「嵯峨日記」─緩い隠棲生活─

 『嵯峨日記』は宝暦三年(一七五三年)に魯玉楼顕忠よって『はせを翁嵯峨日記』という題で刊行されたのが最初になる。その後安永四年(一七七五年)に刊行された闌更編『蓬莱嶋』に『落柿舎日記』と題して収められたものが存在する。ここでは『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』(岩波文庫、中村俊定校注、一九七一)所収のものを用いる。

一、四月十八日

 「元禄四年(しん)()卯月(うづき)十八日、嵯峨にあそびて去来(きょらい)(らく)柿舎(ししゃ)(いたる)凡兆(ぼんてう)(とも)(きた)りて、暮に(および)て京ニ帰る。予は(なほ)(しばらく)とどむべき由にて、障子つづくり、葎引(むぐらひき)かなぐり、舎中の片隅一間(ひとま)なる(ところ)伏処(ふしど)ト定ム。机一、硯、文庫、白氏集・本朝一人一首・世継(よつぎ)物語・源氏物語・土佐日記・松葉集(しょうえふしふ)(おく)(ならびに)(から)(まき)()(かき)たる五重の(うつは)にさまざまの菓子ヲ(もり)、名酒(いっ)()盃を(そへ)たり。夜るの(ふすま)調(てう)(さい)の物(ども)京より(もち)(きた)りて乏しからず。我貧賤をわすれて清閑ニ(たのしむ)。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.123

 

 元禄四年四月十八日は西暦一六九一年の五月十五日になる。元禄四年は十干十二支では辛未(しんび)(かのとひつじ)でひつじ年。当時は西暦のような長い年月を通年で数える習慣がなく、元号と十干十二支で年を表していた。そのため、十年前の年号でも間違えることがある。

 我々も元号で平成五年と言われてもすぐに西暦に変換できず、何年前のことかすぐに答えられなかったりする。昔の人は別にそれでも日常的には困らなかった。そんな大雑把な時の流れの中で生活していた。

 旧暦の大の月小の月も新暦のように固定されてなかったので、時折存在しない三十日が日記に書かれていることもある。その辺もあまり深く追求しない方が良い。

 これはそんなゆったりした時間の流れの中での日記。ということで、四月十八日にこの日記は始まる。

 四月十八日、芭蕉は京都嵯峨野にある去来の(らく)柿舎(ししゃ)にたどり着く。弟子の(ぼん)(ちょう)も一緒だ。去来も凡兆もこの年七月に刊行される撰集『(さる)(みの)』の撰者で、『猿蓑』は俳諧の古今集とも言われるくらいの、蕉門の撰集の中でも完成度の高いものとして知られている。その本格的な編纂作業に入る前のことだった。

 嵯峨野は今は京都の嵯峨野と呼ばれているが、当時の「嵯峨」は「京」とは別というふうに認識されていたのか、ここでも凡兆が「暮に(および)て京ニ帰る」とある。当時の撰集で名前の所に加賀だとか美濃だとか国名が示されている時でも、嵯峨野の住人は「京」ではなく「嵯峨」と表記されている。

 凡兆はこの日京に帰り、芭蕉は嵯峨にとどまり、しばらくこの去来の嵯峨落柿舎に滞在することになる。ここに「嵯峨日記」が始まる。

 『奥の細道』のあと、故郷の伊賀か近江、京などを転々としていたが、その間も時折体調を崩し、前年は近江の幻住庵にしばらく隠棲した。夏の暑い時期は休養が必要なのだろう。元禄四年もここでしばらく休養することになる。

 しばらく滞在するというので、障子の穴を塞いだり、庭に茂るムグラを引き抜いたりし、片隅の一間を自分の部屋とする。一間は六尺で畳一畳の縦の長さだと思えばいい。一間四方の部屋というと二畳間になる。当時の人の身長は百五十センチくらいだから、横になっても頭を打つことはない。

 机も当時の机はそんな大きなものではないし、椅子に座るわけでもないので高さもない。机を置いても寝るスペースは十分確保できる。この時代、裕福な家では寝る時に敷布団を敷いたが、落柿舎ではどうだったかはわからない。

 さて、机を置けばそこにまず硯を置く。「文庫」とあるのは文庫箱のことだろう。筆箱の大きなものと思えばいい。筆や墨やそのほかの小物が入っている。

 そして、持ってきた本を積み重ねる。白氏集・本朝一人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集。

 白氏集は『(はく)()文集(もんじゅう)』で江戸時代には刊本で流通していた。

 『本朝一人一首』は林羅山(はやしらざん)の三男の林鵞(はやしが)(ほう)の撰で、日本の漢詩を集めたもので、寛文五年(一六六五年)に刊行されている。林鵞峰は日本三景を定めてことでも知られている。

 『世継(よつぎ)物語(ものがたり)』はウィキペディアに、

 

 1.栄花物語の別称。

 2.大鏡の別称

 3.鎌倉時代の説話集。『小世継物語』。

 

とある。このどれかの江戸時代の刊本だと思われる。

 『源氏物語』は延宝元年(一六七三年)に季吟の『源氏物語湖月抄』も出版されていて、それまでの古註が網羅されている。今でも江戸後期の国学によってゆがめられる以前の、本来の『源氏物語』を知りたい人には便利だ。

 『土佐日記』も季吟の『土左日記抄』が寛文元年(一六六一年)に刊行されている。

 『松葉集』はweblio辞書の「古典文学作品名辞典」に九種類の松葉集が載っているが、この時代のものとすると、寛文七年(一六六七年)刊の六字堂宗恵の『松葉名所和歌集』のことか。

 これにあと、唐蒔絵の五重の器に菓子を盛り、名酒一壺と盃を置く。これくらいなら寝るスペースは十分確保できる。

 「夜るの衾」は夜着のことで、布製の物と紙製のものとがある。紙衾は小さく折りたためて持ち運びに便利なので旅人が利用していた。ここでも紙衾ではないかと思う。芭蕉の元禄二年九月の俳文に『紙衾ノ記』がある。そこには、

 

 「昼はたたみて背中に負ひ、三百余里の険難をわたり、つひに頭をしろくしてみのの国大垣の府にいたる。」

 

とあり、『奥の細道』の「帋子一衣は夜の防ぎ」も紙衾と思われる。

 「調采の物共」は精進料理のことで、寝床もあり、食料もあり、酒もおつまみ(菓子)もあって、これでしばらくの緩い隠棲生活が始まる。

二、四月十九日

 「十九日 午半(うまなかば)臨川寺(りんせんじ)(けいす)。大井川前に(ながれ)て、嵐山右ニ高く、松の尾里(をのさと)につづけり。虚空蔵(こくざう)(まうづ)ル人(ゆき)かひ多し。松尾(まつのを)の竹の中に小督(こがう)屋敷(やしき)(いふ)(あり)(すべ)上下(かみしも)の嵯峨ニ()所有(ところあり)、いづれか(たしか)ならむ。(かの)(なか)(くに)ガ駒をとめたる処とて、駒留(こまどめ)の橋と(いふ)(この)あたりに侍れば、(しばらく)(これ)によるべきにや。墓ハ三間屋(さんげんや)(となり)、薮の内にあり。しるしニ桜を(うゑ)たり。かしこくも錦繍(きんしう)(りょう)()の上に起臥(おきふし)して、(つひに)(そう)中に(ちり)あくたとなれり。(せう)君村(くんそん)の柳、普女(ふぢょ)(べう)の花の昔もおもひやらる。

 

 うきふしや竹の子となる人の果

 嵐山薮の茂りや風の筋

 

 (しゃ)(じつ)(および)て落柿舎ニ帰ル。凡兆京より(きたる)。去来京ニ帰る。宵より(ふす)。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.123124

 

 来てそうそう、この日は近くを散策することになる。

 午前中はゆっくりしていて昼頃落柿舎を出て今の嵐山駅の先で桂川(当時の大井川)に近い臨川寺(りんせんじ)に詣でる。参拝を終えて本堂に背を向けると、右側に嵐山があり、左側は松尾(まつのお)大社(たいしゃ)のある松尾(まつのお)の里に続く。

 ()(げつ)(きょう)はウィキペディアによると、慶長十一年(一六〇六年)に角倉了以によって現在の位置に掛け替えられたという。芭蕉も臨川寺を出ると渡月橋を渡る。

 「虚空蔵(こくざう)(まうづ)ル人(ゆき)かひ多し」という虚空蔵は橋の向こうの虚空蔵(こくぞう)法輪寺(ほうりんじ)のこと。

 「松尾(まつのを)の竹の中に小督(こがう)屋敷(やしき)(いふ)(あり)」とあるが、これは今の小督塚ではない。

 今の小督塚は渡月橋の北岸を西に行ったところにある。渡月橋のすぐそばの(くるま)(ざき)神社(じんじゃ)嵐山頓宮の前には駒留(こまどめ)の橋もある。小督塚はこのすぐ西にあり、さらに西へ行くとかつて三軒茶屋があって、それが「墓ハ三間屋の隣、藪の内にあり」の「三間屋」だとされている。ただ、ここは松尾(まつのお)ではない。

 次に「(すべ)上下(かみしも)の嵯峨ニ()所有(ところあり)、いづれか(たしか)ならむ」とあるように、芭蕉の時代には小督屋敷と呼ばれている場所が三つあったようだ。だから、松尾にも同じように駒留の橋や三間屋があったのかもしれない。

 名所というのはこういうのも別に珍しくなく、後に元禄九年に桃隣が陸奥を旅した時も、同じ歌枕が何か所にもあったりする。近代に入ると観光業界の発信力の勝負になってしまったところもあり、たとえば勿来(なこそ)の関が本当にあそこにあったかどうか、確かな証拠があるわけでもない。

 そういうわけで、芭蕉の尋ねた「松尾の竹の中」の小督屋敷は不明ということにしておく。

 小督は高倉天皇に寵愛された小督局(こごうのつぼね)で『小督』という謡曲にもなっている。謡曲では、

 

 「これは高倉の院に(つか)(たてまつ)臣下(しんか)なり。さても小督(こごお)(つぼね)と申して、(きみ)御寵愛(ごちょおあい)御座候(ござそおろお)。中宮は(まさ)しき 相国(しょおこく)御息女(おんそくぢょ)なれば、世の(はばか)りを(おぼ)しめしけるか、小督(こごお)(つぼね)暮に()せ給ひて候。君の(おん)歎き限りなし。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.65743-65755). Yamatouta e books. Kindle.

 

とある。中宮との争いを遁れて薮の中の(しづ)が家にに侘び住まいする小督は、松尾の竹薮の中にあってこそふさわしいと芭蕉も思ったのかもしれない。形見の二本の桜の木も、この季節は葉の茂るのみだ。

 「(せう)君村(くんそん)の柳、普女(ふぢょ)(べう)の花」は『和漢朗詠集』に、

 

 巫女廟花紅似粉。昭君村柳翠於眉

 巫女(ふぢょ)(べう)(はな)(べに)より(くれなゐ)なり

 (せう)君村(くんそん)(やなぎ)(まゆ)よりも(みどり)なり

 

とある。白楽天の詩句だ。

 竹薮のみならず「薮」という言葉も昔は「(しづ)」という言葉を連想させるものだった。竹細工なども(おん)(ぼう)などの穢多・非人とは異なる雑種賤民の仕事とされていた。

 貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)というのは洋の東西を問わず物語の定番でもあった。ただそれは、単に哀れだというだけでなく、謡曲『蝉丸(せみまる)』のように、上下の逆転した一つの見方を提供する。

 つまり華やかな貴族も結局見方を変えれば絶えない権力争いで身をすり減らし、必ずしも幸福な人たちではなく、賤民の生活は苦しくてもそこにはささやかな幸せもある。

 

 世の中はとてもかくても同じこと

     宮も藁屋(わらや)も果てしなければ

               蝉丸(新古今集)

 

 宮廷も決して楽園なんかではない。そう思えば身分は違っても結局人生は悲しいものなんだ。人間社会の生存競争は結局自らの利権を守るための、排除のための戦いだ。利権が大きければ大きいほど競争もし烈になる。(二十世紀の社会主義国家も例外でなく、権力が極端なまでに最高指導者に集中する体制は、結局粛清の嵐が吹き荒れて、夥しい数の人が虐殺されていった。)

 謡曲では小督は、宮廷に戻るようにとの勅を(みなもとの)(なか)(くに)から受け取り、宮廷に戻る所で終わるが、それでハッピーエンドということではなく、実際はそのあと出家することになる。ただ、ひょっとしたらそのおかげで源平合戦の戦乱を遁れて、平和な余生を過ごすことができたのかもしれない。

 

 うきふしや竹の子となる人の果   芭蕉

 

 「うきふし」は「憂き節」だが竹の節と掛けて用いられ、松尾(まつのお)の竹薮の竹の子を導き出す。小督の栄華も些細なことで竹の子の生える薮の中の生活に変わってしまう。なら最初から世を遁れればいいではないか、というところか。

 

 嵐山薮の茂りや風の筋       芭蕉

 

 これは「(松尾の)薮の茂りは嵐山の風の筋」の倒置で、「嵐山」という地名を嵐に掛けて用いるのは歌枕を詠むときの基本だ。この嵐は小督の運命をもてあそんだ宮廷の権力争いの嵐でもある。

 さて、しみじみとしたところで、芭蕉は落柿舎へと引き返す。「(しゃ)(じつ)(および)て落柿舎ニ帰ル」とあるように、かなりの時間が経過しているところを見ても、芭蕉が訪れたのは今の小督塚ではなく、松尾にあった小督屋舗だというのがわかる。

 帰ると凡兆が京からやってきていて、去来は京へ帰る。この日の散策に疲れたか、芭蕉は宵には眠りにつく。

三、四月二十日

 「二十日 北嵯峨の祭見むと、()(こう)()来ル。

 去来京より来ル。途中の吟とて語る。

 

 つかみあふ子共(こども)(たけ)や麦畠

 

 落柿舎は昔のあるじの作れるままにして、処々頽破(たいは)ス。中々に(つくり)みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。(ぼりもの)せし(うつばり)(ゑがけ)ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も(むぐら)の下にかくれたるニ、竹縁の前に(ゆず)の木(ひと)もと、花(かんば)しければ、

 

 柚の花や昔しのばん料理の()

 ほととぎす大竹薮をもる月夜

   尼羽紅

 又や来ん()盆子(ちご)あからめさがの山

 

 去来兄の(しつ)より、菓子・調菜の物など送らる。

 今宵(こよひ)は羽紅夫婦をとどめて、蚊屋(かや)一はりに上下(かみしも)五人(こぞ)(ふし)たれば、夜もいねがたうて、夜半(すぎ)よりをのをの(おき)(いで)て、昼の菓子・盃など(とり)(いで)て、暁ちかきまではなし(あか)ス。去年(こぞ)の夏、凡兆が宅に伏したるに、二畳の蚊帳に四国の人伏たり。「おもふ事よつにして夢もまた四(くさ)」と、書捨(かきすて)たる事(ども)など、云出(いひいだ)してわらひぬ。(あく)れば羽紅・凡兆京に帰る。去来猶とどまる。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.125126

 

 「北嵯峨の祭」は嵯峨祭のことだと言われている。ネット辞書「コトバンク」の「精選版 日本国語大辞典「嵯峨祭」の解説」には、

 

 「〘名〙 京都市右京区嵯峨で行なわれる愛宕(あたご)神社と野宮(ののみや)との合同祭礼。陰暦四月の中の亥の日、陽暦では五月二三日、近年は五月の第四日曜日に行なわれる。当日、両社の神輿の渡御があり、剣鉾などを供奉したが、近年は簡略になった。《季・夏》 〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

 

とある。

 昔のカレンダーはネット上の「こよみのページ」というサイトで調べることができるが、これによると、元禄四年四月二十日は(きのと)()なので間違いない。新暦の五月十七日になる。

 この祭を見に京から羽紅が来る。前日から泊っている凡兆とは夫婦で、このあとでは「羽紅夫婦」と記している。

 この時代は基本的に普段の生活は名前だけで行われている。その名前というのは何兵衛だとか何衛門だとか郎だとかがつくことが多く、苗字は一応形式的には持っているが、榎本其角が宝井其角になったり、谷口蕪村が与謝蕪村になったり、今のような戸籍上の本名ではないので、途中で変わることも珍しくない。

 もちろん確固たる家柄の場合は先祖伝来の苗字を持っているが、その時は「氏」を付けて表記することが多い。田氏捨女がその一例だ。これは「(すて)」が名前で「(でん)」が苗字。それで女だから「田氏捨女」と表記される。ちなみに「加賀千代女」の場合の「加賀」は苗字ではなく、加賀の国の人の千代という女性という意味。

 武家の男は通常は役職名や疑似役職名で何々のかみだとか何々のすけだとかいう名前で呼ばれるが、それとは別に名乗りというのを持っている。芭蕉の場合松尾氏の宗房で、芭蕉の時代やそれより古い時代は俳号ではなく名乗りを用いている人も多かった。貞徳をはじめとして高政、常矩、信徳、正秀、昌房などは名乗りをそのまま用いている。芭蕉のように庵号で呼ばれている人は実はほとんどいない。中世連歌師の梵灯がいるくらいだろう。

 基本的に俳諧師の名前は俳号で呼ぶ。凡兆の場合加生と呼ばれることもあるが、加生も俳号なので、どっちにしても俳号で呼ばれている。羽紅も俳号で手紙の宛名には「おとめ」と記されている。「とめ」が名前。男もそうだが女の場合も特に日常生活の中で苗字で呼ぶことはまずない。

 さて大分脱線したが、この日は去来も京からやってきた。途中の吟で、

 

 つかみあふ子共の長や麦畠     去来

 

の句を披露する。

 『去来抄』に、この句に対し、凡兆が「是の麦畠は麻ばたけともふらん。」と言ったとあるが、麻は高さが2.5メートルにもなる。麻の長けとなると巨人族の子供か。

 さて、去来の発句が出たところで、ここで去来の落柿舎の説明になる。

 「落柿舎は昔のあるじの作れるままにして、処々頽破(たいは)ス。」

 落柿舎が元誰の家だったのかはよくわかっていない。ただ、庭に柿の木がたくさんあったのは確かだろう。去来の『落柿舎ノ記』に「そのほとりに柿の木四十本あり。」とある。もともとは果樹園だったのだろう。『落柿舎ノ記』は宝永三年(一七〇六)刊許六(きょりく)選の『風俗文選』に収められている。ただ、この俳文の末尾にある、

 

 柿ぬしや梢はちかき嵐山      去来

 

の発句は元禄四年の『猿蓑』にあるから、元禄三年秋までには成立していたと思われる。

 芭蕉は元禄二年の冬に京に去来を尋ねているが、この時に落柿舎に行ったかどうかは定かでない。翌三年六月にも芭蕉は京に上っているが、このときは凡兆宅に泊まっている。そうなると「落柿舎」の名前を付け、去来の別邸として使用するようになったのは元禄三年秋のことだったかもしれない。

 そのきっかけとなった事件が『落柿舎ノ記』に記されている。この四十本もの柿の木が豊かに実をつけていて、京の商人がそれを買い取るといって一貫文を置いていった。金に換算すると四分の一両だ。手付金ということか。

 ところがこの柿の実が一夜にして全部落ちてしまった。そこで、この柿主の所有する柿の木の梢は嵐山に近いから嵐で散ったんだ、と洒落てみたというわけだ。それにちなんでこの別邸を落柿舎と名付けることとなった。

 いくら嵐山だからって嵐だけで柿が散ったわけではないだろう。ネットで調べれば柿の落下の原因はいろいろ出てくる。不受精、強樹勢、ヘタムシ、カメムシ、落葉病など、柿の落下にはいろいろ原因があるが、一夜にして大量に落下したとすれば原因はカメムシかヘタムシの被害と嵐との複合によるものか。

 実際、芭蕉のこの日の日記は、「中々に作みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫せし梁、 画ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ」と続くし、到着した日に「葎引かなぐり」とも記されている。こうした荒れ果てた庭が虫の害の原因になった可能性がある。

 このあと、「竹縁の前に(ゆず)の木(ひと)もと、花(かんば)しければ」ということで、

 

 柚の花や昔しのばん料理の間    芭蕉

 

 柚子は今でも和食には欠かせない。昔はこの柚子を使ったご馳走がたくさん並べられたんだろうな、と元伊賀藤堂藩料理人らしい一句だ。

 

 ほととぎす大竹藪をもる月夜    芭蕉

 

 ただの竹やぶではなく「大竹藪」というのがいかにも荒れた感じを出している。「もる」は「漏れる」と「守る」を掛けている。

 ところで、ここで料理の句と月夜のくになってしまって、肝心な祭のことには触れていない。昨日の疲れから芭蕉は祭には行かなかったか。

 

 又やこん覆盆子あからめさがの山  羽紅

 

 羽紅の句は赤くなった苺を持ってまた来たいという句だが、「覆盆子あからめ」は頬を赤らめた様子も連想させる。

 去来の兄は元端という医者で「室」は妻のこと。正室とか側室とかいう室。菓子・調菜の差し入れを持ってきた。いずれも酒のつまみであろう。

 「蚊帳一はりに上下五人」とあるが、芭蕉、羽紅、凡兆、去来ともう一人は誰だろうか。一人多い、五人いる。

 その五人目だが、岩波文庫の『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』の中村定俊注には「屋敷守の与平」とある。岩波書店の日本古典文学大系46『芭蕉文集』(一九五九)の補注には「菓子・調菜等を届けた向井家の下僕か」とある。

 ここで一つの推理だが、落柿舎は二畳間の小さな部屋だけがポツンとあったのではなく、他にも部屋がある中で二畳間を芭蕉の寝室として提供してたのではなかったかと思う。だとすると、屋敷守や下僕がいたにしても、同じ部屋で寝る理由はない。まして屋敷守がずっと二畳間で芭蕉と添い寝してた何てこともあるまい。一緒の蚊帳に入るのは、それなりに親しい人でなければならない。

 そうなると、一番可能性があるのは元端の妻ではないか。去来にとっては身内であり、羽紅が凡兆と一緒に過ごすのなら女一人を別室というわけにもいかない。そこで女二人と男三人に分かれて「上下五人」で寝たのではなかったか。ただ、もっと単純に芭蕉が書き間違えた可能性もある。

 二畳に五人はさすがに狭いが、とりあえず男三人と女二人が逆向きになって寝ようとしたのだろう。結局眠れずにみんな起きて、酒とおつまみを引っ張り出して朝まで飲み明かすことになる。

 その中で凡兆が去年の夏に同じような二畳の蚊帳の中で四国の人と一緒に寐て、「おもふ事よつにして夢もまた四種」と書き捨てたという。

 四国は昔でいう尾張だとか美濃だとか近江だとかいう国で、それが四つということだが、凡兆以外の三人が誰なのかはわからない。一年前の夏というと芭蕉は幻住庵にいて、凡兆も訪ねてきているが、ただ自分以外の三人が今目の前にいたならこの話はしないだろう。

 

 夜が明けて凡兆と羽紅は帰って行って、去来は残った。あとの一人は結局明かされなかった。元端の妻だとしたら、明るくなってから帰っていっただろう。

四、四月二十一日

 「二十一日 昨夜いねざれりければ、心むつかしく、空のけしきも きのふに似ズ、朝より(うち)曇り、雨折々音信(おとづれ)れば、終日(ひねもす)ねむり伏たり。暮ニ(および)て去来京ニ帰る。今宵は人もなく、昼伏たれば、夜も寝られぬままに、幻住庵にて書捨(かきすて)たる反古(はうご)尋出(たづねいだ)して清書(せいしょ)。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.126127

 

 前夜は去来が兄嫁から託された菓子・調菜を持ってきて、羽紅夫婦と飲み明かしたのだろう。明け方に羽紅夫婦は帰り、芭蕉と去来はそのまま一日うだうだと過ごしたようだ。雨の降る日は眠たいものだ。

 夕方に去来が帰り、夕方になったようやく起き上がると、今度は目が冴えてしまい、幻住庵で書き捨てた反古を取り出して清書したという。あれから一年経っている。

 幻住庵記の一番最初の元となった文章は、元禄三年四月十日付如行宛書簡で、その中に、

 

 「此度(このたび)(すめ)(ところ)は石山の(うしろ)長良山(ながらやま)之前、国分山(こくぶやま)(いふ)処、幻住庵と(まうす)()(ばう)、あまりに(しづか)に風景(おも)(しろく)(ゆゑ)(これ)にだまされ、卯月(はじめ)入庵、(しばらく)残生(ざんせい)(やしなひ)候。比良(ひら)三上(みかみ)・湖上不残(のこらず)勢田(せた)の橋めの下に見へて、田上山(たなかみやま)・笠とりに通ふ柴人、わが山の(ふもと)をつたひ、(いは)間道(まみち)・牛の尾・長明が方丈の跡も程ちかく、愚老不才の身には驕過(おごりすぎ)たる地にて御座候。されども雲霧山気病身にさはり、鼻ひるにかかりてゐ申候へば、秋末まではこたえかね可申(まうすべく)候。身骨弱(ほねよわ)に而、つま木拾ひ清水(くむ)事はいたみて口惜(くちをしく)存候。」

 

とある。山々の列挙や笠とりの柴人など、既に「幻住庵記」の片鱗がある。

 その後、幻住庵滞在中に少しづつ書き進み、幻住庵を出たあと、「幻住庵ノ賦」が成立したのだろう。最後に庵を出るところが記されているから、その後だと思われる。

 「幻住庵記」は『(さる)(みの)』に掲載されているものの他に、後になって出てきたもう一つの「幻住庵記」と、「幻住庵ノ賦」という二種の文章が『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)に収録されている。

 「幻住庵記」のほうは、大雑把に言えば、

 

 幻住庵の場所の紹介

 奥の細道の旅

 幻住庵からの景色のすばらしさ

 筑紫の僧による幻住庵の命名

 風流の道

 先たのむの発句

 

という構成で、要約するなら、

 

 石山の奥の国分山に八幡神社があり、その傍らに荒れ果てた庵があり、名を幻住庵という。曲水の伯父の庵だった。

 自分は五十路に近くなり奥の細道を旅し、近江の国のここに来た。

 初夏の山藤にホトトギスのなく季節、日枝の山々、辛崎の松はすばらしく、色々な故事を思い出す。

 筑紫の僧が京都に来た時、額を乞われて「幻住庵」の三字を送られる。

 自分は閑寂を好んで山野に籠ったわけではなく、色々やろうとしたが、ついにこの道につながる。

 先たのむ椎の木も有夏木立

 

という感じになる。

 前身となる「幻住案ノ賦」は最初のところが逆になり、

 

 自分は五十路に近くなり奥の細道を旅し、近江の国のここに来た。その国分山に八幡神社があり、その傍らに荒れ果てた庵があり、名を幻住庵という。曲水の伯父の庵だった。

 初夏の山藤にホトトギスのなく季節、日枝の山々、辛崎の松はすばらしく、色々な故事を思い出す。

 筑紫の僧が京都に来た時、額を乞われて「幻住庵」の三字を送られる。

 自分は閑寂を好んで山野に籠ったわけではなく、色々やろうとしたが、ついにこの道につながる。

 初秋半ばに立ち去る。

 

という構成になる。発句はない。

 これを順序を改め、幻住庵から出る場面をカットし、一日の記とした最終稿はこの『嵯峨日記』の頃に成立したのかもしれない。

 『奥の細道』の旅の終わりから庵を出るまでの時系列を追った紀行文的な体裁の「幻住庵ノ賦」から、一日の出来事として切り取る日記的な体裁に改めたのは、『嵯峨日記』を構想した時に重なっていたのかもしれない。

 別バージョンの「幻住庵記」には『笈の小文』と被るような、

 

 「(およそ)西行・宗祇の風雅にをける、雪舟の絵に(をけ)る、利休が茶に置る、賢愚ひとしからざれども、(その)貫道するものは一ならむ」

 

の文章が最後の発句のまえに付け加えられている。

 芭蕉の紀行文はこの次の年、江戸に帰ってから今の形に仕上がっている。草稿が書き溜められたのは幻住庵の頃だったのかもしれない。『笈の小文』の風雅論が生まれ、当初は「幻住庵記」に加えようとして、後にカットされたことから、平行して書かれていた可能性はある。

五、四月二十二日

 「廿二日 朝の()(ふる)。けふは人もなく、さびしきままにむだ書してあそぶ。其ことば、

 『()に居る者は(かなしみ)をあるじとし、酒を(のむ)ものは(たのしみ)あるじとす。』『さびしさなくばうからまし』と西上人(さいしゃうにん)のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。又よめる

 

 山里にこは又(たれ)をよぶこ鳥

     (ひとり)すまむとおもひしものを

 

 (ひとり)(すむ)ほどおもしろきはなし。長嘯(ちゃうせう)隠士(いんし)(いはく)、『客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ』と。素堂(この)言葉を常にあはれぶ。予も 又、

 

 うき我をさびしがらせよかんこどり

 

とは、ある寺に(ひとり)居て云し句なり。

 暮方(くれがた)去来より消息(せうそこ)ス。

 乙州(おとくに)武江(ぶかう)より帰り侍るとて、旧友・門人の消息共あまた(とどく)(その)(きょく)(すい)状ニ、予ガ住捨(すみすて)し芭蕉庵の(ふる)き跡(たづね)て、宗波に(あふ)(よし)

 

 昔(たが)小鍋(あらひ)しすみれ(ぐさ)

 

 又いふ、

 『我が住所、弓杖二長計にして、楓一本より外は青き色を見ず』

(かき)て、

 

 若楓茶色になるも一盛(ひとさかり)

 

  (らん)(せつ)(ふみ)

 (ぜん)(まい)の塵にえらるる(わらび)

 ()(がは)りや(をさな)ごころに物哀(ものあはれ)

 

 其外の文共(ふみども)、哀なる事、なつかしき事のみ多し。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.127129

 

 元禄四年の四月二十二日は「朝の()(ふる)」とある。前日の夕方に去来も帰り、芭蕉は一人で「幻住庵記」の清書をしている。あるいは紀行文を少しずつ書き始めていたのかもしれない。

 「けふは人もなく、さびしきままにむだ書してあそぶ。其ことば、」とあり、いわゆる日記と離れて、ここから先は短い俳文になる。

 

 「『()に居る者は(かなしみ)をあるじとし、酒を(のむ)ものは(たのしみ)あるじとす。』『さびしさなくばうからまし』と西上人(さいしゃうにん)のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。又よめる

 

 山里にこは又(たれ)をよぶこ鳥

     (ひとり)すまむとおもひしものを

 

 (ひとり)(すむ)ほどおもしろきはなし。長嘯(ちゃうせう)隠士(いんし)(いはく)、『客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ』と。素堂(この)言葉を常にあはれぶ。予も 又、

 

 うき我をさびしがらせよかんこどり

 

とは、ある寺に(ひとり)居て云し句なり。」

 

の部分がそれになる。

 「喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飲ものは楽あるじとす。」は『荘子』雑編「漁父」の「飲酒以樂為主、處喪以哀為主」から来ている。

 孔子が漁父に学ぶという場面設定は、どこか同時代の『楚辞』の「漁父辞」を思わせる。何か元ネタになる伝承があったのかもしれない。まあ、とにかく酒を飲めば楽しくなり、喪に服すれば悲しくなるのは人間の自然の情だというところだろう。

 「さびしさなくばうからましと西上人のよみ侍る」は、

 

 とふ人も思ひ絶えたる山里の

     さびしさなくば住み憂からまし

               西行法師(山家集)

 

という西行の高野山修行時代の歌だという。

 西行で高野山というと『撰集抄』巻五第十五「西行於高野奥造人事」というのがあった。

 其角の『猿蓑』の序に、

 

 「(かの)西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を(ふく)やうになん侍ると申されける。人に(なり)て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに(はべる)にや。」(『芭蕉七部集』中村俊定校注、一九六六、岩波文庫p.173

 

とある、人を生き返らせようとする話だ。

 さて、その西行の「さびしさをあるじなるべし。又よめる」歌だが、

 

 山里にこは又誰をよぶこ鳥

     独すまむとおもひしものを

               西行法師

 

 「よぶこ鳥」はツツドリのことで「来よ」と鳴く。独りで寂しく過ごそうと山に籠るのだが、そこでも「来よ」と呼ぶ声がする。寂しさに憂き世のほうから「来よ」と呼ばれているような気がする。

 長嘯(ちょうしょう)隠士は戦国武将の木下(きのした)(かつ)(とし)で、歌人としては長嘯あるいは長嘯子と呼ばれていた。

 

 鉢叩(はちたたき)あかつき方の一こゑは

     冬の夜さへもなくほととぎす

               長嘯子

 

の歌から、芭蕉は、

 

 長嘯の墓もめぐるか鉢叩き     芭蕉

 

の句を元禄二年に詠んでいる。

 その長嘯子は「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と言ったという。ヤフー知恵袋のlie********さんによると、

 

 「宋の大詩人蘇東坡(蘇軾)が師友の仏印和尚と散歩したとき、蘇東坡が「竹院ニ過テ僧ニ逢テ話レバ 又浮生半日ノ閑ヲ得タリ。」と言うと、仏印は「学士ハ閑半日ヲ得タリ。老僧ハ忙了スルコト半日。」と言ったという故事からきたもの。

 また この会話は有名な漢詩 李渉「鶴林寺」を踏まえたものです。」

 

とある。

 

   題鶴林寺   李渉

 終日昏昏醉夢間 忽聞春盡強登山

 因過竹院逢僧話 又得浮生半日閑

 

 一日中昏々と酔っ払って夢を見ていたが、

 春ももう終るとはっと気付いて山のお寺に行ってみた。

 竹林の中の書院で僧と雑談して過ごしたら、

 儚い人生の半日ばかり閑をつぶすことができた。

 

 李渉は半日暇つぶしができても、僧はその分自分の時間がなくなったというわけだ。

 そしてここで一句。

 

 うき我をさびしがらせよかんこ鳥  芭蕉

 

 寂しさと憂さの関係をいうなら、浮世の交わりは「憂さ」で、浮世を離れれば「寂しさ」になる。寂しくなる所までいかない隠棲は、

 

   山深き里や嵐におくるらん

 慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き    宗祇

 

になる。

 芭蕉もまだ世俗の憂さを遁れてはいないので、それをすっかり忘れて、その世俗が恋しくなるくらいに寂しがらせてくれ、閑古鳥よ、と詠む。

 「ある寺に(ひとり)居て云し句なり」というのは、この句が元禄二年、奥の細道の旅を終えた後に伊勢長島の大智院滞在中の句だったからだ。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)に、

 

 「九月上旬 大智院滞在中、発句あり、色紙に揮毫す

 憂きわれを寂しがらせよ秋の寺  (真蹟色紙)

 

とある。

 「幻住庵記」の前身になる「幻住庵ノ賦」にあった「かつこ鳥我をさびしがらせよ」というフレーズが「幻住庵記」として書き改める際にカットされていたので、これを流用して旧作を改作して『嵯峨日記』の方に組み込んだのだろう。

 このむだ書のあと、日記に戻り、

 「暮方(くれがた)去来より消息(せうそこ)ス。」となる。

 昨日は暮に去来が帰って行って、その後芭蕉が時間を得ることになるが、ここで去来が時間を得て、芭蕉が時間を失うことになる。

 「乙州(おとくに)武江(ぶかう)より帰り侍るとて、旧友・門人の消息共あまた(とどく)(その)(きょく)(すい)状ニ、予ガ住捨(すみすて)し芭蕉庵の(ふる)き跡(たづね)て、宗波に(あふ)(よし)。」

 乙州(おとくに)は近江の人で、智月の弟。幻住庵の頃から芭蕉の世話をしていた。その乙州は一月に江戸に下向し、その際芭蕉は、

 

 梅若菜まりこの宿(しゅく)のとろろ汁   芭蕉

 

の句を詠んで送り出した。それがこの時江戸から帰り、江戸の門人の消息を色々と持ち帰ってくれた。その中に曲水からの手紙があった曲水は芭蕉の幻住庵を提供したその人だ。膳所(ぜぜ)藩の家臣だが、江戸で勤務していた。元禄二年の暮には膳所にいて幻住庵提供の話が出ていたが、その後まもなく江戸に下り、この頃もまだ江戸にいた。

 その曲水が、雛の家になった第二次芭蕉庵を訪ねたのであろう。宗波は本所定林寺の住職だという。『鹿島詣』に同行した「水雲の僧」だ。

 

 昔(たが)小鍋(あらひ)しすみれ(ぐさ)      曲水

 

の句は『猿蓑』入集のときには、

 

 菫草小鍋洗しあとやこれ      曲水

 

になる。

 

 むかし見し妹が垣根は荒にけり

     つばなまじりの菫のみして

               藤原(ふじわらの)(きん)(ざね)(堀川百首)

 

が元になっているが、ここでは妹ではなく芭蕉さんが鍋を洗った跡ということになる。芭蕉は伊賀藤堂藩の料理人だったこともあり、料理にはうるさかったようだ。牡蠣(かき)の季節になるとガラガラと牡蠣を炒る音が聞こえたという。

 その芭蕉さんの小鍋を洗った第二次芭蕉庵は今はスミレの花が咲いてます。

 そしてもう一句曲水の句。

 

   又いふ、我が住所、弓杖二長計にして、

   楓一本より外は青き色を見ず、と(かき)て、

 若楓茶色になるも一盛(ひとさかり)      曲水

 

 これも元歌がある。

 

 散はてし桜が枝にさしまぜて

     盛りとみするわかかへでかな

               藤原(ふじわらの)為家(ためいえ)夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)

 

 若楓は鮮やかな新緑だし、「楓一本より外は青き色を見ず」とあるように青々としていた。それが茶色になるというのは(わくら)()だろうか。

 青々とした今を盛りの若楓が和歌なら、それに(わくら)()が混じってるのを見つけるのが俳諧といったところか。

 弓杖二長は弓二本分の長さという意味で、ウィキペディアによれば、「和弓の全長は江戸期より七尺三寸(約221cm)が標準と定められている」とある。二長は約442cm442cm四方の部屋ということになれば、十二畳半だが楓一本のある庭も含めてということなら、十畳くらいか。

 さらに、嵐雪からの手紙に発句二句があったようだ。

 

 (ぜん)(まい)の塵にえらるる(わらび)哉      嵐雪

 ()(がは)りや(をさな)ごころに物哀(ものあはれ)      同

 

 『和漢朗詠集』に、

 

 紫塵嬾蕨人拳手 碧玉寒蘆錐脱嚢

 紫の塵のように物憂げな蕨は人の拳に似ていて

 碧玉のような初春の蘆は錐のように袋を破る

 

とある。和歌にも、

 

 武蔵野のすぐろかうちのした蕨

     まだうらわかしむらさきの塵

               藤原(ふじわらの)長方(ながかた)(夫木和歌抄)

 

と詠まれている。

 蕨は古来紫の塵に喩えられてきたが、ここでは(ぜん)(まい)取りをしていると、蕨が混じっていて塵として選り分けられる、とする。

 江戸時代は乾燥ゼンマイが大量に流通していた。池谷和信の「江戸時代から明治初期にかけてのゼンマイ生産」というpdfファイルによれば、「元禄8(1695)刊行の「本朝食鑑」には、『ゼンマイは近世食すること流行す』と書かれている」という。ゼンマイの方が珍重されたのだろう。

 

 出替りの句は、三月五日に奉公人の入れ替えがあって、半年・一年慣れ親しんだ奉公人が去ってゆけば、年少の丁稚も哀れに思うというもの。人情句だ。

六、四月二十三日

 「廿三日

 手をうてば木魂(こだま)(あく)る夏の月

 竹(の子)や(をさなき)時の絵のすさみ

 麦の穂や(なみだ)(そめ)(なく)雲雀(ひばり)

 一日(ひとひ)一日麦あからみて啼(雲雀)

 (のう)なしの(ねむ)たし我をぎやうぎやうし

   題落柿舎    凡兆

 豆(うう)る畑も()部屋(べや)も名所(かな)

 

 暮に(および)て去来京より来ル。

 膳所(ぜぜ)昌房(しゃうばう)ヨリ消息。

 大津(しゃう)(はく)より消息有。

 凡兆来ル。堅田(かただ)本福寺(おとづれ)テ其(夜)(とまる)

 凡兆京に帰ル。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.129130

 

 手をうてば木魂(こだま)(あく)る夏の月    芭蕉

 

 この句は夏の夜がいかに短いかをかなりオーバーに喩えたもの。手をうってその木魂が帰ってくる一瞬の間に夜が明けてしまったようだ、とさすがにそこまで短くないだろう、と聞く人に突っ込ませながら、「明る」を月の明るさにも掛けて夏の月で結ぶ。

 

 夏の夜や木魂に明くる下駄の音   芭蕉

 

が初案だったようだ。これも何の下駄の音なのかはよくわからない。何か音の出る小道具が欲しかったのだろう。この句は草稿で抹消されている。

 昨日の暮れに去来がやってきて、江戸からの便りを持ってきて、そこから色々話し込んだのだろう。あっという間に朝になり、去来は帰って行く。その時の下駄の音かもしれない。

 去来が来て嬉しくて手をうって、その木魂が帰ってくるか帰ってこないかのうちに朝が来てしまったようだという、楽しい時のあっという間に過ぎることをやや大袈裟に表現したのかもしれない。

 

 手をはなつ中におちけり朧月    去来

 

は後に去来の読む句で『去来抄』にあるが、朧月だと春の月で、何でそんなに早く月が沈むのかわかりにくいが、魯町との別れを惜しんで、明け方見送る時になかなか手を放すことができないことを、手を放せないうちに月が沈んでしまったとしたもの。

 

 竹の子や(をさなき)時の絵のすさみ     芭蕉

 

 単に芭蕉が個人的に幼い時に竹の子の絵を書いたというだけなら、そんな面白い句でもない。多分あるあるネタとして、字の練習の合い間にこっそりと竹の子の絵を描いた記憶が誰しもあるのではないか、という句ではないかと思う。

 多分上から下に太く筆を下ろし、斜め上から下に交互にちょんちょんと細い線を入れて行くと言ったものだろう。当時の竹の子は今の太い孟宗竹ではなく、真竹や()(ちく)で細かった。竹の子と、すくすく育ってゆく子供の姿とが重なって清々しい。

 

 麦の穂や(なみだ)(そめ)(なく)雲雀(ひばり)      芭蕉

 

 嵯峨野のあたりにも麦畑があったのだろう。夕日に染まる麦畑は黄金色に輝き美しい。夕暮れの空に鳴く雲雀の声が聞こえてくれば、あの雲雀の泪に染まったかのようだ。

 秋の紅葉は泪の時雨に染まるものだが、麦秋の麦の赤は雲雀の涙が染めるとした。

 

 一日(ひとひ)一日麦あからみて(なく)雲雀    芭蕉

 

 前句に被っているので、これは初案が抹消されずに残ったものかもしれない。

 

 (のう)なしの(ねむ)たし我をぎやうぎやうし 芭蕉

 

 なかなかラッパーのように韻を踏んだ句で、リズムがいい。

 ぎゃうぎゃうしは曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草(上)』(二〇〇〇、岩波文庫)の夏の所に、

 

 「剖葦鳥 (よし)原雀(はらすずめ)(よし)(うぐひす)葭剖(よしきり) [和漢三才図会]蘆虎(兼名苑)、蘆原雀、葭剖、蘆鶯(以上俗称)按ずるに、(かたち)、倭の鶯に似て、大さ雀の如し。青灰の斑色。長き尾、田沢、芦葦の中に在て、好んで葦中の虫を食ふ。其鳴声、(かまびすし)(さやか)也、云々。故に此名あり。」

 

とある。ぎやうぎやうしはヨシキリのことで、芦の中でギャギャギャギャッとかしましく泣くところからギョウギョウシと呼ばれていた。形容詞の「仰仰し」と関係があるのかどうかはわからないが、似た言葉は意味も吊られてしまうことがある。

 「能なし」は夜更かしして一日だらだら過ごす自分を自虐的にそう言ったのか、寝てばかりいる自分を起すかのようにヨシキリがギャーギャー騒いでる。「眠たし」は終止形なので、ここに句切れがあり、「我をぎゃうぎゃうし(が起そうとする、眠らせてくれない)」と続く。

 

   題落柿舎

 豆(うう)る畑も()部屋(べや)も名所(かな)   凡兆

 

 最後に「凡兆来ル。堅田本福寺訪テ其(夜)泊。凡兆京に帰ル。」とあるが、堅田本福寺を訪れて泊まってきた凡兆がこの日京に帰り、そのあと落柿舎にやって来た、ということか。

 それともこのことを翌日の所に「千那大津ニ帰」とあるから、千那が凡兆の句を持ってきて消息を伝えただけで、凡兆は来てないということなのか。やや書き方に混乱がある。

 いずれにせよ、この句はその時に持ってきた句だろう。堅田本福寺は今の琵琶湖大橋の西側にある。この程度の距離は一日で行き来できたのだろう。

 芭蕉の「汁も膾もさくら哉」の句に似てなくもない。花の下では汁も膾も特別なものになる。それと同じように嵯峨の落柿舎では豆畑も薪を置く木部屋も名所のようだ。ただ、これは嵯峨野という名所にあるからというのではなく、芭蕉さんがいるからという意味だろう。もし現在も豆畑と薪小屋が残っていたら、間違いなく観光名所だ。

 

 暮れには去来も来る。また賑やかな夜になりそうだ。昌房(しょうぼう)(しょう)(はく)の手紙も持ってきてくれた。

七、四月二十五日

 「廿五日

 千那大津ニ(かへる)

 史邦(ふみくに)丈艸(ぢゃうさう)被訪(とはる)

 

   題落柿舎   丈艸

 深對峨(ふかくがほうにた)(いして)(てうぎ)鳥魚(ょをともなふ)

 就荒喜(くわうにつくのよ)(ろこびは)野人(やじんのきょに)(にたり)

 ()頭今欠(とういまかく)虬卵(せききうのらん) 

 靑葉分題堪學書(せいえふだいをわかちてしょをまなぶにたへたり)

 

   尋小督墳(こがうのつかをたづぬ)   同

 強撹怨(しひてゑんじゃうを)(みだして)(しんき)深宮(ゅうをいづ)

 一輪(いちりんの)秋月(しうげつ)野村風(やそんのかぜ)

 昔年僅(せきねんわづか)(にきん)(いんを)(もとめ)(えたり)

 何処孤墳(いづくにかこふん)竹樹中(ちくじゅのうち)

 

 芽出(めだ)しより二葉に茂る柿の(さね)    史邦

   途中吟

 杜宇(ほととぎす)(なく)(えのき)も梅櫻         丈艸

   黄山谷(くわうざんこく)之感句

 杜門覔句(もんをとぢてくをもとむ)(ちん)()() 對客揮毫(きゃくにたいしてふでをふる)秦少游(しんせういう)

 

 乙州来たりて武江の(はなし)(ならびに)(しょく)五分(ごぶ)俳諧一巻、(その)内ニ、

 

   半俗の膏薬入(かうやくいれ)(ふところ)

 臼井の峠馬ぞかしこき       其角

 

   腰の(あじか)に狂はする月

 野分(のわき)より流人(るにん)に渡ス小屋(ひとつ)     同

 

   宇津(うつ)の山女に夜着(よぎ)(かり)て寝る

 (いつはり)せめてゆるす精進(しゃうじん)      同

 

 (さる)ノ時(ばかり)ヨリ風雨雷霆(らいてい)(ひょう)降ル。雹の大イサ三(ふん)(もんめ)(あり)(たつ)空を(すぐ)る時雹(ふる)

     大ナル、カラモモノゴ(ト)ク少(小)キハ柴栗ノゴトシ」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.130133

 

 二十四日の記述はなく、二十五日に飛ぶ。欠落があるのか。「千那大津ニ(かへる)」とあるから、前日に千那が来たのか。入れ替わりに史邦と丈草が尋ねて来る。

 その丈草が漢詩を二首残してゆく。一つは、

 

   題落柿舎      丈艸

 深對峨峯伴鳥魚 就荒喜似野人居

 枝頭今欠赤虬卵 靑葉分題堪學書

 

 よく見れば峨峯には鳥や魚がいて

 荒れてくれば田舎物の家に似てくるのを喜ぶ

 枝の先には今は赤い龍の卵はなく

 青葉が題を分かち我慢して書を学ぶ

 

 「深對(ふかくたいして)」は真剣に向きあうという意味だが、それだと重すぎるので「よく見れば」とする。

 「()(ほう)」は嵯峨の山で小倉山のことか。嵯峨という地名から()(せん)()眉山(びさん)を連想したのかもしれない。ただ、山の高さは大分違う。

 「(てうぎ)鳥魚(ょをともなふ)」は鳥や魚と一緒ということで、自分と一緒というよりは山に一緒にいるという意味だろう。

 「(くわう)(につく)」は就職が職に就くことを言うように、荒れた状態に就くということ。「野人(やじん)」の「野」は「雅」に対しての言葉で、野卑な田舎物という意味。

 「(せききう)」の虬は日本では「みづち」と訳されるが、龍の一種。柿の実をレッドドラゴンの卵に喩えて言っているのだろう。

 最後の一行は意味がよくわからない。せっかく来たのに柿の実がなかったので、柿の青葉を題材にして何とか漢詩を書いてみたということか。

 思い切って韻を踏んで超訳すると、

 

 よく見りゃ嵯峨の峯鳥や魚が一緒

 荒れ放題で田舎もんの家になるのも一興

 柿の枝にレッドドラゴンの卵はなくて

 せめては青葉を題に詩を作り書を学びましょ

 

てな感じか。

 もう一首の漢詩は「尋小督墳(こがうのつかをたづぬ)」だ。

 小督(こごう)の塚については四月十九日の所でも書いたが、今は渡月橋の北岸を西に行ったところにあるが、かつては臨川寺の近く、松尾の竹の中にあったという。

 さて、その詩を見てみよう。

 

   尋小督墳      丈艸

 強撹怨情出深宮 一輪秋月野村風

 昔年僅得求琴韻 何処孤墳竹樹中

 

 強く怨情をかき乱し御所の奥の部屋を出て、

 一輪の秋の月に田舎の村の風

 昔僅かに得た琴の音を探す

 一つ残った墳墓は竹薮の中のどこに

 

 高倉帝に愛された小督は嵯峨野法輪寺のあたりの竹薮に身を隠す。

 さあ、それでは超訳してみようか。

 

 恨み取り乱して出た後宮

 秋の月一つ田舎は風ぴゅうぴゅう

 昔かすかに聞いた琴の音を探し

 その物語の舞台はどこ?竹林に墓一つ

 

 次の史邦(ふみくに)の発句、

 

 芽出(めだ)しより二葉に茂る柿の(さね)    史邦

 

は「實」を「み」と読んでしまうと柿の実は秋になってしまうのでここでは「さね」と読む。新芽の枝、くらいに考えた方がいいか。

 芽吹いてきた柿の芽は対生で分厚く幅の広い葉が二枚向かい合って生えてくる。この芽吹いた二枚葉の付け根のところに蕾ができ、花が咲く。

 折から柿の若葉がまぶしい季節。二枚づつ次々に出てくる葉っぱに、柿の実への期待も高まるが、なにぶん「落柿舎」なので、果して落ちずに残ってくれるか。

 

   途中吟

 杜宇(ほととぎす)(なく)(えのき)も梅櫻         丈艸

 

 ホトトギスが啼く頃には梅や桜は終っているが、榎の立派に枝を広げた姿は梅や桜にも劣らない。

 榎は一里塚に植えられたりする。途中吟ということで、街道をイメージさせる。

 

 最後の、

 

   黄山谷之感句

 杜門覔句陳無己 對客揮毫秦少游

 

というのは、芭蕉が目を留めた黄山谷(黄庭堅)の詩句という意味か。

 オリジナルは、

 

   病起荊江亭即事  黃庭堅

 翰墨場中老伏波 菩提坊裏病維摩

 近人積水無鷗 時有歸牛浮鼻過

 閉門覓句陳無己 對客揮毫秦少遊

 正字不知溫飽未 西風吹淚古藤州

 

 筆と墨のある所には老いた伏波将軍がいる

 釈迦入滅した坊の裏には病んだ維摩居士がいる

 最近の人が集めた水には鷗や鷺は居ず

 時々帰る牛の浮かんだ鼻先が行く

 門を閉ざし良い句をひねる陳無己に

 客を前にして筆を揮う秦少游

 正しい字も知らずにぬくぬくとしているうちに

 涙に秋風が吹くいにしえの藤州

 

 陳師道が名利を求めずに門を閉ざしてひたすら詩作に没頭し、秦少遊は客の求めに応じて気軽に筆を揮った。どちらの生き方にも惹かれるものがある。

 「正字不知」はそれにひきかえ我が身はという黄庭堅の謙遜だろうか。

 芭蕉もまた、一人庵に籠って発句を練ることもあっただろうし、連句は連衆の前で即興で句を繋いでゆく。

 芭蕉はこの二年後の元禄六年の七月、病気療養のため「閉関之説」を書き、一ヶ月ほど閉門する。その時の句は、

 

 あさがほや昼は鎖おろす門の垣   芭蕉

 

だった。

 四月廿五の条は更に続く。

 

   半俗の膏薬入(かうやくいれ)(ふところ)

 臼井の峠馬ぞかしこき       其角

 

 これは連句なので、「半俗」は前句との係りで、多分これは無視してもいいのだろう。膏薬をすぐに取り出せるように懐に入れておくというところから、中山道の難所である碓氷峠を越える時は馬に乗るのが賢明だが、落馬の心配があるので、と付けたのだろう。

 まあ確かに、「僧に似て塵あり、俗に似て髪なし」(野ざらし紀行)という半俗の芭蕉さんも杖突坂で落馬している。

 

 歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな   芭蕉

 

の句は貞享四年(一六八七)なので、その時のことを思いだしたのかもしれない。

 

   腰の(あじか)に狂はする月

 野分(のわき)より流人(るにん)に渡ス小屋(ひとつ)    其角

 

 「(あじか)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には「竹・わらやアシなどを編んで作ったかご、ざるの類。」とある。

 ここでは天秤棒で吊り下げる「もっこ」ではなく腰に下げるタイプのもので、漁師の用いる籠であろう。

 月に狂うならその漁師は只者ではない。都から流れてきた高貴な人物であろう。

 

   宇津(うつ)の山女に夜着(よぎ)(かり)て寝る

 (いつはり)せめてゆるす精進(しゃうじん)     其角

 

 これは旅の僧の一夜の迷いか。府中宿の西側の安倍川町には遊女がたくさんいたという。

 宇津の山というと『伊勢物語』に、

 

 駿河なる宇津の山べの現にも

     夢にも人にあはぬなりけり

               在原業平

の歌がある。

 この日は雷が鳴り(ひょう)が降る。申の刻は夏至も近い頃なので、今でいえば四時は過ぎている。「三分匁」は一匁が約2.4センチ(寛永通宝の直径)としてその十分の三だから7.2ミリというところか。

 

 「龍空を過る時」は竜巻が起きたのか。幸い落柿舎に被害はなかったようだが、この時には唐桃大の雹が降ったという。当時の唐桃(杏)は杏仁を取るための薬用だったから今よりは小さかっただろう。梅よりやや大きいくらいか。「柴栗」は自生する栗で二センチくらいか。竜巻も発生したとあっては、かなりの被害があったあったのではないかと思う。

八、四月二十六日

「芽出しより二葉に茂る柿ノ(さね)    史邦

   畠の(ちり)にかかる卯の花     蕉

 蝸牛(かたつむり)頼母(たのも)しげなき角振(つのふり)て     去

   人の汲間(くむま)釣瓶待(つるべまつ)也      丈

 有明に三度飛脚の(ゆく)()らん     乙」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.133

 

 翌日、芭蕉、丈草、史邦に乙州、去来が加わり、表六句に一句足りない五句の短い俳諧興行を行う。

 発句は前日の所で紹介したので脇から。

 

 

   芽出しより二葉に茂る柿ノ(さね)

畠の(ちり)にかかる卯の花   芭蕉

 (芽出しより二葉に茂る柿の實畠の薼にかかる卯の花)

 

 複雑な倒置だが「卯の花の塵の畠にかかる」が「卯の花の畠の塵にかかる」を経て「畠の塵にかかる卯の花」になったと思われる。散った卯の花が塵となって柿の畠に白い色を添える。

 季題は「卯の花」で夏、植物、木類。

 

第三

 

   畠の薼にかかる卯の花

 蝸牛(かたつむり)頼母(たのも)しげなき角振(つのふり)て 去来

 (蝸牛頼母しげなき角振て畠の薼にかかる卯の花)

 

 畠は普通の畠になる。蝸牛(かたつむり)の角は「角」とは言うものの柔らかく、牛の角や鬼の角とは違って何か頼りない。

 「(つの)振る」というと、

 

 かたつぶり角振り分けよ須磨明石  芭蕉

 

の句も浮かんでくる。これは須磨明石を分ける鉄拐山(てつかいさん)などの山塊を蝸牛に見立てた句。

 季題は「蝸牛」で夏。

 

四句目

 

   蝸牛頼母しげなき角振て

 人の汲間(くむま)釣瓶待(つるべまつ)也        丈草

 (蝸牛頼母しげなき角振て人の汲間を釣瓶待也)

 

 人が釣瓶を落として水を汲んでいる間、蝸牛が井戸端でその水を待っているかのようにじっとしている。

 無季。「人」は人倫。

 

五句目

 

   人の汲間を釣瓶待也

 有明に三度飛脚の(ゆく)()らん  乙州

 (有明に三度飛脚の行哉らん人の汲間を釣瓶待也)

 

 三度飛脚は江戸と大阪を月三回往復する飛脚便のことで、東海道を六日で走ったといわれる。今日のマラソン同様水分補給は欠かせなかったのだろう。有明の月の残る早朝に出発する三度飛脚は、しばし水分補給のため釣瓶で水を汲む間歩みを止めて待っている。「有明」で月の定座になる。

 

 季題は「有明」で秋、夜分、天象。「三度飛脚」は人倫。

九、四月二十七日

 「廿七日

 人不来(きたらず)、終日(かんを)(えたり)。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.133134

 

 この日は特に何もなかったようだ。

 

 閑を得て、またいろいろ草稿を書いたり整理したりしていたのだろう。

十、四月二十八日

 「廿八日

 夢に杜国が事をいひ出して、涕泣して覚ム。

 心神相交(あひまじはる)時は夢をなす。陰尽(いんつき)テ火を夢見(ゆめみ)陽衰(やうおとろへ)テ水を夢ミル。飛鳥(ひてう)髪をふくむ時は(とべ)るを夢見、帯を(しき)()にする時は(へび)を夢見るといへり。 (すゐ)枕記(ちんき)(くわい)安国(あんこく)(そう)周夢(しゅうのむ)(てふ)、皆(その)(ことはり)(あり)テ妙をつくさず。我夢は聖人君子の夢にあらず。終日忘想散乱の気、夜陰(やいん)(のゆめ)又しかり。誠に(この)ものを夢見ること、謂所(いはゆる)念夢(ねんむ)也。我に志深く伊陽(いやう)旧里(ふるさと)迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥(おきふし)行脚(あんぎゃ)(らう)を ともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、其志(わが)心裏に(しみ)て、忘るる事なければなるべし。(さめ)て又袂をしぼる。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.134135

 

 芭蕉が杜国と出会ったのは貞享元年の冬、『野ざらし紀行』の旅で名古屋を訪れた時だった。そこで芭蕉は荷兮、野水、重五、杜国、正平らと興行を行い、この時の俳諧は荷兮編の『冬の日』として公刊された。これが芭蕉七部集の最初の集となる。

 その杜国の最初の句は「狂句こがらし」の巻の五句目で、

 

   かしらの露をふるふあかむま

 朝鮮のほそりすすきのにほひなき  杜国

 

 「朝鮮のほそりすすき」が何を指すのかはよくわからない。韓国にもススキはあり、ネットではハヌル公園をはじめ、色々な地方のススキの美しい風景を見る事ができるが、日本にあるのと同じようなススキだ。ピンクのものを別にすれば。

 その杜国だが、本業は米屋で、ウィキペディアによれば、「貞享二年、手形で空米を売った咎で死罪となったが、徳川光友に恩赦を賜い、三河国渥美郡畠村に追放となった。」とある。

 空米は今でいう先物取引で、一七三〇年には将軍吉宗によって幕府公認の先物取引が行われるようになるが、それ以前にも慣習として広く行われていたと思われる。米相場の安定には欠かせぬものだった。

 多分経済に疎い役人が、先物取引=博打みたいな感覚で安易に禁止する法律を作ったものの、施行してみると杜国のような業界の大物の名が挙がってしまい、尾張藩二代藩主徳川光友の手を煩わすことになったのだろう。

 貞享四年の冬、『笈の小文』の旅の途中で三河の国()()に隠棲している杜国のもとを訪ね、伊良胡崎で詠んだ、

 

 鷹一つ見付けてうれしいらご崎   芭蕉

 

の「鷹」も杜国のことではないかとされている。そして翌貞享五年の春、

 

   乾坤無住同行二人

 よし野にて桜見せふぞ檜の木笠   芭蕉

 よし野にて我も見せふぞ檜の木笠  万菊丸

 

と句を詠み交わし、共に旅をすることになる。

 その杜国の訃報を聞いたのが、元禄三年の四月、ちょうど幻住庵に入る頃だった。

 持病の悪化で隠棲し、その間に近江、京都の門人達が頻繁に出入りしては、『(さる)(みの)』の撰でもいろいろと忙しく、忘れかけてた頃に急に夢に現れたのか、目覚めたら涕泣(ていきゅう:涙を流して泣くこと)していた。

 思うに予兆はあったと思う。二十五日の黄山谷之感句で、「杜門覔句陳無己」と「閉門」を「杜門」と書き誤ったあたりに、何か無意識に引っかかるものがあったのかもしれない。この日の丈草の句にも「杜宇啼や」と「杜」の字があった。そうしてものが夢に反映されたのかもしれない。

 ここから先夢談義に入る。

 

 まず「心神相交(あひまじはる)時は夢をなす。」だが、これはやや仏教的な言い方だ。

 『列子』周穆王(しゅうぼくおう)篇には「神遇為夢、形接為事。故晝想夜夢、神形所遇。」とある。人間の思考は感覚によって捉えられた物的対象があれば「想」となり、感覚が遮断されて対象から切り離されれば「夢」となる。感覚が遮断されても猶残る脳の活動を「神」と呼ぶのであれば、列子のこの言葉はなかなか科学的だ。

 ただ、「神」といえば、『易経』の「陰陽不測、これを神という」の神概念もあり、いわば人智を超えたものはすべて神であり、人間の脳の活動も、それ自身は直接認識することができず、思考にしても幻想にしても何らかの活動の結果を認識できるにすぎない。その意味では「神」であり、近代には西洋のスピリットを「精神」と訳しているし、ニューロンは「神経」と訳している。自覚的に捉えることができないからだ。

 哲学で言う現象学的還元は、思考を対象から切り離して純粋な思考そのものを明らかにしようとしたが、沈黙以外の何も得られなかった。ジャック・デリダはこれを太陽に向かって飛び立ったイカロスに喩えている。

 これに対して「心神相交時は夢をなす。」となると、心は人間の中にある性や情を併せ持ったものを表し、神は天の側にある。禅などの瞑想によってそれが一致するような印象を与える。

 体の中の測り知れないもの()は天に通じるもので、そのため夢もまた感覚によって捉えられた対象から切り離されているとはいえ、物の形を借りて現れる。このことを列子は「一體之盈虛消息、皆通于天地、應於物類。」という言葉で表す。

 さて、芭蕉に戻るが、「陰尽(いんつき)テ火を夢見(ゆめみ)陽衰(やうおとろへ)テ水を夢ミル」は『列子』周穆王篇の「故陰氣壯、則夢涉大水而恐懼。陽氣壯、則夢涉大火而燔焫。」から来ていると思われる。

 体の陰気が尽きるというのは、逆を言えば体の陽気が盛んになることをいう。この時は火の夢を見るという。陽気が衰え陰気が盛んになれば水の夢を見るという。このあたりはあまり科学的ではない。夢判断の類になる。

 「飛鳥(ひてう)髪をふくむ時は(とべ)るを夢見、帯を(しき)()にする時は(へび)を夢見るといへり。」というのも、『列子』周穆王篇の引用で、「藉帶而寢則夢蛇、飛鳥銜髮則夢飛。」から来ている。

 「(すゐ)枕記(ちんき)(くわい)安国(あんこく)(そう)周夢(しゅうのむ)(てふ)、皆(その)(ことはり)(あり)テ妙をつくさず。」の「睡枕記」は、岩波文庫の『芭蕉紀行文集』の中村俊定注には『枕中記(ちんちゅうき)』の誤りか、とある。『枕中記』はウィキペディアによれば、

 

 「『枕中記(ちんちゅうき)』は、中国・唐代の伝奇小説である。作者は(しん)既済(きせい)

 著者の沈既済は、8世紀後半頃の人である。蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の人で、薬を調達する礼部員外郎となった。

 

 主人公の盧生が、邯鄲(河北省邯鄲市)で、道士・呂翁に出会い、枕を授けられる。その枕で眠りについたところが、まだ黍の飯が炊き上がる前に、自分が立身出世を果たし、栄達の限りを尽くして死ぬまでの間の出来事を夢みた。それによって、盧生は人生の儚さを悟った、という話である。

 

 「邯鄲(かんたん)の枕」「黄粱(こうりょう)一炊(いっすい)」「邯鄲の夢」の故事として、広く知られている。また、明代の(とう)(けん)()が著わした戯曲の『邯鄲記(中国語版)』は、この『枕中記』を元にして作られたものである。」

 

とある。

 「槐安國」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「中国、唐の李公佐(りこうさ)の「南柯記」に書かれている、想像上の国。南柯(なんか)の夢」

 

とあり、「南柯の夢」は同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「はかない夢。また、栄華のむなしいことのたとえ。槐夢(かいむ)。槐安の夢。[補説]昔、中国で、淳于棼(じゅんうふん)という人が、酔って古い槐(えんじゅ)の木の下で眠り、夢で大槐安国に行き、王から南柯郡主に任ぜられて20年の間、栄華をきわめたが、夢から覚めてみれば蟻(あり)の国での出来事にすぎなかったという、唐代の小説「南柯記」の故事から。」

 

とある。

 「荘周夢蝶」はいわゆる胡蝶の夢というやつで、『荘子』齊物論第二に、

 

 「昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。」

 

まあ、要は夢で胡蝶になってるときは胡蝶である事を疑わず、醒めれば荘周となり、やはりそれを疑わない。生まれ変わるというのはそういうことだ、というわけだ。

 「皆(その)(ことはり)(あり)テ妙をつくさず。」という芭蕉の感想は、どれも一理あって不思議だなあ、というところか。別に信じるというのでもなく、世間で言われているのも(もっと)もだくらいのスタンスだろう。

 「我夢は聖人君子の夢にあらず。終日忘想散乱の気、夜陰(やいん)(のゆめ)又しかり。」というのは『論語』述而の「子曰、甚矣、吾衰也。久矣、吾不復夢見周公」、いわゆる「夢に周公を見ず」のことで、孔子が周公をたびたび夢に見ていたなどという立派な夢ではなく、ごく普通の夢だということをやや謙遜して言っている。

 人が何故夢を見るかについて、現代の科学でもはっきりした答はない。人生が夢だというのはあくまで比喩としても、寝て見る夢は未だに科学で解明できないという点では、「陰陽不測」という意味での「神」が心に現れる現象だといっていいだろう。

 それは記憶を整理するためであったり、願望の表れだったりしたとしても、自分ではコントロールすることの困難な、自由にならないものだという点では「神」だ。

 さて芭蕉はこのあと杜国への思いをぶちまける。

 

 「誠に(この)ものを夢見ること、謂所(いはゆる)念夢(ねんむ)也。我に志深く伊陽(いやう)旧里(ふるさと)迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥(おきふし)行脚(あんぎゃ)(らう)を ともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、其志(わが)心裏に(しみ)て、忘るる事なければなるべし。(さめ)て又袂をしぼる。」

 

 

 「夜は床を同じう起臥」のところなど、疑ってくれといわんばかりだ。まあ、あくまで噂なので。悲しみの涙には無粋な批評はせず、流すことにしよう。

十一、四月二十九日、三十日

 「二十九日 一人一首奥州高館(たかだち)ノ詩ヲ見ル。

 晦日 高館聳天(たかだちてんにそびえて)(ほし)(かぶとに)(のたり)衣川通海月如(ころもがはうみにつうじてつきゆみの)(ごとし)。其地風景聊以(いささかもって)不叶(かなはず)。古人とイへ(ども)不至(そのちに)其地(いたらざる)(とき)は、不叶其景(そのけいかなはず)。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.135

 

 さて、翌二十九日と三十日はセットになっている。

 奥州高館ノ詩というのは最初の日の何冊かあった本の内の一冊、林鵞(はやしが)(ほう)『本朝一人一首』の巻九にある。

 

   賦高館戦場    無名氏

 高館聳天星似冑 衣川通海月如弓

 義経運命紅塵外 辨慶揮威白波中

  林子曰此詩世俗口誦流傳未知誰人所作

 

 高館は天に聳え星は兜に似て

 衣川は海に通じ月は弓のごとし

 義経の運命は血塗られた戦場の外にあり

 弁慶は武威を揮い白波の中

   林鵞峰が言うにはこの詩は世俗で口承され伝わってきたもので、作者が誰だかは未だわからない。

 

 義経は一切戦わず持仏堂で自害し、弁慶は堂の入口を守り立ち往生したというのが一般によく知られている物語で、口承の詩もそれを裏切らない。

 なおウィキペディアを見ていたら、この選者の林鵞峰とその父の林羅山が編纂した『本朝通鑑』に「俗伝又曰」として「義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種残す」と記載されたことが、後の義経=ジンギスカン説の元になっているという。

 こうした漢詩は口承で伝えられて、庶民の間で吟じられていたのだろう。テキストとしてではなく音楽として伝わっていたと思われる。

 こうした伝承にはありがちなことだが、話がやたらに盛られたりする。

 小高い岡の上にあった高館はいつの間にか天に聳えるまでになり、北上川にそそぐ衣川はいつの間にか海にそそぐまでになってしまった。

 芭蕉は無名作者を「古人」と呼んで、立派な作者でも現地に行かなければこういう詩を詠むと思ったようだが、多分そういう問題ではないだろう。

 芭蕉も後世、

 

 松島やああ松島や松島や

 

の作者にされてしまうとは想像だにしなかっただろう。

 伝承詩というのは時として何百年もの間形を少しづつ変えながら中国、韓国、日本に伝わった例もある。『野ざらし紀行異界への旅』の「十四、僧朝顔」の所でも書いたが、『万葉集と漢文学』(和漢比較文学叢書九、一九九三、汲古書院)所収の濱政博司の「大津皇子『臨終』詩群の解釈」にある一連の詩がそれだ。

 もっとも古いものは五八九年の中国の『浄名玄論略述』に見られる。それは、叔宝が囚人として長安に引き立てられるときに詠んだ詩で、

 

 鼓声推命役 日光向西斜

 黄泉無客主 今夜向誰家

 

 太鼓の声は賦役へとせきたて、

 日の光は西へと傾いて行く。

 黄泉の国には主人もいなければお客さんもいない。

 今夜は誰の家に向かうのというのだ。

 

 それが六八六年には少し変わっているが、二上山で処刑された大津皇子が詠んだとして『懐風藻』にも載っている詩となる。

 

 金烏臨西舎 鼓声催短命

 泉路無賓主 此夕誰家向

 

 黄金烏が棲むという太陽も西にある住まいへ沈もうとし、

 日没を告げる太鼓の声が短い命をせきたてる。

 黄泉の国への旅路は主人もいなければお客さんもいない。

  この夕暮れは一体誰が家に向かっているのだろう。

 

 それが一四五六年、韓国で成三(そんさむ)(うぉん)が処刑されるときの詠んだとされてきた、

 

 撃鼓催人命 回看日欲斜

 黄泉無一店 今夜宿誰家

 

 太鼓を打つ音は人の命運をせきたて、

 振り返って見れば日は傾こうとしている。

 黄泉の国には宿屋があるわけでもない。

 今夜は一体誰の家に泊ろう。

 

の詩として登場する。

 この間にも九五〇年の江為の詩がある。

 

 衙鼓侵人急 西傾日欲斜

 黄泉無旅店 今夜宿誰家

 

 中国版のウィキペディア「維基百科」には、

 

 「江洪之後。早年避乱迁居建阳(今屬福建)。曾游山。由於科場屢試不第,一直怏怏不樂,打算前往吴越發展,結果被同謀告發,被殺身亡。一是替福州友人草擬降書,被逮獲,慘遭株連。據臨刑前有命詩云:黄泉無旅店,今夜宿誰家。」

 

とある。

 また、『水滸伝』にも、

 

 黄泉無旅店 今夜落誰家

 

の句があるらしく、一三九三年の孫蕡の詩にも、

 

 鼉鼓三声急 西山日又斜

 黄泉無客舎 今夜宿誰家

 

とある。「維基百科」には、

 

 「洪武十五年复起为苏经历,洪武二十二年辽东,是年以黨禍被殺,年五十六,有命詩:鼔三聲畢,西山日又斜。黄泉無旅店,今夜宿誰家。於洪武二十六年之藍玉案被殺。」

 

とある。

 これらは皆伝説であり、あくまで有名人に仮託されただけで、いわゆるパクリではない。

十二、五月一日

 「朔

 江州(がうしう)平田明昌寺(めいしゃうじ)李由(とは)()

 尚白・千那消息(あり)

 

 竹ノ子や(くひ)残されし後の露     李由

 頃日(このごろ)の肌着身に(つく)卯月哉      尚白

   遣岐

 またれつる五月(さつき)もちかし(むこ)(ちまき)    同」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.135136

 

 さて、『嵯峨日記』も五月に入る。

 江州平田明昌寺は近江国、彦根平田にある明照寺だという。音が同じの違う字を書くことは、芭蕉の文章では珍しくないし、当時の人はそれほど字面にこだわらず、音が合っていれば良いというところもあった。

 明照寺は光明遍照寺の略と思われる。

 李由はその明照寺の十四世住職で、この日落柿舎に現れて、尚白や千那といった近江の門人の消息を伝えたようだ。尚白は大津で医者をやっている。千那は堅田本福寺十一世住職。

 千那の句はない。

 

 竹ノ子や(くひ)残されし後の露     李由

 

 竹の子が食い残されればそのまま成長して立派な竹になり、秋の露を得ることになる。

 乳幼児の死亡率の高かった時代には、年を取るまで生きられるということは当たり前のことではなく、稀なことだった。

 李由は寛文二年(一六六二)の生まれで、元禄四年(一六九一)五月一日には数えで三十。働き盛りではあるが、体力的には衰えてきて露を得る頃か。当時は四十だと初老で、露というよりも霜を得る頃であろう。

 

 頃日(このごろ)の肌着身に(つく)卯月哉      尚白

 

 肌着は(はだ)(ぎぬ)、つまり襦袢のことか。ウィキペディアによると、「江戸時代前期は長襦袢ではなくこちら(半襦袢)が正式な襦袢と考えられていて、初期の半襦袢は袖の無い白地のもので腰巻と一揃で使われていた。」とある。

 旧暦四月ともなると暑い日も多くなり、半襦袢が汗で肌に密着するということか。

 

   遣岐

 またれつる五月(さつき)もちかし(むこ)(ちまき)

 

 前書きの「遣岐」よくわからないが、「(むこ)(ちまき)」とあるから、岐阜に住む娘婿に(ちまき)を届けるために出す遣いの者ということか。尚白の家族関係はよくわからないので、岐阜に親族がいるのかどうかは不明だが。

 

 まあ、でもこの句は五月五日の端午の節句の粽を待っている人がいるのは確かだ。

十三、五月二日

 「二日

 ()()(きた)リてよし野の花を尋て、熊野に(まうで)侍るよし。

 武江旧友・門人の はな(し)、彼是(かれこれ)(とり)まぜて談ズ。

 

 くまの路や(わけ)つつ入ば夏の海    曾良

 大峯やよしの(の)奥を花の(はて)

 

 夕陽(せきやう)にかかりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそふて戸難(とな)()をのぼる。雨降り(いで)て、暮ニ(および)て帰る。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.136

 

 五月二日、『奥の細道』をともに旅した曾良が尋ねてくる。

 曾良は蛤の二見で別れた後、江戸へ行く。そして元禄四年三月四日に江戸を出て、三月二十四日には京都に着き、翌二十五日に芭蕉を訪ねる。曾良の『近畿巡遊日記』には、

 

 「廿四日 早朝木曾寺ノ新庵見ル 帰テ朝飯調テ京ニ趣」

 

とある。

 このあと曾良は吉野の花を見てから高野山を経由して熊野古道を行き、那智の滝などを見て、そのあと和歌の浦を経て姫路へ行く。そして五月に京都に戻る。

 吉野の花見は四月一日で、初夏の熊野古道(熊野参詣道小辺路)を行き、十七日には和歌の浦に到着する。和歌の浦へは船で旅している。

 

 くまの路や(わけ)つつ入ば夏の海    曾良

 

の句はその頃のものだろう。

 もう一つの、

 

 大峯やよしの(の)奥を花の(はて)   曾良

 

の句も同じ頃のものであろう。花の頃に吉野に入って熊野を詣でるのを、この頃は「逆の峰入り」と呼んでいた。土芳の『三冊子』に、

 

 「順の峯入、逆の峰入とも夏也。むかし紀の國路より、みねに入て是を順といふ。今はよし野よりいりて是を逆と云。今の峯入は逆也。諸ともの哥、順逆ともに夏故に感ふかしと師の云也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.149

 

とある。晩春に吉野から入って夏に熊野に着くから「逆の峰入り」は夏の季語になる。

 このあと、大井川(今の桂川)に船を浮かべて、渡月橋のあたりの戸難瀬を登る。曾良の『近畿巡遊日記』には、

 

 「二日 天晴 巳ノ下刻允昌へ寄テ妙心寺ヲ見テサガへ趣 翁ニ逢 去来居合 船ニテ大井川ニ遊ブ 雨降ル故帰ル。次第ニ雨甚シ」

 

と記されている。大井川の舟遊びは去来も一緒だったことがわかる。

 なお、「巳ノ下刻允昌へ寄テ」の允昌は凡兆のこと。コトバンクの「世界大百科事典内の野沢凡兆の言及」には、

 

 「姓は野沢,また宮城,越野,宮部ともいわれるが確証はない。名は允昌(いんしよう)。金沢の人。京へ出て医を業とし,達寿を号した。俳諧の初号は〈加賀の人〉の意で加生。」

 

とあるから、名乗りだろうか。今日では一般に野沢凡兆と呼ばれているが、他にも宮城、越野、宮部などの姓もあったようだ。由緒ある武家を除けば苗字は勝手に名乗るだけのもので、いくつもの苗字があってもそれほど珍しくはなかった。

十四、五月三日

 「一、三日

 昨夜の雨(ふり)つづきて、終日終夜やまず。猶(その)武江の事(ども)問語(とひかたる)。既に夜(あく)。」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.136

 

 最初の「一」は特に意味もなさそうだ。翌日も「一、四日」とある。草稿段階での芭蕉さんの気まぐれによるものか。曾良の『近畿巡遊日記』は日付の上に「一、」とあるから、それに倣ったのか。

 雨が降ってすることもなく、久々に旧友の曾良と長々と語り合ったのだろう。『奥の細道』の旅のあとの江戸のことなど、話も尽きず、夜を徹してしまったようだ。

 曾良の『近畿巡遊日記』には、

 

 「三日 雨不止 未ノ刻去来帰ル 幻住ノ句幷落柿舎ノ句

 

   涼しさや(この)(いほ)をさへ住捨(すみすて)

   破垣やわざとかのこの通路 夜ヲ明」

 

とある。芭蕉の文章では昨日から去来が一緒だということが記されていない。記述がなくてもかなり頻繁に来ていたのだろう。

 曾良のこの二句は、『嵯峨日記』には記されてないが、『猿蓑』には入集している。

 

 涼しさや此庵をさへ住捨し     曾良

 

 これは幻住庵の句で、「涼しさの此の庵をさへ住み捨てしや」の倒置。芭蕉の一所不住の生き方は、こんなすばらしく涼しげな庵すら捨ててしまうのかという、その潔さを称える。

 

 破垣やわざとかのこの通路     曾良

 

 

 これは落柿舎の句だろう。垣根が破れているのは、鹿の子が通れるようにわざと開けているのでしょう、というわけだが、多分ただ荒れ果てていて破れていただけだろう。ただの破れ垣も、そういう考え方もあるのかといった句だ。

十五、五月四日

 「一、四日

 宵に(いね)ざりける草臥(くたびれ)に終日(ふす)。昼より雨降止ム。

 明日は落柿舎を(いで)んと名残(なごり)をしかりければ、奥・口の一間(ひとま)一間を見(めぐ)りて、

 五月雨や色帋(しきし)へぎたる壁の跡」(『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』岩波文庫、中村俊定校注、一九七一、p.137

 

 さていよいよ芭蕉の落柿舎滞在もこれが最後の日となる。三日の夜は曾良と朝まで話し込んで、相当酒も入っていたのだろう。四日は一日ぐっすり寝たようだ。時折目が覚めてもやはり起き上がれず、昼から雨がやんだことくらいは覚えているようだ。

 曾良の『近畿巡遊日記』には、

 

 「一、四日 未ノ刻雨止 夕飯過テ久我ニ趣 梅津ノ渡リヲ越テカツラ()ノ里ヲ過 日暮 夜ニ入テ一定ニ着 道蛍火多シ 三ヶ月ニ色ヲアラソフ蛍哉」

 

と、ある。久我(こが)は桂川(大井川)を下ってった方にある、伏見区久我本町のあたりか。途中通った「梅津ノ渡リ」は松尾(まつのお)大社(たいしゃ)のある辺りだ。「一定」は人名か。途中蛍がたくさん飛んでいたので一句。

 

 三日月に色をあらそふ蛍哉     曾良

 

 さて、その頃芭蕉はというと、狭い部屋の奥や入口を見回し、そこで一句。

 

 五月雨や色帋へぎたる壁の跡    芭蕉

 

 壁に貼ってある色紙がはがれ、そこだけ日焼けしていない新しかった頃の壁の色が見える。

 実際は二週間程度のそんなに長い滞在ではなかったから、壁の色を変えるほどのものではなかっただろうけど、何か長い時の経過を感じさせる。

 芭蕉は『奥の細道』の旅のとき、平泉で、

 

 五月雨や年々(としどし)降りて五百たび    芭蕉

 

の句を詠んでいる。五百年の風雪を鞘堂を作ってしのいできた光堂の姿に、その年月の遥かさを思っての句だ。

 やがて『奥の細道』の清書の段階で、つまり落柿舎滞在の翌年の元禄五年であろうか、この句はよく知られた、

 

 五月雨の降残してや光堂      芭蕉

 

の句に姿を変える。

 光堂の歴史に重みには遠く及ばないが、落柿舎を跡にするとき芭蕉が見たのは、五月雨の降り残してや色紙の裏だったのだろう。この色紙を見たときのイメージからやがて「五月雨の降残してや」の言葉が生まれたのかもしれない。

 

 このあと芭蕉は小川椹木町(おがわさわらぎちょう)にある凡兆宅に移る。二条城の北の椹木町通のあたりか。二条城の東の小川通の交わるあたりか。ここでまた、京都の門人を交えて、曾良に京都案内などをやって楽しく過ごすことになる。

付、幻住庵記

 『嵯峨日記』で(らく)柿舎(ししゃ)滞在中に「(げん)(じゅう)庵記(あんのき)」を清書したことが記されていた。これはこの年の七月に刊行される去来(きょらい)(ぼん)(ちょう)編の『(さる)(みの)』に収録されることになる。

 この俳文は『嵯峨日記』と同様、病気の療養を兼ねた隠棲生活を描いたもので、『嵯峨日記』を書くきっかけになったものではないかと思う。

 

 「幻住庵記」で獲得した、これまでのような修行のための隠棲でもなければ、世間から見捨てられたよう悲壮感も何もない、悠々自適の楽しい隠棲生活、緩い隠棲生活というコンセプトがなければ、『嵯峨日記』も誕生しなかったであろう。

一、幻住庵の場所の紹介

 「石山の奥、岩間(いはま)のうしろに山(あり)国分山(こくぶやま)といふ。そのかみ国分寺(こくぶんじ)の名を伝ふなるべし。(ふもと)に細き(ながれ)を渡りて、翠微(すゐび)に登る事三曲(さんきょく)二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は弥陀(みだ)の尊像とかや。唯一(ゆゐいつ)の家には甚忌(はなはだいむ)なることを、両部(りゃうぶ)光を(やはら)げ、利益(りやく)(ちり)を同じうしたまふも又(たふと)し。日(ごろ)は人の(まうで)ざりければ、いとど神さび、物しづかなる(かたはら)に、住捨(すみすて)し草の戸(あり)。よもぎ・()(ざさ)軒をかこみ、屋ねもり壁(おち)て、()()ふしどを得たり。幻住庵と(いふ)。あるじの僧(なに)がしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父(をぢ)になんはべりしを、今は八年(やとせ)(ばかり)昔になりて、(まさ)に幻住老人の名をのみ残せり。」

 

 石山(いしやま)は滋賀県大津市の瀬田川の西岸にある。草津宿の方から大津宿へ向うと、瀬田川にかかる瀬田の橋を渡る。芭蕉は貞享五年(一六八八)に、

 

 五月雨に隠れぬものや瀬田の橋   芭蕉

 

の句を詠んでいる。その瀬田の橋を渡ったあたりが石山になる。

 このあたりは古代には近江国国府と国分寺があり、古代東山道が通っていた。古代東山道はほぼ近世の中山道(なかせんどう)に受け継がれている。近世の中山道は草津宿で東海道に合流する。

 ここでいう石山は石山寺のある今の伽藍山(がらんやま)のことではないかと思われる。

 「石山の奥、岩間(いはま)のうしろに山(あり)国分山(こくぶやま)といふ。」とあるが、国分山は石山の西側にあり、岩間山はそのはるかに南側にある。

 「幻住庵記」の前身となる「幻住庵ノ()」には「石山を前にあてて、岩間山のしりへにたてり。」とある。「しりへ」が岩間から北に伸びる尾根の端という意味なら、かなり正確に位置関係を表している。

 「幻住庵記」の「岩間のうしろ」も「しりへ」の意味で用いたと思われるが、かえってわかりにくくなった。

 「そのかみ国分寺(こくぶんじ)の名を伝ふなるべし。」とは、古代にはこのあたりに近江国国分寺があり、「国分」という地名はそこからきていることを言う。

 「(ふもと)に細き(ながれ)を渡りて、翠微(すゐび)に登る事三曲(さんきょく)二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。」の「細き流れ」は三田川(さんだがわ)で、「翠微(すゐび)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 1 薄緑色にみえる山のようす。また、遠方に青くかすむ山。

「目睫の間に迫る雨後の山のを眺めていた」〈秋声・縮図〉

 2 山の中腹。八合目あたりのところ。

「麓に細き流れを渡りて、に登る事三曲二百歩にして」〈幻住庵記〉

 

とある。麓に霞がたなびいた時に、その霞がかかるあたりという意味か。

 「八幡宮」は今の近津(ちかつ)()神社で、曲がりくねった石段を登ってゆく。

 「神体は弥陀(みだ)の尊像とかや。唯一(ゆゐいつ)の家には甚忌(はなはだいむ)なることを、両部(りゃうぶ)光を(やはら)げ、利益(りやく)(ちり)を同じうしたまふも又(たふと)し。」というのは、明治以降は神仏が分離されたが、当時は神仏習合し、八幡大菩薩が祀られてたと思われる。八幡大菩薩は阿弥陀如来と同一視されてきた。

 吉田家の唯一神道ではこうした習合を忌むというのは、おそらく吉田神道の系譜を引く吉川(きっかわ)(これ)(たる)の神道を学んだ曾良がそう言っていたのか。

 芭蕉は一般論として「両部(りゃうぶ)光を(やはら)げ、利益(りやく)(ちり)を同じうしたまふも又(たふと)し。」という。両部神道の和光同塵(わこうどうじん)の考え方に従い、阿弥陀如来の威光が八幡大菩薩を通じて人々に御利益をもたらすことを賛美する。

 このあたりも、「幻住庵ノ賦」には「古き神社の立せたまへれば、六根をのづから清ふして塵なき心地なむせらる。」とだけあって、唯一神道と両部神道の問題にも、八幡大菩薩を祀っていることにも触れてない。

 「日(ごろ)は人の(まうで)ざりければ、いとど神さび、物しづかなる(かたはら)に、住捨(すみすて)し草の戸(あり)。よもぎ・()(ざさ)軒をかこみ、屋ねもり壁(おち)て、()()ふしどを得たり。幻住庵と(いふ)。」

 この庵の荒れ果てた様子も、「幻住庵ノ賦」には「かの住捨(すみすて)し草の戸は」としかない。

 おそらく幻住庵という主題を冒頭に持ってきたことで、それについて読者に鮮やかな印象を与えるために、原案よりも若干話を膨らませたのではないかと思われる。「狐狸」というと近代文学の作家に狐狸庵先生遠藤周作がいたのを思い出す。

 荒れ果てた庵はいかにも世捨て人にふさわしく、こうした趣向は『嵯峨日記』の

 

 「落柿舎は昔のあるじの作れるままにして、処々頽破(たいは)ス。中々に(つくり)みがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。(ぼりもの)せし(うつばり)(ゑがけ)ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も(むぐら)の下にかくれたるニ、竹縁の前に(ゆず)の木(ひと)もと、花(かんば)しければ、」

 

といった描写に受け継がれている。

 こういう隠逸の士は住むために最低限の草取り、『嵯峨日記』の冒頭部分にあるように「予は(なほ)(しばらく)とどむべき由にて、障子つづくり、葎引(むぐらひき)かなぐり」くらいのことはするが、大方荒れたままに放っておく。理由は簡単で、永住を意図してないからだ。一所(いっしょ)不住(ふじゅう)、生涯を旅にすごすと決意した者は、土地に執着しない。いつここを離れるかと思えば、綺麗な庭を作り上げても無駄だからだ。

 次にこの(いおり)(きょく)(すい)伯父(おじ)の住んでた庵を借りたものだということが明かされる。

 「あるじの僧(なに)がしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父(をぢ)になんはべりしを、今は八年(やとせ)(ばかり)昔になりて、(まさ)に幻住老人の名をのみ残せり。」

 曲水は「曲翠」ともいう。膳所藩(ぜぜはん)の重臣で、経済的な面で芭蕉のお世話になった人だ。ここでも住居を手配してくれている。地位のある人なので「菅沼氏」と苗字を明記している。

 「勇士」とあるのはこの頃から正義感の強い人だったからか。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」によると、最期は「享保(きょうほう)2年不正をはたらいた家老を殺害して自刃(じじん)58歳。子の内記も切腹,妻は出家し破鏡(はきょう)()と号した。」という。これをもって菅沼家は断絶した。困った勇者様だ。

 句のほうでは、『続猿(ぞくさる)(みの)』に

 

 (ふくらう)(なき)やむ岨の若菜かな      曲翠

 

の句がある。

 「幻住庵ノ賦」には「勇士菅沼氏曲水の伯父なる人の、(この)世をいとひし跡とかや。ぬしは八とせばかりのむかしになりて、(すみか)はまぼろしのちまたに残せり。誠に知覚迷倒(ちかくめいたう)も皆ただ幻の一字に帰して、無常迅速のことはり、いささかも忘るべき道にあらず。」とやや詳しく述べられている。

二、奥の細道の旅

 幻住庵の位置や様子、誰の庵だったかが簡潔に語られ、幻住庵が何であるか一応のイメージが出来た所で、芭蕉がどうしてここに来たかという経緯を簡単に説明する。

 

 「()市中(しちゅう)を去ること十年計(ととせばかり)にして、五十年(いそぢ)ややちかき身は、蓑虫のみのを失ひ、蝸牛(かたつぶり)家を(はなれ)て、奥羽象潟(きさかた)の暑き日に(おもて)をこがし、高すなごあゆみくるしき北海の荒磯(あらいそ)にきびすを破りて、()(とし)湖水の波に(ただよふ)(にほ)(うき)()(ながれ)とどまるべき(あし)一本(ひともと)の陰たのもしく、軒端(のきば)(ふき)あらため、垣ね(ゆひ)(そへ)などして、卯月(うづき)(はじめ)いとかりそめに(いり)し山の、やがて(いで)じとさへおもひそみぬ。」

 

 「市中(しちゅう)を去る」というのは延宝八年(一六八〇年)、日本橋から深川へ居を移し、世俗の業務から離れ、隠棲することになった、いわゆる「深川隠棲」を言う。

 三十七歳での隠居は当時としてはそんなに特別早いものではない。人生五十年の時代に、三十七歳は既に初老に差し掛かる頃だ。それにくわえて芭蕉には持病があり、健康上の問題もあったのだろう。

 そして芭蕉が幻住庵に来たのが元禄三年(一六九〇年)だから、ちょうど十年ということになる。芭蕉は四十七歳。五十に近いのは間違いない。

 「蓑虫のみのを失ひ、蝸牛(かたつぶり)家を(はなれ)て」は芭蕉が『奥の細道』の旅に出る際に芭蕉庵を人に譲り、実際に自分の家がなくなったことを表すものだ。

 「奥羽象潟(きさかた)の暑き日に(おもて)をこがし」とあるが、芭蕉はこれよりかなり手前の須賀川で、

 

 早苗にも(わが)(いろ)黒き日数(ひかず)(かな)      芭蕉

 

の句を詠んでいる。象潟に着いたときには暑い盛りで、北の方とはいえやはり暑かったという記憶なのだろう。

 このころはまだ『奥の細道』の執筆には入ってなかったが、『奥の細道』の酒田から市振(いちぶり)への道筋で「此間(このかん)九日(ここのか)暑湿(しょしつ)の労に(しん)をなやまし、(やまひ)おこりて事をしるさず。」とある。

 「高すなごあゆみくるしき北海の荒磯(あらいそ)にきびすを破りて」はおそらく越後から越中市振へ行く途中、山が迫り狭い海岸沿いの道を行く「親知らず子知らず」のことであろう。ただ、曾良の『旅日記』には特に難儀した記述はない。

 このあたりのことは、「幻住庵ノ賦」だと大分長くなる。冒頭の部分になる。

 

 「五十年(いそぢ)ややちかき身は、(にが)(もも)老木(おいき)となりて、蝸牛(かたつぶり)のからをうしなひ、(みの)(むし)のみのをはなれて、(ゆく)()なき風雲(ふううん)にさまよふ。かの宗鑑(そうかん)がはたごを朝夕(あさゆふ)になし、能因(のういん)頭陀(づだ)の袋をさぐりて、松嶋・しら川に(おもて)をこがし、湯殿(ゆどの)()山に袂をぬらす。猶うたふ(なく)そとの浜辺よりゑぞがちしまを見やらんまでと、しきりに思ひ(たち)侍るを、同行(どうぎゃう)曾良なにがしといふもの、多病いぶかしなど袖をひかるるに心たゆみて、象潟(きさかた)といふ所より越路(こしぢ)のかたにおもむく、さるは高砂子(たかすなご)のあゆみくるしき北海のあら磯にきびすを破りて、ことし湖水のほとりにただよふ。」

 

 「しら川に(おもて)をこがし」だと、「早苗にも」の句とほぼ一致する。出羽三山の湯殿山では、

 

 語られぬ湯殿にぬらす袂かな    芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 「うたふ(なく)そとの浜辺」は「善知鳥(うとう)鳴く、外の浜」で、

 

 みちのくの外ヶ浜なる呼子鳥

     鳴くなる声はうとうやすかた

               藤原定家

 

の歌がある。「善知鳥(うとう)」は「歌ふ」に掛けて用いられるため、ここでは「うたふ」と書かれているのだろう。

 「外の浜」は津軽の青森湾に面した外ヶ浜で、蝦夷への入口だったのだろう。

 芭蕉はこのまま外ヶ浜から蝦夷に渡り、千島まで行きたいと思ったが、当然ながら曾良に止められる。芭蕉が千島がどれぐらいの距離の所にあると思っていたのかはわからないが、そんなところまで行ったら帰る頃には北海道の冬も早く、連日の氷点下の行軍となっただろう。

 当時の旅の大変さを考えれば、ここで引き返したら、もう二度とここまで来ることもないだろう。これより北は生涯の見残しとなり、恨みを残すことになる。おそらく曾良にさんざん八つ当たりしたのではないかと思われる。だから近江にまで戻ったとき、こんなことを恨みがましく書いていたのではないかと思う。

 さすがに完成稿の段階ではこの恨みがましい言葉はカットされ、「象潟(きさかた)といふ所より越路(こしぢ)のかたにおもむく、さるは高砂子(たかすなご)のあゆみくるしき北海のあら磯にきびすを破りて」の言葉を膨らます感じで仕上げたようだ。ただ、日焼けのネタを無理に挿入したため、白河の関を越え須賀川で詠んだ「我色黒き」が象潟になってしまったようだ。

 「湖水のほとりにただよふ。」のあとの部分は「幻住庵記」の方は、

 

 「()(とし)湖水の波に(ただよふ)(にほ)(うき)()(ながれ)とどまるべき(あし)一本(ひともと)の陰たのもしく、軒端(のきば)(ふき)あらため、垣ね(ゆひ)(そへ)などして、卯月(うづき)(はじめ)いとかりそめに(いり)し山の、やがて(いで)じとさへおもひそみぬ。」

 

 「幻住庵ノ賦」の方は、

 

 「ことし湖水のほとりにただよふ。(にほ)(うき)()(ながれ)とどまるべき(あし)一葉(ひとは)のやどりもとむるに、その名を幻住庵といひ、その山を国分山(こくぶやま)といへり。」

 

となり、家を改装した所は描かれず、そのまま幻住庵の場所説明に入る。順序が逆になるというのは前に述べたとおりだ。

 漂う流浪の身にとって幻住庵はすがるべき一本の芦のようなもので、家を修理して住んだことが書かれている。この一文は、『嵯峨日記』の「予は(なほ)(しばらく)とどむべき由にて、障子つづくり、葎引(むぐらひき)かなぐり」という描写にも引き継がれることとなる。

 いつ来たのかわかりやすいように日付も入れている。

 芭蕉は九月二十二日に、

 

 (はまぐり)のふたみに別れ行く秋ぞ     芭蕉

 

と詠み、故郷の伊賀へと向う。その途中、『猿蓑』の元となった、

 

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也    芭蕉

 

の句を詠む。

 

 その後京都へ行き、十二月に大津に来る。その後一度伊賀に戻ってから、再び大津に来て、四月六日に幻住庵に入る。

三、幻住庵からの景色のすばらしさ

 まずは俳諧らしく季節の描写し、そこから中国南部の名所を言い興す。

 

 「さすがに、春の名残(なごり)も遠からず、つつじ(さき)残り、(やま)(ふぢ)松にかかりて、(ほとと)(ぎす)しばしば(すぐ)るほど、宿かし鳥の便(たより)さへ(ある)を、木つつきのつつくともいとはじなど、そぞろに興じて、(たましひ)呉楚(ごそ)東南(とうなん)に走り、身は瀟湘(せうしゃう)洞庭(どうてい)に立つ。」

 

 ツツジは春の季語だが、初夏にも咲き残る。俳諧では「残る」を付けると次の季節の詞になる。藤もまた晩春のもので、和歌には夏に詠むこともある。

 

  夏にこそ咲きかかりけれ藤の花 

     松にとのみも思ひけるかな

               源重之(みなもとのしげゆき)(拾遺集)

 

など、松に藤を詠む例も多い。

 ホトトギスは言うまでもなく夏の初めを告げるもので、元禄二年刊の『阿羅野』には、あの有名な、

 

 目には青葉山ほととぎす初鰹    素堂

 

の句がある。

 「宿かし鳥」は「(かし)(どり)」に「宿を貸す」を掛けたもので、樫鳥はカケスの別名。ウィキペディアには、

 

 「また信州・美濃地方では「カシドリ」の異名もありカシ、ナラ、クリの実を地面や樹皮の間等の一定の場所に蓄える習性がある。冬は木の実が主食となり、蓄えたそれらの実を食べて冬を越す。」

 

とある。

 「木つつき」といえば、『奥の細道』の旅の途中、雲巌寺で、

 

 木啄(きつつき)も庵は破らず夏木立      芭蕉

 

の句を詠んでいる。

 「宿かし鳥」は幻住庵を借りたという連想が働くし、啄木も仏頂和尚の修行時代の小さな庵が思い浮かぶ。

 そして、それがどういうところなのか、中国の瀟湘・洞庭に喩える。瀟湘は「瀟湘八景」として画題になっているし、洞庭湖の景色も古くから漢詩に詠まれている。

 「魂呉・楚東南に走り」は出典がある。

 

   登岳陽樓     杜甫

 昔聞洞庭水 今上岳陽樓

 楚東南坼 乾坤日夜浮

 親朋無一字 老病有孤舟

 戎馬關山北 憑軒涕泗流

 

 いつか聞いた洞庭の湖水のすばらしさを、

 今、岳陽樓(がくようろう)に登って目にする。

 春秋時代の呉と楚はここを国境として東南と北西に別れ、

 天と地を昼も夜もここに浮かべては映す。

 親からも仲間からも一字の便りもなく、

 老いて病気がちな我が身はただ一艘の小船のみを有す。

 異国の騎馬隊は関山の北に迫り、

 樓の軒にうつ伏しては泪に鼻水がぐしゅぐしゅ。

 

 こうした詩をふまえながら、初夏の幻住庵の景色が描き出される。

 この部分は「幻住庵ノ賦」だと啄木のあとに「かつこ鳥我をさびしがらせよなど、ひとりよろこび」のフレーズが入る。

 このフレーズは一年後の『嵯峨日記』に、

 

 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥   芭蕉

 

の句なる。

 元々この句は元禄二年秋の九月に、

 

   伊勢の国長島、大智院に信宿す

 憂きわれを寂しがらせよ秋の寺   芭蕉

 

の改作だった。

 「かつこ鳥」はカッコウのことで、閑古鳥ともいう。ただ、「郭公」という字を当てると、なぜかホトトギスの意味になる。『嵯峨日記』にこのフレーズを使ったために、「幻住庵記」のほうからは外すことになったのだろう。

 「憂き」と「寂し」の関係は、世の中が嫌で憂鬱になって出家しても、時が経つと段々嫌なことを忘れ、良かったことばかりが残り、記憶は美化されてくる。

 まだそこまで至らなければ、水無瀬三吟十句目の、

 

   山深き里や嵐におくるらん

 慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き    宗祇

 

ということになる。隠遁生活は寂しいが、まだ世俗での嫌なことをついつい思い出しては、寂しいけど物憂くもあるが、やがてそれも忘れ、寂しさだけにしてくれというのが芭蕉の句となる。

 「(たましひ)呉楚(ごそ)東南(とうなん)に走り、身は瀟湘(せうしゃう)洞庭(どうてい)に立つ。」のフレーズは、最初は「呉楚東南のながめにはぢず、五湖三江もここに疑わしきや。」だった。

 「五湖三江」は百度百科には「三江五湖」の形で「指南方的三条江与太湖流域一的湖泊」とある。中国南東の太湖とその周辺の湖、周辺の川という意味だ。瀟湘・洞庭とは離れた長江下流にある。

 五湖三江も名所ではあるが、杜甫の詩を生かすのであれば、あまり離れた名所を出すのは、ということで変えたのだろう。

 さて、杜甫の「登岳陽樓」の興で、実際の幻住庵からの景色を言い興すことになる。

 

 「山は未申(ひつじさる)にそばだち、人家よきほどに(へだた)り、南薫(なんくん)峰よりおろし、北風(ほくふう)湖を(ひた)して涼し。日枝(ひえ)の山、比良(ひら)の高根より、辛崎の松は霞こめて、城(あり)、橋(あり)(つり)たるる舟(あり)、笠とりにかよふ()(こり)の声、麓の小田(をだ)早苗(さなへ)とる歌、蛍(とび)かふ夕闇の空に水鶏(くひな)(たたく)音、美景(もの)としてたらずと云事(いふこと)なし。中にも三上山(みかみやま)は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き(すみか)もおもひいでられ、田上(たなかみ)山に古人をかぞふ。ささほが(たけ)・千丈が峰・(はかま)(ごし)といふ山(あり)。黒津の里はいとくろう茂りて、「網代(あじろ)()ルにぞ」とよみけん『万葉集』の姿なりけり。」

 

 「未申(ひつじさる)」は南西から西にかけてで、地図を見れば西には音羽山(標高593メートル)、その南に千頭岳(標高602メートル)、醍醐山(標高454メートル)、五雲峰(標高343メートル)、喜撰山(標高416メートル)といった低山が連なっている。南には岩間山(標高443メートル)がある。

 夏の「風薫る」と言われる南風はこれらの峰より吹き降ろし、北から吹く風は琵琶湖に冷やされ、どちらも涼しい。

 比叡山は北西の方向、琵琶湖の西岸にあり、比良岳はその更に北にある。滋賀辛崎は国分山から見るとちょうどその手前になる。

 

 辛崎の松は花より朧にて      芭蕉

 

の句は貞享二年(一六八五)の『野ざらし紀行』の旅の時の句だ。

 更に手前には琵琶湖に突き出るように膳所城が聳え、更に手前には瀬田大橋がある。

 「(つり)たるる舟」は、

 

 時雨(しぐれ)きや並びかねたるいさざふね  千那

 

と『猿蓑』に選ばれたいさざ漁の舟だろうか。ただし漁期は秋から冬に掛けてで、この時期ではない。それに小魚なので網で捕る。

 となると、そのほかの琵琶湖の固有種はというとビワマス(あめのうお)だろうか。

 

 月は山けふは近江のあめの魚    荷兮

 やきものは近江成けり江鮭魚    之道

 

の句はあるが、秋のものだ。之道の撰集のタイトルとなった「あめ子」は九月二十五日のところでも書いたが、琵琶湖に注ぐ川に遡上するビワマスの河川残留型で、川のものだ。

 となるとニゴロブナだろうか。漁期は春で鮒ずしにする。これなら初夏でまだ残っていてもおかしくないかもしれない。

 「笠とりにかよふ()(こり)の声」の笠取山は岩間山のすぐ西にある。醍醐寺の笠取清滝宮がある。

 「麓の小田(をだ)早苗(さなへ)とる歌、蛍(とび)かふ夕闇の空に水鶏(くひな)(たたく)音、美景(もの)としてたらずと云事(いふこと)なし。」

は国分山の南側の風景であろう。

 三上山は草津より彦根よりの守山・野洲の辺りにある。標高432メートルで近江富士と呼ばれている。ここでも「士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き(すみか)もおもひいでられ、田上(たなかみ)山に古人をかぞふ。」とある。

 田上(たなかみ)(やま)は国分山の南東にある(たな)神山(かみやま)(標高600メートル)のあたりの山全体を指すという。今では湖南アルプスと呼ばれているようだがそんなに高い山ではない。山の向こうは焼物で有名な信楽(しがらき)

 

 木綿だたみ田上山のさなかづら

     ありさりてしも今ならずとも

               詠み人知らず(『万葉集』巻十二、三〇七〇)

 

の歌もある。

 「ささほが(たけ)・千丈が峰・(はかま)(ごし)といふ山(あり)。黒津の里はいとくろう茂りて、『網代(あじろ)()ルにぞ』とよみけん『万葉集』の姿なりけり。」

 ささほが嶽は笹間ヶ岳、袴腰は腰袴山。千丈が峰はよくわからない。千丈川という小さな川はあるが。

 黒津の里は田上山の手前の瀬田川と大戸川の合流点にある。「網代守るにぞ」の歌は『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)に、

 

 田上や黒津の庄の痩男

     あじろ守るとて色の黒さよ

 

という古歌を『万葉集』の歌と混同したとある。この歌はこれより後に書かれた『近江與地志略』(享保十年)にあるという。この地方に芭蕉の時代からこういう伝承歌があったのか。

 このあたりは「幻住庵ノ賦」だと、まず「山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫峰よりおろし、北風湖を侵して涼し。」の部分は最初に幻住庵を紹介する所にあった。

 「山はさすがに深からず、人家よき程にへだたり、石山を前にあてて、岩間山のしりへにたてり。南薫(なんくん)高く峯よりおろし、北風(ほくふう)はるかに海をひたして涼し。おりしも卯月(うづき)のはじめなれば、つつじ咲‥‥」

 このあと、比叡、比良、辛崎は一緒で、そのあとに「膳所の城は()()にかがやき、勢田(せた)のはしに雨(はれ)ては、粟津(あはづ)の松ばらに夕日を残す。」と続く。この辺は「城あり、橋あり、釣たるる舟あり」と大幅に省略されてしまった。その替りに笠取山、田植え歌、蛍、水鶏などが付け加えられる。

 そして三上山から田上山、ささほが嶽、千丈が峰、袴腰は同じで、その後にあった笠取山が削られて「釣たるる舟あり」の後へと移動する。

 『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の注の「幻住庵ノ賦」の千丈が峰の所に、「千頭が嶽」とある。(たな)神山(かみやま)とそのあとに黒津の里が出てくるので、南東の方角を探してそれらしき山が見つからなかったが、千丈が峰は幻住庵の西にあった。確かに千丈川はこのあたりを水源としている。

 何でこんな方向違いの山が並列されたかというと、この位置に「笠取山に笠はなく、黒津(くろづ)の里人の色くろかりけむ」と続くと、南西に位置する笠取山が入るため、南東に限らない広い範囲の記述になるため、千頭が嶽が入ってもそれほど違和感はない。笠取山が始めのほうへ移動したため、千頭が嶽だけが浮いてしまったといっていいだろう。

 

 「(なほ)眺望くまなからむと、(うしろ)の峰に(はひ)のぼり、松の棚(つくり)、藁の円座を(しき)て、猿の腰掛けと名付(なづく)彼海棠(かのかいだう)に巣をいとなび、主簿(しゅぼ)(ほう)(いほり)を結べる(わう)(をう)(じょ)(せん)()にはあらず。(ただ)睡癖山(すゐへきさん)(みん)(なり)て、(さん)(がん)に足をなげ出し、空山(くうざん)に虱を(ひねつ)て座ス。たまたま心まめなる時は、谷の清水を(くみ)てみづから(かし)ぐ。とくとくの(しづく)(わび)て、一炉の備へいとかろし。はた、昔(すみ)けん人の、(こと)に心高く(すみ)なしはべりて、たくみ(おけ)る物ずきもなし。持仏(ぢぶつ)一間(ひとま)(へだて)て、(よる)の物おさむべき処など、いささかしつらへり。」

 

 幻住庵からの眺望をこれまで述べてきたが、もっと眺めを隈なく楽しもうと言うことで、国分山に登り、松の棚を作り藁の円座を敷いて猿の腰掛と名付ける。

 松の棚は『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の注には、「『蘆のひともと』『猿蓑さがし』等には陳元信の「松棚ノ詩」を引く」とある。

 その「松棚ノ詩」を検索して探したら、さすがにグーグル先生、すぐにこの詩を出してきた。それは「『錦嚢風月』解題と翻刻」(堀川貴司)というpdfファイルだった。『錦嚢風月』は「相国寺の春渓が寛正年間に撰んで、唐宋金元明の詩三千余首を纂めたものである」という。寛正年間というと応仁の乱の直前だ。

 

   松棚       陳元信

 旋斫松枝架作棚 蒼髯如戟昼崢嶸

 清陰堪愛還堪恨 遮却斜陽礙月明

 

 松の枝を断ち切り棚を作って架ける。

 蒼い髭のような松の枝は(げき)という鉾のように昼の空にギザギザと聳え立つ。

 その清らかな木陰は愛おしくもあれば恨めしくもあり、

 西日を遮ってくれるものの、月明かりを見るには邪魔である。

 

 「棚」という字には(たな)の意味もあれば、橋や屋根の意味もある。横に渡すものという意味なら、ここではベンチに近いかもしれない。

 赤松は太い枝が横に伸びるから、そこに横板を渡して、梯子を掛けて登るような空中のベンチを作ったのかもしれない。

 そこに藁を編んで丸くした座布団を乗せ、「猿の腰掛」と名付ける。茸の名前に掛けた洒落だ。

 「彼海棠(かのかいだう)に巣をいとなび、主簿(しゅぼ)(ほう)(いほり)を結べる(わう)(をう)(じょ)(せん)()にはあらず。」の王翁は王道人で北宋の頃の人で、徐栓は徐佺で南宋の人。ともに、

 

   題灊峰閣     黄庭堅

 徐老海棠巢上 王翁主簿峰菴

 梅蘤破顏冰雪 綠叢不見黃甘

 

 老いた徐佺は海棠の木の上に巣を作り、

 王道人という老いた主簿は峰に庵を結ぶ。

 梅の花は氷る雪の中で破顏して笑い、

 生い茂る緑の中では蜜柑は見えない。

 

の詩による。

 蘤は花の異字体で、同様に𤾡という字もあるようだ。「典」という中国語のサイトに「古同。」とある。

 芭蕉は自分は徐佺や王道人のような立派な人ではないと謙遜する。

 「(ただ)睡癖山(すゐへきさん)(みん)(なり)て、(さん)(がん)に足をなげ出し、空山(くうざん)に虱を(ひねつ)て座ス。」

 「(さん)(がん)」は辞書には「山がやせほそって険しいさま」とある。そのまま読めば貧弱な顔だが、それを山に喩えたものだろう。ぽっちゃり顔のような山だと確かになだらかな感じがする。痩せると険しくなる。

 ただ山で隠居生活を送りだらだらと眠るだけで、険しい山に向って足を投げ出し、空っぽの山で虱を潰している。この「虱をひねって」に俳諧がある。

 虱というと、『野ざらし紀行』の最後に江戸に帰ってきたときの句に、

 

 夏衣いまだ虱を取り尽さず     芭蕉

 

の句がある。

 おそらく、隠棲を中国の隠士のような政治的なものや、仏教の過酷な修行のようなものと切り離し、別に俳諧師でなくても一般的な隠居生活の一つの楽しみとして「猿の腰掛」を提案した側面もあったのだろう。今だったらツリーハウスを作るところか。

 「たまたま心まめなる時は、谷の清水を(くみ)てみづから(かし)ぐ。とくとくの(しづく)(わび)て、一炉の備へいとかろし。」

 「まめ」というのは真面目(真目)という意味。毎日きっちりご飯を炊くのではなく、気が剝いた時だけに炊いたようだが、なら普段はどうしていたのか。お弟子さんが持ってきてくれるのか。

 「(かし)ぐ」というのは(こしき)で蒸す(こわ)(いい)に対して、釜で水を加えて煮る(よわ)(いい)を炊くことを言う。

 ここまでくるとゆるキャンならぬ「ゆる隠棲」だが、本格的な隠遁者になるのではなく、この程度なら誰でも真似できるという所で、俳諧の風流な遊びの一つとして広めようという意図があったのだろう。

 「とくとくの(しづく)」は芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のとき、吉野の西行庵の跡を訪れた時、

 

 露とくとく心みに浮世すすがばや  芭蕉

 

と詠んだのを思い起こさせる。西行法師の歌と伝えられている、

 

 とくとくと落つる岩間の苔清水

     くみほすほどもなきすまひかな

 

が元になっている。

 「とくとく」は「とっとっとっとっ‥‥」という感じで間断なく雫が滴る程度の状態を言う。水が溜まるまでしばらく待たなくてはならない。

 使用する炉も一つだけで、たくさんの料理を作ったりは出来ないあたりも、今のキャンプ料理のようだ。

 「いとかろし」には出典にもたれすぎない「(かろ)み」の精神を、隠棲においても実践しようというものだろう。いにしへの隠士の心にとらわれず、自由にという意味が込められているのだろう。

 この部分、猿の腰掛のところはほぼ一緒だが、そのあとは「幻住庵ノ賦」の方がやや詳しく書かれている。

 

 「つたへ(きき)ぬ、除老が海棠(かいだう)(さう)(いん)(らく)(いち)にありてかまびすしく、王道人(わうだうじん)主簿(しゅぼ)(ほう)(すま)ゐも、(ここ)(すて)てうらやむべからず。虚無に(まなこ)をひらいて(うそぶ)き、(さん)(がん)にしらみを(ひねつ)て座す。たまたま心すこやかなる時は、(たきぎ)をひろひ清水をむすぶ。小歯朶(こしだ)・ひとつ()のみどりをつたふとくとくの(しづく)をわびては、(いち)()のそなへいと(かろ)し。」

 

 「軽み」という観点から言えば、この文章はまだ重い。徐佺や王道人をうらやまずに、というあたりにまだ彼等と同等になろうとして、「虚無に(まなこ)をひらいて(うそぶ)き」というあたりにも、まだ禅家の悟りのようなものを匂わせている。改作した時には、そういう古人のもつ隠棲の重みを捨て去る所で、隠棲という一つのライフスタイルに軽みをもたらそうとしたのではないかと思う。

 「心すこやかなる時は」では病んでるときと対比されるが、「心まめなるとき」だと心がだらけてる時と対比される。このあたりも等身大を意識している。

 飯を炊くだけでなく、(たきぎ)を拾うことも含まれているし、このあたりもよりゆるくなるように書き改めている。そう見ると、当時の「軽み」は今日に「ゆるい」に近いのかもしれない。ゆる俳諧、ゆる隠棲、あまり古人の思想とかにこだわらず、ゆるく楽しもうというのが、晩年の芭蕉の境地だったのかもしれない。

 芭蕉の時代というのは、ちょうど木版印刷によって本が庶民の間に広まった時代で、それまで上流階級は僧侶でなければ知らなかったような古典の知識を庶民が得るようになった時代だった。

 そしてその古典の知識は、庶民の奔放な想像力によって、これまでなかったような世界を生み出した。俳諧もそうだし、歌舞伎、文楽、風俗画、様々な庶民向けの大きなイラストの入った草紙類、これまでの支配者階級にはない自由な発想で古典は解釈され、独自の遊びの世界を生み出した。

 支配者階級の知識は支配するためのもので、単一性を志向する。意見が違えば独鈷(とっこ)鎌首(かまくび)でガチに争う。

 これに対して庶民の知識は多種多様な職業、身分、境遇、地域、性向を持った人が混在する都市という場所に置かれた時、多様性を認め合い、調和を重視し、ガチな争いを好まず、ゆるく行こうという空気が生じる。そこに様々な笑いの文化が生まれる。

 今の時代も似た所がある。インターネットの普及でこれまで上流階級や知識人階級に独占されてきた情報が、教育機関やマスメディアなどの検閲や編集なしに庶民に広まるようになった。そういう中でやはり庶民特有の多様な考え方の共存ということを求めるようになった時、ガチなイデオロギーの主張は嫌われ、ゆるさと笑いが重視されるようになる。

 芭蕉が「幻住庵記」で試みたゆる隠棲は、やがて『嵯峨日記』へと結実してゆくことになる。悲壮感のない楽しい隠棲は、やがて江戸時代の市井での隠居生活の手本となり、そこから江戸時代特有の文化が生まれて行ったのではないかと思う。

 「はた、昔(すみ)けん人の、(こと)に心高く(すみ)なしはべりて、たくみ(おけ)る物ずきもなし。持仏(ぢぶつ)一間(ひとま)(へだて)て、(よる)の物おさむべき処など、いささかしつらへり。」

 

 幻住庵の先住者は「心高く」無駄なものを置かない人だった。いわば昔ながらのガチな隠棲者だった。持仏、つまりマイ仏像を置く部屋一間(約1.8メートル)隔てて、夜具を置く部屋を作り、誰でも住めるような部屋に改装した。この心高き隠棲者との決別が芭蕉の求めた「軽み」だったのだろう。句においては、志の高い古典の表現に対し、出典の深い意味にこだわらずという「軽み」になった。

四、筑紫の僧による幻住庵の命名

 ヤマコレというサイトによると、現在の国分山は「展望はない。」ということで、芭蕉亡き後はすっかり木が生い茂ってしまったのだろうか。残念なことに芭蕉の描いたあの雄大なパノラマは今は見られないようだ。現在の幻住庵は平成三年(一九九一)に再現されたものだという。

 

 「さるを、筑紫(つくし)高良山(かうらさん)の僧正は、 加茂の甲斐(かひ)何がしが厳子(げんし)にて、(この)たび(らく)にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を(こふ)。いとやすやすと筆を(そめ)て、「幻住庵」の三字を送らる。(やが)て草庵の記念(かたみ)となしぬ。すべて、山居といひ、旅寝と(いひ)、さる(うつはもの)たくはふべくもなし。木曽の(ひのき)(がさ)(こし)(すが)(みの)(ばかり)、枕の上の柱に(かけ)たり。昼は稀々とぶらふ人々に心を(うごか)し、あるは宮守(みやもり)の翁、里のおのこ(ども)(いり)(きた)りて、「いのししの稲くひあらし、兎の(まめ)(ばた)にかよふ」など、我聞(わがきき)しらぬ農談(のうだん)、日既に山の()にかかれば、夜座(しづか)に、月を(まち)ては影を(ともな)ひ、(ともしび)(とり)ては(まう)(ちゃう)に是非をこらす。」

 

 高良山(こうらさん)には筑後国一ノ宮の高良大社があり、創建は仁徳天皇・履中(りちゅう)天皇の時代という伝承があるが、ここまで古いと本当の所はよくわからない。祭神の高良(こうら)(たま)(たれの)(みこと)について、ウィキペディアには、

 

 「高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。」

 

とある。

 やがて本地垂迹に基づき神仏習合の山として、明治の神仏分離まで栄えることになる。

 御井町誌というサイトによると、戦国時代には大友氏と秀吉との対立により荒廃していた高良山を立て直したのが高良山の五十代座主寂源だったという。この寂源こそが、加茂(かもの)祠官(しかん)藤木(ふじき)甲斐(かいの)(かみ)(あつ)(なお)の厳子、幻住庵の額の文字を書いたその人だった。額というのは扁額(へんがく)のことで、お寺の門や神社の鳥居に掲げる表札のようなものをいう。

 ところで「幻住庵」を検索すると、博多の幻住庵というのが出てくる。こちらのほうが古い。しかもこの「幻住庵」のホームページによれば、幻住庵はここが最初ではなく中国に起源があるという。

 

 「中峰明本は中国禅宗界屈指の禅僧であり、五山第一位に住持するよう求められたが、これを拒否しています。中峰明本は名誉欲を捨て官寺の世界から抜け出し行脚の旅に出ます。

 そして行く先々で庵を創りこの庵をすべて幻住庵と名付け、そこで座禅をし自らも幻住と号しました。中峰明本のような世俗と一線をかく禅僧のもとに、西域・高麗・雲南・日本の人が集まってきました。中峰明本に学んで日本に帰国した禅僧は6名おり無隠元晦もその一人です。無隠元晦は師の中峰明本が名付けた幻住庵という庵に因んで、博多に天目山幻住庵を開きました。中峰明本の法系は日本では幻住派と呼ばれ中世から江戸にかけて日本禅宗に大きな影響を与えます。」

 

 菅沼修理定知(幻住老人)がこの幻住派と関係があるのかどうかはよくわからない。

 さて、寂源に扁額の文字を書いてもらった芭蕉だが、「(やが)て草庵の記念(かたみ)となしぬ」という。この部分の「幻住庵ノ賦」には「(その)裏には予が名を(かき)て、(のち)見ん人の記念(かたみ)ともなれと也。」とある。

 「すべて、山居といひ、旅寝と(いひ)、さる(うつはもの)たくはふべくもなし。木曽の(ひのき)(がさ)(こし)(すが)(みの)(ばかり)、枕の上の柱に(かけ)たり。」とまあ、荷物は最低限にということで、旅に必要な蓑笠はいつでも手元においておく。幻住庵は別にここに定住することを意図したものではなく、あくまで旅の途中のかりそめの宿だ。

 実際に四月六日に入庵したものの、六月に一度離れ、六月二十五日に再び戻ってくるものの、七月二十三日には引き払うことになる。

 木曽の檜笠は『更科紀行』の時のものか。越の菅蓑は『奥の細道』の旅を思い出すものであろう。『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の補注には、北枝の贈った蓑で、

 

   贈蓑

 しら露もまだあらみのの行衛哉   北枝

 

の句を引用している。蓑は美濃大垣へ行くことと掛けている。

 「昼は稀々とぶらふ人々に心を(うごか)し、あるは宮守(みやもり)の翁、里のおのこ(ども)(いり)(きた)りて、「いのししの稲くひあらし、兎の(まめ)(ばた)にかよふ」など、我聞(わがきき)しらぬ農談(のうだん)、日既に山の()にかかれば、夜座(しづか)に、月を(まち)ては影を(ともな)ひ、(ともしび)(とり)ては(まう)(ちゃう)に是非をこらす。」

 幻住庵滞在中、芭蕉の門人も多数訪れている。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)には、

 

 「七月中、出庵までに来庵の人々。尚白・木節・智月・昌房・何処・越人・洞哉。金沢の北枝より蓑、膳所の扇女より薬袋、京の羽紅より発句が届く(『猿蓑』所収「几右日記」)。

 

とある。

 四月には野水も訪れている。

 その他にも八幡宮の宮守や近所の農夫などが尋ねて来たりしたようだ。猪に田んぼが荒らされただとか、豆畑の兎にやられただとかいう話は、農家の人にとっては「あるある」なのだろうけど、芭蕉には馴染みのないものだったようだ。

 芭蕉は農人の生まれとはいえ、数えで十三の頃から伊賀藤堂藩に奉公し、料理人を務めたりしていたし、江戸に出てきてからはずっと都会暮らしだったから、あまりあまり百姓事情には詳しくなかったのだろう。

 ただ、こういう雑談も多分無駄に聞いてたのではなく、後の軽みの俳諧のヒントにしていったのではないかと思われる。

 

   堪忍(かんにん)ならぬ七夕(たなばた)()

 名月のまに(あは)(たき)芋畑       芭蕉(炭俵「そら豆の花」の巻)

 

   上下(かみしも)の橋の(おち)たる川のをと

 植田(うゑだ)の中を(こう)ののさつく      芭蕉(元禄七年「白菊の」の巻)

 

のような(のち)の句も、百姓との会話の記憶からひねり出した可能性はある。

 隠棲といっても結構尋ねてくる人はいて、そういう意味ではそれほど退屈もしなかったし、寂しくもなかったのだろう。まあ、夜ともなれば人も帰って、月を待つ間は闇に閉ざされる。

 「罔両」は「魍魎」に同じ。ウィキペディアには「山や川、木や石などの精や、墓などに住む物の怪または河童などさまざまな妖怪の総称。」とある。『淮南子』に既にこの用例があるという。

 『荘子』には罔両と影との問答がある。元の意味は「影のまわりに生ずる薄いかげ」だったらしい。そこから幽霊や物の怪のようなものを指すようになったのだろう。

 山の中で真っ暗となると、何か出そうな雰囲気になる。暗闇に目を凝らし、物の怪ではないかと是非を案ずる。このあたりは『源氏物語』の夕顔の俤かもしれない。

 昼の絶景や農夫との雑談などのゆるい隠棲生活を語る一方で、夜の不安を対比させホラー感覚へと持ってゆく。なかなか面白い展開だ。

五、風流の道

 さて、それではこの「幻住庵記」もそろそろ締めに入る。

 

 「かくいへばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡をかくさむとにはあらず。やや病身、人に(うみ)て、世をいとひし人に似たり。倩々(つらつら)年月(としつき)(うつり)こし(つたな)き身の(とが)をおもふに、ある時は仕官(しくわん)懸命(けんめい)の地をうらやみ、(ひと)たびは佛籬(ぶつり)祖室(そしつ)(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲(ふううん)に身をせめ、花鳥(くわてう)(じゃう)を労して、(しばら)く生涯のはかり事とさへなれば、(つひ)に無能無才にして(この)一筋につながる。楽天(らくてん)五臓(ござう)(しん)をやぶり、老杜(らうと)(やせ)たり。賢愚(けんぐ)文質(ぶんしつ)のひとしからざるも、いづれか(まぼろし)(すみか)かならずやと、おもひ(すて)てふしぬ。

 

 (まづ)たのむ椎の木も(あり)木立(こだち)

 

 別に閑寂を好んでこの山に入ったのではなく、ましてここに骨を埋めようとも思っていない。実際に短期間の滞在で打ち払うことになる。『猿蓑』の「市中や」の巻の二十九句目ではないが、

 

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃(はんびつ)

 草庵に(しばら)く居ては(うち)やぶり     芭蕉

 

だ。

 ここでの滞在は一つには持病が出たことによる。芭蕉の持病は疝気(せんき)であり、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 

 「漢方用語。下腹部の痛みの総称。胃炎,胆嚢炎あるいは胆石,腸炎,腰痛などが原因となることが多い。」

 

とある。

 元来胃腸が弱かったのだろう。最期も大腸癌だったと思われる。幻住庵に移って間もない四月十日の「如行宛書簡」に「持病下血などたびたび、秋旅四国西国もけしからずと、先おもひとどめ候」とある。『奥の細道』の旅の途中でも度々この持病が出てたし、その後の旅も負担になり、しばし休息するのが最大の目的だったと思われる。

 そして、そんな病身での隠棲は本当に世を厭うて隠棲している人に似てなくもない。ただ、違うのはほんの一時的なゆるい隠棲だということだ。

 そんななかでこれまでの人生を振り返る。

 「ある時は仕官(しくわん)懸命(けんめい)の地をうらやみ、(ひと)たびは佛籬(ぶつり)祖室(そしつ)(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲(ふううん)に身をせめ、花鳥(くわてう)(じゃう)を労して、(しばら)く生涯のはかり事とさへなれば、(つひ)に無能無才にして(この)一筋につながる。」

 これは『笈の小文』の、

 

 「かれ狂句を好むこと久し。(つひ)に生涯のはかりごとととなす。ある時は(うん)放擲(はうてき)せん事をおもひ、ある時はすすむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を(たて)てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク(まなん)で愚を(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして(ただ)此の一筋に(つなが)る。」

 

に似ている。『笈の小文』は未完の草稿で、後の元禄五年ごろに書かれたものだろう。その前身とも言える文章だ。

 「楽天(らくてん)五臓(ござう)(しん)をやぶり」は白楽天(白居易)の「思旧」という詩の一節「詩役五藏神」から来ている。

 

   思舊   白居易

 閑日一思舊 舊遊如目前

 再思今何在 零落歸下泉

 退之服硫黃 一病訖不痊

 微之鍊秋石 未老身溘然

 杜子得丹訣 終日斷腥羶

 崔君誇藥力 經冬不衣綿

 或疾或暴夭 悉不過中年

 唯予不服食 老命反遲延

 況在少壯時 亦爲嗜慾牽

 但躭葷與血 不識汞與鉛

 飢來吞熱物 渴來飲寒泉

 詩役五藏神 酒汨三丹田

 隨日合破壞 至今粗完全

 齒牙未缺落 肢體尚輕便

 已開第七秩 飽食仍安眠

 且進桮中物 其餘皆付天

 

 暇な日にふと昔の友を思い出し、友と遊んだ時のことが目の前に浮かぶ。

 そういえば今は何処にいるのか、泪の雫は黄泉の国に落ちる。

 韓退之は仙薬の硫黄を飲んで、病気になり体が動かなくなった。

 元微之は秋石という雲母を精錬し、老いる前に突然死んだ。

 杜元頴は水銀の薬の奥義を得て、生涯世俗を断ち、

 崔玄亮は薬の力を誇示し、冬でも裸で過ごした。

 病気になったり突然死んだり、中年になることもできず、

 自分だけが薬をやらずに、こうして死に損なって年老いている。

 若い頃は欲にまみれたときもあったが、

 酒池肉林に耽っても、水銀や鉛は知らなかった。

 腹が減ったら熱い粥を流し込み、喉が渇けば冷たい水を飲む。

 詩は五臓の神に役立ち、酒は丹田を落ち着かせる。

 月日とともに衰えることはあっても、今に至って元気でいる。

 歯はまだ抜けてないし、体はちゃんと動く。

 七十を過ぎたというのに、快食快眠で、

 盃の中の物を進めれば、あとは皆天に任そう。

 

 これだと白楽天は詩のために元気でいられたということになるが、「五臓の神を破り」だと話が逆のような気がする。

 また「老杜は痩せたり」は杜甫が詩作のために痩せたということを言うらしい。自分なんぞは白楽天や杜甫の賢とは比べようもなく「愚」だが、と一応謙遜し、「いづれか(まぼろし)(すみか)かならずや」と幻住庵の名前に掛けて、人生は所詮幻の住みか、人生は夢幻ということで締めくくりにする。

 「おもひ(すて)てふしぬ。」と、先に「夜座(しづか)に、月を(まち)ては影を(ともな)ひ、(ともしび)(とり)ては(まう)(ちゃう)に是非をこらす。」と述べたのを受け、今日はもう眠りに落ちる、と結ぶ。

 そしてここで一句、

 

 (まづ)たのむ椎の木も(あり)木立(こだち)    芭蕉

 

 椎の木に一体何を頼むのかというと、夏ということもあってやはり日影を作ってくれることだろう。

 『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の補注には、三つの歌が引用されている。

 

 ならびゐて友をはなれぬこがらめの

     ねぐらに頼む椎の下枝

               西行法師

 立ちよらむかげとたのみし椎が本

     むなしき床になりにけるかな

               『源氏物語』椎本

 片岡のこの向つ峯に椎蒔かば

     今年の夏の陰に並みむか

               詠み人知らず(万葉集)

 

 椎の木の本意は木陰で休むことで間違いない。

 それに加えて椎の木に『荘子』の言う「無用の用」の意味も含めていたかもしれない。

 芭蕉の時代よりやや後になるが、『和漢三才図会』には、

 

 「凡そ椎の木心は白樫に似て粗く(きめ)微黒、堅に似て(むし)いり易く屋の柱と為すに堪えず、(ただ)(ほそ)長き木を用ふ、椽の用と為す、俗に椎丸太と云ふ」

 

とある。建材には適さないから(たるき)として用いるとあり、まったく役に立たないわけではないが、建材としてはあまり上等なものではなかった。

 『荘子』「逍遥遊篇」には、

 

 「恵子、荘子に謂いて曰く、(われ)に大いなる樹あり。人は之を(おうち)と謂う。其の大本は擁腫(ふしくれだ)ちて(すみ)(なわ)(あた)らず、その小枝は巻き曲がりて(ぶんまわし)(さしがね)に中らず、之を塗ばたに立ておくも匠者(だいく)の顧みるものなし。今、(きみ)(ことば)も大きくはあれど用うるすべ無し。衆の同じく去る所なりと。 

 荘子曰く、(きみ)は独りいたちを見ざるか。身を(かが)めて伏せ、以て(あそ)ぶ者を(つけねら)い、東西に跳梁し、高きところも下きところも避けず、ついに機辟(わな)(はま)り、罔罟(あみ)にかかりて死す。今、かのくろ牛は其の大いなること天に垂れる雲の(ごと)し。此れ(まこと)に大いなれども鼠を(とら)うることは能くせず。今、子に大いなる樹ありて、其の用うるすべ無きを(うれ)うるも、何ゆえに之を何も無き(むらざと)、広漠な野に()えて、彷徨乎(ほうこうこ)として其の(かたわ)らに無為(いこ)い、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥(ねそべ)らざるや。 」

 

 芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の二上山当麻寺の松を見て、この寓話を思い起こし、「斧斤(ふきん)の罪をまぬがれたるぞ」と記している。

 昼は日影を作ってくれる椎の木の「(かたわ)らに無為(いこ)い、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥(ねそべ)らざるや。」とすれば、この「幻住庵記」の「いづれか(まぼろし)(すみか)かならずやと、おもひ(すて)てふしぬ。」の文章にうまく呼応する。

 下五に「夏木立」とあるから、ここでの椎の木は一本ではないのだろう。そして「夏」の季が入ることによって、「涼み」ということが強調される。冷房のなかった時代に夏木立の涼みは、一番贅沢なものだったのかもしれない。

 「幻住庵ノ賦」には発句はない。代りに「秋も(なかば)(すぎ)(ゆく)まま、風景・(てう)()の変化とても、又ただまぼろしの(すま)ゐならずやと、やがて(この)文をとどめて(たち)さりぬ」と、庵を去ってゆく場面で終る。

 「幻住庵記」のもう一つの草稿と思われるバージョンには、もう一句、

 

 (やが)て死ぬけしきも見えず蝉の声   芭蕉

 

の句があった。季節が椎の木よりかなり後という感じがする。

 このもう一つの草稿には、結びのところの文章に、「(およそ)西行・宗祇の風雅における、雪舟の絵に(おけ)る、利久が茶に(おけ)る、賢愚ひとしからざれども、(その)貫道(くわんだう)するものは一ならむと」と後の『笈の小文』に流用される一文があり、「背をおし腹さすり、顔しかむるうちに、覚えず初秋(しょしう)(なかば)(すぎ)ぬ。一生の終りもこれにおなじく、夢のごとくにして又々幻住なるべし。」と無常迅速で結び「(やが)て死ぬけしきも」の句になる。

 最終的には秋(七月二十三日)に庵を出たという記述はカットされた。そこでこの句を生かすことができず、「先たのむ」の句一句で落ち着いたのだろう。

 「(およそ)西行・宗祇の風雅における」もここでカットされたことで、『笈の小文』の方に生かすこととなったのだろう。

 最初は『奥の細道』の旅を終え、ここにやってきた所に始まり、庵を出て行くところで終る、長い時間の経過を追う形で書かれていたが、最終的には幻住庵そのものを前面に押し出して、魅惑的なゆる隠棲の一日を描き出す形になった。

 前の年の初頭に「猿も小蓑を」の句を詠み、『猿蓑』の編纂の話も持ち上がる中で、俳文の一つの見本のようなものを提起したかったのだろう。そうなったとき、ただ時系列で順々に示してゆく紀行文的な手法ではなく、何か新しいものが欲しかったのだろう。

 一つには貞享元年の『野ざらし紀行』以来ずっと旅をしてきた芭蕉が、ここで持病の再発による体調不良により、旅が続けられなくなって、それに代わる何かが欲しかったのかもしれない。

 前にも引用した、四月十日の「如行宛書簡」に「持病下血などたびたび、秋旅四国西国もけしからずと、先おもひとどめ候」とあるように、持病がなければ四国西国の旅に出ようと思っていたようだ。蝦夷千島の旅よりは現実的な計画ではあった。

 結局四国西国の旅も実現しなかったが、体の調子が良くなったらいつかはという思いはあったに違いない。

 幻住庵に来て旅の代わりになるものを芭蕉は見つけた。それがゆるい隠棲の記録、修行のためでもなければ世を捨て世からも捨てられた悲壮感もない、平和な江戸時代の新しいスタイルの隠棲、それが芭蕉の見つけた答だったのではないかと思う。

 

 そして、このコンセプトは翌年の夏の『嵯峨日記』に結実してゆくことになった。