四、汁も鱠も

  ──梅の花咲きて散りなば桜花

      継ぎて咲くべくなりにてあらずや──

              藥師張氏福子(万葉集巻五、〇八二九)

1、花のもとに

 日本人が桜の花の下に集まるようになったのはいつからだろうか。

 

   しづかならんと思ひけるころ、

   花見に人人まうてきたりければ

 花見にと群れつつ人の来るのみぞ

     あたらさくらの咎には有りける

              西行法師(山家集)

 

の歌があるところを見ると、西行の時代には既に日本人は桜の花に群がっていたのだろう。

  桜は日本特有のものではなく、遠くヒマラヤ山脈の麓のネパールやブータンから東南アジアの北部山岳地帯、中国の四川省、雲南省から長江流域、広東省など、大陸にも広く分布している。台湾にも沖縄にもあるし、済州島(チェジュド)にも王桜がある。それでも今や世界の人は桜というと日本を思い浮かべる。

  多くの国では桜はたくさんある花の中の一つで、それほど特別な意味を持ってるわけでもない。お隣の韓国で花見というと、ツツジやレンギョウなども人気がある。今の日本も様々な花で町興しをするところも増えてきて、桜一極集中でもなくなってきているが、同時に桜もいろいろな品種が開発され、晩冬から晩春にかけて様々な桜が楽しめるようになっている。

  かつて日本では「花」という文字だけで桜の花を表してきた。それだけこの花は特別な意味を持っていた。

  その謎を解くカギは「集まる」ということにあるのではないかと思う。

  大勢の人が一所に集まるには、何か集まる理由が必要になる。オリンピックやワールドカップも世界中の人が一所に集まる。万博も人を集めるし、大規模な音楽フェスも大勢の人を集めることが出来る。それにあたるのが昔の日本人にとっては「花」だったと言っても良いのではないかと思う。

  花は身分に関係なく大勢の人を集める。江戸時代の花見はむしろ主役は庶民の方で、武家はそういう所にみだりに行ってはいけないとされていた。とはいえ花見のお祭り騒ぎに浮かれないはずもなく、うっかり刀を挿したまま見に行ってしまうと、

 

 何事ぞ花見る人の長刀      去来

 

などと揶揄されることにもなる。

  芭蕉もまだ伊賀にいて宗房を名乗っていた頃に、

 

 京は九万九千くんじゅの花見哉  宗房

 

の句を詠んでいる。「くんじゅ」は群集・群衆・群聚などの漢字を充てていたが、九万九千は京の街の戸数とも言われ、それを「貴賤(きせん)群集(くんじゅ)」に掛けている.

そこには貴賤を問わず、京の町中の人が花見をしているという意味が込められている。

  天和の頃にはこの群衆をリアルに描写しようと試みる。

 

 盛じゃ花にそぞろ浮法師ぬめり妻 芭蕉

 花に酔へり羽織着て刀さす女   同

 

 まあ、これはこうした人たちも来ているという一つのネタと言って良い。

  そして元禄二年に『奥の細道』の旅を終えて、伊賀に向かう途中で「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉」の句を詠んだ後、翌年の春に、

 

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

 

の発句を詠むことになる。

  この発句を立句とした一巻が元禄三年刊珍碩編の『ひさご』を飾ることになる。

  かつての九万九千くんじゅの賑わいはわずかな「汁も膾」に代表されることになる。

  汁も鱠もお膳の主役とは言い難い。メインディッシュではない、料理のわき役であり、それも質素なイメージを持つこの二つをもってして花見の群衆が何なのかを端的に表している。

  汁や鱠は高貴な人の立派な御膳にも欠かせないものだが、庶民の食卓にも最低限これくらいは欲しいという一汁一菜の食卓にもなる。

  そしてそこに散り込んでくる桜の花びらもまた、貴賤関係なく降って来る。

 

 景清も花見の座には七兵衛    芭蕉

 

はそれより前の貞享五年の句とされている。テーマは基本的に同じで、悪七兵衛と呼ばれた藤原景清も、花見の座に現れればみんなからフレンドリーに、「よおっ、七兵衛じゃないか」と呼ばれそうだという、そういう句だ。

  桜の花の心はというと、ここでは華やかさでも儚い命でもなく、むしろあらゆる多様性を一つに包み込むものといっても良いのではないかと思う。誰もが集まってこれて、誰も排除しない、それが花の下だった。

  そして俳諧もそれと同じだった。中世から「花の下連歌」と呼ばれるものがあり、花の下に集まって身分関係なく連歌を楽しんだ。俳諧も同じように、身分に関係なく大名だろうが穢多非人だろうが、同じように一座する。さすがに将軍までは来なかったが、磐城平藩の藩主は代々俳諧を好み、宗因とも同座した。

 

   *

 

 花見は古歌にも詠まれている。

 

 花見にはむれてゆけども青柳の

     糸のもとにはくる人もなし

              よみ人しらず(拾遺集)

 

の歌のように、柳もまた春に鮮やかな緑を添えて、

 

 見渡せば柳桜をこきまぜて

     都ぞ春の錦なりける

              素性法師(古今集)

 

の歌もあるが、それでも花には人が集まるが柳の下は誰もが通り過ぎて行く。

 

 『阿羅野』にも、

 

 何事もなしと過行柳哉      越人

 

の句がある。似たような句に、

 

 柳には鼓もうたず歌もなし    其角

 

の句が、貞享四年刊其角編の『続虚栗』にある。

 

 花見にと人は山辺に入り果てて

     春は都ぞ淋しかりける

              道命(後拾遺集)

 

の歌もあり、古代の花見は山へ見に行った。

 時代は下るが、

 

 花見にと春はむれつつ玉鉾の

     道行人のおほくもあるかな

              足利直義(風雅集)

 

の歌も、都から山へ向けて大移動していたことが窺われる。

  山とは言っても基本的には寺社であろう。吉野も金峯山寺がある。清水寺も山辺にある。芭蕉の時代に花の名所だった上野寛永寺も、低いけど上野山だった。こうした所は大勢の人が会するだけのスペースがあり、境内は基本的に公界であり、誰もが入ることが出来た。花の下の連歌もこうした場所で生まれた。

  二条良基の『連理秘抄』にも、

 

 「地下にも花の下月の前の遊客、上手多くきこゆ」

 

とある。同じ二条良基の『筑波問答』にはさらに詳しく、

 

 「地下にも花の本の好士多かりしかども、上ざま道の人々の上手にてありしかば、とりわきて抜け出でたるも聞こえ侍らず。道生・寂忍・無生などいひし者の、毘沙門堂・法勝寺の花の本にて、よろづの者多く集めて、春ごとに連歌し侍りし。それより後ぞ、色々に名を得たる地下の好士もおほく侍りし。」

 

とある。

  毘沙門堂は山科の毘沙門堂か。法勝寺は白河天皇が承保三年(一〇七六年)に京の東の白河に建立した寺で、応仁の乱で焼失した。

  伊地知鐵男の『連歌の世界』には、

 

 「道生法師らの連歌興行の寺院には、洛東白河の法勝寺、同じ清水の地主権現、洛北出雲路の毘沙門堂、あるいは洛東鷲尾の法正寺などの場所が『菟玖波集』にみえる。十四世紀の伏見・後伏見院のころになると、松尾の西芳寺・報恩寺、嵯峨の法輪寺のほかに、北野社・祇園社などの花の下での興行が記録されている。しかもその頃になると一般庶民だけでなく、次第に貴族階級の人達の参加をもみるようになった。」

 

とある。

  その道生法師の句は『菟玖波集』に収められている。

 

   寛元四年三月、地主の花の下にて

 風ふけば花にちりそふ心かな   道生

   法勝寺の花の下にて

 日にそへて青葉になりぬ遅ざくら 同

 

の発句や、

 

   寶治二年三月、毘沙門堂の花のもとにて

   花もさきぬやかつらぎの山

 うち靡く柳が枝のながき日に   道生

 

などの付け句がある。桜に柳は一つのパターンでこの場合は違え付けになるが、枝の長きに遅日の長き日を掛けるところに技がある。

  今日の感覚だと、連歌は貴族の遊びというイメージがあるかもしれないが、実際は花見にやって来る都の庶民の間から広まってゆき、最終的に貴族をも魅了することになった。

  この花の下の連歌の盛り上がりに関する当時の記述はごくわずかで、その雰囲気を再現することは難しい。

  というのも、その多くは読み書きのできない者で、耳で聞いて覚えた和歌などの知識で前句を理解し、句を付けていたと思われるからだ。

  連歌の会席に主筆がいるのは、最初の頃は字を書けない人に代わって句を記述していたからだろう。そして、出来上がった一巻を境内に張り出して公開しておくことで、それを見た庶民も次第に字を覚えて行ったのではないかと思う。

  花の下での身分関係なく遊ぶことのできたことが、初期の連歌の最大の魅力だった。それが、次第に上層階級の間に浸透してゆくと、寺社に集まっての自然発生的な興行ではなく、裕福な人が会場を押さえて名だたる連歌師を招待して行うようになり、逆に連歌は金のかかるものになっていった。

 

 足のうて登りかねたる筑波山

     和歌の道には達者なれども

 

のような狂歌が流布するようになるのは大分先の話になる。

  この狂歌は{桜井基佐|さくらいもとすけ}が『新撰菟玖波集』に入集できなかったことで詠んだと言われているが、島津忠夫さんのネット上の「あしなうてのぼりかねたる筑波山─基佐・宗祇確執をめぐって─」によると、この狂歌の初出が『新撰菟玖波集』から百年後の文禄(一五九二年~一五九六年)の頃の『遠近草』だというから、本当に元輔の歌だったかどうかは疑わしい。

  長享元年(一四八七年)の『人鏡論』に、近江守の

 

 あしなくて登りかねたる位山

     弓矢の道は達者なれども

 

の歌があるという。これを誰かが作り変えた可能性がある。

  連歌が次第に敷居の高いものになって行くと、庶民の間の連歌への関心も薄れて行く。

  どんな芸術もそれに熱狂する大勢のファン層があり、良いものに惜しみなく拍手を送り、駄作には罵声を浴びせる中で鍛えられて発展するものだ。その底辺のファン層を失うと、その芸術は衰退する。

  大衆から遊離し、一部のアーチストの独りよがりな理論ばかりが独り歩きすれば、芸術はただの観念のゲームになる。

  伝統文化はただ保存するだけではその生命は失われ、ただコピーを繰り返すだけで次第に劣化してゆく。大事なのはファン層の維持であり、大衆の力だ。良いものに拍手喝采し、悪いものに罵声を浴びせる、その観客が芸術の質を維持する。

  連歌は宗祇の時代に一つの頂点を極めると、戦国の荒れた世に大名クラスの金のかかる連歌会ばかりが繰り返され、次第に庶民の関心は薄れて行く。連歌は次第に上層階級だけの浮世離れした遊びになっていった。今の連歌の一般的なイメージは大体この衰退期のものだ。

  このかつての花の下連歌の賑わいを再現したのが江戸時代の、それも談林の俳諧と言って良い。

  貞門の俳諧はまだ衰退した連歌の形式ばった入門編の域を出なかった。庶民の本当の力の開放は、庶民が自分たちの言葉で、自分たちの日常を語り始めた時だった。

 

   *

 

 談林の俳諧は連歌に倣って寺社などで興行された。宗因が江戸に来た時に宗因と同座した興行も

 

 いと凉しき大徳也けり法の水   宗因

 

を発句とするもので、「大徳」とある通りに本所大徳院での興行だった。

 それに刺激されて芭蕉(当時の桃青)と素堂(当時の信章)が翌年延宝四年(一六七六年)春に「奉納二百韻」の興行を行う。発句は、

 

 此梅に牛も初音と鳴つべし    桃青

 

で、湯島天神での興行と思われる。

  関西では西鶴が大矢数興行を行い、即興で繰り出される付け句の数を競う興行を行ったが、これも寺社での興行で、寛文十三年(一六七三年)春には生玉神社で十二日間にわたる万句俳諧興行を行い、それを『生玉万句』として刊行したところから始まる。

  そして、その後西鶴は千六百句独吟『俳諧大句数』を刊行する。興行場所はよくわからない。だが、それに刺激され張り合うように延宝五年には多武峰の僧の紀子が奈良元興寺極楽院で千八百句独吟を行う。

  大矢数興行は公開で行わなくては意味がない。何日もかけて書き溜めたようなものではなく、本当にその場で即興で付けているということを、大勢の人の前で証明しなくてはならないからだ。

  矢数俳諧は陸奥の仙台にも飛び火して、三千風が二千八百句の独吟興行を行う。

  ただ、矢数俳諧興行は花の下連歌のような万人参加の双方向的なものではなく、あくまで壇上の俳諧師が句を付けて見せるショーにすぎなかった。そこに限界があったとも言える。

  西鶴は最終的には貞享元年(一六八四年)に住吉神社で二万三千五百句興行を行い、矢数俳諧の締めくくりとする。これをもって盛り上がりを見せた寺社での俳諧興行も終わってゆくこととなった。

  西鶴のこの最後の興行は六月で、この年の八月には芭蕉が『野ざらし紀行』の旅に出る。芭蕉は西鶴とは違う戦略を選ぶことになる。興行で人を集めるのではなく、こちらから旅に出て出向いてゆくという出張戦略だ。

  この方法は地方で埋もれている人材の発掘には役立ったかもしれない。ただ、誰でも自由に参加できた昔の花の下連歌の賑わいには程遠かった。

  芭蕉の、

 

 木のもとに汁も膾も桜かな    芭蕉

 

の句は花のもとでの俳諧興行を連想させる。ただ、実際は個人宅での興行だった。

  芭蕉は結局昔の花の下連歌の再現はできなかった。興行は個人の家で非公開で行われ、それを出版という形で公にするだけだった。

  そこには名もなき人がいきなり飛び入りで参加できるような雰囲気はなかった。この閉鎖性も芭蕉の死後の蕉門の衰退の一つの原因ではなかったかと思う。

  むしろ点取り俳諧の方がオープンだった。入門した弟子たちがそれぞれに一巻を巻いて点賃を払って師匠に加点をしてもらうというスタイルで、大衆は点をたくさん取ろうと競うことになる。加点は良い句の上に点を打つというもので、最優秀句には長点という長い目立つ点を打つ。ちなみにこの加点のことを「合点」ともいう。承知する時の「がってん」の語源になっている。

  点取り師匠は点賃を稼ぐためには間口を広くして、弟子の数を競うように大勢集めていた。そのため、点取り俳諧は金さえ払えば誰でも参加できる空気があった。

  これをさらに一歩進めたのが『川柳点』で、広く大衆から句を募り、一巻を巻かなくても一句だけで誰でも気軽に投句できて、編者がそれを審査して本に載せるというスタイルは、実はそのまま昭和の『ホトトギス』にも受け継がれるし、近代の俳句誌は基本的に『川柳点』のスタイルを受け継いでいる。

  近代の俳人の収入も「審査料」だとか「投句料」だとか称する昔でいう点賃と、入集するための秘訣を伝授する俳句教室に依存している。

  芭蕉は談林のような寺社での興行のスタイルを早くからやめてしまったし、大衆の参加という点では敷居の高いものだった。点取り俳諧のような俳諧の大衆化について一応の理解を示してはいたものの、蕉門俳諧の大衆化には結局失敗したと言って良い。

  芭蕉は天禄五年二月十八日付珍碩(洒堂)宛書簡に、

 

 「この地、点取俳諧、家々町々に満ち満ち、点者ども忙しがる体に聞え候。その風体は御察しなさるべく候。言へば是非の沙汰に落ち候へば、よろづ聞かぬふりにて罷り在り候。」

 

と久しぶりに江戸に戻ってみると、すっかり江戸の俳諧は点取り俳諧に席巻されていた様子がうかがわれる。

  点取り俳諧は俳諧のその後の大衆化に貢献し、近代俳句の経済的基礎を作ったと言ってもいい。ただ、芭蕉が恐れたように、それはやはり質の低下をもたらすものだった。

  何がいけなかったかというと、結局大衆を感動させるための句ではなく、あくまで撰者に選ばれるための句を作り、その傾向と対策を練ることに終始してしまうという所にある。近代俳句に限らず近代美術一般に言えることだが、詩歌俳句はもとより絵画でも小説でも、審査員に選ばれるためのテクニックを競うのみで、大衆を置いてけぼりにしている。

  そこには大衆の拍手と罵倒によって鍛えられる場が存在しない。大衆はこうした作品に対して「私は芸術のことはよくわかりませんが、きっと見る人が見れば凄いのでようね」と愛想笑いを浮かべるだけだ。こう言われてもエリート意識に目がくらんだアーチストは、「まあ、お前らにはわからねーだろうな」とほくそ笑む。

  花の下連歌の賑わいを取り戻すことは、結局芭蕉にはできなかった。花の下で身分の隔てなくという理想は、ただ興行の席での一瞬の夢に終わっていった。

2、多様な人々

 芭蕉は結局、花の下での大衆参加の双方向的俳諧には向かわなかった。

  ただ、作者として参加できなくても、様々な「卑賤」と呼ばれる被差別民を作品の中に描き出すことには成功した。

  芭蕉のみならず俳諧では穢多非人やそれに含まれない雑種賤民などの被差別民と思われる人物が描かれている。それはこの時代の人にとっては身近な存在だったし、こうした人たちの噂を話題にすることで、こうした人たちの情を理解しようとしていた。

 

   *

 

 貞享二年四月上旬、熱田で興行された「ほととぎす爰を西へかひがしへか 如行」を発句とする興行の二十二句目に、

 

   挟みては有かと腰の汗ぬぐひ

 非人もみやこそだちなりけり   芭蕉

 

の句がある。手拭や汗拭いは江戸時代に綿花の栽培が広まることで急速に普及した。

  貞享の頃はまだ地方にまでは広まってなかったか、汗拭いを腰に下げるのは京都人というイメージがあったのだろう。都人なら非人でも汗拭いを使っている。もっとも、歌舞伎役者も身分的には非人だから、非人もピンからキリまでだが。

  貞享五年春の「何の木の花とは知らず匂ひ哉 芭蕉」を発句とする興行の十八句目には、

 

   もる月を賤き母の窓に見て

 藍にしみ付指かくすらん     芭蕉

 

の句がある。

 

 紺屋は柳田国男の『毛坊主考』に、

 

 「『三国地誌』によれば、伊賀の旧阿拝郡に夙村があった。村民もっぱら藍染めを業とす。ゆえに他邑の平民賤悪して交遊を憚ること屠者に類するとある。今の阿山郡の何村の内か、まだこれを詳かにせぬ。染屋の賤視せられた例は往々にして聞くところである(郷土研究二巻四四一頁参照)。‥‥略‥‥古くは阿波で三好氏の時代にも、天文十年に上方より下った青屋四郎兵衛という者は穢多だと言われた。始めて阿波染ということを仕出して事のほか富有となった。三好長治青屋が子を寵用して土民憤怒すと『三好記』に見えている。京から来る染物取次人内々の話に、人骨を灰にして用いれば紺ははなはだよく染まると。しからば隠坊など便宜をもって染屋を兼ぬるがゆえに、染屋を賤しむ風が起ったのではなかろうか云々(以上、南方氏説)。この職業が全部人の賤しむ者ではなかったことは、とにかくなお考えてみなければ判明せぬ問題である。」

 

とある。

  芭蕉の故郷の伊賀や上方全体に、藍染を賤業として差別する風があったのだろう。被差別民であることがバレないように、藍の染み付いた指を隠す。

  藍染をする紺屋を詠んだものだが、前句の「賤き母」を受けて展開する所には、紺屋が被差別民だということを知っててのことと思われる。

  藍染の句は、元禄五年冬の「洗足に客と名の付寒さかな 洒堂」を発句とする興行の二十四句目にも、

 

   朝露に濡わたりたる藍の花

 よごれしむねにかかる麦の粉   芭蕉

 

の句がある。

  藍染では亀の中にすくも、小麦ふすま、灰汁を入れて発酵させる。十分発酵して液体の表面に泡が立つことを藍の花と呼ぶ。

  『奥の細道』の旅の途中の元禄二年五月、尾花沢での「おきふしの麻にあらはす小家かな 清風」を発句とする興行の五句目、

 

   石ふみかへす飛こえの月

 露きよき青花摘の朝もよひ    芭蕉

 (露きよき青花摘の朝もよひ石ふみかへす飛こえの月)

 

の句も、この青花(ツユクサ)を摘むひとも、被差別民の可能性がある。

  青花は染物に用いるもので、前句の石を飛び越えて行く人ををツユクサ摘みを職業とする人とする。「朝もほひ」は朝食時で、朝飯のために川原に帰ってきたか。

  次の六句目が

 

   露きよき青花摘の朝もよひ

 火の気たえては秋をとよみぬ   清風

 

で、「とよむ」は大声で騒ぐことそいう。

  青花を摘んで生活する人は、そんな豊かな階層とは思えない。朝飯すらまともに食えない時もある貧しい人たちのイメージがあり、雑種賤民の類ではないかと思う。

  同じ頃の出羽大石田での「さみだれをあつめてすずし最上川 芭蕉」を発句とする興行の十九句目には、

 

   ねはむいとなむ山かげの塔

 穢多村はうきよの外の春富て   芭蕉

 

の句がある。

  穢多とはいっても農地を所有し、中には豊かな村もあったのだろう。先の青屋四郎兵衛も阿波の藍染を成功させて裕福になったという。

  江戸時代には一般の寺と区別して穢多寺(浄土真宗の寺が多いというが、必ずしも浄土真宗とは限らない)がこうした被差別民に押し付けられていった。裕福な穢多が立派な仏舎利の立つお寺で、涅槃会を営むこともあったのだろう。

  それに次ぐ、

 

   穢多村はうきよの外の春富て

 かたながりする甲斐の一乱    曾良

 

の句は、かつて刀狩りを行う時に、武家でも農民でもない穢多村の人たちが、こうした汚れ役をさせられていた。

  特に戦国時代は武具などに動物の皮などが多用されていることもあり、裕福な村もあったのだろう。一般人と異なる立場にいる穢多の人たちが、一般人を監視する役割を担ったとも言われ、江戸時代に入ると与力・同心の下で警察官のような役割も果たしていた。

  元禄三年春の「種芋や花のさかりに売ありく 芭蕉」の句を発句とする興行の二十二句目の、

 

   からうすも病人あればかさぬ也

 ただささやいて出る髪ゆひ    芭蕉

 

 

の髪ゆひも、全部ではないにせよ被差別民がやる場合が多かったのではないかと思う。

  『猿蓑』に収録された元禄三年の「市中は物のにほひや夏の月 凡兆」を発句とする興行の十七句目には、

 

   僧ややさむく寺にかへるか

 さる引の猿と世を経る秋の月   芭蕉

 

の句がある。

  「猿引き」は猿回しをする芸人のことだが、長いこと被差別民の芸とされてきた。今日の周防猿まわしの会の創始者村崎義正は、同時に部落解放運動の活動家だった。

  同和と仏教は相反する関係にあり、「僧」に「猿引き」を付けるのは、それゆえ「向え付け(相対付け)」になる。殺生を禁じる仏教の思想が、一方では動物にかかわる職業を卑賤視する元となっていた。

  猿引きは猿とともに秋の月を見ながら暮らしを立て、僧もまた自分の居場所である寺に帰ってゆく。

  人にはそれぞれ相応しい居場所があり、自分の居場所のために対立し、戦い、傷つき、秋の寒さのなかで同じように闇を照らす月を見る。いつの時代も変わらないことだ。

  猿引きの句は元禄七年の春の「五人ぶち取てしだるる柳かな 野坡」を発句とする芭蕉・野坡両吟の第三にもある。

 

   日より日よりに雪解の音

 猿曳の月を力に山越て      芭蕉

 

 「月を力に」は月を頼りにという意味もあるし、月に励まされながらという意味にもなる。

  猿曳は正月の風物でもあるが、都会から田舎へと回って行くうちに時も経過し、いつの間にか小正月の頃になり、月も満月になる。

 

 山里は万歳遅し梅の花      芭蕉

 

という元禄四年の句もある。

  あまり正月も遅くなってもいけないということで、夜の内に月を頼りに移動してゆく。雪解けの頃で、山道には所々雪も残っていたのだろう。

  元禄五年十月の「口切に境の庭ぞなつかしき 芭蕉」を発句とする興行の二十九句目にも、

 

   はえ黄みたる門前の坂

 皮剥の者煮て喰ふ宵の月     芭蕉

 

の句がある。

  皮剥の者は皮革業者で被差別民に属する。門前の坂で煮物を食べているが、皮を剝いだ獣の煮物であろう。

  元禄七年七月の「あれあれて末は海行野分哉 猿雖を発句とする興行の二十七句目にも、

 

   鼬の声の棚本の先

 箒木は蒔ぬにはへて茂る也    芭蕉

 

のように、被差別民の皮革業者の店の辺りに箒木の自生している様が描かれている。

 

   *

 

 こうした被差別民の中でも鉢叩きは珍しく発句道具となり、

 

 長嘯の墓もめぐるか鉢叩き    芭蕉

 納豆切る音しばし待て鉢叩き   同

 乾鮭も空也の痩も寒の中     同

 

といった発句にもなっている。

  鉢や瓢箪を手にしてそれを叩いて念仏踊りをする角付け芸で、旧暦十一月十三日の空也忌から大晦日までの京の風物でもあった。

  許六編『風俗文選』の去来の「鉢叩辞」には、芭蕉に鉢叩きを見せようと家に呼んで待っていたが、その日に限って雨も降って鉢叩きはやってこない。仕方ない、ならばということで、去来が鉢叩きの真似をやったということが記されている。その夜の明方に本物が現れて、芭蕉の「長嘯の」の句ができたという。

  長嘯は戦国武将の木下勝俊で、歌人としては長嘯あるいは長嘯子と呼ばれていた。

 

 鉢叩あかつき方の一こゑは

     冬の夜さへもなくほととぎす

              長嘯子

 

の歌を思い起こしての一句になる。

  鉢叩きは普段は茶筌を作って生活しているので、貞享四年夏の『続虚栗』所収の其角・蚊足両吟歌仙二十三句目に、

 

   乞食に馴て安き世を知

 町ぐたり二声うらぬ茶筌売    其角

 

の句がある。次の二十四句目が、

 

   町ぐたり二声うらぬ茶筌売

 夜は飛ビ田の狐也けり      蚊足

 

だから、大阪の鳶田(飛田)刑場の方の仕事もやっていたか。

  この後芭蕉が『笈の小文』の旅で名古屋へ行ったときの「箱根越す人もあるらし今朝の雪 芭蕉」を発句とする興行の三十一句目でも、

 

   あたら姿のかしら剃られず

 世の中の茶筅売こそ嬉しけれ   荷兮

 

と、鉢叩き=茶筌売のネタをやっている。剃髪はせず俗形だったことがわかる。

 

 鉢叩き月雪に名は甚之丞     越人

 

の句もあるように、名前も俗名だった。

 

 ()季候(きぞろ)も非人の身分の遊芸になる。「精選版 日本国語大辞典」の解説に、

 

 「江戸時代、歳末の門付けの一種。一二月の初めから二七、八日ごろまで、羊歯(しだ)の葉を挿した笠をかぶり、赤い布で顔をおおって目だけを出し、割り竹をたたきながら二、三人で組になって町家にはいり、「ああ節季候節季候、めでたいめでたい」と唱えて(はや)して歩き、米銭をもらってまわったもの。」

 

とある。師走の風物なので発句道具になるが、付け句の方に登場しないので、その生活の実態はよくわからない。

 

 節季候の来れば風雅も師走哉   芭蕉

 節季候を雀のわらふ出立ち哉   同

 

の発句がある。

  万歳もまた被差別民の門付け芸だったと思われるが、地域にもよるのかもしれない。

 

 山里は万歳遅し梅の花      芭蕉

 

の発句がある。ただ、

 

 万歳を仕舞ふてうてる春田哉   昌碧

 

のように農家の農閑期の副業でやってた人もいたようだ。

 

 ゆづり葉や口に含みて筆始    其角

 

の句は芭蕉書簡に「ゆづり葉を口にふくむといふ万歳の言葉、犬打童子も知りたる事なれば」とあり、万歳の口上だった。

  こうした人たちは俳席には登らなくても、句の中で生きている。これを残したことで、花の下の「汁」や「鱠」を詠んだように、彼らを花の下の席に加えたと言ってもいい。

 人は何で花を好むのか。

  人が果実食の猿から進化したと考えれば何ら不思議なことではない。

  花の中でも特に木に咲く花は、その後の実りにつながる。

  花を好み花の側で暮らしていれば、それだけ実にありつく確率が高くなり、それが生存率を高めることに繋がる。

  なら、花を見ることで快楽報酬を得る脳回路が生まれたとしたらどうだろうか。その個体は生存率が高くなるため、その遺伝子は瞬く間に広がってゆくだろう。

  かくして人は花を好むようになった。

  どこの民族でも共通して、恋人を花に喩えたりする。

  花を好む道は色を好む道でもある。

  天地を男女のセックスから生まれたと考え、歌垣を行い、歌で口説く。それが日本人だった。

  和歌の道も色好みの道、そしてそこに花は欠かせない。

  花に酔い恋に酔い、それが人間ではないか。

 

 

参考文献

 『連歌論集、上』伊地知鉄男編、一九五三、岩波文庫

 『連歌集 日本古典文学大系39』伊地知鐵男校注、一九六〇、岩波書店

 『連歌論集俳論集 日本古典文学大系66』木藤才蔵・井本濃一校注、一九六一、岩波書店

 『連歌の世界』伊地知鐵男、一九六七、吉川弘文館

 『西鶴矢数俳諧の世界』大野鵠士、二〇〇三、和泉選書

 『芭蕉紀行文集』中村俊定校注、一九七一、岩波文庫

 『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫

 『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫

 『校本芭蕉全集第三巻』小宮豐隆監修、一九六三、角川書店

 『校本芭蕉全集第四巻』小宮豐隆監修、一九六四、角川書店

 『校本芭蕉全集第五巻』小宮豐隆監修、一九六八、角川書店

 

 『柳田國男全集十一』一九九〇、ちくま文庫