鈴呂屋日乗2013

12月31日

 今年は29日から休みで、一日ゆっくり休んで昨日から正月料理を作り始めた。今年は久しぶりにタンシチューを作った。「あまちゃん」の総集編を見ながら、昨日一日はそれで終った。10時間に渡る総集編は、俺みたいな仕事で見れなかったお父さんのためにやってくれたのだろうか。くどかんは小ネタが面白いので、何とか飽きずに見れた。
 今日はいつものように煮物や何かを作った。大瀧詠一さんの訃報が最初りんごを喉に詰まらせてだったが、あとで解離性動脈瘤に訂正されてた。春よこーい。

12月27日

 昨日はmad fretのCDが届いた。2010年1月に川崎クラブチッタで見た韓国のバンドで、ゴスロリメタルという感じだったが、やっと探していたCDが見つかった。ネットは便利だ。
 今年もいろいろあった。白河の関と箱根山を越えたし、本もいろいろ読んだし、アニメも見たし、結構楽しかった。
 景気回復のせいで、仕事の方は忙しくて、その上あちこち工事していて渋滞にはまってばかりで、ちょっとした怪我もしたし、車の故障も続いたし、そんなこんなで忙しくて「源氏物語」のほうもなかなか読み進まず、結局須磨巻はまだ途中だ。なんとか須磨帰り、明石帰りで終らないようにモチベーションを上げていかなくては。
 人生の意味なんてこともこの頃よく考える。遺伝子は様々な偶然からランダムな変異を起こして多様化する。多様化するから、いろいろな環境の変化がおきてもどれかが生き残り、命を繋いでいけるし、そこから進化ということも起きてくる。
 人間もいろいろな人がいるが、多様であることが結局その人の存在意味なんだと思う。殺人鬼だって人を殺さなくては生き残れない状況があるかもしれないし、ロリコンだってひょっとしたら特殊な病気がはやって女性が大人になるまで生き残れないような状況が生じるかもしれないと思えば、何らかの存在意味があるのだろう。どんな状況になっても誰かが生き残れるように、人は一人一人自分の個性を守り、自分の道を行く。それが生まれてきた意味なんだと思うようになった。そう考えれば、無駄な人間、いなくていい人間なんて一人もいないのだと思う。
 自閉症スペクトルというのも、ひょっとしたらNEXTなのかもしれない。人間は社交的過ぎると、お互いに駆け引きばかりして牽制し合い、出る杭は打たれる状態に陥ってしまう。だから社交的能力の発達を遅らせることで、引き篭もってでも何か一つのことの没頭できる期間を生み出すというのは、文明の誕生や発展に欠かせなかったのではないかと思う。
 民族の多様性というのもそれと同じで、世界が本当に一つになったら、それこそ世界史はそこで終ってしまうだろう。そして、何か大きな環境の変化が起きたとき、世界中の人がみんな一様な反応しかできなくなったら、その時点で人類は滅亡するに違いない。世界に多種多様な民族が混在していれば、どこかが未来を切り開く。だから世界は一つになってはいけない。ナショナリズムにもちゃんと意味があるんだと思う。
 この世界は唯一の神が作ったのではない。この世界を作り出したのは様々な偶然であり、混沌だ。混沌の神はすべてを多様なものにした。そして多様だからこそ、何が起きてもどれかが未来につながるように、この世界を作ったのだと思う。

12月26日

 明治以降、日本人の思想の中に度々登場した「一つの世界」という妄想。
 あの悲惨な侵略戦争も、すべてはこの妄想の中にその根源があった。
 つまり、世界は今まさに「一つの世界」を創造するために戦っているのだという認識であれば、それが世界史であるというのであれば、日本がこの「一つの世界」になるのか、それともどこかの国の作った「一つの世界」の中に吸収されてしまうのか、そのどちらかしかないわけだ。
 幕末の志士達にとって、それは地球規模での戦国時代の始まりであり、天下統一へののろしに他ならなかった。だからこそ吉田松陰は韓国中国はもとよりオーストラリアまで日本の領土とすべきことを主張した。
 そして、日中戦争及び太平洋戦争に(この言い回しはうざいから「大東亜戦争」と呼んでもいいのだが)敗れた日本は、この「一つの世界」の妄想を捨てたのではなく、民族の伝統を徹底的に否定し、更なる西洋化を断行することで、日本を「一つの世界」の中心として生き残らせようとしたのだった。これは初めてのことではなく、明治の初めに一度やったことだった。
 戦前の軍国主義も、戦後の左翼の反軍国主義も、基本的にはこの「一つの世界」の妄想に駆り立てられてのものだ。日本が「一つの世界」の中心になるために戦争を起こし、日本が「一つの世界」の中心になるために自虐史観を広めた。それは結局一つのことの両面に他ならない。
 靖国参拝に関して、相変わらず硬直した二つの思想がぶつかり合うことだろう。靖国神社は本来は御霊信仰に基づく非業の死を遂げた魂を祭るものだった。だが、ここに「一つの世界」が絡んでくれば、一方では「一つの世界」のために戦った英雄の墓となり、一方では「一つの世界」を押し付けた国の殺人鬼の墓となる。
 いいかげんに気付くべきだろう。「一つの世界」なんてないのだと。この世には人の数だけ、否、生きとし生ける物の数だけ世界がある。それを一つにするなんて最初から無駄なことなのだ。

12月25日

 テレビでイギリスで再生可能エネルギーのせいで電気料金が値上げして、槙で焚く暖炉が復活しているなんてニュースをやっていた。
 実際は、どうも北海の油田やガス田の枯渇がかなり深刻なことになっているようだ。電力構成を見てもガスの比率が半分近く、それに石油を加えると電力の大半を化石燃料に依存していたことになる。
 それに加えてイギリスはビッグシックスと呼ばれる大手エネルギー会社が独占していて、これが電力・ガスともに料金が高騰する原因になっているようだ。
 そのため、電気代・ガス代だけで家計の10パーセント以上を占める世帯も多く、燃料貧困(fuel poverty)が深刻化しているという。
 かつて北海油田で石油や天然ガスを自給できていた時代に電力自由化が行なわれ、それに依存するあまりに再生可能エネルギーも原発もあまり発展しなかった。それを今になって電力料金の値上げを再生可能エネルギーのせいにしている、というのが実情のようだ。
 それにしても暖炉‥‥w。どう見てもあれは中産階級の家で、庶民の家ではなさそうだったな。

12月20日

 「おおかみこどもの雨と雪」、テレビでやってたんだ。最後の方だけ見た。
 以前東急デパートの屋上で見たが、街中でいきなり大きなオオカミの死体が発見されたら、それこそマスコミが集ってきて大騒ぎになるのではないか、家の裏でマンボウが死んでるのとはわけが違うのではないか、などツッコミどころもいろいろとあるが、一応お伽噺としてのメタファーを考察してみた。
 オオカミは本来群で生活しているが、「一匹狼」という言葉があるように、一方では孤独、ぼっち、自閉というメタファーにもなる。
 特に、ヒロインの女の子「花」はオオカミと付き合ったばかりにそれを秘密にしなくてはならず、子育てに関しても一切他人に相談できない孤立した状態に追い込まれてゆく。
 そして二人の子供のうち一人は、明らかに自閉症的な傾向を示す。その名も「雨」、つまりレインマンだ。
 この物語は、旧来の左翼文化人の手にかかるなら、あるいは「オオカミの育てられた子」の神話と結び付けるかもしれない。つまり、人間は環境次第でオオカミにも人間にもなるのだというあれで、要するに人間は組織の決定に従わないとオオカミになるぞと脅してるわけだが、それでいくと雨は狐に育てられたからオオカミになった(このあたりでかなり無理がある)が、雪は人間となることを選んだということになるのか。
 まあ、多分インドヨーロッパ語族の文化に広く見られるオオカミに育てられた子の神話は、自閉症か自閉症スペクトルの子供がいつの間にか失踪したりする事件を、神隠しとしてではなくオオカミに連れて行かれたというふうに解釈したのが元になっているのであろう。
 花にはオオカミの存在を公にし、家族や友人やあるいは社会全体に対してこれが荒唐無稽なことではなく事実であることを説得し続け、様々な偏見と戦いながらも雨と雪をあくまで社会の中で育てて行くという道もあったであろう。引き篭もるばかりの花が俺にはどうしても理想の母親には思えない。人との軋轢を避けて笑っているだけではやはり駄目だと思う。多分花自身にも自スペ的な素質があったのだろう。
 オオカミが出てきたついでだが、竜騎士07さん「おおかみかくし」の舞台となった町の名前を最近よく耳にする。

12月15日

 桜新町の久富稲荷神社へ行った。
 前回行った時は、赤瀬川原平さんの写真、「赤い点線」の縁で一人で行ったが、今回は漫画アニメ「ぎんぎつね」の聖地ということで、落合さよりさんが奉納した御朱印と東京都神社庁の初詣パンフがあるとのことだった。
 桜新町といえば「サザエさん」でも有名な所で、駅を降りるとさっそくサザエさんの銅像があった。商業施設として都が課税しようとしたのがこれか。結局免除になったようだが。
 赤い鳥居の点々としている長い細い参道を行くのは前回と同じだったが、猫遣いが一緒だと猫によく会う。マンションの前に毛足の長い猫がいたが、フェンスの所に張り紙があり、犬を噛むワイルドな猫がいるとのことだった。これがそれなのだろうか。そうは見えなかったが。
 神社の3対のお狐さんやフクロウの社は3年前に来た時と変わりなかった。ただ、拝殿の前には例のぎんぎつねのキャラの描かれた初詣のパンフが置いてあった。御朱印は社務所でもらえるのだが、多分聖地巡礼で御朱印帳を持ってない人がたくさん来るのだろう。あらかじめ判を押してある紙が用意してあった。
 俺もいろいろ神社に行っているわりには御朱印帳は持っていない。今後検討してみようか。
 このあと帰りの参道でも4匹の猫に会った。
 桜新町に来れば、一応駒沢給水塔も案内しておこうということで、水道局の周囲を一回りした。
 戻ってきて「鉄板焼屋さん はれのき」でお好み焼きを食べた。カフェテリアスタイルの洋風の店でスプモーニを飲みながらのお好み焼きというのもたまにはいいか。さすが世田谷だ。
 このあと一応サザエさん通りも散歩した。三毛猫が一匹だけの小さな猫カフェがあった。
 駅前に戻ってきた。反対側に波平さんの像もあったが、やはり毛がなかった。頭のてっぺんに小さな穴が開いていた。

12月9日

 冲方丁さんの「はなとゆめ」を読み終えた。
 前半は、この世は花に満ち溢れていて、あたかも醜いものなどどこにも存在しないかのようにいい人ばかりに囲まれて、嫉妬や権謀術策のどろどろした世界を期待すると肩透かしを食らう。
 多分、実際の清少納言もそういうところがあったのかもしれない。本当は醜い現実を嫌というほど見てきたけど、せめて草子の中ぐらいは楽しいことばかりでいいじゃないか、と。そこが紫式部との違いかもしれない。
 中宮定子が髪を切る場面では、「源氏物語」の帚木巻の、
 「俗世の濁りに染まるよりも、中途半端に仏道に入るのは、かえって往生できずに地獄をさ迷うことになるんじゃないかな。」
という左馬頭の言葉を思い出した。
 藤壺も中宮で出家するが、還俗はしていない。
 後半になると、道長様一人が悪者みたいな感じで、何もかもが道長様の陰謀みたいになり、これはもう被害妄想に近い。
 まあ、善悪をはっきりさせた方がわかりやすいというのはあるけど、それでも悪役は悪役なりにもう少し魅力的に描いてもよかったのでは。
 「源氏物語」の右大臣は短気な性格ではあるが、皇太后に頭の上がらない情けないところがあって、あまり悪役っぽくない。真の悪役は皇太后(弘徽殿の女御)ということになっている。
 枕を敷物(史記物)に掛けて「枕草子」を一種の史書として「光圀伝」のテーマにつなげたかったのだろう。ただ、その歴史は大局的な視点を欠いた、中宮定子のささやかな幸せとそれを脅かすもののストーリーに終止してしまったのは残念だ。
 「ゆめ」という言葉は、平安時代には本来の寝ているときに見る夢の意味からそれほど離れていない。当時は「あらまし(願望)」の意味はなかった。そのため夢はしばしば悪夢の意味でも用いられた。

12月8日

 ネットが普及する前は、ほとんどの人はマスコミの提供する情報だけが頼りだった。
 だから、人は常にテレビや新聞のことを話題にし、そこで議論になるにしても、マスコミが大体大雑把に二分割した意見だけで、単純に右翼か左翼かに色分けできた。
 今のテレビや新聞の情報も、基本的にあたかもこうした色分けだけで世論が二分されていて、我々は公平な立場で報道しているというように装っている。
 しかし、冷戦が終ってもう20年以上になるというのに、こうした古色蒼然たる二分法を貫かれても、ネットの情報をある程度参考にしているものには、ほとんど時間が70年代で止まっているかのような印象を受ける。
 今の世論はマスコミの二分法とは程遠く多元化している。
 特定秘密保護法の全文がアップされていたので一応読んでみた。これのどこが言論の封殺なのか、軍国主義の復活なのかはよくわからない。
 この法案のきっかけとなったのがあるアルジェリア人質事件ではないかというようなことも言われているが、この時マスコミは政府が公表しなかった被害者の氏名を勝手に公表し、その会社や親族や近隣の住民にまで報道陣が群がって問題になったので、その因縁の対決が残っているのかもしれない。
 あの事件に関しても、マスコミの側は日本の経済侵略でアルジェリアの貧しい人たちが‥‥といった論調だったような。企業=資本主義=悪という、相変わらずの左翼の論理だ。悪の手先である企業戦士のプライバシーなど、どうでもよかったのだろう。
 一方ではテロリストの間では人質で身代金を取ることがビジネスと化した側面があって、それが事件の真相だったという説もあった。
 あの時日本がアメリカ側の機密情報を共有していたかどうかに関しても、両方の説があるようだ。
 法案はこのアルジェリアの人質事件だけではなく、その後のウィキリークスの事件やアメリカのスノーデン氏のことなどの影響もあるのだろう。それに加えて中国がいつ尖閣諸島に軍事行動をとるかもわからない状況で、アメリカの情報を得られるかどうかは確かに重要な問題なのだろう。日本はフォークランド紛争の時のイギリスのように勝利できるのか、それとも負けて他の東南アジア諸国をがっかりさせるのか。くれぐれも占領されてしまってから海外の報道で事態を認識する、なんてことのないように願いたい。
 知る権利ということに関しては、今ではネットのおかげでいろいろな意見を知ることができるようになったが、マスコミは相変わらず偏った二分法に基づく報道を続け、その焦点となる基本的な情報をなかなか公開しない。
 特定秘密保護法に関しても、それが国会に提出された時点でその原案を全文公開すべきだっただろうし、それに対して各党の提出した修正案も、断片的な言葉だけの抜書きではなく、きちんと報道すべきだったのではないかと思う。こうした基本的情報が届かないことには、国民も議論のしようがない。
 何でもかんでも二言三言の断片的な抜書きだけ提示して、それで古臭い二分法による両論併記のやり方では、国民の知る権利もへったくれもないと思う。まずアンタが情報を公開しろと言いたい。

12月6日

 エネルギー基本計画の素案のことがニュースになっていたが、内容はまだ公開されてないようだ。検索してもほとんど同じような文面しか出てこないから、これでは何も言ってないのと同じだ。
 検索していると2010年のエネルギー基本計画のニュースが出てきて、原発14基新設なんで文字が躍っている。そんな時代もあったんだな。今回の素案がどうであるにせよ、あの時代に戻ることはないだろう。
 おそらく焦点は今後、「脱原発」ではなく「脱火力」の方に動いていくだろう。火力発電は燃料の輸入コストの問題もさることながら、当然地球温暖化の問題も未解決だ。すべてバイオ燃料で補うならともかく、シェールガスもメタンハイドレードも基本的に地中に閉じ込められていた炭素を放出するから、炭酸ガスを増やす。
 電力の自由化が骨抜きにならずに実際に効果を上げ始めれば、再生可能エネルギー比率は着実に高まって行くだろう。ただ、それだけでは急激に火力発電を減らすには至らない。となると、既存原発の再稼働という話が出てくるのは必然だ。
 原発の再稼働に何が何でも反対するのではなく、むしろそれによってコストダウンできるなら、その分を老朽原発の廃炉費用に回すという選択肢もあるだろう。今はただすべての原発が一時停止しているだけで、福島第一原発以外で廃炉が決定された原発はまだ一つもない。脱原発はまずそこから始めなくてはいけないのに、順序も何もなくいきなりすべて廃炉なんてことはできない。

 特定秘密保護法はなんかかつての有事立法と同じ匂いがする。
 有事法制は結局敵がいきなり船で押し寄せて上陸した着たときのことを想定したもので、はっきり言って今の戦略とは無縁な、元寇を想定した法案にしか思えなかった。
 特定秘密保護法も、むしろ左翼の目をこの一点に釘付けにするのが目的なのではないかと思いたくなる。
 アベノミクスも、未だにインフレ誘導には失敗しているし、今の好景気も消費増税前の駆け込み需要がその正体だとしたら、来年4月になれば失速する可能性もある。まあ、まだ10パーセントになるまでは駆け込み需要はあるだろうけど。それに、せっかく増税したのに、それに対する景気対策にそれ以上の予算をつぎ込むなど、本末転倒なことをやっている。今の安倍政権は突っ込み所だらけなのに、誰もそこには突っ込まない。特定秘密保護法は目くらましだ。
 左翼は特定秘密保護法反対デモに忙しくて、とっくに脱原発のことなど忘れてしまっている。

11月28日

 生物学ではハンディキャップ原理(理論)というのがあるが、人間の優しさというのもそうなのではないかと思う。
 生きるのに精一杯だったら、人に優しくしている余裕はない。優しさというのはそれだけ余裕があるという表現ではないかとおもう。
 動物の生存競争は一般的には暴力的なもので、直接体力の勝負をして弱いものは隅っこに追いやられて十分な栄養が取れずに淘汰されていく。人間の生存競争は多数派形成によるもので、ハブられた者がやがて生活がなりたくなったり、あるいは未開社会ではそのストレスが心因性の病を引き起こし、直接死に至ることも多い。
 そんな中で、自分がいかに生きる力があるかを示すには、自分ひとり生きるのに精一杯で他人を押しのけるようなことをせず、他人に自分の利益を譲ってもそれでも十分余裕を持って生活できることを示すのが最も効果的になる。
 優しさは一見生存競争に不利なように見えるが、むしろ人に優しくできるほど有り余る生活能力をもっているということが、かえって生存能力の高さを証明することになる。
 ゆえに、優しさは人間の性選択に明らかに有利に働く。孔雀があんなに大きくて重たい飾り羽を背負っていても十分生存できるということで、その個体の強さを誇るように、人間は人に優しくすることによって、かえってその生存能力の高さを誇るのである。
 そして、生存能力の低い人間は必然的に自分一人のことで精一杯になり、人に優しくする余裕がなくなる。そして、その弱さゆえに「人間として駄目」の刻印を押され、みんなの嫌われ者となり集団から排除されて行き、淘汰されてゆく。
 いじめを受けて自殺に追い込まれたり、ぐれて犯罪に走ったり、それが人間の場合の生存競争に負けるということだ。

11月23日

 今日は東海道の続きでいよいよ箱根越え。
 この日のためにハイキング用の装備の整えた。もっとも本格的に山登りをするつもりはないので、とりあえずそんなに大げさでないローカットのトレイルウォーキングシューズと18リットルの自転車用のザックを選んだ。安物のスニーカーと手提げ袋から較べると大きな進歩だ。

 朝6時に家を出て、8時過ぎには箱根湯本に着いた。快晴でそんなに寒くなく、今日もぽかぽかとした小春日和になりそうだ。
 まず、前回も行った宗祇法師終焉の地の近くにある熊野神社に旅の無事を祈願した。そこから旧街道に出る。前回通った温泉街の坂道だ。
 すぐに最初の石畳区間に出る。さすがに靴がいいせいか、足の負担は前回ほどではない。この前見た毛足の長い猫は、今日はいなかった。
 1時間ほどで前回の到達点、箱根大天狗神社の所まで来た。山の紅葉の美しさの前では、このきらびやかな大伽藍も形無しだ。
 箱根大天狗神社の鳥居の前の大きなカーブは「女転し坂(おんなころしざか)」というらしい。ここで落馬して死んだ女の人がいたらしい。だったら「女殺し」ではないかと思ったが、それじゃナンパの名所みたいだから、「転ばす」という字を当てて「ころし」と読ませた方がいいのか。
 その先にも大きなケバい稲荷神社がある。同系列の神社のようだ。左側のお狐さんは、なぜかトウモロコシを咥えている。「ここには何もない、行くが良い」とお狐さんが言ってるような気がしたので、とりあえずスルーする。
 やがて右に須雲川自然探勝歩道への分岐がある。一部旧街道と書いてあり、全部ではないようだ。
 ここの石畳の道はほとんどは近代に入ってから整備しなおしたものだが、ほんのわずかな区間、「江戸時代の石畳」という表示がある。違いは微妙だが、江戸時代の方が石が大きく不ぞろいで、近代のは同じような大きさの石でできているように思える。
 ふたたび車道に戻りしばらく行くと畑宿の集落に入る。ここに駒形神社がある。石段を登っていったところに社がある。狛犬は平成2年銘。
 畑宿は寄木細工の盛んなところで、寄木細工作りを体験できる工房がいくつかあり、畑宿寄木会館では、寄木細工の展示と販売が行なわれている。
 車道が大きくカーブをしている所を真直ぐ行くと両側に大きな畑宿の一里塚がある。復元されたものらしい。
 この石畳の道は箱根新道を跨ぐ所で橋にになっているのだが、橋の上に土を乗せ、石畳が敷いてある。
 その先は旧道の車道がいろは坂のように七曲りする場所で、石畳の道はここで途切れる。元はここを真直ぐ登っていたようで、かなりの急坂だったと思われる。
 上の方へ行くと石畳の道が復活し、橿の木坂という急坂になる。昔の人はこんな所を駕籠を担いで登ったと思うと雲助は凄い。「雲助」というと後に運転手に対する差別的な言葉として用いられるようになったが、本物の雲助はそれこそ超人的な体力があったとしか思えない。お猿の駕籠屋半端ねえ。
 一気に高い所まで来ると、視界が開けたところがあり小田原から大磯丘陵を経てその向こうの平塚まで、今まで歩いてきた所が見える。
 ふたたび車道に合流して少し行くと甘酒茶屋があって、人がたくさんいる。駐車場完備の休息所になっている。ここを過ぎたあたりでふくらはぎに違和感が‥‥。さっきの急坂がきいたようだ。茶屋で少し休んでいけばよかったか。
 とりあえずしばらく立ち止まっていると何とか回復した。ふたたび長い石畳の道に入る。やがて道は緩やかな下りに転じ、「箱根八里は馬でも越すが‥」の碑がある。この裏側から見ると箱根駒ケ岳のロープウェーの駅が見える。
 さらにいくとお玉観音堂の所で車道に出る。このあたりから芦ノ湖が見える。右側には赤い鳥居があるので行ってみると社はなく、木が御神体として祀ってあった。
 ここから先、権現坂の下りとなり、元箱根に出る。ケンペル・バーニーの碑のところで車道と合流し、ここから杉並木になり、箱根神社の大きな一の鳥居のところに出る。11時半だった。
 さて、ここから東海道を行くのなら当然左に曲がる所だが、せっかく来たのだからということで、箱根神社に参拝しておくことにした。
 元箱根のあたりは連休でこの天気とあって、結構人通りが多い。二の鳥居を過ぎ境内までは結構距離があった。
 いろいろ境内社が並んでいたが、どれも赤く塗られている。その中で、曽我神社に狛犬がいるのを見つけた。明治40年明の狛犬は至る所セメントで補修されていていた。両方とも口が半開きで阿吽はないようだった。
 曽我神社は元々非業の死を遂げた曽我兄弟の霊を鎮めるためのものだったが、江戸時代になって仇討ちを果たした「孝」を讃える神社に変容したという。よくあることだ。靖国神社も基本的には戦没者の霊を鎮めるためのものだったが、それが戦犯を賛美するものに変質したのは、おそらく70年代にA級戦犯が合祀されて以降のことだろう。
 箱根神社の拝殿の前にも大きな狛犬があった。上野東照宮のものにもよく似た厳つい招魂社系で、籠(この)神社型とも呼ばれているようだ。体も台座も苔だらけで荒れ果てていて、銘も読めなかった。
 隣に九頭龍神社の拝殿があった。九頭龍神社というと「ささみさん@がんばらない」にもその名前の孤島の神社があったが、箱根神社と九頭龍神社は併記されていて、どうもただの境内社ではないようだ。九つの龍の口から水が出ているところは人だかりがしていた。この龍神水は平成22年から始まったものらしいが、パワースポットブームに乗っかって縁結びに効果があるとして有名になったために、新たに蛇口を九つに増やして行列ができないようにしたようだ。
 入口の方に戻ると駐車場のほうに狛犬がいるのを見つけた。祓戸神社と書いてあり、神輿庫になっていたが、その裏に本殿があり、その前に狛犬が一対いた。
 さて、神社を出たら12時を過ぎていた。日は短いし急がなくては暗くなるとはいっても、昼食は食べたい。元箱根を出たら、多分食べる所はないだろう。

 道路を行くよりも湖の脇を歩いたほうが近道だとわかった。
 一の鳥居の所まで戻り、1号線を歩くと、それまで山の陰に隠れていた富士山が顔を出した。箱根神社の湖畔にある鳥居に富士山で、絵葉書みたいな景色になった。
 そういえば、今まで一度ちらっと山の影からはみ出るように見えたのを除けば、ここまでちゃんとした富士山の姿を見ることはなかった。ずっと箱根山の陰に隠れていた。旧東海道の箱根越えの道で富士山が見えるスポットは意外に限られている。だから芭蕉さんも、霧がかかって富士山が見えなくても、そんなに気を留めなかったのかもしれない。富士山は箱根を越えればどこでも見るチャンスはあるし、だから、いつの間にか箱根を通り過ぎて、


「そういえば富士山見てなくない?」って感じで、「霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き」と詠んだのかもしれない。でも、やはり富士山は見えたほうがいい。

 冬紅葉富士は素直に面白い

 やがて一里塚跡の碑がありここから杉並木の道が1号線と並行することになる。杉並木は日光に行った時、もう結構と思ったが、久しぶりに見るといいものだ。

 小春日の影を落とせよ杉並木

 ふたたび1号線に合流すると、すぐに箱根の関所へ行く道が右にある。ここで関所を通過しないと関所破りになる。
 入口の所に切符売り場があった。エーッ、お金取るの?と思ったが、中の展示を見なければいいだけで、通り過ぎるだけなら只だった。
 ふたたび1号線に戻ると海賊船を模した遊覧船の乗り場があり、その脇に飲食店が並んでいた。この辺で食べておかないとということで、レストラン・トラウトで海賊丼を食べた。ご飯の上に刻みキャベツが乗っていて、その上にレインボウ・トラウトとワカサギのフライが乗っていてソースがかけてあるというソースカツ丼のバリエーションみたいなもので、味噌汁、おしんこがついて1000円だった。外人の一団もいたりして結構にぎわっていた。
 食べ終わると一号線をさらに行き、やがて右に旧道が分かれて静かな集落の中へと入って行った。左側に駒形神社があった。駒形神社はたくさんあるのだろう。入ってすぐ左に境内社の蓑笠明神社があった。旅人に関係あるのかと思ったがそうではなくて、ここの明神さんが毎月13日に箱根権現にお参りに行く時に蓑笠を着ていくことからそう呼ばれたという。確か蓑笠はかつては晴れ着だったというのを網野教授の本で読んだことがある。芭蕉にも「降らずとも竹植る日は蓑と笠」の句がある。
 右側には犬塚明神の社がある。陶器製のイヌが幾つか並べてあって、お稲荷さんのイヌ版みたいだ。そのすぐ左にあるのは先代の狛犬さんだろうか。一つは何とか原形を保っていて、帽子をかぶり、赤い涎掛けをしている。もう一つはただの石にしか見えない。
 奥の拝殿の前にも小さな狛犬があった。かなり痛んでいる。嘉永元年の銘がある。  途中で道路は右に折れ、正面に杉並木の道が現れる。やがて道は石畳になり杉並木は途切れ、登り坂になる。1号線をくぐるところは低いトンネルになっている。さらに上り続けて行くと、大きく蛇行してきた1号線に出る。
 地図を見るとここから左に行かなくてはいけないのだが、見ると自動車専用道路になっていて歩行者進入禁止になっている。どうなっているのかと思ったら、通れないのは手前の道だけで、向こう側にあるもう一つの道は一般道だとわかった。手前は箱根新道の入口だった。
 箱根新道の入口を渡り、1号線の旧道の方を行くと、箱根新道の出口との合流点に出る。この先で左に入る道があるはずだが、何だかゴルフ場の入口みたいになっている。
 とりあえずその広い舗装道路を上って行くと道が分かれていて、右側へ行くとふたたび1号線の方へ降りて行く。ここがかつての箱根峠だったのだろう。13時37分。何とか暗くなるまでに三島にたどり着かなくてはと、巻きが入ってきた。
 一号線との合流点の交差点にも箱根峠と書いてあった。こっちが今の箱根峠か。
 右側に広い駐車場があり、その手前の所に箱根旧街道と書いたゲートがあった。下は今風のきれいに平に切りそろえられた石畳の道がある。その先にいくつもの新しい石碑が並んでいる。何か一言と名前が書いてあり、向井千秋、橋田須賀子、橋本聖子といった名前があった。2003年に作られた新箱根八里記念碑(峠の地蔵)というものだった。お地蔵さんにしては前衛的過ぎる。

 この先に芝生の道があって東屋があったりする。その先は両脇の笹がトンネルみたいになっていて、何かトトロに会いに行くみたいだ。道の脇に兜石跡の小さな石碑があった。
 一度1号線に合流し、ふたたび細い道に入ると、今度は本当の兜石があった。元はあの石碑のあった場所にあったのだが、国道1号線の拡張工事でここに移されたと書いてあった。ここからまたしばらく石畳の道が延々と続く。ただ、神奈川県側のような急な坂ではなく、なだらかな淡々とした坂道だ。

 やがて民家の前に出て、迂回路という矢印がある。それに従い左に曲がると国道1号線に出て、横断歩道がある。「横断歩道をわたりましょう」「横断注意 左右確


認」という看板がある。街道ウォーカーを子ども扱いしているな。

 しばらく1号線に並行した新しい道を行くと、やがて左にまた石畳の道が始まる。本来の道は、さっきの民家の前に出た地点とここを結んでいたのだろう。いつの間にか民家が建ち並んでしまったため、この迂回路になったようだ。
 しばらくすると石畳の道に並行して舗装道路が現れる。そうなると、足への負担の少ない舗装道路の方を歩きたくなる。右側に徳利の形を刻んだ石碑がある。解説には雲助徳利の墓とあり、松谷久四郎という剣豪が酒の上での事件で藩を追われ、ここで雲助の仲間になった、というようなことが書かれていた。
 ふたたび1号線に出て歩道橋を渡ると下にお堀の跡のような窪みが見える。ここが山中城跡だ。となりに鳥居があり、駒形諏訪神社と書いてある。駒形神社と諏訪神社が合併したのだろうか。八坂神社と書いてある社もあったがこれは境内社らしく、諏訪駒形八坂神社にはならなかったようだ。狛犬はなかった。
 この先に山中城跡の駐車場があり、その向こう側からふたたび石畳の道が現れる。また1号線に合流し、その先また石畳があるはずだったが、工事をやって通行止めになっていてガードマンが立っている。
 結局国道1号をしばらく歩き、富士見平ドライブインのところで合流してくる道があり、そこにおなじ通行止めの看板が立っている。このドライブインの脇に新しい大きな「霧時雨富士を見ぬ日ぞ‥」の句碑が立っている。富士見平というだけあって、ここから富士山が見える。
 ふたたび石畳の道に入ったところにトタンでできた社があり、馬頭観音塔と単体道祖神塔があった。
 なだらかな坂が続く。笹原の一里塚跡があり、またトタンで覆われた単体道祖神塔があった。
 この先で一号線と交差するが、ここから道は舗装道路になる。やがて急な坂道になり、やや広い舗装道路に合流する。途中、松雲寺に渡来系の狛犬があるのを見る。その先には視界が開け、富士山のよく見えるところがある。
 学校の横の狭い道へ入り、ふたたび広い道路に合流した所に山神社があった。狛犬はなく、入り口付近に単体道祖神塔があり、拝殿の脇には水神と書いた石祠があった。このあたりでもう4時になる。日は地平線に近づいている。
 公民館を過ぎたあたりで最後の石畳の道がある。ここを抜け、国道1号線との合流点に出る頃には、既に薄暗くなってきている。
 三島塚原インターの所から残照に微かに赤く染まった富士山が見えた。南の愛鷹山に雲がかかっているため、それにさえぎられてあまり赤くならないのだろう。
 1号線に入るとしばらく松並木の道になる。車道の上り線の両脇に松の木があり、その脇に新しい石畳の遊歩道が作ってある。残照の赤く照らす中を進む。
 やがて旧道の細い道が分岐し、愛宕坂を下る頃には既に日は沈んでいた。
 東海道線の踏切を渡ると市街に入る。あともう少しというところで、このあたりの道がやけに長く感じられる。
 ようやく三島大社の前に来た時にはすっかり暗くなっていた。それでも一応お参りをしていった。拝殿の中に犬型の狛犬の一対があった。
 後はただ駅に向う。だが、その前にお土産の酒を買わなければ。それに腹も減った。ところが、駅前は食堂や居酒屋などの飲食店以外の店はほとんどシャッターを閉ざしている。そう、神奈川県内を歩いてきた時は当たり前のように思っていた駅ビルや駅前の土産物屋などがここにはない。栃木県を歩いてきた時と一緒で、駅前はシャッターストリートで、どこか郊外に大型店の固まっているエリアがあるのだろう。
 結局開いている酒屋は見つけられなかった。ようやくセブンイレブンで富士錦という富士宮の酒を見つけた。
 駅の近くに「ふじもり」というラーメン屋があった。そこで野菜大盛り無料なので頼んでみた。期待通りモヤシの富士山盛りが来た。面は平たい太麺でかなり腰がある。それに量が多い。ガッツリ麺ふじもりというだけのことはある。これでさらに無料の麺大盛りもあった。ニンニクとラー油を入れて食べたが、メニューにはさらに辛口の炎の赤富士というのもあった。
 とりあえず腹も膨れたところで、6時半。新幹線に乗って帰った。8時ちょい過ぎには帰ることができた。

11月21日

 テレビで、

 紅に染まる富士山秋深し

の句を添削するというのがあったが、

 残照に染まりし富士の秋深し

では、なぜ残照の富士山が「あき深し」と結びつくのか、その必然性がわかりにくく、見た目はきれいだが意味不明瞭な句として埋没してしまう。今の俳句の悪い癖だ。
 紅に染まった富士山が紅葉を連想させるので秋の深さを感じさせるというのが趣旨なら、

 残照に富士冠雪も紅葉かな

でしょ!
 ちなみに「富士冠雪」は初冠雪に限定されないので無季。「紅葉」も似せものの紅葉なので無季。句全体の意味としては晩秋の句となる。これも近代俳句の杓子定規な季語の解釈では不可能だ。古典俳諧(旧派)なら可。

11月17日

 今日は近場で、延喜式に記された古代東海道の小高駅(推定)を尋ねてみた。
 前に歩いた古代東海道は延喜式の時代よりも古い東海道で、武蔵国府のある府中の方から)夷参(座間)を経て浜田駅を通り、相模国府のある平塚へ向うのだが、それより後の延喜式に記された東海道は、浜田駅から店屋駅(町田市町谷原)、小高駅(川崎市高津区末長)、丸子駅、大井駅を通って下総へ向う。「更級日記」で菅原孝標女が通ったのも、この延喜式の東海道だと思われる。
 この古代道路が家の近くを通っていたというのは最近になって知ったことで、ただ、このあたりの地形を知っているだけに、どこを通っていたのか疑問だ。
 このあたりは多摩丘陵と呼ばれていて、せいぜい高くて海抜50メートルくらいの山しかないのだが、坂道や階段も多い。ここを通る国道246や東名高速も結構急なアップダウンの繰返しになっている。国道246の前身に当たる大山街道の旧道も同じで、坂が多い上に至る所曲がりくねっている。こんな所に古代の直線道路があったというのはなかなか信じがたい。
 小高は高津区新作にある川崎市民プラザに近く、新作小学校のあたりにあった地名らしく、新作と末長にまたがっていたのだろう。
 とりあえず電車で梶ヶ谷に行き、そこから歩いた。
 宮崎台側から来ると梶ヶ谷の手前にトンネルがあって、国道246の梶ヶ谷交差点もこのトンネルの上近くにある。おそらく丸子のほうから来た古代東海道はこのあたりで南西に向きを変え、旧大山街道に近いルートで浜田駅の方へ向ったのであろう。
 丸子駅の方へは、今は市民プラザ通りが通っている。市民プラザ通りはゆったりと右に曲がりながら千年の方へと降りて行くが、古代東海道が直線道路だったとしたら、ここを右に曲がらずに、トンネルの上の高台をそのまま稜線沿いに進んだのであろう。

 市民プラザ前から新作小学校の方へは上り坂で、新作小学校の北側がその稜線にあたり、結構広く平らな土地があり、畑になっている。おそらくこのあたりが小高駅だったのだろう。
 近くに杉山神社があった。狛犬は明治32年のもので角ばった顔をしている。全体に直線的で彫りが浅い。溝の口の名工として知られる石工、内藤留五郎さんの若いお弟子さんが彫ったのだろうか。
 杉山神社の隣には明鏡寺があり、本地と垂迹の関係になっていたのだろう。お墓の向こうに古びた三重塔が見える。
 杉山神社は北東を向いていて、石段を降りると緩やかな坂になりすぐに平地に出る。ただ、このルートだとだい


ぶ北にそれてしまう。
 杉山神社の南側は急斜面になり、谷になっている。「サンライズおだか」の看板があった。この谷間は三方急斜面に囲まれていて、古代東海道もここは通らなかったのではないかと思う。
 ふたたび新作小の北の広い所に戻って、東側の稜線を行ってみた。お地蔵さんがあり、庚申塔があり、何となく街道っぽい感じがするが、やがて団地の中には入り、その奥に新作八幡宮があったが、その先はかなり急な崖のようになっていた。そのため、八幡宮の境内からの眺めはいい。真正面に武蔵小杉の高層ビル群が見える。すぐ真下には第三京浜が通っている。ここの狛犬は銘を見落としたが新しい戦後の標準的なタイプのものだった。
 新作八幡宮の長い石段を降りると、市民プラザ通りの旧道のような所に出た。すぐ横に市民プラザ通りが並行して走っているが、こちらは細くてゆったりと曲線を描く、いかにも旧道という感じのところだ。おそらく古代東海道はこのあたりを通っていたのだろう。ここも谷間で、北側は崖になっている。
 新作小の方に戻ろうとすると、途中で道が細くなり養福寺というお寺があった。その横は急な坂道になっていたが、お寺の反対側は住宅地になっていて、かつてはそこが畑だったとしたら、そのあたりを登ればそれほど急な登りではなかったのではないかと思われる。古代東海道の候補地といえよう。
 登り終えると新作小の横に出る。新作小は一段低くなっているが、学校を造成する時に掘り下げたとすれば、古代東海道はそのまま新作小を横切り、一直線に梶ヶ谷のトンネルの所へ通っていたのではなかったか。そして反対側は平野を東に横切って、中原街道のクランクするところに出たのではなかったか。
 後で調べたのだが、この学校を作る際に発掘調査が行なわれ、縄文時代から中世にかけてさまざまなものが発見されたらしい。ただ、小高駅の駅屋に結びつくものは見つからなかったという。

11月14日

 テレビではほとんど話題になっていないが、改正電気事業法が成立したと新聞には書いてあった。これで遅まきながらも日本も電力自由化への第一歩を踏み出すのだろう。
 原発が停止してても景気が回復したということで、事故の直後にあった「原発を早く再稼働しなければ日本は死ぬ」なんて過激な論調はすっかり影を潜めているし、小泉元首相も脱原発なんてことを言い始めている。原発に対する見方は自民党だけでなく、財界の方でも変化してきているのだろう。
 今は火力発電所の燃料費で貿易赤字が問題になっているが、シェールガス革命でそのうち値下がりするという安心感もあるのだろう。
 ただ、やはりシェールガスも繋ぎにすぎない。再生可能エネルギーが「夢のエネルギー」だなんて言われてたのも、結局原発村の村民に洗脳されていただけだったんだ。その実力も、ようやく広く認識されるようになってきた。
 減反政策の廃止もようやく動き出したという感じだが、いろいろ抵抗勢力もあるだろうし、骨抜きにならなければいいが。薬のネット販売では官僚に押し切られて腰砕けになったみたいだし、なかなか許認可行政の壁は厚い。
 遅々たる歩みでも止まったままよりはいい。いずれにせよ民主党ではできなかったことだ。

11月12日

 先日、大田区立郷土博物館に行ったとき、三階に馬込地区の大きな立体地図があり、それを見ていてふと北東から南西へときれいに一直線に道を通せそうだなと思った。
 後であらためて地図を眺めて見ると、延喜式の東海道の大井駅と丸子駅を直線で結ぶなら、馬込のあたりを斜めに横切ってもおかしくないなと思った。
 延喜式の東海道は、今の池上通りに近い下ツ道が有力だとされているが、これは山の麓を弧を描くように通る道で、直線とは程遠い。
 もう一つ、大井から洗足池の北あたりに出て、中原街道を行く説もある。大井から洗足池への道は、明治20年の地図でも確認できる。かなり直線的ではある。
 ただ、古代道路は、今となっては完全にその痕跡を失っている区間も多い。たとえば府中から国分寺を経て所沢の方へ行く東山道は道路遺構の発見によってある程度その場所を推定できるが、それは並行する府中街道ともほとんど重ならないし、明治20年の地図でその痕跡を見つけることもできない。当時でも完全に失われた道になっていた。
 それを考えると、古代道路は意外なところにあったのかもしれない。今の定説も考古学的発見一つでひっくり返る可能性は十分にある。古代東海道の平塚・秦野ルートもそうだ。
 一つの想像だが、馬込ルートが存在した場合、今の丸子橋のあたりではなく、鵜の木の方から中丸子のあたりへと渡ったのではないかと思う。そこから西北西に平野を横切って今の市民プラザ通りに近いルートで梶ヶ谷に出て(小高駅は市民プラザの近くにあったと推定されている)、そこから南西に向きを変えて町谷駅に向ったのではないかと思う。

11月10日

 今日は午後から雨が降って荒れ模様になるという天気予報だったので、遠出はせずに大田区立郷土博物館に「川瀬巴水 ─生誕130年記念─」展を見に行った。
 もともと明治以降の日本画にはあまり興味がなかったのだが、ちょっと前に新聞で紹介されてるのを見てから、デフォルメのない近代的な写実的な画風でありながらも色使いがきれいで、構図の取り方や何かは広重にも近い感じで伝統絵画に近い感じがした。
 略歴を見ると、鏑木清方に学び、渡邊庄三郎の「新版画運動」に参加した人で、浮世絵の伝統を近代によみがえらせようとした人だったようだ。
 都営地下鉄の西馬込駅から歩くと、途中に湯殿神社があった。鳥居には両部鳥居のような屋根がついているが稚児柱はない。石段を登って行くと拝殿の前に優しそうな顔をした大正千年銘の‥‥のはずはない。十の上に斜めに疵が入っているだけだ。大正十年銘。境内にはサビ猫がいた。
 大田区立博物館は入場無料で、入口の所でご案内のパンフを貰う。二階に特別展の部屋があった。普段は大田区の遺跡で発掘されたものとかが展示されている部屋のようだ。
 今回は初期の作品から昭和の初めまでで、初期の作品はさすがに線が固かった。幼少期に那須塩原の叔母のところに住んでいたこともあってか、塩原の景色の絵が何枚かあった。
 昭和に入ると円熟期に入るのか、「旅みやげ第三集」や「東京二十景」「新日本八景」などはどれもいい絵ばかりだ。元のスケッチや、刷る時に色合いを変えたり背景を差し替えたりしたような別バージョンも一緒に展示されていた。
 ほとんどが旅先でのスケッチを基にした風景画だったが、役者絵や美人画もほんの少しあった。大田区の景色も多く戦前はこのあたりがまだ田舎だったのがわかる。
 三階の展示室には馬込にゆかりのある文士や何かの展示があった。二階に戻ってもう一回りしてから図録を買って外に出た。

 駅と反対側に少し行くとバス通りに出る。いかにも旧街道って感じの道だが、何街道なのかはよくわからない。ここを北に行くと荏原町に出る。
 すぐに馬込八幡神社が見えた。湯殿神社は誰もいなかったが、ここには二、三組 七五三の家族が来ていた。
 鳥居は両部鳥居で、確かに隣にお寺があった。狛犬は慶応元年銘で、右側はおっぱいを吸う子取りだが、左側も子取りで抱っこしているのが珍しい。口も閉じていない。
 道はその先で第二京浜(国道1号線)と交差し、新幹線をくぐりさらに行くと環七にかかる橋を渡る。このあたりのバス停が三本松で、その先には三本松交番もある。この三本松が今回の川瀬巴水展のポスターや図録の表紙にもなった馬込の月(東京二十景)の松なのだが、地名を残すだけで松の木は今はない。
 このあたりに天祖神社があるはずなのだが、表通りからは見えない。この通りと大に京浜の間の狭い道その神明鳥居があった。境内もそんなに広くなく、人の姿もなかった。
 狛犬は右側が昭和15年銘で、左側の方には紀元二千六百年とあった。


 このあと環七沿いの醤道(じゃんどう)の道ラーメンを食べた。鰹節の匂いのする醤油ラーメンで、麺は腰が強く、チャーシューは柔らかかった。
 ふたたび三本松に戻り、戸越公園駅まで歩いた。雨の降る気配はなかった。

11月4日

 昨日は久しぶりにライブを見に行った。前の会社の時は電車通勤だったから、帰りがけにライブハウスに寄ったりしたが、自動車通勤になってから、駐車場が高い、酒は飲めないということで何となく遠ざかっていた。日曜日とかに限られてしまった。
 今回は韓国からDark Mirror Ov Tragedyが来る上、侍メタルのモノノフと兀突骨も出るということで、楽しみだった。
 渋谷CYCLONEはそんなに大きなライブハウスではなかった。俺的には豪華なメンバーでも世間的にはこんなもんなんだろう。
 最初からいきなりモノノフの登場。HPは長いこと更新されてなかったが、関西を中心にコンスタントに活動していたようだ。鎧を着て四つ菱の家紋の幟を立てての登場。コープスメイクをしていて、落ち武者の亡霊が現れたかのようだった。でも尼子さんの腰の低さは相変わらずだった。メンバーチェンジもあったようだ。でも、このスタイルは兀突骨とかぶるのではないか。
 次がDark Mirror Ov Tragedy。もう登場するの?って感じだ。このバンドも全員コープスメイクで死者のバンドのようだ。フィードルの子は黒い短いスカートの上に白いものを巻いて、絶対領域を露出していて、一瞬メイドかと思った。
 MCではカンペというには大きな紙を取り出して、日本語でバンド紹介をした。Dark Mirror Ov Tragedyの発音は前半が早口で聞き取りにくかったが、「タンミロオ・トレジディ」か?
 演奏の方は期待通りで、完全に一つの世界を作っていた。美形のドラムがなかなかパワフルかつ繊細なドラミングで良かった。
 去り際にEthereal Sin(エザリアルシン)を見て行ってと言ってたが、次に出てきたのはIntestine Baalismだった。これはノーメークの生者のバンドだった。ブラックメタルではなく、デスメタルの方だ。デスメタルとブラックメタルは「デトロイトメタルシティー」のクラウザーさんのせいで一緒くたになっているが、見た目にも全然違う。クラウザーさんのあのメイクは明らかにブラックメタル。
 Ethereal Sinは四番目に出てきた。こちらは6人の死者と1人の生者からなるバンド。女性ボーカルの子だけがコープスメークではなかった。
 ラノベの「神様のいない日曜日」を読んだあとだけに、ついつい死者と生者なんて分け方をしてしまったが、死者ばかり見てきたアイ・アスティンが生者に会った時に「きれいな人ですね」と言った気持ちが何となくわかった。
 演奏の方はなかなかだった。やはり一つの世界を作っていた。今回の収穫だ。
 次がANOTHER-DIMENSIONで、これは生者のバンド。さすがに生者だけあって元気がいい。パワーに圧倒される。なお、ビジュアル系にもANOTHER DIMENSIONというバンドがあるが、全くの別物。こっちはメロデス。
 さて、次が兀突骨の登場。鎧武者スタイルではなく甚平を着て登場。やはりかぶるのが嫌だったか。本人はなぜ甚平なのかといって、「パンツの中にあったからだ」と古い勝新ネタをやっていた。「アラフォーくらいじゃないとわからない」とか言ってたが。俺はアラフィフ、しっかり笑ってしまった。川越出身ということで川越ネタも随分とやっていた。風貌からすると川越のZZトップって感じだ。
 これもデスメタルになるのだろう。ベースがスラップ(昔はチョッパーと言ったが)していて3ピースでなかなか分厚い音を作っている。
 最後に登場したのがSurviveで、これも名前の通り生者のバンド。年季が入っているのか完璧な演奏テクニックで圧倒される。ヨーロッパツアーもやって活躍しているらしい。ただ、おじさんは疲れたので途中で失礼。風龍でラーメンを食って帰った。

11月1日

 昨日の続きで、物神崇拝の起源について考えてみた。
 物には魂が宿っている、あるいは神様が宿っている、仏様が宿っていると呼び名は様々でいろいろに言われるが、その本質は一つだと考えていい。
 人工的に作られたものであれば、当然ながら物には製作者の思いが込められている。これをどのように使ってほしいだとか、それによって使う人が幸せになってほしいだとか、あるいはただ作ってみただけで好きなように使ってだとか、その思いは様々であろう。ただ物を見ただけでは、それに込められた作者の思いは想像するしかない。ひょっとしたらかなり思い入れのある「重い」ものかもしれないし、適当に作った「軽い」ものかもしれない。
 物をおろそかに扱えば、こうした作者の思いを踏みにじることになるかもしれないという不安が生じる。しかし、作者の思いがどの程度のものかは予測できない。ここで、「予測できないものは神である」という法則が発動する。
 その物があくまでビジネスとして割り切った手段で手に入れたのではなく、人からプレゼントとしてもらった場合は、さらにそれに「くれた人の思い」というのが加わる。粗末に扱えば、作った人だけでなくくれた人の思いも踏みにじむことになる。しかし、人の心は予測つかない。ここでも、「予測できないものは神である」という法則が発動する。
 さらに人間には共感という能力がある。自分があるものをおろそかに扱ったことが知られれば、作者での送り主でもない人が、自分が作者だったら、自分が送り主だったらと考え、それに対し感情的な反応を示す可能性もある。これも予測できない。「予測できないものは神である」。
 さらに、一つのものには様々な人の手が関わっている。そのものを作るには道具が要る。その道具を作った人の気持ちというのが存在する。さらにそのものを作るには材料がいる。その材料を作った人の気持ちというのが存在する。されにそれらを運んだ人、探し出した人、というのが存在する。あるいはその物を発明した人というのもいれば、それを大切に伝えてきた人もいる。一つのものが存在するには無数の人間が関わっている。物をおろそかにすることは、こうしたすべての人たちの感情を害する危険がある。
 こうした危険は現実的なものもあれば、思い過ごしということもある。ただ、どこまでがどこまでなのか予測がつかない。こうした明確に説明がつかない不安を簡単に説明するには、やはり神だとか仏だとか魂だとかいった超自然的存在を持ち出すのが効率が良い。思考の節約になる。
 ゆえに物には魂が宿る。それは神であっても仏であってもいい。名前は問題ではない。
 人工物ではなく自然物の場合、事情は若干異なる。
 自然物の場合、作ったのは自然である。ただ、自然は容易に擬人化されうる。ひとたび擬人化されれば、不特定多数の人がそれに共感し、感情的な反応を示す可能性がある。
 さらに、自然物をおろそかにすることには、何らかの物理的な帰結が生じる可能性がある。森の木をみだらに切り倒せば洪水が起きたり、獲物を取り過ぎれば獲物がいなくなったり、それは実際には合理性を持っていても、どこまで森の木を切れば水害につながるのだとか、どれだけ獲れば獲物の減少につながるのか、計算は容易ではない。予測がつかなければ、それは「神」ということになる。
 こうして自然物にも人工物にも神は宿る。本当は人間の感情や物理法則がもたらす帰結であっても、その予測が困難な場合は「神」として説明した方が思考の節約になる。
 こうした物神崇拝は人類に普遍的に見られるものであって、特定の宗教を信じた結果ではない。

10月31日

 ネット上で「宗教信じてないならお守りをズタズタに切って」と発言した得体の知れない宗教学者が話題になっているようだが、もちろん「お守り」というのは宗教を信じる信じないの問題ではない。
 宗教を信じるというのは、その宗教が提供する教義を信じることであって、教義のない宗教においては信じているかどうかは問題ではない。教義も戒律もない神道は最初から信じる必要がないだけのことだ。日本人は無宗教なのではない。ただ宗教を「信じて」いないだけだ。
 お守りは特定の宗教の教団とは関係なく世界中に存在するもので、お守りを持っているからといって何らかの宗教を信じているということではない。
 たとえば誰か親しい人から貰ったプレゼントも「お守り」になる。そのプレゼントをポケットに入れておいたら、銃弾がたまたまそれに当って助かったなんてのは、映画や漫画のベタなパターンにもなっている。
 お守りは基本的に物には霊が宿るという発想から来るもので、これは他人のものに対して、決して自分のもののように扱ってはいけないという本能的な感覚からきているものと思われる。
 これは進化の過程では、他の個体のテリトリーや縄張りを侵すことへの恐れから来たのではないかと思われる。熊が木に疵をつけてテリトリーを宣言している時、それを勝手に消したり上書きしたりすれば喧嘩を売ることになる。それと同様、他人の所有物について勝手にそれに手を加えたり破壊したりすることには、当然ながら恐れが生じる。
 人間の場合、個体同士の間で盛んに贈与が行なわれる。そうなると、貰った物に関して他の動物にはない複雑な感情が生じる。それは自分のものになったとはいえ、元は他人のものだった。そこに自分のものでありながら他人の支配権が働いている。つまり、貰った物を壊したり失くしたりしたなら、くれた人に怒られやしないか不安が生じる。
 貰った以上はもう自分のものだから、それをどうしようと勝手だという思いも一方ではあるが、だからといって他人の怒りに対して無関心ではいられない。その葛藤から、貰い物にはくれた人の魂が宿るという神話が生じる。これがお守りのもっとも原始的な形態といえよう。
 プレゼントされたものは、持っている限りくれた人によって守られる。失くせば怒りを買う。これは、神様から貰った物にも拡大解釈される。つまり、たまたま野山で見つけた珍しい珍しい花や木の実や石などは、それに出会った時点で、何か不思議な導きを感じ、これを神様からのプレゼントだと解釈する。それを持っていればお守りになり、それを失くせば神様の怒りを買うのではないかと不安になる。人が神に変わっただけで自然な展開だ。
 貨幣経済が発達すると、神様のプレゼントは売買の対象になる。西洋でも昔は免罪符というのが売られていたし、ほとんどあらゆる宗教では、簡単な聖なる力の宿るとされるグッズを販売している。日本の神社のお守りもその世界中にある様々なお守りの一つにすぎない。
 基本的にお守りはプレゼントであり、それを切り刻んだりすればあげた人が悲しむと考えるのは自然なことだ。それは神様を信じているからではない。貰った物は半分は自分のものではないというだけのことだ。そんなことで「ほらほらお前も宗教を信じているだろう」なんて言われても、ほとんどの人は面食らうだけだ。ただ、ごく普通の素朴な人たちはそれをうまく説明できない。そこに付け入るのが宗教家の狡猾なところだ。騙されてはいけない。
 そういうわけで、上田何某に騙されないように。

10月26日

 『吉川神道思想の研究』の第八章で吉川惟足と山崎闇斎の違いについて触れていたが、補足しておこう。
 山崎闇斎の神道の最大の特徴は、おそらく闇斎自身が経験した神秘体験が入っているのではないかと思われる。科学的に言えば方向定位連合野の活動の極度に低下した状態で、自己と世界との境界が曖昧になるため、自分が宇宙と一体化したような感覚を経験する。こうした体験は心の中にまばゆいばかりの光が生じたような感覚として体験されることが多い。
 闇斎は、猿田彦神話の中で「天の八街にいて、上は高天の原を光(てら)し、下は葦原中つ国を光す神、ここにあり。」とあるのをすぐにこうした体験と結びつけることができたから、惟足の神人合一説を神人唯一として人と神との一体化した境地に結びつけるのを躊躇することはなかっただろう。
 惟足にとって、神は人智を超えた存在で、人間はそれを計り知ることはできず、ただ謙虚に自らの智の限界を認め、神人合一もただ自然の力に身をゆだねることであったが、闇斎は敬(つつしみ)の果てに神との一体化が可能だと考えた。そこが根本的な違いだったのではないかと思われる。
 太極・混沌も惟足にとっては天地のあるがままの姿だったのに対し、闇斎にあってはむしろ超越だったのではないかと思う。
 なお、八世紀に編纂された古典伝承と十二世紀に確立された朱子学の「形而上学的体系」との間には、明らかに「内的連関」がある。なぜなら、「日本書紀」はもとより「古事記」ですら当時大陸から伝わっていた道教の影響を受けていたからだ。そこには当然陰陽五行の思想も含まれていた。こうした思想は中国では12世紀になって儒学の中に取り込まれ、いわば儒教が道教の哲学を取り込むことで大成したのが朱子学だったからだ。
 だからといって記紀神話が純粋な日本古来の伝承ではなかったということではない。そもそも「日本」というのがどこから来たかが問題だ。日本の文化が縄文文化と弥生文化の融合だとするならば、弥生人はどこからやってきたのか?弥生人が既に初期の道教の哲学を持ち込んでいたのではなかったか。「天皇」の称号も道教の「天皇大帝」ではなかったのか。「大和」も道教の「太和」ではなかったのか。
 要するに儒教はともかくとして、朱子学に融合された古代道教の哲学は根っこのところで日本の神話にもつながっている。そういうことではなかったのか。

10月21日

 もし今日神道を再興するのであれば、大体要点は次のようになると思う。
 1、混沌を無秩序ではなく、多秩序の統一理論の未発見の状態とする。つまり混沌は秩序と対立するものではなく、秩序の未発見の状態として位置づける。
 たとえば今日なお相対性理論と量子力学と熱力学を統一する理論が存在しない状態は「混沌」であり、混沌は人間の無知によるものと位置づける。
 科学が絶対的真理ではなく、仮説と検証の繰返しによって真理の近似値に無限に近づける行為だとするなら、混沌はいかに科学が進歩しようと必ず存在する。ゆえに、科学が目指すのは混沌の解明であり、これは永遠に続く営みとなる。
 2、「敬(つつしみ)」とはいかに科学が進歩しようとも、科学は万能ではなく、むしろ不完全であることによって無限の発展を秘めたものであることの自覚であり、無知の自覚である。
 3、神とは未知なるもの一般を呼称するもので、人智で計り知れぬものはすべて神と呼ぶことができる。それは理論では説明できない技術を「神業」と呼び、理論では説明できない才能を「神」と呼び(たとえば野球の神様、サッカーの神様、ロックの神様など)、同じく理論では説明できない作品をも「神」と呼ぶ(たとえば「神動画」「神回」などという)のと同じことである。
 4、教義、戒律は人間の作ったものである。神は教義や戒律によって認識されるのではない。あくまで天地自然そのものに触れることによって知られる。天地自然に接し、その人智を越えた広大さ深遠さを感じ取るなら、それが神に触れるということである。神は信じるものではない、感じるものである。
 5、神話もまた、合理的に説明できないものを説明するための人間の考え出した一つの形式であり、それゆえ神話は多様であり、様々なバリエーションが創作されたり、融合したりする。記紀神話もそうしたかつて日本に存在した多様な神話の集大成であり、それゆえ、『古事記』と『日本書紀』の間に異同がある。
 6、神話の神々はそれゆえ、様々な仕方で習合されているのが常態である。それゆえ、世界のすべての宗教を包み込むことが可能である。
 7、排他的でない多神教であれば、同様に日本の神道と同じように、世界の宗教を取り込むことが可能である。天地自然はただ一つにして唯一だが、その解釈としての神話や神々の体系は多様である。多様性を容認するものであれば日本の神道と矛盾することはない。
 8、天孫降臨は天皇制の起源に関する古代における一つの解釈であり、神話は人間の作ったものにすぎない。皇統が今日まで脈々と受け継がれてきたのは、そうした神話の説明を超えた何らかの合理性があったからだと考えるべきであろう。それが説明できないうちは神話に属する。

10月19日

 図書館から借りてきた『吉川神道思想の研究』(徳橋達典、2013、ぺりかん社)を少しづつ読んでいる。
 吉川惟足の神道の場合は「日本書紀」が重視されるが、「日本書紀」の神話に限らず「古事記」の神話であっても、そこから何を読み取るかによって当然読み方が変わってくる。
 たとえばダーウィンの「種の起源」を読むにしても、生物学者が読むのなら、そこに描かれた進化の理論に、今日の遺伝子の偶発的な突然変異と自然選択というセントラルドグマの萌芽を読み取ることなり、その先駆的功績を称えるものの、内容については今日では否定されていることはそれとして指摘されることになるだろう。
 しかし、これを古典文学として思想史的に読むのなら、そこに読み取られるのは、その内容が今日の科学において正しいかどうかではなく、ダーウィン固有の思想、ダーウィンの形而上学ということになる。あくまでダーウィンが何を主張し訴えようとしたかがメインになる。
 記紀神話に関しても、文学史の中の一つの古典として読む場合、それが古代において成立した事情に始まり、古代人特有の世界観の表現として、今日の我々の認識とは異なるものとして描かれることになる。その内容の非科学性は批判の対象にはならないし、むしろ古代特有の形而上学の体系として再現することがメインとなる。
 こうした考え方からすると、本居宣長の態度は比較的理解しやすい。記紀神話を古代人の固有の思考として、当時の言語や風習などから解明しようとする態度は、今日の文献学と似ている。ただ、それが古代について当てはまることで、本居宣長がそれを現代も我々が信ずべき真実として主張する部分だけを「神秘主義」として批判すればそれで済む。
 ところが、吉川惟足や林羅山、山崎闇斎などの江戸前期の神道となると、全く違う読解の世界がそこにある。
 彼らは朱子学を今日の我々にとっての科学のように真理の探究の唯一の道として捉えていた。そして、記紀神話も過去の特有の思想でなく国の道でなくてはならなかった。そこから、記紀神話と朱子学との整合性が何よりも重要な問題となった。記紀神話が朱子学に照らし合わせてナンセンスなものなら、それは国の道とするに値しない。しかし、一致点が見い出せるなら、記紀神話は宇宙の真理の日本における独自の顕現であり、仏教や儒教と並ぶものとすることができた。
 「惟足が神典理解を重視する主眼は、その記述された世界がどうであったかということを分析することではなく、神典に描写された世界から天下の人のあるべき姿を工夫することにある。」(p.71)というのは、そういう「眼差し」の違いと言っていいのだろう。
 もし今日我々が「神道」にもう一度意味を与え、再興しようというのであれば、記紀神話を世界の様々な古典の中の一つの固有な作品として相対化するのではなく、そこに何らかの普遍的な意味を発見しなくてはいけなくなる。そうなれば、神道を今日の科学に照らせ合わせる必要も出てくるであろう。
 そう考えた方が、なぜ惟足が記紀神話の中に朱子学を見い出そうとしたのかを理解する近道になる。

10月17日

 アニメの「COPPELION第3話」を見ていたら、この春に行った府中市美術館が出てきた。競馬場、刑務所、けやき通り、自衛隊と、大体あの辺が舞台になっている。
 原作の漫画は福島原発事故の前に書かれたもので、事故のせいでアニメ化が延期されたらしい。
 「あまちゃん」の震災シーンも話題になったし、「寄せては返す波のように激しく」なんて歌も流れているから、どうやら世間では喪が明けたというところなのだろう。
 今年一年の漢字というにはまだ早いが、俺の印象では「動」だと思う。日本がようやく動き始めたという実感は、多くの人が抱いているのではないかと思う。
 別にアベノミクスを賛美するつもりはないが、タイミングは良かったと思う。民主党が原発でも消費税でもTPPでも汚れ役を果たしてくれたから、安倍政権の運営もかなり楽になったのだと思う。尖閣諸島の国有化も民主党のやったことだし。最初から自民党だったらこうはいかなかったと思う。

 「MAKERS -21世紀の産業革命が始まる」を読んでいると「ロングテール」という言葉が頻繁に出てくる。別に話が長いわけではなさそうなのでググってみたが、著者のクリス・アンダーソンが流行らせた言葉らしい。
 例えて言えば、日本の政党だったら今は自民党が頂点に立つ独占企業のように君臨し、それに続くものとして維新の会、みんなの党(正確には渡辺さんの党)があって、その下に民主、公明、共産、社民といった既成政党が並び、その下には有象無象のミニ政党や議席すら持たない無数の諸派がある。
 多数派が一握りなのに対し少数派になるほど数が多くなるのをグラフで書くと、アメリカ人の目には長い尻尾のように見えるのだろう。それをロングテールと呼ぶらしい。日本人には世界遺産にちなんで「裾野」といった方がわかりやすいんではないかと思う。
 あんなにたくさんの少数政党が乱立しても、実際には支持政党のない無党派層が日本では半数を占める。(二大政党のアメリカでも40パーセントくらいは無党派層だという。)同じように市場というのも必ずしも大衆のニーズに的確に答えているわけではない。この層を捉えることができれば、大きな内需拡大も狙えることになる。
 店舗だと陳列できる商品が限られるから、自ずと売れ線のものしか置かなくなるし、そうなると好むと好まざるとに関わらずそれを買わざるを得なくなる。必要なものなら仕方なく買うが、それほどほしくもないものなら誰もあえて買おうとはしない。消費者の購買意欲はこうして低迷することになる。
 ネットの発達によって、このことはかなり解消されてきている。今まででは東京では手に入りにくかった地方特有のものも、ネットでは御取り寄せできるようになった。この前テレビで紹介されてた石垣島の八重山そばも、近所で売っている店を探そうとするとほとんど絶望的だが、楽天やアマゾンなら買える。
 音楽に関しては俺もロングテールの消費者の一人だ。フォークメタルやバイキングメタルはタワレコでも置いてないものがほとんどだ。youtubuを見ても再生回数が4桁あればいいほうで、たまに1桁ということもある。だけどネットでなら買える。
 そういうわけで、AVANTRA RECORDS さん、HITMAN RECORDSさんそれにアジアのロック専門のASIAN ROCK RISINGさん、韓流では楽天市場のソウルライフレコードさん、お世話になってます。

10月14日

  昨日は横浜オクトーバーフェストへ行った。ピルスナーやらヴァイスピアやらデュンケルやら4杯は飲んだか。おつまみもブルストにプレッツェルにジャーマンポテトと楽しい一日だった。
 昼にまずクイーンズスクエアのポケモンセンターに寄ってから、赤煉瓦倉庫に行って3杯くらい飲んでから山下公園まで歩いてエスニックの屋台を覗いて、戻ってきたまた飲んで、暗くなる頃に帰った。

 今日は東海道の続きということで、小田原をスタートした。
 朝8時半ごろ小田原駅に着き、小田原城址公園を通って箱根口交差点で東海道に出た。途中お城の裏に猫がたくさんいた。
 前回行った山角天神社の前を通り、東海道線のガードをくぐるとすぐに居神(いがみ)神社があった。三浦荒次郎義意の御霊を祀った神社らしく、北條早雲に負けてさらし首になってもなお通行人をにらみ続けたと言う。狛犬は昭和三年の銘でどっしりと落ち着いた感じのするものだ。
 居神神社を出ると、すぐに今度は新幹線のガードがあり、その手前を右に曲がると旧道に入る。途中小さな牛頭天王の社がある。

 旧道はすぐに新道に戻るが、小田厚道路下をくぐるところからまた右に旧道が始まる。少し行くと風祭の一里塚跡があり、そこには風祭の道祖神があった。
 正面に仏像があって、後の石祠はただの四角い石なので、どれが道祖神なのかと思ったら、仏像だと思ってたのが伊豆型道祖神だった。
 風祭からしばらく旧道らしいゆるやかに曲がりくねった道が続く。やがて入生田の踏切を越え、ふたたび新道と合流する。交通安全の達磨の像がある。
 階段を登り箱根登山鉄道の線路脇を少し行って降りると、その先でふたたび旧道に入るが、すぐに工事現場に突き当たり、ふたたび新道に戻る。ここで道が交差していて、どっちに行くべきか迷う。真直ぐ行くと川を渡るが右が正解のようだ。この先の三枚橋で旧東海道は川を渡る。川をわたったっ所に双体道祖神像がある。
 ここから先は急な坂道の箱根湯本の温泉街で、どこか那須湯本を思い出す。やがて右側に早雲寺が見え、左に白山神社が見えてくる。白山神社の狛犬は大正5年銘で阿吽とも子取りで、吽形の方は足元に一匹と背中に一匹子獅子を従えている。  境内社に稲荷神


社があって昭和15年銘のお狐さんがいる。
 温泉旅館の並ぶ道をさらに行くと、左の駐車場の奥に小さな鳥居が見える。厄除け石垣神社で、細い階段を登って行くと新道に出て、そこを歩道橋でまたぐと小さな神社があった。
 やがて右側に降りていく細い道があり、ここが旧道の旧道になる。江戸時代の石畳の道がそのまま残っている区間で、入口に近くで毛足の長い茶虎猫が食事中だった。
 石畳の道はかなり歩きづらい。昔の旅人はさぞかし大変だっただろう。急坂だし、平でない丸いままのごつごつした石はかなり足に負担が来る。お金があれば馬に乗りたい所だったのだろう。「箱根八里は馬でも越すが」というのはそういうことか。芭蕉もここは馬に乗っただろう。
 狭い石畳の道はすぐに終わり旧道に出る。狭い片側一車線の道で車が結構通る。旅館街は終わり、所々大きなホテルや旅館に入る道が分かれている。
 実のところ、今日は箱根湯本までが予定だった。ここから先はセーブポイントとなる駅が三島までない。歩くには急坂で、しかもこれからも石畳の道があるとすれば、かなりペースを落とさなくてはならない。とりあえず行けるところまで行って戻るつもりだ。
 次回は箱根湯本スタートで三島を目指さなくてはならないが、それまでにハイキングの装備を買い揃えたいものだ。
 右に箱根大天狗神社の第三駐車場があったが、それらしき神社の姿は見えない。かなり大きな駐車場だが、車は一台も止まっていない。その先には極彩色のお寺のようなものがあった。よく見ると金色の五重塔のようなものが見える。宗教法人箱根大天狗神社別院、浄土金剛宗天聖院と書いてあった。新興宗教の団体だろう。信者以外は入らないようにということだ。
 塀の上には金色の小さな狛犬がいくつも並んでいるが、その上に有刺鉄線が張ってあって物々しい。
 その先の左側には普通の神社らしい銅製の神明鳥居があり、参道に入ると何やら臭い。道一面に銀杏が落ちていて、踏まずには歩けない。社額には駒形神社と書いてあった。
 左側にお寺があり曽我兄弟ゆかりの地のようだった。その反対側には箱根大天狗神社の第二駐車場があり、その隅に小さな社には、お狐さんと蛙と観音様に加えて二宮金次郎の像まであった。何だかアナーキー。
 左側に須雲川自然探勝歩道の看板があり、遊歩道の地図もあった。元箱根へ行く遊歩道だがハイキングコースで旧東海道ではない。
 その先道が大きくカーブしたところに真っ赤な大きな鳥居が見えた。鳥居の横には真新しい大きな狛犬があって神社なのだが、鳥居の所になぜか天使が‥‥。それも顔がアジア的であまり可愛くない。ここが箱根大天狗神社だ。
 門には日本で唯一の幼神神社と書いてある。怖いもの見たさで入ってみると、中は恐ろしく混沌とした極彩色の世界だった。観音さんやら如来仏やらお狐さんやらお不動さんやら、いろいろなものが混在しているし、天使もいたるところにいる。狛犬も平成の真新しいものがあちこちにあり、玉に乗ったライオンの像もある。
 聖石と書かれた社というよりはショーウインドウのような建物があり、御神体の石の周りにはブリリアントカットの大きな宝石みたいな物が散らばっている。セイクリットセブンか。
 天狗茶屋という食堂もあるが、従業員らしき人がいるだけで、入る気はしない。入ったらきっと勧誘されるんだろうな。
 書いてある説明によると、この神社は水子の霊を幼神と呼んで、日本唯一の幼神神社と言っているようだ。幼神は幼い穢れのない心を持ったもので、神々と観音様に守られ神界へ帰っていくのだそうだが、なぜか幼神達はすぐに帰れるのではなく我々人間が救わなくては帰れないらしい。
 神様というのは人間を救ってくれるものだと思っていたが、幼神は人間に救われなくてはならないようだ。ようするにアレが要るということなのか。地獄の沙汰も何とやらの。
 さて、何やら凄いものを見てしまったところで、今日はここいらで引き返すことにした。箱根湯本と言うと宗祇法師の終焉の地があるはずなのだが、街道沿いではなかったのか、まだ見ていないし。

 あの石畳の所まで戻ると、さっきお食事中だった猫の1匹がのんびり道の脇で寝そべっていた。温泉街まで戻ると、さっきは見落としていた一里塚跡の碑を見つけた。
 川の方を降りて行く道を行くと、箱根湯本駅に近い賑やかな通りに出る。その奥に熊野神社の幟の立っているところがあり、右には「箱根温泉発祥之地」の石碑、神湯源泉と書かれたコンクリートの建物があった。その裏側に「連歌師宗祇焉の地」の碑があった。

 説明には「このあたりかと思われる湯本の旅宿で亡くなりました」と書いてある。何か歯切れが悪い。ようするにはっきりしないが、初期の温泉宿だから温泉発祥の地のところからそう遠くなかっただろう、ということか。 「宗祇は俳聖松尾芭蕉が敬慕したことでも、よく知られ」とも


書いてある。確かに「野ざらし紀行」で箱根を越える時に、芭蕉が秋なのに「霧時雨富士を見ぬ日ぞ面白き」という句を詠んだのは、「世にふるもさらに時雨の宿りかな」の句を呼んだ宗祇法師を意識していたのだろう。
 宗祇終焉の地から石段を登って行くと熊野神社があり、金網のかごに入った一対の小ぶりな狛犬があった。古いのかと思ったら昭和34年の銘で、それにしては状態が悪くて、金網で囲っている。境内には「梁塵秘抄」の「遊びをせんとや生まれけむ」の歌を刻んだ新しい双体道祖神像があった。
 さて、今日の旅はこれで終わりということで、そのまま箱根湯本駅に向った。お土産に酒岳堂という日本酒と箱根富士屋ホテルビールを買った。
 今日はラーメンではなく、駅前でメンチカツバーガーを食べて帰った。2時頃だった。

10月11日

 そういえば今月に入ってからまだ日記を書いてなかった。
 「量子コンピュータ 超並列計算のからくり」(竹内繁樹、ブルーバックス)の電子版を読み終えた。さすがに難しく、読み終わっても何だかよくわからないが、ただ、本格的に実用化されたら、やはりすごいことになるんだろうな。
 そのあとクリス・アンダーソンの「MAKERS -21世紀の産業革命が始まる」の電子版を読みはじめた(ともにkobo版)。これを読み進めるわくわくとした気持ちは、学生の頃読んだアルビン・トフラーの「第三の波」以来のものだ。やはり未来は捨てたもんじゃないな。日本も高度な技術を持つ零細企業がたくさんあるから、そうした会社が世界に打って出るのに有利になるかも。
 アメリカの凄いのは、かつてのヒッピームーブメントからこうした新しい経済を作ろうという動きが連続していることだ。日本やヨーロッパだと、体制に不満を持つ人たちが左翼思想に流れ、資本主義を否定するばかりか文明そのものの懐疑へと走って経済そのものに背を向けてしまうため、新しい経済を作るという発想が生まれない。
 これに対し、アメリカは既存の社会への不満が速やかに社会の改良へと向う。既存の大資本と違う所からアップルもウィンドウズも出てきたし、ネット上の様々な産業も生み出されてきた。それに較べると日本のIT革命は大手家電メーカーの主導だったために、いつまでも既存のビジネスモデルを抜けきれずに敗退した。
 一部の大資本だけが起業するのではなく、ほとんど資金ゼロでも誰もが起業できるようになることで、資本家が特権階級ではなくすべての人が資本家になるなら、結果的に階級闘争は終焉する。ただアイデアのあるものとないものの格差だけが残ることになる。
 音楽業界もボカロと宅録で自宅で作った音楽を動画サイトにアップするだけで世界に向けて発信できるため、バンドを組んで、地道にライブ活動を行ない、ゆくゆくはメジャー契約をして大規模なプロモーションとタイアップの力でスターにという階段を登る必要がなくなった。家の裏でマンボウが死んでるPが大槻ケンヂをフューチャーした曲がラジオでがんがん流れているあたりも、時代が変わったなと思う。
 新しいものが出てくると必ずその裏で失業する人たちが出てくる。これは橋ができれば渡し舟が失業するようなもので、昔からあるジレンマだ。渡し舟の船頭さんは人情に厚く、病人がいれば優先的に乗せてくれたり夜中でも船を出してくれたりしたかもしれない。そんないい人の仕事を奪うなんて許せない、という声も当然あっただろう。でも待てよ、橋があれば船頭さんに頼まなくてもいつでも川の向こうへ行けたな、なんてそう考えると、橋の利便性も捨てがたい。こうして昔からみんな悩みながら、それこそ一本の映画にでもできそうな様々なドラマがあって、文明というのは発展してきた。
 インディーズが栄えれば大手レコード会社の人たちが失業する。中小企業がネットを使って直接世界に物を届けるようになれば、今の大企業は傾き多くの失業者が出るかもしれない。再生可能エネルギーが主流になれば、今の大手電力会社の社員達の首も危ないかもしれない。そうなると、何としてでもそれを食い止めようとする人たちも当然出てくる。
 でも、そうして様々なドラマを経て、結局人類は便利さを選ぶことになる。今まではそうだったし、文明の波が逆行することはなかった。洞穴暮らしには帰れない。

9月29日

 yahooジオシティーズの「ゆきちゃんのこれが猫だ!」は当HP内に移動することで閉鎖しました。
 ゆきちゃんがまだ健在だった頃に立ち上げたHPで、ゆきちゃん亡き後もそのメモリアルとして残し、すずちゃんが来た時に「すずろにすずちゃん」というページを追加したものの、その後なかなかモチベーションが上がらないまま放置していたもので、ここにきて「ゆきゆき亭」内部に保存することで閉鎖しました。
 「ゆきちゃんのこれが猫だ」のリンク・バナーで、今までどおり見ることができます。

9月22日

 今日は東海道の続きで、8時40分頃二宮駅をスタートした。
 国道一号線は江戸時代の名残の松の木が所々に見える。ひところの暑さはないにせよ、やはり歩いていると汗ばんでくる。
 吾妻神社入口のところに「旧東海道の名残」と書いたポールが立っていて、右側が旧道となる。入ってすぐのところ右側に吾妻神社の鳥居があるので行ってみる。
 すぐに東海道線の線路にぶち当り、古い赤く錆びた歩道橋で線路を越える。線路の横はすぐに道路でその向こうに鳥居が見える。小さな神明社の社があった。その横には文字型道祖神塔や地神塔が並ぶ。右側にさらに登っていく道があったが、吾妻神社は遠そうなのでやめた。
 あたりには彼岸花が咲いていた。去年は彼岸花の咲くのが遅かったが、今年は彼岸前から咲いている。もうあの猛暑は戻ってこないということか。
 旧道は海から遠ざかるようにカーブを描き下ってゆく。右側はヤマニ醤油、左には恐竜の頭が見える。何かの工房だろうか。下りきったところに梅沢橋がある。この川を渡るために道が曲がっていたのだろう。すぐ川下に1号線の橋が見え、その下から海が覗く。
 旧道は程なくまた新道(1号線)に合流する。合流点にまた文字型道祖神塔があった。
 次に川匂(かわわ)神社入口がある。相模六社の一つだが、地図で見るとかなり遠いので今日はパスした。このあたりから今度は右側に旧道がある。「旧東海道の名残」のポールが立っている。分岐してすぐのところに真新しい一里塚の碑が立っている。江戸より18里だそうだ。
 しばらく平らな道が続いたあと、急に下り坂になる。新道の方は掘り下げて分岐点のあたりからなだらかな下りになっていたようだ。合流点に双体道祖神塔があった。
 坂を下ると押切橋で下を覗くと川には鯉がうじゃうじゃいた。誰が餌をやる人がいるのか。
 しばらく行くと右側に浅間神社があった。狛犬には皇紀2600年の銘があった。紀元2600年(昭和15年)というと、東京オリンピックが行なわれるはずの年だったが、1937年に旧日本軍は上海を攻撃し、そのまま兵士に休息を与えることもなく、補給も何もないなかで略奪を繰り返しながら南京に侵攻し、あの忌まわしい事件が起きたことは記憶しておかなくてはいけない。皇国が武威を見せつけたからといって中国があっさり降伏することもなく戦闘は泥沼化し、結局オリンピックどころではなくなった。
 2600年というと、ゼロ年ということで、あのゼロ戦が導入されたのもこの年だった。「ゼロ」は敵性語だがゼロ戦だけは別のようだった。「れいせん」ではいくらなんでもかっこ悪い。まあ、カウントダウンするにも「さん、に、いち、ゼロ」と言うように、「ゼロ」が外来語だという意識はあまりなかったのだろう。
 まあ、とにかく2020年の東京オリンピックは無事に行なわれますように。
 一号線の海岸の見える通りをふたたび緩やかに下ってゆくと、車坂の碑がある。ここにも彼岸花がたくさん咲いている。大田道灌、源実朝、阿仏尼の歌を記した説明書きがあった。
 その先に四角い顔したお不動さん乗っかっている大山道の道標があった。
 この先双体道祖神塔がいくつかある。公民館の前にあったのはすっかり磨り減ってかろうじて二つのふくらみを残すだけのものだった。
 こうした道祖神が芭蕉の時代にあったかどうかはわからないが、ただ道祖神の導きというのは何となくわかる気がした。街道にそれだけ道祖神はたくさんあったのだろう。そろそろ道祖神塔を見つけても、いちいち写真を撮る気も起きなくなってくる。

 国府津が近づいてくるとすぐそばまで海が近づいてくる。今日も一応砂浜に下りて海を見ていこう。今日も空は霞んでいて富士山は見えない。
 国府津はなかなか昭和の風情を残す町並みで、電線がないのも開放感がある。
 名前に「国府」とつくから、実はずーっと相模の国府は国府津にあるものと思っていた。相模国の国府は未だにはっきりしないが、平塚から大磯に移ったという説が有力なようだ。大磯の国府は大磯城山公園の麓あたりが有力で、ここは国府津は国府に近い港ということらしい。
 親木橋を渡ってしばらく行くと、右側に八幡神社の参道がある。狛犬は大正14年の銘で、さっきみたゼロ年の狛犬と似ている。全体に角ばった感じで目が釣りあがっ


ている。境内には庚申塔群や道祖神塔群などがあり、境内社に稲荷神社がある。一説には延喜式時代の古代東海道の小総駅はこのあたりだという。
 この先またしばらく行くと、左側になぜか黄色い招き猫が手招きしている不動尊があった。
 その先に小さな川があり交差点には「連歌橋」と書いてある。何で連歌なのだろうと思って帰ってから調べたら、『源平盛衰記』に梶原景時の馬が流されそうになったとき、「まりこ川ければぞ波はあがりける」と上句を詠み、それに頼朝が「かかりあしくも人や見るらむ」と下句を付けた所から来ているらしい。「鞠を蹴れば上がる」に「波がかかれば、かかり(蹴鞠場)だけにまずいことになったな」と応じたわけだ。
 そのあとすぐに酒匂川の橋に来る。川は浅く水鳥がたくさんいた。河原には葛がびっしりと生い茂り、葛の花が咲いていた。
 江戸時代は橋がなかったという。ただ、おそらく今よりもたくさんの流れに分かれていて水が分散し、そんなに渡りにくい川ではなかったのだろう。越すに越されぬ大井川ではなかったようだ。
 酒匂川を渡るとビジネス高校前で左に折れて旧道に入る。橋の跡のようなものが道の両端にある。川を渡るために道が曲がっていたのだろう。すぐに旧道は右に曲がり、元の国道に戻るが、そこを真直ぐ行くと新田義貞の首塚がある。
 そのあと地名が山王になるから、山王比叡神社があるのかと思ったらなかなかない。山王橋を渡ると右側に確かに山王神社がある。狛犬は平成8年の最近のもの。ここでちょっと一休みした。ちょうど12時頃。
 この辺りはもう小田原市街だ。広い二車線道路に歩道橋がかかっていて、そのあたりに一里塚があった。江戸から20里。戸塚まで10里、小田原で20里と一日40キロ歩いて二日でここまで来るのが標準コースだった。歩道橋の上からだと箱根の山がもうすぐそこに見える。
 旧道は新宿の交差点を左に曲がり、すぐに右に曲がる。国道1号線に並行した旧市街になる。蒲鉾や干物を売る店がちらほらあるが人の気配は少ない。どこにでもある旧市街だ。
 その昔の宿場町があった中央付近に松原神社があった。狛犬は二対、手前のは大正15年銘で、奥のは昭和34年銘だった。手前の方の狛犬の前にはなでれば幸運を呼ぶという亀の像が置いてあった。社務所の脇に先代の阿形だけが置いてあった。なかなか奇麗で味のある狛犬なのだが、片割れの方が壊れちゃったのか。
 このあと近くにラーメン屋があったので昼食にした。今日もこれまで程ではないにせよ暑い一日だったので、小田原駅で終ることにした。
 ところでここで醤油ラーメンを注文したら、なぜか桶のようなものに入れて出てきた。麺は中太、スープは一見するととんこつ醤油だが鯵節をたくさん使っているのだろうか、鯵の開きのようなにおいがする。紅生姜ではなく黄色い生姜を刻んだものが乗っていて、これが魚のスープによく合う。チャーシューも焦げた芳ばしいにおいがする。それにイカの絵の書いた蒲鉾が乗っかってたり、なかなかビジョアル的にも凝っている。水も蓋付きの青いガラス瓶に入れたのをコップに注ぐ。鰺壱北條という店だが、ひょっとして有名店なのだろうか。
 このあと、山角天神社から小田原城の方へ抜けた。山角天神には狛犬はなく、芭蕉の句碑と紀軽人(きのかるんど)という人の狂歌碑があった。どっちも新しいもので、芭蕉の句は「梅が香に」の句で、単に天神様だから梅の句を選んだみたいだった。境内社は夜叉神社。それに水神と書いた土管のようなものがあった。中からマリオでも飛び出してきそうだ。
 山角天神の裏の山を越えると小田原城で、その敷地内に報徳二宮神社がある。二宮尊徳さんの神社で今市にもあった。境内には二宮金治郎の像だけでなく、大人の二宮尊徳の像もあった。薪は背負ってないけど、やはり本を読んで、手には筆を持っている。狛犬は銘が大正3年なのか5年なのかよくわからなかった。
 このあと鉄筋コンクリートの小田原城の脇を通り、サルの檻の前を通り、駅の方へ向った。
 ただ、なにやらその前に大音量で音楽が鳴り響いている。誰かライブでもやっているのか。そう思って城を降りると、何やらイベントをやっていて、屋台がたくさん並び人もたくさんいる。そしてひらひらとした極彩色の衣装を着た一団があちらこちらにいる。
 ステージがあって音楽に合わせてダンスをしていた。「ODAWARAえっさホイおどり」というらしい。伝統的な踊りではなく新しく創作された踊りのようだ。
 ステージだけでなくお城の脇の道でも踊っている。まるでカーニバルだ。小田原ってこんなファンキーな町だったのか。踊りはグループ単位で、それぞれ工夫を凝らした衣装で、音楽も「お猿の駕籠屋」をアレンジして入るもののロックと伝統音楽が融合したような、昔はやった一世風靡セピアにも通じるが、それよりもはるかに複雑な構成を持っている。中にはノイジーなギターを用いた和製フォークメタルではないかいうようなものもある。これなど音源があったら欲しいくらいだ。
 あとで調べてわかったのだが、これは「よさこい系」と呼ばれる、高地を発祥として最近至る所の祭りで取り入れられてコンテストが行なわれ、ダンススクールなどが参加してかなりレベルの高いものになっている。その地域で曲の中に課題曲を取り入れ(ここでは「お猿の駕籠屋」)、あと、鳴子を使うのがルールらしい。衣装も音楽もダンスも基本的には和の要素が取り入れられている。振り付けは昔の田楽系のものが中心なのか、どこか鳥獣戯画で踊っている蛙を連想させる。
 パラパラだけでなくこういう日本独自のダンス文化が増えてくると、日本もまた楽しくなる。2020年のオリンピックの開会式でも、こういうものを取り入れるといいのではないかと思う。これならリオデジャネイロのサンバに対抗できる。
 今日見たのは弥雷、疾風乱舞、あと名前はよくわからなかったが、youtubeで見ることができる。
 このあとお土産に箱根ビールと焼き蒲鉾を買って帰った。今日も盛りだくさんの楽しい一日だった。

9月17日

 災害でも事故でもテロでも、危険が迫っても人間は極力平静を装おうとする。みんなが落ち着いているのに一人だけ危ないから非難しようと言うと、大げさなやつだ、落ち着きがない、臆病者だと非難される。地震が来たからって一人だけ机の下に隠れようものならば、それこそ物笑いになる。
 それはパニックを防ぐという意味ではいいのだが、本当の危険が迫ってもチキンレースを始めてしまい、結果多くの人が自体を軽視して犠牲になるし、他人を犠牲にすることにもなる。
 怪獣映画で人が闇雲に逃げ惑う所が描かれていたりするが、本当に怪獣が現れたら実際にはああいうふうにはならないだろう。まず怪獣が出たと言うことを信じようとしない人がいて、実際にその姿を見るまでは避難行動を始めないに違いない。屋内にいたら、いくらテレビで非難するように言っていても、誰も信用しないだろう。多分多くの人が何ら避難行動をとらぬまま怪獣に踏み潰されるに違いない。
 そして、本当に怪獣の危険を認めた人は闇雲に走るのではなく、それぞれ生き残るためにあれこれ知恵を絞るに違いない。
 実際の戦争でいつミサイルが降って来るかわからないようなところでも、そこにいる人間はあくまでこれまでどおりの日常生活を続けようとする。これを見てある種の思想の人は、逃げたら殺されるからだなんて宣伝しているが、そんな圧力がなくても人間というのは危険だからと行ってすぐに逃げ出すものではない。
 人類のみならず、生物の進化の歴史の中で、それは常に繰り返されてきたのだろう。
 草食動物はほとんど一日中食い続けなくてはならない。肉食獣の姿を見たからといっていちいち逃げていたのでは栄養失調になる。だから肉食獣が襲ってきても逃げる自信のあるぎりぎりまで接近を許す。そうしてぎりぎりまで食い続け、ぎりぎりの所で生き残れるものがより多くの子孫を残し、その遺伝子を伝えて行く。
 人間もまたそうして進化してきたから、常にぎりぎりまで通常の生活を維持する傾向が強いのだろう。それでぎりぎりで生き残るか、ぎりぎりで死んだり人を死なせたりするか、常に何か起こるたびに明暗を分ける。そのぎりぎりの線を見極める精度を上げるところに生物の進化がある。
 安全厨が嫌われるのは、彼らは進化を否定するからだ。かといって危険を侮っていると死者の列に加わることになる。人間はその間に張られた一本のロープなのかもしれない。

9月16日

 土曜日は異常な渋滞で、台風が来ているのにみんなどこへ行くのかと思っていたが、ちゃんと帰ってこれたかな。俺は二日間ほとんど家にお籠りだったけど。
 前に書いたウインドウ8のタブレットは、その後Wifi接続して使っている。G4だとユーチューブも普通に見れるが、G3の区域に来ると止まってしまう。
 koboで読んだ小野島大の『音楽配信はどこへ向かう?』はなかなか面白かった。配信の時代は着実に来ているのに、マスコミ報道はただ「CDが売れない、配信(着歌)も減っている、違法ダウンロードがー」をくり返している状況は異常だ。規制強化で時代の流れを一生懸命止めようとして、文明を否定した貧しくても幸福な(?)国を作ろうとしているのか。
 今のようにミュージシャンがスターで、大勢の人を集めてコンサートをやるという形式は、西洋近代特有のものだったのだろう。平安時代の雅楽は貴族がそれぞれ自分で演奏していて、祭や宮廷儀式の時にはあちこちからリハーサルの音が聞こえてきて、どこか学園祭ノリの所がある。江戸時代の音楽も多くはお座敷で演奏されるものだった。西洋でもバロックの頃は教会が中心だった。
 だから、ショービジネスとしての音楽は、今曲がり角に来ているのかもしれない。音楽はもっと幅広く誰でも演奏したりプログラミングしたりしていいもので、ネットなら気軽に発表できる。音楽だけでなく、書籍もそういう時代が来るのではないか。作家が文化人であり、大衆を指導する時代はとっくに終っている。でも、そうならないようにと頑張っている人もたくさんいるんだろうな。
 時の流れに逆らって勝った人はいない。それでも逆らわずにいられないのは人間の性か。
 kindleで読んだ『神様のいない日曜日Ⅳ』は、アニメではほとんどカットされていたが、アニメでもやってほしかったな。バベルの塔の現代版だろうか。人間の夢でつくり上げた巨大な塔、でもそれが夢にすぎないからといって壊すのがいいことなのか‥‥、難しい。

9月8日

 この前の平塚・二宮を歩いた時に電車の中で読み始めたのが電子版の『ドナルドキーン自伝』で、昨日読み終えた。
 戦争の話とか、アメリカ側の視点で面白い。アッツ島の玉砕で、日本軍兵士が最後の一個の手榴弾を敵に向って投げるのではなく、なぜか自分の当てたことを不思議がっていたが、もっともなことだ。
 日本の武士はある程度兵農分離がなされた中で、一種の任侠のように「かたぎの者には迷惑かけない」という意識が強かったのかもしれない。日本の武士は異民族の侵略から国を守るということがほとんどなく、負けても支配者の交替が起こるだけで、それによって国民が虐殺される心配はなかった。
 だから、負けが見えてきたときに、下手に粘って領民に負担をかけるよりも、あっさり自害するのを美徳としてきたのだろう。ところが、実際に国を守る戦いとなると、その美意識がとんでもなく滑稽なものとなってしまったのだが、誰もそれに気付かなかったのだろうか。
 国を守るのであれば、国民総自決ではなく、とにかく地を這ってでも生き延びなくてはいけなかったのではなかったか。国民がいなくては国も民族も消滅するだけだし、もちろん天皇も守れない。
 しかし、何としてでも生き延びるという思想は、長い武士道の歴史の中で未知のものだった。北方領土も、入植者に何が何でもこの土地のしがみつくという意識がなく、あっさり引き上げてきてしまった。そこでこの問題の半分は終わっていた。
 「あきらめたらそこで試合終了だ」というのであれば、自害したその時点で負けたのだと思うべきだった。今度戦争をする時には間違えないでほしい。しないほうがいいけど。
 特攻隊も「死ぬ」という所に重点が置かれて、どうやればより効果的に相手にダメージを与えられるかをあまり考えてなかったのではなかったか。だからキーンさんはレイテ沖で生き延びることができたのかもしれない。
 日本に来てからの蒼々たる名士達との交流は、やはりこの人は雲の上の人なのだと感じさせる。せいぜい「偉大なる日本人」とか言って茶化してあげよう。俺にできるのはそれくらいだ。実際に会って「源氏物語の現代語訳を試みている」なって言っても、「それは素晴らしいことですね」と愛想笑いされてしまうのが関の山だろう。せめてキーンさんが怒鳴るような翻訳をしてみたいものだ。
 キーンさんは何度も自分が幸運だったということを強調している。もちろんそれだけでなく、実際はキーンさんが類稀な秀才だったからだろうけど。俺のような偏差値55程度の学力なら、まず奨学金を貰う段階で挫折して、トラックの運転手にでもなってただろう。
 でも、キーンさんの最大の幸運は、キーンさん自信が述べていることではない。それは日本の文化人達が求めていた外国人像にジャストフィットしたことだろう。
 日本人は自分たちの文化の価値を自分たちで評価できない。西洋化の中でその軸を失ってしまったからだ。日本人は西洋人の価値基準を通さずにダイレクトに自国の文化に接する力を失った。だからといって、西洋の価値観にしても中途半端な偏った知識しかない。だから外国人に評価されなくてはならないのだ。
 浮世絵のことは言うまでもなく、若冲にしてもプライスさんがいなかったなら、未だに日の目を見てはいなかっただろう。漫画やアニメだってフランス人が騒がなかったら、未だに文部科学省やPTAは漫画撲滅に躍起になっていただろう。
 キーンさんはまさに日本の文化人達が望んでいた外人だった。それは日本の古典そのものを愛する人ではなく、あくまで昭和の文化を介しての日本を愛する人だった。昭和の、戦後間もない頃に日本が好きでそれ以前でもそれ以後でもない。だから、日本の古典に独自の見解を立てて彼らと対立することがなく、日本の文化人が望んだとおりの仕方でそれを海外に宣伝してくれた。キーンさんは最高の広告塔だった。

 ところで、今朝オリンピックの東京開催が決まった。これを吉とするか凶とするか、これからの政治にかかっている。好景気ムードに浮かれて湯水のように税金をつぎ込めば、後に残るのは借金ばかりとなる。
 2020年には高度成長の記憶も次第に風化してくるだろう。だが、それは新しい日本の始まりでもある。柔道の問題も体育会系の古い体質の見直しになり、体育会系の部活に誰も恐怖を抱かずに参加できるようになれば、日本のスポーツ文化の発展につながる。スポーツ選手にはあこがれるが、実際にやるのは怖いといって、貴重な才能が埋もれていくことのないように。

9月1日

 今日は東海道の旅の続きで、8時40分に平塚駅をスタートした。今日も暑い一日になりそうだ。
 平塚の商店街には既に七夕飾りはなかったが、頭が星の形をしたゆるキャラが描かれた「七夕の街ひらつか」の大きな看板があった。
 旧街道は既におなじみとなった高麗山に向って進んで行く。途中から左斜めへ、やや細い道に入り、古花水橋交差点のちょっと北側に出る。ここから先は古代東海道編で歩いた所だ。
 古代東海道はどうやら新旧二つのルートがあったようだ。分倍河原から座間を経て浜田駅に出るルートは古いルートで、平安中期以降の「延喜式」に記されたルートだと、今の大山街道に近い、望地遺跡から町田市町谷(店屋駅)を経て橘樹、丸子、大井の方へ行く。「更級日記」もこの「延喜式」ルートを通っている。
 平塚から大磯、二宮を通る海沿いのルートもこの「延喜式」のルートで、もう一つ、金目川を遡り東海大学の方へ行き秦野を通る古いルートがあったようだ。これまで古いルートを歩いてきたから、そのうちこちらのルートもチャレンジしてみることにしよう。
 古花水橋を過ぎてロイヤルホームセンターの前に来ると、高麗山は目の前だ。暑いけど風はすっかり秋の風で、空も澄みわたっている。

 高麗山をぼかしもしない秋の風

 今の花水橋の手前に小さな歌碑がある。「大磯八景の花水橋の夕照」という題で、

 高麗山に入るかと見えし夕日影
     花水橋にはえて残れり

の歌が刻まれている。
 中国の瀟湘八景になぞらえて大磯八景というのが作られていたようだ。瀟湘八景は中世から山水画の画題として盛んに描かれていた。八枚の絵でシリーズにすることもあれば、一枚の絵に描きこむこともあった。「湘南」という言葉も、この中国洞庭湖周辺の瀟湘に習ったものであろう。
 高来神社は前回行ったので今回はスルーして、化粧坂で旧道に入る。ここから待つ並木の道に入る。前回は高来神社の前から細い道を通って、途中からこの旧道に入ったが、そっちの方は鎌倉道らしい。化粧坂(けわいざか)というのは鎌倉にもあったな。化粧坂一里塚の跡を示す看板がある。その先にまた大磯八景碑があり、そこには説明の看板が立っていた。それによると、明治40年ごろ、大磯町第5代町長宮代謙吉が大井その名所八景を選んで絵葉書にしたのが始まりとなっている。要するに町興しか。
 歌は大正12年に大磯小学校第2代校長朝倉敬之のもので、まあ、こういう取り組みがあって「湘南」は次第に有名になり今に至っているのだろう。
 旧道は東海道の線路にさえぎられ、小さな地下道で反対側に出る。ふたたび旧道になり、大きく傾いた松が昔を偲んでいる。
 やがて今の国道に合流する。大磯駅入口の手前に神明神社がある。この前は疲れていて見落としたか。昭和6年銘の狛犬がある。その先には小さな秋葉神社がある。
 照ヶ崎海岸入口交差点で国道一号線は緩やかに右に曲がって行くが、旧東海道はここを直進して角度をつけて右に曲がる。ここに海水浴発祥の地の看板がある。
 せっかく大磯に来たのだから海を見ずに帰るのも何なので、海岸の方へ行ってみた。
 今はもう秋といっても海岸には釣りの人もいるし、砂浜にはなぜか三脚を立てた老人がたくさんいた。海を撮っているのか。今日は富士山は雲がかかっていて見えないが。

 照ヶ崎海岸入口に戻り、旧道を行くと曲がった所に教会があった。すぐに一号線に合流し、少し行くと鴫立庵があった。西行法師の、

 心なき身にもあはれは知られけり
     鴫立つ沢の秋の夕暮れ

という歌は、伝説ではここで詠まれたことになっている。1664年に崇雪(そうせつ)がここに草庵を結び、標石に「著盡湘南清絶地」と刻んだことから「湘南」の発祥地とされている。その後大淀三千風がここに俳諧道場を作り、代々鴫立庵として受け継がれてきた。それにしても大淀三千風はいろいろな所に出没している。芭蕉の「奥の細道」に先行して、芭蕉以上にいろいろな所に行っている。
 小さな川が深く岩の間を流れ、確かに涼しげな所ではある。庭には所狭しと句碑の類が並んでいる。芭蕉句碑もあるし、西行銀猫碑もある。西行が頼朝から賜った銀製の猫を、こんなものは要らんと子供にやったエピソードが記されている。第五世庵主に加舎白雄の名もあるし、第二十世庵主は村山故郷の、



 花の下は花の風吹き西行忌

の句碑もあった。
 村山故郷の『明治俳壇史』(1978、角川書店)は近代俳句の立場に偏った他の明治俳句史と違い、旧派のことを詳しく伝える貴重な本だ。
 鴫立庵を出て、そういえば大磯にはオダジョー‥‥じゃなかった、新島襄の終焉の地があったはずだと思い、探しに戻った。
 照ヶ崎海岸入口交差点の国道側から見ないとわかりにくいが、そこに終焉の地の碑が立っていた。
 ここからしばらくは国道1号線を行く。
 このあたりの海岸は小淘綾(こゆるぎ)の浜と呼ばれていて、『源氏物語』帚木巻にこの地名が出てきたなと思った。「あるじもさかなもとむと、こゆるぎのいそぎありくほど」という一節で「主人紀伊の守も肴を求めて、こゆるぎの大いそぎで歩き回り」と訳した箇所だった。
 松並木の残っている箇所があり、下り車線が松並木の道となり、登り車線はその横に別に作られている。
 右側に宇賀神社があった。赤い羽織を来たお狐さんがいて、稲荷神社のようだった。その先の左側には八坂神社があった。地面は砂地で砂丘の上に建っているみたいだった。
 しばらく単調な道が続き、やがて目の前に切通しが見えてきた。切通しの手前に道祖神塔があった。
 この切通しの途中で道が分かれていて、左が旧道になる。切通しある山は大磯城山公園になっている。
 標高40メートルを超えるこの山塊は、ここに道を通す時にさぞかし邪魔だったに違いない。切通しが近代に入ってから作られたとすれば、昔はここを急な坂道で越えていたのか。
 それまでほぼ直進してきた東海道は、ここでやや北へ迂回する。この迂回した所に大磯ロングビーチがある。昔は干潟か何かだったのか。
 迂回した旧道はすぐに新道に合流せず、しばらく新道と旧道が並行して走る。この二つの道の間に二つの道祖神塔があった。
 このあたりから今日も暑さがこたえてくる。右側に六所神社の大きな鳥居があった。線路をくぐった向こうに神社があった。その前に一休みして自販機で買った水を飲む。すると、自販機の脇にも道祖神塔があった。
 狛犬の銘は読めなかったがなかなか穏やかな顔をしている。細かな毛並みがきちんと彫られているあたりは、倉見神社境内社の大正5年の狛犬にも似ている。拝殿には太い注連縄があった。
 相模六社めぐりのパンフレットが置いてあった。このうち寒川神社、前鳥神社、平塚神社はこれまで通ってきた。あとは二之宮川勾神社と三之宮比々多神社へ行けばいいのか。
 六所神社を出たあたりで12時。川を渡ると二宮の交差点があり、守宮神社があった。そのすぐ先の二宮駅入口で右に曲がるとすぐに二宮駅だ。今日はここまで。

8月31日

 何とか無事にwifi接続ができた。ついでにkobo touchのほうもダウンロードができるようになった。

8月30日

 今日ウインドウズ8のタブレットが届いた。まだネットに接続してないからほとんど何もできない。メモ帳がなかなか見つからなかった。音楽は一応聴くことができたが、止め方がなかなかわからなかった。随分XPとは勝手が違う。
 明日はネット接続できるだろうか。

8月26日

 よく「戦争の記憶を風化させるな」とか言うが、今本当に風化しつつあるのは生存競争の記憶なのかもしれない。
 戦争は今でも世界のいたるところで起きているし、太平洋戦争・日中戦争の記憶は風化しても、本来なら常に新たな戦争の記憶が付け加わっていくはずなのだが、そうならない。
 マスコミがそれらの情報を伝えるにしても、決して残虐で生々しい映像を伝えるのではない。そういうものはベトナム戦争で終ってしまったように思える。
 残虐なシーンは規制され、あたかも人間は本来人を殺したりできないようにできているかのような甘い幻想に包まれ、戦争で人と人が殺しあうということ自体、だんだん想像するのが困難になってくる。
 80年代だったか、日本の韓国支配のことで当時の新進気鋭の評論家が、「そんなことがあるはずないでしょう、そんなことをしたら暴動が起こりますよ」と言っていた。韓国併合時代に一度も暴動が起こらなかったとでも思っていたのだろうか。そういう例は80年代くらいから増えてくる。
 だから、従軍慰安婦にしても、南京虐殺にしても、それを隠そうだとかなかったことにしようとかいう以前に、人間がそんなことをできるはずがない、という感情を持っている人間が結構いるのではないか。
 「はだしのゲン」は最初の方しか読まなかったが、「あかつき戦闘隊」は子供の頃好きな漫画の一つだった。今では残虐シーンの規制があって、とても書けない漫画だろう。でも、子供の頃って案外平気なものだ。「はだしのゲン」に関しては、わざわざ読ませるようなものでもないが、隠すようなものでもないのではないかと思う。たいていの子供は途中からつまらなくなって読むのをやめると思う。
 人間は誰でも例外なく40億年にわたる過酷な生存競争を勝ち抜いた者の子孫であり、敗者の子孫というのは存在しない。だから基本的に人間は、自分が生きて子孫を残すためにはいつでも人を殺せるようにできている。戦争は有史以前から人間が繰り返してきた行為であり、本来その記憶が風化するなんてのはありえないことだった。
 ただ、科学の進歩による飛躍的な生産性の向上が人間を変えつつある。マルクスが予言した、生産物が常にあり余る状態にあり、誰も争ってそれを手に入れる必要がなくなる理想社会は、既に半ば実現していると言っていい。今の日本ではホームレスでも白いご飯が食える。贅沢を望まなければ、食っていくだけならそんなに苦労はいらない。戦争と共に飢餓の記憶も風化しつつある。
 ニーチェが予言した「おしまいの人間」も、おそらくそういう生産性の飛躍的な向上からもたらされるべき、生存競争から解放された人間の姿だったのだろう。生存の欲求が満たされた人間は、もはやそれ以上のことを望むことがなくなる。それに対して、生存だけではない人生の意味をニーチェは求めていたのだろう。

8月25日

 今日は雨降っているし、ゆっくりと休んだ。

 「人権」という言葉に相当する日本語がなかったということが、何かの本に書かれていたが、その理由を考えてみた。
 おそらく日本でそれに相当していたのは、「情」だとか「人情」だとかいう概念だったのだろう。
 西洋の伝統的な霊肉二元論では、メンタルなものを哲学的にあつかうことが難しい。性について語るにも、一方で機械的で見境のない肉体的な性欲があり、一方でそれをコントロールする理性の普遍的な人類愛がある。その中間の恋愛感情を哲学することは困難だった。
 同じように、西洋では「人情」を議論するのが困難だった。一方では利己的な欲望があり、一方ではそれを制御する理性がある。理性は多くの人の欲望を最も効率よく満たすための、最大多数の最大幸福のための制御を行なう。
 そのため、西洋では人間として自然な感情を貫こうとした時、欲望の次元ではもちろん議論できず、あくまで理性の次元でその正当性を主張する必要があった。そこから生まれたのが人間としての「正しさ(=権利)」だった。
 理性の次元である以上、権利を主張してもそれがそのまま認められるわけではなく、それは全体の利益を踏まえた上で、最大多数の最大幸福を見い出すべく快楽計算されなくてはならない。その上で、どこまでが正しく(権利であり)、どこまでが正しくないか(権利がないか)を判定しなくてはならない。その判定の場所が裁判所だった。
 ところが、日本人がこのような西洋的な権利の概念を輸入したものの、西洋的な訴訟社会が根付かなかったため、一般に「権利」は、西洋哲学の知識を持つ人間の「言った者勝ち」という印象を与え、嫌われるに至ったのだろう。
 日本では人間が生きていくための必要な諸欲求について、「人情」という言葉で独自に思考され、そこに高度な文化を築いてきた。それは法律的な「義」と別の次元で思考されるのが恒だった。日本の裁判で「情状酌量」を重視するのは、その伝統に則ったやり方なのだろう。

8月15日

 那須へ行った。
 今日は「奥の細道」の旅としてではなく、普通に日帰りドライブとして。
 朝5時に家を出て、高速道路はすべて順調で、8時過ぎには那須温泉神社に着き、殺生石を見たあと、車でさらに山の上の方へ登ってみた。
 「恋人の聖地」という展望台があった。確かに眺めはいいが、今日は全体に薄ぼんやりとしていて遠くの町や山は見えなかった。那須を舞台にした作品がアニメ化されれば、きっとここも本当の意味で聖地になるのだろう。
 さらに上へ行くとロープウェイの乗り場があり、駐車場整理のガードマンが立っていた。同行者が高所恐怖症なため、乗らなかった。


 道は峠の茶夜の駐車場で終わりだった。茶臼岳や朝日岳が間近に見えた。
 山を降りると9時過ぎだったので、那須ステンドグラス美術館へ案内した。パイプオルガンの演奏を聞いた。
 それから、前回行った時に気になっていたニャンダーラに行ってみた。前回は別の場所に移転していたが、事前にネットで調べた所、元あったところに戻ってきていた。猫グッズを売っていた。楽焼のコーナーがあったがやらなかった。
 そのあと、りんどう湖ファミリー牧場の前を通り、例のお城の前も通り、とりっくアートのあるほうを回って道の駅那須高原友愛の森に行った。
 ナスが安かったから買った。別に駄洒落を狙ったのではない。桃も買った。あと、那須高原ビールなどいろいろ買った。正確には買っていたようだ。ガンジー牛乳のソフトクリームを食べた。こくがあってこってりした感じだった。
 建物の軒にツバメがいた。
 そのあとベルフルールでパンを買ってから、熊田坂温泉神社の狛猫の所へ行った。前回は曇っていて写真がうまく取れなかった。今回の方が顔がはっきりわかるように撮れた。
 帰りに国道4号線を通っていると、スペースシャトルと共に宇宙へ行ったというパンの缶詰の店があった。パン・アキモトというパン屋で、普通のパンも売っていた。
 帰りの渋滞も心配したほどではなく、7時半には家に着いた。結構盛りだくさんの楽しい一日だった。

 ところで、今日は終戦記念日。
 今日の日本の変化を韓国や中国は戦後の国際秩序への挑戦だといっているが、実際それは正しい。戦後既に60年近くなるのに、相変わらず国際秩序が戦勝国と敗戦国との差別のもとに成り立っていることに、多くの日本人が不満を感じ始めたのは事実だろう。
 実際、たった一回の戦争の結果で未来永劫まで敗戦国であるというのは不条理なことで、戦争を体験した世代にはそれなりの負い目はあっても、これから生まれてくる世代まで果たしてそれを背負い続けなくてはならないのか。千年でも二千年でも、我々の子孫は敗戦国としての負い目を負わされなくてはいけないのか。本当に今問われているのはそこだと思う。
 問題なのは戦争の記憶を風化させないことではなく、恨みの記憶をいかに忘れるかだ。それなしに未来の平和はない。
 戦勝国側は単なる史実としての戦争の記憶だけでなく、恨みの記憶まで様々な教育を通じて残そうとしているし、日本でもそれに同調している人たちがたくさんいる。一方で日本には恨みの記憶と一緒に歴史そのものを改変してしまおうとする人たちがいる。これはどちらも間違っている。史実は史実、恨みは恨み、そこを切り離さないことには議論は永久に平行線をたどるしかない。
 今の政府はまだ、正面きって戦後秩序の見直しの議論をたきつける所までは考えてないようだ。しかし、いずれそのときは来る。

8月13日

 天体観測といってもほうき星ではなく、昨日は流れ星を、ペルセウス座流星群を探した。
 午後の天気予報では、関東は雨で荒れ模様とのことだった。関東と北海道と沖縄以外は雨は降らないらしいということで、とにかく関東を脱出することにした。目指すは静岡県。
 夕方から激しい雷雨で一瞬だが停電もした。雨がようやく収まった8時過ぎに車で出発した。夜食用のサンドイッチをこしらえたり、大げさな荷物は俺の方だったようだ。流れ星を見たいと言ったのも俺ではなかったので、バンプの「天体観測」とは逆のパターンだ。
 東名高速は一応流れていたが、車間は結構詰まっていて渋滞する一歩手前の状態だった。
 裾野で降りるが、空は曇っている。どこか雲のない所までと、一般道を走らせる。国道246から1号線へ、このあたりの道の流れはよく、ほとんど高速道路状態になっている。すぐに富士市を過ぎて蒲原のあたりで空が晴れてきた。
 これはいける、あとはもっと暗くて星のよく見えそうな所へと、興津から車を山の中へと走らせる。10時頃、第二東名のあたりに来たとき、星はよく見えていたが、山の中で視野がさえぎられる。どこかいい所はないかとうろうろしているうちに、いつの間にか星の数が減っている。うっすらと霧がかかってきた。
 11時ごろにはすっかり星も見えなくなって、仕方なく戻ることにした。蒲原まで戻って海辺で空を眺めて見るが、雲の切れ間に若干の星が見えたものの、流れ星には出会えなかった。海の上には低く雲が垂れ込めているのか真っ暗で不気味な感じがする。船乗りというのはこんな海を行くのか。沖で嵐でも来たら本当に闇の中なんだろうなと思った。
 やがてその雲の切れ間もわずかになり、さらに戻ることにした。天気予報は外れたようだ。静岡も曇りだった。日本平より向こうへ行ってたら、ひょっとしたら違ってたかもしれないが、さすがにそこまで行くと帰り道が遠くなる。
 午前2時。ふじおやま道の駅で仮眠を取った。午前3時過ぎ、観測のタイムリミットとも言うべき時間帯になっても雲は晴れない。このまま帰るのも癪だし、天体観測スポットとしても知られていて、古代駅路への興味からも一度行ってみたかった足柄峠を越えて帰ることにした。
 足柄山といえば金太郎が有名で、神奈川県側でも静岡県側でも金太郎の絵の書いた看板や金太郎を象ったオブジェが多数存在するのだが、夜でほとんどそれも見えない。
 『更級日記』では、真っ暗で恐ろしい道が続く中で、白拍子が歌って盛り上げてくれたらしい。おれは更科を読んでなかったので知らなかった。
 狭い道を昇って行くと、ふいに星が見えると言われて車を止める。確かに雲が切れて北の方の星空が覗いていた。カシオペア、昴、そして「入」の字を逆にしたようなペルセウス座が見える。
 少し広くなった所に車を移動させる。眼下には東名高速の足柄SAの灯が見える。そんなところで天体観測を始める。すでに3時半も過ぎていただろうか。それでもそれぞれ流星を三つ四つ見ることができた。やけに流れの遅い流れ星があった。これなら願い事ができそうだね、なんて言いながら、結局何も願ってなかった。
 すぐに空は明るくなり始め、星もかすれていった。それでも最後の最後で奇跡が起きたような気分だった。「あきらめたらそこで試合終了ですよ」というあの名言が浮かんでくる。
 後は帰るだけだった。峠の所では車が何台も止まっていた。雨の中ずっと待っていたのだろうか。それでもあきらめなかった人だけが、いくつもの声をあげることができたのだろう。
 峠を降りて246をひたすら走る。とにかく眠い。それでも何とか帰り着いた。朝日は見えるけどやはり薄雲がかかっていている。見えないものが見えたかどうかはわからないが、流れ星は確かにはっきりと見えた。

8月8日

 今期のアニメで一番当りだったのは「神さまのいない日曜日」だろうか。
 その原作のラノベの一巻を読み終わった。アニメでわかりにくかった部分も、原作を読むとわかる部分がある。
 なかなか哲学的な内容で、やはりニーチェだろうか。死者達はいわゆる「おしまいの人間」を象徴しているのだろう。それは人類の願いでもあった。「ツァラトゥストラ」でも「お前を超人にしてやるから俺たちをおしまいの人間にしてくれ」という場面があったと思う。
 高度な技術で死者を動き続けさせるオルタスの町は、今の日本を象徴しているのかもしれない。
 文章も、面白い言い回しや表現があって、なかなか良い。

8月6日

 沖縄の人が米軍基地そのものに反対するのはよくわかる。ただ、オスプレイをその象徴としてそればかりを標的としているのは、戦略としても間抜けだし、かえってやまとんちゅうの支持を得にくくしていると思う。
 何かある主義の人たちが「コカコーラを飲むと骨が溶ける」といっているようなのと同じ匂いを感じる。確かにコカコーラは米帝の象徴かもしれないが、言ってることがあまりに非科学的で、ほとんど宗教に近い。
 マスコミ報道も何を考えているのか、死者が出ているというのに、畑の水の心配ばかりしている。地元の人は別にそういう意図でインタビューに答えているのではないだろうけど、これだと沖縄の人があたかも人間の心を持っていないかのような誤解を与える。米兵は人間ではないのか。何人死んだっていいのか。
 悪いのは戦争がなくならないことであり、そのために基地がなくせないということだ。飛行機が悪いのではない。きっとゼロ戦の開発者もそう言うだろう。

8月5日

 昨日のことになってしまったが‥‥。
 今回は古代東海道ではなく、本来の「街道を行く・東海道編」にもどって、近世東海道を8時半頃、藤沢本町駅からスタートした。
 44号線に出ると、前回天津麺を食べた玉佳がある。店の親爺が準備を始めている。
 引地川を渡るとメルシャンの大きな工場がある。このあたりの左側に口の周りを赤く塗った道祖神像がある。藤沢市教育委員会の説明板によると「おしゃれ地蔵」とある。顔から白粉が絶えることがないのでそういう名前になったという。確かに顔は何となく白い。そういう石なのか。だが何で地蔵?
 藤沢市教育委員会曰く、
 「形態的には『地蔵』ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。」
 県道44号線から国道一号線に出る四ツ谷の交差点の少し手前のところで、木の茂る小山を避けるように道が南にカーブを描いている箇所がある。この小山に小さな稲荷神社があった。
 四ツ谷交差点の少し先に鳥居が見え、その手前にお不動さんの乗っかった道標がある。大山道への入口だ。鳥居の社額の部分が顔になっている。烏天狗だろうか。
 その先に一里塚の跡があるが一里塚と書いてある棒が一本立っているだけ。
 その先に二ツ屋稲荷神社がある。正面にあるのは平成8年銘の新しいお狐さんだが、その裏に先代のお狐さんが二対あった。右側のお狐さんは子狐がおっぱいを飲んでいる。狛犬では時々見るが、これはそのお狐さんバージョン。
 このほかにも境内に寛文の庚申塔や、年代はわからないが古そうな道祖神塔もあった。
 ここから先の道路は所々松並木が残っている。この辺の道は、旧街道の海側を掘り下げて今の道路を作ったのだろう。両側に松並木が残っている所は少なく、山側だけの所が多い。その場合、歩道は一段高く、昔の地形どおりにアップダウンしている。
 やがて砂混じりの茅ヶ崎の市街地に入る。「砂混じりの」というのは茅ヶ崎に掛かる枕詞にしてもいいのではないかと思う。和歌だと「砂混じり」か「砂混じる」と5文字にしたいところだが。まあ、別に砂嵐が吹いているわけではなく、特に意味がないから枕詞ということで‥‥。
 一里塚という交差点があって、さっきの四ツ谷の一里塚から一里ということになる。左側は小さな公園となっていて「平成の一里塚」と書いた説明版がある。木は一本生えているが、塚はどこにもない。反対側には本物の茅ヶ崎一里塚がある。江戸から14里。
 茅ヶ崎一里塚からさらに先へ行くと左側にまた鳥居が見えてくる。第六天神社だ。歩道橋を渡って道の神社側へ行く。狛犬は昭和6年銘で角ばった顔をしている。
 第六天は仏教の欲界天の第六、他外自在天に由来するもので、日本でもやはり昔から自由へのあこがれがあったのだろう。明治政府によって天神七代の第六代の神に変えられてしまったようだ。
 境内に首を落とされた六地蔵があり、代わりに別の石を載せ、ペンキでスマイルマークが書いてある。廃仏毀釈の時に破壊されたのだろうか。
 俺もどっちかというと仏教よりは神道よりだが、どんな宗教でも原理主義というのは困ったものだ。バーミヤンの石仏の破壊は大きなニュースになったが、日本でも明治の初め頃に似たようなことが行なわれていたの。今ではほとんど忘れ去られている。ネットで見ると日本のあちこちに首なし地蔵があって、一部では都市伝説で恐い話になっているものもあるようだ。
 鳥井戸橋を渡った所右側に、また大きな鳥居があった。鶴峰八幡宮の鳥居だが、見ると参道が延々と続いていて八幡様の姿が見えない。暑さもあってパスすることにした。
 新湘南バイパスをくぐるところは歩道橋になっていた。とにかく今日は暑さがこたえる。どこかで一休みしたい。産業道路入口の所にマックの看板があり、早めの昼食にした。ということで、今日はラーメンの方はなし。
 ここから馬入橋までの間に、道祖神塔が二つあった。今日も道祖神に導かれている。  馬入橋手前の相模川の河川敷には、ボートや何かがたくさん置かれている。相模川でもボートが走り回っていて、水上スキーをしている人もいた。気持ち良さそうだ。
 川上の方には湘南銀河大橋も見える。川下は海も近いのだが、トラスコ湘南大橋にさえぎられて水平線のあたりが見えない。
 川の向こうには古ぼけた教会のような建物が見えるが、よく見ると十字架がない。結婚式場だ。

 馬入交差点で国道1号線は右に行く。旧東海道はここを直進する。ここに馬入一里塚跡の石碑がある。これで日本橋から15里。
 平塚駅前に着いたのがちょうど正午だ。やはり暑さのせいでどうも調子が悪い。今日は平塚八幡宮だけ見て帰ることにする。
 正面の鳥居の前に大正11年銘の大きな石の狛犬がある。口がでかい。
 平塚八幡宮の境内は閑散としていて、参道にアヒルがのんびりくつろいでいる。近づいても逃げない。
 銅製の二の鳥居の前にはいかにも昭和初期という感じの昭和6年銘のブロンズ狛犬があった。
 拝殿の前には茅の輪があり、一応茅の輪くぐりをした。


8月3日

 麻生氏の発言、ネットでは1分半程度のものしか見ることができなかった。
 靖国神社参拝の問題に触れて、昔はみんな参拝して何の問題もなかったが、いつの間にか中国や韓国から叩かれたようになった、という回想は問題ないとして、その理由はマスコミが騒いだからだというのは間違い。70年代半ばにそれまで合祀されてなかったA級戦犯を合祀するようになったのが原因だと思う。
 このときA級戦犯を合祀する理由をちゃんと世界に説明したかというのがまず問題だ。それこそ目立たぬようにいつの間にか変えていたというのが問題だったのではないか。
 韓国や中国が騒ぐと、それに便乗して何でも政府批判をすれば良いと思っているマスコミが騒ぎたてた。それはやはり問題だろう。
 だとしても、靖国問題はマスコミが変えたのではない。日本の当時の自民党政府がA級戦犯号を合祀するように変えたのは間違いない。
 そのあとであの「ナチスを見習ったらどうか」という発言が来る。マスコミがいつの間にか靖国問題への対応を変えたことについて、騒ぎ立てるのではなくナチスが憲法を変えたみたいに誰も気付かないように変えた方が良かったのではないか、という意図のようだ。
 前後の文脈からして、この発言が今の改憲問題と全く無関係なのは間違いない。ただ、そんなに面白い喩えでもないし、聴衆がここで笑っているのも、空気を読んで笑わなくてはいけないと思って笑っているだけだろう。
 まあ、どっちにしてもナチスに近いのは自民党の方で、マスコミもその狡猾さを見習った方がいいのは確かだろう。他所の国の尻馬に乗って囃し立てるだけというのはいかにも芸がない。本気で世論操作しようと思うなら、確かにナチスのような狡猾さが必要だろう。今のマスコミの知恵のないやり方では大衆から無視されるだけで、だからこそ今回の選挙でも民主党は大敗したのではなかったか。

8月2日

 古代道路と言うと気になっていたのだが、昔学校で習った万葉集の、

 信濃道は今の墾道刈株に
     足踏ましなむ履はけわが背

の歌だ。
 これは、この前借りてきた「事典 日本古代の道と駅」(木下良、2009、吉川弘文館)によると、大宝2年(702)から和銅7年(714)にかけて笠大夫によって作られた吉蘇路のことだという。美濃から信濃へ向う近道だったものの、その後の延喜式に記載はなく、廃れてしまったものと思われる。
 今思うと、7世紀くらいに作られた駅路は幅9メートルから12メートルで、木っ端や砂利などで簡易舗装され、左右に水が溜まらないように側溝が掘られていたが、8世紀に入って新しく開かれた道は道幅も狭く、作りが雑になったのを風刺した歌だったのかもしれない。

7月31日

 たとえば古代日本の国家生成期に入ってきたのが仏教ではなくキリスト教だったら、天皇霊を精霊と見做し、父なる天、子なるキリストと一体とする独自のキリスト教が生まれていたかもしれない。つまり、唯一神を本地とし、日本の神々を垂迹とすればいいわけだ。
 すべての宗教の根源にあるのは同一の真理であり、神道はその日本独自の表わし方だという発想は、一方では神道の絶対性を保証するが、その一方では世界各地で独自の顕現の仕方があるという点で相対主義をもたらす。
 本居宣長と上田秋成の論争も、基本的にはそういうものだったと思う。インドには仏教があり、中国には儒教があり、日本には神道がある。一方では「だからどれを信じたっていいじゃないか」と言う人がいて、一方では「日本人である以上神道を信じるべきだ」という人がいる。ただ、それでもそれが深刻な宗教対立にならないのは、すべての宗教の根底は一つだという確信があるからで、これは日本人の宗教観の世界でも稀な卓越した部分だと思う。
 教祖を半ば神と崇めるような新興宗教はもちろん別だ。これはすべての宗教の根底にある真理を一人の人間が私物化するという点で淫神といえよう。日本人は独善的な思想を好まない。真理の私物化を何よりも嫌う。
 唯一絶対の神が存在すると、必ずその唯一絶対の神の言葉の代理人が誰であるかで血みどろの戦いになる。日本の神道ではその種の宗教戦争が皆無だったのは、神道には最初から教義がなく、神の言葉も存在しなかったからだ。神ながらの道、天地自然の語らぬ経があるのみだったからだ。
 真理は沈黙であり、何びとたりとも神の言葉を語ってはならない。実力で神の代理人となることを禁ずるのも、天皇制の重要な機能だったのではないかと思う。

7月29日

 「吉田神道の四百年」(井上智勝、2013、講談社)を途中まで読んだが、家康が名ぜ明神ではなく権現なのかという問題で、仏教の権威を奉じることで天皇権威を相対化するためではないかといっているが、それはどうだろうか。
 まあ、日本には仏教徒がたくさんいたし、いまでもたくさんいるから、それを敵に回したくなかったのは確かだろう。だから唯一神道的な観念を避けて、両部神道の権現の地位に甘んじたのではないかと思う。
 本地垂迹の考え方も両部神道も、仏と神との間に明白な上下の序列を付けるのではなく、むしろその本質が一つであることをいうもので、だから古代の天皇もこれによって皇統の祖先が仏と同一になることで、仏教徒が天皇を崇拝せざるを得なくなるようにしていたのではないかと思う。
 同様に、家康も権現となり仏の化身となるなら、同じく崇拝の対象となる。だからといってそれで天皇を超えたという意識をあの時代の誰が持っていただろうか。皇統の祖先も仏で家康も仏ならその現世での顕現の仕方でやはり皇室には勝てないはずだ。
 足利義満の場合は中華皇帝の権威を利用して「日本国王」の称号を手にして、天皇を超えようという意識はあったかもしれない。ただ、中国人は騙せても国内では誰も「王」とは認めてなかっただろう。だからこそ、織田信長や豊臣秀吉は自分自身が中華皇帝になることで、天皇の上に行こうとしたのだろう。
 仏の権威で天皇の権威を越えるというのは実際の所無理な話で、そんなこといったらあの学会の偉い人はとっくに天皇の上にいることになる。
 日本はやはり実力で王になることを禁じた国で、徳川家康もその秩序を乱さなかったからこそ長続きをしたのだと思う。

7月25日

 この頃老眼が進んできたのかパソコンの作業をするとすぐに目が疲れる。焦点を合わせるのに目に負担がかかるせいか。
 電子ブックも活字の大きさを調整できない自炊本を読むと目が疲れるもんだから、ついついラノベばかり読んでしまう。
 十文字青の「灰と幻想のグリムガル level.1」は一気に読めた。ハルヒロとランタのボケと突っ込みのコンビは「薔薇のマリア」のマリアと魚を引き継いでいる。
 最初にゴブリンに苦戦する場面は「ひぐらし」の「祟殺し編」や「光圀伝」のあの場面を思い出した。はじめてRPGをやったとき、「クロノトリガー」だったが、武器や防具の装備の仕方もわからないままフィールドに出てマルマジロに負けたが、小説にするとこんな感じか。
 以前ラジオでどこぞの教育評論家が、読書を通じて、いろんな登場人物の立場に身を置くことで、異なる立場の人を理解する助けになるということを言っていたが、人間関係がうまくいかない子供達に読ませるには、十文字さんの小説はうってつけなのではないかと思う。人間関係のうまくいかない大人が読んでも、いろいろ学べるくらいだから。
 あとがきを読んだ感じでは、十文字さんも苦労した人なんだろうな。だから、普通の人が無自覚にやっているようなことをちゃんと書いてくれるんだと思う。
 まあラノベばかり読んでいるわけでもなく、ようやく「進化言語学の構築」の方も読み終えた。言語の進化の謎に関しては、まだまだ断片的な手がかりばかりでなかなか難しい。
 言語が比較的少ない用例でも容易に学習できるのは、頭の中にその概念が既に非言語的に出来上がっているからなのではないかと思う。たとえば「じぇじぇじぇ」なんて言葉は、一部の地方の人を除いて、ほとんどの人がつい最近知ったのだと思う。それでも、その用例をそんなに何度も聞かなくてもすぐに真似して使えるから、簡単に流行語になったりする。
 「たっぱ」という言葉は、俺自身は「うみねこのなく頃に」の最初のところで初めてこの言葉を聞いたような気がしたが、そんなにいくつもの用例がなくても、大体理解できるのは、背の高さという概念が既に頭の中にあるからだろう。
 「かまどうま」だって子供の頃図鑑で見た程度で、日常的に見るものではないし、カマドウマについて語る機会なんてほとんどない。でも「ハルヒ」を読んだ時、何となくその姿は浮かんできた。「カッコウムシ」はさすがに浮かんでこなかった。子供の頃見た昆虫図鑑でも特に印象がなかったのだろう。
 逆に、頭の中に概念が形成されてない学術用語などは、何度聞いても覚えられなかったりする。言語の学習は、幼児期から既に概念形成のほうが先行していて、そこにぴたっと当てはまる言葉を聞くから、すぐに習得できるのではないかと思う。
 他の動物の場合、様々な概念がどのように想起されるのかはよくわからないが、人間の場合、概念が文法的に配列され整理されて記憶され、そこに名前というインデックスが付いているのだと思う。
 これによっていつでも容易に記憶を呼び起こすことができるようになっただけでなく、文法があることで実際にはありえない配列を容易に生み出せるようになったのだと思う。
 今日読んだ箇所に、STONE READ BOOKというのが例に挙げられていて、このありえない配列でも人はいろいろ想像し、STONEは石頭の人のことで石頭が本を読んでいるとすれば意味が通じるだとか、石でできた機械で本を読み取るだとか、いろいろ意味を見い出そうとして想像を膨らますことで、それが発明や技術的イノベーションにつながる、というようなことが書かれていた。
 文法がなければ、これは「石について書かれた本を読む」というありきたりな解釈が成り立ってしまう。「石が本を読む」と「石の本を読む」とで明らかに文法的に違う別の文章だという認識があるから、「石が本を読む」と言ったとき、様々な想像が膨らむ。
 文学も芸術もこうした創造力の源泉として必要なものなのだろう。事実をありのままに書いた小説では、単に事実を再認識する以上のことができない。というのも、それを理解できるというのは、既に読者にその概念があるからだ。むしろ荒唐無稽なファンタジーの方が、それを理解しようと想像を膨らますことで、新たな概念の獲得につながる。昔から神話やお伽噺が荒唐無稽なファンタジーなのはそのせいなのだろう。
 大人も、頭を柔らかくしたいなら、純文学よりもラノベを読んだ方が良いと思う。
 宗教家はよくわけのわからない暗示的な言い方をする。これは、本当は何も考えてなくて、適当なことを言っていても、信者が一生懸命何か意味を見い出そうとして、勝手に新しい意味を発明してくれるからだ。こうして人生の新しい概念を見つけ出して本当に道が開けちゃったりしたら、本当はその人が一生懸命考えて見つけ出したのに、教祖様のおかげだと思ってしまう。だから宗教は儲かる。

7月21日

 今日は前回より遅く、8時半に家を出発。今日も暑くなりそうだが、予報ではこの前ほどではない。でも朝から晴れていて、やはり暑くなりそうだ。
 とにかく少しでも前に進みたい。旅のことだけではなく、自分自身も、そして日本も。今と同じ時間は過去に一度たりともなかった。それを「この道はいつか来た道」に思うのは、人は関連のないものでも何らかの類似を見つけて、法則を見つけたがる生物だからだ。
 宮崎駿監督の「熱風」7月号のPDFファイルを読んでふと思ったのだが、日本がもし1935年(紀元2600年)に軍部の圧政に耐えかねて革命を起こし、自力で平和憲法を作っていたら、その後の日本はどうなっていたか、と。俺に小説の才能があったら書いてみたいテーマだ。
 人間は常にベストの選択をするほど賢くもないが、ワーストの選択をするほど馬鹿でもない。それは信じて良いと思う。

 9時50分に寒川駅に着いた。今日はここからスタート。踏み切りのそばにある寒川神社の一の鳥居までまず戻った。そして、そこを過ぎてスリーエフの所を曲がった。狭い道に入る。別にこれが古代東海道というわけではないが、前回歩いた富士ゼロックスから寒川神社の西側を結ぶ直線の延長線に、大体この道が重なる。とはいえ、この道も程なく行き止まりになる。今日は若干涼しいせいなのか、うし猫ばかり3匹見た。
 左ヘ行くと線路があった。こんな所に電車が通っている様子もないし、これは公園の展示物のようだった。
 一之宮公園はかつて相模線の西寒川支線の廃線跡を利用して作られた公園で、そのため線路が敷設されてたり、車輪がおいてあったりするようだ。
 廃線跡の一之宮緑道をゆくと八角形の池のある八角広場があり、そこに「旧国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」の石碑があった。
 一之宮公園を抜けると圏央道をくぐり、工場の横に出る。少し行くと右側に土手へ登る道があり、相模川の土手に出る。対岸には相模国四之宮前鳥(さきとり)神社の屋根が見え、その向こうには高麗山が見える。平塚の向こう側には大磯丘陵が広がり、北は丹沢に続いている。その南端にあるのが高麗山だ。古代東海道もこの大磯丘陵を避けて海岸沿いを通っていたといわれているので、これからあの高麗山の麓を目指すことになる。
 昔は渡し舟があったのだろうか。今は南にある湘南銀河大橋を渡ることになる。湘南大橋でいいものを「銀河」とは大きく出たものだ。まあ、平塚は七夕祭りで有名だから、その縁か。
 橋から前鳥神社の方を見ると、相模川の土手とは別にもう一つの土手が神社の裏の方へと通じている。相模川も度々流れを変えたのだろう。橋を渡り終えると土手伝いに歩いてゆく。前鳥神社の裏側に出た。横から神社に入る。ここにも赤い大きな両部鳥居と狛犬があった。口の中や目の周りなどの赤い色が鮮やかだ。昭和57年の銘がある。
 拝殿の前には「幸せの松」があった。四本の葉を付けた松葉が見つかるから、この名があるという。試しに落ちている葉っぱを見たら、普通は松葉というのはが二枚なのに、三枚あった。次のも三枚、次のも三枚、どうやらこの木は三枚が標準のようだ。そして、四枚の葉のも本当にあった。
 境内社の祖霊社の前にも狛犬があった。なかなかしっかりとした彫りのもので、大正7年のもの。
 正面の鳥居の前には横にあったのと同じような昭和57年の狛犬があった。
 正面から出て銀河大橋の大きな通りを渡ると狭い道に入る。北向観音堂の前を通り、高林寺を左に見て大野の交差点に出る。高林寺の境内からも古代の墨書土器が大量に出土し、国司館ではなかったかといわれている。大野交差点の南の高林寺入口付近からも、ここに国府があったことを裏づけるさまざまなものが出土している。
 大野交差点を過ぎるとしばらく直線の道になるが、この延長線上に 山王A遺跡、B遺跡、溝之内遺跡、東中原E遺跡などがある。全長1キロにわたる幅9.7メートルの古代道路の跡が想定されている。
 ただ、この古代道路の遺跡は奇妙なことに途中で北西方向に曲がっている。一般的に古代東海道は平塚国府の西で南西に向きを変えて高麗山の方へ向うとされていたが、これだと金目川を遡って秦野の方へ行くことになる。東名高速が金目川を渡る付近に下大槻峯遺跡があり、そこに東西方向に伸びる幅9メートルの道路跡が発見されているから、それにつながるものと思われる。
 古代東海道は本来秦野ルートだったのか、それとも道は複数あったのか。それとも時代によって道筋が変わったのか。謎は深まるばかりだ。秦野ルートが正解だとすると、今後歩く予定を変えなくてはならない。

 やがて道は第一三共製薬の工場に突き当たり途切れてしまう。一本北の道路に出ると、西友平塚店が見える。ここが東中原E遺跡のあった所だ。
 店の横には「古代東海道 駅路跡」と書いてある案内板が立っている。そして、その下の地面に三本の茶色い線が引かれ、その間の部分が緑色に塗られている。ここにその駅路跡があった、三本の遺構があったという意味だろう。店の裏にもベンチの置いてあるスペースがあり、そこにも「古代東海道 駅路跡」の解説板があった。ここの地面にも同様、遺構の跡が描かれている。
 こうなると、これから秦野へ向かうべきなのか。ただ、そっちの方へ行ってしまうとセーブポイントにできるような駅が小田急線秦野駅まで全然ない。今日はもう無理だ。


 とりあえず西友のフードコートのラーメン八州屋で塩ラーメンを食べて一服する。そして、予定通り大磯へ向うことにした。
 第一三共の工場の裏の山崎パンの工場のあたりから、高麗山の方へ向う道がある。その道はすぐに途切れるが、大原小の横でまたつながる。平塚競技場が見え、太鼓の音や歓声が聞こえてくる。サッカーの試合をやっているのかと思ったが、今日はやってないので隣の平塚球場で高校野球の予選をやっていたのか。
 平塚市総合公園の反対側に小さなお稲荷さんがあった。小さな狛犬があったが左側の吽形だけだった。前足が欠けている。
 六本交差点を直進し、平塚江南高校の脇を行き、新豊田道で国道一号線に出る。高麗山はもう目の前だ。道を渡り春日神社に行く。
 春日神社の狛犬は天保14年銘で状態が良い。両方とも子獅子がいて玉取りがなく、しかも阿形のほうの子獅子がおっぱいを吸っているのは、近世東海道の旅の方で見慣れたものだった。
 春日神社の先の古花水橋交差点でその東海道の旧道(近世東海道)と合流する。ここから先は近世東海道だ。
 高麗山の麓には高来(たかく)神社があった。狛犬の銘は読めなかったが、大正3年のものらしい。右側が玉取りの吽形、左側が子取りの阿形とやや変則的だ。
 この先の旧東海道は結構直線的な道だった。多分古代東海道がこっちのルートだったらほとんど似たり寄ったりの所を通っていたのだろう。古代も終わりごろになると国府が大磯に移転したとも言うから、やはり古代東海道はこっちにあったのだろうか。
 大磯の駅の近くは山が迫ってきていて、通れる道は限られている。ここは古代近世並行区間といってもいいのかもしれない。
 そういうわけで午後2時35分、今日の旅は大磯駅で終了。駅前で湘南ビールを買って帰った。

7月19日

 宮崎駿監督の小冊子「熱風」7月号がいろいろ話題になっている。PDFファイルで無料配信しているので、一応読んでみた。(http://www.ghibli.jp/docs/0718kenpo.pdf)
 前半の4ページはなかなか面白く読めた。ただ、「これだけ嘘をついてきたんだから」のところからは、それまでの冷静さが全くない。堀田善衛の「歴史は前にある。未来は背中にある」という言葉の引用を借りれば、前はよく見えているが背中の方はやはり見えないみたいだ。まあ、この世代で未来が見える人というのはほとんどいないけど。
 「基本的に」言って、今の経済を否定して江戸時代の鎖国状態に戻すという発想は無理。つまり、「自分たちの食うものや着るもの、住むものは自分たちで作ろう」という時代には戻れない。終戦直後の飢餓を忘れてしまったのだろうか。国際マーケットを否定すれば国民は飢える。北朝鮮やポルポト時代のカンボジアになるだけだ。
 「人口自体は減ってもいいんです。日本の適正人口は3500万人ぐらいだと思います。」というのは言葉のごまかし。
 ×減ってもいい
 ○減ることになる。
 つまり飢餓と粛清で人口はそれくらいにならざるを得なくなる。
 「今後はアニメーションも成り立たなくなりますよ(笑)。」と言っているけど、「ジブリ以外のアニメーションは禁止され弾圧されますよw。」が正しい。市場による自由な流通が成り立たないところでは、国家の統制が容易になる。
 未来に対するビジョンが描けない。それでいて今の現状に不安を感じる。そういう老人が真っ先に思いつくのは昔に戻すことだ。
 大雑把に軍国主義の時代から今に至るまでが一つの「現状」で、そこから違う未来を思い描こうとすれば、江戸時代に戻すしかなくなる。ただ、いくらなんでも将軍様を復活させるわけにも行かないから、と思いながらもあの隣国の将軍様に近いものを導き出してしまう。
 最後の一言の「流行っていることはやるな」というのも、結局自分が既に流行を作り出す力がないことを素直に認めたのであろう。ナウシカやラピュタのようなものはもう作れないし、多くの人に影響を与えるような新たなアニメ文化を創造する力はない。それはとっくに自分でわかっていて、だから一度は息子の代に譲ろうと思ったのだろう。
 過去について発言する分には、一人の体験者としての重みを否定しない。だが、未来はやはり次の世代に任せた方がいい。

7月15日

 今日は9時に海老名駅をスタート。ビナウォークの七重塔やブラックラーメンの看板を見ながら、まず東へと向う。国分坂を登る途中のところで右に曲がり、国分小の横の道に入り、あとはひたすら南を目指す。
 このあたりで河岸段丘の回廊は終わり、東側の山が迫ってくる。
 少し行くと左側(東側)の山に大きな鳥居が見える。勝瀬八坂神社で、石段を登って行くと海老名市街が見下ろせる。狛犬はなかった。神社の前の民家の前に丸い自然石に「道祖神」の文字を刻んだ道祖神塔があった。
 このあたりからなだらかな丘が続き、道は狭く、なかなか真直ぐに進めない。さっき来た国分小の道は右に曲がって平地に降りて行ってしまう。地名は北大谷で、山の向こうは多分浜田。古代東海道の浜田駅はこのあたりにあったと思われる。
 少し行くと神明社があった。ここにも狛犬はなかった。濱天坂と書いてある碑があった。どの坂を指すのかわからなかったが、あとでネットで調べたらあの横にある6段の石段がそれで、昭和43年に井出了さんが名づけたとのこと。碑の写真は取ったが石段の写真は取ってなかった。
 このあと南へ直進できる道がなく行き止まりになり、戻って左に曲がって緩やかに山を登って行くとなだらかな稜線のようなところに出た。とはいえ、このあたりは完全に住宅地になっている。
 稜線の反対側もびっしりと住宅地になっているが、地形的にはなだらかな谷になっていて、ここが今日の「浜田町」なのだが、ここには古墳もいくつかあり古代から中世にかけてちょっとした都市があったようだ。
 ちょっと浜田の方に寄り道して降りてみると、畑のある開けたところがあった。そこにまた四角い文字型道祖神塔があった。下のほうへ降りてちょっと引き返したところに歴史公園があった。ここは上浜田中世建築遺跡群のあったところで、中世の立派な建物があったようだ。
 浜田は古代東海道だけでなく、北東に望地遺跡の道路遺構があり、この延長線上の店屋(町田市町谷)から丸子を経て下総や常陸の方へ行く道があり、南東に今の水道道路の元となった道を通って、鎌倉から横須賀を経て東京湾を渡って上総・安房へ行くルートがあり、西へは社家宇治山遺跡の道路遺構を経て、相模川を渡り、伊勢原・秦野の矢倉澤往還へつながる道があり、江戸時代になって東海道が海側に移動するまでは交通の要衝で栄えていたのだろう。
 歴史公園からふたたび稜線の方へと登り、生協や老人ホームのある稜線の道を行き、南へと向った。途中小さな神社があった。名前はわからない。
 やがて正面に高速道路の防音壁が見えてくる。東名高速の海老名サービスエリアで、まあこれが現代の浜田駅といった所か。
 サービスエリアに阻まれてなかなか南側へいけなかったが、ようやく高さ3.5メートルのガードを見つけ、東名高速をくぐった。
 そのまま真直ぐ行くとまた文字型道祖神塔があった。今回はよく道祖神に導かれる。前回もM字開脚のがあったが、今回は普通の道祖神塔だ。
 その先に豊受大神があった。725年勧請とあり、古くからこの地にある。これも古代東海道が近くにあったためか。鳥居は笠木と貫との間がやや開いた神明鳥居で、注連縄が貫のところに真横に張られていて、何か古風な感じがする。拝殿も神明造で境内には内宮社天照皇大神があり、豊受大神が外宮となっているので、完全に伊勢神宮だ。狛犬は鳥居の前に昭和8年銘のものがある。
 そこから南へ、しばらく緩やかなカーブの続く道を行く。古代の道ではないにせよ、古い道なのかもしれない。途中、玉椿地蔵があった。つぼみのまま落ちてしまうこの椿にはいろいろ悲しい物語があるようだ。
 このあと右側は斜面を下って南北に帯状に田んぼが広がっていて、左側は平らな台地となる。そのうち道は下り坂になり、不動明王等のあるところで突き当たりになる。右側へ行って田んぼを越える。
 このあたりから寒川神社のある南西の方角へ進路を変える。右側の坂を登って行くと、石造宝篋印塔と石灯籠の記念碑がある。南西へ進む道から富士ゼロックスの工場が見えるが、これもすぐ行き止まりになる。富士ゼロックスの工場を建てる時に先土器時代から江戸時代に至るまでのさまざまなものが発見されていて、本郷遺跡と呼ばれている。やはりかつての古代東海道と関係がありそうだ。
 富士ゼロックス工場には入れないので、その横を迂回する。右側の小さな道に入るところに大山道の道標があった。戸塚の柏尾の方から厚木市戸田へと抜ける道があったようだ。富士ゼロックスのもみの木門の脇に本郷遺跡の説明書きがあった。工場の先の突き当りを少し右に行き、すぐに左に曲がると、高さ1.8メートルの新幹線のガードがある。新幹線というと高いところを走っているイメージがあるが、このあたりは随分低いところを走っている。かつては周りに家がなく、このあたりは騒音の問題もなかったのだろう。このガードをくぐるとすぐに倉見神社がある。
 神社の前には提灯が並び「祝濱降祭」の横断幕があった。ただ、中はいたって静かで、一部にブルーシートが敷かれていた。この意味は後になって分かった。
 正面の鳥居の右側に境内社の浅間大社があり、そこに大正5年銘の狛犬があった。お腹や腕などにも細かく毛並みが表現されている。倉見神社の境内にも平成6年銘の狛犬があった。口を半開きにして空を見ている表情がひょうきんだ。吽形のほうも口を少し開けている。
 このあと一度右に少し行ってすぐに左に入るが、ここから先は才戸までほぼ直線の道が南西に伸びている。さっきのガードの道のほぼ直線状になる。才戸から先は若干左にずれてゆったりと曲がった道になって途切れている。地図で線を引けば、この直線の延長線がちょうど寒川神社の西側に来る。
 ともあれ、道がなくなっているので、ふたたび右に曲がり、県道を左に行く。寒川橋の手前に普通の双体道祖神塔があった。かなり古そうだ。
 寒川橋を渡り馬場の交差点を過ぎると、寒川神社の玉垣が見えてきた。遠くで太鼓の音がする。参道の方に子供神輿が見えた。
 ただ、境内に入るとやはり静かで、子供の作った神輿がいくつか展示されていた。拝殿の横には渾天儀を模ったモニュメントが飾られていた。
 狛犬は招魂社系で、平成6年銘の巨大なものだった。今まで見た中で一番大きかったかもしれない。

 さて、参道を通り、太鼓橋を渡って外に出ようとすると、向こう側から神輿が2基やってくる。先頭は巫女さんたちが「とどけ鈴の音 ガンバレ!東北」の横断幕を掲げている。次に榊が通り、やがて1基の方が神社の中には入ってきた。もう1基は倉見神社と書かれていて、神社の横の道、今まで俺が来た道の方へ行った。
 濱降祭がどういう祭りなのか全然知らなかったし、今日がその日だということも知らずにここに来たが、家に帰ってテレビを見て、それからネットで調べてやっと納得した。つまり、寒川神社だけでなく周辺の神社のみこしが早朝に一斉に湘南の海に入り、ちょうどそれが寒川神社に戻ってきた所だったというわけだ。それで、寒川神社の神輿だけでなく、さっき行った倉見神社の神輿も帰ってき


たわけだ。多分倉見神社の神輿はあのブルーシートの所でひと盛り上がりするのだろう。
 時間は12時半過ぎ。涼しい季節なら、これから平塚の国府跡まで歩きたいところだが、暑いので今日はこれで終わり。
 神社のすぐ前に酒屋があったので「寒川の薫風」という酒をお土産に買った。参道を行き、線路を越えたところに竜家というラーメン屋があったので、そこで昼食にした。神社から寒川駅までかなり遠かった。
 「寒川の薫風」は家に帰ってよく見ると地酒ではなく、奈良の北岡本店が作っているもので、調べたら寒川神社のお神酒を納めている酒造会社のようだった。

7月10日

 量子コンピューターといっても、元来文系の俺には正確なことは何一つわからない。
 だから、いつも何となくイメージとしてはこんなかな、なんていかにも文系的な捉え方をするのだが。
 やはりすぐに浮かんでくるのは岩井恭平の「消閑の挑戦者」にでてくる超飛躍(ウルトラジャンプ)のイメージで、これは「サイハテの救世主」でも引き継がれているし、「サマーウォーズ」の最後のアレもウルトラジャンプではないかと思うのだが。
 最適化問題というのは、俺のやってる運転手の仕事など、いつでも最適化問題の繰返しで、要するに目的地に着くのにどの道を通れば早く着くかだとか安く上がるかだとか、コストの割りに早く着くかどうかとか、そういうことなのだろう。
 大体運転手やる人はそんなに理詰めで物事を考える習慣がないから、要するに勘で判断するわけだが、この勘というのがなかなか馬鹿にならない。
 一般的なコンピューターは直線的に物を考えて行くから、大体において融通がきかないし、思考法が一面的でいくつものことを同時にやらせようとするとすぐにフリーズする。
 量子コンピューターも、一番になる必要があるのかどうか話題になったあのスーパーコンピューターにしても、その弱点を克服するために並列処理という方法が取られているわけだが、人間の脳も無数のニューロンの並列処理によるもので、その意味では人間の思考に近づけようというものなのだろう。
 並列処理というのは、要するに一つの問題を同時に幾通りもの方法で思考するもので、同時にあれこれ考えるから、一時的に頭の中がもやもやした状態になり、その一つ一つの計算は意識できないが、やがてそのもやもやが晴れてすっきりした時に効率の悪い計算法のものが淘汰され、一番すっきりしたものだけが残り、それが答として意識される。こうして、頭の中がごちゃごちゃしていた状態から一気にピコーンと答が閃くもんだから、どうしてその答が出たのかどこをどう計算したのか本人は何にも意識してなくて、勘だということになる。
 これを数学的に考えると、エントロピーの問題になるようだ。一つの問題をてんでばらばらに無数の仕方で処理が開始されれば、エントロピーが最大になり、脳みそは過熱し沸騰した状態になるが、やがてクールダウンしエントロピーが最小化したとき答が出るというわけだ。これを金属を精製するときの焼きなましに例えて、アニーリングと呼んでいるようだ。
 スーパーコンピューターは多分たくさんのコンピューターを並べて、それぞれに異なるプログラムで計算させ、それを戦わせて最終的に一つの答えに導くのではないかと思う。
 これに対して量子コンピューターは量子の位置が特定できないという、あのシュレーディンガーの猫を利用するのか、同時にいくつもの位置に量子が存在できるように、同時にいくつもの可能性を導き出して、それを最終的に一つの答えに収束させていくもののようなのだが、どっちにしても俺の頭の理解を超えているようだ。
 スパコンはでかくてとにかく予算を食うものなので、量コンの時代が来たらあっという間に消えてしまうのではないかなと、そこまで考えるなら仕分けしても良かったのかもしれない。
 人間の頭の中にも量子コンピューターのような過程が存在するのか、そっちの方が知りたい。意識の謎と深く関わっているように思える。

7月9日

 今日のニュースではないが今日知ったニュースで、D-Wave社の販売した量子コンピューターの量子効果が確認されたということで、量子コンピューターももはや夢の技術ではなくなった。
 D-Waveはカナダの会社だが、この量子コンピューターの原理を考案したのは日本の東工大の西森教授だという。せっかく日本人が考え出したのに、日本では商業化できず、カナダにとられてしまったということか。
 成長戦略だ何だ言ってるわりには、国内のすぐれた理論や技術を生かす企業家が日本にはいない。これは日本の教育にも問題があるのだろう。
 学校で学ぶのは賃金労働者か官僚になるための勉強で、企業家や投資家になるための勉強は全くといっていいほどしない。要するにこれは社会主義教育だ。学問でお金儲けなんてとんでもないという発想がすっかり国民全体に刷り込まれてしまっているのだろう。 iPS細胞の技術だって、それで儲けちゃいけない、あくまでも人助けのために無償で提供するために用いなくてはならないというなら、成長戦略にはならない。
 ベンチャーを育成しようと掛け声だけは繰り返されているけど、起業を卑しいことと考える風潮自体がなくならないかぎり無理なのではないかと思う。いいアイデアがあっても、海外企業に売り込むほうが現実的なのだろう。
 日本はやっぱり清貧の国でいるのがお似合いだ。

7月3日

 水城水城の「サイコメ1殺人鬼と死春期を」を昨日読み終えた。
 殺人鬼ばかりを集めた学校という設定や、人を殺すほどのドジっ子など、発想は面白いし、少年向けギャグ漫画をそのまま文章で再現したような文体といい、結構見るべきものはあるものの、結局は「人は人を殺せないようにできている」という性善説がベースになっていて、あまりダークな世界は期待できない。その分安心して読めるのがこの本の売りなのかもしれないが。
 何かに似てるなと思ったのが若杉公徳の漫画の「デトロイトメタルシティー」。

 日曜日にAl-Kamarの「Abstract Spread」と「枯れた献花台」の二枚のアルバムが届いて、毎日聞いている。「Abstract Spread」の方がいかにもブラックメタルな感じだが、エコーを聞かせた高音の響がキンキンしているところが日本の音だ。日本人の耳は高音に弱くて、どうしても高音を利かせすぎるところがあり、やや落ち着きのない音になる。
 ボーカルの初音ミクは、ララに較べて滑舌が悪く(ララは本来音声朗読ソフトだから滑舌はいいが、たぶん音楽のリズムとシンクロさせるのが難しく、それがリズム音痴たる所以なのだろう)、歌詞が聞き取りにくい。ビブラートを使ったり、歌のテクはあるようだが、個人的にはララに歌ってほしかった。
 「枯れた献花台」はあまりメタルっぽくない。混沌とした音はなかなか引き込まれるが、やはりボカロでも人間でも、いいボーカルを見つけてほしい。

 混沌が万物の母というのは、多分混沌のイメージに、何らかの形で母親の胎内で聞いていた音の記憶が関係しているのだろう。
 胎内で聞く音は、まず絶えることのない母親の心臓のリズムと、血管や臓器の立てるノイズの洪水だ。外では胎教と称してモーツアルトを流したりしていても、実際に聞こえるのはこうしたノイズミュージックだ。オルタナでもポストロックでもブラックメタルでも、ノイズの多い音楽が人の耳に心地よく響き、世界的に広まっているのは、どこかこうした胎児の記憶が関係しているのだろう。

 混沌というのは無秩序のことではない。むしろ多秩序といった方がいい。いくつもの秩序が複雑に絡み合っているため計算が困難で、予測が難しいことを言うのではないかと思う。
 「陰陽不測を神という」と「易」にもあるように、混沌は神と同義とも言える。
 現実の世界はいかに秩序だって見えてもどこかに混沌が含まれている。平和な日常もいろいろな考えや立場の人たちの衝突の繰り返しだし、街の雑踏も無秩序なのではなく、一人一人は何らかの目的があってそこを歩いている。
 物理学の世界でも、相対性理論と量子力学を整合させる統一理論がなく、その意味では物理学の世界も混沌としていると言えるのだろう。
 神道のような多神教の世界は混沌を現実としてそのまま受け入れるが、一神教的世界だと、一方で一つの秩序による完璧な世界を理念的に想定し、その一方で全く秩序のない世界を理念的に仮定し、混沌を何か恐ろしい怪物であるかのようにあつかう。「這いよる混沌」も本来のクトゥルー神話ではそういうものだったのか。
 唯一の完璧な秩序への欲求は確かに人間の理性の内に存在する。ただ、それは現実には得られない。その渇望だけが真実であり、唯一の秩序は本来幻想にすぎない。あるいはβエンドルフィンのもたらす強烈な至福の光の幻想なのか。
 古代ギリシャ人はこの渇望をダイモンに託し、神道では道祖神と習合した猿田彦に託した。それが一神教の原理を成立させる根源でもあり、同時に一神教の不可能性の理由でもある。
 この難しい神様は、さすがに「ささみさん@がんばらない」ではテーマにできなかったか。まだ8巻までしか読んでないからわからないが。

6月26日

 やはりというか、電気事業法改正案は野党によってぶっ潰された。
 まあ、この法案も既存の電力会社の既得権との間の妥協の産物で、不十分といえば不十分だが、だからといって完全な法案になるのを待っていたら、最初の一歩を踏み出すのはいつのことになるのやら。とりあえず最初の一歩を踏み出すことに意義があると思っていたのだが、各党の思惑で各党がそれぞれの法案を作って、うちが本家だといってお互いに潰しあっているうちに時間だけがどんどん過ぎていき、いつの間にか今停止している原発がみんな再稼働して、原発の安い電力があるのだから改革しなくてもいいんじゃない?になっていくだけのような気がする。
 首相の問責決議にしても、国民の60パーセント以上の支持を得ている首相の首をとったところで、拍手喝采をする人はごく一部だと思う。自民党の単独政権が長く続いてた時代には、アンチ巨人ならぬアンチ自民みたいな人がたくさんいて、自民党を叩いてくれるだけで拍手喝采をする人というのはいたかもしれないけど、今となっては昔話だ。
 もちろん問責決議には首相を退陣させるだけの法的拘束力がないし、問責の罪状にしてもほとんどの国民にはよくわからない内容だし、それで首相が簡単にやめるなんて誰も思っていない。結局首を取れないのだから、下らないパフォーマンスにすぎない。
 政治というのは大を修め中を行うもので、法案が大ではないからといって非難するのは簡単なことだ。不完全な人間が最初から完全な法律なんて作ることはできない。法律は一つの仮説であり、施行し、その効果を検証することで、改正案という新たな仮説を提起しふたたび検証しというその繰返しで進歩して行くものだ。
 まあ、どっちにしてもこれで脱原発がまた一つ遠ざかったのは確かだ。

6月23日

 今日は古代東海道の続き。
 とはいえ、野津田上の原遺跡から先は物証となるような遺跡がないので、ルートはあくまで推測でということになる。
 古代東海道の夷参駅が今日の座間ではないかと言われているので、とりあえずそこに向うのだが、もっともこれも夷参を「いさま」と読んで、強引に「ざま」と結び付けただけの説だから、実際の所どうだかはわからない。
 ただ物証としては、国分寺のあった海老名と座間との中間にある上今泉の国分尼寺北方遺跡で、南北の伸びる道路の跡が2本発見されていて、旧路面は幅約3メートル、新路面は幅7メートル以上でいずれも側溝を持っているという。古代東海道の跡ではないにせよ、座間が古くからの交通の要衝であったのは確かだろう。
 前回、野津田上の原遺跡の帰りに通った道に、地図上で定規を当てると、面白いことにそのまま座間の星谷寺のあたりに出る。上山崎入口から木曾交番前を結ぶ線のほぼ延長線上に16号の大野交番があり、そこから双葉2丁目まではほぼ直線の道がある。とりあえずここを行くことにした。
 この道は「大山道」の一つで「道者みち」と呼ばれるもので、府中から下溝の南側にあった磯部の渡しへと続く道で、いつ頃からあったのかはよくわからない。
 そういうわけで、9時25分、古淵駅をスタートする。
 まずはちょっと戻って駅からそのまま北へ向かい、鹿島神社に行く。新田義貞が建てたという言い伝えがあるが、古代まで遡れる神社ではなさそうだ。狛犬は平成4年銘で新しい。
 鹿島というと地震を起こすナマズを押さえつけているという要石がここにもあるという。どれがそれかはわからなかったが、大きな切株の横に立っている石があったが、これだろうか。大地の底深くつながっているという感じはしない。
 境内社には香取神社と稲荷神社がある。近くには大日堂もあった。
 境川橋西の交差点を突っ切ると、緩やかにカーブを描いて登って行く道がある。明治20年の地図だと、木曾交番の方から来る道が境川のところで西側に曲がっていて、この道につながっている。
 川の所は一段低くなっていて、今の古淵駅に行く道は真直ぐ坂を登って行くが、この曲がった道はやや低くなった谷間に沿って登って行く。おそらく古代の道があったとすればこの道ではなく、木曾交番の方から来て、境川の所で曲がらずに直線的に突っ切っていたのだろう。
 坂を登ると大野小の所に出る。今の道は大野小を避けて右にずれているが、昔の道はここから真直ぐ大野交番からの道につながっていた。
 大野交番の角には木もれびの森という、小さな保存された緑地がある。ここからしばらくは一本道だ。

 少しいくと道祖神塔がある。とはいってもそんなに古くない。昭和57年に岡本工務店が奉納したもので、双体道祖神の上の部分にM字開脚した女性らしきものが描かれている。M字開脚双体道祖神像とでも言うべきか。
 そこからまた少しいくと大沼神社がある。いわゆる村社で、これもそんなに古いものではなさそうだ。拝殿の周りは堀で囲まれている。
 ネットで調べたら、このあたりはその名の通り大きな沼があり、江戸中期に開墾が始まり新田集落が作られ、そこに作られた大沼弁財天が元になっているようだ。神社の裏には最近まで沼が残っていたようだ。
 狛犬はたくさんあった。鳥居の所に昭和3年銘のが一対、途中に昭和11年銘のが一対、拝殿前に昭和50年


銘のが一対。奥にある小さな境内社の前に銘はないが昭和50年前後のものと思われるものが一対。計4対あった。
 江戸中期の開墾ということは、それまではほとんど手付かずの原野だったのだろう。沼のあたりだけは葦が茂ってたりしたか。そうなると、この道路がそれ以前にあったかどうかは分からない。あったとしたら、原野の中の一本道で、古代の姿を最後まで残していたのかもしれない。
 大沼という地名はここから先も延々と続く。やはり左側に小さな社があって、中を覗くと稲荷神社だとわかる。その先には大沼の交差点があり、そこから先も東大沼、西大沼という地名が続く。
 ゲートボールをやっている広場の角に、さっき見たのと同じようなM字開脚双体道祖神像があった。
 大山道道者みちは、この先双葉1丁目で右に曲がって行く。座間に行くにはここを真直ぐ行かなくてはならないのだが、道は微妙に左にそれて行く。
 直線に行こうとするなら、双葉2丁目で右に曲がり、相模台小入口を左に行き、障害者職業能力開発校や相模原病院に行く手を阻まれながら、相模台公園前へ抜け、相模台6丁目の方へ行かなくてはならない。そこから先も真直ぐ突っ切れる道はない。相武台団地北の歩道橋を越えると、また相武台団地に行方を阻まれる。その先も相武台グリーンパークに阻まれ、こう幾つもの団地に阻まれるというのは、このあたりが宅地開発される前は何もなかったことが想定できる。
 緑台小前から、ようやく座間方向への道が現れる。スポーツセンターのあたりで道が二つに分かれているが、かつては今の道よりもやや東よりの旧道があったのだろうか。この道はすぐに途切れてしまう。
 そのさらに東よりにも南へ行く裏道がある。このあたりは小田急相武台駅の駅前だ。11時40分、ここまで2里というところか。ここまではほとんど地形に凹凸がなく、真っ平だった。
 県道51号線に出て市役所入口を右に曲がり、小田急線の踏切を越える。
 実は道者みちの延長線上だともう少し西に寄って、大坂台公園を突っ切ることになる。このあたりは小高い山になっている。おそらく古代道路があったとしたら、西側の大坂台公園や富士山公園の山を避け、座間谷戸山公園との間をピンポイントで通り抜けたのではないかと思われる。
 線路を渡り明王の住宅地はなだらかな尾根で、ここならちょうど良かったのではないかと思う。
 そこから座間谷戸山公園の伝説の丘と小田急線の線路に挟まれた狭い谷間を通り抜け、今の星谷寺のあたりに出たのではないかと思う。「ざま」は狭間(さま)ではなかったか。
 このあたりでちょっと寄り道して、座間谷戸山公園に行ってみた。
 伝説の丘は本来星谷寺の本堂があったところとされている。眺めがいい。
 里山体験館は古い民家を利用したもので休息所になっている。前には丸太に目と髭をつけた川獺(?)のような形をしたオブジェがある。
 里山体験館の裏山はシラカシ観察林になっていて、山頂には三峰神社がある。
 反対側に降りると踏切があり、渡ると星谷寺の前に出る。行基菩薩が開いたとされる古刹だ。
 案内板には花山法王も立ち寄ったとある。あの即位の時に大極殿の高座の中で馬内侍とやっちゃったという、いろいろ破天荒なエピソードの多い天皇で、忯子という女御を寵愛するあまりに病気になっても無理やり宮中に引き止めたあたりは、「源氏物語」の桐壺帝のモデルとも思われる。
 現実の花山帝は桐壺帝とちがい、忯子の死後、突然失踪し、出家する。そしてやがて戻ってきて花山法王となる。だが、果たして東国行脚は本当にあったのか、それとも伝説なのかよくわからない。
 今の星谷寺は伝説の丘にあった観音堂の別当の住居として建てられたものだといわれている。位置的には海老名国分寺、国分尼寺の真北にあり、古代東海道はここを南北に結んでいたと思われる。今の県道407号線は右左に緩やかにカーブしているが、かつては直線道路があったのだろう。
 このあたりは河岸段丘になっていて、東側は山、西側は河川敷へと降りる急斜面になっていて、県道407号線や小田急線の通るあたりがちょうど回廊のようになっている。
 おそらく星谷寺を過ぎると南に一直線の道があり、海老名の相模国分寺の七重塔が見えたのではないかと思う。幅12メートルというのは、視界を開く効果がある。細い道だと道路脇の樹木にさえぎられて、周りの景色が見えない。七重塔を作るのも、遠くからその姿がはっきりと見えることで、ランドマークにする意図があったのだろう。
 逆に北へ行く旅人は正面に星谷寺の姿が見えたのではなかったか。星というのはおそらく北極星のことだろう。それは天の中心であり、道教の天皇大帝は北極星の神様だった。北極星に向って進んでいくとやがて狭い谷間になり、そこを越えると相模原の広大な原野に出る。野津田・小野路までは原野の中の一本道が続く。野津田・小野路の山を越え、打越山を越えると目の前に多摩川の広大な河川敷が広がり、その向こうには一面のススキが原のいわゆる武蔵野が広がり、その彼方に武蔵国分寺の七重塔が見えたのではなかったか。
 途中右側に濃いピンクの鳥居と社が見えたので行ってみると内藤稲荷神社と書いてあった。裏側は急斜面となっていて横を通っていた道路も左に折れて急な下り坂となっていた。ここがやはり狭い回廊であることがわかる。
 やがて国道246の陸橋が見えてきて、くぐってすぐ踏切があり、その先の左側に弥生神社があった。長い参道の向こうに長い石段があり、その脇に紫陽花がたくさん咲いていた。狛犬は昭和57年銘で新しかった。左側はこのように山になっている。
 国分尼寺跡はそこからすぐだった。跡というだけあって、何もないところにポツリと小さな社と石祠が並んでいるだけだった。社は庚申塔を祀るものだった。寛文6年の古い庚申塔が雨ざらしにならないように社で覆われている。ただ、国分尼寺とはあまり関係なさそうだ。
 国分尼寺を出て相鉄線の踏切を越えると、すぐにだだっ広い広場が見えてくる。広場の真ん中に四角い構造物が見

える。ここが国分寺跡だ。やはり跡であってがらんとしている。子供がサッカーをして遊んでいる。時間も午後2時で今日の旅はここまで。ビナウォークで何か食って帰ろう。

 ビナウォークに来たら、なぜかこんな所に七重塔が建っていた。ビルの中に埋もれていたが、これは3分の一モデルで、本当の大きさはこんなもんではない。
 渡り廊下の所ではビナウォークのゆるキャラ、ビナセブンがいた。真っ赤な海老のキャラで金の冠をかぶっている。
 さて、食事だが、ら~めん処というラーメン屋が並んでいるところが目に入った。富山ブラックラーメンというのがまだ食ったことないので、麺屋いろはの黒味玉ラーメンを食べた。スープは真っ黒だが、濃くはない。どっちかというとあっさり味だ。醤油ラーメンにしては独特な味で、あとでわかったのだが特製の魚醤をつかっているということだった。特に魚臭さは感じない。ただ、やはりしょっぱい。スープを完食できなかった。
 おみやげに海老名の地酒、「いづみ橋」の純米原酒赤ラベルを買って帰った。


6月19日

 「サイハテの救世主」の1巻2巻を一気に読んだ。2巻はバトルシーン満載だったが、沖縄での日常ネタをもう少しやって欲しかった気もする。
 ブラジルの方では、地下鉄の10パーセント値上げを発端に、学生を中心としたデモが盛り上がっているようだ。何か日本の60年代みたいだ。
 急に経済成長すると、必ずインフレは起こるし、どうしても福祉だとかは後回しになる。そこで中二病を卒業できない学生達が正義の味方を気取ってひと暴れするのはよくあることだ。
 トルコでも中国でも、新興国はやはり熱い。
 ただ、日本のマスコミ報道は、トルコのデモをやたらオリンピックに結び付けたがるし、ブラジルのデモはワールドカップに結び付けたがるし、スウェーデンの暴動はスルーするし、一体何を考えているのやら。
 確かに左翼系のお年寄りはスポーツの熱狂に嫌悪を感じる人が多いから、そういう人たちへのリップサービスなのか。

6月16日

 今日は朝から雨で、家でゆっくりとすごした。
 岩井恭平の「サイハテの救世主」を読み始めた。やはり岩井さんは天才だ。ムシウタや消閑のような派手なバトルシーンはなくても、会話だけでも盛り上げられる。そのうちバトルシーンも出てくるのかな。
 俺も存在論の論文でも書こうかな。
 昨日何となく思いついたこと。何かいつも堂々巡りの議論になってしまうが。

 絶対的な真実は、今自分がここにいることで、それ以上でも以下でもない。
 しかし、この「以上でも以下でもない」というとき、何がその「以上」なのか、何がその「以下」なのか、どのようにして知ることができるのだろうか。
 「今自分がここにいる」─それは一つの仮説だ。そしてこの仮説はいつでも検証できる。自分がここにいないなら、どうしてこういう仮説を提起できるのだろうか。なるほど、自分が実はここにいないという仮説を立てることもできる。だかしそう仮定している自分はいないのだろうか?
 実は「自分はいない」と仮定することはできる。そして、自分もなければ、目の前にあるものも実は何もない、一切「何もない」と仮定することもできる。しかし、仮定そのものは存在する。
 つまり、「存在とは仮説である」。
 あるものもないものも仮定できる。パルメニデスの「あるはある」という仮説も可能なら、ゴルギアスの「何もない」という仮説も可能である。存在とは仮説である。
 そして、その仮説が真実か否かは検証によらなくてはならない。
 存在は真の存在も偽の存在も可能である。
 存在の真偽は検証によらなくてはならない。
 しかし、検証とは何か?それは仮説として存在しているものを何かに照らし合わせる作業なのだが、その「何か」は何か?
 照らし合わせることができるのは、それが「同時に存在している」ものでなければならない。
 仮説として存在しているものを思い浮かべる瞬間と、それを照らし合わせる対象の認識が別の時間に属するなら、それは同時に存在しない。
 検証とは「同時」を存在させることである。物理学的には存在しないといわれている「同時」を、我々は意識において「存在させている」。そして、この同時存在によって、単なる仮説と真の存在との二つが生じる。
 仮説が同時に対象の存在と一致した時、それは真実となる。
 そうなると、絶対的な真実はただ一つ、それは仮説を立てるということと仮説を立てているということとの一致、つまり仮説を立てているもの存在のみということになる。

 デカルトの「コギト・スム(我思う、我有り)が方法的懐疑においても疑い得ない真理として認識されたのは、それが「仮説を立てる」ということ自体の自己検証だからである。つまり、それが真実なのは仮説を立てることができ、それを検証できる間だけなのである。それは「同時」を存在させていること、仮説を立てるという行為とその仮説を立てていること自体の認識とを同時に行なっているからなのである。
 カントがデカルト的なコギトを反省の対象となる自己と区別して先験的主観としたのは、反省の対象となる過去の自己と区別するためだった。反省の主体と反省の対象との「同時」がないなら、それは絶対的な真理とはならない。過去の自分の記憶は十分に疑うに足る。
 ハイデッガーが存在を「現在」と考えたのも、存在を問うものと問われている存在とが別の時制であることができなかったからだ。

 科学的真実は、未来に対して仮説を提起し、それが現在となった時点で検証される。それが現在とならないなら、仮設は検証できなかったことになる。
 しかし、一つの仮説は、あるときは検証され、あるときは検証されなかったりする。99回検証されたものでも100回目も検証されるという保証はない。そこに帰納法の限界がある。
 自分がここにいるという真実はおそらく生きている限り検証され続けるであろう。そして死んだ時、あるいは単に意識を失った時、もはやその仮説を提起することもないなら、少なくとも仮説が検証されないということはない。
 それゆえ、絶対的な真実は、今自分がここにいることで、それ以上でも以下でもない。

 目の前にあるものの真理も同様に考えることができる。今目の前にパソコンの画面がある。これを疑うこともできる。「目の前には何もない」という仮説を立てることも可能である。でも眼を開ければそこにパソコン画面が見えてしまう。それによって仮設は否定される。それを何度もくり返すことで、目の前にあるパソコンは揺るぎない真実となる。
 目を閉じて、目の前のパソコンが消えているかもしれないという仮説を立てる。そして目を開けてその仮設が否定されるなら、目の前にパソコンは「ある」。
 一日経って、二日経って、そこにパソコンがあるということが繰返し確認されるなら、それはより揺るぎない真実となる。
 そうしてある日パソコンがなくなってたとしても、誰かが持ち去ったか位置を変えたか、それとも自分で動かしたか、何らかの説明が可能であり、パソコンそのものが突然消滅したのではないという確信が得られるなら、パソコンがまだ存在していることになる。
 それが破壊されたり、廃棄されたりした場合でも、それが存在しなくなったことに何らかの説明が可能である限り、それは「存在していた」のであり、「もはや存在しなくなった」と考えることができる。
 そして、我々の世界が、突然あるものが消滅したり、忽然として出現したりすることがなく、何らかの理由があって存在するものが存在しなくなったり、存在しなかったものが存在するようになったと説明できる限り、我々の目の前にある世界は確実で絶対的な存在として認識される。

6月10日

 昨日の2ちゃんで知ったのだが、神戸製鋼グループの神鋼環境ソリューションというところが筑波大学との共同研究で、従来のユーグレナの2倍以上の油脂成分を持つユーグレナの培養に成功したという。
 有機物を含んだ排水の中で培養できるため、排水の浄化と燃料の生産を同時に行なえる可能性がある。また、栄養価の高さからサプリメントへの進出も視野に入れているようで、株式会社ユーグレナの強力なライバルになる可能性もあり、なかなか面白い。こういうのが出てくると、日本もまだ捨てたもんではない。
 今日のニュースだと、ロボット兵士のことが取り上げられたいた。アメリカ 、イスラエル、イギリスなどで既に開発中のようだが、二足歩行ロボットの技術なら日本が本気になれば世界のトップに立てるかもしれない。
 将来の戦争が無人ロボット同士の闘いになれば、死者も出ないし、一種の実物大のシミュレーションゲームのようなもので、そうなればロボットを製作する技術だけでなく、その操縦技術や戦略脳も重要になる。戦争になるとゲームオタクが自衛隊に駆り出されるようになるのか。昨日までのネトゲ廃人がいきなり救国の英雄になったりして。
 安倍さんは国民総所得(GNI)のアップを年収のアップと勘違いしていたようで、やっぱり官僚の原稿を読んでいただけだったか。だからといって政治家が自分の考えで喋れば橋下さんになってしまうし。どっちにしてももう少し勉強してよね。

6月9日

 今日は妙楽寺の紫陽花を見に行った。
 車を等覚院の近くのパーキングに停めてそこから歩いた。
 つつじの季節はとっくに終った等覚院は静かだったが、来る人が全くいないわけではなかった。ここから妙楽寺までは散歩コースとして定着しているのだろう。
 三毛猫がいて、来ていた人がベンガルという名前だと教えてくれた。お寺の近所の家で飼われている猫で、いつもこのお寺に遊びに来ているという。ベンガルという種類ではなく、あくまでベンガルという名前の普通の三毛猫。
 「神木山報」という一枚の紙に印刷された会報が置いてあった(これは等覚院のホームページでも読むことができる)。どうもここの住職は猫嫌いのようだ。4月頃から鶯の声が聞こえなくなったのを、
 「現場を目撃した訳ではありません。でも確信があります。特にベンガルの知らんぷりの表情が、犯行を物語っています。」
と一方的にベンガルが犯人と決め付けて、
 「希少なウグイスも、ベンガルにとっては『猫に小判』だったわけです。」
などと書いている。
 実際、ここから妙楽寺へ行く間に何度もウグイスの声を聞いたし、ウグイスが減少しているとしても、それが人間のせいなのは言うまでもない。
 ベンガルはすずちゃんと同じくらいの小柄な猫で、人懐っこく寄ってきてはごろごろ言っていた。

 蝶を噛んで小猫を舐ぶる心かな    其角

という句もあるように、生き物は生きるためには食べる。人も猫もウグイスも同じ。こうして陽だまりでのんびりと寝そべるのも一瞬の夢で、いつかすべて永遠の無に帰すのなら、今のこの一瞬を奇跡として喜ぶしかない。生命の不平等は、ただその有限なわずかな時間が永遠の無の中に包まれた時のみ平等となる。
 等覚院をあとにし、妙楽寺へと向う。途中五所塚という円い小さな塚が五つある公園があった。それぞれの塚はフェンスで囲まれて、子供が遊ぶことを拒んでいた。
 五所塚のあたりから、道の脇に紫陽花が植えられている。この紫陽花の参道は妙楽寺から下へ降りた川沿いの道に出るあたりまで続く。
 そして、妙楽寺に着く。庭はいろいろな種類の紫陽花で埋め尽くされている。2010年にも来たことがあったが、そのときと同じくらいで、満開とまでは行かないが、まずまずの咲き具合だった。
 前に来た時には気付かなかったが、隅っこに水琴窟(すいきんくつ)というのがあった。溜まっている水を柄杓ですくい、排水口の所にこぼすと奇麗な音がする。土の中に甕が埋めてあって、その中を音が反響するらしい。
 帰りは元来た道を戻った。

 紫陽花の青は地球の姿かな

6月6日

 テレビで池上さんは、まだこれから政権交替があるかのようなことを行っていたが、今の状態で一体どこの党が政権を取れるというのだろうか。
 既にイデオロギーの終焉が言われてから久しく、今さら社会主義政党が台頭することはないだろう。今、保守革新といえば、既得権派とベンチャー派があるだけで、資本主義が最も効率のいい生産様式であることは疑いようもないことだ。資本主義を否定すれば飢餓と粛清の嵐が待っているだけだ。
 既得権派かベンチャー派かということになると、かつての自民党は既得権派で、それに対して民主党の一部や松下政経塾系の無所属がベンチャー派という色分けがあったかもしれない。しかし、今の自民党はその両方を兼ねている。そのため、いわゆる第三極が自民党と差別化しにくくなってしまった。
 自民党の成長戦略はそんなに悪いものではない。電力の自由化や発送電の分離なども唄っている。ただ、やはり既得権派にも配慮した形で中途半端なのが市場の不満を招き、株価を下げる結果となったのだろう。
 今の自民党に対抗するには、もっと徹底した既得権排除とベンチャーの育成へ向けた規制緩和を打ち出す必要があるだろう。TPP推進は言うまでもない。エネルギー政策面でも実行力のある脱原発を打ち出す必要があるだろう。
 社会主義の復活がなぜないかというと、それはマルクスの提起した問題がもはや解決済みだからだ。
 マルクスが資本主義の拡大再生産そのものを決して否定はしてなかった。むしろ生産性の向上によって飢餓を克服し、理想の時代を作り、歴史を終結させる条件でもあった。マルクスにとって問題だったのは、ただその資本主義の拡大再生産がもたらす恩恵から、労働者が仲間はずれにされていた(疎外されていた)という点だけだった。
 戦後の世界的な高度成長の中で、労働者の飢餓と隣り合わせの貧困は解決された。労働者は資本主義の仲間に加わったのだ。
 たとえば銀行に預金するという行為は、銀行に資金を貸し付けることであり、その資金を銀行が企業に貸し付け、資本の一部になっている。つまり、銀行に預金のある労働者は既に同時に資本家なのである。今の労働者は決して仲間はずれではない(疎外されていない)。
 今の時代は労働者であっても、自ら会社を興そうと思えばそのチャンスはいくらでもある。ただ、ほとんどの労働者はリスクを背負う勇気がないために、安いながらも安定した給与に満足しているだけのことだ。つまり、自ら労働者になることを選んでいるにすぎない。
 ベンチャー企業に対するセーフティーネットを整備し、リスクを軽減できればもっと多くのベンチャー事業が育ち、その中から次の時代の基幹産業が生まれ、次の消費革命を起こす原動力になるかもしれない。その意味で、徹底したベンチャー派の政党があれば、今の自民党に十分対抗できるのではないかと思う。

6月4日

 ワールドカップ予選は今日は仕事が遅くなって車でラジオを聴いていた。
 印象としては、前半は結構ガチで戦ってたが、後半は両者とも引き分け狙いになって引き気味の試合が続いたが、最後の方になって日本が勝ちに出て3バックに変えたところを、待ってましたとばかりにオーストラリアにやられたように聞こえた。
 ここでこのまま負けていたら、日本は作戦負けというか、駆け引きに破れたというところだったのだろう。本田がよくやってくれた。
 名選手がえてして大事な試合に限ってPKをはずすのは、おそらく自分は名選手だから一番得意なシュートをやると当然相手も読んでると思い、そこに躊躇が生じて、あらぬ方向に蹴ってしまうのではないかと思う。ど真ん中に蹴るというのは一種のフェイントだが、本田は勝負強い。きっとじゃんけんも強いのではないかと思う。
 弟(?)のネイマールもバルセロナ移籍が決まったようだしって、あまり関係ないか。

6月2日

 今日は「街道を行く、東海道編」の番外編で、古代東海道編。
 10時ちょい前に分倍河原をスタートする。
 分倍河原というのは響からしておどろおどろしく、子供の頃は馬喰町と並んで、何か恐いものがあると思っていた。
 駅を降りると新田義貞の騎馬像がある。この辺の歴史はよくわからないが、分倍河原の合戦というのがあったらしく、古くからある地名のようだ。
 古代東海道はこの駅の真下を通っていたという。北へ行くと武蔵国国府(府中)の西を通り、国分寺を経て、上野国の太田まで行く。途中東へ分岐する道もあって、さきたま古墳の方にも通じている。そっちの方もいつか行ってみよう。
 今日はここから南へ向う。
 中央高速をくぐる手前に小さな大六天神社がある。この先、高速をくぐってすぐのところに、右側に行くと下河原通りに入る。関戸の方へ抜ける古い道のようだが、別にこれが古代東海道というわけではない。古代道路は幅12メートルの直線道路で、その面影を残す所は極めて稀で、下河原通りのような緩やかに曲線を描く細い道は、古くてもせいぜい江戸時代くらいだろう。
 途中、新田川緑道に菖蒲の花が咲いていた。菖蒲は昔から尚武に通じるというので、新田義貞を面影に、

 いざしょうぶって花に罪があるじゃなく

 残念ながら、この道は南町交番の所で突き当たり、途切れている。
 交番の手前に八幡神社があった。狛犬は平成9年銘だが、ずんぐりとした風貌は昭和の量産型とは違うオリジナリティーを感じさせる。
 関戸橋のあたりは昔から「中河原渡し」という渡し舟の通る場所で、古代東海道もここで川を渡ったらしい。対岸に連光寺のゴルフ場が見える。右側にも特徴のある山が有り、こちらは「耳をすませば」の聖地だ。今日は行かないけど。
 関戸橋を渡ると川崎街道を左に曲がり、坂道を登って行く。まず目指すのは打越山遺跡。古代道路の跡が発見されている。
 向ノ岡交差点の手前の歩道橋を渡ると、明治天皇が明治14年に兎狩りに来た際に立ち寄ったという向ノ岡御野立所碑と御駒桜碑がある。
 すぐ近くには昭和15年に建立された小野小町の歌碑もある。父を尋ねて陸奥へ行った時にここで詠んだ歌らしい。

 武蔵野の向の岡の草なれば
     根を尋ねても哀れとぞ思う
                   小野小町

 近くに公園があって、その入口付近に馬頭観音塔と庚申塔があった。
 向ノ岡交差点の方から来るバス通りに出て少し行くと右側に春日神社がある。狛犬は昭和9年銘。境内には二本の大欅がある。その説明によると、この春日神社は1181年頃の建立だという。
 春日神社のあたりから左側に入り登って行くと途中にまた庚申塔がある。地形的にはなだらかな稜線といってもいいのだろう。やがて左に多摩中央病院があり、右に細長い大きなマンションが見えてくる。ここが打越山遺跡だったのだが、その跡を示すものは何もない。ネットで事前に調べてなければ、ここに何があったかもわからないところだ。
 この稜線の道は聖ヶ丘第一、第二次道公園を経て、聖ヶ丘遊歩道へと続いてゆく。ここがかつての東海道だったわけではないにせよ、当らずとも遠からずの道なのだろう。散歩するにはちょうど良い。
 ただ、この道だと若干東にずれるのかもしれない。本来は右側の谷に下りて行き馬引沢を通ってたのかもしれない。いずれにせよ遺跡があるわけでもなく、はっきりはしない。
 聖ヶ丘遊歩道は聖ヶ丘小学校の横を通り、馬引沢南公園から陸上競技場のほうへ行く。本当はここを突っ切った方が良かったのかもしれないが、すぐそばに尾根幹(南多摩尾根幹線道路)が見えたので、多摩東公園の交差点を渡り、このあたりから「よこやまのみち」に入った。
 よこやまのみちは尾根幹に沿って多摩ニュータウンの南部を東西に横断する道で、古くからあった道らしい。歴史散歩コースとして整備されている。といっても、鎌倉時代や南北朝時代に疎い俺としては何の感慨もないが。
 実際、隣に尾根幹が走っているので、時折鶯は鳴いているものの決して静かとはいえない。ちなみに尾根幹は一見広そうだが、中央分離帯が広いだけの一車線ずつの道なので、速度の遅い車にブロックされると結構いらいらする道だ。
 道は狭く、アップダウンが多く、左右も急な斜面になっているため、多分古代東海道は別の所を通っていたのではないかと思う。
 古代は人口が希薄でまだ至る所一面の原野が広がっていたため、道路は最短コースを一直線に通した方が工事も楽で効率も良かったのだろう。それがだんだん人口が増え、平野部の至る所で農地開発が進むと、農地にできるところを太い道路で潰すのはもったいないということで、次第に道路は山あいの斜面に移動し、険しい谷や尾根なども盛んに利用されるようになっていったのだと思う。
 こうして、狭くて坂の多い曲がりくねった道が日本の原風景として定着していったのだと思う。「蔦の細道」や「奥の細道」はそうした原風景を風情のある古道として日本人の心に深く刻んでいった。そして、それが一変するのは戦後の工業化とモータリゼーションで、道路は田畑を潰してふたたび平野を一直線に貫くようになった。
 「よこやまのみち」はまさにそういった道だ。途中に防人見返りの峠、並列する謎の古街道跡、古道五差路などがあるが、やはりこれは鎌倉時代以降の道だろう。
 国士舘のグランドの間を通りぬけるとその古道五差路があるが、どの道も狭い。ここから小野路の方へ降りる道はふじみ墓苑のところで切り立った谷になっていて、東光寺の千手観音像が見下ろせる。こんな所に古代道路はなかっただろう。
 その東側に行くとなだらかな斜面に畑が広がっていて、こういうところならあるいは古代道路があったかもしれない。ただ、こっちへ行くと黒川の方へ降りてってしまう。やはり古代東海道は、西側の今の鎌倉街道の太い道が通っているあたりだったのか。
 東光寺の横を降りて行くと、その今の鎌倉街道に出る。これを下っていくと小野路に出る。

 小野路の交差点を右にずっと行くと、やがて道が細くなり旧小野路宿に出る。今回はそこまで行かず、曲がってすぐ左に曲がり野津田公園へと登って行く道に入る。その野津田公園内に野津田上の原遺跡があり、ここでも幅12メートルの道路の跡が発見されている。ここが古代東海道の最有力候補地で、そこまで登って広くて緩やかな谷間も古代東海道の跡だと思われる。
 公園といっても芝の生えてない土のサッカー場があるだけで、その先は立ち入り禁止の原っぱになっている。そのさらに先に行くと畑になっている。その先は山の反対側の斜面になり、このあたりは農村伝道神学校の敷地になり立ち入り禁止になっている。とはいえ、廃墟のような建物しか見えなかったが。


 左側の神奈中バスの車庫の方に下って行く坂道は、七国山を越えて行く旧鎌倉街道なのだろう。右側に小さな窪みがある。川が流れていないから人工的に作られた道路の跡なのだろうけど、古代東海道の跡にしては細すぎる。
 野津田公園は奥にもバラ園とかあるようだったが、今日は長く歩いてきたのと、これからまた古淵まで結構距離があるし、とりあえず上の原遺跡を見たということで今日の目的は達成したので、ここで今日の旅を終わりにして帰ることにした。
 野津田上の原遺跡の延長線上には芝浦街道があり、途中で山崎の方へ曲がり、木曾東を通って古淵駅に出た。久しぶりになかなかいい運動になった。

5月28日

 『鎌倉街道伝説』(宮田太郎、2001、ネット武蔵野)が届いた。
 野津田上ノ原遺跡で見つかった古代東海道の跡ではないかとされるものについて、想像してたよりも東西方向に傾いていた。これだと丘陵地帯ではさすがに一直線の道路は作れず、ある程度ジグザグに進んだことが想像できる。
 これを明治20年の地図に重ねるとこうなる。


5月26日

 古代の駅路を歩いてみたいなと思っていろいろ調べてみてるのだが、結局諸説あってルートが定まらない。
 武蔵国、府中のあたりは遺跡も多く、府中から所沢くらいまでのルートはわりとはっきりしている。
 ただ、残念なことに住んでいるところに近い相模国や多摩川より南の武蔵国のルートはさっぱりだ。
 まず、相模国は国府の位置からして諸説あってはっきりしない。一応平塚説が有力で、平塚から寒川神社のあたりを通って海老名国分寺のあたりを通り、古淵、野津田、小野路を通って関戸へ抜けるというのが有力なようだが、一方では海老名に国府があったとし、秦野、伊勢原から座間に抜けるという説もある。中には座間や伊勢原に国府を仮定する人もいる。国府の遺跡が発見されてなく、今のところ決定的な証拠はないから、結構推測で何とでも言える邪馬台国状態にある。
 まあ、歴史というのは実際にその時代に行って、見て確かめるというわけに行かないから、様々な文献資料や考古学的資料を照らし合わせながら推測して、妥当なものを探していくしかない。
 よく歴史認識の問題で「こんなものはちょっと調べればわかることだ」などという人がいるが、こういうことを言う人は絶対に信用しては駄目だ。
 「ちょっと調べる」というのはどういうことなのか。ググって最初に出てくる項目を読むということなのか、それとも書店に行って任意に選び出した(帯に書いてあるコピーに惹かれて)一冊を読むということなのか。
 自然科学の真理なら一応教科書に書いてあるようなことを読めば、そんなに間違ってはいない。しかし歴史となると、教科書の記述も国によって違っている。
 歴史は検証不能なため、自然科学の真理と同等に扱うことはできない。「ちょっと調べる」どころか、ありとあらゆる史料をかき集めて検討しても「本当のところはわからない」というのが歴史だ。それがわからない人の意見は聞くに値しない。
 昔から言う。「講釈師見て来た様な嘘を言い」。

 今日は結局出かけなかった。
 ストックホルムの暴動はまだ続いているのか。もう1週間近くなる。テレビではやっていないが、日本の右翼を刺激してはいけないだとか、日本が手本にすべき国だからとか、いろいろ大人の事情があるんだろうな。
 大人の事情といえば、三浦さんが下山の途中で体調を崩してヘリコプターでC2からベースキャンプまで下りたことにも触れないようにしているのか。マスコミというのはいろいろ配慮することが多くて大変だ。
 登頂には成功したが下山には失敗ということで、記録の方はどうなるのかな。年寄りの冷や水というか、まああまり無理はして欲しくないね。ネパールのシェルパの人も空気を読んで、80過ぎたら山頂には立たないようにして欲しいな。
 記録が破られたら、ああいう爺さんって必ずまた登ると言い出すからな。本当に死ぬまで登っちゃったら洒落にならない。

5月22日

 敦賀原発は2号機ばかりが話題になっているが、1号機は1970年稼働で既に40年以上経過していて、民主党政権下では耐用年数を40年としたものの例外扱いされて廃炉にはならなかった。
 現実的に廃炉となると莫大な費用がかかり、それを誰が負担するのかというと誰も負担はしたくないのは当然で、再稼働せずに放置しておいても、その間のメンテナンスなどでやはり莫大な費用がかかるとなると、再稼働は必然ということになる。
 おそらく参議院戦で自民党が圧勝するのは確実だし、それで再稼働への民意を得られたと判断される可能性は高い。
 要するに、基本的に壊れて二度と使えない状態になるまで、廃炉の決定がなされる可能性はないのではないかと思う。つまり原発は大事故を起こすまで稼働し続ける。
 敦賀原発の一号機でも二号機でも、どちらかの廃炉が最終的に決定されるなら、他の原発の廃炉の可能性も出てくる。だが、この二つで躊躇し、いつまでも結論を先送りしているうちは脱原発に関しては絶望的だし、どの段階になったら廃炉にするという明確な前例が作れないなら、日本の原発はすべて大事故を起こすまで稼働を続ける。
 ひとたび多くの原発が再稼働したなら、電力は余る。ほとんどの原発が止まっている今の段階でもいまだ深刻な電力不足は起こってないのだから当然だ。そうなると、電力会社は再生可能エネルギーによって作られた電力の買取を拒否し、その方面の投資はすべて無駄になる可能性が高い。今盛り上がっている再生可能エネルギーへの盛んな投資への機運も、一気に沈み込むにちがいない。
 電力の自由化や発電と送電の分離などは脱原発の前提として不可欠なのだが、民主党はこれをためらったし、自民党が法案を提出するにしても可決する可能性は低い。民主党が反対しているからだ。民主党は電力労組に遠慮している。だから、電量労組の顔を立てたまま脱原発ということになると、火力発電所の大増設しかなかった。参院選圧勝後の自民党ならできるかもしれないが、問題は政策の優先順位でどの程度かだ。それに加え、脱原発派の関心の低さも問題だ。
 社会主義者はえてして「自由化」という言葉に拒絶反応を示すものだ。脱原発=脱資本主義という発想からなかなか抜け出そうとしない。脱原発を反TPP・反増税といつまでも抱き合わせ商法のようにセットにしているうちは、参議院選挙での惨敗は見えている。
 脱原発の掛け声掛けるだけなら簡単だし、祈るだけなら誰だってできる。急ブレーキをかければ多くの乗客が転倒し、大怪我をするし死者が出るかもしれない。しかし、目の前の橋がなくなっているのに急ブレーキをためらえば、汽車はそのまま谷底に落ちて行く。
 二度目のメルトダウンで目が醒めなかったなら、日本は本当に一億玉砕の道を行くことになるが、さすがにそこまで馬鹿ではないという前提で、昨日のあの2050年の設定になる。

5月21日

 暇つぶしに近未来物の設定を考えてみた。

 2050年。
 地球規模で起きた急速な少子化によって世界の人口はついに減少に転じる。
 それとともに世界のほとんどの国で工業化が進み、もはや発展途上国はこの世界のはるか片隅に残るだけになった。
 多くの国では高齢化が深刻な問題になり、福祉や医療は地球規模での巨大産業になっている。特にインドネシアなどは、かつて日本で学んだ技術に独自な改良を加え、介護の分野では世界を席巻するほどにまで成長している。
 エネルギー分野では2020年代に途上国を中心に原発ルネッサンスが起きたものの、日本の老朽化した敦賀原発が些細な人為ミスによる事故でメルトダウンを起こし、以降再生可能エネルギーが主流となっている。技術的には中国が一番進んでいるものの、安価なアフリカ製品も出回り、この分野で日本は蚊帳の外に置かれている。
 フィンランドを始めとする自然エネルギーに乏しい国では、インド製の液体トリウム原発が活躍している。
 自動車は電気自動車とマグネシウム燃料電池車がしのぎを削り、マグネシウム燃料はもっぱら中東から供給され、今や石油を抜いて最大の輸出品目となっている。
 日本は半世紀に渡る慢性的なデフレの中で、一般家庭の年収は200万円程度となるが、依然として東南アジアの平均的なレベルをキープしている。一度は多額の国債で財政破綻を起こしたものの、IMFの指導を受け入れることで何とか復活を遂げている。
 財政破綻してた頃には、お年玉が50円しかもらえない子供もいたという。だがついにドラえもんは登場せず、過去の改変はできなかった。
 TPPや中国韓国を中心としたアジア自由貿易協定を拒否した日本は、20世紀の生活様式を色濃く残す国として世界からたくさんの観光客が訪れる。
 電柱が建ち並び、縦横無尽に張り巡らされた電線や、狭い路地にひしめく車、たくさんの張り紙や、集団登校する児童はランドセルを背負い、中には紙の教科書がぎっしり詰まっている。街にはアイドルの音楽が流れているが、その多くはミャンマー人やラオス人だったりする。こうした風景は既に世界から失われつつあり、郷愁を誘うものになっている。
 そういう日本の主力産業は、もっぱら手作りの工芸品で、職人は今やもっとも人気のある職業となっている。次に人気なのは漫画・アニメなどのエンタメ関係で、大衆向けの作品では韓国やタイに既にお株を奪われてしまったものの、マニアックな作品に対する評価は衰えていない。日本のエンタメはネットを通じて世界で大人気なのだが、残念ながらそのほとんどは無料公開で、あまり経済には貢献していない。
 気になる日本の国土はというと、北方領土はやはり帰っては来なかった。それどころか、沖縄県は中国の琉球人自治区となり、東シナ海の天然資源は残念ながら中国のものとなっている。対馬も今や韓国の一部になっていて、韓国資本による一大リゾート地に変貌している。
 北朝鮮は2020年代に崩壊して、拉致被害者の一部は当時まだ高齢ながらも何人か存命で、その帰国は大きなニュースとなった。だが、その後北朝鮮は中国と韓国に分断され、しばしば銃撃戦が起るなど緊張が続いている。
 日本は2010年代後半に憲法を改正し、正式な国軍を持っているが、経済力と技術力の低下により、装備が時代遅れなのは否めない。その中で密かに無人二足歩行ロボットを軍事利用しようという、モビールドール計画が進められている。最初はガンダムを作ろうとしたのだが、戦闘の際に乗務員に加わる衝撃を緩和する方法が思いつかないまま放棄された。
 総じて2050年の日本は平和だった。そして、国民の大半は今のこの生活がこれからもずっと続くことを望んでいた。

5月20日

 花散里巻クリアー!
 これは短かった。ひょっとして一番短い巻なのか。

5月19日

 今日はまず、すずちゃんのワクチン接種に行った。気配を察知したか、連れて行く時間になるといつの間にか姿を消している。一年に一度なのにちゃんと覚えている。
 そのあと生田緑地ばら苑に行った。今年はバラの開花が早く、既に満開状態だと聞いたので今のうちに行くことにした。
 前に行ったのが震災直後の6月5日で、あの年は寒かったから6月でも十分だった。あれ以来行ってなかったが、藤子・F・不二雄ミュージアムができたり、いろいろ宣伝も行き届いてきて混んでいるらしく、ブログをチェックしても昨日も随分人が来てたようなので、車を使わず、宿河原駅から歩いた。
 確かにばら苑は今迄で一番混んでいた。花の方もほとんど全部の木が咲きそろっていた。
 ばら苑を見たあと、生田緑地のプラネタリウムに行った。着いたのが1時頃だったが、3時の回のチケットがまだあった。銀河系の姿を解説するのに、昔だったらスライドを上映する所だが、それがCGを使って地球の星空から銀河を遠くから見渡す視点まで連続変化させるなど、さすがに技術は進歩していた。
 帰りは府中街道に出て梶ヶ谷行きのバスで帰った。梶ヶ谷に着いた頃から雨がぽつぽつ落ちてきた。

5月17日

 70年代くらいまでは戦争体験者がそこらじゅうにいたし、若い者が下手に戦争のことを言っても、戦争に行ったこともない癖にといわれるのが落ちだった。その頃、南京虐殺や従軍慰安婦について、右翼も左翼もそんなに事実認識では変わりなかったし、韓国や中国やアメリカともそんなに隔たりはなかったと思う。
 80年代後半くらいになると、戦争体験者のほとんどは退職するなり退官するなりして、戦争を知らない世代が世間でも学会でも主流になってくると、認識も大きく変わってきた。平和で豊かな日本で育った世代には、まず人と人とが殺しあうこと自体、絵空事というか漫画やアニメの中の出来事になったのではないかと思う。
 「つくる会」が教科書を改変し始めるのは90年代に入ってからだった。その頃にはその間違いを正せる戦争体験者もごく少数になっていた。
 日本人が多くの人を殺したことも、従軍慰安婦のことも、いくら話を聞かされても俄かには信じられないし、「頼むから嘘だといってくれ」というのが本音だろう。だから「嘘」だの「でっちあげ」だのいう人がいれば、喜んで飛びつく。
 橋下さんも、おそらく今の日本の風俗産業のレベルで従軍慰安婦を考えてたのではないか。戦場にいきなりネオンの灯る遊戯施設が登場し、奇麗な格好のお姉さんが「いらっしゃーい」と愛想を振りまいているような‥‥。
 日本のポルノには時折「肉便器」というのが登場するが、これは海外のポルノでは見たことはない。従軍慰安婦は「性奴隷」というほどいいものではない。むしろ肉便器ネタこそが従軍慰安婦のオマージュなのではないかと思う。

 橋下さんも橋下さんだが、北朝鮮の罠に簡単にはまる安倍首相も安倍首相だ。拉致問題を餌にすれば一枚岩的な包囲網も切り崩せ、仲間割れしてくれるとでも思ったのだろうな。それにぱくっと食いつくほうも食いつくほうだ。
 自民党の成長戦略も相変わらず高度成長の夢よもう一度で、古きよき時代のノスタルジーをくり返すだけ。昨日までそうだったような日常がこれからもずっと続いてくれればいいなという感覚では、どこがどう成長するというのか。ただ失われた20年が30年、40年と続くだけだ。
 それでも、民主党はとっくに歴史的役割を終えているし、維新の会も勝手にこけたから、参院選は圧勝だろうな。