芭蕉発句集四

     ──奥の細道から無名庵入庵前まで── 

呟きバージョン


 芭蕉の句を芭蕉になり切った形でツイッターで呟いたものをまとめてみた。

 出典や参考文献などは省略しているので、歴史小説のような半分フィクションとして読んでほしい。

 芭蕉を小説に登場させる時の参考にでもしてもらえればいいと思う。

奥の細道の旅

 

 草の戸も(すみ)(かは)()ぞひなの家

 

 みちのくに旅立つ時に、家は人に譲った。まあ、鯉屋(こいや)の敷地だから、住まわせてもらってただけだけどね。

 まあ、何か自分の息子夫婦と言っていいような若い家族なんで、代替わりみたいな気分だ。

 本当は三月二十六日にひっそりと旅立ったんだが、千住(せんじゅ)に着くとたくさんの門人があとからあとから別れを惜しみに詰めかけて、一旦杉風の採茶庵に戻って表八句を巻いたり、酒飲んだりして、翌早朝に再出発して春日部まで行った。

 

註、曾良旅日記に、

 

「巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下尅、千住ニ揚ル。

一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。 江戸ヨリ九里余。」

 

とある。従来最初の日の廿日とあるのを二十七日の間違いとする説と、二十日に出発して千住に二十七日まで滞在したという説があるが、ここでは中を取って二十六に出発、二十七日再出発とする。

『奥の細道』の出発の場面は、

 

 「弥生も末の七日、明ぼのの空朧々(ろうろう)として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる物から、不二(ふじ)の峰(かすか)にみえて、上野・谷中の花の(こずえ)、又いつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて、船に(のり)て送る。せんじゅといふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ」

 

とあり、まだ薄暗いうちに出発して春日部まで九里の道を千住までは船で、そこから先は馬で行ったものと思われる。

 

 

 鮎の子の白魚(おく)(わかれ)かな

 

 深川から船で千住へ行き、そこから日光街道で北へ向かった。

 千住で門人たちと別れる時の句で、海に住むたくさんの白魚たちが、川を上って行く鮎を見送ってるかのようだ。

 そう、白魚はまだ子供だ。これから広い海原へ出て行って大きな明日がある。

 年老いた自分は川を上るだけだ。

 

 

 (ゆく)はるや鳥(なき)魚の目は(なみだ)

 

 千住での旅立ちの句は、

 

 鮎の子の白魚送る別かな

 

だったが、紀行文を書く時に大幅に作り直した。

 (すみ)田川(だがわ)と言えば業平(なりひら)(みやこ)(どり)

 

 「さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ。」

 

今もまた都鳥が鳴き、魚が食われて涙を流す。悲しい別れだ。

 鳥と魚と言えば、この頃出版された()()()の素堂の句、

 

 目には青葉山ほととぎす初がつを

 

 この句は大ヒットになり、今や江戸中の人が知る所となった。そんな素堂への祝福も兼て、(ゆく)(はる)で折からホトトギスが鳴いて初鰹が涙を流している、という意味も含ませておこう。

 鳥と魚の取り合わせは、詩経の「鶴鳴」が元で、

 

 鶴鳴于九皐

 聲聞于野 魚潜在淵

 或在于渚 樂彼之園

 

とある。長明が方丈記にも、

 

 「魚は水に飽かず。いを(魚)にあらざれば、その心をしらず。とりは林をねがふ。鳥にあらざれば、その心をしらず。」

 

とある。

 

 

 糸遊(いとゆふ)(むすび)つきたる煙哉

 

 327日にみちのくへと旅立って、春日部に一泊、間々田(ままだ)に一泊して29日の小晦日、(むろ)八島(やしま)に行った。

 藤原(ふじわらの)実方(さねかた)朝臣の歌に、

 

 いかでかは思ひありともしらすべき

    室の八島の煙ならでは

 

と詠まれたような煙もなく、陽炎だけがゆらゆらしていた。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿九日、辰ノ上尅マゝダヲ出。

 一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。

 一 小田(山)ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。

 一 此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカゝリ、室ノ八島ヘ行(乾ノ方五町バカリ)。スグニ壬生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。

 一 壬生ヨリ楡木へ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。

 一 にれ木ヨリ鹿沼ヘ一り半。 

 一 昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火(文)バサミヘ弐リ八丁)ニ泊ル。(火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石へ弐リ。 )。」

 

とある。二十七日に春日部泊、翌二十八日間々田泊、翌二十九日室の八島へ行き、鹿沼に泊まる。

 

 

 (いり)かゝる日も程々に春のくれ

 

 みちのくへ向かう途中の鹿沼(かぬま)での句。

 折しも329日の小晦日(こつごもり)で、春も今日で終わり。

 (むろ)八島(やしま)に行った時は晴れていて陽炎も立っていたが、だんだん雲が出てきて、今では夕日も見えないまま沈んでゆく。ちょっと淋しい。

 

 

 鐘つかぬ里は何をか春の暮

 

 みちのくへ向かう旅の途中、329日、小の月なので、今日で春も終わり。

 この辺りは入相の鐘の音も聞こえてこない。

 暮春の句を作っておいて、あとで紀行文にする時に使えるかなと思ったけど、千住の方で行く春の句を作ったので、結局使わなかった。

 

 

 入逢(いりあひ)の鐘もきこえず春の暮

 

 みちのくへ向かう旅の途中、329日、小の月なので、今日で春も終わり。

 この辺りは入相の鐘の音も聞こえてこない。

 

 鐘つかぬ里は何をか春の暮

 

と二句作ってみたが、今一つだ。

 

 

 あらたうと青葉若葉の日の光

 

 みちのくの旅で日光に行った時に作った句は、

 

 あらたふと()下闇(したやみ)も日の光

 

だった。

 夏の強い太陽は木や草を鬱蒼と茂らせて、太陽を隠してしまう。

 そんな闇にも光を当ててくれるという日光の東照宮様は尊いお方だ。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日曇、午ノ尅、日光ヘ着。雨止。清水寺ノ書、養源院ヘ届。大樂院ヘ使僧ヲ 被レ添。折節大樂院客有レ之、未ノ下尅迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。壱五弐四 。」

 

とある。この日は曇っていた。

 

 

 暫時(しばらく)は滝に(こも)るや()の初

 

 42日はよく晴れた日で、日もやや高くなってから日光の(かん)(まん)(ふち)(うら)()の滝を見て回った。

 裏見の滝はその名の通り滝の裏側に入ることができる。昨日から夏だから、

 裏見の滝は、最初は恨むに掛けてホトトギスの杜宇の故事から、

 

 (ほとと)(ぎす)うらみの滝のうらおもて

 

としたが、これでは日光の句にしては暗い。

 心の裏を見せるという所から竹を割ったようなさっぱりした、

 

 うら見せて涼しき滝の心哉

 

とした。

 紀行文では、滝の名は地文に入れて夏の初めを()(ぎょう)(はじめ)に掛けた。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 同二日 天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出 。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈(那)須・太田原ヘ趣。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡リト云所ヘカゝルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左ヘノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村へカゝリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。

  ○今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。

  ○大渡ヨリ船入ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡し。

  ○船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上尅ヨリ雷雨甚強、漸ク玉入ヘ着。

 一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル 。」

 

とある。

 『奥の細道』には、

 

 「廿余丁山を登つて滝有り。(がん)(とう)(いただき)より飛流して百尺(はくせき)千岩(せんがん)碧潭(へきたん)に落たり。岩窟(がんくつ)に身をひそめ入りて滝の裏よりみれば、うらみの滝と申し伝え侍る也」

 

とある。

 

 

 ほとゝぎすうらみの滝のうらおもて

 

 42日はよく晴れた日で、日もやや高くなってから日光の憾満ヶ淵と裏見の滝を見て回った。

 裏見の滝は裏に人の通れるスペースがあり、滝を裏から見ることができるのでその名がある。

 地名を歌枕にして詠む時は掛詞にするのが定石で、最初は裏見だから恨みに掛けて、ホトトギスの杜宇(とう)の恨みにしてみた。

 あとで紀行文を書こうと思いたった時、まず歌枕の句はその地名を折り込むのが常套手段だったから、裏見の滝で「うらみ」と考えた時に真っ先に思い浮かんだのが、ホトトギスの杜宇(とう)の故事だった。

 

 

 うら見せて涼しき滝の心哉

 

 みちのくの旅を文章にする時に考えた句の一つだったかな。

 裏見の滝は、最初は「恨む」からホトトギスを導き出して、

 

 (ほとと)(ぎす)うらみの滝のうらおもて

 

としてみたが、心に裏表ない竹を割ったようなクールな心意気も悪くないと思って、

 地名を歌枕にして詠む時は掛詞にするのが定石で、最初は「恨み」にかけてホトトギスを出してみたが、それじゃ暗いので「心の裏を見せる」、つまり心に裏表なくさっぱりした、というふうにしてみた。

 

 

 田や麦や中にも夏のほとゝぎす

 

 黒羽(くろばね)へ行く途中だったか。

 この辺りの田んぼは田植え前で苗代の緑がまだ春のようだった。

 その一方で麦は赤らんできて秋のようだった。

 そこに夏のホトトギスが‥。

 

 

 (まぐさ)おふ人を枝折(しをり)の夏野哉

 

 43日に黒羽(くろばね)に到着して、その日は黒羽城のすぐ下の芦野(あしのの)民部(みんぶ)の屋敷に呼ばれた。

この句は、こんな畏まった場所は恐れ入るので、日頃()(ぐさ)を背負ってるような牧童にでも案内していただきたい、という謙遜の挨拶。

 民部の返事は、

 

 青き()盆子(ちご)をこぼす椎の葉

 

 では、椎の葉に青い苺をお持ちしましょう。

 この日は表六句で終わり、続きは翌日浄法寺図書の所で行われた。

 津久井氏の()(りん)が試しに八句目を付け、二の懐紙から曾良、民部、翅輪との四吟になった。

 二裏で詰まった時は二寸に救われ、最後の花の定座は浄法寺図書にお願いした。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 同三日 快晴 。辰上尅、玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモ二リ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。

 一 四日 浄法寺図書ヘ被レ招。」

 

とある。

 芦野民部は芦野民部(あしののみんぶ)鹿子(かのこ)(はた)豊明(とよあき)で俳号(すい)(とう)は。浄法寺図書は浄法寺図書高勝(たかかつ)で俳号は(しゅう)()(とう)(せつ)ともいう。

 

 

 山も庭にうごきいるゝや夏ざしき

 

 みちのくの旅の途中、43日に黒羽に到着し、その日は芦野民部の屋敷に泊まり、翌日は民部の兄の黒羽藩家老の浄法寺図書の家に呼ばれた。

 ここも立派な家で、庭の借景が見事だった。

 昨日表六句で終わった俳諧の続きを津久井翅輪や蓮見伝之丞を交えて続きをやり、最後の花の句は図書に持ってもらった。

 

註、蓮見伝之丞は俳号桃里(とうり)

 

 

 木啄(きつつき)(いほ)はやぶらず(なつ)木立(こだち)

 

 みちのくの旅の途中、45日に那須雲岩寺(うんがんじ)に行った。(ぶっ)(ちょう)和尚(おしょう)さんが修行したという庵の跡があった。

 仏頂さんは深川にいた時近くに臨川庵があって、深川移住した頃は参禅してみたけど、すぐに俳諧のことが浮かんできちゃうからね。喝!ってやられたな。

 鹿島根本寺へも月見のついでに会いに行ったっけ。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 五日 雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天気吉。」

 

とある。

 

 

 夏山に足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)

 

 黒羽に着いて雲巌寺へも行ったが、そのあとしばらく雨続きで、そんな雨の中、光明寺(こうみょうじ)に招かれた。

 修験の寺で、天狗の履くような大きな高下駄があった。

 足駄の「足」に首途の「首」と結ぶ。これもちょっとしたお遊び。

 この先の旅の無事を祈り‥。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 六日ヨリ九日迄、雨不レ止。九日、光明寺ヘ被招。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ帰ル。」

 

とある。

 

 

 鶴(なく)(その)声に芭蕉やれぬべし

 

 みちのくの旅で黒羽に行ったとき光明寺に招かれて、芭蕉に鶴を描いた絵に画賛を頼まれた。

 芭蕉の葉は薄物の破れやすさを本意とする。その基本通りに。

 

 

 野を横に馬(ひき)むけよほとゝぎす

 

 まあ、俳諧師も商売だからね。いきなり発句を詠んで短冊をくれと言われてもね。でも、ホトトギスの聞こえるところまで馬を引いて行って案内してくれるなら、一句浮かばないとも限らないけどね。

 おお、一句出来た。これを君にあげよう。

 

註、『奥の細道』には、

 

 「(これ)より殺生石に(ゆく)。館代より馬にて送らる。此の口付(くちつき)のおのこ、『短冊得させよ』と乞ふ。やさしき事を望み侍るものかなと」

 

とある。

 

 

 落くるやたかくの宿(しゅく)(ほとと)(ぎす)

 

 黒羽から那須に向かったが、途中原街道の高久宿まで来た時に雨が降ってきて、ここから那須への道が整備されてないぬかり道だと聞いて、仕方なく角左衛門の宿に泊まった。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 十六日 天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被二立越一。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ 被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。 雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被添。」

 

とある。

 

 

 湯をむすぶ(ちかひ)も同じ石清水

 

 417日は一日雨で、この辺りの道は悪く、高久角左衛門の宿で一日過ごした。

 翌18日、夜明けに地震があった。午前中に雨が止んで昼頃出発した。すっかり晴れてきて夕暮れには湯本の五左衛門の宿に着いた。

 翌19日も天気が良く、五左衛門の案内でまず()(ぜん)大明神に参拝。相殿に石清水の八幡様が祀られてた。

 那須与一が屋島で扇の的を射る時、八幡大菩薩と二荒山神社と湯泉大明神に祈りを捧げて見事的中させたため、湯泉大明神の相殿に石清水八幡宮を移して、一度に両方の神に祈れるようにしたという。

 石清水の冷泉と那須の温泉が一つということで‥。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 十九日 快晴 。予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽へ戻ス。午ノ上尅、湯泉ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬(射)残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。 宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不レ定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不レ出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所ノ云也。

  温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、雨(両 )神一方ニ拝レセ玉フヲ、

   湯をむすぶ誓も同じ石清水   翁

  殺生石

   石の香や夏草赤く露あつし

  正一位ノ神位被加ノ事、貞亨四年黒羽ノ館主信濃守増栄被二寄進一之由。祭礼九月二十九日。」

 

とある。

 

 

 石の()や夏草赤く露あつし

 

 元禄2419日、みちのくの旅で那須の殺生石を見た時の句。

 これはそのまんまで、湯気が立っていて硫黄の匂いがして草が赤茶けていた。

 

 

 田一枚(うゑ)(たち)去る柳かな

 

 420日、那須湯本を出て奥州街道の芦野宿に行った。

 ここに西行ゆかりの柳があると以前からここの旗本の蘆野民部に言われてて、茶屋の市兵衛の案内で行ってみた。

 

 道の辺に清水流るる柳陰

    しばしとてこそ立ち止まりつれ

 

の歌の「しばし」を俳諧らしく、田一枚植え終わるまでとしてみた。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿日 朝霧降ル。辰中尅、晴。下尅、湯本ヲ立。ウルシ塚迄三 リ余。 半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不レ知シテ難レ通。

  一 芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ (十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)、八幡ノ大門通リ之内、左ノ方ニ遊行柳有。其西ノ四五丁之内ニ愛岩(宕)有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄仍ノ松トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブスナ也 (市兵衛案内也。スグニ奥州ノ方、町ハヅレ橋ノキハヘ出ル。)

  一 芦野ヨリ一里半余過テ、ヨリ居村有。是ヨリハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。

  一 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。 小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル(旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄妙ニ拝。)」

 

とある。

『奥の細道』には、

 

「又、清水ながるるの柳は(あし)()の里にありて田の(くろ)に残る。此の所の(ぐん)(しゅ)戸部(こほう)(なにがし)の、此の柳みせばやなど折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日(この)(柳のかげにこそ立ちより侍りつれ」

 

とある。

 

 

 早苗(さなへ)にもわがいろ黒き日数哉

 

 いよいよ白河の関を越えるというので、能因法師の、

 

 都をば霞とともに立ちしかど

     秋風ぞ吹く白河の関

 

の歌を思い出した。

 能因法師が実は白河に入ってなくて、わざと体を日に焼いて旅をしたように見せかけたという話が何かの本にあった。

 自分は今ちゃんと日焼けして、この田植の季節に白河の関を越える。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿一日 霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉 嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣。行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由 。成就山満願寺ト云。旗ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行基菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。 真言宗也。本堂参詣ノ比、少雨降ル。暫時止。コレヨリ白河ヘ壱里半余。中町左五左衛門ヲ尋。大野半治ヘ案内シテ通ル。黒羽ヘ之小袖・羽織・状、左五左衛門方ニ預置。 置。矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。 今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ。

  ○白河ノ古関ノ跡、旗ノ宿ノ下里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。」

 

とある。

能因法師が実は白河へ行ってなかったというのは『袋草紙』に見られる説。

 

 

 西か東か(まづ)早苗にも風の音

 

 奥州街道に境の明神という二つの神社があって、そこが白河の関だと思ってたら、曾良がその先で右に曲がると言い出す。

 古代の東山道は東を通っていて、そっちに本当の白河の関があったとのことだ。

 その古い街道を後戻りして、追分の明神という所まで行った。

 田んぼの早苗が風に揺れていた。

 

 

 風流の(はじめ)やおくの田植うた

 

 須賀川の乍憚(さたん)の家に泊まった時に、曾良と三人で三吟歌仙を巻いた。

 折からこの辺りでは田植えの季節で、この地方独特の田植え歌のエスニックな響きに心打たれて、その興でもって今宵の風流を始めましょうと呼びかけた。

 須賀川で乍憚は白河の関はどうやって越えたのかという。

 思い返すと普通に奥州街道で白河へ行くのかと思ってたら、曾良が古代の道はここではないと言い出し、途中で右へ曲がって行くと、確かにそれっぽい街道があった。そこで一泊して、 翌日下野の方に戻っていくと神社があり、ここが白河の関という。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿二日 須か川、乍単斎宿、俳有。」

 

とあり、この日の興行の発句と思われる。

乍憚(さたん)(とう)(きゅう)ともいう。曾良旅日記には乍憚とあり、曾良俳諧書留には等躬とある。

改名とも取れるが、加生(凡兆)のように作品に記す号と実際に呼ばれている号が異なることも多い。其角は晋子と呼ばれ、支考は盤子と呼ばれている。あるいは正式な俳号に対して、仲間内で呼ぶあだ名に近いもう一つの俳号があったのかもしれない。芭蕉も芭蕉庵桃青だが、桃青ではなく芭蕉と呼ばれている。

 

 

 世の人の見(つけ)ぬ花や軒の栗

 

 みちのくの旅の途中424日、須賀川滞在の三日目、午前中は乍憚斎の家の田植えで、午後から可伸(かしん)という人の家に行って、蕎麦をご馳走になってから俳諧興行をした。

 発句は、

 

 隠れ家や目だたぬ花を軒の栗

 

だった。

 可伸の庵は栗の木の下にあり、栗は西の木と書くように西方浄土を意味するもので、杖も栗の木で作ったという。

 栗にそんな意味があるなんて知らなかった。

 それにしても匂いが‥。

 紀行文にする時、句を若干作り直した。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿四日 主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニ 而会有。会席、そば切、祐碩賞之。雷雨、暮方止。」

 

とある。

 

 

 関守(せきもり)宿(やど)をくいなにとをふもの

 

 須賀川で白河藩士の何云という人が、白河に来た時に会えなかったのを残念がって、乍憚の所に手紙を書いてきた。

 白河の関を越えた420日は(はた)宿(じゅく)に泊まり、その次の日には白河を通り越して矢吹(やぶき)まで行ったからな。

 旗宿にいる時に水鶏が戸を叩いて知らせてくれてれば。

 

 

 さみだれは滝降りうづむみかさ哉

 

 みちのくの旅の途中、須賀川に滞在した頃、426日に小雨降る中を石河滝を見に行った。

 残念ながら川が雨で増水してて川を越えられず、滝まで辿り着けなかった。これはその時の句。

 29日、須賀川を発つ時にもう一度行ったら、今度は川を越えられて、滝を見ることができた。幅がとにかく広い。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿九日 快晴。巳中尅、発足。石河滝見ニ行(此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡)。須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。 歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハゞ百二、三十間も有レ之。滝ハ筋かヘニ百五六十間も可有。高サ二丈、壱丈五六尺、所ニ より壱丈計ノ所も有レ之。それより川ヲ左ニナシ、壱里計下リテ 、向小作田村と云馬次有。ソレより弐里下リ、守山宿と云馬次有。御代官諸星庄兵へ殿支配也。問屋善兵へ方(手代湯原半太夫)へ幽碩ヨリ状 被レ添故、殊之外取持 。又、本実坊・善法寺へ矢内弥市右衛門状遣ス。則、善兵へ、矢内ニテ、先大元明王へ参詣。裏門より本実坊へ寄、善法寺へ案内シテ本実坊同道ニテ行。 村レ雪(雪村 )哥仙絵・讃宗鑑之由、見物。内、人丸・定家・業平・素性・躬恒、五ふく、智證大し并金岡がカケル不動拝ス。探幽ガ大元明王ヲ拝ム。守山迄ハ乍単ヨリ馬ニテ 被レ送。昼飯調テ被レ添。守山 より善兵へ馬ニテ郡山(二本松領)迄送ル。カナヤト云村へかゝり、アブクマ川ヲ舟ニテ越、本通日出山ヘ出ル。守山ヨリ郡山ヘ弐里余。日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。宿ムサカリシ。」

 

とあり、この日に石河滝を見たのは間違いない。ただ俳諧書留には、

 

 「須か川の駅より東二里ばかりに、石河の滝といふあるよし。行て見ん事をおもひ催し侍れば、此比の雨にみかさ増りて、川を越す事かなはずといゝて止ければ

 さみだれは滝降りうづむみかさ哉」

 

とあり、川を越えられずに止めたことが記されている。おそらく、曾良旅日記に、

 

「一 廿五日 主物忌、別火。

   廿六日 小雨ス。

 一 廿七日 曇。三つ物ども。芹沢ノ滝ヘ行。」

 

とある中の二十六日ではないかと思われる。

この説は日本経済新聞1999、11、24、夕刊に、

 

「『実は芭蕉が、実際にその場所を見ずに想像して詠んだのではないかといわれている句があるんです』。須賀川市立博物館の館長で案内役の横山大哲さん(51)が、いきなり爆弾発言。」

 

という記事があり、

 

「確かに芭蕉は、須賀川を去るとき、滝に立ち寄った。ところがこの句は、どうも須賀川に滞在中に詠んだ可能性があるという。芭蕉は一度、滞在中に滝を見にいこうとしたが、雨で断念している。『想像で句を作り、あとで実際に訪れで確認したのではないか』(横山さん)

 

とある。句をよく読むなら、これは想像作ったというよりは、滝を埋めるほどの水嵩で、滝が見られなかったという句であることがかる。

 

 

 早苗とる手もとやむかししのぶ(ずり)

 

 みちのくの旅の52日。福島を出て川を渡った先に柵があって、その中に文字摺(もじずり)石があった。

 

 陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆゑに

    乱れ染めにし我ならなくに

 

の歌で有名だが、昔は山の上にあったが邪魔なので下に落として、今はここに逆さなってるという。摺衣の製法も途絶え、田植えする人しかいない

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 二日 快晴。福 嶋ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラベ(五十辺)村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七八丁行テ、アブクマ川ヲ舟ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ(文字摺)石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六七本有。虎が清水ト云小ク浅キ水有。福 嶋ヨリ東ノ方也。其辺ヲ山口村ト云。ソレヨリ瀬ノウヱヘ出ルニハ、月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ十四五丁ニテ瀬ノウヱ也。山口村ヨリ瀬ノ上ヘ弐里程也。

 一 瀬ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不レ入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。 堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。ソノワキニ兄弟ノハタザホヲサシタレバ、はた出シト云竹有。毎年、弐本ヅゝ同ジ様ニ生ズ。寺ニハ判官殿笈・弁慶書シ経ナド有由。系図モ有由。福島ヨリ弐里。こほり(桑折)よりモ弐里。瀬ノウヱヨリ壱リ半也。川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。 村ノ上ニ庄司館跡有。下リニハ福嶋ヨリ佐波野・飯坂・桑折ト可レ行。上リニハ桑折・飯坂・佐場野・福 嶋ト出タル由。昼より曇、夕方より雨降、夜ニ入、強。飯坂ニ宿、湯ニ入。」

 

とある。

元禄九年に陸奥(みちのく)を旅した桃隣(とうりん)は、文字摺石の様子を、

 

「福嶋より山口村へ一里、此所より阿武隈川の渡しを越、山のさしかかり、谷間に文字摺の石有。石の寸尺は風土記に委見えたり。いつの比か岨より轉落て、今は文字の方下に成、石の裏を見る。扇にて尺をとるに、長さ一丈五寸、幅七尺余、檜の丸太をもて圍ひ、脇よりの目印に杉二本植、傍の小山に道祖神安置ス。」

 

と記している。

 

 

 (おひ)太刀(たち)五月(さつき)にかざれ(かみ)(のぼり)

 

 52日に仙台(どう)瀬上(せのうえ)宿(しゅく)から左へ二里ほど行った(さば)()というところにある佐藤(さとう)庄司(しょうじ)ゆかりの瑠璃光山医(るりこうざんい)王寺(おうじ)へ行った。

 はっきりと覚えてないが判官(ほうがん)義経(よしつね)や弁慶の笈や太刀があったと思う。

 折から端午の節句も近いということで‥。

 

 

 桜より松は二木(ふたき)三月(みつき)()

 

 54日、雨も少し止んで白石を出てしばらく行くと、岩沼という所に竹駒明神があり、そこに武隈の松もあった。

 あの磐城平藩の殿様の句にも、

 

 武隈の松も二木や二度の春 風虎

 

とあり旅立つ時も、

 

 武隈の松見せ申せ遅桜 挙白

 

の句をもらった。

 江戸を出たのは桜も散る三月二十七日。今は五月四日。三月、四月、五月、まあ三月越しといったところか。二木を三月、語呂も良かろう。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 四日 雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折々日ノ光見ル。 岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。

  ○笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有、三ノ輪・笠島と村並テ有由、行過テ不見

  ○名取川、中田出口ニ有。大橋・小橋二ツ有。左ヨリ右ヘ流也。

  ○若林川、長町ノ出口也。此川一ツ隔テ仙台町入口也。夕方仙台ニ着。其夜、宿国分町大崎庄左衛門 。」

 

とある。

 

 

 笠島(かさしま)はいづこさ月のぬかり道

 

 仙台道岩沼宿と増田宿の間に、左へ一里へ行ったところに名取郡笠島の道祖神の社があったらしい。

 古代の出羽路の脇だったらしい。曾良がその分岐点を見過ごしちゃったようだ。

 道祖神の招きで旅立ったというのに‥。

 

註、元禄九年、桃隣のみちのくの旅を記した『舞都遲(むつち)()()』には、

 

「岩沼を一里行て一村有。左の方ヨリ一里半、山の根に入テ笠嶋、此所にあらたなる道祖神御坐テ、近郷の者、旅人参詣不絶、社のうしろに原有。實方中将の塚アリ。五輪折崩て名のみばかり也。傍に中将の召されたる馬の塚有。」

 

とある。

 

 

 あやめ草足に結ん草鞋(わらじ)の緒

 

 57日、よく晴れた良い天気で、嘉右衛門の案内で仙台東照宮、陸奥国分尼寺、和歌にも詠まれたつつじが丘を見て回った。

 翌日仙台を発つということで、餞別にいろんなものを貰ったが、その中に蛇除けになるという紺の鼻緒の草鞋二足を貰った。漢女の花のようで、

 仙台というと三千風。西鶴の矢数俳諧の誘いに乗って、一日三千句の独吟興行を行った。

 千句興行は連歌の時代からあったが、三千句となると、十数える間に次の句を付けなくては日が暮れてしまう。とにかく凄い。

 自分は信章との両吟で二百句がやっとだった。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 七日 快晴 。加衛門(北野加之)同道ニ 而権現宮を拝。玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神へ詣、木の下へ行。薬師堂、古へ国分尼寺之跡也。帰リ曇。夜ニ入、加衛門・甚兵へ入来 。冊(短)尺并横物一幅づゝ翁書給。ほし飯一袋、わらぢ二足、加衛門持参。翌朝、のり壱包持参。夜ニ降。」

 

とある。

 

 

 (しま)(じま)\や千々(ちぢ)にくだきて夏の海

 

 松島に行った日は良く晴れていた。

 朝日も登ってから塩釜明神に詣でて、それから船に乗って島々を眺めながら、昼頃松島に着いた。

 午後は(ずい)巌寺(がんじ)を見てから雄島に渡った。帰る頃には日も暮れてきて、空には九日の月が見えた。

 その夜は久之助の宿に泊まった。句はできなかった。

 仕方なく松島を見た日の夜、素堂がくれた詩を読んだ。

 

 夏初松島自清幽 雲外杜鵑声未同

 夏の初めの松島は自ずと清く奥深く、

 雲の上のホトトギスの声はまだ揃わない。

 

 曾良も横にいて、今日はホトトギスが鳴いてたなと、何か考えているようだった。

 曾良が今日はホトトギスが鳴いていたが、松島のホトトギスは何か目出度くないなとか言って、そのうち無名抄の祐盛法師の、

 

 身にぞ知る真野の入江に冬の来て

    千鳥もかるや鶴の毛衣

 

を思い出して、ホトトギスに鶴のコスプレさせようだとか。

 みちのくの旅を後で文章にしようとした時、象潟には「雨に西施」の句があったけど、松島の句がどうしてもできない。

 松島・象潟は一巻の花。「西施」に匹敵する発句道具も見つからず、浮かんだのは大山祇命の島々を砕いた伝説くらいで、これは地文の方に入れて、曾良の「鶴」を採用することにした。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 九日 快晴。辰ノ尅、塩竈明神ヲ拝。帰 而出船 。千賀ノ浦・籬嶋・都嶋等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。茶ナド呑テ瑞岩寺詣、不残見物 。開山、法身和尚(真壁兵四良)。中興、雲居。法身ノ最明寺殿被レ宿岩屈(窟)有。無相禅屈(窟)ト額有。ソレヨリ雄 嶋(所ニハ御嶋ト書)所々ヲ見ル(とみ山モ見ユル) 。御嶋、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。帰而後、八幡社・五太堂ヲ見。慈覚ノ作。松島ニ宿ス。久之助ト云。加衛門状添。」

 

とある。

 

 

 夏草や(つはもの)どもが夢の跡

 

 とにかくこの日は天気も良くて最高の一日だった。

 夏草は蓬や葎の類で、昔から荒れ果てたイメージとして用いられる。

 春の美しい花々も夏の若葉や草が埋めてゆく。その失われた春を惜しむのを古典の本意とする。

 弁慶の立ち往生で知られる高館は、

 

   賦高館戦場  無名氏

 高館聳天星以冑 衣川通海月如弓

 義経運命紅塵外 弁慶揮威白波中

 

というが、実際に見たら低い丘で天に聳えるものではなく、衣川は見たが海なんてどこにもなかった。

 武蔵坊弁慶と共に九郎判官に従って衣川へ行った常陸坊海尊は、徳川の世になっても残夢という老人になって生きていたという。

 

   ふる入道は失にけり露

 海尊や近い頃まで山の秋 信章

 

は延宝の頃の素堂の句。

 さすがに今はそれも夢の跡か。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 十三日 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉へ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉 (伊沢八幡壱リ余リ奥也)ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・ 光堂(金色寺、別当案内)・泉城・さくら川・さくら山・秀平(衡)やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見へズ。タツコクガ岩 ヤへ不レ行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金 雞山見ル。シミン(新御)堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待 。宿ス。」

 

とある。

 

 

 五月雨の(ふり)のこしてや光堂

 

 512日、平泉の名所を見て回った。金色寺の別当の案内で光堂の中を見たが、これは圧巻で、鞘堂(さやどう)を建てて五百年の風雪もなかったかのように、黄金の仏達は光輝いていた。

 これまで荒廃して寺や神社や野晒しの仏像を何度も見てきただけに、鞘堂を建てて保存してきてくれた人々には感謝の言葉しかない。

 まるでここだけ五月雨が降らなかったようだ。

 五月雨は持続的に降るため、年月の経過を表すのにちょうど良かった。

 

 五月雨や年々(としどし)(ふり)五百度(ごひゃくたび)

 

が原案だった。

 嵯峨落柿舎の隠棲を終えた時にも、

 

 五月雨(さみだれ)色紙(しきし)へぎたる壁の跡

 

としてみたが、長い年月に変わらず元のまま残っているものという意味では同巣の句かもしれない。

 

 

 蛍火の昼は消つつ柱かな

 

 大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)朝臣の歌に、

 

 御垣(みかき)(もり)衛士(ゑじ)の焚く火の夜は燃えて

    昼は消えつつ物をこそ思え

 

の歌があった。

 鞘堂の中の光堂は昼でも暗く、その黄金の柱が鈍く光りを放っている。

 今でも夜になると衣川の戦いで亡くなった人たちの魂が夏草の上を蛍になって飛び交ってそうだ。その魂が昼はこうして光堂の柱の光となっているのだろう。

 蚊柱からの連想だが。

 

 

 (のみ)(しらみ)馬の尿(バリ)する枕もと

 

 平泉を見物して一関を出ると、何やら街道から離れた山沿いの道を通って岩出山で一泊した。曾良が言うには古代の道だそうだ。

 翌日、小雨降る中を尿前の関を越えた。大分あれこれ調べられてその日はようやく堺田で宿を取った。

 翌日は大雨で足止めされ、寝ている隣では馬の尿(バリ)の音が凄かった。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 十四日 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。 四リ、岩崎(栗原郡也。一ノハザマ)、藻庭大隈。三リ、真坂(栗原郡也。三ノハザマ、此間ニ二ノハザマ有)。岩崎より金成へ行中程ニつくも橋有。岩崎 より壱リ半程、金成よりハ半道程也。岩崎より行ば道より右ノ方也。

[ 真坂 ] 四リ半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山は正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前 より右ヘ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒埼可見トノ 義也。二リ余、遠キ所也故、川ニ添廻テ、及暮岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓 而又曇テ折々小雨スル也。

 中新田町 小野田(仙台ヨリ最上へノ道ニ出合) 原ノ町 門沢(関所有) 渫沢  軽井沢 上ノ畑 野辺沢 尾羽根沢 大石田船乗 岩手山ヨリ門沢迄、すぐ道も有也。

 一 十五日 小雨ス。右ノ道遠ク、難所有之由故、道ヲ かヘテ、二リ、宮○壱リ半、かぢハ沢。此辺ハ真坂より小蔵ト云かヽりテ、此宿へ出タル、各(格)別近シ。

 ○此間、小黒埼・水ノ小島有。名生貞ト云村ヲ黒崎ト、所ノ者云也。其ノ南ノ山ヲ黒崎山ト云。名生貞ノ前、川中ニ岩 嶋ニ松三本、其外小木生テ有。水ノ小嶋也。今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。宮・一ツ栗ノ間、古ヘハ入江シテ、玉造江成ト云。今、田畑成也。

壱リ半尿前。シトマヘ ゝ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有。断六ケ敷也。出手形ノ用意可有之也。壱リ半 、中山。

 ○堺田(村山郡小田嶋庄小国之内)。出羽新庄領也。中山 より入口五六丁先ニ堺杭有。」

 

とある。

 

 

 涼しさを(わが)宿(やど)にしてねまる哉

 

 517日に尾花沢の清風の所に辿り着いて、暫く滞在した。

 この日の夜の興行の発句で、清風の脇は、

 

 つねのかやりに草の葉を焼

 

だった。ただこの後清風は忙しくて、翌日から養泉寺に移されて、甥の素英が対応してくれた。素英もこの興行に参加していた。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○十六日 堺田ニ滞留。大雨、宿(和泉庄や、新右衛門兄也)

○十七日 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ肴シ置也。サヽ森 、三リ、市野ゝ。小国ト云へカゝレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出。堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野 ゝ五六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風へ着、一宿ス。

○十八日 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居。」

 

とある。

 

 

 這出(はひいで)よかひやが下のひきの声

 

 以前清風に江戸小石川の関口に招かれて興行した。応安新式ではなく本式連歌のルールを取り入れようとか言って、面白い人だった。

 ただ忙しかったのか、養泉寺に移されて、甥の素英が対応してくれた。

 

 

 まゆはきを(おもかげ)にして紅粉(べに)の花

 

 みちのくの旅の515日に小雨降る中、尿前(しとまえ)の関を越えて堺田に泊まったが、翌日は大雨で足止めされた。

17日に遅れを取り戻すべく尾花沢(おばなざわ)への近道の山刀伐(なたぎり)峠を越えて清風の家にたどり着いた。

紅花(べにばな)の収穫期で、これがいつかどんな人の肌を飾るのか気になるものだ。

 そう思って最初に作ったのが、

 

 (ゆく)すゑは(たが)肌ふれむ紅の花

 

だった。眉掃きも肌に触れる物には違いない。

 これでは即物的すぎるなと思い、527日に立石寺に行く途中に、こっちの方を思い付いた。

 

 

 (ゆく)すゑは(たが)肌ふれむ紅の花

 

 尾花沢の清風の家に滞在した時に紅花を見て思いついた句だが、曾良にはこれは書き止めなくてもいいと言ったんだが、どこから漏れたのか。

 盤ちゃんが確かみちのくへ行ったが、帰って来た時は何も言ってなかったし、そのあと誰かみちのくへ行ったか。

 

 

 (しづか)さや岩にしみ(いる)蝉の声

 

 みちのくの旅の527日、尾花沢から立石寺(りっしゃくじ)へ行った。

 何とか明るいうちに宿坊に着いて、一休みしてから夕暮れの立石寺に行った。

 切り立つ岩には卒塔婆が刻まれ、寺全体が墓石のようだ。

 ひぐらしのなく頃で、長年に渡るこの悲しげな声が岩に染みていているようだ。

 この時の句は、

 

 山寺や(いは)に染み付く蝉の声

 

 だったが今一。

 山寺は前が気にして、寂しさを補って、寂しさの、寂しさや、と案じ、最終的に王籍の入若耶渓の蝉噪林逾静を取り入れた。

 

註、曾良旅日記には、

 

「廿七日 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ 、立石寺へ趣。清風より馬ニテ館岡迄 被レ送ル。尾花沢。二リ、元飯田。一リ、館岡。一リ、六田 (山形へ三リ半、馬次間ニ内蔵ニ逢)。二リよ、天童。一リ半ニ近シ、山寺(宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル )。未ノ下尅ニ着。是ヨリ山形ヘ三リ。

山形へ趣カンシテ止ム。是より仙台へ趣路有。関東道、九十里余。」

 

とある。

 

 

 五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川

 

 みちのくの旅の529日、大石田一栄の家で興行した時に発句は、

 

 五月雨をあつめて涼し最上川

 

だった。「涼し」という褒め言葉は挨拶句ではよく使う。

 このあと新庄に行き、63日に最上川を船で下って羽黒山へ行った。

 あとで紀行文にする時、この時の印象で「早し」と作り直した。

 今まさに急流を下ってるというイメージなら「早し」しかない。

 

曾良旅日記には、

 

「一 廿九日 夜ニ入小雨ス。発一巡終テ、翁 、両人誘テ黒滝へ被参詣。予所労故、止。未尅被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入、帰。

○一 晦日  朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺へ被遊、帰、物ども被書。」

 

とある。

 

 

 水の奥氷室(ひむろ)(たづぬ)る柳哉

 

 61日、大石田から新庄に向かった。

 船形までは馬で送ってってもらったがそこから先は暑い中を歩いた。

 途中柳の木の影にこんこんと湧き出る清水があった。

 水は冷たく、氷室から流れて来るのかと思うくらいだった。

 折から61日。この日は朝廷へ氷室の氷の献上される日で、それに倣って公方様の所にも加賀藩から氷が献上される。

 生き返るような心地で、氷ではないがこの冷たい清水の有り難さは殿様気分だ。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○六月朔 大石田を立。辰刻、一栄・川水、弥陀堂迄送ル。馬弐疋、舟形迄送ル。二リ。一リ半、舟形。大石田より出手形ヲ取、ナキ沢ニ納通ル。 新庄より出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納通。両所共ニ入ニハ不構。二リ八丁新庄、風流ニ宿ス。」

 

とある。

 

 

 風の香も南に近し最上川

 

 みちのくの旅の62日、新庄の九郎兵衛に招かれて興行をした。発句は風流こと渋谷甚兵衛で、

 

 御尋に我宿せばし破れ蚊や 風流

 

だった。

 一応この日のために発句を用意していったが使わなかった。

 薫風自南来 殿閣生微涼という禅語が出典で、涼しいという意味。

 

註、曾良旅日記には、

 

「二日 昼過 より九郎兵衛へ被招。彼是、歌仙一巻有。盛信。息、塘夕、渋谷仁兵衛、柳風共。孤松、加藤四良兵衛。如流、今藤彦兵衛。木端、小村善衛門。風流、渋谷甚兵へ 。」

 

とある。

 

 

 涼しさやほの三か月の羽黒山

 

 63日は新庄を出て合海から最上川を船で下り、清川から陸路で羽黒山に向かった。

 途中古口の船関を通った。ここから清川の船関までが左右の山が迫る急流で、仙人堂や白糸の滝があった。

 他に大蔵の清水船関に芦沢の名木沢船関があり、新庄より川上になる。

 長い道のりで南谷に着いた時はほっとした。日も西に傾いていた。

 あらかじめ曾良が連絡入れていた佐吉は留守で、待ってると本坊から帰ってきたが、また曾良に手紙を持たされて本坊との間を往復した。

 宿泊地の南谷に着いた頃には、空にほんのり三日月が見えていた。

 

註、「○三日 天気吉。新庄ヲ立、一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方 より状添ル。大石田平右衛門方よりも状遣ス。船、才覚シテノスル(合海より禅僧二人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有)。一リ半古口へ舟ツクル。是又、平七方へ新庄甚兵ヘ より状添。関所、出手形、新庄より持参。平七子、呼四良、番所へ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方ニ有。平七 より状添方ノ名忘タリ。 状不レ添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。一リ半、雁川。三リ半、羽黒手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院へ、大石田平右衛門 より状添。露丸子へ渡。本坊へ持参、再帰テ、南谷へ同道。祓川ノ辺 よりクラク成。本坊ノ院居所也。」

 

とある。

 

 

 有難(ありがた)や雪をかほらす南谷

 

 64日に羽黒山の(じゃっ)(こう)()宝前院(ほうぜんいん)に行った。別当代の会覚阿闍(えかくあじゃ)()と浄化教院の江州円人に会うことができた。昨日曾良が佐吉に手紙を託してアポを取ってくれたようだ。

 蕎麦をご馳走になり、そのあと早速興行を始めたが、この日は六句で終わり、満尾したのは9日だった。

 この句は「風も雪を香らす」の風の省略で、季語は風薫るで夏になる。風薫る季節は暑いものなのに、ここはめちゃ涼しいということ。

 こういう省略は談林の時に流行した「抜け風」の応用で、

 

 世にふるもさらに宗祗の宿り哉

 

の句も「宗祗の時雨の宿り」の時雨の省略になる。

 この日は別当代会覚阿闍梨の隠居所になっていた南谷の別院紫苑寺に泊まった。

 滝の水を引き込んだ水風呂と、川の上に作られた高野山式の水洗便所があった。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○四日 天気吉。昼時、本坊へ蕎麦切ニテ 被招、会覚ニ謁ス。并南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、稀有観修坊釣雪逢、互ニ泣第(涕泣)ス。」

 

とある。

元禄九年の桃隣の『舞都遲(むつち)()()』には、

 

「同隱居南谷に菴室、風呂の用水は瀧を請てたゝえ、厠は高野に同じ。」

 

とある。

 

 

 

 雲の峰幾つ(くづれ)て月の山

 

 66日は天気も良く、月山に登った。

 七合目高清水(たかしみず)までは馬に乗ることができたが、馬での七里は長かった。

 八合目の小屋で昼食を食べて、弥陀原を行き、日も傾いた頃山頂に着いた。

 山頂の御室に参拝して近くの角兵衛小屋に泊まった。

 昼間は雲もあったが、夕暮れには雲もなく六日の月が浮かんでいた。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○六日 天気吉。登山。三リ、強清水。二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶 。道人家、小ヤガケ也。弥陀原(中食ス。是よりフダラ、ニゴリ沢・御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。こや有)御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。 先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。」

 

とある。

 

 

 語られぬ湯殿(ゆどの)にぬらす(たもと)かな

 

 66日は月山山頂の角兵衛小屋に泊まって、翌日湯殿山に向かった。

 鍛冶屋小屋があり、牛首(うしくび)小屋で身を清め、装束場で衣装を整え、湯殿山に入った。

 さっと温泉に入ってすぐに引き返し、月山山頂を過ぎると(ごわ)清水(しみず)で光明坊の人が持って来た弁当を食べて、一気に下山した。

 ほとんど弾丸登山だった。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○七日 湯殿へ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。本道寺へも岩根沢へも行也。 牛首コヤ有。不浄汚離、コヽニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦カケナドシテ御前ニ下ル(御前よりスグニシメカケ・大日坊ヘカヽリテ鶴ケ岡へ出ル道有)。是 より奥へ持タル金銀銭持テ不帰。惣 而取落モノ取上ル事不成。浄衣・法冠・シメ計ニテ行。昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊 より弁当持せ、サカ迎せラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。

 △ハラヂヌギカヘ場よりシヅト云所ヘ出テ、モガミへ行也。

 △堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。方々役銭弐百文之内。散銭弐百文之内。彼是、壱歩銭不余。」

 

とある。

 

 

 (その)玉や羽黒にかへす(のり)の月

 

 元禄2年、みちのくの旅で羽黒山へ行った時、寛永の頃に羽黒山を復興した天宥(てんゆう)法印の話を聞いた。

 法難から流罪になって亡くなられたその魂を思い、

 

 

 月か花かとへど四睡(しすい)(いびき)

 

 元禄2年、みちのくの旅で羽黒山へ行った時、天宥法印の描いた四睡図に賛を頼まれた。

 四睡図は寒山(かんざん)拾得(じっとく)()(かん)禅師(ぜんし)と虎が一緒に眠っているという定番の画題で、禅の境地に入って恐怖が亡くなれば虎も猫になる。

 それがどんな境地か知りたいものだが、禅問答をしようにも鼾が返ってくるだけ。

 

 

 めづらしや山をいで()初茄子(はつなすび)

 

 羽黒山で過ごした7日間は湯殿山まで行ったりして楽しかった。

 610日に発って小雨降る中、鶴岡の長山五郎右衛門の家に着いて、お粥を食べてうとうとしてたら早速興行だった。

 茄子もあったと思う。

 鶴岡に着いた夜の興行は一順で終わった。

 脇は長山五郎右衛門重行。

 

 蝉に車の音添る井戸

 

で、夏の景色を音で表現している。

 第三は曾良で、

 

 絹機の暮忙しう筬打て

 

 この辺りでも絹織物を作っている。なかなか質が良いし、いつか一大生産地になったりして。

四句目は羽黒山から着いてきた佐吉。

 

 

註、曾良旅日記には、

 

「○十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄、円入 被レ迎。又、大杉根迄被レ送。祓川ニシテ手水シテ下ル 。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。々(道々)小雨ス。ヌルヽニ不及。申ノ刻、鶴ケ岡長山五良右衛門宅ニ至ル。粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。」

 

とある。

 

 

 暑き日を海にいれたり最上川

 

 613日に鶴岡を出て、赤川を船で下って坂田へ向かった。

 赤川は海の近くで最上川に合流し、その対岸が坂田だ。この日は曇っていて夕日は見えなかった。

 翌日寺島助彦の家で興行した時の発句は、

 

 涼しさを海に入れたる最上川

 

だった。紀行文にする際に長旅の感慨が出るように作り直した。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒 より飛脚、旅行ノ帳面 被調、被遣。又、ゆかた二ツ 被贈。亦、発句共も被為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻 より曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭へ音信、留主ニテ、明朝逢。」

 

とある。

 

 

 象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花

 

 616日の昼に象潟に着いたが、土砂降りの雨だった。

 でも雨にけぶる象潟も悪くない。

 松島は晴天笑っていたが、ここは雨で恨んでいるかのようだ。

 恨みと言えば水死した西施。

 恨みを抱きながらも、この世の苦しみからこれで解き放たれるんだと諦念した、そんな涅槃のような眠りにつく顔を思わせる。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是 より難所。馬足不通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不レ入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是 より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭ニ付 而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。先、象潟橋迄行而、雨暮気色ヲミル。今野加兵へ、折々来テ被訪。」

 

とある。

 

 

 夕晴(ゆうばれ)や桜に涼む浪の花

 

 象潟に着いた時は土砂降りの雨だったが、翌日は雨も小降りになり、昼過ぎには止んで夕暮れには日が射してきた。

 波が夕陽にキラキラと光り西行法師の、

 

 象潟の桜は波に埋もれて

    花の上漕ぐあまの釣舟

 

の歌を思い出した。

 

註、曾良旅日記には、

 

「十七日 朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶 彌(満)寺へ行。道々眺望ス。帰テ所ノ祭渡ル。過テ、熊野権現ノ社へ行、躍等ヲ見ル。夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。弥三郎低耳、十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス 。」

 

とある。

 

 

 (しほ)(ごし)や鶴はぎぬれて海涼し

 

 616日は雨だったが17日は小降りになり、夕暮れには日も射してきた。

 象潟は内海で、それが外海と接するあたりが汐越で、ここと皇后山(こうごうざん)干満(かんまん)珠寺(じゅじ)との間に橋があり、この狭い所で内海と外海とが繋がっている。

 冠石は外海の砂浜で遠浅なので、着物の裾をたくし上げて海に入り、柄にもなくはしゃいでしまった。

 

 

 小鯛さす柳涼しや海士(あま)がつま

 

 みちのくの旅で象潟へ行った時に加兵衛という者と一緒に夕暮れに船を浮かべて、自分は茶を他は酒を飲んだ。

 加兵衛の奥さんが焼いてくれた長い楊枝に挿した小鯛が旨かった。

 加兵衛の脇は、

 

 北にかたよる沖の夕立

 

だった。象潟は北の潟だからそれに掛けている。

 金沢で第三から先を付けて表六句にした。

 

 

 あつみ山や(ふく)(うら)かけて夕すゞみ

 

 元禄2年の618日に象潟から坂田に戻り、翌日伊東玄順の家で三吟興行をした。

伊東玄順は医者で淵庵不玉ともいう。

吹浦は象潟へ往復する時に見てきた。

 あつみ山は坂田の南にあり、吹浦は北にある。つまり坂田全体が涼しいということ。

南からの暑さに北から風が吹く。歌枕の句に地名を折り込んで掛詞にするのは基本中の基本。

 興行は結局一日で終わらず、三日かかった。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○十八日 快晴。早朝、橋迄行、鳥海山ノ晴嵐ヲ見ル。飯終テ立。アイ風吹テ山海快。暮ニ及テ、酒田ニ着。

 ○十九日 快晴。三吟始。明廿日、寺 嶋彦助江戸へ被レ趣ニ因テ状認。翁 より杉風、又鳴海寂照・越人へ被レ遣。予、杉風・深川長政へ遣ス。

 ○廿日 快晴。三吟。

 ○廿一日 快晴。夕方曇。夜ニ入、村雨シテ止。三吟終。」

 

とある。

 

 

 (はつ)()(くわ)(よつ)にや(わら)ン輪に(きら)

 

 坂田滞在中の623日、近江屋三郎兵衛に呼ばれて真桑瓜を振る舞われたが、「発句を詠んだら食べていい」なんてぬかしおった。

 食えない奴だが料理してやらないとね。

 曾良と三人で食べるのに四つにスイカのように切ると一つ余るしなあ。

 輪切りにすると六つにできるが、大きいのと小さいのができる。

 誰か真桑瓜を正しく三等分する方法を教えてくれ。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○廿三日 晴。近江 や三良兵へへ 被レ招。夜ニ入、即興ノ発句有。」

 

とある。

 

 

 花と()と一度に瓜のさかりかな

 

 坂田で近江屋三郎兵衛が採れたての真桑瓜を持ってきて、句ができたら食って良いと言われた。

 最初は瓜の花の咲く中で瓜が食べられ、両方の盛りがいっぺんに来たとヨイショしようと思ったが、正直に作っても面白くないので、

 

 初真桑四にや断ン輪に切ン

 

の方にした。

 瓜の花の咲く中で今年も瓜の季節が来たか。

 真桑瓜は和歌には詠まれない俳諧の花で俳諧の実だ。

 曾良の言ってた未発の性の不易と已発の情の流行の話で言うと、花は流行、実は不易、両方兼ね備えるのが良いということか。

 

 

 風かほるこしの白根を国の花

 

 これは確かみちのくの旅の時に金沢に来た時、連日よく晴れて残暑が厳しく、越の白山の雪だけが涼しげだった。

 ただ、季節は秋で「越の白嶺を国の花」まではできたんだが、上五が決まらなくて‥。

 白山を吉野の花に喩えた歌は(しゅん)(ぜい)(きょう)の歌にあった。

 

 み吉野の花の盛りを今日見れば

    越の白根に春風ぞ吹く

 

を思い出して、「越の白根を国の花」の七五ができた。

 上五は「風かほる」とも思ったが、3年後に加賀の句空が「春なれや」はどうかというので、それに治定した。

 

 

 荒海や佐渡によこたふ(あまの)(がは)

 

 みちのくの旅の帰りで73日は弥彦山(やひこやま)に泊まり、翌4日、弘智法印様を拝み、野積(のづみ)(はま)から浜伝い寺泊(てらどまり)を経て出雲崎(いずもざき)に着いた。

 日が沈むと四日の月が西に浮かび、暗くなると頭上に天の川があり、二星が見えた。

 流刑の地と言われる佐渡が島の前には日本海の荒波が横たわっている。

 そのままあの二星を回転させて地上に降ろして目の前の海に重ねたなら、自分が織姫の位置になり、佐渡に牽牛がいることになる。

 きっと織姫彦星が見る天の川ってこんなんだろうな。

 この荒海は佐渡の前に横たう天の川なのだろうか。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立。 弘智法印像為レ拝。峠 より右ヘ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲ、ノヅミト云浜へ出テ、十四五丁、寺泊ノ方ヘ来リテ、左ノ谷間ヲ通リテ、国上へ行道有。荒井ト云塩浜ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハ 、ワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。」

 

とある。

芭蕉の『銀河の序』には、

 

「越後の国出雲崎といふ処より、佐渡が島は海上十八里とかや。谷嶺の険阻くまなく、東西三十余里波上に横折れ伏せて、まだ初秋 薄霧立ちもあへず、さすがに波も高からざれば、唯手のとゞく計になむ見わたさるる。げにや此島は黄金あまた湧き出でて、世にめでたき島になむ侍るを、むかし今に到りて、大罪朝敵の人々遠流の境にして、もの憂き島の名に立侍れば、冷じき心地せらるるに、宵の月入りかかる比、海の面いとほの暗く、山の形雲透に見えて、波の音いとゞかなしく聞こえ侍る。

 荒海や佐渡によこたふ天の河」

 

とある。

 

 

 

 文月ふみづきや六日も常の夜には似ず 

 

七夕の前日の76日は昨日から降る雨の中鉢崎を出て今町に辿り着いた。

このところ体調を崩していて、この雨の中の移動は苦しかった。

古川市左衛門の宿に泊まり興行する予定だったが、発句だけで勘弁してもらった。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ浜ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺へ弥三状届。忌中ノ由ニテ強 而不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不レ帰。 及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各来ル。発句有。」

 

とある。

 

 

 薬欄(やくらん)にいづれの花をくさ枕

 

 78日に越後高田に着くと、細川(しゅん)(あん)とかいう医師の使いの者が待ち構えていた。

 知らないので先約の池田六左衛門の所へ行ってしばらく休んでいると、今度は手紙をよこして来た。

 どういう人なんだか、取り敢えず行ってみたら薬草園があった。

 ここに一体どんな花があるのか‥。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○八日 雨止。欲レ立。強 而止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下刻、至ニ高田一。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ来ル。春庵へ不レ寄シテ、先、池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状来ル。頓 而尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。」

 

とある。

 

 

 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

 

 みちのくの旅の帰りの712日、能生(のう)を出て市振(いちぶり)に宿を取った。(おや)不知(しらず)()不知(しらず)という海岸の難所があったが、その前にまず早川を渡る時に転んでびしょ濡れになった。

 それはともかく、市振の宿には新潟から来たとい遊女二人と付き添いの老人が泊まっていた。これから伊勢へ行くという。今年は遷宮の年だからな。楽しんできてくれよ。自分たちも後からそこへ行くし。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言伝有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。」

 

とある。

 遊女かどうかは分らないが、伊勢詣に行く童女に出会ったという話は支考の『梟日記』の西国街道山中宿の場面にも見られる。

 

 「次の日此山中を通るに、めの童共の伊勢詣するに逢ふ。首途も此あたりちかきほどならん。髪かたちもいまだつやつやしきが、みな月の土さへわるゝ、といへるあつき日には、我だにたふまじきたびねの頃なるを、いかに道芝のかりそめにはおもひたちぬらん。百里のあなたははるけき我いせのくにぞよ。道のほとりなる家によび入て何がしがかたに文つかはす。その奥に此童ア共もに茶漬喰せ給へ、柹本のひじりもあはれと見たまへるものをとかきて、

 百合の情は露の一字かな」

 

 

 わせの()分入(わけいる)右は(あり)()(うみ)

 

 みちのくの旅の帰りの714滑川(なめりかわ)を出て高岡へ向かう。とにかく暑い日だった。

 この辺りは一面の田んぼで早稲(わせ)の匂いがした。

 どうもこの早稲に匂いは苦手だ。前に名古屋で、

 

   帷子に袷羽織も秋めきて

 食早稲くさき田舎なりけり    芭蕉

 

と付けたが、直江津で曾良が、

 

 色香ばしき初刈の米

 

と言ってた。

 高岡で道が分かれ、右は能登へ行く道、左は金沢に行く。

 

註、曾良旅日記には、

 

「○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)。 氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。不快同然。」

 

とある。

 

 

 あか/\と日はつれなくも秋の風

 

 しばらく雨続きで新潟では体調を崩したが、ここの所の晴れ続きでだいぶ良くなった。

 715日のお盆の夕暮れに金沢に着いたらいきなり一笑の死を聞かされショックだったが、日本海に沈む夕日を見ていると癒される。

 なんか心の底からエモーショナルになる。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 十五日 快晴。高岡ヲ立 。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。

京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮(即)刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。」

 

とある。

 

 

 熊坂(くまさか)がゆかりやいつの玉まつり

 

 九郎(くろう)(よしつね)に成敗された盗賊の頭の熊坂(くまさか)長範(ちょうはん)は加賀の生まれだと言われている。

 この辺りのお盆では熊坂長範の親類縁者の人達がその魂を祀ってたんだろうな。それはいつの時代のことか。

 

 

 秋涼し()(ごと)にむけや(うり)茄子(なすび)

 

 一笑がなくなってたのはショックだった。そのあとまた体調を崩したが、20日にようやく復活。一泉の少幻庵で興行した。

 その時の発句は、

 

 残暑(しばし)手毎にれうれ瓜茄子

 

だった。

 興行の終わった深夜、一笑の初盆も終わって、供えていた瓜や茄子のお下がりをみんなで剥いて食べた。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿日 快晴。庵ニテ一泉饗。俳、一折有テ、夕方、野畑ニ遊。帰テ、夜食出テ散ズ。子ノ刻ニ成。」

 

とある。

 

 

 塚も動け(わが)泣声(なくこゑ)は秋の風

 

 みちのくの旅の帰りに金沢に来た時、()()()にも入集してた一笑が37歳で亡くなったことを知り、722日に追善会をやった。

 これから先を結構期待してただけに無念。

 塚が動いて甦ってほしい。

 一笑というと伊賀の一笑、尾張津島の一笑もいて紛らわしいが、

 

 元日や明すましたるかすみ哉

 いそがしや野分の空に夜這星

 火とぼして幾日になりぬ冬椿

 

が加賀の一笑の句。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿二日 快晴。高徹見廻。亦、薬請。此日、一笑追善会、於□□寺興行。各朝飯後ヨリ集。予、病気故、未ノ刻ヨリ行。暮過、各ニ先達 而帰。 亭主丿松。」

 

とある。

 

 

 しほらしき名や小松(ふく)萩すゝき

 

 小松に行った時、多太八幡宮で実盛の兜を見て、その夜山王神社での興行があった。賑やかな会だった。

 小松という通り松風に凄まじさもなく、弱々しい風だった。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿五日 快晴。欲ニ小松立一、所衆聞而以ニ北枝一留。立松寺へ移ル。多田八幡ヘ詣デヽ、真(実)盛が甲冑・木曾願書ヲ拝。終テ山王神主藤井(村)伊豆宅へ行。有会。 終而此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。」

 

とある。

 

 

 ぬれて(ゆく)や人もおかしき雨の萩

 

 みちのくの旅の小松滞在中の726日、歓生の家での興行の発句。

 庚申待の日なので夜を徹して五十韻を巻いた。

 この日は雨風がひどかったが、こんな日でも萩の花が咲いてるのを思えば、興行も楽しく始められる。

 濡れて行く人も雨の萩はおかしきや。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿六日 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歓生 へ方へ 被招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終 而帰ル。庚申也。」

 

とある。

 

 

 山中や菊はたおらぬ湯の(にほひ)

 

 みちのくの帰りの727日、小松から山中温泉に移動し、泉屋久米之助の宿に泊まった。主人はまだ少年で、父は貞徳の門人だったという。

 加賀には加賀菊酒という名酒があるが、精米歩合がやや低くて黄色い所からその名があるという。それを重陽の不老長寿の菊酒になぞらえてるのだろう。

 山中温泉の方は白くて硫黄の匂いがして、不老長寿の効果があるという。重陽の菊酒も用はないか。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧卜・志挌等来テ留トイヘドモ、立。伊豆尽甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真(実)盛が句也。予・北枝随レ之。

一 同晩 山中ニ申ノ下尅、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ北へ夕立通ル。」

 

とある。

『奥の細道』には、

 

(この)太田(ただ)の神社に(まうづ)(さね)(もり)(かぶと)(にしき)(きれ)あり。往昔(そのかみ)、源氏に(ぞく)せし時、(よし)(とも)公より給はらせ(たまふ)とかや。げにも(ひら)(さぶらひ)のものにあらず。()(びさし)より吹返(ふきかへ)しまで、菊から草のほりもの(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)鍬形打(くわがたうっ)たり。(さね)(もり)討死(うちじに)(のち)木曾(きその)(よし)(なか)願状(ぐわんじゃう)にそへて此社(このやしろ)にこめられ(はべる)よし、樋口(ひぐち)の次郎が使(つかひ)せし事共(ことども)、まのあたり(えん)()みえたり。」

 

とある。

 

 

 いさり火にかじかや波の下むせび

 

 加賀の山中温泉には長逗留したが、729日には道明が淵というところに泊まった。曾良は久米之助の宿に帰っちゃった。

 カジカ漁をやってたが、真っ暗な上に煙がひどくてよく見えなかった。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 廿九日 快晴。道明淵、予、不往。

一 晦日 快晴。道明が淵。」

 

とある。

 

 

 桃の木の(その)()ちらすな秋の風

 

 山中温泉に滞在中の83日、久米之助という少年に桃妖という俳号をつけてあげた。伸びてくれればいいが。

 その昔貞室が少年の頃ここに来て、俳諧のことで難じられて貞徳の門に入ったのが十六の時だったという。

 俳諧師同士の誹謗中傷合戦はいつの世もあるもので、貞室と重頼の確執は語り草だ。桃妖も負けるな。

 桃妖といえば詩経の桃之夭夭 灼灼其華 之子于帰 宜其室家。

 

 

 湯の名残今宵は肌の寒からむ

 

 加賀の山中温泉を去る時は、宿の主でもある桃妖という少年ともお別れだ。

 今夜からは肌が寒いな。って温泉に入れないってことだよ。変な想像しないでね。

 

 

 今日よりや書付(かきつけ)消さん笠の露

 

 山中温泉に着いた頃から曾良の調子が良くなかった。729日に道明淵へ行った時も寝てたし、1日の黒谷橋はなんとか付き合ってくれたけど、また具合悪くなった。

 4日の北枝との三吟も途中でダウン。翌5日、伊勢長島のかかりつけ医に行くと言って、那谷で駕籠に乗って行ってしまった。

 曾良は学者で顔も広く、その土地土地の有力者にも取り次いでくれたりして、本当に有能な男だ。博識で古代の道を教えてくれたり、朱子学も分かりやすく解説してくれたしてくれた。

 でも、象潟で、ここで引き返さないと冬までに帰れないと言った時は、蝦夷地行ってみたかったな。

 まあとにかく死ぬなよ。

 

 跡あらん(たふ)()すとも花野原 曾良

 

の句を残していった。まあ、すぐに同じ道で大垣に向かうからね。

 

註、曾良旅日記には、

 

「一 五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於ニ小松ニ一、生駒万子為出会也。 従順シテ帰テ、艮(即)刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺へ申刻着、宿。夜中、雨降ル。」

 

とある。

 

 

 石山の石より白し秋の風

 

 みちのくの旅の帰りの85日、曾良と北枝と一緒に山中温泉を出てたが、曾良は伊勢長島に向かった。

 北枝と小松に向かう途中、那谷寺に立ち寄った。

 奇岩は白く透き通るように白く、白山信仰のこの寺はまさに白い山にある。

 折から秋風が吹いて、秋もまた五行説では白だが、目にはさやかに見えない秋風は完全に透き通っていて、この石山の石より白い。

 

 

 むざんやな(かぶと)の下のきり/″\す

 

 みちのくの旅で85日に曾良と別れて北枝と小松に戻った時の興行の発句。

 前に多田八幡で見た(さね)(もり)の兜を思い出し、謡曲実盛の草葉の霜からの登場や、戦場に倒れ首実検で実盛であることが判明する時の「あなむざんやな斎藤別当にて候ひけるぞや」の場面が印象的で、最初は「あなむざんやな」とした。

 

 

 庭(はき)(いで)ばや寺に(ちる)

 

 みちのくの旅の帰りの811日、北枝と小松を出て全昌寺に泊まった。5日には曾良が泊まって、

 

 終宵(よもすがら)秋風(きく)やうらの山

 

の句を残していった。

 朝福井に向けて出発する時、若い僧が揮毫をせがんできた。只というわけにはいかないぞ。

まあいい、出る時には掃除するのが慣しだが、代わりにやっといてくれ。

 

 

 物(かい)て扇(ひき)さく余波(なごり)

 

 曾良が先に長島に向かってからは、北枝の案内で小松へ戻り、そのあと福井へ向かった。

 吉崎の入江は大きな干潟で、海側の汐越の松を見てから福井に行くと洞哉が迎えに来た。

 松岡という所で北枝と別れる時に扇子に、

 

 物書いて扇子へぎ分くる別れ哉

 

と書いて渡した。実際には引き裂いたりはしてない。

 思えばみちのくの旅は路通が一緒に行くはずだったが、直前になって曽良に変わった。何か門人達の方の事情のようだが、結果的には偉い人達とのコンタクトが上手く行った。

 その曾良が病気で、急遽粟津から路通を召喚するというが、しばらくは北枝が中継ぎになった。

 福井からは(とう)(さい)に交代。

 

 

 名月の見所(みどころ)(とは)旅寐(たびね)せむ

 

 元禄2年のみちのくの旅で福井の洞哉の家に8月の12132泊した。

名月の日も近いし、これから敦賀へ向かうが、どこでお月見するのが良いか尋てみようかと思った。

 まあ、ここが一番と言うと思ったからやめたけど。

 

 

 月見せよ玉江の芦を(から)ぬ先

 

 元禄2814日、福井を出るとすぐ、浅水よりも手前に広い湿地帯があって、ここが新古今集の、

 

 夏刈の芦のかり寝もあわれなり

    玉江の月のあけかたの空

          藤原俊成

 

の歌に詠まれた玉江だという。

 十四日でも夜明け前だから、まだかろうじて月が見える。ただ、今は芦が刈られてないのか、芦を刈った後の水に月が映るのではなく、芦の茂る向こうに月が沈んでゆく。

 まあ、これはこれで武蔵野に沈む月みたいで悪くない。

 

 

 あさむつや月見の旅の(あけ)ばなれ

 

 元禄2814日、福井を出るとすぐに、枕草子にも「橋はあさむつの橋」と言われた浅水橋があった。小さな橋だった。

 浅水の橋と言えば催馬楽の、

 

 浅水の橋のとどろとどろと

 降りし雨の古りにし我を

 たれぞこのなか人立てて

 みもとのかたち消息し

 訪ひに来るや さきんだちや

 

 明日は十五夜で敦賀で月見するため、今日は夜明けとともに宿を出た。

 明け六つなので「あさむつ」。

 

 

 あすの月雨占なはんひなが(たけ)

 

 (ひな)(たけ)は北陸道の武生(たけふ)宿を出ると左に見えてくる山だ。

 今のところ晴れててこの山がはっきり見えるから、明日の名月も晴れるといいな。

 

 

 月に名を包みかねてやいもの神

 

 北陸道の武生(たけふ)宿と今庄(いまじょう)宿の間の(ゆの)()(とうげ)がある。分水嶺ではなく、川の蛇行した所にある小さな峠だがそこに茶店があって、そこで疱瘡(いも)除けの御札が売られている。

 名月には里芋をお供えするので芋名月とも言われているが、疱瘡(いも)の方の「いも」は特に名月とは関係ないが、名月の前日だけに何か関連付けたいものだが。

 

 

 (よし)(なか)寝覚(ねざめ)の山か月かなし

 

 越前から敦賀へ向かう途中の北陸道今庄(いまじょう)宿の辺りに燧山(ひうちやま)があった。木曾義仲の(ひうち)(じょう)のあった所だった。

 平家打倒の功労者は第一に木曾義仲、その次に九郎義経。これは動かしがたい。

 頼朝は権謀術作でそれを横取りしただけ。

 

 

 中山や越路(こしぢ)も月はまた(いのち)

 

 元禄2年のみちのくの旅で、今庄宿から敦賀へ行く途中に木ノ芽(きのめ)(とうげ)があり、(こし)の中山と呼ばれているという。

 越えたのは名月の前日の14日。この日敦賀に着いたが空は晴れていて月がよく見えた。

 西行法師の詠んだ、

 

 年たけてまた越ゆべきと思ひきや

    命なりけり小夜の中山

 

ではないが、はるばる松島象潟を巡ってきて、生きてここまで戻れたなと思う。

 

 

 国/\の八景(さら)気比(けひ)の月

 

 元は瀟湘八景だが、近江には近江八景というのがあり、昨今はいろんな国でその土地のなんとか八景を作るのが流行りのようで、敦賀にもあるらしい。

 金崎夜雨、天筒秋月、気比晩鐘、野坂暮雪、今浜夕照、櫛川落雁、常宮晴嵐、清水帰帆。

 ようやく敦賀に辿り着くと気比(けひ)明神(みょうじん)は煙ることなく空は澄みきって、後ろの()筒山(づつやま)から十四夜の月が上る。

 

 

 月清し遊行(ゆぎょう)のもてる砂の上

 

 みちのくの旅の帰りで敦賀に着いた814日の夜、気比(けひ)明神(みょうじん)に参拝した。

 参道に白い砂が敷き詰められていたが、その昔遊行二世の()()が参道が元々沼地でぬかるんでいるのを見て、自ら白い砂を運んで敷いたという。

 秋の夜の月も澄み渡っているが、この砂もそれに劣らず澄み切っている。

 

 

 名月や北国(ほくこく)日和(びより)(さだめ)なき

 

 昨日は朝早く福井を出て、越の中山を降りる頃に夕暮れの月の昇るのを見て、夜の気比明神でも天筒山の月を見たが、肝心の十五夜は雨だった。

 定めなきというと時雨で、涙で曇るの暗示があり、それは定めなき我が身の定めなき涙の雨だ。

 今夜は時雨ではないけど、曾良が急に病気で帰っちゃったり、北国の旅は定めないものだ。

 宿泊した出雲屋の主人が金ヶ崎の戦いの沈んだ鐘の話とか聞いて一夜を過ごした。

 明日は西行法師ゆかりの色の浜へ行ってみよう。

 

 

 月いづく鐘は(しづ)める海の底

 

 元禄2年の名月の夜は敦賀にいたが、この日は雨だった。

 宿泊した出雲屋の主人が金ケ崎の戦いの時に海に沈んだ鐘は、その後引き上げようとしたけど海底で逆さまになっていて、吊り下げる取手の龍頭が埋もれていたので引き上げることが出来なかったと話してた。

 

註、東如編享保四年(一七一九年)刊『四幅対』に、

 

「おなじ夜あるじの物語に、(この)釣鐘(つりがね)のしづみて侍るを、(のかみ)海士(あま)(いれ)てたづねさせへど、龍頭(りゅうづ)のさかさまに落入(おちいり)引きあぐべき便(たより)もなしと(きき)

 

とある。

 

 

 ふるき名の(つぬ)鹿()や恋し秋の月

 

 敦賀は元々(つぬ)鹿()と呼ばれていた。

 なんでも昔イルカの群れが打ち上げられて、その血で臭かったから「ちうら」といい「つぬが」になったらしい。

 イルカの肉はクジラ同様美味しく、これをもたらした御食津大神が気比大神になったって、この辺は曾良の専門だから、いたらうるさかっただろうな。

 

 

 小萩ちれますほの小貝小(さかづき)

 

 元禄2年の十五夜は雨だったが、翌十六夜は晴れた。

 西行法師の、

 

 汐染むるますほの小貝拾ふとて

    色の浜とは言ふにやあるらむ

 

で知られた色の浜で月見をした。

 砂浜で転々と落ちている貝殻は、小萩が散ったみたいで、小さな貝は盃のようだ。

 

 

 (ころも)着て小貝拾はんいろの月

 

 元禄2年の十五夜は雨だったが、翌十六夜は晴れた。

 西行法師の、

 

 汐染むるますほの小貝拾ふとて

    色の浜とは言ふにやあるらむ

 

で知られた色の浜で月見をした。

 「ますほ」は()蘇芳(すおう)色をしている所からその名があり、紅葉の色に見立てられるが、血の色だと言う人もいる。稀に月がこの色になる。

 

 

 浪の間や小貝にまじる萩の塵

 

元禄2年の十六夜、西行法師の、

 

汐染むるますほの小貝拾ふとて

   色の浜とは言ふにやあるらむ

 

で知られた色の浜で月見をした。

「ますほ」は真蘇芳色をしているからで、紅葉の葉にも見立てられるが、そこに散った萩の花びらが混じると、どっちがどっちやら。

 

 

 寂しさや須磨にかちたる浜の秋

 

 元禄2年の十五夜は雨だったが、翌十六夜は晴れた。

 西行法師の、

 

 汐染むるますほの小貝拾ふとて

    色の浜とは言ふにやあるらむ

 

で知られた色の浜は船で北の方に行った所にあり、ここで月見をした。

 敦賀の北に開いた入江に逆向きの南に開いた小さな入江と小島が重なりあい、見事な景観を生み出している。

 浜辺の月というと源氏物語の須磨巻も思い浮かぶが、この北の海の渺漠としたうら寂しさはそれにもまさる。

 

 

 月のみか雨に相撲(すまふ)もなかりけり

 

 元禄2年の名月も雨だったが、長浜まで戻ってきた18日も雨だった。

 ここは宮廷の相撲節会ゆかりの地で後鳥羽院も召されたという。

 名月も見られず相撲も見られず、とにかく大垣へ向かおう。

 

註、『菅菰抄附禄』に、「近江の国長浜にて、此時勧進相撲有けるよし」とある。

曾良旅日記には、

 

「一 十五日 曇。辰ノ中尅、出船。とう山・此筋・千川・暗香へノ状残。翁へモ残ス。如行ヘ発句ス。竹戸、脇ス。未ノ尅、雨降出ス。申ノ下尅、大智院ニ着。院主、西川ノ神事ニ 而留主。夜ニ入テ、小寺氏へ行、道ニテ逢テ、其夜、宿。

○十六日 快晴。森氏、折節入来。病躰談。七ツ過、平右ヘ寄。夜ニ入、小芝母義理・彦助入来。道 より帰テ逢テ、玄忠へ行、及戌刻。其夜ヨリ薬用。

 ○十七日 快晴。

 ○十八日 雨降。

 ○十九日 天気吉。」

 

とあり、この時曾良は伊勢長島にいたが、十八日に雨が降っている。

 

 

 胡蝶(こてふ)にもならで秋ふる菜虫哉

 

 821日についに大垣に着いた。長かったみちのくの旅もようやく終わりだ。

 この日は如行の家に行った。

 胡蝶に転生することもなく、元の青虫のまま秋を迎えられたと言ったら、如行は、

 

 種は淋しき茄子一もと

 

とのことで、なら遠慮なく秋茄子をいただこう。

 ふと思ったが、荘周が胡蝶になったというけど、いきなり蝶になるんでなく、まずは青虫に生まれるんだよな。

 鳥に食われたり、人に潰されたり、結構大変だな。

 

 

 そのまゝよ月もたのまじ伊吹(いぶき)やま

 

 みちのくの旅から戻って大垣にしばらく滞在した時、斜嶺の家に呼ばれた。8月の晦日だったか。

 大垣から見る夕暮れの伊吹山のシルエットはなんか圧倒するものがあって、ここに月が出てなくても十分絵になる。

 何度も大垣には来ているが、伊吹山はいつも変わらない。

 

註、真蹟詠草に、

 

 「戸を開けばにしに山(あり)、いぶきといふ。花にもよらず、雪にもよらず、只これ弧山の徳あり。」

 

とある。

 

 

 こもり居て木の実草のみひろはゞや

 

 みちのくの旅を終えて、しばらく大垣にいた時、大垣藩の家老次席の戸田権太夫という人の別邸に招かれた。

 草庵と言っても立派な屋敷で、こんな所に住めたらいいけど、でも日頃木の実草の実を食う身としては立派すぎる。

 

 

鳩の声身に(しみ)わたる岩戸哉

 

元禄2828日、みちのくの旅を終えて大垣に戻ってきた時に、赤坂の虚空蔵(こくぞう)さんを尋ねた。

山の上に登った所に奥の院があって、岩戸があった。

辺りは静かでデデッポウと鳴く鳩の声が身に沁みる。

 

註、白川編宝永三年(一七〇六年)自序『漆島』に、「赤坂虚空蔵にて、八月廿鉢日奥の院」とある。

 

 

 

 はやくさけ九日(ここのか)もちかしきくのはな

 

 元禄2年の94日、大垣の源兵衛の家での興行の発句。

 昼には如水の家で興行して、その夜の興行だった。

 寒くなるから墨染め帷子を綿入れに作り直したやつを着ていこう。それに細帯を絞めてと。

路通はいつもの白衣姿だが、寒くないのか。

 この興行には曾良もやってきて山中温泉以来の再会となったし、名古屋から越人も駆けつけてくれた。

 重陽にはちょっと早いが、これで重陽の祝いとしたい所だ。

 9日にはもうここを離れて伊勢に向かっていると思う。だから菊も今日咲いてくれ。

 

註、曾良旅日記には、

 

「三日 辰ノ尅、立。乍行春老へ寄、及夕、大垣ニ着。天気吉。此夜、木因ニ会、息弥兵へヲ呼ニ遣セドモ不行。予ニ先達 而越人着故、コレハ行。

 四日 天気吉。源兵へ、会ニ 而行。」

 

とある。

 

 

 

 藤の()は俳諧にせん花の跡

 

 みちのくの旅から大垣まで戻った時、関から()(ぎゅう)という者が訪ねて来た。歳は四つ下の初老の坊主だった。

 関はかつて宗祗法師が藤の花を見て、藤代御坂という紀伊の歌枕に掛けて、

 

 関こえてここも藤しろみさか哉 宗祗

 

と詠んだと荷兮(かけい)の「()()()」にもある。

 見た所素牛は藤の花という歳ではないが、

 

 

 かくれ家や月と菊とに田(さん)(たん)

 

 みちのくの旅を終えた後、大垣の木因と再会したが、前にお世話になった家ではなく、別邸を建てて隠居していた。もう四十四だもんな。

 庭には菊が咲いていて、三反の田んぼがある。隠居には十分すぎると言って良いだろう。

 

 

 蜻蜒(とんぼう)やとりつきかねし草の上

 

 元禄2年、大垣に戻ってきた時だったか。

 野原に赤とんぼがたくさん飛んでいて、どこかの草に止まるでもなく飛び続けている。

 大垣に帰ったとは言っても、ここで旅が終わるわけではない。

 

 自分もあのとんぼのように、止まることなく飛び続けるのだろうか。

 

 

註、制作年次不明の句。元禄三年説もある。

 

 

 (はまぐり)のふたみにわかれ(ゆく)秋ぞ

 

 元禄296日、曾良と路通を連れて伊勢へ向かった。

 佐渡川の河原から船に乗って、まずは伊勢長島の杉江に向かう。

 越人とはここでお別れだ。

 

註、曾良旅日記には、

 

「六日 同。 辰尅出船。木因、馳走。越人、船場迄送ル。如行、今一人、三リ送ル。餞別有。申ノ上尅、杉江へ着。予、長禅寺へ上テ、陸ヲスグニ大智院へ到。舟ハ弱半時程遅シ。七左・玄忠由軒来テ翁ニ遇ス」

 

 

とある。

上方滞在期(無名庵入庵前まで)

 

 きくの露おちて拾へばぬかごかな 芭蕉 

 

 元禄2年の重陽の朝は伊勢長島の大智院で迎えた。今日はこれから船で桑名に渡り、伊勢へと向かう。

 重陽の節句にゆっくりしてられないのは心苦しいが、とりあえず菊酒に零余子を頂いて出発するとしよう。

 

註、曾良旅日記には、

 

「九日 快晴。出船。辰ノ刻、桑名へ上ル。壱リ余、暗ク津に着。」

 

とある。

 

 

 月さびよ明智が妻の咄しせん

 

 元禄2年秋の912日、伊勢の又玄の家に泊まった時、まあそこの奥さんが出来すぎた方でね。いろいろ小まめにもてなしてくれて恐縮する。

 世の良妻の鑑とされている明智光秀の妻に喩えて、一句残していった。

 連歌会を開く資金がなくて、自らの髪を売ったという話だが、確かに連歌は金がかかる。

 

註、曾良旅日記には

 

「〇十二日 辰ノ刻館ノ長左ヘ尋テ島崎味右衛門西河原ノ宿へ移ル 松葉七郎太夫ニテ大丶拝。

 

 

とある。又玄は島崎味右衛門で、貞享五年に芭蕉が伊勢へ来た時にも「何の木の」の巻の興行に同座している。

 

591

 たうとさに皆をしあひぬ御遷宮(ごせんぐう)

 

 元禄2年、曾良と再会してから一緒に伊勢の式年遷宮を見に行った。

 とにかく凄い人出で押し合いへし合いだった。

 吉川惟足に学んだ神道家の曾良は本当に感激してた。

 この日のために髪を伸ばして、別行動で内宮(ないくう)の遷宮式を見に行った。

 

註、曾良旅日記には、

 

「〇十三日 内宮参宮 未の刻帰テ遷宮拝 コトヲモヨヲス 小芝土やヲ尋テ岡本岩出□太夫を尋テ両人同道ニテ暮前ヨリ神前詰 子ノ刻前御船渡ル 神宝ハ夕方ヨリ運ブ 月ノ景色カンニタリ。

 〇十四日 外宮へ詣 此日猶神宝ヲ移ス 岩戸月夜見ノ森詣テ帰ル 及申悪寒有。」

 

とある。

 

 

 秋の風伊勢の墓原(なほ)すごし

 

 元禄2年の秋、曾良と路通とともに伊勢の式年(しきねん)遷宮(せんぐう)を見たあと、中村という所にある月夜見ノ森へ行った。

 伊勢の外宮(げくう)内宮(ないくう)も遷宮とあって多くの人でごった返していたが、ここはぽっかりと穴の空いたように荒れ果てていて、秋風の音が凄まじかった。

 曾良によると、ここは元々夜之食(よるのおす)(くに)(あら)御魂(みたま)を治める月読(つくよみの)(みこと)の神宮があったとのことだった。

 黄泉(よみ)の国に通じる墓場のような所なのか。

 このあと曾良は悪寒があると言って、その翌日帰ってしまったが、やばい所だったのか。

 

註、曾良旅日記には、

 

「〇十五日 卯ノ刻味右衛門宅ヲ立 翁路通通中ノ郷迄被送 高野一栄道ニテ逢 小幡ニ至テ朝飯ス 至テ津ニ宿 申ニ下ル。」

 

とある。

 

 

 (すずり)かと拾ふやくぼき石の露

 

 元禄29月、伊勢の二見ヶ浦に行った時の句。

 西行法師が蛤の貝殻を拾う人を見て、

 

 今ぞ知る二見の浦の蛤を

    貝合はせとておほふなりけり

 

と詠んだのを思い出したが、貝は拾えず窪んだ石を見つけて、

 

 

 (もん)に入ればそてつに蘭のにほひ哉

 

 元禄2年に伊勢の遷宮式を見たあと、守栄院という寺に招かれた。

 門に入ると蘇鉄(そてつ)があったので、取り敢えず蘭の香をあしらって褒めておいた。

 

 

 初しぐれ猿も小蓑(こみの)をほしげ(なり)

 

 元禄2年、伊勢から故郷伊賀へ帰る長野峠の道で、折からの時雨に蓑笠着ててさえ凍てつく寒さで、逢坂山に棄てられた蝉丸さえ蓑笠杖が与えられたことを思い起こした。

 蓑笠は生きるための最低限の権利だ。あの雨に打たれた猿だってそう叫ぶだろう。

 猿蓑の序文に晋ちゃんが、

 

 「猿に小蓑を着せて俳諧の神を入れたまひければ、たちまち断腸の思ひを叫びけむ」

 

と書いてくれた。

 「ほしげ」としか書いてないけど、一瞬でも蓑を着た猿を想像してしまう。ここは大事。

 蓑笠は聖なるものであると同時に賎なるものを象徴する。

 

 

 枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉(ふよう)かな

 

 元禄2年のみちのくの旅を終えて9月の終わりに故郷伊賀に帰った時、芙蓉の絵に画賛を頼まれた。

 

 

 

 つたの葉はむかしめきたる紅葉哉 

 

蔦の葉は正徹(しょうてつ)が和歌に詠んで俳諧にも取り入れられているが、常盤(ときわ)()古木(こぼく)との対比で、長年の時を経た古めかしさを感じさせる。

華やかな紅葉とはまた違った味わいがあるが、句にするのはなかなか難しい。

 

 

 (たけ)狩やあぶなきことにゆふしぐれ

 

 これは故郷伊賀で画賛を頼まれて書いた句だが、句自体はそれ以前にネタ帳に書き留めておいたもの。

 きのこ狩りに行って時雨の雲に巻かれてホワイトアウトするとかなり危険だ。

 もう少し何とか手直しできないかと思ったけど諦めた。

 

 

 人/\をしぐれよやどは寒くとも

 

 元禄2年の冬の初め、故郷の伊賀の配力の家で興行した。

 宗祇法師の、

 

 世にふるもさらに時雨のやどり哉

 

の心で、冬の定めなく降る冷たい雨とはいえ、それをしのぐ宿の有り難さ、人の心の優しさを皆も忘れないでほしい。

 どのような身分であれ、人には最低限雨露をしのげる宿がなくてはならない。

 

 

 冬庭や月もいとなるむしの吟

 

 元禄211月の初め、故郷伊賀で半残に誘われて、一入という修行僧のところで興行した。

 

 夕暮れには糸のような細い月が掛かり、すっかり弱ってしまった虫の音のように心細く見えた。

 

 

 屏風(びゃうぶ)には山を絵書(ゑがい)(ふゆ)(ごもり)

 

 元禄2年の冬、伊賀にいた頃平仲の家に呼ばれた。

) 山の描かれた屏風があって、こんな部屋でのんびり冬籠りできたらなと思った。

 

 

 いざ子ども走ありかむ(たま)(あられ)

 

 元禄2年の111日に伊賀の良品の所で興行した時の発句。

 子供が沢山いて、霰が降り出したとはしゃぎ回り外へ出ていった。それを見て良品は、

 

 折敷(をしき)に寒き椿水仙 良品

 

の脇を付けた。

 子供が外で摘んできた椿や水仙を飾りましょうと、優しい心遣いだ。

 玉霰は夫木抄に、

 

深山路を夕越え来れば椎柴の

    うれ葉に伝ふ玉霰かな

          藤原仲実

 

の歌があったっけ。

 

 

 初雪に兎の皮の髭つくれ 

 

 元禄2年の冬、故郷の伊賀で子供と雪まろげや雪兎を作って遊んでたら、雪兎の雪をいきなり投げてきた。

 顔が雪だらけになって、翁のような髭ができてしまったわい。

 まあ、子供は元気が何よりじゃな。わっはっは。

 最初の「初雪」がヒントで、そのあとも「雪」の抜けだということに気づけば、わりかし簡単に解けるのではないかと思う。

 雪だけに。

 初雪に雪兎の雪の皮の雪の髭を作れ。

 

 

 

 初雪やいつ大仏の(はしら)(たて)

 

 

 元禄2年の11月の終わりに奈良の春日若宮御祭を見に行ったが、折からの初雪となって、東大寺の大仏は雪を被っていた。

 永禄の頃に焼き払われて首が落ちた大仏は、頭だけ修復されたまま雨晒しになっている。

大仏殿再建の話はあるが、着工はまだだ。

 

 

 これや世の煤にそまらぬ古合子(ふるがふし)

 

 みちのくの旅の後も路通は伊賀や大津にまでくっついて来た。

 その大津で路通が興奮して、「戻ってきた戻ってきた」と言う。

 どうやら天和の頃に筑紫行脚に行く時に大阪の宿に忘れていった五器(ごき)粟津(あわづ)に届いていたという。

 奇特な人もさることながら、路通ってそんなに有名だったのか。いろんな意味で。

 

 

 長嘯(ちゃうせう)の墓もめぐるかはち(たたき)

 

 かの木下長嘯子は、

 

 鉢叩きあかつき方の一こゑは

    冬の夜さへも鳴くほととぎす

 

の歌を詠んだ。

 その長嘯子の墓は京の東山の高台寺(こうだいじ)にあるので、この辺りを鉢叩きが回ってきて、今も鉢叩きの声を聞いているのだろう。

 

 

 三尺の山も嵐の木の葉哉

 

 元禄2年の冬に大津に来た時、膳所(ぜぜ)木曾(きそ)(よし)(なか)の墓の隣に仮の庵が建てられていて、そこに泊まった。

 膳所藩中老の菅沼外記(げき)にこの庵を建て直すから、その間に幻住庵にしばらく住んだらどうかと言われた。

 木曾義仲の墓は未だに荒れ果てた三尺ほどの塚だった。

 

 

 あられせば網代(あじろ)氷魚(ひを)を煮て出さん

 

 元禄2年の暮は木曾義仲殿の墓を守るために庵に住まわせて貰った。

 菅沼外記はいろいろ便宜を図ってくれるし、大津の()(げつ)という尼さんもいろんな物を持ってきてくれる。

 貰った琵琶湖名産の氷魚を醤油で煮ておいたので、こんな霰の降る日はどうぞ召し上がれ。

 

 

 少将のあまの(はなし)や志賀の雪

 

 元禄2年の暮、大津の智月尼の庵を訪ねた。

 藻壁門院(そうへきもんいん)少将(しょうしょう)の尼の、

 

 己が音に辛き別れはありとだに

    思ひも知らで鶏や鳴くらむ

 

 まあ泣きたいのはこっちだという歌があって、これに掛けてこんな雪の日に別れるのは辛いですよと言ってみた。

 

 

 何に(この)師走(しはす)(いち)にゆくからす

 

 元禄2年の暮は膳所の木曾義仲の墓を守る庵で過ごした。

 東海道がすぐ近くで、膳所と松本と大津宿はほとんどくっついていて人口も多い。

 東西の東海道はもとより、琵琶湖から運ばれて来る北国のものや瀬田川を上って来るものなど、市場は見てて飽きない。

 用はなくても黒い僧衣のまま出かけてゆく。

 

 

 木曾の(じゃう)雪や(はえ)ぬく春の草

 

 毎年毎年雪が降って雪に埋もれていても、その下で草は生え続けている。

 それが木曽で育った木曾義仲の心だ。

 貞享2年の春に大津に来た時は、木曾義仲の塚は荒れ果てていた。平家打倒の立役者なのに。

 貞享5年に再訪したら、墓の周りは奇麗になり管理人の庵があった。嬉しかった。

 みちのくの旅を終えて来てみると、膳所藩中老の菅沼外記にここに住んじゃえよと言われた。まさか墓の隣に住むことになるとは

 雪の中でじっと耐えながら春に花咲かせる木曾義仲の木曾魂。

 古今集にも、

 

 雪降れば冬籠りせる草も木も

    春に知られぬ花ぞ咲きける

        紀貫之

 

の歌がある。

 

 

 こもをきてたれ人ゐます花のはる

 

元禄3年の歳旦。木曽塚の仮の庵で年を越した。

木曾義仲の塚の隣で、まるで墓守の(おん)(ぼう)になったみたいだ。だったらこの種の賤民みたいに(むしろ)でも着て着衣(きそ)(はじめ)と行こうか。木曽だけに。

 

 

 (かはうそ)の祭見て来よ瀬田のおく

 

 元禄3年の正月は木曽塚だったが、木曾義仲の墓の周辺を寺院にして、そこに新しい庵を建てるというので、ひとまず伊賀に帰った。

 そこで道夕という医者が入門したが、言うことはでかいが、どうも薄っぺらな奴だ。だが発想は悪くない。

 一足先に膳所へ行くなら、菅沼外記を見習って勉強した方がいいな。

 そう思ってたら洒落堂とか建てて珍碵を名乗ってるという。形からか。

 

 

 うぐひすの笠おとしたる椿哉

 

 元禄3年26日、伊賀藤堂家の一族の百歳子の家で興行した時の発句。

 椿の花はぼとっと落ちて縁起悪いというのを払拭したいなと思った。

 あれも鶯が笠を落としたと思えば目出度いじゃないか。

 

 

 木のもとに汁も(なます)も桜かな

 

 元禄3年の32日、伊賀の風麦の家での興行の発句。

 桜の木の下は昔から貴賤の別なく集まれる場所で、昔の連歌は花の下で誰でも参加できたという。

 今はなかなかそうはいかないけど、身分関係なく集まれる場所として俳諧が続けられたらいいな。

 桜の下では貴賤関係ないという意味では、貧しい花見を恥じることはない。

 一汁一菜というように、汁と膾くらいは貧乏人の食卓にだってあるものだ。だからといって貴族大名の食卓に汁と膾がないなんてことはない。

 桜というのはそういうもの。散ってしまう前に楽しもうではないか

 

 

 

 かげろふや(さい)()の糸の薄曇(うすぐもり)

 

 

元禄3年春、伊賀にいた頃は持病がまた出て下血があって、柴胡を服用した。

柴胡は翁草の根で、この辺りには自生地があった。

翁草の野原は沢山の白髪のような綿毛の糸で埋め尽くされ、それが陽炎の中でぼんやり雲が掛かっているみたいに見える。

 

 

 土手の松花やこぶかき殿作(とのづく)

 

 みちのくの旅のあと、伊賀にいた頃藤堂修理(すり)さんとこに呼ばれた時の発句。多分こんな家だったんだろう。

 

 

 てふの羽の幾度(いくたび)(こゆ)る塀のやね

 

 元禄3年春、故郷の伊賀で()(ぼく)の家を訪ねた時の句。

蝶が塀の所を飛んできて、こっちへ来るかと思ったらいつまでも塀の所をうろうろしている。

 この家は蝶には敷居が高いのかもしれない。

 実はあの蝶も何度も転生しては生死の塀を越えているのかもね。

 

 

 ひばりなく中の拍子や雉子きじの声

 

 

元禄3年春、故郷伊賀伊賀での句。

田舎はいいねえ。雲雀が空高く舞い上がってピーチクパーチク鳴いている所に、合の手を入れるかのように雉のケンという声がする。春の鳥の声はこの世の春を寿ぐ謡のようだ。

 

 

 畑打(はたけうつ)音やあらしのさくら麻

 

 麻畑は初春にかなり深く土を耕さなくてはならない。大勢で大声上げながらの作業で結構騒がしい。

 でも、そのおかげで春の桜の咲く頃になると種を蒔くことができる。

桜の頃に蒔くから桜麻と言われている。

 

 

 ()あはしや豆の()めしにさくら狩

 

 江戸では聞かないが、故郷伊賀ではご飯にきな粉を掛けて食う。

 これを食いながら故郷の桜を眺めていると、子供の頃からのいろんなことを思い出して涙が出てくる。

 大豆の粉は餅にまぶしたり握った飯にまぶしたりすると、晴れの日の食べ物になる。

 ならば普段のきな粉掛けご飯だって花見の席に合うのではないか。

 

 

 春雨やふた葉にもゆるなすだね

  

元禄3年の春、兄の半左衛門の家でしばらく過ごした。

松尾家は先祖は武士だったが今は農人の家系で、兄がそれを継いでいる。今は主に里芋と唐辛子と茄子を作っている。

春雨に今、茄子の二葉が芽吹いてる。

 

 

 (この)たねとおもひこなさじとうがらし

 

 

唐辛子味噌はご飯のお供にちょうど良いし菜汁の味付けにも使える。

前にも、

 

かくさぬぞ宿は菜汁に唐辛子

 

の句を作ったし、最近も、

 

草の戸をしれや穂蓼に唐辛子

 

の句を詠んだ。

唐辛子の種は小さいからといって侮れない。

 

 

 種芋(たねいも)や花のさかりに売あるく

 

元禄3年春、伊賀の半残の家での興行の発句。

里芋は秋から冬にかけて収穫すると、その一部を地下三尺の穴に埋めて保存し、春に掘り起こして種芋として用いる。それが桜の季節になる。

花の盛りの頃の月は朧で、花と月はなかなか揃わないが、芋明月の芋なら揃う。

 

 

 一里(ひとさと)はみな花守の子孫かや

 

 伊賀から名張へ抜ける道の途中に花垣の庄がある。元禄3年の春に帰省した時に行ってみた。

 奈良の都の八重桜は絶滅寸前で、それをみんな京に持って行かれたのではたまらないということで、ここで種を絶やさないように保護し、こうしていにしえの奈良の都の八重桜が京九重に匂いぬることになったという。

 

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 (へび)くふときけばおそろし(きじ)の声

 

 晋ちゃんが「うつくしきかほかく雉のけ爪かな」という句を作ったから対抗意識が出てしまった。

 確かに雉は綺麗な色をしているが、雉の脛の後ろには鋭く尖った蹴爪(けづめ)がある。

 ただ、ギャップの面白さを狙うには、今一つインパクトに欠けるな。

 

 

 四方より花吹入(ふきいれ)てにほの波

 

 元禄3年の春、伊賀で医者の道夕が入門し、これから幻住庵に入るのを先回りするかのように、珍碵が膳所の琵琶湖畔に庵を構えた。

 やや性格に難はあるが、句のセンスは悪くない。

 一足先に膳所へ行き、そこで珍碵と号して住処を洒落堂とした。

 風光明媚な地で、場所は悪くない。洒落堂記を書いてこの句を添えたが、ほとんど景色の賛美になってしまった。

 門に「分別(ふんべつ)の門内に入事をゆるさず」何て書いてるが、そこそこ分別ないとあとが恐いよ。

 

 木の下に汁も膾も桜哉

 

を立句として菅沼外記を交えて三吟を巻いたが、これは中々の出来で合格点だ。

 その洒落堂を祝しての句。

 

 

 くさまくらまことの華見しても来よ

 

元禄3年春、路通がみちのくへ旅に出る。

才能はあるんだがお金の方が全く駄目で、膳所の門人には煙たがられてたみたいだ。出自の問題もあるのかもしれない。

みちのくに左遷になった実方(さねかた)中将(ちゅうじょう)ではないが‥。

 

 

 (ゆく)(はる)を近江の人とおしみける

 

 路通はみちのくの旅の帰りを共にしたが、そのあと粟津に帰っていたようだ。

 膳所や大津の連中と何かあったようだ。この頃は深く考えてなかった。出自の問題があったのだろう。

 元禄3年の春に伊賀から膳所へ行った時に再会して、珍碵と路通の両吟に脇だけ参加したが、そのあと路通はみちのくに旅立つ。

 

 

 鐘(きえ)て花の香は(つく)(ゆふべ)

 

 日没の鐘は撞き終わっても、花の香りは鼻をつく。すーーーーん。

 

 

 結ぶより(はや)歯にひゞく泉かな

 

 これはよく覚えていないが、天和の頃の句を江戸から京へ行った言水が元禄3年に新撰(しんせん)都曲(みやこぶり)に載せてくれてんだが、言水とは長いことご無沙汰している。

 句はよく思い出せないが、結構古い。

 清水の冷たさを飲む前から歯が痛くなると、ちょっと大袈裟に言ってみた。

 これを元禄3年に発表されるのはちょっと恥ずかしい。

 

 

 物好(ものずき)や匂はぬ草にとまる蝶

 

 これはいつの句だったか。

 まあ、蓼食う虫も好き好きという諺はあるが、蝶が必ずしも花に止まるとも限らないというところで何とかならないかと思った。

 まあ美男子がモテるとは限らないくらいの寓意としておこうか。

 

 

 (あけぼの)はまだむらさきにほとゝぎす

 

 幻住庵に入る頃だったたか、石山寺の紫式部が源氏物語を書いたと言われている部屋を見た。

 「春は曙やうやう白くなりゆく山際少しあかりて、紫だちたる雲の‥」って、突っ込めよ。

 まあ、冗談はともかく、源氏物語の秋好(あきこのむ)中宮(ちゅうぐう)はよく知られているが、紫上(むらさきのうえ)が春の曙が好きなことはそれほど知られていない。

 

 

 (まづ)たのむ(しひ)の木も(あり)夏木立

 

 菅沼外記(すがぬまげき)から木曾(きそ)(よし)(なか)さんのお墓の隣に新しい庵を建設する話が持ち上がった。

 それまで外記の伯父の修理(すり)定知(さだとも)が建てたという(げん)(じゅう)(あん)にしばらく滞在することになった。

 菅沼外記が世話してくれた幻住庵のある石山寺の裏の国分山は、とにかく眺めが良い。

 比叡山、比良の高嶺、辛崎の松、膳所城、瀬田の唐橋、富士山のような三上山、とにかく近江の国の大パノラマが広がる。

 松の太い横枝の上に横板を敷いて、そこに丸い藁座布団を敷いて展望台を作った。名付けて猿の腰掛け。

 これから夏の間、椎の木立が日を遮って涼しい風を運んでくれる。

 山で隠棲するというと、昔は相当な覚悟がいるものだったという。

世を捨てるというのは同時に世からも捨てられることで、社会的身分を失い、ほとんどもう死んだものとして扱われたいという。

 でも今の太平の世でみんな豊かになって、悠々自適の緩い隠棲生活が送れるようになった。椎の木陰で涼みながら

 

 

 (たちばな)やいつの野中(のなか)郭公(ほととぎす)

 

 ホトトギスは橘に宿を借りるもので、古今集に、

 

 ()朝来(さき)()き未だ旅なる(ほとと)(ぎす)

    花橘に宿を借らなむ

       よみ人知らず

 

の歌がある。

 いつぞや野中で聞いたホトトギスよ、この橘の(げん)(じゅう)(あん)に泊まって行きなさい。

 

 

 猪もともに(ふか)るゝ野分(のわき)かな

 

 幻住庵にいた頃だったか、台風でこの日は誰も訪ねて来なくて、いるのは山の猪くらいか。

 越人の、

 

 稗の穂の馬にがしたる景色哉

 

は良く出来ている。台風の一陣の風だろうか。

 こういう句を見ると対抗心が湧いてくる。

 越人の句は例えとして面白いし、馬が走るのを絵に描いたようだが、ここは猪を気遣う細みの句にしてみた。

 吹かれて靡く稗のダイナミックな動きも良いが、ガツンと頑張っている猪というのもどうだろうか。

 心細い野分の夜に勇気が湧いてこないだろうか。

 

  ゆふべにもあさにもつかず瓜の花

 

 

元禄3年の幻住庵にいた頃だったか。麓の方には瓜畑も多い。

夕顔も同じように蔓が出て五弁の花を咲かせて大きな身をつけるけど、瓜は一日中花が咲いている。

もちろん深川でいつも友としてきた朝顔とも違うが、幻住庵ではこれが我が友か。

 

 

 日の道や(あふひ)傾くさ月あめ

 

 アオイは背の低い草で、()()()には、

 

 麦がらに(しか)るる里の葵かな 鈍可

 

の句があった。

 端午の節句に飾られるので、

 

 おも(やせ)て葵(つけ)たる髪薄し 荷兮

 

の句もある。

 何か新味をと、背が高くて一斉に太陽の登る方に傾くというヒュウガアオイを詠んでみた。

天照大神の道には葵の紋所も頭を下げて従う。

 

 

 ほたる見や船頭(ゑう)ておぼつかな

 

元禄3年、幻住庵にいた頃にも瀬田の蛍船に誘われた。

船の上で酒を飲みながら蛍見を楽しんだが、船頭まで一緒に飲んじゃって、おいおい大丈夫か。

 

 

 (やが)て死ぬけしきは見えず蝉の声

 

 幻住庵の夏は蝉の声が賑やかだったが、723日に出る時には急に静かになっていた。

 これを幻住庵記のエンディングにしようかと思って、宗祇法師の連歌、雪舟の絵、利休の茶のいくら大成しようとも死はあっけなく訪れると書いてみたが、よく考えたら宗祇雪舟は八十まで、利休も七十まで生きた人だった。

 

 

 我に似な二ツにわれし真桑瓜

 

 元禄36月、京へ行った時に、大阪から東湖という者が入門するためにわざわざやって来たという。

 瓜は二つに割るとそっくりだが、それでもやはり似て非なるものだ。

 特に大阪は談林の力が強く、伊丹の連中もいる。その中でやって行くには蕉門だけでなく、他の良いものも吸収して行くと良い。

 

 

 京にても京なつかしやほとゝぎす

 

元禄36月に京へ行った時の句。

何処という商人から金沢に滞在した時に泊まった喜左衛門の宿の倅の小春からの手紙を受け取った。金沢は大火があったが無事で何よりだ。

京にいても、いろいろ懐かしい人の頼りが届く。ホトトギスの声を待ちに待ってやっと聞けたような心地だ。

 

 

 川かぜや(うす)がききたる夕すゞみ

 

元禄3年の6月、京にいた頃四条河原で夕涼みをした。

祇園に近い繁華街で、賀茂川の河原は臨時のテーブルが置かれ、そこで酒を飲み料理を並べて大勢の人で賑わっていた。

暑い京の夏もここは川風が吹き、薄柿色の帷子を着た粋な京都っ子がいて、見てて飽きない。

 

註、車庸編元禄五年(一六九二年)刊『己が光』には、

 

「四条の川原すゞみとて、(ゆう)月夜(づくよ)のころより有明(ありあけ)(すぐ)るまで、川中に(とこ)をならべて、夜すがらさけのみ、ものくひあそぶ。をんなは帯のむすびめいかめしく、おとこは羽織ながう着なして、法師老人どもに(まじり)、桶やかぢやのでしこまで、いとまえがほにうたひのゝしる。さるがに都のけしきなるべし。」

 

 

とある。

 

 

 合歓(ねむ)の木の葉ごしもいとへ星のかげ

 

 能因法師の歌に、

 

 七夕の苔の衣をいとはずば

    人なみなみにかしもしてまし

 

というのがあったな。

 この日は衣類の虫干しをするが、それを河原は寒かろうと貸してやるということか。

 苔の衣は借りてもいいが、この日に川に流す合歓の葉は眠くなるからやめておけ。

 

 こちらむけ我もさびしき秋の暮

 

元禄3年、幻住庵に京の雲竹という僧から後ろを向いた自画像を送られてきて、画賛を頼まれた。

後ろ向き‥前に星崎でもそんな絵見たっけ。流行ってるのか。

 

何で後ろ向きなのかよくわからないが、お互い歳もとって、人生は短いんだよ。こっち向いて語り会おうよ。