鈴呂屋日乗2011

12月31日

 いつものように正月の料理を作った。
 昨日から「魔法少女まどか☆マギカ」を見た。絵だけ見ると「カードキャプターさくら」みたいだが、中身は全然違って、何かFF10に「ひぐらし」を足したようなシリアスな展開だった。魔法世界の画面が奇麗だった。
 テレビで「銀河鉄道の夜」のことをやっていたが、今さらながらに「輪るピングドラム」の晶馬はジョバンニ、冠葉はカムパネルラだとわかった。

 ミュージックシーンを振り返ろうと思ったが、ここ何年か、ヒット曲の実態が把握しにくくなった。
 配信の比率が高まったにもかかわらず、相変わらずマスコミが大々的に取り上げるのはCDチャートばかりで、アイドルグループばかりが名を連ねている。配信でミリオンが出ても、ほとんど話題にならない。
 CDチャートに比べ、配信は業界全体での集計が難しいからなのだろうか。
 昨日の新聞に「縮む音楽市場」というのが一面にあった。
 もちろん、目に見えて縮んでいるのはCDだけで、「配信も頭打ち」とはいうものの、配信の方は高止まりであることには触れていない。
 数字を見れば、CDは2011年1~11月までで1億7584万枚、配信は2011年1~9月(CDよりも2ヶ月短い)で2億8467万回。両方合わせれば4億6061万ということで、CDのピークの4億5717万枚を越えている。
 もちろんCDには何曲も入っているし(捨て曲も多いが)、配信の方は回数ベースで勘定されているから、単純に比較はできない。
 いずれにせよ、CDチャートだけを見て、あたかも日本にはAKBと韓流とジャニーズしかないかのように思うのは間違いだろう。最近では斉藤和義の「やさしくなりたい」が配信でミリオンになったというが、CDは累計で7万枚だという。

 政治の方は、ネットでは国家公務員の給与総額が40兆だとか60兆だとか、どこから出て来たかわからない数字でもって、増税しなくても公務員の給与20パーセントカットで財政再建ができるなんてのがまことしやかに語られている。
 みんなの党のほうは、あいかわらず30兆の埋蔵金があるから増税しなくてもいいとか言っているが、百歩譲ってそれが本当にあったとしても、毎年44兆の国債を減らすのにどれほど役に立つのかわからない。
 こんなのに騙されて、結局日本は財政破綻>IMF支配>増税の嵐という道を歩むのだろうか。
 では、良いお年を。

12月26日

 そして、読み始めてちょうど一年。
 この一年、世間ではいろいろなことがあったし、あの震災もあったが、何とか4巻読みきることができた。
 震災の後、ドナルド・キーン氏が日本に帰化したということもあり、生まれながらの日本人として、非力ながらも何とか日本の古典の面白さを世に伝えなければと、その気持ちは一つだったと思う。
 震災があったからこそ、日本の文化を見直し、この国に誇りを持ち、復興への力としなければならない。特に「源氏物語」は、今日のジャパンクールの原点とでも言うべきもので、これがなければ今の日本のマンガアニメの文化も、「萌え」の文化もなかったのではないかと思う。
 これからも、この10年は遊べそうなゲームに取り組むことで、日本を元気にしていきたいと思う。

12月24日

 輪るピングドラム、終っちゃったな。
 鉄道を異界との接点にするのは、「銀河鉄道の夜」以来のしばしばでてくるモチーフで、地下鉄もまあ、外が真っ暗なのが夜みたいだし、あの二人は方南町の方へ行っちゃったんだろうな。
 本来相容れない二つの世界が交錯する時、死者と生者が自在に入れ替わり、幻想の世界が生じ、そこで誰が本来生きるべきで誰が本来死ぬべきかが決定される。
 その命のやりとりを愛と呼ぶなら、一つの教訓として、今生きているのは誰かが自分の命と引きかえに生かしてくれたからであり、その命をくれた人は今異界にいて、その存在すら知ることはできない、ということか。
 地下鉄サリン事件でも今回の震災でも、別の並行宇宙では自分が犠牲者になってたかもしれないと思えば、生き残った以上死者の分まで生きなくてはならない。そういうメッセージなのかもしれない。

12月18日

 今日はホットカーペットの上に敷くカーペットを取り替えた。
 新しいカーペットだとすずちゃんが喜ぶのかと思ったが、古いカーペットを丸めた所にいつまでもいるし、新しいカーペットにはまったく乗ろうとしない。少し匂いを嗅いだり、ちょっと手でつんつんしたりはしたが、あとはテーブル上に乗っかって、カーペットの所を飛び越えて行く。
 ネットで買った『源氏物語湖月抄』の中と下が届いた。今のペースだと全部読むのに10年以上はかかるし、中巻の澪標巻に行くまでにも3年はかかりそうだが、今のうちに確保しておいた。
 夕方からはテレビでトヨタカップを見た。
 柏レイソルはあと一歩だったが、考えてみれば開催国枠で出たチームが、ちゃんと予選を勝ち抜いたアジアチャンピオン相手にここまでやれば十分なのかもしれない。柏は来年もチャンスがあるのだし。
 バルサはやはり凄かった。ボールの支配率が高いのは日本代表も同じだが、日本の場合はいつまでもパスをまわすだけでなかなかシュートにいけない。メッシがいるかいないかの差か。
 ネイマールはどこかで見たような顔だなってずっと引っかかってたが、本田だ。

12月13日

 「絆」という字は本来糸でもってぐるぐると巻きつけ、動物でも人でも動けなくするという意味で、日本語の「きづな」も牛や馬を繋ぐ紐を意味していた。いつから今のようなポジティブな意味になったのかはよくわからない。
 「キズナ」というとすぐ思い浮かぶのはTHE BACK HORNの「キズナソング」だが、作詞者の菅波栄純は福島出身だ。

 「誰もがみんな幸せなら歌なんて生まれないさ
 だから世界よもっと鮮やかな悲しみに染まれ」

 別に悲しみを喜ぶわけではない。悲しみは直視しなければいけないということだ。
 今年一年、明るいニュースもたくさんあったかもしれないが、やはり悲惨な現実から目をそらしてはいけないし、もちろん絶対に忘れてはいけない。
 互いに痛みを感じあう中から、共感が生まれ、微かなキズナが生まれ、それが一番輝くのだと、この歌は教えてくれる。

 「ありふれた小さなキズナでいい
 そっと歩みを合わせてゆく僕ら
 街中にあふれるラブソングが
 少し愛しく思えたのなら素晴らしい世界」

 震災前の歌だけど、今聞くと復興ソングのように聞こえる。
 「絆」というのは、もちろん今年一年の世相を表す文字ではない。これはスローガンであって、あくまで希望にすぎない。実際には震災はいたるところ人と人との絆を壊してしまった。
 被害の大きい所、小さい所、放射線の影響のあるところ、ないところ、それぞれ立場が変れば言うことも違う。
 ちょっとした発言でも誰かがそれで傷つくのかもしれないが、それを恐れて縮こまってしまっても、人と人とがますますよそよそしくなってしまうだけで、絆は生まれない。
 現実には、今年一年の世相は「縮」だったのではないかと俺は思った。発言も行動も萎縮し、経済も萎縮し、震災は結局日本を何も変えることなく、ただみんないつ突然終るかわからないささやかな日常を守るだけで、精一杯になってしまったように見える。

12月11日

 午前中は車を点検に出し、午後はアニメ版のムシウタを見た。早く12巻出ないかな。

11月27日

 27日の日光へ行く電車のなかで、水月昭道の「ホームレス博士」(2010、光文社)を読んだ。
 この頃、そうそうたる経歴を持つ学者がテレビのバラエティー番組でバカやってるのはそういうことなのか、わかったような気がした。
 まあ、大学院に行けなかった俺としては、10万人の博士が貧困にあえいでいるのはざまあ見ろで、俺は運転手というちゃんとした定職についているから、結婚もできたし、やつらよりはいい暮らしをしているし、こうして休日には奥の細道を歩く余裕もある。
 昔、山本七平は「日本人は水と安全をただだと思っている」と言ったが、(水の方は水道の水質悪化で、80年代くらいからガソリンより高いミネラルウォーターがスーパーに並ぶようになったが、)俺はこれに加えて「日本人は考えることをただだと思っている」と言いたい。
 企業は社員に過度の忠誠心を求め、会社のためにアイデアを出すことはあくまで義務であり、どんな会社に貢献する画期的な発明をしても金一封程度で終るのが常だ。だから考えない人間ばかりになる。
 学歴社会といっても、学歴はあくまで真面目に与えられた課題をこなしてきたという証明であって、誰も独創的な新理論など求めていない。常識を勝手に破ってもらっても困るし、上下関係を乱す元になると考えるのが普通だ。
 一つのことで高度な知識を持つという点では、「オタク」も「学者」も同じで、組織にはうざい存在なのだ。単純に言えば自分より頭のいい部下は使いたくないのだ。
 日本人は優秀な民族だから、大学院出はもとより、学歴はなくてもそこいらの博士に負けないような人間はごろごろいる。あまりたくさんいるから、需要と供給の関係で値段がつかない。
 だが、世界を見れば需要はいくらでもあるだろう。できる博士は、既に欧米に引き抜かれてノーベル賞を取ったりしている。そうでない博士でも猫ひろしになるという手はあるだろう。それにはやはり、日本が開国する必要がある。TPPで外国との雇用の障壁がなくなれば、10万人のプータロー博士にも買い手はつくのではないのか。
 俺も以前、このままではそのうち日本のホームレスがノーベル賞をもらう日が来るというようなことを書いたことがあったが、ありえないことではない。
 若い頃画期的な仮説を立てた学生が、日本では何の評価もされずにせいぜい自分のHP で発表する程度に終り、そのうち困窮してホームレスに転落する。たまたまそれを読んだ外国の学者が、画期的な新理論として世界に広め、やがてノーベル賞の候補となる。そのうち、その外国人学者が本当に独創でその理論を作ったのか疑いが持たれ、ついに日本のHPを見たことを認める。こうして、誰も聞いたことのないような日本人が突然ノーベル賞に選ばれる。マスコミが躍起になって調べた所、新宿でホームレスをやっていることが判明する。こうして、「ホームレスがノーベル賞受賞」というスクープが世界を駆け巡る。
 こういうのは小説のネタとしてどうだろうか。

 今日は石黒光男さんの絵を部屋に飾った。
 三人の女の踊っているかのような動きのある絵で、周りにはたくさんの鳥たちが描かれている、部屋の癒し効果が一気にアップする絵だ。
 絵は3日前に届いていたのだが、そのまま飾るとすずちゃんが悪戯しそうで、額にアクリル板を取り付けようと思い今日まで封印されていた。
 ホームセンターで厚さ2ミリのアクリル板を買い、カッターナイフで必要な大きさにカットしたが、結構簡単ではなかった。
 何度もカッターで同じ所をなぞり、少しずつ切って行き、ある程度の深さになったら折るのだが、この時一部、線より5ミリほど外側に割れてしまい、糸鋸で切り落とした。
 何とか完成し、とりあえず部屋に絵を飾ることができた。

11月24日

 鹿沼へ行った時と同様、朝早く出て、日光到着は9時20分だった。
 曾良の「旅日記」の「同二日、天気快晴」の記述に合わせたかのように、今日は朝から快晴だった。前に日光へ行ったときから20日が過ぎ、紅葉は見ごろを過ぎて山は冬枯れになっていた。
 神橋を横に見ながら日光橋を渡り、ホテルいろはの手前を左に入ると、人はいなくて静かだった。
 ひぐらし荘の先に磐裂神社があった。境内は苔むしていて庚申塔がたくさんあった。
 その先の浄光寺の前を左に行くと橋があり、憾満ガ淵(含満ガ淵)は川の反対側だった。
 慈雲寺の小さな山門をくぐると小さなお堂があり、その向こうにお地蔵さんが並ぶ。右側に川が見えてきて、大きな岩の間をすべるように水が流れてゆく、これが憾満ガ淵だ。
 小さな東屋のようなものがあるが、これは霊庇閣という、護摩供養のための護摩壇らしい。対岸の岩には何かが書かれているようだがよくわからなかった。(ネットで調べてみると凡字だという。)説明版には「対岸の不動明王の石像」とあるが、それもどこなのかわからなかった。とにかくここが憾満ガ淵の中心のようだ。
 そこから先もお地蔵さんが並び、遊歩道は川から離れてゆく。そこに小さな稲荷神社があった。額には糠塚稲荷社と書かれていた。
 しばらく行くと大日橋があり、再び川に出る。橋を渡って下に下りると大日寺の跡があり、芭蕉の「あらたふと青葉若葉の日の光」の句碑があった。
 120号線に出るとすぐに裏見の滝へゆく分岐点に出る。そこから2.5キロという表示がある。
 日光三名瀑の一つでありながら、今はやや忘れられたような存在で、車もほとんど通らない。右側には古河電工の所有地の看板があり、整然とした住宅地になっている。その先には安良沢浄水所があって、タンクには大きく「日本の光。日光 NIKKOU is NIPPON」と書かれている。
 あと500メートルのところに駐車場があり、ここから先は遊歩道になっている。最初の急な登りはけっこうしびれる。
 登り切るとその先に滝が見えるが、まだあれではない。
 途中、小さな石仏があり、その向こうにも滝が見えたが、それもまだ違う。そのさらに奥に見えたのが本物のようだった。
 近くへゆくと遊歩道は小さな展望台みたいな所で終っている。
 滝の裏へと、なるほど人がやっと通れるかどうかの獣道のようなものがあるが、滝の水に濡れてかなり危険そうだ。
 途中に仏像があり、滝の裏を過ぎると板が斜めに渡してあって、さらに奥に登れるようだが、さすがに今日のいでたちを考えると、「そんな装備で大丈夫か」と言われそうで、結局展望台止まりにした。
 裏見の滝を見終わって駐車場まで降りてくるとちょうど12時で、曾良「旅日記」の「漸ク及午」と重なる。ただ、芭蕉と曾良の場合は逆コースで、憾満ガ淵を見終わったのが12時ごろだったか。
 120号線に戻り、日光駅の方へと戻る。この頃から空はどんよりと曇ってきた。
 途中、夜鳴き石、花石神社、日光八幡宮、青龍神社があった。
 花石神社の鳥居の脇には若山牧水の歌碑があり、境内には焼加羅(たきがら)の碑という元禄11年に死んだ名馬の碑があった。芭蕉が来たときにはまだ健在だったから、見たりしたのだろうか。
 日光八幡宮には大正11年銘の狛犬があり、これが今日の初狛犬となる。隣に輪王寺の釈迦堂と延命地蔵尊がある。
 青龍神社には苔むした古い狛犬があった。銘は見つからなかったが、ネットによると明暦(1655~1657)の狛犬だという。阿形の方は鼻が欠けて下唇が突き出たように見える。
 東照宮の前で昼飯に湯葉丼を食ったあと、鉢石のあたりの酒屋でお土産のお酒(自然醸 清開)を買い、東武日光駅の手前の信号を左に曲がり、川を渡り、東武大桑駅へと向った。
 とりあえず霧降大橋をわたり、右に曲り、県道247線に入った。川の向こうには東武日光駅の三角屋根が見える。さらば日光。
 日光市には公園が多い。少し行くと右には運動公園、左側も公園になっていて松並木の散歩道が道路に並行している。別にこれが旧道というわけではないのだろう。芭蕉の通った道は抜け道で、特に街道ではなかったのだろう。だから、それがどこにあったのか、今となってはわからない。ただ、大谷川の北岸のどこかを歩いたのは確かだろう。
 左側の公園の道は程なく途切れて、県道247に戻る。右側はゴルフ場が延々と続く。
 右側のゴルフ場が終り、東照宮晃陽苑があり、その先に今市特別支援学校が見えてくると、その先にもまた公園があり、左側にも教習所のミニチュアのような交通公園のようなものが見える。その先に分岐点があり、ここが旧道の入口のようだ。
 曲がるとすぐに男体山の石塔があり、その横には石祠や石仏が並んでいた。こういうものを見ると、ここは古くからある道なのだという実感がわいてくる。これまでの県道247では、こういうものは見なかった。
 その先にも馬力神、馬頭観音などの石塔があり、こういう道なら、芭蕉が通ったとしてもおかしくはない。ただ、この道も瀬尾の交差点を過ぎると急に細くなり、やがて途切れてしまった。
 この道は今でも抜け道なのか、車が時折通る。その車の流れにしたがって右に曲がり、次を左に曲がって道なりに行くと大桑バイパスのセブンイレブンの裏に出る。
 道の反対側にはココスがあって、その向こうには杉並木が見える。会津西街道だ。会津若松へと続く道で、途中にはあの大内宿もある。東武鬼怒川線が並行して通っていて、大桑もその宿場の一つだった。
 曾良の「旅日記」には大桑宿の記述がないので、そのあたりは通ってないとすると、おそらく古大谷川に沿った、瀬尾から川室へと最短コースで抜けてゆく道があったのだろう。
 ところで、その方向に進もうにも、まず大桑バイパスには信号も横断歩道もない。車の途切れたのを見計らって自力で渡れということなのか。渡ったはいいが、右側にあの杉並木のほうに抜ける道がない。
 結局さっきのセブンイレブンのあたりまで戻り、会津西街道の杉並木の道に出る。そうこうしているうちにもうすぐ4時。日も傾いていて薄暗くなってくる。とりあえず大桑駅まで急ごうということで、そのまま会津西街道を歩き続けた。
 つい一ヶ月前、一生分の杉並木を見たと思ってたが、今日もまた延々と杉並木。
 かろうじて4時2分の快速に間に合ったと思ったら、ダイヤが乱れていて38分遅れているとのこと。結局15分くらいして区間快速が来た。取りあえずこれに乗って帰ったが、予定より30分は遅くなり、家に帰ったのは8時過ぎていた。

11月23日

 今年は多分これで最後になるだろう「奥の細道」を歩く旅の続きで、今日は日光で見残した憾満ガ淵、裏見の瀧を見た後、大谷川の北側を通り、瀬尾を経て東武線の大桑駅まで歩いた。
 詳しくは明日。

11月13日

 今日はギャラリー日比谷へ石黒光男展を見に行った。
 ずいぶん久しぶりだが、思わず頬が緩むような石黒ワールドは健在だった。
 隣のかごしま遊楽館でつけ揚げを買って帰った。やはり揚げたてはおいしい。

11月7日

 日光までの旅が終って、ふと思ったのだが、鹿沼から日光までの27キロを歩いたのだから、季候さえよければ東武線大桑駅からJR矢板駅まで歩けるんじゃないかという気がしてきた。
 まだ裏見の瀧が残っているし、次回は裏見の滝を見たあと上鉢石まで戻り、大谷川の北側を通る道を瀬尾を経て川室の手前の大桑駅でセーブし、その次の回に大桑から矢板までの旅を計画したい。そこから先は未定。

 「時間は実在するか」(入不二基義、2002、講談社現代新書)についての続きだが、著者が代案として提起している「形而上学的立場」は、残念ながら時間の心理的内的経験の叙述であって、時間そのものについての議論ではない。
 つまりこの議論では時間が実在するかどうかではなく、単に時間が人間にとってどのように体験されるかを語るにすぎない。それが実在の時間であるのか、そうでないかは何ともいえない。
 たとえ、心理的時間が唯一の実在の時間であり、物理的時間はその反映に過ぎないと主張するにしても、その逆の主張、つまり人間の心理的時間は物理的時間の反映にすぎないという議論も可能であり、アンチノミーに陥る。スチールメイトだ。
 心理的時間の内省的研究にも、もちろん意味はある。それは脳がいかに時間を認識するかという問題に先行的な役割を果すからだ。いかに脳の生理的メカニズムが明らかになっても、それがなぜ我々が体験しているような現象に映るのかが解明されなければ、本当の意味で意識の謎が解明されたわけではないからだ。
 心理的時間が唯一の実在の時間であるという極端な観念論を避けるなら、内省的時間論をもって時間の実在が証明されたというわけにはいかない。時間の実在の問題は、物理学的な仮説と検証の繰返しによってしか解決できない。

11月3日

 前回は日光に到着したが、駅前の土産物屋を見ただけで帰ってきてしまった。今日は同行二人で、東照宮参拝。
 同行二人というのは、お遍路さんが一人旅でも弘法さんと一緒という意味で笠に書き付けたりするが、ここはその意味ではなく、芭蕉が曾良と二人で旅すると言う意味で書き付けたほうの意味。
 今日はこの前よりは若干遅めで、7時ごろに家を出て、北千住から東武の快速に乗った。今日は混んでて座れなかった。周りは中国人ばかりで、どうやら貧乏な日本人とリッチな中国人は同じレベルのようだ。
 晴れて暑くなるという予想に反して、朝からどんより曇っていて、日光に着いたときにはポツリポツリと雨まで降り出した。
 昼飯に金谷ホテルのパンを買い、土産物屋の並ぶ街道を歩き始めた。早速二匹の猫に出会った。猫使いと旅をすると、自然と猫が寄ってくるのか。
 入場料を払って神橋を渡った。ただ、通り抜けはできなくて、渡ったらまた引き返してくるようになっていた。神橋は修学旅行だとバスから眺めるだけで、ほんの一瞬チラッと見えるだけだった。季節がら、七五三の着物を来た子供が来ていて、記念写真を撮っていた。
 輪王寺は修復中で本堂が完全に建物に覆われていた。ここは今日はパス。
 東照宮はさすがに人が多かった。
 狛犬もたくさんあった。まず仁王門の裏、次に陽明門の裏、この二対は神殿狛犬で金ぴかに彩色されていた。眠り猫を見ておく院へ進むと、途中に寛永の石の狛犬が一対、その先の鋳抜門前にブロンズの狛犬があった。ブロンズ狛犬は遠くで眺めるだけだった。家康の棺のある御宝塔の前に、鶴亀と一緒に玉取りの獅子があるが、これは片方だけ。戻ってくると陽明門の前に石の柵を背にした逆の方向を向いた狛犬があった。「飛び越えの獅子」というらしい。来る時には柵の影になっていて気づかなかった。
 三猿のある神厩舎は、修学旅行の時は三猿しか印象に残ってなかったが、他の猿の像もわかると面白い。遠くを眺める猿があって、その隣に三猿が来る。
 三猿は庚申塔にも刻まれていたりするように、本来は道教の三尸の虫が人間の体から抜け出して、天帝にその人間の罪をチクるというので、それを防ぐために夜通し起きているというところから来たもので、いつの間にかその夜が「庚申(かのえさる)」の日であるところから、三匹の猿に摩り替わったのだろう。罪をチクらないように、何も聞かなかった言わなかった見なかったという姿で描かれる。
 次に空を見上げている猿が来る。おそらく月を見ているのであろう。次に下を見下ろす猿と下に向って手を伸ばす猿が来る。これは池に移った月を取ろうとする猿なのだろう。若い頃は遠い目をしていた猿も、罪を知ると目を閉ざすようになり、月を取ろうなどという分不相応な野望を抱いては、池の月をすくおうなどという愚行を繰り返す。まあ、人生というのはそんなものか。
 陽明門もたくさんの彫刻がある。碁をする聖人、麒麟?に跨った聖人、ふにーとした虎など、全部解読していると、本当に日暮しの門になりそうだ。誰かそういう研究をしている人はいないのだろうか。
 次に隣の二荒山神社に行った。ここは特に縁結びに力を入れることで東照宮と差別化しているようだった。狛犬はなかった。境内社が境内社と思えないくらい立派な建物で、さすがこのクラスの神社は違うと思った。
 そのあと田母沢御用邸記念講演で昼食を食べた。途中大正3年の古い教会があった。なかなか味のある洋館だ。
 その少し先の空き地でも白猫に出会う。今日3匹目。
 東照宮は一回りするだけでかなり時間がかかり、日帰りの旅ではこれくらいが限界で、すぐに帰路についた。芭蕉と曾良も、朝未明に鹿沼を出発して昼ごろ日光に着き、東照宮近辺を回ってその日は上鉢石の仏五左衛門の家に泊まり、含満淵と裏見の滝を見たのは翌日だった。修学旅行のコースでも一日は華厳の瀧・奥日光、もう一日が東照宮周辺だった。そういうものだろう。
 帰りは下今市からスペーシアに乗って新宿へ出た。朝来た時と違って、聞こえてくるのは日本語だけだった。これが日本人の経済力だ、というところか。
 渋谷で久しぶりに居酒屋へ行った。この頃の居酒屋は均一料金でタッチパネルで注文と、なかなか進化していた。盛りだくさんの一日だった。
 「日光を見ずして結構というなかれ」というのは昔の人の言葉だが、今の言葉だと「結構」はNo thanksの意味で使われるのがほとんどなので、「日光サイコー」の方がいいかもしれない。

10月31日

 昨日の詳細。

 乗り換え検索は今回もバッチリで、8時45分に新鹿沼に着いた。
 途中北千住の乗換えで東武線のホームを探してしまったが、十分快速電車に間に合った。
 わずか2時間半で、さすがに東武の快速は早い。朝早いわりには結構込んでいて、座るのがやっとだった。
 家を出たときは曇っていたが、新鹿沼に着いたときには薄日が差していた。駅を出て、日光例幣使街道に出るとCoco'sの前に二荒山神社の遠鳥居の跡というのがあった。ここから今日の旅の始まり。
 10月末の日曜日ということもあって、ハローウィンの仮装をした学生の一団とすれ違った。
 右側に白山神社があった。小さい神社だがちゃんと狛犬がいた。新しいもので、平成15年銘。中心部の一部は街道の町らしく整備されている。そのはずれに星宮神社があり昭和49年銘の狛犬がある。
 御成橋を渡ると家は途切れ、杉並木の名残の、所々杉が残っていて、後は別の木が新たに植えられている、鹿沼に来る前にも見たような景色になる。右側に三つの山が並んでいる。生子神社に行く途中の端からも見えた山で、鹿沼の目印ともいえよう。右側には二つのピークをもつ山があり、地図を見ると二股山というのがあるから、多分それだろう。このあたりは鹿沼土の産地のようで、土を乾かしているビニールハウスがある。
 富岡のあたりから本格的な杉並木になり、並木の外側の歩道を歩くことになる。人通りも少なく、人と出会うと挨拶を交わす。都会では考えられないことだ。
 杉並木の中を爆音を立てて何台ものバイクが通って行く。このあたりにはまだ暴走族がいるんだと思うと、何か懐かしい。

 杉並木暴走族も秋深し

 小山に着いた時は35度の暑さだったのを思い出し、

 炎天の道今はせいたかあわだち草

 松平正綱の杉並木寄進の碑があり、このあたりから日光市に入る。とはいえ、このあたりは元は今市市で、看板やなんかには未だに今市市と書いてあるものが多い。平成の大合併で消滅したようだ。
 道路の案内板でも日光市まで何キロって書いてあるが、あれも今市までの距離で、日光駅のあるあたりまでの距離ではない。ただ、日光市に相応しいのは、前方に男体山が見えてくるところだ。
 やがて杉並木の合間からJRの文挟駅が見えてくる、ここを過ぎると杉並木が途切れ、文挟(ふばさみ)宿になる。曾良が「火バサミ」と書き誤った所だ。多分この辺の人に聞いたので訛ってて聞き違えたのだろう。
 このあたりの杉並木は保存レベルが三つあって、特別保護地域、保護地域、普通地域に分かれている。かつての宿場のあったあたりは普通地域になっているようだ。
 右へ分かれる道があり、その角に二荒山神社がある。境内社の星宮神社の前には慶應3年銘の古い狛犬があった。
 ふたたび杉並木になる。ホテル(ラブホと思われる)「ヒグラシ」の看板のあるあたりで、草のなかでガサゴソ音がすると思ったら、雉のつがいが飛び立っていった。こんなに間近で野生の雉を見るのは初めてだ。
 それから少し行くと歩く人も稀なのか、車道脇の歩道は草に埋もれて歩きにくくなってくる。左にヨックモックの工場が見える。ところで、このあたりの道端に、赤い実の粒々がたくさん固まってなっている草をよく見るが、これは何なのだろうか。あとでネットで調べたが、マムシグサの実か。
 ヨックモックを過ぎると道は良くなる。しかし、行けども行けども杉並木だ。昔の人はよくこれだけの杉を植えたものだ。
 そろそろ12時になる。天気予報はたがわず、どんより曇ってきた。
 やがて板橋の交差点が見えてくる。板橋宿のあったところで、曾良も記している。板橋交差点のすぐ先で道が二つに分かれ、右は日光宇都宮道路に通じる新道で、左が日光例幣使街道だ。
 このあたりからふたたび杉並木の特別保護地域になるが、側道がない。仕方なく車道を歩くが、車が結構ぶんぶんと通る。かといって道路わきに行くと道になってなくて草や枝に足を取られる。そうこうしているうちに、頬にポツリと冷たいものが。
 それにしても、最初は凄いなと思った杉並木も、このあたりに来るとそろそろ飽きてくる。なんか金太郎飴のように、行けども行けども同じような景色が延々と続く。これは昔の旅人も結構退屈したのではないか。
 日光宇都宮道路をくぐると、峠のように下り坂に変った。今市はもうそんなに遠くないだろう。室瀬一里塚があった。
 幸い雨は強くならず、ほどなくJRの踏み切りが見えてきて、今市の市街地に入った。
 今市で日光例幣使街道と日光街道が合流する。合流点には追分地蔵尊がある。ここのお地蔵さんはかなり大きくて、普通の仏像のように座っている。だが、赤い涎掛けをしているから、やはりお地蔵さんだ。徳川吉宗の時代にはあったというが、芭蕉の時代にはまだなかったのだろう。
 近くに二宮神社があり、二宮尊徳の墓があった。生まれは小田原だが、栃木県の方に引き抜かれて、最後は日光山領の経営をしていたようだ。二宮神社には明治42年銘の狛犬がある。
 最初は東武線下今市駅までいければと思っていたが、時間はまだ午後2時半で、この調子だと何とか日光までいけそうな気がした。前回は生子神社を出たあたりから足が痛くなったが、今日はまだ調子がいい。
 日光へ向って日光街道を歩き始めると、左に瀧尾神社の大きな木の鳥居があった。風車を祭る神社で境内に点々と風車があった。狛犬は3対あり、一番奥にある物はブロンズ製、銘はわからなかった。叶願橋の前の狛犬は大正2年の銘があった。
 日光街道の反対側は杉並木公園で、しばらく車の通らない杉並木の道が続く。途中、高龗神社があった。何と読むのかわからなかったが、「たかお」と読むらしい。狛犬は明治44年銘。
 しばらく日光街道と並行した旧道を行くが、ここも行けども行けども杉並木だ。30分くらい行くと日光街道の新道に合流する。ここからは車道を歩くことになる。
 江戸幕府がこれだけの杉並木を整備したのは、おそらく旅人へのサービスでもなければ、単なる威信でもないだろう。
 最大の目的は、おそらく旅人に決まった道を歩かせ、寄り道や抜け道をさせないということではなかったか。決まった立派な道がある以上、あえてそこを通らないものは「怪しい」とみなすことができる。
 幕府が直接手を下さなくても、周辺住民が、道を外れて旅するものがいたら自然と怪しいやつではないかと疑うようになる。それが治安の維持につながるという発想によるものではなかったかと思う。これだけ目立つ杉並木なら「道を間違えた」という言い訳は通用しそうにない。
 中世の日本には職人、芸能、商人などたくさんの人が自由に旅し一所不住の生活をしていた。江戸幕府はこうした人たちを定住させ、町の一角に封じ込めていった。それと同じように旅する際にも決められた道を通るように封じ込めていった。それがこの杉並木だったのではなかったか。
 そう考えると、芭蕉が壬生道を一時的に離れて室の八島に立ち寄ったのは、ささやかな抵抗だったのかもしれない。
 新道に出ると、目の前に大きく男体山が見えてくる。ここから先が着きそうで着かない。七里のあたりになると、足が何となく攣りそうな感じになってきて、立ち止まったりゆっくり歩いたりしながら進む。
 ようやくJRの線路をくぐると、JRの日光駅が見えてくる。この少し先が東武日光だ。道が広くなり土産物屋が並ぶ、観光地ならではの風景に変る。ついに日光に到着だ。
 時計を見ると4時半。おみやげに「うまかんべ」という酒を買って帰った。帰りの電車ではフランス語やら中国語やらが聞こえてくる。さすがに世界遺産だ。

10月30日

 今日は一気に鹿沼から日光まで行った。
 街道の杉並木も最初は「おっ」って感じだが、行けども行けども変らない、金太郎飴みたいな同じ景色なのでだんだん飽きてくる。何か一生分の杉並木を見たような気がした。
 最初は下今市までのつもりだったが、時間も体力も残っていたので、一気に東武日光まで行ったが、ここも延々と杉並木だった。
 まあ、これで「奥の細道」の旅も終りかと思うと、達成感というよりも脱力感のようなものを感じる。
 旅の詳細は明日。

10月27日

 出光美術館へ行くまでの間、電車の中で読んでたのは「時間は実在するか」(入不二基義、2002、講談社現代新書)だが、時間が短くてまだ第二章の初めくらいまでしか読んでない。
 これまでのところ、本題のマクタガードの説に行くまでに、ゼノン・アリストテレス・アウグスティヌス・ナーガールジュナ・山田孝雄の説を紹介していた。
 時間非実在論というと、何か突飛な説のようにも見えるが、色彩が非実在であることを考えるなら何ら不思議ではない。
 色というのは、本来物理的には存在しない。ただ様々な周波数の光線があるだけで、それを三原色の受容体でもって感知し、その三原色の配分でもって再構成されたのが人間の感じる色だという。三種の受容体の一つに欠損があったり、あるいは稀にいる四種の受容体を持つ人間には、世界は違った色に見える。
 時間もそれと同様、本来物理的には4次元かそれ以上の高次元を持つ「時空」が存在するだけで、それを人間は三次元の空間+一次元の直線的な時間として認識する。
 我々が感じる過去から未来に至る直線的な時間は、我々の脳が描き出す仮象であり、時間そのものではない。
 だから、過去の時間に関する諸説にも、人間が直接感じ取る仮象の時間に関してはおおむね共通点がある。つまり、「現在」が時間のなかで特別な意味を持ち、「現在」は瞬間としての「今」ではなく、ある程度の時間の幅を持っているものとされている。そして、過去や未来は現在において想起される。
 これに対して時間そのものについては意見はばらばらになる。ゼノンは静止した永遠の存在があると考え、アリストテレスは変化してやまぬものと考え、アウグスティヌスは神の永遠があると考える。おおむね静止説、つまり本来宇宙には時間は存在しないという考え方と、万物流転説に分かれる。
 静止説というのは、たとえば宇宙に何十億年の歴史があるにしても、それは最初からすべて存在していたのであり、ただ人は道をたどるように最初から存在している時間を順番に思い浮かべているということになるのだろう。
 つまり静止説によるなら、すべては運命としてあらかじめ定められているか、あるいは多元宇宙が存在し、絶えず分岐しながら本当は無限のカケラを紡いでいるにもかかわらず、我々はその一つしか認識できないのか、どちらかということになるだろう。
 万物流転説だと、宇宙は結局混沌とした予測不能なものということになる。
 いずれにせよ、我々は生得的に仮象の時間を認識するようにできていて、物理的時間を直接感じ取ることはできない。あくまで仮象時間を仲介してしか認識できない。それゆえ、物理的時間はあくまで仮設であり、検証されない限りどうとでも言える。そのため様々な説が可能になる。
 たとえば四方壁に囲まれた部屋に閉じ込められれば、壁の向こうは見ることができない。壁の向こうに何かあることはわかるが、どうなっているかは想像するしかない。想像である以上、外の世界については何とでも言える。
 壁が崩れて、向こうの世界があらわになれば、たくさんあった仮説は消えて一つの真実があらわになる。
 「物自体」というのは「存在しない」のではない。それについての無数の仮説は存在できる。ただ、物自体は検証できないために物自体になっているにすぎない。
 我々が色彩を認識するのと、物理学的な光の波長の説とは矛盾しない。時間そのものについても、日常の感覚とは異なる大胆な発想の転換が行われた時、これまで考えられなかったような検証方法が考案される。
 科学とは生得的な感覚によって表象された宇宙から大きく発想を変えた仮説を立てることによって大きく進歩する。デモクリトスの原子説などがいい例だ。古代ギリシャ人が気・火・地・水の四元素のモデルにこだわっているうちは、科学のレベルは中国の五行説と大差なかった。物質は原子から成立つという大きく飛躍した発想が、近代になって西洋科学だけを飛躍的に進歩させた。
 時間においても、アインシュタインの四次元時空という仮説が時間に対する見方を大きく変えた。マクタガートの時間非実在論がいつの間にか色あせてしまい、今日その名を、哲学科の学生ですらほとんど知らないというのは、結局そういうことだったのではないかと思う。マクタガートだけではない。ベルグソンの「持続」も今日ではほとんど返り見られることがなくなった。

10月23日

 今日は出光美術館へ「大雅・蕪村・玉堂と仙厓─『笑い』のこころ」展を見に行った。久々に玉堂の作品が何点かそろうというのだが、先週たまたまテレビCFで見るまで知らなかった。何とか今日の最終日に間に合った。
 入ると最初にあったのは池大雅の「山邨千馬図」で、小さくごしゃごしゃと最初何が描いてあるかよくわからなかったが、解説を読んでよく見ると全部馬だということがわかった。これだけ描くのは根気の要る作業だ。
 次の部屋に玉堂の絵と七弦琴が展示されていた。矢張り何度見ても身が引き締まる思いになる。「峰崿隆峻図」は真ん中へんのとんがり屋根の家がいい。「雙峯挿雲図」は何度見ても圧巻だ。
 次の部屋には蕪村の絵があった。蕪村の絵は線が柔らかく親しみやすい分、甘ったるい感じもする。玉堂がブラックメタルなら蕪村はメロスピだ。
 同じ部屋に仙厓の絵も並んでいた。「絶筆碑画賛」は彼一流のジョークだろう。何たって、絶筆と言いながらそれをしっかり描いているのだから。
 「虎画賛」はどう見ても猫だと思ったら、ちゃんと賛に「画虎為猫(虎を画いて猫と為す)」と書いてある。「仙厓の書き損ない」という解説ボードに、参考として「龍虎画賛」の画像があり、そこには「猫か虎かわからない」という賛があったが、こっちの方がまだ虎に見える。
 今回の展示とは直接関係なさそうだが、柿右衛門の陶器製「色絵狛犬」があった。色とりどりの水玉模様のきらびやかな狛犬はメルヘンのようだった。首に猫みたいに鈴がついていた。図録に画像はなかったが、ネットでぐぐったら、画像は一応あった(http://www.yumebi.com/acv22.html)。隣にあった「色絵雲龍文鉢」を見ていたら、ラーメンが食べたくなった。
 ひと通り見終わって、ムンク・ルオーの部屋に行った。ムンクの「殺人」という絵があった。中央にいる女が一見して犯人のようだが、それでは簡単すぎるので実は違うとか何か落ちがあるのだろうか。33分探偵に登場して欲しい。
 ひと通り見終わってもう一周と思っていたら、急に携帯が鳴り出した。休みの日に電話なんてまずないことなので油断していて、ついつい電源を切るのを忘れていた。係員に外に連れ出されて赤っ恥をかいた。気をつけなくてはいけない。それまでの楽しい気分が完全に吹っ飛んだ。
 それでもめげずに、再入場して気を取り直してもう一周した。
 出光美術館を出て、日比谷公園に行くと、ガーデニングショーをやっていた。ガーデンコンテストの作品は面白かったし、農大の学生が学園祭(収穫祭)のプロモーションに来てたりしていた。屋台もいくつかあり、昼飯にチャプチェとスブラキを食べた。
 このあと、まだ時間もあるのでしばらく散歩することにした。
 虎ノ門の金刀比羅宮は狛犬はなかったが、四聖獣の飾りの着いた銅製の鳥居があった。文政四年製。
 ホテルオークラの横を通りアメリカ大使館の前に出ると警官が立っていて、この先立ち入り禁止になっていた。
 左折し、スペイン大使館やスウェーデン大使館の前を通り、飯倉の方へ抜けた。西久保八幡神社があった。2対の堂々たる狛犬があって、かなり古そうだが、銘はなかった。拝殿前の方は左右とも子取りだったが、前足と子獅子の間にかなり隙間が開いていた。
 このあと赤羽橋のほうへ向うと、裏通りから六本木ヒルズが見えた。首都高の一ノ橋ジャンクションがあるあたりは、アニメ「ギルティクラウン」第2話の戦闘シーンの舞台になった所だろうか。
 麻布十番は欧米系の外国人がたくさんいた。坂を上っていくと大法寺の中の稲荷神社に小さな狛犬を見つけた。安永6年銘で、左の方は顔が潰れている。右の方はいくらかマシだった。その先の氷川神社には狛犬はなかった。
 有栖川公園ではドイツフェスティバルが行なわれていた。横浜のオクトーバーフェストは行きそびれたので、ちょっと寄ってこうかと思ったが、とにかく人が凄かったソーセージの屋台には長い行列ができていて、ドイツパンも売り切れ状態だったのであきらめた。ナショナル麻布のあたりも身動きができないほどだった。
 天現寺のあたりを通ったので、以前行った天現寺の狛虎がどうなったのか見に行った。本殿は新しくなり、しかるべき場所に鎮座していた。
 このあと、恵比寿駅まで歩いて、そこから電車に乗って帰った。

10月13日

 前に書いた角田史雄の『地震の癖』(2009、講談社+α新書)のことだが、この本の最大の弱点は、今回の大震災(東北地方太平洋沖地震)を予言できなかったことだろう。
 「いずれにしても、今後の東北─北海道地域の『VE過程』の動きが注目されます」(p.144)
 とあることから、むしろ震源が三陸沖か十勝沖へ移動することを予想していたところがあり、はずれたといえよう。
 これに対し、プレート・テクトニクス理論の弱点は誰もマントル対流を見てないということか。地面の下を掘って確かめるわけにもいかないから、あくまで仮説の域を出ない。マントルトモグラフィは、それを否定する結果を示し、角田史雄氏のスーパーブリュームを支持している。
 まだまだ地震発生のメカニズムにはわからないことが多い。一つの理論だけに偏って多額の予算をつぎ込むのは、外れた時のリスクが大きい。もっといろいろな方面から地震余地の研究を推し進めるべきだろう。
 スーパーブリュームが活発になることで、地磁気が急激に強くなる「ジャーク現象」が起こるなら、それは地電流や動物の地震予知にも関係しているのかもしれない。

 ところで世田谷の放射性物質のことだが、この事件だけを取ってみればミステリーとしか言いようがない。マスコミは多分こぞって犯人探しをするだろう。まあ、松本サリン事件のような冤罪を生まなければいいが。
 それに、この騒ぎにまぎれて、本来の原発による汚染のことが忘れ去られる危険もある。文部科学省航空機モニタリングの測定結果も発表され、関東地方にもかなりの放射性セシウムが降っているのは間違いない(http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/photos/20111007/dms1110071146006-p1.htmを参照)

10月10日

 乗り換え検索によると壬生までは3時間はかかりそうなので、それまではiPodでブラックメタルを流しながらゆっくり読書ができた。
 角田史雄の『地震の癖』(2009、講談社+α新書)は、予想以上に画期的な本だった。
 ブルーハーツの唄に「今まで覚えた全部、でたらめだったら面白い」というのがあるが、70年代から盛んに喧伝され、今や常識にまでなったプレート・テクトニクス理論や大陸移動説が実はでたらめだったということになると、こんな面白いことはない。これは水生人類説や石油無機起源説に匹敵するか、それ以上かもしれない。
 まあ、相対性理論もひょっとしたらひっくり返るかもしれないご時世だから、これぐらいのことで驚いてはいけないのかもしれない。定説なんてのは所詮は信仰だ。
 10時ごろ、ようやく壬生駅に着いた頃には一冊読み終わっていた。この前は幻想的なんて書いたが、静かだけど小奇麗な感じの町だ。蘭学通りは電線を地下に埋めていてすっきりしているし、いたるところに蘭学と街道の町として盛り上げようとしている息ごみが伝わってくる。
 まず駅の反対側の縄解地蔵尊に行ったが、お地蔵さんは堂の中で見ることができなかった。近くにローソンを見つけたので行ってみると、にゃんこ先生の一番くじをやっていた。F賞のハンドタオルだった。店の人がフレンドリーに話しかけてくるところなど都会のコンビにではありえない雰囲気だった。
 蘭学通りに戻り、長屋門を右に曲がり、町役場の前の雷電宮を拝んでから、その奥の雄琴神社に向った。
 雄琴神社は大きな赤鳥居から二の鳥居まで長い参道があり、二の鳥居をくぐると古い楼門があり、その向こうの拝殿の前に二対の狛犬が並んでいた。手前のは天保10年銘、後のは明和6年銘とかなり古い。明和の方は顔が逆三角で狛犬▽。本殿は貞享3年にできたということで、芭蕉が歩いた時代から既にあったようだ。
 ふたたび蘭学通りに戻り、大師町南を左に曲がると愛宕神社があり、銘はないが昭和風の招魂社系狛犬があった。
 さらに少し行った所を左に折れて精忠神社に向った。ここの狛犬も嘉永2年銘で、またしても江戸時代。このあたりも古い狛犬の宝庫だ。
 このあと352号線をひたすら進むことになる。北関東自動車道の下をくぐり、次の角のセブンイレブンの裏に金売り吉次の墓があった。といっても金売り吉次って誰って感じだが、源義経と一緒に平泉に向かう時にここで倒れた人らしい。曾良が「旅日記」にしるしているから、芭蕉と曾良も見たのだろう。近くに吉次の守護仏である観音様を祭ったお堂があった。
 その少し先に稲葉の一里塚があった。
 このもう少し先左側に梅林天満宮がある。ここにも狛犬があり、銘はなく、かなり磨耗しているが、なかなか味のある狛犬だ。
 北赤塚の判官塚古墳の反対側にも神社があり、そこにも狛犬があった。ここにも何気に安政5年の銘があった。あとでどこかの塀に張ってあった地図を見ると、磐裂根裂神社と書いてあった。磐裂根裂はなんて読むのかわからなかったが、家に帰ってから調べたら「いわさくねさく」だそうだ。
 やがて一里塚が見えてきて、そこから先は昔の街道の杉並木が残っていた。その横の木が茂ってる所に赤い鳥居があり、よく見るとその隣に石の鳥居もあった。磐裂根裂神社もそうだが、このあたりの神社は注連縄が低くたらしてあって、中央が太くなっている。これをくぐって通る形になる。愛宕神社だが、狛犬はなかった。
 並木道に戻ると左は千趣会ベルメゾンの巨大な配送センターがある。よく見ると杉じゃない木もあり、後から足したのだろうか。並木道を行くとやがて東北自動車道をくぐり、293号線と合流する追分交差点がある。このあたりから楡木宿になる。293号線はかつての日光例幣使街道だ。
 楡木の北のはずれの奈佐原に奈佐原神社があった。ここも古い狛犬の宝庫で、拝殿前の狛犬は天保5年銘、境内社の前には2対の狛犬があったが、手前の方は安政6年の銘が見て取れた。奥の方はよくわからなかったが、やはり古いそうだ。鳥居の前にも一対の狛犬があり、銘はわからなかったがやはりかなり古いもののようだ。(ネットで調べた所によると、鳥居の前のは安政6年、境内社の奥のは天保6年だという。
 樅山駅を過ぎると、生子神社(いきこじんじゃ)の入口の看板が見える。泣き相撲で有名だという。そういえば赤ちゃんの泣き声の大きさを競わせるというのは、何かテレビで見たような気がする。
 ところで、壬生道の道端には「馬力神」と書いた石塔がいくつかあった。生子神社へ行く途中でも見かけたが、最初は馬頭観音の一種かと思ったが、どうもそうではないらしい。元は愛馬の供養塔だったものが、明治になるとこのあたりは軍馬の産地になり、戦死した軍馬の供養塔として数多く建てられたようだ。それとは別に日露戦争徴馬記念碑もどこかで見た。
 馬は人間のように靖国神社に入ることはできないが、戦争で死んだ馬だって英霊には違いない。藁にまみれて手塩にかけて育てた馬を偲んで、この土地の人は馬力神として祀っていたのだろう。
 生子神社にはその泣き相撲のための土俵があった。狛犬は安政4年銘。
 ここまで来ると、鹿沼はすぐそこだ。新鹿沼駅前まで来ると旧市街に入る。やはり昭和を思わせるようなうらぶれた商店街が続く。
 こういう景色は古い町ではどこにでもある風景で、昔ながらの商店主は昔ながらのお客さんの相手をし、昔ながらの付き合いのある問屋から仕入れていて、みんなそろって年取って行くから、昔ながらのやり方をわざわざ変える必要もなく、そこだけ時間が止まったようになってしまう。
 若者は郊外の新市街に逃れ、そこには日本中どこへ行っても同じような郊外型店舗やコンビニが並ぶ。鹿沼もそんな感じの町のようだ。
 幸手や鷲宮は、本来は時間の止まったような旧市外に、急にアニメで町興しを始め、何とか変ろうと努力を始めたのだろう。「らき☆すた」とは程遠そうなじいさんばあさんが「つんだれソース」を売っている光景は、ほほえましい。壬生もやはり観光名所で町興しをしようとがんばっている。こうした所には旧市街と新市街の分離がそれほどない。だが、鹿沼は分離してしまった町のように見えた。かえって町が大きいとそうなるのかもしれない。
 東武線新鹿沼駅で今日の旅は終った。さすがにここまで来ると列車の本数は少ない。特急電車は満席のようで、日光は紅葉の季節でにぎわっているようだ。多分あと二回くらいで日光にたどり着けるだろう。

9月29日

 「うみねこのなく頃に」で、検証されるまで科学説と魔法説の二つが並存するというのがあったが、これは実はカントのアンチノミーの問題に通じる深い問題でもある。
 人間の発する問いは必ずしも検証可能なものばかりでなく、物自体にかかわる検証不能な問題が提起された時、二つの並行する説は永遠に交わることがない。
 たとえば神の存在や聖書に書かれた奇蹟などについても、実際に検証することができない以上、それが「ない」ということを証明することも困難で、悪魔の証明に陥る。
 カントはそこで倫理的に必要という理由でキリスト教を擁護した。
 しかし、ひとたびそれを認めてしまうと、同じように良心の声から、ユダヤ教の方がすぐれているだとかイスラム教の方が優るだとか、ならば仏教は、神道は、ドルイドはということになり、悪魔崇拝や様々な新興宗教に至るまで、「汝なしうる」ということになってしまう。
 そして、それをお互い普遍的な道徳法則にかなうものだと主張しあって、人類唯一あるべき宗教に高めようとすれば、当然ながら宗教戦争になる。
 霊肉二元論の考え方だと、良心は一切物理現象とは関係のない、非物質的な精神(霊)に由来する。しかしこのようなものが存在するかどうかは、物自体に属するためアンチノミーに陥る。それは倫理的に可能なものにすぎない。
 可能性にすぎない以上、それは自由であり、どのような宗教も可能になる。
 証明できないものについての議論は水掛け論にしかならない。
 どの立場も一様に、自分達の信仰こそが本当の定言命令であり、絶対的な道徳法則だと主張して譲らない以上、そこに正教と邪教の区別は困難になる。どの宗教も自分達は正教であり、他は邪教なのだから。
 そのため、法律は一律に「信教の自由」としか言うことができない。これが西洋理性の限界といっていいのだろう。

 しかし、霊魂の存在を仮定せずに、人間の倫理意識やいわゆる「定言命令」に関して、それが何らかの進化の産物による生得的なものだと考えるなら、多くの宗教にある程度共通の倫理認識が存在するのがわかる。
 倫理は精神ではなく肉体であり、肉体の生理的感覚に反するかどうかで、そこに健全な宗教と異常な宗教との線引きができるはずだし、ほとんどの人は実際にそういう判断をしている。何でもかんでも一律に「信教の自由」とすべきではない。
 神々の世界は自由でありそれゆえ多様である。だが、その根底にあるものは一つ、それを見出さなくてはならない。

9月25日

 光より早いものは、俺は多分あると思う。そうでなければ人間の「意識」が説明できないからだ。
 相対性理論では「同時」というのは存在しない。ほんのわずかでも観測点がずれれば、そこを結ぶ光の速度の分時間がずれるからだ。それでも人間が「同時」を感じ、そこに可逆性を見出す。そのため「選択」が可能になる。もちろん本当は物理法則にしたがっているだけなのかもしれないが、それでも人間は「選択を下すことができる」と意識しているのは事実だ。それは時間を止めたりほんのわずかでも遡ったりできなければ不可能だ。
 人間の脳は分子装置で、分子レベルまでの現象を処理するのは得意だが、量子レベルになると大きな発想の転換を要求され、凡人の頭脳ではついてゆくことが困難になる。意識の問題が長いこと解決できなかったのも、それが分子レベルの思考の限界を超えているからではないかと思う。
 ニュートリノは検出しにくいもののありふれた物質だというから、何かこの問題の鍵となるのかもしれない。「幽霊素粒子」とも言われているが、単に影が薄いというだけでなく、ひょっとしたら本当に霊魂の問題にかかわっているのかもしれない。

 小山へ行く時の電車のなかで『躍進する新興国の科学技術』(2011、ディスカバー・トゥエンティワン)を読んでいたら、韓国の特徴として「選択」と「集中」が挙げられてた。たとえば医療分野では、医療機器には集中的にお金をつぎ込むが薬品の方は遅れてたり、そういうアンバランスがあるようだ。
 これはK-popでも同じなのだろう。アイドルには国策で金をつぎ込んでも、ロック、ヒップホップ、メタル、オルタナにはさっぱりで、だからいいなと思うバンドがあってもなかなか新譜が出ないし、すぐに廃盤になる。
 しかも、かつての日本製品がそうであったように、徹底的に輸出国のニーズに合わせる。だから、韓流アイドルの曲は日本人の作詞作曲だったり、歌唱法まで日本のヴィジュアル系を真似ててたりする。
 韓流と言いながら韓国らしさがまるでなく、本国ではNGの臍だし衣装や日本人に媚びた発言をするところから、日本と本国と両方から叩かれている。

9月23日

 道端には小枝や葉が散乱して、「茶を木の葉かく嵐かな」の状態で、まだ台風の爪跡が残る中、久々に「奥の細道」の旅の続きへと出発した。
 倒れた木が、とりあえず小さく切り分けられて積まれてたりもする。
 押上駅の乗り換えのことで懲りたので、前回からはちゃんとネットで乗換駅を検索してから行くことにした。
 渋谷を出たところで緊急停止したが、すぐに動き出し、赤羽駅での快速ラビットへの接続には問題がなかった。
 快速ラビットはさすがにラピード(rapid)で、本を読んでいる間にうさーっという感じで前回のセーブポイントの小山に着いた。
 ラビットというと、鉄道模型メーカーのアーノルド・ラピードがよく間違えてアーノルド・ラビットと言われてたのを思い出す。快速ラビットは英語だとrapid survice rabbitだから、駄洒落でつけたのだろうか。
 7時少し前に家を出て小山に着いたのは9時。今回はまず曾良が「旅日記」に記した「小山ノヤシキ、右ノ方ニ有」に向った。
 駅から真直ぐ旧日光街道を越えて国道4号に出ると、その向こうに小山市役所が見えて、その手前の広大な更地が小山御殿の跡地というのがあった。
 曾良は右の方と言ってたが、どう見ても街道の左側だ。と、ここの説明版をよく読むと、最後に「小山御殿は天和2年(1682)、古河藩によって解体されました」とあるから、芭蕉と曾良が通った元禄2年には既にここに小山御殿はなかったことになる。曾良は小山御殿が解体されたことを知らず、何か別の建物(本陣か何か)と間違えたのだろうか。
 旧日光街道に戻り、旅を再開する。すぐに左側に元須賀神社がある。今日最初の神社だ。
 その少し先の右側に愛宕神社がある。いかにも古そうな狛犬で吽形の方のあたまのってっぺんに穴があいている。天明3年の銘があった。早速大きな収穫となった。
 両毛線のガードを過ぎる頃からぽつぽつと雨が降り出した。そういえば小山の駅を降りた時にもちょっとぽつっと来ていた。ちょうどファミマがあったのでビニール傘を買った。
 その少し先の左側に日枝神社の参道入口がある。参道を行くと4号線の向こうにあった。この頃には雨が本格的になっていた。狛犬は二対、大正15年銘と平成2年銘のものがあった。境内にはシートで覆われた土俵があった。

 秋雨に芭蕉の苦労知れとか也
 秋雨も35度よりまだましだ

 曾良の「旅日記」に「木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル」とある、日光街道と壬生道の分基点は、今では喜沢東の交差点になっていて、馬頭観音などの石塔があった。
 壬生道に入ると、左右に小山ゴルフクラブがあり、その敷地内に一里塚と古墳があった。ゴルフ場に古墳というと、昔読んだ豊田有恒の小説に、ゴルフに夢中になったプレイヤーが貴重な古墳を破壊しまくるという自虐ネタっぽいのがあったのを思い出した。
 やがて扶桑歩道橋に突き当たり、ここにも馬頭観音の石塔があった。
 左ヘ行くと姿側にかかる橋があり、この頃一時的に雨がやんだ。
 壬生道はここから姿川と思川にはさまれた所を行く。ふたたび雨が降り出す。
 やがて道の両側に家が並び、飯塚宿になる。台林寺と天満宮が並んでいたが、天満宮の方はかなり荒れていた。狛犬等はなかった。
 曾良の「旅日記」によると、「飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ」とあり、「ルアー・フライ」の看板があるところで十字路になっていたので、この辺からだろうかと思った。おそらく土地の人に聞いたら、室の八島へ行くんだったら、とにかく川に沿って行けばそのうち惣社河岸(そうじゃがし)の渡しがあるだべさ、って感じでざっくり言われたのであろう。そのため、どの道を通ったかは今では不明と言うしかない。
 ここで寄り道になるが、紫式部の墓とやらがあるというので右へ行ってみた。
 畑の中の道の向こうには雨だけど筑波山が見えた。先の方は杉木立になっていて、底に何やら東屋のようなものが見えた。
 近くに行くと「若紫亭」と書いてあり、源氏物語絵巻の大浦富子模写のものや、作中に登場する和歌などが書かれていた。
 その近くに紫式部の墓と呼ばれている石塔があった。結構大きく堂々としたものが3基、本当に墓なのかどうかもよくわからない。説明板によると、姿側沿いにあったものを明治初期にここに移し、この付近が紫という地名だったことから紫式部の墓と言われるようになったと「思われます」とのこと。
 まあ、本来日本と何のつながりもないのに「赤毛のアン」や「サンタクロース」のテーマパークが日本にあったりするのだから、この村にも「源氏物語」のファンがいて、よくわからない供養塔を紫式部の墓に見立てて、今でいう村おこしでもしようとしたとしてもおかしくはない。実際、この塔は「しもつけ風土記の丘」の一部として公園になっている。古墳や国分寺跡はともかくとして、万葉植物園や「防人の道」など、特に縁のないのに作ったりしている。
 今日はあいにくの雨で人がいなかったが、桜の季節にはそれなりに人が来るのだろうか。どっちにしても、トイレがあるのはありがたかった。
 来た道を戻り、「ルアー・フライ」の看板に戻ると、今度は逆方向に行き思川の川原を目指した。
 真直ぐな田んぼの中の一本道は、やがて土手のような所で突き当たった。川は見えなかったが、ここが思川の土手なのは間違いない。
 河川敷はおとといの台風のせいでかなり荒れていた。この道を芭蕉が通ったかどうかはしらないが、とにかくこの道を川沿いに進んだ。途中小さな社があった。
 だんだん道が細くなり、大光寺橋の近くに出た。川沿いの道はここまでで、橋を渡った。この頃には降ったり止んだりだった雨も完全に上がり、日が差してきた。
 反対側を川沿いに進もうとするが、道がわかりにくく、いったん川から離れたりしながらふたたび川沿いに出ると、川が氾濫したのではないかと思われるような、草がなぎ倒されている所に出た。
 グランドのあるあたりがおそらく芭蕉が川を渡った惣社河岸だろう。曾良の「旅日記」には、「ソウジャガシト云船ツキノ上ヘカカリ、室ノ八島ヘ行(乾ノ方五町バカリ)」とあり、ここから乾、つまり北東の方角に室の八島があるのだが、そこからグランドの脇を通る乾の方角の道はひどくぬかるんでいて靴がすっぽりめり込む。おそらく川が氾濫して、泥が運ばれてきたせいだろう。
 金森敦子の『芭蕉「おくのほそ道」の旅』(2004、角川oneテーマ21)では、寛政12(1800)年に越谷から杉戸へ向った大江丸がぬかるみに難儀したことを書いていたのに、芭蕉も曾良も春日部の先で雨が降ったことは記しても難儀した様子がないのを不思議がっているが、その答はこれなのではないか。
 大勢の人が踏み固めた道は、本来ちょっとやそっとの雨ではそれほどひどくぬかることはないのだが、ひとたび川などの氾濫があると泥が運ばれて悲惨な状態になる。その差ではなかったか。
 とにかく乾の方角の道は通行困難ということで、ここから室の八島ヘ行くにはもと来た道を戻らなくてはならない。それと、最近建立されたという、惣社河岸の碑も見ておきたい。ふたたび大光寺橋の近くに戻りあのグランドの反対に出ると思われる道を探した。
 それらしい道を行くと、やがて突き当たりT字路になる。その付近がまたぬかるんでいる。幸い靴がめり込むほどではなかったので何とか右に行くと公衆トイレがあり、そこで靴を洗うことができた。
 そのすぐ先にはさっき見たグランドがあり、そこから先はぬかるんでいるのでさっきの道に間違いはない。
 このあたりに碑があるのだろうとうろうろしたが見つからず、「笠島やいづこ」とはこんな気持ちなのだろうか。
 しょうがなく乾の方向に歩き出すと、さっきのT字路のすぐ先にその碑があった。さっきは右に曲がったので背中になって気づかなかっただけだった。
 グランドから惣社河岸の碑を経て真直ぐ行くと益子醤油の本社に出る。残念ながら真直ぐ進む道はない。
 左ヘ行き広い道を横切り、突き当りを右へ行くと旧四ヶ村樋門再鑿碑があり、その少し先を左ヘ行く。すると室の八島入口の信号に出て、大きな通りを渡ると室の八島の大神神社の参道になる。
 参道は杉並木で、右側はすぐ道路になっているが左側は鬱蒼としている。芭蕉と曾良が屍僕化した猿や猪に襲われるはこのあたりか、ってそれは森晶麿の「奥ノ細道オブ・ザ・デッド」の方だった。
 室の八島の大神神社に来るのはこれが二度目。去年の5月4日に那須へ行った帰りにも立ち寄っている。あの時は車で来て、着いたのが夕方だった。
 今回はまだ3時ちょっと過ぎで、時間も早い。ただ、帰りの時間を考えると早々ゆっくりもしてられない。曾良の「旅日記」に「スグニ壬生ヘ出ル」とあるのを信じ、壬生へと向った。もちろん芭蕉の通った道はわからない。とりあえず大神神社を西の方に出て、少し行くと信号のあるところに出たので、そこを右に曲がった。
 少し行くと桜木神社があった。社殿は神社っぽくない普通の建物で、境内には今時珍しい公衆電話がある。狛犬はだいぶ磨耗してたが、あまり獅子っぽくなく犬に近いタイプ(お狐さんか?)で明治8年の銘があった。
 さらに東武船のガードをくぐって行くと保橋に出、思川を渡る。地図でみると西の方に癸生という地名があるが、曾良の「旅日記」に「毛武ト云村アリ」というのがこれらしい。芭蕉と曾良はここよりもう少し川上の方を通ったのか。癸生はケブと読むらしく、室の八島の煙(けぶり)に通じるので曾良があえてメモしておいたのだろう。
 川を渡ると壬生の町でとりあえず駅へと向う。静かな田舎の駅で、土産に地酒でもと思って駅前の商店街を歩いたが、スーパーもコンビニもない昔ながらの商店街が続き、どことなく昭和にタイムスリップしたような幻想的な町だ。
 酒も商店街の普通の酒屋で買った。土産用の小瓶がなく、大光寺橋の近くにある北関酒造の北冠純米酒の一升瓶を買った。日光連山伏流水仕込みと書いてあったが、室の八島の煙もこの伏流水と川の水との温度差から生じた湯気だったのか。
 さすがに壬生駅から帰るのは遠い。次はここからスタート。すぐにというわけにもいかないだろう。

9月19日

 今日も天気はいいがかなり暑くなりそうだ。
 今日も近場で、保木から王禅寺のほうへと歩いた。
 日吉ノ辻の手前にその名前の由来となった山王社があった。いつもこのあたりを通るのだが、鳥居がかなり石段を登った奥にあるので気づかなかった。日吉という名前がある以上、日枝(日吉)山王社があってもおかしくない。古語では「酔ふ」に「ゑふ」「よふ」の交替があったように、「吉野」に「よしの」「ゑしの」、「日吉」に「ひよし」「ひゑ」の交替があったのだろう。
 石段の上に小さな社殿があり、狛犬等はない。隣には小さな稲荷神社があり、蜘蛛の巣を払いながら石段を登ると、小さなお狐さんがあった。
 日吉ノ辻を過ぎ、裏門坂の向こうの武州柿生琴平神社はいつも初詣でくる所だが、放火で消失した本殿が再建されていた。狛犬2対も復活。昭和57年銘と天保9年銘のものがあり、天保の方は小さいがなかなかの名品だ。
 さらに早野の方に行くと子ノ神社に向う。クズや鶏頭の花が咲いていて、暑いけど花は秋だ。子供の頃は鶏頭のあの色やしわしわを気持ち悪いと思った。どこか血の色の連想が働くから、正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」が名句になったのだろう。「白菊の‥」だったら特に何てこともなく忘れ去られたのではなかったか。
 子ノ神社には大正6年銘の狛犬があった。子取りの方の長く伸びた前足が特徴だ。
 下麻生の月読神社まで行こうかと思ったが、昼飯を買って帰らなくてはならないので、今日はこれまで。

9月11日

 今日も暑くなりそうなので、「奥の細道」ではなく横浜トリエンナーレを見に行った。
 今回のメイン会場は横浜美術館で、地下鉄桜木町駅で降りて、ランドマークタワーを通り抜けて行った。
 会場の前ではウーゴ・ロンディノーネの像がモアイ像のように一列に並んでいた。大体みんなここで写真を撮るようだ。
 これはきっと甲田学人の「missing」に出てくる「できそこない」だろう。異界に引き込まれた時に自分の姿を忘れてしまったために、こういう大雑把な姿になったみたいな像だ。本当は「moonrise.east」というタイトルのようで、1月から12月までを1体づつ表現しているらしい。まあ、月と異界は関係があるから、まったくのハズレでもないだろう。
 会場の向い側の工事現場のフェンスにぺたぺた貼ったあるのも、あれも一応トリエンナーレ出典のアートなのだけど、ほとんどみている人はいなかった。日本の工事現場のフェンスは、殺風景にならないようにいろいろ工夫されているので、何かその一つのように見えてしまう。
 今回は野外展示や野外パフォーマンスはあまりないようだ。第1回のトリエンナーレから、芸術が町に出て来るのを売りにしてたから、ちょっと残念だ。今回はみんなおとなしく美術館の中に納まっていて、芸術が町を侵略するようなことはないようだ。
 震災のこともあって全体に自粛ムードになってしまったのだろう。そういえば、作品にも血みどろ系やエロス系のものがなく、全体に無難でおとなしい作品が多い。これなら家族連れでも安心だ。女性が中心になって作ったせいもあるのか。スーパーフラット系も前回同様影を潜めている。
 エントランスにはまずいろいろな布をぐるぐる巻いた作品が並び、その裏側では何か鏡の部屋のようなものに人が並んでいたが、行列が面倒なのでスルーしたら、それが小野ヨーコの作品だった。
 ポスターにもなっている女性が数人真面目にお掃除しているミルチャ・カントルの影像作品、あれは結局前に人の足跡を消しているのだろうか。みんなが前にいる人の足跡を消していったら、結局ぐるぐる回るしかなくなる。
 石田徹也の絵はひところ話題になったが、自分がレイアウトの一部になっている絵は鉄道オタクの究極の姿か。
 横尾忠則はもう大御所という感じだが、昔のようなサイケな絵ではなく、夜の町のどこにでもありそうなやY字路の渋い絵で、枯れたいい味を出している。わびの境地だ。
 アラーキーも相当な年だろう。もはやはめ撮りは卒業して渋い作品を撮っている。チロの死んだ時の写真がゆきちゃんを思い出させる。
 次の会場の日本郵船海岸通倉庫へ向う。晴れていて歩くには暑い。倉庫を会場にするというのは毎度おなじみのことで、古い倉庫自体が風情があってアートのようだ。
 巨大な粘土のカバがあったり、横倒しの樹があったり、それなりに楽しめる。クリスチャン・マークレーの「The Clock」という影像作品は、実際の時間に合わせて、その同じ時刻の時計の出てくる映画の場面をコラージュしたというもの。きっと映画オタクが見たなら、すぐにあれは何という映画のどの場面ってわかるんだろうな。
 時節がら、東北大震災の被災地の映像を用いた作品もあった。
 桜木町に戻る途中、赤レンガ倉庫の前を通ったら、『第5回 タイフェスティバルin横浜2011』をやっていた。ちょうど腹も減ったので、タイ料理でも食べにと中に入った。
 さっそくタイ風焼き鳥のガイヤーンをつまみにシンハービールを飲み、あとはラオスのソーセージ、ガーナ(タイからはずいぶん遠い)のカレーライスみたいなのを食べた。こういうエスニックの屋台を見ると片っ端から食べてみたくなってしまう。
 そういえば、今回は図録ができてなかった。ネットの公式HPは重くてなかなか画像が表示されない。だから、今回出展した作者や作品のことはあまりよくわからないままだし、元来そんなに現代美術の知識はないほうだから、別に深く考えずに自分なりに見ればいいのだけど、今回のトリエンナーレは町に飛び出さない分、町に埋もれた感じがする。
 いまや街全体にアートがあふれかえっているような状態で、どこにいってもわけのわからないオブジェやアート感覚あふれる広告、看板、PVなどに出会う。マンガやアニメやゲームだって、海外でも評価されるほどのアートだし、そういう中で現代美術も埋没しがちなのではないか。

9月6日

 「沖縄戦犠牲者の靖国合祀訴訟、原告側の控訴棄却」というニュースで、mixiに書こうかと思ったが、意外に早く流れてしまったので、HPの方に書くことにした。

 この問題、靖国神社となるといろいろ政治的な問題がからんでややこしくなるので、こういう例を考えてみた方がいいかもしれない。
 Aという男はBという芸能人の大ファンで、神のように崇めていた。
 Bが死んだ時、Aは自分の金で自分の庭にBを祭る神社を建てた。
 すると、Bの遺族が現われ、自分達は某信仰宗教団体の者で、Bもその信者だったのだから、神社などもってのほかと言って神社の撤去と慰謝料を請求された。

 争点は、まずBがどの程度の信者だったのか、自分が死後神社で祭られることがどの程度不快なのかを既に知ることはできない。
 不快感は明らかに遺族のもので、遺族が狂信的な人たちであれば、当然その不快感はMAXなのだが、Bの心情をそれと一体のものとみなしていいかどうか。
 たとえば、家族がある宗教に入れ込んでいて、死後にその宗教の法式で葬式が挙げられ、墓に入れられたとした時、本人はそれを不満と思っても、既に死んでいるため訴えることはできない。

 好きな人を神社に祭る権利はAには存在しないのか。
 そのさい、神社に祭られたということに、どのような実際上の不利益があるのか。
 もし仮にAがBの遺族に対して参拝を強要するようなことがあったなら、確かに問題だろう。だが、自分だけで勝手に祀っている場合に、そのような不利益が生じるのか、その不利益はAの信仰の自由と秤にかけて、どちらを優先させるべきなのか。

 話を靖国訴訟に戻すと、もし合祀が違憲なら、いかなる宗教団体も信者以外のものを慰霊する行為を行なってはいけないということになるのか。
 たとえば、カトリック教会で震災被害者の追悼ミサを行う時、カトリック教徒の被害者限定で行なわなければならないのか。ある人間の死に対し、異教徒は手を合わせてはいけないのか。普通はどこの異教徒であっても、我々の知らない儀式の仕方であっても、肉親の死を悼んでくれることに不快感はないのではないかと思う。
 不快感を持つとすれば、その宗教そのものが不快な場合に限られる。特定宗教に関する不快感や嫌悪感をどこまで認めるかがこの種の裁判の争点と言ってもいいのかもしれない。

 確かに靖国神社は日本の侵略戦争に常に利用されてきた。(この部分では多分右翼の人は怒るかもしれないが事実は事実だ。ロシアの侵略から国を守るために韓国を併合したことに対して、国土防衛だという言い方もできるが、多くの韓国人の意思に反して行なわれた以上は侵略だ。また、侵略されてもそれによってその国が豊かになればいいじゃないかというのは、いつの時代にもある侵略戦争正当化の論理であり、この論理を採用するなら侵略の事実を認めたことになる。)だが、利用されてきたのが罪であるなら、ニーチェの哲学だってナチスに利用された。
 靖国神社の元にある御霊信仰は日本古来のものであり、靖国神社がその伝統信仰に立ち戻った本来の鎮魂の機能を取り戻す限り、靖国神社は健全な宗教であり、合祀は正当なものとなる。
 左翼は靖国神社を排斥し葬り去るような運動をするのではなく、むしろ靖国神社を日本古来の本来の信仰のあり方に戻すように運動すべきではないかと思う。それは「日の丸」や「君が代」に対しても同じだと思う。
 伝統文化を否定した民族は、たとえ国家が残ったにしても中身は空っぽだ。かつての左翼は伝統を否定してマルクス主義の国を作ろうとしたのかもしれないが、それがなくなった今、一体どんな国を作ろうとしていのか、まったく見えてこない。
 これはもちろん右翼にも言える。ただ強い国を作るだけのために、日本の文化を軟弱だと決め付けて西洋を見習えというなら、左翼と何ら変わりない。

9月4日

 まだ台風の影響も残っていて、今週も「奥の細道」の方はお休みし、「輪るピングドラム」の聖地、荻窪に行ってみた。
 途中新宿の立ち寄り、駅前を散歩するついでに花園神社に行ってみた。
 金網の檻の中に文政4年のブロンズ狛犬があった。なかなか尻尾の火炎の感じがよくできていた。
 境内社の稲荷神社のお狐さんも嘉永6年のもので、子狐が背中によじ登る様が可愛い。正面の大きな狛犬は大正15年銘。裏手には延享年の狛犬がある。
 花園神社のすぐ横に芸能浅間神社があり、小さな富士塚と「圭子の夢は夜ひらく」の碑があった。
 さて、丸の内線で荻窪へ行き南口近辺から散歩した。おぎくぼ画材の古い建物はもうなかった。旅館西郊は塀の看板しか登場しなかったが、なかなか古くて味のある建物だった。川の近くの小さな公園に例のきりんとぶたの遊具があった。近くに石垣と白壁の塀のある大きな家があった。
 北口に回ると、タウンセブンがあり、ここがPing Sevenのモデルのようだ。
 そこをさらに西に行った方に白山神社があり、頭はすぐに狛犬モードに切り替わる。
 結構長い参道を行くと、境内の入口に昭和43年銘のわりと標準型の狛犬があった。
 神楽殿の横にはなぜか石で作った猫の像があった。ふにーという顔で空を見上げてるが、一応眠り猫なのか。横には黒い七福神の像があった。可愛いけど意図がよくわからない。
 境内社のあたりは平成16年に新しく作り直されていて、正面の三峰神社の左右の石のポールには狛オオカミではないがオオカミのレリーフが掘られていた。手前の二つの稲荷神社とは明らかに違う、お狐さんではなくオオカミだった。
 さらに奥には不明の社があったが、そのまえに転々と先代の狛犬やお狐さんが配置され、先代の庭になっていた。眠り猫といい、荻窪の人のアート感覚による遊びなのか。
 一通り荻窪周辺を歩いたあと、荻窪に来たのだからやはり荻窪ラーメンということで、タウンセブン一階の花屋のラーメンを食べた。あっさり醤油で鳴門ののった昔懐かしい感じのラーメンだった。
 帰りの電車で、新宿の本屋で見つけた森晶麿の「奥ノ細道オブ・ザ・デッド」を読み始めた。芭蕉ネタで、芭蕉忍者説や芭蕉ホモ説は昔からのお約束だが、突如江戸に現われた屍僕というゾンビのようなものの正体をつきとめに奥の細道の旅に出るという、いかにもラノベらしい設定になっている。

9月2日

 「A級戦犯は戦争犯罪人ではない」というこの文章だけ見ると、何か野田首相というのはよっぽど頭の悪い人間なのではないかと疑ってしまう。
 だいたい「戦犯」というのは「戦争犯罪人」の略であり、それが「戦争犯罪人ではない」というなら、「白馬馬に非ず」に匹敵する詭弁になってしまう。
 実際、平成十七年の「『戦犯』に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問主意書」にはどこにもこの言葉は書いてない。またしてもマスコミの捏造と思われる。
 正確には「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」であり、東京裁判でA級戦犯とされた人たちは既に名誉が回復されているから、もはや戦争犯罪人ではない、という趣旨の文章だ。
 東京裁判のやり方に対して、個人的に異を唱えるのは自由だが、日本は少なくとも国家としてはこの裁判を受諾している、というのが当時の小泉首相の答えだったと思う。日本が政府の見解として、東京裁判の判決を認めないというのであれば、「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」といってもかまわないだろう。
 野田首相が総理になって、公式見解を変えるのかどうかはわからないが、今の時点では「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」と言うことができないのは当然のことだ。
 なお、当時の野田衆議院議員は

 「小泉総理が『A級戦犯』を戦争犯罪人と認めるかぎり、総理の靖国神社参拝の目的が平和の希求であったとしても、戦争犯罪人が合祀されている靖国神社への参拝自体を軍国主義の美化とみなす論理を反駁はできない。」

と言っているが、靖国神社は基本的に非業の死を遂げたいわゆる「御霊」を鎮めるための神社であり、御霊はべつに犯罪者であろうがなかろうが何ら関係ない。古来神道では、逆臣である平将門が「明神」として祭られているように、大事なのはこの世に恨みを抱いている魂であるかどうかであり、それ以外の条件はない。
 A級戦犯が戦争犯罪人であっても、靖国神社がそれを祭るのはあくまで怨霊を鎮めるためであって、それ自体は軍国主義の美化ではない。靖国参拝が国際問題になるのは、そこのところを十分説明しないからだ。
 靖国参拝は私人としてする分には何ら問題はない。ただ、公式参拝となると神道儀式を伴う限り憲法第二十条第三項の禁じる国の宗教的活動に抵触するおそれがある。当時の小泉首相の回答もそうしたものだったと思われる。

8月23日

 以前に誰も首相に名乗りを上げないと書いたら、今度はみんなで立てば恐くないとばかりにうじゃうじゃ次期首相に名乗りを上げて、相変わらず政策なんてのは似たり寄ったりで、どうせ次の選挙じゃ大敗は免れないのだから、これが首相になる最後のチャンスとでも思ってるのかしらん。
 口先では代替エネルギーが整い次第、順次脱原発を進めると言っているが、代替エネルギー産業を育てるのに必要な電力の自由化や発電送電の分離などはいかにも消極的で、つまり代替エネルギーを潰して、いつまでたっても原発を廃炉にできるような状況を作らせないようにするつもりなのだろう。
 小沢元環境大臣の言う電力輸入なんてのも、大陸で陸続きのヨーロッパと違い、海を越えて送電線を引っ張っても送電ロスが馬鹿にならないから、最初からぽしゃるのを見越してのことだろう。
 結局最初から最後まで菅降ろし=電力会社の既得権擁護だったといえよう。民主は電力労組の組織票が欲しいし、自民や公明は経団連の言いなりだから、利害は一致している。巧妙に政策論争を避け、人格攻撃だけでここまでこぎつけたのは立派としか言いようがない。
 どうやら菅とともに脱原発も終りそうだ。原発依存で日本の華々しい未来があるならそれでいいけど、現実はそうはいかないだろう。
 戦後の世界的な高度成長の原動力となったモータリゼーションやエレクトリゼーションによる消費革命、それより遅れて起こったIT革命が終息に向う今、急速に需要が伸びる要素はない。それでも企業が拡大再生産を続ければ当然慢性的な生産過剰に陥り、デフレが起こる。アメリカもヨーロッパも日本の後を追うようにデフレスパイラルに陥りつつある。
 わずかに近いうちに大きな消費革命が起こる可能性があるとすれば、クリーンエネルギーによるエネルギー革命しかない。今の政治では日本は確実にその波から取り残される。

8月15日

 8月3日でちょっと前の情報だが、
 「南相馬市、飯舘村で微生物を活用した除染実験に取り組んでいる田崎和江金沢大名誉教授(67)は2日、放射性物質を取り込む糸状菌のバクテリアを発見した同村長泥の水田の放射線量が大幅に下がったと発表した。
 南相馬市役所を訪問し、桜井勝延市長に報告した。
 水田の表面は毎時30マイクロシーベルトの高い放射線量だったが、7月28日には一桁台に下がっていた。
 水田では無害のバリウムが確認されており、田崎名誉教授はバクテリアの代謝によって放射性セシウムがバリウムに変わったとみている。
 同村長泥の放射線量が高い湿地で根を伸ばしたチガヤも確認した。
 根にはカビ類が大量に付着、除染効果との関係を調べる予定。
 南相馬市原町区の水田では、バクテリアと、粘土のカオリナイト、ケイ藻土の粉末を使って稲を栽培、除染効果を確認している。
 成果は学会誌『地球科学』に発表する。」
というのがあった。
 これまででもウラン鉱山では微生物を用いたバイオソープションが行なわれてきた。ウランのような重金属を吸着する微生物を利用したもので、排水から放射性ウランを除去するのに役立ってきた。
 去年の「田崎和江金大名誉教授は26日(2011年5月)までに、タンザニアの首都ドドマ近郊で、ウランなどの放射性物質の濃度が高い土壌中に、同物質を吸着する細菌が生息していることを発見した。」というニュースも、こうした放射性物質を吸着する性質の微生物なのだろう。
 原油流出事故の際にも微生物を利用したバイオレメディエーションが既に行なわれていてきたし、土壌汚染にもこの方法は用いられてきた。このことから、福島原発の放射性物質に汚染された土壌も、微生物の力で何とかできないかというのは自然な発想だろう。
 ただ、この報道だと、こうした既存の微生物を利用したバイオソープションが行われたというのではなさそうだ。この記事を読む限り、福島の水田で放射性物質を吸着する糸状菌のバクテリアが発見されたということであり、しかもただ吸着するのではなく、「バクテリアの代謝によって放射性セシウムがバリウムに変わった」可能性があるというのだ。
 セシウム137は自然にベータ崩壊を起こしてバリウム137に変わるが、その半数がバリウムに変わるのには30年かかる(半減期30年)。それより短期間に生体内の反応でこの変化が起こるとしたら、確かにそれは大変なことだ。本当だったら常温核融合並みの画期的なことだ。
 何か昔読んだ新左翼系の本の中にあった、植物の原子転換を思い出した。トンデモ科学も時代が変われば何らかの根拠があったことがわかるのかもしれない。錬金術でも水銀を原料にするという発想が古くからあったのは偶然ではなく、水銀と放射性物質とをこねこねしているうちに、偶発的に水銀に中性子が当ってわずかながらも金ができたということがあったのかもしれない。

8月14日

 今日は秩父の「あの花」の聖地の案内をした。
 朝5時半に家を出たが、関越道は既に混み始め、秩父到着は8時頃だった。駅前の駐車場に車を止めた。
 まだ涼しいうちに、店の開いてない秩父鉄道の秩父駅前周辺や秩父神社を見て回った。
 そういうわけで、今日見た狛犬は秩父神社のみで、堂々とした正面向きの招魂社系だった。
 秩父神社は拝殿・本殿の彫刻が見事で、正面左の「子宝・子育ての虎」はメスが豹になっている昔の人は豹を虎のメスだと思っていたらしい。
 本殿右の「つなぎの龍」というのは、つなが竜ヌゥと何か関係があるのか。
 定林寺を見て、その裏の小さなトンネルでつながっている公園に行くと、トラ猫が三匹いた。
 そろそろじわじわと暑くなってくる頃、市立秩父第一中学校を外から眺めてから秩父橋へ行った。対岸から河原へ降りる獣道のような道があった。鮎釣の人が何人かいた。
 駅前の駐車場まで戻ってくると10時ごろで、既にかなり暑い。車で下吉田の龍勢発射台を見に行った。道がわかりにくく迷った。
 西武秩父駅に戻り、chichiBooでとんこつラーメンを食べた。高菜がないことを除けば本格的な博多ラーメンだった。
 帰りは三峰へ行った時飯能へ出て渋滞したので、今回は青梅へ出て吉野街道を通って帰った。3時間半で帰れた。

8月11日

 今日は朝6時半に家を出て、渋谷から湘南新宿ラインで野木まで行った。野木着が8時38分。早い。
 栗橋へ行く時もこの方法のほうがよかった。やはり押上での30分のロスが大きかった。
 今日は朝からかなり気温が上がっている。おそらく既に30度はあるだろう。脱水症状にならないように気をつけなくてはいけない。
 4号線に出て、少し行くと、右手に鳥居が見えた。八幡神社で拝殿は新築中だ。狛犬2対が残されていて、銘は読めなかった。
 その少し先の左側に大きなトチの木があり、須賀神社があった。狛犬はなかった。
 さらに行き、小山市との境界近く、右手に黄色いヒマワリ畑を見つけた。噂に聞く通り、みんな東を向いていた。野木はヒマワリの町らしいが、見たのはこれが初めて。あちこちに分散してあるのか。見渡す限り一面というわけには行かないようだ。
 小山市に入り、間々田宿に入る。左手に若宮八幡があり、狛犬はかなり小ぶりで明治16年銘。横には大日如来があった。
 さらに間々田には乙女八幡宮、琴平神社、浅間神社、安房神社と神社の密度が高い。浅間神社は富士塚のようだが富士塚ではなく、古墳の上に立っている。
 芭蕉は『奥の細道』の旅のとき、春日部の次にこの間々田で1泊している。かなりのハイペースだが、日光街道のような大きな街道では馬に乗った可能性も大きい。
 間々田から古河へと向うが、そろそろ暑さがこたえてくる。35度はあるのではないかと思う。やっとのことで粟原(南)に来ると、西堀酒造の売店がある。お土産に地酒でも買って行こうと入ると、中は涼しい。酒の保存のためにかなり冷房が効いている。しばらく出たくなかったが、一応「門外不出」という酒を買って外に出た。暑い。
 粟宮で4号線と県道265号線とが分離していて、直進の256号線の方が日光街道の旧道になる。このY字路には横断歩道がない。
 その手前に安房神社がある。これが粟宮(あわのみや)の名の由来なのだろう。
 このあたりには長い参道の神社が多いが、ここもそうだった。参道は杉並木になっていて、いくらか涼しい。参道を行くと、左手の池の中に水神社があり、右手に安房神社がある。狛犬は2対、文政11年銘の狛犬はなかなか状態がいい。もう一対の方は紀元2597年銘で、ということは昭和12年ということか。
 粟宮を過ぎると小山の市街地に入る。12時になり、そろそろ歩くのも限界に近い。小山天神の先のセブンイレブンでまた少し涼を取り、ゆっくり歩き始めると、左に鳥居が見える。小山須賀神社なのだが、例によって参道が長く、4号線を越えた所にあった。
 拝殿前に狛犬はなく、代わりに石の上に小さな牛の形を掘ったものがあった。左の方はまだ何とか牛に見えるが、左の方は恐竜化石の発掘現場のようだ。
 拝殿の左側の外へ出ると明治44年銘の狛犬があった。
 そういうわけで今日は小山駅でセーブ。駅ビルで冷やし中華を食べ、改札前で宇都宮餃子を買って帰った。
 途中埼玉を通る頃空が真っ暗になり激しい雨が降ってきて、荒川は増水してて、水がホームレスの家の近くにまで迫っていた。不謹慎だが蕪村の「大河を前に家二軒」の句が思い浮かんだ。
 東京に入ると雨は止んだ。
 この次は、芭蕉の道をたどるとなると、日光街道を離れ壬生道に入り、室の八島(大神神社)を経て東武線の壬生駅まで行かなくてはならない。もう少し涼しくなってからにした方が良さそうだ。
 ただ、こうした日帰り歩きの旅だと、どっちにしても日光までが限界になりそうだ。日光を出ると矢板まで駅がない。

8月9日

 日曜日に栗橋から野木を歩いた時の往復の電車で、『日本は世界5位の農業大国』(浅川芳裕、2010、講談社+α新書)を読んだ。
 日本の食料自給率の低さは、カロリーベースの統計上の問題で、生産額ベースの食料自給率は66パーセントだという。これは世界第3位の高さだという。日本は農業の生産性の向上が著しく、少ない人数、少ない農地で世界第5位の生産量を誇る農業大国というのが真実らしい。
 まあ、日本は自虐史観が好きで、これもその一つなのだろう。「日本は資源がない」だとかいうのと同じ類だ。
 悪名高い民主党の「人権侵害救済法案」も、結局は「日本は人権後進国」という自虐史観によるものではないかと思う。
 だが、実際欧米では人種や民族や宗教や同性愛者の差別が日本と比べ物にならないくらい露骨で暴動が起こるくらいだし、外国人排斥のテロ事件の先日ノルウェーで起きたばかりだ。
 同性愛だって、フレディ・マーキュリーやエルトン・ジョンがカミングアウトしたりして進んでいるように見えるが、日本じゃ昔から同性愛のタレントがたくさんいて今でもバラエティー番組をにぎわしていて、カミングアウトの必要すらない。
 北欧は女性の社会進出が進んでいるというが、税金で大量の介護のおばさんを雇っているだけだ。
 だいたい、日本に来る有色人種の人は口をそろえて「日本には人種差別がない」と言うくらい、日本はすでに世界有数の人権大国なのではないのか。

 ロンドンの暴動も警察官による黒人射殺事に端を発していて人種差別に関係している。それに不景気ということもあって、久々にLondon's burningという言葉を思い出した。オイルショックがリーマンショックに変わっただけで、何かあの時代を思い出す。

8月7日

 今日は栗橋スタートということで6時に起き、7時には家を出た。
 ところが押上駅に着いて愕然。時計は7時58分だが次の南栗橋行きは8時25分。一体ここはどんだけ田舎なんだ。南栗橋より先に行くのだって1時間に3本は出ている。
 まあ、おそらく東武線を使うのも今回までだろう。次からはJR東北本線がセーブポイントになる。
 そういうわけで9時30分、栗橋駅をスタート。
 さて、利根川を越え、埼玉県ともお別れ。茨城県古河市に入る。しかし暑い。朝は曇ってたのに‥‥。
 昔は渡舟だったが今は橋を渡る。渡り終えて左側に折れると日光街道の旧道になる。ここに中田関所跡があり、スタンプが置いてある。あれ?関所跡って栗橋にもあったがこっちにもあるの?どうやら最初は中田にあって、後に栗橋側に移ったようだ。
 芭蕉の時代には栗橋関となっている。曾良の『旅日記』には「此日栗橋ノ関所通ル 手形モ断モ不入」とある。結構いいかげんだったようだ。関所破りで火炙りになった人はよっぽど運が悪かったのだろう。
 関を過ぎると旧中田宿だが、宿場らしい建物はそんなにない。
 鶴峯八幡神社は街道の左側にあり、拝殿前の狛犬は昭和7年銘。首が長く胸が白い。目玉が彩色されている。両方とも子取りで子獅子が可愛い。
 境内社の前にも文化13年銘の狛犬があるが、だいぶ痛んでいる。
 東北本線の踏み切りの横には歩道橋がある。渡っている間に電車が通り過ぎ、下りたら遮断機が上がっていた。何か損したような。
 その先の茶屋新田に香取神社がある。広い公園に古い赤い鳥居があり、その奥に拝殿があり、狛犬がある。昭和13年銘の狛犬は角ばった顔をしている。
 このあたりの道はだだっ広く、歩道には小さな松が植えられていて、かつての街道の松並木を再現しようとしている。
 古河市街地に入る。道は広くて奇麗に整備されているが、奇麗すぎてかえって宿場らしくない。左手に稲荷神社がある。お狐さんは古いもののようだが檻の中だった。
 さらに古河駅入口を過ぎると小さな琴平神社がある。狛犬はない。その先に「左 日光道」と書いてあるので、左に行き、トミヤを右に行くと、ここはかなり宿場町らしく、古い建物が多くなる。
 やがて261号線に合流し、さらに先で4号線に合流するあたりに野木神社入り口と書いた札があり鳥居がある。このあたりはもう野木宿なのか。かなり間隔が短い。
 参道はかなり長い。二の鳥居の跡があったが、震災で崩れたのだろうか。三の鳥居の向こうに拝殿がある。拝殿前の狛犬は銘が読めなかったが昭和のものだろう。その裏の本殿の前にもう一対狛犬が見えていて、こっちの方が古そうだが、近くに寄れなかった。本殿は古くてなかなか立派なもので、本殿を覆う屋根をつけて風雨から守っている。
 拝殿には大きな立派な絵馬が掛かっている。その下にはなぜかふくろうの写真が展示されていた。
 拝殿左横にブルーシートが掛けられた鹿のようなものがあるが、これは何なのだろうか。
 野木宿もあまり昔の面影はない。ただ、立て札で、野木宿入口、一里塚跡がある。その先に一応石の野木宿道標もあった。
 野木宿のはずれに観音堂がある。
 1時頃、中村屋という佐野ラーメンの店があったので入った。さっぱり系の醤油ラーメンで縮れ麺は腰がある。このあたりは佐野ラーメンの文化圏なのだろう。
 さて、店を出たが、少し行くと右に野木駅の表示がある。今日は多分猛暑日になるのではないかという暑さで、本当は芭蕉の春日部の次の宿泊地、間々田まで行きたかったけど、ここで引き返すことにした。

8月6日

 図書館で『微生物資源工学』(千田佶編著、1996、コロナ社)という本を借りてみた。
 難しいことは結局読んでもわからないのだけど、大雑把に微生物を使って金属を取り出す方法について書かれている。
 元は鉱山の排水などから鉱物を取り出したり、または有害な鉱物を除去したりする技術で、放射性物質の除去にも用いられる。これを応用すれば、廃棄物から鉱物資源を取り出すことも可能だといわれている。
 バイオリーチング、バイオソープション、バイオミネラリゼーションなど、聞きなれぬ言葉だったが、これも何か日本の未来を切り開くキーワードなのかもしれない。
 ゴミがエネルギーになったり鉱山になったり、時代はどんどん進んで行く。本当のエネルギー革命は自然エネルギーではなく、ゴミエネルギーではないのか。

 「輪るピングドラム」の第5回は、最後の方でARBの「ダディーシューズ」が流れていた。懐かしいな、あの頃は青春だった。ライブも見に行ったりしたな。でも振り返ってもいられない。明日に向って生きなくては。

8月3日

 何やら民主党の人権侵害救済法案のことが問題になっている。それによると、

(1) 何人も、他人に対し、公務、商品・サービスの提供、雇用等の社会領域において、人種、信条、性別、社会的身分、門地等を理由として不当な差別的取扱いをしてはならないものとすること。
  * 政府案大綱の「民族、障害、疾病、性的指向」による不当な差別的取扱いも当然含まれる。
(2) (1)のほか、何人も、特定の者に対し、不当な差別的言動、優越的立場においてする虐待等をしてはならないものとすること。
(3) 何人も、差別的取扱いを助長する目的で人種等に関する情報を公然と摘示し、又は差別的取扱いをする意思を公然と表示する行為をしてはならないこと。

(1)の方は、「不当な差別的取扱い」と「正当な差別的取扱い」の違いがどこにあるのかが法案が通ったとしても運用面で議論が必要だし、訴訟で争われることにもなるだろう。
 不当でない「差別的取扱い」というのは、まあ俗に言う「差別ではなく区別だ」というようなもので、男女の非対称性が存在する以上、婦女暴行罪があっても夫男暴行罪がないのは当然だし、男子校や女子校があっても教育の機会均等を脅かすほどのものではないから、こういうのは不当な差別にはならない。
 土俵に女を乗せない、というのはその正当とする根拠が裁判で争われる可能性があるかもしれない。伝統だからというだけでは通らないとなると、女帝の問題も「不当な差別的取扱い」として問題にされる可能性がある。
 朝鮮学校の無償化の問題にしても、朝鮮学校が学校教育法の定める「一条校」でないということで、区別には一応の根拠があるものの、これが正当かどうか議論になるのは必至であろう。
 信条に関していうと、たとえば著しく反社会的な行動をとった宗教団体の信者の雇用を拒否できるかどうか、という問題も出てくる。また、当然左翼の人たちは「君が代」「日の丸」を拒否したことによって法的制裁を受けることに対して、「不当な差別」を主張するであろう。
(2)に関していえば、虐待は言わずもがなだけど、「優越的立場においてする虐待」というからには優越的立場でなければ良いということか。たとえば、日本全体で見るとマイノリティーであっても、局所的にはそこで大半を占める場合もあるが、そこでいじめや虐待が起きた場合はどうなるのだろうか。
(3)はなぜか「不当」という文字がついてない。文脈からすれば「差別的取扱い」は (1)でいう「不当な差別的取扱い」を指すように見えるが、そうではなく、言論に対しては正当な差別であっても公然と表示してはならないという解釈も可能なのは問題だろう。
 これだと、正当な差別的取扱いであっても、公然と意見を述べることができなくなるので、ここが一番の問題点であろう。
 仮に「不当な」に限定されるにしても、不当かどうか議論のあるグレイゾーンでの発言が一方的に「不当だ」とみなされる可能性がある。これに対して反論を試みようにも、その反論自体が「不当な差別」とみなされたのでは、議論そのものが不可能だ。

 救済手続きに関しては、

(2) 一般調査 
 人権委員会は、人権救済を図るため、任意の調査を行うことができるものとすること。

とあるが、「任意」である以上、強制捜査は行なわれないと見ていいのだろうか。

 (3) 一般救済 
 人権委員会は、人権侵害の被害者から申出があったときは、助言、指導、被害者と加害者との調整等の措置を講ずるものとすること。

とあって、あくまで被害者と加害者との調整であって、罰則については書かれていない。
 これを見る限りでは、いきなり令状も持たずに家の中に踏み込んできて、逮捕されたり証拠品を押収されたりという感じではない。
 それでも、ネットの書き込みなどで、君が代・日の丸や女帝問題などで意見を述べた時、削除の指導を受けることはありうる。無視しても罰則のない指導とはいっても、かなりのプレッシャーになるのは間違いないし、あとで罰則規定を追加しないとも限らない。その意味では、言論統制につながる危険な法案であるのはまちがいない。

7月31日

 今日は雨のため「奥の細道」の旅の方はお休み。
 先週の行き帰りの電車のなかで9割がた読んだ『放射線利用の基礎知識』(東嶋和子、2006、講談社ブルーバックス)を読み終えた。
 放射線の専門家ほど、数値でもって絶対安全だだとか、それどころかむしろ体に良いなんて言ったりするが、実験室や医療現場で厳密に管理された状態で照射される放射線と、原発事故によって生じた管理できない放射線とは危険度がかなり違うのではないかと思うのは、素人考えなのだろうか。
 例えて言えば、医者がきちんとした方法で用いるメスも、DQNの手に渡れば恐いようなそんな感じがするのだが。
 管理された状態での測定では最初から放射線が照射される場所を選ぶことができるが、管理されない放射線はどこにあるかわからないから、たまたま測定した地点が安全でも、偶然生じるホットスポットでは危険ということもある。
 よく、素人がガイガーカウンターで測定しても、ほんのちょっとした角度や位置で測定値は違うから、素人の測定値は信用しないようにと言われているが、偶然でもたまたま放射線が集中する所にいるかもしれないというのが恐いのではないかと思うのだが。
 それはともかくとして、この本はもちろん事故前に書かれているし、原発事故の被爆のことに関しては最初の方で若干チェルノブイリのことが出てくる程度だ。むしろきちんと管理された状態での放射線利用についての無用な恐怖を取り除くというのが目的のようだ。
 きちんと管理された状態で、あくまで癌細胞に放射線を照射する目的で人工的に内部被爆の状態を作るという「小線源療法」も医者のメスと一緒で、管理されている限り有用なのはわかる。食品への放射線照射にしても、厳密に管理されている限り問題はないといっていいのだろう。
 従来型原発の場合、最初から核分裂反応の制御がかなり難しくて、容易に管理できるレントゲン装置などと同列に議論はできないはずなのだが、そこを一緒くたにしたところから、いわゆる原発安全神話が生まれたのであろう。
 つまり、管理が容易な放射線利用や原子力発電なら、はるかに問題は少ない。反原発の論理はしばしば逆の意味でその辺を一緒くたにし、放射線を扱うものはすべて危険だなどと言って、文明を捨てて自然に帰れなんていう。
 こういうのはよくあることだ。たとえば、生産性の向上の一つの手段として行なわれたリストラや労働時間延長、賃金カットなどで労働条件が悪化したからといって、他の手段で生産性の向上を図れと言わずに、あたかも生産性の向上自体が悪いかのように言って、貧しくても幸福な社会をなんてぬかす。愚かなことだ。

 話はがらっと変わるが、「輪るピングドラム」の第4回を録画で見たが、ひょっとして生存戦略というのは恋愛のことなのか。ネットではもっと露骨に「子作り」のことだという説もあったが、確かにあの男兄弟二人は妹のことばかり考えていて女っけがない。そうなると、ピングドラムは苹果ちゃん自身のことか。苹果は中国音ではping guoだが、これが何か関係あるのか、それともただの洒落で宛てた文字なのかはわからない。
 あの途中の妄想シーンがTVドラマの「のだめカンタービレ」みたいだった。
 うちの近所では昨日と今日が盆踊りだが、昨日はちょうど始まる頃から豪雨になったが、今日は無事に行なわれたようだ。結構人もたくさん来ていた。

7月24日

 今日は幸手駅を10時過ぎにスタート。旧日光街道へ出る。
 左側に聖福寺という寺があり、その入口付近に芭蕉の句碑があった。
 碑は新しいもので、

    幸手を行けば栗橋の関   芭蕉
 松杉をはさみ揃ゆる寺の門    曾良

という元禄6年9月に深川芭蕉庵で、

 十三夜あかつき闇のはじめかな  濁子

を発句とした興行の句で、芭蕉の句は、

    きり麦をはや朝かげにうち立て
 幸手を行けば栗橋の関   芭蕉

 連句というのは前句がわからないと意味をなさないもので、この碑を立てた人はそこのところがわかってなかったのだろう。
 埼玉は小麦の産地で、かつては切り麦が有名だったのだろう。最初は冬は暖めて温麺にし、夏は冷やして冷麦にしたらしいが、次第に温麺の方が独立して、切り麦は冷麦のことになったようだ。
 前句の「うち立て」を、麺を打つことではなく、早朝の旅立ちのことに取り成して日光街道の旅の句に転じた機知は、前句がないとわからない。幸手の地名も微妙に「去って」に掛かっている。
 聖福寺を過ぎると街道は右にカーブし、そこに一里塚の跡がある。
 旧日光街道はその少し先を左に折れるのだが、熊野神社の道標があったので直進した。北2丁目交差点の歩道橋で4号線を越え、しばらく行くと左手に熊野神社があった。狛犬の銘は読み取れず年代は不明だが結構古そうだ。ずんぐりした体系が愛嬌がある。裏手には自然石に庚申の文字を彫った庚申塔がある。神社の裏を少し行くと田んぼの向こうに権現堂堤の桜並木が見える。春ならばさぞ奇麗だろう。
 街道に戻ると、Yショップに純米吟醸豊明のらき☆すたラベルの張り紙があったので、中に入りお土産に買った。これから先歩くというのに「路次の煩いとなる」とはこのことだ。
 やがて内国府間という信号で4号線に合流する。内国府間は「うちごま」と読むらしい。東海道の国府図は「こうづ」と読むから、kokuhu>kouhu>kouu>kou>koと変化し、濁音化したのだろう。
 このあたりに内国府間八幡神社がある。ここの平成19年に放火にあったようで、「共済保険の満額支給を基に、特別寄付を、有志より募り」再建させたことが碑に記されていた。狛犬も新しく、本殿修復記念平成8年9月吉日の銘が刻まれている。
 川を渡るとすぐに左側の旧道へと分かれる。この川は中川で、あの下町の葛飾を流れる中川だ。
 旧道はかなり狭く、これが本当に日光街道なのかと思ったが、古い石の道標があり、右がつくば道、左が日光道とあるので間違いない。
 やがて正面に鳥居が見えてくる。雷電社湯殿社なのだが、ここにも碑があり、平成13年に不審火で焼けたことが書かれている。1700万円の保険金の範囲で修復するか新たに寄付を募るかで検討を重ねた結果、「苦悩の末新たに地区住民から寄付金を集める事はせず、保険金の範囲内で再建しようと言う事になった」と記されている。やはり保険には入っとくもんだ、ってそういう問題ではない。
 ここの狛犬も古そうだが、銘は読み取れなかった。庚申塔がなかなか彫りの深い立派なもので、着色されてた跡がわずかに残っていた。
 この後どうやら道を間違え、田んぼの中の道がどんどん細くなってゆく。田んぼの脇に蓮の花が咲いている所があり、どうやらこの蓮の花に呼ばれてしまったのだろう。工業団地入口の陸橋までもどり、そこをくぐって権現堂貯水池の脇の遊歩道に出た。対岸はキューピーの看板があり工場団地になっていた。
 新幹線の線路をくぐり細い道を左に行き4号線をくぐる。このあたりは旧道というよりも、多分このあたりに旧道があったという感じだ。小さな側道から4号線に出ると、ピンク色の壁の栗橋大一劇場がある。出演女性のポスターとかが貼られている「あっち系」の劇場のようだ。
 隣に香取宮・八幡宮があった。狛犬はなかった。
 栗橋交差点のあたりも道が途切れてわかりにくいが、狭い所を何とか行くと60号線に出た。ここが旧道になる。すぐに焙烙地蔵がある。昔、栗橋の関で関所破りした人はここで火あぶりの刑になったらしく、その供養のための地蔵だという。
 ここから先、これまでも草加、越谷、春日部、杉戸、幸手で見てきたような宿場町の風景になる。
 やがて利根川の土手が見えてきて、そこに栗橋の関所跡の碑があった。実際の関所はここではなく、土手の裏側の河川敷にあったらしい。
 関所の近くに八坂神社があったが、珍しい狛鯉があった。昭和61年銘で結構新しい。これとは別に狛犬も一対あった。
 栗橋の関を越えて利根川を渡るのは次回にして、ここで栗橋駅に向った。駅前に静御前の墓があった。墓の向い側の店には、栗橋みなみという鉄道むすめのキャラのポスターが貼ってあった。春日部のしんちゃんや幸手のらき☆すたに対抗しているのか、それにしてはちょっとマイナー。
 東武線の栗橋駅から南栗橋駅へ一駅行くと中央林間行きの急行に乗り継ぎできるのは、鷲宮の時と同じだった。これに乗ればそのまま帰れる。何とか4時半に帰り、ちゃんと夕食のソースカツ丼(ソースはツンデレソース、バルサミコ酢味)と味噌汁を作り、土鍋で飯も炊いた。

7月20日

 18日に春日部まで行く電車のなかで、「日本は世界1位の金属資源大国」(平沼光、2011、講談社+α新書)を読んだ。
 日本が金属資源大国だというのは、一つは海底資源、もう一つはリサイクル資源で、将来かなり有望ではあるものの、実用には今後の技術の発展を待たなくてはならないのは再生可能エネルギーと一緒だ。
 日本のすぐれた英知を結集すれば、日本の未来は決して暗いものではないのだが、今回の震災で即戦力ということになるとやはり不安になるのは致し方ない。
 即戦力だけを考えて原発政策を維持しても将来は不透明。だからといって未来のエネルギーを待たずに今すぐ原発を止めるわけにもいかない。
 この本は3月20日に出版されたとはいえ、内容的にはまだ福島原発事故のことが反映されてない。だから、かえって福島以前の状況が今さらながらにそうだったのかと考えさせられる。
 急速に膨れ上がる新興国のエネルギー需要と地球温暖化対策を両立させるには、世界全体で年間32基の原発を新設する必要があると言われ、世界全体が原子力にシフトしようとしていた。この時点ではまだ、日本は原発さえあれば炭酸ガス排出規制もクリアでき、その技術を世界に輸出すればさらなる繁栄も期待できる、というムードもあったのだろう。福島の事故はその矢先に起きた。
 その原発の信頼性が揺らいでしまったことで、世界的にエネルギー政策は混沌としてしまったのだ。
 今後も原発を推進し続けるにしても、そのリスクをどう背負うかを考えなければならない。(自民党の考えるような、電力会社の責任を限定して、国家負担の割合を増やす考え方は、今の日本の国家財政では致命的になる。日本が原発輸出でふたたび高度成長するなんてのはあまりに楽天的すぎて、脳内に巨大タンポポが咲いているかのようだ。)
 今後作られる原発は、当然今まで以上の安全対策が求められる。当然建設コストも上昇せざるをえない。そうなると他のエネルギーとの相対的な競争力も落ちることになる。
 気になるのはやはり液体トリウム原発についての記述だ。この本の著者は、あくまで国内資源の活用が中心で、国内で産出しないトリウムの利用にはあまり関心がないようだ。だが、一方で、レアメタルの精製の際にトリウムが生じることから、中国とインドがかなりこの新原発に興味を持っていて、インドでは実際に稼動していると記している。
 液体トリウム原発がインドや中国を中心に広まれば、当然その先端技術はこうした国が独占し、従来型原発に代わる安全な原発の輸出国として台頭してくる可能性がある。そうなると、旧来の原発技術に固執することはやはり危険だ。そこの所は海江田さんも考えてほしい。
 とにかく誤解のないように言わなければならないのは、今の日本に必要なのは脱原発ではあっても「反原発」ではない。文明を逆戻りさせるような昔の左翼の反原発では、日本はポルポト時代のカンボジアになるしかない。脱原発というのは従来の原発技術のさらに先に進むことだ。

7月18日

 朝早く起きて女子ワールドカップの決勝戦を見た。
 終始押されぎみだったけど、PKにまで持ち込めれば勝てる気がした。本当にそのとおりになった。PK戦の最初のキッカー、あれは日本のお家芸、ころころシュートではないか。あれで完全に流れを掴んだ気がした。
 防戦一方では勝てない。どこかで攻めに転じなくてはならない。
 CMにもあったように、「日本の強さは団結力」だから、仲間を切り捨てるようなことをやってはいけない。原発事故の痛みは福島県民だけでなく、日本人みんなで背負わなくてはいけない。そんなことをこの試合で学んだ気がした。

 「奥の細道」の旅は、今日は春日部スタート。芭蕉の一日目の宿泊地まで3日かかっている。やはり昔の人は凄い。
 春日部というと、いまやクレヨンしんちゃんで世界の春日部になった。駅前にはしんちゃんの大きな看板がお出迎え。春日部というと、「らき☆すた」の聖地でもある。
 狛犬めぐりの方は、まず春日部八幡神社からスタート。文化13年銘のの狛犬はなかなかの名品で、この他にも本殿の横に狛トラがいた。参道の鳥居の前にも明治の獅子山狛犬があった。
 続いて一度駅に戻り、日光街道に出て、春日部東八幡神社に向う。途中、「ぷらっとかすかべ」があり、ここでもしんちゃんがお出迎え。加藤楸邨の家の跡もあった。楸邨はロリ句を得意とした俳人で、今日のオタク文化にも通じる。蕪村の「春風馬堤曲」から楸邨を経て、日本の一つの伝等だと言ってもいいのだろう。
 春日部東八幡神社にも文久3年銘の古い狛犬がある。日光街道は、早い時期から江戸狛犬の文化をこの地域に伝えて来たのだろう。境内社の川久雷電神社には、ほとんど原形をとどめないようなど根性狛犬があった。
 新町橋を渡り、最初の信号を右折すると、日光街道の旧道に入る。
 この旧道に、小渕一里塚があった。この少し先で、4号線に合流する。
 少し行くと、左側にかなり痛んだ山門が見える。観音堂で、「このたびの地震で山門が損傷の疑いがあるので山門を通らないで下さい」という立て札があった。震災のせいもあるけど、それ以前から相当痛んでいたのではなかったか。
 北春日部のあたりから、屋根にブルーシートを敷いた民家など、鹿島へ行った時にお馴染みとなった光景が目立つようになる。震災の被害は古利根川の向こうとこっちとでは違ってたのかもしれない。
 景色の方も、春日部まではずっと建物が途絶えることがなかったが、ここに来て田んぼがちらほら見えてくる。
 やがて杉戸町に入ると、地球をかたどった36度線のモニュメントがあった。
 アストロプロダクトのあるY字路を左へ行くと、ふたたび旧道になる。九品寺があり、ここにも日光街道の道標を兼ねた庚申塔があった。
 さらに行くとワークマンの裏に小さな社があり、そこには結構古そうな狛犬があった。銘はよく読めないが、慶應?
 堤根(南)で4号線に合流し、その先の堤根で旧道が右に分かれる。このあたりで左側に古利根川が見えてくる。
 右に近津神社があり、ここの狛犬は参道の方を見ずに後ろの方を見ている。「見返り狛犬」とでも言うべきか。元治元年銘。
 社殿は放火によって消失したので寄付を募るような立て札があった。小さな真新しい社殿が建っていたが、かつては美しい彫刻の施された古い社殿があったという。
 近津神社は貞享元年にはすでにあったというから、芭蕉もこの神社の前を通ったのだろう。
 その先には愛宕神社前という信号があり、左側に愛宕神社があった。狛犬は明治41年銘。結構傷みがひどい。
 杉戸宿を抜けると、ふたたび4号線に合流する。しばらく郊外の殺風景な道が続く。日を遮るものがなくて暑い。
 ジェームズの所から左へ、ようやく旧道に入る。線路を越えると工事中の圏央道の橋脚が見えてくる。ベルグ幸手南店を左に曲がると小さな太子堂があった。
 ふたたび線路を越えると、幸手神明社がある。鳥居の横には螺不動(たにしふどう)と書いた石碑もある。狛犬は大正11年銘で、子取りでも玉取りでもなく、両方とも牡丹の花を手にしている。唐獅子牡丹?
 少し行くと幸手駅が見えてくる。この駅前の通りには「らき☆すた」の幟があり、ここも「らき☆すた」の聖地であることがわかる。
 本来ならここで幸手駅でセーブしてそのまま帰る所だが、せっかくここまで来たからということで、鷲宮神社まで足を延ばすことにした。
 電車で東武動物公園まで戻り、そこから東武伊勢崎線への乗り換えだが、電車は久喜でもう一度乗換えだった。
 鷲宮の駅にはらきすたの神輿が展示してあった。
 来週は夏越祭だが、一週間早かったせいか、駅前も町も静かだった。駅前には本物の神輿も展示されていた。
 神社の駐車場にはいわゆる「痛車」が何台か停まっていたが、境内も静かで大きな狛犬があった。年代はわからなかった。
 大きな神社で境内社もたくさんあり、掛かっている絵馬は噂に聞いたとおり、奇麗な漫画イラストの描かれたものがたくさんあった。願い事をするという以上に画力をアピールする場でもあるのか。
 駅前でお土産にツンダレソースを買い、駅の近くのスーパーで鷲宮という地酒があったのでそれも買って帰った。久喜まで来ると中央林間行きの急行が来たので、乗ればうとうと居眠りしている間に家に着いた。遠いのか近いのかよくわからない。

7月17日

 今日は一休み。
 『輪るピングドラム』の録画を見た。日本のアニメの質の高さを感じさせる作品で、韓国がいくらフランスのジャパンエキスポを占領した所で、こういうものは作れないだろう。
 世代的に、サントリーのペンギンを思い出してしまう。
 セーラームーンやウテナを手がけた人だけに、変身シーンは凝っていて、なぜか音楽がARBのカバーで懐かしい。
 ネットで菅首相は7月13日の記者会見の映像を見たが、はっきりと「私自身の考え方を」と前置きした上で脱原発のことに触れていた。だから最初は公式見解であるかのように発言し、叩かれたから「ぶれた」というわけではなかった。もちろん即時全廃などという左翼が喜びそうなことは何一つ言っていない。
 夕方のテレビでドールというインドの動物を紹介していた。アカオオカミとも言うけど、オオカミではなくドール属として独立している。オオカミよりも犬に近い感じがした。
 出産の時に外敵を避けるためにあえて人里の近くを選ぶというのを聞いて、ひょっとしたらニホンオオカミもそうだったのかと思った。神社の狛オオカミは垂れ耳、豚鼻で幼形のものが多いのは、大人のオオカミよりも赤ちゃんオオカミの方が目撃されることが多かったからかもしれない。
 夕飯は水餃子と土鍋で炊いたご飯、酒は福島の生酛。

7月16日

 個人的意見とは何か?
 どんな意見も基本的には個人の意見には違いない。
 意見を生み出すのは人間の脳であり、人間の脳はそれぞれ個人のものであり、ニューロンが他人の脳とつながっているわけではない。
 定説や常識も、それを受入れる個人がいて初めて意見になるのであり、組織の意見や行政の公式見解も、それを受入れる個人がいて初めて公式見解になる。
 そもそも個々の人間を離れて、空気中や、あるいは精神空間なる超物理的な存在があったりしてそこに意見があるということはない。だから、公式見解を述べるにしても、あくまで個々の解釈で述べるほかはない。
 組織の意見はそれが組織の意見だと信じる個人の意見であり、個人を離れて何らかの意見が存在することはない。
 「個人的意見」というのは、結局の所、他人に対して服従を求めない、強制力を持たせない意見ということだと思う。つまりこれは命令ではないという意味ではないかと思う。
 個人的意見を言うこと自体は悪いことではない。どんな常識や定説も最初は私見だった。それに共鳴する人がいて、実際にそれを検証したりする人がいて、次第に多くの人の個人的意見になっていっただけのことだ。
 首相の脱原発が高らかな宣言などではなく個人的意見だというなら、他の政治家はこれに同調する必要もないし、公然と反対意見を言っていいということになる。そこでちゃんと議論をして着地点を模索してゆくなら意義のあることだが、他の政治家もそれぞれ自分の個人的意見を言うだけで終りだから、いつまでたっても何も決められないのだと思う。
 議論を拒むなら、どんな意見もいつまでたっても個人的意見にすぎない。政治家同士が議論を拒んで、人格攻撃ばかりを繰り返すのであれば、いつまでたっても誰の発言も個人的意見の域を出ない。個人的意見を互いに言い放つだけの国会だから、復興政策も何一つ決まらないのではないか。
 もっともこれは俺の個人的意見だが。

7月14日

 なぜ菅降ろしはいつも失敗するか?
 それは簡単なことで、菅を降ろした後は俺がやると高らかに宣言するような人が誰もいないからだ。自民党内では昔から自分が総裁にと名乗りを上げると、出る杭は打たれるとばかりに叩かれて潰されるのが常で、みんなの渡辺の親父もそれで総理になれなかった。
 名乗りを上げれば叩かれる。それに耐えてつらぬけるだけの器の人間が誰もいない。だから、自分はその気のないふりをして、誰かが指名してくれるのを待っている。自民党だけでなく民主党内も同じようなもので、菅降ろしの声ばかり高らかでも、その後誰がやるというのがいつまでたっても見えないから、結局菅首相の続投に落ち着く。
 菅首相だけが俺がやると高言しているが、他の政治家は自分からやるなんてことは誰一人として言ってない。これでは降ろせるわけがない。
 サッカーで言えば、キーパーが欠伸をしているというのに、いたずらにゴール前でパスを回しているようなもの。みんな自分がシュートをするのが嫌で、責任を誰かに転嫁したいもんだから、いつまでたっても次の首相候補が出てこない。
 リスクを負いたくない、というのが今の政治家のすべての本音といってもいいのかもしれない。復興について、明確な政策論を展開する人もいない。だから、復興を廻る対立点も見えてこない。
 時折ちらちらと、何で東電を免責しないのかとかいう声も聞こえてくるが、国民の反発が恐くてそれ以上大声では言えないのだろう。
 政策論なしで菅降ろしをやろうとするから人格攻撃ばかりで、マスコミもそれを面白がって取り上げ、ネットを使って自分で情報を収集しようとしない受身の大衆はそれに踊らされて、菅首相の人格だけがすべての問題だと思っている。
 それで支持率が低下しても、他に聖人君主がいるわけでもないから結局降ろしきれない。このままだと菅内閣は衆議院の任期満了まで、何の法案も決まらないまま続くのではないか。
 かえって、突然辞任なんかした日には、次の首相が決まるまでに何日かかることか。決まったら決まったで、その翌日から○○降ろしが始まりそうだ。

7月7日

 源氏物語、空蝉巻をクリアした。
 今のペースでは、全巻読破するのに10年はかかりそうだ。
 HPにupしたのでよろしく。

 結局、たとえ光源氏といえども、レイプで女を靡かせることはできないという教訓を残したか。
 昔から日本の治安が良かったのも、こういう物語の教育効果があったからなのかもしれない。

7月5日

 おとといの春日部までの行き帰りの電車のなかで、ようやく「原発安全革命」(古川和男、2011、文春文庫)を読み終えた。
 福島の原発事故で従来型原発の信頼性が大きく揺らぎ、その一方で自然エネルギーやバイオ燃料はチェルノブイリの頃に比べれば飛躍的な発展を遂げている。
 そういうわけで、今やエネルギー戦国時代。未来のエネルギーを先取りできれば、その国は世界の未来を制すと言っていい。
 日本がどのようなエネルギー政策を取るかで、同時にその方面の技術に多額な資金がつぎ込まれ、さらには経験の蓄積を生み出し、それは世界戦略商品にもなる。その選択を誤れば、日本経済は今まで通り、うだつの上がらない状態が続くことになるだろう。
 脱原発が文明否定、洞穴生活への回帰だったのは昔のことで、今や脱原発は世界戦略の意味を持ち始めている。脱原発は香山リカの言うようなニートのネット上の妄想などではなく、これからの日本経済の鍵を握る重要事項として認識しなくてはならない。
 原発か自然エネルギーかの議論の中で、これまで忘れ去られていた液体トリウム原発も参戦してくるとなれば、チェックしないわけにもいかないだろう。これは従来型原発と区別して論ずる必要があり、脱原発の中にこの原発を含めるべきではない。それはこの本を読めば、十分理解できるであろう。
 もちろん、原発に付き物の放射性廃棄物の問題がないわけではなく、理想のエネルギーではない。その点については、
 「『万年問題』といわれた核廃棄物対策が、『百年問題』に還元できたことになる。」(p.196)
と言っている。
 また、あえて一つツッコミどころを言うなら、「水素は二次エネルギー」のところで、
 「水素ガスは実は、現状では『化石燃料そのもの』なのである。」(p.28~29)
とあるが、将来のバイオ燃料としての水素ガスの可能性に何一つ触れていない。これは不公平な態度であり、それを言うなら「原発も実は、現状では‥‥」ということになり、液体トリウム原発は無視しても良いということになる。
 この本の著者は自然エネルギーが理想であり、液体トリウム原発は中継ぎだと考えているようだが、私はそうは思わない。太陽光や風力などの利用は、それを電気に転換する装置のために地下資源を使うことになる。だから、究極のエコは廃棄物をふたたび資源に戻す「人工鉱山」であり、それに今一番近い技術がバイオ燃料技術だと思っている。
 実際、あの事故がなかったなら、この本が書店の一番目立つ所に並ぶことのなかったであろう。復興には常に、「禍転じて福となす」の発想が必要だ。
 いろいろな新エネルギー技術が互いに競争し、切磋琢磨しあうことで技術は進歩するが、別に排他的に考える必要はない。
 たとえばトリウム原発を建設するなら、その屋上や周囲にソーラーパネルを敷き詰めるというのもありだろう。孫氏のメガソーラーも、ただパネルを並べるだけでは芸がない。他の発電施設と複合した施設にすれば土地を二重に活用できるだけでなく、いざという時の非常用電源としても活用できる。

7月3日

 今日はちょっと早く、8時半ごろ草加からスタートした。
 駅から降りると三峰神社と八幡神社の道しるべがあったので、まず三峰神社に行こうとしたが見つからず、代わりに天神社を見つけた。
 戻ってきて八幡神社に行く。狛犬は昭和56年銘。
 日光街道の旧道を行くと、左に小さな氷川神社があった。狛犬の銘はなかったが、四足で歩いている状態の狛犬は珍しい。
 旧道が右にカーブするあたりに神明社があった。狛犬はなかった。
 新道(49号線)に合流する所が公園になっていて、曾良の像があった。芭蕉の像は多いが曾良の像は珍しい。
 その先には草加松原という、昔の街道の松並木を公園にした所があった。その起点のところには芭蕉像があった。向かいには草加せんべい発祥の地の石碑がある。
 草加松原ではなにやら人だかりがしていて、行ってみると朝顔市をやっていた。草加せんべいの手焼きを体験するテントもあった。隣では草加せんべいとかいた箱がうずたかく詰まれ、「5000枚の草加せんべいを被災地に届けます」という札がたっていた。海外の支援物資に日の丸のステッカーを貼ろうという運動が以前にあったが、支援を受けてもどこの誰から届いたのかわからなければ、あの国は何もしてくれなかったと思われてしまうからだという。その意味では、これだけはっきり「草加せんべい」と書いとく必要もあるのだろう。朝顔市といってもやはりせんべいが幅を利かせている。
 人ごみのなかでせんべいを口にくわえた着ぐるみとすれ違う。写真を撮ろうと思ったが、人ごみのなかで思うように追いかけることもできず、撮れなかった。パリポリくんという草加せんべいのゆるキャラだった。
 朝顔市の人ごみを抜けると、しばらく川沿いの道が続く。小さな愛宕神社があり、その先で橋を渡ると蒲生一里塚がある。一里塚も愛宕神社になっていた。その脇には六地蔵もある。
 川沿いの道からオーベル越谷南のあたりを直進して川から離れ、少し行くと、左側に草鞋の下がっている小さな社があった。道祖神の社だろうか。屋根からのぞいている岩が気になる。恐竜の顔のように見える。
 蒲生本町で49号線にもどると、しばらく越谷まで49号線を行く。
 新越谷駅入口の手前に天保5年の十九夜塔があった。
 瓦曽根ロータリーで道が二手に分かれ、左へ行くと日光街道の旧道になる。越谷駅を過ぎるあたりから古い昔の街道を忍ばせる建物が多くなる。壁が黒く塗られているものが多い。
 すぐ左に越谷八幡神社が見える。狛犬は平成10年銘。
 さらに越谷2丁目交差店の左側に越谷浅間神社が見えた。大きなケヤキの木がある。なかなかいかつい狛犬で銘はないが、そんなに古くはない。
 北越谷に来ると、右側に大沢香取神社があり、ここは古い狛犬の宝庫だ。
 49号線の新道に面した鳥居から入るとすぐに、宝暦年間の狛犬、安永9年銘の狛犬が二対並ぶ。そして社殿前には天保6年銘の大きな狛犬があり、3対すべて江戸時代。小泉マリコ画の案内板がある。境内には安産祈願の安産石もあった。カップルや子供連れの参拝客が多かった。
 やがて東武線の線路を越え、旧道らしいゆったりと右へ左へカーブした道が続く。せんげん台のあたりで4号線に合流すると、春日部まではずっと4号線だ。
 東武野田線をくぐるあたりから完全に春日部の市街地に入る。一宮の交差点のあたりに八坂神社と八幡神社がある。ちょうどこの頃から腹具合が悪く、参拝は次回にして春日部駅へと急いだ。今日はここでセーブ。

6月29日

 今日は南千住スタート。
 前回は時間の都合で飛ばしたが、南千住の素盞雄神社には寄ってきたかった。
 だいぶ前にも一度来たことがあったが、立派な獅子山狛犬と芭蕉の句碑のあるところだった。
 すっかり記憶から落ちていたが、他にも文化五年銘の狛犬と、瑞光石の社の前にも古い狛犬があった。銘はよくわからなかったが、ネットで調べたところ宝暦10年のものたという。こういう古い狛犬がさりげなくあるあたりが、さすが下町だ。
 神楽殿には震災復興祈願の千羽鶴が下がってて、その傍に机が出してあって折り紙が用意してあった。この神社にお供えした後、被災地の神社に送られるというので、とりあえず折ってきた。
 北千住へと渡ると、千住市場の所から右に日光街道の旧道が別れている。ここにもやけににやけた芭蕉像があり、この先の旧街道にはやっちゃ場の後を示す古い看板がいくつも掲げられていた。
 やっちゃ場の跡を過ぎると商店街に入る。日曜でシャッターが閉まっているところが多かったが、シャッターに昔の浮世絵のような絵が書いてあったりした。
 途中に左に小さな参道を行くと千住本氷川神社があった。大黒天を祭る社には米俵が積んであり、こっちが旧本殿だという。新本殿の前には獅子山によくあるような尻を高く突き出したタイプの狛犬がある。
 ここの手水場はセンサーが仕掛けてあった、近づくとかなり勢いよく水が噴き出す。
 商店街の通りに戻り、しばらく行くと商店街は終り旧日光街道は左に曲がるが、そこを右に行くとここにも氷川神社がある。昭和39年銘の狛犬があった。左側の境内社、猿田彦大神、稲荷神社、高正天満宮の前には御影石の四足で立っているタイプの狛犬とかなり痛んだ古い小さな狛犬があった。
 街道に戻り、千住新橋の下をくぐって荒川の土手に出るあたりに、ここにも氷川神社(千住大川氷川神社)があった。狛犬は昭和53年銘で新しいが、社殿の脇にほとんどオブジェのように原形をとどめない先代狛犬があった。こちらは弘化4年銘。布袋さんの像があり、裏には富士塚があった。
 土手を登ると荒川がに出る。河川敷にはグランドがあり野球やサッカーをやっていた。
 千住新橋を渡り、川に沿って左へさっきの千住大川氷川神社の向い側へ行くと、川田橋から旧日光街道が始まる。少しいくと子育八彦尊道があり、地蔵さんが青いマントを着ていた。
 その後しばらく旧道らしいゆったりとカーブする道が続き、やがて長い直線道路に入る。
 途中、島根鷲神社がある。平成15年銘の新しい大きな狛犬がある。ここの奥にも富士塚があった。
 竹ノ塚5丁目を過ぎると道が狭くなり、生鮮市場さんよう、セブンイレブンのあるあたりを右へ行く。国道4号線をくぐり、49号線に出る少し前の所に小さな水神社があった。
 49号線に入り、橋を渡ると埼玉県草加市。谷塚駅入口の所に浅間神社があり、祭の準備が行なわれていた。
 その先には五楽堂という草加せんべいの店があり、ここともう少し先にある小宮でお土産に草加せんべいを買った。
 しばらく行くと旧道が左に分かれ草加市役所の前に出る。ここにも小さなお堂がある。
 今日はとりあえずここまで、東武伊勢崎線の草加駅がセーブポイントということで帰った。

6月19日

 今日は雨との予報もあって、出かけようかどうしようか迷いもあり、結局ワンピースを見てからの出発となった。
 「鹿島詣で」の次は「奥の細道」。といっても、これはあまりに距離が長すぎるし、日帰りするには遠すぎるので、簡単に歩くことはできない。まあ、歩けるところはというくらいの気持ちでとりあえず電車で清澄白河へ行き、まず杉風の採荼庵に向った。
 採荼庵にはどこかの団体が来ていて、人だかりがしていた。ほとんど書割のようで裏側のない建物は、この前来たときには梅干が干してあったが、今回は特に何も置いてなく、何か石祠のようなものがあるのに気付いた。
 そこから隅田川沿いを歩く。清洲橋を過ぎると、すぐに芭蕉庵の所に着く。芭蕉がどのあたりから舟に乗ったのかは定かでないが、既に芭蕉庵を引き払って他の人にゆずり、採荼庵から出発したのだから、ここは素通りしたのであろう。
 そこから新大橋、両国橋、蔵前橋、厩橋を過ぎ、吾妻橋が見えてくると浅草だ。
 江戸時代は、ここから上野山が見えたのだろう。今はビルにさえぎられて浅草寺も見えない。
 アサヒビールの例の巨大なう○この横を通り、少し行くと勝海舟の像があった。
 牛島神社は二年前に行ったので飛ばして、言問橋のさらに先へ行くと、三囲神社の鳥居が見えた。その向こうには三遊亭円丈が立川談志師匠にそっくりだと言った陶器製の狛犬が見えた。あれ、ここは前にも来たけど、こんなにはっきり見えたっけと思ったが、どうやら平成7年に移築されたらしい。よく見ると、その後にも一対の狛犬があったが、これも前にはみた記憶がない。かなり前で、狛犬初心者の頃に来たのであまりよく思い出せない。
 どうやらここは 三井家の神社らしい。
 表に回ると、何か三越の前に座っているようなライオンがあると思ったら、本当に三越のライオンだった。太秦木島神社のような三角鳥居があったり、其角の雨乞いの句碑があったし、よくわからない句碑の類もたくさんある。延享二年の古さのわりにはやけに奇麗で状態の良い狛犬もあるし、稲荷神社なので享保2年お狐さんをはじめ、たくさんのお狐さんがあった。なかなか盛りだくさんな所だ。
 ふたたび隅田川に戻り、桜橋を越えた所のホームレスの家の並ぶ所に、やけに毛並みの奇麗な猫がいた。
 白髭橋を渡ると石浜神社が見えた。
 鳥居に大きく安永八年と刻まれている。その後の鳥居も寛延二年と大きく書いてある。どっちもかなり古いものに間違いはない。狛犬も平成元年のものと大正四年の顔の横に広い狛犬があった。あと、よくわからないが神楽獅子と書いてある口を大きく開けた大きな獅子の頭があった。
 さらに川沿いの公園を行くと対岸に堤防にもなるというマンションが見えた。この先から川は大きく左に曲がり、少し行ったところにまた、コインパーキングの向こうに鳥居が見えた。
 胡録神社だった。天保十年銘の狛犬と、もうひとつ獅子山狛犬があった。境内社に道祖神の社があり、草鞋が奉納されていた。
 さて、このあたりで公園化された堤防は終り、狭い道になる。線路をくぐり、やがて千住大橋にたどり着く。
 千住大橋を渡ると、堤防の壁に「おくのほそ道 旅立ちの地」という文字が蕪村画のイラストとともに描かれている。まあ、多分芭蕉はこのあたりで舟を降りたのであろう。
 近くに橋戸稲荷神社があり、今日のたびはここで終り。千住大橋を戻って南千住駅が今回のセーブポイント。次回はここから草加を目指すことになる。

6月12日

 どこかまた遠くへ行きたいなと道祖神は招くが、車の12ヶ月点検もあれば安全靴も買わなくてはいけないし、こまごまとした用事があり、今日も狛犬めぐりはできなかった。
 ラジオでこの夏の節電対策で、電気釜をやめて土鍋でご飯を炊くというのを聞き、早速炊き方をネットで調べ、挑戦してみた。
 2カップを研いで、まず水に15分漬け、強火で吹きはじめたら弱火にして10分炊き、「赤子泣いても蓋取るな」というのをちゃんと守って、土鍋の空気抜きの穴にも菜箸を挿して塞いで、火を止めて10分蒸らした所、一応それなりに炊けていた。
 底の所が茶色くはなってないけど固くお焦げ状になり、何か子供の頃を思い出して懐かしかった。
 細かい所にこだわるときっと奥が深いのだろうけど、とりあえず食べられる程度に炊くなら、誰でも簡単にできるというのがわかった。昔はみんなやってたのだから当たり前か。昔はタイマーなどなかったから時間も適当だったのだろう。
 気仙沼の男山を飲み、今日も被災地の酒が旨い。

6月10日

 源氏物語、帚木巻をクリアした。長かった。
 HPにupしたのでよろしく。

6月5日

 今日は生田緑地ばら苑へ行った。
 本当は先週を予定していたのだが、雨のため今日になった。
 ばら苑の公開は今日が最終日で、天気も午後から崩れるというので、早めに出て早めに帰ってきた。
 バラはよく咲いていたが、一部はそろそろ終りという感じだった。
 花には蜂が多く、アゲハチョウもいた。
 ばら苑だけど、売店で売っているのが焼きそばやたこ焼きで、なかなか庶民的。ロノウェのような執事が出てきて紅茶やクッキーが出てくるわけではない。(「うみねこ」的にはプリティ・ジェシカというバラがあった。)
 ペットは抱っこした状態でなら可で、一組だけ犬を連れて見て回っている人を見た。
 鶯が終始鳴いていて、なかなか長閑な午前のひと時だった。
 帰りがけに妙楽寺(あじさい寺)の前を車で通り過ぎたが、紫陽花の見ごろにはまだ早い。

 今朝の新聞の書評に『紫式部の欲望』(酒井順子、集英社)が載っていた。 
 この本はまだ読んでないが、「最初の『連れ去られたい』が衝撃的だった」という部分は、やはりこの帚木のレイプシーンを連想させる。「素敵な男性に『お姫様抱っこ』をされて連れ去られたいと<欲望>していたのか?」という部分も符合する。 
 女性のレイプ願望というのはBL願望と同様あくまでファンタジーの中のことであり、現実とは切り離されている場合がほとんどであろう。だから、物語の上とはいえ実際に被害者が源氏を愛することはありえないわけだが、あえてそういう場面を書くということには、作者のものかどうかわからないが、当時の女房の間にそういう願望が語られることはあったのであろう。
 エンターテイメントというのは、読者の期待に応えるもので、物語に書いてあるからといって作者の欲望とは限らない。むしろ読者の欲望を証明するといったほうがいい。巨乳の女性ばかりが登場する物語を書いているからといって、作者が巨乳フェチとは限らないのと同じだ。 
 俺の勝手な想像では、藤式部とニンニク女の話が、一番作者の日常に近かったのではないかと思うのだが。 
 源氏が空蝉の弟になれなれしくすり寄っていく場面も、作者自身がショタだっただとか、BL好きだったという証明にはならない。だが、一般的に当時の女房の間にそういう欲望があったことは想定される。そして、それが1000年後の今にまで引き継がれているのは、驚くほかない。

 夕方のテレビで潮来の「あやめまつり」のニュースが流れていた。先月行ったときはまだ工事中だったが、間に合ってよかった。

5月20日

 何でこうなる前に原発を止められなかったのかと思うと、結局は反原発の人たちも代替エネルギーを考える時に、自分も含めて思考停止に陥ってしまったのだと思う。
 原発に代わる発電方法は何かと考えた時、従来の火力や水力はもとより、太陽光エネルギー、地熱、潮力、風力などの自然エネルギーをひと通り見回してみて、どうも決定的なものがない、そう思った瞬間に、ほとんどの人は思考が止まってしまったのだと思う。
 そうして、一方では現実的な代案がないからといって「仕方ない」で終ってしまい興味も薄れ、一方では後のことなんか知ったことではなくとにかく止めろという方向に走った。
 ここには一つの固定観念があったのだと思う。つまり、原発をなくすなら原発に代わるものをといった時点で、原発のような大量の電力を広範な地域に供給できる施設しか思い描けなかったのではないかと思う。
 脱原発を現実にものにするのであれば、まず巨大発電施設という発想を忘れるべきだったのではないかと思う。小さな発電施設をたくさん作り、それをネットワーク化するという発想なら、その土地にあった様々な自然エネルギーが無理なく利用できるのではないかと思う。
 そういうわけで、「電力の地産地消」ということを提起したい。

 大規模な発電所を作って、そこで集中的に発電を行い、それを長い送電線を引っ張って広い地域で消費するという従来のスタイルだと、地震や津波や火山の噴火などの自然災害に弱いだけでなく、戦争やテロなどの有事の際にも、一箇所を攻撃されれば広範囲にわたってライフラインが絶たれるという弱点がある。送電線攻撃なら貧乏なテロリストでも可能だし、ましてや原発攻撃が行なわれたら、あっという間に日本中が福島になる。
 小規模な発電所を数多く建設して、基本的にそこで作られた電力はその地域で消費するようにした方が良い。
 それに加えて、何かあった時に近隣の発電施設から電力を借りられるようなネットワークを作る。さらには、個人や企業が所有するソーラーパネルや自家発電機、非常用電源なども、普段から売買できたり、非常時には融通し合えるようなシステムを作る。
 発電方法は何も自然エネルギーに限定する必要はない。たとえば、火力発電所は、石油や天然ガスを前提に作られていても、徐々にバイオ燃料切り替えて行けば自然エネルギーに転換できる。
 バイオ燃料の生産も、巨大な施設を海外に作って輸入するという発想から脱却し、むしろその地域で菜種、アブラギリ(江戸時代には盛んに栽培されていた)などを植えたり、藻の培養による方法も研究されている。さらに藁やおから等の産業廃棄物も利用できるし、もちろん少量であれば家庭ごみからも可能だし、被災地の膨大な量の瓦礫も、木材ならバイオエタノールを作ることができる。あれを燃やしてしまうのはもったいない。
 家庭用でも産業用でも自家発電機を普及させれば、停電も恐くないし電力会社に頭を下げる必要もない。将来的にはその燃料をバイオ化して行けば、エコにもつながる。もちろんそこには「内需」も発生する。自家発電用の燃料の供給は潰れかけている地方のガソリンスタンドの活性化にもつながる。
 原発に代わるもの聞いて、原発と同じような大規模施設しか思い浮かばなかったのは、結局電力を独占企業に任せきっていて、それを疑おうとしなかったからではないのか。そこからの脱却こそ、過ちを二度と繰り返さないために必要なことではないのかと思う。

5月15日

 この前の鹿島詣での旅を、日記に記したものに写真を入れて若干の加筆をして、「こやんの鹿島詣で」と題して風雅堂の「鹿島詣で」の末尾に加えてみた。
 まだ鹿島のたびの興奮冷めやらぬまま、今度は「奥の細道」へと道祖神は招く。
 ただ、さすがに「奥の細道」となると距離も長く、セーブポイントまでの予算も時間もそれだけかかることになる。毎週というわけにはいかないし、何年かかるかわからない。
 それでもこんなご時世だし、先のことはわからないから、楽しいことは老後の楽しみになんてことは言わず、少しでも前倒しにしていきたい。

5月5日

 今日は5時希少で5時15分車で出発。
 セーブポイント(布佐駅)までどう行けば早いかといろいろ考えたが、結局は首都高で市川まで行って、そこから鬼越へ行き木下街道へと、今までの総集編みたいになった。
 市川を降りる頃から、雨がポツリポツリと降って来た。
 鎌ヶ谷大仏まで約1時間、高速代1000円。早朝で渋滞がないと車は早い。ただ、景色をゆっくり見ている暇はない。大仏はあっと思ったらもう通りすぎていたし、赤い庚申塔はよほど注意してないと見落とす。
 ラーメン岩間のあたりで、若干薄日が射してきた。
 布佐駅到着が6時43分。ほぼ1時間半。今日はここからスタートだ。
 川沿いの道を通る予定でいたが、道路陥没のために通行止め。ここでも震災の爪あとが。線路沿いの道のほうに迂回するが、長門橋のところで大型車の通行規制をやってたり、ここでも震災の爪あとが。安食からようやく川沿いに出た。スーパー堤防の発祥の地らしく、スーパー堤防が続く。水門の辺りで車を止めたら、対岸に牛の姿が見えた。常総大橋の手前に七福神のストーンサークルみたいなのが見えたが、あれは何なのだろうか。宝船もある。
 芭蕉の船が佐原のあたりから横利根川に入り、潮来の牛堀から常陸利根川を通り、北浦に出て大船津に上陸したものと思われるので、それに近いルートということで佐原から水郷大橋を渡り51号線を通って潮来から神宮橋を渡り鹿島に入った。途中、電柱が傾いているところもあり、道路も一部波を打ったみたいになっていた。屋根のブルーシートはすっかり見慣れた光景になっていた。
 鹿島神宮到着は8時過ぎでほぼ3時間で着いた。
 鳥居のあったところは土が円錐形に盛られ、注連縄がしてあった。大きな楼門があり、その裏側には普通は馬とかがあるのだが、ここではパックマン見たいな木に輪切りにした木に、稲妻のマークがあるものが幣といっしょに飾ってあった。
 本殿の先に行くと鹿がいた。こっちの方を向いて「みーー」と鳴いていた。
 奥宮から右へ行ったところに要石があった。その途中に武甕槌(タケミカヅチ)の神がナマズを退治している石像があった。そんなに古くはない。武甕槌の神は雷属性だから水系のナマズと相性がいいのかもしれない。
 要石の周りは新しい鳥居が立ち、取り囲む柵も新しく整備されたものだった。肝心の要意志は30センチくらいの円盤状のものだった。これが地下にどれくらい深く埋まっているかはわからないという。水戸光圀公が七日七晩掘って調べようとしたが、次の日には穴が埋まって確かめられなかったという。つまりこれは猫箱だ。
 地震は大地の底でナマズが暴れるために起こるものであり、この石がそのナマズを抑えているという説も、掘ってみないことには反証は不能。つまり地震の原因の科学的説明と神話的説明は並存可能ということになる。地震を起こすナマズがいることを証明するにはナマズを実際に示す必要があるが、それがいないことを証明することは悪魔の証明になり、否定は困難になる。
 おそらく、水戸光圀公のエピソードは、神話を守ろうとする何者かによって穴が埋められ、検証を妨害されたか、あるいは掘ってみて、水戸光圀自身が真実を明らかにしない方がよいと判断したのであろう。
 安政地震の時には鹿島神宮の武甕槌の神は大人気だったが、今は科学の時代となり、この震災にもかかわらず要石のあたりは人も少なくひっそりとしている。ただ、いつまでも余震が収まらない今の状況だと、この神様にお願いしてみたくもなる。原発を止められるかどうかは知らないが、

 被災せし古戸に倦むも若葉かな

 要石からさらに奥の方へ行ったら、道路に出てしまった。その向こう側にも鳥居があり小さな社があった。境内には庚申塔や猿田大神の石祠や新しそうな双体道祖神塔があった。
 ふたたび鹿島神宮に戻り、御手洗(みたらし)池の傍の茶店でみたらし団子を食べた。結構大きく、300円でお茶も出してくれた。茶店で団子をほおばると、気分はうっかり八兵衛だ。
 ふたたび参道の方へ戻る。境内社の稲荷神社には老獪そうな顔をしたお狐さんがいた。  鹿島神宮をひと通り回る終えると車を駅前の市営駐車場(一日300円)に移し、潮来へと芭蕉の道を歩いた。
 まずは芭蕉が宿泊し、月見をしたという根本寺は、鹿島小前から51号線を下りていったところにあった。牡丹が咲いてて奇麗だった。

 ひとつひとつ心の月を咲く牡丹
 常夜灯崩れた後も牡丹かな

 近くに鎌足神社があり、道の反対側の崖の上には下生稲荷神社があった。ここにもお狐さんがいたが、ここまでまだ狛犬というものを見ていない。狛犬の習慣がなかったのだろうか。
 神宮橋を渡った。風が強くひんやりとしていた。渡り終えると左へ北浦の堤防を歩いたが、ここもかなり地割れして波打っていた。
 しばらく行くと水門の辺りに公園があり、そこを右に曲がり、田んぼの中の道を歩いた。所々で田植えが行なわれていた。
 道の駅の隣には瓦礫の処分場があった。材木、石などが分別され、積み上げられていたが、かなりの量だ。
 道の駅から延方へ出ると途中に鳥居と小さな石祠があり、その前に小さな置物のような狛犬が2対置かれていた。これが今日の初狛犬。
 潮来へと行く道沿いに3つほど神社があった。須賀天満宮には丸っこい可愛らしい狛犬がいた。昭和46年銘。辻二十三夜尊・月読神社には狛犬はなかった。水郷硯宮神社には大きな新しい狛犬があった。
 さらに旧道を行くと、鹿島線の線路が見えてくる。この辺りに本間自準亭跡があるはずなのだが、よくわからなかった。天王橋のところに鳥居があったが、その付近だったようだ。
 長勝寺をさがしてセイミヤの付近をうろうろするがよくわからないので、とりあえず潮来駅へ行く。駅にはガイドマップが置いてあるし、ついでに鹿島神宮駅への帰りの電車の時刻も見ておく。電車は1時間に1本あるかないかで乗り遅れたら大変だ。
 ガイドマップを見ながら、前川あやめ園を越えて長勝寺に向う。橋は工事中で、あやめ祭りに間に合うといいが。長勝寺も静かで芭蕉の句碑が二つあった。仁王門があったが仁王がいなかった。
 電車で鹿島神宮へ戻ると、朝は車で通り過ぎた参道へ行った。駅から参道へ通じる歩道もだいぶ被害を受けていた。参道へ出るとサッカーボールの像があった。
 参道は昼でもひっそりとしていて寂しい感じだった。何か町全体が沈んだような感じがする。地震のご利益のある神様なのだから、こういう時こそみんなに参拝に来てほしいところなのに、何か自粛ムードでもあるのだろうか。
 駅に戻り車で鹿島スタジアムを見に行った。中にクレーンが入って修理していた。
 帰りは、ほぼもと来た道を引き返した。途中気になっていた七福神を見に行った。下総利根宝船公園だった。

5月2日

 今日は8時に家を出てセーブポイント(鎌ヶ谷大仏駅)に着いたのが10時。思えば遠くへ来たものだ。
 鎌ヶ谷八幡宮は、この前来たときは気付かなかったが、ネットで写真を見たら入口の狛犬の後に大きな鳥居があったのがなくなっている。境内に鳥居の残骸がまとめて置かれていて、崩落していたようだ。
 八幡宮の向かいに鎌ヶ谷大仏があった。ブロンズの野ざらしのもので、高さ1.8メートル。大仏と言うにはそんなに大きくはない。
 JRA競馬学校の手前に天神社があった。狛犬は入口付近の明治35年銘のものと、中にもう一対昭和35年銘のものがあった。
 明治35年の方の吽形の方は、ネットで「寝ている狛犬」として紹介されていたが、これはよく見ると寝ているのではなく、前足が破損したため、前につんのめった姿で土台に固定されたものだろう。一種のど根性狛犬と言うべきものだ。鎌ヶ谷八幡宮ほどではないが、ここにも庚申塔群があった。この辺りのものは彩色されていない。
 白井大橋の北総鉄道の線路を越えるあたりは新道と旧道に分かれていた。市役所入口のところで合流する。そこからさらに先へ行き、白井の交差点の手前にも天満宮があったが、狛犬はなかった。
 白井交差点の先に鳥見大明神参道入口の看板があり、ここから細い道を入って行くと鳥見大明神がある。石の鳥居は正徳3(1713)年のものだという。狛犬は大正2年銘。  その少し先にわかりにくいが茂みの中に赤く塗られた庚申塔群があった。震災のせいか、石がずれていた。
 船橋カントリークラブの近くにはラーメン屋が3件ほどかたまっていて、その中で一番たくさん車が止まっている「岩間」で昼飯を食べた。醤油ラーメンは大きな丼で出てきて、鰹節の香りが心地いい。
 ラーメン屋を出た辺りから、ほっぺたにヒヤッとする感触が。雨が降ってきた。
 しばらく行くと阿夫利神社の大きな鳥居があった。なるほど、この雨は阿夫利神社が呼んだのだろう。
 鳥居から阿夫利神社まではかなり距離があり、参道は鉄工所があったり、ちょっとした田舎の工業地帯だった。日本の製造業はこういうところで支えられているのだろう。
 阿夫利神社は山になっていて長い石段を登っていくと拝殿や神楽殿があった。その左手にさらに石段があって奥院があり、そこに2対の狛犬があった。手前のは昭和58年銘、奥のは天保14年銘だった。
 果たして、阿夫利神社を出ると雨は止んだ。しばらく行くと消防車のサイレンの音がして、前のほうの車が並んでいて通行止めみたいだったので、左に向かって抜け道する車に釣られて迂回すると、そこにも赤い文字の庚申塔群があった。
 この先の街道沿いにも赤塗りの庚申塔群あり、赤い庚申塔はこの辺りには普通に見られるもののようだ。
 大六天神社が左側にあり、狛犬はなかったが、手賀沼干拓の碑があり、神社の裏手から手賀沼が見渡せた。干拓前はもっと広かったのだろう。
 亀成橋を渡り、大杉神社を過ぎると木下街道と鮮魚(なま)街道の分岐点があり、そこにも赤い庚申塔があった。芭蕉はここから鮮魚(なま)街道に入り布佐へと向う。
 橋を渡ると踏切があり、布佐駅も近い。ここを真直ぐ行くと利根川の土手に突き当たる。その手前に観音堂があり、そこに「なま街道」の説明書きがあった。
 残念ながら芭蕉の時代の名残を留めるものはなく、ただ観音堂の脇の小さな藤棚が、芭蕉が吉野へ行った時の句、

 草臥て宿かる比や藤の花   芭蕉

を思い起こさせた。
 その後、利根川の土手に登る。芭蕉はこの辺りから船で鹿島へと向ったのだろう。
 布佐も屋根瓦をブルーシートで覆っている家が多く、石塀などのひびが入ったりしている箇所が目に付く。石材店の石灯籠の崩れたところなども、まだ片付いていない。ここも紛れもなく被災地だ。鹿島はここよりももっと被害が大きかったに違いない。
 さすがに、ここから鹿島まで歩く気はしない。芭蕉も夜のうちに船に乗ったのだから、ここから先は車を使ってもいいだろう。
 JR布佐駅をセーブポイントとし、4回に分けての深川芭蕉庵から布佐までの徒歩の旅は終わった。芭蕉はおそらく朝未明に深川から行徳まで船で行き、そこから布佐まで一日で歩いたのだろう。やはり昔の人はたいしたものだ。

4月29日

 今日はついついテレビの銀魂の劇場版を最後まで見てしまい、出発が遅れてしまった。
 セーブポイントの都営地下鉄本八幡駅に着いたのは11時半で、今日はここからスタート。
 ところが地下鉄駅から出たところ、方向が良くわからぬまま歩き始めたところ、京成の線路を越えて、「荷風の散歩道」とかいう狭い道に入ってしまった。永井荷風といえば「断腸亭日乗」、俺のHPの日記は「ゆきゆき亭日乗」ということで、これも何かの縁だろう。
 その後道に迷って、やっとのことで、本八幡の地名の由来となっている葛飾八幡宮にたどり着いた。この辺りの道は細く曲がりくねっていて、大きな松の木が点々としていた。
 随身門(楼門)の前の狛犬は安永6年銘で角ばった顔をしている。
 拝殿の左手の片隅に、苔むした先代の狛犬があった。阿形のほうは損傷がひどく、吽形のほうはかなり形をとどめていた。腰を上げて立ち上がったポーズだから、獅子山だったか。

 苔むした狛犬にまだ春は行かず

 奥には千本公孫樹という、根元からたくさんの公孫樹の木が寄り集まったような公孫樹があった。切り株から伸びてきた芽がが全部大きく育ってこうなったのだろうか。だとすると、鎌倉鶴岡八幡宮の大公孫樹も、将来はこうなるのかもしれない。
 葛飾八幡宮を出て、京成の線路を渡ると、京葉道に出るところに一の鳥居があり、道路の向こう側に竹薮と小さな社が見えた。行ってみると「不知八幡森(八幡の藪知らず)」の説明書きがあった。小さな藪だけど入ってら出てこれない、というようなことが書かれていた。ひょっとして神隠し?ちょうど今、甲田学人のラノベ「missing」の座敷わらし編まで読んでいる所なので何かそんな連想をした。もっとも、枯れ草に鉄錆の混ざった匂いがするわけでもなく、京葉道の排気ガスの匂いばかりだった。
 京葉道を行くと鬼越というところに、京成の線路の向こうに鳥居があるのが見えた。鬼越神明社で、狛犬は両方とも魂取りで、それも玉乗りのできそうな大きな玉に前足を乗せていた。家へ帰ってからネットで調べたが、どうやら「広島玉乗り」と呼ばれる、広島に多いタイプらしく、何で千葉に‥。
 結構境内は広く、奥には富士塚もあった。入口付近には不思議な形をした石を祭った祠があり、なぜか松ぼっくりがたくさん並べられていた。
 京葉道から木下(きおろし)街道にはいる鬼腰2丁目のT字路には古い石造りの建物があったが、被災したのか、屋根にブルーシートがかけられていた。瓦屋根の家では結構こういう風景が見られる。
 この辺りにも高石神社があり、黒猫がお迎えしてくれた。狛犬は昭和60年銘の新しいものだった。
 木下街道を行くと東山魁夷記念館があった。伝統絵画は好きだけど日本画には興味がないので素通りした。日本画なのに教会風の洋館というところがいかにも西洋かぶれな感じだ。
 船橋法典に近づくと道路わきに大きな駐車場が多く、中山競馬場が見えてきた。競馬場の反対側には赤い鳥居がいくつも並ぶ白幡神社があった。狛犬は昭和10年銘。
 船橋法典駅を越えてさらに行くと古い木造観音像を祭る藤原観音堂があり、その先には藤原神社があった。ここの狛犬もかなり立派で、明治33年の銘があった。
 馬込駅まで来ると、馬込天満宮があったが、石段を登った鳥居の前にロープがはってあって入れなかった。
 鎌ヶ谷大仏駅まで来ると鎌ヶ谷八幡神社があった。3時過ぎで木が鬱蒼としていて薄暗く、写真がうまく取れなかったが、狛犬が4対あって百庚申という庚申塔の列があった。
 今日はここで終り、新京成鎌ヶ谷大仏駅でセーブということで、駅中でつけ麺を食べて帰った。

4月25日

 ここ2週間、日曜以外は毎日仕事があり、大体震災後1ヶ月が区切りになって日常が戻ってきたという感じだ。
 もっとも、早く日常に戻ることを願いながらも、ならば震災前の日常がそんなに楽しく輝かしいものだったのかというと、そうでもないだろう。
 失われた10年だとか20年だとかいうあの時代、長期にわたる経済の停滞、低賃金長時間労働、どん詰まりの未来、それを思うと、震災は変化への若干の希望だったのかもしれない。
 自粛ムードだとか言っているが、震災以前から消費は長いこと低迷していた。
 新興工業国の台頭や途上国の工業化によって加工貿易という国是が行き詰ったのと、国内の消費革命がパソコンの普及を最後に一段落したことで、内外ともに需要が停滞している。このことは震災があろうがなかろうが変わらない。
 「がんばれ日本」といった類のスローガンも今に始まったことではなく、失われた10年以来くり返されてきたのではなかったか。
 ただがむしゃらに頑張ればいいのかというと、そんなことはない。需要不足というのは裏を返せば供給過剰だ。一生懸命作っても物が売れない。売れないから必死になって売り歩く。それでも売れないから値下げする。利益が出ないので賃金が下がる。賃金が下がるからそれを取り返そうとますます頑張って物を作り、売ろうとする。それがデフレの正体だったはずだ。
 こうして、頑張れば頑張るほどなぜか貧しくなってゆく。いくら消費しなくては景気が良くならないなんていって消費を煽ったところで、金も暇もないのだから、どこかにパッと使ってもその分どこかを切り詰めるだけだ。
 今回の震災は、ある意味では働きすぎで慢性的な生産過剰にあえぐ日本人に、生産調整をせよという天命だったのかもしれない。
 今の日本は終戦直後の復興期とは似ても似つかない。どちらかというと空襲で焼け野原になりながらも、まだ大本営発表を信じて戦争を続けようとするあの頃に近いかもしれない。花見を自粛せよなんていうあたりは末期症状だ。
 ただ、もちろん戦争中よりは今の方がマシだ。こうやってネットで自由に物も言える。
 そういうわけで、月並だけど、頑張りすぎるな日本。適当にやれ日本。

4月24日

 今日は鹿島詣での続きということで、都営地下鉄の東大島駅からスタート。この駅には前回も駅前のコンビニでデジカメの電池を買うために立ち寄っていたので、そこでセーブしていたということにして、そのセーブポイントからのやり直し。
 新大橋通りの船堀橋を渡って、そこから中川に沿って下ると稲荷神社があった。境内には黒猫がいて、猫に誘われるように中に入ると、お狐さんの石祠に案内された。手前の大きな社殿の前にもお狐さんが鎮座し、境内社が二つあってその中の一つには昭和2年銘の狛犬があった。
 新川西水門まで来ると、観光用の櫓が聳え立ち、公園として整備されていた。中川の堤防に登ると、反対側に前回通った荒川ロックゲートが見えた。
 新川沿いも遊歩道が整備され、川には魚や亀の姿もあった。船堀街道の宇喜多橋をくぐると、どこかで見たような景色。「うみねこのなく頃に」で縁寿がさくたろうや煉獄七姉妹としりとり遊びをした、あの場所だった。そういえば、ここは葛西から近い。
 しばらく行くと遊歩道も途切れ、工事中になる。その向こう側に新川東水門が見えてきて新川は終り、旧江戸川に出る。
 旧江戸側に沿って歩いてゆくと、鉄の柵で覆われた神社が目に入る。稲荷神社だった。社殿は古く補強されていた。
 新今井橋で新中川を渡り、もう一つ今井橋で旧江戸川を渡ると、「ようこそ千葉県へ」となる。
 千葉県側の旧江戸川沿いにも遊歩道があり、行徳の船着場だった常夜灯公園まで行ける。芭蕉もここで船から降りたのだろう。ここから行徳街道で本八幡へと向う。
 川を離れ少し行くと旧笹屋うどん店があり、ここから街道に入る。ところどころ古い木造の建物があり、旧道らしい風景となる。
 途中いくつか神社があった。
 神明宮には三毛猫に導かれて入った。文化2年銘の狛犬があり、口と鼻の穴が赤く塗られていて面白い顔をしていた。
 続いて八幡宮があり、境内の裏手に富士塚があった。
 続いて神明豊受神社。狛犬は嘉永6年銘。吽形の方は背中に子獅子を乗せている。
 さらに稲荷神社があり、胡録神社・春日神社があった。
 その後芭蕉の時代にはまだなかった新江戸川の橋を渡り、稲荷木にも稲荷神社があった。一本松の跡、大和田甲大神社と進む。狛犬は明治33年銘。境内に古い崩れた鳥居の残骸があり、そこに「よく見て考えて」という立て札が立っていた。今度の震災ではなく関東大震災の時に崩れたもので、「地震は恐ろしいものです。この教訓を忘れないで下さい」と書いてあった。
 本八幡の駅の近くのタバコ屋に、大きな古そうな石の招き猫があった。なぜか手に鍵を持っていたが、単に誰かの落し物をここに掛けていったものか。
 本八幡駅をとりあえず今日のセーブポイントということにして、都営地下鉄に乗って帰った。

4月17日

 震災から一ヶ月たってもなかなか余震が収まらず、鹿島神宮のある茨城の方もしばしば震源になっている。
 電車や車で行くのもいいが、それでは何かありがたみがないような気がして、それに鹿島詣でといえば芭蕉という偉大な先人もいるので、その足跡をたどりながら行けないだろうかと、何となく思い立った。
 一日では無理だから、日曜ごとに何回かに分けて行けば、というわけで、今日はその一回目。
 出発点は深川芭蕉庵跡。電車に乗って清澄白河から歩いた。
 途中、深川稲荷神社に寄った。布袋尊という看板もあり、深川七福神の一つのようだ。布袋さんの石像があった。右側の石灯籠が震災で崩れたようだった。
 芭蕉庵跡には芭蕉稲荷があり、すぐ近くには正木稲荷がある。芭蕉稲荷には賽銭箱がなく、代わりに小さな缶が置いてあり、「さい銭入れ」と書いてあった。こういうのも一種の侘び寂びなのか。
 正木稲荷の裏手から登ってゆくと、清洲橋の見える芭蕉像のあるところに出る。小さな池が作ってあり、蛙ではなくおたまじゃくしが泳いでいた。

 鹿島へとおたまじゃくしの旅はじめ

 芭蕉がどの経路で行徳まで行ったのかはよくわからなかった。以前に書いたHPの文章では海沿いに行ったようなことを書いたが、近くに川船番所跡があり、そこの説明を読むと、ここから小名木川を通る船が出てたというので、わざわざ東京湾に出なくてもここを通って行徳の方へ行った方が近くて安全だったので、おそらくここを通ったのだろう。
 そう思って、小名木川沿いの遊歩道を歩いた。
 遊歩道は途中で途切れ、川の北側へ行くと猿江神社があった。狛犬は御影石の昭和6年製の招魂社系で区有形文化財の札が立っていた。境内社には藤森稲荷神社があり、その左側には先代のお狐さんが二組互いに向き合って並んでいた。
 四つ目通りを南に行くと、小名木川の橋の手前に、

 川上とこの川下や月の友    芭蕉

の句碑があった。
 川の南側を少し行くと北砂水上公園があり、ここからまた川沿いの遊歩道が始まった。丸八通りを越えると大島稲荷神社が見えた。
 入口のところに、

 秋に添て行はや末ハ小松川    芭蕉

の句碑があった。
 境内には年代不明の大きな獅子山狛犬が拝殿前にあり、社務所の前にも小さな狛犬が一対あった。そのほかに、三猿の石像、出世開運の撫で牛が二体、境内社に佐竹神社があった。ここでも、大きな石灯籠が崩れて、ごろごろ転がっていた。
 さらに川沿いに行くと、中川に出て、中川船番所資料館があった。橋を渡ってさらに行くと荒川の土手に出た。これが噂のスーパー堤防か。スーパー堤防の説明書きがあった。台風などの増水にはいいかもしれないが、15メートルの津波が来たならこれでも防げないだろうなと思った。昔見た「日本沈没」の映画では関東で大地震が起きた時に、津波によって江東ゼロメートル地帯が水没し、10万人の死者が出たということになっていた。
 荒川ロックゲートのところで、小名木川は終っていた。
 ここで、芭蕉の足跡を見失い、土手を南下して葛西橋を渡った。
 葛西に入ると、時空のひずみ(?)からか、雛見沢村に迷い込み、ピットインというおもちゃ屋や、エンジュルモート(ジョナサン西葛西店)、歩道橋下の屋台、雛見沢警察署(葛西警察署)と、前に葛西を散歩した時に来たところを通った。途中、「だるまのめ」という厚木に本店のある博多ラーメンの店で昼飯を食った。唐辛子を練りこんだという赤い麺が珍しかった。
 浦安橋を渡ると、「ようこそ千葉県へ」の看板があり、ここからは千葉。浦安市議選が始まっていて、結構うるさかった。震災のときは液状化がひどかった所だが、1ヶ月以上も立っていたせいか、所々建物と歩道との間にひびが入っていたり修繕した跡がある以外は震災を感じさせなかった。
 最後に猫実(ねこざね)という所にある豊受神社に行った。大きな狛犬は獅子山の常で銘が見当たらなかった。ここでも常夜灯の石灯籠の上半分がなくなっていた。
 境内には浅間神社の富士塚があり、その隣には秋葉大権現と金毘羅大権現の石祠があり、その奥には三峰神社があった。金網の中に昭和45年銘の狛オオカミがあった。かなり犬っぽいオオカミだったが、狛オオカミを見るのは久しぶりだった。
 ところで、後でわかったのだが、どうやら昔は荒川があんなに大きくなく、やや北側の向かいにある新川にそのまま船でいけたようで、行徳へ行く船は新川を通って、浦安の北側を通って行徳まで行っていたようだ。芭蕉もそのルートを通ったとすれば、次回は船堀の辺りからやり直さなくてはならない。

4月10日

 今日は朝早く、サンドイッチとコンビニのから揚げとワインで、近所の公園に行き、ささやかな花見をした。
 朝から酒飲むとそのまま眠くなってしまい、結局一日そのままだらだらと過ごした。
 選挙は夜の8時近くの終了間際に一応行ってきた。

 花見を自粛しろという発想は、元をただせば吉田松陰が上野で花見をする人を見て、こんな時節に何を愚かなことをと蔑んで見ていたという辺りから来たのだろうか。
 前にHPの「馬かりての巻」のところに、「その松陰が韓国中国はもとよりオーストラリアまで掠め取れと説いた侵略主義者であったことは偶然ではあるまい。国を守るということは、花見をする人が平和に花見が続けられるようにすることであって、花見をする人のケツを叩いて戦争へと駆り立てることではない。」と書いたことがあった。
 吉田松陰の教えを松下村塾の生徒が律儀に受け継ぎ、明治政府へと受け継がれ、そして太平洋戦争・日中戦争の敗戦に終る。それでも、未だに吉田松陰の崇拝者はたくさんいるし、何かあるごとに自粛自粛というのは、きっとこうした人たちなんだろう。
 今の日本で愛国者と称する人はたくさんいるが、そのほとんどは西洋かぶれで、日本の伝統文化を破壊し、西洋の真似をし、ただ強い国を作ればいいという種の人間が多すぎる。石原慎太郎もそうした一人にすぎない。
 西洋文学の猿真似のような小説を書いて、いっぱしの文化人を気取り、日本人がつくり上げたマンガ・アニメの文化を蔑み、花見なんてするのは日本人くらいだとばかりに国の恥みたいに思うような感覚というのは、西洋崇拝者には根強いもので、彼らに、日本にしかないものは日本のオリジナルの文化であり、世界に誇るべきものだという感覚はどこにもない。西洋にないものはとにかくぶっ潰そうとするのだ。
 そんな人間でも、自虐史観に染まった左翼系の西洋崇拝者に比べればマシに見えてしまう辺りが、日本の悲劇といっていい。

 今度の震災を天罰だという説も、伝統的な天譴説(てんけんせつ)を完全に誤解している。
 中国では天帝と人間の皇帝とが分離しているため、天変地異は天帝が下す審判であり、そのため革命思想と結びつく。
 日本の場合、天皇が天帝であるとともに現世の皇帝でもあるため、革命を促すことはない。あくまで臣下(大臣などの)の交替を促すにとどまる。
 そもそも現世の皇帝(人間の皇帝)は、治水などを行い、災害に備える責務があり、天変地異があれば治水政策が十分かどうかがいやおうなく検証されることになる。そのため、大きな災害が起これば、国の治水政策の不十分が立証されたことになり、その政権は信用を失う。そう考えれば、天譴説(てんけんせつ)は呪術ではなく、現実的な意味を持つ。
 今回の震災の場合に天譴説(てんけんせつ)を適用するなら、これは国の津波対策や原発の安全対策の不備が証明されたのであり、対策の不十分に対して天が警告を発したと受け止めるべきもので、現政権のみならず、これまでの国の政策に見直しを迫るものだと解釈すべきであろう。
 間違ってはいけないのは、天は国民を罰したりはしない。天はあくまで現世の為政者に問題を突きつけるだけなのである。ソドムやゴモラの例はあくまでヘブライの一神教の考え方であって、我が国の道ではない。天罰発言は一神教の神概念に基づいた西洋崇拝者の妄言にほかならない。

4月6日

 天気はいいし、相変わらず仕事もない。
 とりあえず余りお金をかけずに、歩いて花や神社を見て回った。
 まずは美しが丘平川神社。ここは近くに公園があり、そこに桜も咲いていた。小さな公園で人の気配もなく静かだった。桜はまだ5分咲き程度。
 なかなか渋い木の鳥居があり、狛犬は平成3年銘の招魂社系だった。
 次に向ったのは長沢諏訪神社で、鳥居の前にあった狛犬は明治14年の銘。をくぐると参道が結構長く、二の鳥居から先も参道が続いてた。境内に入る前に新しい狛犬があり、境内ではお年寄りがゲートボールをやっていた。
 そこから生田緑地の方へ歩いた。途中、聖マリアンヌ医大の向い側の秋月院というお寺の前に、満開に咲いている見事な桜の木があった。ソメイヨシノではなく、やや早咲きで小ぶりの花の咲く彼岸桜だった。
 生田緑地に西口から入ったが、ゴルフ場の中に大きな白い花が満開の木が見えた。遠くてよくわからないが、おそらく桜ではなくコブシだろう。
 生田緑地内には、それほど桜の木はなく、岡本太郎美術館は休館だった。南側からいったん道路に出て、おもい出うたのこみちをゆくと、山の上の方に開けたところがあり、そこに幹の斜めに傾いた大きな山桜の木があった。これもなかなか見ごたえがある、隠れた銘木かもしれない。
 そこから下り、初山へ抜け、北部市場の方を通って帰った。

4月5日

 不謹慎というのは、おそらくは平等意識から来た感情の一つであろう。
 ここに不幸な人がいるのに、あっちに幸福な人がいるというのは不平等だ、そういう感覚から、幸福な人に幸福をひけらかさないようにという配慮なのだが、実際に不平等をなくすというよりは、不平等を目立たなくするための配慮だといっていい。
 もし本当に不平等をなくそうというのであれば、この世界に一人でも不幸な人がいる限り、世界中のすべての人が幸福になってはいけないことになってしまう。これは明らかに不合理だ。
 実際には不平等は仕方ない。生まれてすぐ死ぬ人がいるからといって、生まれたばかりの赤ちゃんを殺すことはできない。事故や病気や戦争や災害で若死にする人がいるからといって、なんでもない若い者を殺すわけにはいかない。不運によって生じる不平等を、社会は容認しなくてはならい。
 ただ、どの程度が容認の範囲なのかという点で、意見は分かれる。人間の個々の能力の差から収入の差が生じることを、容認する人もいれば、容認すべきでないという極端な社会主義者もいるだろう。ある程度はやむをえないが、というその程度の差から、累進課税を急にするか緩やかにするかという議論は常にある。
 不謹慎というのは、大体において容認されている不平等に関して、それを目立たせないようにという配慮から来る感情であり、容認されない不平等に関して生じるものではない。容認されないところから来るのは不平等への怒りだからだ。
 災害で生じた不平等自体は、もはや誰もどうすることもできない。生き残った人が死んだ人より幸福だからといって、生きるのをやめるわけにはいかない。ただ、被災で苦しむ人の復興を手助けすることで、将来の平等を実現することならできる。過去は平等にできないが、未来は平等にできる。
 災害時の放送やイベントの自粛に関して、不謹慎という感情は、本来は被災者への思いやりであり、被災によってみんなと同じようにテレビを楽しんだりイベントに出かけられなくなったりする、その不平等感を和らげるため(なくすためではない)のものだといっていいだろう。
 一方で、復興のためのものであれば、それは将来の平等へ向けて必要な取り組みなので、たとえ不謹慎という感情を持つものがいても、それをやるべきであろう。
 いずれにせよ受け取る被災者の側にも意識の差はかなりあるし、ましてそれを慮る側の幸福な人の間でも当然個人差が生じる。
 「不謹慎」という非難は、基本的にその差から生じるものであり、「不謹慎」といわれたからといって何でも自粛する必要はないものの、だからといって多くの人が不謹慎と感じることをやるのも良いとはいえない。明確な基準があるわけでもなく、時間の経過を見てバランスよく行なうしかない。

 花見に関していえば、本来花見は昼にするもので、古典に夜桜の例はほとんどない。まあ、昔の灯りでは山桜のうっすらとした白い色がかろうじて見える程度のもので、夜桜の心はむしろ匂いだけで姿の見えない花を想像するところにあった。
 月明かりだと、多少桜も見えるが、春は月の朧な季節で、満月と桜がなかなかそろわないところをテーマにした俳諧も多い。
 ライトアップと称して電飾ぎらぎらのなかで大音響のカラオケを持ち込んでなんてのは、もちろん戦後のごく最近のこと。
 そういうものはこの際自粛してもいいと思う。
 ただ、花見そのものは日本の古代から続く文化であり、つづけてほしい。電力不足で仕事ができないならなおさら、昼の明るいうちに酒を酌み交わしてもいいのではないかと思う。
 花見は貴賎群衆、身分のわけ隔てなくともに花の下で自由に物を語り合う場でもあり、たとえ乱世でも花の下では敵味方分け隔てなくふるまう。
 花見は平和を象徴するものだから、太平洋戦争のときに自粛されてかもしれないが、花見をする余裕すらない状態だから日本は負けたのだ。花見をやめるときは日本が終わる時だ。
 震災に傷ついた人の心もまた、花に慰められることもあるだろう。

 君が代は千代に八千代にさざれ石の
     巌となりて苔のむすまで

 君が代とは単に天皇の治世を意味するのでもなければ、恋人や妻を意味する「君」に限られるものでもない。むしろあめつちが平和であり、末永く繁栄することをことほぐ歌だったはずだ。この歌は花見の席でこそ相応しい。
 酒は飲んでも電気は食わない、そんな本当の花見をこの際見なおしたらどうだろうか。

 花見は日本古来の文化。その起源は自生する山桜の花の開花で、農作業の吉凶を占ったものとされ、神話でも桜の花はコノハナサクヤヒメとして登場する。
 万葉の時代は朝鮮半島の文化の影響が強く、花見は桜以外のものでも広く行なわれた。万葉集に桜の花を詠んだ歌が少ないのはそのためと思われる。今でも韓国では花見というと、特に何の種類か限定せず行なわれているという。特にツツジが人気らしく、ぱっと散る潔さよりは、萎れても最後まで枝にしがみつくしぶとさが好まれるようだ。
 奈良の都でも京の都でも桜の木がたくさん植えられ、花見は当然貴族だけでなく、庶民にも広まったと思われる。特に吉野の千本桜は名所となり、西行法師も

 花見んと群れつつ人の来るのみぞ
     あたら桜の咎にはありける
                  西行法師

と詠み、花見の人ごみに辟易していたようだ。
 芭蕉もまた、

 京は九万九千くんじゅの花見哉    芭蕉

の句を詠み、京の町の人口「九万九千」に「貴賎群衆」を掛けて詠み、貴賎を問わず花見に浮かれる様子を描いているし、談林時代には、

 花に酔えり袴来て刀さす女      芭蕉
 盛じゃ花にソゾロ浮法師ぬめり妻   芭蕉

と、花見の様子を描写している。

 花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉

は、上野寛永寺や浅草浅草寺が既に桜の名所だったことを示している。
 さらには徳川吉宗の時代になると、幕府も庶民に花見を奨励し、隅田川堤(向島)や飛鳥山(王子)、御殿山(品川)などに桜を植えたという。
 戦時中はたびたび「花見訓」が出され、花見の自粛が呼びかけられたようだが、たびたび出されたところを見ると、花見は行なわれていたようだ。

 これから先、日本は福島原発の撒き散らした大量の放射線物質との共存を余儀なくさせられることになる。そうなれば若干平均寿命も縮まるかもしれない。
 ただ、人間いつ死ぬかわからないというのは、どこの国でもいつの時代でも同じことだ。
 いつでも死を忘れずに、背中に髑髏を背負い、花のように潔く、そんな日本人の生き方を思い起こすにも、花見はやったほうがいい。

4月4日

 しばらく仕事がなさそうな雰囲気で、久しぶりに図書館へ行った。 
 その時借りた一冊、『源氏物語の時代─一条天皇と后たちものがたり─』(山本淳子、2007、朝日新聞社)を読んでたら、花山天皇のエピソードが書かれていた。これは『源氏物語』の桐壺更衣のご寵愛のモデルだったのかもしれない。だが、事実は小説以上だ。 
 忯子(読み方不明、仮に音読みでシシと読む)は「花山に相次いで入内したキサキの中でも、激しく愛され最初に妊娠した。この時代、キサキは懐妊すると里に帰らなくてはならない。‥略‥多くは妊娠三ヶ月で内裏を出るのが普通だった。だが忯子の場合は違っていた。」(p.16~17) 
 「花山は、忯子と離れることを嫌がった。悪阻の重い彼女をぐずぐずと内裏に引きとどめ、五ヶ月になってようやく暇を許した時には、忯子の体力は相当衰えていた。」(p.17) 
 一度は里に帰ったものの、ちょっとだけもう一度会いたいといっては参内させた。 
 「滞在は予定を大幅に延長して七、八日にわたった。その間二人は離れることなく寝所で過ごした。やせ細り顔つきも変わり果てて気弱に泣く忯子を、花山は泣きつ笑いつ愛撫し続けた。衰弱した忯子の体にとって、これは甘美な拷問にも近い行為だったに違いない。許されて里に帰ったとき、忯子はもう枕から頭をもたげることすらできなくなっていたという。寛和元年七月十八日死亡(『日本記略』同日)。時にまだ十七歳であった。」(p.18) 
 相手が天皇でなかったなら、この著者も「甘美な」とは言わなかっただろう。 
 このあと、花山天皇はすっかり悲嘆に暮れ、他の女にも関心がなくなりというあたりは桐壺と一緒だ。違うのは、突然御所を抜け出し、出家したというところだ。

4月3日

 近所の桜祭りが中止になった代わりに、ボランティアの人たちがテントを立てて、子供向けの遊具を用意したりして、チャリティーイベントが行なわれていた。なかなか粋な計らいだ。 
 花はまだ二分咲き程度で花見には早いが、結構家族連れで賑わっていた。 
 昨日はここで味噌ラーメンを食って昼食にしたし、今日も酒のおつまみを買った。これも一部は義援金に回るし、それとは別に募金もしてきた。 
 変わり正月というほど本格的ではないが、一応煮物や刺身や酒などを用意して、今日はゆっくりと休んだ。 
 酒も、被災地の方の銘柄を選べば、酒飲んで東北経済の復興に貢献できる。 
 これから花見の季節で、別に酒を飲んでどんちゃん騒ぎをやってもいいのではないかと思うが、もし、それで後ろめたい気持ちがあるなら、酒や肴を被災地で作られたものにするといいのではないかと思う。

3月28日

 今日も仕事はなかった。
 被災地では過労死寸前で頑張っている人がいるのに、ここでは逆に仕事のない人がたくさんいる。
 給料も減るし、先行きも不安だから、そうそう遊んでいるわけにもいかないが、だからといって仕事があるわけではないし、不規則な自宅待機ではボランティアというわけにもいかない。
 まあ、とにかく日本が一丸となって復興に向かわなくてはいけない時だから、足の引っ張り合いはしたくない。どうでもいいテレビに不謹慎だ何だと文句つけたり、有名人のチャリティーを売名だ偽善だなんて言ったところで、誰が救われるわけではない。それに今は暇でも、ある程度の段階になれば、今度は復興特需で大忙しになるだろうし。
 復興といっても、阪神淡路大震災の時のように急速にというわけにはいかないだろう。というのも、国全体の方向性が大きく揺らいでるからだ。エネルギー政策はどうなるのか。財政再建はどうなるのか。今までどおりに原状回復すればいいというわけにはいかない。むしろ性急な原状回復は日本の将来にとって最悪の結果になりかねない。
 伊勢湾台風のとき、近鉄の名古屋線は壊滅的な被害を受けたが、それまで大阪・伊勢中川間が標準軌で伊勢中川・名古屋間が狭軌で、乗継が必要だったのを、復興の時に名古屋線を標準軌にして復興させ、直通運転を可能にしたということもあった。
 震災はこれまでやろうとしてコストの問題があってできなかったことをやるには、一つのチャンスでもある。
 暇な人は、ただ何でもいいからがむしゃらに仕事を見つけて、それをやれば良いというものでもない。今までどうりで本当にいいのか、考えるチャンスにしてほしい。本格的に復興が始まってしまえば、そのチャンスもなくなるだろう。

3月27日

 鹿島神社はJR町田駅の裏にもあった。
 境内に特に鹿にまつわるものはなく、狛犬はどっしりした立派なもので、昭和9年の銘があった。
 拝殿の右手には夫婦椿という、2本の大きな椿の木があり、その間にある注連縄をくぐるとご利益があるらしい。
 境内には天満宮と、もうひとつ小さな神明鳥居のある社があった。
 町田は若い頃はよく来たところで、久しぶりだった。昔は駅の名前が「原町田」だった。駅を降りるとすぐ東急ハンズで、道の向い側にはToposがあった。その頃と比べるとずいぶん賑やかになった。

3月21日

 二日続きの休車、自宅待機で、結局4連休になってしまった。明日は何とか仕事があるようだが。
 雨も降っているし、通勤用の車もガソリンの目盛が4分の1くらいなので、とりあえず近所のガソリンスタンドに行った。
 家から見て8時過ぎには既に行列ができてたので、とりあえずそれに並びに行ったが、途中で店員が「11時半開店」のプラカードを持ってやってきた。それを見て2,3台あきらめる車もあったが、ほとんどは辛抱強く待った。スタンドまでは500メートルはあるか。
 車に乗らない人から見れば、ガソリンの買占めに並んでいるということになるのだろうな。被災地でも燃料が足りないというのに恥を知れというところか。
 まあ、実際あと2日くらいはぎりぎりで持ちそうだったが、平日に長時間並ぶのも大変だし、朝はまず無理だし、夕方じゃあるかどうかわからない。
 給油が終ったのは12時過ぎで、軽く半日仕事になった。
 仕事がないのは俺だけでなく、沢山いるんだろうな。昼のスーパーにあんな行列できるのは、仕事がないからだろう。
 家に閉じこもってテレビやネットで被災地の状況を見ていると、何もせずに遊んでいる自分が嫌になる。だから何かしなくてはという気持ちから、人のことをやれ不謹慎だの何だの非難して、少しは世の中のために何かをやった気分になるのだろうか。
 お米は昨日から店頭で見るようになった。だいぶみんな買い込んだみたいだから、もう少しすれば逆に米余りになるのだろう。

3月20日

 鹿島神宮には要石があって、この石で地下の鯰を押さえつけて地震を防いでいるというので、安政地震の時には、鹿島大明神が鯰を退治している浮世絵がはやったという。
 今度の地震でも、早く復興できるように祈るなら、やはり鹿島神宮かと思ったが、鹿島はさすがに遠いし、あのあたりもかなり被害を受けていて、鳥居が崩れたという。
 鹿島までは無理となれば、近くに似たような物がないかと調べたら、あった。川崎市幸区の鹿島田。ここなら南武線が動いていれば行ける。ここにある鹿島大神社は鎌倉時代の創建で鹿島神宮の神を祭ったもので、後に新田開発が進み、ここの地名が鹿島田になったのだという。
 鹿島大神社は南武線鹿島田駅よりは新川崎駅の方に近く、駅のすぐそばに鹿島田幼稚園があり、神社はその中だった。
 普段は園児が遊んでいるのだろう。今日は日曜なので人も少なく、参拝にはちょうどよかった。狛犬は明治35年銘のものがあった。
 このあと、夢見が崎の浅間神社まで散歩した。浅間神社は富士山を祀った神社であちこちにあるが、富士山真下を震源とした地震も起こっているし、噴火も心配だ。
 こちらは動物園の中にあった。
 雉、孔雀、ミーアキャット、プレーリードッグ、シマウマ、ペンギンなど、結構盛りだくさんだった。鹿もいたしシベリアヘラジカという大きな鹿もいた。レッサーパンダは残念ながら既にお亡くなりになっていた。
 動物園の中に天照皇大神と浅間神社と熊野神社の三つの神社があった。
 天照皇大神には狛犬はなく、弓を持った武者の像が左右に置かれていた。拝殿の右手には石祠が並んでいたが、弁才天社の石祠が倒れていた。震災によるものか。
 浅間神社は富士塚になっていて、そのすぐ隣は熊野神社だった。
 熊野神社には二対の狛犬と一対の武者像があり、手前の方の狛犬の台座に、「嘉永六年八月建立、昭和六十年十一月吉日改修」の銘があった。左側の玉取りの方は肩に子獅子が乗っていて面白いのだが、傷みがひどいのが残念。もう一対の方は大正9年の銘。
 動物園は無料で、子供連れの人もちらほら来ていた。震災がなかったら、春の動物園祭りが行なわれ、もっとにぎわっていたところだろう。それでも、今日は暖かな日差しでほのぼのとした雰囲気で、ここは平和そのものだ。いろいろ先行き不安なこの国ではあるが、

 鹿島田の夢見が崎は夢じゃない
      しかと来ている春よ終るな

3月18日

 ふたたび自宅待機。
 昨日は仕事があった。スタンドに並んで給油したら、今度は満タンにしてくれた。休車の車がたくさんあるから、東北へ物資を運ぶと言われればいつでも出られるのだけど、帰りの燃料の不安があるのでなかなか出せないらしい。
 今回の震災は地震や津波に加えて電力不足が復興の足枷になっている。
 電気がないから工場が止まり、電車が止まったり本数を減らしたりすることになるから、通勤困難で、経済活動全体が停滞したままになっている。経済活動を復活させようとすると、電気を使う→停電が起こる、ということになりかねないので、復興は容易でない。
 今になって思うのは、電気自動車が普及してなくてよかったということか。日本はもうこれからは原発なんてやめて、バイオ燃料を地産地消したほうがいい。休耕地にアブラナを植えて、杉林をアブラギリの林に変えれば、花粉症もなくなるし、ある程度のディーゼル燃料は賄える。

 不謹慎というのは、おそらくは平等意識から来た感情の一つであろう。
 ここに不幸な人がいるのに、あっちに幸福な人がいるというのは不平等だ、そういう感覚から、幸福な人に幸福をひけらかさないようにという配慮なのだが、実際に不平等をなくすというよりは、不平等を目立たなくするための配慮だといっていい。
 もし本当に不平等をなくそうというのであれば、この世界に一人でも不幸な人がいる限り、世界中のすべての人が幸福になってはいけないことになってしまう。これは明らかに不合理だ。
 実際には不平等は仕方ない。生まれてすぐ死ぬ人がいるからといって、生まれたばかりの赤ちゃんを殺すことはできない。事故や病気や戦争や災害で若死にする人がいるからといって、なんでもない若い者を殺すわけにはいかない。不運によって生じる不平等を、社会は容認しなくてはならい。
 ただ、どの程度が容認の範囲なのかという点で、意見は分かれる。人間の個々の能力の差から収入の差が生じることを、容認する人もいれば、容認すべきでないという極端な社会主義者もいるだろう。ある程度はやむをえないが、というその程度の差から、累進課税を急にするか緩やかにするかという議論は常にある。
 不謹慎というのは、大体において容認されている不平等に関して、それを目立たせないようにという配慮から来る感情であり、容認されない不平等に関して生じるものではない。容認されないところから来るのは不平等への怒りだからだ。
 これでも人によって受け止め方がちがう。スポーツの勝者がするガッツポーズに関しても意見が分かれるように、勝者が喜びを表現するのは自然のことなのだが、それをどこまで抑制すべきかは状況にもよる。
 武道のような本来は人を殺すための勝負なのを、模擬戦として行なっている場合は、通常のゲームの勝者よりは抑制を必要とされる。(剣道や空手はこれに当たるが、相撲はこれに当たらないのになぜ?)
 サッカーなどでホームでの勝利に比べアウェーでの勝利は、相手サポーターの感情を考慮して抑制される傾向にある。
 災害時の放送やイベントの自粛に関して、不謹慎という感情は、本来は被災者への思いやりであり、被災によってみんなと同じようにテレビを楽しんだりイベントに出かけられなくなったりする、その不平等感を和らげるため(なくすためではない)のものだといっていいだろう。  ただ、それを受け取る被災者の側にも意識の差はかなりあるし、ましてそれを慮る側の幸福な人の間でも当然個人差が生じる。
 「不謹慎」という非難は、基本的にその差から生じるものであり、「不謹慎」といわれたからといって何でも自粛する必要はないものの、だからといって多くの人が不謹慎と感じることをやるのも良いとはいえない。明確な基準があるわけでもなく、時間の経過を見てバランスよく行なうしかない。
 基本はとにかく被災してない人の幸福を目立たせない、ということに尽きるだろう。見る人の稀なブログはほとんど自粛する必要はないし、大きなイベントほど自粛の傾向になるのはやむを得ぬことだろう。ただ、チャリティーイベントならその限りでない。被災者に実際に利益をもたらすイベントなら、むしろ進んで行われるべきだろう。
 野球やサッカーの場合、復旧の度合いで、ある程度多くの被災者がそれを楽しめる状況なら問題はないだろう。ただ、関東地区でのナイターは電力事情の問題がある。そのために停電が起こってたのではいけないので、デイゲームではいけないのだろうか。ドームでない球場はいくらでもあるし。

3月15日

 今日は何とか仕事があったが、明日は自宅待機。
 朝のコンビニには相変わらずパンや弁当やラーメン類がなく、昼飯が買えなかった時のためにポテチを買った。一袋450キロカロリーで、カロリーの方は十分。
 道路の状況は昨日とあまり変わらない。信号が止まっているところはなかった。
 昼に100円ローソンへ行ったら、ここにはパン以外は大体のものはあった。ラーメンも弁当も、というわけで昼飯には困らなかった。
 仕事が終ると、会社の車の燃料が心細くて、あのガソリンスタンドの行列に並ばなくてはならない。とにかく行列を見つけたらとりあえず並ばなくては、とまるで崩壊直前の旧ソ連みたいだ。一軒目はやっているように見えたが、行ってみるとバツ。二件目はガソリンはあるけど軽油がない。三軒目で軽油20リットル制限で、何とか給油できた。
 夕方にコンビニに行ったら、ここもラーメンもおにぎりも復活していた。買いだめする人も一通り買ってしまって、一段落したのならいいが。

3月14日

 今日から仕事が始まった。と言っても通常通りの仕事ではない。
 今日は思ってたほど大きな渋滞もなく、交通量は少なめだったように思えた。ガソリンも軽油も不足しているし、流通の方もかなり仕事が減っている。
 ただ、ガソリンスタンドの前には行列ができて、それが局地的に極端な渋滞を引き起こしている。二車線以上の道路だと、左車線が止まっていれば、間違いなくガソリンスタンドの行列で、すぐに右へ逃げろということだ。一車線の道路だとどうしようもないだろうな。今日は幸い、そういう場面はなかった。
 信号が止まっている箇所も見なかった。「計画停電」といいながら、朝から二転三転し、行き当たりばったりの無計画停電になってしまったため、ラジオのアナウンサーも何を伝えていいのかわからず困っていた。大方、原発も海水を入れる入れない、ホウ酸を入れる入れない、蒸気を抜く抜かないで上の方の指示が二転三転して、現場ではどうしていいかわからないうちに爆発したというのが真相ではないのか。
 夕方にコンビニに行ったが、これこそ津波の後のようだ。入庫そのものも滞っているのだろうけど、それに加えて買占めに走る群衆が津波のようにスーパーやコンビニを襲っているらしい。ネットを見ていると、2ちゃんでもmixiでも健全な反応をしているので救われた。
 スポーツや芸能のイベントがいたるところで中止になっているようだが、こういう時こそみんなで笑った方がいいのではないのか。神話でも太陽が岩戸に隠れて世界が真っ暗になった時に、それを救ったのはアマノウズメの踊りだった。それが芸能の起源になっている。
 犠牲者には哀悼の意を表し、一定期間の喪が明けたなら、いつまでもめそめそしていることを犠牲者自身も望まないだろう。むしろ、収益の一部を寄付するなどして、積極的にイベントなどが沢山行なわれることを望む。

3月13日

 今日も一日お籠り。
 昼間一度だけスーパーへ買い物に出た。
 米の棚とラーメンの棚が空っぽだった。入荷が止まっているのだろう。
 まあ、こういうものは被災地の方を優先すべきだ。こっちの方は他にも食べるものはたくさんある。米が食えなけりゃパンを食えばいいのだし、パンが食えなけりゃケーキを食えばすむことだ。くれぐれも買いだめなどしないように。
 原発の方はまだ予断は許さないが、スリーマイル島以上に悪いことにはならないだろう。福島第一原発の一号機は40年も前のもので、どのみち廃炉にしなければならないようなものなのだから、もっと早く海水やホウ酸を投入できなかったか。あんな爆発シーンが世界中に報道されたら、日本の信用もがた落ちだろう。
 東北というと、「奥の細道」の名所もたくさんある。調べられた限りでは、中尊寺は壁にひびが入ったり石灯籠が倒れた程度ですんだようだ。瑞巌寺や塩釜神社も無事のようだ。多賀城市にある末の松山はよくわからなかったが、昔から浪が越さないということが歌に詠まれてきたくらいで、貞観地震の大津波にも耐えたと言われている。
 検索していると、このあたりは10日にも9日にも地震があり、津波注意報が出ていたようだ。地元の人にとっては、今度の地震は突然来たのではなく、前からいつかは来ると予想されていたもののようだった。
 ただ、3月10日で止まっているブログを見ると、このブロガーの無事を祈りたい。

3月12日

 昨日の地震で今日は仕事がなくなり、だからといってこんな日に遊びに行く気にもなれず、ほとんど「物忌み」状態。
 昨日の渋滞はこれまででも最悪のものだった。
 中山では踏切が閉まったままになり、ほんの1キロ進むのに1時間かかるような状態だった。エンジンを切って待ってると、ときおり一台分くらい進むというような状態だった。停電して辺りは真っ暗だった。
 246が大渋滞と聞いて、住宅地の間をぬって走ったが、ところどこと停電している地域に入ると信号が消えていた。
 多摩川を渡る直前で、大山街道の旧道に入ったのは失敗だった。中山ほどではないものの、ここでもやはり動かなくなり、ぞろぞろと歩いて帰る人の波に埋もれてしまった。もちろん下り車線も動かない。
 ラジオで東名高速の復旧のニュースを聞いて、会社からの帰りは高速で帰った。何とか10時半には帰れた。電車が動かなくて避難所で一夜明かした人を思うと、早く帰れた方だろう。
 今朝からテレビとネットでニュースを見ている。福島原発がやはり心配だ。水蒸気を抜いているから、チェルノブイリみたいなことにはならないだろうけど、スリーマイル島クラスの事故になる可能生もあるかと思うと心配だ。せっかく日本の農産物を輸出しようという機運が盛り上がっているのに。
 今度の津波でスーパー堤防があったら、みたいなことを言う人もいるが、今までの予算でも400年かかるものを今すぐ作ろうとしたら、どれだけの増税をしなければならないのか。日本はヨーロッパの先進国に比べて生産性が低くて、それを長時間労働でごまかしているだけの国だから、そんなに高望みはできない。

 と思ってたら、爆発したじゃないか。水蒸気は抜けてなかったか。
 第二原発の方もまだわからないし、いずれにせよ、これからの日本が大きな試練の時を迎えるのは確実だろう。
 昔ブルーハーツが、「チェルノブイリには行きたくないと言ったけど、これが日本には行きたくないといわれないように」というようなことを言っていたのを思い出した。

3月6日

 今日は三ツ沢へJ2の開幕戦を見に行った。久しぶりの三ツ沢だ。
 今までになく人が多く、去年のワールドカップの効果でサッカーファンが増えたのだとしたら、それはいいことだ。
 試合のほうは、前半15分ごろ藤田のゴールで勝ち越したものの、後は例によって例の如くの展開というか、ボールが前へ行かない、中盤の競り合いに負ける、つまらないカウンターを食らうのパターンで、前半30分ごろに追いつかれ、後半もカウンターからの前線へのパスに飛び出したゴールキーパーの関が相手選手と交錯して、これがPKになり、負けた。
 昼間は日が照ってて温かかったが、前半が終る頃から急に寒くなり、試合のほうもその通りの寒さだった。
 後半にはカズが出て来て、最年長記録更新らしいが、顔見世ではなくちゃんと結果を出してほしかった。

 午前中には源氏物語、桐壺巻をクリアした。HPにupしたのでよろしく。

2月27日

 今日は3月3日の記念日へ向けて買い物をする傍ら、柿生の秋葉大権現へ行った。
 秋葉大権現は柿生駅から5分くらい歩いたところで、浄慶寺に併設されていた。
 温かく、梅の花もたくさん咲いていて、すっかり春。お寺のほうには羅漢像なのか、酒を飲んでくつろいでいるもの、将棋をしたり寝そべっていたりするもの、カメラを持ったものやパソコンをやっているものが並べてあった。
 秋葉大権現のほうの石段を登ると、途中に七福神のあるところがあり、正面に一対、七福神像の前に一対の狛犬があった。
 正面の方は、銘はないが古そうな感じで、目が飛び出している。七福神前も銘はなく、小さな頭の角ばった狛犬だった。七福神の前には獅子舞と太鼓を叩く人の像があった。
 さらに石段をのぼると拝殿があり、そこにも一対明治23年銘の狛犬があった。丸みのある優しい顔をしている。
 さらに奥にもいろいろ道祖神や仏像などが置いてあり、梅の木が植えられ、石のベンチもあった。そのまま山頂まで登れるが、ながめは今ひとつ。
 多分ここも四季折々にいろいろな花が咲くのだろう。近くにも結構探せば静かでいいところがあるものだ。

2月21日

 嘘が悪いことかどうかという議論をテレビでやっていたが、それ以前に人間というのは基本的に本当のことが言えないのだと思う。
 つまり、神でもない者が真理を口にすることなど最初から不可能なのであり、人間はただ真理の近似値しか言うことができないのだから、何を言おうが少なからず嘘なのではないか。
 たとえば、鎌倉幕府は1192年に源頼朝が開いた、というのは本当だろうか。最近ではこの年号に疑いがもたれている。
 嘘が悪いのは、それが人を騙したり貶めたり傷つけたりして、そこに実害が生じた時であり、小説などでどんな嘘をつこうが誰も傷つかないならそれは許される。
 マニフェストもそれを守ることで財政を破綻させ、国家にとっても国民にとっても大きな不利益になるというなら、守ること自体が犯罪だ。そもそもそんな公約をしたこと自体が、できもしない約束するという大嘘なのだから、それを守るなんてのは嘘に嘘を重ねているだけだ。

 5人を救うために1人を犠牲にするのはいいことかどうかという問題は、塩狩峠の逆説を考えた方がわかりやすいかもしれない。
 ブレーキの壊れたトロッコで、このままだと全員谷底に落ちて死ぬというとき、自分の身を投げ出して全員救ったなら間違いなくヒーローなのだが、隣にいた人間をトロッコの前の線路に突き飛ばして全員を救った人間はヒーローになれるだろうか。
 犠牲になるということと、犠牲を強いるということとは明らかに違う。何が違うかというと、自分の命は自分で決めることができるが、他人の命は奪うだけなのだから、これは明らかに殺人なのである。
 人権の基本は、自分の生死や、何をすべきかや、何が幸福かを自分で決めるということにあるので、自己犠牲は人権に反さないが、犠牲の強要は人権侵害になる。
 線路が二つに分かれていて、右へゆけば5人を轢くことになり、左へゆけば1人を轢くことになる、という場合、どちらを選んでも犠牲を強いることに変わりはない。つまり、どちらも悪なのだから、同じ悪なら少しでも犠牲の少ない方がという発想は自然だ。
 もっとも優しい日本人のことだから、多分こういう状況になれば、どちらも轢くことはできずに、列車を自爆させることを選ぶだろう。今の日本はまさにそういう状況にある。
 誰も悲しませたくないから、誰も傷つけたくないからといいながら、結局最悪の道を選んでいってしまう。
 ゾウを安楽死させることができなくて、結局餓死というもっとも苦痛の伴う方法で殺してしまうのが日本人の性だ。かわいそうなゾウさん。

2月20日

 今日は1月9日に続き、「琳派芸術」展を見に行った。2月の初めに入れ替えがあり、展示物はまったく違うものだった。
 同じように地下鉄日比谷駅で降りた。
 俵屋宗達の「西行物語絵巻 第一巻」は御所の障子の絵を見ながら歌を詠んでいく場面で、

 道の辺の清水ながるる柳陰
     しばしとてこそ立ちとまりけれ

の歌の元になった絵には、柳の木の下に二人の女性がいた。何だ、女に見とれてたのか。
 伝俵屋宗達の「源氏物語図屏風残闕 桐壺」は、外に輦車を待たせて、帝と桐壺の更衣が最期の別れをする場面だろうか。車のそばで固まって待っている人たちは、「まだかよっ、遅せーなー」って感じで、更衣は帝から目をそむけ、「行きたい、だってまだ生きている」という声が聞こえてきそうだ。
 鈴木其一の「三十六歌仙図」は、以前見た伝立林何帠の「三十六歌仙図屏風」と、キャラも構図も似ている。どれが誰なのかわかればもっといいのだが。
 酒井抱一の「風塵雷神図屏風」はほとんど俵屋宗達のといっしょだが、こちらの方が痛みや剥落がなく、本来の姿に近いのだろう。
 酒井抱一の「紅白梅図屏風」は銀地が渋い。雪雲の下の梅のようだ。これが裏地というから豪勢だ。
 小さなミニチュアの屏風もあった。酒井抱一の「四季花鳥図屏風(裏・波濤図屏風)だ。お雛様でも飾ったのだろうか。
 酒井抱一の「十二ヶ月花鳥図貼付屏風」は、二月の菜の花や七月のヒマワリ、朝顔、十月の柿やだいぶ俳諧の影響を受けているのだろう。自作の句を張った絵もあった。ヒマワリはゴッホやシーレだけではない。
 他にも銀のススキ、青い藤、いい絵がたくさんあって楽しかった。ムンク、ルオーの絵もまだそのままあった。
 ことあと新橋へ出て、味噌屋せいべえのこってり系の味噌ラーメンを食って、駅前の烏森神社へ行った。鳥居の形がやや前衛的で狛犬は昭和だった。
 曇ってはいたが、それほど寒くもなく、そのまま愛宕山の方を散歩した。
 「愛宕神社参道」と書いてあるゲートが目に入ったので、そこから入って行ったら、ここは自動車用の入口のようで、上って行くと神社の裏に出た。隣はNHK放送博物館だった。
 社殿の前には招き石というのが置いてあって、撫でるとご利益があるという。見ようによっては招き猫のようにも見える石で、頭の方はみんなが撫でていくのでてかてかになっていた。参上の境内には池があり、弁天様もあった。
 正面の鳥居の向こうは長い急な石段で、はるか下のほうに一の鳥居と狛犬が見えた。  この石段は「出世の石段」というらしく、うかつにも女坂から上がってきてしまったため、出世街道をひたすら降りて行くこととなった。
 石段の下の狛犬は昭和8年銘のブロンズ製で、首に注連縄をした堂々たるものだった。
 この後、愛宕トンネルをくぐり地下鉄の神谷町駅へ向って歩くと、途中鳥居が目に止まり、行ってみると葺城稲荷神社があった。小さな古そうな狛犬があったが銘はなく、左側の方は顔が崩れていた。あと、なぜか大きな砲弾が置いてあった。砲弾よけのおまじないだろうか。
 そういうわけで、今日も結構盛りだくさんの一日だった。

2月16日

 このごろ海外のフォークメタルを聞くことが多く、日本のものをあまり聞いてなかったが、ラジオでたまたま聞いたあべりょうの「Right Of The Weak」は、今時珍しいすかっとするようなメッセージソングで、さっそく「曲芸飛行時代」をi Tunesでダウンロードした。
 今や日本のものと言うと、母さんありがとうみたいな歌ばっかりで、いい人してないとCDが出せないような雰囲気で、そのあたりに音楽業界が売りたい音楽と本当にみんなが聞きたい音楽との間に需給ギャップがあるのではないか。
 Radwimpsの「狭心症」もひさしぶりにRadらしさが戻ってきた。バンプとは違うんだという所を見せてくれた。

2月13日

 菅生は「すがお」と読む地方と「すごう」と読む地方とあるようだが、川崎市宮前区にあるのは「すがお」の方だ。
 家から歩いていける距離で古い狛犬があるというので行ってみた。
 場所は北部市場から少し北へ行ったところだ。
 ゴルフの打ちっぱなし練習場の隣で、境内は山の陰になっていて、一昨日の雪がまだ残っていた。
 狛犬は嘉永7年の銘で、なかなかバランスが良く、手足が力強い。
 帰りにPC DEPOTに寄ってデジ造を買った。息子の2歳の時に録音した声がカセットテープで取ってあって、それをMDにしたものもあったが、MDプレーヤーもだいぶ古くなり、だからといって今ではほとんどMDを使うこともないから、これをそろそろCDに移しておきたかった。

2月10日

 坪内稔典の今日の夕刊のコラムより、

 早春の今朝も出勤さあ、やるぞ
 早春の今朝も出勤一、二、三

 梅が咲くどこかへ行って一杯を
 梅が咲く二、三の友に電話する

 今日の夕刊のネタだが、近代俳句の何が弱点かを見るにはちょうどいい例だと思った。
 上の句は発句を詠もうという初期衝動が強く感じられる。それに対して、下の句はいわゆるマイナーイメージという技法を用いた改作で、「さあ、やるぞ」の直接的表現を嫌って、「一、二、三」という言葉でそれを匂わそうとするものだったり、「どこかへいって一杯を」を「電話する」という行為から匂わそうとするものだったりする。
 囲碁の世界でも「定石を知って三目弱くなり」なんて川柳があるが、俳句をやる人も、なまじっかこういう技法を身につけると、句の本来の初期衝動が失われ、何となく焦点のぼやけた、インパクトの乏しい、いわゆる月並句の山をこさえることになる。
 坪内稔典は正岡子規の研究をやっているのだから、初期の正岡子規がこの病に陥ったことは百も承知のはずだ。そして、どうにもこうにもこの月並句の病から逃れられなくなって、結局一切の技巧を否定した写生説を唱えるようになる。
 芭蕉だったら、おそらくまったく違う発想をしたに違いない。おそらく、

 早春の今朝も出勤さあ、やるぞ

この句の生命は、早朝の出勤で奮起を促すという月並なテーマにではなく、「さあ、やるぞ」という口語の持つ力だと考えただろう。これが「俳言」なわけだ。だったら、これを生かさないという手はない。
 たとえばこれを倒置にして前へ持ってくる。

 さあやるぞ今朝も出勤春浅き

これが芭蕉の見せた

 いざさらば雪見に転ぶ所まで

のテクニックなのである。
 これを近代の人は月並な趣向に言葉だけいろいろ工夫を凝らそうとするのだが、残念ながら工夫すればするほど間接的なぼやかしたわかりにくい表現になり、もちろん言葉を変えたからといって句の意味が深まるわけでもなく、力のない月並句の山をこしらえてしまうのである。

 梅が咲くどこかへ行って一杯を

 この句も強いて直すなら、

 どこかへと行って一杯梅咲きぬ

ではないかと思う。現代俳句が忘れてしまったいにしえの技法だ。

2月6日

 今日は埼玉県滑川町の福正寺勢至堂にある狛ウサギを見に行った。
 渋谷から副都心線に乗ったら飯能行きだったので、小竹向原で乗り換えたら、今度は志木行きが来たので二度乗り換えて、つきのわ駅で降りた。
 駅の裏側にはしまむらが見えたが、北口の駅前は一応ニュータウンっぽく区画整理がされているものの、立っている家はまばらで、閑散とした所だった。そこから歩いて、関越道の下をくぐると景色は長閑な農村風景に変わった。
 福正寺勢至堂の前に来ると、すぐにお堂の前に真っ白な狛ウサギの姿が見えた。平成17年の銘があり、今年が始めて迎えるウサギ年だ。正月にはたくさんの人が来たのだろうか。
 賽銭箱や提灯にもウサギの絵が描かれ、ピンクのウサギのおみくじが売っていた。といっても、箱に入れて置いてあるだけの無人販売で、お代(300円)は賽銭箱の中へと書いてあった。ちゃんと背中に「福正寺」の文字が入っている。
 向い側のうっそうと木が茂ったところが、月輪神社だった。狛犬は昭和29年の銘があった。大きな木がたくさんあり、正面の鳥居に気が付かなかった。外に出て、線路の方に歩いたところ、鳥居が見えたので、行ってみたら、なかなか風情のある赤い両部鳥居だった。
 このあと、森林公園駅まで歩いたが、かなり距離があった。ここの駅前も何もなく殺風景なところだった。
 8時半に家を出て、つきのわ駅に着いたのが10時半くらい、ここに来てまだ12時前で帰るにはまだ早かったので、駅前の地図を見て羽尾神社と羽尾道祖神でも見に行こうと思った。
 駅から森林公園まで遊歩道(森林公園緑道)が通っていたが、森林公園まで3キロ近くある。途中裸ん坊の子供の銅像があった。陸橋を渡った辺りで左に折れ、少しいくと羽尾道祖神があった。男女一対の彫られた双体道祖神で、宝暦10年銘にしてはかなり状態がいい。
 そのちょっと手前だったが馬頭観音とならんで明治5年銘の河伯塔があった。このあたりに河童がいたのだろうか。
 道祖神から羽尾神社まではかなりあった。鳥居は石の神明鳥居で狛犬はなく、やはり閑散としていた。
 すぐそばになめがわ森林モールという、ホームセンターのカインズとベイシアを中心とした巨大ショッピングモールがあった。ここまでほとんど商店を見ないから、どこで買い物しているのかと思ったら、みんなここに来ているのか。ここにはケンタやミスドもあるし、TSUTAYAもある。
 とりあえず、めん処麺くらでラーメンを食って、森林公園緑道を歩き、森林公園駅にもどり、帰った。

2月3日

 ついおととい、東の明け方の空に、爪を切ったかすのような細い月が見えて、もうすぐ新月と思っていたら、それが旧正月だった。
 明日は立春で、暦の上では春だというが、旧暦の1月2月3月も暦の上では春で、文字通り今日が「新春」でもある。
 東アジアでは月を基にした太陰暦だけでなく、太陽を基にした12節季、24節季を併用していて、12節季が一つも入らない月が生じると、それを閏月とし、その年を13ヶ月にすることで、太陰暦のずれを調整していた。
 そのために、春の始まる日が毎年二つ存在していた。今年は珍しくそのずれが1日しかなかったため、節分が正月という、大晦日とお正月がいっぺんに来るようなことになった。

   節分正月
 月があと一日遅れてくれたなら
     春もダブルで目出度いんだけど

 今年もお約束のように、豆まきをやって恵方巻を食べた。それ以外に思いつかないが、本当はもっといろいろな祝い方があったんだろうな。

1月30日

 昨日は夜遅くまで起きていたので、今日は近場ということで、江田駅で降りて荏田剣神社まで歩いた。
 剣神社は素盞嗚尊を祀った神社で、天叢雲剣に関係があるようだ。ヤマタノオロチとよく似た伝説があるという。
 入口の新しい鳥居の前の狛犬は昭和23年の銘があった。
 もうひとつ明治時代に作られた古い鳥居をくぐり、石段を登ると、その脇に謎の物体が。
 どうやらほとんど原形をとどめていないが、狛犬らしい。左側の吽形のある方は、わずかに前へと流れる尻尾の線が残っているだけで、頭も尻尾も背中も手足もない。右側の阿形のある方は、尻尾の付け根のところの巻いた所から背中にかけてのラインがかろうじて残っているが、前足と肩から上は何もない。
 普通はある程度破損した狛犬は先代さんになって片隅に放置されたり、どこかへ廃棄されたりするのだが、ここは何ともこの姿で所定の位置にいる。
 これは定位置のまま放置されているのではなく、どっこい、この姿でもまだ現役だという、ど根性狛犬といいことにしておきたい。文久二年銘、ど根性狛犬。
 帰りに荏田ハーモスによったら、「さくたろ」を買ったシャンブルがなくなっていて、ベビー・子供用品のバースデイになっていた。
 荏田ハーモスに行く途中に通った折田不動公園では、紅白の梅が奇麗に咲いていた。

1月23日

 今日はウサギで有名な浦和の調神社(つきじんじゃ)へ行った。一昨年の牛島神社、去年の狛虎めぐりに続く第三弾というべきか。
 まず渋谷に出て、埼京線で赤羽まで行き、京浜東北線に乗り換えて浦和駅まで1時間くらいで、意外に早く着いた。駅を降りるとさっそくやなせたかしキャラの浦和うなこちゃんがお出迎え。「ちゃん」までが名前だとすると、「浦和うなこちゃんさん」と呼んだ方がいいのか、「さかなクンさん」事件以来、つい考えてしまう。
 浦和駅西口の方は浦和の旧市街なのか、昭和を感じさせる味のある建物が多い。
 調神社の手前には大きな欅や銀杏の木があり、柵がしてあって銀杏拾い禁止の立て札があった。
 神社に入ってみたら、どうやら裏側だったようだ。境内社の稲荷神社があった。社殿が三つも並んでいてお狐さんがたくさん並んでいた。
 中央の社殿は調神社の旧社殿で、ウサギの欄間彫刻もあったし、正面の上の方にもウサギが彫られていた。
 稲荷神社の右手には石祠が並び、弁天様や金毘羅様の石祠があった。
 稲荷神社の赤い鳥居がいくつも並ぶところを抜けると神池があって、そこにもウサギの噴水があった。池には鯉が泳いでいたが、冬のせいか亀は見なかった。
 池の前には剣を持った謎の石像が立っていた。最初は日本武尊かと思った。何となく三峰神社の日本武尊像を連想しただけだが、この神社には関係なさそう。ウサギだから大国主命かとも思った。ネットで後で調べたら、やはり謎の石像のようで、素戔鳴尊ではないかという説が多かった。確かに調神社の祭神に素戔鳴尊が含まれている。そうなると、あの剣は天叢雲剣か。
 次に神楽殿が見えた。大きなウサギの絵馬があった。社殿の前を通り過ぎ、ウサギの手水場の前を通り過ぎ、一度外へ出ると、本当に鳥居がなく、一対の狛ウサギがあった。銘はわからなかったが、ネットで調べたところによると万延2年のものだという。
 百度盤という、お百度参りの時にカウントするための小さな板が百枚付いた立て札のようなものがあった。去年ずいぶんいろいろな神社へ行ったが、初めて見た。
 こっちの方にも境内社があり、天満宮には絵馬がたくさんかかっていた。その隣には金毘羅神社があり、ここには鳥居があった。
 ふたたび稲荷神社のほうへ戻り、もと来た道から外へ出た。稲荷神社の左側に正体不明の境内社があり、中には入れなかった。社殿のまえには石がごろごろと打ち捨てられていて、その中に小さなお狐さんの姿があった。先代さんか。
 帰りがけに楽風という古い民家を用いた店でお茶(煎茶と和菓子)をして帰った。

1月20日

 昨日今日と朝出るときに、まだ暗い西の空に丸い月が出ていた。
 夕方にも月が上り、最初は澄み切った寒月だと思ってたが、いつの間にか薄く雲がかかり朧月になった。
 まだ暦は大寒だけど、何かもう春みたいな夕暮れだった。
 澄みきった月は真如の月のような、何か悟りきったようなところがあるが、朧月というのはもっと人間的な感じがする。もやもやした、はっきりしない、混沌とした感情や欲望に彩られた、それが生きているということなんだという感じがする。

 混沌を宿して月の朧かな

1月17日

   こやん源氏、桐壺、続き

 すみやかに葬式をしなければならないので、慣習通りに葬儀の方法を選定して執り行うのですが、母である北の方は、
 「私も一緒に煙になって天に上りたい。」
と泣き焦がれたりして、棺を積んだ女官の牛車に後から乗り、愛宕(おたぎ)という所で大変立派な葬儀の準備がなされているところにご到着した時のお気持ちは、いかがなものでしたでしょうか。
 「もはや動かない亡がらを見ていてもまだ生きているように思ってしまうのがとても無駄なことなので、灰になってしまうのを見とどけて、もう今は亡き人なんだと前向きに考えるようにします。」
と冷静そうに話してはいたものの、いざ着いてみると転んで車から落ちそうになるくらい動揺していて、「そんなことだろうと思った」と女官たちも手を焼いている様子でした。
 内裏より使いの者が来ました。
 三位の官位を贈るために御門から勅使が使わされ、宣命を読み上げるのも悲しいことでした。
 三位の位があれば女御となり、后になる権利が生じていたのに、それができなかったのが心残りで残念だったので、今さらではあるが一つ上の官位を、ということで贈られてきたのでありました。
 このことについても憎まれ口を叩く人がたくさんいました。
 分別のある人は容姿端麗なことや、気立てが優しく清純で憎めない性格だったことなど、今さらのように思い出してました。
 下手に寵愛されたがゆえにそっけなくしたり妬んだりなさったのでしょう。
 お人柄のよさと情に厚いこころばえなど、御門付きの女官なども懐かしそうに思い出を語りあってました。
 「いなくなってから知る」というのはこのことです。

 帝が最後にようやく退出を許す場面には、「別(わかれ)がたく思召(おもしめ)しながら也。会者定離の理を見するなり」という北村季吟の註が付いている。
 帝は執拗にこの更衣を宮中に留めようとする。それは確かに別れたくないという気持ちからなのだろうけど、退出を渋り続けることで病気はますます悪化し、かえって更衣の死期を早めてしまうことになる。
 仏教の会者定離(会えば必ず別れがある)の理をきちんと認識していたなら、帝も最後まで自分の元に縛り付けようとなどせずに、早々と退出を許可し、そのことで更衣も若干長生きできたし、ひょっとしたら奇跡の回復もあったかもしれないところなのに、悔やまれるところである。
 少なくとも、ここで死んでくれという帝と、最後まで生きる希望を捨てたくない更衣との間での互いに恨みを抱いたまま、結局帝は更衣の最期を看取ることができないという最悪の結末は免れただろう。
 別の並行宇宙では、帝が最初の時点で退職を認める決定を下し、早く適切な療養が出来た結果、しばらく後に更衣がふたたび宮中に復帰し、光源氏が大人になるまで生き続けるというカケラがあったかもしれない。
 与謝野源氏では、帝がかなり美化されて描かれているが、明治憲法の下では仕方のないことか。

 「いなくなってから知る」は、紫式部が現代に生きてたら、多分この歌を引用するのではというフレーズ。

1月14日

   こやん源氏、桐壺、続き

 御門の胸はどうしようもなく苦しくふさがれたまま、まどろむこともできずに夜明けを待っていました。
 更衣の実家へ使いを行き来させるにも、いつまでもご不満を次から次へとおおせになりばかりで、使いの者が実家へ行くと、その家の者に「夜半を少しすぎた頃、お亡くなりになりました」と言って号泣され、がっくりと肩を落として帰ってきました。
 それをお聞きになった御門の心は錯乱状態になり、何がなんだかわからないまま部屋に引き篭もってしまいました。
 皇子は、このような場合でも御門にご覧に入れておきたいところですが、こういう時に宮中に留まる先例はないので、母君の実家へと行くことになりました。
 何が起きたかもわからずに、いる人たちの泣きくずれ、父上(御門)も涙を止めどもなくお流しになってらっしゃるのを変だなって感じで見ている様子が、ただでさえこれ以上の別れの悲しくないことなんてないときにいっそう悲しいのは、どうにも言い表しようがありません。

 今でもドラマや何かで、人が死ぬとわざと子供の無邪気な姿を映し出して涙を誘わせるという演出があったりするが、源氏物語にまで遡れるとは知らなかった。
 いろいろな意味でも、源氏は日本の文化の原点になっていて、その恩恵は今日のジャパンクールと呼ばれる世界を魅了する日本のマンガ、アニメ、ラノベ、テレビゲームなどの文化に受け継がれているのだろう。

1月13日

 前回の最後のところで、「物事の意味を深く理解しようとする人は」と「ものの心しり給ふ人」をほぼ直訳したが、これでは具体的にどういう人かよくわからない。
 もちろんこの時代に心理学者は脳科学者がいるはずもなく、いわゆる哲学者がいるわけでもない。となると、これはお坊さんではないにしても仏教を学んだ人という意味ではなかったか。
 そうなると「かかる人も世にいでおはするものなりけり」はお釈迦様の生まれ変わりか末法の世に現われる弥勒菩薩か、ということになる。それを踏まえて超訳してみた。

   こやん源氏、桐壺、続き

 仏道に造詣の深い人は、「何とありがたいお人がこの末世にお生まれになるものだ」と、お釈迦様の生まれ変わりか弥勒菩薩が現われたかのようなとんでもないことが起きた、とばかりに驚愕の目で見ていました。
 その年の夏、皇子を産んで御息所(みやすんどころ)となった桐壺の更衣は何となく気分がすぐれなくなって、退職を申し出るも休職すら許されませんでした。
 ここ何年となく常に病欠がちの状態が続いてきたので、御門もそれが慣れとなっていて、「もう少し様子を見てみよう」などとのたまっているうちに、日一日病は重くなり、五日六日とたつほどに目に見えて衰弱していったので、ついには母親が泣いて御門に訴えて退職させました。
 こうして更衣は、こんな時にあってはならないような屈辱的なことが起こらないためにもという配慮から、皇子は宮中に残し、秘密裏に内裏を去ることとなりました。
 もはや一刻の猶予もない状態なので、御門といえども止めることはできないのですが、更衣に会うことも見送ることもできないなんて言われても居ても立ってもいられず、言いようのない思いであられました。
 大変華やかで美しかった更衣が今では顔がげっそりと痩せ細り、悲しみに打ちひしがれ思い悩んでいながらも、それを口するにも言葉にならず、いるのかいないのかわからないほど消えてしまいそうに振舞うのをご覧になって、後のことも先のことも頭になくなり、「望むことは何でもかなえてやるから」と言ってはみるものの、返事を聞くことはありませんでした。
 目の色もどんよりと鈍く、ひどくよろよろと、心ここにあらずの状態で床に突っ伏したので、御門もどうすればいいのかわからずおろおろなさってました。
 ようやく輦車(てぐるま)に乗せて退出させることを許可したかと思いきや、またすぐに更衣のところにやってきて、結局退出を許しません。
 「いつか死んでくこの人生、生きるも死ぬも一緒だと約束したはずだろう。この私を捨てて行くなんてことはできないはずだ。」
 そんなことをおっしゃってはみても、女のほうも「ひどい」と御門の方を見すえ、

 「死んじゃって別れるなんて悲しいよ
     いきたい!だってまだ生きている

 本当にあなたが生きるも死ぬも一緒だと思っていただけるのなら‥‥」
と、息も絶え絶えに、御門にもっと聞いてほしいことがありながらも、大変苦しそうで力が抜けてゆくありさまだというのに、御門はというと、とにかくどうなろうとも最期を見届けたいなどとお考えなので、今日始めなくてはならない御祈祷があって、そのための加持祈祷師たちを呼んでいて、それが今夜からだと知らせ、退出を急がせたところ、仕方なさそうにしぶしぶ退出をお許しになりました。

1月10日

 前回の「馬道」のところがわかりにくいので、ちょっと注釈を補ってみた。
 ここまでは物語のつかみの部分で、どこの世界でもあるような、それこそ今の学校や職場でもありそうないじめネタで読者の共感を誘い、物語に引き込む持っていき方は今日でも通用しそうだ。
 ここまではテンポ良く、ややコメディータッチで源氏の誕生をつづっているように思える。そして一気に悲劇に持っていって、読者を涙させようという算段か。

   こやん源氏、桐壺、続き

 またある時は、通らなくてはならない馬道(めどう)の戸を、こちら側とあちら側とで示し合わせて両側から封鎖して、おろおろさせては苦しめました。
 (馬道とは、建物と建物の扉同士をを結ぶ取り外し可能な渡し板で、建物の間を馬が通行する時にはこの渡し板をはずす。ここを渡っている時に両側の戸を閉められてしまうと、建物の外の小さな板の上に取り残されてしまう。)
 何につけてもつらいことばかり多くて、悩む気力すら失せている更衣を、御門は大変気の毒に思いになられまして、後涼殿(こうろうでん)にもとからいた更衣の部屋を他に移して控え室にしたもんですから、追い出された更衣たちにしてみれば、その憤懣やるかたなしでした。

 (ここで内裏の中の部屋の配置を簡単に説明しておこう。御門の職務を行なう紫宸殿の西側に御門のお住まいになる清涼殿があり、後涼殿はそのさらに西隣にある。
 後涼殿の北へ行くと順に藤壺、梅壺、雷鳴壺があり、清涼殿の北には一の皇子の母君である女御のいる弘徽殿があり、そこから東のほうへ2、3の建物を隔てた向こうに桐壺があった。
 桐壺から清涼殿に通うには渡り廊下を歩き、小さな橋や馬道を渡ったり、一の皇子の女御のいる弘徽殿の前を通ったりしなくてはならなかった。
 そこを通るたびに、いろいろと陰湿ないじめにあったのを哀れんで、御門のすぐそばの後涼殿を更衣の控え室としたのだが、元からそこにいた別の更衣たちにしてみれば、降ってわいた災難だった。)

 この桐壺の更衣の皇子が数えで3歳になったその年、着袴(ちゃくこ)という初めて袴を身につける儀式が行なわれ、一の皇子のときにも劣らず、内蔵寮の宝物や納殿の調度品を惜しげもなく使って盛大に行なわれました。
 皇位継承者と同じ待遇をしたということで、宮廷内でも非難の声が多かったのですが、この皇子の大人びたお顔立ちやご性格に、滅多やたらにお目にかかれない何かを見てしまうと、なかなか悪くは思えないものです。
 物事の意味を深く理解しようとする人は、「こんな人もこの世にお生まれになるものなんだ」と、とんでもないことが起きたとばかりに驚愕の目で見ていました。

1月9日

 今日は出光美術館に「琳派芸術」展を見に行った。
 地下鉄日々や駅には至る所に女性(若いのからおばさんまで)集団でじっと立っているから何かと思ったら、帝国劇場でタッキーの公演をやっていた。
 さて、美術館の中へ入ると、最初の部屋には扇のたくさん描いた屏風があって、これはカタログだと思った。俵屋宗達の工房の今年の新作ではないけど、こんな扇を作りますよという見本のように見えた。
 特に弟子の描いた「扇面散図屏風」の方は、部屋に飾るにはややけばい。俵屋宗達自身の描いた「扇面散貼付屏風」のほうは銀泥を使って豪華だが、扇の数は少なく、合間の絵がしっかりしていた。
 「梅に柳図扇面」「いんげん豆図扇面」は背景が塗ってなく、「箔」「銀泥」という指示が書き込まれたものがあった。今日のマンガでベタやトーン張りを指示するみたいに、箔や銀泥はアシの仕事だったのだろう。
 次の部屋には花の図案が並ぶ。もろこしやアザミや鶏頭は当時の流行だったのか。
 最後の部屋の伝尾形光琳の「芙蓉図屏風」は、やや直線的で平面な感じがした。伝尾形光琳の「紅白梅図屏風」は伝とはつくものの光琳自身の作と思われるもので、今回の目玉といえよう。紅白の梅はお約束で男女の抱擁をイメージしている。
 俵屋宗達の「神農図」は笑い飯の西田に何となく似ている。
 あとは喜多川相説の「四季草花図貼付屏風」に描かれた撫子の左側の方の花びらが5枚ではなく点々と描かれているのがちょっと気になった。ひょっとして曾良の句にあった八重撫子?
 琳派とは関係ないがムンクとルオーの絵の展示があった。ルオーはよく知らないし、ムンクは「叫び」の一発屋というイメージで、他の作品はよく知らなかった。
 「海辺の出会い」はスーツ姿の二人の男が三人組の女を見つけてナンパしようとしているっというふうな絵だった。
 「海辺の二人」の横にいる黒い服の女はブラックメタルだ。さすがノルウェー。
 「嫉妬」は画集ではなく心理学かなんかの本で見たような気がする。ムンクの作だとは知らなかった。男の顔が恐いし、後の女は屋外で赤いドレスを脱がされているが、これは公然わいせつ罪になるので7月から東京都では18禁になるのかな?まあ、「不当に賛美」しているわけではないが。
 美術館を出たあと、新橋の方へと歩いた。日比谷神社は一昨年に移転したばかりで真新しかった。「鯖稲荷」とも言うらしい。拝殿の横に境内社があって、そこに狛犬とお狐さんがいた。これが鯖稲荷なのか。ネットで調べたら「十六魂稲荷」ではないかという説もあった。

1月6日

   こやん訳源氏物語、桐壺、続き

 この女御は誰よりも先に内裏に取り立てられていたので、御門のもったいなきお気持ちも並々ならず、他にも皇女達がいることもあって、御門はただこの女御の嫉妬を御いさめになるにつけても、十分気を使いながら心苦しげに申し上げになられました。
 更衣もまた御門のもったいないばかりのご威光を頼りにと心得ながらも、貶めたりあら探しをしたりする人も多く、自分の体は病弱で精神も衰弱している状態だったので、かえってそのご威光が悩みの種になってました。
 更衣の所属する局(つぼね)は桐壺でした。
 御門がたくさんの人の前を通って、しょっちゅう桐壺にお通いになるため、一の皇子の女御の心労が重ならないわけがありませんでした。
 さらに、更衣の方から御門の所へ通う回数があまりに頻繁になりすぎるときには、廊下と廊下の間にかけられた小さな橋や渡り廊下など、あちこちの道に汚物を撒いておくなどのトラップが仕掛けられて、送り迎えの人の衣の裾が耐え難いほどとんでもないことになることもありました。
 またある時は、通らなくてはならない馬道の戸を、こちら側とあちら側とで示し合わせて両側から封鎖して、おろおろさせては苦しめました。

 なかなか遅々として進まない源氏物語だが、とりあえず三日坊主の壁は越えたといったところか。
 大体世間で既に出来上がったイメージの源氏物語が読みたいなら、既存の訳で読めばいい。わざわざ原文を読む必要はない。
 原文を読む面白さというのは、既成概念にとらわれない読み方ができるという点に尽きる。
 いわば、暗号を解読するように、謎解きをする楽しさだ。答えの与えられた推理小説と違って、答がないからどうにでもできるという面白さがある。
 以前は芭蕉や連歌で試みたのだが、この世界は現代俳句の先生方の権威がうるさくて、ちゃんと師匠について、ある程度お金をつぎ込まなくては何も言ってはいけないような雰囲気があるのがいやだった。
 それを思うと、最初から源氏物語に挑戦してた方が良かったのかもしれない。まさか源氏物語で、「小説を書いたこともない人間が源氏を語るべからず」なんて言われることもないだろう。

1月4日

 島内景二の『北村季吟』(2004、ミネルヴァ書房)を昨日読み終えた。
 突込みどころといえるかどうかはわからないが、最後のところに、

 「これ(『増註源氏物語湖月抄』)さえあれば、今でも現代語訳など要らないのだ。」(p.271)

とあったが、実際この本を取り寄せてめくってみたところ、はっきり言って俺には一行読むのに1時間も2時間もかかる。平安時代の言葉で書かれた原文ですら難しいのに、その注釈もまた江戸時代の言葉で書かれているため、まったくないよりはましというくらいで、ロシア語のテキストに英語の註のついているようなものと考えた方がいい。
 まあ、源氏物語の専門の研究者なら、もっと早くすらすら読めるのかもしれない。だだ、一般の人がこれさえあれば源氏物語がすらすら読めるなどというシロモノではない。
 源氏物語はやはり現代語訳で読みたい。とはいえ、与謝野晶子訳の源氏物語はすでに100年近く経過し、もはや現代語とはいえないくらいに古めかしい。版権が切れているのでネットで読めるが、はっきり言ってこれも一つの文章を何度も読み返さないと意味が通じない。
 理想を言うなら、俺なんかが訳すよりは、ラノベ感覚ですらすら読めるような今の日本語が書けて、その上源氏物語を原文で読めるような天才が現われて、本当の現代語訳が登場することが一番なのだが、研究者は小説の才能がなく、小説家は原文が読めなかったりで難しい。ただ、合作という手もあるから、誰かやってくれないかな。

   こやん訳源氏物語、桐壺、続き

 この新しい皇子の母君となった更衣は、もともと普通は御門のおそばで世話をさせられたりするような身分ではありませんでした。
 更衣は一般的には大変高貴で使用人扱いはされないはずなのですが、この更衣だけは御門が何が何でもそばに縛り付けておこうとするため、宴席遊覧などの際に、何かとお世話の必要になる時には欠かさず御門の御前へ登らせてました。
 あるときには寝殿でともに過ごし、次の日もそのままそばにお仕えさせるなど、御門の我がままで自分のそばから離さないようにして仕事をさせていたので、どう見ても下女のようでした。
 それが例の皇子が生まれたもんですから、御門も格別の配慮をして職務をさせるようになったので、一の皇子の母君である女御などは、東宮坊(皇太子の御所)にお仕えさせないのはあの皇子を皇太子にしようとしているせいではないか、と疑うようになってました。

1月1日

 今日はいつもと一日遅れで、秋葉原へ「うみねこのなく頃に散ep.8」と「うみねこのなく頃に翼」を買いに行った。
 途中、石丸電気本店裏の講武稲荷神社にお参りし、今年の初詣とした。小さな社だが、横には狐山があり、たくさんの小さなお狐さんがいた。他にお参りする人もなく、ひっそりとしていた。社殿の中にはミネラルウォーターやらレトルトタイプのご飯の箱が積まれていて、非常食の備蓄場として使われているようだった。
 アニメイトで「うみねこ」を買ったあと、神田明神の絵馬にプロの漫画家さんの絵馬がかかると聞いたので見に行った。神田明神の社殿前は大勢の人が行列していて、既にさっき初詣を済ませているので、絵馬だけを見に行った。まだ1日の午前中だったせいか、絵馬の数は少なかったが、それでも奇麗なイラストの書かれた絵馬がいくつかあった。○○○○が売れますように、だとかいう切実な願いに混じって、都の条例の廃止を祈願するものもあった。
 帰ってからさっそく、「うみねこのなく頃に散ep.8」を見始めた。途中、登場人物の出題するなぞなぞに答える場面があって、真里亞には騙された。11手で全部橋の向こうに渡す方法を一生懸命考えてしまった。「うみねこ」もこれで終わりと思うとちょっとさびしい。