「雪の松」の巻、解説

元禄六年、江戸にて興行

初表

 雪の松おれ口みれば尚寒し    杉風

   日の出るまへの赤き冬空   孤屋

 下肴を一舟浜に打明て      芭蕉

   あいだとぎるる大名の供   子珊

 身にあたる風もふハふハ薄月夜  桃隣

   粟をかられてひろき畠地   利牛

 

初裏

 熊谷の堤きれたる秋の水     岱水

   箱こしらえて鰹節売る    野坡

 二三畳寝所もらふ門の脇     子珊

   馬の荷物のさはる干もの   沾圃

 竹の皮雪踏に替へる夏の来て   石菊

   稲に子のさす雨のばらばら  杉風

 手前者の一人もみえぬ浦の秋   野坡

   めつたに風のはやる盆過   利合

 宵々の月をかこちて旅大工    依々

   背中へのぼる児をかハゆがる 桃隣

 茶むしろのきハづく上に花ちりて 子珊

   川からすぐに小鮎いらする  石菊

 

 

二表

 朝曇はれて気味よき雉子の声   杉風

   背戸へ廻れば山へ行みち   岱水

 物思ひただ鬱々と親がかり    孤屋

   取集めてハおほき精進日   曾良

 餅米を搗て俵へはかりこみ    桃隣

   わざわざわせて薬代の礼   依々

 雪舟でなくバと自慢こきちらし  沾圃

   となりへ行て火をとりて来る 子珊

 又けさも仏の食で埒を明     利牛

   損ばかりして賢こがほ也   杉風

 大坂の人にすれたる冬の月    利合

   酒をとまれば祖母の気に入  野坡

 

二裏

 すすけぬる御前の箔のはげかかり 子珊

   次の小部屋でつにむせる声  利牛

 約束にかがみて居れバ蚊に食れ  曾良

   七つのかねに駕籠呼に来る  杉風

 花の雨あらそふ内に降出して   桃隣

   男まじりに蓬そろゆる    岱水

 

杉風 5句、子珊 5句、桃隣 4句、利牛 3句、岱水 3句

野坡 3句、孤屋 2句、沾圃 2句、石菊 2句、利合 2句

依々 2句、曾良 2句、芭蕉 1句

      参考;『「炭俵」連句古註集』竹内千代子編、1995、和泉書院

初表

発句

 

 雪の松おれ口みれば尚寒し    杉風

 

 元禄六年(一六九四)十一月上旬、江戸での興行で、芭蕉は第三のみの参加となっている。芭蕉を含め十三人もの連衆を集めてのなかなか賑やかな興行だ。芭蕉もここでは控えめに、司会進行役に徹したのだろう。おそらく句についてもあまり口出しせずに弟子たちに任せて、今後の俳諧がとの方向に向かうのかを占っていたのかもしれない。

 岱水が脇を詠んでいる所から、場所は岱水亭である可能性がある。芭蕉庵の近くに住んでいたと言われているが、どういう人なのか詳細はわかっていない。

 発句を詠んでいる杉風は日本橋小田原町で魚問屋を営み、その屋号から鯉屋杉風と呼ばれている。江戸に出てきたばかりの芭蕉も小田原町に住み、日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入(とくにゅう)の家の帳簿付けをやっていたという。

 日本橋小田原町は現在の日本橋室町で、日本橋三越のある辺りになる。日本橋魚市場発祥の地の碑もあり、このあたりは魚市場として賑わっていた。

 杉風は芭蕉が江戸に出てきた時からの古い門人であり、同時にスポンサー的な存在でもあった。小田原町の下宿も杉風が世話したとも言われているし、深川芭蕉庵も杉風の別邸の近くにあり、杉風が使用していた生け簀があの句に詠まれた「古池」だったともいう。

 其角や嵐雪が次第に芭蕉と離れてゆく中、杉風は芭蕉の「軽み」の風を受け入れ、『炭俵』の主要なメンバーのひとりとなる。ここではスペシャルゲストとして招かれ、発句を詠むことになる。野坡、孤屋、岱水、利牛など『炭俵』でおなじみのメンバーだけでなく、『奥の細道』に同行した曾良や、伊賀出身で芭蕉の甥とも伝えられている桃隣なども参加している。

 杉風の発句は当日雪が降っていてそのまんまの景色を詠んだか、雪の日にありがちな景色を思い浮かべたものか。雪も寒いが雪の重みで折れた松の切り口はわが身が切り裂かれたようでぞっとする。「まあ、とにかく今日は寒いっすねー」という季候の挨拶でもある。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「詩歌をからず名聞を飾らず、此句に此人の生質もゆかしき心地ぞせらるれ。但、寒の字にすさまじきその光景ミゆ。」とあり、『古集』系の『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)もほぼ同じ。

 これといった出展もなく、あるあるネタで詠む所は芭蕉の「軽み」の基本的な詠み方。「名聞を飾らず」は其角と比べてということか。杉風は魚問屋で金持ちだから、別にたくさん弟子を取って稼がなくては、という事情がないというのもあったと思うが。

 その意味では、芭蕉の「軽み」は遊俳にはいいが、師匠としての価値を常に高くアピールしなくてはならない業俳にとってはきつかったかも。

 

季題は「雪」で冬。降物。「寒し」も冬。蕉門では季重なりは何ら問題ではない。「松」は植物で木類。

 

   雪の松おれ口みれば尚寒し

 日の出るまへの赤き冬空   孤屋

 (雪の松おれ口みれば尚寒し日の出るまへの赤き冬空)

 

 なお寒いといえばやはり明け方の寒さは身にしみる。別に日の出の頃に興行を始めたというのではなく、「寒いね」という挨拶には「寒いね」と答える暖かさが大事ということだろう。

 「赤き冬空」というからには、雪が上がって晴れた朝なのだろう。挨拶なので寒さの中にもこれから暖かくなるといいねという気持ちが込められている。

 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)に「雪はれの朝やけを見て、アア冬の朝晴ハしけの印、けふも亦大雪かと寒恐のこはがる様也。」というのは、一巻の途中の句ならともかく、脇句の挨拶の役割から逸脱している。考えすぎではないか。

 

季題は「冬空」で冬。「日」は天象。空に既に赤みが差しているので「夜分」は免れると思われる。まだ昇ってはいないとはいえ、ここで天象が出たことで月の定座が苦しくなるが、さてどうなるか。

 

第三

   日の出るまへの赤き冬空

 下(ゲ)肴を一舟浜に打明て      芭蕉

 (下肴を一舟浜に打明て日の出るまへの赤き冬空)

 

 下魚は値段の安い大衆魚のことで鰯か何かだろう。明け方に帰ってきた船が取ってきた魚を全部浜に広げて天日干しするのはなんとも豪快だ。赤い朝焼けの空は嵐の前触れなんかではない。これから晴れる印だから魚を干す。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「海づらのけしきと見、日和のもやうと定て、魚干す体をいへりけるや。」とある。

 今回の興行では芭蕉はこの一句だけ。さながら漁の収穫を十二人の門弟に見立て、後は任せたぞって所か。

 

無季。「下肴」「舟」「浜」など皆水辺。

 

四句目

   下肴を一舟浜に打明て

 あいだとぎるる大名の供   子珊

 (下肴を一舟浜に打明てあいだとぎるる大名の供)

 

 一舟分の大量の魚が干してあれば、通る人は何かと気になるもの。安く分けてもらえないかとばかりに立ち寄ってゆく。もちろん下賤な魚など大名の興味を引くものではないが、そのお供の下っ端の武士にしてみればついつい皆立ち止まって、列が途切れてしまう。

 芭蕉を除いても十二人の連衆がいるし、順番にというわけでもなく、ここは出勝ちで付けてゆくところだ。それこそ笑点の大切りのような乗りで、すぐに出来て一番面白かった句がこれだったのだろう。順番で付けてゆく両吟・三吟・四吟などとは違った展開が楽しめそうだ。

 

無季。「大名の供」は人倫。

 

五句目

   あいだとぎるる大名の供

 身にあたる風もふハふハ薄月夜  桃隣

 (身にあたる風もふハふハ薄月夜あいだとぎるる大名の供)

 

 さてここは月の定座だが、大名行列が夜ということはないので、遅れて暗くなって宿に着いたことにする。

 「遅くなった」というのをそのまんま言うのではなく、「身にあたる風もふハふハ」と急いで駆け込む様子を言うことで匂わす、いわゆる匂い付けになる。遅れてたお供の連中が、宿を見て慌てて駆け込む様が目に浮かぶ。

 『古集系』には「羽織のすがたを形容せり。いそぐさまなるべし。」とある。走っているので羽織が風にひらひらする。

 

季題は「薄月夜」で秋。天象。夜分。雲でかすんだ月も、春は「朧月」で秋「薄月」になる。「身」は人倫。

 

六句目

   身にあたる風もふハふハ薄月夜

 粟をかられてひろき畠地   利牛

(身にあたる風もふハふハ薄月夜粟をかられてひろき畠地)

 

 「身に当たる風」を風を切って走る姿ではなく、吹いてきた風が遮るものなく身に吹き付けてくることと取り成す。粟を刈り取った跡の広い畠では風を遮るものがない。わかりやすい句だ。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「カラリトシタル所ヲ可見。」とある。『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の「病上りの身にあたる風をいたむ体」というのは考えすぎ。曲斎さんの註釈はこういうのが多い。何か人が思いつかないことを言ってやろうという所があるのだろう。

 

季題は「粟を刈る」で秋。植物。草類。

初裏

七句目

   粟をかられてひろき畠地

 熊谷の堤きれたる秋の水     岱水

 (熊谷の堤きれたる秋の水粟をかられてひろき畠地)

 

 「粟をかられて」を収穫ではなく、堤防が切れて大水が押し寄せ粟の畑を流していってしまった、という意味に取り成す。

 元禄元年(一六八八)に荒川大洪水があったから、そのときの記憶がまだ鮮明だったのだろう。荒川は文字通りの荒ぶる川で、有史以来度々大きな水害を引き起こしてきた。

 荒川は昔は熊谷付近から元荒川の方へ流れ、越谷の方へ流れ、吉川で太日川に合流していたが、幕府は寛永六年(一六二九)に荒川の付け替えを行い、入間川から隅田川の方へ流すようにしたが、その後も度々水害は起こった。

 同じ『炭俵』の「空豆の花」の巻の十二句目にも、

 

   風細う夜明がらすの啼わたり

 家のながれたあとを見に行    利牛

 

の句がある。(前句は岱水の句。)

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「淼漫(ビャウマン)たる景象ミゆ。」とあるが、そんな悠長な句ではないだろう。むしろ災害の記憶を残すための句といっていいのではないかと思う。

 

季題は「秋の水」で秋。水辺。「堤」も水辺。芭蕉の第三から三句隔てている。

 

八句目

   熊谷の堤きれたる秋の水

 箱こしらえて鰹節売る    野坡

 (熊谷の堤きれたる秋の水箱こしらえて鰹節売る)

 

 被災した人たちに昔は災害援助なんてなかったから、被災した後の生活は自分で何とかしなくてはならない。とりあえず背負い箱をこしらえて鰹節売りで生計を立てる。

 江戸時代初期の鰹節は紀州の名産で「熊野節」と呼ばれ、上方を中心に広がっていったという。元禄の頃になると紀州甚太郎がカビ付けを行うようになり、これによって江戸までの輸送に耐えられる鰹節(改良土佐節)が出来た、と「にんべん」のHPにあった。そういう意味では「鰹節売り」というのはこの時代のベンチャービジネスだったのかもしれない。

 「空豆の花」の巻の十三句目も、

 

    家のながれたあとを見に行

  鯲汁わかい者ものよりよくなりて   芭蕉

 

と、洪水の後の地面に落ちていたドジョウを拾ってきて食う様が描かれている。災害の後の昔の人の苦労と知恵が偲ばれる。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「水難からの俄商人を趣向せり。前句を虚体に転ず。」とある。『古集』系はほぼ同じ。「虚体」というのは、前句を過去のことにして今は、という意味か。

 

無季。

 

九句目

   箱こしらえて鰹節売る

 二三畳寝所もらふ門の脇     子珊

 (二三畳寝所もらふ門の脇箱こしらえて鰹節売る)

 

 前句が背負い箱に鰹節を入れて持ち運び、天秤下げて振り売りをする行商人の姿だったのに対し、ここでは二三畳のささやかながらも店舗を構える鰹節売りになる。とはいえ、やや展開に乏しい。

 まあ、出勝ちのときはあまり悩まずに、とにかく句が付いたらさくさく進めるものなのだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「前底ハふり売とも見るべきに、こなたハ箱もふたつ三ツならべて、草履や鼻紙も提置る風情ならん。百にたらずのかかり人などいハんか。」とある。『古集』系はほぼ同じ。

 

無季。「寝所」は居所。

 

十句目

   二三畳寝所もらふ門の脇

 馬の荷物のさはる干もの   沾圃

 (二三畳寝所もらふ門の脇馬の荷物のさはる干もの)

 

 この「干もの」は「ひもの」ではなく洗濯物の「ほしもの」の方。

 二三畳の寝所はここでは店ではなく単なる生活の場で、狭いながらも洗濯物を干すところに生活感がにじみ出る。門の脇だから、荷物を背負った馬が出入りするたびに洗濯物に引っかかって落ちたり汚れたりする。あるあるネタか。

 『古集』系には「出入りする馬に洗濯ものなるべし」とある。それほど難しい句ではない。

 

無季。「馬」は獣類。

 

十一句目

   馬の荷物のさはる干もの

 竹の皮雪踏に替へる夏の来て   石菊

 (竹の皮雪踏に替へる夏の来て馬の荷物のさはる干もの)

 

 竹の皮は軽いから、運ぶ時にはかなりうず高く積んで、道にはみ出した洗濯物に接触したりしていたのだろう。竹の皮が盛んに運ばれてくるのは夏が来て雪駄(雪踏)の季節になったからだ。雪駄は竹で編んだ草履の底に皮を張ったもので、水に強く夏に用いられる。

 これもそう難しくないあるあるネタだったようで、古註の解釈にそんなに差がない。『古集』系には「かさ高なるもやうあるより、竹の皮荷と見ていへり。句作の優美をおもハざらんや。」とある。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)には「凡愚ふつつかの句なり。二三畳より以下三句、興趣さらに無し。」とある。こういう単純なあるあるネタがお気に召さないのは、古典の教養のあるところを見せたい文人にはありがちなこと。

 

季題は「夏の来て」で夏。「雪駄」は衣装。特に夏の季語にはなっていない。

 

十二句目

   竹の皮雪踏に替へる夏の来て

 稲に子のさす雨のばらばら  杉風

 (竹の皮雪踏に替へる夏の来て稲に子のさす雨のばらばら)

 

 「さす」は育つという意味。夏といっても旧暦四月の初夏のことで、田植えのすんだ稲の苗をはぐくむ雨がばらばら降ってくるというもの。

 あるあるネタが続いたことで、ここらでちょっと一休みというか目先を変えたい空気を見事に読んでいる。このあたりが杉風のキャリアの長さというか、ベテランの味でもある。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)も「うつりえもいハれず」と言っている。

 

無季。「稲の子」を夏としてもよそそうなものだが、季語としては定まってない。植物。草類。「粟」から五句隔てている。「雨」は降物。

 

十三句目

   稲に子のさす雨のばらばら

 手前者の一人もみえぬ浦の秋   野坡

 (手前者の一人もみえぬ浦の秋稲に子のさす雨のばらばら)

 

 手前者(てまえしゃ)は辞書を引くと、『類船集』の「─と言ふは富める人なり」を例として「家計の豊かな人、資産家」としている。『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)も「手前者 富人也。」としている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「手前者ハ分限者也。」としている。「分限者(ぶげんしゃ)」も金持ち、財産家と言う意味。にわか成金ではなく、代々の資産を受け継いで資産を管理している者のことをいう。

 「浦」というから漁村なのだろうけど、漁業だけでは食って行けず、細々と稲も育て半農半漁の生活を送っている、そんな風情だろうか。

 季節を秋に転じる。

 

季題は「秋」で秋。「浦」は水辺。「熊谷の堤」から五句隔てている。

 

十四句目

   手前者の一人もみえぬ浦の秋

 めつたに風のはやる盆過   利合

 (手前者の一人もみえぬ浦の秋めつたに風のはやる盆過)

 

 「めった」は今の標準語では否定の言葉を取るが、昔は必ずしもそうではなかったようだ。むしろ今で言う「めっちゃ」に近いか。「めたくた」だとか「めったくた」という言葉もあるし、「滅茶苦茶」も本来は「滅多くた」だったのだろう。

 「風」は「風邪」のことで、貧しい漁村だから栄養状態が良くなくて、盆も過ぎるとちょっとしたことで風邪がめっちゃ流行る、ということなのだろう。

 『古集』系には「侘しき浦里に自然の場あり。」とある。「自然」はこの場合、今でいうような自然がたくさんあるということではなく、人力で左右できない不慮のこと、万一のこと、という意味。

 秋が二句続いたのでそろそろ月が欲しい頃だ。

 

季題は「盆過」で秋。

 

十五句目

   めつたに風のはやる盆過

 宵々の月をかこちて旅大工    依々

 (宵々の月をかこちて旅大工めつたに風のはやる盆過)

 

 お盆というと今でも帰省ラッシュだが、江戸時代でも薮入りとお盆は奉公人が故郷に帰る日だった。ところが江戸時代にもブラックな職場はあって、なかなか帰省が許されなかったりする。旅の大工もそうだったのだろう。盆の過ぎる頃にはやけに風邪だといって休む大工が多い。何で風邪を引いたのかと聞いたら、ついつい月が綺麗で夜更かしして、と。そんなところだろうか。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「盆過ノ淋敷ナル折ト言、流行病ノ節ニ、故郷ノ忍バシキ趣ヲ附タリ。」とある。

 

季題は「月」で秋。夜分。天象。「旅大工」は人倫。

 

十六句目

   宵々の月をかこちて旅大工

 背中へのぼる児をかハゆがる 桃隣

 (宵々の月をかこちて旅大工背中へのぼる児をかハゆがる)

 

 昔は街頭も町の灯りもなくて、夜は暗い闇に閉ざされていた。それだけに月の出る日は貴重で、宴会をやったり遊び歩いたり祭りだったりと月の明るさを利用した。大人だけでなく子供も浮かれて月の出る日には大はしゃぎだったのだろう。

 旅の大工も地元の人たちと一緒になって月夜を過ごせば、その土地の子供になつかれたりもする。となると大工さんの方も国に残してきた自分の子供を思い出してはついつい可愛がる。

 「かハゆ」は可哀相という意味と可愛いという両義があり、芭蕉の時代にも、

 

 盲より唖のかハゆき月見哉かな   去来

 

の用例がある。可哀相というのが守ってあげたいという意味に転化して、小さい弱いものへの愛情を表す言葉になったのだろう。いまや「かわいい」は世界の言葉になりつつある。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「郷にも稚子のあるなるべし」とのみあるが、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には「前句宵々の月を侘て、故郷シノブ旅大工ト見立恩愛の情を述べた。」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも「背中へのぼりて狂ひ遊ぶを愛すると也。」、『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも「吾児と同じ年頃なる他人の児の無邪気に戯るるを愛する也。」とある。

 幕末・明治の註釈だと、「かハゆ」はみな可愛いの意味に解しているが、ひょっとしたら元禄の頃には「背中に登ってくる子供が可哀相」と読んで、親のない子供か何かを想像して涙したのかもしれない。次は花の定座。

 

無季。「児」は人倫。人倫が二句続く。

 

十七句目

   背中へのぼる児をかハゆがる

 茶むしろのきハづく上に花ちりて 子珊

 (茶むしろのきハづく上に花ちりて背中へのぼる児をかハゆがる)

 

 「きハづく」は汚れが目立つという意味。

 今の煎茶は元文三年(1738)に永谷宗円が摘んだ葉を蒸して揉みながら乾燥させる方法を発明し、急須にお湯を入れて飲むようになったという。それ以前のお茶についてはっきりしたことはわかないが、抹茶が主流だったという。

 抹茶の場合収穫前に茶園を筵で覆い、光を当てないようにするから、ここでいう茶むしろもその覆いのことだと思われる。時期的にも茶の収穫の一ヶ月くらい前なら、桜の季節と重なる。

 桜の季節になると茶畑は完全に筵で覆われて、その上に花びらが散ってたりしたのだろう。外の土埃や枯葉や鳥の糞なんかで汚れた筵も花びらが積もればそれなりに美しくなる。茶農家の人も子供を背中に乗せながら、「おう、よしよし、今年も立派な抹茶が出来るずら」なんていう、そんな情景が浮かんでくる。

 古註はみな芭蕉の時代に煎茶がなかったということを知らずに書いている。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「茶を揉む女子どもに転ず。」と言うが、当時茶は揉まなかったし、茶揉みは収穫の後なので季節も合わない。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)も「茶ムシロハ、其筵ノ上ニテ製スル也。」とあるがこれも同じ誤解。

 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は多分季節が合わないことで、これらの幕末の註のおかしさに気づいていたのだろう。「きはつくは際やかに目立つなり。茶むしろ猶新しきなるべし。前句をまことの母と児とにして、田家の庭前の春の景色を如実に描きたり。」とある。まだ茶揉みの作業に入る前だから、清潔で新しい筵のことと考え、「きハづく」の意味を強引に変えてしまっている。

 

季題は「花」で春。植物。木類。

 

十八句目

   茶むしろのきハづく上に花ちりて

 川からすぐに小鮎いらする  石菊

 

 「いらする」は「炒る」に使役の「らす」の付いたものだろう。鮎というと今日では櫛に刺して塩焼きにするが、昔は鍋に油を敷かずに、そのまま焦げ付かないように鍋を降りながら火を通したのだろう。芭蕉の好物に「炒り牡蠣」というのがあったが、殻のついた牡蠣をガラガラと炒るから、その音が外にまで聞こえたという。

 田舎の茶畑なら鮎の取れる川もすぐ近くにある。取れたてをすぐに食うならどんな料理法でも美味いに違いない。

 花に鮎の子と季節の物を付けた句で、親子の人情でほろっとさせたあと、花でさらに盛り上がった後だから、このような軽い遣り句でも十分すぎるだろう。

 古註は「いらする」の解釈でかなりもめている。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)は「煮る」の意味だとし、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「い」と「わ」の書き間違いで「割らする」だとする。『標註七部集』(惺庵西馬・潜窓幹雄編、元治元年春序)『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「入らする」だという。

 

季題は「小鮎」で春。水辺。「川」も水辺。

二表

十九句目

   川からすぐに小鮎いらする

 朝曇はれて気味よき雉子の声   杉風

 (朝曇はれて気味よき雉子の声川からすぐに小鮎いらする)

 

 前句を朝の景色として雉の声を添える。小鮎は簗漁で朝回収してきたのだろうか。この一巻全体に景物の句が少ないので、もっぱら杉風は景物担当なのか。

 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「弁を加ふるに及ず。」とある。

 

季題は「雉子」で春。鳥類。

 

二十句目

   朝曇はれて気味よき雉子の声

 背戸へ廻れば山へ行みち   岱水

 (朝曇はれて気味よき雉子の声背戸へ廻れば山へ行みち)

 

 「背戸」は裏口。これもほとんど説明の必要はない。水辺から山類への転換というべきか。そろそろ大きな展開が欲しい。

 

無季。「背戸」は居所。「山」は山類。

 

二十一句目

   背戸へ廻れば山へ行みち

 物思ひただ鬱々と親がかり    孤屋

 (物思ひただ鬱々と親がかり背戸へ廻れば山へ行みち)

 

 待ってましたというかやっと出てきたというか、ようやく恋になる。

 前句の裏口から山への道を恋の通い路とし、そこから出て会いに行きたいのだけど、踏ん切りがつかずにただ悶々としている。それはまだ「親がかり」つまり親に養ってもらってる身で、自信がないのだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「ままならぬ恋路に心すすまぬ風情ならん。何となく立出たる体に附なせり。」とある。

 

無季。「物思ひ」は恋。

 

二十二句目

   物思ひただ鬱々と親がかり

 取集めてハおほき精進日   曾良

 (物思ひただ鬱々と親がかり取集めてハおほき精進日)

 

 「精進日(しょうじび)」は忌日などで肉や魚を絶って精進すべき日。前句の恋の物思いと合わせると、夫との死別かと想像が働く。死別して実家に戻って親がかりなら辻褄は合う。

 精進日が多いのは鬱による拒食症によるものか。昔は鬱状態になり物事すべたが空しく思えるようになると「発心」とみなされ、人との接触を拒んで引き籠ると世俗の交わりを断ったと言われ、拒食症になると穀断ちとみなされた。その行き着くところは自殺だが、それを即身仏や補陀落渡海という形で神聖な儀式として行われたのはもっと昔の話。食物が喉を通らないだけでも、世間からは精進とみなされた。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「食事のすすまぬ趣ならん。夫妻などにおくれたる底の余意あるか。」とある。

 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は「前句後家に成て親元へかかり、兄弟の気がねに物思ふ体ト見立」其場の咄を付たり。」と、死別の悲しみではなく兄弟への気遣いのためとし、精進日を親族に押し付けられたものと解釈する。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には、「取集め 前句ヲ夫ニ死レテ親里ニカヘリ、夫ノ家ノ忌日トヲ併テハ、忌日多クナリタルヨシナリ。」とあるが、「取集めてハ」は「とにかくいろいろ」という程度の意味で、親族のいろいろの事情によりそれぞれの精進日が多くてというのは考えすぎだろう。

 喪失の悲しみを「精進日が多い」という形で笑いに転化して表すのが俳諧で、喪失の悲しみよりも親族の圧力がというのは、実際にありそうなことだけど下世話な感じがする。

 

無季。「精進日」は釈教。

 

ニ十三句目

   取集めてハおほき精進日

 餅米を搗て俵へはかりこみ    桃隣

 (餅米を搗て俵へはかりこみ取集めてハおほき精進日)

 

 前句の「取集めて」が何を取り集めているかはっきりしなかったのを、「餅米を搗て俵へはかりこみ取り集めてハおほき」とする。

 餅米を搗くというのは精米することをいう。昔は米を杵で搗いて精米した。餅搗きではない。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「斎非時のもふけなるべし。」となる。斎非時(ときひじ)は禅家で僧と共にする食事のことで『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は「年回の」という補則が付く。年回は年忌に同じ。

 

無季。

 

二十四句目

   餅米を搗て俵へはかりこみ

 わざわざわせて薬代の礼   依々

 (餅米を搗て俵へはかりこみわざわざわせて薬代の礼)

 

 前句の精米した餅米を薬代(やくだい)の礼に取り成す。

 「わせて」は「御座(おわ)して」と同じ。韓国語ではない。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「暮年の光景と見て趣向したらん。」とある。いわゆるお歳暮か。ただ、季語は入っていない。

 

無季。

 

二十五句目

   わざわざわせて薬代の礼

 雪舟でなくバと自慢こきちらし  沾圃

 (雪舟でなくバと自慢こきちらしわざわざわせて薬代の礼)

 

 お歳暮を持っっていったところ、自分の持っている書画骨董をひとしきり自慢され、延々と薀蓄を聞かされるのは迷惑な話だ。「自慢こきちらし」と「わせて」の主語は異なる。このころの俳諧には主語が異なっていても明示しないことは良くある。

 「こく」というのは「嘘こく」だとか「調子こく」だとか非難の意味が込められている。今でもこういう時は「ったく自慢こきやがって」というところだろう。

 『七部婆心録』(曲斎、万延元年)には、「前句態々わせて薬代に下されし物に、疑ハないト云詞ト見立」広言を付けたり。」とあるが、真蹟の雪舟だったら薬代にしては高価すぎるのではないかと思う。

 

無季。

 

二十六句目

   雪舟でなくバと自慢こきちらし

 となりへ行て火をとりて来る 子珊

 (雪舟でなくバと自慢こきちらしとなりへ行て火をとりて来る)

 

 前句が骨董好きの裕福な家のイメージだったのに対し、ここでは貧相な骨董商に転じる。キセルの火が消えたからといって隣に借りに行くというのは、少なくとも立派な屋敷ではなく町中の風景だ。

 今でもたまに見るような、狭い店に所狭しと怪しげな物が並べられ、売れてる様子もなく埃をかぶって、骨董屋なのかゴミ屋なのかわからないような店を想像するといいのだろう。いかにも偏屈そうな親父がキセルをふかして、これなんか雪舟以外の何物でもないだろうとでかい口を叩いているけど、客のほうもどうせ嘘に決まっているとばかりに二束三文に値切っている、そんな世界だろう。

 子珊はこれで四句目。花の定座も勤めたし、今日はなかなか冴えている。翌元禄七年の五月には、最後の旅に出る芭蕉のための餞別句会が子珊亭で催され、

 

 紫陽草(あぢさゐ)や藪を小庭の別座敷  芭蕉

 

の句に対し、

 

   紫陽草や藪を小庭の別座敷

 よき雨間(あまあひ)に作る茶俵  子珊

 

の脇を付けている。このときのことを元に子珊は『別座敷』を編纂する。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「前底無用なるより、二句一章に作りて奪へり。隣ハ古道具の見世つづきとミるべし。」とある。

 

無季。

 

二十七句目

   となりへ行て火をとりて来る

 又けさも仏の食で埒を明     利牛

 (又けさも仏の食で埒を明となりへ行て火をとりて来る)

 

 前句の貧乏くさい様子から、托鉢して生活する修行僧のこととする。朝に托鉢してご飯を恵んでもらい、一日一食で過ごし、それ以外に炊事をしてはいけないのが本来なのだが、空腹に耐え切れなかったのか隣に火を貰いに行く。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「裏借家のひとり坊主などミゆ。体用の変なり。」とある。

 

無季。「仏の食」は釈教。「精進日」から四句隔てている。

 

二十八句目

   又けさも仏の食で埒を明

 損ばかりして賢こがほ也   杉風

 (又けさも仏の食で埒を明損ばかりして賢こがほ也)

 

 前句を修行僧ではなく、乞食に身を落とした相場師とする。

 江戸時代だから株や債権はないが、金・銀・銭は独立して変動相場で動いているから、そこでFXのように利ざやを得ることはできただろう。幕末には海外の金銀の交換レートが違うことから外国人に金を銀に交換してもらって儲けた人がいたともいう。

 また、江戸時代には先物取引が行われていたので、コモディティへの投資でも儲けることはできた。

 ただ、策士策に溺れるというか、賢く立ち回っているつもりでもちょっとした読み違いで地獄を見ることもある。

 次は月の定座だが、月呼び出しというには程遠いが、「賢こ顔」が何となく月を連想させるか。あれは「かこち顔」だったか。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「相場師のしもつれともいハん。」とある。「しもつれ(仕縺れ)」は辞書だと「めちゃくちゃになる、どうにもならなくなる」とあり近松門左衛門の天神記の「これほど身代しもつれて、田地に離れ」を用例として挙げている。「すってんてん」というのが一番しっくり来る感じがするが。

 

無季。

 

二十九句目

   損ばかりして賢こがほ也

 大坂の人にすれたる冬の月    利合

 (大坂の人にすれたる冬の月損ばかりして賢こがほ也)

 

 前句を大阪商人のこととする。天下の台所と言われた大阪は全国から様々な物資が入ってきて豊かに見えるが、その分競争も激しくなかなか商売の道は厳しい。

 冬の澄み切った空の寒々とした月もそんな大阪商人からすれば「すれた」冷たさに見えるのだろうか。凍りつくような空気の中で月もまた一人「賢こがほ」している。

 『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「物ニスルドキ人ヲ冬ノ月ニ寄テ、前句ヲツナギタルナリ。」とある。

 

季題は「冬の月」で冬。夜分。天象。「大坂」は名所。「人」は人倫。

 

三十句目

   大坂の人にすれたる冬の月

 酒をとまれば祖母の気に入  野坡

 (大坂の人にすれたる冬の月酒をとまれば祖母の気に入)

 

 前句の「大坂の人」を女のことに取り成したか。それに対して男はすっかり都会ですれてしまった冬の月のような冷たい顔をしている。クールでニヒルなのはいいが、相手の親の受けはすこぶる悪い。そこで酒をやめて一心に働けばその女の祖母にも気に入ってもらえるだろうかというところだ。だがあくまで「とまれば」という仮定の話。なかなか酒はやめられないもの。

 『古集』系は「欠落ものの聟に入たるなどいふ思惑に附けなせり」とする。

 

無季。「祖母」は人倫。

二裏

三十一句目

   酒をとまれば祖母の気に入

 すすけぬる御前の箔のはげかかり 子珊

 (すすけぬる御前の箔のはげかかり酒をとまれば祖母の気に入)

 

 御前は『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)に「一向宗の持仏也。」とある。ここで言う一向宗は戦国時代の一向一揆の一向宗ではなく、今の浄土真宗のことで、江戸幕府が本末制度に基づいて仏教のさまざまな宗派を系統立てた時に浄土真宗系の様々な宗派をそう呼ぶようになったようだ。

 持仏は個人的に持ち運ぶことの出来る小さな仏像のことで、浄土真宗では金の仏像が推奨されている。

 この句は「祖母の気に入すすけぬる御前の箔のはげかかり、酒をとまれば」と読むのが良いように思える。祖母は一向宗を信仰し金箔の念持仏を持っていたが、家督を継いだ孫が酒に溺れ家計は破綻し、仏像も手入れが行き届かず金箔がはがれてもそのままになっていた。酒をやめれば。そういう句ではないかと思う。

 複雑な倒置は連歌ではしばしば見られるが、江戸時代の言語感覚では次第に理解が困難になっていったのではないかと思う。

 古註では考えすぎの多い『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の「酒止たら金が溜うとばばの喜ベバ、イヤ私が禁酒も廿年遅かった、此仏段と同じ事で」というのが近かったしヒントになった。これは仏壇の煤抜きに来た男が禁酒をして祖母に気に入られ、という解釈だが、煤抜きなんてことはどこにも書いてないから曲斎さんの例の類稀な想像力によるものだろう。

 

無季。「御前」は釈教。「仏の食」から三句隔てている。

 

三十二句目

   すすけぬる御前の箔のはげかかり

 次の小部屋でつにむせる声  利牛

 (すすけぬる御前の箔のはげかかり次の小部屋でつにむせる声)

 

 「つにむせる」は『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)に「唾(ツ)に嚏(ムセル)ナリ。」とある。唾にむせること。

 ここでいう御前は屋敷に設置された大型のものを言うのであろう。寺の本尊ではなく自宅で祀られるものは御前になる。

 その横の部屋では控えのものが談笑し、笑うついでにむせて咳き込んでしまったのだろう。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「武家のもやうに転ず。傍輩どものおかしさをこらえ居る体、世情を尽せり。」とある。「傍輩」は同僚ということ。

 

無季。「小部屋」は居所。

 

三十三句目

   次の小部屋でつにむせる声

 約束にかがみて居れバ蚊に食れ  曾良

 (約束にかがみて居れバ蚊に食れ次の小部屋でつにむせる声)

 

 この巻は恋の句が少なかったので、本来二の裏はあっさりと終わらせるところをあえてここで恋を出したのだろう。

 約束をして部屋で身をかがめて待っていると蚊に食われてしまい、隣ではようやく男が来たのか唾にむせる声がする。

 普通に男女が会えばドラマチックなのだが、一方は蚊に食われ、一方は唾にむせてと散文的なところが俳諧というべきか。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「夜分と見来る自然いふも更なり。」とある。これだけではよくわからないが、次の句の所には「前句ハ恋なるを」とあり、夜分と見て、自ずと男女の合う場面を出したのは言うまでもない、というところか。

 

季題は「蚊」で夏。虫類。「約束」は恋。

 

三十四句目

   約束にかがみて居れバ蚊に食れ

 七つのかねに駕籠呼に来る  杉風

 (約束にかがみて居れバ蚊に食れ七つのかねに駕籠呼に来る)

 

 七つは寅の刻で夜もまだ明けぬ頃、夏なら午前三時過ぎくらいか。「お江戸日本橋七つ発ち」というくらいだから、昔の旅人はこれくらいの時間に宿を出たのだろう。七つの鐘のなる頃に呼びに来たのだが、仕度に時間がかかっているのかなかなか出てこない。待っているうちに蚊に刺されてしまったということで、前句の恋から駕籠かきあるあるに転じる。

 次は花の定座。杉風さんのことだから駕籠に乗って花見にという展開も考慮してか。

 わかりやすい句で問題はない。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)の「呼ニヤルマデココニ待テト、駕籠ノモノヲ待セオクニ、蚊ニクハレナドシテ困リタルヲ、今ハハヤ七ツト云ニ呼ニ来シ也。」がわかりやすい。

 

無季。

 

三十五句目

   七つのかねに駕籠呼に来る

 花の雨あらそふ内に降出して   桃隣

 (花の雨あらそふ内に降出して七つのかねに駕籠呼に来る)

 

 七つの鐘は朝だとまだ夜も明ける前で花見に行くには早すぎる。ここは春でも申の刻、午後四時頃の鐘に取り成す。となると、花見の帰りの駕籠ということになる。昔は不定時法なので季節によって今の定時法の時刻より早くなったり遅くなったりした。

 花見で酒が入れば酔って喧嘩になることもあったのだろう。あるいは雨が降りそうなので帰る帰らないで言い合っていたか。つかみ合いわめき散らしているうちに雨が降りだして喧嘩は水入り。さあ帰ろうということでもう日が暮れかかったころに駕籠を呼びにやる。

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「うしろ附なり。○花見の迎駕に附なして後の七ツに転ぜり。」とある。「うしろ附」という言葉は江戸後期になって作られた言葉ではないかと思う。

 本来短句に長句を付ける場合は後ろ付けになり、「て」止めのとき以外は前づけにするほうが特殊だったのだが、蕉門も軽みの頃には「後ろ付け」は附けにくいというので長句を付けるときにも前付けが多くなったのだろう。

 そして、幕末ともなると、もはや上句下句合わせて和歌にするという意識が薄れて、「二句一章」などという言葉が生じてきたのだろう。現代連句は完全に一句独立の連想ゲームになっているが、その根は既に芭蕉の軽みの時代に始まっていたのかもしれない。。

 

季題は「花」で春。植物。木類。「雨」は降物。

 

挙句

   花の雨あらそふ内に降出して

 男まじりに蓬そろゆる    岱水

 (花の雨あらそふ内に降出して男まじりに蓬そろゆる)

 

 よもぎ餅は貞享五年(一六八八)刊の『日本歳時記』(貝原好古著、貝原損軒删補)にも記されているという。もちろんヨモギは普通に食用にもなっていたし、薬用としても用いられた。蓬摘みは当時の女の仕事だったようだ。

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』には「[本朝食鑑]艾餅(よもぎもち)は嫩(わか)き艾苗を采(と)り、茎をさり、煮熟して、蒸糯(むしもちごめ)に合せ搗て餅に作り、三月三日必この餅を用ひて賀祝とす。」とある。「蓬そろゆる」というのはこの茎を取り除く工程を言うのか、花見に来て、雨が降りそうだから帰るかどうか言い争っているうちに雨がふり出し、雨宿りした所で女たちのヨモギの葉をそろえる作業を手伝っていったのだろう。

 無骨な男たちが慣れない細かな作業をしては女たちに怒られたり、それでいて互いにちょっと下心があったり、ほのぼのした和やかな雰囲気でこの一巻は目出度く終了する。

 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に、「蓬そろふるハ女ノ役ナレド、雨モフリ出タレバ、男モ交リテ手伝スルサマ也。」とある。

 

季題は「蓬」で春。植物。草類。「男」は人倫。

 

 子珊の『別座敷』の序に芭蕉の言葉として「今思ふ体は、浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽きなり。其の所に至りて意味あり。」とある。この歌仙も古典の風雅だとか出典とかと関係なく、日常誰もが感じているようなあるあるネタを中心に展開されている。季節の句もほんの息抜き程度で、無季の句が半分以上を占める。句の付け方も、短句に対して長句が付くときに、「て」止め以外でも前付けになる傾向が見られる。

 芭蕉はトレンドに逆らうような人ではない。自分は古くなったと感じていても、門人たちが新しい俳諧を作ってくれることを疑っていない。そういう芭蕉の態度がこの歌仙になったのだと思う。まさに「浅き砂川」を水に漬かることなく渡っていくように、三十六句軽やかに駆け抜けていった感がある。

 ただ、俳諧がより誰でも出来る簡単なものになって行くと、必ずそれを面白く思わないものも出てくる。人間にはやはり人より秀でたい、目立ちたいという欲求がある。人の知らない難解な言葉を知り、難解な書物を出展にし、一部のマニアックな人だけにわかればいいという人たちもいる。其角の江戸座俳諧はそうした層を巧みに取り込んでいったのだろう。俳諧一巻を一般から募り、それに加点して本にする、いわゆる点取り俳諧への道を開いたのがこの流れだった。

 難解な句は一度聞いても意味が通らないが、書物なら何回でも読み返して考えることが出来る。最後まで人と人とが面と向き合って談笑する興行俳諧にこだわった芭蕉の俳諧は、出版文化の拡大とともに苦しいものとなっていったのは確かだ。

 興行が廃れ書物俳諧になってゆくと、広く投句を募り、それを本にすれば、投句者層がそのまま読者になってくれる。より投句者を増やすには一巻を募集するよりも、発句なり付け句なり一句だけで投句できたほうがいい。こうして江戸中期には川柳点が流行することになる。俳諧も発句中心になり、連句は廃れて行く。

 明治になり正岡子規が行った俳句革新も、基本的にはこの流れに沿ったものだった。子規の俳諧連句は数えるほどしか作られてない。発句のみを公募し本に載せることで、投句者が同時に読者となり本の購買者となる点取り俳諧の経営手法を継承している。

 こうした書物俳諧も、いまやネットに押されて過去の物になりつつある。ネット上では別に撰者に選ばれなくてもいくらでも呟くことができる。投句料も要らなければ本を買う必要もない。そして五七五という形式も必要ない。投稿はテキストでも画像でも動画でも何でも良いわけだ。

 ただ、形式は廃れても結局その精神は不易ではないかと思う。人はいつの世でも平和で身分の別なく談笑できる場を求めている。それは信じていい。