現代語訳『源氏物語』

02空蝉

 眠ることもできずに、

 

 「俺はこんなふうな人に憎まれるのには慣れてないし、今夜初めて恋の道が辛いものなんだと思い知ったし、自分が余りにちっぽけで生きて行く気もしなくなった。」

 

などと言うので、弟君もまた、涙までもこぼして横になりました。

 

 源氏の君はそれを大変可愛いなと思います。

 

 手でそっと探ると、細くて小さな体に髪もそれほどまでには長くない感じが姉によく似ていて、姉がそこにいるみたいな気がして悲しくなります。

 

 勝手に会いに行こうとして探し回るのもみっともないし、ここは真面目に想定外に手ごわかったと思って夜を明かし、いつものようには傍にいるように言わず、夜中のうちに屋敷を出て行ったので、弟君は困り果てて呆然とするばかりでした。

 

 女の方も、少なからず傍目にも痛いなと思うものの、以来手紙が来ることもありません。

 

 「さすがに懲りたかな」

 

と思ってはみても、連れなくされたまま終りになってしまうのも見ていて辛いし、だからといって困った行動をいつまでもとられでもどうしようもない。

 

 「ほどほどの所でやめてくれ。」

 

と思っては、少なからず気になってました。

 

 源氏の君は面白くありません。

 

 このまま引き下がるわけにはいかないと心にわだかまりがあるものの、いかにも体裁が悪く、考える気力も失せて、弟君に、

 

 「こんなに虐げられ辛い目に会わされたというのに、何とか気持ちを切り替えよう

としても、なかなかその通りにできなくて苦しい。

 

 どうにか機会を見つけて、会えるように手はずを整えてくれ。」

 

と繰り返しおっしゃるので、面倒だけどこれだけの人のお側で仕えさせてもらえるのは、やはり嬉しいことなので何とかしようと思います。

 

   *

 

 幼いなりにチャンスはないかとじっと待っていた所、紀伊の守が任地に赴いて女ばかりになったので、長閑な月のない夕暮れの道を薄ぼんやりとした闇にまぎれて、弟君の車に源氏の君を乗せて行きました。

 

 源氏の君は、まだ子供だから大丈夫かなと思ってましたが、実際そんな心配をしている暇もなく、それとはわからないような姿で、門などが施錠される前にと急ぎました。

 

 人が見てないほうから車を引き入れて、源氏の君を降ろしました。

 

 子供なので宿直の人も中を覗きこんでご機嫌伺いをすることもなく、安心です。

 

 源氏の君を東の妻戸の前で待たせて、弟君は南の隅の部屋から、大声で格子を叩いて開けさせると、そのまま中に入ります。

 

 仕えている女房達は、

 

 「外から丸見えでしょ。」

 

と言います。

 

 「何でこんな暑いのに、ここの格子を降ろしてるの?」

 

と聞けば、

 

 「昼から、西の(かた)の人がやってきまして、碁を打っております。」

 

という答でした。

 

 さて、源氏の君はその対局中の様子を見ようと思って、こっそり忍び寄って簾の間に入りました。

 

 弟君の入っていった格子はまだ錠が鎖されてなくて、隙間があるので傍に寄ると、部屋の西側が見通せて、部屋を仕切ってるはずの屏風も端っこの方が畳まれていて、室内を隠す几帳なども、暑さのために捲り上げられていて、確かに丸見えでした。

 

 母屋の中柱に背を向けている人が我が愛しき人かとまず目を留めれば、濃い紫の綾織物の(ひとえ)(がさ)ねのようです。

 

 その上に何かを着ているようで、頭は細く小柄で華奢な感じの人です。

 

 顔などは、対局中の人にもはっきり見えないようにしているようでした。

 

 手も痩せ細っていて、ほとんど袖の中に隠しているようです。

 

 もう一人のほうは東の方を向いていて、はっきりと見ることができます。

 

 白い羅の(ひとえ)(がさ)、藍と紅花で染めた(ふた)(あい)小袿(こうちぎ)のようなものをだらしなく羽織り、紅の袴を留める紐の辺りまで胸が見えるくらいに緩めてあって、何とも開けっぴろげです。

 

 大変色白で可愛らしく、大柄で丸々と太っていて、頭の輪郭や額の生え際などもくっきりとしていて、目や口は表情豊かで、なかなか華やかな感じの人でした。

 

 髪はふさふさしていて、長くはないけど肩のあたりで切りそろえた感じがさっぱりとしていて、乱れた所がなく可愛らしい人だと思いました。

 

 確かに親からすればこの世にまたとない娘だろう、と興味深くご覧になりました。

 

 もう少しおしとやかに振舞えばと、ふと思います。

 

 光るものがないわけでもないのに。

 

 碁は終局し、駄目を埋めていこうとすると、いかにもせっかちなようで、すぐに白黒つけようと落ち着かない様子で、奥の人は静かになだめて、

 

 「ちょっと、待ちなさい。

 

 そこは(せき)でどっちの地にもなってないでしょ。

 

 このあたりは(こう)を‥‥。」

 

などと言っても、

 

 「さあ、今回は負けた。

 

 隅の方を、さあさあ。」

 

と指を曲げて、

 

 「十、二十、三十、四十」などと数えるその速さといい、伊予の湯桁の数だってすぐにパッと答えられそうなものです。

 

 少しばかり育ちが悪そうな感じもします。

 

 これとは真逆に、例の女は口を覆っていて、はっきりとは見えないけど目をじっと凝らしてみれば、何とか斜めからその姿が見えます。

 

 まぶたが少し腫れたような感じで、鼻などもむくんだような感じで老けて見えて、顔色もよくありません。

 

 一つ一つを取ってみると、あまり美形とは言えないところを何とかうまいこと取り繕っていて、前にいる華やかな人よりも独特な雰囲気があり、目を見張るものがありました。

 

 一方は、生気に満ちた表情豊かな可愛らしさをいかにも誇らしげにさらけ出し、笑い転げたりすれば赤らんだ顔色も映え渡り、大人の女性を好む人には飛び切りの美人といえるでしょう。

 

 チャラいなとは思いながらも、不埒な心には、これも捨てがたいものです。

 

 これまで見て来た人は、源氏の前ではそんなお気楽な態度を取ることもなく、きちんと襟を正し、真正面から見つめるような無作法などしない、目上の人に対する取り繕った態度ばかりだったので、このように自然に振舞う女の姿を垣間見るなど、未だにしたことがなかったので、何の屈託もなく自分をさらけ出す姿に困惑しながらも、しばらく眺めていたいと思っていたところ、弟君がやってくる気配がしたので、ゆっくりと簾の間を出ました。

 

 何ごともなかったかのように渡殿の戸口によっかかって立ちます。

 

 弟君はいかにも申し訳なさそうに、

 

 「いつもはいない人が来ていて、近づくこともできません。」

 

 「なら、今夜も帰ることにしようか。

 

 ほんと、がっかりだ。ひどい仕打ちだな。」

 

と言うので、

 

 「どうしてですか。

 

 あのお方が帰られたなら、手はずを整えます。」

 

と答えます。

 

 いかにも靡かせてやると言わんばかりです。

 

 子供とはいえ、性格というか、なかなか落ち着いて空気を読むことができる、と源氏の君も思いました。

 

 碁の勝負のほうも終ったのか、にわかにざわざわとしだして、女達が部屋に戻ってゆく気配がします。

 

 「若君はどこにいらっしゃるのですか?

 

 ここの格子は錠を鎖しますよ。」

 

という声が響き渡ります。

 

 「静かになった。

 

 入るから手はずを整えろ。」

 

と源氏の君は命じます。

 

 この子も姉が源氏を受入れるはずがなく、本気で拒絶しているのを知っているから、このことを姉に話すわけにもいかず、人が少なくなった時を見計らって中に入れようと思ってました。

 

 「紀伊の守の妹もここにいるのか?

 

 ちょっと覗かしてくれよ。」

 

と言っても、

 

 「どうやればそんなことができるというのですか。

 

 格子だけでなく几帳も立ててあります。」

 

との答えです。

 

 「そうかもしれないけど‥‥」

 

それでも興味津々で、既に見たことは言わず困ったなと思いながら、夜が更けてゆくと思うと気持ちがせいてきます。

 

 今回は妻戸を叩いて入ります。

 

 中の人たちはみんな静かに寝てました。

 

 「この障子口でボクは寝るからね。

 

 風が入るようにしとくよ。」

 

と言って、屏風を広げて横になりました。

 

 お付きの女房達は東の廂の所でみんな寝ているようだったので、戸を開けさせてそのままにしていた童もここに入って横になって、しばし寝たふりをして、火の煌々と灯る方に屏風を広げて光をさえぎり、そこに源氏の君を招き入れました。

 

 「大丈夫か?

 

 恥じかかせたりするなよ。」

 

と思い、多少気が咎めながらも導かれるがままに母屋の几帳の帷子を引き上げて、こっそり入ろうとするのですが、みんなが寝静まった夜にお召し物の気配は、いくら柔らかな着物でもはっきりとわかります。

 

 女は源氏の君があきらめてくれたのを嬉しいと思ってはいるものの、あの怪しい夢のようなことが頭から離れなくて、安心して眠ろうにも眠れず、昼は遠い目をして、夜はすぐに目が醒めるような状態なので、「木の芽はる」の春ではないが、この目もすっかり腫れて絶えず嘆きの種となり、碁の相手をした女に、

 

 「今夜はここにいて。」

 

と今風にガールズトークをしながら寝ました。

 

 若い方は何を心配するでもなくウトウトとまどろんでるようです。

 

 どこぞで嗅いだことのあるようなやけに芳ばしい匂いの気配がしたので、顔を上げてみると単衣(ひとえ)を打ち掛けた几帳の隙間に、暗いけど何かが忍び寄ってくる気配がはっきりとします。

 

 見下げ果てたような気持ちで、とにかく考えている暇もなく、音を立てぬようにして起き上がり、生絹(すずし)単衣(ひとえ)一枚はおって、ささっと部屋を出ました。

 

 源氏の君が入ってくると、たった一人で寝ているのを見て安心しました。

 

 几帳の下手の床にも二人ばかり女房が寝ていました。

 

 着ているものを押しのけてぴったり体を寄せると、いつぞやの感触よりは重々しい感じがするけど、まだその正体は思いも寄らぬものでした。

 

 爆睡している様子など何か怪しく、あの女とちがうので、ようやく正体がわかると愕然とし、すっかり打ちひしがれた気分になり、人違いをして狼狽している様子を見られるのもみっともないし変に思われる、だからといって本来の人を探し回るのも、こんなにまでして逃げようとしているのであればどうしようもなく、馬鹿じゃないかと思われるな、と思いました。

 

 さっき火影で見たあのなかなか可愛いらしい女なら、それでもまあいいかとおもってしまうあたり、ひどくいいかげんな感じです。

 

 果たしてその女は、ようやく目が覚めて何がなんだかわからずびっくりしてただただ呆然としているだけで、何を考えていいかもわからないようで、困り果ててどうこうするでもない。

 

 男女の仲をまだよくわかってない年頃のようでも、いかにも遊び慣れているかのように、おびえて躊躇するようなこともありません。

 

 源氏の君は自分が誰なのか知らせないでおこうとも思ったけど、どうしてこんなことになったか後になっていろいろ邪推されようと自分にとってはどうでもいいのだが、あの薄情な女が身勝手に今回のことを包み隠してしまうのもさすがに癪なので、これまで何度も方違えにかこつけて通ってたことを、適当に話を作って聞かせました。

 

 勘の鋭い人ならバレバレの嘘でも、まだ若くてそこまで考えが回らず、それこそ誰のことなのかはっきり言ったつもりでも、えっ、誰々?てな感じです。

 

 別にこの女に魅力がないわけではないけど、これといって見るべきところもないなという感じで、まだあの忌々しい女のことをひどいなと思ってます。

 

 「どこかにこっそり身を潜めて、『バカだなあ』なんて思ってるんだろうな。

 

 こんなに執念深い人は滅多にお目にかかれない。」

 

と思ってはみても、あいにく忘れようにも忘れられません。

 

 目の前にいるこの女も、なにげに若々しい感じに惹かれるものもあるので、意に反しうわべだけの欲望に任せて関係を結んでしまいました。

 

   *

 

 「世間も周知の仲よりも、こうした関係の方が、愛も燃えさかると昔の人も言ってます。

 

 お互いにそう思うことにしましょう。

 

 隠しておかなくてはならない事情がないわけでもないので、この私の身でも思いのままに振舞うことはできません。

 

 また、さるべき人たちも許してはくれないだろうと、かねてより胸を痛めてきました。

 

 忘れないで待っていてください。」

 

などと、ありきたりなことを言います。

 

 すると、

 

 「世間で何を言われるかと思うと恥ずかしいから、手紙なんてしないで。」

 

と他意もなく答えます。

 

 「大概の場合、人に知らせたりすればそのようなことになります。

 

 例の小さな殿上人などに手紙を託すことにします。

 

 何ごともなかったかのように振舞ってください。」

 

などと言っておきながら、あの例の女の脱ぎ捨てた薄い着物を掴んで部屋を出ました。

 

 その小さな殿上人の君が近くで横になっているので起こしたところ、どうなることか気がかりに思いながらも寝てしまってたようで、驚いて目を覚ましました。

 

 戸を静かに押し開けたところ、年とった女房の声で、

 

 「今のは誰ですか?」

 

と、声を荒げて問い詰めてくる。

 

 やっかいなことになったなと、

 

 「ボクです。」

 

と答えます。

 

 「こんな夜中にそなたは何しに外へ行くのですか?」

 

とお節介にも部屋から出てきました。

 

 いかにも癪だというふうで、

 

 「何でもないよ。

 

 ちょっとその辺に行くだけだ。」

 

と言って、源氏の君を外に押し出したところ、暁近く、月があたりを明るく照らし、そこに人の影が映ってしまったので、

 

 「一緒にいるのは誰なの?」

 

と問うのですが、

 

 「民部の侍者ね。

 

 民部くらい立端(たっぱ)があれば、あんな長い影でも不思議はないわね。」

 

と自分で答え、一人納得しているようです。

 

 民部の侍者というのは背が高いことでいつも人に笑われている人のことです。

 

 老いた女房は、民部の侍者を連れて歩いていると思って、

 

 「そなたも今に同じ背丈になりますよ。」

 

と言う間に、弟君もこの戸から外に出ました。

 

 このまま戸を閉めてその女房を中に押し返すわけにもいかずすっかり困ってしまい、源氏の君も渡殿の入口の方へ向って戸の裏に隠れていると、この老いた女房が近づいてきて、

 

 「あなたは今夜は奥の方に仕えていたでしょ。あたしゃおとといから腹具合が悪くて、しょうがなくて下に降りていたのに、人が足りないからといって呼び出され、昨日は奥でお仕えしたのですが、それでも我慢できなくなってね。」

 

とぼやきます。

 

 返事も聞かずに、

 

 「ああ、お腹がお腹が‥‥後で話しますからね。」

 

と言って渡殿を通って、下の方へ降りていったので、何とか屋敷を出ることができました。

 

 こんなふうに軽はずみで屋敷に忍び込むのはもううんざりだと、すっかり懲りたようでした。

 

 弟君は源氏の車の後ろに乗って、二条院に行きました。

 

 源氏の君はあの夜にあったことを弟君に話しては、

 

 「まだまだガキだな。」

 

と軽くあしらい、例の女の冷たい仕打ちに、指をピンと弾いて、行っちまえとばかりに不満をぶちまけます。

 

 これには困り果てて、聞くにも耐えません。

 

 「こんなにひどく憎まれてしまっては、もう自分が嫌になるし、これで断念だな。

 

 何も、別にやらせてくれというわけでもないんだから、親しげに返事くらいをしてくれてもいいものを。

 

 結局俺はあの伊予の介の爺さんに負けたというのか。」

 

などと、すっかり自己嫌悪に陥っての発言です。

 

 そうは言っても、持ち帰った小袿(こうちぎ)を夜着の下に入れてお休みになりました。

 

 弟気味をすぐそばに寝かせ、さらにひとしきり恨み言をするのですが、

 

 「君のことは守ってやりたいけど、あの薄情女のゆかりのものであれば、いつまでもというわけにはいかない。」

 

と真顔で言うのを聞いて、すっかりガクっと来てしまいました。

 

 源氏の君はしばし横になって眠ろうとするのですが寝られません。

 

 硯を急いで取り出して、特に誰に宛てるというふうでもなく、ただメモ書きのように歌を書きなぐりました。

 

 蝉は殻を残して木から飛び立った

     でも人がらは思い出される

 

そう書いたものを、弟君は懐に入れて持ち帰りました。

 

 もう一人の人もどう思っているかを思うと悩む所だが、いろいろ考えた挙句、特に伝えてもらうこともありませんでした。

 

 あの薄絹は小袿(こうちぎ)で、なお忘れられない人の匂いが染み付いているため、肌身離さず持ち歩いては見入ってました。

 

 弟君があの屋敷に行った時には姉君が待ち構えていて、厳しい形相で言いました。

 

 「あんなひどいことになって、何とか逃げ出したものの、人の噂を逃れることはできないし、どうしようもないでしょっ!

 

 何でこういつまでもガキなの、あんたの主人だって何て思うやら。」

 

と、これでもかと辱めます。

 

 右からも左からも責められてまいったなとは思うものの、取りあえずあのメモ書きのようなものを取り出しました。

 

 さすがにそれを手に取ってみます。

 

 あの脱ぎ捨てた、まったく伊勢の海女の潮でべとべとになったみたいな着物をどうするの、などと思ってみても、とにかくまともではなく、気も狂わんばかりです。

 

 西の方の女も、ひどく辱められた気分で帰って行きました。

 

 誰も知らないことなので、言うに言われず呆然としてました。

 

 弟君がやってくるたびに、胸の詰まるような思いになるけど、お手紙はありません。

 

 騙されたのだと結論づけるわけでもなく、ただ遊んじゃったなという程度の気分で、何となく悲しげです。

 

 つれなかった例の人も、すっかり平静さを取り戻したけども、別にそんな冷淡なわけではなく、昔の自分だったならばと、あの頃に戻れるわけではないけど、心の奥に隠しておくこともできず、源氏の君の歌が書かれたメモ書きの反対側に、

 

 抜け殻の羽に置く露木の影の

 

    ひそかな記憶袖が濡れてる