「此道や」の巻、解説

元禄七年九月二十六日、晴々亭興行

初表

 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

   岨の畠の木にかかる蔦    泥足

 月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て 支考

   小き家を出て水汲む     游刀

 天気相羽織を入て荷拵らへ    之道

   酒で痛のとまる腹癖     車庸

 

初裏

 片づかぬ節句の座敷立かはり   洒堂

   塀の覆にあかき梅ちる    畦止

 線香も春の寒さの伽になる    惟然

   恵比酒の餅の残る二月    亀柳

 兵の宿する我はねぶられず    泥足

   かぐさき革に交るまつ風   芭蕉

 ばらばらと山田の稲は立枯れて  車庸

   地蔵の埋る秋は悲しき    支考

 仕事なき身は茶にかかる朝の月  之道

   塩飽の船のどつと入り込   惟然

 散花に幕の芝引吹立て      畦止

   お傍日永き医者の見事さ   洒堂

     参考;『校本 芭蕉全集 第五巻』1988、富士見書房

初表

発句

 

   此集鏤んとする比、芭蕉の翁は難波に抖擻

   し給へると聞て、直にかのあたりを訪ふに、

   晴々亭の半哥仙を貪り、畦止亭の七種の戀を

   吟じて、予が集の始終を調るものならし。

 

   所思

 此道や行人なしに秋の暮     芭蕉

 

 発句は当座の興で読むことが多いが、事前に用意しておくことも中世の連歌の頃から普通に行われていた。もちろん発句が先にできて、それを元に興行が企画されることもあるし、その辺の事情はいろいろある。

 今回の場合も発句は少なくとも九月二十三日の段階では出来ていた。

 この句が最初に登場するのは、『芭蕉書簡集』(萩原恭男注、一九七六、岩波文庫)の元禄七年九月二十三日付の意専(猿雖)・土芳宛の書簡だ。そのとき葉の形は、

 

   秋暮

 この道を行人なしに秋の暮    芭蕉

 

だった。

 二日後の曲翠(曲水)宛書簡にも、この句は登場する。

 

 「爰元愚句、珍しき事も得不仕候。少々ある中に

   秋の夜を打崩したる咄かな

   此道を行人なしに秋の暮

 人声や此道かへる共、句作申候。」

 

と、ここで初めて「人声や此道かへる」という別案があったことが確認できる。

 この別案についてはその後各務支考の『笈日記』に、

 

   「廿六日は淸水の茶店に連吟して、泥足が集の俳語あり。連衆十二人。

 人聲や此道かへる秋のくれ

 此道や行人なしに龝の暮

   此二句の間いづれをかと申されしに、この道や行ひとなしにと獨歩したる所、誰かその後にしたがひ候半とて、是に、所思といふ題をつけて、半歌仙侍り。爰にしるさず。」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、一九三五、岩波文庫、p.81)

 

というように記されている。

 

 人声や此道かへる秋のくれ

 此道や行人なしに秋の暮

 

の二案があって、支考にどっちがいいかと問うと、支考は「この道や」の方が良いと答えると、芭蕉もならそれに従おうと「所思」という題を付けて半歌仙興行を行ったという。

 芭蕉は時折弟子に向かって二つの句を示しどっちが良いか聞くことがある。弟子を試している場合もあれば、本当にどっちが良いか迷っている時もあったのではないかと思う。この場合は後者ではなかったか。

 半歌仙興行は九月二十六日、大阪の清水の茶店で行われた。実際には連衆は十人だった。もしかしたら主筆を含め、句を詠まなかった二人がいたのかもしれないが、確証はない。

 さて、この二句はおそらく芭蕉の頭の中にある同じイメージを詠んだのではなかったかと思われる。

 それはどこの道かはわからない。ひょっとしたら夢の中で見た光景だったのかもしれない。道がある。芭蕉は歩いてゆく。周りには何人かの人がいた。だが、一人、また一人、芭蕉に背中を向けてどこかへと帰ってゆく。気がつけば一人っきりになっている。

 帰る人は芭蕉に挨拶するのでもなく、何やら互いに話をしながらいつの間にいなくなってゆく。この帰る人を描いたのが、

 

 人声や此道かへる秋のくれ   芭蕉

 

の句で、取り残された自分を描いたのが、

 

 此道や行人なしに秋の暮    芭蕉

 

の句になる。

 人は突然この世に現れ、いつかは帰って行かなくてはならない旅人だ。帰るところは、人生という旅の帰るところはただ一つ、死だ。

 芭蕉はこの年の六月八日に寿貞が深川芭蕉庵で亡くなったという知らせを聞く。芭蕉と従弟との関係は定かではないが、一説には妻だったという。

 その前年の元禄六年三月には甥の桃印を亡くしている。

 この二人の死は芭蕉がいかにたくさんの弟子たちに囲まれていようとも、やはり肉親以外に代わることのできない心の支えを失い、孤独感を強めていったのではないかと思われる。

 それは悲しさを通り越して、心にぽっかり穴の開いたような生きることの空しさ変ってゆく。

 芭蕉が聞いた「声」は寿貞、桃印のみならず、芭蕉が関わりそして死別した何人もの人たちの「声」だったのかもしれない。それは冥界から聞こえてくる声だ。

 

 人声や此道かへる秋のくれ   芭蕉

 

 私はこの句が決して出来の悪い句だとは思わない。むしろほんとに寒気がするような人生の空しさや虚脱感に溢れている。

 それに対し、

 

 此道や行人なしに秋の暮    芭蕉

 

の句は前向きだ。帰る声の誘惑を振り切って猶も最後まで前へ進もうという、最後の力を振り絞った感じが伝わってくる。

 支考がどう思って「この道や」の句のほうを選んだのかはよくわからないが、芭蕉は支考の意見に、まだもう少し頑張ろうと心を奮い起こしたのではなかったではないかと思う。そして、この句を興行の発句に使おうと思ったのではなかったかと思う。

 さて、その元禄七年九月二十六日の興行だが、江戸の泥足が『其便』の編纂をやっている頃、たまたま大阪に来ていることを知って尋ねていって実現した半歌仙興行だった。

  前書きに「此集を鏤(ちりばめ)んとする比、芭蕉の翁は難波に抖擻(とそう)し給へると聞て」とあるが、「抖擻」は「ふるえている」ということ。病気で苦しんでいるという意味か。

 この時芭蕉の体調はかなり悪化していたと思われる。晴々亭の興行が半歌仙で終わったのも、体力的な問題があったと思われる。翌二十七日には園女亭で歌仙興行が行われるが、これが芭蕉の最後の俳諧興行となる。

 

「秋の暮」は秋。「行人」は人倫。

 

 

   此道や行人なしに秋の暮

 岨(そば)の畠の木にかかる蔦   泥足

 (此道や行人なしに秋の暮岨の畠の木にかかる蔦)

 

 ここは余り発句の情を深く受け止めてしまうと重くなり、興行の始まりから暗い気分になりそうなので、あえて情を突き放して付けたのだろう。

 行く人のない道に山奥の情景を付け、そこに暮秋の蔦(つた)の紅葉を添えている。四つ手付けの句だ。

 

「蔦」は秋で植物(草類)。「木」は植物(木類)。「岨」は山類。

 

第三

 

   岨の畠の木にかかる蔦

 月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て  支考

 (月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て岨の畠の木にかかる蔦)

 

 畠から蕎麦のこぼれ種が花をつけて、それを月が照らし出している美しい情景を付け、そこに鳥が寝てと付け加える。そして夜明けも近く空も白んでくる。この頃の支考は本当に天才だ。

 「岨の畠」に「蕎麦のこぼれ」と「ソバ」つながりでありながら、駄洒落にもならず、掛詞にもなっていないし、取り成しにもしていない。ただ何となく繋がっているあたりがやはり一種の「匂い」なのか。

 この年の閏五月に興行された「牛流す」の巻の六句目、

 

    月影に苞(つと)の海鼠の下る也

 堤おりては田の中のみち    支考

 

の「つと」→「つつみ」、「下がる」→「おりて」の縁にも似ている。

 

「月しらむ」は秋で夜分、天象。「蕎麦」は植物(草類)。「鳥」は鳥類。

 

四句目

 

   月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て

 小き家を出て水汲む        游刀

 (月しらむ蕎麦のこぼれに鳥の寝て小き家を出て水汲む)

 

 游刀は膳所の能役者だという。月白む頃に家を出て水を汲みに行く。小さき家は貧しい家の人なのか、それとも隠遁者かと想像を掻き立てる。

 

無季。「小き家」は居所。

 

五句目

 

   小き家を出て水汲む

 天気相羽織を入て荷拵らへ     之道

 (天気相羽織を入て荷拵らへ小き家を出て水汲む)

 

 前句の人物を商人と見ての位付けだろう。天気の具合を案じながら、羽織を一枚入れて荷支度する。

 之道は大阪談林の盛んな地では少数派の蕉門。元禄三年の幻住庵の頃からの芭蕉の門人で、その年の九月に『あめ子』を刊行している。

 芭蕉の大阪訪問の動機の一つに、之道と洒堂との喧嘩の仲裁というのがあったが、『あめ子』では芭蕉、洒堂(当時は珍碩)との三吟も収められて、当時はまだ仲が良かったのか。この集には鬼貫との両吟表六句も収められている。

 

無季。「羽織」は衣装。

 

六句目

 

   天気相羽織を入て荷拵らへ

 酒で痛のとまる腹癖        車庸

 (天気相羽織を入て荷拵らへ酒で痛のとまる腹癖)

 

 車庸は大阪の商人で、元禄五年に『己が光』を編纂している。

 前句の商人を酒飲みと見ての展開。忙しい商人は腹が痛いといって休んでも居られず、酒で紛らわして仕事に出る。

 YAHOO!知恵袋に「胃が痛い時にお酒を飲むと治ることがあるのですがなぜでしょうか?」というのがあったので、実際こういう人はいるようだ。

 また、zakzakの記事で、「不思議なもので、酒を飲むと痛みも消えるので」というのが実は胆のう炎だったというのもあった。

 酒で痛みが止まるのは単に酔いに紛れているだけで、深刻な病である可能性もあるので注意しよう。

 

無季。

初裏

七句目

 

   酒で痛のとまる腹癖

 片づかぬ節句の座敷立かはり    洒堂

 (片づかぬ節句の座敷立かはり酒で痛のとまる腹癖)

 

 酒で腹痛を紛らわしているのは、節句の座敷に入れ替わり立ち代り客がやって来るせいで、いろいろ気を使って胃は痛くなる。痛くなった胃を次の客との酒で紛らわす。これじゃ体に良い分けない。

 

無季。

 

八句目

 

   片づかぬ節句の座敷立かはり

 塀の覆にあかき梅ちる       畦止

 (片づかぬ節句の座敷立かはり塀の覆にあかき梅ちる)

 

 前句の節句を正月として座敷の塀に散る紅梅を添える。

 畦止(けいし)も大阪の人。九月十三日には月見の会が畦止亭で催される予定だったが、芭蕉の病状の悪化で中止になり、翌十四日には多少回復したか、畦止亭で、

 

 升買うて分別かはる月見かな    芭蕉

 

を発句とする七吟歌仙興行が行われている。この興行は、之道と洒堂の仲直りのための興行だったとも言われている。

 また、前書きに「畦止亭の七種の戀を吟じて」とあるように、二日後の九月二十八日には畦止で芭蕉、泥足、支考、惟然、洒堂、之道、畦止の七人が集まり、それぞれ恋をテーマにした発句を詠む興行を行っている。

 この時の芭蕉の句は、

 

   月下送児

 月澄むや狐こはがる児の供     芭蕉

 

で、あえて男色を詠んでいる。

 やはり噂通りそういう趣味の人なのか、それとも女色を詠むことに照れがあってホモネタに逃げているのか、定かではない。

 

「梅ちる」は春で植物(木類)。

 

九句目

 

   塀の覆にあかき梅ちる

 線香も春の寒さの伽になる     惟然

 (線香も春の寒さの伽になる塀の覆にあかき梅ちる)

 

 「梅散る」を人が亡くなった暗示としての展開だろう。一人仏前に向えば線香の煙に仏様の方から「元気出せよ」と慰められたような気分になる。

 

「春の寒さ」は春。「線香」は釈教。

 

十句目

 

   線香も春の寒さの伽になる

 恵比酒の餅の残る二月(きさらぎ) 亀柳

 (線香も春の寒さの伽になる恵比酒の餅の残る二月)

 

 亀柳についてはよくわからないが、大阪の人のようだ。

 恵比寿の餅というのは正月の十日恵比寿の餅のことか。二月になれば黴だらけだろうな。昔は黴の生えた餅でも平気で食ってた。

 これで一応全員一句づつ詠んだことになる。

 

「二月」は春。

 

十一句目

 

   恵比酒の餅の残る二月

 兵の宿する我はねぶられず     泥足

 (兵の宿する我はねぶられず恵比酒の餅の残る二月)

 

 二月と八月は関東の譜代大名の参勤交代の季節で、江戸の商人である泥足は、お侍さんの御一行を泊めたりしてたのだろうか。三人称ではなく「我は」と限定するのは珍しい。

 

無季。「兵(つはもの)」「我」は人倫。

 

十二句目

 

   兵の宿する我はねぶられず

 かぐさき革に交るまつ風      芭蕉

 (兵の宿する我はねぶられずかぐさき革に交るまつ風)

 

 「かぐさき」は獣肉、皮などの匂いのこと。

 展開する時には「我は」は余り気にせず、乱世の頃の話にしてもいい。実際に軍の装備をしている兵(つはもの)は革の匂いがぷんぷんしたことだろう。

 「兵(つはもの)の宿する」に「かぐさき革」、「ねぶられず」に「松風」と四つ手に付ける。

 

無季。「松」は植物(木類)。梅から三句隔てる。

 

十三句目

 

   かぐさき革に交るまつ風

 ばらばらと山田の稲は立枯れて   車庸

 (ばらばらと山田の稲は立枯れてかぐさき革に交るまつ風)

 

 前句の「かぐさき革」を動物の死体のこととしたか。飢饉の光景だろう。

 

「稲」は秋で植物(草類)。

 

十四句目

 

   ばらばらと山田の稲は立枯れて

 地蔵の埋る秋は悲しき       支考

 (ばらばらと山田の稲は立枯れて地蔵の埋る秋は悲しき)

 

 地蔵が埋もれるのだから、上流から土砂が流されてきたのか、あるいは火山の噴火によるものか。この年の五月に、

 

 牛流す村のさはぎや五月雨     之道

 

の句を発句とした「牛流す」の巻が巻かれていることを思うと、何かそういう事件があったのか。

 「埋る」は草に埋もれるとも取れるため、飢饉ネタはここで終わらせることができ、月呼び出しになる。

 

「秋」は秋。「地蔵」は釈教。

 

十五句目

 

   地蔵の埋る秋は悲しき

 仕事なき身は茶にかかる朝の月   之道

 (仕事なき身は茶にかかる朝の月地蔵の埋る秋は悲しき)

 

 草に埋もれた地蔵に貧しさを感じての展開で、仕事もなく朝からお茶を飲んでいる牢人の句とする。抹茶でも煎じ茶でもピンからキリまであり、貧しいなりにもお茶は飲めた。

 

「朝の月」は秋で天象。「身」は人倫。

 

十六句目

 

   仕事なき身は茶にかかる朝の月

 塩飽の船のどつと入り込 惟然

 (仕事なき身は茶にかかる朝の月塩飽の船のどつと入り込)

 

 塩飽(しあく)は瀬戸内海の塩飽諸島のこと。ウィキペディアには、

 

 「寛文12年(1672年)、河村瑞賢が出羽国の米を江戸に運ぶべく西廻海運を確立すると、塩飽の島民はその運航を一手に担い、新井白石が奥羽海運記で「塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきに非ず」と記した廻船に乗り、江戸や大阪など諸国の港を出入りする。」

 

とある。塩飽(しあく)の船は廻船のことをいう。

 この場合は「仕事なき身は」をそういう人もいるという程度に取り成して、朝の月の頃に米を積んだ廻船が続々と入港するという展開と見ていいだろう。

 

無季。「塩飽の船」は水辺。

 

十七句目

 

   塩飽の船のどつと入り込

 散花に幕の芝引吹立て        畦止

 (散花に幕の芝引吹立て塩飽の船のどつと入り込

 

 問題はこの「芝引」で、『校本芭蕉全集第五巻』の中村俊定さんの註釈も、「太刀の鞘尻の刃の方に伏せた金具のことであるが、解し得ない。吹く風に幕のあいだから芝引が見えるという意か。」とやはり満足な答が出なかったようだ。

 確かに「芝引」で検索すると、刀の鞘の下側の金具が「芝引」で上側は「雨覆」というらしい。「火縄銃の台座の先端」というのもあったが、それでも意味不明。

 「幕」という言葉は芝居を連想させるので、何か芝居用語に「芝引」ってないかと思って探したが、やはり見つからなかった。

 似たような言葉でようやく見つかったのが柴引で、「もしかして:柴引」。

 「柴引」は神楽の演目で、太玉命が天の香久山の榊を引き抜いて、天の岩屋の前に飾る踊りで、客席とのあいだで榊の枝を引っ張りっこをするのが一番の見せ場のようだ。

 散る花の頃に幕を開けた神楽の柴引に風が吹いて桜の花びらが舞い、秋には豊作となり米を満載にした廻船がどっと押し寄せる、これもかなり無理矢理だが、意味が通らなくもない。

 米を乗せた「廻船」が秋のイメージなので、それを花の定座ということで無理に春に転じようとすると、向え付けか違え付けになりやすい。今のところ他にいい解釈が思いつかないので、とりあえずこれにしておこう。

 

「散花」は春で植物(木類)。

 

挙句

 

   散花に幕の芝引吹立て

 お傍日永き医者の見事さ       洒堂

 (散花に幕の芝引吹立てお傍日永き医者の見事さ)

 

 「お傍」は中村俊定註に「高貴の人の側に侍るの意」とある。高貴な人なら「芝引」は刀の鞘の金具に取り成してもいいのかもしれない。「幕」も芝居の幕ではなく陣を張る時の幕としてもいい。高齢のお殿様で、いつも側に医者を侍らして、この半歌仙の一巻も目出度く終わる。

 洒堂も医者だから、芭蕉さんの側には私がいますというメッセージか。肝心な時にはいなかったようだが。

 

「日永き」は春。「医者」は人倫。