「寛正七年心敬等何人百韻」解説

初表

 比やとき花にあづまの種も哉    心敬

   春にまかする風の長閑さ    行助

 雲遅く行く月の夜は朧にて     専順

   帰るや雁の友したふらん    英仲

 消えがての雪や船路の沖津波    元用

   あらいそ寒み暮るる山陰    弘仲

 主しらぬ蘆火は松に木隠れて    宗祇

   人の声する村のはるけさ    量阿

 

初裏

 朝ぎりや市場の方を隔つらん    清林

   色こそ見えね秋はたちけり   宗怡

 竹の葉の音も身に入む風吹きて   紹永

   あくる扉に残る夜の月     士沅

 別れては俤のみや頼ままし     能通

   待てともいはぬ我が中ぞうき  慶俊

 旅に人暫しの程は語らひて     政泰

   こゆるも末の遠き山道     与阿

 鐘ひびく峰の松陰暮れ渡り     弘其

   御法の跡を残す古寺      常広

 聞くのみを鹿のその世の行衛にて  心敬

   月かたぶきて夢ぞ驚く     行助

 仮庵や枕の草の露おもみ      専順

   さもうかるらん稲葉もる人   清林

 

 

二表

 雲なびく遠の山本風寒えて     紹永

   夕べにかはる冬の日の影    宗祇

 猶急げ又や時雨れん野辺の道    元用

   旅は袖ほすひまぞ稀なる    量阿

 待つたれもあらじ古郷恋しくて   士沅

   忘るるかたや夢は見ざらん   心敬

 よわりつつ来ぬ夜積れる物思ひ   宗怡

   くだけし心末ぞみじかき    専順

 かる跡にむらむら残る草の露    与阿

   袂をはらふ秋の追風      英仲

 船人の波なき月に今朝出でて    慶俊

   塩干を見れば山ぞ流るる    心敬

 木々の葉や入江の水に浮ぶらん   弘仲

   なににも色の冬浅き陰     能通

 

二裏

 春は猶頭に雪の積り来て      行助

   日はてりながら光り霞める   紹永

 深草や下萌え初めてけぶる野に   宗祇

   うつせみの世を忍ぶはかなさ  専順

 かくのみに恋しなば身の名や立たむ 心敬

   みよや涙の袖のくれなゐ    量阿

 等閑に思ひし色ははじめにて    士沅

   住みあかれめや秋の山里    宗怡

 宇治川や暁月の白き夜に      元用

   こゑすさまじき水の水上    与阿

 霧り渡る田面の末に鴫立ちて    専順

   今折からの哀をぞ知る     清林

 侘びぬれば冬も衣はかへがたし   行助

   かたびら雪は我が袖の色    心敬

 

 

三表

 ならす手の扇に風を猶待ちて    宗祇

   みどりに近く向ふ松陰     量阿

 散る花の水に片よる岩隠      専順

   さざ波立ちて蛙なくなり    行助

 小田返す人は稀なる比なれや    弘其

   暮るる夜さびし岡野辺の里   慶俊

 月遠き片山おろし音はして     宗怡

   まつにつけても秋ぞ物うき   紹永

 玉章の露の言の葉いたづらに    士沅

   おくる日数をいつか語らん   弘仲

 有増の忘れ安きを驚きて      行助

   心のみちにいづる世の中    政泰

 賢きも君にひかるる山の奥     心敬

   子日の松の幾とせか経ん    元用

 

三裏

 春の野をうづむ笆の陰遠く     専順

   末はかすめる庭のやり水    与阿

 月細く有明がたに流れきて     心敬

   夜寒になりぬ秋の初風     士沅

 衣うつ音を聞くさへ目もあはで   清林

   人を待乳の山の名もうし    行助

 時鳥かたらひ捨てし後の暮     量阿

   きのふもけふも神祭る頃    元用

 かたぶける日はさるとりの時過ぎて 宗怡

   うつるひかりの影をしめ只   英仲

 老い果てば無きが如くと思ふ身に  宗祇

   有りて命の何をまつらん    専順

 ひまもなき心の程はしる袖に    紹永

   ひとり枕にあかす夜な夜な   慶俊

 

 

名残表

 虫の音や恨むる色をさそふらん   能通

   常より秋のつらき故郷     与阿

 陰寂し暴風の風のそなれ松     行助

   思はず月にきさ山の暮     量阿

 袖寒く渡る小川に雨晴れて     心敬

   遠方人に千鳥立つ声      慶俊

 誰かまつ妹があたりを尋ぬらん   専順

   契りし頃よ更けはつる空    宗怡

 うたたねの夢を頼めば鐘なりて   士沅

   落つる涙にうかぶ手枕     弘其

 昔思ふ袖にかほれる梅の花     心敬

   草の庵も春はわすれず     元用

 大原や山陰ふかし霞む日に     行助

   川音近し谷の夕暮       宗祇

 

名残裏

 滝浪につるるあらしの吹き落ちて  量阿

   さわげど鴛ぞつがひはなれぬ  専順

 月なれや岩ほの床の夜の友     慶俊

   露もはらはじ苔の小筵     行助

 松高き陰の砌りは秋を経て     心敬

   ふりぬ言葉の玉の数々     宗怡

 神垣や絶えず手向の茂き世に    紹永

   いのりし事のたれか諸人    英仲

 

       参考;『連歌集』(新潮日本古典集成33、島津忠夫校注、一九七九、新潮社)

初表

発句

 

 比やとき花にあづまの種も哉   心敬

 

 行助の東国下向の送別の発句。

 この連歌は心敬が東国に下向する一年前ということになる。この年の夏には宗祇も下向している。

 ただ、行助の東国滞在は短く、応仁二年正月廿八日室町殿連歌始に参加しているので、それまでには京に戻っている。心敬とは行き違いになった形で応仁三年三月二十四日に行助が死去するまで、再びまみえることはなかったのだろう。

 折から桜の季節で、この時期に行助が東国に下向し、東国にも連歌の種を撒いてくれることでしょうと、戦乱を避けての下向でもポジティブに捉える。

 「比やとき」はこの場合は「比や疾き」ではなく「比や時」であろう。光秀の「時は今」のような感覚か。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

 

   比やとき花にあづまの種も哉

 春にまかする風の長閑さ     行助

 (比やとき花にあづまの種も哉春にまかする風の長閑さ)

 

 心敬の送別句に対し、行助の返事になる。

 意味は「春を風に任せる長閑さ」で、あくまでも時節柄の風に任せての下向なので、そんな東に種を撒こうなんて大それたことは考えていません、という謙虚な返しだ。

 行助はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「1405-1469 室町時代の連歌師。

応永12年生まれ。もと山名氏の家臣。比叡山(ひえいざん)延暦(えんりゃく)寺の僧となり,法印にいたる。連歌を高山宗砌(そうぜい)にまなび,連歌七賢のひとり。宗祇(そうぎ)編「竹林抄」の7作者のひとりにもあげられる。応仁(おうにん)3年3月24日死去。65歳。通称は惣持坊。連歌句集に「行助句集」など。歌学書に「連歌口伝抄」。」

 

とある。心敬は一四〇六年生まれだからほぼ同世代。

 

季語は「春」で春。「長閑さ」も春。

 

第三

 

   春にまかする風の長閑さ

 雲遅く行く月の夜は朧にて    専順

 (雲遅く行く月の夜は朧にて春にまかする風の長閑さ)

 

 「風の長閑」から「雲遅く」を導き出し、朧月を出す。

 専順はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 

 「没年:文明8.3.20(1476.4.14)

生年:応永18(1411)

室町時代の連歌師。柳本坊,春楊坊とも号す。頂法寺(六角堂)の僧で法眼位にあった。華道家元池坊では26世とする(『池坊由来記』)。嘉吉・文安年間(1441~49)から活躍しはじめ,高山宗砌没後は連歌界の第一人者と目された。足利義政主催の連歌会に頻繁に参加し,飯尾宗祇を指導して大きな影響を与えてもいる。応仁の乱後は美濃国(岐阜県)に下り,守護代斎藤妙椿 の庇護を受けた。連歌は「濃体」と称される内容の深い円熟味のある句風で,連歌論書に『片端』,自選付句集に『専順五百句』がある。その死因はあきらかではなく,殺害されたともいわれる。」

 

とある。

 心敬、行助よりはやや後輩になる。応仁の乱後はちりぢりばらばらで、おそらく再びまみえることはなかったのだろう。

 

季語は「朧」で春。「雲」は聳物。「月の夜」は夜分、光物。

 

四句目

 

   雲遅く行く月の夜は朧にて

 帰るや雁の友したふらん     英仲

 (雲遅く行く月の夜は朧にて帰るや雁の友したふらん)

 

 朧月に帰る雁は付け合い。前句の「雲遅く行く」と「雁の帰る」を重ね合わせ、雁が雲を友として慕っているようだとする。

 

   わが心誰にかたらん秋の空

 荻に夕風雲に雁がね       心敬

 

 此秋は何で年よる雲に鳥     芭蕉

 

のように、雁と雲は友とされていた。

 「英仲」については不明。この時代だと資料も少なく、たどれない人も多い。当時としてはひとかどの人物で、連歌の実力も高く評価されていたから四句目を任されているのだろう。

 

季語は「帰るや雁」で春、鳥類。

 

五句目

 

   帰るや雁の友したふらん

 消えがての雪や船路の沖津波   元用

 (消えがての雪や船路の沖津波帰るや雁の友したふらん)

 

 「帰る雁」に自分の旅路を重ね合わせる。「船路の沖津波は消えがての雪や」の倒置で、遠くに見える浪の白さを消えてゆく雪に喩えている。

 元用は島津注に「浄土僧。寛正~文明頃の中堅作者。」とある。

 

季語は「消えがての雪」で春、降物。「船路の沖津波」は水辺の用。

 

六句目

 

   消えがての雪や船路の沖津波

 あらいそ寒み暮るる山陰     弘仲

 (消えがての雪や船路の沖津波あらいそ寒み暮るる山陰)

 

 前句の「消えがての雪」を比喩ではなく実景とし、山陰を付ける。

 弘仲の不明。ただ、句を見る限り英仲、元用、弘仲ともに京の連歌のレベルの高さが窺われる。

 

季語は「寒み」で冬。「あらいそ」は水辺の体。「山陰」は山類の体。

 

七句目

 

   あらいそ寒み暮るる山陰

 主しらぬ蘆火は松に木隠れて   宗祇

 (主しらぬ蘆火は松に木隠れてあらいそ寒み暮るる山陰)

 

 ここでようやく宗祇の登場で、当時の京での序列はこんなもんだったのだろう。当時四十六歳だが「四十五十は鼻垂れ小僧」の世界か。

 磯の寒さに誰のものとも知れぬ焚き火はありがたい。ただそれはまだ松林の向こうにある。古典によらぬ斬新な趣向と言えよう。

 

無季。「松」は植物、木類。

 

八句目

 

   主しらぬ蘆火は松に木隠れて

 人の声する村のはるけさ     量阿

 (主しらぬ蘆火は松に木隠れて人の声する村のはるけさ)

 

 水辺から離れ、木隠れの蘆火を村人の焚き火とする。

 量阿は島津注に「五条堀川踊道場、時宗」とある。

 

無季。「人」は人倫。「村」は居所の体。

初裏

九句目

 

   人の声する村のはるけさ

 朝ぎりや市場の方を隔つらん   清林

 (朝ぎりや市場の方を隔つらん人の声する村のはるけさ)

 

 村のはずれで市が立つが、朝市なので朝霧に包まれる。中世にありがちな光景なのだろう。

 清林は不明。

 

季語は「朝霧」で秋、聳物。

 

十句目

 

   朝ぎりや市場の方を隔つらん

 色こそ見えね秋はたちけり    宗怡

 (朝ぎりや市場の方を隔つらん色こそ見えね秋はたちけり)

 

 前句の「市場」を「立つ」で受ける受けてには。

 

 八重葎茂れる宿のさびしきに

     人こそ見えね秋は来にけり

              恵慶法師(拾遺集)

 

の下句に似ているが、これは言葉の続きが同じなだけで、『去来抄』

 

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな  凡兆

 樫の木の花にかまはぬ姿かな   芭蕉

 

の類似のようなものだ。

 

季語は「秋はたちけり」で秋。

 

十一句目

 

   色こそ見えね秋はたちけり

 竹の葉の音も身に入む風吹きて  紹永

 (竹の葉の音も身に入む風吹きて色こそ見えね秋はたちけり)

 

 「入む」は「しむ」と読む。

 「色こそ見えね」は「目にはさやかにみえねども」の連想を誘い、風の音につながる。

 松風はよくあるが、ここでは竹風にする。松風も身にしむが、竹の葉を吹く風も身にしむ。

 紹永はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 

 「?-? 室町時代の連歌師。

美濃(みの)(岐阜県)の人。寛正(かんしょう)4年(1463)の唐何百韻や文明4年(1472)の何路百韻,美濃千句,8年の表佐(おさ)千句などの会に出席。「新撰菟玖波(つくば)集」に10句がのっている。」

 

とある。専順がこのあと美濃に下るから、何らかの縁があるのか。あと紹の字は後に戦国末期に活躍する紹巴がいるが、何か関係があるのか、今のところ不明。

 

季語は「身に入む」で秋、人倫。「竹の葉」は植物で木類でも草類でもない。

 

十二句目

 

   竹の葉の音も身に入む風吹きて

 あくる扉に残る夜の月      士沅

 (竹の葉の音も身に入む風吹きてあくる扉に残る夜の月)

 

 第三からぎりぎり八句去りで月が登場する。「扉」は「とぼそ」と読む。竹林の七賢などの隠者のイメージだろう。

 士沅は島津注に「寛正頃、多く心敬と一座した連歌師」とある。

 

季語は「残る夜の月」で秋、夜分、光物。「扉」は居所の体。

 

十三句目

 

   あくる扉に残る夜の月

 別れては俤のみや頼ままし    能通

 (別れては俤のみや頼まましあくる扉に残る夜の月)

 

 前句を後朝(きぬぎぬ)として恋に転じる。

 能通は島津注に「底本『張通』。伝未詳。北野の連歌師か。」とある。

 

無季。恋。

 

十四句目

 

   別れては俤のみや頼ままし

 待てともいはぬ我が中ぞうき   慶俊

 (別れては俤のみや頼ままし待てともいはぬ我が中ぞうき)

 

 前句の別れを後朝ではなく、本当の別れとする。せめて「待って」とでも言ってくれれば。

 慶俊は島津注に、「文正頃心敬らと一座。」とある。

 

無季。恋。「我」は人倫。

 

十五句目

 

   待てともいはぬ我が中ぞうき

 旅に人暫しの程は語らひて    政泰

 (旅に人暫しの程は語らひて待てともいはぬ我が中ぞうき)

 

 相手は行きずりの旅人だった。「語らひ」は『源氏物語』では深い仲になる意味もある。

 政泰は未詳。

 

無季。恋。羇旅。「人」は人倫。

 

十六句目

 

   旅に人暫しの程は語らひて

 こゆるも末の遠き山道      与阿

 (旅に人暫しの程は語らひてこゆるも末の遠き山道)

 

 普通に羇旅の句とする。

 与阿は島津注に「長禄頃専順らと一座。」とある。名前からして時宗の僧であろう。

 

無季。羇旅。「山道」は山類の体。

 

十七句目

 

   こゆるも末の遠き山道

 鐘ひびく峰の松陰暮れ渡り    弘其

 (鐘ひびく峰の松陰暮れ渡りこゆるも末の遠き山道)

 

 越えるには遠すぎるということで、途中まで行って日が暮れたとする。この場合は入相の鐘。

 弘其も未詳。

 

無季。「峰」は山類の体。「松蔭」は植物、木類。

 

十八句目

 

   鐘ひびく峰の松陰暮れ渡り

 御法の跡を残す古寺       常広

 (鐘ひびく峰の松陰暮れ渡り御法の跡を残す古寺)

 

 「跡を」というから既に寂れてしまった山寺であろう。鐘の音は昔と変わらず、名残を留めている。

 常広も不明。これで連衆が一巡する。十八人、賑やかな連歌会だ。

 

無季。釈教。

 

十九句目

 

   御法の跡を残す古寺

 聞くのみを鹿のその世の行衛にて 心敬

 (聞くのみを鹿のその世の行衛にて御法の跡を残す古寺)

 

 「鹿の苑(その)」と「その世」を掛けている。「鹿の苑(鹿野苑)」はコトバンクの、「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「《〈梵〉Mṛgadāvaの訳》中インドの波羅奈国にあった林園。釈迦が悟りを開いてのち初めて説法し、五人の比丘(びく)を導いた所。現在のバラナシ北郊のサールナートにあたる。鹿苑。鹿(しか)の苑(その)。」

 

とある。苑の名前で鹿そのものではないので無季、非獣類。

 伝説に聞くだけの鹿野苑に始まった仏法の世に広まりその末に、この古寺にも仏法の跡をとどめている。

 

季語は「鹿」で秋、獣類。釈教。

 

二十句目

 

   聞くのみを鹿のその世の行衛にて

 月かたぶきて夢ぞ驚く      行助

 (聞くのみを鹿のその世の行衛にて月かたぶきて夢ぞ驚く)

 

 前句を鹿野苑から切り離し、鹿の声を聞くのみのその「夜」の行方に取り成す。

 夜の行方といえば夜明けで月も傾き、夢からハッと目覚めて驚く。鹿の行方に狩られる結末を思ったのだろう。殺生の罪を思い、一瞬にして悟る場面か。

 『去来抄』の、

 

 猪のねに行かたや明の月     去来

 

をも思わせる。

 ただ、この句を聞いて芭蕉は、

 

 明けぬとて野べより山へ入る鹿の

     跡吹きおくる萩の下風

              源左衛門督通光

 

を引き合いに出して、「和歌優美の上にさへ、かく迄かけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄なかるべし。」と評された。俳諧らしい江戸時代ならではのリアルな新味がないということだろう。

 

 明けぼのや白魚白きこと一寸   芭蕉

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 同

 

のような古典の殺生の罪を一瞬にして悟る心を、まったく新しい事象に置き換えるというのが芭蕉の俳諧だった。

 ただ中世の連歌にあって、そのような新味は特に求められていない。

 

   罪のむくいもさもあらばあれ

 月のこる狩場の雪の朝ぼらけ   救済

 

の名吟をも思い起こさせる。

 

季語は「月かたぶきて」で秋、夜分、光物。

 

二十一句目

 

   月かたぶきて夢ぞ驚く

 仮庵や枕の草の露おもみ     専順

 (仮庵や枕の草の露おもみ月かたぶきて夢ぞ驚く)

 

 仮庵は島津注に「仮に作った粗末な庵。秋の田を害獣から守るためなどに設けた。」とあり、

 

 秋田もるかり庵つくりわがをれば

     衣手寒し露ぞおきける

              よみ人しらず(新古今集)

 

の歌も引用しているとおりの仮庵であろう。

 狩人から百姓に転じ、仮庵の枕元にある草に露が降りて草がたわみ、やがて顔の上に滴ってきたのだろう。ハッと夢から覚めると月は傾いている。

 

季語は「露」で秋、降物。「仮庵」は居所の体。

 

二十二句目

 

   仮庵や枕の草の露おもみ

 さもうかるらん稲葉もる人    清林

 (仮庵や枕の草の露おもみさもうかるらん稲葉もる人)

 

 さて二順目に入って心敬、行助、専順のそれぞれの素晴らしい技を見た後で、ここからは出勝ちになる。

 仮庵で既に百姓に転じているところに「稲葉もる人」はやや発展性に欠けるが、三人の巨匠の句と比較しては可哀相だ。

 露の重さのように、稲葉もる人の憂きもさも重いことだろう、という付け筋はなかなかのものだ。

 

季語は「稲葉」で秋。「人」は人倫。

二表

二十三句目

 

   さもうかるらん稲葉もる人

 雲なびく遠の山本風寒えて    紹永

 (雲なびく遠の山本風寒えてさもうかるらん稲葉もる人)

 

 「うかるらん」に「山本風」は、

 

 うかりける人を初瀬の山おろしよ

     はげしかれとは祈らぬものを

              源俊頼朝臣(千載集)

 

の縁か。

 

季語は「風寒えて」で秋。「雲」は聳物。「遠の山本」は山類の体。

 

二十四句目

 

   雲なびく遠の山本風寒えて

 夕べにかはる冬の日の影     宗祇

 (雲なびく遠の山本風寒えて夕べにかはる冬の日の影)

 

 これは、

 

 見渡せば山もとかすむ水無瀬川

     夕べは秋となに思ひけむ

              後鳥羽院(新古今集)

 

であろう。春を冬に変え、弱々しい冬の日ざしが夕暮れてゆく様も秋に劣らず物悲しい。

 後の水無瀬三吟の発句、

 

 雪ながら山もと霞む夕べかな   宗祇

 

の前段階ともいえよう。

 

 秋もなを浅きは雪の夕べかな   心敬

 

もこのあと心敬が東国で詠むことになる。

 宗祇の句はこの頃は目立たなかったかもしれないが、何気に時代の先を行っている。「冬の日」の語は芭蕉七部集のタイトルの一つにもなる。

 

季語は「冬」で冬。「日の影」は光物。

 

二十五句目

 

   夕べにかはる冬の日の影

 猶急げ又や時雨れん野辺の道   元用

 (猶急げ又や時雨れん野辺の道夕べにかはる冬の日の影)

 

 冬の日が夕べになるとやってくるのは時雨。時雨が降る前に、野辺の道を急いで早く屋根のある所に行こう。

 

季語は「時雨」で冬、降物。

 

二十六句目

 

   猶急げ又や時雨れん野辺の道

 旅は袖ほすひまぞ稀なる     量阿

 (猶急げ又や時雨れん野辺の道旅は袖ほすひまぞ稀なる)

 

 時雨に濡れたくないのは、旅の途中は濡れた着物を干す隙がないからだ。

 

無季。羇旅。「袖」は衣裳。

 

二十七句目

 

   旅は袖ほすひまぞ稀なる

 待つたれもあらじ古郷恋しくて  士沅

 (待つたれもあらじ古郷恋しくて旅は袖ほすひまぞ稀なる)

 

 前句の「袖ほすひまぞ稀なる」を涙の乾く閑もないという比喩に取り成し、知っている人が誰もいなくなった故郷を思う句にする。

 悪い領主に堪えかねての村民の逃散や、戦乱により壊滅や、あるいは一族みんな粛清にあったか、いろいろな事情が想定できる。戦国の世ではありそうなことだ。

 

無季。羇旅。「たれ」は人倫。「古郷」は居所の体。

 

二十八句目

 

   待つたれもあらじ古郷恋しくて

 忘るるかたや夢は見ざらん    心敬

 (待つたれもあらじ古郷恋しくて忘るるかたや夢は見ざらん)

 

 前句の「待つたれもあらじ」を切り離して通ってくる人も誰もいなくなった女の家とする。

 私のことなど忘れてしまった人は「古郷恋しくて夢は見ざらん」と繋がる。

 いつしか男はこの里を出て行ってしまって、私のことなど忘れてしまったようだけど、故郷が恋しくなって夢に出てくることはないのかしら、となる。

 

無季。羇旅。恋。

 

二十九句目

 

   忘るるかたや夢は見ざらん

 よわりつつ来ぬ夜積れる物思ひ  宗怡

 (よわりつつ来ぬ夜積れる物思ひ忘るるかたや夢は見ざらん)

 

 忘れられてしまった女は身も心も衰弱してゆく。

 

無季。恋。「夜」は夜分。

 

三十句目

 

   よわりつつ来ぬ夜積れる物思ひ

 くだけし心末ぞみじかき     専順

 (よわりつつ来ぬ夜積れる物思ひくだけし心末ぞみじかき)

 

 「くだけし心」は英語だとbroken heartになるが、単なる失恋というよりは心神衰弱のような深い傷を言う。医療水準の低い社会では、精神的なダメージが心因性の病気を引き起こし、死に直結することもある。

 

無季。恋。

 

三十一句目

 

   くだけし心末ぞみじかき

 かる跡にむらむら残る草の露   与阿

 (かる跡にむらむら残る草の露くだけし心末ぞみじかき)

 

 これは「くだけし」を導き出す序詞のような上句で、露のくだけるように、砕けた心にもう末も長くないと繋がる。技法としては掛けてにはになる。

 「刈る跡」が「みじかき」に呼応するあたりは芸が細かい。

 

季語は「露」で秋、降物。「草」は植物、草類。

 

三十二句目

 

   かる跡にむらむら残る草の露

 袂をはらふ秋の追風       英仲

 (かる跡にむらむら残る草の露袂をはらふ秋の追風)

 

 袂に着いた草の露は秋風が払ってゆく。

 

季語は「秋」で秋。「袂」は衣裳。

 

三十三句目

 

   袂をはらふ秋の追風

 船人の波なき月に今朝出でて   慶俊

 (船人の波なき月に今朝出でて袂をはらふ秋の追風)

 

 前句の「追風」を帆船の追風とする。波もなく風は追風で船出には絶好の朝だ。

 

季語は「月」で秋、夜分、光物。「船人」は水辺の用、人倫。「波」は水辺の用。

 

三十四句目

 

   船人の波なき月に今朝出でて

 塩干を見れば山ぞ流るる     心敬

 (船人の波なき月に今朝出でて塩干を見れば山ぞ流るる)

 

 波のない干潟には山がくっきりと映っていて、船が進めばその山が流れて行く。

 

無季。「塩干」は水辺の体。「山」は山類の体。

 

三十五句目

 

   塩干を見れば山ぞ流るる

 木々の葉や入江の水に浮ぶらん  弘仲

 (木々の葉や入江の水に浮ぶらん塩干を見れば山ぞ流るる)

 

 山の木々が水に映っていて、それが流れて行くとなると、あたかも木の葉が浮かんで流れているかのようだ。

 

無季。「木々」は植物、木類。「入江」は水辺の体。

 

三十六句目

 

   木々の葉や入江の水に浮ぶらん

 なににも色の冬浅き陰      能通

 (木々の葉や入江の水に浮ぶらんなににも色の冬浅き陰)

 

 「なににも色の浅き陰」に冬を放り込んだ形。「冬のなににも色の浅き陰」の倒置と見てもいい。

 疑問の「らん」を反語に取り成すのはお約束ということで、「赤や黄色に染まった落ち葉すら落ちていない、色の浅き陰」とつながる。

 

季語は「冬浅き」で冬。

二裏

三十七句目

 

   なににも色の冬浅き陰

 春は猶頭に雪の積り来て     行助

 (春は猶頭に雪の積り来てなににも色の冬浅き陰)

 

 頭に雪が積もると白髪頭のように見える。「なににも」はここでは「なんとも」というような意味か。春だというのにもう人生冬が来たみたいだ。

 

季語は「春」で春。「雪」は似せ物の雪。

 

三十八句目

 

   春は猶頭に雪の積り来て

 日はてりながら光り霞める    紹永

 (春は猶頭に雪の積り来て日はてりながら光り霞める)

 

 島津注は、

 

   二条のきさきの東宮の御息所と聞こえける時、

   正月三日おまへにめして仰せ言ある間に、

   日は照りながら雪のかしらに降りかかりけるを

   よませ給ひける

 春の日の光に当たる我なれど

     かしらの雪となるぞわびしき

              文屋康秀(古今集)

 

によるとする。「光り霞める」とすることで春の句にする。

 

季語は「霞める」で春、聳物。「日」は光物。

 

三十九句目

 

   日はてりながら光り霞める

 深草や下萌え初めてけぶる野に  宗祇

 (深草や下萌え初めてけぶる野に日はてりながら光り霞める)

 

 「深草」は島津注に、「京都市伏見区。東山連峰の南端、稲荷山の麓にある歌枕。草深い野の意を掛ける。」とある。

 

 夕されば野辺の秋風身にしみて

     鶉鳴くなり深草の里

              藤原俊成(千載和歌集)

 

などの歌に詠まれている。

 『伊勢物語』一二三段には、

 

 「むかし、男ありけり。深草に住みける女を、やうやう飽き方にや思ひけむ、かかる歌をよみけり。

 

 年を経て住み来し里をいでていなば

     いとど深草野とやなりなむ

 

 女、返し、

 

 野とならば鶉となりて鳴きをらむ

     狩にだにやは君は来ざらむ

 

とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。」

 

とある。

 伏見稲荷大社の周辺で、今でも「深草」のつく地名が見られ、龍谷大前深草駅がある。

 その深草の地名に掛けて、春の草の下萌えをさらに「燃え」に掛けて野焼きとし「けぶる野に」を導き出す。前句の「光り霞める」を煙に霞むとする。

 

季語は「下萌え」で春、植物、草類。

 

四十句目

 

   深草や下萌え初めてけぶる野に

 うつせみの世を忍ぶはかなさ   専順

 (深草や下萌え初めてけぶる野にうつせみの世を忍ぶはかなさ)

 

 野のけぶりは火葬の煙の連想を誘い、哀傷に展開する。

 蝉の抜け殻のように肉体だけを残し魂の去っていった人の命のはかなさを偲び、今その肉体も火葬にされ、野の煙となって立ち上る。

 

無季。哀傷。

 

四十一句目

 

   うつせみの世を忍ぶはかなさ

 かくのみに恋しなば身の名や立たむ 心敬

 (かくのみに恋しなば身の名や立たむうつせみの世を忍ぶはかなさ)

 

 「忍ぶ」を故人を偲ぶのではなく忍ぶ恋とする。

 このまま恋に死んでしまったなら、浮名を残すことになってしまうでしょう、こうやって心を隠し忍ばねばならないのは空しい。

 

無季。恋。「身」は人倫。

 

四十二句目

 

   かくのみに恋しなば身の名や立たむ

 みよや涙の袖のくれなゐ     量阿

 (かくのみに恋しなば身の名や立たむみよや涙の袖のくれなゐ)

 

 深い悲しみに血の涙を流すというのは、実際は血を流すほどそれくらい悲しいという比喩だが、

 

 見せばやな雄島のあまの袖だにも

     濡れにぞ濡れし色はかはらず

              殷富門院大輔(千載集)

 

のように和歌に詠まれている。

 ここでもはっきりと血の涙とは言ってないが、「袖のくれなゐ」でそれを表わしている。

 恋に死にそうなくらい苦しんでいるから、血の涙に袖も赤く染まる。

 

無季。恋。「袖」は衣裳。

 

四十三句目

 

   みよや涙の袖のくれなゐ

 等閑に思ひし色ははじめにて   士沅

 (等閑に思ひし色ははじめにてみよや涙の袖のくれなゐ)

 

 「等閑」は「なおざり」。本気ではないということ。

 たわむれの恋でも今は血の涙を流すほど打ちのめされている。ビートルズの「イエスタデイ」の一節が浮かんできそうな句だ。

 

無季。恋。

 

四十四句目

 

   等閑に思ひし色ははじめにて

 住みあかれめや秋の山里     宗怡

 (等閑に思ひし色ははじめにて住みあかれめや秋の山里)

 

 いい加減なつもりだったのは最初だけで、を恋ではなく山里での暮らしとする。いつの間にか山里での暮らしにはまってしまう。

 

季語は「秋」で秋。「山里」は山類の体、居所の体。

 

四十五句目

 

   住みあかれめや秋の山里

 宇治川や暁月の白き夜に     元用

 (宇治川や暁月の白き夜に住みあかれめや秋の山里)

 

 宇治川は琵琶湖に発し山の中を通って宇治へと流れる。平等院のある辺りでは西側に平野が開け暁の月がきれいに見える。

 喜撰法師がここに住み、

 

 我がいほは宮このたつみしかぞすむ

     世を宇治山と人はいふなり

              喜撰法師(古今集)

 

の歌でも有名になった。

 

季語は「暁月」で秋、夜分、光物。「宇治川」は水辺の体。「夜」は夜分。

 

四十六句目

 

   宇治川や暁月の白き夜に

 こゑすさまじき水の水上     与阿

 (宇治川や暁月の白き夜にこゑすさまじき水の水上)

 

 『源氏物語』の「浮舟」であろう。

 

 「暮れて月いと明かし。 有明の空を思ひ出づる、涙のいと止めがたきは、いとけしからぬ心かなと思ふ。母君、昔物語などして、 あなたの尼君呼び出でて、 故姫君の御ありさま、心深くおはして、さるべきことも思し入れたりしほどに、目に見す見す消え入りたまひにしことなど語る。」

 

と浮舟は母君や尼君の話を聞いているうちに、

 

 「など、言ひ交はすことどもに、 いとど心肝もつぶれぬ。 なほ、わが身を失ひてばや。つひに聞きにくきことは出で来なむと思ひ続くるに、この水の音の恐ろしげに響きて行くを」

 

と宇治川の水音に入水を思うことになる。

 

季語は「すさまじ」で秋。「水の水上」は水辺の体。

 

四十七句目

 

   こゑすさまじき水の水上

 霧り渡る田面の末に鴫立ちて   専順

 (霧り渡る田面の末に鴫立ちてこゑすさまじき水の水上)

 

 前句の「こゑ」を鴫の声とする。

 

 明ぬとて沢立つ鴫の一声は

     羽かくよりも哀なりけり

              藤原家隆 

 

の歌もある。

 霧で良く見えない田の遠いところから鴫の声が聞こえてくる。美しいというよりは荒んだ、寒々しい声だ。

 

季語は「霧」で秋、聳物。「鴫」は鳥類、水辺の用。

 

四十八句目

 

   霧り渡る田面の末に鴫立ちて

 今折からの哀をぞ知る      清林

 (霧り渡る田面の末に鴫立ちて今折からの哀をぞ知る)

 

 鴫といえば、

 

 心なき身にもあはれは知られけり

     鴫立つ沢の秋の夕暮れ

              西行法師(新古今集)

 

で、田面の末の霧の中に立つ鴫を見て、心なき身も今折から哀れを知ることになる。

 

無季。

 

四十九句目

 

   今折からの哀をぞ知る

 侘びぬれば冬も衣はかへがたし  行助

 (侘びぬれば冬も衣はかへがたし今折からの哀をぞ知る)

 

 落ちぶれ果てた身には冬でも衣を変えることができずに寒い思いをしている。前句の「哀」を貧困の哀れとする。

 

季語は「冬」で冬。「衣」は衣裳。

 

五十句目

 

   侘びぬれば冬も衣はかへがたし

 かたびら雪は我が袖の色     心敬

 (侘びぬれば冬も衣はかへがたしかたびら雪は我が袖の色)

 

 「かたびら雪」は薄く積もった雪の意味と一片の薄くて大きな雪という二つの意味がある。帷子が夏用の薄い一重の着物で、その帷子のような雪ということで、その二つの連想が生じたのだろう。

 ここでは帷子に付着する一片の薄くて大きな雪という意味か。雪が降っているのに帷子を着てたのでは凍死しそうだが。

 

 霰まじる帷子雪は小紋かな    宗房

 

は芭蕉の若い頃の句だが、発想が似ている。

 

季語は「雪」で冬、降物。「我」は人倫。「袖」は衣裳。

三表

五十一句目

 

   かたびら雪は我が袖の色

 ならす手の扇に風を猶待ちて   宗祇

 (ならす手の扇に風を猶待ちてかたびら雪は我が袖の色)

 

 前句の「かたびら雪」を雪のように白い帷子の袖として夏に転じる。

 「ならす」は慣れること。すっかり手馴れた手つきで扇をあおぎ、白い涼しげな帷子を来て、さらに涼しい秋風が吹いてくるのを待つ。

 島津注は、

 

 手もたゆくならす扇のおき所

     忘るばかりに秋風ぞ吹く

              相模(新古今集)

 

の歌を引いている。

 

季語は「扇」で夏。

 

五十二句目

 

   ならす手の扇に風を猶待ちて

 みどりに近く向ふ松陰      量阿

 (ならす手の扇に風を猶待ちてみどりに近く向ふ松陰)

 

 馬に乗って移動している人だろうか。扇でぱたぱたあおぎながら松陰で涼もうとする。

 

無季。「松陰」は植物、木類。

 

五十三句目

 

   みどりに近く向ふ松陰

 散る花の水に片よる岩隠     専順

 (散る花の水に片よる岩隠みどりに近く向ふ松陰)

 

 前句の「みどりに近く向ふ」を松の方に向かうというだけでなく、花が散って新緑の季節に向かうと二重の意味を持たせる。

 散った花は水に落ち、やがて岩隠の方に流されてゆく。岩に松は付き物。

 

季語は「散る花」で春、植物、木類。

 

五十四句目

 

   散る花の水に片よる岩隠

 さざ波立ちて蛙なくなり     行助

 (散る花の水に片よる岩隠さざ波立ちて蛙なくなり)

 

 散る花の水に片よりいわゆる花筏になったっ所にさざなみが立てば、蛙が飛び込んだことが知られる。ただ、当時の和歌・連歌の感覚では蛙の水音ではなく、あくまで蛙の鳴き声を付ける。

 芭蕉の古池の句まであと少しといった句だ。

 

季語は「蛙」で春、水辺の用。「さざ波」も水辺の用。

 

五十五句目

 

   さざ波立ちて蛙なくなり

 小田返す人は稀なる比なれや   弘其

 (小田返す人は稀なる比なれやさざ波立ちて蛙なくなり)

 

 そろそろ田植えの準備も整い、いまさら田んぼを耕す人もいない頃、水の張った田んぼに蛙が飛び込み鳴き声が聞こえる。

 

季語は「小田返す」で春。「人」は人倫。

 

五十六句目

 

   小田返す人は稀なる比なれや

 暮るる夜さびし岡野辺の里    慶俊

 (小田返す人は稀なる比なれや暮るる夜さびし岡野辺の里)

 

 前句の「人は稀なる比」を夕暮れとする。

 

無季。「夜」は夜分。「里」は居所の体。

 

五十七句目

 

   暮るる夜さびし岡野辺の里

 月遠き片山おろし音はして    宗怡

 (月遠き片山おろし音はして暮るる夜さびし岡野辺の里)

 

 島津注は、

 

 をかの辺の里のあるじを尋ぬれば

     人は答へず山颪のかぜ

              慈円(新古今集)

 

を引いている。

 前句の「さびし」から月の出も遅く、片山おろしの音だけがする、と付ける。

 

季語は「月」で秋、夜分、光物。

 

五十八句目

 

   月遠き片山おろし音はして

 まつにつけても秋ぞ物うき    紹永

 (月遠き片山おろし音はしてまつにつけても秋ぞ物うき)

 

 「月遠し(月の出の遅い)」から「まつ(待つ)」を付け、「片山おろし」に「物うき」と四手に付ける。待つを松に掛けた展開を期待する。

 

季語は「秋」で秋。「まつ」は植物、木類。

 

五十九句目

 

   まつにつけても秋ぞ物うき

 玉章の露の言の葉いたづらに   士沅

 (玉章の露の言の葉いたづらにまつにつけても秋ぞ物うき)

 

 「待つ」と来れば恋に展開したいところだが、「松」と掛けなければという、かえって制約を課すことになってしまったか。

 松に露と葉を付け、「玉章(たまづさ)」つまり手紙の露のようにはかない言の葉とする。

 

季語は「露」で秋、降物。恋。

 

六十句目

 

   玉章の露の言の葉いたづらに

 おくる日数をいつか語らん    弘仲

 (玉章の露の言の葉いたづらにおくる日数をいつか語らん)

 

 手紙のわずかな取り繕った言葉も空しいばかりで、こうして過ぎてゆく日々を帰ってきたときには伝えたいものだが、果してその日は来るのだろうか。

 

無季。恋。

 

六十一句目

 

   おくる日数をいつか語らん

 有増の忘れ安きを驚きて     行助

 (有増の忘れ安きを驚きておくる日数をいつか語らん)

 

 「有増(あらまし)」はこうあって欲しい、こうしたい、ということで今日の夢に近い。

 ここでは「いつか語らん」がそのあらましだが、「語る」には「結ばれる」の意味もある。

 いつか君のところへ行かねばと思いつつも、仕事の忙しさに忘れてしまったか、これではいけない、いつか遅くなった言い訳とともに君のところに行かなくては、とする。

 

無季。述懐。

 

六十二句目

 

   有増の忘れ安きを驚きて

 心のみちにいづる世の中     政泰

 (有増の忘れ安きを驚きて心のみちにいづる世の中)

 

 「あらまし」は出家への思いとしてもよく用いられるので、この展開はお約束ともいえよう。「心の道」は当然ながら仏道のこと。また忘れないうちに、思い出した今出家しよう。

 

無季。釈教。

 

六十三句目

 

   心のみちにいづる世の中

 賢きも君にひかるる山の奥    心敬

 (賢きも君にひかるる山の奥心のみちにいづる世の中)

 

 前句の「心のみち」を君子の王道とし、「いづる世の中」を世の中に出る、つまり出家ではなく出世とする。

 中国では皇帝が王道を逸脱し国が乱れると忠臣は山に籠り隠士となる。そこに再び王道を復活させる名君が現れると、隠士たちは山を降りて再び仕官することを願う。

 

無季。「君」は人倫。「山の奥」は山類の体。

 

六十四句目

 

   賢きも君にひかるる山の奥

 子日の松の幾とせか経ん     元用

 (賢きも君にひかるる山の奥子日の松の幾とせか経ん)

 

 前句の「君」を「君が代」とする。この時代には特定の天皇ではなく、『神皇正統記』などの影響で既に皇統一般を指していたと思われる。

 「子日(ねのひ)の松」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「子の日の遊びに引く小松。

 「ひきて見る―は程なきをいかで籠れる千代にかあるらむ」〈拾遺・雑春〉」

 

とある。正月の最初の子の日で小松を引いて新年を祝う儀式は、門松の原型ともいえる。松になぞらえて長寿を祝う。

 引用されている歌は、

 

 ひきて見る子の日の松は程なきを

     いかで籠れる千代にかあるらむ

              恵慶法師(拾遺集)

 

で、島津注は、

 

 ゆくすゑも子の日の松のためしには

     君がちとせをひかむとぞ思ふ

              藤原頼忠(拾遺集)

 

の歌を引いている。

 山の奥に隠棲する賢者も皇統の道の絶えぬことを祈り、子の日の松を引く。

 それはこの後東に下り品川で、

 

   身を安くかくし置くべき方もなし

 治れとのみいのる君が代     心敬

 

と詠んだその心境を予言するものだったかもしれない。

 

季語は「子日」で春。「松」は植物、木類。

三裏

六十五句目

 

   子日の松の幾とせか経ん

 春の野をうづむ笆の陰遠く    専順

 (春の野をうづむ笆の陰遠く子日の松の幾とせか経ん)

 

 「笆」は「まがき」と読むようだが、漢字ペディアによると、

 

 「①いばらだけ。とげのあるタケ。 ②たけがき。いばらだけで作ったかきね。「笆籬(ハリ)」

 

とある。ならそのイバラダケって何だということになる。そのような名前の植物はないようだ。

 島津注は「霞のまがき」だというが、霞みはたなびくもので「春の野をうづむ」ものではないように思う。この場合は籬に用いられるような笹で野が埋まっているということではないかと思う。

 子の日の松を松林に取りに行くと、遠景に笹や篠の野が見える、ということだろう。

 宋の時代の中国絵画で歳寒三友という松竹梅の画題があり、その影響もあったのだろう。これが松竹梅として一般庶民に広まるのは江戸時代だという。

 

季語は「春」で春。「笆」は植物、木類でも草類でもない。

 

六十六句目

 

   春の野をうづむ笆の陰遠く

 末はかすめる庭のやり水     与阿

 (春の野をうづむ笆の陰遠く末はかすめる庭のやり水)

 

 ここで前句の「笆(まがき)」は霞の籬に取り成されるのだと思う。

 「霞の籬」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「たちこめた霞を籬にたとえていう。《季・春》

  ※夫木(1310頃)二「谷の戸のかすみの笆あれまくに心して吹け山の夕風〈藤原為家〉」

 

とある。

 庭のやり水は池泉庭園に流す人工の川で、室町時代には砂で代用する枯山水が増えたとはいえ、池泉庭園も普通に作られていたのだろう。

 借景となってた野に霞が掛かると、そのまま霞の籬になる。

 

季語は「かすめる」で春、聳物。「庭」は居所の用。

 

六十七句目

 

   末はかすめる庭のやり水

 月細く有明がたに流れきて    心敬

 (月細く有明がたに流れきて末はかすめる庭のやり水)

 

 「月が流れる」というのは、『源氏物語』朝顔巻の、

 

 氷とぢ岩間の水は行き悩み

     空澄む月の影ぞ流るる

 

の歌に詠まれている。庭の遣り水は凍って流れないが、月はお構いなしに西に流れていく、という歌だ。

 ただ、ここでは下弦過ぎた細い月(末の三日月)の東から昇る様で、夜も明けて庭の遣り水の向こうの霞んだ景色が見えてくる。

 

季語は「月細く」で秋、夜分、光物。

 

六十八句目

 

   月細く有明がたに流れきて

 夜寒になりぬ秋の初風      士沅

 (月細く有明がたに流れきて夜寒になりぬ秋の初風)

 

 有明がたといえばやはり気温も下がり、肌寒くなる。旧暦七月の二十六日過ぎであろう。

 

季語は「秋」で秋。「夜寒」も秋、夜分。

 

六十九句目

 

   夜寒になりぬ秋の初風

 衣うつ音を聞くさへ目もあはで  清林

 (衣うつ音を聞くさへ目もあはで夜寒になりぬ秋の初風)

 

 「目もあはで」は眠れないということ。瞼が閉じないということ。

 夜寒になる頃には衣うつ音が物寂しく、長い夜なのになかなか寝付けない。

 

季語は「衣うつ」で秋。

 

七十句目

 

   衣うつ音を聞くさへ目もあはで

 人を待乳の山の名もうし     行助

 (衣うつ音を聞くさへ目もあはで人を待乳の山の名もうし)

 

 待乳山(まつちやま)というと浅草の待乳山聖天(しょうでん)が浮かぶ。ただ、万葉集などに詠まれた「待乳の山」がどこにあったかについては大和、紀州など諸説ある。

 前句の「目もあはで」から愛しい人を待って眠れないと恋に展開し、待つを待乳の山に掛ける。

 

無季。恋。「人」は人倫。「待乳の山」は山類。

 

七十一句目

 

   人を待乳の山の名もうし

 時鳥かたらひ捨てし後の暮    量阿

 (時鳥かたらひ捨てし後の暮人を待乳の山の名もうし)

 

 さあ、また「かたらひ」が出てきて、恋ではあの意味になる。

 まあ、今で言えば渡部建か。時鳥の一声のようにささっと済ませて去ってったのだろう。そんなんで夕暮れになってまた待っているのは嫌なものだ。

 まつち山と時鳥の縁は、島津注が、

 

 来ぬ人をまつちの山の時鳥

     同じ心に音こそ泣かれる

              よみ人知らず(拾遺集)

 

を引いている。

 

季語は「時鳥」で夏、鳥類。恋。

 

七十二句目

 

   時鳥かたらひ捨てし後の暮

 きのふもけふも神祭る頃     元用

 (時鳥かたらひ捨てし後の暮きのふもけふも神祭る頃)

 

 「神祭(かみまつ)る」は元は「かむまつる」で、「う」と乙類の「お」は交替するので、「かもまつる」にもなったのだろう。ここでいう「神祭」は「加茂祭」のこと。

 加茂祭は上賀茂神社と下鴨神社の祭礼で、卯月に何日もかけて行われた。特に競馬(くらべうま)は人気だった。

 文亀二年(一五〇二)以降しばらく途絶え、元禄七年(一六九四)に復活した時には貞門の俳諧師北村季吟の進言もあって『源氏物語』の斎王の行列が再現され、葵祭と呼ばれるようになった。

 ホトトギスのなく頃はちょうど賀茂祭の頃でもある。

 

季語は「神祭る」で夏。神祇。

 

七十三句目

 

   きのふもけふも神祭る頃

 かたぶける日はさるとりの時過ぎて 宗怡

 (かたぶける日はさるとりの時過ぎてきのふもけふも神祭る頃)

 

 賀茂祭は明治の旧暦行事の禁止によって新暦の五月十五日とその前の何日かに行われるが、本来は卯月の酉の日まで行われた。

 前句の「きのふもけふも」が申の日、酉の日になり、その最後の酉の日も申の刻を過ぎて酉の刻となると日没となり、祭は終了する。

 

無季。「日」は光物。

 

七十四句目

 

   かたぶける日はさるとりの時過ぎて

 うつるひかりの影をしめ只    英仲

 (かたぶける日はさるとりの時過ぎてうつるひかりの影をしめ只)

 

 島津注は日想観を詠んだものだとする。日想観はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、

 

 「〘仏〙 西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法。極楽浄土を見る修行の一部で、観無量寿経に記される。日想。」

 

とある。「をしめ」という命令形が確かに説教を思わせる。

 

無季。釈教。

 

七十五句目

 

   うつるひかりの影をしめ只

 老い果てば無きが如くと思ふ身に 宗祇

 (老い果てば無きが如くと思ふ身にうつるひかりの影をしめ只)

 

 これより三十三年後になるが、『宗祇独吟何人百韻』の挙句に、

 

   雲風も見はてぬ夢と覚むる夜に

 わが影なれや更くる灯      宗祇

 

の句がある。文字通り老い果てた宗祇法師の句だが、灯の光の影に対して、人生をしみじみと振り返っている。

 自分の影と対すというのは李白の『月下独酌』の、

 

 舉杯邀明月 對影成三人

 

の句から来ていると思われる。ここでは月と自分と自分の影の三人ということになっている。

 前句の「をしめ」を「惜しめ」から「愛しめ」に取り成した句だということは島津注も指摘している。

 老い果てて、自分を知る人も世を去って、友もなく有るか無しか境遇になったなら、自分の影と対座してそれだけを頼りに過ごせということなのだろう。

 この句の着想はずっと宗祇法師の心に残ってたのだろうか。宗祇法師の遺訓とも言われる独吟百韻の最後もこの趣向で締めくくることとなる。

 

無季。述懐。「身」は人倫。

 

七十六句目

 

   老い果てば無きが如くと思ふ身に

 有りて命の何をまつらん     専順

 (老い果てば無きが如くと思ふ身に有りて命の何をまつらん)

 

 「命」は「いのち」と読むが「拠り所」の意味もある。「応仁二年冬心敬等何人百韻」四十九句目の、

 

   わすれぬ物を人や忘れん

 かはらじのその一筆を命にて   心敬

 

の用法だ。

 島津注は「命の有りて何をまつらん」の倒置と取るが、「有りて何の命をまつらん」の倒置とも取れる。これだと出世の欲を捨てるという意味になる。生きて一体何を当てにして待てというのか、となる。

 

無季。述懐。

 

七十七句目

 

   有りて命の何をまつらん

 ひまもなき心の程はしる袖に   紹永

 (ひまもなき心の程はしる袖に有りて命の何をまつらん)

 

 「ひまもなき心」は島津注にもあるとおり、

 

 秋の夜は月にこころのひまぞなき

     いづるをまつといるををしむと

              源頼綱朝臣(詞花集)

 

の用例がある。心の休まる時がない、悩ましくてしょうがない、という意味。

 悩ましくて他のことも手につかない今の心を知っている涙に濡れた袖に、一体何の拠り所を待てというのか、となる。

 

無季。恋。「袖」は衣裳。

 

七十八句目

 

   ひまもなき心の程はしる袖に

 ひとり枕にあかす夜な夜な    慶俊

 (ひまもなき心の程はしる袖にひとり枕にあかす夜な夜な)

 

 ひとり枕で片思いとする。

 

無季。恋。「夜な夜な」は夜分。

名残表

七十九句目

 

   ひとり枕にあかす夜な夜な

 虫の音や恨むる色をさそふらん  能通

 (虫の音や恨むる色をさそふらんひとり枕にあかす夜な夜な)

 

 「ひとり枕」を別れた後とする。過去のことは忘れたと思っても、虫の音にいろいろ思い出すこともあるのか、過去の恨みを思い出す。

 

季語は「虫の音」で秋、虫類。恋。

 

八十句目

 

   虫の音や恨むる色をさそふらん

 常より秋のつらき故郷      与阿

 (虫の音や恨むる色をさそふらん常より秋のつらき故郷)

 

 恋から離れ、都を離れて帰郷した人とする。都会ではあまり聞けない虫の音も、故郷ではうるさいくらい聞こえ、都落ちした恨みを思い出す。今年の秋はいつもの秋よりも辛くなりそうだ。

 

季語は「秋」で秋。「故郷」は居所の体。

 

八十一句目

 

   常より秋のつらき故郷

 陰寂し暴風の風のそなれ松    行助

 (陰寂し暴風の風のそなれ松常より秋のつらき故郷)

 

 「暴風」は「のわき」と読む。「そなれ松」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 海の強い潮風のために枝や幹が低くなびき傾いて生えている松。いそなれまつ。そなれ。

  ※古今六帖(976‐987頃)六「風ふけば波こすいそのそなれまつ根にあらはれてなきぬべら也〈柿本人麻呂〉」

  ② 植物「はいびゃくしん(這柏槇)」の異名。」

 

とある。①の意味であろう。

 ここでは海辺の故郷となり、いつもの秋よりも辛いのは台風のせいだとする。

 

季語は「暴風」で秋。「そなれ松」は植物、木類。

 

八十二句目

 

   陰寂し暴風の風のそなれ松

 思はず月にきさ山の暮      量阿

 (陰寂し暴風の風のそなれ松思はず月にきさ山の暮)

 

 「きさ山」は吉野にある。「象山」という字を当てる。

 暴風の磯のそなれ松に、月の吉野の象山はいわゆる相対付けであろう。江戸時代の俳諧では「向え付け」という。

 きさ山は「月に来し」に掛けて「月にきさ山」で、大阪の高師浜の方から吉野にやってきたか。

 

季語は「月」で秋、夜分、光物。「きさ山」は山類の体。

 

八十三句目

 

   思はず月にきさ山の暮

 袖寒く渡る小川に雨晴れて    心敬

 (袖寒く渡る小川に雨晴れて思はず月にきさ山の暮)

 

 吉野の青根ヶ峰から流れ出た水は象山の麓を通り、この川は古来象(きさ)の小川と呼ばれていた。今は喜佐谷川という名前になっている。宮滝で吉野川にそそぐ。

 前句の「思はず月に」を思いがけなく雨も晴れて月が見えるとする。「きさ山」に「小川」が付く。秋の夕暮れは袖も寒い。

 

季語は「袖寒く」で秋、衣裳。「小川」は水辺の体。「雨」は降物。

 

八十四句目

 

   袖寒く渡る小川に雨晴れて

 遠方人に千鳥立つ声       慶俊

 (袖寒く渡る小川に雨晴れて遠方人に千鳥立つ声)

 

 海辺の景色に転じる。

 「遠方人(おちかたびと)」は遠くにいる人という意味だけでなく旅人という意味もある。

 

季語は「千鳥」で冬、鳥類、水辺の用。「遠方人」は人倫。

 

八十五句目

 

   遠方人に千鳥立つ声

 誰かまつ妹があたりを尋ぬらん  専順

 (誰かまつ妹があたりを尋ぬらん遠方人に千鳥立つ声)

 

 島津注は、

 

 思ひかねいもがりゆけば冬の夜の

     川風さむみ千鳥なくなり

              紀貫之(拾遺集)

 

を引いている。

 ただここでは旅人(遠方人)と「誰かまつ妹(誰待つかの倒置)」という面識のない二人の出会いとなる。在原行平と松風・村雨の姉妹との出会いの場面も念頭にあるのか。

 

無季。恋。「誰」「妹」は人倫。

 

八十六句目

 

   誰かまつ妹があたりを尋ぬらん

 契りし頃よ更けはつる空     宗怡

 (誰かまつ妹があたりを尋ぬらん契りし頃よ更けはつる空)

 

 誰か待つ妹を訪ね、夜更けには契ることになる。

 

無季。恋。「更けはつる」は夜分。

 

八十七句目

 

   契りし頃よ更けはつる空

 うたたねの夢を頼めば鐘なりて  士沅

 (うたたねの夢を頼めば鐘なりて契りし頃よ更けはつる空)

 

 これは巫山の夢であろう。目覚めた時に夜明けの鐘がなる所で現実に引き戻される。

 「巫山之夢」は「四字熟語辞典ONLINE」に、

 

 「男女の交わり、情交のたとえ。

「巫山」は中国の四川省と湖北省の間にある、女神が住んでいたとされる山のこと。

中国の戦国時代の楚の懐王が昼寝をした際、夢の中で巫山の女神と情交を結んだ。別れ際に女神が「朝には雲となって、夕方には雨となってここに参ります」と言ったという故事から。

 出典 『文選』宋玉「高唐腑」

 

とある。

 

無季。恋。

 

八十八句目

 

   うたたねの夢を頼めば鐘なりて

 落つる涙にうかぶ手枕      弘其

 (うたたねの夢を頼めば鐘なりて落つる涙にうかぶ手枕)

 

 夢に頼むというと、

 

 うたた寝に恋しき人を見てしより

     夢てふものは頼みそめてき

              小野小町(古今集)

 

 夢に出てきてくれると嬉しいけど、目覚めれば悲しい現実に引き戻される。

 「涙にうかぶ手枕」は島津注によれば『源氏物語』須磨巻の「なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。(涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。)」に拠るという。

 

無季。恋。

 

八十九句目

 

   落つる涙にうかぶ手枕

 昔思ふ袖にかほれる梅の花    心敬

 (昔思ふ袖にかほれる梅の花落つる涙にうかぶ手枕)

 

 「昔思ふ袖の香ほれる」は、

 

 五月待つ花橘の香をかげば

     昔の人の袖の香ぞする 

              よみ人知らず(古今集)

 

で、この時代の連歌はそれほどマイナーな本歌を引いてくる必要はない。誰もが楽しめるように、誰もが知ってる歌を使うのが良しとされていたからだ。ただ、時代が下ると、それに飽き足らぬ作者がやたら難解な出典を好むようになり、連歌がオタク化してしまうことになる。

 島津注は、

 

 昔思ふさ夜のねざめの床さえて

     涙も氷る袖の上かな

              守覚法親王(新古今集)

 

を引くが、「袖」に「涙」を読んだ歌は無数にあり、それこそ付き物だ。

 花橘を梅の花に変えることで、『伊勢物語』の「月やあらぬ」の歌で有名な四段の、

 

 「またの年の正月に、梅の花盛りに、去年を恋ひて、行きて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月の傾くまで伏せりて、去年を思ひ出でて詠める。」

 

の一節を思い起こさせる。

 こういう出典のわかりやすさへのこだわりも心敬さんならではのものだ。連歌はオタク文化ではなく、あくまでポップでなくてはならなかった。

 芭蕉の時代も其角などは難解な出典でオタク化の道を歩んだが、芭蕉はポップに留まろうとした。

 

季語は「梅の花」で春、植物、木類。述懐。「袖」は衣裳。

 

九十句目

 

   昔思ふ袖にかほれる梅の花

 草の庵も春はわすれず      元用

 (昔思ふ袖にかほれる梅の花草の庵も春はわすれず)

 

 これも、「春はわすれず」とくれば、

 

 東風吹かばにほひおこせよ梅の花

     あるじなしとて春を忘るな

              菅原道真(拾遺和歌集)

 

で、島津注も引用している。「梅の花」との縁もあり、僻地に左遷され隠棲する隠士の句とする。

 

季語は「春」で春。述懐。「草の庵」は居所の体。

 

九十一句目

 

   草の庵も春はわすれず

 大原や山陰ふかし霞む日に    行助

 (大原や山陰ふかし霞む日に草の庵も春はわすれず)

 

 大原に隠棲となれば、『平家物語』の大原御幸であろう。

 「大原御幸」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 

 「平曲の曲名。伝授物。灌頂巻(かんぢようのまき)5曲の中。後白河法皇は建礼門院の閑居訪問を思い立つ。4月下旬のことで,道には夏草が茂り,人跡絶えた山里である。山すその御堂は寂光院(じやつこういん)で,浮草が池に漂い,青葉隠れの遅桜が珍しく,山ホトトギスのひと声も,法皇を待ち顔に聞こえる。質素な女院の庵に声を掛けると,老尼が出迎え,女院は山へ花摘みに行かれたと告げる。尼は昔の阿波内侍(あわのないし)だった。」

 

 季節はややずれるが、本説を取る時に少し変えるのは普通のこと。古くはほとんどそのまんまでも良かったが、蕉門の俳諧では多少変えるのを良しとした。

 

季語は「霞む」で春、聳物。「山陰」は山類の体。「日」は光物。

 

九十二句目

 

   大原や山陰ふかし霞む日に

 川音近し谷の夕暮        宗祇

 (大原や山陰ふかし霞む日に川音近し谷の夕暮)

 

 ここは景色でさらっと流す。ただ、春の山川の霞む夕暮れは大原ではないが、

 

 見渡せば山もとかすむ水無瀬川

     夕べは秋となに思ひけむ

              後鳥羽院(新古今集)

 

による。

 後に『水無瀬三吟』を巻く宗祇さんだけに、やはり好きな歌だったのだろう。

 

無季。「川音」は水辺の用。「谷」は山類の体。

名残裏

九十三句目

 

   川音近し谷の夕暮

 滝浪につるるあらしの吹き落ちて 量阿

 (滝浪につるるあらしの吹き落ちて川音近し谷の夕暮)

 

 滝浪は上から落ちる瀧ではなく、吉野宮滝のような急な渓流のことであろう。『万葉集』に、

 

 み吉野の瀧の白波知らねども

     語りし継げば古思ほゆ

              土理宣令

 

の歌がある。

 急流の上に強い風が吹き荒れてごうごうと恐ろしいほどの川音を響かせている。

 

無季。「滝浪」は水辺の用、山類の用。

 

九十四句目

 

   滝浪につるるあらしの吹き落ちて

 さわげど鴛ぞつがひはなれぬ   専順

 (滝浪につるるあらしの吹き落ちてさわげど鴛ぞつがひはなれぬ)

 

 激しい波と風にも負けず、オシドリのつがいは離れようとしない。

 人間の場合は、

 

 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の

     われても末に逢はむとぞ思ふ

              崇徳院(詞花集)

 

というところだが。

 

季語は「鴛」で冬、鳥類、水辺の用。

 

九十五句目

 

   さわげど鴛ぞつがひはなれぬ

 月なれや岩ほの床の夜の友    慶俊

 (月なれや岩ほの床の夜の友さわげど鴛ぞつがひはなれぬ)

 

 オシドリは夜行性で昼は木の上で休む。

 「岩ほの床の夜の友は月なれや」の倒置で、川べりの大きな岩の上で野宿をすると、川ではオシドリが騒いでいる。オシドリに伴侶がいるように、私にはあの月が友なのだろうか、となる。

 オシドリは漂鳥で秋になると西日本の河辺にやってくる。

 

季語は「月」で秋、夜分、光物。「夜」は夜分。

 

九十六句目

 

   月なれや岩ほの床の夜の友

 露もはらはじ苔の小筵      行助

 (月なれや岩ほの床の夜の友露もはらはじ苔の小筵)

 

 岩ほの床を修行僧の宿坊とする。

 島津注は、

 

   大峯通り侍りける時、

   笙の岩屋といふ宿にて

   よみ侍りける

 宿りする岩屋の床の苔むしろ

     幾夜になりぬ寝こそ寝られね

              前大僧正覚忠(千載集)

 

の歌を引いている。

 

季語は「露」で秋、降物。

 

九十七句目

 

   露もはらはじ苔の小筵

 松高き陰の砌りは秋を経て    心敬

 (松高き陰の砌りは秋を経て露もはらはじ苔の小筵)

 

 「砌(みぎ)り」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「名〙 階下のいしだたみ。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕

 〘名〙 (「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという)

 [一]

 ① 軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。

 ※万葉(8C後)一三・三三二四「九月(ながつき)の 時雨の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて」

 ② 転じて、庭。また、境界。

 ※千載(1187)序「ももしきの古き跡をば、紫の庭、玉の台、千とせ久しかるべきみきりと、みがきおきたまひ」

 ③ あることの行なわれ、または、あるものの存在する場所。その所。

 ※東寺百合文書‐い・康和元年(1099)閏九月一一日・明法博士中原範政勘文案「東寺是桓武天皇草創鎮護国家砌也」

 ④ あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

 ※百座法談(1110)三月二七日「このみきりも、定めて過去の四仏あらはれ給ふらむを」

 ※太平記(14C後)一一「法華読誦の砌(ミギリ)には」

 [二] 水辺。水ぎわ。

 ※性霊集‐九(1079)高野四至啓白文「見二砌中円月一、知二普賢之鏡智一」

 〘名〙 「みぎり(砌)」の変化した語。

 ※謡曲・金札(1384頃)「さても山城の国愛宕の郡に平の都を立て置きたまひ、国土安全のみぎんなり」

 

とある。元は「水を切る」「水を防ぐ」という意味だったのだろう。

 松の下にある石畳は年を経て苔に埋もれて、今では露で濡れるがままになっている。

 ここで「砌」の文字を出すことには別の意図があったのだろう。

 

季語は「秋」で秋。「松」は植物、木類。

 

九十八句目

 

   松高き陰の砌りは秋を経て

 ふりぬ言葉の玉の数々      宗怡

 (松高き陰の砌りは秋を経てふりぬ言葉の玉の数々)

 

 宗怡と「宗」の付く名前の人だから、多分師匠の宗砌さんのことを思い起こしたのだろう。宗砌は十一年前の康正元年(一四五五)に世を去っている。行助や宗祇の師匠でもある。

 

無季。

 

九十九句目

 

   ふりぬ言葉の玉の数々

 神垣や絶えず手向の茂き世に   紹永

 (神垣や絶えず手向の茂き世にふりぬ言葉の玉の数々)

 

 神社の神垣には長年にわたって多くの人が幣を奉り、手向けの言葉を掛けてきた。ここでもこの連歌興行の「言葉の玉の数々」を東国へ下向する行助さんへの手向けとできれば幸いです、というところか。

 大勢の人数を集めたこの興行は、大きな神社での興行だったのだろう。

 古代の神社には今のような本殿・拝殿はなく、神垣によって囲われた神域が神社だった。神垣に手向けをするというのはその頃の名残の言い回しであろう。

 

無季。神祇。

 

挙句

 

   神垣や絶えず手向の茂き世に

 いのりし事のたれか諸人     英仲

 (神垣や絶えず手向の茂き世にいのりし事のたれか諸人)

 

 「誰か諸人のいのりし事の」の倒置。「かなはざる」が省略されていると思われる。

 そういうわけで東国への旅路のご無事をみんな祈ってますと、この送別連歌百韻は終了する。

 

無季。神祇。「諸人」は人倫。