「青くても」の巻、解説

元禄五年九月中旬から下旬、深川芭蕉庵にて

初表

   深川夜遊

 青くても有べきものを唐辛子   芭蕉

   提ておもたき秋の新ㇻ鍬   洒堂

 暮の月槻のこつぱかたよせて   嵐蘭

   坊主がしらの先にたたるる  岱水

 松山の腰は躑躅の咲わたり    洒堂

   焙炉の炭をくだす川舟    芭蕉

初裏

 祝ひ日の冴かへりたる小豆粥   岱水

   ふすま掴むで洗ふ油手    嵐蘭

 掛ヶ乞に恋のこころを持たせばや 芭蕉

   翠簾にみぞるる下賀茂の社家 洒堂

 寒徹す山雀籠の中返り      嵐蘭

   正気散のむ風のかるさよ   岱水

 目の張に先千石はしてやりて   洒堂

   きゆる斗に鐙おさゆる    芭蕉

 踏まよふ落花の雪の朝月夜    岱水

   那智の御山の春遅き空    嵐蘭

 弓はじめすぐり立たるむす子共  芭蕉

   荷とりに馬子の海へ飛こむ  洒堂

 

 

二表

 町中の鳥居は赤くきよんとして  嵐蘭

   吹もしこらず野分しづまる  岱水

 革足袋に地雪駄重き秋の霜    洒堂

   伏見あたりの古手屋の月   芭蕉

 玉水の早苗ときけば懐しや    岱水

   我が跡からも鉦鞁うち来る  嵐蘭

 山伏を切ッてかけたる関の前   芭蕉

   鎧もたねばならぬよの中   洒堂

 付合は皆上戸にて呑あかし    嵐蘭

   さらりさらりと霰降也    岱水

 乗物で和尚は礼にあるかるる   洒堂

   たてこめてある道の大日   芭蕉

 

二裏

 擌揚ゲて水田も暮る人の声    岱水

   筵片荷に鯨さげゆく     嵐蘭

 不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市   芭蕉

   ごを抱へこむ土間のへつつゐ 洒堂

 米五升人がくれたる花見せむ   嵐蘭

   雉子のほろろにきほふ若草  岱水

 

       参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)

          『連歌俳諧集』(日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館)

初表

発句

 

   深川夜遊

 青くても有べきものを唐辛子   芭蕉

 

 唐辛子は戦国時代に宣教師によって日本にもたらされたもので、日本でも栽培されるようになったが、日本では唐辛子を常食するような激辛文化は起こらなかった。薬として用いられるほかは、他の辛くないものとブレンドして薬味(今で言う七味唐辛子)としたり、味噌に混ぜて南蛮味噌にしたり、せいぜいピリ辛程度の刺激を楽しむだけだった。

 許六の『俳諧問答』を読んでた時に、

 

 「亡師五七日追善、木曾塚ニて、嵐雪・桃隣など集たるれきれきの百韻の巻に、

 青き中よりちぎる南蛮     乙州

 松の葉のちらちら落る月の影  朴吹」

 

とあって、許六は南蛮だけでは唐辛子なのか黍なのかわからない、と言っていた。南蛮黍はトウモロコシのことであろう。ただ、当時南蛮だけで唐辛子を意味することもあった。南蛮味噌を作る時には青唐辛子が用いられていた。『連歌俳諧集』の注によると、青唐辛子を酒の肴にすることもあったようだ。

 青唐辛子は芭蕉の時代はよくわからないが、江戸後期には夏の季語となっている。

 句の意味は、折から唐辛子の赤く色づく頃で、それを芭蕉は「青くても有べきものを」と赤くならなくてもいいのにと言わんとしているみたいだ。

 猿蓑の「市中や」の巻に既に、

 

   戸障子もむしろがこひの売屋敷

 てんじゃうまもりいつか色づく  去来

 

の句がある。空き家になった売り屋敷に唐辛子が赤く色づいているのが侘しげに見えたのだろう。

 寓意のない本来の意味では、唐辛子が赤くなるのは侘し気で、青いままでも良かったのにということではないかと思う。寓意としては互いに年は取りたくないね、ということか。

 

季語は「唐辛子」で秋。

 

 

   青くても有べきものを唐辛子

 提ておもたき秋の新ㇻ鍬     洒堂

 (青くても有べきものを唐辛子提ておもたき秋の新ㇻ鍬)

 

 ゲストが脇を詠むのは、洒堂、嵐蘭、岱水を同格と見て、この日の洒堂が特別なゲストではなかったということだろう。

 秋になって鍬を新調したけど、それが重く感じるというところに老いの悲しさが込められている。年は取りたくないという発句の寓意を汲んでのことだろう。

 

季語は「秋」で秋。

 

第三

 

   提ておもたき秋の新ㇻ鍬

 暮の月槻のこつぱかたよせて   嵐蘭

 (暮の月槻のこつぱかたよせて提ておもたき秋の新ㇻ鍬)

 

 こっぱ(木っ端)は製材するときに生じる小さな木の切れ端を言う。

 欅は硬くて木目も美しい高級木材で、神社仏閣にもよく用いられるという。庭先の欅の木を切って売って、その金で鍬を新調したのだろう。昼に切った欅の木っ端を夕暮れに庭の隅に掃き寄せる。

 

季語は「暮の月」で秋、天象。

 

四句目

 

   暮の月槻のこつぱかたよせて

 坊主がしらの先にたたるる    岱水

 (暮の月槻のこつぱかたよせて坊主がしらの先にたたるる)

 

 坊主がしらは坊主衆の頭のことか。ウィキペディアには、

 

 「坊主衆(ぼうずしゅう)は、江戸幕府の職名のひとつ。江戸城内で法体姿・剃髪で世話役などの雑事に従事した人をいう。「表坊主」、「奥坊主」と「数寄屋坊主」などがある。武士の1種であり、代々世襲されていた。初期には同朋衆などから取り立てられていたが、後には武家の子息で、年少の頃より厳格な礼儀作法や必要な教養を仕込まれた者を登用するようになった。表御殿は女人禁制のため、女中の代わりとして雑用を取り仕切る。広大な場内を整理・管理する必要性から生まれた役職である。」

 

とある。

 江戸城内で欅の剪定でもしたのだろう。木っ端をきれいにに片づけたところを坊主頭に率いられて、将軍や老中、若年寄などが通行する。

 

無季。

 

五句目

 

   坊主がしらの先にたたるる

 松山の腰は躑躅の咲わたり    洒堂

 (松山の腰は躑躅の咲わたり坊主がしらの先にたたるる)

 

 広い江戸城内には築山もあって、そこには躑躅が咲いていてもおかしくない。ここの連衆が実際に江戸城に入って見たわけではあるまい。想像だろう。

 

季語は「躑躅」で春、植物、木類。「松山」は山類。

 

六句目

 

   松山の腰は躑躅の咲わたり

 焙炉の炭をくだす川舟      芭蕉

 (松山の腰は躑躅の咲わたり焙炉の炭をくだす川舟)

 

 「焙炉(ほいろ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 

 「製茶用の乾燥炉。もとは木の枠に厚手の和紙を張ったもので、蒸した茶の葉を炭火で乾燥させながら揉(も)んだ。《季 春》「家毎に―の匂ふ狭山かな/虚子」

 

とある。茶の産地の景色に転じる。

 『猿蓑』に、

 

 山吹や宇治の焙炉の匂ふ時    芭蕉

 

の句がある。

 

季語は「焙炉」で春。「川舟」は水辺。

初裏

七句目

 

   焙炉の炭をくだす川舟

 祝ひ日の冴かへりたる小豆粥   岱水

 (祝ひ日の冴かへりたる小豆粥焙炉の炭をくだす川舟)

 

 小豆粥はウィキペディアに、

 

 「日本においては、小正月の1月15日に邪気を払い一年の健康を願って小豆粥を食べる風習がある。この15日は望の日なので、望粥(もちがゆ)とも呼ぶ。また、雪深い東北地方や北陸地方では、1月7日の七草粥のかわりとして小豆粥を食べる地域もある。

 小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。」

 

とある。「冴える」は冬だが「冴かへる」は冬の寒さが春になっても再び戻ってくることを言う。

 小正月の頃に焙炉は季節が合わないが、焙炉の炭の炭焼きなら冬枯れの落葉樹を用いるため、冬から春になる。小豆粥を炊くのにも使える。

 

季語は「冴かへり」で春。

 

八句目

 

   祝ひ日の冴かへりたる小豆粥

 ふすま掴むで洗ふ油手      嵐蘭

 (祝ひ日の冴かへりたる小豆粥ふすま掴むで洗ふ油手)

 

 小麦ふすまは今は健康食品だが、昔は手を洗うのに用いてたようだ。『連歌俳諧集』や『校本芭蕉全集 第五巻』の注にも祝いの日の髪結いの油で汚れた手を洗うとしている。

 

無季。

 

九句目

 

   ふすま掴むで洗ふ油手

 掛ヶ乞に恋のこころを持たせばや 芭蕉

 (掛ヶ乞に恋のこころを持たせばやふすま掴むで洗ふ油手)

 

 この句は『去来抄』で位付けの例として挙げられていて、「前句、町屋の腰元などいふべきか。是を以て他をおさるべし。」とある。

 掛け乞いは年末の取り立てのことだが、「乞い」を「恋」にして「掛け恋」にしたら、借金取りも優しくなるのではないか。

 というわけで、髪を整えて手を洗って、ちょっとばかり色目を使えば、少しはお手柔らかに見逃してくれるのではないかと、町屋の腰元も思うところだろう。

 

季語は「掛ヶ乞」で冬。恋。

 

十句目

 

   掛ヶ乞に恋のこころを持たせばや

 翠簾にみぞるる下賀茂の社家   洒堂

 (掛ヶ乞に恋のこころを持たせばや翠簾にみぞるる下賀茂の社家)

 

 翠簾(みす)は「すいれん」と読めばコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の

 

 「〘名〙 みどり色のすだれ。立派に飾られたすだれ。あおすだれ。《季・夏》

  ※菅家文草(900頃)五・冬夜呈同宿諸侍中「幸得二高躋一臥二九霞一、通宵守禦翠簾斜」

  ※太平記(14C後)一三「翠簾(スイレン)几帳を引落して残る処無く捜けり」

 

になる。神社の御神体のある神域と俗界を分ける結界の意味もある。代々下加茂神社に仕えてきた社家の人は、冬ともなるとみぞれに打たれながら翠簾の上げ下げを行っていたのだろう。

 御簾というと王朝時代では姫君を隠すもの。掛け乞いを掛け恋にするのなら、翠簾の開け閉めをする社家の人にも王朝の姫君の元に通うような恋の心を持たせてみたいと、そう応じたのではなかったか。

 

季語は「みぞるる」で冬、降物。神祇。

 

十一句目

 

   翠簾にみぞるる下賀茂の社家

 寒徹す山雀籠の中返り      嵐蘭

 (寒徹す山雀籠の中返り翠簾にみぞるる下賀茂の社家)

 

 「寒徹(かんとつ)す」はそのまま読むと寒さが染み通るというイメージだが、『連歌俳諧集』の注は「一年中通しての意」としている。夏の季語の山雀(やまがら)が冬を貫徹して籠で飼われているなら一年中ということか。

 『ヤマガラの芸:文化史と行動学の視点から』(小山幸子著、一九九九、法政大学出版局)によると、ヤマガラは鎌倉時代から芸を仕込まれていたという。

 

   山陵鳥(やまがら)

 山がらの廻すくるみのとにかくに

     もてあつかふは心なりけり

                 光俊朝臣(夫木抄)

 籠のうちも猶羨まし山がらの

     身の程かくすゆふがほのやど

                 寂蓮法師(夫木抄)

 

の歌があるが、江戸時代の宝永七年(一七一〇年)刊の『喚子鳥』(蘇生堂主人著)に、

 

 「くるまぎにつるべを仕かけ、一方に見ず(水)を入れ、一方にくるみを入る。常に水とゑをひかへするときは、かの水をくみあげ、又はくるみの方を引あげ、よきなぐさみなり」

 「籠の内、上の方にひやうたんに、ぜにほどのあなをあげ、つるべし。夜は其内にとどまるなり」

 

とあり、「廻すくるみ」が釣瓶上げの芸、「ゆふがほのやど」が瓢箪に穴をあけた巣で飼うことを意味していたと思われる。

 この『喚子鳥』には、輪抜けの芸のことも記され、

 

 「此鳥、羽づかひかろく、籠の内にて中帰りする。かるき鳥を小がへりの内、とまり木の上に、いとをよこにはり段々高くかへるにしたがひ、其いとを上に高くはりふさげ、のちには輪をかけ、五尺六尺のかごにても、よくかへり、わぬけするものなり。」

 

とある。山雀籠の中返りはこの芸のことと思われる。下加茂神社の門前でこうした芸が演じられてたのであろう。

 この輪抜け芸は昭和初期まであったのか昭和七年の「山雀」という唱歌に、

 

 くるくるまわる 目が回る

 とんぼう返り 宙返り

 

のフレーズがあるという。

 

無季。「山雀」は鳥類。

 

十二句目

 

   寒徹す山雀籠の中返り

 正気散のむ風のかるさよ     岱水

 (寒徹す山雀籠の中返り正気散のむ風のかるさよ)

 

 正気散は藿香正気散で古くからある漢方薬だという。風邪に効くというから、この句も正気散を飲んで風邪が軽くなったということなのだろう。

 輪抜け芸の山雀が軽く宙返りをするように、正気散飲んで元気ということか。

 

無季。

 

十三句目

 

   正気散のむ風のかるさよ

 目の張に先千石はしてやりて   洒堂

 (目の張に先千石はしてやりて正気散のむ風のかるさよ)

 

 島原の遊女高橋のことか。病気を押してなじみの客の前に出て千石の旗本でもコロッとなるが、実は正気散を飲んでいたという落ちにする。何か薬の宣伝みたいだ。正気散飲めば千石も夢じゃない!?

 

無季。恋。

 

十四句

 

   目の張に先千石はしてやりて

 きゆる斗に鐙おさゆる      芭蕉

 (目の張に先千石はしてやりてきゆる斗に鐙おさゆる)

 

 芭蕉さんのことだからこれはお小姓のことにしたのだろう。千石取りの武将をも鐙(あぶみ)に泣いてすがってたらし込む。

 

無季。恋。

 

十五句目

 

   きゆる斗に鐙おさゆる

 踏まよふ落花の雪の朝月夜    岱水

 (踏まよふ落花の雪の朝月夜きゆる斗に鐙おさゆる)

 

 踏むのももったいないような散った桜がびっしりと雪のように積もった朝月夜、花びらを巻き散らさないようにそろりそろりと歩く。

 

季語は「落花」で春、植物、木類。「雪」は降物。「朝月夜」は天象。

 

十六句目

 

   踏まよふ落花の雪の朝月夜

 那智の御山の春遅き空      嵐蘭

 (踏まよふ落花の雪の朝月夜那智の御山の春遅き空)

 

 前句の「踏まよふ」を那智の深い山の中で道に迷うこととする。景に転じた単なる遣り句のように見えるが、結構芸が細かい。

 

季語は「春遅き」で春。「那智の御山」は名所、山類。

 

十七句目

 

   那智の御山の春遅き空

 弓はじめすぐり立たるむす子共  芭蕉

 (弓はじめすぐり立たるむす子共那智の御山の春遅き空)

 

 弓はじめはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 年の始め(正月七日)や、弓場を新設した時などに、初めて弓射を試みる武家の儀式。弓場始(ゆばはじ)め。《季・新年》」

 

とある。

 前句の「春遅き」を暮春ではなく、春が来るのが遅い、まだ寒い山里という意味に取り成して、正月行事にする。

 

季語は「弓はじめ」で春。「子供」は人倫。

 

十八句目

 

   弓はじめすぐり立たるむす子共

 荷とりに馬子の海へ飛こむ    洒堂

 (弓はじめすぐり立たるむす子共荷とりに馬子の海へ飛こむ)

 

 「荷とり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「にどり」とも)

  ① 荷物を取ること。荷物を取り上げ、出発の用意をすること。

  ※永久三年十月廿六日内大臣忠通後度歌合(1115)「にどりせよ草の枕に霜おきて月出でば越えむ白川の関〈藤原宗国〉」

  ② 荷物の一部を盗み取ること。また、その盗人。

  ※雑俳・媒口(1703)「追々に荷取りの馬士がちらし髪」

 

 確かに普通、積荷を降ろすときには海に飛び込んだりしない。ちゃんと着岸して濡らさないように降ろすものだ。まだ海上にいる船から荷を降ろすのは泥棒と見ていい。

 ちなみに海上にいる船から他の船に荷物を移すのを「瀬取り」という。これも大抵小舟に乗って取りに行くので飛び込んだりはしない。

 前句の「すぐり立たる」を「立ちすぐり、居すぐり」のこととしたか。

 

無季。「馬子」は人倫。「海」は水辺。

二表

十九句目

 

   荷とりに馬子の海へ飛こむ

 町中の鳥居は赤くきよんとして  嵐蘭

 (町中の鳥居は赤くきよんとして荷とりに馬子の海へ飛こむ)

 

 「きよんと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘副〙 他に飛び抜けて高く目立つさま。きょいと。

  ※俳諧・深川(1693)「町中の鳥居は赤くきょんとして〈嵐蘭〉 吹もしこらず野分しづまる〈岱水〉」

 

とある。用例がこの句だった。「きょいと」はgoo辞書の「デジタル大辞泉」では、

 

 「[形]《「けうとい」から転じた「きょうとい」の音変化。近世語》

  1 はなはだしい。とんでもない。

  「滅相な―・いこと言はんす」〈咄・無事志有意〉

  2 みごとである。すばらしい。

  「はあ、鯖 (さば) のすもじかいな。こりゃ―・い―・い」〈滑・膝栗毛・七〉」

 

とある。「気疎(けうと)い」は本来マイナスの意味の言葉だが、「いみじ」や「やばい」同様いい意味に転じて用いられたのだろう。

 赤鳥居というと稲荷系か。稲荷と言うと二月の最初の午の日は初午詣で賑わい、馬に縁がある。前句を馬子たちの祭りかなにかとしたか。二月だと寒中水泳だが。

 

無季。神祇。

 

二十句目

 

   町中の鳥居は赤くきよんとして

 吹もしこらず野分しづまる    岱水

 (町中の鳥居は赤くきよんとして吹もしこらず野分しづまる)

 

 「しこらず」は醜(しこ)らずで悪くならないということか。「凄し」も「醜(しこ)し」から来ているという。赤鳥居の力で野分もひどくならずに静まる。

 

季語は「野分」で秋。

 

二十一句目

 

   吹もしこらず野分しづまる

 革足袋に地雪駄重き秋の霜    洒堂

 (革足袋に地雪駄重き秋の霜吹もしこらず野分しづまる)

 

 ウィキペディアによると、

 

 「足袋は本来皮革をなめして作られたものであり、江戸時代初期までは布製のものは存在しなかった。皮足袋は耐久性にすぐれ、つま先を防護し、なおかつ柔軟で動きやすいために合戦や鷹狩などの際に武士を中心として用いられたが、戦乱が収まるにつれて次第に平時の服装としても一般的に着用されるようになった。」

 

という。

 『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻の八句目に、

 

   かきなぐる墨繪おかしく秋暮て

 はきごゝろよきめりやすの足袋  凡兆

 

の句があるように、元禄の頃にはメリヤスの足袋も一般化してきた。

 地雪駄は、きもの館創美苑のサイトの「きもの用語大全」によると、

 

 「江戸でつくられた「雪駄」のことです。貞享(1684~1687)ごろまでは、「穢多(えた)雪駄」のことをいい、真竹の皮の表に馬皮の裏をつけたもので、下品とされました。」

 

という。革足袋も地雪駄も動物の皮が用いられている辺り、その種の人たちを連想させたのかもしれない。災害で死んだ家畜などの処理に出動していたか。

 

季語は「秋の霜」で秋、降物「革足袋」は衣裳。

 

二十二句目

 

   革足袋に地雪駄重き秋の霜

 伏見あたりの古手屋の月     芭蕉

 (革足袋に地雪駄重き秋の霜伏見あたりの古手屋の月)

 

 「古手屋(ふるてや)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 古着や古道具などをあきなっている店。古着屋、古道具屋など。古手店。また、それを職業にしている人。」

 

 革足袋も地雪駄も元禄の頃には時代遅れになり、伏見あたりの古道具屋に行くとあるというイメージだったか。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「伏見」は名所。

 

二十三句目

 

   伏見あたりの古手屋の月

 玉水の早苗ときけば懐しや    岱水

 (玉水の早苗ときけば懐しや伏見あたりの古手屋の月)

 

 玉水は井出の玉水で、古来山吹と蛙が詠まれてきた。

 

 かはづ鳴くゐでの山吹ちりにけり

     花のさかりにあはましものを

                よみ人しらず(古今集)

 山吹の花咲きにけりかはづ鳴く

     井手の里人いまやとはまし

                藤原基俊(千載集)

 山城の井手の玉水手に汲みて

     たのみしかひもなき世なりけり

                よみ人しらず(新古今集)

 山吹の花の盛りになりぬれば

     井手の渡りにゆかぬ日ぞなき

                源実朝(金塊集)

 

など多数ある。伏見より五里ほど南にある。

 伏見の早苗については『連歌俳諧集』の注に、

 

 伏みつや沢田の早苗とる田子は

     袖もひたすら水渋つくらん

                藤原俊成(夫木抄)

 植ゑくらす伏見のたごの旅寐には

     早苗ぞ草の枕なりける

                後法性寺入道関白(夫木抄)

 

の和歌が引用されている。

 この場合の「なつかし」は心惹かれるという意味だろう。伏見の早苗も歌に詠まれていたが、井出の玉水の早苗というと山吹にかじか蛙の声のする美しい田園風景が想像される。

 

季語は「早苗」で夏。「玉水」は水辺。

 

二十四句目

 

   玉水の早苗ときけば懐しや

 我が跡からも鉦鞁うち来る    嵐蘭

 (玉水の早苗ときけば懐しや我が跡からも鉦鞁うち来る)

 

 鉦鞁は鉦鼓のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 

 「〘名〙 (「しょうご」とも)

  ① いくさで、合図などに用いるたたきがねと太鼓。

  ※続日本紀‐霊亀元年(715)正月甲申「陣二列鼓吹騎兵一。元会之日。用二鉦鼓一自レ是始矣」 〔漢書‐東方朔伝〕

  ② 雅楽に使う打楽器の一つ。青銅または黄銅製の皿形のもので、釣枠(つりわく)につるし二本の桴(ばち)で打つ。野外舞楽用の大鉦鼓(おおしょうご)、管弦の演奏・屋内舞楽用の釣鉦鼓(つりしょうご)、行進(道楽(みちがく))用の荷鉦鼓(にないしょうご)の三種がある。通常、釣鉦鼓をさし、鼓面直径約一五センチメートル。〔十巻本和名抄(934頃)〕

  ※梁塵秘抄(1179頃)二「稲子磨(いなごまろ)賞(め)で拍子(ほうし)付く、さて蟋蟀は、鉦この鉦このよき上手」

  ③ 仏家で、勤行のときなどに打ちならす円形青銅製のたたきがね。台や首につるしたり、台座に乗せたりして用いる。

  ※今昔(1120頃か)一二「其の南に大皷・鉦皷各二を㽵(かざ)り立て」

 

とある。この場合は③の意味で、小さな撞木で叩く小型のゴングのようなものをいう。

 井出の玉川へ旅をすると、後ろから西国三十三所の巡礼者の鉦鼓の音が近づいてくる。

 

無季。釈教。「我」は人倫。

 

二十五句目

 

   我が跡からも鉦鞁うち来る

 山伏を切ッてかけたる関の前   芭蕉

 (山伏を切ッてかけたる関の前我が跡からも鉦鞁うち来る)

 

 『連歌俳諧集』の注、『校本芭蕉全集 第五巻』の注ともに謡曲『安宅』によるものとする。これは謡曲『安宅』のストーリーを知らないと意味がよくわからないので、俤ではなく本説になる。

 安宅の物語は弁慶・義経の御一行十二人が山伏に変装して陸奥平泉の藤原秀衡の元に向かう途中、富樫泰家が臨時に設けた加賀の安宅の関を通ろうとしたところ、関の前に山伏の首が切って掛けてあり、これはそのまま通ろうとするとやばいということで弁慶が策を講じて、無事通過することになる。

 このとき義経を体の弱い下っ端の剛力に変装させ、後からよろよろついてくるようにさせたところから、「我が跡からも鉦鞁うち来る」は弁慶から見た義経のことになる。

 なお、安宅関はそのが長いこと所在がわからなかったことから、芭蕉の『奥の細道』の旅でも立ち寄った記述はない。

 

無季。旅体。「山伏」は人倫。

 

二十六句目

 

   山伏を切ッてかけたる関の前

 鎧もたねばならぬよの中     洒堂

 (山伏を切ッてかけたる関の前鎧もたねばならぬよの中)

 

 元禄の世は平和だったけど、源平合戦の頃の乱世を思えば、鎧がなくては生きていけないような世の中だったな、と思う。

 

無季。「鎧」は衣裳。

 

二十七句目

 

   鎧もたねばならぬよの中

 付合は皆上戸にて呑あかし    嵐蘭

 (付合は皆上戸にて呑あかし鎧もたねばならぬよの中)

 

 「付合」はこの場合「つきあい」で人が寄り集まることをいう。つきあうこと。「つけあい」と読むと連歌や俳諧の用語になる。

 まあ、何となく上戸(大酒飲み)というと豪傑のイメージがあり、酔えば大口叩く。俺はいつか鎧を着るような身分になるんだ、と気炎を上げるところか。

 

無季。「呑あかし」は夜分。

 

二十八句目

 

   付合は皆上戸にて呑あかし

 さらりさらりと霰降也      岱水

 (付合は皆上戸にて呑あかしさらりさらりと霰降也)

 

 霰ふる夜は下戸だと寒いだろうな、というのは酒のみの思うところか。酒飲みも飲んでるうちはいいが、そのまま寝てしまうと明け方には動かなくなってたりして。気をつけよう。

 

季語は「霰」で冬、降物。

 

二十九句目

 

   さらりさらりと霰降也

 乗物で和尚は礼にあるかるる   洒堂

 (乗物で和尚は礼にあるかるるさらりさらりと霰降也)

 

 霰が降っても偉いお坊さんは立派な駕籠に乗って檀家を廻る。そこいらの乞食坊主とはわけが違う。

 

無季。釈教。「和尚」は人倫。

 

三十句目

 

   乗物で和尚は礼にあるかるる

 たてこめてある道の大日     芭蕉

 (乗物で和尚は礼にあるかるるたてこめてある道の大日)

 

 和尚は駕籠に乗って通過してしまうから、道端の大日堂は放ったらかしになっている。

 

無季。釈教。

二裏

三十一句目

 

   たてこめてある道の大日

 擌揚ゲて水田も暮る人の声    岱水

 (擌揚ゲて水田も暮る人の声たてこめてある道の大日)

 

 「擌(はご)」は原文では木偏になっているがフォントが見つからないので手偏の方を用いるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 鳥を捕える仕掛けの一つ。竹の棒や木の枝、わらなどに黐(もち)を塗り、田の中などの囮(おとり)のそばに置いて、鳥を捕えるもの。はご。〔十巻本和名抄(934頃)〕

  ※類従本賀茂女集(10C後)「はかにかかれる鳥、ゑにうたれんことをしらずして」

  〘名〙

  ① =はが(擌)〔羅葡日辞書(1595)〕

  ② ①にかかった鳥が身動きできないように、借金で身動きできないこと。借財。負債。」

 

とある。

 大日堂の前を擌で鳥を獲って殺生した人が通るというのは、まあ俳諧ではお約束というところか。

 「めづらしや」の巻二十六句目。

 

   千日の庵を結ぶ小松原

 蝸牛のからを踏つぶす音    露丸

 

 「海くれて」の巻二十一句目。

 

   生海鼠干すにも袖はぬれけり

 木の間より西に御堂の壁白く  工山

 

などと同様の殺生ネタ。

 

無季。「人」は人倫。

 

三十二句目

 

   擌揚ゲて水田も暮る人の声

 筵片荷に鯨さげゆく      嵐蘭

 (擌揚ゲて水田も暮る人の声筵片荷に鯨さげゆく)

 

 擌で小鳥を取って帰る農民とすれ違いざまに、天秤棒の片方に大きな鯨の肉の塊をぶら下げて帰る漁師。「へっ、おまえら小せいな」とでも呟いてそうだ。

 

季語は「鯨」で冬。

 

三十三句目

 

   筵片荷に鯨さげゆく

 不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市  芭蕉

 (不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市筵片荷に鯨さげゆく)

 

 池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)は東海道五十三次の三十九番目の宿場で愛知県知立市の牛田ICの辺りにあった。古くから馬市や木綿市が立ったという。三河湾で獲れた鯨を干したものも売られていたか。

 貞享元年、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で、

 

   尾張の国あつたにまかりける比、

     人々師走の海みんとて船さしけるに

 海くれて鴨の声ほのかに白し  芭蕉

 

の発句を詠んだ時の脇が、

 

   海くれて鴨の声ほのかに白し

 串に鯨をあぶる盃       桐葉

 

だった。

 

無季。

 

三十四句目

 

   不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市

 ごを抱へこむ土間のへつつゐ  洒堂

 (不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市ごを抱へこむ土間のへつつゐ)

 

 「ご」は燃料にする松の落葉のことらしい。貞享四年に東三河吉田宿で詠んだという、

 

 ごを焼いて手拭あぶる寒さ哉  芭蕉

 

の句がある。「へっつい」は竈のこと。

 木綿市があるというので池鯉鮒に宿では常に炊飯用のたくさんの「ご」を用意している。

 

無季。

 

三十五句目

 

   ごを抱へこむ土間のへつつゐ

 米五升人がくれたる花見せむ  嵐蘭

 (米五升人がくれたる花見せむごを抱へこむ土間のへつつゐ)

 

 宿の台所で花見にと米五升をくれた人がいたのだろう。一升は十合で、一人一合(茶碗二杯)としても五十人は食える。盛大な花見になりそうだ。

 

季語は「花見」で春、植物、木類。「人」は人倫。

 

挙句

 

   米五升人がくれたる花見せむ

 雉子のほろろにきほふ若草   岱水

 (米五升人がくれたる花見せむ雉子のほろろにきほふ若草)

 

 雉はほろほろと鳴くと言われているが、実際は羽を打つ音だという。

 ウィキペディアによると、

 

 「繁殖期のオスは赤い肉腫が肥大し、縄張り争いのために赤いものに対して攻撃的になり、「ケーン」と大声で鳴き縄張り宣言をする。その後両翼を広げて胴体に打ちつけてブルブル羽音を立てる動作が、「母衣打ち(ほろうち)」と呼ばれる。」

 

という。「けんもほろろに」という言葉はそこから来たという。

 

 春の野のしげき草葉の妻恋ひに

     飛び立つきじのほろほろとぞ鳴く

                平貞文 (古今集)

 

の歌がある。

 大勢で花見をして気勢を上げる姿は、若草の中で母衣打ちをする雉のようだ。ということで花見も盛り上がった所でこの一巻はめでたく終了する。

 

季語は「雉子」で春、鳥類。「若草」は植物、草類。