひゃくがいきうけう)の中に物有り。かりに名付て(ふう)羅坊(らばう)といふ。誠にうすもののかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。(つひ)に生涯のはかりごとととなす。ある時は(うん)放擲(はうてき)せん事をおもひ、ある時はすすむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を(たて)てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク(まなん)で愚を(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして(ただ)此の一筋に(つなが)る。」

 

とここまでに「百骸九竅」「風羅坊」「狂句」「生涯」「放擲」「是非胸中」「愚」「無能無芸」という具合で、漢語の比率は『東関紀行』と『海道記』の中間くらいになる。『奥の細道』でも、

 

 「月日は永遠(はくたい)旅客(くわかく)にして、行きかう年もまた旅人(たびひと)(なり)。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いを迎える(むかふる)者は、日々旅にして旅を棲家()する()。古人も多く旅に死んだ(せる)もんだ(あり)

()もいづれの(ねん)から(より)か、片雲の風に誘われて、漂泊の思い(おも)()()()()、海浜()さすらい(さすらへ)去年(こぞ)の秋、深川(かうじゃう)ボロ屋(はをく)の蜘の古巣を払って(はらひて)やがて(やや)年も暮れ、春()なったら(てる)霞の空に白川の関()こえ()よう()と、()()分らない()(かみ)()()()()りつ(つき)いて()心をくるわせ、道祖神のまねきにあって(あひて)取るもの手につかず、‥‥」

 

とここまでに「百代」「過客」「生涯」「古人」「片雲」「漂泊」「海浜」「江上」 「破屋」「道祖神」と十語あり、同じような比率なのがわかる。

 芭蕉は「紀氏・長明・阿佛の尼」といった古人の足跡を尊重しつつも、「(その)日は雨(ふり)、昼より(はれ)て、そこに松(あり)、かしこに何と(いふ)川流れたりなどいふ事、たれたれもいふべく覚侍れども、黄哥蘇(くわうきそ)(しん)のたぐひにあらずば(いふ)事なかれ」といい、日付、天候、土地の説明などを思いきって省略することで、独自の紀行文のスタイルを模索していた。

 それは例えば、『東関紀行』では「柏原といふ所を立ちて、美濃国関山にもかかりぬ。」「杭瀬川といふ所にとまりて、夜更くるほどに川端に立ち出でてみれば、秋の最中の晴天、清き川瀬にうつろひて、‥‥」という始まり方をするし、『十六夜日記』の場合は「十八日、美濃国、関の藤川渡る程に、まづ思ひ続けらる。」「十九日、又ここを出でて行く。夜もすがら降りつる雨に、平野とかやといふ程、道いとどわろくて人通ふべくもあらねば、‥‥」という具合に日付も入る。これに対し、『笈の小文』での芭蕉の文体はそっけない。それはこれから見ていくことになるだろう。それはこのすぐ後の鳴海(なるみ)での記述が、

 

   「鳴海にとまりて
 星崎の闇を見よとや啼く千鳥

 

 飛鳥(ひとり)()雅章(まさあき)公の(この)宿(しゅく)にとまらせ給ひて、『都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてて』と詠じ給ひけるを、自らかかせたまへて、たまはりけるよしをかたるに、

 

 京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲」

 

と、たったこれだけのなのにも象徴されるであろう。

 「(かつ)ははなしの種となり」とあるように、俳諧師らしく面白く盛り上げる今でいう「ネタ」の意識があったのではないかと思う。ネタは業界言葉で「(たね)」をひっくり返したものだ。

五、鳴海

 満天の星空というと、今日では滅多に見ることのできない貴重なものだし、都会で生まれ育ったものとしては、満天の星空は小さい頃プラネタリウムで見たものか、どこか旅行したときの記憶で、遥か追憶の彼方のものだ。満天の星空のイメージは何億光年彼方の広大な宇宙への思いと、ここにいる自分の小ささを感じさせる。

 古来和歌や漢詩には月を題材にしたものは多いが、七夕の歌を除けば星空を詠んだものは稀だ。それは、かつて満天の星はありふれた眺めにすぎず、星の美しさに目を奪われるというよりは、月のない夜の暗さに、むしろ人は恐怖を感じていたのだろう。

 しかし、芭蕉の時代は少しづつ、星の美しさに気づき始めた時代だったかもしれない。この『笈の小文』の旅の前年の春、芭蕉はあの有名な古池の句の発表を記念して江戸で門人を集めて『蛙合(かはづあはせ)』興行をやり、そのときの榎本其角の句にこのような句があった。

 

 ここかしこ(かはづ)鳴ク江の星の数   其角

 

 これには、

 

 「まだきさらぎの二十日余り、月なき()(ほと)リ風いまだ寒く、星の影ひかひかとして、声々に蛙の(なき)(いで)たる、(えん)なるやうにて物すごし。青草池塘処々(せいさうちとうしょしょ)(のあ)(やく)あつてきたらず、半夜(はんや)(すぐ)(いひ)ける夜の気色も(その)儘にて、()ル所おもふ所、九重(ここのへ)の塔の上に亦一双加へたるならんかし。」

 

という判定の言葉が記されている。この句は恋する人が来てくれないのを待つ切ない姿を描いたものだったのだろう。星そのものの美しさというよりは、むしろいかにも寒々とした殺風景な中に切なさを託したといったほうがいいかもしれない。
 芭蕉のこの『笈の小文』の旅の鳴海での句もどこかそんな趣向を引き継いでいる。

 

   「鳴海(なるみ)にとまりて
 星崎の闇を見よとや啼く千鳥」

 

(現代語訳:鳴海に泊()

 

 星崎の闇を見()とい()って()鳴く千鳥)

 

 千鳥というと源兼(みなもとのかね)(まさ)の『百人一首』にもある、

 

 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に
   いく夜ねざめぬ須磨の関守

 

という歌があるが、千鳥の声もまた夜中に恋人を待つ切ない思いが託されている。鳴海(なるみ)(がた)もまた千鳥の名所で、『東関紀行』には「友なし千鳥ときどきおとづれわたり、旅の空のうれへ心にもよはして、哀れかたがたふかし。」とあり、阿仏の『十六夜日記』にも、

 

 浜千鳥鳴きてぞ誘ふ世の中に
   跡とめしとは思はざりしを

 

の歌がある。
 切なくて狂おしい夜、そこに「闇を見よ」とはどういう心境だったのだろうか。断ち切れぬ煩悩の無間地獄を見ろということなのか。そして、その深い心の暗闇の中に星の微かな光を見よということだったのか。

 この句より二十年くらい後の元禄十七(一七〇四)年、蕉門とは直接つながりのない伊丹の俳諧師上島(うえしま)(おに)(つら)も、

 

 雨雲の梅を星とも昼ながら

 

 の句を詠んでいる。薄暗い雨雲が低く立ちこめる中、梅の小さな花はあたかも星空のように輝いている、というこの句もまた、満天の星の夜の切なさや闇の深さを隠している。

 星空は今日でも広大な宇宙の中のちっぽけな自分を自覚させる。その広大さは想像を絶するが故に、かつてはむしろ恐怖すら感じさせたのだろう。

 当時の知識だと、天は巨大なドーム状のもので、このドームは九層からなり、星はその九天の彼方を恐ろしいスピードで回転していると考えられていた。そうした「天」を人間の計り知れない恐ろしいものとして捉え、想像を絶するが故にある種の崇高さを感じてきた。

 芭蕉が「闇を見よ」というのは、そうした人間の想像を絶する存在を直視しろ、ということなのかもしれない。それに鳴海という地名が、広大な海から打ち寄せる波の音を寒々とあたかも冥界から誘うかのように響かせている。その心を汲んでか、この句には、

 

   星崎の闇を見よとや啼く千鳥

 船調(ととの)ふる(あま)(うづみ)()         安信

 

という脇が付けられている。さあ闇の中へ船を繰り出そうという所か。

 星崎の句は、星崎だというのに星のない闇を見よ、と解釈するのが一般的かもしれない。確かにその方が真の闇だろう。しかし、あえて「星崎」という地名を出すことで、読者にはその字面から一瞬でも星空を想像してしまう。それがその後の「闇」の文字で打ち消されるにせよ消されないにせよ、この句は無明(むみょう)の暗闇の中に微かな星の光の想像させるところに最も大きな力がある。

 人間の社会はいつも夢や希望に満ちあふれているわけではない。幸せは妬みを生み、わずかな幸せを奪いあう生存競争の中で人は足を引っぱりあい、決して平坦な路を歩かせてはくれない。しかし、どんな絶望に打ちひしがれようと、心の闇の底に微かな光を見つけることができれば、人は生きていける。「闇を見よ」というのは、どんな深い闇の底にも必ず光はあるからだ。それは空にあるのではなく、心の中にある。「星崎」という地名を聞いたとき、一瞬でも夜空の星を連想した人は、皆心の中に星を持っている。

 無明の闇といえば、『野ざらし紀行』の途中、伊勢で詠んだ、

 

  三十日(みそか)月なし千歳の杉を抱くあらし  芭蕉

 

 の句があった。ここでは芭蕉は御神木の千歳の杉を抱きしめることで光を見い出した。闇を知るものだけが本当の光を知るのだろうか。否、人の心の闇を直視できる強さが、本当の光を見つけるのである。

 「(ほし)月夜(づくよ)」という言葉も今日では星の美しさを表わす言葉だが、芭蕉の時代ではやはり闇の方に重点が置かれていた。

 

   打れて帰る中の戸の御簾(みす)

 (ひいらぎ)に目をさす程の星月夜     曾良

 

   おきて火を吹くかねつきがつま
 行かへりまよひごよばる星月夜    嵐蘭

 

 どちらも元禄二(一六八九)年の春、芭蕉が『奥の細道』の旅に旅立つ直前の句だが、星の美しさを詠んだというよりは、暗いので柊に目を刺したり、迷子になったりという句だ。曾良の句はそれだけを切り離して「星の光が目を突き刺すようだ」と読むと、今日ではクリスマスの句にできそうだ。

 さて、この星崎の句は更にこう続く。

 

 「飛鳥(あすか)()雅章(まさあき)公の(この)宿(しゅく)にとまらせ給ひて、『都も遠くなるみがたはるけき海を中にへだてて』と詠じ給ひけるを、自らかかせたまへて、たまはりけるよしをかたるに、

 

 京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲」

 

(現代語訳:飛鳥(あすか)()雅章(まさあき)()この宿場(しゅく)に泊った(らせ)とき(たまひ)()、「都も遠くなるみ潟遥けき海を中に隔てて」と詠ん(えいじ)(たまひ)(ける)を、自分(みづから)(かか)書いて(せたまひて)それ(たまは)()貰った(けるよ)こと()聞いて(かたるに)

 

 京まではまだなかば(なかぞ)半分(らや)雪の雲)

 

 飛鳥井雅章は江戸初期を代表する歌人だが、今日では室町時代や江戸初期の歌人への評価は低く、研究する人も稀で、忘れさられているといってもいい。しかし、芭蕉の時代では有名人だったのだろう。延宝七(一六七九)年、六十九歳で没したこの歌人は、世代的には談林の祖で芭蕉も尊敬していた西山宗因と同世代だ。その飛鳥井雅章がこの鳴海の宿に泊ったときに、

 

 うちひさす都も遠くなるみがた

   はるけき海を中にへだてて

 

の歌を宿のものに送ったと聞いて、芭蕉も宿を借りた寺島安信に一句送ることになる。飛鳥井雅章の歌は都を離れるという伝統的な()(りょ)歌の本意に従ったもの。それに対し芭蕉はあえて都へ向かう句を詠む。「半空」には中途半端な、落ち着かないという意味がある。それを定めなく立ちこめてくる冬の雪雲に例えたのだろう。

六、杜国を訪ねて

 「三河の国()()といふ処に、杜国がしのびて有りけるをとぶらはむと、まづ越人に消息して、鳴海より(あと)ざまに二十五里尋ねかへりて、(その)夜吉田に泊る。

 

 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき」

 

(現代語訳:三河の国保美という所に杜国が隠棲(しのび)して(てあ)いる(りけ)から(るを)訪ねて(とぶら)いこう(はむ)と、まず越人に連絡(せうそく)して鳴海から(より)一旦(あとざ)戻り(まに)百キロ(二十)()()のり(たづ)()行く(かへ)べく()その夜吉田(よし)宿()に泊る。

 

 

 寒いけど二人()寝る()()は頼もし()

 

 杜国は名古屋の裕福な米穀商で荷兮(かけい)野水(やすい)らとともに名古屋の俳諧を代表する作者だった。貞享元(一六八四)年、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋を訪れた時に荷兮らとともに芭蕉に入門し、

 狂句木枯(きょうくこがらし)の身は(ちく)(さい)に似たる哉  芭蕉

の発句に始まる『冬の日』五歌仙の(れん)(じゅ)の一人にもなっている。

 

   影法のあかつきさむく火を燒きて  芭蕉
 あるじは貧にたえし虚家(からいえ)       杜国

 

   ぬす人の記念(かたみ)の松の吹おれて   芭蕉
 しばし宗祇の名を付し水       杜国

 

などの付け合いも芭蕉との息の合ったところを見せているし、第三歌仙の発句、

 

 つつみかねて月とり落す(しぐれ)かな   杜国

 

も秀逸だ。時雨の雲は空を全部覆うことができず、月を取りこぼしてしまう。月の光に照らされた時雨の雫は、寒々としてはいるが美しくきらめき、定めなく辛い人生の中の一瞬の救いや希望の光を感じさせる。芭蕉は杜国と別れる時、

 

 白げしにはねもぐ蝶の形見哉   芭蕉

 

の句を送り、名残を惜しんだ。これに対し、

 

   芭蕉翁をおくりてかへる時
 この比の氷ふみわる名残かな   杜国

 

という句が選集『春の日』に見られる。これは先の『冬の日』の発句に付けた重五の脇、

 

   つつみかねて月とり落す霽かな
 こほりふみ行く水のいなづま     重五

 

を思い起こしたものか。芭蕉はまさに宗因なき後の膠着した俳諧にあって、旧習の氷を打ち砕くように春をもたらした。紀貫之の、

 

 袖ひちてむすびし水のこほれるを
    春立つけふの風やとくらん

 

の心か。
 しかし、その杜国も空米売買の罪を得て名古屋の地を追放され、三河国(愛知県つみ郡)の伊良古の地(はじめ畑村、のち保美の里)に隠棲を余儀なくされた。

 空米売買とは言っても、今でいう先物取引の先駆けのようなもので、この少し後の元禄の終わり頃には大阪の堂島米市場で正式な形で米の先物市場が成立する。

 市場というのは誰もが安く買って高く売ろうとして儲けを出そうとするものだが、暴落したら買われ、高騰したら売られを繰り返すことで結果的にその商品は適正価格に誘導される。いわゆる神の見えざる手だ。先物取引にもそうした相場を安定させる役割があり、今日でも様々な商品で広く行われている。

 ただ、いつの時代にもこういう経済の欲望のシステムには「博奕と同じじゃないか、怪しからん」という連中はいるもので、尾張藩の中にもそうした経済音痴の役人に杜国は摘発され、一度は死罪を言い渡されたが、尾張藩主徳川光友の計らいによって尾張からの追放で済むことになった。そのため杜国は隣の三河国の保美に隠棲していた。

 

 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき  芭蕉

 

 この句はその知らせを聞いて、越人と一緒に保美の杜国のもとを訪ねていこうと吉田宿に宿泊した時の句だった。

七、影法師

 「あまつ縄手(なはて)、田の中に細道ありて、海より吹上(ふきあぐ)る風いと寒き所(なり)

 

 冬の日や馬上に氷る影法師」

 

(現代語訳:天津縄手()田んぼ(のなかに)(ほそ)()()細道(あり)()、海から(より)吹き付け(あぐ)る風がとにかく(いと)()だった(なり)

 

 馬上(ふゆ)()氷る(ひや)姿()()()()()()まさ(ほる)()影法師(げぼう)()

 

 影法師という言葉は『冬の日』の歌仙に、

 

   きえぬそとばにすごすごとなく
 影法のあかつきさむく火を()きて  芭蕉

 

という句もあるように、芭蕉の好んだ言葉だったのだろう。僧侶の衣装は黒が主体でちょうど影のように見えるからこの言葉がある。吉田宿から天津(今の杉山町天津)へ向う道は北が三河湾で、当時は埋め立て地もなく遮るものがなくて、北風が直に吹き付けいたし、前の日の雪も残ってたようだ。芭蕉は馬に乗りながら凍えて縮み上っていたのだろう。

 この句の初案は、

 

 さむき田や馬上にすくむ影法師

 

で、「すくむ」という表現はある意味でそのまんまでわかりやすい。馬上に身をすくめながらふと路上を見ると、馬の上に凍り付いたように動かない黒い固まりだけが見える。法師(芭蕉自身)の影はまさに影法師だ。

 『如行集』には、

 

 冬の田や馬上にすくむ影法師

 

の別バージョンもある。「田」とあえて場面を断っているのは、前書きで田の中の道で詠んだということが明示されていなかったためだろう。『笈の小文』では本文でそれが明らかなため、「田」の一次は省き、代わりに「冬の日や」の上五になったのだろう。「冬の日」はそれだけで長い影を連想させる。それに、わかる人にはあの選集『冬の日』の、

 

   きえぬそとばにすごすごとなく
 影法のあかつきさむく火を燒て  芭蕉

 

の句を思い起こさせただろう。

 この句は死者を弔って夜を徹する人の姿だろう。焚火の作る影がもう一人の法師の姿となり、一人なのに二人になる。李白の『月下独酌』を思わせる趣向だ。

 この天津縄手の道はもちろん芭蕉一人でなく、越人も同行していたが、宿での寒さにしこたま酒を飲んで、酔ってふらふらになりながら馬に乗ってたという。

 

 ゆきや砂むま()より(おち)よ酒の(ゑひ)  芭蕉

 

の句も残されている。

八、伊良胡崎

 「保美村より()()()崎へ壱里(ばかり)(ある)べし。三河の国の地つづきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰入(えらびいれ)られたり。(この)州崎にて碁石(ごいし)を拾う。世にいらご(じろ)といふとかや。骨山(ほねやま)(いふ)は鷹を(うつ)処なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりきりとおもへば、猶あはれなる折ふし

 

 鷹一つ見(つけ)てうれしいらご崎」

 

(現代語訳:保美村より伊良湖崎へ四キロ(一里ば)(かり)だろうか(あるべし)。三河の国()地続き(にて)伊勢とは海(へだ)隔てた(てたる)(なれ)けど(ども)どう(いかな)いう(るゆ)わけ(ゑに)か万葉集には伊勢の名所の(うち)編纂(えらび)されて(いれられ)いる(たり)。この洲崎()()碁石()採れる(ひろふ)。世に伊良湖白というそう(とか)()。骨山という()()は鷹を捕える(うつ)(なり)。南の海の向こう(はて)から(にて)()初めて渡る所と言われて(いへ)いる()

 

 いら(たか)ご崎(ひと)()(みつ)一羽(けて)見付(うれし)()うれしい(らござき)

 

 伊良胡崎は確かに『万葉集』巻一、二三の前書きに「伊勢国伊良虞島」と書かれている。その歌はこのようなものだ。

 

   麻續(をみの)(おほきみ)の伊勢国()()(ごの)(しま)に流されし時、人の哀傷して作れる歌
 ()(ちそ)麻續(をみの)(おほきみ)白水郎(あま)なれや
   ()()()が島の玉藻刈ります

 うつせみの命を惜しみ波にぬれ
   いらごの島の玉藻刈り()

 

  しかし、『万葉集』にはその後に、日本紀によると麻續王がながされたのは因幡だと書き加えている。その真偽はともかくとしても、果たしてこの伊良虞島がいまの伊良胡崎かどうかも怪しい。

 むしろこの伊良虞島は伝説の蓬莱山(ほうらいさん)だと考えると、この歌は辻褄(つじつま)があう。つまり、どこに配流になっているかは本来問題ではなく、配流先を東の果ての仙人が住む蓬莱山に例え、もはやこの世ではない異界の島の白水郎、つまり海士(あま)となり、玉藻を刈っている、と。「玉藻刈る」は「(かりもがり)」に通じる。

 つまり、政治生命を断たれたあなた(麻續王)は死者となり蓬莱山の住人となったのでしょうか、魂が帰ってくることを祈り遺体を葬らずに安置しておきます、という意味になる。

 これだと、死者に対し、その傷を痛むという意味での哀傷歌になる。これに対し、麻續王は、とんでもない、死んだことにされてはたまらない、まだ死にたくないので、藻を拾って食べては命をつないでいる、と返す。

 伊勢神宮が東の海に面し、蓬莱山への入り口だったと考えれば、その対岸の伊良胡崎を蓬莱山に見立てることもできただろう。もちろん、これは一つの解釈にすぎず、伊良胡崎が何で伊勢国なのかはやはり謎だ。

 「(この)州崎にて碁石(ごいし)を拾う」とあるように、伊良胡崎はかつては碁石の産地でもあったようだ。碁石というと黒石は那智黒と呼ばれる那智産の玄武岩が有名だが、白石は一般的に蛤が用いらる。今日では日向産の日向白が幻の碁石と呼ばれているが、かつては伊良胡崎でも採れたのだろう。今はほとんどがメキシコ産だという。

 伊良胡崎はまた、鷹匠が鷹を訓練する所でもあり、その鷹を調達する所でもあった。「いらご鷹など歌にもよめり」というのは『山家集』の西行法師の歌を指すのだろう。

 

   二つありける鷹の、いらごわたりすると申しける
   が、一つの鷹はとどまりて、木の末にかかりて侍ると
   申しけるを聞きて
 すたか渡るいらごが崎をうたがひて
   なほきにかくる山帰りかな
 はし鷹のすずろかさでもふるさせて
   すゑたる人のありがたの世や

 

 ここでいう「いらご鷹」はサシバという晩春に南から飛来し、晩秋に帰ってゆく夏鳥だという。とはいえ、昔は鷹を厳密に生物学的に分類していたわけではないので、渡りをしない別の鷹や冬鳥のコチョウゲンボウという小鷹狩りに使う鷹もいっしょくたにサシバと言われていた可能性も大きい。それが二つの鷹の伝説を生んだのだろう。

 鷹は冬の季語だが、それは冬が鷹狩りの季節であるためで、それゆえ鷹といえば鷹狩りの鷹を本意とする。

 

 鷹一つ見付けてうれしいらご崎

 

この句の鷹は、冬になっても渡りをしなかった西行ゆかりの鷹であると共に、鷹狩りに使う鷹匠の鷹でもある。そして、この句は本当に鷹を見つけたというよりは、これまでも何度となく指摘されてきたように、杜国を鷹に例えたと見るべきであろう。

 この句には、

 

 いらご崎にる物もなき鷹の声

 

という初案があり、芭蕉の真蹟も残されている。「物」とは魂のことであり、鷹の声の霊妙さに匹敵するものはないという意味か。

九、芭蕉の碁

 さて、ここで碁石が出て来たついでだが、この時代、芭蕉が生まれた翌年の正保二(一六四五)年には、碁聖と呼ばれた本因坊(どう)(さく)が生まれている。道策の御城碁初出仕は二十三歳の時で、この年、芭蕉は北村季吟(きぎん)編の『続山井(ぞくやまのい)』に二十八句入集を果たした。芭蕉が俳諧師匠として立机(りっき)した延宝五(一六七七)年には三世本因坊道悦が道策に家督を譲り、翌六(一六七八)年に正式に四世本因坊となる。奇しくも俳聖と碁聖は同じ時代を生きた。

天才棋士の出現により、たちまち囲碁ブームが巻き起こったのは想像に難くない。当時、本因坊一族は門弟三千人といわれ、隆盛を誇った。芭蕉もその影響を受けたのか、早くは延宝七(一六七九)年に、

 

   又なげられし丸山の色
 片碁盤都の東花ちりて          芭蕉

 

の句がある。「なげられし」を碁の投了(途中で負けを認めること)の意味に取りなし、「丸山」という京都の東の地名に、京都の街を碁盤に見立てた句だ。右辺の白の大石がごっそり取られてしまったのだろう。

 天和三(一六八三)年には、

 

   ややさぶの殿は小袖をうちかけて
 紅白の菊かぜに碁を採る         芭蕉

 

「うちかけて」を碁の「打ち掛け」(途中休憩)に取りなしてのもの。

 翌貞享元(一六八四)年、『野ざらし紀行』の旅の途中でも、

 

   一輪咲きし芍薬(しゃくやく)の窓

 碁の工夫二日とぢたる目を明て      芭蕉

 

の句を詠んでいる。この頃はまだ制限時間というものがなく、長考二日というのは当時のエピソードとしてあったのだろうか。囲碁では目を二つ作ればその石は取られることがなく「生き」となるので、それと掛けて「とぢたる目を明て」と言ったのだろう。

 これらの句は碁の用語を知らないと作れない句なので、芭蕉も一時碁にはまったときがあったのだろう。私の想像では、芭蕉の発句での言葉の使い方は要所要所に石を打ち込んでゆくような布石感覚に近いものがあるし、元来想像力が豊かだから面白い碁が打てそうだが、理屈が嫌いなので寄せの緻密な計算は苦手そうだ。

十、熱田神宮

 熱田神宮というと貞享元年の『野ざらし紀行』の旅では、

 

 「社頭(しゃとう)大イニ破れ、築地(ついぢ)はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、(ここ)に石をすえてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生ひたるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。」

 

とあるように、荒れ果てていた。

 その荒れ果てた熱田神宮も、『笈の小文』の旅の前年にあたる貞享三(一六八六)年に修復が行われ、芭蕉の心新たに社殿の新たに磨かれた御神体の鏡に向かったのだろう。

 

   「熱田御修覆(みしゅふく)

 (とぎ)なをす鏡も清し雪の花」

 

(現代語訳:熱田御修復

 研ぎ直す鏡も清()雪の花)

 

 ところで、熱田神宮というと三種の神器の一つ草薙(くさなぎの)(つるぎ)が祭られていることで知られている。芭蕉も読んだと思われる『鴨長明道の記』にはこのように記されている。

 

 「或人の曰く、『この宮は素盞嗚(すさのをの)(みこと)なり、初めは出雲の国に宮造りありけり。八雲立つと云へる大和言葉も、これより始まりけり。その後、景行天皇の御代に、この砌に跡を垂れ給へり。』と云へり。又曰く、『この宮の本体は、草薙(くさなぎ)と号し奉る神剣なり。景行の御子、日本武尊(やまとたけるのみこと)と申す、(えみし)を平げて帰りたまふ時、尊は白鳥となりて去り給ふ、剣は熱田に止り給ふ。』とも云へり。」

 

 ところでこの草薙の剣だが、ちょっと疑問なのは、宮廷で代々天皇が即位するときに受け継がれてきた三種の神器はのうち、宝剣は元暦二(一一八五)年、源平合戦の時に安徳天皇とともに海中に没し、後鳥羽天皇は宝剣なしで即位したのではなかったか、ということだ。

 一般的には、皇位継承の際に使われてきた剣と草薙の剣とは別のものだということになっている。つまり、熱田神宮にあるのが「本体」であり、宮中にあって海に沈んだのはそれとは別のものだが、一体とされるものだった、とまあ神学の議論とはそういうものなのだろう。

 本来熱田神宮の草薙の剣は何人も見ることは許されぬものだったが、江戸時代に熱田神宮の大宮司が社家四、五人とともにひそかにこの草薙の剣を見たときのことが『玉籤集裏書』に残されている。それによると、箱は三重になっていて、箱と箱との間には赤土が詰められていて、それを開けると長さが八十センチくらいで、刃先が菖蒲の葉のようになり、中ほどはむくりと厚みがあり、全体が白い色をした剣があったという。白銅製の()(ぼこ)銅剣で、特異な形状をしていたようだ。

 

  「蓬左の人々にむかひとられて、しばらく休息する程

 箱根こす人もあるらし今朝の雪」

 

(現代語訳:蓬左の人々に迎えらひとられてしばらく休息してたするほ

 箱根越す人もいるだろうな今朝の雪)

 

 蓬左は熱田神宮を蓬莱宮に見立てて、その西側の地域を言う言葉で、美濃屋聴雪の家で興行した時の発句だった。この年は雪が多かったのか、早く江戸を出発してよかった、というところか。

十一、雪見

   「(ある)人の会
 ためつけて雪見にまかるかみこ哉
 いざ行かむ雪見にころぶ所まで」

 

(現代語訳:ある人の会

 しっかり(ため)折っ(つけ)て雪見に赴く(まかる)紙子()

 さあ(いざ)こう(かむ)雪見にころぶ所まで)

 

 「ためつけて」は「矯め付けて」で、折り目を正すという意味。紙子(かみこ)は和紙を張合せて柿渋を塗って作った夜着で、旅には欠かせないものだった。「有人の会」とあるのは名古屋風月堂の主人夕道の家で行われた興行で、芭蕉、夕道の他に如行、荷兮、野水が同席した。十一月の初めから一ヵ月以上にわたる名古屋滞在もそろそろ終わり、芭蕉の故郷の伊賀を経て奈良、吉野へ向かう旅の壮行会を兼ねてのものだろう。

 「雪見」は「行く身」に掛けたもので、「行く」は「逝く」にも通じ、雪の中の旅立ちはどこか死出の旅路を連想させるような、寒々としているがこの世のものともいえず美しく、厳粛な気分にさせられる。もちろん、実際当時の旅はそれほど危険なものではなかったが、それでも老いた身には転んで骨折したりする危険はあったし、風邪だって当時としてはこじらせれば肺炎を併発し、死を招く恐ろしさもあった。雪見といってもちょっとそこまで散歩にという意味ではなく、これが長の別れになるかもしれないという旅立ちだった。「いざ行かむ‥‥」の句は後に、

 

 いざさらば雪見にころぶ所まで

 

の形に改められている。雪見に行ってすべって転ぶというのは、実際は笑い事ではないのだがやはり可笑しい。これぞ俳諧というところだろう。

 

   「ある人興行(こうぎゃう)
 香を(さぐ)る梅に蔵見る軒端(のきば)(かな)

 

 (この)間、美濃・大垣・岐阜のすきものとぶらひ来りて、歌仙、あるは(ひと)(をり)など度々に(およぶ)。」

 

(現代語訳:ある人興行

 ()()()()()れば(うめ)()()見える(らみる)軒端()

 

 この間、美濃、大垣、岐阜の()流人(きも)()いろいろ(とぶらひ)訪ねて来て(きたりて)、歌仙あるいは()一折などたびたびに及ぶ。)

 

 この冬、芭蕉はかなりハードに仕事をしていたようだ。十一月四日に鳴海の()(そく)亭に到着して以来、六、七、九日と知足亭で興行、それから伊良子崎へ杜国を尋ねに行くが、十六日に知足亭に帰り、二十日まで毎日のように興行を行う。それから熱田の(とう)(よう)亭へ行き、二十四日にまた興行する。あまりハードなので、持病が悪化し、

 

 薬飲むさらでも霜の枕かな   芭蕉

 

という発句も詠んでいる。それでも休むまもなく二十六日、二十八日、十二月一日、三日、四日、九日と興行を続ける。

 

 香を(さぐ)る梅に蔵見る軒端(のきば)(かな)

 

の句も十二月の十日過ぎに名古屋の防川(ぼうせん)亭での興行の発句で、梅の句だがこの場合冬の寒梅の句だろう。梅の香りがするからと思ってきてみたら、たいそう立派な蔵のあるお屋敷に来てしまいました、という意味か。雪見に行って転ぶどころか、興行また興行の日々だった。

十二、煤払い

 江戸時代では年末になると(すす)(たけ)という大きな竹を売りに来て、その竹で、梁や天井などの一年の埃を払ったという。

 柳田國男によると、江戸時代は木綿の急速な普及によって、それまでの麻衣では発生しないような綿ぼこりが増えて、掃除の手間が増えたという。

 とはいえ、当時は家具も少なく、今日のような油汚れもなく、風通しがいい木造の住宅ではカビの悩みもなかったから、今よりは大掃除もかなり楽だっただろう。掃除のメインがあくまで煤竹による(ほこり)落しだったから、「煤払(すすはら)い」の名があるのだろう。

 なお、今日では「煤払い」は冬の季題だが、「大掃除」は春の季語となっているようだ。これは、近代俳句の俳人に教育関係者が多かったせいなのか、実際には学校以外に春の年度末に大掃除をする習慣はない。私は、「大掃除」でも年末の季感のあるものは冬の句でいいと思うのだが、いかがだろうか。俳句に限って年末の大掃除をわざわざ「煤払い」という古風な言い方をしなければならないのは不合理なように思える。

 

 「師走十日(あまり)、名ごやを(いで)て、旧里(ふるさと)(いら)んとす。

 

 旅寐してみしやうき世の(すす)はらひ」

 

(現代語訳:十二月十日あまり、名古屋を出て故郷に帰ろう(いらん)()思う()

 

 旅寝して世間(みし)()大掃除(うきよ)()見る()()()なった(らひ)

 

 十二月十三日付の杉風(さんぷう)宛書簡によると、最初は十一月五日に鳴海に着いて、すぐに伊賀へ向かう予定だったのだが、予想外に大勢の人が集まってきたため、この日まで滞在することになってしまい、なおもいろいろな人に呼ばれているが、春にと引き伸ばして、断っていると記し、この句を添えている。

 煤払いは家じゅう総出のイベントで、今で言えば掃除フェスだ。毎年やってるから何をやるか段取りもみんな分かってる所で、一人だけよそ者がいてもすることがないし、手伝おうにもかえって足手まといになるものだ。

 掃除が終わったら、一年が終わったような気分で、今年の俳諧もここまでということで、ようやく故郷へと向かうことになる。

十三、杖つき坂

 「『桑名(くはな)よりくはで()ぬれば』と(いふ)日永(ひなが)の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、()(ぐら)うちかへりて馬より(おち)ぬ。

 

 歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬(らくば)哉」

 

と物うさのあまり(いひ)(いで)(はべ)(ども)(つひ)()ことばいらず。」

 

(現代語訳:「桑名よりくはで来ぬれば」と歌われた(いふ)日永の里より、馬借りて(かりて)杖衝坂(つえつき)(ざか)登る(ほど)、荷鞍()ひっくり返っ(ちかへり)て馬から(より)落ち()

 

徒歩(かち)ならば杖つ()()落馬()()

 

と、悶々(ものうさ)()しながら(あまり)()()()()しよう(はべ)()した()()結局(つひに)季語(きこ)()()()なかった(らず)。)

 

 「桑名(くはな)よりくはで()ぬれば」というのは『古今(ここん)()曲集(きょくしゅう)』にある伝西行の歌で、

 

 桑名よりくはで来ぬればほし川の

    朝けは過て日ながにぞ思ふ

 

のことだ。桑名を食わないに掛け、星川、朝明(あさけ)、日永という三つの地名を詠み込んだこの狂歌が本当に西行のものかどうかは定かではない。桑名といえば「その手にゃ桑名の焼蛤」という言葉もあるが、桑名と「食わない」を掛ける駄洒落はかなり昔からあったようだ。朝明(あさけ)朝餉(あさげ)に掛けるあたりは細かい。

 天津(あまつ)縄手(なわて)でも「馬上に氷る影法師」の句があったように、この地も芭蕉は例によって馬に乗って旅をしていた。芭蕉というと徒歩のイメージがあるが、実際の芭蕉は持病持ちで体があまり丈夫ではなく、街道では馬を利用するのが常だった。

 馬というと、今日では競馬や馬術に使うサラブレッドを思い浮かべるかもしれない。あるいは北海道の農耕馬で体重一トンもあるような大型の馬もいる。しかし、本来国産の馬はそんな大きくはなかった。日本在来の木曽馬、御崎馬、北海道和種は体高が一二〇~一四〇センチ、体重二八〇キロくらいで、これでは遊園地のポニーのようなものだ。それに大の大人が旅の荷物を背負ったまま乗るのだから、そんなに早くは走れない。実際、街道の長い道を行くには、それこそぼくぼくと人の歩く早さで、馬子に引かれながら歩いていただけだった。『暴れん坊将軍』で徳川吉宗が立派な白いサラブレットに乗って疾走するシーンは、テレビだけのものだ。

 特に当時の馬は坂道が大の苦手だった。小さな体で上に乗っている人の体重を支えるにはかなり無理があり、平地ならともかく、坂道では上りでは前足、下りでは後ろ足に全体重がかかるため、馬はよろけて落馬することも珍しいことではなかった。よろけるだけならまだいいが、下手すると足を折ることもあった。源平合戦での有名な(ひよどり)(ごえ)の坂落としも、実際は馬に乗って崖を駆け降りるどころか、むしろ人間の方が馬の前足をかついで、馬を労りながら降りたというのが真相らしい。その方が蹄の音も立たないから、奇襲にはちょうどよい。

 芭蕉も桑名を経て鈴鹿を越えてゆく途中にある「杖衝坂(つえつきざか)」で落馬してしまったようだ。杖衝坂は四日市宿と石薬師宿の間にある内部川の低地から台地へ上る急坂で、旧東海道随一の急坂だった。

まあ、背の低い馬でゆっくりと歩いていただけだから、さしたる怪我もなくて良かったというところだ。「物うさのあまり」、つまり腹立たしいが怒る相手もいないで自分に腹が立つような、悶々とした感じで芭蕉は一句詠む。

 

 歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬(らくば)

 

 こんなことなら杖つき坂という名前のとおり、歩いて杖をつきながら行けばよかった。芭蕉の美学からいっても、旅は一人侘しく歩いて行きたいものだ。そんな理想と現実のギャップも感じられ、気の毒だがやっぱり笑えてしまう一句となった。

 この句は芭蕉には珍しい無季題の句だ。ただ、「杖つき坂」という歌枕が入っており、これが季語の代わりをしている。向井去来の『旅寝論』に、「先師もたまたま無季の句(あり)、しかれ(ども)いまだおし出して是を作し給はず。(ある)(とき)の給ふは、神祇・釈教・賀・哀傷・無常・述懐・離別・恋・旅・名所等の句は無季の格有度物なり。」そして、「歩行ならば‥‥」の句と、

 

 何となう柴吹風もあはれなり    杉風(さんぷう)

 

の句を挙げている。「歩行ならば‥‥」の句は名所の句。杉風の句は送別の句で、こうした句は無季でもいいとされていた。また、表向きは無季のようで裏に季節の情のあるものとして、

 

 恋をしておもへば年のかたき哉   去来

 年々(としどし)や猿にきせたるさるの面    芭蕉

 

の句の例も挙げている。この二句は歳旦の句となる。
 なお、この杖衝坂には中山義秀氏所蔵の真蹟の詞書がある。

 「さやよりおそろしき髭など生たる飛脚めきたるおのこ同船しけるに、折々舟人をねめいかるに興さめて、山々のけしきうしなふ心地し侍る。
 漸々(やうやう)桑名に付て、処々籠に乗、馬にておふ程、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。ひとりたびのわびしさも哀増て、やや起あがれば、『まさなの乗てや』と、まごにはしかられて、

 

 かちならば杖つき坂を落馬哉

 

終に季の言葉いらず。」

 この方がかなり詳しい。髭生やした飛脚のアンちゃんが船頭に喧嘩売っていたのか、「ねめ」とは睨む、ガン付けるという意味で、「ねめつける」は今でも関西の方では用いられている。

この辺りは街道筋の渡し舟の様子がよくわかる。飛脚からすれば、舟がトロトロしているのでいらついていたのか。さらに、この文には「漸々(やうやう)桑名に付て、処々籠に乗り」とあり、芭蕉は馬だけでなく籠にも乗っていたようだ。芭蕉の旅の実際の姿が伺われる。「まさな」とは駄目なというような意味。しかし、こうしたリアルな描写は完成した紀行文では見られない。「黄哥蘇(くわうきそ)(しん)のたぐひにあらずば云事なかれ」だったのだろうか。残念ながら芭蕉には「写生文」という発想はなかったようだ。

 各務支考の『笈日記』にある異文では、飛脚は「髭生たるもののふの下部」という、いわゆる「やっこ」に変えられているし、籠に乗ったというのもカットされている。
 なお、この句には、

 

   かちならば杖つき坂を落馬哉
 角のとがらぬ牛もあるもの          土芳

 

 

という脇も付けられている。「かちならば‥‥」の句を杖つき坂なら素直に杖をつきなさい、余計なことをするとろくなことないよ、という教訓に取って、「牛だってみんながみんな角突き合わせているのではない、素直さが大切だ」というふうに付けたのだろう。「杖つき」の「つき」から「角つく」を導き出している。

十四、旧里や

 さて、芭蕉は貞享二(一六八五)年の正月を故郷で過ごして以来、三年ぶりに故郷で正月を過ごすことになる。三年前の『野ざらし紀行』の頃は、江戸では知られた存在でも、中京上方地区ではまだこれからだった。

しかし、いまや貞享三年の古池の句の成功によって全国にその名が知れ渡っただけではない。『古今集』の和歌にも匹敵するような高雅な新風は、それまで俳諧を馬鹿にしていたような知識人層や、俳諧の何かも知らなかったような下層の人々まで巻き込んで、空前の俳諧ブームを巻き起こした。名古屋での興行漬けの日々も、その影響によるものだろう。

 伊賀に帰った芭蕉を待ち受ける人々も、三年前とはまた様相が違っていただろう。今や文字通り故郷に錦を飾る立場になっていた。とはいえ、俳諧に興じ、親の死に目にも会えなかった親不幸者という自分を責める気持ちは変わっていなかっただろう。

 

 「旧里(ふるさと)(ほぞ)の緒に泣としの暮」

 

(現代語訳:故郷()へそ(ほぞ)の緒に泣く年の暮れ)

 

 自分を生んでくれて、父を早く失い女手一つで育ててくれた母。苦しい時はそんな自分の境遇を呪い、生まれてこなければよかったと思ったこともあっただろう。しかし、今その苦労が報われて。俳諧の世界で頂点に立ったとき、心から生んでくれてありがとうという気持ちで、母が大切にとっておいてくれた自分の臍の緒を手にしたのだろう。最後は十一年間も淋しい思いをさせてしまったし、孝行らしい孝行もできなかったことを思うと、ただ泣くよりも他になかったのかもしれない。

 正保元(一六四四)年に、既に無足人資格を失い百姓身分となった松尾家の末裔に生まれた芭蕉は、十三歳のときに父を失い、十九歳の時に伊賀の藤堂新七郎家に奉公する。もちろん士分としてではなく、料理人としてであった。そこで藤堂家の跡取り息子藤堂(かず)()(よし)(ただ)(俳号蝉吟(せんぎん))に呼ばれ、俳諧に傾倒してゆく。おそらくそこで芭蕉は、俳諧でなら身分の壁を越えられると思ったのだろう。

 

 寛文十二(一六七二)年二十九歳のときに江戸に出て、俳諧師を目指した。あれから十五年、芭蕉はついに俳諧師として頂点に立ち、この故郷伊賀に帰ってきた。そして、春には吉野千本桜を尋ね、見渡す限りの満開の桜の下で、生涯最高の春を迎えることになるだろう。

第二章、伊勢参り                

一、二日にも

 「(よひ)のとし、空の名残(なごり)おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日()わすれたれば、

 

 二日にもぬかりはせじな花の春」

 

(現代語訳:正月(よひ)前夜(とし)一年(そら)()振り返ろう(なごりおしまむ)()()飲み夜更かしして()、元日寝忘れ()しまい(れば)

 

 二日に()きちん(ぬかり)()()よう(じな)花の春)

 

 この頃の正月は今とは大分違う。除夜の鐘や年越しそばはまだなかったし、初詣ではなく大晦日に神社にお参りした。大晦日は都会では掛け売りの決済の日で、取り立ての人が走り回るが、田舎ではのんびりとしたものだったのだろう。

 貝原益軒の『日本歳時記』には、

 

 「除夜より歳を守りて寝ず。もし寝る時は寅の初に起て、新年をむかへ、盥洗(くわんせん)し、髪を結、浄衣を着、(暦に、きそはじめとあるは、浄衣を着初る事をいふなり。)礼服を着て、威儀容貌をかひつくろひ、斎戒し、香をたき、天地神祇を礼拝し」

 

とある。夜を徹して起きてるか、寝てもまだ未明の内に起きて居住まいを正し、「きそはじめ」をするものだった。

 また、家の中の年男は若水を汲むが、この年男も今とは意味が違う。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「一家の内に事を執る者を年男といふ」とある。

 こうしたことの後、初日の出を迎えるものだったのだろう。

 それが、前夜から酒飲んで話し込んで寝てしまったわけだから、これは「ぬかった」というわけだ。

 『若水』には、「そらの名残おしまんと、旧友の来りて酒興じけるに、元日のひるまでふし、明ぼのみはづして」という前書きがあり、昔の友と再会し、夜を徹して酒を飲み、語り交わし、昼まで寝過ごしたようだ。

 芭蕉が故郷伊賀で久々に親戚一同と顔をあわせて、そこでどんなドラマがあったのかは知らない。ただ、芭蕉のように江戸で俳諧師として成功し、故郷に錦を飾る身なら、気を使ってくれる側ではあっても気を使う側ではないかもしれない。結構気持ちよく故郷での正月を過ごせたのだろう。

二、伊賀の春

   「初春

 春(たち)てまだ九日(ここのか)の野山哉

 枯芝やややかげらふの一二寸」

 

 

(現代語訳:初春

 春立()てまだ九日の野山だろ()うか()

(

 枯芝やや陽炎の一二寸)
)

 

 立春から九日目というのは、特に何かの日というのではなく、たまたま小川風麦亭で興行があり、その時の発句だったというだけのようだ。しかし、名もない日だからといって春の風情がないわけではない。名もなき日でも目出度さが変わるわけでないのは、三年前の『野ざらし紀行』の旅の時に、故郷伊賀から奈良へ行く途中で詠んだ、

 

 春なれや名もなき山の薄霞 芭蕉

 

と同様だ。

 昔の正月は長く、松の内が過ぎ、鏡開きが終わっても、小正月、薮入り、二十日正月などが続き、二月八日の正月事納めまでは正月気分が続いた。芭蕉としても、この日が仕事始めであり、もちろんぬかってはいられない。

 枯れ柴の句は、まだ春も浅いから陽炎も一二寸、一寸(ちょっと)だけというやや理に走った句だ。ただでさえ陽炎というのは見過ごしやすいもので、一二寸の陽炎なんて、どうやって目を凝らして見つけたかという感じだが、強いていえば小さな春を見つけ出す鋭い観察力といったところか。

 陽炎は太陽の日差しによって急に空気が温まり、その空気が上昇するとき、上の空気との温度差から屈折率に差が生じ、光が揺らいで見える現象で、石の上だとか校庭だとか瓦屋根やトタン屋根のような暖まりやすいものの上に出やすい。あまり風情はないけれど、車の屋根の上をよく見ると、一二寸の陽炎が見えたりする。だが、もっとはっきりとわかりやすいのは、炎の上にできるものだ。おそらく陽炎が春の季題なのは、古くは焼畑の際の野焼きと結び付けられていたからだろう。

 

三、新大仏寺

 「伊賀の国阿波(あは)の庄といふ所に、俊乗(しゅんじょう)上人(じゃうにん)の旧跡(あり)()峰山(はうざん)(しん)大仏寺(だいぶつじ)とかや(いふ)、名ばかりは千歳(ちとせ)形見(かたみ)となりて、伽藍(がらん)は破れて(いしずゑ)(のこ)し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六(じゃうろく)の尊像は苔の緑に(うづもれ)て、()ぐしのみ現前(げんぜん)とおがまれさせ給ふに、(しゃう)人の御影(みえい)はいまだ(まったく)おはしまし侍るぞ、其代(そのよ)の名残うたがふ所なく、(なみだ)こぼるる計也(ばかりなり)。石の蓮台、獅子(しし)の座などは、(よもぎ)(むぐら)の上に(うづたか)ク、双林(さうりん)(かれ)たる跡もまのあたりにこそ覚えられけれ。

 

 丈六にかげらふ高し石の上

 さまざまの事おもひ出す桜哉」

 

(現代語訳:伊賀の国阿波の庄という所に俊乗上人の旧跡があ()った()。護峰山新大仏寺とかいう(やい)()、名ばかり()古い(ちとせの)遺跡(かたみ)とな()て、伽藍は(やぶ)れて(いし)だけ(ずゑ)を残し、坊舎()なく()なり(へて)田畑()なって(なのか)いて(はり)、丈六の大仏(そんぞう)は苔の緑に(うづ)もれて、(みぐ)だけ(しの)()()()(ぜん)()()のみと(させ)いう(たま)のに(ふに)俊乗坊(しゃうにん)重源(のみ)座像(えい)はいまだ完全(まったく)(おは)状態(しまし)()残され(べるぞ)、その時代()の名残り()疑いよう(たがふと)()なく(ろなく)、涙こぼ()るばかり(なり)。石の蓮台、獅子の座などはヨモギ、ムグラの上に積み重なり(うづたかく)沙羅(さう)双樹(りん)の枯れ(たる)跡を()()(あたり)()見て(こそ)いる(おぼ)()()よう(れけ)()

 

 丈六に()()()()陽炎(たかし)(いし)高い(のうへ)

 さまざまの事思い出す桜()()

 

 ()宝山(ほうざん)(しん)大仏寺(だいぶつじ)は伊賀上野の東の大山田村、長尾峠の麓に今もある。芭蕉の時代には荒れ果てていた新大仏寺だったが、享保十二(一七二七)年に(とう)(けい)和尚によって再建されたからだ。

 新大仏寺は源平合戦の際、平重衡(たいらのしげひら)によって焼け落ちた奈良東大寺を、源頼朝(みなもとのよりとも)俊乗坊(としじょうぼう)重源(じゅうげん)に命じて再建させる際、いくつかの別所を設置したその一つだった。 本尊は快慶作の丈六(一丈六尺、約五メートル)の三尊立像だった。

 しかし、芭蕉の時代にはかつての大伽藍は跡形もなく、あたりは田畑となり、礎石だけが草むらに転々としていて、五メートルの釈迦三尊像も苔むして、痛々しい姿だった。「双林(さうりん)(かれ)たる跡」というのは釈迦が入滅したとき、あたりの沙羅(さら)双樹(そうじゅ)の林が枯れて白くなったという伝説のことだが、それが今ここでも起きているかのようで仏は滅んでしまったのかと、何となく末法の匂いを感じさせる。

 

 丈六にかげらふ高し石の上

 

 五メートルといえば当時の人の一五〇センチくらいの身長からすると身の丈の三倍くらいあり、圧倒するような大きさだ。それが野原の中に野ざらしになり、折から春の陽射しに陽炎が燃え、揺らめいて見える。

 日を遮るもののない広々とした野原は陽炎が立ちやすい。それはめでたい春の訪れというよりも、陽炎のあるかないかの儚いものというイメージを用いている。それは和歌の伝統の中では男女の仲を表現するもので、いわば恋の儚さ、愛は陽炎のように儚い、という意味で用いられる。『拾遺集』巻十二、恋二の、

 

 夢よりもはかなきものはかげろふの
    ほのかに見えしかげにぞありける
                よみ人知らず

 

もあくまで恋を詠んだ歌だ。

 これに対し、芭蕉はそれを歴史の儚さに詠みかえる。そこには遠い王朝時代に黄金時代を見、保元・平治の乱以降の武家社会を乱世と捉える中世以来の世界観を踏襲している。そこには末法思想の影もあるが、やがて、こうした王朝時代を極度に美化する観念は江戸後期の国学に受け継がれ、明治の王政復古にもつながってゆくものだ。

 よく、「わびさび」というと、こういう荒れ果てた古寺の美を賛美するものだと思われがちだが、本来は荒れ果てた昔の面影を「悲しむ」ものであり、「嘆き」だとか「恨み」だとかに結びついていて、純粋に美的に風情として眺められるようなものではなかった。芭蕉もここでは涙している。

 荒れ果てた寺は涙が出るほど悲しいものであり、それが大切に保存されていたということは涙が出るほどありがたい。こうした感情は『奥の細道』の旅でも至る所に見ることができる。

 そういう意味で、後の新大仏寺の復興も、素直に喜ぶべきことだろう。快慶の丈六仏はやはり大切に保管されるべきで、野ざらしにしておくべきではない。

 なお、この新大仏寺の件は『徒然草(つれづれぐさ)』第二十五段の京極殿・(ほう)成寺(じょうじ)の影響があったかもしれない。

 

 「 大門・金堂など近くまでありしかど、正和(しゃうわ)のころ南門は燒けぬ。金堂はその後たふれ伏したるままにて、取りたつるわざもなし。無量(むりゃう)壽院(じゅいん)ばかりぞ、そのかたとて殘りたる。丈六の佛九體(ほとけくたい)、いと尊くて竝びおはします。(かう)(ぜい)の大納言の額、兼行(かねゆき)が書ける扉、あざやかに見ゆるぞあはれなる。法花堂などもいまだ侍るめり。これも(また)いつまでかあらむ。かばかりの名殘だになき所々は、おのづからあやしき(いしずゑ)ばかり殘るもあれど、さだかに知れる人もなし。されば(よろづ)に見ざらむ世までを思ひ(おき)てむこそ、はかなかるべけれ。」

 

 芭蕉はこのあと伊勢から帰った後、万菊丸と吉野へ行く途中、『笈の小文』には書かれていないが、伊賀国見山の兼好塚を訪れている。芭蕉の出身地伊賀は、兼好法師ゆかりの地でもあった。

 さて、もう一つの句、

 

 さまざまの事おもひ出す桜哉

 

だが、この句は本当はここで詠まれたものではなく、吉野の花見に行く前に藤堂探丸別邸の花見に招かれたときの吟で、新大仏寺を尋ねた早春に桜の句は季節に合わない。

 芭蕉は故郷で幼い頃のことや、藤堂家に奉公した頃のことを懐かしく思い出したのだろう。だが、新大仏寺のところにこの句が置かれると、あたかも桜の季節にこの地を訪れ、荒れ果てた中に一本の桜の木があり、昔の栄華を偲んでいた、という趣向になる。

 この句はやや反則という気がする。「さまざまの事おもひ出す」というのはあまりにも具体性がなく漠然とした内容で、どういう意味にでも取れる。しかし、だからこそ、読者は自由に自分の記憶をたどり、自分にとって一番かけがえのない思い出だった桜を思い出すことが出来るのだろう。

 ある意味で芭蕉の句の秘密はここにあるといってもいいのかもしれない。五七五の短い文章では、とてもではないが作者の頭の中にあるイメージを十分正確に表現することは出来ない。

 絵画なら自分のイメージを具体的に描き表すことができるかもしれないが、言語というのは基本的に読者がその言葉から何を想起するかに依存している。丈六仏の陽炎も、実際にそれを見たことがない読者にとっては、ただ自分が今まで見た様々な記憶から想像する以外にない。

 まして、新大仏寺はいまや再建され、芭蕉が見たような荒れ果てた光景は今は存在しないのだから、厳密に言えばわれわれは芭蕉が見たのと同じイメージを再現することは不可能だ。しかし、そのことは芭蕉にとってまったく問題ではなかったのだろう。大事なのは何を伝えるかではない。何を思い出させるかだ。

 『野ざらし紀行』のとき芭蕉は、

 

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

 

と詠んでいる。富士山のすばらしさはどんな画工でも再現することができない。しかし、発句なら読者が一番好きな富士の姿を思い出させることができる。なぜなら、そこには富士山がないからだ。

四、お伊勢参り

 江戸時代は建前としては移動の自由はなかったのだけど、伊勢参りの名目があればかなり自由に旅ができた。『野ざらし紀行』でも芭蕉は伊勢に立ち寄っているし、『奥の細道』でも最後は伊勢で締めくくられている。この『笈の小文』でも伊勢は必ず行かねばならない場所だったのだろう。しかし、僧形であるために内宮には入れてもらえず、外宮だけの参拝なのは『野ざらし紀行』のときと同様だ。

 

   「伊勢山田

 何の木の花とはしらず(にほひ)
 裸にはまだ()(さら)()の嵐哉」

 

(現代語訳:伊勢山田

 何の木の花とは知らない()()匂い(ほひ)()良い()

 ()()なる()()()まだ如月の嵐()()

 

 「何の木の」の句は『花はさくら』(秋屋編、寛政十三年刊)にこのような前書きがある。

 

   貞享五とせ如月(きさらぎ)の末、伊勢に詣づ。

   (この)御前のつちを(ふむ)(こと)、今五度に及び

   侍りぬ。更にとしのひとつも老行(おいゆく)

   まに、かしこきおほんひかりもたふ

   とさも、(なほ)思ひまされる心地して、

   (かの)西行のかたじけなさにとよミけん、

   涙を跡もなつかしければ、扇うちし

   き砂にかしらかたぶけながら、

 何の木の花とハしらず匂ひ哉

 

 芭蕉が伊勢に来たのはこれが五回目で、四回目の時は『野ざらし紀行』の旅の途中で、

 

 みそか月なし千とせの杉を抱あらし

 

の句を詠んでいる。月のない真っ暗な闇の中で心細げに千歳の神杉にすがる姿に、伊勢の神の有難さを詠んだこの句は、どこか近代文学的な内面的な叫びを感じさせる。それに比べると、今回の句は良いにつけ悪いにつけ落ち着いている。西行法師の歌と伝えられていた、

 

 何ごとのおはしますをば知らねども
    かたじけなさの涙こぼれて

 

を踏まえての句で、そこには闇も嵐もなく、ただ花の香ばしい匂いがあるだけだ。仏法の蓮の花でもなく、後に出てくるように梅の花でもない。何の香りだかわからない。ある意味で、それが神道の本質なのかもしれない。

 「大和は(かむ)ながら言挙(ことあ)げせぬ国」とは柿本(かきのもとの)人麻呂(ひとまろ)の長歌の一節にもあるが、これといった教義や戒律などの体系があるわけでもなく、ただあるがままに存在することで、神道は言葉に縛られることなく無限に開かれている。

 何の香りか、その香りの元を特定するのではなく、ただその香りがあるがままにある。強いて言えば、それは開かれているということの香りなのだろう。

 もう一つの句、

 

 裸にはまだ()(さら)()の嵐哉

 

は、伊勢神宮に奉納された句だという。

 当時は西行法師の作とも伝えられていた『撰集抄(せんしゅうしょう)』の一番最初の話は増賀(ぞうが)上人(しょうにん)の話で、天台山根本中堂に千夜こもって祈りを捧げたけども悟りを得られなかったが、あるとき、伊勢神宮を詣でて祈っていると、夢に「道心おこさむとおもはば、(この)身を身とな思ひそ」という示現を得て、それならとばかりに着ているものを皆脱いで乞食に与え、裸で物乞いをしながら帰ったという。

 慈恵(じえ)大師の御堂に来ると、さすがに皆気でも狂ったかと思い、大師が、「そこまですることはない。ただ威儀を正して名義を捨てればいい」と言ったものの、それは長く捨て果てた後のことで、「あら楽しの身や」と言って走り去った。

 寺にはたくさんの修行僧がいるのに、そのほとんどは寺の中での出世を願い、結局名利を離れられないが、増賀上人は伊勢神宮の神のおかげで名利を離れることができた、という話で、

 

 「貪癡(どんち)のむら雲ひきおほひ、名利の常闇(とこやみ)なる身の、五十鈴川の波にすすがれて、(あま)(てる)大神(おむかみ)の御光に消えぬるにこそと、かへすがへすかたじけなく貴く侍り。」

 

と結ばれている。

 しかし、なぜそれが伊勢だったのか。キーワードは「五十鈴川の波にすすがれて」だろう。夢のお告げは単に「此身を身とな思ひそ」というだけで、裸になれとは言っていない。裸になるということは、おそらく五十鈴川で禊をしている人の姿を見、あるいは自分も禊をしてみて思いついたのではなかったか。

 そして、芭蕉もまた、旧暦二月のまだ冷たい水につかり禊をしている参詣者の姿を見て、自分にはとてもできないと思ったのだろう。芭蕉の句は、増賀上人のようには裸になれない、貪癡(どんち)のむら雲ひきおほひ、名利の常闇(とこやみ)を離れられず、煩悩が嵐のように吹き荒れている我が身であるが、五十鈴川の水ですすがれたいものである、という謙虚な句だ。 嵐は「三十日月なし」句にも出てくるが、伊勢は「神風の伊勢」と言われるように、嵐に縁がある。

 貪癡(どんち)や名利を離れるということの難しさは、結局お坊さんだって飯を食って行かなくてはならないし、その飯は庶民の汗水流して稼いだものからの寄進によるものだから、量的にも限界があった。実際はすべての出家志願者を食わす事なんてできずに、多くは乞食坊主となって彷徨い、野ざらしになっていったのだろう。

 こうした過酷な寺の中で生き残るには、寺の中でも偉くならなくてはならない。また、寺が寄進を多く集めるには、寺も僧も名声を得なくてはならない。そんな事情から、お寺の中も結局俗世のような熾烈な競争があったのではないかと思われる。

 芭蕉はこの後『奥の細道』の旅の途中に、かつて芭蕉に禅を教えた仏頂和尚のかつて修行をしていた五尺の庵を訪ね、

 

 木啄(きつつき)も庵はやぶらず夏木立    芭蕉

 

の句を残しているが、その仏頂和尚もそのことで僧としての高い評価を獲得して、鹿島根本寺の二一世住職の地位を得ている。それが現実なのだから、俳諧師としての名利を求め続け、その頂点に立った芭蕉の生き方も否定はできない。

 大事なのはその名利に溺れることなく謙虚にその煩悩を認める姿勢で、実際にわざわざ裸になることはない。それが普通の発想というものだろう。芭蕉も別に裸になる必要はなかった。

五、菩提山

 芭蕉は伊勢神宮に参拝した後、伊勢のはずれ、朝熊山の麓にある菩提山(ぼだいさん)神宮寺(じんぐうじ)を尋ねる。 菩提山神宮寺は奈良時代に立てられた大神宮時に端を発し、平安後期に復興された寺で、ここも新大仏寺と同様、平安時代に作られた丈六仏「木造阿弥陀如来坐像」をご本尊としていたが、その後この大伽藍は見る影もなく荒れ果ててしまった。丈六像は今は愛知県の海徳寺に移されている。

 

     「菩提山

 (この)山のかなしさ告げよ野老掘(ところほり)

 

(現代語訳:菩提山

 この山の悲しさを告げて()くれ()野老堀り)

 

 (とこ)()は自然薯になるヤマノイモに似ているが、根は苦くてそのままでは食べられないが、かつてはあく抜きをして食用にしていた。イモの部分に髭のような根が生えていることから、老人のようなので、野老と書き、当時は正月の蓬莱飾りに欠かせないものだった。俳諧では山奥の草庵で暮らす隠士のイメージもある。

 多分この村の人たちは平安時代と変わらず、トコロを掘り続けてきたのではなかったか。その姿に芭蕉も、かつてこの地に大伽藍があったことを偲んだのだろう。伊勢といえば海老が有名だが、野老のほうはすっかり忘れ去られている。伊勢神宮の栄える姿が伊勢海老なら、忘れ去られた菩提山神宮寺は伊勢野老とでも言うべきだろう。

六、伊勢の俳諧

 伊勢というと山崎宗鑑(そうかん)と並ぶ俳諧の祖、荒木田(あらきだ)(もり)(たけ)を輩出した土地で、俳諧発祥の地といっても過言ではない。荒木田守武は伊勢の内宮の神官で、竹内(げん)玄一(げんいち)の『俳家奇人談』によると、ある日の連歌会で、周りがみんな坊主だったのを見て、

 

 御座敷を見れば(いづ)れもかみな月

 

と詠み、宗祇法師がそれに、

 

   御座敷を見れば何れもかみな月

 ひとり時雨のふり烏帽子着て

 

と脇を付たという。

 守武が開いた俳諧の道は杉田望一(もういち)やその門人美津女(みつじょ)に受け継がれ、芭蕉の弟子の一人、園女(そのめ)も美津女の門から輩出している。しかも、芭蕉の園女との出会いは、この伊勢参拝の旅の途中での出来事だった。 支考編の『笈日記』には、

 

    園女亭

 暖簾(のうれん)の奥ものゆかし北の梅   芭蕉

 

の句が見られる。支考も美濃の出身だが、やがて伊勢に住むことになり、元禄七年の秋には芭蕉を伊勢に呼ぼうと文代を連れて伊賀に会いに行くが、この時は来ることはなく大阪で最期を迎えた。

 

   「(りゅう)尚舎(しゃうしゃ)

 物の名を先ずとふ蘆の若葉哉」

 

(現代語訳:龍尚舎

 ()()若葉(のな)()何て(まず)いう(とふ)()先ず(しの)問うて(わかな)みる(かな)

 

 龍尚舎は伊勢山田の神官で国学者でもある。句は、

 

   草の名も所によりてかはる也
 難波のあしは伊勢のはまおぎ    救済(きゅうせい)

 

という『菟玖波(つくば)集』にも収められている中世連歌から来ている。同じ草でも大阪では芦と呼び、伊勢では浜荻といい、所によって草の名も変わるという句だ。後に一条兼良が、

 

   草の名も所によりてかはる也
 軒のしのぶは人のわすれか

 

と試みに付け直している。これだと草の名が所によって変わるように、私は軒のしのぶなのにあの人には忘れ草なのか、という意味になる。これは『伊勢物語』の、

 

 「むかし、をとこ、(こう)(りょう)殿(でん)のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御(つぼね)より、『忘れ草を忍ぶ草とやいふ』とて、いださせ給へりければ、たまはりて、

 

 忘れ草生ふる野べとは見るらめど

    こは忍ぶなり後もたのまむ」

 

という在原業平の歌から来ている。

 そんな物の名の所による違いを芭蕉は学者でもある龍尚舎に尋ねたりしたのだろう。まあ、多分何度も同じことを聞かれてうんざりしてたかもしれないが。

 「芦の若葉」というと、

 

   古池や蛙飛び込む水の

 芦の若葉にかかる蜘蛛の巣    其角

 

という脇を思い起こさせる春の季題だ。

 

   「網代(あじろ)民部(みんぶ)雪堂(せつどう)に会ふ

 梅の木になほやどり木や梅の花」

 

(現代語訳:網代民部雪堂に会う

 梅の木のまだ(なほ)宿り木(やど)()けど(きや)梅の花)

 

 足代(あじろ)民部(みんぶ)とは足代弘氏のことで、談林の祖、西山宗因に俳諧を学び、延宝五(一六七七)年には宗因との両吟百韻が高政編の『後集絵合千百韻』に入集している。俳諧発祥の地伊勢に談林俳諧を広めるべく神風館をを作った。ただ、残念ながら弘氏は天和三(一六八三)年に四十四歳の若さで没氏、芭蕉が会ったのはその息子の足代弘員(雪堂)だった。

 句のほうは、「梅の木」とは梅翁と呼ばれた西山宗因の梅の木に忠実な神風館のことで、延宝三(一六七五)年に宗因が江戸に来たときに宗因に感化されながらも後に袂を分かち新風を起こした芭蕉はヤドリギだと、謙遜をこめて詠んだ句だ。

 神風館も談林の流行の衰退とともに次第に先細りになってゆき、やがては蕉門の涼菟(りょうと)によって再興されてゆくことになる。その涼菟が入門するのは元禄三(一六九〇)年のことで、ここではまだ出合っていない。

 

   「草庵会(さうあんのかい)

 いも植ゑて(かど)(むぐら)のわか葉哉」

 

(現代語訳:草庵の会

 芋植えて辺り(かど)は葎の若葉()な)

 

 草庵というのは二乗軒という草庵で、船江町大江寺にあったらしい。庵主もメンバーもよくわからない。

 ムグラは藪を作る蔓草とされているが、今日ヤエムグラと呼ばれているアカネ科の草は蔓性ではない。蔓になるのはカナムグラでどこにでもある蔓性の雑草だ。『小倉百人一首』にも、

 

 八重むぐらしげれる宿のさびしさに
    人こそ見えね秋は来にけり
              恵慶法師

 

 

の歌もあり、ヨモギと並びムグラは荒れ果てた、わびしげなものだった。芋というと当時は里芋のことだったが、里芋も質素な感じがする。秋になれば芋が実るが、それとともにムグラも茂り、あたかも恵慶法師の宿のようにひと気のないこの庵に秋は来るのだろう。

七、御子良子(おこらご)の海

 『野ざらし紀行』には芋洗う女や蝶という元遊女が登場したし、『奥の細道』では重ねや市振の遊女が登場する。女を登場させ、多少のお色気をサービスするのは、大和歌が色好みの道で、一巻に恋なくばと言われる以上、当然だろう。『笈の小文』では伊勢神宮の御子(おこ)良子(らご)が登場し、一巻に花を添えている。

 

 「神垣(かみがき)のうちに梅一木(ひとき)もなし。いかに故有(ゆゑある)事にやと神司(かんづかさ)などに(たづね)侍れば、只何とはなし、をのづから梅(ひと)もともなくて、()()(たち)(うしろ)に、(ひと)もと侍るよしをかたりつたふ。

 

 御子(おこ)良子(らご)の一もとゆかし梅の花

 神垣(かみがき)やおもひもかけず涅槃像」

 

(現代語訳:神垣の内に梅()一本(とき)もな()()()わけ(にゆ)()ある(こと)(にや)神官(かんづかさ)などに尋ね(はべ)けど(れば)()()理由(なん)(とは)なく(なし)(をの)から(づから)()()一本(ひともと)もなくて、子良の調理場(たちの)(うし)(ろに)に一本だけ(はべ)ある(るよ)(しを)教えて(かたり)くれ(つた)()

 

 御子(おこ)良子(らご)一本(ひともと)()惹かれる(かし)梅の花

 神垣(かみがき)()おもひもかけず涅槃像)

 

 梅は中国語のメイが訛ってウメになったもので、M音の口をつぼめる動きがウと言う母音に聞こえたのだろう。同様のものに馬(マー)がウマになる例がある。古くは「むめ」「むま」というふうに表記された。梅は日本の固有種ではなく、中国から伝わってきたもので、宮廷から寺社へと広がり、やがて庶民の庭にも広がっていったのだろう。

 伊勢神宮は多くの神社の森がそうであるように、自然のままを良しとして、外来の植物をわざわざ植えたりはしなかったのだろう。梅は御子良子の宿舎に一本見るだけだった。

 ()()というのは子供のことで、辞書によると男女が互いに親しんで呼ぶときに使うが、特に女に対して用いることが多いという。英語のベイビーに近かったのか。伊勢神宮に使える巫女さんも子良と呼ばれていたようで、丁寧に言うと御子(おこ)良子(らご)となる。

 

 御子(おこ)良子(らご)の一もとゆかし梅の花

 

 この句をそのまま解釈すると、伊勢神宮の片隅に唯一の梅の花を香らせる宿舎があり、そこに住む巫女さんの可憐さとも相成って、心引かれる、という意味になる。だが、もしかしたら芭蕉にとってはこの旅の途中で出会った園女の面影があったのかもしれない。

 

 暖簾(のうれん)の奥ものゆかし北の梅   芭蕉

 

ともに句の同じ位置で「ゆかし」という言葉を使っていることからも、「御子良子」の句は園女亭の句の改案だった可能性もある。

 「御子良子」の句には、

 

 梅(まれ)に一もとゆかし子良の館

 

という初案があった。これでは梅だけがゆかしく、御子良子はどこかへ消えてしまい、ただその住んでいる家だけが背景に描かれているに過ぎない。

 「御子良子の一もとゆかし」とすることで、御子良子と梅の花が両方ゆかしいという意味になる。しかし、これだと園女亭での「暖簾の」の句とかぶってしまう。そこで、園女亭の句は園女編『菊のちり』にある、

 

 のうれんの奥物ふかし北の梅

 

の形に直したのだろう。「ゆかし」が惹きつけられる、魅了されるという恋の雰囲気を持つのに対し、「深し」では韻は踏めるが単に遠くひっそりとといったニュアンスになる。

 このとき園女は二十五歳。六年後にも芭蕉は、

 

 白菊の眼に立て見る塵もなし

 

と園女の美しさを讃えている。これは芭蕉もホモではなく人並みに女性に興味のあった一つの証拠かもしれない。ただ、残念ながら園女には()(せん)という夫がいた。「北の梅」の北は妻の住むところ、いわゆる奥様の「奥」のことだ。出会ってすぐだが、芭蕉は園女をあきらめなくてはならなかった。そして後に近江の智月という年上の未亡人に心寄せるようになる。それはまたかなり先のことだ。
 もう一つの句、

 

 神垣(かみがき)やおもひもかけず涅槃像

 

は、伊勢参宮が時期的に二月十五日の涅槃会に重なってて、僧は内宮には入れないが、外宮の境内では涅槃像の講釈でも行われていたのだろう。神仏習合が当たり前の国だから、別にあってもおかしくはない。

 『金葉集』巻九には、

 

   (いく)芳門院(ほうもんいん)伊勢におはしましける時、

   六條右大臣北方あからさまに下り

   て侍けるときに、思ひがけず鐘の

   聲のほのかに聞えければよめる

 神垣(かみがき)のあたりとおもふに木綿(ゆふ)(だすき)

    おもひもかけぬ鐘のこゑかな
                六條(ろくじょう)()大臣(だいじんの)北方(きたのかた)

 

 

という歌もある。

第三章、花の吉野へ

一、再び杜国登場

 「弥生(やよひ)半過(なかばすぐ)る程、そぞろにうき(たつ)心の花の、我を道引(みちびく)枝折(しをり)となりて、よしのの花におもひ(たた)んとするに、かのいらご崎にてちぎり(おき)し人の、いせにて(いで)むかひ、ともに旅寐のあはれをも見、(かつ)(わが)(ため)に童子となりて、道の便リにもならんと、(みづから)(まん)(ぎく)(まる)と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興(あり)。いでや門出(かどで)のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書(らくがき)ス。

 

   乾坤(けんこん)無住(むじゅう)同行(どうぎゃう)二人(ににん)

 よし野にて桜見せふぞ()の木笠
 よし野にて我も見せふぞ檜の木笠  万菊丸」

 

(現代語訳:三月(やよひ)半ばを過ぎる頃、()もそ()ぞろ()浮かれ(うき)たつ心の花も自分(われ)を導く()しる()()とな()て、吉野の花()()(もひ)行こう(たたん)してた(する)()()の伊良湖崎で約束(ちぎりお)した(きし)()伊勢(にて)出て(いでむ)きて(かひ)、ともに旅情(たびねの)()味わおう(はれをも)()さらに(かつは)我がために童子となって道案内(のたより)しよう(にもならん)と、自ら万菊丸と名乗る(をいふ)本当(まこと)に童らし()(のさ)()なかなか(いときょう)()()さあ(いで)出発(やか)()いう()()遊び心(たはぶれごと)(せんと)笠の内側(うち)に落書きした()

いでや門出(かどで)のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書(らくがき)ス。

   天地(けんこん)宿()なき(じゅう)同行(どうぎゃう)二人(ににん)

 吉野()()(さく)()見せ()やる()桧木笠

 吉野()()(われ)も見せ()やる()桧木笠   万菊丸)

 

 前年の冬に伊良湖崎で杜国に会いに行ってたので、ここで登場する万菊丸が誰であるかはわかるようになっている。この時に既に杜国を吉野の花見に誘っていたのだろう。そこで杜国の家僕の権七に送った、

 

 先(いは)へ梅を心の冬籠り  芭蕉

 

の句が残っている。梅の頃には杜国を伊勢に連れてくるように頼んだのだろう。

 距離的にも伊勢は伊良湖崎の対岸で、船も出ている。尾張国を追放されたので尾張国を通過することはできないが、船で渡れば簡単に伊勢に来ることはできた。

 先の、

 

 何の木の花とはしらず匂い哉 芭蕉

 

の句を発句とした興行の席に既に杜国は来ていて、野人(のひと)という名前で同座している。

 その十三句目、

 

   碁に肱つきて涙落しつ

 いねがてに酒さへならず物おもひ の人

 

の句を以って、杜国は俳諧に戻って来た。

 その後杜国は万菊丸の名で芭蕉とともに伊賀に行き、そこから吉野へと旅立つことになった。

 杜国が実際に童形になったのかどうかは定かでない。そこは話のネタとしての演出なのかもしれない。ただ、この演出は(しゅ)(どう)を意識したのではなかったかと思われる。

 衆道と呼ばれる男の同性愛の風習は、芭蕉の生きた貞享、元禄の時代はもとより、享保前まではかなり一般的に行われていたとされている。特に、武士や僧侶の間では広く習慣化していて、刃傷沙汰などの問題を起こさない限り容認されていた。だからこそ、芭蕉も寛文十二(一六七二)年の発句合『貝おほひ』のなかで堂々と「われもむかしは衆道ずきの」と言えたのだろう。

 それは犯罪でもないし、道徳的に非難されることでもなかった。実際俳諧でも衆道ネタは芭蕉のみならずとも普通に見られる。むしろ、この習慣は厳格な規律を要求される人々の間でのささやかな息抜きだったのか、雨森芳州や熊沢蕃山など高名な儒者も肯定するところだった。

 おそらく、こうしたことはユダヤ教やそこから派生したキリスト教、イスラム教の文化圏を別にすれば、多くの社会に見られたことなのだろう。

 古代ギリシャの同性愛は有名で、プラトンのソクラテス対談集の中にも同性愛がおおらかに肯定されていることはよく知られている。特に有名なのは『響宴』の中でのアリストファネスの説で、人はもともと二人で一つで、男と男、男と女、女と女の三種類いて、それが二つに引き裂かれたことによって、お互いに元の半身を取り戻そうとするのだが、そのとき元が男と男だったものや女と女だったものは同性愛になり、男と女だったものが異性愛になるというものだった。

 通常、社会は男と女の結婚をもって家族を作り、それが代々広がっていって大きな血縁集団を作り出すことで成立する場合が多いのだが、これに対し軍人、僧侶、職人、芸能、など血縁に基づかない男社会が形成されたとき、しばしば同性愛がその社会の絆を作る上で重要な意味を持ってくる。

 これが近代化の中で、男は単なる労働力となり、生産効率ばかりが優先され、男集団の独自の美学を失ってゆき、美はもっぱら女のものとなっていったのはないか。今日のいわゆるオヤジの美意識の低さを見るにつけても、もはやかつての江戸の粋でいなせな風俗の影はない。ある意味でそれは同性愛の欠如が原因なのかもしれない。

 とはいえ日本の文化の根底には常にこうした衆道から受け継がれた同性愛的な要素があったのだろう。西洋では同性愛自体が犯罪とみなされ、その嫌疑をかけられないためにも男は常に男らしく、いわゆるマッチョでいることが求められ、この習慣はゲイが解放されてもハード・ゲイを生むこととなった。これに対して、日本では女性的な男は常に好まれてきたし、芸能界でもお姉キャラを売りにする芸能人はいくらもいるし、日本の男性アイドル文化の基礎を作ったジャニー喜多川も同性愛者だった。たまたま芸能界で大きな力を持ってしまったためにその力を乱用したことは残念だが、それでも日本では長く親しまれてきた人だ。

 日本人の同性愛への寛容さを示すものとしては、七十年代の少女漫画から男の同性愛を描くものが多く描かれ、やがてBL(ボーイズラブ)というジャンルを確立し日本の漫画アニメ文化に欠かせないものとなっている。また、日本では女性の同性愛は長いこと深く潜行していたが、BLに刺激されてか、いまや百合も欠かせないものとなっている。

 芭蕉の風流も、そうした衆道由来の男の美学に根差していたのだろう。芭蕉自身がゲイだったかどうかは定かでないが、万菊丸の前髪を垂らした童子姿の美少年の登場は、当時としては自然な一つの流れだった。

 一方の芭蕉は髭茫々というわけではないが、門人の描いた芭蕉像にはしばしばもみあげから口の周りに至る無精髭風のものが描かれている。天和期の句に、

 

 髭風(ひげかぜ)ヲ吹いて暮秋(ぼしゅう)(たん)ズルハ()ガ子ゾ     芭蕉

 

という句もある。黒づくめの僧衣を着た髭面の風狂の徒というのが本来の芭蕉のイメージだったのだろう。そして、この芭蕉に同行する杜国は対称的に、「我為に童子となりて、道の便リにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ」と、前髪を垂らしとお小姓のイメージで語られている。読者にはいやがおうでも同性愛を連想させる設定だ。名前も万菊丸、何となくエッチな名前だ。

 

 こうして芭蕉と万菊丸は笠に「乾坤無住同行二人」と書き付け、ともに吉野へと旅立つ。句はほとんど解釈の必要はないだろう。お前に桜を見せてやろう。いや、俺こそお前に見せてやろう。そんな意気投合の句だ。なお、この「乾坤無住同行二人」という書き付けは、このあと『奥の細道』で芭蕉と曾良もやったことだった。

二、藤の宿

 鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』に「春は、藤波を見る。紫雲(しうん)の如くして、西方ににほふ。」とある。夕暮れに見る藤の花はぼんやりとした、『徒然草』に言う「おぼつかない」感じで、その姿は紫の雲のように見える。『枕草子』には春の曙の「紫立ちたる雲」の哀れが記されているが、紫の雲は古来高僧が死ぬ時、西から阿弥陀如来と大勢の菩薩が極楽浄土から紫雲に乗って来迎(らいごう)するとされていた。

 

 おしなべてむなしき空と思ひしに

   藤咲きぬれば紫の雲

                      慈円法師
 西を待つ心に藤をかけてこそ

   その紫の雲を思はめ

                     西行法師

 

という和歌もある。人生を一日に例えるなら、遊び疲れた子供が夕暮れに家に帰ってゆくように、人もまた何十年一生懸命生きた後、我が家に帰るように仏様の所に帰ってゆくのだろうか。

 夕暮れ、旅に疲れた芭蕉と万菊丸は藤の花の紫雲に誘われるように宿に着く。

 

 「旅の具多きハ道さはりなりと、物皆払捨(はらひすて)たれども、(よる)(れう)にと、かみこ(ひと)つ・合羽(かっぱ)やうの物・硯・筆・かみ・薬等、昼笥(ひるげ)なんど、物に(つつみ)(うしろ)背負(せおひ)たれば、いとどすねよはく力なき身の、跡ざまにひかふるやうにて、道猶すすまず。ただ物うき事のミ多し。

 

 草臥(くたびれ)て宿かる(ころ)や藤の花」

 

(現代語訳:旅の持ち()物が()多くて(ほき)道中(みち)()差し障る(はりな)ので(りと)()()捨て(はら)払った(ひすて)とはいえ(たれども)、夜()必要(れうに)()紙子一つ、合羽()よう()()もの、硯、筆、紙、薬等、昼飯(ひるげ)()どを(んど)物に包んで(みて)後ろに背負って(ひた)れば、ますますいとど弱さちからせいきみ後ろあとざからまに引っ張られてひかふるやういるにてみたいみち進まないすまず。ただ辛いものことうきこばかりとのみ

 

 くたびれて宿借りる(かる)には()藤の花)

 

 「くたびれる」は「草」が「臥す」と書く。草が平伏して垂れ下がった姿は、そのまま藤の花のイメージにつながる。

 なお、この下りは、『奥の細道』の草加の下りに似ていると思う人も多いかもしれない。

 

 「ことし元禄(げんろく)(ふた)とせにや、奥羽(おうう)長途(ちゃうど)行脚(あんぎゃ)(ただ)かりそめに(おも)ひたちて、呉天(ごてん)白髪(はくはつ)(うらみ)(しげる)ぬといへ(ども)(みみ)にふれていまだめに()ぬさかひ、(もし)(いき)(かえ)らばと(さだめ)なき(たのみ)(まつ)をかけ、(その)(にち)(やうやう)(さう)()(いふ)宿(しゅく)にたどり(つき)にけり。(そう)(こつ)(かた)にかかれる(もの)(まづ)くるしむ。(ただ)()すがらにと出立(いでたち)(はべる)を、帋子一(かみこいち)()(よる)防ぎ(ふせぎ)、ゆかた・雨具(あめぐ)(すみ)筆のたぐひ、あるはさりがたき(はなむけ)などしたるは、さすが打捨(うちすて)がたく路次(ろし)(わづらひ)となれるこそわりなけれ。」

 

 なお、ここでお気づきの方もおられるかと思うが、藤の花というのは普通四月の終わり頃から五月にかけて、ツツジや牡丹と同じ時期に咲くもので、桜の散った後に咲く花ではないか。

 ツツジと藤は一応春の季題とされているものの、同時期に咲く牡丹が夏の花になるのは、夏に花が少ないからだともいう。絵画では牡丹はしばしば猫と胡蝶(黄蝶)と一緒に描かれ、ここでも春と夏との境界は曖昧ではある。

 じつはこの「草臥て」の句は元禄元年四月二十五日付の惣七(猿雖)宛書簡に、

 

 (ほとと)(ぎす)宿かる頃の藤の花

 

という初案があり、旧暦四月に詠まれた夏の句だったことがわかる。伊賀から万菊丸を引き連れて吉野の花見に行く途中の吟だと季節が合わない。この句は吉野の花見を終え、高野山を経て和歌山の()三井寺(みいでら)、和歌の浦で行く春にやっと間に合った後、ふたたび奈良に戻ってきたときに詠まれたものだった。

 『泊船集』には、

 

   大和行脚(あんぎゃ)のときに、たはむ市とかや

   いふ処にて日の暮れかかりけるを、

   藤の(おぼつか)なく咲きこぼれけるを

 草臥(くたびれ)て宿かる(ころ)や藤の花

 

とあり、丹波市(たんばいち)(今の天理市丹波市)に宿泊したときの吟となっている。増田晴天楼の『大和路の芭蕉遺跡』(二〇〇四年、奈良新聞社)によれば、先の惣七(猿雖(えんすい))宛書簡に「丹波市、やぎと云処耳なし山の東に泊、‥‥十二日、竹の内いまが茅舎に入。」とあるところから、十日に丹波市、十一日に八木に泊まり、十二日に当麻寺のある竹の内に止まったとしている。それゆえ、この句は四月十日に丹波市で詠んだまぎれもない夏の句だった。夏とはいえ旧暦の四月の初めなら、まだ藤は咲いていただろう。

 しかし、それでは季重なりではないか、と俳句を少々かじった人なら言うであろう。蕉門では季重なりは別に珍しいことではなく、それはあの有名な山口素堂(そどう)の「目には青葉山ほととぎす初がつを」の句でもわかる。「藤」と「時鳥」のように異なる季節の季語を重ねる例もそれほど珍しくない。

 

 冬牡丹千鳥よ雪の(ほとと)(ぎす)    芭蕉

 梅恋ひて(うの)(はな)拝むなみだかな 同

 田一枚植ゑて立去さる柳哉   同

 名月の花かと見へて綿畑   同

 

 これは中世連歌以来の伝統で、季題を形式的なものではなく実質的なものとみなし、ただ季語が入っていれば自動的のその季節の句とするのではなく、あくまでも句全体がどの季節の情かを重視するからだ。異なる季語を重ねても、内容上どの季節かが特定できるものであれば、いくつ季語を入れてもよかったのである。極端に言えば、

 

 世にふるもさらに宗祇の宿り哉  芭蕉

 

のように、表向き季語がなくても季節の情が特定できるものは、時雨(冬)の句となる。近代俳句が形式季語なのに対し、中世連歌や蕉門俳諧は実質季語とでもいうべきだろう。

 実質季語的な発想は談林の頃に、式目を掻い潜るために形だけ季語を放り込む仕方が流行ったせいもある。蕉門でもその影響は見られるが、特に芭蕉の「軽み」の時代に入って行くと、季語を実質で捉える方に戻って行く傾向が見られる。

 季重なりは正岡子規の句でも時折見られる。

 

 けしの花大きな蝶のとまりけり  子規

 鶏頭のまだいとけなき野分かな  同

 鶏頭の黒きにそそぐ時雨かな   同

荻咲くや崩れそめたる雲の峰   同

 草化して胡蝶となるか豆の花   同

 

 季重なりに一々目くじらたてるようになったのはかなり最近のことで、おそらく昭和に入ってからだと思う。

 それでは、なぜこの句が、

 

 草臥(くたびれ)て宿かる比や藤の花

 

の形で春の句となり、『笈の小文』のこの場所に配置されているのか。

 この句に関しては、わざわざ夏の句を春の句に直しているのだから、記憶違いとは言いがたく、意図的なものだ。

 おそらく、この一文は『奥の細道』の「草加」と同様、旅がどのようなものであるかを紹介する役割のもので、伊賀からの旅立ちの直後に置きたかったのだろう。(本当は江戸からの旅立ちの後でもよかったのだろう。)ただ、「草臥れて」の句が、あまりにこうした紹介文の末尾に置くのにぴったりとはまってしまったので、何とか春の旅立ちにあわせて、この位置に置いたのだろう。それでも、藤の花が桜より先になってしまう不自然さは残ってしまった。

 この『笈の小文』は未完成原稿だったため、芭蕉がもう少し長く生きていたなら、また別の『笈の小文』があったかもしれない。

三、初瀬

 三月十九日に伊賀を旅立った芭蕉と万菊丸は、増田晴天楼の説によればその日国見山の兼好塚に立ち寄り、その付近に泊まり、翌三月二十日に名張から宇多郡三本松の琴引峠を越え、初瀬に至ったという。

 

   「初瀬

 春の夜や(こも)リ人ゆかし堂の隅
 足駄(あしだ)はく僧も見えたり花の雨   万菊」

 

(現代語訳:初瀬

 春の夜は籠ってる(りび)()()思う(かし)堂の隅

 下駄を掃く僧も見れた(えた)()花の雨 万菊)

 

 初瀬は雄略天皇の朝倉宮のあった土地で、そこに建立された長谷寺も(あか)(みどり)元(六八六)年に開かれた古くからの由緒ある寺だ。

 初瀬は「こもりくの初瀬」と歌にも詠まれ、「こもりくの」が初瀬の枕詞になっている。「こもりく」はしばしば「隠口」という字が当てられている。「隠」は呉音で「オン」と発音し、単独で用いられる場合にはンの音で終わるのを嫌い「オニ」となるため、『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』ではそれが「鬼」の語源とされている。鬼は隠れて出てこないもののことで、「こもりく」というのはその鬼の口、「鬼門」のことだといってもいいのかもしれない。実際、初瀬は飛鳥の東北にあり、鬼門の方角にあたる。いずれにせよ初瀬は、山に囲まれた隠遁所の風情があり、古くからここに来る人はお籠りをして祈祷をささげた。

 その後、唐の僖宗(きそう)皇帝の妃で顔が長く馬のような鼻をしていたところから馬頭(めづ)夫人(ぶにん)と呼ばれていた婦人がいたが、それがあるとき仙人に日本の長谷観音にお祈りすれば顔が長いのが治ると言われ、毎日祈ったところ絶世の美人になったという伝説でも知られ、平安女性の憧れの地ともなった。この時馬頭夫人からお礼に牡丹が送られたという伝説もあり、初瀬は牡丹の名所でもある。

 こういうわけで、初瀬は女性に縁のある地となった。『源氏物語』の「(たま)(かづら)」もここ初瀬が舞台になっているし、『撰集抄(せんしゅうしょう)』巻九では若い頃妻子を捨てて出家した西行法師が、長い年月を経て尼となった妻と再会した場所にもなっている。『撰集抄』はかつて西行の咲くと信じられていて、芭蕉の愛読書の一つでもあったから、芭蕉の句はおそらくこのイメージによるものだろう。

 

 春の夜や(こも)リ人ゆかし堂の隅

 

 西行が妻と再会したのは冬だったが、芭蕉が訪れたのは春だった。籠り人は初瀬であれば女性が連想される。西行の妻のように、昔別れた人と再会できることを祈っているのだろうか。そんな想像をさせる。

 これに対し、万菊丸の、

 

 足駄(あしだ)はく僧も見えたり花の雨   万菊

 

の句は『(まくらの)草子(そうし)』によるものだ。

 

 「正月に寺に籠りたるは、いみじう寒く、雪(がち)に氷りたるこそをかしけれ。雨など降りぬべき気色なるは、いとわるし。初瀬などに詣でて(つぼね)などするほどは、(くれ)(はし)のもとに車引き寄せて立てたるに、帯ばかりしたる若き法師ばらの、足駄(あしだ)といふ物をはきて、いささかつつみもなく、下り上るとて、何ともなき経のはしうち読み、倶舎(くさ)()を、少しいひ続けありくこそ、所につけてをかしけれ。」(『枕草子』能因本一二段)

 

 長谷寺のお坊さんは草履(ぞうり)ではなく、昔から下駄を履いていたらしい。女性からすれば衣の上に帯を巻いただけの軽装の若い修行僧が下駄履きで急な石段を軽々と上り下りするのを見ると、これがいなせでかっこよかったのだろう。万菊丸の句もそんな女性の気持ちで詠んだのか。桜咲く春雨の夜は、堂に籠って何となく艶な雰囲気を漂わす。

 芭蕉は男の立場から、一心に祈りを捧げる女を詠み、万菊丸は足駄をはいた美形の僧侶のことを思う。この二句は組になって、あたかも男と女が恋の句を詠み交わしているかのようだ。

四、葛城山

 三月二十一日、芭蕉と万菊丸は長谷寺を発つと、実際は多武(とうの)(みね)から(ほそ)峠(細峠)を越えて吉野を目指す。場所的には葛城山とはかなり離れた所を通っている。そのため、この句は多武峯に登り口付近から葛城山を遠望しての句と解釈する人も多かった。それは、『笈の小文』という固有の作品の中では間違った解釈ではない。むしろそれがもっとも自然な解釈ともいえるだろう。

 初瀬の後に葛城と続くのは、理由のないことではない。地理的には隔たっているものの、この二つはともに雄略天皇ゆかりの土地という点ではつながっている。

 雄略天皇は大長谷(おおはつせ)(わか)(たけの)(みこと)と呼ばれ、長谷朝倉宮に居を構えていた。雄略天皇といえば『万葉集』の冒頭の「こもよみこもち」の歌でも知られている。一部にこの歌を即位宣言の歌として読み解こうとする人もいるが、おそらくは(あか)猪子(いこ)伝説に結びついた伝承歌だろう。雄略天皇には(わか)日下部(くさかべの)(おおきみ)韓比賣(からひめ)の二人の妻がいたが、美和河の川辺で洗濯していた少女に声をかけ、「()()()はざれ、今に召してむ。」と言って帰ったきり、そのまま忘れてしまい、後に八十歳を過ぎた赤猪子が、ずっと待っていたといって尋ねて来る話で、天皇への忠誠心と貞節を鼓舞する寓話といえよう。

 初瀬が鬼門なのに対し、葛城は南西の地門にあたり、地門は地下の黄泉の国に通じるということで半鬼門とも言われる。(ちなみに北西は天門、南東は人門と呼ばれる。)ある日雄略天皇の御一行が葛城山に登ったとき、山の上に既に同じような格好で同じような人数の御一行がいたのを見て、「この大和の国には我のほかに王はいないはずなのにお前は誰だ」というと、いかにももう一人の王であるかのように応えたので、怒って矢を放って攻撃したら、向こうも同様に攻撃して戦闘になってしまった。

 そこで雄略天皇はもう一人の王に向かって「名を名乗れ」というと、「我は悪事(まがごと)一言(ひとこと)善事(よごと)一言(ひとこと)、言い放つ神、葛城の一言(ひとこと)(ぬし)大神ぞ。」と答えた。相手が神とあれば、さすがの雄略天皇もかしこまり、「(かしこ)し、我が大神、(うつ)しおみあらむとは(さと)らざりき。」と言って、持っていた太刀や弓矢や官人の衣服を捧げて拝んだという。「うつしおみ」は「僊人」つまり「仙人」のことと思われるが、枕詞の「うつせみ」と関係があるのかどうかは不明だ。

 この葛城山の一言主の神は、その後修験道の開祖として伝説に属する(えんの)小角(おづぬ)(えんの)行者(ぎょうじゃ))の物語の中に再び登場する。

 役行者は葛城山と吉野山を頻繁に往復したようだ。その理由はおそらく、吉野山が神仙郷で「この山の山石みなことごとく黄金なり。かるがゆへに、山の名をば、金峯山と申す。」と多武峯神社本『役行者絵巻』にあるように、錬金術に関連していたのだろう。葛城山もおそらく、そうした錬金術に関連した山だったのだろう。葛城山と吉野山の途中の山道が険しいというので、役行者はそこに岩橋をかけさせようとして、それを一言主の神に命ずることになる。雄略天皇も恐れた神を使役しようというのだから、役行者の霊力がいかに強いものかがわかる。

 もっとも一言主の神も黙って言うことを聞くほど落ちぶれてもいない。自らの姿の醜いことを理由に橋の工事は夜の間だけ、ほんの申しわけ程度にだらだらやっていたため、ついに役行者も切れて一言主の神を呪術で谷底に封印してしまう。

 それでも、一言主の神は負けてはいない。今度は天皇の夢の中に現れて、この国は天皇と神々との良好な関係で栄えてきたのに、今それを乱そうとしているものがいると訴える。それを聞いて天皇は役行者討伐の命令を出すが、役行者も空を飛んだり、稲光を放ったりしてつかまるものではない。そこで行者の母を人質に取り、結局役行者は伊豆大島に島流しになる。

 絵巻物に描かれている役行者は、どこか漫画のヒーロー(どっちかというと悪役のボスキャラ?)の原型のようで面白いが、芭蕉の時代の人々も一言主の神というと、こういう霊験物語のイメージだったのだろう。姿が醜いというのも「不細工」というよりはむしろ「異形(いぎょう)」といったほうがいいのだろう。今日でいえばビースト系か。

 ところがこの一言主大神は中世の能では全く違って女神として描かれる。謡曲『葛城(かづらき)』では、

 

 「不思議やな峨峨(がが)たる山の常陰(とかげ)より、女体(にょたい)の神とおぼしくて、玉の(かんざし)(たま)(かづら)の、なほ懸け添へて(つた)(かづら)の、はひまとはるる小忌(をみ)(ごろも)。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1472). Yamatouta e books. Kindle.

 

と描写されるような、泣増(なきぞう)の面を被った姿で大和(やまと)(まい)を舞う。

 

   「葛城山

 (なほ)みたし花に明行(あけゆく)神の顔」

 

(現代語訳:葛城山

 でも(なほ)見た()花に明けて行く()時の()神の顔)

 

 芭蕉が見たがったのは女神の方の一言主大神であろう。何故顔を隠していたのか、本当に醜かったのか、それとも絶世の美女だけど姿を見せたくない言い訳にそう言ってたのか、確かめてみたくもなる。

 『笈の小文』では長谷寺が出てきた縁で、その次にこの句が配置されたのだろう。そして、一言主が言いつけられた仕事もまた葛城山から吉野山への道を作ることだった。このあと芭蕉と万菊丸は吉野へと山を越えてゆくことになる。その道はきっと一言主の道だったみたいに思わせたかったのかもしれない。

 実際この句がどこで詠まれたかについては、吉野から和歌の浦へ行く三月二十七日の朝という説と、和歌山から奈良へ向かう四月三日頃の朝という説がある。季語はまだ「花」であるから、三月二十七日か、あるいは吉野山から葛城山を見ての句だったのかもしれない。また、『笈の小文』の順番の通り、多武峰の眺めた葛城山だったのかもしれない。

 『笈の小文』の意図としては、多武峰から遠くに眺めた葛城山としておくべきなのだろう。

五、雲雀より

 さて、芭蕉と万菊丸は長谷寺を発ち、遠くに葛城山を見ながら吉野への山道に入る。

 

   「三輪(みわ) 多武(たふの)(みね)

   (ほそ)(たうげ) 多武峯ヨリ龍門ヘ越道也

 雲雀(ひばり)より空にやすらふ峠哉」

 

(現代語訳:三輪 多武峰

   細峠 多武峰より龍門へ越える(すみち)(なり)

 雲雀より空高く(にや)休む(すらふ)()な)

 

 この句はかつて本当の(ほそ)(とうげ)に雲雀がいたのかどうかが問題になったらしい。写生説の立場に立てば、この句は実際に臍峠で雲雀が鳴くのを見て詠んだのでなければならないのに、雲雀は通常平地に棲むもので山の上には雲雀はいないというのだ。増田晴天楼は、この臍峠のあたりにはかつて畑も多く、雲雀がいた可能性はあると言うが、問題は果たして芭蕉の時代にそんな写生説があったかどうかではなかったか。

 この句は『()()()』には、

 

 雲雀より上にやすらふ峠かな

 

とあり、こちらのほうが句意は明瞭だろう。先刻下界で空高く鳴いていたあの雲雀たちよりはるか上で安らいでいるようだ、というのが句の意味であり、どこにも峠で雲雀を見たなどとは書いていない。芭蕉は臍峠であたかも自分が雲雀になったかのように感じたと見た方が良い。

 貝原益軒の『和州(わしゅう)巡覧記(じゅんらんき)』によると、ほそとうげ(細峠)は、

 

 「龍門の茶屋より一里、上下共に険しき坂なり。是より南山を顧み望めば、岩山重畳して幾重幾里と云事を知らず。諸山皆高し。就中、大峯、釈迦ガ岳、尤高し。‥‥此嶺より吉野山は坤の方に見ゆ。花の時は山白く見ゆる。」

 

とある。芭蕉と万菊丸もこの峠を越えたとき、目の前に一気に吉野の山々の花に白くなった眺望を目にし、こんな高いところまで来てしまったと感じたのだろう。そして、しばしこれから行く吉野の遠望に見とれ、あれがなるほど花の雲かとでも思ったのではなかったか。その天にも昇る気持ちが、「雲雀より空にやすらふ」の心境だったにちがいない。

 古俳諧にあって大事なのは描写ではなく、対象の「心」に共鳴することだった。それゆえ、目の前に雲雀がいたかどうかは問題ではない。自ら雲雀の心がわかったとき、それが雲雀という季題の本意本(ほいほん)(じょう)となる。近代写生説の立場からすればそれは「嘘」をついたことになるのかもしれないが、芭蕉の時代には基本的にそのような考え方はない。大事なのは形ではなく心だった。目には見えなくても心が雲雀なら、それこそが風雅の誠だ。

六、龍門

 (ほそ)峠を越えると川は吉野川の方へと流れる。龍門の瀧もそんな中にある。龍門にはかつて龍門寺があり、修験の地で、若い頃の弘法大師もその弟子の泰金剛もここで修行した。修験道というのは日本の土着の呪術信仰を土台にしながらも、道教や初期の仏教の影響を受けて形成されたものであり、穀物を口にしないという穀断ちの修行も本来は道教から来た仙人になるための修行だった。山で修行する修験者を山人と呼ぶのも偶然ではあるまい。山人は人偏に山と書くと「仙」という字になるように、その意味では修験の寺が仙人の修行する寺であっても何ら不思議はなかった。龍門は今日ではむしろ久米仙人が修行した地として観光地になっている。

 久米仙人というと『今昔物語』にある、女の足に目がくらんで神通力を失い落下した話ばかりが知られているが、古歌を見る分には龍門はあくまで今はなき龍門寺のあとにかつての仙人の修行の地を偲ぶものとして描かれている。

 

   龍門寺にまうでて仙室にかきつけ侍りける

 あしたづに乗りてかよへる宿なれば

    跡だに人は見えぬなりかり

               能因法師

   おなじ瀧門の心をよめる

 山人のむかしの跡をきて見れば

    むなしきゆかをはらふ谷風

                藤原清輔

 

 「あしたづに乗りて」も「山人」も仙人のことだろう。

 芭蕉はこの深山の瀧に画題としてよく描かれる「李白廬山観瀑図(りはくろざんかんばくず)」を思い起こしたのだろう。巨岩の上を二段になって流れ落ちるこの瀧を肴に、お小姓(万菊丸)を連れての酒は、まさに李白の世界だ。

 

   望廬山瀑布

              李白

 日照香爐生紫煙

 逢看瀑布挂前川

 飛流直下三千尺

 疑是銀河落九天

 

 日は香炉(こうろ)(ほう)を照らして紫の煙がたなびく。

 はるかに瀧が川に掛かるのを見る。

 飛び散る流れはまっさかさまに三千尺はあろうか。

 これはひょっとして天の川が宇宙の果てから落ちる。

 

 後半はいかにも「白髪三千丈」の李白らしい大げさな表現だ。

 瀧に桜の花が咲いていれば、李白の次の詩も思い浮かぶ。

 

 両人対酌山花開

 一杯一杯復一杯

 我酔欲眠卿且去

 明朝有意抱琴来

 

 二人向かい合って酒を酌めば山の花も開き、

 一杯一杯また一杯。
 酔って眠りたくなったので君は帰ってくれ。

 明日の朝気が向いたら琴を抱いて来きなさい。

 

 もっとも、芭蕉は李白のような大酒飲みではなかったようで、せっかくの瀧も結局他の酒飲みに勧めるだけなのは残念だ。

 

   「瀧門

 龍門の花や上戸の土産(つと)にせん

 酒のみに語らんかかる瀧の花」

 

(現代語訳:龍門

 龍門の花()上戸の土産にしよう(せん)

 酒のみに話して(らん)やろう(かかる)滝の花)

 

 其角や嵐雪がいたらさぞ喜んだことだろう。そういえば越人も大酒飲みだ。それとも李白に語りかけているのだろうか。いずれにせよ、ここは去来の「岩鼻や」の句ではないが、自称の句として酒を飲んで欲しかった。これも「二日にもぬかりはせじな」の心なのだろうか。

 せっかくの李白の瀧も今ひとつ盛り上がりを欠いたまま、この日芭蕉と万菊丸は平尾で一泊する。『阿羅野』には平尾を誤って草尾と書いているが、

 

   大和国草尾村にて

 花の(かげ)(うたひ)に似たる旅ねかな  芭蕉

 

の句を詠んでいる。この謡とは謡曲『忠度(ただのり)』のことらしい。

 

 行き暮れて木の下蔭を宿とせば

花や今宵のあるじならまし

           (たいらの)忠度(ただのり)(平家物語)

 

の歌を元にした物語で、(うたい)(まち)(うたい)

 

 「袖を(かた)()く草枕、袖を片敷く草枕、夢路もさぞな()る月の、跡見えぬ磯山の(よる)の花に旅寝して、心も共に更け行くや、嵐はげしき気色(けしき)かな、嵐はげしき気色かな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.817). Yamatouta e books. Kindle.

 

だろうか。

 吉野というと平尾とはやや方角が違うが、謡曲『二人静(ふたりしずか)』で知られる菜摘川の里もある。

 

「所は()吉野(よしの)の、花に宿(やど)かる下臥(したぶし)も、のどかならざる()(あらし)に、寝もせぬ夢と花も散り、まことに一栄一落まのあたりなる・浮世とて又この山を落ちて行く。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (p.1269). Yamatouta e books. Kindle.

 

というクセを謡い上げたあと、芭蕉と万菊の二人静の舞を思い浮かべてもいいかもしれない。

 なお、この句は『笈の小文』にはない。

七、西河

 「西河」は「にじつこう」と読む。「つ」は「天つ風」「国つ神」のように上代「の」と同様に使われてきた言葉で、「にじつこう」は「西の河」ということになる。河を「こう」と読むのは、中国や韓国で川に「江」という字が当てられるところから来たものだろう。当時としてはエキゾチックな響きのする地名ではなかったか。

 吉野は古くから水銀の産地で、水銀は不老不死の仙薬、金丹の材料とされている。人麿も吉野を「常世」と呼び、永遠の命を持つ神仙たちの住む世界になぞらえていた。

 実際、前漢の末(三世紀)には水銀を含んだ朱砂から水銀を抽出して黄金アマルガムを造り、これに熱を加えて水銀を飛ばし純金を得る技術が開発されていたという。この技術は金メッキに応用された。この錬金術のイメージは、『古事記』の国生み神話の「国稚(くにわか)く浮きし(あぶら)の如くして、海月(くらげ)なす漂へる時、(あし)(かび)の如く萌え(あが)る物より成れる神の名は」にも現れている。ただ、これは水銀に溶けた金を抽出する技術であって、金そのものを他の物質から作る技術ではない。

 今日では水銀に中性子をぶつけると金ができることが知られている。ひょっとしたら古代のどこかの国で放射性の鉱石と水銀を一緒に置いておいたら、偶然ごく少量の金ができたことがあったのかもしれない。しかし、古代人にはなぜそうなるのかがわからなかったため、どうすれば再現できるのか苦労しているうちに、金メッキを発見したのかもしれない。

 このかつての錬金術の地で、芭蕉もまた見事な言葉の錬金術を見せてくれた。

 

   「西河

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音」

 

(現代語訳:西河

 ほろほろと山吹()散るよ(るか)滝の音)

 

 「山吹ちるか」の「か」は「かな」と同様の詠嘆で、疑問の「か」ではない。荷兮の「木枯らしに二日の月の吹散るか」の「か」と同じだ。末尾の「瀧の音」は倒置で、句の意味は「瀧の音にほろほろと山吹散るかな」となる。

 瀧といっても華厳の滝や那智の瀧のような垂直に落ちる瀧ではない。岩の間を滑り落ちるような急流のことも古来「瀧」という。「ほろほろ」はその急流の音とも取れるし、山吹の散る音とも取れる。この曖昧な二重の擬音の使い方が、瀧のイメージと山吹の散るイメージを渾然と一つのものにしてゆく。流れる瀧の水と散ってゆく山吹の黄金色の花びら。この二つがあわさったとき、山吹の花びらは瀧となって滑るように流れ落ち、そこに黄金の水の幻想が生じる。

 黄金は錆びないところから永遠の命の象徴とされており、道教では黄金の骨と玉の肉体を手にいれることで不老不死を得られるとされているし、そのための仙薬を金丹と呼んだ。「玉体」という言葉はそこから来ているし、金丹は正月に食べる「きんとん」の由来でもある。

 「西河」というこの地名は、仏教徒としては西方浄土への入り口の河、三途の川の連想をも誘う。不老不死の神仙郷はあくまで古代の道教のものであり、芭蕉にとっては現世的な不老不死は眉唾もので、あくまで死んだ後に西方浄土で永遠の命を得るというほうが信じられたであろう。

 西河に出現した山吹の散り込む黄金の瀧は、芭蕉にとってはむしろ西方浄土の入り口だった。そのこの世のものとも思えぬ美しさにしばし魅せられ、死は決して恐れるほどのものではないんだ、死の後も美しい世界が待っているんだ、と言い聞かせたのだろうか。いずれにせよ、それは一瞬の幻だろう。

 なお、『笈の小文』ではこの句には詞書はなく、単に西河とあるだけだが、『芭蕉翁遺芳』『芭蕉全図譜』などに、真蹟画賛があり、そこにはこういう詞書がある。

 

 「きしの山吹とよみけむよしのの川かみこそ、みなやまぶきなれ。しかも一重に咲こぼれて、あはれにみえ侍るぞ、さくらにもをさをさをとるまじや。

 

 ほろほろと山吹ちるかたきのおと      ばせを」

 

この「きしの山吹」と詠んだ歌は『古今集』にある紀貫之の、

 

   吉野川の辺に山吹のさけりけるをよめる

 吉野川岸の山吹吹く風に

    そこの影さへうつろひにけり

 

 

の歌を指す。

八、蜻螟(せいめい)が瀧

 『笈の小文』には未完成だといわれている。その一つの根拠が、この蜻螟が瀧の部分で、ここには、

 

    「蜻螟(せいめい)が滝

布留(ふる)の滝は布留の宮より二十五丁山の奥也。

 津国幾田(いくた)の川上に有 大和

   布引(ぬのびき)の滝 箕面(みのお)の滝

   勝尾寺(かちをでら)へ越る道に有。」

 

(現代語訳:蜻螟(せいめい)が滝

布留の滝は布留の宮より二百五十メートル(二十五丁)山の奥()ある()

 摂津(つこく)幾田の川上にあ() 大和

   布引の滝 箕面の滝
   勝尾寺へ(こゆ)る道にあ()。)

 

と場所の説明があるだけで句がない。この後に和歌の浦の後でも、単に「きみ井寺」とだけあった、文章も句もない場所がある。その他にも地名と句だけしか書かれていない箇所があまりにも多い。いくら「黄哥蘇(こうき)(そしん)のたぐひにあらずば云ふ事なかれ」といっても、あまりにもそっけなさすぎて、紀行文の体をなしていない。単なるメモと思われる。

 『野ざらし紀行』の場合、元来絵巻物として書かれたもので、文章がなくてもイラストが入るからいいとして、『笈の小文』の場合絵巻物として企画されたわけではなく、紀行文として意図されたものだから、もう少し文章があってもよかったはずだ。

 それに加えて、『笈の小文』全体から見ても、全体に一体性がなくテーマがどこにあるのかはっきりしない。最初の部分は初時雨に旅立ち、故郷伊賀に帰る話しだし、その後は伊勢に遊びに行く部分があり、その後この万菊丸とともに吉野の桜を見に行く部分があり、最後は明石に行ったところでぶつっと切れている。

 「されども其所々の風景心に残り、山舘・野亭のくるしきも(うれひ)も、(かつ)ははなしの種となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所々跡や先やと書集め侍るぞ。」

というコンセプトからしても、地名とその位置だけを記したこの文章は何か変で、これが本文とは思えない。どう見てもこれはメモ書きであって、このメモを元に何か文章を書こうとしていたとしか思えない。

 蜻螟が瀧でも他の二つの瀧でも、ここで詠まれた句は今日残っていないし、後に出てくる()三井寺(みいでら)での句も記されていない。(「見あぐれば桜しもうて紀三井寺」の句は芭蕉の作とされているが、さだかでない。)ただ、『奥の細道』で、曾良の『俳諧書留』や旅の途中での真跡懐紙などにない句がいくつも出てくるところから、芭蕉の紀行文の中では、後から句を作ることも珍しいことではない。

九、桜三句

 吉野の千本桜に行かなくても、その途中の道すがら至る所で桜は一斉に咲き始める。次の三句はその吉野への道の途中での吟だ。

 

   「桜

 桜がりきどくや日々に五里六里

 日は花に暮てさびしやあすならう

 扇にて酒くむかげやちる桜」

 

(現代語訳:桜

 桜狩り奇特にも()日々に五里六里

 (ひは)()()()暮れれば()淋し()あすなろう

 (あふ)汲む(ぎに)()()()散る(くむ)(かげ)()()(さく)()

 

 まず最初の、

 

 櫻がりきどくや日々に五里六里  芭蕉

 

の句だが、「狩る」というのはかつて何かを求めて山野に分け入ることを言い表したもので、今日でも「紅葉狩り」という言葉は残っている。芭蕉と万菊丸は吉野の花の散る前に間に合うようにと、道を急いでいたのだろう。

 「日々に五里六里」というのは語呂がいいからで実際には芭蕉と万菊丸は一日七里八里を旅していたようだ。もっとも、どの程度歩いてどの程度馬に乗っていたかは定かでない。この句には『芭蕉翁真跡拾遺』に初案と思われる、

 

 六里七里日ごとに替る花見哉   芭蕉

 

という句がある。実際に一日何里旅したかはそれほど問題ではなかったのだろう。

 おそらく実際の旅は三月十九日に伊賀上野を出て、その日は長谷寺に泊り、翌二十日には吉野に到着し、何らかの事情でやや引き返すように平尾に泊ったのではないかと思われる。吉野は花の名所で訪れる人も多いから、道中も人が多く、馬や駕籠もあったと思われる。

 わざわざ花だけのために毎日二十キロも三十キロも旅するのは、何て奇特なことなのだろう。芭蕉のこの句はやや自嘲的だ。世間から見ればもっと大事なことがあるだろうに、と言いたいところだろう。

 むしろここは逆で、世間から見れば愚かのように見えても、人生の本当に大切なものはそういうことではないのかという、そういう問題提起の句ではなかったか。

 幸せというのは何も特別なことではない。必ずしも何かを手に入れるとか、誰かがそこにいるとか、何をやったとか、何を成し遂げたということとも関係なく、その瞬間は突然やってくる。それはただ単に今生きているというそのことを感じた瞬間なのかもしれない。

 たとえ欲しかったものを手に入れたとしても、次の瞬間にはそれを維持したり、もっと上のものを手に入れたくなって再び走り出してしまえば、喜びは遠のいて再び悪戦苦闘の日々が始まる。こうして、人は何か目標を立て、一つの目標を達成したら又次の目標を立て、絶えず明日はあれをしよう、あれをしなくてはと、休むことなく走り続ける。しかし、実は幸せというのは足を止めた瞬間ではないか。

 春になれば毎年桜は咲くのに、人は仕事に追われ、なかなか眺める暇もなく、休んで花見に行ったところで、花見の場所取りや準備があり、席を盛り上げようと周りを気遣い、何か余興でもやらなくてはと、サービスサービスであっという間に時は過ぎ去り、気付いたらすっかり酔っ払っている。こうして花の下にいても花を見ることなく、ひたすら次のことを心配し続けて、こうして短い人生の短い時間はあっという間に流れ去ってゆく。

 

 日は花に暮てさびしやあすならう  芭蕉

 

 立ち止まって、今生きている、たくさんの命に囲まれながら、この瞬間が本当にかけがえのないものだとわかっていながらも、人は明日も生き続けなくてはならない。又生活が始まる。夜空一面ちりばめていた星たちが朝の光に消えてゆくように、電気のない時代の花見は日暮れとともに暗がりに消えてゆき、お開きとなる。明日がある。明日がある。そして、人はまた明日に追い立てられ、はてない旅路に着くのだろう。

 この句は後に改作されて支考編の『笈日記』に次の長い前書きとともに収録されている。

 

   明日は檜の木とかや、谷の老木のいへる事あり。

   きのふは夢と過て、あすはいまだ来らず。ただ生

   前一樽のたのしみの外に、あすはあすはといひくら

   して、終に賢者のそしりをうけぬ

 さびしさや華のあたりのあすならふ  ばせを

 

 大切なのは今この時なのに、結局人は生活の重さに打ちひしがれながら、明日へ、明日へと先延ばししてゆく。吉野の千本桜も、いつか行こう、いつか行こうと言っているようでは、結局一生行きそびれてしまうだろう。今の大切さを考えるなら、「きどく」は単なる自嘲ではない。

 

 扇にて酒くむかげやちる桜     芭蕉

 

 この句は倒置で、「酒汲むかげに散る桜は扇にて(花びらが入らないようにする)」という意味だ。しばし、旅の疲れを忘れて酌み交わす酒に酔いしれながら、この世の春を満喫するにも、桜は既に散り始めている。静かに酒を飲む時に、杯に落ちてくる桜を扇で振り払えば、桜の花びらが華麗に舞う。

 この句は大和国平尾村での、

 

 花の陰謡に似たる旅ねかな

 

と同じ日に作られた句で、扇は謡を舞うためにも用意されていたのだろう。花の下で舞うというと『忠度(ただのり)』よりはやはり男二人の『二人静(ふたりしずか)』か。

 幸せなひと時も長く続くことはなく、すぐに花は散ってゆく。だからこそ、その一瞬が本当に大切なのだろう。

十、吉野

 実際は吉野に着いてすぐに花見をしたと思われるが、そこは話を盛り上げるために、あえて平尾から西河を先に持って来て、わざと読者をじらしたのではないかと思う。本当にすぐ桜を見なかったのなら、それこそ「あすなろう」だ。

 ここでも先に西行庵のとくとくの泉を持ってくる。

 

   「(こけ)清水(しみず)

 春雨の木下(こした)につたふ清水哉」

 

(現代語訳:苔清水

 春雨が()()()()伝う()よう()()清水()な)

 

 西行ゆかりのとくとくの清水というと、貞享元(一六八四)年の秋に『野ざらし紀行』の旅で訪れ、

 

 露とくとく心みに浮世すすがばや  芭蕉

 

の句を詠んでいる。あの時は秋だったが今は春。とくとくの清水は、春の雨のようにか細く、あたかも春雨の露が木の下を伝わって流れ出しているようだ。別に春に降った雨が清水となって流れ出しているなどという科学の話をしているわけでもないだろうけど、実際に見た目の水量は違っていたのだろう。

 ここには「浮世すすがばや」のような主観的な表現はなく、あくまで「春雨」という言葉のイメージの中に隠されている。それが、この頃の芭蕉の風体なのだろう。

 さて、一応心が洗われたところで、いよいよ花見と行こう。

 

 「吉野の花に三日とどまりて、(あけぼの)黄昏(たそがれ)のけしきにむかひ、有明(ありあけ)の月の哀れなるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政公のながめにうばはれ、西行の枝折(しをり)に迷ひ、かの貞室(ていしつ)(これ)は是はと(うち)なぐりたるに、我いはん言葉もなくて、いたづらに口を閉ぢたるいと口をし。思ひ(たち)たる風流いかめしく侍れども、(ここ)に至りて無興(ぶきょう)の事なり。」

 

(現代語訳:吉野の花に三日滞在(とどま)して(りて)、曙、黄昏の景色に向かい、有明の月の哀れな情景(るさま)など心に迫り胸がい()っぱいに(みち)なり()ある()()藤原(せっし)()()公の「ながめ(なが)暮す()」に共感(うばは)()、西行の「枝折」に()()迷い()、かの貞室が「これはこれは」と放り投げた(うちなぐり)景色(たる)自分()()付け加える(いはん)言葉もなくて、どうしようも(いたづら)なく()口を閉じ()のも()()とも(とく)悔しい(ちをし)意気込んで(おもひたち)いた(たる)俳諧(ふうりう)()()思い(めし)()()裏腹(べれ)()、ここに(いたり)白けさせて(ぶきょう)しまった(なり)。)

 

吉野の花見の日程は三月十九日の出発と三月中の和歌の浦到着から大雑把に計算すると、三月二十日に長谷寺を出て吉野到着で平尾一泊、翌二十一日花見、翌二十二日花見、二十三日に花見で「三日とどまりて」になる。二十四日に吉野を出て高野山の麓に一泊、距離的には一日で行けたと思う。二十五日に高野山に登り、二十六日に高野山を降りて和歌山着。二十七日に和歌の浦と紀三井寺を回る。これが最短の日程になる。途中雨などあって泊数が増えても、二十九日までに和歌の浦に行くことができる。

 貞享五年の旧暦三月二十一日というと新暦では四月二十一日で、今日の感覚からすると異様に遅い感じがする。ちなみに吉野町のホームページによると二〇二三年の桜の満開は下千本で三月二十九日、奥千本で四月六日だという。昨今の地球温暖化で開花が早くなっているのは確かだし、逆に芭蕉の時代は寒冷期だったため、桜の時期も遅かったと思われる。

芭蕉が桜の時期を外したことを疑う人もいるが、よく考えてみると、伊賀から吉野まで三日しかかかっていない。桜は短くても一週間は持つから、伊賀で桜が咲き始めたなというときに旅立てば、その三日後の吉野の桜には十分に間に合うし、伊賀上野と吉野の標高差を考えれば、伊賀上野で花が散ってからでも十分間に合ってであろう。

 伊賀で花見して、

 

 さまざまの事おもひ出す桜哉

 

の句を詠んでから、行く道すがら花を見て吉野に向かっても十分間に合う。道の途中で詠んだ桜の句がすべて虚構だなんてことはないだろう。

 桜は散る姿も風情があるし、完全に散りうせても、

 

 かぎりさへにたる花なき桜哉    宗祇

 

のような句は詠める。

 つまり、芭蕉は吉野で無事に桜を見ることができたし、この年はたまたま桜の開花が遅かったのだ。二十一日に到着してから二十二日、二十三日と思う存分桜を楽しんで、二十四日の朝に次の目的地高野山を目指して山を降りるまで、それこそ朝日に匂う山桜から夕闇に霞む桜まで、ゆったりとした気分で桜を満喫したはずだ。

 途中、雨の桜もあったかもしれないが、それもまた一興で、雨に濡れると花の色が引き立つし、人が少なくひっそりしているから、

 

 花を見ば人なき雨の(ゆふべ)哉    宗祇

 

の通り、かえってお勧めかもしれない。晴れれば大勢の人が訪れ、

 

 花見にとむれつつ人のくるのみぞ
    あたら桜のとがにはありける
                西行法師

 

のように乱痴気騒ぎするのも、それもまた一興だ。貴賎(きせん)群集(くんじゅ)、身分に関係なく酒を酌み交わし、

 

 (かげ)(きよ)も花見の座には(しち)兵衛(びゃうゑ)   芭蕉

 

のように、たとえ『平家物語』の悪七(あくしち)兵衛(ひょうえ)(かげ)(きよ)が現れたとしても、ただの七兵衛になってしまうような、花の下で身分なく、皆ただの人になるような世界が生まれる。

 夜桜は当時の俳諧ではほとんど詠まれていない。夜にかがり火を焚いて夜桜見物をする横山大観の夜桜図のような世界はいつから広まったのかは知らない。昔は外灯などなかったから、基本的に夜の桜は暗くてよく見えない。強いて言えば、夜桜は匂いいだけの桜だ。

 ただ、満月のときだけは別で、

 

 しばらくは花の上なる月夜かな    芭蕉

 

の句はこの年に詠まれたものだが、二十一日過ぎては月も遅いので、伊賀で詠んだ句だろう。

 夜桜見物が本格的に一般化したのは、おそらく公園に街灯が設置されたり、電球の入った提灯を飾り、電飾ちかちか灯り夜桜が派手に演出されるようになった、高度成長期以降だろう。それまでの花見は日が暮れたらお開きだった。

 芭蕉はおそらくありとあらゆる桜の風情を満喫できただろう。

摂政(せっしょう)公は()京極(きょうごく)摂政(せっしょう)藤原(ふじわら)(よし)(つね)のことと思われるが、桜の歌はたくさんある。

 

 昔たれかかかる桜のたねをうゑて

    吉野を春の山となしけむ

            藤原良経

の歌は『新勅撰集』にも取られているが、「ながめ」とあるからには、

 

ながめくらす宿の桜の花ざかり

庭の木陰に旅寝をぞする

       藤原良経

 

の方か。

 西行法師の枝折は、

 

 吉野山こぞの枝折(しをり)の道かへて

    まだ見ぬ方の花を尋ねむ

 

の歌であろう。これに安原(やすはら)貞室(ていしつ)の、

 

 これはこれはとばかり花の吉野山

 

の句に至っては、もうこれ以上の言葉はなかった。言いようがないほど見事な桜は、「これはこれは」と打ちなぐる以外にすべはない。

 もっとも、芭蕉はその見事な景色に挑戦しなかったわけではない。

 

 花盛り山は日ごろの朝ぼらけ   芭蕉

 

 吉野の山は花盛りだが、周りの山はいつもの通りの朝ぼらけ、これは確かに一巻の目玉にするような句ではなかった。

 実際は、先に掲げた桜三句が吉野での句ではなかったかと思われる。また、

 

 (かげ)(きよ)も花見の座には(しち)兵衛(びゃうゑ)   芭蕉

 

の句もこの時の可能性はある。ただ、吉野の花の句を散々じらした挙句に「できなかった」で自虐的な落ちにして一巻を盛り上げるやり方は、『奥の細道』の松島ともよく似ている。

十一、高野山

 一部に芭蕉の句を密教的に解釈しようと情熱を燃やす人たちがいるようで、それはそれで暗号謎解きの面白さがあっていいのだが、果たして芭蕉はどの程度密教を理解していたかは定かでない。

  たとえば芭蕉が笠に書き付けた「乾坤無住同行二人(けんこんむじゅうどうぎゃうににん)」の文字だが、これは本来お遍路さんが笠に書く文句で、高野山に入定(にゅうじょう)し、即身仏になった弘法大師が、いわゆるミイラとして祭られる即身仏ではなく、生きながら魂が仏になるという意味で仏となり全知全能の力をもって常に信者のそばにいて見守っているという意味だった。

 「同行二人」というのはたとえ一人で旅をしていても弘法さんが一緒だという意味なのだが、芭蕉はあくまで芭蕉と万菊丸の二人で同行二人として用いている。しかも、この文言は『奥の細道』で曾良と二人で旅をするときにも用いている。このときは、途中で曾良が病気になり、医者に掛かるために一人先に帰るとき、「今日よりは書付(かきつけ)消さん笠の露」の句を詠んでいる。あくまで芭蕉と曾良の二人という意味だから、一人になったら「同行二人」の書付を消す。そこには一人でも弘法さんが一緒だという意識は微塵にも見られない。

  芭蕉は日光や山寺や出羽三山など、修験の聖地を訪れてはいるが、それと同じくらい他の宗派の神社仏閣を訪れているし、そのことからしても、特定の宗派に偏っていたとは言いがたい。

 この『笈の小文』でも、真言密教の総本山である高野山を訪れながらも、ただ高野山という前書きと二句の発句を並べるのみで何ともそっけない。

 

   「高野山

 ちちははのしきりにこひし(きじ)の声

 ちる花にたぶさはづかし奥の院   万菊」

 

(現代語訳:高野山

 父母()いつ()まで()()恋しがる(にこ)()()雉の声

 散る花に(たぶさ)()恥ずかしい(づかし)奥の院 万菊)

 

 一方でこの旅の時に書かれたと思われる『高野詣』という俳文が存在する。

 

 「荒野のおくにのぼれば、霊場さかんにして(のり)(ともしび)(きゆ)る時なく、坊舎(ばうしゃ)地をしめて仏閣(いらか)をならべ、一印(いちいん)(とん)(じゃう)の春の花は、寂莫(じゃくまく)の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の(なく)にも(はらわた)を破るばかりにて、御廟(ごべう)を心しづかにをがみ、骨堂(こつだう)のあたりに(たたずみ)て、倩々(つらつら)おもふやうあり。(この)処はおほくの人のかたみの(あつま)れる所にして、わが先祖の(びん)(ぱつ)をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨(はくこつ)も、(この)内にこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そぞろにこぼるる涙をとどめて、

 父母のしきりに恋し(きじ)の声」

 

 この俳文が最初にあったため、それを使いまわすわけにもいかず、新たに書く必要があったために、ここの部分は保留したまま未完になったのだろう。

 高野山は芭蕉の先祖の形見の(びん)(ぱつ)や骨を収めている所でもあり、俳文はそのことをメインに書かれているが、『笈の小文』では、そうした家の事情から切り離す必要があったのだろう。

 

  ちちははのしきりにこひし雉の声  芭蕉

 

  芭蕉の句は『玉葉集』にある行基(ぎょうき)菩薩(ぼさつ)の、

 

 山鳥のほろほろとなく声きけば

    父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

 

の歌をふまえたものだが、行基は天平時代に活躍した僧ではあるものの、密教にも高野山にも直接関係しているわけではない。それに、出家して家を捨てたものの、山鳥の声に父母が恋しいという内容は、人間としての真情ではあるものの、あまり宗教的ではない。やはり個人的な先祖への感情を詠んだものだった。

 万菊丸の句も、(たぶさ)というのは「もとどり」のことで、花が散り世の無常を感じさせる高野山の奥の院にいるというのに、出家せず髻を結っている自分が恥ずかしい、というもので、発心できない者の心境の句になる。

  行基菩薩は百済(ぺくじぇ)系の渡来人である土師(はじ)氏の家系にあるといわれ、天智天皇七(六六八)年に河内国の(はち)田里(だのさと)で生まれている。

 渡来人といっても、当時はまだ民族も国家もまだ萌芽の段階にある時代で、大和朝廷に実際に権力が及ぶ範囲は機内を中心とした地域で、東北はまだ蝦夷(えぞ)の領土だったし、朝鮮半島は百済(ぺくじぇ)新羅(しるら)高句(こぐ)(りょう)などに分かれ、まだ統一されていたわけではなく、職人・芸能などの集団は国境と関係なく行き来していた。だから、渡来人といっても、もとから日本にいた縄文系や弥生系の人々と共に、後に「日本人」を形成して行く一つに過ぎなかったといっていいだろう。

 この時代の渡来人はむしろボーダレスな技術者集団で、大陸の高度な技術と道教などの大陸文化を日本に伝えていた。この道教は、土着の山岳信仰と結びついて、修験道を形成するもととなった。

 行基は十五歳のときに出家し、ヨガや唯識論を学び、その後機内各地に精力的に仏法を広め、寺社を建立している。四十から四十三歳のときに生駒山の仙房に籠って母の介護をしていたから、母親思いだったのは確かで、「山鳥の」の歌も、そうした母親思いなところが反映されて生じた伝承歌なのだろう。「仙房」という言葉でもわかるように、行基の仏教は道教や山岳信仰とも融合したもので、大勢の信者を従えた行基は、朝廷からは危険視されていたようだ。

 しかし、その行基にも転機が訪れた。養老七(七二三)年、班田収授法の行き詰まりから、新たに開墾した田は三代まで所有できるとする「三世一身法」が発布された。それを機に、行基は治水、架橋、港の整備などの土木事業に手腕を振るうこととなる。それまでの班田収授法には致命的な欠陥があった。それは、人口が増加すれば水田が不足し、水田を配分できなくなる人が生じる、という問題だった。

 人口が増加すれば、それだけ多くの田を新たに作らなくてはならない。それができなければ、田をもらえない人が巷にあふれ、飢餓の問題を引き起こす。この問題は、役人が徴用して新たな田を開墾しようにも、役人には十分な技術もないし、強制労働では使役される人間の労働意欲も高まらない。そこで、民間の活力を導入するといったところだったのだろう。三代に渡る土地の私有を認めるという褒賞を与えることで、水田開発を加速させようというものだった。

 行基は多くの信者を有し、特に渡来系の技術者集団に広い人脈を持っていたことを生かし、多くの事業を成し遂げた。その功績が認められ、やがては大仏建立事業にも関わる所となった。

 行基は人々から数々の奇跡を成し遂げた人として「行基菩薩」と呼ばれるようになったが、それはいかがわしい呪術によるものではなく、科学技術の力で穀物の増産を成し遂げ、現実に人々を飢餓から救ったからだ。そして、土着の修験道とも結びついた日本的な仏教のスタイルを生み出すことで、後の密教の基を作ったともいえる。その意味では、高野山とも空海ともまったく関係がないわけではない。

 日本の真言密教は七~八世紀の中期のインド密教の影響は受けているものの、修験道や道教の基盤の上で受容されたもので、日本独自の性格を持っている。開祖の弘法大師も三十まではあちこちの山で修験道の修行をし、その後遣唐使船に乗り込んで、中国で密教を学び、修験道を密教の体系で再編したもので、最後は自ら即身成仏することで、弘法大師自身が信仰の対象となった。

 修験道の基礎は贖罪ということにあった。人に限らず生きるというのは何か他の命を殺して食べることによって成り立っているし、田畑を作れば、その分自然が破壊され、野生生物の住処が奪われる。

 有限な大地で有限な大地の恵みのもとに人口が増えてゆけば、いつかは人間同士限られた資源を奪い合わなくてはならなくなる。畑を広げすぎれば洪水が起きるし、畑を増やさなければ限られた畑を奪い合って戦争になる。そうした逃れられない運命の中から、人は己の罪深さを自覚していった。飢饉や戦争は人間の罪深さが原因なのだが、だからといって人はやはり生きなければならない。どんなきれいごとを言っても、人生は基本的に生存競争で、どんな善行も必ず誰かに傷がつく。

 宗教と言うのは、基本的には人間の原罪を自覚し、何らかの形で生への欲求を限界付け、死を受け入れるためのものだ。生そのものを否定するのは間違いだが、生を無条件に全面的に肯定する考え方も、いかに魅力的に見えても、基本的には邪教といって良いだろう。

 修験道の難行苦行もまた、基本的には衆生の罪をあがなうためのもので、おそらくはまだ人頭祭が行われ、人間が生贄に捧げられていた時代に、それの身代わりを勤めるところから発生したのだろう。首狩の儀式を行う代わりに、生贄に成り代わって難行苦行を行うことで代用しようというもので、こうした修行は一方では道教の仙人になり永遠の生命を得るための修行とも結びついていった。

 修験道は錬金術と結びつき、水銀を材料に金丹を作ろうと試みていたし、穀物を口にしないで木の実だけで暮らすという穀断ちも、本来は仙人の修行だった。一方で死を以て罪を償うという名目があり、一方ではそれによって死を克服するという両面があった。

 仙人の不老不死への情熱は、やがて冷酷な現実によって打ち砕かれてゆく。代わって現れたのは、即身仏や補陀落(ふだらく)渡海(とかい)などの生きながらに仏になるという思想で、それをちょうど磔になったキリストのように最も象徴的な形で成し遂げたのが弘法大師だった。弘法大師の霊は高野山入定(にゅうじょう)のあとも生き続けると信じられ、お遍路さんの笠に書かれた「乾坤無住同行二人」の文字も、たとえ一人であっても弘法大師がいつでも一緒に旅をしていると言う意味だった。

 密教の修験者は基本的には即身成仏を目指す者ではあっても、決してそれは強要されるような種のものではなく、あくまで修行の完成によって成し遂げられるもので、修行が完成しなければ、その期日はどこまでも先送りできる。つまり、生涯修行が完成しなければしなくてもいいもので、むしろ本当に即身成仏する人は極めて限られた小数の者だった。それでも、世間の信頼を得るには十分だった。そして、多くの人は素朴にこうした修行者の手助けをすれば、その縁で一緒に成仏できるものと信じられていた。それが、この宗教が広く日本中に広まった要因だろう。

 密教といっても八十年代にブームになったチベット密教はこれとはかなり性格が異なる。チベット密教は後期インド密教の影響が強く、性的ヨーガや呪殺などを伴う呪術的性格が強く、それが近代科学を否定したがる人たちに受けたのだろう。ただ、呪殺といっても、本来のチベット密教では呪術師同士の力比べ(実態はおそらく荒行をどちらかが死ぬまで張り合うチキンレースのようなものだろう)で、名もなき衆生を無差別に殺すようなことはしなかった。ポアというのは誤った導師を成仏に導くもので、衆生に対し、まして薬物を使うようなインチキをして行うものではない。

 密教ブームの根底にあったのは、科学文明や物質文明への不安で、確かに人類は地球を何十回と破壊できるだけの核兵器を作ってしまったし、地球生態系の危機は至る所で深刻化している。だからといって文明を捨てて自然に帰れというのは正しい解決法とはいえない。それは単なるノスタルジーの甘い夢であって、現実にそれをやったらとんでもないことになる。

 今の地球の八十億の人口は、高度な科学技術による高い生産性によってかろうじて支えられているものであって、これをもしすべて原始農法に戻せというのであれば、七十億人は餓死するだろう。まして、農耕を否定して狩猟生活に戻れというのであれば、地球上のすべての動物はあっという間に狩りつくされてしまうだろう。

 文明を否定するということは、どんなきれいな言葉で飾られようとも、基本的にはハルマゲドンの思想だ。問題が深刻であればあるほど、現実的な解決を考えなくてはならない。

十二、和歌の浦

   「和歌

 (ゆく)春にわかの浦にて追付(おひつき)たり」

   きみ井寺」

 

(現代語訳:和歌

 行く春に和歌の浦(にて)追いついた()

   紀三井寺)

 

 三月二十六日に高野山で既に桜の散るさなかだった芭蕉は、更に足を伸ばし、二十七日には和歌山の和歌の浦にやってきた。

 和歌の浦は神亀元(七二四)年の聖武天皇の(みことのり)に「(わか)浜の名を改め、明光(あかの)(うら)となす。」とあるが、実際はその中を取ったような和歌の浦の名が定着した。瀟湘(しょうしょう)八景(はっけい)が中国で画題として定着したように、洞庭湖の南の入り組んだ入り江と山、穏やかな水辺の景色を一つの美の典型としていた。

 それに習ってか、和歌の浦は大宝元(七〇一)年の持統天皇、神亀元(七二四)年と天平神護元(七六五)年の聖武天皇の三回の御幸(みゆき)の地となった。神亀元年の御幸の時には山部赤人も同行し、今日でも有名な『万葉集』巻六、九一九の、

 

 和歌の浦に潮満ち来れば潟を()

    葦邊(あしべ)をさして(たづ)鳴き渡る

             山部赤人

 

の歌を詠んでいる。(この年は三世一身法が発布された翌年で、行基がまさに土木事業で国を再建しようとしていたときだった。)

 吉野が日本の泰山なら、和歌の浦は日本の「湘南」とでも言うべきなのだろう。長く伸びた砂州、入り組んだ入り江、岩上の松、干潟の葦、たたずむ鶴、これらは後の日本三景(松島・安芸の宮島・天橋立)の美の原型になった。

 この古代より賛美されてきた景観の前に、松島・象潟のような芭蕉の名文がないのは残念だ。句のほうも、

 

 (ゆく)春にわかの浦にて追付(おひつき)たり

 

は、

 

 和歌の浦の波の埋れ木幾代経て

   君がめぐみの春を知るらむ

             藤原家(ふじわらのいえ)(たか)

   建長二年詩歌を合わせられ侍りし時、江上春望、

 人問はば見ずとやいはむ玉津島

    かすむ入江の春のあけぼの

             二条(にじょう)(ため)(うじ)

 

などの歌に詠まれた春の霞む和歌の浦にぎりぎりで間に合ったというものだ。

 和歌の浦は中世に入ると和歌の道に結び付けられ、人麻呂・赤人・衣通(そとおり)(ひめ)の三神を祭る、歌人や連歌師にとっては聖地でもあった。その意味では、追いついたのは「行く春」だけではなく、いにしえの和歌連歌の風流に俳諧が追いついたという含みもあったのかもしれない。

 芭蕉の『奥の細道』の句も、大幅に改作されたり、後から作り足されたりした句も少なくない。それに比べると、『笈の小文』はやはり中途で放棄されてしまったのか。もし完成されていたなら、松島・象潟にも劣らぬ和歌の浦の名文が書かれたのかもしれない。しかし、書かれなかったということが、ある意味では和歌の浦のその後の運命だったのかもしれない。和歌の浦は近代に入ると、その景観よりも大阪に近い手ごろな海水浴場として、別の意味での「湘南」になってしまった。安芸の宮島が世界遺産に指定されたのと対称的に、和歌の浦は押し寄せる海水浴客のためにあしべ橋が建設され、江ノ島化してしまったのだ。(この橋をめぐっては裁判にまで発展している。)

 『笈の小文』では、和歌の浦の後に「きみ井寺」とだけ書かれている。これも未完成部分で、本来は文章や句を載せる予定だったのだろう。句のほうは今日では、

 

 見あぐれば桜しまふて紀三井寺  芭蕉

 

の句が知られている。

 吉野や高野山ではまだ花は残っていても、下界の方では既に葉桜になっていたのだろう。季節的には合うから、この句は存疑の部とはいえ、芭蕉の句と見ていいのだろう。見上げても桜は終わりになってしまって何もないが‥‥という所に見下ろせば和歌の浦の景色が広がるいうことを隠しているのだろう。

 さて、桜もおしまいということで、吉野への花見の旅はここで終わる。このあと芭蕉と万菊丸は再び奈良に戻り、もう一つのかつての畿内の西の果て、須磨・明石へと旅を続ける。

第四章、西へ

一、旅の楽しみ

 吉野の花の旅は和歌の浦で終わり、また新たな旅が始まる。時が止まることのないように、人生という旅は土に帰るまで終わらない。

 

 「(きびす)はやぶれて西行にひとしく、天龍(てんりゅう)の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし(ひじり)の事心に浮ぶ。山野(さんや)海浜(かいひん)の美景に造化(ぞうくわ)(こう)を見、あるは無依(むゑ)の道者の跡を慕ひ、風情(ふぜい)の人の(まこと)をうかがふ。

 猶(すみか)をさりて器物のねがひなし。空手(くうしゅ)なれば途中の(うれひ)もなし。寛歩(くわんぽ)()にかへ、晩食(ばんしょく)肉よりも(あま)し。とまるべき道にかぎりなく、(たつ)べき(あした)に時なし。只一日のねがひ二つのみ。こよひ(よき)宿からん、草鞋(わらぢ)のわが足によろしきを(もとめ)んと(ばかり)は、いささかのおもひなり。

 時々気を転じ、日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合(であひ)たる、(よろこび)かぎりなし。日比(ひごろ)は古めかしく、かたくななりと(にく)(すて)たる程の人も、辺土(へんど)の道づれにかたりあひ、はにふ・むぐらのうちにて見出(みいだ)したるなど、(ぐわ)(せき)のうちに玉を拾ひ、泥中(でいちゅう)(こがね)を得たる心地して、物にも書付(かきつけ)、人にもかたらんとおもふぞ、又(これ)旅のひとつなりかし。」

 

(現代語訳:かかと(きびす)()破れて西行みたい(にひとし)()天竜の渡しを思い、馬()乗る(かる)時には粋がった(いきまきし)証空()上人(じり)こと()()心に浮かぶ。(さん)()海辺(かいひん)の美景に自然(ぞうくわ)偉大さ(こう)を見、ある()()()()捨てた(のだう)(しゃ)足跡(あと)を慕い、風情()人の誠を探求(うか)する(がふ)

 さらに(なほす)(みか)捨てれば(さりて)(きぶ)()執着(ねが)()ない。手ぶら(くうしゅ)()盗難(とちゅう)心配(うれひ)もな()歩く(くわ)こと()()駕籠()替えれば(かへ)夕飯(ばんしょ)()肉よりも旨い(あまし)どこ(とま)()行く(べき)()()()まって(かぎり)なく、(たつ)(べき)出発(あした)()時間()()ない(なし)。ただ一日の願い()二つ(たつ)だけ(のみ)今夜(こよ)()いい(よき)宿()()泊まりたい(からん)()()フィット(ぢのわが)する(あしに)草鞋(よろしき)()欲しい(もとめんと)それ(ばか)だけ(りは)少し(いさ)ばかり(さかの)()こと()()

 その(とき)時々(どき)気分()変え(てんじ)毎日(ひび)新た(じゃ)()気持ち(をあら)()いる()。もし一人(わづ)でも(かに)風雅ある人に出会えた(ひた)なら()喜び(よろこ)()限りな()普段(ひご)なら(ろは)臭く(めかし)頑固(かたくな)(なり)(にく)って()避ける(すてたる)ような(ほどの)人も、長旅(へんど)の道づれに語り合い、赤土(はに)()雑草(むぐら)(うち)()出会ったり(てみいだした)すれば(るなど)瓦礫(くわせき)(うち)に玉を拾い、(でい)(ちゅ)()(こがね)見つけた(えたる)気持ち(ここち)()なり()、物にも書き付け、人にも語ろう(らん)と思うのが()、またこれ旅のひとつ()あろう(りかし)。)

 

 かかとは豆ができやすく、長い旅ともなれば豆は何度も破け、肌は角質化し、旅人の足になってゆくのだろう。

 西行法師は、西行の一生を描いたかなり脚色された『西行物語』によると、伊勢から東国に向かう途中の天竜川の渡しで武士の乗る舟に何とか乗せてもらったものの、満員で船が沈みそうだというので、「あの法師、下りよ下りよ」といって鞭で打たれ、頭から血を流して泣く泣く下りたという。西行も武士であった頃はこんなことは言われなかっただろう。あらためて身分を捨てるというのがどういうことか、思い知ったに違いない。芭蕉は七里の渡しで「ねめいかる(ガンを飛ばして凄んでいる)」飛脚を見て、そんなことを思い出したのかもしれない。

 また、『徒然草』第百六段で、高野山の証空(しょうくう)上人(しょうにん)が堀際の細い道を馬に乗って通ろうとしたところ、向こうからやはり馬に乗った仏門にはあるが在俗の女修行者である()()()がやってきて、うまく行き違いができず、上人の乗った馬が堀に落ちてしまった話が載っている。このとき上人はすっかり切れてしまい、()()()の分際で具足(ぐそく)(かい)を受けた正式な僧である比丘(びく)を堀に落とすとは「未曾有の悪行なり」などとののしったのだが、馬引きは僧の階級のことなどまったく分らず、何言ってるのかさっぱり、と言うと、今度は馬引きに向かって「何と言ふぞ、非修(ひしゅ)非学(ひがく)の男」などとののしり始めたが、非修非学な者に「非修非学」などと難しい言葉使っても通じるわけもなく、結局()()()にも馬引きにも逃げられ、上人は堀の中でびしょ濡れのまま取り残されてしまったという。

 身分の高い人が喧嘩をするとこんなことになるという教訓だ。芭蕉はそんなことはしないだろうけど、杖突坂(つえつきざか)では落馬した。

 「山野(さんや)海浜(かいひん)の美景」も見てきた。吉野の花の雲、和歌の浦の春霞、それらは古来風雅の徒に親しまれてきたもので、そこに古人の後を慕った。住むところがなければ必要なものも少なく、持っている物がなければ、奪われることを恐れる必要もない。ただ、良い宿と足に合った草鞋(わらじ)があればそれで良い。もちろん、それは芭蕉に俳諧の才能があるからで、何の才能のない人間がふらふらしていればただの乞食で、飢えや凍死と隣り合わせになる。

 そんな旅の中で最大の喜びは「風雅ある人に出合ひたる」ことだ。もっとも、これもうがった見方をすれば、興行に呼んでくれる気前の良い人に出会うことだと言えるのかもしれない。もちろん、それだけではないだろう。花の咲くのを悦び、花の散るのを悲しむ、そうして生きとし生けるものへの限りなき共感を持つ人と出会い、この世の中がいつか果てない生存競争の地獄から救われることを共に祈り、ひと時は身分を忘れ、日々の争いを忘れ、俳諧風雅の世界で楽しく談笑する、それが一番の喜びと言えるだろう。

 そして、その救われた一瞬のために芭蕉は旅を続ける。人は皆裸で生まれ、過酷な生存競争の中に投げ込まれ、生きるために人を押しのけ、愛する人を守るために人を(あや)め、そしていつかは皆土に帰ってゆく。その中で、時雨の雨宿りのひと時のように、共に風雅を語る相手を探しに、芭蕉は旅を続ける。一回きりの命の本当のすばらしさ、本当の光を胸に。そしてそれを句に書き付け、人々にそれを思い出させるために。

二、衣更え

 貞享五(一六八八)年の春も終わり、四月からは夏になる。かつて春と夏の境界は日付で持って明瞭に区切られていたのだが、新暦になってすっかり曖昧になってしまった感がある。

 一月で一応初春とは言いながらも寒くてこれからが冬本番という感じだし、二月で暖かい日があり、梅の花も咲けば「ようやく春めいてきた」と言い、三月に暖かい日があれば「春のような」と言い、こうして「春みたい」だとか「春のようだ」とか言いながらいつのまに春は過ぎて、四月に二十度を越す日もあれば、もう初夏かということになる。なぜか今が春真っ盛りと言う気分になれぬまま春はいつのまに終わっているものだ。

 衣更えというのも、学校関係では六月一日だが、サラリーマンは一年中夏でもスーツを着ているし、普段着は特に決まりがないので、衣更えというというのも死語に近くなっている。

 衣更えは本来は宮廷の行事で、江戸時代の武士や庶民もそれに倣っていたのだろう。時期としては今日よりはずいぶん早い感じがするが、新暦で言う四月の終わりだと、もうそんなに寒い日が戻ってくることもなく、真夏並みの日もあったりして、本当はこの時期がちょうどよかったのだろう。

 

   「(ころも)(がへ)

 一つぬひで(うしろ)(おひ)ひぬ衣がへ

 吉野出て布子売(ぬのこうり)たし衣がへ  万菊」

 

(現代語訳:衣更え

 一つ脱いで後ろに背負う(おひぬ)衣更え

 吉野出たら()この(ぬの)()売りた()衣更え  万菊)

 

 着ていた着物を一枚脱いで背負って歩けば、それで衣更えは終わり。旅人は世間の人と違って気楽なもんだ、という意味か。万菊丸はそれに答えて脱いだ着物は売ってしまおうか、という。

三、灌仏(かんぶつ)の日

 「灌仏(くわんぶつ)の日は、奈良にて(ここ)かしこ(まうで)侍るに、鹿(しか)の子を(うむ)を見て、(この)日におゐておかしければ、

 

 灌仏の日に生れあふ鹿()()哉」

 

(現代語訳:灌仏会の日は奈良()あちこち(てここ)()()()詣で(はべ)(るに)、鹿の子を産むのを()見て、この日に()いう()のが()面白かった(おかしけ)ので(れば)

 

 灌仏の日にちょうど(うま)生まれた(れあふ)鹿の子()()

 

 奈良というとなら公園に鹿がたくさんいて、鹿せんべいを持っているとわらわら鹿が寄ってきて結構怖かったりする。修学旅行で行った人も多いだろう。

 奈良に鹿がいるのは春日大社の主神、(たけ)(みか)(づちの)(みこと)が茨城の鹿島神宮から白い神鹿に乗ってやって来たという伝説があり、それゆえ、鹿を神の子孫としているのだという。白い神鹿というとスタジオ・ジブリの『もののけ姫』のシシガミ様が思い浮かぶ。

 山に住む鹿はかつて縄文系の狩猟民族にとっては生活の糧で、肉だけでなく、毛皮や角も利用できるため重要な狩猟の対象になっていたが、それだけに乱獲や自然破壊から守るために鹿を神としたのだろう。農耕の時代になっても鹿の肩甲骨は占いにも使うし、神事には鹿が生贄として捧げられたりもした。春日山のあたりも昔から鹿が多かったのだろう。

 『万葉集』巻三、四五にも、

 

 春日野に粟蒔(あはま)けりせば鹿待(ししま)ちに

     継ぎて行かましを社し留むる

             佐伯宿禰(さえきのすくね)(あか)麻呂(まろ)

 

の歌がある。

 春日大社は八世紀の半ば、藤原氏の氏神として創建され、鹿島神宮・香取神宮の祭神、(たけ)(みか)(づちの)(みこと)経津(ふつ)主命(ぬしのみこと)の二神に加え、天児(あまのこ)屋根(やねの)(みこと)比売(ひめ)(がみ)の四神を祭ってきた。

 しかし、(たけ)(みか)(づちの)(みこと)が鹿に乗ってやってきたという神鹿伝説は十世紀を過ぎてから作られたらしく、やがて鎌倉時代に入ると鹿に乗った神を描く神影図が盛んに描かれるようになる。鹿が放牧されるようになったのもその頃からか。

 春日大社は本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)により、興福寺とも一体とされ、鹿は神であるだけでなく、仏の使いでもある。四月八日の潅仏会(かんぶつえ)は花祭りとも呼ばれ、お釈迦様の誕生を祝う儀式で、その日に仏の使いである鹿の赤ちゃんが生まれるのは何とも目出度く、芭蕉も一句詠んだのだろう。

 日本ではお釈迦様の誕生日は四月八日だが、タイではウィサーカブチャー(仏誕節)が五月中旬の満月の日に行われ、この日は説法を聞く日として寺院は参拝客でにぎわい、屠殺場と酒場は休業になるという。

 日本の場合、明治以降仏教は国家神道の支配下ですっかり形骸化し、葬式仏教と化してしまったため、普段から寺で説教を聴く習慣もなくなり、潅仏会は生活から遠のいてしまった。

 

 それに潅仏会が新暦の四月八日にずれ、これも何とも中途半端な時期だ。四月は新年度の始まりで、入学式や入社式などの時期とも重なり、それに桜の季節と重なってしまったため花見の喧騒にまぎれて、結局お釈迦様の誕生日にふさわしい独自の消費文化を確立できぬまま忘れ去られることとなった。

四、若葉して

 「招提(せうだい)(がん)(じん)和尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入(ふきいり)て、(つひ)に御目(めしひ)させ給ふ尊像を拝して、

 

 若葉して御めの(しづく)ぬぐはばや」

 

(現代語訳:唐招提寺(せうだい)()鑑真和尚(らい)来た(てうの)時、航海(せん)中七十()余り(たび)の難をしのいて(ぎたまひ)(おんめ)(うち)に潮風が沁み込ん(ふきいり)()、ついに()()見えなく(めめしひ)なった(させ)()いう(まふ)尊像を拝んで(して)

 

 若葉でも()って()(おんめ)の雫をぬぐいたい(はばや)

 

 鑑真というと何度も日本に来ようとしてはそのつど嵐に船が流され、日本にたどり着いたときには失明していた中国の偉いお坊さん、というイメージがある。こうした話は誰しも歴史の授業や修学旅行で聞かされてきただろう。

 それだけでは紙面が埋まらないというので、一応鑑真について調べて見ようと本を読んでみると、大分イメージが違ってくる。実は嵐に遭ったのは二回だけというのは知らなかった。二回でも多いといえば多いが、芭蕉の言う七十余度の難には程遠い。何度も渡航が失敗したのは、実はそれが密出国だったからで、遭難の原因も役人の目を避けて無理な航路を選んでいたことが関係していたようだ。その部分が抜け落ちてしまうと、当時の船旅がいかに大変だったかばかりが強調されてしまうことになる。

 もちろん、当時の航海が危険の多いものだったことは確かだ。一つにはもっとも安全な航路である、山東省から朝鮮半島の西岸を伝って対馬に出る航路が、新羅(しるら)との関係の悪化で使えなかったことが原因で、それに加えて太陽や北極星の位置を基にした天文航法が行われていなかったこと、季節風に関する知識もなかったことが航海をより危険なものにしていた。

 特に中国のジャンクを真似て作った日本の遣唐使船は、船の大きさに対して必要な強度が不足していて、遣唐使船の三分の一は遭難したという。どうやら遣唐使船はお役所仕事の典型のようなもので、見得ででかい船を作った割には、縦割り社会で基本的な技術や経験がほとんど生かされることなかったのだろう。

 ただ、鑑真の場合は最後の渡航を別にすれば中国船を使っていたし、遣唐使船よりはマシな航海術を知っていただろうから、正式な航路を通っていればもう少し安全に日本に来ることは出来ただろう。

 船旅の困難ばかりが強調されるには、もちろん理由があったのだろう。中世なら日本から中国に留学する僧はたくさんいたが、江戸時代の鎖国体制では中国渡航はご法度だから、鑑真のような偉いお坊さんが密航をしたなんていうのははばかりがあったのだろう。そして、その感覚は近代法治国家となった後も維持されてきたのだろう。鑑真ともあろう人が国の法を破るとはとんでもない、と。

 一応鑑真が日本に来るまでの渡航の顛末を簡単にまとめておこう。

 

一回目

 唐の天宝二載(七四三年)春、揚州大明寺にいた鑑真は表向き天台山国清寺へ行くという口実で船を用意していたが、弟子の道航と如海の仲たがいにより如海が「道航が海賊と密通している」と役所に訴えたため失敗した。

 

二回目

 同じ天宝二載(七四三年)十二月、鑑真自ら劉巨麟の軍糧輸送船を買い取り、様々な文物を積み、弟子十七人ほか様々な職人を従え、八十五人で長江河口を出帆したが、狼溝浦で強風により遭難した。

 

三回目

 天宝三載(七四四年)、鑑真らは越州・杭州・湖州・宣州などを巡遊しながら渡航の準備をしたが、越州の僧たちに察知され、計画の中心人物だった日本人の僧栄叡が逮捕されたが、長安に送られる途中に脱走した。

 

四回目

 弟子の法進らを遣わし、南方の福州で船と食料を用意させた。天台山国清寺巡礼を装って復習へ向かおうとしたところ、揚州に残った弟子たちが諸寺の衆僧と計って計画を役所に暴露。一行は捕まって揚州に送還された。

 

五回目

 天宝七載(七四八年)春、再度船を用意し、二回目のように文物をそろえ、六月二十七日、揚州の新河より出帆したが、またもや強風に阻まれ、舟山列島あたりを徘徊しているうちに蜃気楼に惑わされて海流に巻き込まれ、海南島まで流されてしまった。

 天宝九載(七五〇年)鑑真は老人性白内障で目が悪くなり、胡人の眼科医に掛かっていたが、手術に失敗し、失明した。

 

六回目

 天宝十二載(七五三年)十月二十九日、鑑真らは遣唐使からの密航の誘いに龍興寺を脱出し、蘇州の黄泗浦に向かい、十一月十六日、四隻の舟で出帆。二十一日に沖縄に到着。十二月七日に屋久島、十二月二十日に鹿児島県坊津町秋目浦に到着。翌年二月四日に奈良に到着した。

 なお、この船団の第一船には阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が長い中国での役人生活を終えて帰国するために乗り込み、中国での送別会の席であの有名な、

 

 天の原ふりさけみれば春日なる

    三笠の山にいでし月かも

 

の歌を詠んだといわれている。この第一船は途中強風により遭難し、海南島に流され、ついに阿倍仲麻呂が帰国を果たせなかったというのは有名な話だ。鑑真は幸運にも第二船に乗っていたため、この四隻の中でもっとも安全に日本に着くことができた。それまでの不運を考えれば、ようやく鑑真にも運がめぐってきたというところか。

 それなら、そんなにまでして鑑真が日本に行きたかった理由は一体何だったのだろうか。王勇(『おん目の雫ぬぐはばや』二〇〇二、農山漁村文化協会)によれば、当時仏教が西から東へ伝わるという観念があり、道を求めるには三蔵法師のように西へ向かい、道を広めるには海を越えて東にという発想が一般的にあり、それに加えて、天台山を開いた南岳慧思禅師が転生して日本の王(聖徳太子)となったという伝説も東への情熱をかきたてたからだという。

 もちろん、遣唐使を通じての日本側からの要求もあった。当時の日本は仏教を国家体制に組み込むには、その根幹ともいうべき戒律の知識が不足していた。鑑真の方もひょっとしたら新開地だけに中国以上に自分の理想を実現できると考えたかもしれない。

 しかし、私にはそれだけでないような気がする。元来知的好奇心に富んで、仏教界で頂点に上りつめた人物であるだけに、見知らぬ異国の地へのエキゾティズムに取り付かれ、元来無欲なだけにそれを止めるものが何もなかったのではなかったか。

 芭蕉が鑑真についてどんなことを知っていたかは定かではない。唐招提寺の鑑真像は見たのだろう。せっかく日本に来ながらその地を見ることができなかった無念を思ってか、

 

 若葉して御めの(しづく)ぬぐはばや

 

 ぬぐったのはついにはるばる日本に来たという感激の涙か。それまでの苦労を思っての涙か。「若葉して」は漢文書き下し文的な表現で、「若葉シテ御目の雫をぬぐはしむ」ということだろう。この上五を「青葉して」とする案もあった。青葉も若葉も意味は同じだが、「若葉して」のほうが句末の「わばや」と韻を踏んで句に対象性が生じるため、句の座りが良くなる。ただ、それは意識したというよりは感覚的な問題だろう。

五、奈良から大阪へ

 四月十日ごろ、伊賀から猿雖(えんすい)(たく)(たい)、梅軒、利雪らが奈良に芭蕉に合いに来て、ひとしきり盛り上がったのだろう。しかし、芭蕉はこれから須磨明石の月を見に、また旅立つことになる。

 

   「旧友に奈良にて別る

 鹿の(つの)(まづ)一節(ひとふし)の別れかな」

 

(現代語訳:旧友()奈良(にて)れる()

 鹿の角まず一(ふし)()別れ()ゆく()

 

 鹿の角はいくつも枝分かれしているが、これはその最初の別れだ。人は生きてゆく上でいろいろな人と何回も出会いと別れを繰り返してゆく、その中の一つということなのか。何ともあっさりしている。もっとも、伊賀は故郷で、もう二度と来ることのないような土地ではない。猿雖とはその後も手紙のやり取りがあるし、翌年の冬にも再びこのメンバーと再会する。

 この年は九月に元禄元年と年号が変わり、翌元禄二(一六八九)年、芭蕉は『奥の細道』の旅に出る。その終点は伊勢で、そこから芭蕉は再び故郷へと向かう。途中の山中ではあの、

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也   芭蕉

 

の句を詠むことにもなる。

 

  「大坂(おほさか)にてある人のもとにて

 杜若(かきつばた)語るも旅のひとつ哉」

 

(現代語訳:大阪(にて)ある人のもとにて

 杜若語るも旅の一つ()な)

 

 大阪でもかつての伊賀の連衆の一人、保川一笑の家を尋ね、興行する。一笑は芭蕉が二十歳そこそこの頃に蝉吟と出会い、俳諧の道に入った頃からの連衆で、貞徳翁十三回忌追善五吟百韻俳諧にも参加している。これは芭蕉が参加した現存する俳諧の中では最も古い。ちなみに芭蕉が『奥の細道』で「塚も動け」の句を詠む加賀の小杉一笑とはまったくの別人。

 

 杜若(かきつばた)語るも旅のひとつ哉   芭蕉

   山路の花の残る笠の香   一笑

 朝月夜紙干す板に明けそめて  万菊

 

 折から杜若の季節で、その杜若について語り合える風雅の友に再会できたのも、旅の一つの喜びといえよう。

 

 「もしわづかに風雅ある人に出合(であひ)たる、(よろこび)かぎりなし。日比(ひごろ)は古めかしく、かたくななりと(にく)(すて)たる程の人も、辺土(へんど)の道づれにかたりあひ、はにふ・むぐらのうちにて見出(みいだ)したるなど、(ぐわ)(せき)のうちに玉を拾ひ、泥中(でいちゅう)(こがね)を得たる心地して、物にも書付(かきつけ)、人にもかたらんとおもふぞ、又(これ)旅のひとつなりかし。」

 

 

という衣更えの前の文章が思い起こされる。そんな芭蕉の笠には、まだ吉野の花の匂いが残っている。

六、須磨・明石

 日本は縄文時代以来の漁業国だが、中世に仏教的な殺生(せっしょう)(かい)が広まると、海人(あま)の立場は微妙なものとなった。殺生戒が必ずしも厳密に一切の肉食を禁じるものではなく、自分で手を下して殺したものでなければいいということになっていたため、実際に肉を食っている人間には罪はなく、殺生の罪が一方的に猟師や漁師や屠殺業者に押し付けられてしまうことになった。

 とはいえ、昔から魚を食べてきた日本人に、その習慣をやめさせることは困難で、漁師やうなぎ屋などの魚関係の人がそれほど卑賤視されることはなかったが、かつての獣肉のみならず、獣類を扱う様々な職業の人が今日に至るまで長いこと差別されることになった。

 本来海人(あま)の哀れというのは、隠士が漁村で海人同然の生活をする哀れを本意とするもので、中央アジアからやってきた農耕民族である漢民族にとって、漁師というのは江南系の無為自然の行き方を象徴するものでもあった。

 老子が楚人であったように、元来老荘思想というのは長江文明に深く根ざしたもので、日本の文化も基本的にはその長江文明を継承するものだ。だから、神道の自然を尊ぶ「神ながら言挙げせぬ国」の考え方と老荘思想が似ているのは無理もない。『楚辞(そじ)』の「(ぎょ)()」もそうした老徒との問答というメタファーが感じられる。

 

 聖人不凝滞於物

 而能與世推移

 世人皆濁

 何不淈其泥

 而揚其波

 

 聖人というのは物事にこだわらずに、

 世の推移に従うものだ。

 世間の人が皆濁っていれば、

 何でその泥を掻き混ぜて、

 波しぶきを上げようとしないのか。

 

 時代が濁っているなら、自分も濁ればいいではないか、という流れに逆らわない生き方は今の日本人にも受け継がれている。日本が戦争に負けてアメリカに占領されたとき、占領軍の支配に武装蜂起するものもなく、すんなりと民主化を受け入れることができたのも、何千年にも渡って流れに逆らわない生き方が身に染み付いているからで、日本でうまくいったからといって中東で同じようにいくとは限らない。

 その後、『文選(もんぜん)』では謝霊運の「赤石(せきせき)に遊び進みて海に(うか)ぶ」という詩が収められている。

 

   遊赤石進泛海

 首夏猶清和 芳草亦未歇

 水宿淹晨暮 陰霞屡興没

 周覽倦瀛壖 況乃陵窮髪

 川后時安流 天呉静不發

 揚帆采石華 挂席拾海月

 溟漲無端倪 虚舟有超越

 仲連軽齊組 子牟眷魏闕

 矜名道不足 適己物可忽

 請附任公言 終然謝夭伐

 

 夏の最初の日はその名の通り清和、

 芳しい蘭もまだ枯れない。

 水を宿として朝晩ひたる。

 暗い霞が現れては消える。

 どこを見回しても果てない岸辺は物憂げで、

 ましてこの不毛の大地を越るなど、

 川の君もこの時は流れることをやすみ、

 海の神も静かに動かない。

 帆を揚げて天草(てんぐさ)を採り、

 (むしろ)を片付けて海月(くらげ)を拾う。

 一面にび色の海に何を見るでもなく、

 空っぽの舟だけがどこかへと飛び去る。

 魯の仲連(ちゅうれん)は斉の国の爵位を軽視し、

 公子牟(こうしぼう)は魏の国の城門を慕う。

 名利を誇れば道を踏み外し、

 己のままに行けば物事は気にならない。

 (じん)(こう)が言うように目立つことは避けて鳥獣の群れに混じり、

 若くして命を落とすことだけは避けたい。

 

 日本では『万葉集』巻三の柿本人麻呂の歌に海人が登場する。

 

 あらたへの藤江の浦にすずき釣る

    白水郎(あま)とか見らむ旅行く(あれ)

                   巻三、二五二

 ()()の海のには()くあらしかりこもの

    乱れ出づ見ゆ海人(あま)釣船(つりぶね)

                   巻三、二五六

   一本ニ云ク、

 武庫(むこ)の海のにはよくあらし(いざり)する

    海人(あま)釣船(つりぶね)波の()ゆ見ゆ

 

 この一連の歌の中に、

 

 天ざかる(ひな)長道(ながぢ)ゆ恋ひ来れば

    明石の()より大和島見ゆ

                   巻三、二五五

 

の歌もある。当時既に『文選』は輸入されていたと思われるので、赤石と明石の縁もあり、影響を受けた可能性がないとは言い切れない。こうした海辺の景色の哀れを隠士が好むところから、海辺の景色は中国では画題としても盛んに描かれ、『瀟湘(しょうしょう)八景(はっけい)』として定番化され、そこに、和歌の浦から日本三景に至る海岸の美が確立された。

 平安時代になると、在原(ありはらの)行平(ゆきひら)が須磨に流されたという伝説から、明石と須磨はセットで扱われるようになった。在原行平は弟の業平(なりひら)にも負けずに色好みで、須磨では松風・村雨の二人の海女と恋に落ち、その二人の女の恨みから、須磨といえば藻塩焼く煙の身も焦がれる恋の思いのイメージが定着した。もっとも、在原行平が須磨に流されたという伝説は史実として証拠がなく、あくまで伝説とされている。『古今集』の、

 

 わくらばにとふ人あらば須磨の浦に

    藻塩たれつつわぶとこたへよ

                在原行平

 

の歌の連想かもしれない。

 須磨・明石は「棲む」「(夜を)明かす」に通じ、さらには月の「澄む」「明し」にも通じるため、月の名所ともなった。『源氏物語』では都落ちした光源氏がしばし隠棲するのだが、そこにも明石の君が登場する。

 ただ、やはり色気の乏しい芭蕉さんのことだから、季節外れの夏にこの須磨にやってきて、当然海女の家に二人の女性はいなかったし、謡曲『松風』のような松風・村雨の幽霊にも出会えなかったようだ。

 

  「須磨

 月はあれど()()のやう(なり)須磨の夏

 月見ても物たらはずや須磨の夏」

 

(現代語訳:須磨

 月はあ()()留守のよう()()須磨の秋

 月見ても物足りない(らはず)()須磨の夏)

 

 夏といってもまだ初夏で、「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句はちょうどこの頃江戸で山口素堂が詠んだのだろう。翌年公刊される選集『()()()』の一つの目玉ともなる。「目には青葉」というと晴れた日の昼のまばゆいばかりの新緑を連想しがちだが、「山ほととぎす」と続くとこれは明け方にほととぎすの鳴き出すのを待つ情景になり、実は「目には青葉」も明け方の白む空に山の黒ずんだ景色だったということになる。鎌倉であれば、明け方に鰹漁が行われたのだろうか。須磨の漁師の姿も、芭蕉は、

 

 あけぼのやしら魚しろきこと一寸

 おもしろうてやがて悲しき()(ぶね)

 

の句のように、殺生の罪を気にかけて悲しげに見えたのかもしれない。かつて新緑の季節は若葉のまばゆいばかりの命を賛美する季節ではなく、むしろ春の花も終わり、草木の茂りに荒れ果ててゆく悲しげな季節だった。

 

 「()月中比(づきなかごろ)の空も(おぼろ)に残りて、はかなきみじか夜の月もいとど(えん)なるに、山はわか葉にくろみかかりて、ほととぎす(なき)()づべきしののめも、海のかたよりしらみそめたるに、上野(うへの)とおぼしき所は、麦の穂波(ほなみ)あからみあひて、漁人(あま)の軒ちかき芥子(けし)の花の、たえだえに見渡さる。

 

 海士(あま)の顔(まづ)見らるるやけしの花」

 

(現代語訳:四月(うづき)中頃の空()まだ(おぼろに)(のこ)(りて)、儚()短夜の月()ますます(いとど)煌々(えん)()して(るに)、山は若葉に黒ずんで(みかか)見え()、ホトトギス()鳴き出す(きいづ)夜明け前(べきしの)()()()海の(かた)から(より)白みはじめて(そめたるに)、上野と思われる(おぼしき)所は麦の穂波()さらに(からみ)赤らんで(あひて)、海人の軒近くの()芥子の花()少しづつ(たへだへ)()渡せる(みわ)よう()()なる()

 

 海人の顔()まず()えて(らる)くる(るや)芥子の花)

 

 

 夏とはいえ麦の穂が実り、そこはまさに麦の秋だった。芥子の花がはかなげで明け方に戻ってくる漁師たちの姿に、来世が地獄でないことを祈ったのだろう。

七、鉄拐山

 「東須磨・西須磨・浜須磨と三所にわかれて、あながちに何わざするとも見えず。『藻塩(もしほ)たれつつ』など歌にもきこへ侍るも、今はかかるわざするなども見えず。きすごといふをを網して、真砂(まさご)の上にほしちらしけるを、からすの飛来(とびきた)りてつかみ去ル。(これ)をにくみて弓をもてをどすぞ、海士のわざとも見えず。(もし)古戦場の名残をとどめて、かかる事をなすにやと、いとど罪ふかく、猶むかしの恋しきままに、てつかひが峯にのぼらんとする。(みちび)きする子のくるしがりて、とかくいひまぎらはすを、さまざまにすかして、「麓の茶店にて物くらはすべき」など(いひ)て、わりなき(てい)に見えたり。かれは十六と(いひ)けん里の童子よりは、四つばかりもをとをとなるべきを、数百丈の(せん)(だつ)として、羊腸険岨(やうちゃうけんそ)岩根(いはね)をはひのぼれば、すべり(おち)ぬべき事あまたたびなりけるを、つつじ・根ざさにとりつき、息をきらし、汗をひたして、(やうやう)雲門に入こそ、心もとなき導師の力なりけらし。

 

 須磨のあまの矢先(やさき)(なく)郭公(ほととぎす)

 ほととぎす(きえ)行方(ゆくかた)や嶋一ツ

 須磨寺(すまでら)やふかぬ笛きく木下(こした)やみ」

 

(現代語訳:東須磨・西須磨・浜須磨と三区域(さんしょ)に分かれてて(かれ)()(あな)(がち)()()して(する)いる(とも)とも思えない(みえず)。「藻塩垂れつつ」と歌にも詠まれて(きこへは)いる(べる)()、今はその(かかる)よう(わざ)()製法(るなど)()られない(えず)。キスゴという魚を網()獲り()砂浜(まさご)の上に干し散らしてい()るの()を、カラス()んで(びき)きて(たりて)持って(つかみ)行く(さる)。これを防ごう(にくみ)()()もって(もて)脅すのは()海人の技術(わざ)思えない(みえず)さて()()古戦場の名残りを留めてこんな(かかる)ことをしてる(なす)()()ますます(いとど)()かく、それ()でも()()()興味(ひし)()ままに鉄拐()峰に登()こと()()する()

 ガイド(みちびき)(する)少年()()不満そう(くるしがり)()あれこれ(とにかく)言って(いひま)ごまかす(ぎらは)()なだめ(さまざまに)すかして、「麓の茶店(にて)(もの)(くら)食わせろ(はすべき)」など言()ので()困り果てる(わりなきてい)のであった(にみえたり)。彼は十六と言われてた(ひけん)鷲尾(さとの)三郎(どうじ)よりは四つ(ばか)年下(りをとをと)だった(なるべき)()千メートル(数百丈)もの()登り坂(せんだ)()先導(とし)()曲がりくねった険しい(やうちゃうけんその)()を這い登れば、滑り落ち(ぬべき)こと(あま)何度(たたび)(なり)あった(けるを)ものの、ツツジ、根笹に掴まり(とりつき)息を切らし汗だく(をひ)()なり(して)、ようや()山頂(うんもん)出て(いるこそ)頼りない(こころもとなき)導師()()仕事(から)()果たした(りけらし)

 

 須磨の海人の矢先に鳴くかホトトギス

 ホトトギス消えゆく方には()島一つ

 須磨寺()吹かぬ笛聞く木下闇)

 

 さて、実際に須磨に来てみると、在原行平の、

 

 わくらばにとふ人あらば須磨の浦に

    藻塩たれつつわぶとこたへよ

 

の歌にあるような藻塩焼く人の姿はどこにもなかった。藻塩とはホンダワラやアマモなどの藻塩草に何度も海水をかけ、天日で干して、それを焼いて塩灰を作りそれを釜に入れて水を加え、その上澄みを煮詰めて作ったもので、古代では日本各地で行われていた製塩法だった。だが、この製法は平安期には既に廃れ、塩田法に取って代わられていったと言われている。ただ、海草のミネラルが豊富なため、今日ではその古代製法を復元し、製造している所がいくつかある。

 また、キスを網でとって砂浜で干物にしていると、カラスがそれを取りに来るので、漁師が弓で追っ払っているという。カラスは賢い鳥で、今でもカラスのごみ漁りには手を焼いていて、網をかけても網をつまんでずらしたりするから、さらに網を重石で固定したりしているが、それでも網の目が粗いと、そこから嘴を突っ込んでゴミ袋を食いちぎってしまう。それを思うと漁師の苦労もわかるが、芭蕉としては古典の幻想が音を立てて崩れてゆくような気持ちだったのだろう。

 海人というと何か自然のままに現世を超越した仙人のような暮らしをしているイメージだったが、実際に会ってみると人間だった、というところか。別に古戦場だからということではないだろう。「罪ふかく」はやはり殺生戒に基づく芭蕉の偏見か。

 「古戦場の名残」というのは、源平合戦で有名な一の谷が近いことからの発想だろう。一の谷に陣を構えた平氏の軍を攻略するために、その背後の鉄拐山(てつかいさん)の東南の急斜面を馬で駆け降りて奇襲したというのだが、当時の馬が現代の馬に比べて小さくポニーのような大きさで、それに何十キロもある鎧兜を着けた武者が乗った状態で降りられたのかどうか疑問視する説もある。もちろん、常識では考えられないことをやったから奇襲なのだが、むしろ、高価な馬に怪我をさせないように人が馬を背負って、できる限り音を立てないようにしてそろりそろりと降りたというのが真相だという説もある。これなら平氏も虚を衝かれただろう。

 鉄拐山は標高二三四mのそれほど高い山ではない。ただ、六甲山特有の断層でできた切り立った岩の多い地形で、この断層があの神戸淡路大震災の惨劇をも生んだ。鉄拐(てつかい)とは仙人の名で、蝦蟇(がま)使いとして中世の絵画に描かれている。

 その鉄拐山に芭蕉も登ったのだが、ガイドとして雇った少年が、今でも発展途上国にいくとありそうなことだが、途中で疲れたとか言ってごねたりしたようだ。「麓の茶店にて物くらはすべき」とはいうが、本当は結構ふんだくられたのではなかったか。まあ、取るものを取らせたら納得したのか、(ひよどり)(ごえ)の逆落としの時に義経を導いたという十六歳の熊王こと鷲尾三郎よりは四つ下のこの少年も、ちゃんと芭蕉をガイドして、無事羊腸険岨(やうちゃうけんそ)岩根(いはね)を登ることができたようだ。

 ここまではいずれにせよ、あまり風雅とはいえない話だが、杖つき坂ではカットされたような話がここではそのままリアルに語られていることが面白い。これも未完成稿なるが故なのかもしれない。

 さて、句の方だが、何のかんの言ってもここでは興が乗ったのか、三句も詠んでいる。

 

 須磨のあまの矢先(やさき)(なく)郭公(ほととぎす)  芭蕉

 ほととぎす(きえ)行方(ゆくかた)や嶋一ツ    同

 須磨寺(すまでら)やふかぬ笛きく木下(こした)やみ  同

 

 最初の句は海人が弓矢でカラスを追っ払っているのをさっそく詠んだ句で、海人の矢先にはカラスではなく郭公が啼く。郭公は冥界からの声に聞こえるのか、向井(むかい)去来(きょらい)にも、

 

 兄弟のかほ見るやみや(ほとと)(ぎす)   去来

 

の句がある。これは曾我兄弟が富士の巻き狩りの夜に仇討を決行するその直前の瞬間を詠んだ句で、時鳥はあたかも冥界から警告を与えるかのように、人を(あや)めれば永遠の地獄が待っていることを告げたのだろう。しかし、それでも憎しみには勝てないのが人間の業の深さだ。

 もっとも、殺生を生業(なりわい)とする海人でも救いは残されている。それは修行僧に施し物をすれば、その結縁(けちえん)で成仏できるというものだ。なんかお坊さんに都合よくできているという感じがしないでもない。

 「ほととぎす」の句は伝人麻呂の、

 

 ほのぼのと明石の浦の朝霞

    島がくれゆく船をしぞ思ふ

 

のイメージか。当時としてはあまりにも有名な歌だったが、去り行く船に異界に去ってゆく魂が感じられるように、郭公の声もまた島の向こうへ消えてゆくことで極楽往生を思わせる。

 「須磨寺」の句は(あつ)(もり)の故事を踏まえたものだ。一の谷の合戦の前に、兵士は源氏が攻めてくることも知らず、管弦の宴を楽しんでいたが、そのとき十六歳の敦盛の吹く小枝(さえだ)の笛の音色には、源氏の軍勢もしばし心を打たれた。合戦が始まり、熊谷(くまがい)次郎(じろう)(なお)(ざね)が敵の大将を倒したと思うと、見れば自分の息子ほどの年で、それでも泣く泣く首をはねると、腰の錦の袋に笛を見つけて先の笛の主だと知り、悲しみ無常観にひしがれ出家したという。

 

 謡曲『敦盛』では出家した熊谷が一の谷を訪れ、敦盛の霊と出会い、かつての敵味方を忘れ、今はともに仏法の道を行くものとしてお互いを許しあう。「吹かぬ笛」というのは誰も吹くはずのない笛で、芭蕉も敦盛の霊の吹く笛の音を聴いたような気がしたのだろう。

八、明石夜泊(あかしやはく)

    「明石夜泊

  蛸壺やはかなき夢を夏の月

 

 かかる所の秋なりけりとかや。(この)浦の(まこと)は秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさ、いはむかたなく、秋なりせば、いささか心のはしをもいひ(いづ)べき物をと思ふぞ、(わが)(しん)(しゃう)の拙なきをしらぬに似たり。淡路(あはぢ)(しま)手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左に分る。呉楚東南の詠もかかる所にや。物しれる人の見侍らば、さまざまの(さかひ)にもおもひなぞらふるべし。

 又(うしろ)の方に山を隔てて、田井(たゐ)(はた)といふ所、松風・村雨ふるさとといへり。尾上つづき、(たん)波路(ばぢ)へかよふ道あり。鉢伏(はちぶせ)のぞき、逆落(さかおとし)などおそろしき名のみ(のこり)て、鐘懸(かねかけ)(まつ)より見下(みおろす)に、一ノ谷内裏(だいり)やしき、めの下に見ゆ。其代(そのよ)のみだれ、(その)時のさはぎ、さながら心にうかび、(おもかげ)につどひて、二位(にゐ)のあま君、皇子(みこ)(いだき)奉り、女院(にょうゐん)(おん)(もすそ)(おん)(あし)もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有さま、内侍(ないし)(つぼね)女嬬(にょじゅ)曹子(さうし)のたぐひ、さまざまの御調度(おんてうど)もてあつかひ、琵琶・琴なんど、しとね・ふとんにくるみて船中に投入(なげいれ)供御(くご)はこぼれて、うろくづの()となり、櫛笥(くしげ)はみだれて、海士の(すて)(ぐさ)となりつつ、千歳(ちとせ)のかなしび(この)浦にとどまり、素波(しらなみ)の音にさへ(うれひ)多く侍るぞや。」

 

(現代語訳:明石夜泊

 蛸壺()(はか)い夢(なき)()()たか()夏の月

 

 「(この上なく悲しいのは)かかる所の秋なりけり」とか言う()。この浦の真価(まこと)は秋()ある(むね)いう(する)べき(なる)(べし)。悲しさ、淋しさは言いようも(はむかた)なく、秋()あれ(りせ)多少(いささ)()()留まる(はし)こと()言葉(いひ)()なった(づべき)ものをと()うのも(ふぞ)自分()()力量(しんしゃう)未熟(つた)()分かって(きを)ない()ような(らぬに)もの(にた)()

 淡路島が手()に取るように見えて、須磨、明石の海左右に分かれる()。呉楚東南()()詩句()こう()いう(かる)場所(とこ)だろう(ろに)()博識(ものしれ)()()(はべ)なら(らば)、様々()故事(さかひ)に思いなぞらえる()こと()だろう(べし)

 また、後ろの方に山を隔て()田井の畑というところ(とこ)()、松風、村雨()故郷(るさ)()とい(へり)尾根(をのうへ)伝い(つづ)()丹波路へつながる(かよふ)がある(あり)。鉢伏山を覗き、逆落しなど恐ろし()名前()ばかり(のみ)って()いて()、鐘懸け松から(より)見下ろす()、一の谷内裏屋敷(めの)眼下(したに)に見える()

 あの時代の乱れ、あの時代の騒ぎ、さながら心に浮び、人々()()面影(かげ)()集まって(つど)()て、二位の尼君()皇子()を抱き(たて)なって(まつり)、女院は(おん)(もす)(そに)(おん)(あし)絡まり(もたれ)、船()(かた)慌てて(まろび)って(らせたま)行く(ふおん)有様、内侍、局、女嬬、曹子のたぐい、様々()調度(おんてうど)(もて)持ち出し(あつかひ)、琵琶、琴な()()褥、布団にくる()()船中に投げ入れ、食物(くご)はこぼれて(うろ)たち(くず)の餌()なり、化粧箱はばら(みだ)()て海人()顧みない(すてぐ)()となりながら(つつ)千年(ちとせ)の悲しみが()この浦に残され(とどまり)、白波の音にさえ愁い()満たされて(ほくはべる)いる(ぞや)。)

 

 貞享五年四月二十五日付の「惣七(猿雖(えんすい))宛書簡」によると、芭蕉は四月十九日に尼崎を出て「兵庫に夜泊」とあり、四月二十日に和田岬の源平合戦の旧跡や行平の松風・村雨の旧跡を見て、鉄拐山に登ったと記されている。しかし、この「明石夜泊」の文章を読むとコースが逆になっているばかりでなく、内容的にもその前の「須磨」の部分と重複している。

 ここに一つ疑いがあるのは、「須磨」の文章を書いたあと、意図的に順序を入れ替え、宿泊地を兵庫ではなく明石にして、書き直そうとしたのではなかったのか、ということだ。そして、未完成稿であるがゆえに、新旧両方の文章が羅列する形で残ってしまったのではなかったか。いわば、先の「須磨」の部分の「月はあれど」の句から、夜を明かし、漁師がカラスを追っ払うところや鉄拐山に登るときのことなどをリアルに記した文は第一稿であり、この「蛸壺」の句以降の逆コースをたどる文章が第二稿ではなかったか。いわば、前者はリアルバージョンであり、後者は風雅バージョンではなかったか。

 「蛸壺」の句は『笈の小文』の句の中でも完成度が高く、この地で即興的に詠まれたというよりは、後から十分に推敲された句という感じがする。

 明石は昔から蛸の名産地としてしられ、蛸壷を使った漁が盛んだった。蛸が岩の窪みなどに隠れて身を守る習性を利用したものだ。蛸はイカとともに頭足類に属し、遠い親戚にはオウムガイや絶滅したアンモナイトがいる。この一族は遠い昔、防御を優先して固い甲羅で身を守るものと、攻撃とスピードを優先して甲羅を捨てたものとにわかれたようだ。殻を持たない弱さを岩影に身を潜めることで危機を乗り切ってきた蛸にとって、蛸壷は予期せぬ落し穴だった。恐ろしい肉食魚類の攻撃を逃れ、やっとここで安全に休むことができると思った矢先、人間い釣り上げられ、食われてしまうとは、長い進化の歴史の中で思いもよらぬことだっただろう。

 地球は無限の生命を育めるほど広くはない。せいぜい五億平方キロメートルというこの限られた土地は、太古の昔からまたたく間に様々な生命で埋め尽くされ、ひしめきあって暮らしてきた。食うか食われるかの生存競争、それは有限な大地に過剰な生命が生み出す自然の必然だった。人間とて物を食わねば生きられぬ以上、この過酷な掟から逃れることはできない。我が子を飢餓にさらさないためとあれば、たとえ片隅の小さな田畑であれ、会社や役所での些細なポストであれ、死守しなくてはならないときもある。

 榎本其角が、

 

 蝶を噛んで子猫をなむる心かな  其角

 

と詠んだ通り、愛する人を守るためであれば、我々は最大限に残虐になることができる。地位を守るためには他人を蹴落とし、事故や不正をもみ消し、多くの人がそれで犠牲になったとしても何とかして責任を逃れようとする。まして、国の危機となれば、どんな惨たらしい残虐行為や殲滅戦をも厭わない。蛸壷の蛸も可愛そうだが、人間の世界もまた同じようなものだ。

 明石といえば昔は流刑の地、都で権力争いに破れた貴族が、見渡せば花も紅葉もない浦の苫屋で余生を過ごす地でもあった。柿本人麿もまた島隠れゆく船を見送り、スズキ釣る漁師とも見まごう姿でこの地を旅し、最後は石見の高津の山でひっそりと世を去った。人麿もまた蛸壷にはめられ、夏の夜のはかない月を見たのか。

 

 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを

   雲のいづこに月宿るらん

            清原(きよはらの)(ふか)養父(やぶ)

 

 夏の夜は短く、眠れぬ夜をついつい夜更かししながら、飲みすぎたなと思っているうちに、夜は白々明けてくる。月はもうとっくに沈んでしまったというのに、まだ雲のどこかに月を探している。捨てようにも捨て切れぬ夢、まさに煩悩の月だ。

 「(この)浦の(まこと)は秋をむねとするなるべし。」は「月見ても物たらはずや須磨の夏」の句を説明したような感じだし、「淡路(あはぢ)(しま)手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左に分る。」は、どこからの眺めか記されていないが、先の「惣七(猿雖)宛書簡」にははっきりと「てつかひが峰にのぼれば、すま・あかし左右に分れ、あはぢ嶋・丹波山、かの海士(あま)が古里田井(たい)の畑村など、めの下に見おろし」と書かれている。須磨・明石左右に分かれるというところから、『猿蓑』に収録されている、

 

   (この)境はひわたるほどといへるも、ここの事にや

 かたつぶり(つの)ふりわけよ須磨明石

 

の句を思い出す人もいるだろう。たぶん『笈の小文』の草稿の段階では、まだこの句は完成してなかったのだろう。鉄拐山から六甲へと至る山塊を蝸牛の殻に見立て、二つの角の右が明石、左が須磨だという、何とも大胆な発想だ。服部(はっとり)(らん)(せつ)の、

 

   東山(ひがしやま)(ばん)(ぼう)

 蒲団着て寝たる姿や東山   嵐雪

 

にも勝るとも劣らない。

 

 「又(うしろ)の方に山を隔てて、田井(たゐ)(はた)といふ所、松風・村雨ふるさとといへり。」以降は須磨の景色で、実際には来た方角なのだが、山の向こうに見えたことになっている。そして、芭蕉は一の谷合戦の物語を思い起こし、戦争の犠牲になった女たちのことを思っては涙し、この紀行文は終わる。

九、終わらない旅

 『笈の小文』は未完の紀行文で、どのような事情で中途で放棄されたのかはわからない。須磨から鉄拐山に登った芭蕉はこの後芭蕉は再び須磨に戻り須磨寺を尋ねたあと明石から須磨へと戻って一泊し、翌四月二十一日には布引の滝、能因塚、それに俳諧の祖、山崎(やまざき)宗鑑(そうかん)が住んだとされる山崎の待月庵を尋ねる。そこで、宗鑑が宗長法師とともに三条西実隆(権大納言実隆)を尋ね、かきつばたを献上したとき、

 

 手に持てる姿を見れば餓鬼つばた   実隆

 

と詠んだその句を思い起こし、

 

 有りがたき姿おがまんかきつばた   芭蕉

 

の句を詠む。餓鬼というのは道を誤った仏教者が常に飢餓の苦しみから逃れられなくなることを言うのだが、権大納言からすれば宗長、宗鑑などの連歌師は風雅の道に惹かれ道を誤った乞食坊主だったのだろう。この発句に対し、宗長は、

 

    手に持てる姿を見れば餓鬼つばた

 のまんとすれど夏の沢水   宗長

 

と脇を付ける。夏の暑い盛りの沢水はありがたいが、腹はふくれないという意味か。それにさらに宗鑑が第三を付ける。

 

    のまんとすれど夏の沢水

 (くちなは)に追はれて何地(いづち)かへるらん   宗鑑

 

 もっとも、宗長の脇と宗鑑の第三に関しては真偽不明で、後の創作かもしれない。

 その水を飲もうにも、蛇がいるのでは飲めやしない。かといって帰るに帰れない。いずれにせよ身分の差を笑いのネタにされた宗鑑も、芭蕉からすれば偉大な先人には変わりない。

 そして、二十三日には京都に行く。そして、秋には信州の姨捨山の月を見に『更科紀行』の旅に出、そのあとようやく江戸に戻るのもつかの間(この間、元号が貞享五年から元禄元年に改元される)、翌元禄二(一六八九)年三月二十七日には『奥の細道』の旅に出る。じっくり落ち着く間もなく、次の旅が始まってしまったことが、『笈の小文』が中途で放棄された原因か。

 行基・鑑真・空海の努力によって根を下ろした仏教は、やがて今でいうNGOのように、独自の経営基盤を固め、農地の開発や架橋などの土木事業、貧民救済や医療活動などの福祉事業、教育などの文化事業など、今日なら公共事業に相当する部門をことごとく民間の力で実現していった。それゆえ、中世にあって寺社勢力は朝廷や幕府も一目置く存在になっていた。こうした時代を明治以降の国家を中心とした世界観では、坊主が政治に口をはさみ、呪術的権威が支配した暗黒時代ということになってしまったのかもしれない。

 中世にあっては寺社はその資金集めと布教活動とをかねて、様々な芸能を大衆の間に広めていった。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。」もそうした寺社を中心にした、いわゆる公界(くがい)に咲いた文化だった。しかし、近世に入ると織田信長によって寺社勢力の拠点はほとんど虐殺といってもいいような仕方で弾圧され、それを引き継ぐように徳川幕藩体制下でも、寺社の活動は大幅に制限された。

 芭蕉は既に衰退した寺社の文化に戻ることはできなかった。新大仏寺や神宮寺で往年の面影をしのぶことはできても、もはや過ぎ去った時代のものだった。芭蕉の時代に課せられた課題は、むしろそれを都市文化が引き継ぐことだったのではなかったか。

 

 しかし、芭蕉もその点では古い世代だった。芭蕉は一方では都市での大衆文化(ポップカルチャー)の扉を開いた。しかし、一方では(れん)(じゅ)を集めての興行俳諧のスタイルにこだわり、中世芸能者のパロディーを演じるかのように一所不住の旅を続けた。芭蕉自身は自らを西行、宗祇、雪舟、利休と並ぶ最後の中世的巨匠に位置づけたかったのかもしれない。もちろん、その新旧両面を持っていたからこそ、芭蕉は中世芸能の精神を近世の都市文化に橋渡しできたとも言える。だが、残念ながら、明治の近代俳句の誕生の際にそぎ落とされたのは、まさにその部分だった。

あとがき

 さてこうやって『笈の小文』を読んできたが、ここには特に目新しい解釈はない。

 俳句の解説というのは、ともするといかに現代文学的に新解釈するかを競うような所があり、それこそ俺はこの句からこんなけ想像を膨らませることができるんだということをアピールするかのような所がある。だから、このように普通の解釈をされてしまうと、かえって戸惑う向きもあるかもしれない。

 新解釈だろうと珍解釈だろうと、面白ければそれでいいじゃないかというなら、別にそれに反論しようとは思わない。それは趣味の問題だ。

 ただ、芭蕉の作品を一つの歴史としてみた場合、それを研究する方法は確立されなくてはならない。基本的には同時代史料の尊重が大事だと思う。

 「芭蕉の先鋭性は同時代の人に到底理解できるものではなく、その真意を明らかにするには正岡子規の登場を待たねばならなかった。」などと言って、平然と同時代資料を無視しようという研究は取るに足らない。その先鋭性とやらが単なる写生だというなら笑える。

 私の非才ではこの手のものがまかり通る俳人研究の状況を変えることができない。今はただ、本当に才能ある研究者が現われるのを待つのみである。

参考文献

芭蕉関係

  『芭蕉紀行文集』中村俊定校注、1971、岩波文庫

  『おくのほそ道』萩原恭男校注、1979、岩波文庫

  『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫

  『芭蕉俳句集』中村俊定校注、1970、岩波文庫

  『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、1976、岩波文庫

  『蕉門名家句選』(上下)堀切実編注、1989、岩波文庫

  『去来抄・三冊子・旅寝論』?原退蔵校訂、1939、岩波文庫

  『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、1939、岩波文庫

  『風俗文選』伊藤松宇校訂、1928、岩波文庫

  『俳諧問答』横澤三郎校注、1954、岩波文庫

  『松尾芭蕉』尾形仂、1989、ちくま文庫

  『芭蕉百五十句』安東次男、1989、文春文庫

  『芭蕉三百句』山本健吉、1988、河出文庫

  『文芸読本、松尾芭蕉』1978、河出書房新社

  『芭蕉の書と画』岡田利兵衛著作集・、1997、八木書店

  『芭蕉年譜大成』今栄蔵、1994、角川書店

  『芭蕉庵桃青の生涯』高橋庄次、1993、春秋社

  『松尾芭蕉』宮本三郎、今栄蔵、1967、桜風社  『芭蕉論』上野洋三、1986、筑摩書房

  『芭蕉二つの顔』田中善信、1998、講談社

  『芭蕉とその方法』井本農一、1993、角川書店

  『芭蕉の狂』玉城徹、1989、角川書店

  『芭蕉の世界』山下一海、1985、角川書店

  『芭蕉のうちなる西行』目崎徳衛、1991、角川書店

  『笑いと謎』復本一郎、1984、角川書店

  『芭蕉古池伝説』復本一郎、1988、大修館書店

  『俳句を楽しむ』復本一郎、1990、雄山閣

  『芭蕉歳時記』乾裕幸、1991、富士見書房

  『芭蕉マンダラの詩人』竹下数馬、1994、クレスト社

  『芭蕉句々』清水杏芽、1988、洋々社

  『芭蕉俳諧における詩的表現形態の研究』四戸宗城、1980、桜楓社

  『芭蕉の俳諧』(上下)暉峻康隆、1981、中公新書

  『芭蕉さんの誹諧』中尾青宵、1996、編集工房ノア

 『奥の細道』山本健吉、1989、講談社

  『旅人曾良と芭蕉』岡田喜秋、1991、河出書房新社

  『芭蕉』白石悌三、1988、花神社

  『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71、大内初夫校注、1994、岩波書店

  『芭蕉の門人』堀切実、1991、岩波新書

  『大和路の芭蕉遺跡』増田晴天楼、2004年、奈良新聞社


俳諧関係

  『談林叢談』野間光辰、1989、岩波書店

  『俳諧の系譜』鈴木棠三、1989、中公新書

  『宗因独吟俳諧百韻評釈』中村幸彦、1989、富士見書房

  『俳諧史の研究』穎原退蔵、1948、星野書店

  『近世俳句俳文集』日本古典文学大系、阿部貴三男、麻生磯次校注1964、岩波書店

  『連歌俳諧集』日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館

  『俳家奇人談、続俳家奇人談』竹内玄玄一、1987、岩波文庫

  『女性俳句の世界』上野さち子、1989、岩波新書


連歌関係

  『連歌文学の研究』福井久蔵、1948、喜久屋書店

  『連歌論集』(上下)伊地知鉄男編、1956、岩波文庫

  『宗祇』奥田勲、1998、吉川弘文館

  『宗祇の生活と作品』金子金治郎、1983、桜風社

  『宗祇と箱根』金子金治郎、1993、神奈川新聞社

  『連歌師宗祇』島津忠夫、1991、岩波書店

  『宗祇』荒木良雄、1941、創元社

  『宗祇』小西甚一、1971、筑摩書房

  『心敬』篠田一士、1987、筑摩書房


その他

  『元禄時代』日本の歴史16、児玉幸多、1984、中央公論社

  『元禄文化-遊芸・悪所・芝居』守屋毅、1987、弘文堂

  『山の宗教』五来重、1991、角川書店

  『空海の足跡』五来重、1994、角川書店

  『修験の世界』村山修一、1992、人文書院

  『出羽三山と日本人の精神文化』松田義幸変、1994、ぺりかん社

  『性と呪殺の密教』正木晃、2002、講談社 『道教と古代日本』福永光司、1987、人文書院

  『日本史を彩る道教の謎』高橋徹、千田稔、1991、日本文芸者

  『日本の道教遺跡』福永光司、千田稔、高橋徹、1987、朝日新聞社

  『鑑真』安藤更生、1967、吉川弘文館

  『おん目の雫ぬぐはばや』王勇、2002、農山漁村文化協会

  『近代日本と東アジア』加藤祐三編、1995、筑摩書房

  『日本名僧論集 第一巻 行基 鑑真』平岡定海、中井真孝、1983、吉川弘文館

  『日本宗教事典』村上重良、1988、講談社学術文庫

  『天平の僧 行基』千田稔、1994、中央公論社

  『和歌の浦 歴史と文学』薗田香融監修、1993、和泉書院

  『春日明神 氏神の展開』上田正昭編、1987、筑摩書房