「朝顔や」の巻、解説

初表

 朝顔や夜は明きりし空の色    史邦

   をのれをのれと蚓なきやむ  沾圃

 舛落またぬに月は出にけり    芭蕉

   廊下口までゆるす板の間   魯可

 はやらかす酒にむす子の知恵売て 沾圃

   栗丸太きる川上の山     史邦

 

初裏

 ころころと形リのおかしき石拾ふ 魯可

   寺にかへればすはる麦食   芭蕉

 雨すぎて白ク咲たる茨の花    史邦

   祖父のふぐり柴にとり付ク  沾圃

 子ども皆貧乏神と名をよびて   芭蕉

   絵馬をかくる年越の宮    魯可

 ぎしぎしと雪ふむ道の薄明リ   沾圃

   見世をたたきてめばる出する 史邦

 鉄棒を戸塚の宿の伝馬触     魯可

   腹疫病のはやりしづまる   芭蕉

 すんずりと苗代めぐむ花の色   沾圃

   光かすまぬ伊勢の有明    魯可

 

 

二表

 春風に吹しほらかすけさ衣    史邦

   質にながるる百両の家    沾圃

 色わるく痩たる顔も化粧して   魯可

   薫じ渡りし白無垢の夜着   史邦

 穢土厭離打さそはるる鐘の声   芭蕉

   弁当ほどくもとの居屋敷   魯可

 うき事の佐渡十番を書立て    沾圃

   名古曽越行兼載の弟子    芭蕉

 かぢけたる紅葉は松の間々に   魯可

   袂そぬらす宵の月蝕     沾圃

 御しとねの上さへ風は身に入ミて 史邦

   愛らしげにも這まはる児   魯可

 

二裏

 すすめとて直キに院家の廻ラるる 里圃

   夏も小野には鶯がなく    乙州

 雨ふればめつたに土の匂ひ出   沾圃

   縄でからげし家ゆがみけり  里圃

 塩物に咽かはかする花ざかり   乙州

   奈良はやつぱり八重桜かな  沾圃

 

      参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

 朝顔や夜は明きりし空の色    史邦

 

 水色の朝顔であろう。ちょうど朝の明けっ切った頃の空のような色をしている。朝顔というと芭蕉に、

 

 朝顔に我は飯食う男哉      芭蕉

 

という自己紹介の句がある。

 朝から興行が行われたわけではないと思う。特に寓意もなく立句にしたと思われる。

  史邦はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典「中村史邦」の解説」に、

 

 「生年:生没年不詳

江戸時代の俳人。大久保荒右衛門,根津宿之助の名も伝わる。尾張犬山(愛知県)の人で,元禄期(1688~1704)に活躍した蕉門俳人。寺尾土佐守直竜の侍医で,医名は春庵。のち京に出て,御所に出仕さらに京都所司代の与力も勤めた。職を辞してより江戸に下り,諸俳人と交流。俳人としての全盛期は『猿蓑』のころであった。江戸では群小作家と交友,飛躍しえなかった。芭蕉の遺物二見文台や『嵯峨日記』などを伝来した人としても有名。編著に『芭蕉庵小文庫』(1696)がある。<参考文献>市橋鐸『史邦と魯九』(楠元六男)」

 

とある。

 

 赤人の名ハつかれたりはつ霞   史邦

 泥龜や苗代水の畦つたひ     同

 

などの句がある。

 

季語は「朝顔」で秋、植物、草類。

 

 

   朝顔や夜は明きりし空の色

 をのれをのれと蚓なきやむ    沾圃

 (朝顔や夜は明きりし空の色をのれをのれと蚓なきやむ)

 

 蚓は蚯蚓(みみず)。昔はミミズが鳴くと言われていたがオケラの声だという。土の中からジーーーージーーーー、と聞こえてくる。

 朝が来るとそのミミズも夜明けの空の色を憎むかのように、「おのれっ、おのれっ」とばかりに鳴き止む。

 「おのれ」は自分のことだが相手のことを強い調子で呼ぶときにも用いられる。関西弁の「わい」や河内弁の「われ」にもそういう用法がある。

 沾圃はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「服部沾圃」の解説」に、

 

 「1663-1745 江戸時代前期-中期の能役者,俳人。

寛文3年生まれ。宝生重友の3男。野々口立圃(りゅうほ)の養子。陸奥(むつ)平藩(福島県)の内藤義英(露沾)に約30年間つかえる。元禄(げんろく)6年(1693)松尾芭蕉(ばしょう)の晩年の弟子となり,2代立圃をつぐ。のち宝生流11代宝生友精(ともきよ)の後見役をつとめた。延享2年10月2日死去。83歳。名は重世。通称は左(佐)大夫。別号に幾重斎。」

 

とあり、『続猿蓑』の撰者でもある。

 

季語は「蚓なき」で秋、虫類。

 

第三

 

   をのれをのれと蚓なきやむ

 舛落またぬに月は出にけり    芭蕉

 (舛落またぬに月は出にけりをのれをのれと蚓なきやむ)

 

 舛落(ますおとし)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「升落・枡落」の解説」に、

 

 「〘名〙 鼠を捕える仕掛けの一種。升をふせて棒でささえ、その下に餌を置き、鼠が触れると升が落ちてかぶさるようにしたもの。ます。ますわな。ますこかし。

  ※俳諧・庵桜(1686)「升落し中避る猫の別哉〈宗旦〉」

 

とある。

 前句の「をのれをのれ」を鼠に対しての言葉とする。升落としを仕掛けておいたが夕方になっても鼠はかからず、月が出たのでその舛で酒を飲んだか。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。

 

四句目

 

   舛落またぬに月は出にけり

 廊下口までゆるす板の間     魯可

 (舛落またぬに月は出にけり廊下口までゆるす板の間)

 

 廊下口まで鼠が来ているのを月に免じて見逃してやったか。

 

無季。「廊下口」「板の間」は居所。

 

五句目

 

   廊下口までゆるす板の間

 はやらかす酒にむす子の知恵売て 沾圃

 (はやらかす酒にむす子の知恵売て廊下口までゆるす板の間)

 

 「はやらかす」は「はやらせる」ということ。造り酒屋を繁盛させるのに息子のアイデアを売りにゆくが、廊下口までしか入れてもらえなかった。

 

無季。「むす子」は人倫。

 

六句目

 

   はやらかす酒にむす子の知恵売て

 栗丸太きる川上の山       史邦

 (はやらかす酒にむす子の知恵売て栗丸太きる川上の山)

 

 日本酒の樽は杉で作るが、ワインのようなオークの樽を使ったらどうか、というアイデアが江戸時代にあったのか。

 

無季。「山」は山類。

初裏

七句目

 

   栗丸太きる川上の山

 ころころと形リのおかしき石拾ふ 魯可

 (ころころと形リのおかしき石拾ふ栗丸太きる川上の山)

 

 「形リ」は「なり」。

 つげ義春の『無能の人』という漫画に面白い形の石を探して集める人の物語があったが、多分戦後一時期こういうのが流行して、珍しい形の石はかなり高価で取引されていたようだ。

 ウィキペディアを見るとそれは水石(すいせき)といもので、

 

 「中国の南宋時代から始まった愛石趣味が日本に伝わったことに始まる。後醍醐天皇の愛石で中国から伝来した『夢の浮橋』が徳川美術館に収蔵されている。盆の中に山水景観を表現する盆石、盆景の中に自然石を置くことや、奇石の収集・鑑賞趣味として現在に伝わっている。

 有名な愛石家に江戸時代の頼山陽、明治時代の岩崎弥之助がいる。1961年に日本水石協会が設立され、第1回展覧会が三越で開催された。」

 

とある。芭蕉の時代にもこういう人がいたのだろう。

 

無季。

 

八句目

 

   ころころと形リのおかしき石拾ふ

 寺にかへればすはる麦食     芭蕉

 (ころころと形リのおかしき石拾ふ寺にかへればすはる麦食)

 

 水石を趣味とする人を寺院に所属する修行僧とする。

 

季語は「麦飯」で夏。釈教。

 

九句目

 

   寺にかへればすはる麦食

 雨すぎて白ク咲たる茨の花    史邦

 (雨すぎて白ク咲たる茨の花寺にかへればすはる麦食)

 

 「茨」は「ばら」と読む。この頃の日本でバラというとイバラのことだった。夏に白い花が咲く。

 お寺の庭の情景とする。

 

季語は「茨の花」で夏、植物、草類。「雨」は降物。

 

十句目

 

   雨すぎて白ク咲たる茨の花

 祖父のふぐり柴にとり付ク    沾圃

 (雨すぎて白ク咲たる茨の花祖父のふぐり柴にとり付ク)

 

 祖父は「ヲゝヂ」とルビがあるが「おほぢ」のこと。

 「祖父のふぐり」はそのままの意味ではなく、『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に「かまきりの卵のかたまりのこと」とある。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「螵蛸」の解説」に、

 

 「〘名〙 (「老人の陰嚢」の意) カマキリの卵のかたまり。秋に木の枝や家の壁などに生みつけられた泡状の分泌物がかたまって黒褐色になったもの。おおじのふぐり。おおじふぐり。〔本草和名(918頃)〕」

 

とある。

 柴を取りに行くとそこに蟷螂の卵がくっついていることはよくあったのだろう。卵が孵ると小さなカマキリがうじゃうじゃと無数に出てくるが、それがちょうどイバラの咲く頃だ。

 

無季。

 

十一句目

 

   祖父のふぐり柴にとり付ク

 子ども皆貧乏神と名をよびて   芭蕉

 (子ども皆貧乏神と名をよびて祖父のふぐり柴にとり付ク)

 

 前句の「とり付ク」を貧乏神が憑りつくとする掛けてにはになる。

 ここでは前句の「祖父のふぐり」をそのまんま人倫として、褌もせずに歩いている爺さんの貧相な姿に、貧乏神が刈ってきた柴に憑りついていたのか、子供から貧乏神と呼ばれる。

 

無季。「子」は人倫。

 

十二句目

 

   子ども皆貧乏神と名をよびて

 絵馬をかくる年越の宮      魯可

 (子ども皆貧乏神と名をよびて絵馬をかくる年越の宮)

 

 絵馬はここでは「ゑうま」と読む。子供から貧乏神だと呼ばれるので、年末の厄払いに絵馬を懸ける。

 今は正月に初詣に行くが、これは明治以降のことで、江戸時代は大晦日に大祓(おほはらへ)に行った。水無月の大祓は今も残っているが、年末は初詣に取って代わられていった。

 

季語は「年越」で冬。神祇。

 

十三句目

 

   絵馬をかくる年越の宮

 ぎしぎしと雪ふむ道の薄明リ   沾圃

 (ぎしぎしと雪ふむ道の薄明リ絵馬をかくる年越の宮)

 

 大祓に行く道を雪道とした。

 

季語は「雪」で冬、降物。

 

十四句目

 

   ぎしぎしと雪ふむ道の薄明リ

 見世をたたきてめばる出する   史邦

 (ぎしぎしと雪ふむ道の薄明リ見世をたたきてめばる出する)

 

 「めばり出(ださ)する」は「目張(めっぱ)を回(まわ)す」のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「目張を回す」の解説」に、

 

 「目をまわすほど忙しくする。多忙である。

  ※雑俳・川柳評万句合‐宝暦一一(1761)智三「舟おさにめつばまわせる鱗形」

 

とある。大晦日といえば決算で、借金の取り立てに忙しい。

 

無季。

 

十五句目

 

   見世をたたきてめばる出する

 鉄棒を戸塚の宿の伝馬触     魯可

 (鉄棒を戸塚の宿の伝馬触見世をたたきてめばる出する)

 

 鉄棒はここでは「かなぼう」と読む。

 伝馬(てんま)はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「伝馬」の解説」に、

 

 「徳川家康は1601年(慶長6)に公用の書札、荷物の逓送のため東海道各宿に伝馬制度を設定した。徳川家康は「伝馬之調」の印判、ついで駒牽(こまひき)朱印、1607年から「伝馬無相違(そういなく) 可出(いだすべき)者也」の9字を3行にして縦に二分した朱印を使用し、この御朱印のほかに御証文による場合もある。伝馬役には馬役と歩行(かち)役(人足役)とがあり、東海道およびその他の五街道にもおのおの規定ができた。

 伝馬は使用される際には無賃か、御定(おさだめ)賃銭のため、宿には代償として各種の保護が与えられたが、一部民間物資の輸送も営業として認めた。伝馬制度は前述のとおり公用のためのものであったから、一般物資の輸送は街道では後回しにされた。武士の場合でも幕臣が優先されている。民間の運送業者、たとえば中馬(ちゅうま)などが成立して伝馬以外の手段が私用にあたった。1872年(明治5)に各街道の伝馬所、助郷(すけごう)が廃止された。[藤村潤一郎]」

 

とある。

 公用の荷物に馬を使うので用意するよう触れて廻る。戸塚宿は東海道で早朝に日本橋を出るとちょうど八里くらいで、ここで一泊する人が多かった。

 

無季。旅体。

 

十六句目

 

   鉄棒を戸塚の宿の伝馬触

 腹疫病のはやりしづまる     芭蕉

 (鉄棒を戸塚の宿の伝馬触腹疫病のはやりしづまる)

 

 腹疫病は腹に来る伝染病だが、痢病だろうか。今の赤痢のことで、コトバンクの「世界大百科事典内の痢病の言及」に、

 

 「… 日本では奈良時代から記録されており,平安時代の《医心方》にも記述され,歴史を通してたびたび流行を繰り返していた。のちには〈痢病〉あるいは〈あかはら〉などとも呼ばれ,江戸時代の医家たちは,その伝染の迅速性に言及している。明治以後も流行を重ね,1893,94年には全国的な大流行となり,両年とも15万人以上の患者,4万人前後の死者を数えた。…」

 

とある。

 赤痢が流行っているので、伝馬なども移動制限になったのか、流行が去ると一斉に動き出す。

 

無季。

 

十七句目

 

   腹疫病のはやりしづまる

 すんずりと苗代めぐむ花の色   沾圃

 (すんずりと苗代めぐむ花の色腹疫病のはやりしづまる)

 

 「すんずり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「すんずり」の解説」に、

 

 「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる) 涼しくすがすがしいさま、気分のせいせいするさまを表わす語。

  ※俳諧・崑山集(1651)六「すんずりと結べばなほるやま井哉〈貞徳〉」

 

とある。「めぐむ」は芽ぐむで芽を出すこと。

 疫病の流行も去り、すがすがしい気分で苗代の苗を育て、桜の花も咲く。

 

季語は「花」で春、植物、木類。

 

十八句目

 

   すんずりと苗代めぐむ花の色

 光かすまぬ伊勢の有明      魯可

 (すんずりと苗代めぐむ花の色光かすまぬ伊勢の有明)

 

 前句を伊勢神宮の御田植の苗としたのだろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「伊勢の御田植」の解説」に、

 

 「三重県伊勢市の皇大(こうたい)神宮(内宮(ないくう))、および別宮(べつぐう)の志摩の伊雑宮(いざわのみや)の神田(みとしろ)の田植行事。内宮では明治に入って中絶したが大正末に復活して5月中旬(日は不定)、伊雑宮では6月24日に行う。内宮の延暦(えんりゃく)23年(804)の儀式帳には田植の記述がなく、建久(けんきゅう)3年(1192)の儀式帳に出てくるので、平安中期ごろから行われたようである。この田植行事は田楽(でんがく)を採用したもので、まず早苗(さなえ)を祀(まつ)って早乙女(さおとめ)に渡し、笛、摺簓(すりささら)、腰鼓(こしつづみ)、大小鼓で囃(はや)し、田植唄(うた)を歌って植えるものであった。伊雑宮では鳥刺舞(とりさしまい)も入っている。しかし、現在では田楽の技芸は不完全である。なお内宮と同一の御田植が、近くの猿田彦(さるたひこ)神社で5月5日に行われている。[新井恒易]」

 

とある。

 有明の月は霞んでも伊勢神宮の御光は霞まない。

 

季語は「かすまぬ」で春、聳物。「伊勢」は名所、水辺。「有明」は夜分、天象。

二表

十九句目

 

   光かすまぬ伊勢の有明

 春風に吹しほらかすけさ衣    史邦

 (春風に吹しほらかすけさ衣光かすまぬ伊勢の有明)

 

 伊勢神宮の光の前には仏道の袈裟衣も萎れて見える。

 

季語は「春風」で春。「けさ衣」は衣裳。

 

二十句目

 

   春風に吹しほらかすけさ衣

 質にながるる百両の家      沾圃

 (春風に吹しほらかすけさ衣質にながるる百両の家)

 

 前句を百両の家を質に入れて流してしまった僧とする。

 

無季。「家」は居所。

 

二十一句目

 

   質にながるる百両の家

 色わるく痩たる顔も化粧して   魯可

 (色わるく痩たる顔も化粧して質にながるる百両の家)

 

 没落した金持ちの令嬢か。もっとも昔は武士も化粧したという。大河ドラマ『真田丸』の北条氏政の顔も浮かんでくる。

 

無季。

 

二十二句目

 

   色わるく痩たる顔も化粧して

 薫じ渡りし白無垢の夜着     史邦

 (色わるく痩たる顔も化粧して薫じ渡りし白無垢の夜着)

 

 老いた遊女だろうか。

 

無季。恋。「白無垢の夜着」は衣裳。

 

二十三句目

 

   薫じ渡りし白無垢の夜着

 穢土厭離打さそはるる鐘の声   芭蕉

 (穢土厭離打さそはるる鐘の声薫じ渡りし白無垢の夜着)

 

 前句を死に装束として無常へと展開する。

 穢土厭離(えんりゑど)はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「厭離穢土」の解説」に、

 

 「苦悩多い穢 (けが) れたこの娑婆世界を厭 (いと) い離れたいと願うこと。「おんりえど」とも読む。欣求浄土の対句で,両者を合せて厭穢欣浄 (えんねごんじょう) ともいわれる。安楽な世界である極楽浄土に生れることを切望することから,浄土願生 (じょうどがんしょう) 思想の根本として,浄土教思想の根底となった。日本では平安時代末期から鎌倉時代にかけて世情の不安に伴ってこの思想が一般に普及された。」

 

とある。

 

無季。釈教。

 

二十四句目

 

   穢土厭離打さそはるる鐘の声

 弁当ほどくもとの居屋敷     魯可

 (穢土厭離打さそはるる鐘の声弁当ほどくもとの居屋敷)

 

 「居屋敷」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「居屋敷」の解説」に、

 

 「〘名〙 町家で、主人の常に居住する邸宅。また、大名の上屋敷。〔東寺百合文書‐を・元亨三年(1323)一一月二〇日・行吉名宛行状案〕

  ※南蛮寺物語(1638頃)「此ゐやしきの内に母親をおきけるが」

 

とある。

 立派な居屋敷はお釈迦様の四門出遊のパロディーになる。四門から外出しようとしたが穢土厭離の思いを起こして家に戻り、外で食べる予定だった弁当を食う。

 

無季。「居屋敷」は居所。

 

二十五句目

 

   弁当ほどくもとの居屋敷

 うき事の佐渡十番を書立て    沾圃

 (うき事の佐渡十番を書立て弁当ほどくもとの居屋敷)

 

 「佐渡十番」が不明。流罪になった世阿弥が佐渡で謡曲を十番書いたということか。特にそういう史実があるわけではないが。

 

無季。

 

二十六句目

 

   うき事の佐渡十番を書立て

 名古曽越行兼載の弟子      芭蕉

 (うき事の佐渡十番を書立て名古曽越行兼載の弟子)

 

 名古曽は勿来の関で、場所は不明。北茨城といわき市の境に勿来の関があるが、本当にここだったかどうかは定かでない。磐城平藩の殿様が東北の様々な歌枕を領内に擬えて作った、その一つと思われる。

 連歌師の猪苗代兼載は会津の出身で陸奥に縁がある。ここでは本人ではなくその弟子が勿来の関を越えたとしている。あくまで作り話で、特に故事はないと思われる。

 前句を世阿弥のこととして、対句的に作る相対付けであろう。

 

無季。「名古曽」は名所。「弟子」は人倫。

 

二十七句目

 

   名古曽越行兼載の弟子

 かぢけたる紅葉は松の間々に   魯可

 (かぢけたる紅葉は松の間々に名古曽越行兼載の弟子)

 

 「かぢける」は生気を失うこと。前句の勿来の関の風景とする。

 

季語は「紅葉」で秋、植物、木類。「松」も植物、木類。

 

二十八句目

 

   かぢけたる紅葉は松の間々に

 袂そぬらす宵の月蝕       沾圃

 (かぢけたる紅葉は松の間々に袂そぬらす宵の月蝕)

 

 この興行が七月何日のものかはわからないが、国立天文台の「日月食等データベース」によると、元禄六年(一六九三年)七月十七日に皆既月食があった。さっそくそれをネタにしたのかもしれない。

 月食で辺りは暗くなり、紅葉も色を失う。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「袂」は衣裳。

 

二十九句目

 

   袂そぬらす宵の月蝕

 御しとねの上さへ風は身に入ミて 史邦

 (御しとねの上さへ風は身に入ミて袂そぬらす宵の月蝕)

 

 「しとね」はコトバンクの「家とインテリアの用語がわかる辞典「茵」の解説」に、

 

 「敷物の一種。綿(わた)や筵(むしろ)の芯(しん)を畳表(たたみおもて)または絹織物で包み、縁をつけた座具。平安時代は、座る人の身分によって縁の材質や色が決められていた。また寝具として用いるものもあり、この場合は「褥」の字をあてることが多い。」

 

とある。

 ここでは寝具の褥であろう。月食で真っ暗になり、愛しい人も通ってこない。

 

季語は「身に入ミて」で秋。「しとね」は居所。

 

三十句目

 

   御しとねの上さへ風は身に入ミて

 愛らしげにも這まはる児     魯可

 (御しとねの上さへ風は身に入ミて愛らしげにも這まはる児)

 

 児(ちご)はここでは幼児のことであろう。褥で寝る貴婦人は子持ちだった。

 

無季。「児」は人倫。

二裏

三十一句目

 

   愛らしげにも這まはる児

 すすめとて直キに院家の廻ラるる 里圃

 (すすめとて直キに院家の廻ラるる愛らしげにも這まはる児)

 

 前句の児(ちご)をお寺の稚児とする。やがて勧進のために院家を廻ることになる。

 院家(いんげ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「院家」の解説」に、

 

 「〘名〙 大寺に属する子院(しいん)で、門跡(もんぜき)に次ぐ格式や由緒を持つもの。また、貴族の子弟で、出家してこの子院の主となった人。院主(いんす)。

  ※太平記(14C後)三〇「山門園城の僧綱、三門跡の貫首、諸院家の僧綱、并に禅律の長老」

 

とある。

 

無季。釈教。「院家」は居所。

 

三十二句目

 

   すすめとて直キに院家の廻ラるる

 夏も小野には鶯がなく      乙州

 (すすめとて直キに院家の廻ラるる夏も小野には鶯がなく)

 

 院家は小野にあり、山の中なのか、夏でも鶯がなく。

 小野はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小野」の解説」に、

 

 「[一] 京都市山科区南端の地名。中世には小野郷。真言宗善通寺派(もと小野派本山)随心院(小野門跡)、醍醐天皇妃藤原胤子の小野陵がある。

  ※拾遺(1005‐07頃か)雑秋・一一四四「み山木を朝な夕なにこりつめて寒さをこふるをのの炭焼〈曾禰好忠〉」

  [二] 京都市左京区八瀬、大原一帯の古名。小野朝臣当岑が居住し、惟喬(これたか)親王が閉居した所。

  ※伊勢物語(10C前)八三「睦月にをがみ奉らむとて、小野にまうでたるに、比叡の山の麓なれば、雪いと高し」

  [三] 滋賀県彦根市の地名。中世の鎌倉街道の宿駅で、上代には鳥籠(とこ)駅があった。小野小町の出生地と伝えられる。

  ※義経記(室町中か)二「をのの摺針(すりばり)打ち過ぎて、番場、醒井(さめがい)過ぎければ」

  [四] 兵庫県中南部、加古川中流域の地名。小野氏一万石の旧城下町。特産品に鎌、はさみ、そろばんなどがある。昭和二九年(一九五四)市制。」

 

とあり、いくつかある。

 

季語は「夏」で夏。「鶯」は鳥類。

 

三十三句目

 

   夏も小野には鶯がなく

 雨ふればめつたに土の匂ひ出   沾圃

 (雨ふればめつたに土の匂ひ出夏も小野には鶯がなく)

 

 田舎の方では雨が降れば土の匂いがする。

 

無季。「雨」は降物。

 

三十四句目

 

   雨ふればめつたに土の匂ひ出

 縄でからげし家ゆがみけり    里圃

 (雨ふればめつたに土の匂ひ出縄でからげし家ゆがみけり)

 

 家を縄でぐるぐる巻きにすればゆがむ。崩れないようにということなのか。

 

無季。「家」は居所。

 

三十五句目

 

   縄でからげし家ゆがみけり

 塩物に咽かはかする花ざかり   乙州

 (塩物に咽かはかする花ざかり縄でからげし家ゆがみけり)

 

 前の縄で縛られた家の住人は、花盛りだというのに塩漬けの保存食ばかり食べていて喉が渇く。

 

季語は「花ざかり」で春、植物、木類。

 

挙句

 

   塩物に咽かはかする花ざかり

 奈良はやつぱり八重桜かな    沾圃

 (塩物に咽かはかする花ざかり奈良はやつぱり八重桜かな)

 

 奈良の人は塩辛いものを好んだのか。その奈良で花盛りといえば、

 

 いにしへの奈良の都の八重桜

     けふ九重ににほひぬるかな

              伊勢大輔(詞花集)

 

であろう。

 

季語は「八重桜」で春、植物、木類。「奈良」は名所。