現存する芭蕉の作品の一番古いものは、寛文二年(一六六二年~一六六三年)の、
二十九日立春なれば
春やこし年や行きけん小晦日 宗房
の発句だとされています。ただ、これには疑問があります。二十九日が立春になるのは寛文二年だということで、これまで寛文二年に扱われてきたのですが、今はネットで簡単に旧暦と新暦の変換ができます。
こよみのページ(http://koyomi.vis.ne.jp/)というサイトで調べてみますと寛文二年の旧暦十二月二十九日は新暦一六六三年の二月七日になります。立春はその四日前です。
寛文五年旧暦十二月二十九日を見て見ましょうか。これは新暦一六六六年の二月三日で立春に当たります。
旧暦は新暦と違い、大の月は三十日まで、小の月は二十九日までです。寛文五年の旧暦十二月は小の月で二十九日までしかありません。だからこの日は立春であると同時に一年の最後の一日でした。
今日では十二月の最後の日は大晦日に決まっているのですが、旧暦では小の月になることもあるので、この日は小晦日になります。
そういうわけで寛文五年十二月二十九日は立春で春は来たけど、一年が今日で終わるという微妙な一日でした。それをそのまんま詠んだ句と言っていいでしょう。
正月の前に立春が来ることを「年内立春」と言います。和歌では『古今和歌集』の巻頭を飾るこの歌が、年内立春を詠んでいます。
ふるとしに春たちける日よめる
年のうちに春は来にけりひととせを
去年とやいはむ今年とやいはむ
在原元方(古今集)
年内立春はいわば去年であると同時に今年であるという、古と新の出会う場所でもあります。だから最初の勅撰集の巻頭にこの歌が選ばれたのでしょう。
俳諧の発句というのは本来は俳諧の集まり、俳諧興行と言いますが、その開始の挨拶の意味を持ってました。季語を入れるのは、今日でも挨拶をするときは季候の挨拶というか、季節のことを話題にすることが普通に行われています。
そして、挨拶をするときには相手の緊張をほぐすために、しばしば冗談を言ったりします。それが俳諧の笑いとなります。別に爆笑させなくてもいいんです。ちょっと口元が緩む程度の軽い笑いが必要だというだけです。
宗房のこの句は、春は来たけど年は行ってしまいますね、というだけの句ですが、季候の挨拶の体裁を具えていて、なおかつ笑いを含んでいます。本来発句はこれで十分だったのです。
「春やこし」の句が寛文五年の暮だとすると、芭蕉の現存するもっとも古い作品はその前年、寛文四年(一六六四年~一六六五年)に刊行された松江重頼編『佐夜中山集』に入集した次の二句ということになります。
姥桜さくや老後の思ひ出 宗房
月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 同
「姥桜」は花だけが最初に咲いて後から葉が出て来る桜のことで、染井吉野を初めとして江戸彼岸、枝垂桜、寒緋桜、河津桜、おかめ桜、春めき桜など、今の桜の主流になっていますが、昔は桜というと山桜のことで、花と葉が一緒に出るのが普通の桜だとされていました。
姥桜の名は一種の謎掛のようなものです。
花だけの桜と掛けて姥と解く、その心は‥‥「は」がありません、という洒落です。年寄りの歯がないのと掛けています。
句の方は「姥桜は老後の思ひ出に咲くや」の倒置と考えてください。俳諧ではこういう倒置をよく用います。
「や」という切れ字は俳諧ではよく用いられますが、疑問を投げかけながらも「そうだろうか、なるほどそうだ」と言って肯定する、「治定」の言葉として用いられます。
姥桜が咲いてますが、これは老後のことを考えなさいという意味で咲いているのでしょうか、どうやらそのようです、そういう意味になります。
月の方の発句は、月の明るさを詠んだ句です。
電気はおろかガス灯すらなかった昔の人にとって、月のない夜は真っ暗の闇夜でした。外を歩くにしても辺りに何があるかもわからないし、足もともよく見えません。だから月のない夜の外出は大変危険なものでした。
それに比べて、月のある夜は月明りが足元を照らしてくれます。だから月夜だと安心して夜の外出ができたのです。そして、せっかく夜が明るいのだからと言って、人が大勢集まって宴会などもしました。
昔の人のお月見というのは、月そのものを天体現象として観察したわけではありません。月の明るい夜をみんなで楽しんだのです。
「月ぞしるべ」はそうやって月の明るさに導かれて夜道を歩いている人に対して、「こなたへ入せ(こっちへ来なさい)」と言って、ともに月夜を楽しもうではないかと誘う句です。良かったら泊まって行きなさいということで、「旅の宿」となります。
余談ですが、『佐夜中山集』の編者も重頼で、この頃は名乗りをそのまま俳号として使う人が多かったようです。
当時の人の名前は身分によって細かい違いもありますが、日常生活に使う何太郎だとか何兵衛だとか何衛門だとかいう名前を用いてました。芭蕉の場合は甚七郎や忠右衛門という名前がありました。これに対し武家の名乗りに準じた名前が宗房でした。
重頼も京の大文字屋治右衛門という商人でした。武家に準じて松江の姓と重頼という名乗りを持っています。
江戸時代はよく武士だけが苗字帯刀を許されたと言いますが、庶民も勝手に姓を名乗ってました。勝手に名乗ってよかったので、途中で姓の変わる人もいました。この時代は今のような本名という概念がありません。
今は江戸時代の人の名前も、近代の明治以降に定められた「姓名」に準じて表記されていますが、江戸時代の人にとっては名前がいくつもあるのが普通で、時と場合によって使い分けてたりしました。
もう一つ複雑なのは、いわゆる苗字とは別に古代から引き継がれていた本来の「姓」というのもありました。たとえば徳川家康の徳川は苗字ですが、姓は「源」です。伊丹に上島鬼貫という俳諧師がいましたが、この人の姓は「藤原」です。
芭蕉にこの意味での姓があったかどうかはわかりませんが、松尾氏は柘植氏から派生してますから、ひょっとしたら柘植氏の姓である「平」だったかもしれません。平宗房というと王朝時代みたいですね。
この頃の俳諧の主流だったのは松永貞徳の開いた「貞門」の俳諧で、この貞徳も名乗りになります。戦国武将の松永弾正久秀の遠縁とも言われています。
松永貞徳は安土桃山時代から江戸時代にかけて生きた人で、豊臣秀吉に仕えていました。この頃に古今伝授を受けた細川幽斎から和歌を習い、紹巴に連歌を習いました。
紹巴というのは当時の連歌の第一人者で、明智光秀の「ときは今天が下しる五月哉」の発句で有名な『天正十年愛宕百韻』にも同席しています。
その貞徳も、徳川の世の中になってからは京で私塾を開き、和歌連歌などの風流の道を教える傍ら、庶民にも面白さが分かるようにと俗語を交えた連歌を広めました。これが貞門の俳諧でした。
和歌や連歌は「雅語」と呼ばれる、古今集から新古今集の頃までの和歌の言葉を用いてました。貞門の俳諧は、この雅語を学ぶために、あえて一句に一語だけ俗語を取り入れて、庶民にも親しみやすくしました。また、『俳諧御傘』を書き表し、連歌よりも緩い俳諧独自のルールを作りました。
春やこし年や行きけん小晦日 宗房
姥桜さくや老後の思ひ出 同
月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 同
の場合は「小晦日」「老後」「こなたへ」が俗語になります。
芭蕉はやがて、この一句に一語だけ俗語をというルールを廃して、俳諧を「俗語の連歌」と位置付けて、庶民のそのままの日常の言葉で俳諧を作って行くことになります。
俳諧は連歌を学ぶための入門編なんかではなく、独立した風流として確立したのが芭蕉だったのです。
芭蕉が『佐夜中山集』への入集を果たした頃、芭蕉も伊賀藤堂藩で蝉吟という俳号を持つ藤堂良忠のもと、俳諧興行に同座する機会を得ていたと思われますが、現存する唯一の宗房同座の巻はこの「貞徳翁十三回忌追善俳諧」です。
寛文五年(一六六五年)霜月十三日の興行で、発句は藤堂良忠(蝉吟)、脇は京の季吟ですが脇だけの参加なので、書簡による参加とおもわれます。
季吟は松永貞徳の高弟で、俳諧だけでなく『大和物語抄』『土佐日記抄』『伊勢物語拾穂抄』『源氏物語湖月抄』『枕草子春曙抄』『八代集抄』などの古典の注釈を集大成した人でもあります。また、京都三大祭りの一つである葵祭の復興に尽力した人でもあります。
その『貞徳翁十三回忌追善俳諧』の発句は、
野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉 蝉吟
でした。
紫苑は秋の季語ですが、ここでは「雪」と組み合わせることで冬の句となります。今の俳句は季重なりを嫌う所もありますが、昔はほとんど気にしませんでした。
目には青葉山ほととぎす初鰹 素堂
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす 芭蕉
のように、季語は幾つ使っても良かったのです。
近代の正岡子規の俳句にも季重なりの句は有ります。季重なりに厳しくなったのは昭和に入ってからではないかと思います。
紫苑は別名「鬼の醜草」といいます。
忘れ草我が下紐に付けたれど
鬼の醜草言にしありけり
大伴家持(万葉集、巻四・七二七)
の歌にも詠まれています。
『南総里見八犬伝』でも知られる曲亭馬琴編の江戸後期の歳時記、『増補 俳諧歳時記栞草』には、『袖中抄』を引用して、
「鬼醜女草、これ紫苑也。鬼のしこ草とは別の草の名にあらず。忘草は愁を忘るる草なれば、恋しき人を忘れん料に、下紐につけたれど、更にわするることなし。忘草といふ名は只事にありけん、猶恋しければ鬼のしこ草也けりといふ也。」
と書き記しています。
忘れるなら忘れ草(萱草)、忘れないなら紫苑でした。
「枯れぬ紫苑」は決して忘れることがない、という意味で、「紫苑」は「師恩」と掛詞になっています。貞徳さんのご恩はたとえ野が雪に埋もれても決して枯れることがない、忘れることのできない師恩(紫苑)です、というのがこの発句の意味になります。
さて、貞門というと発句に掛詞を多用することでも知られています。
正岡子規は明治二十七年の『芭蕉雑談』で「貞門の洒落(地口)檀林の滑稽(諧謔)」という言い方をしてますが、駄洒落と掛詞の境界は確かに難しいかもしれません。
強いて言うなら、掛詞は二つの似た音の単語を組み合わせることで意味の融合を生じますが、駄洒落の多くは意味を融合するのではなく、むしろ反発しあうことでナンセンスを生じさせます。
「紫苑」と「師恩」を合わせれば鬼の醜草の異名のある忘れられない紫苑の花に師の恩が合わさり、容易に融合しますが、これが「紫苑」と「四音」なら「三音なのにシオンとはこれいかに」と駄洒落になってしまいます。
さて、発句は俳諧興行開始の挨拶ですが、それへの返事となるのが「脇」です。発句は五七五で和歌の上句に相当するのに対し、脇は七七で下句になります。
野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
鷹の餌ごひに音おばなき跡 季吟
連歌というのは本来和歌の上句に下句を付けたり、下句に上句を付けたりして、五七五七七の和歌を完成させる遊びで、そのため上句下句を繋げてもきちんと意味が通るようにする必要があります。
それは単に意味が通じればいいという物ではなく、文法的にも「てにをは」が整うように、様々に工夫されてきました。それは俳諧でも同じです。
ですから、この脇の場合も、
野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
鷹の餌ごひに音おばなき跡
と和歌の形ですんなりと読めるように作られています。
鷹は冬の季語で、飼われている鷹は人に餌をねだる時に甲高い大きな声で餌鳴きするといいます。ここでは「鳴く(泣く)」と師匠の「亡き跡」を掛けています。
今は亡き貞徳の師恩を偲び、あたかも鷹が餌を乞うように私も泣いています、そういう意味になります。
発句に脇が付きましたが、次の三句目は「第三」と言います。それ以降は普通に四句目、五句目、六句目と呼びます。そして最後の句だけは「挙句」と言います。「挙句の果て」という言葉の元にもなっています。
その第三は、発句と大きく意味が変わるように付ける必要があります。つまり、野の雪や紫苑(師恩)のことはもう忘れて、思い切り気分転換する必要があります。その句がこれです。
鷹の餌ごひに音おばなき跡
飼狗のごとく手馴し年を経て 正好
「鷹の餌ごひ」はここでは師を失った悲しみの比喩ではなく、鷹狩の鷹が泣いているという意味になります。
鷹狩は鷹だけでなく犬と共に行われます。犬をけしかけて鳥を飛び立たせ、それを鷹が捕らえたのです。
飼い犬と一緒に同じように長年にわたって手なずけられた鷹も、主人を失い鳴いている、そういう場面になります。
連歌でも俳諧でも、大事なのは展開する、ということにあります。同じ下句で別の上句が付いた時、別の歌になるようにしなくてはなりません。同様に同じ上句で別の下句が付いた時も、
野は雪にかるれどかれぬ紫苑哉
鷹の餌ごひに音おばなき跡
飼狗のごとく手馴し年を経て
鷹の餌ごひに音おばなき跡
というように、別の歌にならなくてはなりません。
そのためには前句の作られた時と別の意味に取り成す、というのが基本になります。
四句目では「飼狗のごとく手馴し」ものは鷹ではなく、犬の張り子に取り成されます。
飼狗のごとく手馴し年を経て
兀たはりこも捨ぬわらはべ 一笑
前句の手慣れて年を経たものは、古い犬張り子だったということになります。この場合も
飼狗のごとく手馴し年を経て
鷹の餌ごひに音おばなき跡
飼狗のごとく手馴し年を経て
兀たはりこも捨ぬわらはべ
と、別の歌になります。
さて、この『貞徳翁十三回忌追善俳諧』での芭蕉の句を見て行きましょう。
まずは六句目に、宗房の名が見られます。
けうあるともてはやしけり雛迄
月のくれまで汲むももの酒 宗房
(けうあるともてはやしけり雛迄月のくれまで汲むももの酒)
ひな祭りは旧暦三月三日なので、夕暮れに出る月は三日月になります。旧暦では日付と月齢が一致します。
三日月はすぐに沈んでしまい、夜になると真っ暗なので、この日の宴は夕暮れで終了になります。そういうわけで「月のくれまで汲む」となります。
雛に「ももの酒」を付ける、こうした縁の深い言葉を手掛かりにして付ける付け方を物付けと言います。いまでも何々に何々は「付き物」という言い回しをします。それは連歌や俳諧の付け方からきています。
「桃の酒」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、
「[蘇頌図経]太清本草本方に云、酒に桃花を漬してこれを飲は、百病を除き、顔色を益す。[千金方]三月三日、桃花一斗一升をとり、井花水三升、麹六升、これを以て好く炊て酒に漬し、これを飲めば{太|はなはだ}よろし。○御酒古草、御酒に入るる桃也。」
とあります。
次に十一句目を見てみましょう。
案内しりつつ責る山城
あれこそは鬼の崖と目を付て 宗房
(あれこそは鬼の崖と目を付て案内しりつつ責る山城)
前句の「山城」を鬼の城に見立てるわけですが、これは物付けではなく心付けになります。「こころ」は今では心情だとか、精神的のものをイメージしますが、この頃は「意味」の意味でも用います。
物付けは前句にある一つの単語と相性の良い単語(「付け合い」だとか「付き物」だとかいう)を選んで、後から一首の和歌になるように辻褄を合わせる付け方で、素早く機械的に付けられる利点があるます。
連歌でも俳諧でも付け句には素早さが要求されます。考え込んで場が滞ることを嫌うからです。
遠くから人を呼んだりしての興行は時間的に限りがありました。その時間内で一巻を仕上げる必要があったために、物付けのような素早く付けられる付け方が重宝されていました。
心付けはそれに対し、何か面白い展開を思いついた時の付け方になります。意味が通っていて面白ければ、付き物があるかないかにかかわらず付けて行きます。
それにしても「鬼の岩屋」とはお伽話のような世界ですね。
次は十六句目。
まどはれな実の道や恋の道
ならで通へば無性闇世 宗房
(まどはれな実の道や恋の道ならで通へば無性闇世)
これも意付けで、前句の「まどはれな」を受けて、惑えば「無性闇世」と展開します。
ちなみに「まどはれな」のような人を{咎|とが}める言葉の入った句を「咎めてには」と呼び、連歌では頻繁に見られます。
「無性」は今日でも「無性にラーメンが食べたくなる」というふうに用いられます。激しい衝動に突き動かされるという意味の言葉です。
相手がその気がないのに一方的に衝動に突き動かされて通い続ければ、それこそ今でいうストーカーですね。そうなってはまさに「闇の世」、惑うなかれとなります。
次はちょっと飛んで三十一句目。
秋によしのの山のとんせい
在明の影法師のみ友として 宗房
(在明の影法師のみ友として秋によしのの山のとんせい)
前句の吉野と有明の月は付け合いで、この二つの言葉の関連は古歌に由来します。
朝ぼらけ有明の月とみるまでに
吉野の里にふれる白雪
坂上是則 (古今集)
の歌は藤原定家の『小倉百人一首』でもよく知られています。この歌のイメージで「吉野」と「有明」は結び付きやすい言葉となり、「付き物」になります。
「影法師」は李白の「月下独酌」に、
挙杯邀明月 対影成三人
盃を挙げて月を客として迎え、影と対座して三人となる。
の句があり、月の光によって生じる自分の影を友として夜を明かすという趣向は、この詩から来ていると思われます。
芭蕉の後に貞享元年(一六八四年)冬の『冬の日』に収録された「狂句こがらし」の巻でも、
きえぬそとばにすごすごとなく
影法のあかつきさむく火を燒て 芭蕉
の句を詠んでいます。
吉野の遁世に有明の影法師が出典にべったりと付いているのに対し、「消えぬ卒塔婆」の「暁」に火を焚いた「影法(影法師)」は蕉風確立期の古典回帰とはいえ、出典とは違う独立した趣向を生み出しています。
続いて大分飛びますが、七十五句目を見てみましょう。
久しぶりにて訪妹が許
奉公の隙も余所目の隙とみつ 宗房
(奉公の隙も余所目の隙とみつ久しぶりにて訪妹が許)
当時は芭蕉も蝉吟のところの奉公人でしたが、今みたいな休暇はほとんどなくても、仕事の合い間合い間に暇ができたりすることはあったのでしょう。そういう時には俳諧を楽しんだりもしたのでしょう。
もっとも、たいていの奉公人は、そんな渋い趣味を楽しむよりは、女の許にせっせと通っていたのではないかと思います。
「余所目」は「よそ見(浮気)」の意味もあり、妹というのは浮気の相手。これは今風に言うと「奉公人あるある」たったのでしょうね。
山城を鬼の住む所に取り成した突飛な空想も芭蕉ならではのものですが、こういうリアルなあるあるネタを持ち出すのも芭蕉の持ち味で、豊かな想像力とリアルな感覚の同居が生涯に渡って芭蕉の作品に幅を持たせているといっても良いと思ってます。
さらに言えば、豊かな想像力と現実感覚、それに無性闇世の道徳心、影法師を友にするという古典への造詣、それが芭蕉だと言ってもいいのではないでしょうか。
湖春編『続山井』は寛文七年(一六六七年から一六六八年)に刊行され、宗房の発句が三十一句も入集して、当時の俳壇で一躍名を上げることになります。
湖春は季吟の息子で、『続山井』は季吟が正保四年(一六四七年~一六四八年)に刊行した『山之井』、寛文三年(一六六三年から一六六四年)の『増山井四季之詞』の続編とも言えるものです。
その中から十句ほど拾ってみて行きましょう。
花の本にて発句望れ侍て
花に明ぬなげきや我が歌袋 宗房
「明ぬ」は「あかぬ」と読みます。昔の文章は今の送り仮名と違うので、読み方には慣れが必要です。
先ほどは、
春やこし年や行きけん小晦日 宗房
のように、今の送り仮名に直しましたが、本来は「行けん」と表記します。
今学校で習う送り仮名表記は戦後のもので、活用語尾は基本的に仮名表記するようになっています。そのため「行」は「ゆか(ゆこ)、ゆき、ゆく、ゆく、ゆけ、ゆけ」と活用するので「行き」と「き」を表記します。
これに対して、昔の送り仮名は漢文の送り仮名が基本にあるので、活用語尾は補いません。「けん」は付け加えられた助動詞なので表記されますが、「行」は一つの単語なので、この字自体に「ゆか(ゆこ)、ゆき、ゆく、ゆく、ゆけ、ゆけ」がすべて含まれていると考えてください。
「明ぬ」も「ぬ」は助動詞で別の単語ですが、「明」は「あか」も「あけ」も含めての同じ文字と考えます。
前書きの「望れ侍て」も今の送り仮名だと「望まれ侍りて」になります。これも古典を読むときには旧字旧仮名と同様、慣れが必要です。折を見て少しづつ解説していこうと思います。
さて、句の方ですが、「あかぬ」は「飽かぬ」と「開かぬ」を掛けて用いられています。「花に飽かぬ」だと、花を見ていて飽きないという意味になり、「花に開かぬ」という場合は何が開かないかというと、後に出て来る「歌袋」です。
「歌袋」は歌を記した紙を入れておく袋で、いわばネタ帳のようなものです。この場合は比喩で、花を見てもなかなか良い歌のアイデアが出てこないということです。
和歌でも連歌でも俳諧でも、我が国の歌の道では、時宜に合わせて即興で詠むという能力が重視されてました。平安時代などは、詠むだけでなく、他人が詠んだ歌に即座に返歌をするという能力が求められていました。
こういう即興で詠む機知を重視する文化が、連歌や俳諧のように、上句を出された時に即座に下句を付け、下句を出された時に即座に上句を付けるゲームを発達させたわけです。
俳諧の発句というのも、その時の興で即座に詠むことが求められます。ただ、実際にはそんなに都合よくいいアイデアが出て来るものでもありません。そこである程度発句や付け句に使えそうなネタを書き留めてストックしておくというのは、みんなやっていたことではなかったかと思います。
そういうわけで、花見の席で発句を求められていても、手持ちのアイデアから今の状況にふさわしいものを選び出して、それを句にするわけです。
この場合は実際に「花に明ぬなげきや我が歌袋」という句を詠んでいるから、歌袋は開いているのですが、花があまりに見事なので言葉もありません、ということを言いたいために、あえて歌袋が開かなかったことにしているわけです。
これはこれはとばかり花の吉野山 貞室
の句は、当時なら誰もが知る有名な句でした。この句も、吉野の花の見事さに圧倒されて、あえて声を詰まらせたような演出をしています。
下手な言葉を尽くすよりも、かえって絶句することがその素晴らしさを表現するというもので、「花に明ぬ」の句もそれに倣ったといっていいでしょう。
初瀬にて人と花みけるに
うかれける人や初瀬の山桜 宗房
これは『小倉百人一首』でもよく知られている、
うかりける人を初瀬の山おろしよ
はげしかれとは祈らぬものを
源俊頼(千載集)
の「う(憂)かりける」を、花で浮かれた「浮かりける人」に変えて、「山おろし」を「山桜」に変えるという、今でいうパロディーの句と言えるでしょう。
これを「うかれける人を初瀬の山桜」とすると、この後に何か下句が続かないと収まりが悪い感じがします。単なる和歌の片割れであって、一句として独立した感じがしません。これでは連歌や俳諧では「発句」とは呼びません。発句は一句独立した調子を持つ「切れた」句でなければなりません。
そこで連歌の時代からいろいろ文法を学び、これを使えば容易に句が切れるという助詞や助動詞、活用語尾などの文字を見つけ出してきました。これが「切れ字」と呼ばれるものです。
そこでどうすれば良いかというと、「うかりける人を初瀬の山桜」では「うかりける人」に「山桜」を提示しただけで、「で、そのうかりける人に山桜がどうしたんだ?」というふうになってしまいます。これを「うかりける人や初瀬の山桜」とすれば「初瀬の山桜にうかりける人や」の倒置になります。これは「初瀬の山桜にうかりける人や(あらん)」という意味で、「あらん」という術語が省略されてはいますが、一つの文章として完結します。
発句を詠む時には、こういう文法的な感覚がきわめて重要です。芭蕉は、その才能が際立っていたので、一句が非常にキャッチーなフレーズとなって、読者の頭にすんなりと入って来るのです。
だから、源俊頼の和歌は有名ですし、これをネタにして「花に浮かれる人」に換骨奪胎できないかということは、多くの人が考えたかもしれません。ただ、「うかれける人や初瀬の山桜」というふうに元歌のいじりを最小限にして、綺麗にわかりやすくまとめ上げるというのが、芭蕉さんならではのものだったのではないかと思います。
糸桜こやかへるさの足もつれ 宗房
糸桜というのは今でいう枝垂れ桜のことです。花見の席ではみんな酒を飲んで酔っ払って、帰りの足取りはふらふらしているものです。それを糸桜の糸が絡まったみたいだ、というわけですが、もちろんそれだけではありません。
これは糸桜の美しさに心が捕らえられてしまって、帰らせないようにしているのだ、というそういう連想も誘います。
花に酔い、花に魅せられ、立ち去りがたくする。糸桜の美しさをこれ以上ないくらい上手に表現しています。
風吹ば尾ぼそうなるや犬桜 宗房
犬桜はバラ科で桜の中まではありますが、あまり華やかなものではありません。そのためあまり詠まれることもありません。遅咲きで花は小さく、穂のような形で咲きます。
犬桜という名称は犬蓼、犬胡麻、犬芥子のように、犬と付かないものに比べて、劣っているという意味が込められています。
ただ、ここで芭蕉は穂のような咲き方をする犬桜を犬の尾に喩えて、それが風に散ってゆく姿を「尾ぼそうなる」と表現しています。こういうあまり人の目を引かないものにも面白さを見出すというのも、芭蕉さんの句の一つのパターンでもあります。
世の人のみつけぬ花や軒の栗 芭蕉
は、後に『奥の細道』の旅で、須賀川で詠んだ句です。
ただ、「犬桜」は和歌にも詠まれてます。作例はほとんどありませんが、延慶三年(一三一〇年)頃成立した藤原長清撰の『夫木和歌抄』、略して『夫木抄』と呼ぶことも多いのですが、そこに、
山陰に痩せさらぼへる犬桜
追ひ放たれて行く人もなし
源俊頼
という和歌があります。「痩せさらぼへる」は瘦せこけたという意味です。
『夫木抄』は俗語や方言を交えた歌も多く収録されていたため、俳諧をやる人には必須の歌集でもありました。そこに犬桜の「痩せさらぼへる」とあるため、「尾ぼそうなるや犬桜」も「犬桜」という雅語の正しい用法ということになります。こういうのを「證歌を取る」と言います。
夕顔にみとるるや身もうかりひよん 宗房
「うかりひょん」という言葉の面白い句といっていいでしょう。意味としては『源氏物語』の夕顔巻から取った本説の句です。
源氏の君が六条御息所の所に通っていた頃のことです。途中で五条のいる大弐の乳母を見舞いに寄ったとき、すぐに牛車を中に入れることができず、待たされていた時でした。半蔀という外開きの窓が開いていて、中にいる女の姿が見えて、興味を惹かれます。
そしてそこの垣根に白い花が咲いているのに目を止めます。あの花は何かというと、お付の者が、
「あの白く咲いているのは夕顔といいます。
花の名前は人に似るといいますか、こういう薄汚い家の垣根に咲いたりするんですよ。」
と教えてくれました。これが、この家に住む女性との出会いとなりました。『源氏物語』の原文にに女性の名前は出て来ませんが、後の人は「夕顔」と呼んでいます。
こうして興味を持った女性がいると、ついふらふらっと通っては口説いて、大体ろくな結果にはならないものです。
その物語を思い起こさせながら、「うかりひょん」という俗語で落とす。ここに俳諧の笑いが生まれます。
「うかりひょん」は「うっかり」という言葉と「ひょん」という言葉の合わさった当時の俗語です。
「うっかり」は今の意味の「うっかり」も含みますが、「浮かる」という言葉から来ています。「うかりける人や」の句が前にありましたね。現代語だと「浮かれる」です。
「ひょん」は今でも「ひょんなことから」という言い回しに残っています。イスノキという植物の別名が「ひょんの木」だったところから来ていると言います。
ここからはウィキペディアの請け売りですが、イスノキはイスオオムネアブラムシの寄生によっては丸く大きく膨らんだ虫こぶ(ひょんの実)が形成されやすく、この実が成熟すると表面が硬く、内部が空洞になり、出入り口の穴に唇を当てて吹くと笛として使えるために、「ひょうと鳴る木」からひょんの木になったと言われています。
そういうわけで「うかりひょん」は浮かれて軽々しく飄々と笛を吹いている、そんなものを思い浮かべればいいでしょう。その軽々しくやったことが意外に重要な結果を生んだりすると、「ひょんなことから」ということになります。
岩躑躅染る泪やほととぎ朱 宗房
岩躑躅は岩場に自生しているツツジで、和歌では、
思ひいづるときはの山の岩つつじ
言はねばこそあれ恋ひしきものを
よみ人しらず(古今集)
のように「言わぬ」と掛けて用いられます。
ツツジは晩春から初夏にかけて咲くので、ちょうどホトトギスの鳴き始める季節と重なります。ホトトギスは蜀の国の望帝杜宇が死んでその霊がホトトギスになっただとも、その蜀が滅ぼされたのを悲しんで泣きながら血を吐いたとも言われています。口の中が赤いからだと言います。
そのホトトギスが泣き悲しんで血の涙に染まったかのようなツツジの色だというのが、この句の意味です。これだと悲しい話ですが、最後にちゃんと落ちを付けてくれます。赤い血を吐く鳥だからホトトギ「朱」だと。
秋風の鑓戸の口やとがりごゑ 宗房
鑓戸は舞良戸とも言います。狭い間隔で細い横桟を張った引き違いの板戸で、明かり障子と組み合わせて雨戸として用いられました。通り抜ける秋風が音を立てて、それが腹を立てた時の甲高い声に似ているという句です。戸口という言葉から、口から出る声に喩えています。
「や」という切れ字は、元は疑問反語を表す係助詞で、「秋風の鑓戸の口や尖り声なるらむ」の省略された形になります。そのため「とがりごゑ」は比喩で、本当に誰かが怒っているわけではありません。
たんだすめ住ば都ぞけふの月 宗房
「たんだ」は唯ということです。「すめ」は月の澄むと掛けて用いられています。
古代には宮廷で華やかな月見の宴が催されていましたが、地方ではその習慣もなく、流刑や左遷、隠逸など様々な理由で都を離れた人たちは、片田舎で都の月見を懐かしがり、今の境遇との落差に泪したものです。『源氏物語』の須磨巻の月見の場面などは、当時は誰もが知るものでした。
そんな古典の世界を思い起こしながら、「住めば都」という諺を持ち出して、田舎暮らしに慣れなさい、そうすればどこにいても見る月はみな都の月ですと、そういう句になります。
影は天の下てる姫か月のかほ 宗房
「天の下てる姫」は記紀神話に登場する神の名前で、葦原中国平定のために高天原から遣わされた天若日子の妻になります。その天若日子は殺されてしまい、下照姫は大声で泣きました。
この下照姫は「夷振」と呼ばれる歌を詠んだことから、『古今和歌集』の仮名序に、
「この歌天地の開け始まりける時よりいできにけり。しかあれども世に伝はることは久方の天にしては下照姫に始まり、あらがねの地にしてはすさのをの命よりぞおこりける」
と和歌の起源に結び付けられています。
天なるや弟たなばたの項がせる
玉の御統御統に
穴玉はや み谷二渡らす
阿治志貴高日子根神ぞや
という歌でした。
「影」という言葉は昔は「光」をも意味しました。月影、火影というのは月の光、日の光のことです。ここでも影は月の光のことで、それが空から下を照らしているから、あの月は「天の下てる姫」の顔か、ということになります。この句は「影は天の下てる姫の月のかほか」の倒置になります。
こういう助詞の倒置の仕方は、係助詞の起源に係わっています。たとえば「月やあらぬ」は「月はあらぬや」の倒置、「人こそ見えね」は「人見えねばこそ」の倒置に由来します。この句の場合も「天の下てる姫の月のかほか」が倒置になって「天の下てる姫か月のかほ」となります。
月を神話の女神さまに見立てて、その悲しい物語を思い起こすなら、月を見ると悲しくなるのも納得ということになります。
月の鏡小春にみるや目正月 宗房
「目正月」は「目の正月」とも言います。本当の正月ではなく、何か美しい物有難い物などを見ると、目に正月が来たみたいにお目出度いという意味です。
秋冬の月は乾燥した澄み切った空に浮かぶことで、鏡にも喩えられますが、春というと朧月で、ぼんやりと霞んでいて夜の明るさも秋には劣ります。そのため春の桜の季節に秋のような澄んだ明るい月があればいいのに、と誰しもが思う所でした。それだと満開の桜の夜にも花見の宴ができそうです。
今のような街の灯りに照らされた明るい空がなかった時代です。夜桜の宴は夢でした。芭蕉の晩年の発句ですが、
名月の花かと見えて綿畑 芭蕉
の句も、そういう名月と桜が共存できないという所から生まれた句でした。
冬の月は寒月とも凍月とも言って、冷え冷えとしたものとされてますが、小春日和の暖かい夕暮れに現れる月は、秋冬の澄みきった鏡のような月にもかかわらず春が来たかのようで、春に秋の名月が見られたような感覚を与えます。それを「目正月」という言葉で面白く言い表したのがこの句でした。
霰まじる帷子雪はこもんかな 宗房
帷子雪は大きな雪片がふわふわと降ってきてうっすらと積るゆきのことです。牡丹雪とも言います。帷子が一重で薄い着物なので、そう呼ばれていました。
同じ薄く積る雪でも、「薄雪」と言った場合には冬の初めの薄っすらと積る雪のことで、「淡雪」と言った場合には春に薄く残る雪のことになります。そのため「薄雪」は冬の季語、「淡雪」は春の季語になります。この場合の帷子雪は冬に降る薄雪のことなので、冬の季語になります。
似たようなものに、春の霞む月は「朧月」ですが、秋の霞んだ月には「薄月」とという言葉があります。
霰交じりに降る帷子雪が着物の上に落ちてくれば、そこだけ白い輪ができて、あたかも小紋を散らしたようだ、というそういう句になります。「帷子」という着物の名前が出て来ることから、自然と着物の上の雪が連想されます。
芭蕉がこれらの発句を詠んでいた頃、残念なことに寛文六年(一六六六年)の四月に、芭蕉の主人でもあり俳諧の手ほどきをしてきた蝉吟こと藤堂良忠が、二十五歳の若さで亡くなってしまいました。
『続山井』三十一句入集の朗報も、その悲しみの癒えぬ頃に聞くことになったのでしょう。それを励みとして、蝉吟に代わってこれからの伊賀の俳諧を支えて行こうという思いもあったかもしれません。芭蕉はこの六年後の寛文十二年(一六七二年)の春まで伊賀に留まることになります。
芭蕉は伊賀を離れる直前に『貝おほひ』という句合を編纂し、翌寛文十三年に刊行されています。この寛文十三年は九月二十一日に改元され、延宝の時代を迎えます。
『貝おほひ』といいますと、その二番目の句合せに、
「二番
左勝 此男子
紅梅のつぼミやあかいこんぶくろ
右 蛇足
兄分に梅をたのむや児桜
左のあかいこんぶくろハ。大坂にはやる丸のすげ笠と。うたふ小歌なれバ。なるべし。
右梅を兄ぶんに頼む児桜ハ。尤も頼母敷きざしにて。侍れども。打まかせては。梅の発句と。聞えず。児桜の発句と。きこえ侍るハ。今こそあれ。われもむかしハ衆道ずきの、ひが耳にや。とかく左のこん袋ハ。趣向もよき分別袋とみえたれば。右の衆道のうハ気沙汰ハ。先おもひとまりて。左をもつて為勝。」
というのがあります。この「われもむかしハ衆道ずきの」とあるのが、昔から芭蕉ホモ説の根拠となってました。今の言葉で言うなら芭蕉LGBT説といったところでしょうか。芭蕉の時代では男色の道は「衆道」と呼ばれてました。
もっともこの「衆道ずき」が本当なのか、単にノリで言っただけなのかは定かではありません。
「あかいこんぶくろ」は当時流行の小唄の歌詞からとったもので、その小唄を知っていれば面白さが分かると言ったものです。こういう句も当時流行っていたのでしょう。
上方ではすでに前年の寛文十一年に宗因が『宗因十百韻』を高滝以仙撰の『落花集』全五冊の内の一冊として公刊していて、宗因の開いた談林俳諧がそれまでの貞門に取って代わるように席巻していった時代でもあります。芭蕉もその影響を受けていたことでしょう。
「兄分に」の方の句で、梅が兄分だというのは「梅が花の兄」と呼ばれていたからです。一年で最初に咲く花ということです。ここでは衆道の兄貴分ということで、弟分が稚児で桜ということになるます。桜は梅より後に咲くから弟になります。
「児桜」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、
「山桜の一種なり。又小桜のるゐにて別種也と云。按ずるに、山桜のうちに、紅色を含て美しく愛らしき花あり。故に児桜の称ある歟。」
とあり、そういう品種の桜もあったようです。
あと、句点の付け方ですが、この当時には今のような句読点はありません。和文であれば、一切区切りなしで、改行もなしで書かれるのが普通です。今我々が読む古典の本の多くは、校訂者によって句点が補われています。
ただ、昔でも時折このように句点だけ打った書体のものがあります。ただ、ネット上で閲覧できる早稲田大学所蔵の伊地知鉄男文庫の写本には、句読点はありません。伊賀上野の天満宮に奉納された本の写真を見ますと、確かに句点が打たれています。ちなみに、引用のテキストは『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、杉浦正一郎、宮本三郎、荻野清校注、一九五九年、岩波書店)によるものです。
芭蕉は故郷伊賀を離れる前に、この『貝おほひ』を書き表し、これを手土産に江戸へ行き、やがて江戸の俳諧の第一人者へ成長していきました。その旅立ちの時の句が残っています。
かくて蝉吟早世の後、寛文十二子の春二十九才
仕官を辞して甚七ト改メ、東武に赴く時、
友だちの許へ留別
雲とへだつ友かや雁のいきわかれ 宗房