「実や月」の巻、解説

延宝六年四吟哥僊

初表

 実や月間口千金の通り町     桃青

   爰に数ならぬ看板の露    二葉子

 新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て  紀子

   芦の葉こゆるたれ味噌の浪  卜尺

 台所棚なし小舟こぎかへり    二葉子

   下男には与市その時     桃青

 

初裏

 乗物を光悦流にかかれたり    卜尺

   薬草喩品くすりごしらへ   紀子

 真鍮の弥陀の剣を戴て      桃青

   西をはるかに緑青の山    二葉子

 隈どりの嶺より月の落かかり   紀子

   秋を坐布の床の山風     卜尺

 焼鳥の鶉なくなる夕まぐれ    二葉子

   精進あげの三位入道     桃青

 かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺

   又孕ませて蛙子ぞなく    紀子

 鶯の宿が金子をねだるらむ    桃青

   龍田のおくに博奕こうじて  二葉子

 

二表

 毛氈を御門の目には錦かと    紀子

   そよや霓裳羅漢舞する    卜尺

 やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよ 二葉子

   鼡に羽が郭公とぶ      桃青

 押入や淀のわたりの箱階子    卜尺

   織もの巻もの衣笠の森    紀子

 能太夫末は時雨の松見えて    桃青

   殿様かたへゆくあらしかな  二葉子

 雁鶴も高ねの雲の立まよひ    紀子

   俎板の月摺鉢の不二     卜尺

 昔の秋三千よ人の拂物      二葉子

   釈迦も此よを欠落の時     桃青

 

二裏

 放埓に精舎のかねをつかひ捨   卜尺

   大坂くづれ瓦のこれる    紀子

 神鳴の火入とかやは是とかや   桃青

   鬼一口に伽羅を喰割     二葉子

 花の時千方といつし若衆の    紀子

   恋のくせもの王代の春    卜尺

      参考;『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)

初表

発句

 

   四吟哥僊

 実や月間口千金の通り町    桃青

 

 「四吟哥僊」の歌と哥は同じで仙と僊も同じ意味だから普通に「四吟歌仙」でもいいところだ。延宝六年七月下旬の興行。

 「実や」は「げにや」と読む。「月間口千金」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 

 「一間間口で千金もするという地価の高い場所。」

 

とある。

 地価とは言っても、近代的な地価の概念は明治五年の地租改正からはじまるもので、江戸時代の土地は基本的には幕府のもので、田畑の売買などは禁令が出ていたが、そこは建前で実際は地主がいて事実上の土地の私有化が行われていて、売買も行われていた。商人の多くは地主に店賃(たなちん)を払って商売をしていた。

 ただ、ここでいう「千金」が店賃のことなのかどうかはよくわからない。千金を稼げる場所という意味かもしれない。とにかく多くの金が動く場所であることには変わりない。

 「通り町」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 

 「① 目抜きの大通り。またそれにそった町筋。

  ② ◇ 江戸の町を南北に通じる大通りの名。神田須田町から日本橋・京橋・新橋を経て、芝の金杉橋に至る。」

 

とある。

 ここで地名を出すのは、おそらくこの興行が脇句を詠む二葉子の家で行われたからであろう。寺社での興行ではなく私邸での興行というのは、その後の蕉風の標準となってゆく。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注によれば、二葉子は、

 

 「喋々子の息。十二歳。『俳家大系図』によれば『喋々子住鍛冶橋』とあり。鍛冶橋は通り町に近い。」

 

だという。鍛冶橋は江戸城の外堀に架けられた橋で、その外側に鍛冶橋御門があった。東京駅と有楽町駅の間あたりにある鍛冶屋橋交差点に「鍛冶屋橋跡」という説明書きがある。通り町が現在の中央通りなので、確かにそう遠くはない。

 この頃芭蕉も日本橋小田原町にいたが、そこも通り町のすぐそばだった。

 間口千金の通り町から見る今日の月は、実に値千金というわけだが、この「千金」は当然、

 

    春宵      蘇軾

 春宵一刻直千金 花有清香月有陰

 歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈

 

 春の宵の一刻は値千金、

 花清らかに香り月も朧げに

 歌に笛に楼台の声も聞こえてきて

 中庭の鞦韆に夜はしんしん

 

の詩をふまえている。

 「千金」という響きから、ちょっと生々しい経済ネタに持ってゆこうという欲求は、この句に留まらなかった。

 延宝九年の常矩撰『俳諧雑巾』には、

 

 春宵のやす売あてありけふの月 重以

 

 千金の春宵も今日の月と較べれば安く買い叩けるのではないか、とする。

 同じ延宝九年の言水撰『東日記』には、

 

 千金や閏の一字月のけふ    秀勝

 

 延宝八年には閏八月があり、中秋の名月が二回あった。滅多にない二度の名月は千金の値がある、となる。

 このネタは結局、

 

 夏の月蚊を疵にして五百両   其角

 

に窮まることになる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「間口」は居所。

 

 

   実や月間口千金の通り町

 爰に数ならぬ看板の露     二葉子

 (実や月間口千金の通り町爰に数ならぬ看板の露)

 

 十二歳とは思えぬ堂々たる脇で、伝承は本当なのか、喋々子自身ではないかと疑いたくもなる。

 発句の「千金の通り町」に対して、自分の家を「数ならぬ看板の露」とへりくだって受ける。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

第三

 

   爰に数ならぬ看板の露

 新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て 紀子

 (新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て爰に数ならぬ看板の露)

 

 紀子についてはよくわからないが、言水撰の『東日記』(延宝九年)に、

 

 年忘れたり跡へは取にかへられず 紀子

 

の句がある。

 延宝五年に千八百句独吟を行い延宝六年五月に『大矢数千八百韵』を刊行した大和国多武峰寺塔頭西院の僧、紀子とは別人であろう。俳号がかぶることは時々ある。

 岸和田市のhttps://www.city.kishiwada.osaka.jp/uploaded/attachment/1248.pdfという短冊目録(江戸時代)のファイルに、「紀子、我袖や、俳諧、『江府住人 我袖や』」というのがあるから、多武峰の紀子とは別に江戸の紀子がいたと考える方がいい。

 句の方は、『校本芭蕉全集 第三巻』の注が『源氏物語』澪標巻の、

 

 数ならぬ三島がくれになく鶴を

     けふもいかにと問ふ人ぞなき

 

の歌を引用している通り、この歌を本歌にしながら、前句の「数ならぬ看板」を蕎麦屋の看板として、閑古鳥ならぬ鶴の鳴く問う人もなき風情としている。

 

季語は「新蕎麦」で秋、植物、草類。「田鶴」は鳥類。「三嶋」は大阪の三島江で名所。

 

四句目

 

   新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て

 芦の葉こゆるたれ味噌の浪   卜尺

 (新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て芦の葉こゆるたれ味噌の浪)

 

 卜尺(ぼくせき)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「?-1695 江戸時代前期の俳人。

江戸日本橋大舟町の名主。はじめ北村季吟に,のち松尾芭蕉にまなぶ。延宝年間江戸で宗匠となった芭蕉に日本橋小田原町の住居を提供した。延宝8年「桃青門弟独吟二十歌仙」に参加。元禄(げんろく)8年11月20日死去。通称は太郎兵衛。別号に孤吟,踞斎(きょさい)。」

 

とある。

 喋々子撰の『誹諧當世男(はいかいいまやうをとこ)』(延宝四年刊)に、小澤氏卜尺と記され、

 

 丸き代やふくりんかけし千々の春 卜尺

 まま事の昔なりけり花の山    同

 たぞ有か編笠もてこいけふの月  同

 ふぐ汁や生前一樽のにごり酒   同

 

の句がある。それ以前の松意撰『談林十百韵(だんりんとつぴゃくゐん)』(延宝三年刊)にも多くの句が選ばれている。

 小澤は俗字で「小沢」と書くと右半分が「卜尺」になるため、俳号はそこから来たと思われる。

 醤油が普及する前の江戸では、蕎麦はたれ味噌で食べていた。

 田鶴に芦とくれば、

 

 若の浦に潮みちくれば潟をなみ

     葦辺をさして田鶴鳴き渡る

             山部赤人(続古今集)

 

の歌の縁とわかる。

 「芦の葉こゆる」は、

 

 夕月夜しほ満ち来らし難波江の

     あしの若葉を越ゆる白波

             藤原秀能(新古今)

 

を證歌としている。

 

 新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て

     芦の葉こゆるたれ味噌の浪

 

と和歌の形にして読めば、「新蕎麦や」の「や」は疑いの「や」として、このあとに比喩として「三嶋がくれに田鶴鳴て芦の葉こゆる」ような至高の「たれ味噌の浪」となる。

 

無季。「芦の葉」は植物、草類。「浪」は水辺。

 

五句目

 

   芦の葉こゆるたれ味噌の浪

 台所棚なし小舟こぎかへり   二葉子

 (台所棚なし小舟こぎかへり芦の葉こゆるたれ味噌の浪)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 堀江こぐたななしを舟こぎかへり

     おなじ人にやこひわたるらん

             よみ人しらず(古今集)

 

の歌が引用されている。「たななし小舟」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 棚板すなわち舷側板を設けない小船。上代から中世では丸木舟を主体に棚板をつけた船と、それのない純粋の丸木舟とがあり、小船には後者が多いために呼ばれたもの。ただし近世では、一枚棚(いちまいだな)すなわち三枚板造りの典型的な和船の小船をいう。棚無船。

 ※万葉(8C後)一・五八「いづくにか舟泊(ふなはて)すらむ安礼(あれ)の崎こぎたみ行きし棚無小舟(たななしをぶね)」

 

とある。まあ、小さな手漕ぎボートを想像すればいいのだろう。

 これに台所がつくと「台所舟」になる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 船遊びなどの屋形船に付随して料理を作りまかなう小船。厨船(くりやぶね)とも称し、江戸や大坂の川筋での船遊びに多く使われた。また、近世大名の川御座船にも台所御座船と呼ぶ同じ目的のものがあり、これはかなり大型船であった。賄舟(まかないぶね)。

※俳諧・談林十百韻(1675)「磯うつなみのその鮒鱠〈卜尺〉 客帆の台所ふねかすみ来て〈一鉄〉」

 

とある。

 台所舟が漕ぎ帰っていったため、たれ味噌が芦の葉の向こうに行ってしまった、となる。

 

無季。「棚なし小舟」は水辺。

 

六句目

 

   台所棚なし小舟こぎかへり

 下男には与市その時      桃青

 (台所棚なし小舟こぎかへり下男には与市その時)

 

 「下男」は「しもをとこ」と読む。句は「その時(の)下男には与市」の倒置。与市というと那須与一が思い浮かぶが、たまたま台所舟を漕いでたのが与市という厨房の下働きだったとしてもおかしくはない。

 

無季。「下男」は人倫。

初裏

七句目

 

   下男には与市その時

 乗物を光悦流にかかれたり   卜尺

 (乗物を光悦流にかかれたり下男には与市その時)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある通り、与市を角倉素庵(すみのくらそあん)のこととする。角倉素庵はコトバンクの「美術人名辞典の解説」に、

 

 「江戸前期の学者・書家・貿易商。了以の長男。名は光昌・玄之、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵等がある。藤原惺窩の門人で本阿弥光悦に書を学び一家を成し、角倉流を創始、近世の能書家の五人の一人に挙げられる。了以の業を継ぎ、晩年には家業を子供に譲り、嵯峨本の刊行に力を尽くす。また詩歌・茶の湯も能くする。寛永9年(1632)歿、61才。」

 

とある。

 「乗物」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「①人の乗る物。馬・車・輿(こし)・駕籠(かご)など。

  ②江戸時代、公卿(くぎよう)・高級武士、また儒者・医者・婦女子などの限られた町人が乗ることを許された、引き戸のある上等な駕籠。」

 

とある。陸上の乗物に限られていて、今のような船や飛行機を含めた人を乗せるもの一般としての乗物の概念はない。もちろん連歌でも植え物、降り物はあっても乗り物はない。よって打越の小舟は問題にならない。

 駕籠を担ぐことを「駕籠をかく」というところから、ここでは与市という駕籠かきがいるが光悦流か?という冗談。

 

無季。

 

八句目

 

   乗物を光悦流にかかれたり

 薬草喩品くすりごしらへ    紀子

 (乗物を光悦流にかかれたり薬草喩品くすりごしらへ)

 

 「薬草喩品(やくそうゆほん)」は奈良時代に書かれた「大字法華経薬草喩品」というお経のこと。内容は仏の教えが三千大千世界に等しく雨を降らせ、様々な薬草をも育てるような偉大なものであることを説くもので、薬の作り方は書いてない。

 本阿弥家は日蓮宗の家系でそこから「薬草喩品」が出てくる。

 前句の光悦流に駕籠をかくところから、薬の製法の書いてない「薬草喩品」で薬を作ると洒落には洒落で応じたということか。かなり苦しい。

 

無季。釈教。

 

九句目

 

   薬草喩品くすりごしらへ

 真鍮の弥陀の剣を戴て     桃青

 (真鍮の弥陀の剣を戴て薬草喩品くすりごしらへ)

 

 剣を持っているのは普通は不動明王で、阿弥陀如来の剣というのはあまり聞かない。まあ、そこはあまりこだわらずにというところなのか。まあ、頭の後ろの放射光背が沢山の剣に見えなくもないか。

 その剣で薬草を採取し、薬を拵える。阿弥陀如来というよりは薬師如来だろう。薬師如来が阿弥陀に剣を借りてということか。

 

無季。釈教。

 

十句目

 

   真鍮の弥陀の剣を戴て

 西をはるかに緑青の山     二葉子

 (真鍮の弥陀の剣を戴て西をはるかに緑青の山)

 

 真鍮だから錆びれば緑青(ろくしょう)を吹く。それを西の山の青い色に喩える。

 

無季。「山」は山類。

 

十一句目

 

   西をはるかに緑青の山

 隈どりの嶺より月の落かかり  紀子

 (隈どりの嶺より月の落かかり西をはるかに緑青の山)

 

 初代市川團十郎が貞享二年に『金平六条通』の坂田金平を勤めた時が歌舞伎の隈取の始めと言われているから、ここでの隈取は歌舞伎のそれではない。

 日本画の技法である「隈取」も、はたして「日本画」が誕生する以前の伝統絵画に遡れるのかどうか定かでない。

 ここでは単に影になるという意味であろう。シルエットとなった嶺に月が沈もうとすると、空も明るくなり、次第に緑青の色をした山が浮かび上がってくる。こういう景色の句になると展開は楽になる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「嶺」は山類。

 

十二句目

 

   隈どりの嶺より月の落かかり

 秋を坐布の床の山風      卜尺

 (隈どりの嶺より月の落かかり秋を坐布の床の山風)

 

 「坐布」は「ざしき」、「床」は「とこ」と読む。

 前句の「隈どり」を隈を書き込んだ、絵に描いたという意味に取り成して、「嶺より月」という絵が落ちかかったとし、その原因を座敷の床に吹き込んできた秋の山風とする。

 打越に「山」があり、輪廻になっている。一応体・体・用と違えてはいるが。

 山風に月は、

 

 たのめこし人を待乳の山風に

     さ夜ふけしかば月も入りにき

             よみ人しらず(新古今集)

 

の歌がある。

 

季語は「秋」で秋。「床」は居所。

 

十三句目

 

   秋を坐布の床の山風

 焼鳥の鶉なくなる夕まぐれ   二葉子

 (焼鳥の鶉なくなる夕まぐれ秋を坐布の床の山風)

 

 秋風に鶉は、

 

 夕されば野辺の秋風身にしみて

     鶉鳴くなり深草の里

             藤原俊成(千載和歌集)

 

が本歌になる。それを焼鳥の鶉にして卑俗に落とす。

 

季語は「鶉」で秋、鳥類。

 

十四句目

 

   焼鳥の鶉なくなる夕まぐれ

 精進あげの三位入道      桃青

 (焼鳥の鶉なくなる夕まぐれ精進あげの三位入道)

 

 「三位入道」は「夕されば」の歌の作者、藤原俊成が正三位の位に就き俊成卿と呼ばれていたが、後に出家し、五条三位入道と呼ばれるようになった。

 同じ本歌で三句続けることはできないが、ここは単に作者名だけだし、まあ、他の三位入道だと言って逃れることもできる。

 精進上げといえば、貞徳独吟「歌いづれ」の巻の八十一句目に、

 

   祝言の夜ぞ酔ぐるひする

 生魚を夕食過て精進あげ    貞徳

 

の句があった。精進潔斎が必要な行事が終ったあとの肉や酒や性の解禁をいう。

 

無季。釈教。「入道」は人倫。

 

十五句目

 

   精進あげの三位入道

 かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺

 (かかと寝て花さく事もなかりしに精進あげの三位入道)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 

 埋木の花咲くこともなかりしに

     身のなる果はあはれなりけり

             源頼政(平家物語)

 

の歌を引いている。辞世の歌で、埋もれた木のように花さくこともなかった身を嘆く。

 源頼政は従三位にまで上り、源三位と呼ばれた。晩年には出家している。

 句の内容はというと、「かかあと寝て何が嬉しいんだ」といかにもオヤジの言いそうなことだ。精進上げは肉・酒・性の解禁だから、最後の「性」を付ける。

 ちなみに源三位の妻は源斉頼女(源斉頼の孫娘)だが、菖蒲御前という側室もいた。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。恋。「かか」は人倫。

 

十六句目

 

   かかと寝て花さく事もなかりしに

 又孕ませて蛙子ぞなく     紀子

 (かかと寝て花さく事もなかりしに又孕ませて蛙子ぞなく)

 

 これは貧乏人の子沢山ということか。

 まあ、浮気するほどの金もなければ、男としてももてもせず、というところでせっせとかかあ相手に子作りに励み、あちこちで子供が泣いている。

 「蛙子(かへるこ)」はおたまじゃくしのことで鯰の孫ではない。本物のおたまじゃくしは鳴かないが‥。

 蛙子は「あこ」とも読めるので、「吾子」と掛けているのかもしれない。

 貞享三年の『蛙合』にも、

 

 哀にも蝌(かへるご)つたふ筧かな 枳風

 

の句がある。

 

季語は「蛙子」で春、水辺。恋。

 

十七句目

 

   又孕ませて蛙子ぞなく

 鶯の宿が金子をねだるらむ   桃青

 (鶯の宿が金子をねだるらむ又孕ませて蛙子ぞなく)

 

 さて、二句続いたオヤジギャグをどう収めるかというところだ。

 「鶯の宿」は、

 

 勅なればいともかしこしうぐひすの

     宿はと問はばいかが答へむ

             よみ人知らず(拾遺集)

 

という出典がある。これは御門の命令で梅の木を持ってかれてしまったときに、その家の女主人が木にこの歌を結び付けておいて、それを読んだ御門が梅の木を返すという物語だ。

 桃青の句の場合は、金子(きんす)を持って行こうとする亭主に女房が、「ほら、蛙子が泣いてるでしょ」とたしなめる場面にする。

 蛙と鶯は古今集仮名序の「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」の縁もある。

 

季語は「鶯」で春(鳥類)。「宿」は居所。

 

十八句目

 

   鶯の宿が金子をねだるらむ

 龍田のおくに博奕こうじて   二葉子

 (鶯の宿が金子をねだるらむ龍田のおくに博奕こうじて)

 

 鶯に龍田は、

 

 花の散ることやわびしき春霞 

     たつたの山の鶯の声

             藤原後蔭(古今集)

 

の歌を本歌とする。

 鶯の主人が何で金子をねだるかと思ったら、龍田山の奥に賭博ができたからだった。龍田山IRか。

 

無季。「龍田」は名所。

二表

十九句目

 

   龍田のおくに博奕こうじて

 毛氈を御門の目には錦かと   紀子

 (毛氈を御門の目には錦かと龍田のおくに博奕こうじて)

 

 「毛氈」はフェルトのことで、ウィキペディアに、

 

 「現存する日本最古のフェルトは、正倉院所蔵の毛氈(もうせん)である。奈良時代に新羅を通じてもたらされたとされる。近世以後は羅紗・羅背板なども含めて「毛氈」と呼ばれるようになるが、中国や朝鮮半島のみならず、ヨーロッパからも大量の毛氈が輸入され、江戸時代後期には富裕層を中心とした庶民生活にも用いられるようになった。現在でも、畳大の大きさに揃えられた赤い毛氈は緋毛氈と呼ばれ茶道の茶席や寺院の廊下などに、和風カーペットとして用いられている。」

 

とある。このころはまだ緋毛氈は一般的ではなかったのだろう。

 「錦」が数種類の色糸で織り上げる華麗な織物であったように、ここでいう毛氈も緋毛氈ではなく、色数の多い華やかなものを指していたと思われる。正倉院の毛氈も「花氈(かせん)」や「色氈(しきせん)」だった。

 前句の「博奕」を中世に大流行した闘茶のこととしたのだろう。賭け茶とも呼ばれている。闘茶の会場には唐物の毛氈が敷き詰められていたという記述が『太平記』にあるらしい。

 闘茶は戦国時代に侘び茶が流行ると、急速に衰退していったが、江戸時代に入っても行われていた。

 竜田川の紅葉は、

 

 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は

     竜田の川の錦なりけり

             能因法師(後拾遺集)

 

のように錦に喩えられた。

 龍田山の奥で闘茶があれば、紅葉よりそこの毛氈が錦だということになる。

 

無季。

 

二十句目

 

   毛氈を御門の目には錦かと

 そよや霓裳羅漢舞する     卜尺

 (毛氈を御門の目には錦かとそよや霓裳羅漢舞する)

 

 「霓裳(げいしょう)」は「霓裳羽衣の曲」で、ウィキペディアには、

 

 「霓裳羽衣の曲は玄宗が婆羅門系の音楽をアレンジした曲と言われる。玄宗は愛妾である楊玉環のお披露目の際、この曲を群臣に披露し、群臣に楊玉環が特別な存在であると意識させた。」

 

とある。

 「楊玉環」は楊貴妃。ウィキペディアには「姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。」とある。

 「そよや霓裳」は謡曲『楊貴妃』の地歌に、

 

 「そよや霓裳羽衣の曲・そよや霓裳羽衣の曲・そぞろに濡るる袂かな。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.25599-25602). Yamatouta e books. Kindle 版. )

 

とある。

 楊貴妃なら錦だが、毛氈を着て舞うとなると、ということで羅漢舞(らかんまひ)になったか。

 羅漢舞はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「羅漢講に行なわれた羅漢の面をかぶって舞う舞。また、酒席などで、羅漢のまねをして、はやしたり踊ったりすること。」

 

とある。

 

無季。

 

二十一句目

 

   そよや霓裳羅漢舞する

 やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよ 二葉子

 (やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよそよや霓裳羅漢舞する)

 

 これは、

 

 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ

     をとめの姿しばしとどめむ

             僧正遍照(古今集)

 

だが、舞っているのは乙女ではなくお坊さん。きているのも天の羽衣ではなく破れ袈裟。何か狐に化かされたみたいだ。

 

無季。「やぶれ袈裟」は衣裳。「雲」は聳物。

 

二十二句目

 

   やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよ

 鼡に羽が郭公とぶ       桃青

 (やぶれ袈裟雲のかよひぢ吹とぢよ鼡に羽が郭公とぶ)

 

 鼡は鼠。

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「和漢三才図会『伏翼(かわほり)、鼠モ亦蝠ニ化ス』」とある。

 蝙蝠は確かに哺乳類だから羽がなければ鼠に似ている。出典そのままではなく、あえて少し変えてホトトギスにするとかなりシュールになる。こうした発想は『次韻』調につながってゆく。

 ホトトギスの雲の通い路は、

 

 なれぬれば夜もや越ゆる郭公

     小倉の峰の雲のかよひ路

             九条基家(洞院摂政家百首、夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「郭公」で夏、鳥類。「鼡」は獣類。

 

二十三句目

 

   鼡に羽が郭公とぶ

 押入や淀のわたりの箱階子   卜尺

 (押入や淀のわたりの箱階子鼡に羽が郭公とぶ)

 

 箱階子(はこばしご)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「段の裏の下部の空間に、側面から利用する、引き出しや戸棚を設けた階段。段と段との間にとりだし口を設けたものもある。はこばし。」

 

とある。今では階段箪笥と呼ばれることが多い。常設の階段ではなく、二階へ抜ける穴のところに梯子代わりに架けるもので、押入れに収納することも多い。

 「淀のわたり」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 

 いづ方になきてゆくらむ郭公

     淀のわたりのまだ夜ぶかきに

             壬生忠見(拾遺集)

 

の歌が引用されている。ホトトギスと淀の渡りはこの歌を本歌として付け合いになる。

 前句の羽の生えた鼠のホトトギスを、あたかも羽が生えているかのようなドタバタうるさく走り回る鼠の比喩とし、「押入や」の「や」は「は」に替る「や」で、「押入は淀のわたりの箱階子や」と疑いつつ治定し、「鼡に羽が(はえて、歌に詠まれた淀のわたりの)郭公(であるかのように)とぶ」、となる。

 

無季。「淀のわたり」は名所。

 

二十四句目

 

   押入や淀のわたりの箱階子

 織もの巻もの衣笠の森     紀子

 (押入や淀のわたりの箱階子織もの巻もの衣笠の森)

 

 衣笠の森は京都の衣笠山の周辺で、衣笠山の麓一体もかつて衣笠と呼ばれていた。龍安寺や等持院や金閣寺などがある。和歌では衣笠岡で歌枕になっている。

 句は呉服店の様子を描写したもので、箱階子のある押入を淀の渡りに見立て、織物や巻いた布などの陳列されているところを衣笠の森に喩える。ものが衣(きぬ)だけに。

 対句のような構成なので、相対付け(向え付け)と見ていいだろう。

 衣笠岡は、

 

 秋ごとに誰れ来てみよと藤袴

     衣笠岡匂ふなるらむ

             源師時(堀河百首)

 来てみれば衣笠岡にたつ鹿は

     夜をかさねても恋ふる妻かな

             郁芳門院安芸(久安百首)

 

などの歌に詠まれている。

 

無季。「衣笠の森」は名所。

 

二十五句目

 

   織もの巻もの衣笠の森

 能太夫末は時雨の松見えて   桃青

 (能太夫末は時雨の松見えて織もの巻もの衣笠の森)

 

 能太夫(のうだゆう)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「元来は,能の四座 (観世,宝生,金春,金剛) の宗家の称。ただし喜多流宗家だけは喜多太夫と呼ばなかった。転じて,能のシテ役のことをも太夫と称した。」

 

とある。

 きらびやかな織もの巻ものの森に囲まれてきた能太夫も、やがて年を取れば時雨の松のように色を失ってゆく。

 時雨の松といえば、

 

 わが恋は松を時雨の染めかねて

     真葛が原に風さわぐなり

             慈円(新古今集)

 

の歌が知られている。時雨に染まらない人を松(待つ)に、裏を見せる(うらむる)真葛が原の恨みだけが残ってゆく。

 そこには定家卿が時雨亭の、

 

 しのばれむものともなしに小倉山

     軒端の松ぞ慣れて久しき

             藤原定家(拾遺愚草)

 

のイメージとも重なり合って、謡曲『定家』の定家葛にも通じ合う。

 ここではあえて恋に限定する必要もないだろう。なかなか思い通りにならない世の中に、いつしか年を取り、果たされなかった夢の様々な恨みが、もはや怒ることも取り乱すこともなく静かに心の底に積もってゆく。(本来韓国の「恨(ハン)」もそういうものだったと思う。)

 ひょっとしたらこの能太夫は遊女の最高位としての太夫かもしれない。遊女の太夫も最初は女歌舞伎の能太夫から来ている。

 失われてゆく美貌というテーマは、後の元禄三年の「市中は」の巻の三十二句目、

 

   さまざまに品かはりたる恋をして

 浮世の果は皆小町なり     芭蕉

 

の先駆けかもしれない。

 

季語は「時雨」で冬、降物。「能太夫」は人倫。「松」は植物、木類。

 

二十六句目

 

   能太夫末は時雨の松見えて

 殿様かたへゆくあらしかな   二葉子

 (能太夫末は時雨の松見えて殿様かたへゆくあらしかな)

 

 能太夫はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 

 「能役者のうち、公の席でシテを務める立場の者。江戸時代は四座一流の家元や各藩所属役者で格の高い者などをさした。のち、能役者一般をいう。」

 

とあるように、ここでは各藩所属役者の意味になる。

 あるいは遊女の太夫が寄る年波に勝てずに、一人の殿方の所に落ちて行くとも取れる。

 

 葛の葉のおつるの恨夜の霜   宗因

 

の心だ。この句は後に芭蕉が『野ざらし紀行』の西行谷の帰りに寄った茶店での因縁の句になる。

 

無季。「殿様」は人倫。

 

二十七句目

 

   殿様かたへゆくあらしかな

 雁鶴も高ねの雲の立まよひ   紀子

 (雁鶴も高ねの雲の立まよひ殿様かたへゆくあらしかな)

 

 「高嶺の花」という言葉は本来は高い山の上で咲く花で手が届かないという意味だったが、今日では「高値の花」つまり値段が高くて手の届かないという意味で用いられている。

 この両義性は昔からあったのだろう。ここでは食材だが、雁も鶴も高価で、庶民から見れば高い山の雲の彼方で、殿様のところへ買われていってしまう。

 ただ、雁は元禄六年には、

 

 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 

と詠まれているから、恵比寿講の特別なご馳走だとは言え、一応庶民の手の届くものになっていたか。

 嵐に高嶺の雲は、

 

 嵐吹く高嶺の雲をかたしきて

     夢路も遠し宇津の山越え

             藤原忠良(夫木抄)

 

の歌がある。

 

季語は「雁」で秋、鳥類。「鶴」も鳥類。「高ね」は山類。「雲」は聳物。

 

二十八句目

 

   雁鶴も高ねの雲の立まよひ

 俎板の月摺鉢の不二      卜尺

 (雁鶴も高ねの雲の立まよひ俎板の月摺鉢の不二)

 

 俎板というと日本では一般的に長方形のものが用いられ、昔は足がついていた。ただ、俎板を月に見立てるというと、円形の俎板も存在していたか。あるとしたらおそらく中華料理に用いるような、丸太を切ったような俎板であろう。

 摺鉢の不二(富士)はすり鉢を伏せた形状からか。

 前句の「雲の立まよひ」から俎板と摺鉢を空の景色に見立てた。

 富士に高嶺の雲は、

 

 いつとなく心そらなる我が恋や

     富士の高嶺にかかる白雲

             相模(後拾遺集)

 

の歌がある。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「不二」は名所、山類。

 

二十九句目

 

   俎板の月摺鉢の不二

 昔の秋三千よ人の拂物     二葉子

 (昔の秋三千よ人の拂物俎板の月摺鉢の不二)

 

 「拂物」は不用品のこと。「三千余人」は漢文ではよくある言い回し。戦記物だと「三千余騎」とともによく用いられる。

 『荘子』の「説剣篇」には、「昔趙文王喜剣。剣士夾門而客三千余人。日夜相撃於前、死傷者歳百余人、好之不厭。」とある。三千余人の剣士が日夜試合を行い、死傷者が年に百余人に及び、国も衰えて行くのを嘆き荘周に相談すると、荘周は「天子剣、諸侯剣、庶人剣」の三剣の話をする。天子には三つの剣がある。一つは天地自然を治める天子の剣、一つは家臣を用いて政道を行い国を治める諸侯の剣、もう一つはただ斬って殺すだけの庶人の剣。これを聞いて考え込んでしまった王は三ヶ月引き籠り、「剣士皆服斃其処也」となった。

 雁、月と秋が二句続いたので、「昔の秋」の「秋」は秋を三句続けるための放り込みで特に意味は無いのではないかと思う。

 前句の「俎板の月摺鉢の不二」を絵に描いた餅のような食べられないものの事として、三千余人が食事も与えられずお払い箱(拂物)になった。

 

季語は「秋」で秋。「三千よ人」は人倫。

 

三十句目

 

   昔の秋三千よ人の拂物

 釈迦も此よを欠落の時     桃青

 (昔の秋三千よ人の拂物釈迦も此よを欠落の時)

 

 「欠落」は「かけおち」と読む。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、

 

 「江戸時代に、貧困、借財その他の原因で失踪(しっそう)することを欠落(かけおち)といった。一般に出奔、逐電、立退(たちのき)などの語も用いられたが、法律上は欠落が多用された。」

 

とある。今日では男女の示し合わせて逃げる意味以外ではほとんど用いられなくなったが、逆に当時はまだこの意味がなかった。

 延宝三年の「いと凉しき」の巻の五十一句目に、

 

   うり家淋し春の黄昏

 欠落の跡は霞の立替り     似春

 

の句がある。

 「釈迦も此よを欠落の時」はお釈迦様の出家のことをいう。お釈迦様も出家する前は王子で、後宮にはたくさんの女性がいたとされている。「三千よ人の拂物」は釈迦の出家のせいで彼女達がお払い箱にされたと付ける。

 

無季。釈教。

二裏

三十一句目

 

   釈迦も此よを欠落の時

 放埓に精舎のかねをつかひ捨  卜尺

 (放埓に精舎のかねをつかひ捨釈迦も此よを欠落の時)

 

 釈迦の出家の理由を借金取りに追われての夜逃げにとする。この辺の下世話に落とすところが卜尺らしいというか。

 

無季。釈教。

 

三十二句目

 

   放埓に精舎のかねをつかひ捨

 大坂くづれ瓦のこれる     紀子

 (放埓に精舎のかねをつかひ捨大坂くづれ瓦のこれる)

 

 「大坂くづれ」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注によれば、「大坂夏の陣の戦」だという。前句を方広寺鐘銘事件のこととし、冬の陣で豊臣家は敗北する。江戸時代だからもちろん徳川中心の歴史観に立ち、方広寺の鐘銘で不敬なことをするからこうなるのだ、ということになる。

 

無季。

 

三十三句目

 

   大坂くづれ瓦のこれる

 神鳴の火入とかやは是とかや  桃青

 (神鳴の火入とかやは是とかや大坂くづれ瓦のこれる)

 

 「火入(ひいれ)」にはいろいろな意味がある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「① タバコを吸うための炭火などを入れておく小さな器。ひいり。

 ※評判記・色道大鏡(1678)四「呑(のみ)さしたるたばこを火入(ヒイレ)にうちあけ」

  ② 山野・秣場(まぐさば)などを肥やすために、そこの枯れ草や小さい木などを焼くこと。

 ※森林法(明治四〇年)(1907)七八条「森林又は之に接近せる土地に火入を為さむとするときは」

  ③ 清酒などの腐敗を防ぐために加熱すること。

 ※歌舞伎・曾我梅菊念力弦(1818)三立「あの酒も火入(ヒイ)れだの」

  ④ 製鉄所の溶鉱炉や火力発電所などの燃焼設備が、落成したり改修したりして、操業を開始すること。吹き入れ。「火入れ式」

  ⑤ 江戸時代、山林の保護や火災の予防などのために山林の周囲を前もって焼きはらうこと。ほそげやき。」

 

 元は単に火を入れるということだから、火の入れ物か、何かの目的のために火を導入する事かの二つに分けられる。

 前句の「瓦」を生かすなら、この瓦が雷の火の入れて保管しておくものか、と読んだ方がいいのだろう。「茶道入門」のホームページには、

 

 「火入(ひいれ)は、煙草盆の中に組み込み、煙草につける火種を入れておく器のことです。

 火入は、中に灰を入れ、熾した切炭を中央に埋めて、喫煙の際の火種とします。」

 

とある。

 この句を大坂冬の陣で大砲が用いられたことと結びつけると、同じネタが連続する事になるので、ここは普通に雷が落ちて火事になって残った瓦とすべきであろう。

 

無季。当時はまだ「雷」は季語ではなかった。

 

三十四句目

 

   神鳴の火入とかやは是とかや

 鬼一口に伽羅を喰割      二葉子

 (神鳴の火入とかやは是とかや鬼一口に伽羅を喰割)

 

 「伽羅(きゃら)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「香木の一種。沈香,白檀などとともに珍重された。伽羅はサンスクリット語で黒の意。一説には香気のすぐれたものは黒色であるということからこの名がつけられたという。茶道では真の香とされている。」

 

とある。

 火入も茶道具なので、同じ茶道具として伽羅を出す。とはいえ、雷様の茶会だから茶室に招かれたのも鬼。香を焚くための伽羅をむしゃむしゃと貪り食ってしまう。

 鬼一口というと『伊勢物語』第六段芥川だが、ここでは言葉だけの拝借になる。

 

無季。

 

三十五句目

 

   鬼一口に伽羅を喰割

 花の時千方といつし若衆の   紀子

 (花の時千方といつし若衆の鬼一口に伽羅を喰割)

 

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「謡曲・田村『千方といひし逆臣に仕えし鬼も』」とある。「いつし」は「いひし」の間違いか。

 田村は坂上田村麻呂のことで、東国から京に登ってきた僧が坂上田村麻呂に由来する清水寺を訪れる。折から花の季節だった。

 「千方」は藤原千方の四鬼のことで、ウィキペディアには、

 

 「様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名。

 その話によると、平安時代、時の豪族藤原千方は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる。」

 

とある。このときの和歌は、

 

 草も木もわが大君の國なれば

     いづくか鬼のすみかなるべき

 

で、芭蕉が伊賀にいたころの「野は雪に」の巻の十二句目にも、

 

   あれこそは鬼の崖と目を付て

 我大君の国とよむ哥      一以

 

の句が見られ、良く知られていた歌だった。

 

 田村には、後半に坂上田村麻呂の霊が登場し、

 

 いかに鬼神もたしかに聞け。昔もさるためしあり。

 千方といひし。

 逆臣に仕へし鬼も王位を背く天罰にて。

 千方を捨つれば忽ち亡び失せしぞかし。

 ましてやま近き鈴鹿耶麻。

 

と、鈴鹿山の敵を打ち破ったときのことを語る。

 句の方は、千方がまだ若衆だった頃の鬼のエピソードに作る。

 若衆とくれば、当然あれを呼び出すことになる。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「若衆」は人倫。

 

挙句

 

   花の時千方といつし若衆の

 恋のくせもの王代の春     卜尺

 (花の時千方といつし若衆の恋のくせもの王代の春)

 

 「王代」は王朝時代のこと。

 「恋はくせもの」は謡曲『花月』に出てくる言葉。七歳になる息子が行方不明になった男が僧となって旅をし、京の清水寺で花月という少年の曲舞のうわさを聞き、呼んでもらう。そこで登場した花月が舞うときに、

 

 「今の世までも絶えせぬものは。恋といへるくせもの。げに恋はくせもの。」

 

というフレーズが登場する。

 それを踏まえて、男色は恋のくせものということになる。

 

季語は「春」で春。恋。