「温海山や」の巻、解説

出羽酒田 伊東玄順亭にて

初表

 温海山や吹浦かけて夕凉    芭蕉

   みるかる磯にたたむ帆筵  不玉

 月出ば関やをからん酒持て   曾良

   土もの竃の煙る秋風    芭蕉

 しるしして堀にやりたる色柏  不玉

   あられの玉を振ふ蓑の毛  曾良

 

初裏

 鳥屋籠る鵜飼の宿に冬の来て  芭蕉

   火を焼かげに白髪たれつつ 不玉

 海道は道もなきまで切狭め   曾良

   松かさ送る武隈の土産   芭蕉

 草枕おかしき恋もしならひて  不玉

   ちまたの神に申かねごと  曾良

 御供して当なき吾もしのぶらん 芭蕉

   此世のすゑをみよしのに入 不玉

 あさ勤妻帯寺のかねの声    曾良

   けふも命と嶋の乞食    芭蕉

 憔たる花しちるなと茱萸折て  不玉

   おぼろの鳩の寝所の月   曾良

 

二表

 物いへば木魂にひびく春の風  不玉

   姿は瀧に消る山姫     芭蕉

 剛力がけつまづきたる笹づたひ 曾良

   棺を納るつかのあら芝   不玉

 初霜はよしなき岩を粧らん   芭蕉

   ゑびすの衣を縫々ぞ泣   曾良

 明日しめん雁を俵に生置て   不玉

   月さへすごき陣中の市   芭蕉

 御輿は真葛の奥に隠しいれ   曾良

   小袖袴を送る戒の師    不玉

 吾顔の母に似たるもゆかしくて 芭蕉

   貧にはめらぬ家はうれども 曾良

 

二裏

 奈良の京持伝へたる古今集   不玉

   花に符を切坊の酒蔵    芭蕉

 鶯の巣に立初る羽づかひ    曾良

   蠶種うごきて箒手に取   不玉

 錦木を作りて古き恋を見ん   芭蕉

   ことなる色をこのむ宮達  曾良

      参考;『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)

初表

発句

 

   出羽酒田 伊東玄順亭にて

 温海山や吹浦かけて夕凉    芭蕉

 

 談林のスピード感と対照的なのが、蕉風確立期の蕉門で、特に『奥の細道』の旅の途中の曾良の日記なんかを見ると、興行は遅々として進まず、歌仙一巻に二日三日かかってたりする。

 この「温海山や」の巻はその三日かかったという歌仙で、別に素人が混ざっていたから遅くなったというわけでもない。メンバーは芭蕉、曾良、そして酒田の不玉の三人、三吟歌仙だ。

 発句は、『奥の細道』にも記されている。『奥の細道』にはこうある。

 

 「羽黒を立(たち)て鶴が岡の城下、長山氏(ながやまうぢ)重行と云(いふ)物のふの家にむかへられて、誹諧(はいかい)一巻有(あり)。左吉も共に送りぬ。川舟に乗(のり)て酒田の湊(みなと)に下る。淵庵不玉(ゑんあんふぎょく)と云医師(いふくすし)の許(もと)を宿(やど)とす。

 あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕すゞみ

 暑き日を海にいれたり最上川」

 

 伊東玄順はこの淵庵不玉のことで、名は玄順、俳号は不玉、医号は淵庵だった。

 句の方は「温海山(あつみやま)」という今日のあつみ温泉のあるあたりの地名に、「吹浦(ふくうら)」という最上川が海に注ぐあたりの地名を並べることで、暑い所に風が吹いて夕涼みとする。「温海山に吹浦(を)掛けて夕涼みや」の倒置になる。

 温海山は酒田の南、吹浦は酒田の北ということで、正反対の景色が詠み込まれている。

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注には、

 

 「淇水編『俳諧袖の浦』(明和三年刊)によれば、この巻の初め半折ばかりは、袖の浦に舟を浮かべての吟ともいう。又三吟三筆の懐紙は「袖の浦江上の納涼」と端書があり、もと亀崎山下雲竜寺に秘蔵されたが、寛延末年に焼失した旨を記している。」

 

とある。

 焼失して証拠がないあたりがやや怪しげではあるが、だからといって否定する根拠もない。発句の温海山から吹浦までの雄大な眺望を考えると、ありそうな話ではある。

 曾良の『旅日記』には舟遊びに記述はないが、快晴とあるから舟遊びにはちょうど良かっただろう。

 

季語は「夕凉」で夏。「温海山」は山類。「吹浦」は水辺。

 

 

   温海山や吹浦かけて夕凉

 みるかる磯にたたむ帆筵    不玉

 (温海山や吹浦かけて夕凉みるかる磯にたたむ帆筵)

 

 「みる」は水松・海松といった字を当てる。海藻で古くから食用にされていた。そのミルを刈る磯に「たたむ帆筵」と停泊することで、芭蕉にここにしばらく帆をたたんで滞在していって下さいというもてなしの心とする。

 

季語は「みる」で夏、水辺。「磯」も「帆筵」も水辺。

 

第三

 

   みるかる磯にたたむ帆筵

 月出ば関やをからん酒持て   曾良

 (月出ば関やをからん酒持てみるかる磯にたたむ帆筵)

 

 帆筵を畳んだ船乗り達が、関所の番人の寝泊りする小屋を借りて月見酒、と展開する。

 このあたりで関というと、温海山の南に鼠ヶ関がある。その向こうは越後の国の村上になる。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。旅体。

 

四句目

 

   月出ば関やをからん酒持て

 土もの竃の煙る秋風      芭蕉

 (月出ば関やをからん酒持て土もの竃の煙る秋風)

 

 「土もの」は陶器のことをいう。秋風に乗って流れてくる陶器工場の煙が煙たいので関屋を借りようとなる。

 

季語は「秋風」で秋。「煙る」は聳物。

 

五句目

 

   土もの竃の煙る秋風

 しるしして堀にやりたる色柏  不玉

 (しるしして堀にやりたる色柏土もの竃の煙る秋風)

 

 陶芸窯の燃料にする薪を取りに行く。

 倒れかけた古木などにまず印をつけ、これを切り倒し、根も掘り出して使う。ここでは紅葉した柏が選ばれる。

 

季語は「色柏」で秋、植物(木類)。

 

六句目

 

   しるしして堀にやりたる色柏

 あられの玉を振ふ蓑の毛    曾良

 (しるしして堀にやりたる色柏あられの玉を振ふ蓑の毛)

 

 「堀」を動詞ではなく名詞の「堀」に取り成し、お城と武士を思い浮かべ、

 

 もののふの矢並つくろふ籠手の上に

     霰たばしる那須の篠原

                源実朝

 

の歌から霰へ持って行く。

 霰を防ぐために蓑を着るが、百姓から借りた蓑なのか、その蓑も古びて毛ばだっている。

 

季語は「あられ」で冬、降物。「蓑」は衣裳。

初裏

七句目

 

   あられの玉を振ふ蓑の毛

 鳥屋籠る鵜飼の宿に冬の来て  芭蕉

 (鳥屋籠る鵜飼の宿に冬の来てあられの玉を振ふ蓑の毛)

 

 鳥屋(とや)は鳥小屋で、「応安新式」には鷹の小屋で「鳥屋鷹」というのがあったが、ここでは鵜の小屋。前句の蓑を着た人物を鵜匠とした。

 

季語は「冬」で冬。「鵜飼」は水辺。

 

八句目

 

   鳥屋籠る鵜飼の宿に冬の来て

 火を焼かげに白髪たれつつ   不玉

 (鳥屋籠る鵜飼の宿に冬の来て火を焼かげに白髪たれつつ)

 

 寒いから火を焚いて暖を取る。鵜匠が年老いて白髪頭なのが「さび」を感じさせる。

 死後の罪をも思わずに殺生を続ける業の深さというのが、当時の人の感覚だったのだろう。

 今はオフだから髪を垂らしているが、鵜飼の時はきちんと結い上げて烏帽子を被る。

 

無季。

 

九句目

 

   火を焼かげに白髪たれつつ

 海道は道もなきまで切狭め   曾良

 (海道は道もなきまで切狭め火を焼かげに白髪たれつつ)

 

 「海道」は海沿いの道。これから行く親知らず子知らずのことを想像したか。市振の手前になる。『奥の細道』には、

 

 「今日(けふ)は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返(こまがへ)しなど云北国(いふほくこく)一の難所(なんじょ)を越(こえ)てつかれ侍れば、枕引(ひき)よせて寐(いね)たるに、一間融(ひとまへだて)て面(おもて)の方(かた)に、若き女の声二人計(ばかり)ときこゆ。」

 

とある。いわゆる市振の遊女の場面だ。

 薩埵峠の道が開かれる前の清見関も海道の難所だった。『更級日記』には、

 

 「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。けぶりあふにやあらむ。清見が関の波も高くなりぬべし。おもしろきこと限りなし。」

 

とある。この「けぶりあふにやあらむ」のイメージだったのかもしれない。「白髪たれつつ」は藻塩焼く海士のことだったのか。

 

無季。「海道」は水辺。打越に「鵜飼」があるが主筆の見落としか。

 

十句目

 

   海道は道もなきまで切狭め

 松かさ送る武隈の土産(つと) 芭蕉

 (海道は道もなきまで切狭め松かさ送る武隈の土産)

 

 武隈の松は既にこの『奥の細道』の旅で通過している。そこで復元された根本で二つに分かれた松の姿を見、

 

 桜より松は二木を三月越シ   芭蕉

 

と詠んでいる。

 ただしここは海辺の狭い道ではない。句の意味としては、武隈の松を見たお土産にその松ぼっくりを持って帰る途中ということだろうか。

 芭蕉は姨捨山の旅、つまり『更科紀行』の旅のときに、

 

 木曾のとち浮世の人のみやげ哉 芭蕉

 

と詠み、荷兮に橡の実を土産に持ち帰っている。

 

     木曽の月みてくる人の、みやげにとて杼(とち)の

     実ひとつおくらる。年の暮迄(くれまで)うしなはず、

     かざりにやせむとて

 としのくれ杼の実一つころころと 荷兮

 

と詠んではいるものの、どうしていいものか困ったのではなかったか。

 

無季。旅体。「武隈」は名所。

 

十一句目

 

   松かさ送る武隈の土産

 草枕おかしき恋もしならひて  不玉

 (草枕おかしき恋もしならひて松かさ送る武隈の土産)

 

 前句の松かさを武隈の地元の女から土産にと貰ったものとしたか。

 「おかしき」は王朝時代のような心引かれるという意味ではなく、ここでは変な、だとか笑えるだとかいう意味であろう。まあ、土産に松ぼっくりが落ちになるというところで、真剣な恋ではなさそうだ。遊女の戯れか。

 

無季。旅体。恋。

 

十二句目

 

   草枕おかしき恋もしならひて

 ちまたの神に申かねごと    曾良

 (草枕おかしき恋もしならひてちまたの神に申かねごと)

 

 ちまたの神は猿田彦大神で道祖神と習合していた。

 「かねごと」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 

 「前もって言っておく言葉。約束の言葉。『かねこと』とも。」

 

とある。前句の恋をちまたの神に掛けて誓う。

 猿田彦大神は曾良の神道の方での師匠である吉川惟足や、林羅山、山崎闇斎などの朱子学系の神道では最高神とされていた。芭蕉の道祖神も不易流行や風雅の誠と同様、曾良の影響によるものだったのだろう。

 猿田彦大神といえば「土金之秘訣」。天孫を導くのも土金の徳とされ、天皇を補佐する幕府の役割もそこに求められた。

 『古事記』の、

 

 「爾に日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て、上は高天の原を光し、下は葦原中国を光す神、是に有り。」

 

の光を土の中の光で金を表わすという解釈によるもので、山崎闇斎はこの光を神秘体験と結び付けていたようだ。五行説では土生金。

 ところで句をよくよく見ると、「申」はサルと読めるし、それに「かね」が続く。

 旅の恋も猿田彦大神にあやかるという、いかにも曾良らしい句だ。

 

無季。神祇。恋。

 

十三句目

 

   ちまたの神に申かねごと

 御供して当なき吾もしのぶらん 芭蕉

 (御供して当なき吾もしのぶらんちまたの神に申かねごと)

 

 これは『源氏物語』の惟光の立場にたった句か。源氏に付き合ってみすぼらしい狩衣を着させられたりしていた。巷の女に会いに行くのなら夕顔の俤か。

 

無季。恋。「吾」は人倫。

 

十四句目

 

   御供して当なき吾もしのぶらん

 此世のすゑをみよしのに入   不玉

 (御供して当なき吾もしのぶらん此世のすゑをみよしのに入)

 

 これは一転して西行の俤であろう。「見る」と「み吉野」を掛けている。「此世のすゑ」は末法思想で、弥勒の世を見るためにということか。

 

無季。釈教。「よしの」は名所。

 

十五句目

 

   此世のすゑをみよしのに入

 あさ勤妻帯寺のかねの声    曾良

 (あさ勤妻帯寺のかねの声此世のすゑをみよしのに入)

 

 コトバンクの「世界大百科事典内の妻帯の言及」には、

 

 「すでに平安中期のころ,清僧(せいそう)は少なく,女犯妻帯の僧が多くなった。すなわち,大寺院では組織の分化がすすみ,衆徒大衆(しゆとだいしゆう)と総称される堂衆(どうしゆう)や行人(ぎようにん)などの下級の僧侶集団が形成され,彼らは妻子を養い,武力をもち,ときには荘園の経営や物資の輸送や商行為まで営むようになり,寺院の周辺や山麓の里は彼らの集住する拠点となって繁栄した。」

 

とある。吉野の金峯山寺のような大きな寺院では、麓に妻帯した僧がたくさん住んでいたのであろう。鐘は世尊寺の三郎鐘だろうか。

 

無季。釈教。

 

十六句目

 

   あさ勤妻帯寺のかねの声

 けふも命と嶋の乞食      芭蕉

 (あさ勤妻帯寺のかねの声けふも命と嶋の乞食)

 

 これは佐渡に流された日蓮上人だろうか。

 

無季。

 

十七句目

 

   けふも命と嶋の乞食

 憔たる花しちるなと茱萸折て  不玉

 (憔たる花しちるなと茱萸折てけふも命と嶋の乞食)

 

 「憔(かじけ)たる」の「かじける」は「悴ける・忰ける」という字も書く。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、

 

 「①  寒さで凍えて、手足が自由に動かなくなる。かじかむ。

 「手ガ-・ケタ/ヘボン 三版」

 ②  生気を失う。しおれる。やつれる。

 「衣裳弊やれ垢つき、形色かお-・け/日本書紀 崇峻訓」

 

とある。この場合は②の意味で、「し」は強調の言葉。萎れた花よどうか散らないでくれ、と茱萸(グミ)を折る。この場合は苗代の季節に実るというナワシログミであろう。

 「花」は島流しの流刑人の比喩とも取れるが、花の咲くのを見ながら、それに自分を重ね合わせて「散るな」という意味なら似せ物ではなく本物の花になる。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。「茱萸」も植物(木類)。

 

十八句目

 

   憔たる花しちるなと茱萸折て

 おぼろの鳩の寝所の月     曾良

 (憔たる花しちるなと茱萸折ておぼろの鳩の寝所の月)

 

 「鳩の寝所のおぼろの月」の倒置。春の朧月の句になる。鳩も心あるのか、桜ではなくグミの枝で巣を作っていたのだろう。

 

季語は「おぼろの月」で春、夜分、天象。「鳩」は鳥類。

二表

十九句目

 

   おぼろの鳩の寝所の月

 物いへば木魂にひびく春の風  不玉

 (物いへば木魂にひびく春の風おぼろの鳩の寝所の月)

 

 鳩を山鳩(キジバト)のこととして、山奥の木魂を付ける。

 

季語は「春の風」で春。

 

二十句目

 

   物いへば木魂にひびく春の風

 姿は瀧に消る山姫       芭蕉

 (物いへば木魂にひびく春の風姿は瀧に消る山姫)

 

 木魂に山姫というと「応安新式」の「非人倫」の所に出てきてた。今の言葉で言う「人外」だ。山姫は神と妖怪の両方の意味がある。「非人倫」で「非神祇」。

 

無季。「瀧」は山類で水辺にも嫌之。

 

二十一句目

 

   姿は瀧に消る山姫

 剛力がけつまづきたる笹づたひ 曾良

 (剛力がけつまづきたる笹づたひ姿は瀧に消る山姫)

 

 山の怪異に山で荷物をかついで運ぶ剛力もびっくりしてけ躓く。このあと山中温泉で詠む、

 

   青淵に獺の飛こむ水の音

 柴かりこかす峰のささ道    芭蕉

 

の句にも影響を与えてたかもしれない。

 「強力(ごうりき)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 

 「山伏,修験者 (しゅげんじゃ) に従い,力役 (りょくえき) をつとめる従者の呼称。修験者が,その修行の場を山野に求め,長途の旅を続けたところから,その荷をかついでこれに従った者。中世になると社寺あるいは貴族に仕え,輿 (こし) をかつぐ下人をも強力と称した。現在では,登山者の荷物を運び,道案内をする者を強力と呼ぶが,これは日本の登山が,修験者の修行に始ることに由来する。」

 

とある。

 

無季。「剛力」は人倫。「笹」は植物(草類)。

 

二十二句目

 

   剛力がけつまづきたる笹づたひ

 棺を納るつかのあら芝     不玉

 (剛力がけつまづきたる笹づたひ棺を納るつかのあら芝)

 

 剛力が運んでたのは棺だった。「棺(くわん)を納(おさむ)る」と読む。

 

無季。「あら芝」は植物(草類)。

 

二十三句目

 

   棺を納るつかのあら芝

 初霜はよしなき岩を粧らん   芭蕉

 (初霜はよしなき岩を粧らん棺を納るつかのあら芝)

 

 ただの何の変哲もない岩も初霜で薄っすらと化粧したようになる。それを死化粧(しにけしょう)に喩えたか。

 

季語は「初霜」で冬、降物。

 

二十四句目

 

   初霜はよしなき岩を粧らん

 ゑびすの衣を縫々ぞ泣     曾良

 (初霜はよしなき岩を粧らんゑびすの衣を縫々ぞ泣)

 

 『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の注は匈奴に嫁いだ王昭君の俤とする。

 

無季。「ゑびす」は人倫。「衣」は衣裳。

 

二十五句目

 

   ゑびすの衣を縫々ぞ泣

 明日しめん雁を俵に生置て   不玉

 (明日しめん雁を俵に生置てゑびすの衣を縫々ぞ泣)

 

 王昭君は匈奴へと出発する時に琵琶を奏でると、雁が飛ぶのを忘れて落ちたという伝説があり、落雁美人は画題にもなった。

 ここではそれをそのまま付けてしまうと王昭君ネタが三句に渡ってしまうため、前句の「ゑびす」を十月二十日の恵比寿講のこととし、恵比寿講のご馳走の雁とした。

 後の『炭俵』にも、

 

 振売の雁あはれなりゑびす講  芭蕉

 

の発句がある。

 明日には喰われる運命の雁を哀れに思い、恵比寿講のための服を縫いながら女は涙する。

 

季語は「雁」で秋、鳥類。

 

二十六句目

 

   明日しめん雁を俵に生置て

 月さへすごき陣中の市     芭蕉

 (明日しめん雁を俵に生置て月さへすごき陣中の市)

 

 『図解戦国合戦がよくわかる本』(二木謙一監修、二〇一三、PHP研究所)によると、

 

 「秀吉が鳥取城を攻めたときのこと。三万余の大軍で鳥取城を包囲した秀吉は、兵糧攻めを敢行した。このとき、秀吉は軍の士気が低下しないよう、陣中に町屋を建て、市を開かせた。また歌舞の者を呼んで兵士達を楽しませてもいる。」

 

という。

 合戦も長引くと、兵士達の私的な物資の調達のために市が立つことはそう珍しくもなかっただろう。秀吉はそれを自ら指揮して行わせた。

 歌舞の者というが、こういう人たちは同時に遊女である事も多く、戦場に売春婦が群がるのは洋の東西問わずどこにでもあったのではないかと思う。

 ただ、旧日本軍のようにそれを国策でやったのはまずかった。たとえ直接手をくださないにせよ、軍に忖度する人たちが裏社会の人たちと通じて荒っぽいことをする結果になった。

 「月さへすごき」というのはそういう陣中の、明日の命をも知れぬ兵士の捨て鉢なすさんだ空気をよく表わしている。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

二十七句目

 

   月さへすごき陣中の市

 御輿は真葛の奥に隠しいれ   曾良

 (御輿は真葛の奥に隠しいれ月さへすごき陣中の市)

 

 真葛が原はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「京都市東山区円山町の円山公園を中心とし,周囲の青蓮院,知恩院,双林寺,八坂神社などを含む地域。東山山麓の傾斜地。《新古今和歌集》巻十一に〈わが恋は松をしぐれの染めかねて真葛原に風騒ぐなり〉の歌を残す慈円は青蓮院門跡であった。文人の愛好した地で,双林寺境内に西行庵があり,ここで没した頓阿の像とともに西行像が安置される。平康頼の山荘も双林寺付近にあり,そこで《宝物集》を著したという。近世,池大雅も住した。」

 

とある。

 

 わが恋は松をしぐれの染めかねて

     真葛原に風騒ぐなり

                前大僧正慈円

 

をはじめとして、恋の歌の題材とされている。同じ「新古今集」に、

 

 嵐吹く真葛が原に鳴く鹿は

     恨みてのみや妻を恋ふらむ

                俊恵法師

 

の歌もあり、もとは妻問う鹿の情だったのを人間の恋の情に転じたのであろう。

 『校本芭蕉全集 第四巻』の注は、「夫木抄」の「人めのみしのぶの岡の真葛原」の歌を引いているが、下の句の調べがつかなかった。

 高貴な女性が輿を隠して、お忍びで殿様に逢いにきたのだろうか。

 

季語は「真葛」で秋、植物(草類)。恋。

 

二十八句目

 

   御輿は真葛の奥に隠しいれ

 小袖袴を送る戒の師      不玉

 (御輿は真葛の奥に隠しいれ小袖袴を送る戒の師)

 

 「小袖袴(こそでばかま)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「男女ともに下着とする小袖の上に袴だけをつけた略装。衵(あこめ)や袿(うちき)の類を省いた下姿(したすがた)。小袖が上着となるに従って、江戸時代には正装とされた。

 ※俳諧・曾良随行日記(1689)「御輿は真葛の奥に隠しいれ 小袖袴を送る戒の師〈不玉〉」

 

とある。「戒の師」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「出家する人に戒律を授ける師の僧。戒師。

「御―、忌むことのすぐれたるよし仏に申すにも」〈源・若菜下〉」

 

とある。

 この場合「御輿」は戒師の乗物で、若い僧に小袖袴を密かに贈る稚児ネタではなかったかと思う。

 

無季。恋。「小袖」は衣裳。

 

二十九句目

 

   小袖袴を送る戒の師

 吾顔の母に似たるもゆかしくて 芭蕉

 (吾顔の母に似たるもゆかしくて小袖袴を送る戒の師)

 

 「戒の師」が出家前に妻としていた女性の娘を見て、懐かしくなって小袖袴を贈ったか。『西行物語』の娘との再会のシーンを思い浮かべたのかもしれない。

 

無季。「母」は人倫。

 

三十句目

 

   吾顔の母に似たるもゆかしくて

 貧にはめらぬ家はうれども   曾良

 (吾顔の母に似たるもゆかしくて貧にはめらぬ家はうれども)

 

 「めらぬ」はweblio辞書の「日本語活用形辞書」に、

 

 「【文語】ラ行四段活用の動詞「減る」の未然形である「減ら」に、打消の助動詞「ず」の連体形が付いた形。」

 

とある。「減る」は、weblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 

 「①  へる。少なくなる。低下する。 「地ガ-・ッタ/日葡」

  ②  衰える。弱くなる。 「過言申す者は必ず奢り易く、-・りやすし/甲陽軍鑑 品三〇」

  ③  日本音楽で、音高を標準よりも低めにする。多くは管楽器、特に尺八でいう。 ⇔ かる」

 

とある。

 ただ、貧しくても衰えない家を売るというのがわかりにくい。「あらぬ」の間違いかもしれない。

 いずれにせよ母より受け継いだ家は売ってしまったが、自分の顔に母の面影は残っている、という意味であろう。

 

無季。「家」は居所。

二裏

三十一句目

 

   貧にはめらぬ家はうれども

 奈良の京持伝へたる古今集   不玉

 (奈良の京持伝へたる古今集貧にはめらぬ家はうれども)

 

 これは古今集の「奈良伝授」のことか。

 ウィキペディアには、

 

 「二条家の秘伝は二条為世の弟子であった頓阿によって受け継がれ、その後経賢、尭尋、尭孝と続いた。尭孝は東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となった。常縁は足利義尚や近衛政家、三条公敦などに古今集の伝授を行った。古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難であった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。文明三年(1471年)、常縁は美濃国妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。

 宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになった。三条西家に伝えられたものは後に「御所伝授」、肖柏が堺の町人に伝えた系譜は「堺伝授」、林宗二の系統は「奈良伝授」と呼ばれている。」

 

とある。林宗二は京都の生まれだが、代々続く奈良の饅頭屋を継いで、そのかたわら肖柏から古今伝授を受けた。

 

無季。「奈良」は名所。

 

三十二句目

 

   奈良の京持伝へたる古今集

 花に符を切坊の酒蔵      芭蕉

 (奈良の京持伝へたる古今集花に符を切坊の酒蔵)

 

 「符」は「封」のことだと『校本芭蕉全集 第四巻』の注にある。「坊の酒蔵」は僧坊酒のことであろう。

 僧坊酒は織田信長の時代の大寺院の弾圧によって廃れたとされているが、それ以前の奈良の寺院では「南都諸白」と呼ばれる名酒が作られていた。この技術は江戸時代になっても奈良の酒屋に受け継がれている。

 古今集は饅頭屋に伝わったが、名酒もまた奈良に伝わっていて、花見には欠かせない。向え付け。

 

季語は「花」で春、植物(木類)。

 

三十三句目

 

   花に符を切坊の酒蔵

 鶯の巣に立初る羽づかひ    曾良

 (鶯の巣に立初る羽づかひ花に符を切坊の酒蔵)

 

 花の頃、鶯も巣を作り始める。

 

季語は「鶯」で春、鳥類。

 

三十四句目

 

   鶯の巣に立初る羽づかひ

 蠶種うごきて箒手に取     不玉

 (鶯の巣に立初る羽づかひ蠶種うごきて箒手に取)

 

 「蠶種(こだね)」は「さんしゅ」とも言う。蚕の卵のこと。蚕が孵化して動き始めたら「掃立(はきたて)」という作業が行われる。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「蟻蚕に初めて桑葉を与え,蚕座に移す作業。散種 (ばらだね) の場合は,掃立直前に種枠の上面に光線を当て,薄紙の裏に蟻蚕がはい上がってから種枠を広げ,刻んだ桑を与える。蚕が桑についた頃,桑とともに掃下 (はきおろし) して枠を除き,蚕座をつくる。」

 

とある。

 羽箒を用いるので、前句の「羽づかひ」が掃立の作業のことに取り成され、鶯の巣の季節に「立初る羽づかひ」「箒手に取」と付く。

 

季語は「蠶種」で春、虫類。

 

三十五句目

 

   蠶種うごきて箒手に取

 錦木を作りて古き恋を見ん   芭蕉

 (錦木を作りて古き恋を見ん蠶種うごきて箒手に取)

 

 「錦木」はウィキペディアには、

 

 「いわゆる奥州錦木伝説にまつわる錦木。五彩の木片の束であるとも、5種類の木の小枝を束ねたものともいわれる。」

 

とある。

 謡曲『錦木』には、

 

 「昔よりこの所の習いにて。男女の媒にはこの錦木を作り。

 女の家の門に立てつるしるしの木なれば。美しくいろどり飾りてこれを錦木という。

 さるほどに逢うべき夫の錦木をば取り入れ。逢うまじきをば取り入れねば。

 或いは百夜三年まで錦木立てたりしによって。三年の日数重なるを以って千束とも詠めり。」

 

とある。

 昔は「狹布(きょう)の細布(ほそぬの)」という幅の狭い白い麻布がこの錦木と対になって、陸奥の信夫の里の名物だった。

 

 錦木はたてながらこそ朽ちにけれ

     けふのほそぬのむねあはじとや

                能因法師

 

の歌は「後拾遺集」に見られる。

 一方で、この地域は養蚕の盛んな地域でもあった。曾良もこの『奥の細道』の旅で、

 

 蚕する姿に残る古代哉     曾良

 

の句を詠んでいる。曾良の『俳諧書留』では須賀川の所にあるが、『奥の細道』では尾花沢のところに、

 

 蚕飼する人は古代のすがた哉  曾良

 

の形に改められて収録されている。

 

無季。恋。

 

挙句

 

   錦木を作りて古き恋を見ん

 ことなる色をこのむ宮達    曾良

 (錦木を作りて古き恋を見んことなる色をこのむ宮達)

 

 錦木は五色の木を束ねたものということで、大宮人は様々な色を好む、大和歌が色好みの道であることを思い起こしてこの一巻は終了する。

 

無季。恋。「宮達」は人倫。