「柳小折」の巻、解説

元禄七年閏五月二十二日興行

初表

   閏五月廿ニ日

    落柿舎乱吟

 柳小折片荷は涼し初真瓜     芭蕉

   間引捨たる道中の稗     洒堂

 村雀里より岡に出ありきて    去来

   塀かけ渡す手前石がき    支考

 月残る河水ふくむ舩の端     丈草

   小鰯かれて砂に照り付    素牛

 

初裏

 上を着てそこらを誘ふ墓参    洒堂

   手桶を入るるお通のあと   芭蕉

 瘧にも食はいつものごとくにて  去来

   大工の邪魔に鋸をかる    支考

 竹樋の水汲かくる庫裏の先    素牛

   便をまちて酢徳利をやる   洒堂

 降出しも忘るる雨のじたじたと  丈草

   怱々やめにしたる洗足    去来

 打鮠を焼と鱠と両方に      洒堂

   黒みてたかき樫の木の森   素牛

 月花に小き門ンを出ッ入ッ    芭蕉

   巣おろす児の登る腰板    洒堂

 

 

二表

 陽炎に眠気付たる医者の供    丈草

   新茶のかざのほつとして来る 芭蕉

 片口の溜をそっと指し出して   洒堂

   迎をたのむ明日の別端    去来

 薄雪の一遍庭に降渡り      支考

   御前はしんと次の田楽    芭蕉

 追込の綱を鼡のならす音     洒堂

   隣の明屋あらし吹也     素牛

 葬礼のあとで経よむ道心坊    去来

   手拭脱でおろす牛の荷    支考

 川ひとつ渡て寒き有明に     芭蕉

   岩にのせたる田上の庵    丈草

 

二裏

 正月もいにやれば淋し廿日過   洒堂

   種漬に来るととの名代    去来

 咲花の片へら残スしほ鰹     素牛

   彼岸をかけてお隙ささやく  丈草

 白粉をぬれども下地くろい顔   支考

   役者もやうの衣の薫     去来

 

洒堂 8句、去来7句、芭蕉 6句

支考 5句、丈草5句、素牛 5句

 

      参考;『校本芭蕉全集』第四巻(宮本三郎校注、1964、角川書店

初表

発句

 

   閏五月廿ニ日

    落柿舎乱吟

 柳小折片荷は涼し初真瓜     芭蕉

 

 元禄七年閏五月二十二日、新暦だと七月の半ばくらいか、ちょうど梅雨明けの頃、京都の落柿舎でこの句を発句とする興行が行われた。

 連衆は珍碩あらため洒堂、去来、支考、丈草、そして後に惟然を名乗る素牛とそうそうたるメンバーだ。「落柿舎乱吟」という前書きがあるように、人数はそう多くないが順番でつけるのではなく、出勝ちでおこなわれたようだ。

 この発句は「柳小折の片荷は初真瓜にて涼し」の倒置だ。

 「柳小折(やなぎこり)」は柳行李のことで、柳の樹皮を編んで作ったつづら籠のこと。本来は収納用で、それを天秤棒で担ぐというのは、誰かが差し入れでわざわざ持ってきてくれたものか。片方の荷はおそらく日用品で、もう一方に採れたての真瓜(まくわ)が入っていたのだろう。

 真瓜は今日では「まくわうり」と呼ばれ、「真桑瓜」という字を当てているが、本来は「瓜」という字を「くゎ」と発音していたため、胡瓜に対して本来の瓜ということで真瓜(まくわ)と呼んでいたのだろう。だとすると、「まくわうり」は同語反復になる。

 江戸後期の曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には、「甜瓜」と書いて「まくはうり」と読ませている。また、「美濃国本草郡真桑村、これ甜瓜の権輿(はじめ)也。故に真桑瓜と名(なづ)く。」とある。ウィキペディアもこの説を採っているし、ネット上では概ねこの説が採られている。ただ、出典はよくわからない。

 西洋からメロンが入ってくるまでは真瓜は夏の甘味の代表で、この粋な贈り物を興にして興行が始まる。

 落柿舎は去来の庵で貞享の頃からここに住んでいる。元禄四年の夏には芭蕉が半月に渡って滞在し、『嵯峨日記』を記している。芭蕉にとっても思い出の多い場所だ。

 落柿舎の名は、ここにある四十本もの柿の木の実が一夜にして落ちてしまったことに由来する。おそらく、

 

 「落柿舎は昔のあるじの作れるままにして、処々頽廃ス。中々に作(つくり)みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさなこそ心とどまれ。彫(ほりもの)せし梁(うつばり)、画(えがけ)ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、」(『嵯峨日記』)

 

とあるような環境が、カメムシの大量発生を生んだのではないかと思われる。

 

季語は「涼し」と「真瓜」で夏。蕉門では季重なりは何ら問題ではない。連歌の発句でも季重なりは普通だったし、子規の俳句でも季重なりは珍しくない。江戸時代でも季重なりにこだわる流派はあったかもしれないが、一般的には季重なりは問題にならなかった。だからこそ、

 

 目には青葉山ほととぎす初鰹   素堂

 冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす   芭蕉

 

の句も生まれた。

 「柳小折」は道具で「真瓜」は食べ物なので植物(うえもの)にはならない。

 

 

 

   柳小折片荷は涼し初真瓜

 間引捨たる道中の稗       洒堂

 (柳小折片荷は涼し初真瓜間引捨たる道中の稗)

 

 ここには精鋭が集まったとでも言いたいのか。芭蕉さんも軽みへの転向で、ついていけない門人の離反が続いていた。あるいは大阪の之道のことも暗に含めているのか。おそらく、こういう言わなくてもいいことを言ってしまう所が之道との対立の要因でもあったのだろう。

 そんな裏の意味をちくりと込めた感じだが、表向きは芭蕉さんへの長い道中への労いの句となっている。

 稗は寒冷地や山岳地に強く、米が不作の時への備えとなる。新暦でいうと五月に種を蒔き、九月に収穫する。その間の間引きは欠かせない。江戸後期に編纂された曲亭馬琴(滝沢馬琴)編の『増補 俳諧歳時記栞草』には夏之部五月の所に「穇蒔(ひえまく)」の項がある。

 

季語は「稗」で夏。植物(うえもの)、草類。「道中」は旅体。

 

 

第三

 

   間引捨たる道中の稗

 村雀里より岡に出ありきて    去来

 (村雀里より岡に出ありきて間引捨たる道中の稗)

 

 稗は山間部で作るため、間引きされた稗を求めて雀も山間の方へ遠征してゆく。「間引捨たる道中の稗に村雀の里より岡に出ありきて」の倒置となる。

 「て」止めのときは後ろ付け、つまり上句(五七五)から下句(七七)へ読み下すと倒置になり、下句から上句へと読み下した方が自然な文章になる付け方になることが多い。

 

無季。「雀」は鳥類。「里」は居所。「岡」は山類。

 

 

四句目

 

   村雀里より岡に出ありきて

 塀かけ渡す手前石がき      支考

 (村雀里より岡に出ありきて塀かけ渡す手前石がき)

 

 前句の村雀を背景として捨てて、村人が里より岡に出歩くと取り成す。石垣から落ちないように塀をめぐらす。

 

無季。「塀」は居所。

 

 

五句目

 

   塀かけ渡す手前石がき

 月残る河水ふくむ舩の端     丈草

 (月残る河水ふくむ舩の端塀かけ渡す手前石がき)

 

 塀のある石垣を川べりの風景として、浸水した船が放置されているありがちなものを付ける。係留された船ではなく廃船とするところに「さび」がある。

 月の定座なので有明の頃とする。

 

季語は「月」で秋。夜分、天象(連歌では光物という)。「河水」「舩」は水辺。

 

 

六句目

 

   月残る河水ふくむ舩の端

 小鰯かれて砂に照り付      素牛

 (月残る河水ふくむ舩の端小鰯かれて砂に照り付)

 

 前句に小鰯が干からびて砂の上に点々としている情景を付ける。この頃はまだ「枯れ節」はない。

 

季語は「鰯」で秋。水辺。連歌にはなぜか魚類という分類はなく、水辺として扱われる。

初裏

七句目

 

   小鰯かれて砂に照り付

 上を着てそこらを誘ふ墓参    洒堂

 (上を着てそこらを誘ふ墓参小鰯かれて砂に照り付)

 

 墓参りというと今ではお彼岸だが、曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』によると、「七月朔日より十五日に至りて、各祖考の墳墓に詣る也。」とある。また、源順家集の

 

   七月十五日ぼんもたせて山寺にまうづる所

 けふのためをれる蓬の葉をひろみ

    露おく山に我はきにけり

 

を引用して、「是盆の墓参り也」と書いている。昔は墓参りというとお盆のものだったようだ。

 田舎の漁村のことだから一族みんな近所に住んでいる。お盆は暑い時期だが、本家の人が一応礼装のつもりで羽織だけ着て、一族に誘いかけて墓参りに行ったのだろう。

 

季語は「墓参」で秋。「上」はここでは衣装。

 

 

八句目

 

   上を着てそこらを誘ふ墓参

 手桶を入るるお通のあと      芭蕉

 (上を着てそこらを誘ふ墓参手桶を入るるお通のあと)

 

 お盆の頃は参勤交代の季節でもあったので、行列が通るというので一応羽織だけ着て、通り過ぎたら手桶を持って墓参りに向う。

 同じあるあるネタでも、大名行列の格式ばったスタイルをちくっと風刺するあたりがさすが芭蕉さんだ。上だけの庶民と違い、きちっと正装して通過する武士の汗だくの姿が浮かんでくる。

 

無季。

 

 

九句目

 

   手桶を入るるお通のあと

 瘧にも食はいつものごとくにて   去来

 (瘧にも食はいつものごとくにて手桶を入るるお通のあと)

 

 「瘧(おこり)」はマラリアのことで、平安時代の人も江戸時代の人もこの病気には苦しめられた。日本でこの病気が克服されたのは戦後の高度成長の始まる頃だったという。

 マラリアの周期的な熱で苦しんでいても、光源氏だって北山に療養に行ってそこで若紫の所に通ったり、周期的な発熱だから熱の引いているときは結構余裕だったのか。

 そういうわけでマラリアだからといって食欲が衰えることもなく、食事を手桶に入れて運んでもらっている。

 

無季。

 

 

十句目

 

   瘧にも食はいつものごとくにて

 大工の邪魔に鋸をかる       支考

 (瘧にも食はいつものごとくにて大工の邪魔に鋸をかる)

 

 これは難しいというか、よくわからない。

 『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注)の中村注には、

 

 「大工の仕事中、時々鋸を貸してくれといわれて迷惑しているさま。前句の人を常は丈夫な人と見て時々細工事などするを思いよせた付。」

 

とあるが、それの何が面白いのかがよくわからない。大工さんから鋸を借りるというのはよくあることだったのか。

 室町時代には大型の製材用の鋸が普及したが、細工用の小さな鋸は江戸時代に入ってから発達したようだが、芭蕉の時代の鋸は果たしてどのようなものだったのか。その辺から考えてゆく必要があるのかもしれない。

 多分、鋸は貴重なもので、大工以外の一般人が持つものではなかったのだろう。斧や鉈はあっても、鋸は一般人にはかなり珍しいものだったのではないかと思う。だから、鋸を借りて何かをするというよりは、見せてくれだとか、試しに何かを切らせてくれというようなものだったのかもしれない。

 

無季。「大工」は人倫。

 

 

十一句目

 

   大工の邪魔に鋸をかる

 竹樋の水汲かくる庫裏の先     素牛

 (竹樋の水汲かくる庫裏の先大工の邪魔に鋸をかる)

 

 「庫裏(くり)」はお寺の僧の居住スペースで、大寺院となると部屋がいくつもある立派な建物が多いが、小さな寺だと普通の家に近い作りだという。

 食事もここで行うので厨房もあり、竹樋で山の湧き水を引いて来ることもあるのだろう。

 ここでも宮大工の使う大事な鋸を、薪を切るのに使わせてくれとか、結構無茶な話があったのかもしれない。

 

無季。「庫裏」は居所。

 

 

十二句目

 

   竹樋の水汲かくる庫裏の先

 便をまちて酢徳利をやる      洒堂

 (竹樋の水汲かくる庫裏の先便をまちて酢徳利をやる)

 

 「便(たより)」は頼るもの、という意味から「ついで」「よい機会」という意味もある。

 山の水を樋で引っ張っているようなお寺だから、山奥の寺ということにしたのだろう。誰か町の方から尋ねてくる人がいたら、ついでに酢徳利を預けて酢を買ってきてもらおうということか。

 もっとも、表向き酢徳利だけど、こっそり酒でも、ということかもしれない。

 

無季。

 

 

十三句目

 

   便をまちて酢徳利をやる

 降出しも忘るる雨のじたじたと   丈草

 (降出しも忘るる雨のじたじたと便をまちて酢徳利をやる)

 

 いつ降りだしたかも忘れてしまうほどのじとじとした長雨に、徳利を持って買い物に行くのも面倒くさい。誰か来ないか。

 

無季。「雨」は降物(ふりもの)

 

 

十四句目

 

   降出しも忘るる雨のじたじたと

 怱々やめにしたる洗足       去来

 (降出しも忘るる雨のじたじたと怱々やめにしたる洗足)

 

 「怱々(そうそう)」にはあわただしいという意味と、今日でも使われる省略してという意味がある。降り続く雨でどうせまた汚れるのだからと、足を洗うのも簡単に済ませるということか。

 

無季。

 

 

十五句目

 

   怱々やめにしたる洗足

 打鮠を焼と鱠と両方に       洒堂

 (打鮠を焼と鱠と両方に怱々やめにしたる洗足)

 

 鮠(はえ)はハヤともハヨとも言い、ウィキペディアによれば「日本産のコイ科淡水魚のうち、中型で細長い体型をもつものの総称」だという。今日の特定の種に相当するものではなく、ウグイ、オイカワ、カワムツなどを指すようだ。「打鮠(うちはえ)」は中村俊定校注には「打網で捕った鮠の意か。」とある。

 川で捕まえた魚を焼き魚と鱠にして食べるとなると、殺生になる。足を洗うのはやめておこう、ということになる。ネットの語源由来辞典で「足を洗う」を見ると、「裸足で修行に歩いた僧は寺に帰り、泥足を洗うことで俗界の煩悩を洗い清めて仏業に入ったことから、悪い行いをやめる意味で用いられるようになった。 その意味が転じ、現代では悪業・正業に関係なく、職業をやめる意でも使われるようになった、」とある。

 美味しい焼き魚と鱠が食べたいから仏業に戻るのは後にしよう、ということか。

 

季語は「鮠(はえ)」で夏。食物ではあるが、打鮠で捕らえたときはまだ生きているので水辺とした方がいいだろう。

 

 

十六句目

 

   打鮠を焼と鱠と両方に

 黒みてたかき樫の木の森      素牛

 (打鮠を焼と鱠と両方に黒みてたかき樫の木の森)

 

 樫はブナ科の常緑樹で照葉樹林を構成する木で、神社などで自然のままに残されている鎮守の森にも多い。打越の「洗足」の仏教に対し、神道の森へと違えて付けている。

 もっとも「洗足」だけでは釈教にならないように、「森」だけでは神祇にはならない。樫の森の中の川なら、魚もたくさん取れそうだ。

 

無季。「樫」は植物、木類。

 

 

十七句目

 

   黒みてたかき樫の木の森

 月花に小き門ンを出ッ入ッ     芭蕉

 (月花に小き門ンを出ッ入ッ黒みてたかき樫の木の森)

 

 さて、花の定座で、初裏にはまだ月が出てなかった。だからここで両方一気に出すことになる。

 「月花に黒みてたかき樫の木の森の小き門ンを出ッ入ッ」の倒置となる。

 前句を樫の木の森に住む隠者の句にして、月花を愛でると展開する。軽みのリアルなあるあるネタの連続からすると、やや古めかしいベタな感じもするが、難しいところからの月花への展開の技術は評価できる。

 『去来抄』には、

 

 「此前句出ける時、かかる前句全体樫の森の事をいへり。その気色(けしき)を失なハず、花を付らん事むつかしかるべしと、先師の付句を乞けれバ、かく付て見せたまひけり。」

 

とある。 弟子たちに頼まれての、こういう時にはこうやって付けるんだよという模範演技だったようだ。

 連歌で言う「違(たが)え付け」で、反対の物を付けながらも対句風にする迎え付(相対付け)とちがい、時間の経過や場所の移動などを含めることで辻褄を合わせる。

 

季語は「花」で春。植物、木類。「月」は夜分、天象。前にも言ったように季重なりは問題にならない。ここでは「春月」として扱われる。「門」は居所。

 

 

十八句目

 

   月花に小き門ンを出ッ入ッ

 巣おろす児の登る腰板      洒堂

 (月花に小き門ンを出ッ入ッ巣おろす児の登る腰板)

 

 今回は洒堂さんの大活躍のようだ。初の懐紙の終わりの時点で五句目になる。

 ここで言う児(ちご)は子供のことでお稚児さんではないのだろう。背の低い子供が小さな門の軒にある鳥の巣を取り除くのに腰板に登っているわけだが、「月花に児の小き門ンを出ッ入ッ腰板を登り巣おろす」の倒置になるので芭蕉の前句に比べてはるかに複雑で込み入っていてわかりにくい句になっている。この辺が力量の差だろう。

 

季語は「鳥の巣」で春。「児」は人倫。

二表

十九句目

 

   巣おろす児の登る腰板

 陽炎に眠気付たる医者の供    丈草

 (陽炎に眠気付たる医者の供巣おろす児の登る腰板)

 

 前句の子供の遊ぶ情景にうたた寝する医者の供と、春の長閑な頃の響きで付けた句。

 医者の供というと天和の頃に流行した仮名草子『竹斎』のにらみの助が思い浮かんだかもしれない。芭蕉も、貞享元年、『野ざらし紀行』の旅の途中で、

 

 狂句木枯の身は竹斎に似たる哉  芭蕉

 

と詠んでいる。

 

季語は「陽炎」で春。「医者の供」は人倫。

 

 

二十句目

 

   陽炎に眠気付たる医者の供

 新茶のかざのほつとして来る   芭蕉

 (陽炎に眠気付たる医者の供新茶のかざのほつとして来る)

 

 「かざ」は香りのこと。「ほつと」というのは今日のような「一息つく」の意味もあるが、困りきったという意味で使われることもある。

 中村注に「ふわりとあたたかく匂ってくる」とあるのは今日的な語感で、当時もそういう風に用いられていたのかどうかは良くわからない。引用している『附合評注』(『芭蕉翁付合集評註』佐野石兮著、文化十二年のことか)には、

 

 「医者は内へはいりて長ばなしをしてゐる、表に僕のひとりねぶりゐる三月末の頃、昼の八ツ過なるべし。うちのあるじも中よき医者にて、ともにうちかたらひ、新茶など出してもてなすに、その匂ひのほつと来たる也」

 

とある。

 『日本茶の歴史』(橋本素子、2016、淡交社)によると、お茶には二つの流れがあって、唐風喫茶文化(煎茶法)が先に入ってきて、次に宋風喫茶文化(点茶法)が入ってきたようだ。

 唐風の煎茶法はいわゆる今日の煎茶ではないが、『日本後紀』に「大僧都永忠手づから茶を煎じ奉御す」とあるように、煮出して飲むお茶だった。ネットで見た原始的な番茶と呼ばれるものも、ここに端を発したものなのだろう。煎茶といえば煎茶だが、今日の煎茶ではないし、番茶といえば番茶だが、今日でいう番茶でもない。仮に「煎茶法の茶」と呼ぶことになる。

 この煎茶法の茶は点茶が入ってきても廃れることなく、かといって貧しい庶民のお茶だったわけでもなく、朝鮮(チョソン)王朝の官人である宗稀璟(ソンヒケン)が日本回礼使として来日した時に、京都臨川寺の住持から煎茶法の茶をふるまわれたとあるから、庶民のものから格式のあるものまでピンきりだったようだ。

 抹茶にしても中世には「大茶」と呼ばれる庶民のお茶があったという。抹茶もピンきりだったようだ。抹茶=高級、煎じ茶=庶民というのは、貧農史観の名残だという。

 また、今日のお茶のサイトにある、抹茶はひと夏冷暗所で保存して秋以降に出すから新茶は秋のものだという説は戦国末から江戸時代にかけての宇治茶の発展によるもので、中世では抹茶も夏の初めの新茶を良しとしたという。宇治茶が高級品で、江戸の庶民は中世の頃と変わらずに煎茶法の茶と熟成しない抹茶を飲んでいたとすれば、「新茶」が元禄の頃でも夏の季語だったのはうなずける。煎茶法の茶なのか抹茶なのかはまだ特定できないが。あくまで好みの違いで両方だったのかもしれない。

 隠元禅師の来日の際にもたらされた、明の茶葉を揉む工程を取り入れた煎茶法の茶は「唐茶」と呼ばれ、『虚栗』や『其袋』に用例があるという。調べてみたい。これが後の永谷宗円による、いわゆる今日の煎茶への発展に繋がる。

 そういうわけで、『附合評注』の時代は煎茶だったが、芭蕉の時代の新茶が抹茶なのか煎じ茶なのかは今のところ特定はできない。

 

季語は「新茶」で夏。

 

 

二十一句目

 

   新茶のかざのほつとして来る

 片口の溜をそっと指し出して   酒堂

 (片口の溜をそっと指し出して新茶のかざのほつとして来る)

 

 片口は注ぎ口のついた器で、溜(たまり)はたまり醤油のことと思われる。

 『日本の味 醤油の歴史』(林玲子・天野雅敏編、2005、吉川弘文館)によれば、「おもに愛知・岐阜・三重の東海三県で造られ、使用されている醤油」で、「濃口醤油の製法から小麦を除いたものと考えればよい」とのこと。そして、「大豆という単一の穀物から造られるという意味で、原初的な「穀醤」から派生したことが想定され、醤油の原点ともいわれる。ただ、商品化されたのは一六九九(元禄十二)年であるとする説もある。」(p.174)とある。

 一六九九年というのはあくまで一つの説だから、この巻の巻かれた元禄七年に溜まり醤油がすでに市販されていた可能性もあるが、商品化されてなくても地元で細々と消費されていたと考えれば問題はない。

 元禄期はようやくちょうどヤマサの初代浜口儀兵衛が銚子で醤油作りを始めた頃で、醤油の販売網はまだ全国には広がってなかったと思われる。

 新茶の匂いに醤油を付けるのは、匂いつながりで付ける響き付けではないかと思われる。当時都市部で広がりつつあった濃口醤油ではなくたまり醤油にしたのは、京ではなく美濃や伊勢など方面の田舎臭さをだすためかもしれない。

 

無季。

 

 

二十二句目

 

   片口の溜をそっと指し出して

 迎をたのむ明日の別端      去来

 (片口の溜をそっと指し出して迎をたのむ明日の別端)

 

 中村注によれば、別端(わかれば)は「夫婦離別の際」だという。だとすると、恋になる。

 離別と言っても離婚ではなく(江戸時代中期までは離婚率は意外に高かったともいう)、これは「迎えをたのむ」ような別れだから、参勤交代などでの旅立ちでの離別なのだろう。ただ、「片口の溜」のどういう意味があったのかはよくわからない。

 

無季。「別端」は恋。

 

 

二十三句目

 

   迎をたのむ明日の別端

 薄雪の一遍庭に降渡り      支考

 (薄雪の一遍庭に降渡り迎をたのむ明日の別端)

 

 薄雪が降ったからわざわざ駕籠などの迎えを頼むということか。

 

季語は「薄雪」で冬。降物。

 

 

二十四句目

 

   薄雪の一遍庭に降渡り

 御前はしんと次の田楽      芭蕉

 (薄雪の一遍庭に降渡り御前はしんと次の田楽)

 

 前句の「一遍」を一遍上人のことと取り成して、境内での田楽を付ける。一遍上人は田楽を布教に取り入れ、念仏踊りを流行させた。これが盆踊りの起源とも言われている。

 『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)によると、

 

 「うす雪の降りわたりたる夕方、御前には釜などかかりてしんとしたるに、御次には田楽やきて酒のむらむか。」

 

と田楽は料理のことになっている。

 踊りとしての田楽は古代から中世のもので江戸後期には廃れていたから、「田楽」と聞いて真っ先に思い浮かぶのが味噌田楽だったことは想像できる。

 ただ、芭蕉の時代には大谷篤蔵さんが引用している『日次紀事』(黒川道祐著、延宝四年刊)に記載があるのであれば、芭蕉の時代には田楽はまだ神事で行われていたことになる。

 ただ、大谷篤蔵さんの「社前の群衆しわぶき一つせず、次の田楽を待つ」というのは、今のクラッシックコンサートではないのだからありそうにない。大体群衆が押し寄せたら薄雪の積もる隙もない。ここはまだ開場前の風景とすべきであろう。

 田楽は廃れたが、一遍上人の広めた念仏踊りに引き継がれ、今日でも盆踊りとして生き残っている。

 大谷篤蔵の「注解者に、当時の人のあらゆる事物に関する生活感情を過不足なく感じ取るだけの素地がなければならない。別に連句に限ったことではないともいえるが、特に連句の注解においてこの事実を感じさせられる。」の言葉は私の目指す所でもある。

 歴史学は長いこと政治体制や法制度の研究が中心で庶民の生活にはさしたる関心を持ってこなかったばかりでなく、進歩史観や貧農史観のバイアスによって多くの偏見を生んできた。

 そんな旧来の歴史学に突破口を開いたのは中世研究での網野善彦さんや八十年代くらいから盛んになってきた江戸学の台頭で、今でこそネットを通じて様々な江戸時代の情報を入手できるようになったが、それ以前だと連句研究がほとんど手付かずの状態だったのは、ある意味やむをえなかったのかもしれない。いい時代になったと思う。

 

無季。「御前」は神祇。

 

 

二十五句目

 

   御前はしんと次の田楽

 追込の綱を鼡(ねずみ)のならす音 酒堂

 (追込の綱を鼡のならす音御前はしんと次の田楽)

 

 中村注には「追込」は「見物席の末の方」だという。辞書には「劇場で、人数を限らず客を押し詰める安い料金の見物席。追込桟敷。」とある。

 田楽のために用意された会場の席には今は誰もいず、ただ張り巡らされた綱を鼠が鳴らす。

 

無季。

 

 

二十六句目

 

   追込の綱を鼡のならす音

 隣の明屋あらし吹也       素牛

 (追込の綱を鼡のならす音隣の明屋あらし吹也)

 

 「追込」は追込桟敷のこととは限らず、単に多くの人や物を一箇所に詰め込むことをも言う。ここではどのような綱かはわからないが、追い込まれた鼠が暴れて音を立てている。さながら嵐のようだ、ということか。

 

無季。

 

 

二十七句目

 

   隣の明屋あらし吹也

 葬礼のあとで経よむ道心坊    去来

 (葬礼のあとで経よむ道心坊隣の明屋あらし吹也)

 

 「道心坊」はコトバンクによれば、「1 成人してから仏門にはいった人。2 乞食(こじき)僧。乞食坊主。」と二つの意味があり、ここでは乞食坊主のことか。葬式は正式なお寺のお坊さんが経を読んだが、そのあとで死者に縁のあった乞食僧なのだろうか、開き屋になった古人の家で、嵐の中で経を読んでいる。

 

無季。「道心坊」は釈教。「葬礼」は哀傷。

 

 

二十八句目

 

   葬礼のあとで経よむ道心坊

 手拭脱でおろす牛の荷      支考

 (葬礼のあとで経よむ道心坊手拭脱でおろす牛の荷)

 

 一心に経を読む乞食僧がいると、土地の百姓さんがほっかむりの手拭を取って牛の背から荷物を降ろす。乞食僧への謝礼だろうか。

 

無季。「牛」は獣類。

 

 

二十九句目

 

   手拭脱でおろす牛の荷

 川ひとつ渡て寒き有明に     芭蕉

 (川ひとつ渡て寒き有明に手拭脱でおろす牛の荷)

 

 月の定座だが、芭蕉さんに遠慮して誰も付けたがらなかったか。

 哀傷の有心の句が続いた後だから、ここはさらっと景色を付けて流す。

 冬の明け方、有明の月の残る頃、荷を乗せた牛を引きながら冷たい川を渡り、渡り終えるとほっかむりを解いて牛の荷を降ろす。

 

季語は「寒き」で冬。「有明」は夜分、天象、この場合は冬月。「川」は水辺。

 

 

三十句目

 

   川ひとつ渡て寒き有明に

 岩にのせたる田上の庵     丈草

 (川ひとつ渡て寒き有明に岩にのせたる田上の庵)

 

 「田上(たなかみ)」は近江の大津にある田上山のことで、貞観元年(八五九)に智証大師円珍が開いた太神山不動寺がある。本堂は巨岩の上に建っている。

 

無季。「岩」は山類。「田上」は名所。「庵」は居所。

二裏

三十一句目

 

   岩にのせたる田上の庵

 正月もいにやれば淋し廿日過   洒堂

 (正月もいにやれば淋し廿日過岩にのせたる田上の庵)

 

 サザエさん症候群というのがひところはやった。日曜の夜のサザエさんを見ると、休みももう終わりかと憂鬱になるというわけで、昔の人も正月も廿日過ぎるとそろそろ農作業が待っているというので憂鬱になったりもしたのだろう。

 一句の意味としてはそれでいいが、問題は前句との関係だ。一句として完成された感じなので若干手帳(あらかじめ句を作って用意しておくこと)臭い感じもするが、芭蕉さんの前でさすがにそれはないだろうし、前句からの発想だと連衆のみんなが納得したから、手帳の疑いはなかったのだろう。

 問題は付け筋だが、意味がわかりにくいので心付けではなさそうだし、付け合いとなるような単語の組み合わせもはっきりしないから物付けでもなさそうだ。ということは匂い付けになる。

 正月の二十日過ぎの寂しさは、特に庵に暮らす人に特徴的なことではないので、庵の主の位で付けたとは思えない。となると、単なる寂しさつながりで付けた響き付けか。

 ただでさえ淋しい岩の上の庵は、正月も二十日過ぎればなおさら淋しい。一応そういうことにしておこう。

 

季語は「正月」で春。近代だと「歳旦」に分類されるが、それは新暦になって正月が冬の真ん中に来てしまったせいだ。

 

 

三十二句目

 

   正月もいにやれば淋し廿日過

 種漬に来るととの名代      去来

 (正月もいにやれば淋し廿日過種漬に来るととの名代)

 

 種漬けはコトバンクによれば、「発芽を促すため、苗代にまく前に種籾(たねもみ)を水に浸すこと。種浸し。」

 ととの名代というのは父親の代理ということか。正月二十日過ぎでそろそろ農作業が始まるという意味では、苗代作りの前に苗代に蒔く種を水につけておく作業の始まりということになる。正月二十日と種漬けがこの場合物付けになる。そうなると、なぜ「ととの名代」ということになる。「名代」と「苗代」を掛けたのか。

 

季語は「種漬」で春。「名代」は人倫。

 

 

三十三句目

 

   種漬に来るととの名代

 咲花の片へら残スしほ鰹     素牛

 (咲花の片へら残スしほ鰹種漬に来るととの名代)

 

 春の句が二句続いたので、春の句を強制的に五句引っ張るよりは、ここで定座を繰り上げて花を出すのが正解だろう。

 ここはまず「とと」を魚の意味に取り成して塩鰹を出す。塩鰹は「しほがつお」が「しょうがつお」に通じるというので本来正月のご馳走だったという。今でも西伊豆の名物だという。

 「名代」は「なだい」と読むと有名だとか名高いという意味になる。種漬けの頃後れて送られてきた正月の名高い魚はどうすればいいかというと、花見の頃までとっておいて食べればいい、ということになる。

 

季語は「花」で春。植物、木類。

 

 

三十四句目

 

   咲花の片へら残スしほ鰹

 彼岸をかけてお隙ささやく    丈草

 (咲花の片へら残スしほ鰹彼岸をかけてお隙ささやく)

 

 花も咲き正月の塩鰹もまだ残っている。こりゃ花見するっきゃないというわけで、彼岸のお墓参りを口実に休暇をとろうとひそかに相談する。まだ飛鳥山などの公園の整備されてなかったこの頃は、花見というとお寺ということになる。

 

季語は「彼岸」で春。

 

 

三十五句目

 

   彼岸をかけてお隙ささやく

 白粉をぬれども下地くろい顔   支考

 (白粉をぬれども下地くろい顔彼岸をかけてお隙ささやく)

 

 お彼岸に墓参りをというその女は、日焼けした顔を白く塗って、さながらコープスメイクだ。実は蘇った死者だったりして。

 

無季。「顔」は人倫。

 

 

挙句

 

   白粉をぬれども下地くろい顔

 役者もやうの衣の薫       去来

 (白粉をぬれども下地くろい顔役者もやうの衣の薫)

 

 前句を役者の芝居の時のメイクとし、着るものに薫物をして、なかなかお洒落に一巻は終了する。花の定座を繰り上げることで無季の上げ句になり、挙句は何が何でも春の目出度さというマンネリをのがれている。

 

無季。「役者」は人倫。「衣」は衣装。