「秋の夜を」の巻、解説

菊月廿一日湖江車庸亭

初表

   菊月廿一日湖江車庸亭

 秋の夜を打崩したる咄かな    芭蕉

   月待ほどは蒲団身にまく   車庸

 西の山二はな三はな雁鳴て    洒堂

   しかゆる牛の能うごくなり  游刀

 舅の名をまんまと貰ふ真性者   諷竹

   小袖出して寐たる大年    惟然

 

初裏

 使やる所をはたとうちわすれ   支考

   かえても医者の見廻れにけり 芭蕉

 拭立惣々の柱きらきらと     車庸

   よつて揃ゆる弁当の椀    洒堂

 糺より黒谷かけて暮かかり    游刀

   薄がなくば野は見られまい  支考

 鹿の来ぬ夜は宿賃が百の損    惟然

   雨気の月のほそき川すじ   車庸

 火燈して薬師を下る誰がかか   芭蕉

   七種まではよろづ隙なき   游刀

 見せ馬の荷鞍のあかね花やかに  洒堂

   小やかたならぶ金杉の春   惟然

 

       参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)

初表

発句

 

   菊月廿一日湖江車庸亭

 秋の夜を打崩したる咄かな    芭蕉

 

 秋の夜のしみじみとした物悲しい雰囲気を打ち崩すような話をしましょう、という挨拶。打倒秋の夜!って感じか。

 芭蕉さんの病気もかなり進行していたことだろう。だからといって辛気臭くなってもしょうがない。笑って病気何てぶっ飛ばそう、という意味もあったのだろう。

 

季語は「秋の夜」で秋、夜分。

 

 

   秋の夜を打崩したる咄かな

 月待ほどは蒲団身にまく     車庸

 (秋の夜を打崩したる咄かな月待ほどは蒲団身にまく)

 

 長月ともなると夜は寒くて、蒲団にくるまって月を待ちながら、秋の夜をぶっ飛ばすような俳諧をしましょう、と受ける。

 十七日は立待月、十八日は居待月、十九日は寝待月、二十日は更待(ふけまち)月、二十一日は何になるのだろうか。

 

季語は「月待」で秋、夜分、天象。「身」は人倫。

 

第三

 

   月待ほどは蒲団身にまく

 西の山二はな三はな雁鳴て    洒堂

 (西の山二はな三はな雁鳴て月待ほどは蒲団身にまく)

 

 『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)の中村注には、「はなは組の意。」とある。

 前句を二十一日の月待ではなく夕方の月待とし、夕暮れの西の山に向かって雁が鳴きながら飛んで行く。

 

季語は「雁」で秋、鳥類。「西の山」は山類。

 

四句目

 

   西の山二はな三はな雁鳴て

 しかゆる牛の能うごくなり    游刀

 (西の山二はな三はな雁鳴てしかゆる牛の能うごくなり)

 

 「しかゆる」は中村注に「底本通りとすれば、取替えたの意と解される」とある。

 関西では荷物運びに牛が多く用いられていた。多分古代からの平坦で広い直線道が多いからであろう。牛を別の牛に取替えたら仕事もはかどり、雁の列になって飛ぶ夕暮れまでの無事終えることができたということか。

 游刀は膳所の人で能楽師だったという。

 

無季。「牛」は獣類。

 

五句目

 

   しかゆる牛の能うごくなり

 舅の名をまんまと貰ふ真性者   諷竹

 (舅の名をまんまと貰ふ真性者しかゆる牛の能うごくなり)

 

 名を貰うというのは襲名のことだろうか。妻の父の名を貰うということは、要するに娘婿、婿養子ということだろう。真性者はここでは天性の才能のある者ということか。

 前句の取替えた牛がよく動くから、実の息子よりも義理の息子に変えた方がよく動くとしたか。

 諷竹は之道のこと。weblio辞書の「芭蕉関係人名集」には、

 

 「東湖は初期の俳号、元禄3年6月、芭蕉が幻住庵滞在中に尋ねて蕉門に入門。これを機に「之道」と改名。楓竹は晩年(元禄10年)の俳号。」

 

とある。「芭蕉関係人名集」は何かと思ったら山梨のサイトだった。

 

無季。「舅」は人倫。

 

六句目

 

   舅の名をまんまと貰ふ真性者

 小袖出して寐たる大年      惟然

 (舅の名をまんまと貰ふ真性者小袖出して寐たる大年)

 

 義父の名を襲名した真性者は借金取りに追われることもなく、大晦日は小袖を着てさっさと寝る。昔は初詣も除夜の鐘もなかったから、大晦日は早く寝るものだった。

 

季語は「大年」で冬。「小袖」は衣裳。

初裏

七句目

 

   小袖出して寐たる大年

 使やる所をはたとうちわすれ   支考

 (使やる所をはたとうちわすれ小袖出して寐たる大年)

 

 お金を貸していたのをうっかり忘れてしまったか。

 

無季。

 

八句目

 

   使やる所をはたとうちわすれ

 かえても医者の見廻れにけり   芭蕉

 (使やる所をはたとうちわすれかえても医者の見廻れにけり)

 

 医者を変えたが、元の医者の所に使いを出すのを忘れていたため、今まで通り往診に来てしまったということか。

 

無季。「医者」は人倫。

 

九句目

 

   かえても医者の見廻れにけり

 拭立惣々の柱きらきらと     車庸

 (拭立惣々の柱きらきらとかえても医者の見廻れにけり)

 

 「惣々」は総々とも書き、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「〘名〙 (「そうそう」とも) その場にいる者すべて。ある物すべて。みな。全部。また、一団にまとまること。

  ※小早川家文書‐天正七年(1579)九月七日吉川元春自筆書状「吉田御出張御延引故、惣々の衆も不レ被二罷出一候」

  ※松翁道話(1814‐46)一「いと様の、ぼん様のと、惣々が可愛がりて」 〔揚雄‐甘泉賦〕」

 

とある。

 きれいに拭いて柱も皆きらきらにしたら、変えたはずの医者が見に来たということか。

 

無季。

 

十句目

 

   拭立惣々の柱きらきらと

 よつて揃ゆる弁当の椀      洒堂

 (拭立惣々の柱きらきらとよつて揃ゆる弁当の椀)

 

 この場合の弁当は野弁当のことであろう。野弁当は重箱だけでなく飯椀・汁椀、酒器なども含む大掛かりなピクニックセットで、大名クラスが用いた。

 柱という柱のきらきらと磨かれた家に住むくらいの者が、椀のそろった野弁当の箱を持っている。

 

無季。

 

十一句目

 

   よつて揃ゆる弁当の椀

 糺より黒谷かけて暮かかり    游刀

 (糺より黒谷かけて暮かかりよつて揃ゆる弁当の椀)

 

 糺の森は下賀茂神社の境内南側にある森で、その南東の京都大学のある方に黒谷さんと呼ばれる金戒光明寺がある。近くに吉田山もあれば銀閣寺もある。散歩して弁当を食べるにはもってこいの場所だ。

 

無季。「糺」「黒谷」は名所。

 

十二句目

 

   糺より黒谷かけて暮かかり

 薄がなくば野は見られまい    支考

 (糺より黒谷かけて暮かかり薄がなくば野は見られまい)

 

 夕暮れでも薄の穂は白くて闇の中でも浮き立つ。薄の穂の白いのが見えればそこが野だとわかる。

 

季語は「薄」で秋、植物、草類。

 

十三句目

 

   薄がなくば野は見られまい

 鹿の来ぬ夜は宿賃が百の損    惟然

 (鹿の来ぬ夜は宿賃が百の損薄がなくば野は見られまい)

 

 当時の宿賃は二百文くらいが相場だったという。鹿の声が聞こえなかったら半分損した気分というところか。

 宿の辺りは薄がなく野原ではなかったので、鹿が来なかった。

 曾良の『旅日記』には月山に登った時、

 

 「堂者坊ニ一宿。三人、壱歩。月山、一夜宿。コヤ賃廿文。方々役銭弐百文之内。散銭弐百文之内。彼是、壱歩銭不余。」

 

と記されている。

 一歩が何文かは地方によっても違ったようで、日光のところに「壱五弐四」とあり、白石のところに「一二三五」とあるのがそのレートだとしたら、一分は千二百文から千五百文だったことになる。月山の山小屋は一人二十文、三人で六十文と安かったが、山に登る際の通行料(山役銭)が二百文×3、賽銭(散銭)に二百文×3で結局三人で一歩を使い切ったことになる。

 

季語は「鹿」で秋、獣類。「夜」は夜分。

 

十四句目

 

   鹿の来ぬ夜は宿賃が百の損

 雨気の月のほそき川すじ     車庸

 (鹿の来ぬ夜は宿賃が百の損雨気の月のほそき川すじ)

 

 雨の降りそうな雲行きの怪しい空に細い月が出ている川に近い宿場で、このまま雨が降ったら鹿は来ないだろうな、とする。気流の乱れた黑雲が低く立ち込める中、異様に空が赤くなる台風前の夕暮れだったのかもしれない。

 

季語は「月」で秋、夜分、天象。「雨気」は降物。「川すじ」は水辺。

 

十五句目

 

   雨気の月のほそき川すじ

 火燈して薬師を下る誰がかか   芭蕉

 (火燈して薬師を下る誰がかか雨気の月のほそき川すじ)

 

 「かか」は「かかあ(嚊/嬶)」のこと。薬師堂はいろいろなところにあり、とくにどこのということでもあるまい。夫の病気平癒を祈ってきた帰り道か。前句をその背景とする。不安な空模様がかかあの気持ちと重なる。

 

無季。釈教。「かか」は人倫。

 

十六句目

 

   火燈して薬師を下る誰がかか

 七種まではよろづ隙なき     游刀

 (火燈して薬師を下る誰がかか七種まではよろづ隙なき)

 

 正月は男は酒飲んで遊んでいればいいが、かかあの方はお客さんの接待など大忙しで、七草までは暇がない。

 

 鶯に手もと休めむながしもと   智月(続猿蓑)

 

もそんな忙しさを詠んだ句だろう。

 

季語は「七種」で春。

 

十七句目

 

   七種まではよろづ隙なき

 見せ馬の荷鞍のあかね花やかに  洒堂

 (見せ馬の荷鞍のあかね花やかに七種まではよろづ隙なき)

 

 「見せ馬」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 

 「① 正月や祭の日に馬を飾ったり、走らせたりして、群集に見せること。

  ※俳諧・まつのなみ(1702)秋「七種まではよろづ隙なき〈游刀〉 見せ馬の荷鞍のあかね花やかに〈洒堂〉」

 

とある。

 『ヤマガラの芸:文化史と行動学の視点から』(小山幸子著、一九九九、法政大学出版局)には、馬の芸についても短いながら記されている。

 

 「ウマは、神馬とされるなど、信仰とのつながりもあるのに曲馬には、武芸の一環としての馬術披露の歴史があり、そこからの波及として曲芸へ発展したのではないかと思われる。歴史的には、江戸時代に朝鮮からの曲馬団が来訪して芸を披露したのが曲馬芸の初まりという説がある。見世物としての曲馬はこのころから多くなり始めたようだ。また、ウマ芝居の場合には、ウマ自身に何か芝居をさせて見世物とするのではなく、ウマに乗って芝居をするという特殊な芝居だ。どちらの場合にも、ウマ自身が見世物となることはなく、乗っている方が主役だという特色がある。」

 

 この本には天和三年(一六八三年)の曲馬興行の絵が掲載されていて、「曲馬芸の興行を描いた絵としては、最も古いものではないかという説がある(『シンドラー・コレクション浮世絵名画展』カタログ、1985より)」とある。その絵を見ると、なるほどつばの広いカッ(갓)のような帽子をかぶっている。前年の天和二年には朝鮮通信使が来日している。

 今の台東区台東の三井記念病院の近くに対馬藩の上屋敷があり、朝鮮通信使の接待もここで行われ、馬上才(마상재)もここで行われたという。

 「根岸競馬場開設150周年 馬事文化財団創立40周年記念サイト」には、

 

 「曲馬とは、馬を用いた軽業[かるわざ]・曲芸のことで、日本では室町時代すでに武芸の余戯として行われ、江戸時代には朝鮮通信使節の馬上才[ばじょうさい]に影響を受けながら、「和式曲馬」として確立しました。」

 

とある。

 洒堂もどこかで赤い華やかな鞍をつけた馬による曲馬を見たことがあったのだろう。

 

季語は「花」で春、植物、木類。「馬」は獣類。

 

挙句

 

   見せ馬の荷鞍のあかね花やかに

 小やかたならぶ金杉の春     惟然

 (見せ馬の荷鞍のあかね花やかに小やかたならぶ金杉の春)

 

 金杉(かなすぎ)は『校本芭蕉全集 第五巻』の中村注は「東京芝の金杉。江戸時代魚市場のあったところ」としている。金杉という地名は今の台東区下谷のあたりにもあるが、小やかたが屋形船のことだとしたら芝の金杉の方であろう。芝の増上寺も近くにあり、ここで正月の曲馬が興行されていたとしてもおかしくない。

 

季語は「春」で春。「小やかた」は水辺。